カテゴリー「今日は何の日」の1000件の記事

2026年8月15日 (土)

パナマ運河開通(1914年8月15日)

 パナマ運河は北米と南米に挟まれたパナマ地峡を横断してカリブ海と太平洋を結んでいる全長約82Kmの運河です。カリブ海側の都市コロンから、太平洋側の都市バルボアに通じています。

パナマ運河の閘門建設(1913年)
パナマ運河の閘門建設(1913年)

 パナマ運河は、もともとはパナマ一帯を植民地としていたスペインが計画を立てました。しかし、スペインがナポレオンによって征服されると、パナマはコロンビアと合併し、スペインの計画は実行できなくなりました。

 その後、1876年にパナマ運河実現のための国際合併会社が設立されましたが、この会社は事業に失敗し倒産してしまいました。続いて1880年、スエズ運河を設計したレセップスが中心となってフランスが工事を開始しましたが、こちらも技術的な問題にぶつかったり、資金調達に難航したため、1889年には工事が中止となってしまいました。

 カリブ海と太平洋を結ぶ運河の建設に関心を持っていたアメリカは、レセップスの工事を引き継ぎパナマ運河の建設を進めようとしましたが、金銭的な面でコロンビア政府と折り合いがつきませんでした。

 1903年にパナマで独立運動が起こり、パナマがコロンビアから独立すると、アメリカはパナマ政府とパナマ運河建設の条約を結びました。1903年から建設工事が開始され1914年8月15日にパナマ運河が開通しました。

 

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2026年7月17日 (金)

江戸が東京に改称される(慶応4年 1868年 7月17日)

 慶応3年(1867年)10月14日)の大政奉還と、それに続く同年12月日の王政復古の大号令により江戸幕府は終焉を迎えました。そして慶応4年(1868年)4月11日の江戸城開城により、江戸は新政府の支配下に入りました。

 新政府は同年5月12日に江戸府を設置し、。2ヶ月後の同年7月17日に江戸を東亰(とうけい)と改称しました。このとき江戸府も東亰府となりました。

 同年9月8日に明治に改元され、明治天皇は明治元年(1868年)9月20日に京都を出発し東京に行幸した。同年10月13日、明治天皇が江戸城へ到着すると、江戸城は東幸の皇居と定められ東京城と改称されました。

聖徳記念絵画館壁画「東京御着輦」(明治天皇の東京行幸)
聖徳記念絵画館壁画「東京御着輦」(明治天皇の東京行幸)

 明治2年(1869)年に明治天皇が東亰の皇居に入ると、東亰は名実ともに日本の首都となりました。ただし、現在に至るまで東京を首都と定めると明文化された法律はありません。東京奠都として歴史的な議論の的になっています。

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2026年7月 2日 (木)

ツェッペリン飛行船の初飛行(1900年7月2日)

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 硬式飛行船を実用化したドイツの軍人フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵は1863年にアメリカの南北戦争に北軍の軍事観察者として従軍したときに気球部隊のドイツ人気球乗りジョン・シュタイナーと出会い気球による初飛行を経験しました。この経験によりツェッペリン伯爵は気球に興味をもつようになりました。1874年、ツェッペリン伯爵はドイツの郵政総局長ハインリヒ・フォン・シュテファンの「世界の郵便サービスと航空旅行」の講義を聴講し飛行船の開発に着手しました。同年のツェッペリン伯爵の日記には飛行船のアイデアが記されています。

フェルディナント・フォン・ツェッペリン(1900年)
フェルディナント・フォン・ツェッペリン(1900年)

 1890年、ツェッペリン伯爵は52歳で退役し飛行船の開発に本格的に取り組み始めました。ツェッペリン伯爵は雇用した技師のテオドール・コーバーとともに開発を進め1893年には設計を完了させ1895年には特許を取得しました。1896年にツェッペリン伯爵はドイツ技術者協会で飛行船を紹介する講演を行いました。この講演が協会で高く評価されたことから硬式飛行船ツェッペリンLZ1の建造が始まりました。

 1900年7月2日、ドイツ南部のフリードリヒスハーフェン近郊、ボーデン湖の湖上でツェッペリンLZ1が初飛行を成功させました。LZ1は全長128メートル、直径11.7メートルという大きな飛行船でした。主構造にはアルミニウムを中心とした骨格が採用され、17個の内部ガス袋に水素が充填されるようになっていました。ダイムラー社製の14.2馬力(10.6 kW)のガソリンエンジン2基がプロペラを駆動しました。機体のバランスを制御するための移動式バラストが装備されており安定した飛行を実現することができました。

