カテゴリー「今日は何の日」の144件の記事

2021年3月 7日 (日)

山手線が「やまのてせん」に戻る(1971年3月7日)

 自分は1968年ぐらいまで関東に住んでいたのですが、当時、山手線は「やまてせん」と呼ばれていました。その後、関東から離れたのですが1970年代に東京に遊びに行ったときに山手線の呼び方が「やまのてせん」に変わったことを知りました。「やまてせん」の方がしっくりくるのにと感じたことを覚えていますが、そのとき呼び方の変更の由来もあまり考えませんでした。その後、名前が変わった理由を調べたところ、山手線はもともと「やまのてせん」であったことを知りました。

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山手線 103系(1963-1988)

 山手線は都内の下町に対して山の手あたり走る電車だから「やまのてせん」と名付けられたようです。営業開始前は「山ノ手線」と表記する予定でしたが、営業開始時に「ノ」がとれた山手線が採用され、読み方は「やまのてせん」と決まりました。以降、山手線は「やまのてせん」と呼ばれていたのですが、第二次世界大戦後にGHQが交通の施設や標識などにローマ字を併記することを指示した際に、国鉄は山手線に「YAMANOTE」ではなく「YAMATE」と併記しました。これによって山手線は「やまのてせん」と呼ばれなくなり、「やまてせん」という呼び方が定着しました。「やまて」は国鉄職員の間での山手線の通称だったようです。

 1970年9月に大阪万博が終了すると、国鉄は旅客確保の取り組みとして個人旅行拡大のための「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンを開始しました。このキャンペーンでは駅名や路線名をわかりやくする取り組みも行われ、駅名や路線名の誤読を避けるためふりがなをつけることになり、山手線の読み方を再考するきっかけになりました。

 山手線は本来の由来から「やまのてせん」とふりがなをつけることが決まり、1971年3月7日に「やまのてせん」という名前に戻りました。同日、群馬県の長野原線が吾妻線に改称されており「あづません」と誤読されることを避けるために「あがつません」とふりがながつけられていますが、これも山手線の読み方を見直すひとつの要因になったようです。

 さて、山手線というと環状の路線全体と思っている人が多いと思いますが、山手線とは品川駅から田端駅までの路線のことです。東京駅と品川駅の間は東海道線、東京駅と田端駅の間は東北線です。ですから、電車としての山手線は路線としての山手線と東北線と東海道線の3つの路線を走っている電車ということになります。

 ところで、いつも混んでいる山手線ですが、あまりの混雑で目的の駅で降りることができるかどうか心配になるときがあります。特に降りる駅でどちら側のドアが開くのかを知っていると便利です。各駅で開くドアの方向についてはココログ 夜明け前 「山手線の各駅でドアが開く方向」にまとめてあります。

  

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2021年3月 6日 (土)

世界一周記念日(1967年3月6日)

 世界一周路線は出発地となる空港を出発し太平洋と大西洋を横断して世界を一周した後に出発地の空港に戻る単一の航空会社による路線のことです。世界一周と言っても世界のすべての国を巡るわけではありません。実際には地球一周と言った方が的を射ているでしょう。

 さて、日本の航空会社は戦後のサンフランシスコ講和条約に基づき結ばれた日米航空協定(日本国とアメリカ合衆国との間の民間航空運送協定)によって制限を受け、世界一周路線を営業することはできませんでした。

 その後、日米航空協定が改訂され、日本の航空会社が世界一周路線の営業が可能になると、日本航空は昭和42年(1967年)に日本を含むアジアの航空会社として初めて世界一周路線の営業を開始しました。この世界一周路線は西周りと東周りの週2便が設定され、機体はダグラスDC-8が使われました。第一便は同年3月6日0時30分に西回り便が東京国際空港(HND、羽田空港)を出発しました。西回りの世界一周の経路は次のように設定されていました。この日を記念して3月6日は世界一周記念日とされています。

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日本航空の世界一周航路

 東京⇒香港⇒バンコク⇒ニューデリー⇒テヘラン⇒カイロ⇒ローマ⇒フランクフルトorパリ⇒ロンドン⇒ニューヨーク⇒サンフランシスコ⇒ホノルル⇒東京

 当時の日本は東京オリンピック開催後の高度経済成長期にあり、海外旅行の人気が高まっており、世界一周路線は庶民の憧れでした。海外の航空会社もパンアメリカン航空(米国)、トランス・ワールド航空(米国)、英国海外航空、カンタス航空(オーストラリア)が世界一周路線を就航しており、各社で乗客獲得のための競争が行われていました。

