カテゴリー「天文」の93件の記事

2022年4月30日 (土)

史上最大の明るさ 超新星SN 1006が現れる(1006年4月30日)

 西暦1006年4月30日から5月1日にかけて南の地平線近くの夜空のおおかみ座に金星の16倍、月の1/4から1/2ほどの明るさの天体が現れたという記録が各地に残っています。この天体は出現から約3ヶ月の間明るく輝いた後いったん暗くなりましたが、再び明るさを取り戻し18ヶ月間の間輝き続けました。この不気味に明るい天体の出現は当時の人々には畏れを抱くものだったようで多くの占星術師が悪事の前触れと考えました。中国では国家繁栄をもたらす吉兆星と捉えられました。

 この天体の正体は地球から7200光年離れたところに存在した超新星SN 1006です。SN 1006は太陽と月を除く天体の中で史上最大の明るさを記録した天体です。視等級は-7.5等だったと推定されており地面に影を作るほど明るく昼間でも見ることができたと記録されています。スイスでの観測記録には「この星は時に収縮し、時に拡散し、そのうえ時には消えてしまうこともあった」と記述されています。これはIa型の超新星の特徴とよく合致しています。

 この超新星は爆発してしまったため観測することはできなくなりました。しかしながら1940年に電波望遠鏡が開発され電波天文学が発展すると、1965年にオーストラリアのパークス天文台がおおかみ座β星付近に淡い球状の星雲を発見しました。この星雲からのX線、可視光線、ガンマ線も観測されました。この星雲がIa型超新星SN 1006の残骸だったのです。Ia型超新星は核融合を終えて寿命が尽きた恒星の残骸である白色矮星の爆発によって生じます。この残骸の中心にはパルサー(中性子星)やブラックホールは見つかっていません。

Sn1006
SN 1006の超新星残骸

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2022年3月10日 (木)

惑星直列(1982年3月10日)

 惑星直列は太陽系内の惑星が一直線に並ぶ現象のことです。実際には全ての惑星が一直線に並ぶことはありませんし、惑星直列という天文用語もありません。一般に惑星直列とは全ての惑星が太陽を中心とした中心角90度位内の扇形に入ったときのことを言います。この条件の惑星直列は過去に何度か起きていることが計算により確認されています。1128年には中心角が39度で最も直列に近い惑星直列が起きています。

惑星直列
惑星直列

 さて間近の惑星直列は1982年3月10日に起きました。この惑星直列は数年以上前からテレビ、雑誌、書籍などで取りあげられ、水星から冥王星(※1)までの全ての惑星が一直線に並ぶことにより惑星同士の引力が影響し合い天変地異が起こるなどの予言が流布しました。当時、本当に天変地異が発生するのでないかと心配になった人も少なくありませんでした。昭和時代に小中高校生だった人は学年誌などで読んだことを覚えているのではないかと思います。

 しかし全惑星が完全に一直線に並んでも引力の影響はほとんどないことがわかっています。計算では地球と月の引力よりも遙かに小さく地球で天変地異が生じることはありあません。実際、1982年に惑星直列が原因と考えられる災害は起こりませんでした(※2)

 ところで1982年の惑星直列は中心角が96度のため惑星直列ではなかったという指摘もあります。ちなみに1982年の直前の惑星直列は1817年で中心角は83.9度でした。次回は2161年に中心角68.7度の惑星直列が起きることが予測されています。

(※1)当時、冥王星は惑星だった

(※2)3月29日にメキシコのエルチチョン山が132年振りに噴火している。この大噴火で地球の気温が0.3~0.5度低下した。

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2022年2月22日 (火)

ガリレオが「天文対話」を刊行(1632年2月22日)

 ガリレオが地動説を唱え続けカトリック教会から有罪とされた裁判の話は有名です。しかしながら当時は天動説が主流だったもののカトリック教会自身は天動説を積極的に支持していたわけではなくガリレオが疎んじていた権力者が働きかけて有罪とされたという説があります。ガリレオが地動説を唱え有罪となるきっかけを作ったのが著書「天文対話」の発表でした。

 ガリレオは1610年に自作の天体望遠鏡で木星の衛星「ガニメデ」「エウロパ」「イオ」「カリスト」を発見しました。当時、宇宙の構造は宇宙の中心に存在する地球の周りを太陽や月などの天体が回っているという天動説(地球中心説)が信じられていました。