ツェッペリンLZ1の初飛行(1900年)
ツェッペリンLZ1の初飛行(1900年)

 LZ1の初飛行にはツェッペリン伯爵自らが搭乗しました。飛行時間は約17分におよび高度は150メートルに達しました。飛行中に方向制御に問題があることが発覚し、着陸時にはバランス制御装置の不具合により損傷を受けました。その後、LZ 1は2度の試験飛行を行いましたが機体性能の限界や資金不足により解体されました。ツェッペリン伯爵は飛行船の開発を諦めずLZ2を開発しました。そしてついに実用的な硬式飛行船ツェッペリンLZ3を完成させたのです。

【関連記事】

熱気球の日(1783年6月4日)

飛行船の日|飛行船「雄飛」の試験飛行(大正5年 1915年1月22日)

ドイツの飛行船ツェッペリン伯号が世界一周を達成(1929年8月29日)

エンパイアステートビルがオープン(1931年5月1日)

ドイツの飛行船ヒンデンブルク号の爆発事故(1937年5月6日)

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2026年6月 4日 (木)

松前藩がゴローニンを捕縛|ゴローニン事件(1811年6月4日)

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 1807年7月、北太平洋地域の調査の命令を受けたロシア軍艦スループ船ディアナ号の艦長ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン海軍大尉はサンクトペテルブルク沖合フィンランド湾に浮かぶコトリン島クロンシュタットからカムチャッカまでの世界一周航海に出ました。ディアナ号は赤道を越えてブラジルに向かいました。1808年4月、アフリカ大陸の喜望峰からアジアに向かおうとしたところで英露戦争の影響によりイギリス軍に拿捕されました。ディアナ号はここで1年以上も拘留されましたが1809年5月に視界不良と順風が重なった日に逃亡しました。ダイアナ号は1810年にカムチャッカに到着しました。

ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン
ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン

 文化8年(1811年)、ディアナ号はカムチャッカのペトロパブロフスクから千島列島南部の測量に向かいました。同年5月に択捉島の北側から上陸したところ千島アイヌ漂流民の護送をしていた松前奉行所調役下役の石坂武兵衛と出会いました。ゴローニンが薪水の補給を要請すると武兵衛は振別会所に赴くよう指示しました。ところが天候が悪く逆風であったことや当時未開地であった根室海峡にも関心があったためゴローニンは振別には向かわず国後島の南部に向かいました。

 5月27日、ディアナ号が泊湾に入港したところ国後陣屋の松前奉行支配調役の奈佐瀬左衛門が砲撃で警告すると、ゴローニンは補給を要請しました。6月3日に武装した日本の役人に陣屋に赴くよう指示され、6月4日、ゴローニン、フョードル・ムール少尉、アンドレ・フレブニコフ航海士をはじめとする水夫らが陣屋を訪問しました。国後陣屋はゴローニンらを接待し松前奉行に補給の許可を得るまで人質を預けるよう要求しましたが、ゴローニンがこれを無視してディアナ号に引き上げようとしたためゴローニンらを捕縛しました。

 これを受けてディアナ号副艦長ピョートル・リコルドはゴローニンらを救出するため国後陣屋を砲撃しましたが逆に彼らの身が危うくなる可能性があることから救出を断念しオホーツクへ戻りました。

 その後、ゴローニンらは陸路で箱館に連行されました。7月2日に箱館に到着し箱館詰吟味役の大島栄次郎の予備尋問を受け、8月25日に松前で監禁されました。松前奉行の荒尾成章の取り調べの結果、ゴローニンは文化3年(1806年)と文化4年(1807年)の文化露寇の事件(フヴォストフ事件)とは無関係であることが判明し幕府に対してゴローニンらの釈放を上申しましたが却下されたのです。

 この続きはまた別の機会に。

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2026年5月30日 (土)

マツダ(東洋工業)がコスモスポーツ発表(1967年5月30日)

