カテゴリー「今日は何の日」の1000件の記事

2026年2月23日 (月)

新選組総長 山南敬助の最期( 元治2年 1865年2月23日)

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 新選組の副長を経て総長を務めた山南敬助。出自はよくわかっていませんがの記録を読み解くと天保7年(1836年)に陸奥国仙台で生まれたと考えられます。姓名の読みは「やまなみ」として知られていますが、「三南」と記録されたものがあることから「さんなん」だった可能性が高いという指摘もあります。経歴もよくわかっていませんが、北辰一刀流の免許皆伝だったこと、天然理心流剣術道場の試衛場に他流試合を挑み近藤勇に負けたこと、近藤勇を慕うようになり活動の場を試衛場に移しことが伝えられています。試衛場ではとりわけ沖田総司と懇意となり兄弟のような関係だったようです。

 文久3年(1863年)2月、清河八郎が徳川家茂の上洛を警護する目的で結成した浪士組に近藤勇や土方歳三らと参加し上洛しました。壬生に到着後、清河八郎が尊皇攘夷のため浪士組を率いて江戸に帰還することを表明すると、水戸浪士の芹沢鴨と近藤勇はこれに反対し京都に残りました。山南敬助は試衛場の面々と京都に残りました。その後、主導権争いが起こり芹沢鴨と近藤勇が主流派となりました。彼らは京都守護職を務めていた会津藩藩主の松平容保の預かりとなり壬生浪士組と名乗りました。山南敬助は土方歳三とともに副長に就任しました。

 壬生浪士組における山南敬助の活躍の記録は岩城升屋事件など断片的に垣間見ることができますが、文久3年8月の八十八日の政変の警備に出動しています。壬生浪士隊はこのときの活躍で会津藩から新選組の隊名を拝命しましした。かねてからの芹沢鴨の度重なる狼藉が目に余るようになり、朝廷から召捕りの命令が下ると会津藩は近藤勇に芹沢鴨を処分するよう密命を出します。文久3年(1863年)9月に芹沢鴨は新選組隊士らによって暗殺されました。その中に山南敬助もいたと伝えられています。

 芹沢鴨の暗殺により新選組は近藤勇を中心としたメンバーで再編されることになり山南敬助は局長の近藤勇、副長の土方歳三に次ぐ総長となりますが、この頃から山南敬助の活躍は記録から消えます。元治元年(1864年)の池田屋事件には山南敬助の姿はありませんでした。長倉新八はこの頃、山南敬助が病気で屯所に引きこもっていたと記しています。同年11月、新選組は江戸で隊員の募集を行い、北辰一刀流の伊東甲子太郎を山南敬助より上位の立場の参謀として迎えます。

新選組隊旗
新選組隊旗(amazon.co.jp)

 山南敬助は元治2年(1865年)2月に「江戸に行く」という置き手紙を残して屯所を出ました。山南敬助のこの行動は脱走とみなされ、近藤勇と土方歳三は山南敬助と懇意だった沖田総司に後を追わせました。山南敬助は沖田総司におとなしく捕縛され屯所に戻りました。新選組では脱走は切腹とされていました。長倉新八と伊東甲子太郎は山南敬助に脱走するよう説得しましたが、死を覚悟していた山南敬助はこれを受け続けず、元治2年(1865年)2月23日に本人の希望で沖田総司の介錯により切腹して果てました。山南敬助の最期を見届けた近藤勇は山南敬助の覚悟の死を称賛して「浅野内匠頭でもこう見事にはあい果てまい」と述べたと伝えられています。

 最期の日を迎えるにあたり、長倉新八が山南敬助が馴染にしていた遊女の明里に会わせたと伝えられていますが、永倉新八の手記には明里の名は一切は登場していません。新選組始末記の著者の子母沢寛の創作とされています。山中敬助は京都の壬生屯所近くの光縁寺に眠っています。

 山南敬助が脱走した理由にはいくつかの説があります。ひとつは新選組が伊東甲子太郎を山南敬助より上位の立場で迎えたことです。しかし、伊東甲子太郎は山南敬助の死を悼んで和歌を詠んでいます。2人が対立していたとは考えられません。最も有力そうな理由は山南敬助が尊皇派だったことです。新選組はその活躍により幕臣となり尊皇派浪士の壊滅を進めます。新選組の隊士が増えて壬生村の屯所が手狭になったとき、近藤勇と土方歳三は屯所を京都の西本願寺に移しました。西本願寺は尊皇派と近い関係にあったのですが、近藤勇はあえて西本願寺を屯所とすることで尊皇派の動きを抑えようとしたのです。山南敬助は屯所の移動に反対しましたが、近藤勇や土方歳三は山南敬助の意見を受け入れませんでした。これによって特に土方歳三との対立が深まり、新選組を離脱する決心をしたと伝えられています。

