カテゴリー「昭和の思い出」の175件の記事

2021年3月 7日 (日)

山手線が「やまのてせん」に戻る(1971年3月7日)

 自分は1968年ぐらいまで関東に住んでいたのですが、当時、山手線は「やまてせん」と呼ばれていました。その後、関東から離れたのですが1970年代に東京に遊びに行ったときに山手線の呼び方が「やまのてせん」に変わったことを知りました。「やまてせん」の方がしっくりくるのにと感じたことを覚えていますが、そのとき呼び方の変更の由来もあまり考えませんでした。その後、名前が変わった理由を調べたところ、山手線はもともと「やまのてせん」であったことを知りました。

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山手線 103系(1963-1988)

 山手線は都内の下町に対して山の手あたり走る電車だから「やまのてせん」と名付けられたようです。営業開始前は「山ノ手線」と表記する予定でしたが、営業開始時に「ノ」がとれた山手線が採用され、読み方は「やまのてせん」と決まりました。以降、山手線は「やまのてせん」と呼ばれていたのですが、第二次世界大戦後にGHQが交通の施設や標識などにローマ字を併記することを指示した際に、国鉄は山手線に「YAMANOTE」ではなく「YAMATE」と併記しました。これによって山手線は「やまのてせん」と呼ばれなくなり、「やまてせん」という呼び方が定着しました。「やまて」は国鉄職員の間での山手線の通称だったようです。

 1970年9月に大阪万博が終了すると、国鉄は旅客確保の取り組みとして個人旅行拡大のための「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを開始しました。このキャンペーンでは駅名や路線名をわかりやくする取り組みも行われ、駅名や路線名の誤読を避けるためふりがなをつけることになり、山手線の読み方を再考するきっかけになりました。

 山手線は本来の由来から「やまのてせん」とふりがなをつけることが決まり、1971年3月7日に「やまのてせん」という名前に戻りました。同日、群馬県の長野原線が吾妻線に改称されており「あづません」と誤読されることを避けるために「あがつません」とふりがながつけられていますが、これも山手線の読み方を見直すひとつの要因になったようです。

 さて、山手線というと環状の路線全体と思っている人が多いと思いますが、山手線とは品川駅から田端駅までの路線のことです。東京駅と品川駅の間は東海道線、東京駅と田端駅の間は東北線です。ですから、電車としての山手線は路線としての山手線と東北線と東海道線の3つの路線を走っている電車ということになります。

 ところで、いつも混んでいる山手線ですが、あまりの混雑で目的の駅で降りることができるかどうか心配になるときがあります。特に降りる駅でどちら側のドアが開くのかを知っていると便利です。各駅で開くドアの方向についてはココログ 夜明け前 「山手線の各駅でドアが開く方向」にまとめてあります。

  

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2021年3月 5日 (金)

日本の空にキャビンアテンダント登場(1931年3月5日)

 現在においては旅客機に客室乗務員(キャビンアテンダント、CA)が乗務しているのはあたりまえのことですが、昔は機内サービスがなかったためCAという職業は存在していませんでした。機内サービスが始まったのは1919年とのことですが、最初は副操縦士が担当していました。

 CAが搭乗するようになったのは1920年代になってからです。当時のCAは男性のみでスチュワードと呼ばれていました。スチュワード(男性)、スチュワーデス(女性)は船舶料理士に由来します。1929年にはパンアメリカン航空が訓練されたCAを搭乗させました。CAは機内サービスや緊急時の対応を担当しました。

 1930年、米国のボーイング・エア・トランスポート社が初めて女性のCAを乗務させました。このCAは看護師の経験があり、機内サービスの他に緊急時の対応も担当しました。現代の感覚からすると不適切ですが、当時は多くの人が危険な乗り物と考えていた旅客機に初めて女性CAを乗務させることにより、航空機の安全性をPRする目的もあったそうです。

