カテゴリー「天気・気象」の62件の記事

2022年3月23日 (水)

なごり雪と桜のつぼみ

 春分も過ぎ3月も後半になり暖かくなってきましたが昨日(21日)は思いがけなく雪が降ってきました。春雪は「なごり雪」とも言いますが、なんだか本格的に降って積もり始めました。この辺りはそろそろ桜の開花の時期ですが、この雪で桜のつぼみも縮こまってしまった感じもします。

なごり雪と桜のつぼみ(2021年3月21日)
なごり雪と桜のつぼみ(2021年3月21日)

 桜の開花は気温の積算と寒暖差が関係しています。これからますます暖かくなってくるので桜の開花は間もなくです。今週末はカメラを片手に近くの公園に花見にでも出かけてみよう。

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2022年2月23日 (水)

富士山の日(2月23日)

 2月23日は語呂合わせ「ふ(2)じ(2)さん(3)」から富士山の日とされています。「富士山の日」は山梨県富士河口湖町(当時は山梨県河口湖町)と静岡県がそれぞれ2001年12月と2009年12月に制定しています。山梨県河口湖町は「富士山の恩恵に対する感謝を表すとともに、富士山の環境保全ならびに観光資源としての重要性を認識する機会」、静岡県は「県民が富士山について学び、考え、想いを寄せ、富士山憲章の理念に基づき、後世に引き継ぐことを期する日(静岡県富士山の日条例)」としています。

富士山
富士山

 さて「富士山の日」を最初に制定したのは自治体ではなくパソコン通信NiftyServe(現@nifty)のフォーラム「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」です。1996年(平成4年)1月に日本記念日協会に登録されました。日本記念日協会のサイトで「富士山の日」を検索すると下記の説明が表示されます。

『オンラインを通じて、全国一斉に富士山の見え具合をネット上で報告し合うなど、富士山をテーマとした活動を活発に行っているパソコン通信上の「山の展望と地図のフォーラム」が制定。日付は2と23で「富士山(ふじさん)」と読む語呂合わせと、この時期は富士山がよく望めることから』(引用:一般社団法人・日本記念日協会

 「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」は@niftyのフォーラム終了後もこちら(FYAMAP)で現在も活動が続いています。自分もNiftyServeをよく利用していました。あるフォーラムのSUBSYSを努めていた関係でこちらのフォーラムもNifTermやNif-Xで自動巡回していました。

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2022年1月28日 (金)

白瀬南極探検隊が大和雪原に到着(1912年1月28日)

 日本初の南極観測隊は白瀬矗陸軍中尉が率いる白瀬南極探検隊です。白瀬隊は1910年11月29日にわずか204トンの開南丸で芝浦ふ頭を出港しました。1912年2月8日、開南丸はニュージーランドのウェリントンに到着し物資を調達し南極を目指して出港しました。しかし南極の夏が終わりに近づき船の安全な航行に支障をきたすため5月初めにオーストラリアのシドニーに入港しました。書記長の多田恵一と船長の野村直吉が資金調達のために一時帰国しました。

 シドニーに至るまで開南丸ではいくつかの事件が起きていました。まず航海中に犬ぞりを引く樺太犬たちが原因不明で死にました。また、白瀬隊長と多田恵一書記長、野村直吉船長と隊員の間で確執が生じ、隊員による白瀬隊長の毒殺未遂事件まで起きる事態となっていたのです。

 やがて多田らが樺太犬を連れてシドニーに戻ってくると白瀬隊は内紛を和解し、開南丸は1911年11月19日に南極に向けて出港しました。1912年1月16日に南極大陸に上陸し、その地点を「開南湾」と名付けました。しかしながら、開南湾は拠点として環境が悪くグレート・アイス・バリアのクジラ湾から再上陸しました。

 同年1月20日、白瀬隊は南極点に向けて出発しましたが悪天候に遭い、さらに装備や食料の不足からそれ以上の前進は断念しました。1912年1月28日、もっとも南極点まで近づいた南緯80度05分西経156度37分付近を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し「南極探検同情者芳名簿」を埋めて引き返しました。

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海南丸と大和雪原(中央が白瀬隊長)

 開南丸は同年2月4日に南極を出向し6月20日に芝浦ふ頭に無事生還しました。白瀬隊は南極点到達は果たせませんでしたが後の南極探検の礎となったのです。しかし、日本が再び南極探検隊を派遣することができたのは第二次世界大戦後の1956年のことでした。

