カテゴリー「今日は何の日」の231件の記事

2021年9月14日 (火)

世界で初めて月面に宇宙船到着(1959年9月14日)

 1950年代の終わりに米国とソビエト連邦(ソ連)による人工衛星の打ち上げをきっかけに宇宙開発競争が始まりました。最初の宇宙開発競争の目標は月面探査の成功でした。

 米国はパイオニア計画で1958年8月17日に月探査機パイオニア0号を打ち上げましたが、高度16キロメートルで第一段ロケットが爆発し打ち上げに失敗しました。その後、パイオニア2号、3号の打ち上げには成功しましたが月に到達することはできず十分な成果は得られませんでした。

 一方、ソ連はルナ計画で探査機の月面衝突を目指しましたが3号機(ルナ1958A、1958C、1958C)まで打ち上げの失敗を繰り返しました。1959年1月2日に打ち上げた4号機が月軌道に乗ることに成功し、月面衝突はできなかったものの月近傍まで到達し世界初の人工惑星となりました。ソ連はこの探査機をルナ1号と名付けました。

 続いて打ち上げられた5号機(ルナ1959A)は打ち上げに失敗しますが、1959年9月12日に打ち上げられた6号機、ルナ2号は13日に月近傍に到達し、14日に月面の晴れの海の西部に衝突しました。これによって初期の月面探査はソ連に軍配があがったのです。

ルナ2号機
ルナ2号機

 この後、米国とソ連の宇宙開発競争は有人宇宙飛行となりますが、米国はソ連はユーリ・ガガーリンの有人宇宙飛行の成功によって遅れをとりました。このことがきっかけとなって米国はアポロ計画で人類発の月面着陸を目指すことになったのです。

【関連記事】

スプートニク5号の宇宙犬ベルカとストレルカが生還(1960年8月20日)

地球は青かった ユーリー・ガガーリン 類初の有人宇宙ロケットボストーク1号

「ハムちゃん宇宙へ行く」の巻(1961年1月31日)

ケネディ大統領が月面着陸の声明を出す(1961年5月25日)

アポロ11号打ち上げ(1969年7月16日)

人類が初めて月面着陸(1969年7月20日)

人気ブログランキングへ


科学・学び 人気記事 一覧 科学・学びブログ天紹介所

 

| | | コメント (0)

2021年9月12日 (日)

松川事件被告全員が無罪(昭和38年 1963年9月12日)

 松川事件は昭和24年(1949年)8月17日に福島県の国鉄東北本線の松川駅ー金谷川駅間で発生した列車転覆事件です。国鉄に関わる事件として、同年7月5日に下山事件、7月15日に三鷹事件が起きており、この2つの事件と松川事件を合わせて国鉄三大ミステリー事件と呼ばれています。

 松川事件の列車転覆は人為的な線路の破壊が原因であることが判明し、合計20名の容疑者が逮捕されました。昭和25年(1950年)12月6日の一審では福島地裁が20人全員を有罪とし、うち死刑5名の判決を下しました。昭和28年(1953年)12月22日の二審では仙台高裁では3名が無罪、17名が有罪うち死刑4名の判決をくだしました。

 しかしながら、裁判が進むにつれてさまざまな事実関係が解き明かされ、無実を証明する証拠を捜査機関が隠していたことが明らかになりました。そして、昭和38年(1963年)9月12日、最高裁は検察側による再上告を棄却、被告全員を無罪としました。当日は最高裁の前に報道陣が多数集まり、NHKはテレビ中継を行いました。

松川事件最終審取材(昭和38年9月12日)
松川事件最終審取材(昭和38年9月12日)
最高裁南通用門にて。全員無罪の判決に世論が湧いた

 松川事件は真犯人の特定・逮捕には至らず1964年8月17日午前0時に時効を迎え未解決事件となりました。

【このカテゴリーのその他の記事】

昭和の思い出

今日は何の日

 

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2021年9月11日 (土)

911 アメリカ同時多発テロ事件(2001年9月11日)

 2001年9月11日はアメリカ同時多発テロ事件が起きた日です。

 この日、仕事を終えて知人の車で家まで送ってもらっている途中にラジオからニューヨーク市マンハッタンの世界貿易センタービル(WTC)に航空機が激突したらしいというニュースが入ってきました。ラジオではどんな種類の航空機が激突したのかなどの詳細は報告されませんでした。小型ジェットかプロペラ機が激突したのではないかと思っていました。

