カテゴリー「今日は何の日」の395件の記事

2022年5月22日 (日)

マイクロソフト社Windows 3.0を発表(1990年5月22日) 

 1980年代のパソコンは一回の起動でひとつのソフトウェアしか動かすことができませんでした。フロッピーディスクというソフトウェアの入ったディスクを使ってパソコンを起動すると、パソコンがそのソフトウェアの機能を持つ道具となるわけです。

 やがてソフトウェアを動かすOSとしてデジタルリサーチ社のCP/Mやマイクロソフト社のMS-DOSが広く使われるようになりました。OS上でソフトウェアが稼働するようになると複数のソフトウェアをフロッピーディスクに記録することができるようになりました。つまりパソコンを1回起動するだけで複数のソフトウェアを動かすことができるようになりました。もちろん複数のソフトウェアが同時に動くというわけではありません。別のソフトウェアを動かすためには動いているソフトウェアを終了し、コマンドを入力して別のソフトウェアを起動する必要がありました。この頃のパソコンは比較的パソコンに詳しい人しか使いこなすことはできませんでした。

 1980年代後半にハードディスクが一般化するとパソコンはハードディスクに記録されたOSから立ち上がるようになりました。数十メガバイトの容量をもつハードディスクにはたくさんのソフトウェアを記録することができるようになりました。この頃になるとIBMにPC-DOSとして採用されたMS-DOSが主流となりました。

 ハーディスクにたくさんのソフトウェアを記録できるようになると後にラウンチャーというソフトウェアを起動するためのソフトウェアが使われるようになりました。パソコンが起動するとラウンチャーが立ち上がり、ハードディスクに保存されているソフトウェアのメニューが表示されます。そのメニューを矢印キーで操作して使用したいソフトウェアを選び起動します。ソフトウェアを終了すると再びラウンチャーが画面が表示されます。後にマウスが登場するとマウスでラウンチャーを操作できるようになりました。ラウンチャーによって多くの人がパソコンを使えるようになりました。しかしながら、同時に複数のプログラムを使うことはできなかったのです。

 当時1台のコンピュータで複数のプログラムを同時に動かすことができるシステムは存在していました。現在のようにマウスとキーボードで画面を操作しマルチウィンドウで複数のプログラムを動かすことができるシステムは米国のダグラス・エンゲルハートによって発明されたものです。マウスの発明者としても知られるエンゲルハートは1968年に次世代のコンピュータシステムについて発表していますが、これが現在のウインドウシステムの原型となっています。

 いち早くウィンドウシステムを採用したのはUNIXシステムです。1980年代後半にサンマイクロシステムズのSuntools(SunView)やマサチューセッツ工科大学が開発したX Windowを使った経験がありますが誰もが気軽に使えるものでもありませんでした。

 パーソナルコンピュータで稼働する最初のウィンドウシステムで有名なのは1984年に登場したAppleのマッキントッシュのOSですが、ウィンドウシステムが多くの人に知られるようになったきっかけはマイクロソフト社のWindowsでしょう。

 最初のWindows 1.0は1985年11月20日にリリースされましたが宣伝の割には作動するプログラムも限られていたため評判はよくありませんでした。またウィンドウがオーバーラップ表示できず使いにくいという問題もありました。その後、IBMとマイクロソフト社が共同で開発したOS/2が注目されました。OS/2は本格的なプリエンプティブマルチタスクOSで1988年11月にリリースされたVersion 1.1ではプレゼンテーション・マネージャというGUIが搭載されていました。このプレゼンテーション・マネージャはウインドウをオーバラップ表示することができましたが、そのGUIとして採用されたのがWindows 2.0でした。1989年10月にOS/2 Version 1.2がリリースされると、マイクロソフトはOS/2の開発から手を引きWindowsの開発に注力するようになりました。以降のOS/2はIBMが単独で開発することになりました※。

