カテゴリー「昭和の思い出」の362件の記事

2024年10月 4日 (金)

「8時だョ!全員集合」放送開始(1969年10月4日)

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 昭和40年代半ばから60年代初め、土曜日の夜8時と言えばTBS系列で放送されていた「8時だョ!全員集合」が人気の番組でした。子どもから大人まで多くの人たちがテレビの前でドリフターズのリーダーのいかりや長介さんの「8時だよ!」のかけ声を楽しみにしていました。

「8時だョ!全員集合」
「8時だョ!全員集合」

 高視聴率を誇った「8時だョ!全員集合」ですが、この番組が始まる前のTBS系列の8時台はフジテレビで放送されていた裏番組の「コント55号の世界は笑う」の人気のため視聴率が低迷していました。そのためTBSは視聴率を取り返すべく当時人気番組だった「お笑い頭の体操」の居作昌果(いづくり よしみ)プロデューサーに新番組の企画を命じました。居作は新番組の企画に専念することになりましたが「お笑い頭の体操」のスポンサーだったロート製薬の反対によりプロデューサーを兼任することになりました。

 居作プロデューサーはコント55号に匹敵する番組を作るにはテンポの良いギャグが必要と考えました。当時、アドリブではない練り上げたギャクを創り上げるいかりや長助を高く評価しザ・ドリフターズをメインに起用した番組を企画しました。ところが当時のTBSではザ・ドリフターズの評価はそれほど高くなく、シャボン玉ホリデーで大成功を収めたクレージー・キャッツを起用するべきだという声が多数出ました。しかし、クレージー・キャッツは既にグループとしてよりもメンバーが個別に活動するようになっていました。スケジュール調整も難しいため、居作プロデューサーはザ・ドリフターズを起用する考えを通しました。

 ザ・ドリフターズ(以降ドリフ)はジャズ喫茶などでのお笑いライブの経験が豊富だったことから、新番組は劇場・ホールでの公開形式で生放送とすることにしました。この臨場感が番組の人気を後押しすることになり、生放送ならではのさまざまなエピソードを生むことになりました。

 番組のタイトルはスポンサーのライオン油脂(ライオン)の「8時になったらテレビの前にみんな集まるような番組を作って欲しい」という要請から「8時だョ!全員集合」に決まり、昭和44年(1969年)10月4日(土)午後8時から放送が始まりました。

 「8時だョ!全員集合」はいかりや長助の「8時だよ!」のかけ声に観客とドリフのメンバーが「全員集合」と返し、テンポの良いオープニングマーチが流れる中でドリフが観客席から舞台に上がることから始まります。いかりや長助の「行ってみよう」というかけ声で北海盆唄の替え歌のオープニングソングが流れ、ドリフと出演者が歌って踊ります。たった数分のつかみで視聴者はテレビの前に釘付けになりました。その後、ドリフによるコントの前半が初まり、続いてゲスト出演者の歌手の歌、最後に体操や合唱団などのショートコントの後半パートが繰り広げられました。

 放送開始後もしばらくの間は「コント55号の世界は笑う」は高視聴率を維持していましたが、「8時だョ!全員集合」が当時大人気だった歌手をコントに挑戦させたり、TBSの人気ドラマの出演者をゲスト出演させたりすることで「コント55号の世界は笑う」の視聴率を追い抜いたのです。

 1981年の春にフジテレビで裏番組の「オレたちひょうきん族」の放送が始まると、次第に視聴率が下がり始め1982年10月2日の放送で初めて「オレたちひょうきん族」に視聴率を抜かれました。やがて視聴率は平均10%程度になりました。土曜日8時台の番組編成が見直されることになり1985年9月28日に16年間の歴史に幕を閉じました。

 

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2024年9月27日 (金)

昭和天皇とマッカーサ元帥の第1回会見(1945年9月27日)

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 昭和20年(1945年)9月27日、第二次世界大戦後の連合国軍占領下の日本において当時44歳の昭和天皇と当時65歳の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官のダグラス・マッカーサー元帥の第1回の会見が駐日アメリカ大使館で行われました。第1回会見の通訳は外交官の真珠湾攻撃の通告を不慣れなタイプライターで作成し攻撃開始より遅れて提出した経緯をもつ奥村勝蔵氏が担当しました。昭和天皇とマッカーサー会見昭和26年(1951年)まで11回にわたり行われました。

 昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問したことは第1回会見の2日後の9月29日に毎日新聞、読売新聞、朝日新聞に掲載されました。その記事には昭和天皇とマッカーサ元帥が並んで写っている写真と前もって行われた昭和天皇への米国人記者会見の内容が掲載されていました。

第1回会見における昭和天皇とマッカーサー元帥
第1回会見における昭和天皇(右)とマッカーサー元帥(左)

 政府は写真の掲載と米国人記者の会見の様子が皇室の尊厳を損ない公安に害があるとして発禁処分としましたが、朝日新聞の抗議によりGHQは政府に対して発禁処分の撤回を命じました。この記事には昭和天皇とマッカーサ元帥の第1回会見の内容は掲載されておらず、GHQが写真の掲載と米国人記者会見の内容を報道させたものと考えられています。

 マッカーサ元帥との会見における昭和天皇の言葉は「マッカーサー回想記」の第5部に掲載されています。マッカーサー元帥の回想によれば昭和天皇はマッカーサー元帥を訪れ「私は国民が戦争遂行にあたって行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした」と話をされ、これを聞いたマッカーサー元帥は「私は大きい感動にゆさぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は私の骨の随までもゆり動かした」と記しています。

 昭和64年(1989年)1月7日、昭和天皇が崩御すると日本の新聞各社は昭和天皇と「マッカーサー回想記」に記されたマッカーサ元帥の第1回会見における天皇の発言は事実と報じました。

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2024年7月25日 (木)

ルービックキューブ日本発売(1980年7月25日)

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 ルービックキューブ(Rubik's Cube)はハンガリーの建築学者でブダペスト工科大学教授のエルノー・ルービック(ルビク・エルネー)が1947年に発明した立体パズルです。ルービック教授はドナウ川の流れにヒントを得て動くモデルとして3次元幾何学を説明するルービック・キューブを考案しました。最初のルービックキューブは木製で3×3×3の立体パズルでした。ルービックはこのパズルの各面を異なる色で塗りキューブを動かしてみましたが元通り戻すのに1カ月もかかったそうです。

 この立体パズルの面白さに気が付いたルービックはルービックは「マジック・キューブ」(魔法の立方体)という名前で特許を取得しました。1977年にハンガリーで玩具メーカーのポリテクニカ社から発売されると注目され、米国のアイデアル・トイ社が販売権を取得し「ルービックキューブ」という名称で1980年5月に世界的な発売が開始されました。

ルービックキューブの原型マジック・キューブ(ポリテクニカ社)
ルービックキューブの原型マジック・キューブ(ポリテクニカ社)

 日本では1980年6月に紹介され同年7月25日にツクダオリジナル(メガハウス)から発売されました。ルービックキューブは日本中で大人気となりました。発売当初はツクダオリジナル製のものが入手困難で模造品もたくさん出回りました。模造品は動きが鈍くバラバラになってしまうこともありました。学校では授業中に机の下でルービック・キューブで遊んでいる子もたくさんいました。パターン表を入手し色をそろえるコツを覚えるとどれぐらいの時間でもとに戻せるかなどの競争も盛んに行われました。現在、世界大会の公式記録は5秒を切っています。日本記録は6秒台です。

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2024年4月29日 (月)

昭和の日|旧緑の日(4月29日)

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 昭和23年(1948年)の祝日法の施行以来、昭和天皇の誕生日4月29日は国民の祝日「天皇誕生日」とされていました。昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると皇太子明仁親王が即位し平成の時代が始まり天皇誕生日は12月23日となりました。

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 4月29日はゴールデンウィークの最初の国民の祝日で平日にすると国民の生活への影響が生じるため引き続き国民に祝日とすることになりました。当時の竹下登内閣の小渕恵三官房長官の私的諮問機関でこの国民の祝日の名称が検討され植物に造形が深く自然を愛した昭和天皇に因む祝日として「みどりの日」と定められました。