 ガリレオは木星の周りを回る衛星を発見し宇宙の構造は天動説では説明できないことに気が付いたのです。また金星の観察では金星が満ち欠けすることや季節によって見掛けの大きさが変わることを発見し金星が太陽の周りを回っていることに気が付きました。これらの事実からガリレオは天動説に懐疑的となりコペルニクスの地動説を支持するようになりました。

 ガリレオの裁判は1616年と1633年に2回行われています。第1回目の裁判でガリレオは有罪を受ていますが判決文が第2回の裁判のために偽造された可能性が高くどのような判決が下されたのかはよくわかっていません。裁判を担当した判事は判決の前に友人に対して地動説をひとつの絶対的な真理ではなく仮説として発表し慎重に行動するのであれば許容範囲という旨の手紙を送っています。判事はガリレオの地動説に頭から否定的ではなかったと考えられます。もうひとつの事実としてはローマ教皇庁は裁判後にコペルニクスの地動説を禁じコペルニクスの「天球の回転について 」を閲覧禁止としています。しかし、コペルニクスの著書は単なる算術的な仮説として閲覧が解禁されています。地動説は間違いではあるが天体の動きを予測する占星術にとって便利な「手法」だったのでしょう。

 1630年になるとガリレオは天文学を解説した「天文対話」という本の執筆を始めました。「天文対話」はアリストテレス派のシムプリチオ、コペルニクス派のサルヴィアチ、そして中立的な立場のザグレドの3人を登場させて天文学の議論をさせる内容でした。ガリレオは地動説と天動説をあくまでも仮説として3人に議論させています。これによって地動説を絶対的な説とすることを避けたのです。そして第1回目の判事の判決から「天文対話」を出版しても問題がないと考えローマ教皇庁の許可を得たうえで1632年2月22日に「天文対話」をフィレンツェで出版しました。

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ガリレオ「天文対話」(1632年)

 ところがガリレオは1633年に第2回目の裁判にかけられます。第1回目の裁判で地動説を二度と唱えないとした誓約を反故にし「天文対話」を出版したことが理由とされました。ガリレオは第1回目の裁判の判事が記した地動説を唱えないという誓約はしていないという証明書を提出して反論しましたが、このとき第1回目の判決文が提示されました。この判決文にはガリレオのサインもなく第1回目の裁判の判事の手紙やガリレオの主張と大きく食い違っていることから第2回目の裁判のために偽造されたものと考えれています。「天文対話」のローマ教皇庁へ許可を取った経緯についても話がねじ曲げられてしまいました。第1回目の判事は既に死去してり、ガリレオは無罪を証明することができず有罪判決を受けました。

 ガリレオは無期刑になりましたが直ぐに減刑となり軟禁処分になりました。軟禁先は監視付きの家ででした。命が脅かされることはありませんでしたが自宅への帰宅など外出は許可されませんでした。「天文対話」は禁書となりました。ガリレオは1642年1月8日に軟禁先で亡くなりました。その後、ヨハネス・ケプラーやアイザック・ニュートンにより天動説は科学的に否定されましたが、ガリレオ裁判が覆ることはありませんでした。「天文対話」が禁書を解かれたのは1822年のことでした。それから170年後の1992年、ガリレオの無罪が認められローマ教皇がガリレオに謝罪しました。

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2022年2月15日 (火)

【おもしろ映像】地球の出と地球の入り

 2007年に宇宙航空研究開発機構 (JAXA) の月周回衛星「かぐや」が撮影した月の地平線から出てくる地球と地平線に沈む地球、つまり月から望む「地球の出」と「地球の入り」です。

 地球の出は、ちょっと地球が小さくて迫力がないのですが、地球の入りはそこそこ大きく映っていてとても綺麗です。

Kaguya HDTV Images of Earth Rise Over the Moon

 ところで、月には空気がありませんから、地球のように宇宙からやってくる光が大気で屈折するということはありません。つまり大気差がないということになります。

 夜空に輝く星の光は地球の大気で屈折しています。この屈折の度合いは天頂ではゼロですが、星の高さが低くなればなるほど大きくなります。そのため高度の低い星は実際に星がある位置よりも浮き上がって見えています。この現象を大気差といいます。水平線(地平線)近くの星では角度にして約0.6度もずれています。見かけの月の直径は角度にすると約0.5度ですから、私たちが月が沈んでいくのを見ているとき、月の実体はすでに水平線(地平線)に沈んでいることになるのです。