 マイクロソフトはWindows 2.0を1987年12月にリリースしていましたがマルチタスクOSとしてはOS/2に劣っていました。当初はOS/2が優位に見えましたがMS-DOSとの互換性の高いWndowsが次第に多くのユーザーを獲得していきました。マイクロソフトの表計算ソフトウェアExcelも台頭しはじめ、当時よく使われてた表計算ソフトウェアLotus 123の市場を席巻していきました。

 マイクロソフトはWindows 2.xを大幅に改良したWindows 3.xの開発に着手しました。25人で編成されたWin3チームが2年半の歳月をかけて開発にあたり、1990年5月22日にWindows 3.0が公式に発表されました。日本では1991年1月23日にNECのPC9800シリーズ用の発売が始まり、その後多くのパソコンメーカーがWindows 3.0を採用しました。

 次の写真は自宅の本棚から出てきた東芝のWindows 3.0のカタログです。

Windows 3.0のカタログ(東芝)
Windows 3.0のカタログ(東芝)

 Windows 3.0はMS-DOS上で稼働するため本格的なマルチタスクOSではなくノンプリエンプティブ・マルチタスクOSでしたが複数のソフトウェアを同時に起動して利用できるウィンドウシステムになりました。GUIも大幅に改善されパソコンが使いやすくなり、Windows 3.xで稼働するアプリケーションが増えていきパソコン用OSとして市場を拡大していきました。そして1992年に使いやすさや機能を向上しながらより安定的に稼働するWindows 3.1がリリースされると、Windowsがパソコン用OSとして不動の地位を確立していくすきっかけを作りました。

 当時はインターネットよりもパソコン通信が主流で自分はニフティサーブを利用していました。パソコンのRS232C端子にモデルを取り付けパソコン通信を行い、ニフティサーブのフォーラムに参加しました。やがてインターネットが利用できるようになりましたが、Windows 3.1にはインターネット接続環境(WinSock)が存在していませんでした。雑誌に付録としてついてた「Trumpet Winsock」や「Internet Chameleon 」を自分でインストールしモデム接続でインターネットを楽しみました。当時の回線速度はわずか14,400 bpsでした。

※本格的なマルチタスクOSでOS/2バージョン2でWindows 3.0互換環境でGUIもしっかりしていましたがMS-DOSとの互換性や稼働するアプリケーションが少ないことなどが原因で2002年に最終バージョンをリリースし2006年にサポートを終了しました。

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2022年5月19日 (木)

ボクシングの日(1952年5月19日)

 5月19日は日本プロボクシング協会が2010年に制定した「ボクシングの日」です。1952年5月19日、白井義男が世界フライ級王者ダド・マリノに勝利し日本初のボクシング世界チャンピオンとなりました。

 マリノはアメリカのハワイのボクシング選手で1951年5月21日に世界フライ級王者として来日し白井とノンタイトルマッチを行い10回戦判定勝ちをしています。同年12月4日、白井がハワイのホノルルに赴きマリノとノンタイトルマッチ10回戦を戦い7回TKOでマリノを倒しています。1952年5月19日、白井とマリノは1勝1敗の状態で後楽園球場で15回戦タイトルマッチを行い白井が判定勝ちし世界チャンピオンの王座を手にしました。マリノは同年11月に白井に15回戦で再挑戦しましたが判定負けしています。白井は1954年までに4度の防衛を果たし約2年間世界王者の座につき敗戦で心が折れていた日本人の希望の光となりました。

 白井がプロボクサーとなったのは戦時中の1943年のことでした。8試合を戦い全勝の成績を納めていましたが第二次世界大戦で招集され特攻隊の整備士となりました。このとき腰を痛めてボクシングができない状況になりましたが、復員後に出会ったのがGHQで働いていたアルビン・ロバー・カーンでした。カーンは生物学者でGHQの天然資源局に所属しており日本人の食糧支援のために日本沿岸の海洋生物の調査を行っていました。カーンが王子拳道会(現:帝拳)を訪れたときに目にとまったのが白井でした。

