カテゴリー「今日は何の日」の283件の記事

2021年11月27日 (土)

ノーベル賞制定記念日(1895年11月27日)

 スウェーデンの化学者アルフレッド・バルンハート・ノーベルは1833年に貧しい建築家の家庭に生まれました。父は1837年にロシアのサンクトベルぐで機械や爆発物の製造で成功し兵器開発を手掛けるようになりました。

 ノーベルは父の影響で幼少期から爆発物に興味をもちその原理を学んでいましたが、父が事業成功し家庭が裕福になると化学と語学の英才教育を受けました。1850年にフランスの化学者テオフィル=ジュール・ペルーズの講座を受講し、1851年から4年間米国に留学しました。

 ペルーズの元にはニトロセルロースの研究でパイログリセリンを開発したアスカニオ・ソブレロがいました。パイログリセリンは後にニトログリセリンと改名されますが、ソブレロはニトログリセリンが非常に扱いにくい危険な物質であると警告していました。 ニトログリセリンは黒色火薬より7倍の爆発威力を持つため鉱山の発破に使われていました。しかし、導火線で点火しても爆発せず、そのくせ衝撃や摩擦で爆発してしまうため非常に扱いにくい物質でした。そのため事故が多発していました。

 1856年にクリミア戦争が終結すると父の事業はうまくいかなくなり、1859年に父はノーベルと一緒にスウェーデンに戻りました。ノーベルは1855年頃にはニトログリセリンのことを知っていたようで、スウェーデンに戻るとニトログリセリンの安全な製造方法、保管方法、使用方法などの研究開発を始めました。1863年に特許を取得するものの、この爆薬が危険であることには変わりありませんでした。

 1864年にノーベルの弟と助手の計6名がグリセリンの精製中に爆発事故で亡くなりノーベル自身も怪我を負いました。この事故でスウェーデンにおけるニトログリセリンの研究開発が許可されなくなり、ノーベルはドイツで研究を進めることにしました。ノーベルはニトログリセリンを安全に扱う方法を求め続け、1866年にニトログリセリンを珪藻土に染みこませ雷管を用いて爆発させるダイナマイトを発明しました。1867年に米国と英国でダイナマイトの特許を取得しました。

 ダイナマイトは鉱山や工事現場などで使われ人々の生活を豊かにするものとなりました。同時に軍事にも使われるようになりました。ノーベルはダイナマイトが軍事目的で使われることは想定していたようですが、ダイナマイトの破壊力が戦争を抑止すると考えていたようです。しかし、ダイナマイトは多くの人の命を奪うことになりました。「死の商人」とまで揶揄されたノーベルは自身の評価を気にするようになりました。

 ノーベルは自らの発明が多くの人命を奪っことに対する償いや自身の名誉回復のため何かできないかを考えました。そして1895年11月27日にダイナマイトで手に入れた巨額の財産を基金として人類のために最大の貢献をした人たちに賞を与えると遺言状に書いて署名しました。賞の対象となる分野は物理学、化学、医学または生理学、文学、軍縮や平和推進に貢献した個人や団体とされました。その後、経済学が追加されました。

ノーベルと遺言書
ノーベルと遺言書

 ノーベル本人は遺言書に書いた賞に名をつけませんでしたが「ノーベル賞」と呼ばれるようになりました。そして翌年12月10日にノーベルは永眠したのです。ノーベル賞の授賞式は毎年ノーベルの命日に行われています。

ノーベル (コミック版 世界の伝記)

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2021年11月26日 (金)

世界初のインスタントカメラ発売(1948年11月26日)

 カメラの基本原理であるピンホール現象は紀元前3世紀から6世紀頃にまとめられたアリストテレスの「問題集」の中に言及があり、最初は太陽の観察などに利用されました。人物や景色などを模写する目的のカメラの原型カメラオブスクラが登場したのは15世紀頃です。

 このカメラオブスクラはスクリーンに映った像を眺めるだけで、像を写真として残すことはできませんでした。その後、感光材が発見され世界初の銀塩写真が撮影されたのは1822年です。その後、カメラと感光材が改良され1839年にジルー・タゲレオタイプというカメラが開発されました。しかし、最初のカメラは写真を撮影するのに長い露光時間を必要としました。わずかな時間で写真が撮影できるようになったのは1871年以降です。