 家に着いてテレビをつけてNHKのニュースを見てみると、いきなりもう一機の航空機がWTCに激突している映像が流れました。それが生放送だったのかどうかはもう覚えていませんが、これは事故ではないということがすぐにわかりました。

自由の女神と炎上するWTC
自由の女神と炎上するWTC

 アメリカ同時多発テロ事件では4機の旅客機がハイジャックされました。

 最初にWTCに激突したのはボストン発ロサンゼルス行きのアメリカン航空11便(ボーイング767-200ER N334AA)でした。同機は午前8時にローガン国際空港を離陸し、その約15分後にハイジャックされ8時46分にWTCの北側タワーに激突しました。乗客76名、乗員11名、そして多数の人々の尊い命が失われました。

 次にWTCに激突したのはボストン発ロサンゼルス行きのユナイテッド航空175便(ボーイング767-200ER N612UA)でした。同機は午前8時14分にローガン国際空港を離陸し30分後にはハイジャックされ、午前9時03分にWTCの南棟タワーに激突しました。乗客51名、乗員9名、そして多数の人々の命が失われました。

 ワシントンD.C.発ロサンゼルス行きのアメリカン航空77便(ボーイング757-200 N644AA)はダレス国際空港を午前8時20分に離陸し30分後にはハイジャックされ、午前9時38分にバージニア州アーリントンのアメリカ国防総省本庁舎ペンタゴンに激突しました。乗客53名、乗員6名、多数の人々の命が失われました。

  ユナイテッド航空93便(ボーイング757-200 N591UA)はニューアーク発サンフランシスコ行きで、午前8時42分にニューアーク空港を離陸しました。乗客からの機内電話による通報によって同機は午前9時27分にハイジャックされたことが判明しました。同機はワシントンD.C.に向かいました。目標はアメリカ合衆国議会議事か大統領官邸ホワイトハウスだったと考えられています。外部との連絡でハイジャックの目的を知った乗客は同機の奪還を試みました。乗客たちは「Let's Roll.(さあやろうぜ)」を合言葉に犯人に立ち向かいました。調査委員会の報告によると乗客はコックピットに入ることはできなかったようですが、乗客たちの怒号、コックピットの扉を叩き壊す音、犯人たちの声がボイスレコーダーに記録されています。この乗客たちの抵抗に対して同機は急降下や急上昇を繰り返しますが、午前10時03分にペンシルベニア州ピッツバーグ郊外に時速907キロメートルの速さで墜落しました。墜落の原因は犯人の操縦ミスと考えられています。攻撃は阻止され、他の3機のように地上に甚大な被害をもたらすことはありませんでしたが、乗客33名、乗員7名の命が犠牲となりました。

 ユナイテッド航空93便のハイジャックは映画化され2006年に「ユナイテッド93(United 93)」が公開されています。

 ユナイテッド93 [DVD]

【このカテゴリーのその他の記事】

昭和の思い出

今日は何の日

人気ブログランキングへ


科学・学び 人気記事 一覧 科学・学びブログ天紹介所

 

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2021年9月10日 (金)

カラーテレビ放送開始(1960年9月10日)

 日本のテレビ本放送はNHKによって昭和28年(1953年2月1日)に開始されました。テレビ放送の準備はNHKよりも民間の日本テレビが先に進めていましたが、機材の準備などで遅れを取りNHKに先をこされてしまったという経緯があります。

 テレビが登場する前は映像の娯楽と言えば映画でした。大画面ではないにしろ映像が家庭で見られるテレビ放送は大人気となりました。しかし、初期のテレビの価格は当時のサラリーマンの平均給料が数万円のところ20〜30万円もしたのです。ですからテレビを購入できるのは一部の富裕層のみでした。そこで駅や公園など街中に街頭テレビが設置されるようになり、街頭テレビは大衆の娯楽となりました。

