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2024年9月17日の月は「中秋の名月(十五夜の月)」です。「中秋の名月」は太陰太陽暦の8月15日の夜に見える月です。太陰太陽暦では新月の日が、その月の初めになります。2024年は新月は9月3日でしたからこの日が太陽太陰暦の8月1日になります。ですから9月17日が太陰太陽暦での8月15になります。「中秋の名月」を愛でる習慣は平安時代に中国から伝わったと言われています。日本では「中秋の名月」は農業の行事と結びつき「芋名月」などと呼ばれることもあります。
「中秋の名月」というと満月と考えがちですが実際には満月と異なる場合が多く最大で2日の差があります。満月になるのは9月18日11時34分です。2023年まで3年連続で「中秋の名月」と満月が重なりましたが、今年からしばらくの間は満月ではなく次に満月の「中秋の名月」を見られるのは2030年になります。
2024年の「中秋の名月」ではすぐ近くに土星がありますが月が明るいため土星は見えないかもしれません。
ここ数年、中秋の名月と満月は同じ日でしたが、今年は9月17日が中秋の名月、翌18日が満月と日付が1日ずれています。
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戊辰戦争で奥羽征討総督として官軍の指揮を執った小松宮彰仁親王は明治維新後も軍人として活躍しましたが皇族として国際親善も重視していました。明治19年(1886年)にイギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどヨーロッパ各国を訪問した際、オスマン帝国コンスタンティニエ(イスタンブール)を訪問しました。このことがきっかけで日本とオスマン帝国の皇室儀礼が始まりました。
小松宮彰仁親王の訪問の答礼としてオスマン帝国のアブデュルハミト2世は明治天皇に勲章を奉呈するために軍艦エルトゥールル号を日本へ派遣することにしました。
エルトゥールル号は1889年7月14日にイスタンブールを出港しました。日本への航海の途上でインドやインドネシアなどのイスラム諸国に立ち寄り11ヶ月後の明治23年(1890年)6月7日に日本に到着しました。エルトゥールル号は横浜港に入港し、特使のオスマン・パシャ艦長らは同年6月13日に明治天皇に謁見しアブデュルハミト2世からの皇帝親書を献上しました。
エルトゥールル号は老朽艦で遠洋航海に耐えられないとの指摘がオスマン帝国海軍内でありました。しかし、インド・東アジアのイスラム諸国にオスマン帝国の存在を誇示したいオスマン帝国は反対を押し切ってエルトゥールル号を派遣しました。日本に到着したときにはエルトゥールル号の船体は消耗し乗組員もコレラにかかるなど疲れ切っていました。
オスマン帝国からの最初の親善訪日使節団を歓迎した日本はエルトゥールル号の状態を鑑み帰りは台風シーズン後にするよう勧めましたが、オスマン・パシャ艦長は日本の提案を断り明治23年(1890年)9月15日に横浜港を出港し帰路につきました。
横浜港を出港したエルトゥールル号は日本列島に沿って南下していましたが日本が懸念した通り暴風雨に遭いました。同年9月16日午後9時頃、強風にあおられて紀伊半島の最南端の潮岬付近の紀伊大島の岩礁に激突しました。エルトゥールル号は約1時間後に沈没し、オスマン・パシャ艦長をはじめとする乗組員656名が漂流しました。
数人が樫野埼灯台にたどり着き助けを求めたことでオスマン帝国の船が沈没したことが日本側に伝わりました。このとき言葉が通じなかったため情報交換は国際信号旗で行われました。連絡を受けた大島村(串本町)樫野地区の区長は村長に連絡を取りました。沖周村長は郡役所と和歌山県庁に使者を送り、自らは村の医師とともに午前11時30分頃に現場にかけつけ村民を動員してエルトゥールル号の乗組員の救助を行いました。村民は救助した乗組員に衣類や食糧を提供し懸命に救助活動を行いました。遭難者656名中、69名が生還しましたがオスマン・パシャ館長をはじめとする587名は発見されませんでした。
救助された乗組員は大日本帝国海軍コルベット艦「比叡」と「金剛」により1891年1月2日にオスマン帝国イスタンブールまで送り届けられました。エルトゥールル号の乗組員の遭難事故はオスマン帝国では天災による殉難と新聞で大きく取り上げられました。同時に大島の村民による救助活動と日本政府の対応が美談として取り上げられると日本とオスマン帝国の間で親近感が生まれました。
しかしながら日本とオスマン帝国は正式な国交を結ぶことがないまま第一次世界大戦で敵同士となりましたオスマン帝国は敗戦により解体され消滅しトルコ共和国が成立しました。
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慶長14年(1609年)9月、江戸幕府は西国の大名らが所有する水軍力を抑止するため500石積以上の軍船と商船を没収しました。ただし500石積以上でも外洋を航行する目的の朱印船は除外されました。
寛永12(1635年)6月、江戸幕府は武家諸法度を改定し全国の大名に対して500石積以上の大型船の建造禁止令を出しました。この禁止令では商船は除かれていましたが対象となる船種が明確ではありませんでした。そこで寛永15年(1638年)に制限対象を軍船とすることが明記されました。 大船建造はその後も見直され武家諸法度は何度も改正されました。商船は内航船の弁才船が広く使われるようになりました。
江戸時代後期に日本沿岸に異国船が現れるようになりましたが、幕府や諸藩が所有していて船舶では対応することができませんでした。このような状況の中、大船建造の必要性の声が高まり「大船建造の禁」の撤廃が求められるようになりました。
嘉永6年(1853年)6月にアメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督が艦隊を率いて来航しました。この黒船来航により幕府も大型軍艦の必要性を認識し「安政の改革」の中で同年年9月15日に「大船建造の禁」を解禁しました。嘉永7年(1854年)、幕府は浦賀に造船所を開き浦賀奉行に「鳳凰丸」を建造させました。これにより幕府や諸藩が西洋式の軍艦を建造し所有するようになりました。
海運は弁才船が主流となっていましたが文久元年(1861年)には商人なども西洋式の大型商船を所有できるようになりました。しかし、「安政の大獄」や「桜田門外の変」から幕政の混乱が始まり商業の発展どころではなくなりました。
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合田 一道 (著)
榎本武揚の手紙や日記などをもとに榎本武揚が幕末から戊辰戦争、明治維新をどのように生き抜いたのかをまとめた伝記です。目次を見るとわかりますが時系列に榎本武揚の人生を振り返ることができます。
近代日本の万能人に資料から迫る!