 日本航空の世界一周路線は採算性が思わしくなかったことや、1972年に相次ぐ航空事故(羽田空港暴走事故、ニューデリー墜落事故、金浦空港暴走事故、ボンベイ空港誤認着陸事故、シェレメーチエヴォ墜落事故)によってDC-8を3機失ったことから、1972年に営業を終了しました。他の航空会社も採算性の問題から次第に世界一周路線を取りやめていきました。

 現在は世界一周航空券が販売されていますが、これは複数の航空会社の連携によるものです。

 ところで航空機による世界一周は次のように決められています。

・出発地を出発してすべての子午線を通過して出発地に戻ること
・北回帰線の長さ36,787.559 km以上のコースをとること

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修正 カンタス航空(カナダ)→カンタス航空(オーストラリア)

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2021年3月 5日 (金)

日本の空にキャビンアテンダント登場(1931年3月5日)

 現在においては旅客機に客室乗務員(キャビンアテンダント、CA)が乗務しているのはあたりまえのことですが、昔は機内サービスがなかったためCAという職業は存在していませんでした。機内サービスが始まったのは1919年とのことですが、最初は副操縦士が担当していました。

 CAが搭乗するようになったのは1920年代になってからです。当時のCAは男性のみでスチュワードと呼ばれていました。スチュワード(男性)、スチュワーデス(女性)は船舶料理士に由来します。1929年にはパンアメリカン航空が訓練されたCAを搭乗させました。CAは機内サービスや緊急時の対応を担当しました。

 1930年、米国のボーイング・エア・トランスポート社が初めて女性のCAを乗務させました。このCAは看護師の経験があり、機内サービスの他に緊急時の対応も担当しました。現代の感覚からすると不適切ですが、当時は多くの人が危険な乗り物と考えていた旅客機に初めて女性CAを乗務させることにより、航空機の安全性をPRする目的もあったそうです。

 さて、日本の旅客機にCAが乗務するようになったのは翌年の1931年(昭和6年)でした。日本航空学校を運営していた相羽有(あいばたもつ)が1928年に設立した東京航空輸送がCAを募集、同年2月5日採用試験を行いました。そして、140人の応募者から3人を採用したことを3月5日に発表しました。3人の女性CAはエアガールと呼ばれ、東京―下田―清水間の定期路線に乗務しました。

現在のキャビンアテンダント
現在のキャビンアテンダント

 東京航空輸送は1939年(昭和14年)3月27日に国策によって1938年に設立された大日本航空に吸収合併されることになりました。その大日本航空は第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)10月に解散し、同年11月のGHQの指令「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」 (SCAPIN-301) によって日本人による航空に関わる活動はいっさい禁じられました。

 余談ですが日本飛行学校の一期生にはウルトラマンの生みの親でもある円谷プロダクション創設者の円谷英二さんが入学しています。この話はまたの機会にと思います。

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2021年3月 4日 (木)

バレエ組曲「白鳥の湖」の初演(1877年3月4日 )

 「白鳥の湖」は「眠れる森の美女」と「くるみ割り人形」に並ぶピョートル・チャイコフスキー作曲のバレエ組曲です。国立アカデミー・ボリショイ劇場の依頼によってチャイコフスキーが1875年に作曲に着手、1876年に完成させました。

 「白鳥の湖」はチャイコフスキーにとって初めてのバレエ組曲の作曲で、初演は1877年3月4日、ボリショイ劇場バレエ団によって公演されました。現在ではバレエと言えば「白鳥の湖」が定番のように頭に浮かぶ人もたくさんいると思いますが、1877年に行われた初演では高評価を得られず、40回ほど上演されたのちお蔵入りとなりました。

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チャイコフスキーと初演のオデッタ役Anna Sobeşanskaya

 1893年にチャイコフスキーが急死すると、バレエダンサー振付師マリウス・プティパとレフ・イワノフが「白鳥の湖」の振り付けを改めて行い、1895年1月15日にサンクトペテルブルク・マリインスキー劇場バレエ団によって蘇演されました。現在上演されている「白鳥の湖」には演出の異なる様々な版がありますが、どれも初演版ではなくプティパとイワノフの蘇演版が元になっています。日本での初演は1877年の初演から約70年後の1946年8月9日、東京バレエ団が帝国劇場で上演しました。