 当初のテレビは白黒で、映画のようにカラー映像を見ることができませんでした。カラーテレビの放送がテレビ本放送から7年後の昭和35年(1960年)9月10日で、NHKおよび民放各社がカラーテレビ放送を開始しました。しかし、家庭に普及していたテレビの多くは白黒テレビであり、カラーテレビはそれほど普及していませんでした。経済成長に伴いサラリーマンの給与も増えてテレビの価格も下がり、1964年東京オリンピックをきっかけとしてテレビの普及率は上昇しましたが、カラーテレビの普及率はそれほど高くありませんでした。多くの国民は1964年東京オリンピックを白黒テレビで観戦していたのです。

 カラーテレビ放送開始後も白黒で放送された番組がたくさんあり、カラー放送の番組はめずらしかったのです。次の写真は1968年10月1日の新聞のテレビ欄です。この日はウルトラセブンの放送が開始した日ですがタイトルの前に[カラー]と表示されています。このようにカラーで放送される番組には[カラー]と表記されることが慣例でした。ウルトラセブンの後番組のパーマンのタイトルには[カラー]がありません。モノクロのアニメ作品だったのです。おそらく多くの子どもたちはウルトラセブンもパーマンも白黒で見ていたことでしょう。

カラー放送を示す新聞のテレビ欄
カラー放送を示す新聞のテレビ欄

 カラーテレビが本格的に家庭に普及し始めたのは昭和40年代後半です。昭和49年(1974年)にカラーテレビの普及台数が白黒テレビを超え、昭和50年代にはカラーテレビが当たり前となりました。

 我が家にカラーテレビがやってきたのは昭和45年(1970年)ぐらいだったでしょうか。親がカラーテレビを買ったというので、カラーテレビはいつくるのかと毎日しつこく聞いた記憶あります。そして、ある日のこと学校から家に帰ると、お茶の間に当時テレビCMで有名だった日立製作所のキドカラーがポンパの人形と一緒にあったのです。昭和48年(1973年)の許潤軍の長嶋茂雄さんの引退セレモニーや仮面ライダーはカラーテレビで見ることができました。

【関連記事】

日本でテレビの本放送始まる(昭和28年 1953年2月1日午後2時)

日本初の民間テレビ局が放送開始(1953年8月28日)

初の日米間テレビ宇宙中継受信実験(昭和38年 1963/11/23)

地上波アナログテレビ放送が終了(2011年7月24日)

人気ブログランキングへ


科学・学び 人気記事 一覧 科学・学びブログ天紹介所

 

| | | コメント (0)

2021年9月 9日 (木)

2001年9月9日問題(2001年9月9日)

 西暦2000年問題。西暦2000年を迎えるに当たりコンピュータの日付の処理に大きな問題が生じる可能性が指摘された問題です。昔のコンピューターは日付を文字列として扱っていましたがメモリの節約のために西暦の上位2桁を省略し、下位2桁のみを記録していました。従って2000年を迎えると、コンピュータの日付の西暦の部分が00になってしまい、1900年と処理されてしまう可能性がありました。しかし、当時、多くの技術者たちは西暦の処理については将来新しい技術が出てくるだろうと考えて、プログラムを開発するにあたり特段の対策は考えていませんでした。また、これはとは別に2000年を閏年の処理をしないように作られているプログラムもありました(2000年2月29日問題)。そして何らの対策もないまま1990年代後半を迎えたのです。

20010909

 多くの技術者は既存のプログラムの内容を確認し必要に応じて修正を行いました。開発に関わった技術者がすでに退職していることなどもあり作業には手間がかかりました。また2000年問題によって物流や金融などで深刻な問題が起こる可能性があると大きく取り沙汰されたこともあり必要以上に慎重な対応をせざるを得なかった面もありました。大きな社会問題となりましたが、技術者の尽力によって2000年を迎えても大きな問題は起こらず収束しました。

 コンピュータの日付の処理には2001年9月9日問題もありました。これはプログラムで時間を管理するデータ型が1970年1月1日午前0時を起点とした経過秒数となっており、2001年9月9日に十進法で10桁(1,000,000,000秒)を超えることでコンピューターの処理に問題が発生する可能性が指摘されたものです。しかしながら、このデータ型は符号付きの32ビットで最大値が2,147,483,647となるため、時間の扱いに本質的な問題が生じるのは2038年1月19日未明で、2001年9月9日問題が起こるとは考えにくいという指摘もありました。