大気差の仕組み
大気差の仕組み

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2022年2月13日 (日)

南極ゴジラ発見?(昭和33年 1958年2月13日)

 ゴジラはご存じの通り1954年に公開された映画「ゴジラ」に登場した怪獣です。映画が公開されるとゴジラは大人気となり怪獣の代名詞のような存在となりました。さて、そのゴジラが1958年に南極で発見されたという話があります。

 1958年2月13日、第二次南極観測隊を昭和基地に送り届け第一次南極観測隊を収容した南極観測船「宗谷」は米国の砕氷艦「バートン・アイランド号」に誘導されて南極大陸から外洋へ向かって航行していました。

南極の氷山を押しのける米国砕氷艦
南極の氷山を押しのける米国砕氷艦

 この季節の南極は夜になっても太陽が沈まず明るい状態で視界も良好でした。同日19:00頃、「宗谷」の前方300メートルあたりに何か黒いものが見えたのです。発見者は「宗谷」のブリッジにいた松本満次船長の他に航海士、機関長、操舵手らがいました。

 この黒いものは松本船長には大きな動物のように見えたそうです。しかし、他者「はバートン・アイランド号」が投棄したドラム缶ではないかと考えました。しかし、風が強い状況下で空のドラム缶が立ち上がって浮くことはなく大きなものに見えるはずもありません。

 松本船長が皆に黒いものが何かもう一度見極めるように言うと、その黒いものは「宗谷」の方を振り向きました。すると大きな目をした顔のようなものが見えたのです。航海士が双眼鏡でのぞくと顔のようなものには目と耳があることがわかりました。機関長はカメラを取りに船室に戻りましたが黒いものは30秒ぐらいで洋上から姿を消し写真におさめることはできなかったのです。

 松本船長の記憶では黒いものは肩から上を洋上に出していたそうです。その特徴は頭の大きさが7、80センチメートル、前から見た姿は牛にも似て、しかし頭部は丸くて猿のようだったそうです。また目は大きく耳はとがっていて10センチメートルぐらいの黒褐色の毛で全身が覆われているように見えたそうです。

 このとき船首部にいた船員も黒いものを目撃していました。この船員が水中にもぐるときに背中にノコギリ型のヒレが見えたと証言しています。ブリッジの船長たちより間近で黒いものを見たこの船員は毛の生え方や頭の形からクジラヤアザラシではなく陸上の動物のようだったと説明しています。

 目撃者全員で観測隊に参加していた生物学博士に相談しましたが黒いものの正体はわからず南極に生息する動物に比定することはできませんでした。南半球は何億年も前に絶滅したと考えられいるシーラカンスが発見されており、とりわけ南極の海は未知の世界です。松本船長はこの発見した黒いものを未発見の怪物と考え「南極のゴジラ」と名付けました。

 松本船長はその後も「宗谷」で南極を訪れていますが「南極のゴジラ」に再び出会うことはありませでした。南極ゴジラのエピソードは松本船長が自著「南極輸送記」の中で記述していますがそれ以外の資料はありません。

 松本船長をはじめとする目撃者たちはいったい何を見たのでしょうか。既存の南極の動物を見間違ったのでしょうか。蜃気楼を見たのでしょうか。あるいは厳しい航海で集団幻覚が起きたのでしょうか。南極ゴジラの正体は今となってはすっかり謎です。

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2022年1月28日 (金)

白瀬南極探検隊が大和雪原に到着(1912年1月28日)

 日本初の南極観測隊は白瀬矗陸軍中尉が率いる白瀬南極探検隊です。白瀬隊は1910年11月29日にわずか204トンの開南丸で芝浦ふ頭を出港しました。1912年2月8日、開南丸はニュージーランドのウェリントンに到着し物資を調達し南極を目指して出港しました。しかし南極の夏が終わりに近づき船の安全な航行に支障をきたすため5月初めにオーストラリアのシドニーに入港しました。書記長の多田恵一と船長の野村直吉が資金調達のために一時帰国しました。

 シドニーに至るまで開南丸ではいくつかの事件が起きていました。まず航海中に犬ぞりを引く樺太犬たちが原因不明で死にました。また、白瀬隊長と多田恵一書記長、野村直吉船長と隊員の間で確執が生じ、隊員による白瀬隊長の毒殺未遂事件まで起きる事態となっていたのです。

