新選組総長 山南敬助の最期( 元治2年 1865年2月23日)
新選組の副長を経て総長を務めた山南敬助。出自はよくわかっていませんがの記録を読み解くと天保7年(1836年)に陸奥国仙台で生まれたと考えられます。姓名の読みは「やまなみ」として知られていますが、「三南」と記録されたものがあることから「さんなん」だった可能性が高いという指摘もあります。経歴もよくわかっていませんが、北辰一刀流の免許皆伝だったこと、天然理心流剣術道場の試衛場に他流試合を挑み近藤勇に負けたこと、近藤勇を慕うようになり活動の場を試衛場に移しことが伝えられています。試衛場ではとりわけ沖田総司と懇意となり兄弟のような関係だったようです。
文久3年(1863年)2月、清河八郎が徳川家茂の上洛を警護する目的で結成した浪士組に近藤勇や土方歳三らと参加し上洛しました。壬生に到着後、清河八郎が尊皇攘夷のため浪士組を率いて江戸に帰還することを表明すると、水戸浪士の芹沢鴨と近藤勇はこれに反対し京都に残りました。山南敬助は試衛場の面々と京都に残りました。その後、主導権争いが起こり芹沢鴨と近藤勇が主流派となりました。彼らは京都守護職を務めていた会津藩藩主の松平容保の預かりとなり壬生浪士組と名乗りました。山南敬助は土方歳三とともに副長に就任しました。
壬生浪士組における山南敬助の活躍の記録は岩城升屋事件など断片的に垣間見ることができますが、文久3年8月の八十八日の政変の警備に出動しています。壬生浪士隊はこのときの活躍で会津藩から新選組の隊名を拝命しましした。かねてからの芹沢鴨の度重なる狼藉が目に余るようになり、朝廷から召捕りの命令が下ると会津藩は近藤勇に芹沢鴨を処分するよう密命を出します。文久3年(1863年)9月に芹沢鴨は新選組隊士らによって暗殺されました。その中に山南敬助もいたと伝えられています。
芹沢鴨の暗殺により新選組は近藤勇を中心としたメンバーで再編されることになり山南敬助は局長の近藤勇、副長の土方歳三に次ぐ総長となりますが、この頃から山南敬助の活躍は記録から消えます。元治元年(1864年)の池田屋事件には山南敬助の姿はありませんでした。長倉新八はこの頃、山南敬助が病気で屯所に引きこもっていたと記しています。同年11月、新選組は江戸で隊員の募集を行い、北辰一刀流の伊東甲子太郎を山南敬助より上位の立場の参謀として迎えます。
山南敬助は元治2年(1865年)2月に「江戸に行く」という置き手紙を残して屯所を出ました。山南敬助のこの行動は脱走とみなされ、近藤勇と土方歳三は山南敬助と懇意だった沖田総司に後を追わせました。山南敬助は沖田総司におとなしく捕縛され屯所に戻りました。新選組では脱走は切腹とされていました。長倉新八と伊東甲子太郎は山南敬助に脱走するよう説得しましたが、死を覚悟していた山南敬助はこれを受け続けず、元治2年(1865年)2月23日に本人の希望で沖田総司の介錯により切腹して果てました。山南敬助の最期を見届けた近藤勇は山南敬助の覚悟の死を称賛して「浅野内匠頭でもこう見事にはあい果てまい」と述べたと伝えられています。
最期の日を迎えるにあたり、長倉新八が山南敬助が馴染にしていた遊女の明里に会わせたと伝えられていますが、永倉新八の手記には明里の名は一切は登場していません。新選組始末記の著者の子母沢寛の創作とされています。山中敬助は京都の壬生屯所近くの光縁寺に眠っています。
山南敬助が脱走した理由にはいくつかの説があります。ひとつは新選組が伊東甲子太郎を山南敬助より上位の立場で迎えたことです。しかし、伊東甲子太郎は山南敬助の死を悼んで和歌を詠んでいます。2人が対立していたとは考えられません。最も有力そうな理由は山南敬助が尊皇派だったことです。新選組はその活躍により幕臣となり尊皇派浪士の壊滅を進めます。新選組の隊士が増えて壬生村の屯所が手狭になったとき、近藤勇と土方歳三は屯所を京都の西本願寺に移しました。西本願寺は尊皇派と近い関係にあったのですが、近藤勇はあえて西本願寺を屯所とすることで尊皇派の動きを抑えようとしたのです。山南敬助は屯所の移動に反対しましたが、近藤勇や土方歳三は山南敬助の意見を受け入れませんでした。これによって特に土方歳三との対立が深まり、新選組を離脱する決心をしたと伝えられています。
さてここからは私見になります。新選組が厳しい法度を制定したのは芹沢鴨を中心とした水戸浪士たちの狼藉を戒めるためでした。新選組は京都の治安維持活動を行う組織ですから、隊士が狼藉を働くことを許しませんでした。厳しい法度で組織を統制し、朝廷や幕府や京都の人々からの信頼を回復しようとしたのです。法度はすべての隊士を対象とするものでしたらか、近藤勇派の隊士といえども規則に反すれば処罰の対象になりました。
先述の伊東甲子太郎は尊皇派で新選組から離脱し御陵衛士(高台寺党)を結成しました。このとき試衛場時代からの生え抜きの同士で最年少の藤堂平助が伊東甲子太郎と行動をともにしています。慶応3年(1867年)11月18日夜、新選組は伊東甲子太郎の暗殺と御陵衛士の壊滅を目的とする油小路事件を起こしました。藤堂平助は仲間とともに伊東甲子太郎の遺体の回収に駆けつけたところを待ち伏せしていた新選組に斬られ19日未明に死亡しました。長倉新八の記録によると近藤勇は藤堂平助は殺さずに助けるように指示をしていたそうです。現場で藤堂平助を見逃す手立てとられましたが、事情を知らずに鉢合わせした隊士が藤堂平助を斬ってしまったのです。藤堂平助は新選組が自分を逃そうとする意図があることを知りつつ、あえて戦う道を選んだとも伝えられています。
藤堂平助の例を考えると、もしかすると近藤勇は山南敬助を許そうと考えていたのかもしれません。土方歳三も懇意にしていた沖田総司に山南敬助の後を追わせています。他の隊士を派遣していたら斬り合いになっていたはずです。沖田総司が迎えに行けば、山南敬助は抵抗することなく戻ってくると考えたのでしょう。そして実際には山南敬助はおとなしく沖田総司に捕縛され戻ってきました。もし山南敬助が永倉新八らの説得を聞き入れ脱走していたら、近藤勇はあえて見逃していたかもしれません。もしかすると脱走を促すよう命じたのは近藤勇だったかもしれません。
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