 ところが現実には2001年9月9日問題が発生したシステムも出ました。ほとんどの原因は経過秒数を文字列として扱っていたためです。文字列で数字の大小比較をすると999999999の方が1000000000より大きいと判断されてしまうため、正しく日付順に並べることができなかったり、新しいデータと判断されずに処理が行わなかったり、古いデータと判断されてデータが削除されたりする問題が発生したのです。

 このデータ型の問題は桁数の繰り上がりで生じるため2001年9月9日以前も発生していたはずです。しかし、1970年1月1日午前0時を起点とした秒数が9桁になったのは1973年であり、当時稼働していたプログラムはそれ以降に開発されたものがほとんどだったため長きに渡りこの問題が生じることがなかったのです。

 なお2038年問題はデータ型を符号付き64ビットにすることで西暦3000年まで、64ビット化ができない旧システムの場合は符号なし32ビットとすることで2106年まで回避できる見通しです。

【関連記事】

自動販売機のチェックサムエラー

世界初の電子掲示板(BBS)が登場(1978年2月16日)

NCSA Mosaic がリリース(1993年4月22日)

Twitter記念日(2009年11月16日)

テレワーク・出張・お出かけに便利なグッズ 電源アダプタや充電器など

人気ブログランキングへ


科学・学び 人気記事 一覧 科学・学びブログ天紹介所

 

| | | コメント (0)

2021年9月 7日 (火)

Googleの創業日(1998年9月7日)

 1996年、スタンフォード大学の学生ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンは検索エンジンの研究を始めました。当時の検索システムは検索キーワードの出現回数の多いウェブページを検索結果の上位に表示していました。ペイジとプリンはキーワードに加えて、ウェブページの被リンク数とそのページの品質を評価する新しい検索エンジンを開発し、この技術を「PageRank」と名付けました。当初、検索エンジンはBackRubと呼ばれていましたが、10の100乗を意味する数の単位googolにちなんでGoogleとされました。名前の由来からも分かる通り、ペイジとプリンは自分たちが開発した検索エンジンが膨大な情報をユーザーに提供することを確信していました。

 1997年9月15日、google.domドメインが登録され、1998年9月4日、カリフォルニア州メンローパークの民家のガレージでGoogle社が創業しました。Google社は多くの企業から出資を受けながら企業規模を拡大し、1999年3月にカリフォルニア州パロアルトに本社を移転しました。

 当時、自分はSun Workstationを使ってウェブサイトの構築やウェブページの制作を行う仕事をしていました。当初は検索エンジンは存在せず、ウェブページを探すツールとしてはウェブサイトのリンクを集めてカテゴリごとに表示するウェブページが主流でした。このウェブページは電話帳のようなものであることから米国の電話帳と同じ名前であるイエローページと呼ばれました。

 ある日、Googleというサイトが立ち上がったことを知り、Googleにアクセスしてみました。当時のウェブサイトのトップページはテキストや画像やリンクがたくさん盛り込まれたものが一般的でしたが、Googleのトップページはロゴの下に下にテキストボックスとボタンが表示されているだけの非常にシンプルなページでした。ページが表示された瞬間に「このサイトは何だろう?」「どのように使うのだろう?」「こんなシンプルなページが有用なのか?」などの疑問が生じました。

1998年当時のGoogleのトップページ
1998年当時のGoogleのトップページ

 しばらく思考停止してシンプルなページを見ていましたが、さっそくテキストボックスにキーワードを入力し、ボタンをクリックしてみました。検索結果がたくさん表示された瞬間に全ての疑問が解き明かされ、この検索サービスがたいへんな可能性を秘めていることが理解できました。全世界のウェブページから自分が探している情報が掲載されているページを探して表示してくれるというのは画期的なサービスだったのです。イエローページでは、この情報はこのカテゴリあたりのウェブサイトにあるのではないかと考えて探していたのですから。テキスト検索のGopherもありましたが、Googleはもっと先進的だったのです。そして、その日から自分のブラウザのホームページの設定はGoogleになりました。あれから20年以上経ちましたが、現在もブラウザを開くとGoogleのシンプルのトップページが表示されます。

How Google Works(ハウ・グーグル・ワークス) 私たちの働き方とマネジメント (日経ビジネス人文庫)