 ところで、日本の音楽学者の西岡信雄さんは、ハクチョウはダンスを踊らないことから、ダンスを踊る「白鳥」はタンチョウがモデルになっており、ツルのダンスにハクチョウをあわせたのではないかという見解を示しています。実際に「白鳥の湖」のリズムはタンチョウの求愛ダンスによく合うそうです。

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2021年3月 3日 (水)

だんご三兄弟のシングル発売(1999年3月3日)

 NHK教育テレビの「おかあさんといっしょ」に今月の歌がありますが、 1999年1月に全国の子どもたちを魅了したのが「だんご三兄弟」でした。

 「だんご三兄弟」と言えば、串だんごに刺さった3つの団子が兄弟だったという奇抜な設定ですが、これは「だんご三兄弟」を作詞したメディアクリエーターの佐藤雅彦さんのアイデアです。佐藤雅彦さんの「クリック」(講談社 1998年3月発売)という短編集に「串だんごが兄弟だったら一番上と一番下どちらが長男になるのか」が掲載されています(amazon.co.jp クリック~佐藤雅彦超短編集)。佐藤雅彦さんはピタゴラスイッチやポリンキーなど傑作をたくさん生み出しています。この短編集にはちょっと微笑ましくなるような普段の生活の中からの疑問がたくさん掲載されています。またピタゴラスイッチと言えば内野真澄さんが有名ですが、「だんご三兄弟」にも作曲・アニメ担当として参加しています。

 この奇抜な発想を元にした歌詞に加えて、だんごをタンゴとかけたタンゴ調のメロディは、多くの子どもたちの、いや大人たちまでの多くの人の心をわしづかみにしました。「おかあさんといっしょ」で当時のうたのおにいさんとおねえさんの速水けんたろうと茂森あゆみが歌う「だんご三兄弟」が流れると、NHKには問い合わせの電話が殺到し、「おかあさんといっしょ」のオリジナル曲としては初めてのシングルの発売が決まりました。そして、1999年3月3日にポニー・キャニオンから「だんご三兄弟」のCDシングルが発売されました。

 「だんご三兄弟」は初回80万枚が出荷されましたがすぐに完売となり、発売日から3日目には250万枚を超えるCDが出荷され大ヒットとなりました。1999年オリコン年間チャート1位となり、出荷枚数は350万枚を超え、1990年代(集計期間:1989年12月 - 1999年11月)オリコンシングル売り上げランキング第1位にもなりました。「ひらけ!ポンキッキ」の「およげ!たいやきくん」の売上記録を超えそうな勢いでしたが、記録を破ることはできませんでした(ココログ 夜明け前およげ!たいやきくんのシングル発売(1975年12月25日)」)。

 自分は三十代半ばでしたので、テレビで流れたり、街の中で流れている「だんご三兄弟」を聞くぐらいでしたが、やはり歌詞の発想は面白く、そしてタンゴのノリが心地よかったことを覚えています。カラオケで歌っている大人もたくさんいたように思います。タンゴのノリは楽しくなりますね。「だんご三兄弟」で皆川おさむさんの「黒ネコのタンゴ」がずいぶん流行したことを思い出したのですが、その後、皆川おさむさんが「黒ネコのタンゴ/だんご3兄弟」を歌った両A面のCDを発売し、やっぱりそうだよねと思いました。

 下記のCDはオリジナルの「だんご三兄弟」のシングルCDです。裏面は、なぎら・・・ではなくて「だんご3兄弟(オリジナルカラオケ)」です。「およげ!たいやきくん」と違って、「だんご三兄弟」は歌手の速水けんたろうと茂森あゆみさんには2%の印税を支払う契約になっていたそうです。最初から売れると予測できていたからかでしょうか。

 下記のCDは皆川おさむさんの「黒ネコのタンゴ/だんご3兄弟」のCDです。皆川おさむさんは現在はひばり児童合唱団代表になられています。

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2021年3月 2日 (火)

超音速ジェット旅客機コンコルドが初飛行(1969年3月2日)

 1950年代後半、イギリスとフランスはそれぞれ独自に超音速旅客機の研究を始めていました。しかし、同じような機体を開発しても営業上の競合が避けられないことや開発費用の削減などを考慮し、1961年に両国で共同開発をすることになりました。1963年11月29日に両国間で共同開発の協定書が結ばれました。当時のフランスのシャルル・ド・ゴール大統領はこのプロジェクトをフランス語で協調や調和を意味する「コンコルド(Concorde)」と名付けました。

