カテゴリー「函館の話」の38件の記事

2021年9月26日 (日)

青函連絡船「洞爺丸」沈没(1954年9月26日)

 北海道と本州を結んでいた青函連絡船は1908年に就航が始まりました。昭和20年(1945年)7月に米軍による空襲で就航していた12隻の青函連絡船は全船が失われました。終戦後、国内の船舶を転用したり、修復された連絡船が使用されたりしまたが、航路の需要を十分に賄うことができませんでした。そこで、GHQの許可を得て大型連絡船が4隻建造されました。そのひとつが洞爺丸で昭和22年(1947年)11月27日に就航しました。

 洞爺丸は昭和29年(1954年)9月26日に6時30分に青森港を出港し11時5分に函館港に到着しました。14時40分に函館港を出港する予定でしたが11時30分に暴風警報が出ました。10時50分に出港していた別の連絡船が暴風の影響で難航となり、以降の連絡船は引き返したり、欠航したりしました。

青函連絡船・洞爺丸
青函連絡船・洞爺丸

 洞爺丸は大型の連絡船で堪航性も優れていたため午後3時に出港の準備が進められていましたが、引き返してきた連絡船からの乗客や貨物の乗り換えに時間がかかり、また停電が重なって予定通り出港することができなくなりました。台風が来る前に本州側の陸奥湾内に入るためには早めに出港する必要がありましたが洞爺丸は欠航とはならず、出港見合わせになりました。

 16時に台風は17時頃に渡島半島を通り夜間に北海道を通過するとの台風情報が発表されました。そして17時頃には風が弱まり晴れ間が見えるようになり台風の目に入ったと判断されました。洞爺丸の船長は出港時間を18時30分と決めました。18時頃から再び天候が悪化しましたが、洞爺丸は18時39分に函館港を出港しました。しかし、強風のため洞爺丸は防波堤外で両舷の錨を下ろし船首を風上に向けて姿勢を保ちながら海上で待機しました。

 通常はこの待機で波浪をやり過ごすことができますが、波が高く波長が洞爺丸の全長よりやや長かったため船尾の車両甲板に大量の海水が流入し始めました。十分な排水を行うことができず、22時過ぎには左舷および右舷の機械が停止し、操船が不能な状態に陥りました。船内では七重浜に座礁することが伝えられ、乗員・乗客に救命胴衣着用の指示が出されました。

 洞爺丸は右舷方向に傾きその傾斜は40度にまで達しました。そして海底に座礁し22時39分にSOSを発します。通常は座礁で船体が安定して沈没を免れることが多いのすが、洞爺丸の船体は不運にも海底の状況により左舷の下部が海面に出るほど傾斜し22時45分に転覆しました。この事故により乗客や乗組員など1,155名が死亡または行方不明となり救助されたのは159名でした。

 洞爺丸沈没事故は1912年のタイタニック号の沈没事故に次ぐ著名な船舶の海難事故として知られるようになりました。この事故によって青函トンネル建設の機運が高まりました。

【関連記事】

タイタニック号が氷山に衝突(1912年04月14日)

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2021年9月 6日 (月)

ソ連戦闘機が函館空港に強行着陸(1976年9月6日)

 1976年9月6日午後1時11分、航空自衛隊奥尻レーダーサイトが高度6,000 mを速度800 km/hで西方から北海道に近づく識別不明機を捉えました。午後1時20分、航空自衛隊千歳基地からF-4EJファントム2機がスクランブル発進しました。

 識別不明機は高度を下げながらさらに北海道に近づいて来たため奥尻レーダーサイトが無線で警告しましたが、午後1時22分に北海道茂津田岬沖合いで領空に侵入しました。同期は進路を南方に向け、さらに高度を下げたためレーダーから機影が消えました。F-4EJファントムは午後1時25分に同機をレーダーで捉えたものの30秒ほどで見失いました。奥尻レーダーサイトはロシア語と英語で警告を続け、午後1時35分に再び機影を捕らえたもののすぐに見失いました。その後、奥尻レーダーサイトもF-4EJファントムも同機を捜索するものの発見することはできませんでした。

 その後、函館上空を旋回するジェット戦闘機が発見され、函館空港事務所が航空自衛隊に問い合わせを行いました。この連絡を受けて午後1時49分にF-4EJファントムが函館方面に向かいましたが、ジェット戦闘機が函館上空を3回旋回し午後1時57分に函館空港に強行着陸したため千歳空港へ引き返しました。ジェット戦闘機は着陸時にパラシュートを開きましたが、滑走路の中央あたりに着地したためオーバーランしました。空港で工事をしていた民間人が同機に近づくと、パイロットが銃を空に向けて威嚇発砲しました。