 やがて多田らが樺太犬を連れてシドニーに戻ってくると白瀬隊は内紛を和解し、開南丸は1911年11月19日に南極に向けて出港しました。1912年1月16日に南極大陸に上陸し、その地点を「開南湾」と名付けました。しかしながら、開南湾は拠点として環境が悪くグレート・アイス・バリアのクジラ湾から再上陸しました。

 同年1月20日、白瀬隊は南極点に向けて出発しましたが悪天候に遭い、さらに装備や食料の不足からそれ以上の前進は断念しました。1912年1月28日、もっとも南極点まで近づいた南緯80度05分西経156度37分付近を「大和雪原(やまとゆきはら)」と命名し「南極探検同情者芳名簿」を埋めて引き返しました。

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海南丸と大和雪原(中央が白瀬隊長)

 開南丸は同年2月4日に南極を出向し6月20日に芝浦ふ頭に無事生還しました。白瀬隊は南極点到達は果たせませんでしたが後の南極探検の礎となったのです。しかし、日本が再び南極探検隊を派遣することができたのは第二次世界大戦後の1956年のことでした。

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2022年1月23日 (日)

世界で初めて地球最深部に到達(1960年1月23日)

 スイスの物理学者オーギュスト・ピカールが発明しイタリアで製造されたバチスカーフ(Bathyscaphe )と呼ばれる潜水艇。バチスカーフはギリア語のbathys(深い)とskaphos(船)に由来する造語で深海探査用の潜水艇です。

 バチスカーフはフロート、キャビン、水バラストタンク、固形バラスト収納部、動力部からなります。未使用時フロートには通常は窒素が封入されていますが潜水する際には水より比重の小さいガソリンが封入されます。フロートには液体が封入されているため頑丈に作らなくても十分な耐圧が得られるようになっています。キャビンはいわゆる潜水球と同じものですがフロートから吊り下げられています。キャビン内部は大気圧とほぼ同じ圧力の空気で満たされています。内部が気体のキャビンは液体が封入されるフロートとは異なり頑丈に作られています。動力部にはバッテリーで稼働するモーターが取り付けられています。

 バチスカーフは水バラストタンクに水を入れることによって潜水します。普通の潜水艦は水バラストタンクの水を圧縮空気で吐き出すことによって浮上しますが、バチスカーフが潜行する深海では水圧のために水バラストタンク内部の水を排出することができません。そこでバチスカーフには固形バラストが搭載されており、これを捨てることによって浮上します。固形バラストは固形バラスト収納部に電磁石で取り付けられており、電気をオフにすると固形バラストが外れるようになっています。そのためカーチスは電力が喪失しても固形バラストが外れて浮上するようになってます。浮力を小さくする方の微調整はフロート内のガソリンの一部を海水に交換することでも可能です。

 最初のバチスカーフは1948年にベルギーで建造され「FNRS-2」と名付けられました。後にフランスに売却され改造を経て「FNRS-3」となりました。「FNRS-3」は1958年に来日し日本海溝の調査を行いました。宮城県の金華山沖で水深3,000メートルまで潜航しました。

 第二のバチスカーフはイタリアで1953年に製造され「トリエステ」と名付けられました。「トリエステ」は1957年に米国海軍に売却され深海潜水試験に使用されました。そしてマリアナ海溝の深度を調査するネクトン計画に使用するため1959年11月にグアム島に運ばれました。

 1960年1月23日、「トリエステ」はオーギュスト・ピカールの息子ジャック・ピカールと海洋学者のドン・ウォルシュ海軍中尉を乗せてマリアナ海溝の最も深くなるチャレンジャー海淵で潜航を開始しました。1枚の窓から破壊音が聞こえましたが損傷は確認できなかったことから潜航を続け、約5時間後に海底に到着しました。海底に到達したとき「トリエステ」の水深計は11,521メートルを示していました。これによって「トリエステ」が世界で初めて地球最深部に到達した潜水艇となりました。

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チャレンジャー海淵探査前のトリエステ(上)
キャビン(左下)とピカールとウォルシュ(右下)

 ピカールとウォルシュは深海底で魚類を発見し高水圧下で脊椎動物が生息していることを確認しました。海底に到着して20分ほど滞在しましたが窓にひびが入っていることがわかり浮上を開始し3時間15分後に無事に帰還しました。