人気ブログランキングへ


科学・学び 人気記事 一覧 科学・学びブログ天紹介所

 

| | | コメント (0)

2021年9月 6日 (月)

ソ連戦闘機が函館空港に強行着陸(1976年9月6日)

 1976年9月6日午後1時11分、航空自衛隊奥尻レーダーサイトが高度6,000 mを速度800 km/hで西方から北海道に近づく識別不明機を捉えました。午後1時20分、航空自衛隊千歳基地からF-4EJファントム2機がスクランブル発進しました。

 識別不明機は高度を下げながらさらに北海道に近づいて来たため奥尻レーダーサイトが無線で警告しましたが、午後1時22分に北海道茂津田岬沖合いで領空に侵入しました。同期は進路を南方に向け、さらに高度を下げたためレーダーから機影が消えました。F-4EJファントムは午後1時25分に同機をレーダーで捉えたものの30秒ほどで見失いました。奥尻レーダーサイトはロシア語と英語で警告を続け、午後1時35分に再び機影を捕らえたもののすぐに見失いました。その後、奥尻レーダーサイトもF-4EJファントムも同機を捜索するものの発見することはできませんでした。

 その後、函館上空を旋回するジェット戦闘機が発見され、函館空港事務所が航空自衛隊に問い合わせを行いました。この連絡を受けて午後1時49分にF-4EJファントムが函館方面に向かいましたが、ジェット戦闘機が函館上空を3回旋回し午後1時57分に函館空港に強行着陸したため千歳空港へ引き返しました。ジェット戦闘機は着陸時にパラシュートを開きましたが、滑走路の中央あたりに着地したためオーバーランしました。空港で工事をしていた民間人が同機に近づくと、パイロットが銃を空に向けて威嚇発砲しました。

 午後2時過ぎに航空管制官の通報を受けた北海道警察が到着し、函館空港を完全封鎖しました。当初、警察と自衛隊のどちらが対応するか混乱があったようですが、領空侵犯は自衛隊の管轄だが国内の空港への着陸は警察が管轄する事件であるとして、自衛隊は警察に締め出され空港に入ることができなくなりました。

 北海道の西方からやって来た識別不明機はソビエト連邦(ソ連)のジェット戦闘機ミグ25で、パイロットはヴィクトル・イヴァーノヴィチ・ベレンコ中尉で米国への亡命を要望していることがわかりました。ソ連はベレンコ中尉の身柄とミグ25の引き渡しを要求しましたが、ベレンコ中尉は米国への亡命が認められ、ミグ25は自衛隊の百里基地に移送され日米共同の機体調査が行われることになりました。

函館空港に緊急着陸したMiG-25Pの同型機
函館空港に緊急着陸したMiG-25Pの同型機

 自衛隊はソ連が最高機密のミグ25を取り返しに来たり、破壊しに来きたりした場合に備えました。陸上自衛隊は函館駐屯地に戦車、歩兵部隊、高射砲を配置し、函館の防衛戦闘の準備をしていました。会場自衛隊も日本海側と太平洋側、そして函館付近に艦船を配備し警戒に当たりました。航空自衛隊はF-4EJによる哨戒飛行を24時間体制で行いました。実際にソ連軍が函館にやって来ることはありませんでした。

 ミグ25は1967年7月にモスクワで行われた航空ショーで初めてその姿を現しました。ミグ25の詳細は秘密のベールに包まれていましたが、最高速度はマッハ3を超え、航続距離の長い高性能な戦闘機と考えられました。当時、米国の主力戦闘機はF-4ファントムでミグ25に対抗できる戦闘機ではありませんでした。このため米国はF-15の開発に着手することになります。F-15が実戦配備されたのは1976年1月で、この事件のわずか8ヶ月前のことでした。

 日米の調査の結果、ミグ25は予想されていたほど高性能ではないことが判明しました。たとえば主翼や胴体には耐熱性の高いチタンが使われておらず、マッハ3を超える速度には耐えらず最高速度はマッハ2.83であることがわかりました。またエンジンには旧型のターボジェットエンジンが採用されており、機体が重たいため燃費が悪く、後続距離もF-15に劣ることがわかりました。電子機器には真空管が多用されており、従来の技術の信頼性を重視したもので先進的なものではありませんでした。高速で運動性が優れた戦闘機と考えられていたミグ25は領空の防衛を目的とした迎撃撃機であり、制空戦闘機ではないことがわかりました。つまりソ連や東側勢力が高性能戦闘機ミグ25で攻撃を仕掛けてくるという西側諸国の懸念が払拭されたのです。