 さてここからは私見になります。新選組が厳しい法度を制定したのは芹沢鴨を中心とした水戸浪士たちの狼藉を戒めるためでした。新選組は京都の治安維持活動を行う組織ですから、隊士が狼藉を働くことを許しませんでした。厳しい法度で組織を統制し、朝廷や幕府や京都の人々からの信頼を回復しようとしたのです。法度はすべての隊士を対象とするものでしたらか、近藤勇派の隊士といえども規則に反すれば処罰の対象になりました。

 先述の伊東甲子太郎は尊皇派で新選組から離脱し御陵衛士(高台寺党)を結成しました。このとき試衛場時代からの生え抜きの同士で最年少の藤堂平助が伊東甲子太郎と行動をともにしています。慶応3年(1867年)11月18日夜、新選組は伊東甲子太郎の暗殺と御陵衛士の壊滅を目的とする油小路事件を起こしました。藤堂平助は仲間とともに伊東甲子太郎の遺体の回収に駆けつけたところを待ち伏せしていた新選組に斬られ19日未明に死亡しました。長倉新八の記録によると近藤勇は藤堂平助は殺さずに助けるように指示をしていたそうです。現場で藤堂平助を見逃す手立てとられましたが、事情を知らずに鉢合わせした隊士が藤堂平助を斬ってしまったのです。藤堂平助は新選組が自分を逃そうとする意図があることを知りつつ、あえて戦う道を選んだとも伝えられています。

 藤堂平助の例を考えると、もしかすると近藤勇は山南敬助を許そうと考えていたのかもしれません。土方歳三も懇意にしていた沖田総司に山南敬助の後を追わせています。他の隊士を派遣していたら斬り合いになっていたはずです。沖田総司が迎えに行けば、山南敬助は抵抗することなく戻ってくると考えたのでしょう。そして実際には山南敬助はおとなしく沖田総司に捕縛され戻ってきました。もし山南敬助が永倉新八らの説得を聞き入れ脱走していたら、近藤勇はあえて見逃していたかもしれません。もしかすると脱走を促すよう命じたのは近藤勇だったかもしれません。

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2026年2月17日 (火)

南極で金環日食が観測される(2026年2月17日)

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 世界標準時(UTC)2026年2月17日、南極大陸とその近海で金環日食が観測されます。残念ながら今回の日食は日本では観測できませんが、日食は9:56(UTC)に始まり、12:12(UTC)に食が最大となり2分20秒にわたって金環食を続きます。NASA などの機関が南極からのライブ配信を予定しています。

 日食は太陽と地球の間に月が入り太陽・月・地球が一直線に並ぶときに生じる現象です。このとき月の影が地球にできますが、この月の影に入る地域で太陽が欠けたように見えるのが日食です。太陽の平均直径は1,392,000 km、月の平均直径は3,474.8 kmです。直径で比較すると太陽は月の400倍にもなりますが、地球から太陽と月を見たときにはほとんど同じ大きさに見えます。地球から見たときに太陽と月が同じ大きさに見えるのは「地球から太陽の距離」と「地球から月までの距離」に関係しています。このため太陽の前を月が通り過ぎるととき、太陽が隠れるです。平均距離から求めた太陽の視直径は角度にして0.53度、月の視直径は角度にして0.52度です。地球から太陽と月までも距離は変動しますので視直径が変化します。地球と太陽と月の距離と視直径の関係の詳細については次の記事を参照してください。

【参考】太陽と月が同じ大きさに見える理由

 日食のうち金環日食は太陽の手前を月が通過するときに、太陽が月からわずかにはみ出して「炎の輪(Ring of Fire)」のように見える希な現象です。

2012年5月20日に日本で観測された金環日食
2012年5月20日に日本で観測された金環日食

 次回の日食は2026年8月12日でアイスランドやスペインなどで皆既日食が観測されます。日本国内では当面の間、皆既日食や金環日食は観測されません。金環日食は2030年6月1日に北海道などで見られます。全国では部分食が観測できます。皆既日食は2035年9月2日に中部・関東地方などで見られます。全国で部分食が観測できます。なお日本では2026年3月3日夜に全国で観測可能な皆既月食を見ることができます。

