カテゴリー「天気・気象」の72件の記事

2024年9月 5日 (木)

日本観測史上の最大瞬間風速85.3 m/sを記録|第2宮古島台風(1966年9月5日)

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 昭和41年(1966)年8月29日、マリアナ諸島アナタハン島の東南東で熱帯低気圧が発生しました。この熱帯低気圧は31日にグアム島の西方で台風18号となり北西に進みました。

第2宮古島台風(1966年9月4日)
第2宮古島台風(1966年9月4日)

 台風18号は勢力を強めながら9月5日朝には沖縄県の宮古島に到達しました。このとき中心気圧928.9 hPa、最大風速60.8 m/s、最大瞬間風速85.3 m/sを記録しています。宮古島では大雨と強風により多くの家屋が損壊し、農作物も大きな被害を受けました。負傷者は41人で幸い死者は出ませんでした。台風18号は北西に進み7日朝に中国大陸上陸、その後は勢力を弱め同日夜には熱帯低気圧に変わりました。

第2宮古島台風の進路
第2宮古島台風の進路

 気象庁は台風18号を「宮古島台風」と命名することにしましたが、1959年の台風14号が通称「宮古島台風」と呼ばれていたことを鑑みて「第2宮古島台風」と命名しました。

 第2宮古島台風の最大風速60.8 m/sは観測史上7番目で、最大瞬間風速85.3 m/sは観測史上1位です。この記録は未だ破られていません。気象用語での風速には「平均風速」と「瞬間風速」があります。一般に「風速」と言えば10分間の平均風速のことで「瞬間風速」は3秒間平均風速のことです。またそれぞれの最大風速を「最大風速」「最大瞬間風速」といいます。

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2024年9月 4日 (水)

ペルチェ冷却機能つきネッククーラー

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 昨年購入したネックファンの充電用 Type-C コネクタの部分が故障してしまったので新しいものを購入しました。そこそこの強さの送風が可能なのもでペルチェ冷却機能がついたものを探してみましたが、やはりペルチェ冷却機能のついたものは高価です。そこで送風機能のみで良さそうなものがないかと探していたところ、下記のペルチェ冷却機能つきネッククーラーを見つけました。 価格が2,980円(2024/09/04現在)で他のものに比べるとずいぶん安価だったのでさっそく購入しました。

「2024年夏冷感·ネッククーラー&1台2役」首掛け扇風機 冷却プレート付き 瞬間冷却 三段階調節 羽根なし 360サラウンド風 首掛けクーラー 携帯便利 軽量 4400mAhバッテリー 最大12時間連続稼働 Type-C充電式 液晶ディスプレイ 熱中症対策 マスク蒸れ対策 通勤通学/アウトドア/夏キャンプ/自宅/オフィス用/工場勤務/お祭り/子供/プレゼントなど (White)

従来品への飛躍、選ぶ理由はたくさん!

  • 【夏の暑さ対策!】冷却と風力の組み合わせで、まるでミニクーラーの効いた部屋にいるような感覚で、熱中症/化粧崩れ/汗やベタつきといった夏場の悩みを解消してくれるのです!特に年上の方、女子やお子様は暑い時期に、手軽に使えるため、夏に欠かせない熱中症/暑さ対策グッズです。
  • 【人間工学設計】わずか350gの軽さ、人間工学に基づいた曲線デザインにより、各ポイントに均等に重量がかかるように設計されており、どんな場面でも首の負担にならず、肩が凝らない快適なつけ心地で、いつでもどこでも涼しい風を楽しめます。
  • 【利便性】LEDディスプレイ搭載!バッテリー残量をパーセンテージで表示。残り使用時間を予測できるので、充電タイミングを逃さず、モードと段階数も一目瞭然です。
  • 【低騒音】先端DCモーターを採用!音を抑えた作りで周りに配慮した静音設計になり、電車内やオフィスなどの共有スペースでも周囲への迷惑を気にすることなく、お勉強や仕事の邪魔にもなりません。
  • 【様々なシーンで大活躍!】両手が自由になるから活用シーンは無限です!例えば、オフィス、旅行、休憩、勉強、通学、通勤、夏の農作業、建設作業、在宅勤務、家事、スポーツ、飲み会、ショッピング、アウトドア、キャンプ、フェス、花火大会、お祭り、スポーツ観戦、コンサート、散歩、山登り、遠足、プレゼントなど。