 マツダ コスモスポーツは昭和42年(1967年)5月30日に発表・発売が開始された世界初の実用的かつ量産型ロータリーエンジンを搭載した自動車です。

マツダ コスモスポーツ
マツダ コスモスポーツ

 1960年代の初め日本の通商産業省(経済産業省)は特定産業振興臨時措置法案(特振法案)により、国内日自動車メーカーをグループに統合しようと画策していました。

 国内自動車メーカーとしては後発だった東洋工業(マツダ)は独立を守るため固有の技術を確立する必要に迫られていました。そこで目をつけたのが西ドイツのNSU社・バンケル社が開発したヴァンケル・スパイダーに搭載されていた世界初のロータリーエンジンでした。東洋工業はNSU社と技術提携をして特許ライセンスを取得しました。 しかし、入手した試作エンジンを動かしてみると重大な欠陥が見つかりました。その問題とはローターの回転により内壁に摩耗の溝チャターマーク(通称:悪魔の爪痕)の発生でした。これによりエンジンはすぐに使い物にならなくなってしまったのです。つまり世界初のロータリーエンジンは実用化にはほど遠いものだったんのです。

 この問題を解決するため、東洋工業は昭和38年(1963年)にのちのマツダ社長となる山本健一をリーダーとするロータリーエンジン研究部を発足させ、実用的ロータリーエンジンの開発に着手しました。研究チームはあらゆる素材を使ってエンジンを作る実験を重ねた結果、ついに高強度カーボン材にアルミを染み込ませたアペックスシールを開発し、悪魔の爪痕問題を解決し、世界初の実用化10A型ロータリーエンジンへを生み出しました。

 この10A型の試作エンジンは昭和38年(1963年)10月26日~11月10日に開催された第10回全日本自動車ショー(東京モーターショー)において出展されました。このときロータリーエンジンを搭載した試作車の写真パネルも展示されましたが、実際の車両の展示はありませんでした。しかし、自動車ショーが開催される6日前の同年10月20日に、朝日新聞紙がこの試作車をスクープしていました。当時の東洋工業の松田恒次社長が自ら試作車のMAZDA 802 (L402A)のステアリングを握り広島から遠路はるばる会場まで乗り付けるパフォーマンスを行いました。この松田恒次社長の行動に注目が集まり、試作車とロータリーエンジンは自動車ショーの話題をさらうことになりました。

 この試作車は昭和39年(1964年)の第11回東京モーターショーにおいて正式に参考出品したのち、販売に向けて急ピッチに開発が進められました。昭和40年(1965年)の第12回モーターショーでマツダコスモの名が発表され、全国のディーラーへ試作車を貸し出され、ロードテスト(実走行試験)をかねたプロモーションが行われました。昭和41年(1966年)の第13回全日本自動車ショーには改良型の試作車マツダコスモスポーツが発表されました。

 昭和42年5月30日、東洋工業はコスモスポーツ(L10A型)を正式に発表し、販売を開始しました。全高わずか1,165 mmでフロントからリアへ流れる近未来的なボディのコスモスポーツは一躍人気車種となりました。斬新なデザインが実現できたのはエンジンが小型・軽量だからこその賜でした。コスモスポーツの当時の価格は148万円です。大卒初任給の給与が2万6,000円ですから、誰もが憧れる超高級スーパースポーツカーでした。このコスモスポーツの成功により、マツダは「技術のマツダ」としての地位の礎を気づいたのです。

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2026年5月27日 (水)

大津事件の犯人に無期懲役判決(明治24年 1891年5月27日)

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 大津事件(おおつじけん)は、明治24年(1891年)5月11日に来日していたロシア帝国皇太子 ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ (後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で日本人警察官の津田三蔵に突然襲撃され負傷した暗殺未遂事件です。湖南事件(こなんじけん)とも呼ばれます。この事件は単なる暗殺未遂事件に終わらず、日本とロシアの外交問題に発展し、明治政府と司法の対立、日本における司法権の独立をめぐる重大事件となりました。

ロシア帝国皇太子 ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ (後の皇帝ニコライ2世)
長崎を視察中のロシア皇太子ニコライ・ロマノフ

  明治維新後の近代化を急いでいた日本は、シベリア鉄道建設を進め極東への進出を強めていたロシア帝国に対して日本へ南下してくるのではないかと警戒感を高めていました。1891年にニコライ皇太子が極東視察の途上で日本を訪問すると、日本政府はロシアとの友好関係を深めるため国を挙げて歓迎しました。

 同年5月11日、ニコライ皇太子は琵琶湖の観光を終えて大津市内を人力車で移動していました。このときニコライ皇太子の警備をしていた滋賀県巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜きニコライ皇太子に斬りかかりました。津田は人力車の車夫や周囲の人々によって捕縛されました。ニコライ皇太子は頭部に傷を負いましたが命は無事でした。津田の犯行動機については本人が証言しないまま獄中で病死したため現在も定説はありませんが、ロシアに対する敵意、国家主義的な思想、西南戦争体験の情緒不安などがあげられています。