 カーンは白井の長い腕とボクシングの優れた素質を見抜き、白井に対して生活からトレーニングまで全て金銭的な支援をすることを約束し白井の専属ボクシング・コーチとなりました。カーンは生物学の専門家としてまた体育講師としての経験から白井に栄養学を取り入れた先進的な科学的トレーニングを行いました。腰痛に悩まされていた白井も次第に回復しボクシングの能力を高めていきました。またカーンは白井にガードを中心とした防御の中から相手の隙を見つけて一撃を与える「打たせずに打つ」という戦い方を教え込みました。これは当時の日本の「打たれたら打ち返す」という戦い方とは真逆な戦法で批判もありましたが白井の戦績によって認められるようになりました。

 そして迎えた1952年5月19日、カーンと二人三脚でボクシングのトレーニングを重ねてきた白井はついに日本初のボクシング世界チャンピオンとなったのです。カーンは日本が独立を果たした後も日本に残り白井が引退するまでコーチを続け白井とは家族同様の関係となりました。

白井義男が日本初の世界チャンピオンになる(1952年5月19日)
白井義男が日本初の世界チャンピオンになる(1952年5月19日)
左:白井義男とダド・マリノ 右:白井義男とアルビン・カーン(カーンは左端)

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2022年5月18日 (水)

18リットル缶の日(5月18日)

 5月18日は「18リットル缶の日」です。18リットル缶、かつてはその用途から「石油缶」と呼ばれた四角形の金属製の容器です。その後、用途が広がり尺貫法で1斗の容量をもつことから「一斗缶」と呼ばれるようになりました。第二次世界大戦後は単位ガロンを使って「5ガロン缶」と呼ばれましたが、日本では「一斗缶」が定着しており「5ガロン缶」と呼ばれたのはわずかな時期だけでした。現在はJIS規格で正式名称が「18リットル缶」になっていますが、俗称として「一斗缶 」と呼ばれています。

一斗缶(18リットル缶)
一斗缶(18リットル缶)

 なぜ1斗が石油缶に選ばれたかというと1斗18リットルが人が運べる最大の容量とされたからです。四角形なのは倉庫や荷台すき間なく積み上げられるようにするためです。「一斗缶」の材質は鉄鋼にスズを加えたブリキです。内容物によって内側をコーティングしており様々な液体を入れることができます。

 「斗」は尺貫法における体積の単位です。尺貫法の体積は「升」が基本単位となっています。昔は「升」の大きさは地方によって異なっていましたが江戸時代に統一されました。メートル法に換算すると一升は約1.803 906 837リットルになります。「斤」は1升の1/100、「合」は1升の1/10、「斗」は1升の10倍、「石」は一升の100倍です。1斗は10升ですから約18リットルということになります。

 一方、ガロンはヤード・ポンド法における体積の単位です。ガロンの大きさは国によって異なりますが日本は米国液量ガロンの数値を採用しています。米国液量ガロンの1ガロンは3.785412784リットルですが、日本では3.785412リットルとされています。5ガロンは18.9リットルになり一斗より約1リットル大きな値となります。

 現在の18リットル缶も正確に容量が18リットルというわけではありません。JIS規格では18リットル缶はZ1602:2003で天板と地板の一辺の長さ238.0±2.0mm、高さ349.0±2.0mm、質量1140±60 g、容量19.25±0.45リットルと定めらています。積み上げることを考えて大きさは厳密に定義されていますが、質量と容量には値に幅があります。

 さて5月18日が「18リットル缶の日」とされたのは5ガロンの「5」と18リットルの「18」に因んだものです。

 昔はそこら中で一斗缶を見かける機会がありましたが最近はポリタンクが使われるようになりあまり見かけなくなくなりました。昔は一斗缶の天板をくり抜いてゴミ箱や灰皿として使ったり、たき火やゴミ焼きに使ったりしました。18リットル缶は優秀な容器であることから現在でもたくさんの使われておりリサイクルも行われています。