ペルチェ冷却機能つきネッククーラー

 さて使って見ての感想です。安価なのでどれぐらい使えるのかなと思いつつ購入しましたが、実際に使ってみると十分なコストパーフォーマンスでした。送風は3段階の強さに切り替えることができます。ペルチェは風を冷やすのではなく後側に設置されている冷却プレートで首の後ろ側を冷やすものです。こちらも3段階の強さに切り替えることができます。

 電源を入れると送風が始まります。このボタンで送風の強さを選ぶことができます。その横に冷却ボタンがあり冷却の強さを選ぶことができます。ペルチェの冷却プレートはすぐに冷たくなります。冷却プレートの効果を発揮させるにはプレートを首の後ろに密着させることです。最初は密着させることが難しそうでしたが慣れると位置決めできるようになりました。

 送風は冷たい風が出てこないので暑い日は涼しくはありませんが送風の効果で汗をかきにくくなりますし、冷却プレートが首の後ろをずいぶん冷やしてくれます。ジョギングでも使ってみましたが快適でした。かなりコストパフォーマンスの良いネッククーラーです。

 ペルチェ冷却機能つきのものはバッテリーの消費量大きいのですが、このネッククーラーのバッテリー容量は4400 mAhで送風と冷却の強さの組み合わせにもよりますが数時間から半日ぐらいは使用できます。バッテリー切れに対応するためには、そこそこの容量のモバイルバッテリーを持っていると良いでしょう。ただし、このネッククーラーは安全のため充電しながら作動させることはできないようになっています。

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2024年7月10日 (水)

伊能忠敬の大日本沿海輿地全図を完成(1821年7月10日)

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 大日本沿海輿地全図は江戸時代後期に伊能忠敬らが作製した日本の国土の実測地図です。伊能図、伊能大図とも呼ばれます。

伊能忠敬像(伝青木勝次郎画 伊能忠敬記念館蔵)
伊能忠敬像(伝青木勝次郎画 伊能忠敬記念館蔵)

 伊能忠敬は江戸時代後期の商人・天文学者・地理学者・測量家です。忠敬が天文学や測量を学び始めたのは隠居後50歳を過ぎてからのことです。幕府天文方の高橋至時のもとで測量・天体観測などについて学びました。この頃、地球の子午線の長さが正確に求められていなかったことから至時と忠敬は子午線を正確に測定したいと考えていました。

 ロシアの南下政策による海防の必要性に目をつけた2人は蝦夷地の測量を兼ねて子午線の測定を行うことを幕府に上申しました。幕府はこれを許可し、忠敬は寛政12年(1800年)に第一次測量として蝦夷地と東北・北関東の測量を開始しました。幕府は異国船が日本沿岸に出現することになっていたことから全国の各藩に忠敬の測量に協力するよう命じました。

 忠敬は蝦夷地の測量が終わると享和元年(1801年)に東日本沿岸を測量を完了しました。それらの測量結果から文化元年(1804年)に東日本の地図(大図69枚・中図3枚・小図1枚)を作成し幕府に提出しました。当初の目的であった子午線1度の弧長は測量結果から28.2里(約110.74キロメートル)と求めました。この値は現在の測定値とほぼ同じです。

 忠敬の作成した地図は従来のものと異なり極めて精密なもので第11代将軍徳川家斉をはじめとする幕府首脳陣は地図の出来栄えに満足しました。そして忠敬を正式に幕府天文方の役人とし測量への支援を強化することに決めました。忠敬は私財を投じて測量と地図作成を行っていましたが文化2年(1805年)の第5次測量からは江戸幕府の事業となりました。

 忠敬の測量は文化13年(1816年)の第10次測量まで17年もの間続けられ最終的に日本全土の地図が作られました。ただし蝦夷地については忠敬は東側しか測量していなかったため他社の測量結果を採用しています。弟子の間宮林蔵の測量結果を使用したという説もあります。

 忠敬は文化15年(1818年)に73歳でこの世を去りましたがこのとき地図は完成していませんでした。忠敬の死は伏せられ高橋至時の長男の高橋景保が地図作成作業を行い文政4年7月10日(1821年8月7日)に「大日本沿海輿地全図」が完成しました。「大日本沿海輿地全図」は全国の主要な地名や緯度を収録した「大日本沿海実測録」とともに幕府に提出されました。

大日本沿海輿地全図
大日本沿海輿地全図

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2023年12月30日 (土)

夕焼けで燃え上がる炎雲

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 山の稜線に太陽が沈み始めるころ空と雲が真っ赤に染まっていきます。