津田三蔵
津田三蔵

 警備中の警察官が起こした前代未聞な事件により日本政府は大混乱に陥りました。ロシアが激怒すれば、戦争や外交的孤立につながる危険がありました。列強に比べて力の無い日本はロシアに対してひたすら謝罪をしました。明治天皇も自ら京都に赴き、ニコライ皇太子を見舞い、神戸まで見送るなどの対応をしています。ニコライ皇太子はロシア本国からの指示で東京には赴かずロシア艦隊で神戸からウラジオストクへ帰国しました。明治天皇はロシア軍艦で開催する別離の午餐に招待されました。重臣たちは万一のことを考え参加に反対しましたが、明治天皇は、「ロシアは先進文明国である。そのロシアがなにゆえに汝らが心配するような蛮行をしなければならないのか」と制しています。

 政府首脳の中にはロシアに配慮して津田を処刑すべきという強い意見がありました。政府は天皇や皇族への危害を処罰する大逆罪を適用しようとしましたが、現在の最高裁判所長官にあたる大審院長の児島惟謙はロシア皇太子は皇族ではなく、政治的都合により法律を曲げるべきではないと大逆罪適用に反対しました。

児島惟謙
児島惟謙

 明治政府と司法の対立の結果、事件から16日後の同年5月27日、津田は謀殺未遂罪が適用され、無期徒刑(無期懲役)となりました。津田は監獄に送られた年に急性肺炎で病死し、政府による口封じという陰謀論が広がりましたが、この判決は日本における司法の独立を象徴する出来事となりました。大津事件によって司法の独立が確立したことにより、大日本帝国憲法の三権分立の意識が高まりました。

 ロシアは当初は津田の処刑を求めていましたが、日本の迅速な対応や明治天皇自らによる謝罪に対して友好的な姿勢を示し、結果的には
賠償要求も武力報復も行いませんでした。

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2026年4月27日 (月)

哲学の日(紀元前399年4月27日)

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 古代ギリシアの哲学者ソクラテスは紀元前470年頃にアテナイで生まれました。西洋哲学における倫理学の基礎を築き、正しい行いや、どのように生きるかなどを説きました。ソクラテスは自著を残さなかったため謎に包まれた人物ですが弟子のプラトンの著述などを通じて業績が知られ、「汝自身を知れ」「無知の知」「善く生きろ」など名言が伝えられています。とりわけプラトンの「ソクラテスの弁明」は最も重要な古典的哲学書とされています。

ソクラテス
ソクラテス

 ソクラテスは著名な政治家や詩人など様々な人々を訪ねて対話を行い、自身が無知を自覚しているのに対して世の中の多くの人々が無知であることを自覚していないことを知らしめる活動を行いました。この活動を通じて賢者ソクラテスの評判が広がりましたが、無知を指摘した人々からは疎まれるようになりました。ソクラテスを敵視する人が増え、ソクラテスの活動を非難する声も高まりました。そのような中で富裕層の若者たちがソクラテスの影響を受けてソクラテスと同じような活動を行うようになると、ソクラテスは若者たちに悪影響を及ぼしたという罪で裁判にかけられました。

 ソクラテスは弁明を行いましたが、自説を曲げたり謝罪することはしませんでした。結果として毒薬の服用による死刑を宣告されました。弟子のプラトンたちは逃亡するように言い、ソクラテスに同情した牢屋番は牢屋の鍵を開けたままにしていたといいます。しかし、ソクラテスは自身の倫理学を貫き悪法も法であるという考えのもと死刑を受け入れ、紀元前399年4月27日に獄中で毒杯を飲みこの世を去りました。

ソクラテスの死(ジャック=ルイ・ダヴィッド、1787年)
ソクラテスの死(ジャック=ルイ・ダヴィッド、1787年)

 

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2026年4月 7日 (火)

江戸幕府が修学と商業目的の海外渡航を許可(慶応2年1866年4月7日)

 嘉永六年(1853年)のマシュー・ペリー提督による黒船来航をきっかけに江戸幕府は安政五年(1858年)にアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5カ国と修好通商条約を締結しました(安政五カ国条約)。その後、万延元年(1860年)にポルトガル、万延元年(1861年)にプロセイン、文久3年(1864年)にスイスと同様の条約を締結しています。