 銀塩カメラの写真を得るには撮影したフィルムに現像・定着・停止といった操作を行い、印画紙に焼き付ける必要があります。写真屋さんにフィルムを持ち込んでプリントしてもらう必要があり、現在のデジカメで当たり前にできている撮影直後に写真を見ることはできなかったのです。

 米国の科学者・発明家のエドウィン・ハーバート・ランドは自身が発明した偏向フィルムを事業化するため研究所を設立しました。サングラスやカメラのフィルターなどを開発し事業は成功を収め、1937年に社名を「ポラロイド」に変更し、偏光フィルムをポラロイドという名前で売り出しました。このポラロイドは光学分野でさまざまな目的で使用されるようになり、ポラロイド社は広く光学分野の仕事を手掛けるようになりました。

 1940年代半ば、ランドは3歳の長女ジェニファーを連れてニューメキシコ州サンタフェに旅行しました。ランドがジェニファーの写真を撮影すると、ジェニファーは「どうして撮ったばかりの写真を見ることができないの?」と言いました。この娘の言葉でランドはインスタントカメラを思いつきました。ランドはさっそくインスタントカメラの研究を始め、フィルムだけで現像から停止までが行える拡散転写法という写真技術を発明しました。

 1947年2月21日、ランドはアメリカ光学学会でインスタントカメラのデモンストレーションを行いました。そして1948年11月26日、ポラロイド社は「ポラロイドランド95」と名付けたインスタントカメラをボストンのデパートで発売しました。このときポラロイド社はこのカメラを60台生産し3台を確保、残り57台を発売しましたが初日に完売したそうです。撮影してすぐに写真を見ることができるポラロイドカメラはその後も改良が重ねられ、1960年代には全世界で販売されるようになりました。

ランドとポラロイド635
ランドとポラロイド635

 カメラのディスプレイで撮影直後の写真を見ることができるデジカメが主流になると、ポラロイドカメラはほとんど使われなくなりました。しかしながら、銀塩カメラの常識を打ち破って登場したインスタントカメラはランドの娘の素朴な疑問に応えるものだけではなく、撮影した像を写真として残す技術を開発した最初期の技術者たちの夢を叶えたものだったと言えるでしょう。

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2021年11月24日 (水)

進化の日(1859年11月24日)

 11月24日はイギリスのチャールズ・ダーウィンが1859年同日に「種の起源」を出版したことから進化の日とされています。

 ダーウィンは1809年に裕福な医師の家庭に生まれました。子どもの頃から博物学に興味があったダーウィンは医師になるため1825年にエディンバラ大学に進学し医学と地学を学びました。しかしながら、ダーウィンは医師の仕事は自分には向かないと考え1827年に退学します。自然科学に興味をもち昆虫採集や動物のはく製の製作技術を学んだのもこの頃でした。

 ダーウィンの父は医師を諦めたダーウィンを牧師にするため1827年にケンブリッジ大学神学部に転学させました。ダーウィンは牧師と博物学の仕事は両立できると考え父の提案を受けましたが、ケンブリッジ大学においても博物学や昆虫採集に没頭しました。ここで博物学者ジョン・スティーブンス・ヘンズローと出会いその後の博物学の研究に大きな影響を受けました。また地層学者アダム・セジウィッグのもとで地学的能力を発揮しています。

 1831年にケンブリッジ大学を卒業したダーウィンはヘンズローの紹介で南米の探検に向かうイギリス海軍の測量船ビーグル号に研究員として乗船することになりました。ダーウインはビーグル号の航海で様々な動植物やその化石の調査を行いました。ダーウィンはこの航海における調査を通じて生物は環境に適用するように分岐して多様な種を生じると考えるようになり1938年に自然選択説に着想しました。そして長い時間をかけて自説の研究を重ねていきました。

 ダーウィンが研究をしている間にイギリスのアルフレッド・ラッセル・ウォレスは独自の調査結果からダーウインの自然選択説と同様な考えを着想しました。やがてウォレスはダーウィンと手紙でやり取りするようになり、1958年にダーウインに自説の論文を送りました。当時、ダーウィンは家族の看病をしており余裕がありませんでした。ダーウィンは急ぎまとめた自身の論文とウォルスの論文を知人の学者に送り、それらの取り扱いを委ねました。知人はダーウィンとウォルシュの論文を共同で発表しました。ウォルシュには事前の相談はありませんでしたが、ウォルシュは名高いダーウィンとの共同発表に満足しました。ウォルシュは自然選択説の有力な学者の仲間入りをしたのです。