夕焼けで真っ赤に染まる空と雲
夕焼けで真っ赤に染まる空と雲

 この日はちょうど山の上部に山の形をした雲がありました。その部分を拡大してみると太陽は右の方にあります。わずかに沈んで下部が隠れています。光芒で山のような雲の稜線が赤く光り出したのですが、まるで山が燃えて炎が出ているように見えました。

炎雲
炎雲

 このような光景はほとんど見たことがありません。夕焼けは大自然がつくりだす芸術ですね。

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2023年12月 5日 (火)

バミューダトライアングルの日(1945年12月5日)

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 魔の三角海域と知られるバミューダトライアングルはフロリダ半島先端、大西洋のプエルトリコ、バミューダ諸島を結ぶ海域のことです。この海域では古くから船舶や航空機が消失する事件が多発しています。それらの事故は原因が科学的に解明できなかったことから超常現象として取りあげられました。特に1974年のチャールズ・ベルリッツ著「The Bermuda Triangle(謎のバミューダ海域)」は世界20か国語に翻訳されてベストセラーとなり、バミューダトライアングルの名とその超常現象が広く知られるようになりました。

魔の三角海域と知られるバミューダトライアングル
魔の三角海域と知られるバミューダトライアングル

 バミューダトライアングルで特に有名となった事件は1945年12月5日にアメリカ海軍のゼネラルモーターズ社製TBMアヴェンジャー雷撃機5機(乗員14名)が訓練飛行中に消息を絶ったフライト19事件です。捜索を行ったマーティン社PBMマリナー飛行艇(乗員13名)も消息を絶ったことから超常現象が起きたのではないかと考えられました。

 海軍の当初の報告書では悪天候とコンパスの故障が重なり飛行隊を率いていた中尉が飛行コースを誤ったと結論づけていますが、中尉の責任となることを避けるため後に「原因不明」と修正されました。このことが超常現象説を増長させることになりました。なお報告書ではPBMマリナー航空機の墜落は空中爆発としています。

 バミューダ島周辺は磁鉄鉱が多く含まれる玄武岩が多くコンパスに影響を与える可能性が指摘されています。また海上竜巻やハリケーンが発生しやすいことも指摘されています。しかしながら、実際にはこの海域が特別に遭難事故が多いというわけでもありません。バミューダトライアングルで起きた事故が超常現象と関連づけられるようになり遭難が多発する地帯と誤認されるようになりました。

 フライト19事件が発生した12月5日は「バミューダトライアングルの日」とされています。なおフライト19の飛行隊は1977年に公開されたスティーブン・スピルバーグ監督のSF映画「未知との遭遇」の冒頭に登場します。飛行隊はソノラ砂漠で燃料タンクが満タンで無傷の状態で発見され、地球外生命体の仕業であったことが示唆されます。映画のエンディングシーンでは乗組員たちがエイリアンの母船から地球に帰還します。

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2023年7月 7日 (金)

七夕と夏の大三角形(7月7日)

 七夕はアジアの多くので行われる伝統的な年中行事です。旧暦の7月7日に行われ日本では「七夕」または「七夕祭り」と呼ばれます。

 七夕は古代中国の織女(織姫)と牽牛(彦星)の伝説に由来しています。織女は天帝の娘で機織り職人、織女は牛飼いでした。織女の婿を探していた天帝は牽牛が気に入り2人を引き合わせます。めでたく2人は仲の良い夫婦となりました。ところが夫婦は仕事をそっちのけでいつも2人で談笑 ばかりするようになりました。天帝が注意しても2人は改めようとしません。ついに天帝の怒りに触れ、天帝は2人を引き離してしまいました。あまりの悲しさで落胆する織姫のために、天帝は2人が真面目に仕事をするのであれば1年に1度、7月7日に会うことを許しました。

 この伝説は天の川と星座から生まれた物語に見立てられています。織女と牽牛はそれぞれこと座のベガとわし座のアルタイルです。夏の夜、ベガとアルタイルはちょうど天の川で隔てられた位置に見えます。織女と牽牛が出会うためには天の川を渡らなければなりません。毎年、カササギの群れが現れて羽を広げて天の川を渡す橋となりました。このカササギの橋は鵲橋(しゃくばし、かささぎばし)と呼ばれています。カササギは頭の良い鳥で中国ではいろいろな物語に重要な役柄で登場します。