 なお1995年の日本の「かいこう」の探査によってチャレンジャー海淵の正確な深度は10,911メートルであることが判明しています。

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2022年1月19日 (水)

巨大な小惑星7482(1994 PC1)が地球に大接近(2022年1月19日)

 日本時間19日午前6時51分(米東部時間1月18日午後4時51分)、約1.1キロメートルの大きさの地球近傍小惑星7482(1994 PC1)が地球に接近します。この小惑星が地球に衝突することはありませんが、地球から198万1398キロメートル離れたところを時速7万415キロメートルで通過すると予測されています。

7482(1994PC1)と地球の軌道の模式図
7482(1994PC1)と地球の軌道の模式図

 7482(1994 PC1)はオーストラリアのサイディング・スプリング天文台でスコットランド出身の天文学者ロバート・マックノートが1994年8月9日に発見した小惑星です。7482はこの小惑星の小惑星番号で1994 PC1は発見後に暫定的に付けられた仮符号です。後でわかったことですが実際には同天文台で1974年にも観測されていました。

 7482(1994 PC1)は潜在的に地球に衝突する可能性のある危険な小惑星に分類されていますが当面は地球に衝突する危険はないと考えられています。最も地球に接近したのは1933年1月17日で地球から月までの距離の約3倍の約113万 kmまで接近しました。

 本日2022年1月19日は午前6時51分に地球から月までの距離の約5倍の約198万 km離れたところを通過します。最接近時の見かけの明るさは10等級で肉眼で確認することはできませんが大口径の天体望遠極では観測可能です。

 さて地球から太陽までの距離は1億5000万キロメートル、月までの距離が38万キロメートル、地球と最接近したときの火星まで距離は7000万キロメートル、金星が4200万キロメートルです。ですから113万や198万キロメートルは本当に大接近なのです。

 NASAは今後200年の間ここまで接近する天体はないと予測していますのでひとまずご安心ください。

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2022年1月17日 (月)

「今月今夜の月の日」はどんな月(1897年1月17日)

 「来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる」。尾崎紅葉の金色夜叉の舞台や映画の名場面、熱海の海岸で主人公の間貫一が許嫁だったのに別の男に嫁いだお宮を問い詰めて蹴り飛ばして言い放った言葉です。このとき2人を見守っていたのは夜空に輝く満月でした。

 さて、間貫一は小説では次のように言っています。

「吁、宮さんかうして二人が一処に居るのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言ふのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか!再来年の今月今夜、十年後の今月今夜、一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!可いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が月が月が曇つたらば、宮さん、貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のやうに泣いてゐると思つてくれ」

 つまりこの出来事は1月17日のことです。金色夜叉が読売新聞に連載されたのは明治30年(1897年)、日本で暦が新暦(太陽暦)になったのは旧暦(太陰暦)の明治5年(1872年)です。ですから1897年1月17日は太陽暦になります。

 月齢カレンダーで1897年1月の月を調べてみると完全な満月は19日ですが、17日は月齢13.9でほぼ満月です。1897年1月17日を旧暦に換算すると1896年12月15日となります。太陰暦では毎月15日もしくは16日は十五夜の満月です。金色夜叉の1月17日は満月だったのは間違いないでしょう。

 さて新暦は太陽暦ですから今日の月と1年後の今日の月は異なります。たとえばこの記事を書いている2022年1月17日(旧暦2021年12月15日)の月は月齢14.4でほとんど満月ですが(満月は18日)、1年前の2021年1月17日(旧暦2020年12月5日)の月は月齢3.9で広義で言うところの三日月です。

 同様に金色夜叉1897年1月17日の1年後の1898年1月17日(旧暦1897年12月25日)の月を調べてみると月齢24.3の有明月です。次に満月になるのは3年後の1900年1月17日(旧暦1899年12月17日、月齢15.5 完全な満月は新暦16日)になります。1904年1月17日(旧暦1903年11月30日)の月は月齢29.2で新月の前日ですから夜空に月は見えません。

 ということで物語の行く末はともかく貫一が毎年の今月今夜に1月17日と同じ満月を見続けることはなかったのです。「月が涙で曇る」は月の満ち欠けのことにでもしておきましょう。

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2022年1月 6日 (木)