 1859年11月24日、ダーウィンは長年の自分の研究をまとめた著書「種の起源」を発表しました。ダーウィンはこの著書で生物は自然選択、生存競争、適者生存などの要因によって環境に適応するように分岐し多様な種を生じると説明しています。

ダーウィンと進化論
ダーウィン(左)と進化論(右)

 ダーウインは自説を自然の生物の営みに限定していましたが、ダーウインの学説は「優れたものは変革して生き残る」というような誤った解釈で人間の社会活動に思想として適用され、政治や経済そして全体主義や民族主義に利用されるようになりました。しかし、ダーウィンの進化論は優れた生物が意図的に環境に適応して生き残るという意味ではなく、環境に適応できた生物が結果として生き残ることができるというものです。

進化と絶滅 生命はいかに誕生し多様化したか (別冊日経サイエンス235)

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2021年11月22日 (月)

レーマーが光の速さは有限と発表(1676/11/22)

 光の速さは秒速約30万キロメートル、1秒で地球を7周半することができる速さです。光はあまりにも速いため昔の科学者たちは光は瞬時に伝わると考えていました。近世においても、光の屈折について考察し虹ができる仕組みを解き明かしたフランスのルネ・デカルトや、天体の運動を考察しケプラーの法則を導いたドイツのヨハネス・ケプラーも光は一瞬にして伝わると考えていました。しかし、光速が無限大である証拠は何もなかったのです。

 世界で初めて光速を測定したのはパリ天文台で働いていたデンマークの天文学者オーレ・クリステンセン・レーマーとされています。レーマーは1676年11月12日に光速の測定結果を発表し、光速を秒速22万キロメートルと求めたと言われています。ところが、レーマーは実際には光速は測定していませんし、光速の値を発表したわけでもありません。どうしてレーマーが世界で初めて光速を測定したことなったのでしょうか。

 レーマーがパリ天文台にやってきたのは1672年のことでした。このとき天文台台長を務めていたのはイタリアの天文学者ジョバンニ・カッシーニです。カッシーニは木星の衛星や土星の衛星を観測し天体観測で多大なる功績を残しています。

レーマーとカッシーニ
レーマー(左)とカッシーニ(右)

 当時はヨーロッパ諸国が海外進出を果たした大航海時代が終盤に差し掛かった頃でした。多くの航路が発見されて盛んに貿易が行われるようになると、船の安全な航行が求められるようになりました。そのためには正確な航海図と船舶が周囲に何もない洋上で自分の位置を正確に把握する方法が必要でした。

 位置は南北の位置を表す緯度と東西の位置を表す経度で求めることができます。南北の位置を表す緯度は水平線と太陽や北極星のなす角度から比較的簡単に求めることができます。一方、東西の位置を表す経度を求めるためには基準の位置と自分が存在する位置の時差を求める必要があります。当時は正確な時計がなかったため経度を正確に求めることはできませんでした。そのため、いかにして正確に時間を測るかが正確な航海図を作るための重要な鍵となっていました。

 ヨーロッパの多くの国が自国の天文台を基準にした海図を作成しようと経度を正確に求める方法の発明に懸賞金をかけていました。例えば、ガリレオは 1610 年に自作の望遠鏡で木星の4つの衛星を発見していますが、これらの衛星の食(衛星が木星の裏側に隠れる現象)が規則的に起こることから、世界のどこからでも確認できる標準の時計として使えると考え経度を求める方法を提案しています。しかし、この方法は詳細な観測データを必要としました。ガリレオの提案した方法はカッシーニによって実現されましたが、この方法は衛星の観測に時間がかかるという欠点がありました。この方法は地上で経度を求める目的には使えましたが、洋上で経度を求める目的には使えませんでした。

 レーマーはカッシーニのもとで木星の衛星の動きを調べていました。衛星イオの食が始まる時刻を調べているうちに、地球が木星の近くに存在しているときと遠くに存在しているときでは食が始まる時刻が22分ずれていることに気が付きました。