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2022年5月17日 (火)

お茶漬けの日(5月17日)

 お茶漬けはご飯にお茶をかけて手軽に手早く食べられる料理です。いろいろな具材を乗せることで高級な料理にもなります。ご飯に水や湯や汁をかけた料理は米を食べるようになってすぐに始まったと考えられています。古代の日本には文字がありませんでしたので当時の記録は残っていませんが、飛鳥時代や平安時代には水飯や湯漬けを食べていたことが記録されています。しかしながら、同時代にご飯にお茶をかけて食べたという記録はなく「お茶漬け」が食べられるようになったのは江戸時代の中頃と考えられています。

お茶漬け
お茶漬け

 さて5月17日は「お茶漬けの日」です。2012年に「永谷園のお茶づけ海苔」の発売60周年を記念し永谷園が制定しました。「永谷園のお茶づけ海苔」は同社創業者の永谷嘉男が開発し1952年に「江戸風味お茶づけ海苔」という名前で発売を開始しました。1953年に株式会社永谷園本舗(現:株式会社永谷園ホールディングス)が設立され「江戸風味お茶づけ海苔」は1956年に「永谷園のお茶づけ海苔」に名称が変更されました。

 「永谷園のお茶漬け海苔」は永谷嘉男の父の永谷武蔵が開発した「海苔茶」が元になっています。「海苔茶」は細切り海苔とお茶と塩を混ぜたもので湯を注いで飲む飲み物でした。永谷嘉男はこの「海苔茶」にあられなどを加えて「江戸風味お茶づけ海苔」を作りあげました。あられを入れたのは京都のお茶漬けである「ぶぶ漬け」を参考にしたそうです。販売当初の包装は現在のように密閉されていませんでした。そのため海苔などの具材が湿気を帯びてしまいます。あられを加えることによってあられが湿気を吸収する乾燥剤の役割を果たし具材が湿気るのを軽減しました。

 永谷嘉男は江戸時代に煎茶の製法「青製煎茶製法」を開発し煎茶の普及に多大な貢献を果たした永谷宗円こと永谷宗七郎の10代目の子孫です。宇治茶の栽培農家で働いていた宗七郎は美味しいお茶を作るためお茶の製法を研究開発しました。そして自身が15年かけて作り上げた煎茶の販売を江戸の茶商の山本嘉兵衛に託しました。山本嘉兵衛は株式会社山本山の4代目社長で宗七郎の煎茶を天下一として発売しました。これによって宗七郎の「宇治の煎茶」が大人気となり山本山は大きな利益をあげました。宗七郎は安永7年(1778年)5月17日に亡くなりましたが、山本山は明治8年(1875年)まで永谷家に毎年25両を贈りました。宗七郎は自身が開発した製法を積極的に広めたため「宇治の煎茶」は全国に普及しました。永谷宗円は京都宇治の大神宮神社に「茶宗明神」として祀られています。永谷園が「お茶づけ日」を5月17日としたのは永谷宗円の命日に由来します。

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2022年5月16日 (月)

旅の日(1689年5月16日)

 5月16日は「旅の日」です。松尾芭蕉が1689年5月16日(旧暦 元禄2年1869年3月27日)に「奥の細道」の旅に出発したことに由来し、1988年に「日本旅のペンクラブ」が制定しました。「日本旅のペンクラブ」の「旅の日」のページによると「年に一度、旅を愛する人々が集い、日本人の旅行観や旅行関連業界の将来など、旅について考え、語り合う機会」とされています。

 ところで芭蕉が156日をかけて約450里(1768キロメートル)に渡る「奥の細道」の旅をしたのは45歳のときでした。1日の平均移動距離は7里半(約30キロメートル)に及び40キロメートル以上歩いた日もありました。このことから芭蕉の正体は忍者で幕府の密命により東北を調査するための旅をしたという説があります。