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2022年1月 6日 (木)

それでも大陸は動いている(1912年1月6日)

 現代においては大陸が地球の表面を移動するという大陸移動説はプレートテクトニクス理論で実証されていますが、今から100年ほど前は馬鹿げた理論として受け入れられませんでした。

 大航海時代末期に正確な世界地図が作られるようになると、一部の学者は大陸の形状から大昔は大陸と大陸がつながっていたのではないかと考えました。また世界中に散らばる化石の分布から昔はいくつかの大陸が大きなひとつの大陸だったと唱える学者もいました。しかし、これらの説では地球が収縮することによって陸地と海洋の様子が変わったり、地球が膨張することによって大陸間の距離が大きくなったと考えられました。それらの説はそれぞれ地球収縮説、地球膨張説と呼ばれますが、どちら説も大陸同士の相対的な位置関係が変化するもので大陸自身が移動するものではありませんでした。

 ドイツの気象学者アルフレート・ロータル・ウェーゲナーは大学で天文学を学んでいましたが極地探検に興味をもち気象学を学ぶようになりました。大学卒業後は兄の働く航空気象台に就職し、気球を用いた気象観測や探偵観測を行いました。1906年にデンマークの探検隊に参加し、グリーンランドを訪れ地図の作成や極地の気象観測を行いました。

 1910年、ウェーゲナーは世界地図を見て大西洋の両岸、アメリカ大陸の東海岸とアフラ大陸の西海岸の形がよく合致することに気がつきました。当初ウェーゲナーはこれを偶然の一致ぐらいにしか考えていませんでしたが、1911年になって古生物の化石の分布から南アメリカ大陸とアフリア大陸がつながっていたことを示す古生物学的証拠の存在を知り、大陸が移動したと考えるようになりました。そして1912年1月6日にドイツのフランクフルトで行われた地質学会で太古にアメリカ大陸とアフリカ大陸が移動したとする「大陸移動説」を唱えました。

 ウェーゲナーは世界で初めて「大陸移動」という言葉を使って自説を唱えましたが当時は地球収縮説が主流でした。大陸と海底は高度が異なるものの同じものであるから、海底の上を大陸自身が移動するはずがないというのが常識だったのです。ですから、ウェーゲナーの大陸移動説は非常識な異説とされ多くの学者に相手にされませんでした。

 1914年に第一次世界大戦が始まるとウェーゲナーは陸軍の気象調査を手がける部隊で働きました。このとき大陸移動説の研究を進め自身の考えを著書にまとめました。1915年に「大陸と海洋の起源」を発表し、測地学、地質学、地球物理学、古生物学、古気候学のデータを示しながら大西洋は古代には存在しておらずひとつの大きな大陸が分離移動して大西洋ができたとする「大陸移動説」を唱えました。しかしながら、ウェーゲナーの説は認められませんでした。ウェーゲナーは諦めずに調査を進め「大陸と太陽の起源」の第二版を1919年、第三版を1922年に出版しました。1929年に出版した第四版では現存する全ての大陸はもともと1つの大陸であったが、約2億年前に分裂して移動し、現在のようになったと唱えました。

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ウェーゲナーと大陸移動の図(「大陸と太陽の起源」第4版)

 ウェーゲナーの「大陸移動説」ではマントル対流に関する言及がありましたが、大陸がどうして動くのかについてまでは説明できていませんでした。また、化石の分布についてはかつて地続きになっていた部分が海中に沈んだと考えれば説明がつくと多数の地質学者から反論されました。ウェーゲナーの「大陸移動説」が認められることはなかったのです。

 1930年、ウェーゲナーは大陸移動説の有力な手がかりを見つけるために5度目のグリーンランド探検に向かいました。グリーンランドが西に移動していることを証明することができると考えたのです。1930年11月1日、ウェーゲナーは探査から基地に戻る途中で遭難し帰らぬ人となりました。この日はウェーゲナーの50歳の誕生日でした。

  ウェーゲナーの死後、マントル対流の研究が進み地球内部でのマントルの熱対流が大陸移動の原動力と考えられるようになりました。また地磁気の調査によって大陸が移動したことを裏付ける証拠が見つかり、ウェーゲナーの大陸移動説が高く評価されるようになりました。1960年代後半に地球の表面を覆ういくついかの固い岩盤が動くことによって地震や大陸移動が引き起こされるというプレートテクトニクス理論が提唱されたのです。

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2021年12月20日 (月)

霧笛記念日(1879年12月20日)