 さて、日本の旅客機にCAが乗務するようになったのは翌年の1931年(昭和6年)でした。日本航空学校を運営していた相羽有(あいばたもつ)が1928年に設立した東京航空輸送がCAを募集、同年2月5日採用試験を行いました。そして、140人の応募者から3人を採用したことを3月5日に発表しました。3人の女性CAはエアガールと呼ばれ、東京―下田―清水間の定期路線に乗務しました。

現在のキャビンアテンダント
現在のキャビンアテンダント

 東京航空輸送は1939年(昭和14年)3月27日に国策によって1938年に設立された大日本航空に吸収合併されることになりました。その大日本航空は第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)10月に解散し、同年11月のGHQの指令「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」 (SCAPIN-301) によって日本人による航空に関わる活動はいっさい禁じられました。

 余談ですが日本飛行学校の一期生にはウルトラマンの生みの親でもある円谷プロダクション創設者の円谷英二さんが入学しています。この話はまたの機会にと思います。

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2021年2月26日 (金)

ソフトボール大会での不思議な写真(昭和35年頃)

 昭和35年(1960年)ぐらいですが、職場のソフトボール大会での女性チームの活躍を撮影した写真です。

ソフトボール大会(昭和35年頃)
ソフトボール大会(昭和35年頃)

 キャッチャーの女性は中腰ながらボールを受けようと前方をしっかり見て構えています。

 一方、バッターの女性はバットの持ち方がしっくりしていません。それはともかく、この写真が捉えた瞬間はバッターがちょうどボールを打った直後だと思うのですが、どうしてバッターは高く飛び上がることになってしまったのでしょう。そして、この後、どうなったのでしょう。

 見ている女性たちもあまりにも冷静です。

 不思議な一枚の写真の紹介でした。

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2021年2月24日 (水)

正義の味方 月光仮面参上(1958年2月24)

 「どこの誰かは知らないけれど誰もがみんな知っている」。2月24日は月光仮面のテレビ番組の放映が始まった日です。

 月光仮面が登場する前から「正義の味方」と呼ばれたヒーローはいますが、多くの国民が初めて認知した「正義の味方」と言えば月光仮面でしょう。

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函館市さかえ通りにある月光仮面の像
夜明け前「函館と月光仮面の関係」 

 月光仮面の原作者の川内康範さんは「正義の味方」をヒーローの立ち位置として定義づけました。正義とは本来神仏のように普遍的な存在で、「正義の味方」は正義を守ろうとする者ではあるものの正義そのものではないといことです。

 ですから、「正義の味方」は、悪を懲らしめ、善を助けるが、裁きはしません。加えて「正義の味方」は正義を守るのと同時に誰を守るのかという点において、普遍的な正義からぶれた判断や行動をとらざるを得ないこともあります。

 川内康範さんは「正義の味方」を象徴するものとして月を選びました。月光仮面のシンボルが満月ではなく三日月となっているのは、人の善悪や、人の心の変化を月の満ち欠けで表現したからだそうです。月光仮面の詳しい話については、ブログ  光と色と THE NEXT月光仮面|月光|光と色のヒーロー列伝②」をご一読ください。

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2021年2月12日 (金)

レトルトカレーの日(昭和43年 1968年2月12日)|ボンカレーの秘密を探る

 昭和43年(1968年)2月12日は世界初の市販レトルト食品となった大塚食品の「ボンカレー」が発売された日です。当初は全国販売ではなく、阪神地区限定での販売だったようですが、この発売日を記念して大塚食品は2007年に「レトルトカレーの日」を定めました。日本記念日協会にも登録されています。

 最初の「ボンカレー」にはポリエチレンとポリエステルの半透明のパウチが使われていました。そのため光と酸素を完全に遮断することができず、賞味期限は数ヶ月しかありませんでし。その後、アルミ製のパウチを使うことによって賞味期限を2年にすることができるようになり、1969年5月から全国発売開始となりました。