 しかしながら当時の男性は1日10里(約39キロメートル)は歩くことができたそうです。東海道なら江戸の日本橋から京都の三条大橋までの124里124里8丁(約488キロメートル)を13日で歩きました。つまり1日あた9.6里(37.5キロメートル)も歩いていたのです。このことを考えると、松尾芭蕉が歩いた距離は当時の男性より少し速かったぐらいでしかありません。忍者は1日40里(160キロメートル)移動するそうですから芭蕉の歩行速度は忍者には及びません。

 「奥の細道」の旅で芭蕉に同行した河合曾良という人物がいます。曾良は長野県諏訪の出身で芭蕉との旅を終えた1709年に幕府の巡見使随員として九州諸国の大名の監視の旅に出ています。もしかすると曾良には忍者の素養があったのかもしれません。

松尾芭蕉と河合曾良
松尾芭蕉(左)と河合曾良(右)
森川許六作

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2022年5月15日 (日)

ヨーグルトの日(1845年5月15日)

 いまから5~6千年前のメソポタミアの遺跡から牛を飼い乳搾りの様子を描いた石板が発掘されています。人類はそれ以前の新石器時代から酪農を始め牛乳を利用してきたと考えられています。

 私たちが普段飲んでいる牛乳は殺菌処理されたものですが古代の人たちは牛から絞ったままの生乳を利用していました。生乳は腐敗しやすいため長期間保存することができませんが、古代の人たちは偶然から保存性に優れたものを作りだしました。人類が生乳を利用し始めて間もなく発見した乳製品はヨーグルトです。生乳に乳酸菌が偶然混入したことによって乳酸発酵が起こり、タンパク質が固められて酸味のある腐敗しにくいヨーグルトができたと考えられています。

 20世紀の初めウクライナの微生物学者イリヤ・イリイチ・メチニコフはブルガリアに長寿の人が多いのはヨーグルトに含まれるブルガリア菌が老化予防に役立っているためと発表しました。メチニコフは老化の原因は大腸菌が作り出す腐敗物質であるとし、ヨーグルトをたくさん食べると大腸が乳酸菌で満たされる老化を予防できると考えました。メチニコフは1908年に食菌作用の研究でノーベル生理学・医学賞を受賞しています。

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 このメチニコフの誕生日1845年5月15日に因んで株式会社明治が5月15日を「ヨーグルトの日」と制定しました。後に腸内細菌や乳酸菌の研究が進むと腸内細菌のバランスが健康に深く関係していることが判明し、メチニコフの説が正しかったことが証明されました。

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2022年5月14日 (土)

温度計の日(1686年5月14日)

 5月14日は「温度計の日」です。この日は水銀温度計を発明し華氏温度(単位:°F)を考案したドイツ人物理学者ガブリエル・ファーレンハイトのユリウス歴での誕生日1686年5月14日(グレゴリイオ歴では5月24日)に由来します。ファーレンハイトが漢字で華氏となったのはファーレンハイトの中国語表記が「華倫海特」であることに由来します。最初の「華」に人名の接頭辞「氏」を加えて華氏となりました。

 ファーレンハイトが華氏温度を提唱したのは1724年です。ファーレンハイトが華氏温度を考案した経緯には諸説あります。

 ファーレンハイトは当時使われていたレーマー温度(霊氏)(注)が日常の温度にマイナス値が現れることに不便を感じていました。そこで自身が測定できる最も低い外気温を0度としヒトの体温を100度とすることにしました。0度は寒剤を使って再現し(-17.8℃)、100度は自身の体温(ヒツジの体温という説もある)37.8℃を測定しました。この100度を12等分しさらに8等分して96等分した0~96°Fの目盛を作成しました。つまり人工的に作り出せる最低の温度を0°F、人間の平均体温を96°Fと定義したのです。華氏温度によると水の凝固点(氷の融点)は32°F、水の沸点は212度となり、その温度差がちょうど180度になります。

