カテゴリー「旅の空から」の18件の記事

2022年5月16日 (月)

旅の日(1689年5月16日)

 5月16日は「旅の日」です。松尾芭蕉が1689年5月16日(旧暦 元禄2年1869年3月27日)に「奥の細道」の旅に出発したことに由来し、1988年に「日本旅のペンクラブ」が制定しました。「日本旅のペンクラブ」の「旅の日」のページによると「年に一度、旅を愛する人々が集い、日本人の旅行観や旅行関連業界の将来など、旅について考え、語り合う機会」とされています。

 ところで芭蕉が156日をかけて約450里(1768キロメートル)に渡る「奥の細道」の旅をしたのは45歳のときでした。1日の平均移動距離は7里半(約30キロメートル)に及び40キロメートル以上歩いた日もありました。このことから芭蕉の正体は忍者で幕府の密命により東北を調査するための旅をしたという説があります。

 しかしながら当時の男性は1日10里(約39キロメートル)は歩くことができたそうです。東海道なら江戸の日本橋から京都の三条大橋までの124里124里8丁(約488キロメートル)を13日で歩きました。つまり1日あた9.6里(37.5キロメートル)も歩いていたのです。このことを考えると、松尾芭蕉が歩いた距離は当時の男性より少し速かったぐらいでしかありません。忍者は1日40里(160キロメートル)移動するそうですから芭蕉の歩行速度は忍者には及びません。

 「奥の細道」の旅で芭蕉に同行した河合曾良という人物がいます。曾良は長野県諏訪の出身で芭蕉との旅を終えた1709年に幕府の巡見使随員として九州諸国の大名の監視の旅に出ています。もしかすると曾良には忍者の素養があったのかもしれません。

松尾芭蕉と河合曾良
松尾芭蕉(左)と河合曾良(右)
森川許六作

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2022年1月 9日 (日)

ゴミ箱とANAと函館空港ラウンジ

 ときどき函館を訪れるのですが東京に戻るときに函館空港のラウンジを利用します。次の写真はそのラウンジに設置されているゴミ箱です。こういう場所でよく見かける普通のゴミ箱ですが、このゴミ箱を見た瞬間にあることを思い出し嬉しくなりました。

ゴミ箱
函館空港ラウンジのゴミ箱

 実は過去にこのラウンジを利用したとき、いつもの通り飲んだコーヒーの紙コップをゴミ箱に捨てたところ手がゴミ箱の蓋に引っかかってしまいました。蓋のバネが強くて想定していたより早く閉まってしまったのです。

 痛いなと思って見てみたら指先が切れていました。さほどのことではないなと思っていたのですが絆創膏もないのでティッシュで抑えていましたがなかなか血が止まりません。しばらくすると出血しなくなりANAの搭乗時間が近づいてきたのでラウンジを出て搭乗ゲートに向かいました。まもなく傷口が再び開き出血が始まりました。今度はなかなか止まりません。

 ここでずいぶん切れていることに気が付きました。そこで搭乗ゲートにいたANAの地上職員の女性にラウンジのゴミ箱で指を切っってしまったのでと事情を説明して絆創膏をもらえないかお願いしました。搭乗ゲートに絆創膏があるはずもなく、ANAの地上職員の方は自分の指を見てずいぶん心配してくれ、わざわざ事務所に電話をして絆創膏を持って来てくれたのです。そして自分が絆創膏を装着し終わるのを確認すると、大丈夫ですかとの声がけの後に、空港のラウンジと相談して同じことが起こらないように対策を考えると言われたのです。

 飛行機に乗った後も指先はずきずきしていましたが絆創膏のおかげで血も止まりました。家に到着した頃には痛みもなくなっていたのです。そして月日が経過し、この怪我のことはいつの間にか忘れてしまっていたのです。