 「ボンカレーの日」ではなく「レトルトカレーの日」としたことに敬意を払います。大塚食品はたいへんな苦労をしてレトルトカレーを実現したはずなのですが、レトルトパウチなどに関する特許は取っていません。この技術が広まれば多くの国民が美味しい料理を手軽に食べられるようになると考えてくれたのでしょう。レトルト食品の技術を独占するべきではないとの経営判断をされたようです。

 自分は1968年2月は関東地区に住んでいたので、半透明のパウチの「ボンカレー」は見たこともありませんし、その存在すら知る由もありませんでした。「ボンカレー」の全国販売が始まると、女優の松山容子さんのホーロー看板を見かける機会が多くなりましたが、「ボンカレー」の存在を決定的に認知したのは笑福亭仁鶴さんの「三分間待つのだぞ」の台詞で有名な「子連れ狼」のパロディCMだったと思います。このCMが流行ったのは小学校低学年の頃と思います。

 当時、カレーと言えば家で材料から作って食べるものか、レストランで食べるものでした。なぜお湯で3分間温めるだけでカレーができるのかとても不思議だったのです。比較的高価なインスタント食品でもあり、家で食べる機会もありませんでしたので、「ボンカレー」の謎は深まるばかりです。

 「ボンカレー」は1971年発売のカップヌードルに続いて不思議な食べ物だったのです。カップヌードルは、実際に食べたときに、お湯を入れる前に封を開けるので、乾燥したラーメンと具が熱湯で茹で上がる仕組みであることはすぐにわかりました。

 やがて「ボンカレー」を食べる機会がありました。土曜日の午後から旅行に出かけるので、学校から急ぎ帰って食べたのが「ボンカレー」でした。「ボンカレー」は不透明なアルミパウチを開けることなく、熱湯で3分間温めることによって出来上がります。パウチを開けると、カレールーが出来上がっているのです。果たしてパウチの中で何が起きているのかとても謎でしたが、急いで食べる必要があったし、お湯で温めたのも母親だったので「ボンカレー」を詳しく観察することはできなかったのです。

 「ボンカレー」の謎は学校でも友達と話をしていました。熱湯で温めることで中で何が起きるのかあれこれと言い合いましたが、ある日、確かめようということになって2人でお小遣いで一袋ずつ買ったのです。そして、自分の家で一緒に「ボンカレー」の謎を探りました。パウチを触るとブヨブヨしています。このブヨブヨがカレーになる。最終的に「ボンカレー」を温めないで封を切るという、「ボンカレー」が食べられなくなってしまう可能性のある勇気のいる方法を選択することを決断したのです。

 二袋とも同じ実験をするのはもったいないので、まずは自分のパウチから開けることにしました。

 おそるおそるパウチを開けました。

 中から出てきたのは温まっていないカレーでした。

 あっという間に「そりゃそうだ」という結論に至ったのです。

 そして、常温のカレーも美味しかったのです。友達もさっそく自身の「ボンカレー」の封を切り、常温のカレーを食べ始めました。

 親に隠れて何か悪いことをしているかのように、2人で顔を合わせて苦笑い。

  かくして「ボンカレー」の秘密が解き明かされたのです。

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2021年2月 2日 (火)

バスガールの日(1920年2月2日)

 関東大地震の影響により運行が困難となった東京市電の代替輸送手段として東京市営バスの運行が開始したのは大正12年(1923年)1月18日です(ココログ 夜明け前円太郎バス走る|都バスの日 (大正13年 1924年1月18日)」。

 実は東京市営バスの運行に遡ること約5年前の1918年(大正7年)10月、民営のバス会社である東京市街自動車が設立され、1919年(大正8年)3月1日からバスの営業運行を開始しています。東京市街自動車のバスは車体が深緑色であったため、都民から「青バス」と呼ばれ親しまれました。

