カテゴリー「函館の話」の33件の記事

2021年1月19日 (火)

「NHKのど自慢」放送開始(昭和21年1946年1月19日)

 心地よいチューブラーベルの音で始まる「NHKのど自慢」。「のど自慢素人音楽会」として1946年1月19日午後6時から7時半まで、NHK東京放送会館においてラジオ第一放送で公開放送されました。戦後、GHQによって放送の民主化が進められ、政府による放送の統制がなくなると、いろいろな番組が登場するようになりました。「のど自慢素人音楽会」もその中のひとつで、一般市民の聴衆者が歌声を披露できる素人参加型の番組でした。一般市民にとってラジオは聴くもので、自分の声が電波に乗るということは想像もつかないことでした。当時としては画期的な企画の番組だったのです。

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 第一回の出演者をニュースで公募したところ、900人もの応募があったそうで、瞬く間に大人気の番組となりました。「のど自慢素人音楽会」は軍隊で行われていた演芸会にヒントを得ているそうです。カラオケが日本発祥であることからも想像できますが、日本人はもともと歌を歌うのが好きだったのでしょう。

 昭和22年(1947年)には番組の名前を「のど自慢素人演芸会』に変更し、歌だけではなく、ものまねや漫才なども対象とし、面白い素人がたくさん登場しました。昭和35年(1960年)にはテレビとラジオの同時放送が開始され、昭和45年(1970年)に再び歌のみを対象とした番組とななり、番組名は「NHKのど自慢」となりました。

 「のど自慢素人音楽会」を軍隊の演芸界にヒントを得て企画したのは、当時NHKで音楽番組を担当していた三枝嘉雄(ペンネーム三枝健剛、音楽家の三枝成彰さんの父)さんだったそうです。いろいろなアイデアを盛り込んだ歌番組を企画したそうです。「NHK紅白歌合戦」を企画したのも三枝嘉雄さんです。「のど自慢素人音楽会」の開始から5年後のことでした(ココログ 夜明け前「NHK紅白音楽合戦(昭和26年 1951年1月3日)」)。

 自分は「のど自慢」というとアコーディオン奏者の横森良造さんを思い出してしまいます。出演者がマイクの前で「○番、○○を歌います」と言って歌い始めるのですが、横森さんはいかなる曲でも、どんな歌い方にも合わせてアコーディオンの伴奏をこなしていました。  

 のど自慢の影響は大きく、素人や歌や演芸を競う番組がたくさん登場しました。「スター誕生!」や「お笑いスター誕生!!」などの番組に登場した素人が後に有名な歌手や芸人になった例は枚挙にいとまがありません。

 ところで北海道出身の歌手の北島三郎さんは、函館市西高等学校に通っていたときに函館市で行われた「NHKのど自慢」の公開放送に出場されたそうです。鐘は2つしか鳴らなかったそうですが、司会者の宮田輝アナウンサーに「いい声でした」「お上手でした」と声をかけられ、この言葉で歌手を目指すことにしたそうです。

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2021年1月13日 (水)

函館カール・レイモンのショルダーハム

 函館に行くと必ずお土産で買ってくるのが「函館カール・レイモン」のハムやソーセージです。どれも美味しいのですが、自分はよくハムを買います。

カール・レイモンのラベル
カール・レイモンのラベル

 函館カール・レイモンはドイツ製法のハム・ソーセージを製造・販売している会社で、創業者はオーストリア=ハンガリー帝国出身のマイスター、カール・ワイデル・レーモンさんです。

 レイモンは1894年にカルルスバード(現チェコのカルロヴィ・ヴァリ)の食肉加工のマイスター、アントン・レイモンの息子として生まれ、14歳のときに家業を継ぎました。その後、修行のため各国を訪れ、1915年に缶詰の大量生産の技術習得のためアメリカで3年間研修します。1919年、アメリカからヨーロッパへ戻る途中に来日しました。レイモンは直ちにヨーロッパに戻らず、日本でハム・ソーセージの技術指導をすることになり、1920年に北の地での缶詰工場の統括する拠点のあった函館に赴きました。