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2026年2月 9日 (月)

近藤勇が本庄宿で芹沢鴨の宿を取り忘れる(文久3年 1863年2月9日)

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 文久3年(1863年)、第3代将軍徳川家光以来229年ぶりに上洛することになった徳川家茂を警備するため浪士組が結成された。近藤勇と土方歳三は試衛館の同志たちと浪士組に参加しました。浪士組は7つの隊に編成され、近藤と土方は三番隊一に組み込まれました。この三番隊一には芹沢鴨・近藤勇・山南敬助・土方歳三・永倉新八・沖田総司・原田左之助・藤堂平助・平山五郎・野口健司・平間重助など後の新選組の主要メンバーとなる面々で構成されていました。

 同年2月8日、浪士組は江戸を出発して中山道を通り京都をめざしました。翌日2月9日、一行は中山道六十九次(木曽街道六十九次)の江戸から数えて10番目の宿場である本庄宿に到着しました。宿割り役の池田徳太郎と近藤勇はこれに先乗りして各隊の宿舎を割り振りましたが、取締付筆頭(三番組小頭)の芹沢鴨の宿を手配し忘れるミスを犯してしまいました。

木曽海道六十九次「支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場」(渓斎英泉 画)
木曽海道六十九次「支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場」(渓斎英泉 画)

 本庄宿に到着した芹沢は自分の宿が用意されていないことに激怒し「野宿でよい」と言い放って、芹沢一派を集めて宿場の街道の真ん中で巨大な篝火(かがりび)を焚かせたとされています。火の粉が飛び散り危険な状態となったため、宿役人が消化を命じると、芹沢は大鉄扇で役人を気絶させるほど殴打する乱暴を働きました。近藤と池田が芹沢に謝罪し宿を手配しましたが芹沢の怒りは収まりませんでした。

本庄宿篝火事件の想像図
本庄宿篝火事件の想像図

 この事件は一般に「本庄宿篝火事件」または「大焚火事件」と呼ばれていますが、当時、本庄宿で火災が起きたという記録は残っていません。事件の顛末は永倉新八の「新選組顛末記」に残されていますが、永倉が近藤派だったため芹沢の乱暴さを強調した可能性が指摘されています。また、宿割りのミスをしたのは道中目付の岡田盟とされており近藤自身は宿取り役ではなかったという指摘もあります。いずれにせよ、この事件で芹沢派と近藤派の間に確執が生まれたのは事実とされてます。

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 芹沢は新選組になってからも狼藉を働くことが多く、朝廷から芹沢の逮捕命令が出ると新選組を預かる会津藩が芹沢の処分を命じました。これを受けて近藤は芹沢の暗殺を土方や沖田総司らに命じました。新選組が京都で狼藉を働いた集団という伝えがありますが、これは芹沢が新選組局長だった頃の話です。渋沢栄一郎は近藤や新選組のことを高く評価しています。

 

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近藤勇が本庄宿で芹沢鴨の宿を取り忘れる(文久3年 1863年2月9日)

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榎本武揚と土方歳三が仙台城で奥羽越列藩同盟の軍議に参加(慶応4年 1868年9月3日)

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土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

土方歳三の写真が箱館で撮影された根拠

第22話「弁天台場を救え」|明日なき戦いの果てに

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異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地

弁天台場|新撰組最期の地

 

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2026年2月 3日 (火)

IT用語「オープンソース」が生まれた日(1998年2月3日)

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 当時、シェアの低下で厳しい状況に陥っていたネットスケープ社は自社ブラウザの機能と品質向上をさせるためソースコードを公開することで起死回生を図ろうと考えていました。しかし、ソースコードを公開することで自由や無料を意味するフリーソフトウェア(Free Software)と誤認されることを危惧したネットスケープ社はどのようにソースコードを公開するか検討を重ねました。

Netscape 1.2 on Windows 3.1
Netscape 1.2 on Windows 3.1

 1998年2月3日、カリフォルニア州パロアルトで開かれた会議でクリスティン・ピーターソンはフリーソフトウェアに代わる用語としてオープンソースをという用語を提案しました。フリーであることはあえて強調せず、ソースコードを公開することにより開発効率や品質が向上することに焦点を当てて議論を進めました。オープンソースという用語は参加者たちに支持され、翌日にはLinuxカーネルを開発したリーナス・トーバルズも賛同しました。これにより企業が安心して参加できる新しい開発環境が築かれました。