 〜余談になりますが、緑色のバスが青色と呼ぶれたは日本人が緑色と青色を明確に区別する文化をもっていなかったからです。ご興味をもたれた方はココログ 光と色と青は進めの真実|交通信号の色」をご一読ください〜

 東京市街自動車は関東大震災後のバスの活躍により、営業路線を拡大していきました。東京市街自動車のバスには少年の車掌が常務していましたが、運賃の横領が多いため、女性の車掌を採用することにしました。大正9年(1919年)12月に女性車掌募集の新聞広告を出し、女性車掌を採用、大正10年(1920年)2月2日に女性車掌が登場しました。

東京乗合自動車のバスと女性車掌(白襟嬢)
東京乗合自動車のバスと女性車掌(1934年、撮影:石川光陽)

 東京市街自動車の女性車掌は白襟の洋服にベレー帽の制服を着ていたことから、都民から「白襟嬢」と呼ばれ大人気となりました。

 東京市街自動車と競争していた東京市営バスは1924年から女性車掌を乗務させるようになりました。東京市営バスの女性車掌は赤襟の制服を着ていたため都民から「赤襟嬢」と呼ばれました。

 昭和40年代、子どもの頃にバスに乗ったときには、女性の車掌が必ず乗務していました。顔見知りになった車掌さんもいて、バスに乗ると名前で呼んでくれた車掌さんもいました。昭和40年代後半になると「ワンマン」と書かれた車掌さんの乗っていないバスが走るようになりました。当時は「ワンマン」の意味がわからず、「このバスには犬が何か関係しているのか?」などと思ったりしたものです。

 バスの停留所で待っているときに「ワンマン」のバスがやってくると、とてもがっかりしたものです。やがて、顔を覚えていた車掌さんの姿も見えなくなり、すべてのバスが「ワンマン」になりました。ドア付近には車掌さんがいた場所が残っており、その場所を見ると何か寂しい気持ちになりました。時は流れて、整理券、降車ボタン、運賃表、テープによるアナウンスが当たり前になりました。

 科学と技術が発展し、世の中便利になってくると、競争も激しくなり、効率を重視する必要が出てきます。バスの車掌さんのような仕事が消えていくわけですが、便利になっていく反面で、精神文化的な何かが失われていくような気もします。

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2021年2月 1日 (月)

日本でテレビの本放送始まる(昭和28年 1953年2月1日午後2時)

 日本初のテレビ放送はNHKが昭和14年(1939年)5月13日に実施した公開実験で行われました。翌年には公開実験で日本初のテレビドラマが放送されましたが、本放送に向けての計画は日中戦争の影響により頓挫しました。第二次世界大戦後の1945年にGHQによって日本におけるテレビの研究は中止となりましたが、翌年には解禁となりました。そして、昭和23年(1948年)6月4日にNHKが戦後初の公開実験が行い、本放送の計画が再開されました。

 それから5年後の昭和28年(1953年)2月1日午後2時、NHK東京放送局の「JOAK-TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」のアナウンスとともに日本初のテレビの本放送が始まりました。当時のNHK会長の古垣鉄郎は「テレビは国民生活全体の上に革命的ともいえる大きな働きを持つ」と挨拶しました。放送時間は1日約4時間で、テレビカメラはスタジオ用3台、中継用2台の合計5台しかありませんでした。映画やフィルム撮影のニュースは録画放送でしたが、多くの番組が生放送でした。もちろん白黒放送しかありませんでした。受信料は200円で、契約者数は866名でした。

 民放によるテレビ放送の計画はNHKによるテレビ放送開始前から進められていました。昭和28年(1953年)8月28日に日本テレビ放送網が開局し、民放のテレビ放送が始まりました。