 レイモンは函館の滞在先の勝田旅館の娘、勝田コウと恋仲になりましたが、コウの両親は2人の結婚に大反対しました。函館は外国人の多い街でしたが、当時は外国人と結婚が許さることはほとんどなかったのです。レイモンとコウは駆け落ちすることを決意し、中国経由でカルルスバートに向かいました。2人はレイモンの家族の協力のもと、カルルスバードでハム・ソーセージの製造・販売を始めました。

 カルルスバードでの2人の生活が3年を経過したとき、レイモンは海外で暮らすコウの苦労を配慮し、函館に戻ることを決意しました。1924年、2人は函館に戻り、日本での正式の結婚、1925年に函館駅前にハム・ソーセージの工場と店を開きました。しかし、当時の日本人にはハム・ソーセージはあまり受け入れられませんでした。函館港には外国船が寄港することがあり、ドイツの軍艦からの受注をきっかけに、業績が向上し、五稜郭工場、大野工場が完成します。1933年に畜産指導のため満洲を訪れ、このときの功績により、満洲鉄道の総裁から「礼門」という日本名を授かりました。しかし、その後は大野工場が没収され、ハム・ソーセージの製造・販売が不可能となり、函館山の麓の元町に移住しました。

 第二次世界大戦終了後の1948年、レイモンは元町の自宅の隣にハム・ソーセージの工場と店を開き、1980年代初めまでこの地でハム・ソーセージの製造・販売ならびに弟子の育成を精力的に行いました。1983年、日本ハムが函館カール・レイモン社として事業を継続しました。レイモンは現役を引退し、その後も弟子の育成を続けました。レイモンはその功績により数々の章を受賞し、1987年に享年93才で亡くなりました。

 自分はレイモンさんがまだ現役だった元町のお店を何度か訪れたことがあります。また、ハムやソーセージもよく食べていました。カール・レイモンのハム・ソーセージは、あのときと今も変わらない味です。弟子の方々がドイツの製法をしっかりと受け継いできているからでしょう。

 次の写真はショルダーハムです。これ見ただけで美味そうですが、美食の知人に御馳走したら喜んで食べていました。そして、自分は上述の話を延々と語り、まるで自分の自慢話をしているようだと言われました。

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カール・レイモンのショルダーハム

 レイモンさんの伝記が出版されています。あと、amazonでハム・ソーセージが売っているか確認してみましたが、常温保存が可能なソーセージやサラミは買えるようですが、ショルダーハムはありませんでした。そういえば空港で買ったときには保冷パックで包んでもらいました。

  

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2020年12月15日 (火)

榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)

 慶応3年(1867年)、江戸幕府15代征夷大将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、新政府軍大総督府参謀の西郷隆盛と江戸幕府陸軍総裁の勝海舟によって江戸城が無血開城しました。

徳川慶喜(左)・西郷隆盛(中)・勝海舟(右)
徳川慶喜(左)・西郷隆盛(中)・勝海舟(右)

 慶應4年(1868年)8月19日、江戸幕府海軍副総裁の榎本武揚は無血開城の条件であった旧幕府艦隊の引渡に応じず、開陽丸を旗艦とする8隻の艦隊で蝦夷地に向かいました。途中、暴風雨により2隻を失いましたが、8月下旬には仙台に到着、仙台で桑名藩の松平定敬、大鳥圭介が率いる伝習隊、土方歳三をはじめとする旧新選組、渋沢成一郎が率いる彰義隊、古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊、星恂太郎が率いる額兵隊などの残党約3千名と合流しました。新政府軍が仙台に入城すると、榎本武揚の艦隊は10月9日に仙台を離れました。このとき、榎本武揚は旧幕臣の保護とロシア侵略に備えるため蝦夷地を開拓する嘆願書を新政府軍に送っています。

榎本武揚と開陽丸
榎本武揚と開陽丸

 榎本武揚が率いる旧幕府軍は10月20日に内浦湾に面する鷲ノ木(現、森町)から蝦夷地に上陸し、そこから函館の攻略を始めました。10月26日に五稜郭を占領し、11月1日に榎本武揚が五稜郭に入城しました。これにより蝦夷地を支配下に置くことに成功しました。