 両国間で主導権や機体の名称の決定について論争がありましたが、開発は着々と進み、機体の名称も「コンコルド」でまとまりました。各国のナショナル・フラッグの航空会社から多数の注文が入り、1967年11月12日にフランスのトゥールーズで機体の原型が公開されました。

 その2年後の1969年3月2日、原型機が初飛行に成功、10月1日には超音速での飛行に成功しています。1976年1月21日からブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスが定期的な商業運行を開始しました

 コンコルドの機体は非常に長い流線型の胴体で、機首は離着陸時には視界確保のために機首を下方に曲げることができるようになっています。また、客室は4列配置の100席でファーストクラスのみの設定でした。

コンコルド
コンコルド(Author Arpingstone

 コンコルドはマッハ2(時速2,500km)の速度でパリ・ニューヨーク間をわずか3時間45分で結びました。当初は未来のジェット機として期待されましたが、客席数や燃料消費量による採算性の問題、離着陸時の騒音や大気汚染の問題などを解決することができず、ビジネスとしては成功しませんでした。原型機を公開した当時は100機を超える注文がありましたが、実際には20機(原型機4機と量産型16機)しか生産されませんでした。

 2000年7月、コンコルド自身の問題ではありませんでしたが墜落事故が起きてしまいます。また2001年の911米国同時多発テロにより航空業界が大打撃を受けると、2003年にブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスはコンコルドの運航を停止することを発表しました。そして、2003年10月24日、コンコルドは最後の飛行を終えました。その後、超音速旅客機が開発されることはなく、コンコルドの最後の歩行をもって、超音速旅客機は世界の空から姿を消すことになりました。

 コンコルドの詳細についてはココログ 夜明け前 「超音速ジェット旅客機コンコルドが就航(1976/01/21)」にまとめてありますのでご一読ください。

 

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2021年3月 1日 (月)

アンリ・ベクレルが放射線を発見(1896年3月1日)

 ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンがエックス線を発見したのは1895年のことでした(夜明け前「エックス線の発見(1895年11月8日)」)。レントゲンの論文を読んだフランスの物理学者アンリ・ベクレルはエックス線が蛍光を生じるのであれば、蛍光物質もエックス線を生じるではないかと考え、蛍光物質とエックス線の関係を調べる実験に着手しました。

 1896年2月、ベクレルは強い隣光を出すウラン化合物を2枚の非常に厚い黒紙に包んで遮光した写真乾板の上におき数日間日光をあてたところ、写真乾板が感光していることを発見しました。そして、27日にフランス科学アカデミーにおいて、ウラン化合物から写真乾板を感光させるXエックス線のような光線が出ていることを報告しました。このとき、ベクレルはこの現象は日光やウラン化合物が出す燐光と関係があるのではないかと考えていました。

 ベクレルは追試のため前述と同じ写真乾板を準備しました。しかし、天候が悪い日が続いて実験が出来ないため、写真乾板を黒い紙で包み、紙の上にウラン化合物とマルタ十字の形をした文鎮を重しとして乗せて机の引き出しにしまっておきました。

 1896年3月1日、ベクレルは、この写真乾板にマルタ十字が写っていることを発見しました。このことから、ベクレルは写真乾板の感光には日光や燐光は関係しておらず、ウラン化合物から出たエックス線と似た光線によるものと考えました。そして、その光線について、エックス線の実験のような特別な装置を使っておらずウラン化合物自身から直接出ていることからエックス線とは違うものと考え、ベクレル線と名付けました。その後、この放射線はエックス線と同様に空気を電離することがわかりました。このウラン化合物は放射能を持つ放射性物質であり、ベクレル線とはウラン化合物から出ている放射線だったのです。

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ベクレルとウラン化合物で感光した写真乾板(下側にマルタ十字)

 キューリー夫妻がラジウムを発見したのは、このベクレルの発表に関心を持ちベクレル線を出す物質の研究を続けた成果とされています。その後も放射性物質の研究を続けたベクレルは、キューリー夫妻とともに1903年ノーベル賞を受賞しています。

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2021年2月28日 (日)

ビスケットの日(2月28日)

 2月28日は「ビスケットの日」です。昭和55年(1980年)に全国ビスケット協会が、ビスケットのゆかりの人物「柴田方庵」の業績から制定しました。

 江戸時代の蘭学者・医師の柴田方庵は寛政12年(1800年)に常陸国で生まれ、14才に江戸に出て儒学と医学を学びました。天保2年(1831年)に長崎へ出て、シーボルトの門弟やオランダ軍医オットー・モーニッケのもとで西洋医学を学びます。モーニッケは牛痘の接種を方庵に指導しました。方庵は日本で初めて牛痘の接種を行った1人となり、各地で牛痘の接種を行い普及に努めました。