木星の衛星イオの食のずれ
木星の衛星イオの食のずれ

 レーマーはイオの公転周期は一定であることからこの現象は観測によるものと考えました。そして、光が一瞬で伝わるのであれば地球と木星の距離に関係なく食が始まるのは同時刻になるはずであり、この時間のずれは光が木星から地球に伝わる時間に関係しており、光の速度は無限大ではなく有限であるに違いないと結論づけました。そしてこの理論を1676年11月22日にパリの王立科学アカデミーで発表しました。

 実はこの現象はカッシーニも気がついていましたが、光速は無限大と考えていたため時刻のずれの原因を突き止めることはできていませんでした。そして、カッシーニはレーマーの光速は有限の値であるという主張を決して認めませんでした。そのため、レーマーの結論はフランスでは認められませんでした。一方、イギリスのニュートンやオランダの物理学者で後に光の波動説を唱えたクリティアーン・ホイヘンスはレーマーの考えを支持しました。

 さて一般にレーマーが求めた光速は秒速約 22 万キロメートルとされていますが、レーマーの興味は光速が有限であることを証明することだったようで値までは求めませんでした。レーマーの理論から光速の値を求めたのはホイヘンスです。

 ホイヘンスはレーマーが観測した食のずれの時間 22 分(1320 秒)と当時知られていた地球の公転の直径2億 9120 万キロメートルから、光速を秒速 22 万キロメートルと求めました。この値が実際の光速の値である秒速 30 万キロメートルからかけ離れているのは、地球の公転の直径や食が遅れる時間が不正確だったからです。現在、知られているそれらの値(ずれ:16 分 36 秒= 996 秒、公転直径:2億 9920 万キロメートル)を使って計算すると光速は秒速30万キロメートルに近い値になります。

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光速の測定実験は航海図の作成がきっかけだった

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2021年11月20日 (土)

日本でコアラ初公開(1984年11月20日)

1984年10月25日、オーストラリアから多摩動物公園に贈られた2頭の動物が日本に到着しました。その動物とは雄のコアラのタムタムとトムトムです。

 オーストラリア政府は1980年までコアラの輸出を禁止していました。コアラの生息数が激減していたからです。当時、オーストラリア以外でコアラを見ることができたのは米国のサンディエゴ動物園だけでした。 サンディエゴ動物園にコアラがいるのは1915年に飼育を開始していたからです。オーストラリアは1980年に法律を改正し、コアラの輸出を許可しました。これによって日本の動物園にコアラが贈られることになったのです。

多摩動物公園のコアラ
多摩動物公園のコアラ

 トムトムとタムタムは1984年11月20日に多摩動物公園で一般公開されました。1985年9月に2頭の雌が贈られて、翌年には子どもが生まれました。コアラは有袋類で生まれたばかりの子どもの大きさは約2cmです。生後約6ヶ月ぐらいまで母親の袋の中で成ちます。残念ながら最初に生まれた子どもは生後3か月で落下して死亡してしまいましたが、その後の子どもたちは順調に育ちました。

 当初はコアラの飼育は大変だったようです。コアラはユーカリを食べますが、特定の種類の若葉しか食べないなど嗜好があります。また同じユーカリでも前日は食べたのに今日は食べてくれないなど、コアラの嗜好にずいぶん振り回されたそうです。

 ユーカリの葉には昆虫や動物から身を守るためタンニンや油分が含まています。コアラはユーカリの匂いを確認しながら選別して食べる修正があります。コアラは2メートルもある盲腸でユーカリの毒素を発酵し分解したうえで消化します。ユーカリの葉から十分な栄養を取ることができないため1日のほとんどを樹上で寝て過ごし動きも緩慢です。通常、水を飲むことがなく水分はユーカリから賄います。

 コアラが愛らしい顔をしていることもあり日本はコアラブームとなりました。コアラは今でも動物園で人気の動物ですが、来日当初ほどの人気はなくなりました。動物園で飼育されているコアラの頭数も減り、現在はコアラを飼育している動物園が協力して共同繁殖をしています。

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2021年11月19日 (金)

東海道本線の全線電化(1956年11月19日)

 昭和31年(1956年)の経済白書の「日本経済の成長と近代化」の最後に「もはや戦後ではない」という言葉が記されています。これは前年の昭和30年(1955年)の国民総生産(GP)が戦前の水準を超え、戦後の高度成長時代が始まり神武景気を迎えたことを意味していました。「もはや終戦ではない」は国民の間で流行し、多くの人々が将来に向けて希望を持ち始めたのです。