 旧幕府軍は実質的には榎本武揚が率いていましたが、様々な組織の残党の集まりであったこともあって、統制が難しい状況にありました。そこで、榎本武揚らは米国の政治体制などを参考に公選入札を行いました。その結果、榎本武揚が総裁に選出されました。投票に参加したのは指揮官以上でしたが、これが日本で初めての選挙となりました。明治元年(1868年)12月15日の新政府誕生の日のことです。

 さて、旧幕府軍は11月に新政府軍に従っていた松前藩を開城させ、その後、開陽丸とともに江差攻略に向かいました。11月15日には江差を無血占領することができましたが、その夜、暴風雨により開陽丸が座礁、沈没してしまいました。開陽丸を失った旧幕府軍は制海権を確保できなくなり、新政府軍が蝦夷地への上陸を開始、函館戦争が開戦しました。明治2年(1869年)5月18日に五稜郭が落城、歴史は戊辰戦争の集結へと向かったのです。

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2020年12月 9日 (水)

函館とホタテ貝と黒船ペリー提督の関係

 ホタテは帆立と漢字で書きます。なぜ、帆立と呼ばれるようになったのかは、ホタテの貝殻の形が帆船の帆に似ていたからといいます。しかし、生きているホタテは貝を船の帆のように立てているわけではありませんから、口を開いたホタテの形を見て帆立と名付けたそうです。1712年に出版されたされた日本初の図解百科辞典「和漢三才図会」にホタテ貝の名前が出てきます。

 さて、このこのホタテには、Patinopecten yessoensisという学名がつけれています。その意味は「北海道の櫛の模様のある皿」です。この学名がつけられた背景には、函館と江戸時代鎖国をしていた日本の外交政策を大きく変えることになったアメリカ人が関係しています。

 その外国人とは1853年に江戸湾浦賀沖に姿を現した黒船を率いていたペリー提督です。ペリー提督は日米和親条約に調印した後、日本のいくつかの都市に黒船で寄港していますが、函館には1854年5月12日にやってきました。函館の町は大騒ぎになったそうですが、日米和親条約を結んだ後ですから、この寄港は友好的なものでした。函館の弁天町にあった豪商・山田屋寿兵衛の屋敷で松前藩の役人と会見を行いました。その屋敷跡に建てられたのがこの標柱です。

ペリー提督会見所跡
ペリー提督会見所跡

 元町の基坂(もといざか)にはペリー提督来港150周年を記念する銅像が建てられています。

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ペリー提督来港150周年の銅像

 ペリー提督の艦隊は江戸幕府に鎖国を解除するよう求めただけではなく、各地で学術調査も行いました。日本各地のことが「ペリー日本遠征記」にまとめられています。

 ペリー提督の艦隊は函館にやってきたとき、ホタテを見てこれはめずらしい貝とアメリカに持ち帰ったそうです。ホタテは新種の貝として紹介され、Patinopecten yessoensisという学名がつけられました。Patinopectenは、櫛のような模様のある皿、yessoensisは蝦夷地(北海道)のことだそうです。

 かくして、ホタテの学名は「北海道の櫛のような模様のある皿」となったわけです。ホタテがいるのは日本だけではないはずなのに、学名に蝦夷が入っているのは上述のような歴史があったからです

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2020年12月 8日 (火)

函館ハリストス正教会が大規模修復工事へ

 北海道函館市の観光名所の函館ハリストス正教会が大規模補修工事に入るそうです。工事期間は2021年1月から2022年冬までの予定で、聖堂内の見学を休止する他、建物の改修のため足場が組まれるので聖堂の外観も見られなくなるようです。

函館ハリストス正教会
函館ハリストス正教会

 函館ハリストス正教会は日本ハリストス正教会に属する主の復活聖堂を備える教会です。ハリストスはギリア語でイエス・キリストを意味します。歴史上、日本における正教会の聖堂を有する最初の教会でもあり、伝道の拠点でもあります。