ガブリエル・ファーレンハイトと摂氏と華氏の温度計の比較
ガブリエル・ファーレンハイトと摂氏と華氏の温度計の比較

 また異説としてはレーマー温度では水の凝固点が7.5度、沸点が60度だったため小数点をなくすためにそれぞれに4を掛けて30度と240度にしたという説もあります。ヒトの平均体温を96°Fとし水の凝固点との差を64度になるように調整した結果、水の凝固点(氷の融点)が32°F、水の沸点が212度となったというものです。差を64度としたのは2のべき乗(2の6乗は64)としたからです。

 華氏温度は1960年代まで多くの国で使用されまたが、メートル法で摂氏温度(セルシウス温度、単位:℃)が採用されると華氏温度が使われるようになりました。しかしながら、アメリカ、カナダ、イギリスなどでは体温や気温の表記に未だに華氏温度が使われています。

 摂氏温度Cと華氏温度Fの関係は以下の通りです。

 F = 9/5 × C + 32

 C = 5/9 ×( F - 32 )

(注)1676年に光速は有限であることを発表したデンマークの天文学者オーレ・レーマーが考案した温度 

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2022年5月12日 (木)

アメリカザリガニが日本にやって来た日|ザリガニの日(1927年5月12日)

 アメリカザリガニはザリガニ下目アメリカザリガニ科のザリガニです。名前の通り原産地はアメリカ合衆国のミシシッピ川流域ですが分布を広げ現在は世界各地で生息しています。水深が浅くて流れの緩い水田、用水路、池などに生息しています。体長は一般に8~12センチメートルぐらいですが20センチメートルほどまで成長する個体も存在します。体色は赤色や褐色をしていますがこれは植物性のエサに含まれる色素に由来します。エサが動物性に偏ると青色や白色になります。

アメリカザリガニ
アメリカザリガニ

 アメリカザリガニは水質汚染にも強く雑食性で繁殖力も高いため生態系に大きな影響を与えます。水草を切断するため水生昆虫の住処や魚の産卵場所を減少させます。またもともと日本ではザリガニと言えば在来種のニホンザリガニのことでしたがニホンザリガニの個体数が激減しアメリカザリガニの方がザリガニと呼ばれるようなりました。

 アメリカザリガニは現時点では特定外来生物に指定されていませんが侵略的外来種に選ばれています。 アメリカザリガニは生態系に大きな影響を及ぼしているものの広く飼育を規制すると大量に遺棄されるなど弊害が予想されるため、販売などを目的とした飼育を規制するなど新たな規制の仕組みや対策が必要とされています(令和4年1月 中央環境審議会「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律の施行状況等を踏まえた今後講ずべき必要な措置について(答申)」)。なおアメリカザリガニを除く外来種のザリガニは特定外来生物と指定されています。

 さてアメリカザリガニはかつては日本に存在していませんでした。昭和2年(1927年)5月12日に神奈川県鎌倉郡岩瀬の鎌倉食用蛙養殖場(現:岩瀬下関防災公園)が食用のウシガエルのエサとしてアメリカ合衆国から輸入されました。このとき100匹のアメリカザリガニが輸入されましたが日本に無事にたどり着いたのはわずか20匹でした。この20匹を元に繁殖が行われましたが逃げ出した個体が元になって爆発に増加し全国各地に広がりました。アメリカザリガニをエサとして養殖していたウシガエルも北米原産で現在は特定外来種に指定されています。

 アメリカザリガニは日本で食用とする文化は広まっていませんがアメリカや中国ではザリガニが人気の食材となっています。日本にはザリガニを漁獲すう業者もいないため日本で食べられるザリガニ料理のほとんどは中国産のアメリカザリガニです。ザリガニの食文化が進むと外来種の問題を解決するひとつの有力な手段になるかもしれません。