夏の大三角形
夏の大三角形

 なぜカササギが天の川を渡すのか諸説あります。ここでははくちょう座との関係について説明します。ベガとアルタイルにはくちょう座のデネブを加えた3つの星を繋ぐと大きな三角形になります。これを「夏の大三角形」と呼びます。

 はくちょう座は天の川を大きな翼を広げて飛んでいくように見えます。その翼がベガとアルタイルを繋ぐように見えます。この星座が白鳥であるというのは古代ギリシアの星座に由来しますが、もともとはこの星座は単純に鳥の意味だったそうです。この星座がカササギに見立てられ鵲橋となったという説がありますが、はくちょう座と鵲橋は関係ないという説もあります。

 七夕の物語と夏の大三角形、デネブだけが仲間外れなのでしょうか。ベガとアルタイルとはくちょう座を見ていると鵲橋が織女と牽牛を引き合わせたと思えてしまいます。

【関連記事】七夕と夏の大三角形(7月7日)

 カテゴリー:天文 宇宙

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月と金星と木星がランデブー(2023年2月22日)

皆既月食と天王星の天体ショー(2022年11月8日)

 

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2022年11月23日 (水)

宝永大噴火(1707年11月23日)

 日本最大の活火山である富士山が最後に噴火したのは江戸時代中期の宝永4年(1707年)11月23日の宝永大噴火です。

宝永大噴火は平安時代の延暦の大噴火(800~802年)と貞観の大噴火(864~866年)と並んで富士山の三大噴火のひとつです。噴煙が上空20キロメートルまで昇り100キロメートル先の江戸の町に火山灰が積もるほどの大きな噴火でしたが溶岩が流れ出ることはありませんでした。

 噴火は富士山山頂からではなく東南の斜面で発生し3つの火口ができました。ここに富士山の側火山(寄生火山)である標高2693メートルの宝永山ができました。これにより富士山は肩をもつようになりました。

富士山と宝永山
富士山と宝永山

 この噴火で火山灰が大量に流出し関東一円に大きな被害をもたらしました。被災地の復興には莫大な費用がかかり、幕府は全国の大名に増税し資金調達しました。復興に要する時間も長期に渡り、とりわけ農作物の収穫に大きな影響を及ぼしました。数十年経過しても収量が元に戻らない地域もたくさん存在しました。小田原藩の米の収量が元に戻るまで90年もかかったそうです。また静岡県および神奈川県を流れる酒匂川では火山灰が大量に積もり、以降は長年にわたって大雨のたびに水害が発生しました。この水害は100年も続き本格的な復興工事が始まったのは享保11年(1726年)でした。。復旧にあたったのは徳川吉宗の時代に大岡越前守忠相のもとで働いていた地方巧者の田中休愚でした。

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2022年11月17日 (木)

雲仙岳が水蒸気爆発(1990年11月17日)

 雲仙岳は長崎県の島原半島に存在する火山です。雲仙岳は三峰五岳(普賢岳・国見岳・妙見岳と野岳・九千部岳・矢岳・高岩山・絹笠山)が有名ですが、実際には1990年代の火山活動でできた平成新山をはじめとする大小20以上の山々からから成ります。

 雲仙岳の火山活動は有史以前の約50万年前に始まったと考えられ現在の地形の基礎が形成されたと考えられています。有史以降では島原の乱から26年後の1663年と1792年に噴火しています。1792年の噴火では眉山が崩壊により津波が発生し島原や対岸の肥後に被害を与えた島原大変肥後迷惑と呼ばれる大災害が起きています。その後、噴煙が生じたり大地震が発生したりしましたが大きな火山活動は発生していません。1934年には日本初の国立公園に指定され、1957年にはロープウェイが開業するなど多くの人々が観光に訪れました。

 自分が島原を訪れたのは今から約20年ほど前です。2003年末から知人数人で屋久島を訪れ、年が明けてから九州縦断の旅をしました。屋久島からフェリーで鹿児島に向かい、その後はレンタカーで熊本へ。熊本港から島原港へ向かいました。島原を訪れたのは2004年1月6日です。

 島原港を出て57号線を少し自動車で走り最初に見た風景が火砕流で覆われてしまった水無川です。1990年代の雲仙岳の火山活動は知っていましたが実際に訪れてみて噴火や火砕流の被害がいかに甚大なものだったのかを認識しました。

雲仙岳火砕流跡・水無川(国道57号線から)
雲仙岳火砕流跡・水無川(国道57号線から)