 そして先日、函館を訪れた復路でいつものように函館空港ラウンジに立ち寄りコーヒーを飲みました。紙コップを捨てようとしたときに、あのときのANAの地上職員さんの対応を思い出したのです。

 なぜですって?ゴミ箱の蓋の下の方に手が挟まっても怪我をしないようにクッションが貼られていたからです。

 函館空港のラウンジはカード会社のラウンジでANAラウンジではありませんが、あのときに地上職員さんが言っていた通りANAと空港ラウンジで相談して対策を施してくれていたのです。思わず感動して撮影した一枚の写真がこのゴミ箱の写真だったというわけです。

 そして今回も無事に搭乗してお気に入りのAnother Skyを聞きながら出発を待ったのでした。

ANA「音楽につばさを〜テレワーク演奏〜」:Another Sky(ANA Team HND Orchestra)<ANAグループの有志社員が音楽をお届けします!第2弾>

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2021年9月27日 (月)

ヨセミテ渓谷トンネルビューとハーフドーム

 今から20年ぐらい前ですが数年間にわたり仕事でサンフランシスコ近傍の都市に何度も訪れました。同じ年ではないにしろ1月から12月まで訪れなかった月はありません。一度の訪問で10日から2週間の滞在が多かったので休みの日は周辺の観光に出かけました。中でもよく出かけたのが滞在地から車で2時間半ほど走ると到着するヨセミテ国立公園でした。

 次の写真は米国カリフォルニア州ヨセミテ国立公園のトンネルビューというポイントから撮影したヨセミテ渓谷のパノラマ写真です。左側の岩盤がエルキャピタン、正面に見えるとんがった岩がハーフドーム、右側の滝がブライダルフォールです。

ヨセミテ国立公園トンネルビュー
ヨセミテ国立公園トンネルビュー

ハーフドームはこのような形をしています。これはグレシャーポイントから撮影したものです。

トンネルビュー(グレシャーポイント)
トンネルビュー(グレシャーポイント)

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2021年6月27日 (日)

1964東京オリンピック間近の静岡市にて(昭和39年)

 昭和39年に静岡市内で撮影した写真です。新幹線開通や東京オリンピックの懸垂幕と横断幕で賑わう街の様子です。

1964東京オリンピック間近の静岡市にて(昭和39年)
1964東京オリンピック間近の静岡市にて(昭和39年)

 この写真が撮影された場所がどのあたりかをGoogle Mapで調べてみました。ヒントは「江崎書店」です。検索してみると静岡駅前の「呉服町通り」に「(株)江崎書店 本部 外相部」が見つかります。そのあたりをストリートビュで見てみました。上の写真にも下のストリートビューにも右側に角が曲面になった特徴的な形をした建物がありますので、ここで間違いないと思います。

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2021年2月27日 (土)

茨城県霞ヶ浦近くの大きな2つのトラックは?

 北の国から羽田空港に向かう航空機が茨城県の霞ヶ浦を通過した頃、眼下に写真のような広大な土地に2つの大きなトラックが現れます。

JRA美浦トレーニングセンター(航空写真)
JRA美浦トレーニングセンター(航空写真)

 この施設はJRA(日本中央競馬会)の美浦トレーニングセンター(美浦トレセン)です。美浦トレセンは競走馬のトレセンとしては日本で最大級の施設です。上空から見ても、Google Mapで見ても、すぐに見つけることができます。

 大きな2つの調教コースに挟まれた領域には厩舎や公園があります。敷地内には調教コースや厩舎のみならず、厩務員・騎手・JRA職員など家族を含めて約5000人が暮らす宿泊施設があります。その他、競馬に関わる産業を含めて考えると、周辺地域合わせて数万人の生活の馬となっており、ショッピングセンター、郵便局、病院など生活に必要な施設も存在しています。

 調教コースには芝コース、ダートコース、障害用コース、ウッドチップコースに加えて、オールウェザー対応の新素材を敷き詰めたニューポリトラックなどがります。また、プール調教用のプール、森林馬道、診療所などが設置されています。