 なぜ函館が拠点になったのかは江戸幕府とロシアが1855年と1858年に結んだ日露和親条約と日露修好通商条約に関係しています。江戸幕府が函館を開港すると、初代ロシア領事ゴシュケヴィッチが来函しました。ゴシュケヴィッチは1600年に港と市街を見渡せる現在の地にロシア領事館を開き、その付属聖堂として函館ハリストス正教会復活聖堂を建立しました。1861年、修道司祭の亜使徒聖ニコライが来函、日本で初めて正教会を伝えました。

 最初の聖堂は1907年の函館大火で焼失しています。現在の聖堂は1916年に再建されたものです。聖堂および聖堂内の聖障は1983年に国の重要文化財に指定されています。また、函館ハリストス正教会はその鐘の音から市民の間で「ガンガン寺」という名前で親しまれ、1996年に環境省の「残したい日本の音風景100選」に選ばれています。

函館ハリストス正教会の鐘の音(鐘楼内で撮影)

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2020年11月25日 (水)

函館の野球の球聖 久慈次郎

 一般に野球の球聖というと米国のメジャー・リーグで活躍したタイ・カッブ選手のことですが、かつて函館には球聖と言える野球選手がいました。その選手の像が函館市オーシャンスタジアム(千代台公園野球場)に佇んでいます。その選手とは函館太洋倶楽部(函館オーシャンクラブ)で捕手として活躍した久慈次郎選手です。

学生時代の久慈選手(左)と函館オーシャンスタジアムの像(右)
学生時代の久慈選手(左)と函館オーシャンスタジアムの捕手の構えの像(右)

 久慈選手は明治31年(1898年)に青森県青森市で生まれ、幼少期を岩手県盛岡市で過ごしました。身長が180 cm以上あったため、野球の捕手として活躍する機会が多く、盛岡中学(現岩手県立盛岡第一高等学校)に入学すると、本格的に野球を始めました。盛岡中学を卒業後は早稲田大学へと進学しました。

 久慈選手は捕手としては投手を的確にリードし、送球による盗塁の阻止や牽制、一塁へのベースカバーやバンドやフライの処理なども見事なものでした。投手へのリードによって、わざと打者にファールフライを打たせてアウトにすることが多々ありました。また、打者としても、3・4・5番のクリーンアップで活躍しました。イチロー選手のようにチャンスに強くて足が早かったそうです。

 早稲田大学を卒業した久慈選手は大正11年(1922年)に当時函館市に存在していた電力会社である函館水電に入社し、函館太洋倶楽部に入団しました。昭和2年(1927年)、神宮球場で開催された第一回全国都市対抗野球大会に参加、同年に函館水電を退社し、久慈運動具店を開業しました

 昭和6年(1931)に来日したアメリカ大リーグ選抜チームとの日米野球大会で、全日本チームに捕手兼主将として選ばれました。3年後の昭和9年(1934年)の同大会にも捕手兼首相として参加し、現在においては沢村賞で有名な当時全日本のエースであった沢村栄治とバッテリーを組みました。大リーグの選抜チームはコニー・マック監督が率い、大打者のべーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックス、名投手レフティ・ゴメスが参加した強豪チームです。16戦全敗の結果でしたが、沢村選手と久慈選手のバッテリーは大リーグの強豪相手に良く戦いました。特に静岡草薙球場で行われた試合においては、沢村選手が好投し、ルーゲー・リッグ選手の本塁打による1失点のみに抑えました。このとき、沢村選手は久慈選手のサインに対して首を振り、久慈選手のリードを拒否する仕草をしましたが、最終的に沢村選手が投じた一球がどちらの意図によるものなのかはわかっていないようです。

 ところで、函館市は昭和9年3月に死者2000人以上にものぼる大火に見舞われていました。炎は函館の半分を焼き尽くし、函館市民は疲弊していました。このとき久慈選手は日米野球大会の主催者の読売新聞社に16試合のうちせめて1試合を函館で開催して欲しいと嘆願しました。読売新聞社はこれを受け入れ、同年11月8日に久慈選手は函館市民が見守る中でプレーしました。