 津軽海峡の青森県側の下北郡東通村にある尻屋崎(しりやさき)灯台は1876年(明治9年)10月20日に東北地方で初めて運用が開始されたレンガ造りの灯台です。尻屋崎灯台の高さは30メートル、レンガ造りの灯台としては日本一高さを誇る本州最北端の灯台です。周辺には厳しい寒さにも耐えられる寒立馬(かんだちめ)が放牧されています。

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 塩尻崎の近海は遭難する船が多く難破岬とも呼ばれました。そこで塩尻崎灯台が設置されたのですが濃霧がかかることが多く灯火だけでは船舶の安全な航行を確保するのは困難でした。そこで1877年(明治10年)11月20日に日本初の霧鐘が設置されました。霧鐘とは霧による視界不良のときに船舶に警告するために打ち鳴らす鐘のことです。

 しかしながら、この霧鐘を鳴らすと灯台が激しく振動することから、1879年(明治12年)12月20日に日本初の霧笛が設置されました。この日を記念して12月20日は霧笛記念日とされています。霧笛は手動や動力で鳴らすサイレンのことです。塩尻崎灯台には蒸気式のサイレンが設置されました。霧笛は灯台によって音の出し方が異なるため、音を聞いただけでどこの灯台のものか判断することができました。現在はレーダーやGPSが使われるようになったため灯台では霧鐘や霧笛は使われていません。

 尻屋崎灯台は本州最北端、東北地方で初めての灯台、レンガ造りとしては最大の灯台、日本初の霧鐘・霧笛・ズームレンズ・電気式アーク灯などの記録を持っていますが一風変わった記録も持っています。

 ひとつめは1883年(明治16年)10月24日の夜に隕石が落下し灯台のガラスを突き破ったことです。日本にはたくさんの灯台がありますが隕石が落下した灯台は尻屋埼灯台だけです。

 ふたつめは「怪し火」と呼ばれた現象です。尻屋崎灯台には第二次世界大戦で受けて銃撃の跡が残っています。終戦間近の1945年(昭和20年)、尻屋崎灯台は米軍機の攻撃を受け破壊されました。このとき灯台に勤務していた村尾常人技手が機銃掃射を受けて殉職しました。

 1946年(昭和21年)戦災で破壊され消灯しているはずの尻屋崎灯台が光を放っているという目撃証言が相次ぎました。この灯火のおかげで遭難を免れた船舶もあったようです。米軍の攻撃で殉職した村尾常人技手が霊となって船舶を守り続けているという噂も出ました。このことについて当時の灯台長が「灯台の怪火について」という報告書を提出しています。8月になって仮の灯りを点灯し始めるとこの怪現象は起きなくなったそうです。

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2021年8月30日 (月)

富士山測候所記念日(1895年8月30日)

 富士山頂剣ヶ峯に自動気象観測装置で無人で気象観測をしている富士山特別地域気象観測所があります。ここにはかつて富士山測候所が設置されていました。富士山頂気象観測所が設置されたのは1936年、当時としては世界で最も高い場所にある気象観測所でした。2004年の自動気象観測装置の導入までは有人の観測所でした。

 今から約130年前、大学予備門(東京大学の予備機関)に野中到(のなかいたる)という学生がいました。到の実家は筑前国(現・福岡県)でしたが、東京控訴院で判事をしていた父から医者になるように求められ大学予備門に入学しました。ところが、在学中に気象学に興味をもつようになりました。中央気象台の技師と知り合い、日本の気象学が世界に比べてたいへんに遅れていることを知り、富士山頂に気象観測所ができれば天気予報が当たるようになると考えたのです。

 富士山頂に気象観測所ができれば日本の気象学は発展することは間違いありませんでした。しかし、高度3776メートルの富士山頂の環境を考えると、そこに気象観測所を建設することはまるで決死隊の挑戦と同じで困難を極めるものだったのです。その効果を認めながらもリスクが大きいと反対する技師に対して、到は自らが民間人の立場で決死隊となって挑戦することを決意します。そして、1889年に大学予備門を中退し、富士山頂の気象観測所の設置の準備を進めました。準備を進めると言っても学生の到にとって多額の資金を集める必要があり、決意だけで簡単に実現できるものではありませんでした。