 「みどりの日」の新設に際し国会では「飛躍的な経済成長の結果、我が国の国民生活は、物質的にはほぼ満足し得る水準に達したものと考えられますが、これからは、これまでにも増して心の潤いやゆとりといった心の豊かさを涵養することが求められています。我が国は緑豊かな自然を持った国であることにかんがみ、この自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、豊かな、心をはぐくむことを願い、みどりの日として国民の祝日とするものであります」と説明され、実際の制定された祝日の趣旨には昭和天皇を偲ぶ趣旨は取りあげられませんでした。

 このような経緯から「みどりの日」を「昭和の日」に改称する法案が超党派の国会議員により平成14年(2002年)と平成15年に提出されましたが廃案となりました。平成16年(2004年)に法案が提出され平成17年4月の衆議院内閣委員会で賛成多数で成立しました。この法案では「昭和の日」は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」とされています。

 これによって「みどりの日」ゴールデンウィークの飛び石連休を埋める5月4日となりました。

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2024年4月27日 (土)

映画「醉いどれ天使」公開(1948年4月27日)

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 映画「醉いどれ天使」は昭和23年(1948年4月27日)に公開された東宝製作・配給の黒澤明監督の映画です。主演は志村喬と三船敏郎です。黒澤明監督の映画では三船敏郎と志村喬さんは欠かせない俳優です。三船敏郎さんはこの映画が初めて黒澤映画の出演となりました。志村喬さんは昭和18年(1943年)の「姿三四郎」から黒澤映画に出演していますが、この映画で初めて主演となりました。

映画「醉いどれ天使」
映画「醉いどれ天使」

 貧乏で酔いどれの中年医師の真田は傷を手当したことがきっかけで闇市で暗躍する若いやくざの松永と出会いました。ほどなく真田は松永が結核にかかっていることを知り治療を試みますが松永は言うことを聞かず相変わらずの荒れた日々を過ごします。松永の病気は悪化し、吐血した松永は真田の病院に運び込まれます。真田の治療で一命を取り留めた松永は再び荒れた生活に戻ります。抗争で殴り込みを仕掛けて返り討ちにあいこの世を去ります。真田は馬鹿と奴と松永の死を悲しみますが、闇市は何もなかったかのように相変わらずの活況ぶりでした。そんなときに真田は結核が治ったと喜ぶ女学生に再開し、わずかな希望の光を見出します。

 この作品は黒澤明監督らしいヒューマニズムに溢れる作品で第22回キネマ旬報ベスト・テン第1位となりました。 後の「羅生門」や「生きる」などを見るとラストシーンに共通点を見出すことができます。

 黒澤明監督は感情的で血気盛んに威勢を張る松永を通じて人間の弱さ、孤独と哀しみを見事に表現しました。三船敏郎さんは黒澤明監督が考える松永を見事に演じ、この映画をきっかけに以降の黒澤映画の主役に抜擢されました。

 なおこの作品にはブギを唄う女として笠置シヅ子さんが出演されています。

【映画】

映画「醉いどれ天使」公開(1948年4月27日)

映画「羅生門」公開(1950年8月25日)

映画「生きる」公開(1952年10月9日)

映画「七人の侍」公開(1954年4月26日)

映画「荒野の七人」公開(1960年10月23日)

映画「椿三十郎」公開(1962年1月1日)

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2024年4月10日 (水)

テレビドラマ「バットマン」日本で放送開始(1966年4月10日)

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 バットマンはDCコミックスのボブ・ケインとビル・フィンガー原作の「バットマン」に登場するスーパーヒーローです。1939年5月に「ディテクティブ・コミックス」に初登場し人気となりました。

 現在、バットマンと言えば1986年から公開されている映画が有名ですが、昭和40年頃の日本ではテレビドラマ「バットマン」が大人気でした。このテレビドラマは11966年1月12日から1968年3月14日までアメリカで放送され、日本では昭和41年(1966年)4月10日から昭和42b年(1967年)11月15日までフジテレビ系列で放送されました。バットマンことブルース・ウィリスを演じたのはアダム・ウェスト、ロビンことディック・グレイソンを演じたのはバート・ウォードです。日本語版はバットマンを広川太一郎、ロビンを森功至が吹き返しました。