 昭和31年(1956年)11月19日、日本国有鉄道(国鉄、現JRグループ)の東海道本線の米原ー京都間が電化され、これによって東京から神戸まで東海道本線の全線が電化されました。電化前はC62形蒸気機関車が特急「つばめ」や「はと」として東京-大阪を結びましたが、電化後はEF58形電気機関車に置き換えられました。これによって東京ー大阪の所要時間が30分短縮され7時間30分となりました。

 昭和33年(1958年)、151系(20系)の特急電車「こだま」の運行が始まり、東京ー大阪を6時間50分で結びました。「こだま」は国鉄で初めての電車による有料の長距離特急列車となりました。電車の特急がしばらく登場しなかったのは、電車の騒音が大きく乗り心地が良くなかったからです。先頭の動力車が客車を引く機関車の方が乗り心地が良かったため、とりわけ長距離の特急列車は機関車が牽引していたのです。しかしながら、技術の向上により電車の性能が向上し20系電車(後に151系に変更)が開発され「こだま」が登場することになったのです。

特急こだま
特急こだま

 「こだま」は機関車と異なり客車にも動力が搭載された動力分散方式を採用しています。機関車が客車を牽引する動力集中方式よりも速度を向上できることからその後の多くの電車や気動車で採用されるようになりました。電車の台頭により幹線を中心に鉄道の電化が全国で進められました。

 1964年10月1日に開業した東海道新幹線の0系は技術の粋を集めた動力分散方式の高速列車で未来を予想させる高度成長時代の象徴にもなりました。

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2021年11月18日 (木)

ミッキー・マウス初登場(1928年11月18日)

 1928年11月18日、アメリカでディズニーの短編アニメーション映画「蒸気船ウィリー」が公開され、ミッキー・マウスが初めて登場しました。この「蒸気船ウィリー」がミッキーマウスとミニーマウスのデビュー作とされているため11月18日はミッキーとミニーの誕生日や銀幕デビューの日とされています。

ミッキー・マウスのシルエット
ミッキー・マウスのシルエット

 しかしながら、ミッキー・マウスとミニ・マウスは「プレーン・クレイジー」(1928年5月制作)と「ギャロッピン・ガウチョ」(1928年8月制作)に出演しています。ところが、この2つの映画は試写はされたものの配給会社に採用されなかったためお蔵入りとなってしまいました。

 当時の映画は音声が入っていないサイレント映画でしたが1927年に世界初の音声の入ったトーキー映画「ジャズ・シンガー」が公開されました。ウォルト・ディズニーはアニメ映画でもトーキーが台頭すると考え、サイレントだった「蒸気船ウイリー」に音声を入れてサウンドトラック式のトーキー映画に仕上げました。

 当時トーキーのアニメ映画はめずらしく「蒸気船ウィリー」は配給会社に採用されニューヨークのコロニー・シアター(現ブロードウェイ・シアター)で公開されました。「蒸気船ウィリー」は大成功を収め、ミッキー・マウスとミニー・マウスは人気のキャラクターとなりました。そして、1928年11月30日に「ギャロッピン・ガウチョ」が2作目として公開され、1929年3月17日に「プレーン・クレイジー」が3作目として公開されたのです。

 ですからミッキー・マウスとミニー・マウスが銀幕デビューし多くの人に知られるようになったのは1928年11月18日となり、この日が2人の誕生日となったのです。

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2021年11月17日 (水)

マウスの特許公開(1970年11月17日)

 マウスはパソコンを操作するのに欠かせない入力機器ですがその歴史はコンピュータでマウスが使われていなかった時代に遡ります。

 マウスは米国のダグラス・エンゲルハートによって発明されました。第二次世界大戦末期の1944年、オレゴン州立大学に在学中のエンゲルハートは徴兵によってアメリカ海軍に入隊しフィリピンで沿岸警備隊のレーダー技師として1946年まで働きました。この2年間の間に米国の技術者ヴァネヴァー・ブッシュの論文「As We May Think」 を読み衝撃を受けたといいます。