美浦トレセン南側調教コース
美浦トレセン南側調教コース(上記写真では右側)

 美浦トレセンは競走馬の訓練施設としては最大級かつ最高級の水準にありますが、関西のJRA栗東トレーニングセンターに比べて所属馬の勝利数と獲得賞金が少ないという指摘が昔からあります。関東で行われる競争を予想するときに、関西馬が出場しているかどうかを気にする人もいます。いろいろな原因が考えられますが、有力な原因としては調教コースの坂路コースの問題があげられます。

 美浦トレセンが開場したのが1978年4月、栗東トレセンが開場したのは1969年11月です。関東の競馬場は坂が多く、関西馬は坂に慣れていないという問題がありました。1985年に栗東トレセンに坂路コースが作られると、関西馬の実力が向上し、東京競馬場や中山競馬場で関西馬の活躍が目立つようになりました。美浦トレセンには坂路コースがないため、関西馬と関東馬の実力に差がつき始めました。

 美浦トレセンに坂路コースを設置する場所を確保することは難しく、1993年まで坂路コースが設置されることはありませんでした。新設さらた美浦トレセンの坂路コースは栗東トレセンのものに比べて勾配が小さく、十分に競走馬を訓練することができませんでした。2004年に坂路コースの改修が行われましたが解決には至っていません。美浦トレセンの坂路コースのこれ以上の改善は環境的な要因から困難とされています。そこで、競走馬は栗東トレセンに留学したり、馬主都合で美浦トレセンから栗東トレセンに転厩する事例も少なくありません。

 この問題は関東馬の実力低下だけに止まらず美浦トレセンの存続にも関わることになります。そこでJRAは2018年に美浦トレセンの大規模改修を始めました。改善が難しいと言われていた坂路コースも距離を延長するのと同時に地下を掘り下げることによって高低差を栗東トレセンと同程度にすることになっています。坂路コースの完成は2022年、2026年に全体の工事が完了する予定です。

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2021年1月28日 (木)

行商のおばさん(昭和41年 取手駅)

昭和41年の秋頃に茨城県の取手駅で撮影した写真です。

取手駅前と駅前の商店街
取手駅前と駅前の商店街

 行商のおばさんが大きな荷物を背負って改札口にやってきました。行商はお客さんがいそうな場所まで商品を運んで販売する方法です。市場に出向いたり、住宅街を巡回して、物品やサービスを販売してまわります。このおばさんは、取手からどこへ向かうのでしょうか。都内であることは間違いありません。上野あたりでしょうか。

取手駅の改札口と行商のおばさん
取手駅の改札口と行商のおばさん

 さて、当時の駅ですが、切符の自動販売機もなければ、改札も自動なはずもありません。窓口で買った切符を、切符切りの駅員さんが改札鋏で改札します。混んでいる駅では改札鋏をリズムのようにカチャカチャと音を鳴らしながら流れるように改札していました。

1990 新宿駅JR有人改札

改札口の写真をカラー化してみました。躍動感が出て記憶が蘇るかのようです。

取手駅の改札口と行商のおばさん(カラー化)
取手駅の改札口と行商のおばさん(カラー化)

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2021年1月16日 (土)

北海道エアシステム(HAC)のサーブ340Bが退役

 2020年12月29日に北海道エアシステム(HAC、NTH/JL)のサーブ340B(JAC03HC)がラストフライトとなり現役を引退しました。HACはサーブ340Bを三機保有しており、今回退役したJAC03HCは導入3号機です。JAC03HCは1999年9月21日の就航から21年100日目でその役割をの終えました。

 この後、2021年夏までに1号機のJA01HC、年末までにJA02HCが退役する予定です。これによって民間航空機としてのすべてのサーブ340は日本の空から姿を消すことになります。