 調査後、ミグ25はソ連に返還されましたが、ソ連は防空システムの情報が漏洩したと考えミグ25の搭載機材をすべて変更しました。同年米国が実戦配備したF-15は速度性能を抑えて運動性を重視した戦闘機でした。その後、戦闘機の基本性能は超音速より亜音速での戦闘能力が重視されるようになり、最高速度の向上は求められなくなりました。そのためミグ25は現在においても世界トップクラスの超高速戦闘機です。

 さて、ミグ25によってあっさりと領空侵犯され、函館空港に強制着陸を許してしまった日本は防空の脆弱性が露呈する形になりました。もし、ベレンコ中尉の目的が亡命ではなく攻撃だったとしたら、たいへんな被害が出ていたことは間違いありません。日本はレーダー網を見直し、また、これをきっかけに早期警戒機E-2Cを導入しました。

 自分は当時中学生で北海道の小樽市に住んでいましたが函館市に引っ越すことが決まっていました。とんでもない事件が起きたということはわかりましたが、プラモデルが趣味の友人とミグ25の話で盛り上がったように記憶しています。飛行機のプラモデルといえばハセガワが有名ですが、この事件の前にミグ25のプラモデルが販売されていました。このプラモデルはずいぶん売れ、ハセガワが飛行機のプラモデルの老舗となりました。

【関連記事】

航空自衛隊 F-4EJ ファントム II プラモデル作成

V-22オスプレイ(CV-22)

「飛行機の記事」一覧

人気ブログランキングへ


科学・学び 人気記事 一覧 科学・学びブログ天紹介所

 

| | | コメント (0)

2021年9月 4日 (土)

幻の大型旅客機ブリストル・ブラバゾン初飛行(1949年9月4日)

 第二次世界大戦の終戦中の1942年、イギリスは戦後の民間旅客機の市場を調査するためブラバゾン委員会を設立しました。この委員会は1943年にブラバゾン報告書を提出し、大西洋を横断できる大型旅客機の案の応募を募集しました。ブラバゾン委員会は戦時中の大型爆撃機の開発と生産実績からブリストル飛行機社を選び、同社に2機の試作飛行機を発注しました。

 ブリストル飛行機社が提案したのは当時の旅客機としては全長50 m、翼幅70 mのプロペラ式大型旅客機タイプ167でした。タイプ167はボーイング747よりも大きな旅客機でしたが、大西洋横断の需要は富裕層であると予想されていたため乗客の定員は60から80名の広々とした客席とした豪華な旅客機ました。試作機は1945年から製造が開始し、この試作機はブリストル・ブラバゾンと呼ばれるようになりました。

ブリストル飛行機のブラバゾン
ブリストル飛行機のブラバゾン

 1945年9月4日、ブリストル・ブラバゾンはエンジンの駆動の不調もありましたが初飛行に成功し、大西洋を横断可能な大型旅客機として披露されました。しかしながら、当時の航空業界は大量輸送ができる航空機を期待しており、豪華旅客機のブリストル・ブラバゾンの受注はなく、2機の試作機は廃棄処分されました。ブリストル・ブラバゾンの開発には多大な費用がかかりましたが、初飛行成功までに獲得したノウハウはその後のイギリスの航空機開発の発展に多大な貢献をしました。

【関連記事】

世界初のジェット旅客機の初飛行(1949年7月27日)

ボーイング747が就航(1970年1月23日)

人気ブログランキングへ


科学・学び 人気記事 一覧 科学・学びブログ天紹介所

 

| | | コメント (0)

2021年9月 3日 (金)

ホームラン記念日(1977年9月3日)

 1977年のプロ野球。注目されたのは読売ジャイアンツの王貞治選手のホームラン新記録達成でした。王選手の通算ホームラン数は前年引退したアメリカ大リーグのハンク・アーロンの記録755本を超える世界新記録756本まであと40本まで迫っていたのです。