それでも大陸は動いている(1912年1月6日)

 現代においては大陸が地球の表面を移動するという大陸移動説はプレートテクトニクス理論で実証されていますが、今から100年ほど前は馬鹿げた理論として受け入れられませんでした。

 大航海時代末期に正確な世界地図が作られるようになると、一部の学者は大陸の形状から大昔は大陸と大陸がつながっていたのではないかと考えました。また世界中に散らばる化石の分布から昔はいくつかの大陸が大きなひとつの大陸だったと唱える学者もいました。しかし、これらの説では地球が収縮することによって陸地と海洋の様子が変わったり、地球が膨張することによって大陸間の距離が大きくなったと考えられました。それらの説はそれぞれ地球収縮説、地球膨張説と呼ばれますが、どちら説も大陸同士の相対的な位置関係が変化するもので大陸自身が移動するものではありませんでした。

 ドイツの気象学者アルフレート・ロータル・ウェーゲナーは大学で天文学を学んでいましたが極地探検に興味をもち気象学を学ぶようになりました。大学卒業後は兄の働く航空気象台に就職し、気球を用いた気象観測や探偵観測を行いました。1906年にデンマークの探検隊に参加し、グリーンランドを訪れ地図の作成や極地の気象観測を行いました。

 1910年、ウェーゲナーは世界地図を見て大西洋の両岸、アメリカ大陸の東海岸とアフラ大陸の西海岸の形がよく合致することに気がつきました。当初ウェーゲナーはこれを偶然の一致ぐらいにしか考えていませんでしたが、1911年になって古生物の化石の分布から南アメリカ大陸とアフリア大陸がつながっていたことを示す古生物学的証拠の存在を知り、大陸が移動したと考えるようになりました。そして1912年1月6日にドイツのフランクフルトで行われた地質学会で太古にアメリカ大陸とアフリカ大陸が移動したとする「大陸移動説」を唱えました。

 ウェーゲナーは世界で初めて「大陸移動」という言葉を使って自説を唱えましたが当時は地球収縮説が主流でした。大陸と海底は高度が異なるものの同じものであるから、海底の上を大陸自身が移動するはずがないというのが常識だったのです。ですから、ウェーゲナーの大陸移動説は非常識な異説とされ多くの学者に相手にされませんでした。

 1914年に第一次世界大戦が始まるとウェーゲナーは陸軍の気象調査を手がける部隊で働きました。このとき大陸移動説の研究を進め自身の考えを著書にまとめました。1915年に「大陸と海洋の起源」を発表し、測地学、地質学、地球物理学、古生物学、古気候学のデータを示しながら大西洋は古代には存在しておらずひとつの大きな大陸が分離移動して大西洋ができたとする「大陸移動説」を唱えました。しかしながら、ウェーゲナーの説は認められませんでした。ウェーゲナーは諦めずに調査を進め「大陸と太陽の起源」の第二版を1919年、第三版を1922年に出版しました。1929年に出版した第四版では現存する全ての大陸はもともと1つの大陸であったが、約2億年前に分裂して移動し、現在のようになったと唱えました。

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ウェーゲナーと大陸移動の図(「大陸と太陽の起源」第4版)

 ウェーゲナーの「大陸移動説」ではマントル対流に関する言及がありましたが、大陸がどうして動くのかについてまでは説明できていませんでした。また、化石の分布についてはかつて地続きになっていた部分が海中に沈んだと考えれば説明がつくと多数の地質学者から反論されました。ウェーゲナーの「大陸移動説」が認められることはなかったのです。

 1930年、ウェーゲナーは大陸移動説の有力な手がかりを見つけるために5度目のグリーンランド探検に向かいました。グリーンランドが西に移動していることを証明することができると考えたのです。1930年11月1日、ウェーゲナーは探査から基地に戻る途中で遭難し帰らぬ人となりました。この日はウェーゲナーの50歳の誕生日でした。

  ウェーゲナーの死後、マントル対流の研究が進み地球内部でのマントルの熱対流が大陸移動の原動力と考えられるようになりました。また地磁気の調査によって大陸が移動したことを裏付ける証拠が見つかり、ウェーゲナーの大陸移動説が高く評価されるようになりました。1960年代後半に地球の表面を覆ういくついかの固い岩盤が動くことによって地震や大陸移動が引き起こされるというプレートテクトニクス理論が提唱されたのです。

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