 方庵は長崎で医業を行う傍で御目見得格として長崎や海外の情報を水戸藩に伝えていました。水戸藩の萩信之助は西洋の「パン・ビスコイト」の製造方法を習得して報告するよう方庵に依頼しました。「ビスコイト」はオランダ語でビスケットのことです。

 方庵はオランダ人の職人から「パン・ビスコイト」の製法を学びました。そして、安政2年(1855年)2月28日(旧暦)に「パン・ビスコイト」の製法を書いた手紙を水戸藩に送りました。この日を記念してビスケットの日は2月8日とされました。

 また、ビスケットの語源はラテン語で2度焼かれたものを意味することから、二(2)度、焼(8)かれたものという語呂合わせも記念日制定の由来に加えられました。旧暦の2月28日は新暦では4月14日ですので、語呂合わせから旧暦2月8日を選んだのではないかと思います。

 なぜ水戸藩は「パン・ビスコイト」の製法が必要だったのでしょうか。「パン・ビスコイト」は西欧の保存食で兵糧になると考えたようです。当時の水戸藩は第九代藩主の徳川慶篤(とくがわよしあつ)の時代でした。父の徳川斉昭(とくがわ なりあき)は将軍徳川慶喜の実父ですが、軍事訓練を進め鉄砲の一斉射撃を行ったり、仏教弾圧の罪を行ったりしたことを幕府に問われて1844年に隠居させられ家督を慶篤に譲ります。

 その後、斉昭は藩政に復帰しますが、嘉永6年(1853年)にペリーの艦隊が浦賀に来航すると、開国に反対する攘夷論を主張します。後年、開国論を主張する井伊直弼と対立し、政争で負けてしまいます。

 安政5年(1858年)、大老となった直弼は日米修好通商条約を勅許することなく独断に調印しました。また、このとき斉昭は第十四代将軍として実子の慶喜を推挙していましたが、直弼は自分が推挙していた徳川家茂を第十四代将軍に就任させました。このことに対して斉昭は同年に賛同する尾張藩主と福井藩主と共に直弼を詰問しましたが、逆に江戸城に無断で登城した責任を追求され水戸屋敷での謹慎を命じられます。

 直弼の日米修好通商条約の調印は無勅許だったため、孝明天皇は水戸藩に幕政改革を命じる勅書を下賜しました。これを「戊午の密勅」と言いますが、直弼は将軍と江戸幕府が蔑ろにされたとして「安政の大獄」の弾圧を開始し、これにより斉昭は水戸での永久蟄居を命じられました。このとき、慶篤も登城停止とされてしまいます。その後、尊王攘夷派が幕府の実験を握ったため、水戸藩は復権しますが、このように水戸藩は波乱万丈だったのです。

 こうした経緯がビスケットの製法を入手するきっかけになったのかどうかはわかりませんが、当初は開国を迫る米国との戦争、その後は内乱への対応のため保存できる兵糧を探し始め、ビスケットにたどりついたのではないでしょうか。薩摩藩は戊辰戦争の前に東京の風月堂へ乾パンを5000人分発注したそうです。水戸藩のビスケットの製法取得にも軍事的な理由があったことはあながち否定できません。
 
 ところで、ビスケットとクッキーはよく似ていますが、消費者への混乱を避けるため、不当景品類及び不当表示防止法でその違いが定義されています。詳しくはココログ 夜明け前 「クッキーとビスケットの違い」をご一読ください。

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2021年2月25日 (木)

映画「未知との遭遇」日本公開(1978年2月25日)

 1978年2月25日はスティーブン・スピルバーグ監督の映画「未知との遭遇」が日本で公開された日です。

 当時、自分は中学生で、公開日に友達と数名で映画館に「未知との遭遇」を見に行きました。映画について、事前に何も調べていないので、宇宙人に出あう映画を見に行くぐらいのおもむきで、どんな映画なのかは見てのお楽しみの状態でした。

 その頃、宇宙ものと言えばウルトラシリーズ(1966-1975年)、宇宙戦艦ヤマト(アニメ1974年)、キャプテンハーロック(漫画1977年)、「銀河鉄道999(漫画1977年)」など日本の漫画作品、テレビのアニメ番組、アニメ映画をよく見ていました。海外作品では「謎の円盤UFO(1970年)」や「宇宙大作戦(1966年、スタートレック)」などの再放送を見ていました。