 迎えた開幕戦4月2日の対中日ドラゴンズ戦では通算14本目の満塁ホームランを放ちますが、その後は調子が上がらずホームラン数や打率も低迷し始めました。30代半ばを超えた王選手に体力的な心配の声もあがり、ホームラン競争も首位の座を広島カープの山本浩二選手に譲っていました。

 しかし、5月に37歳を迎えると本来の調子を取り戻し、7月末には本塁打26号を記録しました。その後も調子をあげた王選手はホームランを量産し首位の座を取り返しました。8月31日、後楽園球場で行われた対大洋ホエールズ戦で三浦道男投手から39号ホームランを放ち、現役19年目の通算2425試合10145打席でハンク・アーロンの記録に並ぶ755号を達成しました。

 ファンや関係者の多くが王選手が次試合にでも756号を達成するだろうと予想しましたが、その後の2試合13打席はホームランが放たれることはありあませんでした。そして迎えた9月3日の対ヤクルトスワローズ戦の第2打席を迎えた3回裏、ツーストライク・スリーボールのフルカウントから投げた鈴木康二朗投手のシンカーを捕えてライトスタンドに放り込み、ついに世界新記録756号を達成しました。9月5日はその偉業に対して国民栄誉賞が贈られました。

756
王貞治選手756号を達成

 王選手は1980年まで現役を続け、現役22年、2831試合、9250打数、2786安打、2170打点、868本塁打、打率.301の記録を残して引退さました。

【関連記事】

王選手756号記念レコード 小学館「小学三年生」正月号ふろく ソノシート

人気ブログランキングへ


科学・学び 人気記事 一覧 科学・学びブログ天紹介所

 

| | | コメント (0)

2021年9月 2日 (木)

リニアモーターカー世界初の有人走行に成功(1982年9月2日)

 日本におけるリニアモーターカーに関する研究は昭和37年(1962年)に日本国有鉄道の鉄道技術研究所で始まりました。当時、まだ東海道新幹線は開業されていませんでしたが、東京と大阪を500 km/hで1時間で結ぶ鉄道の実用化を目標としました。1970年に開催された日本万国博覧会(大阪万博)では新幹線を超える超特急として紹介されました。

大阪万博の記念切手(1970年)
日本万国博覧会(大阪万博)の記念切手(1970年)

 現在、磁気浮上式リニアモーターカーの実験線といえば山梨県の山梨実験線のことですが、最初に開設されたのは宮崎県の宮崎実験線でした。昭和49年(1974年)、当時の日本国有鉄道が鉄道技術研究所の成果をもとに宮崎実験線に着工、昭和52年(1977年)に完成した1.3 kmの区間で走行実験を始めました。昭和54年(1979年)8月には計画されていた全長7 kmの実験線が完成し、同年12月に無人運転で517 km/hの走行に成功しました。この走行実験に用いられたリニアモーターカーはML500型で逆T字形のガイドウェイを採用していたため人を乗せるることはできませんでした。

 昭和55年(1980年)に人を乗せることを目的としてガイドウェイをU型にしたMLU001型が開発され、昭和57年(1982年)9月2日に世界初のリニアモーターカーの有人走行に成功しました。その後、実験が重ねられ、平成7年(1995年)1月にはMLU002N型が411 km/hの有人走行に成功しました。

 宮崎実験線ではリニアモーターカーの走行実験が重ねられましたが、コースがわずか7 kmでほとんどが直線で勾配がないこと、トンネルがないこと、単線のためすれ違いの実験ができないなどの制限がありました。そこで、より距離が長く実用的な走行実験ができるコースが必要とされ、平成8年(1996年)7月に山梨実験線が開所し、客車を有するMLX01型の走行実験が始まりました。平成9年(1997年)には有人走行で531 km/h、無人走行で550 km/hを達成しました。平成27年(2015年)4月21日には有人走行で時速603 km/hを記録しています。

 現在、リニアモーターカーは中央新幹線として2027年に東京ー名古屋間、2037年に名古屋-大阪間の開通を目指して準備が進められていますが、実用化を前に計画当初には予想されていなかった、さまざまな観点から多くの課題が指摘されています。

【関連記事】

リニアモーターカーはどうやって走る?(リニアモーターカーの仕組み)

人気ブログランキングへ


科学・学び 人気記事 一覧 科学・学びブログ天紹介所

 

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