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2026年2月 2日 (月)

千葉真一さん主演殺人拳シリーズ「激突! 殺人拳」日本公開(昭和49年 1974年2月2日)

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 昭和49年(1974年2月2日)、日本映画界の伝説的アクションスターの千葉真一さん主演の映画「激突! 殺人拳」が公開された日です。当時、ブルール・リーの「燃えよ!ドラゴン」の公開により世界はカンフー映画が人気となっていました。東映がカンフーを空手に置き換えて千葉真一を主演に起用したのが後に殺人拳シリーズとなる「激突! 殺人拳」です。それまでのヒーロー像を覆す極悪非道なダークヒーロー剣琢磨の過激なアクションシーンが世界中で大人気となりサニー千葉の名を世界に轟かせました。

千葉真一主演「激突! 殺人拳」
千葉真一主演「激突! 殺人拳」

 千葉真一さんが演じる剣琢磨は正義の味方ではなく極悪非道の殺し屋のダークヒーローです。兄の志堅原楯城を捜す依頼をした弟と妹が報酬を支払えないと知るや、千葉治郎さんが演じる義順を殺し、志穂美悦子さんが演じる妹の奈智を香港に売り飛ばすという鬼畜ぶりをみせます。しかし、石油王の遺産を継いだ娘サライ(中嶋ゆたか)のボディーガードをすることになり、その徹底したプロ意識から国際犯罪組織を相手に超人的な空手で立ち向かうことになります。かなり過激な描写があり米国公開時には「X指定」を受けました。過激なアクションシーンで成人指定を受けた初めての映画となりました。

 しかし、千葉真一さんの空手アクション、独特の構えのポーズや顔の表現や呼吸が大人気となりました。関根勤さんの千葉真一さんの物真似は殺人拳シリーズの演技がもとになっています。

 当時、東映は香港を訪問しカンフー映画などの調査をしました。ちょうど「燃えよ!ドラゴン」の公開後のことで、宣伝担当の福永邦昭は公開後のゴールデン・ハーベストのプロデューサーとブルース・リーに会い、リーが千葉真一のファンだったことを知り千葉真一との共演を考えました。しかしながら間もなくリーは亡くなってしまい実現不可能となってしまいました。その後、ゴールデン・ハーベスト側から「ドラゴン怒りの鉄拳」の日本上映の話があありました。東映の社内試写の結果、東映の岡田茂は「これなら千葉でやれる」と即決したことから、この映画の撮影が決まりました。東映は後に「ドラゴンへの道」を日本公開しています。

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2026年1月25日 (日)

雪原の屈辱から逆襲そして没落へ|カノッサの屈辱(1077年1月25日)

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 1077年1月25日、北イタリアのアペニン山脈に囲まれ冬の厳しい寒さに包まれたカノッサ城の城門の前に粗末な衣をまとった1人の男が佇んでいました。この男はドイツ王ハインリヒ4世、後に神聖ローマ皇帝となった人物です。

カノッサの屈辱(Eduard Schwoiser)
カノッサの屈辱(Eduard Schwoiser)

 当時のキリスト教の世界では司教や修道院長を任命する権限「叙任権」をめぐり、王権と教皇権が激しく対立していました。教皇グレゴリウス7世は王権による聖職者任命を禁じていましたが、これに反発した改革を進めていたハインリヒ4世を破門しました。破門は単なる宗教的処罰に留まらず「王への忠誠義務は無効」と宣言されたことにより諸侯たちはハインリヒ4世に反旗をひるがえしました。

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世 ローマ教皇グレゴリウス7世
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世(左)とローマ教皇グレゴリウス7世(右)

 孤立したハインリヒ4世は王位を守るために破門の解除を求めるため教皇が滞在するカノッサ城に向かいました。しかしながら、教皇のグレゴリウス7世は面会に応じませんでした。そこでハインリヒ4世は罪を悔いると3日間も雪の中で赦しを待ち続けました。この行動は後にカノッサの屈辱として語り継がれるようになりました。その様子を見ていたグレゴリウス7世はハインリヒ4世城内に迎え入れ破門を解除しました。これによって諸侯がハインリヒ4世に反旗を翻す口実は失われました。