バットマン(1966年テレビドラマ)
バットマン(1966年テレビドラマ)

 このテレビドラマのバットマンのコスチュームは現在知れているものとは異なりずいぶん軽装ですがコミック版を踏襲しています。このドラマを見ていた世代の人にとってはこちらのコスチュームの方が印象に残っているかもしれません。バットモービルもかっこ良かったです。

 【関連記事】初代のバットモービルが4億円でオークション落札

 アクションシーンでは漫画の擬音のように「BAM!」「BOOM!」などの文字が表示され迫力がありました。グリーン・ホーネットが登場したときにはカトー役のブルース・リーが出演しています。

バットマン対グリーンホーネット カトー(ブルースリー)対 ロビン

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2024年4月 5日 (金)

映画「クレーマー、クレーマー」日本公開(1980年4月5日)

 映画「クレーマー、クレーマー」(Kramer vs. Kramer)は1979年12月8日に公開されたアメリカ映画です。原作はエイヴリー・コーマンの同名の小説でロバート・ベントンが監督・脚本を手掛け、主演はダスティン・ホフマンです。

映画「クレーマー、クレーマー」日本公開(1980年4月5日)
映画「クレーマー、クレーマー」日本公開(1980年4月5日)

 この映画は原題にあるとおり「クレイマー対クレイマー」の争いの物語です。ダスティン・ホフマン演じるテッド・クレイマーとメリル・ストリープ演じるジョアンナ・クレイマーの夫妻の生き方とその子どもビリー・クレイマーをめぐる離婚裁判の行く末を描いたものです。

 ある日、仕事人間のテッドに愛想を尽かしたジョアンナが家を出ていきます。テッドは今までジョアンナに任せっきりだったやった5歳のビリーを育てながら仕事を始めます。最初は朝食に作ろうとしたフレンチトーストを丸焦げにしてしまうなど母親の代わりなどできませんでした。そんな生活が続き次第に2人の生活が安定してきた頃、テッドが目を離した隙にビリーがジャングルジムから転落して怪我をします。この事故がきかけでテッドは仕事に身が入らなくなり会社を解雇されてしまいます。

 仕事と子育ての両立に悩みながら1年ほど暮らしていたろころにジョアンナが息子の養育権を主張し裁判を起こしました。もとはと言えばジョアンナが家出をしたので離婚後の養育権はテッドにありましたが、ジョアンナは独立して仕事を始めテッドよりも年収が多くなっていました。あなたはビリーを幸せにすることができないと主張するジョアンナにテッドは反論することができず敗訴します。

 やがてテッドとビリーのもとにジョアンナがやってくる朝を迎えました。テッドはフレンチ・トーストを上手に作りビリーと朝食を済ませジョアンナが来るのを待っていました。マンションに到着したジョアンナはテッドに電話をかけます。テッドが階下に降りるとジョアンナはテッドとビリーの2人の生活を案じて・・・

 養育権を争いながら子どもを目の前に揺れ動く元夫婦の気持ちや行動を描いた本作品は、実際に世界各国で社会問題となっていることを背景に話題となりました。第52回アカデミー賞作品賞、第37回ゴールデングローブ賞ドラマ部門作品賞を受賞しました。

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2024年3月21日 (木)

映画「カルメン故郷に帰る」公開(1951年3月21日)

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 「カルメン故郷に帰る」は昭和26年(1951年)に松竹大船撮影所が製作した日本映画です。監督は木下惠介、主演は高峰秀子です。

カルメン故郷に帰る
カルメン故郷に帰る

 日本では大正時代にはキネマカラー(二色映画)が作られるようになりましたが、日本で初めて製作された総天然色のカラー映画は1937年に製作された「千人針」です。1945年にもカラー映画「春の歌」が製作されています。この2つの映画は短編映画で「千人針」は外国産カラーフィルムで撮影されたものであり、「春の歌」は試作の国産カラーフィルムで撮影されました。「春の風」は戦災で焼失し、「千人針」は満州で公開されていたものを旧ソ連が接収したものの一部が残っています。「カルメン故郷に帰る」は長編映画で国産のフジカラーを使っていることから日本初の国産総天然色の長編カラー餌映画とされています。