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2022年5月11日 (水)

コンピュータがチェスの世界チャンピオンに初勝利(1997年5月11日)

 1988年、カーネギー・メロン大学の学生チームはディープ・ソートというチェスをプレイするスーパーコンピュータを開発しました。ディープ・ソートは当時チェス世界チャンピオンであったロシアのガルリ・カスパロフに挑戦しましたがカスパロフに勝つことはできませんでした。

チェス
チェス

 1989年、IBMはディープ・ソートの研究開発を引き継ぎディープ・ブルーというスーパーコンピュータの開発に着手しました。もちろん、ディープ・ブルーの開発目的もカスパロフにチェスで勝つことでした。

 ディープ・ブルーはたった1秒間の間に2億手を先読みすることができました。カスパロフの過去の対戦をもとに作った数式を使って、カスパロフが打ってくるであろう手を予測することができました。ディープ・ブルーはカスパロフと2回それぞれ6戦ずつ対戦しました。

 1回目の対戦は1996年2月に行われました。このときは、カスパロフが3勝1敗2引き分けで勝利しました。ディープ・ブルーはカスパロフにかろうじて1勝することはできましたが勝ち越すことはできませんでした。

 それから約1年3ヶ月後の1997年5月11日、ディープ・ブルーはカスパロフに再挑戦しました。均衡した戦いとなりましたがディープ・ブルーは2勝1敗3引き分けでカスパロフに勝ち越したのです。この対戦は客観的には互角でコンピュータが人間を超えたと判断できるほどのものではありませんでしたが「コンピュータがチェスの世界王者に勝利した」というニュースが世界中で報道されると大きな話題となりました。

 ディープ・ブルーはチェス専用のスーパー・コンピュータですが、この高性能コンピュータの開発で得られた知識や技術は現在のコンピュータに受け継がれています。

 なお世界最強のチェスコンピュータを作る研究開発はディープ・ブルーで終了したわけではありません。2000年代初めにアラブ首長国連邦でヒドラというコンピュータが開発されています。またIBMは2007年にディープ・ブルーの子孫の位置づけのスーパーコンピュータ、ブルー・ジーンを開発しています。

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2022年5月 4日 (水)

スターウォーズの日(5月4日)

 5月4日は「スター・ウォーズの日」で世界中のファンがジョージ・ルーカス作品の映画スター・ウォーズの文化を祝い映画を讃える日とされています。この記念日は1977年にスター・ウォーズ第一作が公開されてからファンの間で草の根的に広まったものです。その由来は劇中の台詞「May the Force be with you(フォースと共にあらんことを)」に由来します。May the ForceをMay the Fourthにかけたものです。

 「スター・ウォーズの日」が初めて著名な紙上で言及されたのは1979年5月4日です。前日にイギリスでマーガレット・サッチャーが首相に選出されたことを受けて保守統一党が「5月4日にフォースと共にあらんことを、おめでとう(May the Fourth Be with You, Maggie. Congratulations.)」という広告をロンドン・イブニング・ニュース紙に掲載しています。

スター・ウォーズ特別塗装機「R2-D2 ANA JET」(787-9型機 )
スター・ウォーズ特別塗装機「R2-D2 ANA JET」(787-9型機 )
2016年5月撮影 於 羽田空港

 「スター・ウォーズの日」は様々なメディアで言及されるようになり、この日にスター・ウォーズを記念するイベントが行われるようになりました。もともとはルーカス・フィルムが公認するものではありませんでしたが、2012年にウォルト・ディズニーカンパニーが配給会社になるとディズニーランドやディズニーワールドでも「スター・ウォーズの日」を記念したイベントが行われるようになりました。

John Williams & Wiener Philharmoniker – "Main Title" from "Star Wars: A New Hope"

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