 ブッシュは1930年代に情報検索システム「Memex(メメックス)」の概念を発表し、あらゆる情報が蓄積され検索することができる通信機能を備えた装置を提唱しました。Memexはマイクロフィルムに情報を記録することができ、また記録した情報はインデックス化されており、キー操作で瞬時に検索できるものでした。また記録されたマイクロフィルムは鎖のようにつなぎ合わせることができ、枝分かれさせたり、コメントをつけたりすることができるようになっていました。Memexは単なる索引付け検索システムではなく人間の連想と同様な情報蓄積と情報検索を実現するものだったのです。ブッシュはMemexを個人の記憶の拡張するものと考え、その構想を広げていきました。そして、その考えを論文としてまとめAtlantic Monthly誌1945年7月号で発表したのです 。As We May thinkには現在でいうところのパソコン、インターネット、WWW、ウイキペディア、マルチメディアなどの発明が予想されていました。

 さてエンゲルハートは戦後に大学に戻り電気工学を学びました。卒業後いったん就職しましたが、As We May thinkの構想に基づいた環境を実現することを夢見てカリフォルニア大学バークレー校大学院に進学し電気工学を学びました。エンゲルハートはレーダー技師の経験から情報を可視化できることを知っていました。コンピュータは単なる計算機ではなく対話型となり、情報を検索して問題解決するために利用できると考えていました。1995年に博士号を取得し大学に残りましたが自分の考えていることを実現することはできないと考えて1年で退職しました。その後、会社を創業しましたがAs We May thinkの構想の実現を諦めることができずこの会社も1年で閉じてしまいました。

 エンゲルハートは1957年にスタンフォード研究所(現SRIインターナショナル、SRI International)に入所しました。ここで実績をあげたエンゲルハートは1962年に「Augmenting Human Intellect: A Conceptual Framework(人類の知性の増強: 概念的フレームワーク)」、という報告書を作成しAs We May thinkの構想の実現に向けた研究を提案しました。このエンゲルハートの報告書が評価され、国防高等研究計画局ARPA(現DARPA)が研究を支援することになりました。

 エンゲルハートは1960年代半ばまでにビットマップによる画面表示、マウス、ハイパーテキスト、グループウェア、グラフィカルユーザインタフェース (GUI) などを考案しました。パソコンも存在しておらず、ソフトウェアも目的に対応した一本プログラムでしかなかった時代に現在のコンピュータ環境の基礎となる要素を開発していたのです。

 エンゲルハートは1967年に「X-Y position indicator for a display system"(表示系のX-Y位置指示装置)」の特許を申請し、1970年11月18日に特許を取得しました。この装置は縦方向と横方向の2つの金属の円盤で位置を決めるもので、コードのついた装置がネズミのように見えたためマウスと名付けられました。今ではコンピュータの操作に欠かせないマウスですが当時はマウスを使うことができるコンピュータは一般には存在していませんでした。マウスの特許は1987年に失効し、エンゲルハートはマウスの発明で特許のライセンス料を受け取ることはできませんでした。

ダグラス・エンゲルハートとマウス特許の図
ダグラス・エンゲルハートとマウス特許の図

 1968年12月9日、ダグラス・エンゲルバートはコンピュータ会議 (Fall Joint Computer Conference)で自身が開発したマウスをはじめとするコンピュータの要素技術を公開しました。世界初の対話型コンピュータのデモンストレーションを行い、マウスを使ってネットワーク化されたコンピュータシステムを動かし、ハイパーテキストとリンク、テキスト編集、マルチ・ウィンドウ、CRTディスプレイ、テレビ会議などを実演した。このデモは「Mother of all demos(全てのデモの母)」と呼ばれています。エンゲルハートにとっては自身が温めてきたAs We May Think構想を実現するデモだったことでしょう。

1968 “Mother of All Demos” by SRI’s Doug Engelbart and Team

 最期にAs We May thinkはエンゲルハートに影響を与えただけでなくコンピュータネットワークの概念を生み出したジョゼフ・カール・ロブネット・リックライダーやハイパーテキストやハイパーメディアを生み出したテッド・ネルソンにも影響を与えました。

 いまやコンピュータネットワークは装置と装置だけでなく人と人をつなぐプラットフォームです。As We May Thinkに刺激された技術者の成果が次々にリンクされた結果として現在のインターネットが成り立っていると考えると感慨深いものがあります。

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世界初の電子掲示板(BBS)が登場(1978年2月16日)