 到が医者になることを希望していた父は到の計画に反対しますが、到の挑戦が成功すると日本のために大いに役に立つと理解を示し、福岡の実家を売却して到に資金を提供しました。1895年、到は御殿場で富士山頂気象観測所の建設準備を進め、同年2月に登山し富士山頂で越冬が可能であることを確信します。御殿場には到の妻の千代子も同行し、食料の調達の準備などを行い到を支えました。このとき千代子は到と一緒に登山して気象観測を手伝いたい考えていましたが、その思いを到に伝えることはありませんでした。

 富士山長気象台の建設準備は順調に進み、ついに1895年8月30日に約6坪の気象観測用の小屋が完成しました。小屋は風が強くて雪が吹き飛ばされて積もらない剣ヶ峰に建てられました。小屋が完成すると千代子は到に東京へ戻ると告げて御殿場を後にしました。実は千代子は到と一緒に小屋で越冬する準備をするために実家の福岡に娘を預けにいったのです。千代子の父母は娘の挑戦に賛成し、千代子は登山と越冬のための厳しい訓練を始め身体を鍛えたのです。

 到は富士山閉山後の10月に小屋に戻り、富士山頂での気象観測を始めていました。千代子は10月半ばに仲間の協力を得て登山し到のいる小屋を訪れました。到は予想外にやってきた千代子に対して翌日下山するように言いますが、千代子は到のやつれた姿を見て小屋に留まると言い張り、ついに到もこれを認めました。仲間たちが下山し、到と千代子の夫婦2人での富士山頂で越冬の気象観測が始まりました。

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野中到・千代子夫婦

 2人は交代で気象観測を行いましたが、剣ヶ峰のあまりの寒さで寝不足が続き、高山病と栄養失調が重なり、ついに体調を崩してしまいました。たいへんな困難の中、命をかけて気象観測を続けるも、いよいよ死を覚悟した矢先の12月のある日、小屋の戸を叩く音が聞こえました。麓から2人が慰問にやってきたのです。2人は到と千代子を見るやいなや極寒での気象観測が限界に達していることを理解し下山を強く進めますが、到は気象観測を中断できないと言い張り、下山したら夫婦は元気だったと報告するように頼み2人を追い返してしまいました。

 下山した2人は到と千代子の状態が危機的であることを報告しました。すぐに中央気象台の技師や地元の警察や強力による救援隊が組織され小小屋へと向かいました。このとき到は救出されることを拒否して気象観測の継続を主張しましたが、救援隊は到と千代子を小屋から連れ出し下山しました。越冬を開始して約80日後の12月22日のことでした。

 到と千代子の夫婦による富士山頂での越冬気象観測は頓挫してしまいましたが、命懸けの挑戦は大反響となり翌1896年には演劇が上演され、さらに実録小説が刊行されました。

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2021年6月15日 (火)

フランクリンが凧揚げの実験を行った日(1752年6月15日)

 雷の正体が電気であることを証明したのはアメリカのベンジャミン・フランクリンとされています。フランクリンは雷が電気であることを証明するために、雷雨になりそうな雲をめがけて凧を飛ばす実験を1750年に発案しました。

 1752年5月10日、フランスの物理学者トマ・フランソワ・ダリバールはフランクリンの論文を参考に凧の代わりに高さ12メートルの金属の棒を使って実験を行いました。ワインボトルで棒を接地し、高度の低いところにできた雲から電気を取り出すことに成功したとされています。

 つまり、雷の正体が電気であることに最初に気がついたのはベンジャミン・フランクリンですが、実際に実験で確認したのはトマ・フランソワ・ダリバールだったということになります。

 フランクリンがフィラデルフィアで有名な凧揚げの実験を行ったのは1752年6月15日とされています。フランクリンは同年10月19日にこの実験を「ペンシルバニア・ガゼット」紙に報告していますが、実際に実験を自分で行ったとは記していませんでした。

10ドル紙幣に描かれたフランクリンの実験の図
10ドル紙幣に描かれたフランクリンの実験の図

 プランクリンの凧揚げの実験を詳細に伝えたのはイギリスのジョゼフ・プリーストリーです。1767年にプリーストリーはフランクリンが金属の棒は危険なため凧の麻ひもを利用して電気を取り出す実験を行うことにしたなど、実験の背景まで説明してます。プリーストリーはフランクリンから詳細な説明を受けていたと考えられています。

 フランクリンの凧揚げの実験についてはココログ 光と色と「雷の正体見たり静電気」に解説がありますので、興味のある方はご一読いただければ幸いです。

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2021年6月 8日 (火)

成層圏の発見(1902年6月8日)