 江戸幕府は長らく日本人の海外渡航を原則として禁止していました。開国後に海外渡航が許されたのは外交使節や幕府関係者のみでした。しかしながら多くの日本人が幕府の許可なく海外に渡航しています。それらはすべて密航にあたりました。密航を禁じることが実質的に困難になると、幕府は慶応2年(1866年)4月7日に日本人の海外渡航を許可する觸達を出しました。また幕府はこの年にベルギー、イタリア、デンマークと修好通商条約を締結しています。

寅四月七日觸達

 海外諸國へ向後、学科修業又は商業之ため相越度志願之者は、願出次第、御差許可相成候。

 尤(もっとも)、糺(ただ)之上、御免之印章可相渡候間、其者名前並(ならびに)如何様之手続を以、何々之儀にて何れ之國へ罷越度旨等、委細相認(したため)、陪臣は其主人、百姓町人は其所之奉行・御代官・領主・地頭より、其筋へ可申立候。

 若(もし)御免之印章なくして、竊(ひそか)に相越候者も有之候ハヽ、厳重可申付候間、心得違無之様、主人々々又は其所之奉行・御代官・領主・地頭より、入念可被申付候。

四月

現代語訳

 今後、学問の修行や商売のために海外諸国へ渡航したいと希望する者は、願い出ればすぐに許可が下りることになりました。

 もっとも身元などを審査した上で、許可の証をお渡しします。つきましては、渡航希望者の氏名、どのような手続きを経て、何の目的で、どの国へ行きたいのかといった詳細を詳しく書き記してください。申請方法は、将軍に直接仕えていない陪臣は自分の主君を通じて、農民や町人はその地の奉行、代官、領主、地頭などの役所を通じて申し出てください。

 もし許可証を持たずに密入国(密航)しようとする者がいれば、厳重に処罰します。 手違いや間違いのないよう、それぞれの主君や各地の役人は、人々に念入りに言い聞かせてください。

 幕府が許可した海外渡航の条件は、修学(学術・留学目的)と商業(貿易・ビジネス目的)に限るものでしたが、身分を問わず誰でも申請が可能でした。海外渡航の対象国は条約締結済みの国に限られました。この觸達によって、日本人は密航を犯さず合法的に海外渡航できるようになりました。多くの日本人が海外渡航すると、多くの西洋の知識や技術が導入されるようになり、商業活動の拡大と経済発展に繋がりました。

 海外渡航を許可した幕府が手間取ったのは世界に通用する旅券の作成でした。国内に駐在していた欧米の外交官の協力を得て幕府が初めて発行された旅券「御免之印章」は同年10月17日に日本帝国一座を率いてパリ万博に参加する隅田川浪五郎に対して発行されました。

慶応2年(1866年)に発行された日本最古の旅券(外交史料館蔵)
慶応2年(1866年)に発行された日本最古の旅券(外交史料館蔵)

 

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2026年4月 1日 (水)

自転車青切符導入で暴走三輪車の摘発を検討|ライアー新聞

ライアー新聞 2026年4月1日


 本日2026年4月1日から道路交通法が改正され自転車の交通違反に反則通告制度が導入されました。これまでは自転車の反則に対しては指導警告や赤切符(刑事手続き)の取り締まりでしたが、青切符を導入することによって中間的な取り締まりを行うことができるようになりました。蒼っ切符を切られた場合、一定期間内に反則金を納めると刑事罰が科されません。

 この制度は16歳以上の自転車運転者が対象となりますが、道路交通法改正前からこの年齢制限を逆手にとった幼児たちによる三輪車集団暴走が目立つようになりました。警察庁は現行法では幼児たちの三輪車集団暴走を取り締まることができないと警戒を強めています。

幼児たちによる三輪車集団暴走
幼児たちによる三輪車集団暴走

 警察の関係者によりますと、幼児たちの三輪車集団暴走は将来的にバイクや自動車での集団暴走行為に発展する恐れがあるとして、16歳未満であっても悪質な幼児たちについては特定暴走指定幼児集団に指定できる法改正も視野に入れているとのことです。この法改正では三輪車のみではなく悪質なペダルカーを運転する幼児たちも取り締まりの対象となるとのことです。なお暴走に加担した大人も処罰の対象となるようです。