 そのまま57号線を進んで雲仙岳を昇り仁田峠の駐車場に向かいました。ここには標高1333メートルの妙見岳まで昇る雲仙ロープウェイがあります。このロープウェイでは普賢岳(標高1,359メートル)には昇れませんので歩いて普賢岳頂上をめざすことにしました。そして到着したのが下記の写真の山頂です。前方に見える普賢岳より高い山は火山噴火でできた標高1,483メートルの平成新山です。

普賢岳頂上(標高1,359メートル)
普賢岳頂上(標高1,359メートル)

 普賢岳山頂から麓の方を見たのがこの景色です。木々の緑の中に削られた跡が目に飛び込んできました。

普賢岳山頂から火砕流跡をのぞむ
普賢岳山頂から火砕流跡をのぞむ

 1991年に発生した火砕流では40人の尊い命が失われました。木々は焼き尽くされ多くの家が埋もれてしまいました。噴火から10年以上経過しても当時の甚大な被害を想像できましたが、自然はありのままの姿で静寂に佇んでいました。噴火前は雲仙岳が最高峰でしたが、平成新山が高さを増していったそうです。平成新山は国の天然記念物(2004年指定)です。

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ポンペイ最期の日(79年8月24日)

「津波防災の日」と「稲むらの火」(1854年11月5日)

桜島の大正大噴火(1914年1月12日)

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2022年11月 7日 (月)

冬の始まり|立冬(2022年11月7日)

 「冬の気立ち始めて、いよいよ冷ゆれば也」(太玄斎の著書「こよみ便覧」の立冬)。

 冬至は二十四節気の最初の立春から数えて22番目の節です。定気法に従う二十四節気では太陽黄経225度のときで多くは11月7日となり、この日は秋が極まり冬の気配が立ち始める日とされています。23節の小雪の前日までが立冬の期間になります。天文学では太陽黄経225度になった瞬間が立冬となります。

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太陽の日周運動(春分・夏至・秋分・冬至)

 立冬は秋分と冬至の中間でこの日から冬が始まり立春の前日まで続きです。 ただしこれは昼夜の時間を基準とした季節の区分です。北海道や東北を除く多くの地域では11月7日は冬の始まりというよりも秋も大詰めと言ったところです。美しい紅葉が見られるシーズンです。

紅葉シーズン
紅葉シーズン

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冬至とは(2020年12月21日)

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2022年11月 5日 (土)

「津波防災の日」と「稲むらの火」(1854年11月5日)

 2011年3月11日に発生した東日本大震災によって制定された「津波対策の推進に関する法律」において毎年11月5日が「津波防災の日」と定められました。2015年12月には国連総会決議で11月5日は「世界津波の日」となりました。

 東日本大震災で津波が発生したのは2011年3月11日でしたが被害を受けた人をはじめ多くの人々の心情に配慮し3月11日を「津波防災の日」とすることは避けられ11月5日となりました。それでは11月5日に定められたのはどうしてでしょうか。

 実は嘉永7年(1854年)11月5日にマグネチュード8以上、最大震度6強の安政南海地震が発生しました。このとき最大で16メートルを超える大きな津波が発生し南海道・東海道の広範囲で大きな被害を受けました。

 地震が発生したのは午後4時30分頃で間もなく日の入りの時間が迫っていました。紀伊国広村の醤油醸造業濱口儀兵衛家(現:ヤマサ醤油)の七代目濱口儀兵衛を名乗った濱口梧陵はいち早く津波が来襲することを察知し、自身の田の稲藁に火を着けて村人に津波の襲来を知らせました。これによって村人は安全な高台に避難することができ多くの村人の命を救ったのです。

濱口梧陵と稲藁
濱口梧陵と稲藁

 大地震の後に大きな津波がやって来るのは当時も多くの人に知られていましたが、濱口梧陵の行動によって津波の被害を避けるにはいかに迅速に情報を伝えるかが重要であるかが証明されたのです。震災後、濱口梧陵は資材を投じて村の復興と防災対策に取り組みました。この史実によって「津波防災の日」を11月5日に定められたのです。

 濱口梧陵の活躍は小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の1896年の著作「A Living God」で紹介されました。1852年に濱口梧陵が創設した耐久中学校(現:和歌山県立耐久高等学校)卒業生の中井常蔵がこの本を読んで感銘を受け、1934年にこの本を翻訳し「燃ゆる稲むら」として国語教科書の教材公募に応募しました。この作品は国語の教材として採用され「稲むらの火」の物語となり後世に語り継がれることになりました。

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