 1892年から1896年までフランスの国立気象管理センターを所長を務めていたレオン・ティスラン・ド・ボールは退職後に個人の気象観測所を設立しました。その観測所で温度計をつけた気球を飛ばして上空の温度を計測しました。

レオン・ティスラン・ド・ボール
レオン・ティスラン・ド・ボール

 ド・ボールは日射の影響を避けるため、この観測を夜間に行いました。すると、上空の気温は地上から約11 kmまでは、気球が上昇するに従って低下しました。ところが11 kmを超えると、温度が一定になることがわかりました。

  ド・ボールはこの観測を200回以上も行い、この観測結果が間違いではないことを確認しました。そして、1902年6月8日に大気の層は性質の異なる2つの層から成るということを発表し、この2つの層をそれぞれ対流圏と成層圏と名付けました。

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2021年3月12日 (金)

中谷宇吉郎博士が雪の結晶の作製に成功(1936年3月12日)

 中谷宇吉郎博士は1922年に東京帝国大学理学部物理学科に入学し、寺田寅彦博士のもとでに物理学を学びました。卒業後は理化学研究所研究員を兼任していた寺田博士の助手となりました。1928年にキングス・カレッジ・ロンドンに留学、1930年に北海道帝国大学理学部助教授、1931年に博士号を取得したのち1932年に同教授となりました。

 雪の結晶に興味をもった中谷博士は1932年頃から雪の結晶の研究を始めました。まず自然の雪の結晶の写真を撮影し、雪の結晶の分類を行い気象条件との関係を調べました。その調査結果から中谷博士は実験室で人工的な雪を作ることが必要であると考えました。

 人工雪の結晶を作ることは簡単ではありませんでした。ガラス管の中に水蒸気を発生して冷却するなどの実験を試みましたが、氷の結晶ができるだけでした。雪の結晶を作るのに重要なポイントは雪の結晶が生成するきっかけとなる核の選択でした。

 中谷博士は最初は核の材料として木綿や羊毛を選びましたが、雪の結晶はうまく生成しませんでした。あるときウサギの毛皮に雪の結晶が生成していることを発見し、これを詳細に調べました。そして、1936年3月12日に低温実験室でウサギの毛の先に世界で初めて人工雪の結晶を作ることに成功しました。中谷博士は気象条件と雪の結晶の生成過程の関係を明らかにし、様々な条件での雪の結晶の生成を説明する「ナカヤダイアグラム」を発表しました。

中谷宇吉郎博士と雪の結晶
中谷宇吉郎博士と雪の結晶

 中谷博士の研究成果によって、1943年に北大に低温科学研究所が開所しました。この研究所では軍の要請による軍事研究も行われ「航空機への着氷防除」の研究などが行われました。中谷博士は実用化を急ぐ軍に対して、一貫して基礎研究を重要視し続けましたが、終戦後に軍事研究に関わったことを批判され、また人工結晶の記録映画の撮影用に米国GE社から提供されたフィルムの予算に米国空軍が支出していたことが問題となり、低温科学研究所を退所しました。

 中谷博士は寺田寅彦博士と同様に科学を一般の人々に分りやすく伝えるため執筆活動を行いました。気象条件と雪の結晶の関係について「雪は天から送られた手紙である」という言葉で表現しています。

 中谷博士の次の著書「科学の方法(岩波書店)」はおすすめです。ココログ 夜明け前「科学の方法 (岩波新書 青版 (313)) (新書)」で紹介してありますので興味がありまいたらご一読ください。

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2021年3月 2日 (火)

通勤途中で虹を発見

 通勤途中にバスの中から空を見たら大きな虹がかかっていました。さすがにバスの中から写真は撮れないので、バス停を降りたところで撮影しました。デジタルカメラを持ち合わせていなかったのでスマホで撮影しました。虹の左側をとらえた写真と右側をとらえた写真は別の場所で撮影しています。

虹の写真
虹の写真

 さて、虹の帯が綺麗に見えていたので写真を拡大してみました。

虹の色の帯
虹の色の帯

 虹の色は7色といいますが、これはニュートンが恣意的に決めたもので、実際には5色ぐらいしか確認できないことが多いのですが、この虹は紫・藍・青・緑・黄・橙・赤の7色が確認できました。

 虹に関する詳しい解説は光と色と THE NEXT「虹の神話ー虹ができる仕組み①」から始まる記事をご覧ください。虹ができる仕組みやニュートンが虹を7色と決めた経緯や世界各国で虹の色は何色(なんしょく)とされているかなどを解説しています。

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