 このときの全日本チームのメンバーを中心としてプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(現:読売ジャイアンツ)が結成されることになり、久慈選手は主将としてチームへの参加を要請されました。当時としては破格の給与での対応でしたが、久慈選手はこの申し入れを断っています。大火の影響が続き、復旧の目処が立たない函館でアマチュア野球の発展に貢献することを決意したのです。

 その後、函館太洋倶楽部の監督兼捕手となった久慈監督は、毎年北海道代表としてチームとともに全国都市対抗野球大会に出場しました。毎年1回戦で敗退を続けていた函館太洋倶楽部ですが、昭和14年(1939年)に初めて1回戦に勝利しました。久慈監督はチームのメンバーとともにたいへん喜んだそうです。

 同年8月、札幌神社外苑球場で小樽新聞社主催の北海道樺太実業団野球大会が開かれました。19日、函館太洋倶楽部は1回戦で札幌倶楽部と対戦しました。2対1で札幌倶楽部がリードする7回表、ノーアウトランナー1塁で久慈監督は打席に立ちました。札幌倶楽部のバッテリーは久慈監督を敬遠しました。久慈監督は1塁に進みましたが、途中で振り返り、次の打者に声をかけようとしました。このとき、札幌倶楽部の捕手が投げた牽制球が久慈監督のこめかみを直撃したのです。試合は中断となり、久慈監督は直ちに病院に搬送され緊急手術を受けました。治療の甲斐もなく、久慈監督の意識が戻ることはなく、残念ながら帰らぬ人となってしまいました。死因は頭蓋骨破損による脳出血でした。8月21日のことでした。

 久慈監督がいかに素晴らしい選手であったかはその後の球界の対応でもわかります。全国都市対抗野球大会では敢闘賞として久慈賞が設立されました。また、昭和34年(1959年)に始まった野球殿堂においては、沢村栄治選手とともに第1回の殿堂入り選手となっています。

 もしも久慈選手が大日本東京野球倶楽部に入団していたら読売ジャイアンツの歴史に残る名捕手になっていたことでしょう。しかし、久慈選手は函館市を足がかりに北海道で野球をプレーし続けることを決意し、函館の球聖になったのです。

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2020年10月29日 (木)

函館山と函館どっくゴライアスクレーン

 写真を整理していたら2004年に青函フェリーで青森港から函館港までフェリーで函館に向かったときの写真が出てきました。次の写真は函館港に入ってから函館山を撮影したものです。よく見ると左下に函館どっくのゴライアスクレーンが写っていました。

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解像度が低いので綺麗ではありませんが、函館どっく付近を拡大してみました。

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このゴライアスクレーンは造船不況と老朽化のため2009年(平成21年)6月に撤去されました。

現在、コロナウイルスで厳しい状況ですが、函館には多くの人が観光に訪れます。ずいぶん前に比べると、観光都市としてずいぶん良い感じになってきたと思います。当時の様々な問題もあったと思いますが、ゴライアスクレーンが撤去されたことは非常に残念です。

高校生の頃、海釣りをしながらゴライアスクレーンを眺めてていたのを思い出します。

撤去直前の函館どっくのゴライアスクレーンの映像がYouTubeのチャンネル「新函館ライブラリ」にアップされていました。

最後のゴライアスクレーン、函館どつくWhiteCoral進水式(VIDEO HOSHINOシリーズ)2009年6月2日

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2020年10月22日 (木)

青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年(1963年)11月15日

 青函連絡船「津軽丸」は神奈川県の浦賀重工業浦賀造船所(通称・浦賀ドック)で造船されました。昭和38年5月24日に起工し、同年11月15日に進水式が行われました。この写真は進水式の時のものです。

青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年11月15日
青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年11月15日

 津軽丸就航前は戦中や戦後に造船された粗悪な連絡船が就航していました。青森-函館間も4時間30分を要していました。青函連絡船の輸送力の強化を目的に機械化され自動化された船が建造されることになりました。これにより所用時間も3時間50分となりました。造船された最初の一隻が津軽丸となりました。

 上の写真には次のようなコメントが入っていました。

青函連絡船 ”津軽丸” 進水式

出来得る限り機械化され北海道と本州を結ぶかつての旧連絡船に代わって役目を果たす。

六隻発注のうちの第一船である。

"神奈川県浦賀ドックで写す"