裏切り者か、新政府の切り札か――日本近代史において榎本武揚ほど評価のわかれる人物は他にいない。一般的なイメージでは捉えきれないその複雑な人間像と魅力を、榎本家に現存する書簡や、図書館等に保管されている日記・古文書類を渉猟しあぶり出す。膨大な資料を読み解く中でその思想、信条に触れながら、逆賊から一転、政府高官にのぼりつめた榎本武揚という人物の実像に迫る。『環』の好評連載に大幅に加筆し、単行本化。
[附]年譜・人名索引
【目次】
この本を手にした方へ
第一章 外国への視線
第二章 戊辰の嵐に、立つ
第三章 蝦夷の大地、燃ゆ
第四章 死を前にした化学者
第五章 開拓使で鉱山調査
第六章 日露交渉と「シベリア日記」
第七章 降りかかる国家の難題
第八章 隕石で流星刀を造る
あとがき――榎本武揚が残したもの
参考文献
年譜
人名索引
【登録情報】
出版社 : 藤原書店 (2014/9/25)
発売日 : 2014/9/25
言語 : 日本語
単行本 : 329ページ
ISBN-10 : 4894349892
ISBN-13 : 978-4894349896
合田 一道 (著)
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安政5年(1858年)に締結された日米修好通商条約およびその他諸国との条約(安政五カ国条約)により、兵庫港は1863年から開港されることになりました。天皇の勅許を得ないままで締結した通商条約に朝廷は反発し、和親条約には理解を示していた孝明天皇も通商条約には反対の意を表明し、とりわけ京都に近い兵庫の開港については拒否しました。
安政五カ国条約では江戸と大阪の開市、新潟・兵庫を開港することになっていましたが国内の経済や政治の状況から期限内での履行が困難になったため幕府は文久元年(1862年)に文久遣欧使節を欧州に派遣しイギリスとロンドン覚書を調印したうえで各国と交渉を重ね、開市と開港を5年延長し1868年1月1日にすることになりました。これによって孝明天皇が拒否した兵庫開港も先送りできました。
尊皇攘夷の勢力が台頭する中で江戸幕府は第14代将軍の徳川家茂と仁孝天皇の第8皇女で孝明天皇の異母妹の和宮親子内親王の婚姻を進めました。孝明天皇は政治を従来通り江戸幕府に任せる公武合体を進める代わりに幕府に対して攘夷を行うよう要請しました。列強に対して武力による攘夷は不可能と考えた江戸幕府は外交交渉により横浜を閉港することにしましたが幕府内での意見の対立もあり実行に移すことができずにいました。これに対して攘夷派の志士が攘夷運動を起こしました。
文久3年(1863年)、長州藩は馬関海峡を航行するアメリカ、フランス、オランダの艦船を砲撃し武力による攘夷を実行しました。この攘夷により下関戦争が勃発、文久4年(1864年)、長州藩の海峡封鎖により多大な損失を被っていたイギリスはアメリカ、フランス、オランダとともに連合艦隊を編成し長州藩を攻撃しました。長州藩は列強の連合艦隊に太刀打ちすることはできず敗戦しました。
長州藩は列強から賠償金300万ドルの支払いを求められましたが、交渉を担当した高杉晋作は伊藤博文を通訳として攘夷は幕府の命令に実行したものであり賠償金は幕府に請求するべきと主張しました。連合国はこれを了承し幕府に対して300万ドルの支払いと連合国が納得する提案をするよう求めました。
江戸幕府の混乱に乗じて兵庫港の開港と天皇から勅許を得ることを考えた英国公使ハリー・パークスは連合国と強調して兵庫に艦隊を派遣しました。慶応元年9月13日、英国軍艦4隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦1隻の合計8隻からなる艦隊が横浜を出港、9月16日に兵庫港に到着しました。
この事態に江戸幕府は老中の阿部正外と松前崇広を派遣しました。正外と崇広は9月23日から連合国公使と交渉を行いましたが、連合国側は速やかに回答を得られない場合は江戸幕府に条約を進める力がないと判断し京都に向かい天皇と直接交渉すると強硬な主張をしてきました。正外と崇広は連合国側の要求を拒むことは不可能と考え無勅許で兵庫港を開港することを決めました。その後、一橋慶喜が無勅許による開港を咎めましたが、正外と崇広は連合国と朝廷が直接交渉を行うと幕府は崩壊すると主張しました。朝廷は無勅許での開港をした正外と崇広の官位を剥奪し改易の勅命を出しました。江戸幕府は9月29日に両名を解任しました。
連合国側は改めて幕府に対して10日以内に回答をするよう求めました。この事態に孝明天皇は開港に同意し、江戸幕府は連合国と条約を締結することになりました。交渉により兵庫港の開港日は前倒しされることなく当初の慶応3(1868年)となりましたが、幕府は下関戦争の賠償金300万ドルを支払うことになりました。
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