 ハインリッヒ4世はドイツに戻ると対立する王を擁立していた諸侯との戦を数年に渡り繰り広げました。1080年、対立勢力が優勢になるとグレゴリウス7世は再びハインリヒ4世を破門しました。これに対してハインリヒ4世は許しを請うことは無く軍事力で対応しました。翌1081年、ハインリヒ4世は軍勢を率いてローマを取り囲みました。グレゴリウス7世はローマから逃れました。1084年、ハインリヒ4世は自らが擁立した教皇クレメンス3世から神聖ローマ皇帝に戴冠されました。グレゴリウス7世はローマに帰還することはできず、1085年に亡命先のサレルノで客死しました。このとき「私は正義を愛し、不義を憎んだ。ゆえに流刑の身で死ぬのだ」と最期の言葉を残したと伝えられています。
勝利を収めたハインリヒ4世でしたが、晩年は自らの息子たちの反乱により再び権力の座を脅かされました。権力をめぐる闘争はハインリヒ4世の人生の最後まで続きました。ハインリヒ4世は最終的に破門と廃位の憂い目にあい1106年に没しました。

 カノッサの屈辱は、単なる王の敗北ではなく王権と教皇権という二つの巨大な権力がぶつかり合った事件でした。その後のヨーロッパにおける「国家と宗教」の関係を形づくる重要な転換点となりました。教皇と皇帝との間の叙任権を巡る闘争は、叙任権が教皇にあることを定めたヴォルムス協約が成立する1122年まで続きました。

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2026年1月15日 (木)

成人の日の由来「元服の儀」|小正月(1月15日)

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  新年の1月1日(元日)から7日までの期間を大正月(たいしょうがつ)といいます。この期間は年神様(歳神様、歳徳神)を迎える神聖な厳かな時期です。年神様の依り代やお供え物として門松や鏡餅を飾り、家族の健康と繁栄を祈願します。1月15日は小正月(こしょうがつ)で正月行事の終わりの日です。どんど焼き(左義長)で正月飾りを燃やして餅花(もちばな)や繭玉(まゆだま)を飾り無病息災や豊作を願います。

 奈良時代になると小正月には男子が成人になることを祝うとともに大人となった自覚を持つ重要な通過儀礼「元服の儀」が行われました。元服の元は頭、服は着用を意味します。元服は数え年で12歳から16歳の男子が子どもの髪型、服装、幼名を捨て成人となる人生の大きな節目です。

元服の儀
元服の儀

 

 元服の儀では髪型を整え、烏帽子や冠をかぶり、幼名を大人の名前に改める成人の儀式です。小正月は年最初の満月の日でもあり、月が満ちることが成人の儀式に結びつけられ、この日に元服の儀が執り行われるようになったと考えられています。

 この元服の儀に由来して昭和23年(1948年)に定められたのが1月15日の祝日「成人の日」でした。現在、成人の日は2000年にハッピーマンデー制度が導入されたため1月第2月曜日となっていますが、小正月で元服の儀が執り行われた1月15日は日本の歴史と文化を語るうえで重要な日です。

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2026年1月12日 (月)

江島生島事件(正徳4年 1714年1月12日)

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 正徳4年(1714年)1月12日、第七代将軍の徳川家継の生母の月光院に仕えていた御年寄の江島が門限に遅れたことをきっかけに江島生島事件が怒りました。この日、江島は月光院の名代として上野の寛永寺や芝の増上寺へ参拝に出向きました。その帰りに懇意の呉服商の後藤縫殿助の誘いで木挽町の芝居小屋「山村座」で人気役者の生島新五郎の歌舞伎を鑑賞しました。芝居の後に江島は生島たちを招いて宴会を催しましたが、宴会が長引き大奥の門限に遅れてるという失態を演じました。

江島と生島新五郎(江島生島事件)
江島と生島新五郎(江島生島事件)

 江島は大奥の七ツ口で役人と押し問答となり、この話は江戸城中に知れ渡りました。江島の門限破りは評定所で審理されることになりました。取り調べでは江島の単なる門限破りではなく大奥の規律を乱したことが問題視され、江島と生島新五郎の密通疑惑が浮上しました。最終的に江島は死罪となるところを減じられて信濃国高遠藩への流刑となりました。役者の生島も三宅島へと流されました。芝居小屋の山村座は解体、江島の取り巻きなど多くの者たちが処罰を受けました。