 次の写真はJAL 2748便の函館発札幌(丘珠)行きのサーブ340B JAC02HCです。悪天候で到着が遅れ、出発も遅れていましたが、ちょうどドアが開いてエアステアが降ろされたところでした。

340ja02hc
サーブ340B JAC02HC

 サーブ340Bは1クラス36席の近距離用双発ターボプロップ旅客機です。HACは2021年4月に1クラス48席のターボプロップ双発旅客機ATR42-600の1号機を就航させ、新型コロナウイルスの影響もあるようですが、2021年末には3機すべてのサーブ430BがATR42-600になります。

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2020年10月20日 (火)

函館の八幡坂

 北海道函館市の八幡坂です。函館山の麓から真っ直ぐ港に通じる坂です。その港は現在は観光スポットとなっている赤煉瓦倉庫街があるところです。真正面に青函連絡船記念館摩周丸が見えます。

八幡坂(北海道函館市)
八幡坂(北海道函館市)

 八幡坂は観光地から函館山の麓まで一気に登ってくることができる坂です。坂を登り切った正面には北島三郎さんの出身校の函館西高校学校があります。坂を登って右の方(写真では左の方向)に行けば旧函館区公会堂や箱館奉行所跡のある元町公園、左の方向(写真では右の方向)に行けばハリストス正教会などがあり、さらにその先にはロープウェイ乗り場があります。

 八幡坂の名前はこの坂の上に函館八幡宮があったことに由来します。函館八幡宮は明治の大火で焼失したため、現在は谷地頭に移設されています。函館山の麓には、八幡坂の他にも真っ直ぐな広い坂道がたくさんあります。函館は昔からしばしば大火があり、これらの坂には延焼を防ぐ目的もあったようです。

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2020年10月12日 (月)

サンフランシスコの五重塔

 サンフランシスコのジャパンタウンには五重塔があります。1968年にジャパンセンターが建設されたときに、日本からサンフランシスコ市に親善のため贈られたそうです。

Photo_20201012094801

 

 この五重塔はたいへん簡単な構造で、円盤が重なったような形をしており、日本風とは言えません。しかしながら、「この平和の塔は日本の人々から友情のしるしとして贈られた」と書いてありました。たぶん、五重塔を造るための寄付金が贈られ、現地で建設したのではないでしょうか。

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2020年10月10日 (土)

浅草寺の五重塔

 浅草寺の五重塔は慶安元年(1648年)に建立されました。1648年というと、徳川3代将軍家光の最後の方の時代です。家光は1651年に死去し、その年から4代将軍家綱の時代に入ります。 現在の五重塔は昭和48年(1973年)に再建されたものです。その高さは48 mもあります。

浅草寺の五重塔
浅草寺の五重塔

 浅草寺の五重塔は大正12年(1923年)の関東大震災の際には、倒壊しませんでしたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲によって焼失してしまいました。もともとの五重塔は本堂の東側にあったそうですが、再建されたこの塔は西側に建てられました。東側には、地面に塔の跡を記した10 cm四方の「塔」と一文字だけ書いた小さな文字盤があります。探してみるのも面白いかもしれません。現在の五重塔も、なかなか昔の雰囲気を漂わせていますが、鉄筋コンクリートで造られているそうです。

 ちなみに日本でもっとも古い五重塔は、奈良県の法隆寺の五重塔です。国宝であり、ユネスコの世界遺産にも登録されています。法隆寺は今から1400年ほど前の推古15年(607年)に、推古天皇と聖徳太子によって建立されたと言われています。法隆寺の五重塔はおよそ1300年ほど前に建立されたものと考えられています。

 五重塔は、ひとつひとつの階を別々に作り上げ、それを重ねあげて建てます。木材と木材は強固に結合されているわけではなく、切り込みでつながっているだけですが、これが揺れに強い理由と考えられています。塔がゆれると、それぞれの階が揺れを吸収するように揺れるのだそうです。

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