幼児たちによるペダルカー集団暴走
幼児たちによるペダルカー集団暴走

 これに対して幼児たちは道路交通法第2条第1項第11号の軽車両の定義で小児用の車は除外されており歩行者扱いになっていると反発しています。また自分たちの走行は暴走には当たらない。昭和の時代にはもっと自由に走ることができたと聞いている。交通事情を悪化させ割れ和江から三輪車で自由に走行する権利を奪ったのは大人たちと政府に責任があるとして、これからも三輪車の走行を通じて法改正の反対を訴えていくとのことです。

 一部の幼児たちは5月5日の子どもの日にデモ走行を行うと声明を出しています。警察は沿道に鯉のぼりを掲げたり、柏餅やチョコレートパフェやお菓子などを配置したりする対策を施し幼児たちの暴走を阻止するとしています。また仮面ライダーに扮した白バイ隊員を出動させ、「三輪車の暴走は仮面ライダーだからできるんだ。子どものおまえたちには無理だ。まねをすると怪我をする。いいな!」と説得を試みるとのことです。

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2026年3月27日 (金)

幕末の水戸藩|天狗党が挙兵(元治元年 1864年3月27日)

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 文政12年(1829年)9月、水戸藩第8代藩主の徳川斉脩は家督相続を公表しないまま病床に伏していました。斉脩には嫡子がなかったため異母弟の敬三郎が後継者でしたが、江戸家老の榊原照昌らは第11代将軍徳川家斉の子で斉脩の正室の峰姫の弟にあたる清水恒之丞を後継者とすべきと主張しました。水戸藩の多くの家臣は藩の財政が厳しい状況にあったことから家斉の子が藩主になれば江戸幕府からの支援が厚くなると考え後継者を恒之丞とすることに賛成しました。

 これに対して水戸藩士で水戸学学者の藤田東湖と会沢正志斎は異母弟とはいえ血筋から敬三郎を後継者とするべきと主張し江戸幕府に再考を求めました。同年10月4日に斉脩が亡くなると後継者を敬三郎とすると記された遺書が公開されたため、敬三郎は斉脩の養子となり江戸幕府から承認を得て水戸藩第9代藩主となりました。敬三郎は名を徳川斉昭と改めました。一方の恒之丞は後に徳川斉彊と名を改め紀州徳川家を継ぎ紀伊和歌山藩の第12代藩主となりました。

水戸藩第9代藩主 徳川斉昭
水戸藩第9代藩主 徳川斉昭

 水戸藩主となった徳川斉昭は天保12年(1841年)に藩校の弘道館を設立し広く人材を登用しました。斉昭は自身の擁立に尽力した東湖や正志斎らを家臣として重用しました。幼い頃から正志斎のもとで水戸学を学んでいた斉昭は正志斎が体系化した尊皇攘夷思想を水戸学に取り入れ藩政改革を進めました。斉昭が進める藩政改革が過激化すると、反対派は彼らが鼻高々と偉ぶっていると揶揄し天狗党(天狗連)と呼びました。

 斉昭を支持していた江戸幕府老中の水野忠邦が失脚すると後任の阿部正弘は天保15年(1844年)に過激な藩政改革を進める斉昭を強制的に隠居させ水戸藩の家督を嫡男の慶篤に譲らせました。これによって天狗党の面々も謹慎を言い渡されました。斉昭は正弘に水戸藩では義をもって国家に忠誠する有志を天狗と呼ぶと主張し反対派を牽制しました。その後、水野忠邦が老中に短期間復帰したときに斉昭は謹慎を解かれ第10代藩主徳川慶篤の後見となり水戸藩の藩政に復権しました。

 【参考】ビスケットの日(2月28日)

 嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが率いる黒船艦隊が浦賀に来航すると、阿部正弘は人材不足の中で斉昭の軍事と外交に関する能力を評価し斉昭を海防参与に命じました。これによって斉昭は幕政に関わるようになりました。圧倒的な軍事力を背景に開国を求めるペリーに対して幕府は嘉永7年(1854年)に日米和親条約を締結しました。

 【参考】黒船来航(1853年7月8日旧暦6月3日)

 【参考】マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)

 日米修好通商条約の締結後、アメリカ合衆国の初代日本総領事に就任したタウンゼント・ハリスは幕府に通商条約の締結を求めました。安政4年(1857年)に正弘が死去すると、老中首座となった堀田正睦は米国をはじめとする列強を前に修好通商条約を締結せざるを得ないと考えるようになりました。斉昭はこれに強く反対しました。とりわけ幕政に関わり開国を主張していた彦根藩主の井伊直弼と激しく対立しました。