 当時の一般のサラリーマンの月給は手取りで1万千円程度、テレビは20万円もしました。高価なテレビを購入することができたのは一部の富裕層のみで、多くの人はテレビを見ることすらできませんでした。そこで、日本テレビ放送網は多くの人々がテレビを見ることができるようにするため、駅や公園や街中に街頭テレビを積極的に設置する戦略を講じました。この戦略は大成功となり、プロレスやボクシングの中継が始まると、街頭テレビの前には人だかりができました。テレビが人を集める効果があり、広告宣伝の効果が極めて高いことを示すことができたのです。最初のコマーシャルは精工舎(現セイコーホールディングス)が提供する時報だったそうです。

街頭テレビでプロレスラー力道山の試合を観戦する群衆
街頭テレビでプロレスラー力道山の試合を観戦する群衆

 その後、多くの民間放送局が開局し、テレビ放送がラジオ放送に替わって主流になってきました。そして、昭和35年(1960年)9月10日、カラーテレビの放送が始まると、本格的なテレビの時代が到来したのです。

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2021年1月28日 (木)

行商のおばさん(昭和41年 取手駅)

昭和41年の秋頃に茨城県の取手駅で撮影した写真です。

取手駅前と駅前の商店街
取手駅前と駅前の商店街

 行商のおばさんが大きな荷物を背負って改札口にやってきました。行商はお客さんがいそうな場所まで商品を運んで販売する方法です。市場に出向いたり、住宅街を巡回して、物品やサービスを販売してまわります。このおばさんは、取手からどこへ向かうのでしょうか。都内であることは間違いありません。上野あたりでしょうか。

取手駅の改札口と行商のおばさん
取手駅の改札口と行商のおばさん

 さて、当時の駅ですが、切符の自動販売機もなければ、改札も自動なはずもありません。窓口で買った切符を、切符切りの駅員さんが改札鋏で改札します。混んでいる駅では改札鋏をリズムのようにカチャカチャと音を鳴らしながら流れるように改札していました。

1990 新宿駅JR有人改札

改札口の写真をカラー化してみました。躍動感が出て記憶が蘇るかのようです。

取手駅の改札口と行商のおばさん(カラー化)
取手駅の改札口と行商のおばさん(カラー化)

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2021年1月20日 (水)

スーパーカー全国縦断フェスティバル(1977年)|カウンタックLP-400

 漫画家の池沢さとしさんの作品「サーキットの狼」は昭和50年(1975年)から昭和54年(1979年)まで少年ジャンプで連載されました。主人公の風吹裕矢がライバルとともにレーサーとして成長していく物語です。「サーキットの狼」には現実の自動車が登場しました。特に欧州のスポーツカーの活躍を描くことにより、スーパーカーブームの火付け役となりました。

 スーパーカーブームがはじまると、スーパーカーの下敷き、消しゴム、カードなど多くの商品が登場しました。また、プラモデルもたくさん作った記憶があります。それでも一番の感動は実物を見ることです。街の中を颯爽と走るスーパーカーを見ると指を差して喜んだものでした。しかしながら、スーパーカーを街で見ることができる機会はそう多くはありませんでした。ですからデパートの屋上などにスーパーカーが展示されると、親にせがんで連れて行ってもらったものです。

 1977年に全国で開催された「スーパーカー全国縦断フェスティバル」の写真がありました。このスーパーカーショーはモーターマガジン社が主催したもので、黄色いランボルギーニカウンタックLP-400が全国各地で展示されました。札幌の丸井今井にカウンタックがやってきたのは6月です。当時は小樽市に住んでいたのですが、父が自分と弟を札幌まで連れて行ってくれました。

 たくさんの親子が見に来ており、本物のカウンタックを目の前にした子どもたちは大興奮していました。

ランボルギーニカウンタックLP-400
ランボルギーニカウンタックLP-400

 カウンタックのドアが開くと大歓声。カウンタックのドアはハサミのように開くのが特徴です。ガルウイングと呼ばれることが多いのですが、このタイプのドアは正しくはシーザードア(シザーズドア)と言います。