 江島は27年に渡り幽閉生活となり寛保元年(1741年)に享年61歳で死去しました。生島は寛保2年(1742年)に徳川吉宗により赦免され江戸に戻りましたが翌年享年73歳で死去しました。

 この江島生島事件は大正時代に歌舞伎「江島生島」で演じられ戦後には小説「絵島生島」になりました。事件の顛末が一般にも広く知られるようになりました。現将軍の母の月光院派と先代将軍の正室の天英院派の大奥内での覇権争いで、月光院派の江島の失態が天英院派の格好な攻撃材料になったという言い伝えもありますが史実では確認できずこれは後の創作のようです。

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2026年1月 7日 (水)

マンテル大尉事件(1948年1月7日)

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 1948年1月7日、アメリカ合衆国のケンタッキー州で未確認飛行物体の目撃情報が相次ぎました。同州のゴットマン空軍基地に「直径75~150メートルの白く光る巨大な物体が浮遊している」との報告が入り、訓練飛行中のトーマス・マンテル大尉が率いる4機のP-51マスタング戦闘機が物体の追跡を開始しました。このうち1機は燃料不足により基地に戻り、マンテル大尉機を含む3機が物体を視認し上昇を開始しました。

P-51マスタング戦闘機
P-51マスタング戦闘機

 高度15000フィートに達したところでマンテル大尉は未確認飛行物体について「金属でできているかのように太陽光を反射している。それにとてつもなく大きい」と報告しました。高度22000フィートでマンテル大尉以外の2機の酸素不足に陥ったため追跡を断念し離脱しました。マンテル大尉機はそのまま上昇を続けましたが高度25000フィートに達したところで連絡が途絶えました。その後、マンテル大尉機が墜落したことが判明しました。

 米国空軍はこの未確認飛行物体の正体の調査を行いました。、いくつかの説を提示しました。 当初、空軍はマンテル大尉が金星を未確認飛行物体を誤認し追跡したと発表しましたが後に撤回してます。現在、未確認飛行物体の正体として有力視されている説は米国海軍がテスト飛行させていた観測用気球のスカイフックです。

艦船から打ち上げらるスカイフック気球
艦船から打ち上げらるスカイフック気球

 スカイフック気球は極秘のプロジェクトだったため空軍には伝わっていなかっとされています。この気球は直径30メートル以上で高高度では太陽光を反射して巨大な銀色の円盤のように見えます。マンテル大尉はこの気球を追って上昇し続け酸素欠乏で意識を喪失して墜落したのではないかと考えられいます。

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2026年1月 2日 (金)

警備体制の見直しのきっかけとなった二重橋事件(昭和29年 1954年1月2日)

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 毎年1月2日は皇居で新年一般参賀が行われます。一般参賀は戦後の昭和23年(1948年)から開催されている新しい皇室の象徴的な行事です。一般の人々が皇居に参入して皇室にお祝いをすることができる唯一の機会として非常に高い人気のある行事です。

 その人気ゆえに昭和29年(1954年)1月2日に「二重橋事件」と呼ばれる痛ましい事故が発生しました。この日は快晴で38万人を超える人々が皇居を訪れました、当時として過去最大の参賀者となりましたが、警備を担当する皇宮警察の皇宮護衛官と警視庁丸の内警察署の警察官は221名しかいませんでした。午前9時から始まった一般参賀は粛々と進められていましたが午前11時頃から参賀者が急増し、群衆が二重橋石に殺到する事態となりました。

二重橋事件当日の皇居正門前の群衆
二重橋事件当日の皇居正門前の群衆

そのため入門規制のため整理用のロープが張られましたが、群衆の圧力によりロープに挟まれる人々が多数出ました。あまりの圧力でロープをくぐり抜ける人が続出し現場が混乱し始めました。警備がロープの上げ下げをしているうちに押し寄せた群衆雪崩が発生し、人々が折り重なるように倒れました。結果として17人が死亡し82人が重軽傷を負う大惨事となりました。

当日の二重橋の様子
当日の二重橋の様子

この事件は当時の日本社会に大きな衝撃を与えました。単なる偶発的な事故ではなく、警察の警備体制の見直しや公共施設におけるイベントの雑踏警備の重要性が認識されるようになりました。現在の一般参賀が整然と執り行われているのはこの二重橋事件の教訓が活かされているからと言えるでしょう。

 

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