 安政2年(1855年)10月、安政江戸地震が発生し小石川の水戸藩藩邸が倒壊しました。この地震で斉昭の重臣の戸田忠太夫、藤田東湖が死亡しています。重臣を失った水戸藩では内部抗争が激しくなりました。

 【参考】小石川後楽園が完成(1629年9月28日)

 【参考】幕末の混乱期に大地震|安政江戸地震(1855年10月2日)

 正睦は孝明天皇の勅許を得るために上京しましたが、朝廷の公家たちはこれに反対しました。和親条約を許した孝明天皇も通商条約については国の秩序を乱すことになると考え勅許を拒否しました。勅許を得られなかった正睦は将軍の信頼を失い失脚することになりました。

 【参考】廷臣八十八卿列参事件(1858年3月12日)

 斉昭と直弼は第13代将軍の徳川家定の継嗣者の擁立でも対立しました。斉昭は実子の一橋家当主の徳川慶喜を擁立する一橋派、直弼は紀州藩主の徳川慶福を擁立する南紀派を形成し対立しました。

 【参考】一橋徳川家を創設(1740年11月18日)

 安政5年(1858年)に直弼が大老の座につくと南紀派が擁立する慶福が第13代将軍の徳川家茂となりました。直弼は列強との交渉が進む中で朝廷を説得する時間的余裕がないと考え天皇の勅許を得ぬまま日米修好通商条約を締結しました。

 【参考】日米修好通商条約に調印(1858年6月19日)

 斉昭は将軍の後継問題と条約締結に関し水戸藩主の慶篤、尾張藩主の徳川慶恕とともに無断で江戸城に登城し直弼に詰問しました。直弼はこれを問題視し斉昭を幕政から外し水戸藩江戸屋敷での謹慎を命じました。孝明天皇は勅許を得ずに条約を締結した江戸幕府を問題視し、水戸藩に対して幕政改革を指示する勅書「戊午の密勅」を直接下賜しました。

 【参考】戊午の密勅(1858年8月8日)

 安政6年(1859年)8月、直弼は江戸幕府を飛び越えて水戸藩に下賜された「戊午の密勅」は水戸藩の陰謀とし、水戸藩家老などを処罰し、斉昭に永蟄居を命じ、慶篤には出仕を禁じ謹慎処分としました。これをきっかけに井伊直弼は一橋派や尊皇攘夷派を弾圧を始めました。これが「安政の大獄」です。

 この勅書の扱いについて水戸藩内でも対立が起こりました。会沢正志斎ら尊攘鎮派は幕府の命に従い勅書を朝廷に返納することを主張しましたが、これに対して家老で武田耕雲斎を中心とした尊攘激派は密勅を実行するべきと主張しました。斉昭は正志斎の説得により安政7年(1860年)に勅書の返納を決断しましたが藩内の対立が激化したため返納を延期しました。

 その後、尊攘激派の高橋愛諸らは実力行使で勅書を奪うため挙兵しました。これに対して正志斎は鎮圧軍を編成しましたが、これを知った愛諸らは水戸藩を脱藩して江戸に逃れました。「安政の大獄」に憤慨していた水戸脱藩藩士と薩摩浪士の有村兼武と有村兼清らは同年3月3日に上巳の節句(桃の節句)の祝いで登城してきた直弼を江戸城桜田門外で襲撃し暗殺しました。これが桜田門外の変です。この事件により勅書の返納はうやむやになりました。孝明天皇は黒船来航、安政大地震、桜田門外の変と災異(凶事)が続いたため元号を安政から万延に改元する一方で幕府に対して攘夷を実行するよう求めました。

 【参考】上巳の節句とひな祭り(3月3日)

 【参考】万延に改元(1860年3月18日)

 同年8月15日、斉昭が病没すると水戸藩の混乱は激化しました。尊攘激派は第一次東禅寺事件や坂下門外の変を起こしましたが首謀者は討ち取られ勢力を弱めました。

 【参考】第一次東禅寺事件(1861年5月28日)

 文久2年(1862年)12月、孝明天皇は幕府に対し攘夷実行を勅命しました。幕府は列強が要求する開国の流れは止められず攘夷は不可能と考えていました。文久3年(1863年)3月、第14代将軍の徳川家茂は朝廷の要求に応じて上洛することになりました。このとき将軍後見職となっていた一橋慶喜は家茂に先立ち上洛することになり、慶喜の実家の水戸藩主の徳川慶篤が随行することになりました。

