「8時だョ!全員集合」放送開始(1969年10月4日)
昭和40年代半ばから60年代初め、土曜日の夜8時と言えばTBS系列で放送されていた「8時だョ!全員集合」が人気の番組でした。子どもから大人まで多くの人たちがテレビの前でドリフターズのリーダーのいかりや長介さんの「8時だよ!」のかけ声を楽しみにしていました。
高視聴率を誇った「8時だョ!全員集合」ですが、この番組が始まる前のTBS系列の8時台はフジテレビで放送されていた裏番組の「コント55号の世界は笑う」の人気のため視聴率が低迷していました。そのためTBSは視聴率を取り返すべく当時人気番組だった「お笑い頭の体操」の居作昌果(いづくり よしみ)プロデューサーに新番組の企画を命じました。居作は新番組の企画に専念することになりましたが「お笑い頭の体操」のスポンサーだったロート製薬の反対によりプロデューサーを兼任することになりました。
居作プロデューサーはコント55号に匹敵する番組を作るにはテンポの良いギャグが必要と考えました。当時、アドリブではない練り上げたギャクを創り上げるいかりや長助を高く評価しザ・ドリフターズをメインに起用した番組を企画しました。ところが当時のTBSではザ・ドリフターズの評価はそれほど高くなく、シャボン玉ホリデーで大成功を収めたクレージー・キャッツを起用するべきだという声が多数出ました。しかし、クレージー・キャッツは既にグループとしてよりもメンバーが個別に活動するようになっていました。スケジュール調整も難しいため、居作プロデューサーはザ・ドリフターズを起用する考えを通しました。
ザ・ドリフターズ(以降ドリフ)はジャズ喫茶などでのお笑いライブの経験が豊富だったことから、新番組は劇場・ホールでの公開形式で生放送とすることにしました。この臨場感が番組の人気を後押しすることになり、生放送ならではのさまざまなエピソードを生むことになりました。
番組のタイトルはスポンサーのライオン油脂(ライオン)の「8時になったらテレビの前にみんな集まるような番組を作って欲しい」という要請から「8時だョ!全員集合」に決まり、昭和44年(1969年)10月4日(土)午後8時から放送が始まりました。
「8時だョ!全員集合」はいかりや長助の「8時だよ!」のかけ声に観客とドリフのメンバーが「全員集合」と返し、テンポの良いオープニングマーチが流れる中でドリフが観客席から舞台に上がることから始まります。いかりや長助の「行ってみよう」というかけ声で北海盆唄の替え歌のオープニングソングが流れ、ドリフと出演者が歌って踊ります。たった数分のつかみで視聴者はテレビの前に釘付けになりました。その後、ドリフによるコントの前半が初まり、続いてゲスト出演者の歌手の歌、最後に体操や合唱団などのショートコントの後半パートが繰り広げられました。
放送開始後もしばらくの間は「コント55号の世界は笑う」は高視聴率を維持していましたが、「8時だョ!全員集合」が当時大人気だった歌手をコントに挑戦させたり、TBSの人気ドラマの出演者をゲスト出演させたりすることで「コント55号の世界は笑う」の視聴率を追い抜いたのです。
1981年の春にフジテレビで裏番組の「オレたちひょうきん族」の放送が始まると、次第に視聴率が下がり始め1982年10月2日の放送で初めて「オレたちひょうきん族」に視聴率を抜かれました。やがて視聴率は平均10%程度になりました。土曜日8時台の番組編成が見直されることになり1985年9月28日に16年間の歴史に幕を閉じました。
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