 六隻発注とありますが、この六隻とは八甲田丸・松前丸(2代)・大雪丸(2代)・摩周丸(2代)・羊蹄丸(2代)のことです。これらの連絡線は昭和40年(1965年)8月までに就航しています。その後、青函航路の輸送の需要が高まったため、国鉄は1965年10月にもう一隻を追加発注し、1966年11月に十和田丸(2代)が就航しました。津軽丸を合わせて、これら七隻の連絡線は「津軽丸型」と呼ばれました。津軽丸は1982年(昭和57年)3月に引退しました。その後、六隻の船は「八甲田丸型」と呼ばれるようになりました。

 1904年(明治41年)3月に開業した青函連絡船は、1982年(昭和57)に東北新幹線開通、1987年4月に国鉄民営化を経て、1988年9月に廃止となり、84年の歴史に幕を閉じました。

光と色と Color Images|白黒写真をカラー写真にするアプリで紹介されているアプリでカラー化してみました。

青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年11月15日 AIカラー化
 青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年11月15日 AIカラー化

次の写真は津軽丸の左手前に設置してあった進水式の看板をカラー化したもです。

青函連絡船「津軽丸」進水式の看板 AIカラー化
青函連絡船「津軽丸」進水式の看板AIカラー化

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2020年10月20日 (火)

函館の八幡坂

 北海道函館市の八幡坂です。函館山の麓から真っ直ぐ港に通じる坂です。その港は現在は観光スポットとなっている赤煉瓦倉庫街があるところです。真正面に青函連絡船記念館摩周丸が見えます。

八幡坂(北海道函館市)
八幡坂(北海道函館市)

 八幡坂は観光地から函館山の麓まで一気に登ってくることができる坂です。坂を登り切った正面には北島三郎さんの出身校の函館西高校学校があります。坂を登って右の方(写真では左の方向)に行けば旧函館区公会堂や箱館奉行所跡のある元町公園、左の方向(写真では右の方向)に行けばハリストス正教会などがあり、さらにその先にはロープウェイ乗り場があります。

 八幡坂の名前はこの坂の上に函館八幡宮があったことに由来します。函館八幡宮は明治の大火で焼失したため、現在は谷地頭に移設されています。函館山の麓には、八幡坂の他にも真っ直ぐな広い坂道がたくさんあります。函館は昔からしばしば大火があり、これらの坂には延焼を防ぐ目的もあったようです。

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2020年4月29日 (水)

五稜郭タワーズ

 五稜郭タワーは函館市の五稜郭公園の近くにある展望タワーです。現在のタワーは2004年11月に着工し、2006年3月31日竣工、同年4月1日から開業しています。新タワーが建造される前は、旧タワーがありました。旧タワーは五稜郭築城100周年を記念して1964年12月1日に開業しました。五稜郭築城100周年に加えて、東京オリンピック後の開業でしたから、ずいぶん盛り上がったようです。

 さて、次の写真は新タワー(手前)が完成しつつある2006年の正月に撮影したものです。開業前ですから旧タワー(奥)も解体されずに残っており、新旧タワーズのツーショットを撮影することができました。なお、旧タワーは2006年6月に解体されました。旧タワーの跡地はアトリウムになっており、土方歳三のブロンズ像などが展示されています。

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 さて、奥側の旧タワーの高さは60 m、展望台の高さは45 mです。一方、新タワーの高さは避雷針までで107 mあります。実際の高さは98 m、展望1階は86 m、展望2階は90 mあります。旧タワーの展望台の倍の高さがあり、はるかに遠くまでを見通せるようになりました。

 五稜郭タワーは現在新型コロナウイルスのため4月18日(土)より5月6日(水)まで臨時休館となっています。新型コロナウイルスが収束するまでは、花見や観光も全面的に控えています。収束したら是非、函館を訪れてください。

 ところで、この高さから、どれぐらい遠いところまで見通せるかについては、ブログ「光と色と」の下記の記事を参考に計算することができます。

東京スカイツリーから見える地平線までの距離

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