 つまり、宇宙人の多くは地球を侵略しに来た悪者であり、宇宙人の映画と言えば地球人と宇宙人の戦いを主題としたものがほとんどだったのです。また、ジョージ・ルーカス監督の映画「スター・ウォーズ」が日本で公開されたのが1978年7月1日ですから、スター・ウォーズの人間同士が戦う宇宙戦争の世界観も体験していませんでした。

 「未知との遭遇」は地球人に接近遭遇する宇宙人との出会いを描写します。第二次世界大戦中にバミューダトライアングルで行方不明となったアメリカ軍の戦闘機が現れるなどの怪現象に始まり、謎の発光体や飛行物体の目撃、UFOの情報を集めながら岩山の模型を作り出す技術者ロイ、飛行物体に自ら近づきそして連れ去られるジリアンの息子バリー、謎を一緒に探り始めるロイとジリアン、宇宙人の正体が明かされていきます。

 この様子を見ている中学生たちは、宇宙人はどんな姿をしていていつ登場するのか、地球人が宇宙人や円盤にどのように立ち向かうのかなどを手に汗を握りながら想像し、球人と宇宙人の戦いが始まることを期待して見ていたわけですが、これが一向に宇宙人は姿を現さないのです。

 やがて、宇宙人と連絡を取る方法がわかり、地球人は第三種接近遭遇の準備を開始。宇宙人から受信したデータがワイオミング州のデビルズタワーの位置を示すものであることが判明すると、デビルズタワー周辺から住民を退避させます。実は技術者ロイが作っていた岩山の模型はデビルズタワーの形そっくりだったのです。宇宙人からのメッセージを機械に頼らずに受けていた人間がいたのです。技術者はデビルズタワーに向かいます。

 デビルズタワーにたくさんの円盤が現れる。いよいよ宇宙人と出くわし、戦いが始まる!

 地球人が送った信号によって、たくさんの円盤は飛び去っていきました。いやいや戦いは始まらないぞ。

 すると、デビルズタワーの背後から巨大な円盤が姿を現します。

 色光と音(レミドドソ)でメッセージのやり取りをする宇宙人と地球人。やがて巨大な円盤はデビルズタワーの頂上に着陸、円盤の入り口が開くと、あたりが眩い光で照らされます。その光の中から連れ去られた多くの地球人が返される。その中には連れ去られた幼児もいました。そして、姿を現すたくさんの宇宙人たち。

 結局のところ、宇宙人が何を目的に地球にやってきたのか明かされることはありまでんでした。宇宙人との戦いもありません。

 宇宙人と言えば、すぐに侵略だ戦争だという発想でしたが、「未知との遭遇」を見て実際の世界で宇宙人がやってきたら、このような出会いになるのかもしれないと思うようになりました。遠くに突き進む山間の道路をたくさん落書きしていた記憶があります。

 ところで後年ずいぶん大人になってから見た映画ですが、いやいやそんな平和な出会だけではないよという映画がありました。

 巨大な円盤がやってきてあっという間に地球の侵略を開始する映画「インデペンデンス・デイ」です。

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2021年2月24日 (水)

正義の味方 月光仮面参上(1958年2月24)

 「どこの誰かは知らないけれど誰もがみんな知っている」。2月24日は月光仮面のテレビ番組の放映が始まった日です。

 月光仮面が登場する前から「正義の味方」と呼ばれたヒーローはいますが、多くの国民が初めて認知した「正義の味方」と言えば月光仮面でしょう。

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函館市さかえ通りにある月光仮面の像
夜明け前「函館と月光仮面の関係」 

 月光仮面の原作者の川内康範さんは「正義の味方」をヒーローの立ち位置として定義づけました。正義とは本来神仏のように普遍的な存在で、「正義の味方」は正義を守ろうとする者ではあるものの正義そのものではないといことです。

 ですから、「正義の味方」は、悪を懲らしめ、善を助けるが、裁きはしません。加えて「正義の味方」は正義を守るのと同時に誰を守るのかという点において、普遍的な正義からぶれた判断や行動をとらざるを得ないこともあります。

 川内康範さんは「正義の味方」を象徴するものとして月を選びました。月光仮面のシンボルが満月ではなく三日月となっているのは、人の善悪や、人の心の変化を月の満ち欠けで表現したからだそうです。月光仮面の詳しい話については、ブログ  光と色と THE NEXT月光仮面|月光|光と色のヒーロー列伝②」をご一読ください。

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