カウンタックのシザードア(シザーズドア)を開いたところ
シザードア(シザーズドア)を開いたところ

 次はリアからの写真です。カウンタックはミッドシップと言ってエンジンは車体中央に搭載されています。運転席の後側のリアパネルを開くとエンジンルームが現れます。その後ろのパネルを開くとトランクがあります。

カウンタックのリアからの写真
カウンタックのリアからの写真

 このショーでは抽選か何かで10人ぐらいカウンタックのコクピットに座らせてもらうことができました。写真がないので、自分たちは外れたのでしょう。

カウンタックのコクピット
カウンタックのコクピット

 このショーには次のレーシングカーが端の方にひっそりと展示されていました。車体や展示パネルにCOX R500、RACING SHOP ADACHIと書いてあります。Googleで検索してみましたが見つからず。マッハGOGOGOに出てくるようなレーシングカーですが、よくわかりませんでした。

COX R500
COX R500

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2021年1月19日 (火)

「NHKのど自慢」放送開始(昭和21年1946年1月19日)

 心地よいチューブラーベルの音で始まる「NHKのど自慢」。「のど自慢素人音楽会」として1946年1月19日午後6時から7時半まで、NHK東京放送会館においてラジオ第一放送で公開放送されました。戦後、GHQによって放送の民主化が進められ、政府による放送の統制がなくなると、いろいろな番組が登場するようになりました。「のど自慢素人音楽会」もその中のひとつで、一般市民の聴衆者が歌声を披露できる素人参加型の番組でした。一般市民にとってラジオは聴くもので、自分の声が電波に乗るということは想像もつかないことでした。当時としては画期的な企画の番組だったのです。

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 第一回の出演者をニュースで公募したところ、900人もの応募があったそうで、瞬く間に大人気の番組となりました。「のど自慢素人音楽会」は軍隊で行われていた演芸会にヒントを得ているそうです。カラオケが日本発祥であることからも想像できますが、日本人はもともと歌を歌うのが好きだったのでしょう。

 昭和22年(1947年)には番組の名前を「のど自慢素人演芸会』に変更し、歌だけではなく、ものまねや漫才なども対象とし、面白い素人がたくさん登場しました。昭和35年(1960年)にはテレビとラジオの同時放送が開始され、昭和45年(1970年)に再び歌のみを対象とした番組とななり、番組名は「NHKのど自慢」となりました。

 「のど自慢素人音楽会」を軍隊の演芸界にヒントを得て企画したのは、当時NHKで音楽番組を担当していた三枝嘉雄(ペンネーム三枝健剛、音楽家の三枝成彰さんの父)さんだったそうです。いろいろなアイデアを盛り込んだ歌番組を企画したそうです。「NHK紅白歌合戦」を企画したのも三枝嘉雄さんです。「のど自慢素人音楽会」の開始から5年後のことでした(ココログ 夜明け前「NHK紅白音楽合戦(昭和26年 1951年1月3日)」)。

 自分は「のど自慢」というとアコーディオン奏者の横森良造さんを思い出してしまいます。出演者がマイクの前で「○番、○○を歌います」と言って歌い始めるのですが、横森さんはいかなる曲でも、どんな歌い方にも合わせてアコーディオンの伴奏をこなしていました。  

 のど自慢の影響は大きく、素人や歌や演芸を競う番組がたくさん登場しました。「スター誕生!」や「お笑いスター誕生!!」などの番組に登場した素人が後に有名な歌手や芸人になった例は枚挙にいとまがありません。

 ところで北海道出身の歌手の北島三郎さんは、函館市西高等学校に通っていたときに函館市で行われた「NHKのど自慢」の公開放送に出場されたそうです。鐘は2つしか鳴らなかったそうですが、司会者の宮田輝アナウンサーに「いい声でした」「お上手でした」と声をかけられ、この言葉で歌手を目指すことにしたそうです。

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