 この頃、水戸藩では武田耕雲斎ら尊攘激派が藩政の中心となり、尊王攘夷派の有志の結集を進めていました。武田耕雲斎、山国兵部、藤田東湖の四男の藤田小四郎などが慶篤に随行しました。上洛後、小四郎らは長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞と出会い尊皇攘夷思想を強めていきました。その後、上洛した家茂は朝廷と幕府で協力する公武合体を前提に同年5月10日をもって攘夷を実行することを孝明天皇に約束しました。実際のところ幕府は武力による攘夷は困難なため外交的な手続きで開港地を閉港することにしました。幕府は通商条約を見直すことと海防を強化することを諸藩に命じました。しかし、列強との交渉は容易いものではなく開国派の反対もあり攘夷は実行できずにいました。

 攘夷の約束の期日の5月10日、長州藩は幕府の攘夷の命令に従うという口実で馬関海峡(関門海峡)を通過する外国船に砲撃を開始しました。この事件は列強の連合軍と長州藩の間で馬関戦争(下関戦争)に発展しました。武力による攘夷は困難であることを理解していた孝明天皇は過激な攘夷派の長州藩や公家を排除したいと考えるようになりました。

 自分の知らないところで京都守護職の会津藩藩主の松平容保に江戸に戻る勅命が出ていることを知った孝明天皇は会津藩と薩摩藩に過激な攘夷派を排除することを命じました。同年8月の「八月十八日の政変」により長州藩と攘夷派の公家は京都から一掃されました。この「八月十八日の政変」で活躍したのが江戸から家茂の護衛で随行し京都に残留した壬生浪士組です。容保は彼らの功績を評価し新選組という隊名を与えました。

 【参考】八月十八日の政変(1863年8月18日)

 【参考】第9話「浪士組西へ」|明日なき戦いの果てに

 【参考】新撰組の日(1863年3月13日)

 「八月十八日の政変」後、孝明天皇は改めて幕府に対して攘夷実行を命じました。慶喜は横浜港を閉港する攘夷を計画しましたが幕府の開港派が反発したため実行できませんでした。諸藩の攘夷派の志士たちは長州藩が京都から排除されたため水戸藩に期待を寄せるようになりました。水戸に多くの攘夷派の志士が集まると、小四郎は長州藩と連携した挙兵を企てました。耕雲斎は小四郎を止めようとしましたが、小四郎は挙兵の準備を進めました。このとき小四郎は水戸学に傾倒し尊皇攘夷派で倒幕を企ていた尾高惇忠、渋沢栄一、渋沢成一郎とも交流しています。尾高惇忠らは独自に上野国群馬郡(群馬県高崎市)の高松城乗っ取り鎌倉街道を進軍し横浜の外国人居留地を焼き討ちにして攘夷を行い長州藩と幕府を倒す計画を立てましたが実行には至りませんでした。

 【参考】有為転変の人生|渋沢成一郎と渋沢栄一

 文久4年(1864年)1月、将軍家茂は2度目の上洛を果たしました。慶喜は参預会議において横浜港の閉港について議論したものの開港派の諸侯と対立し参預会議を解体しました。朝廷から禁裏御守衛総督に任命された慶喜は水戸藩に協力を要請し、水戸藩士の原市之進と梅沢孫太郎を家臣に加えました。耕雲斎は慶喜の要請で数百名の水戸藩士を京都に派遣しました。

 元治元年(1864年)3月27日、攘夷が実行されないことに不満を持った藤田小四郎は横浜港の閉港を求めて、水戸町奉行の田丸稲之衛門を主将とする62人の同志と筑波山で挙兵しました。筑波山には各地から浪士などが集結し総勢1400人となり筑波勢と呼ばれました。彼らは天狗党を中心とする過激な尊皇攘夷派でしたが、表向きには徳川家康の遺訓として攘夷を行うこと記した檄文をもって日光東照宮で攘夷決行の祈願をしています。この筑波勢が天狗党です。このような状態の中で武田耕雲斎は藩政の混乱を収拾しようとしましたが各派閥の折り合いをつけることができませんでした。藤田らの行動は水戸藩の方針に反する行為ではあったものの、耕雲斎は後に小四郎の熱心な説得により天狗党の首領となっています。

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