パソコンの日(1979年9月28日)|NECがPC-8001を発売

任天堂「ファミリーコンピュータ」を発売(1983年7月15日)

NCSA Mosaic がリリース(1993年4月22日)

Googleの創業日(1998年9月7日)

Twitter記念日(2009年11月16日)

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2021年11月16日 (火)

録音文化の日(1878年11月16日)

 アメリカの発明家トーマス・アルバ・エジソンが自作の蓄音機(フォノグラフ)を発表したのは1877年12月6日のことでした。エジソンの蓄音機はScientific American誌などで紹介され世界中で知られるようになりました。

 この頃、日本は西洋文化を導入し近代化を図るため外国人学者の雇用を積極的に進めていました。イギリスのグラスゴー大学に勤務していた物理学者ジェームズ・アルフレッド・ユーイングはケルヴィン卿ことウィリアム・トムソンやフリーミング・ジェンキンのもとで働いていました。ユーイングはトムソンとジェンキンの推薦で1878年9月に来日し東京帝国大学で物理学や機械工学を教えることになりました。

 このときユーイングはエジンバラのJ. Milne & Son Makersに製作させたエジソンの蓄音機を持参していました。1878年11月16日に東京帝国大学理学部の実験室で、この蓄音機を使って日本で初めての録音と再生の実験を行いました。この蓄音機や翌年には一般公開が行われ、たくさんの人が蓄音機を見物しました。当時、日本ではこの装置を蘇言機(そごんき)や蘇音機(そおんき)と呼んでいました。

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ジェームズ・アルフレッド・ユーイング

 日本記録メディア工業会は日本で初めての録音・再生の日を記念し11月16日を「録音文化の日」と制定しました。ユーイングが実験に使った装置は2004年に重要文化財に指定され、上野の国立科学博物館・地球館2階「科学と技術の歩み」に蘇言機のレプリカが展示されています。

 なお、エジソンが蓄音機を発表した12月6日は日本オーディオ協会が1994年に「音の日」と制定しています。

円筒レコード式エジソン蓄音機 (大人の科学マガジンシリーズ) 

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エジソンが蓄音機を公開(1877年12月6日)

ビクターが45回転のレコードを公開(1949年1月10日)

東芝カレッジエースGT-610(TOSHIBA College Ace GT-610)|昭和のオープンリールデッキテープレコーダー

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2021年11月15日 (月)

ソ連がオービタ「ブラン」の打ち上げに成功(1988年11月15日)

 ブランはソビエト連邦(ソ連)が開発した再利用が可能な宇宙船(オービタ、再使用型宇宙往還機)です。

ソ連のオービタ「ブラン」
ソ連のオービタ「ブラン」

 ブランはその姿が米国のスペースシャトルに似ているため発表当時ソ連版スペースシャトルと呼ばれましたが、ソ連はこの形状のオービタの構想を1960年代から持っていました。世界で初めて有人宇宙飛行をしたユーリイ・ガガーリンとブランのモックアップが一緒に写っている写真が残っています(Instituts TsAGI )。

 ブランとスペースシャトルは良く似ていますが大きな違いがあります。スペースシャトルはメインエンジンをオービタ本体に備えていますが、ブランにはメインエンジンがなく姿勢制御および逆噴射用のエンジンしか備えていません。スペースシャトルは大きな燃料タンク(茶色)と2基の固体燃料補助ロケットともに打ち上げられますが、ブランは大型ロケットのエネルギアに搭載されて打ち上げられます。

スペースシャトルとブラン
スペースシャトル(左)とブラン(右)

 ブランのオーブタにはメインエンジンが装備されていないためスペースシャトルのオービタに比べて軽量です。そのためスペースシャトより積載量を増やすことができ、大気圏突入時の速度制御や姿勢制御がしやすいという利点があります。

 またスペースシャトルはメインエンジンが不調になるとオービタが危険な状態になりますが、ブランはロケットを切り離すことが可能です。ブランには搭乗員の射出座席が搭載されており、オービタが不調の場合に搭乗員が脱出できるようになっています。

 1988年11月15日午前3時、ブランはバイコヌール宇宙基地から無人で発射されました。地球軌道を206分間周回した後、バイコヌール宇宙基地の滑走路に自動着陸しました。1992年にブランによる有人飛行が計画されていましたが、1991年12月25日のソ連が崩壊したことによりすべての計画が頓挫しました。

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