 さて「カルメン故郷に帰る」は主役の高峰秀子が演じる東京でストリッパーのリリィ・カルメンとして働くおきんが、かつて家出をした故郷の上州北軽井沢浅間山麓ののどかな風景の田舎の村に同僚のマヤ朱美を連れて里帰りする物語を描いたものです。

 カルメンは自分たちは芸術家と称し村の人々も村から芸術家が輩出されたことを大喜びし歓迎します。ところがカルメンとマヤの派手な姿や立ち振る舞いに村の人々は驚愕してしまいます。やがて2人は村で芸術を披露すると言いだしストリップの公演を敢行することになり・・・。

 戦後に自由となった社会を生き抜くカルメンとマヤ、彼女たちの行動を通じて少し軽薄となった社会を風刺する喜劇です。当時としては新しい時代の幕開けを感じさせる映画でもありました。

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2024年3月 1日 (金)

懐かしい音楽雑誌「ミュージック・ライフ(MUSIC LIEF)」

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 実家を片付けていたら音楽雑誌のミュージック・ライフ(MUSIC LIEF)」がたくさんでてきました。自分が高校生の頃に買っていたもので毎毎月本屋さんが配達してくれていました。

ミュージック・ライフ(MUSIC LIEF)
ミュージック・ライフ(MUSIC LIEF)

 「ミュージック・ライフ(MUSIC LIFE)」はシンコー・ミュージックが発行していた月刊の音楽雑誌です。歴史は古く同社が新興音楽出版社だった1937年に「ミユジックライン」として創刊されました。「ミユジックライン」は流行歌を専門に扱う雑誌でしたが、当初は月刊ではなく不定期に出版されていました。その後は「歌の花籠」「國民の音楽」と改題し出版されましたが第二次世界大戦中は休刊となりました。

 戦後の1946年に「ミュージック・ライフ」として復刊しましたが休刊となり、復刊されたのは1951年です。東京の人気レコード店の売上のヒットチャートなどを掲載し、1964年にはビートルズ特集号を出しています。その後は洋楽のロックを扱いました。同社は1984年にヘヴィ・メタルの専門誌「BURRN!」を創刊、1988年にポップス専門の専門誌「クロスビート」を創刊、「ミュージック・ライフ(MUSIC LIEF)」の役割が少なくなり1998年12月に休刊となりました。

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2024年2月29日 (木)

ブルース・リーの死亡遊戯の絵はがき

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 実家を片付けていたらブルース・リーの死亡遊戯の絵はがき(ポストカード)が出てきました。確か4種類あったはずですが今回見つかったのはこの2枚です。この絵はがきはどうやって入手したのか記憶にありませんが映画館で買ったかもらったのかしたのではないかと思いますが記憶が定かではありません。

ブルース・リーの死亡遊戯の絵はがき(ポストカード)(表)
ブルース・リーの死亡遊戯の絵はがき(ポストカード)(表)

 裏面にはTOWAのロゴが入っています。

ブルース・リーの死亡遊戯の絵はがき(ポストカード)(裏)
ブルース・リーの死亡遊戯の絵はがき(ポストカード)(裏)

 また次の表記が懐かしいですね。よく授業中にブルース・リーの似顔絵といたずら書きしたものです。

BRUCE
LEE'S
GAME
OF
DEATH

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ブルース・リーの誕生日(1940年11月27日)

映画「燃えよドラゴン」日本公開(1973年12月22日)

BRUCE LEE'S NUNCHAKU IN ACTION

映画「ブルース・リー 死亡遊戯」日本公開(1978年4月15日)

ブルース・リー死亡遊戯のポスター

ブルース・リー 死亡遊戯ワイド特集号 月刊スクリーン 1978年5月号臨時増刊

ブルース・リー最新特集号 月刊スクリーン 1979年9月号臨時増刊

ブルース・リー 映画「死亡遊戯」のパンフレット BRUCE LEE'S GAME OF DEATH

【おもしろ映像】ジェダイのリー|もしブルース・リーがジェダイマスターだったら

 

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