 午後2時過ぎに航空管制官の通報を受けた北海道警察が到着し、函館空港を完全封鎖しました。当初、警察と自衛隊のどちらが対応するか混乱があったようですが、領空侵犯は自衛隊の管轄だが国内の空港への着陸は警察が管轄する事件であるとして、自衛隊は警察に締め出され空港に入ることができなくなりました。

 北海道の西方からやって来た識別不明機はソビエト連邦(ソ連)のジェット戦闘機ミグ25で、パイロットはヴィクトル・イヴァーノヴィチ・ベレンコ中尉で米国への亡命を要望していることがわかりました。ソ連はベレンコ中尉の身柄とミグ25の引き渡しを要求しましたが、ベレンコ中尉は米国への亡命が認められ、ミグ25は自衛隊の百里基地に移送され日米共同の機体調査が行われることになりました。

函館空港に緊急着陸したMiG-25Pの同型機
函館空港に緊急着陸したMiG-25Pの同型機

 自衛隊はソ連が最高機密のミグ25を取り返しに来たり、破壊しに来きたりした場合に備えました。陸上自衛隊は函館駐屯地に戦車、歩兵部隊、高射砲を配置し、函館の防衛戦闘の準備をしていました。会場自衛隊も日本海側と太平洋側、そして函館付近に艦船を配備し警戒に当たりました。航空自衛隊はF-4EJによる哨戒飛行を24時間体制で行いました。実際にソ連軍が函館にやって来ることはありませんでした。

 ミグ25は1967年7月にモスクワで行われた航空ショーで初めてその姿を現しました。ミグ25の詳細は秘密のベールに包まれていましたが、最高速度はマッハ3を超え、航続距離の長い高性能な戦闘機と考えられました。当時、米国の主力戦闘機はF-4ファントムでミグ25に対抗できる戦闘機ではありませんでした。このため米国はF-15の開発に着手することになります。F-15が実戦配備されたのは1976年1月で、この事件のわずか8ヶ月前のことでした。

 日米の調査の結果、ミグ25は予想されていたほど高性能ではないことが判明しました。たとえば主翼や胴体には耐熱性の高いチタンが使われておらず、マッハ3を超える速度には耐えらず最高速度はマッハ2.83であることがわかりました。またエンジンには旧型のターボジェットエンジンが採用されており、機体が重たいため燃費が悪く、後続距離もF-15に劣ることがわかりました。電子機器には真空管が多用されており、従来の技術の信頼性を重視したもので先進的なものではありませんでした。高速で運動性が優れた戦闘機と考えられていたミグ25は領空の防衛を目的とした迎撃撃機であり、制空戦闘機ではないことがわかりました。つまりソ連や東側勢力が高性能戦闘機ミグ25で攻撃を仕掛けてくるという西側諸国の懸念が払拭されたのです。

 調査後、ミグ25はソ連に返還されましたが、ソ連は防空システムの情報が漏洩したと考えミグ25の搭載機材をすべて変更しました。同年米国が実戦配備したF-15は速度性能を抑えて運動性を重視した戦闘機でした。その後、戦闘機の基本性能は超音速より亜音速での戦闘能力が重視されるようになり、最高速度の向上は求められなくなりました。そのためミグ25は現在においても世界トップクラスの超高速戦闘機です。

 さて、ミグ25によってあっさりと領空侵犯され、函館空港に強制着陸を許してしまった日本は防空の脆弱性が露呈する形になりました。もし、ベレンコ中尉の目的が亡命ではなく攻撃だったとしたら、たいへんな被害が出ていたことは間違いありません。日本はレーダー網を見直し、また、これをきっかけに早期警戒機E-2Cを導入しました。

 自分は当時中学生で北海道の小樽市に住んでいましたが函館市に引っ越すことが決まっていました。とんでもない事件が起きたということはわかりましたが、プラモデルが趣味の友人とミグ25の話で盛り上がったように記憶しています。飛行機のプラモデルといえばハセガワが有名ですが、この事件の前にミグ25のプラモデルが販売されていました。このプラモデルはずいぶん売れ、ハセガワが飛行機のプラモデルの老舗となりました。

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2021年8月13日 (金)

函館夜景の日(8月13日)

 毎年8月13日は函館夜景の日です。函館夜景の日は函館出身の大学生の投書をきっかけに8(や)とK(けい トランプのK=13)の語呂合せから函館夜景の日実行委員会(函館青年会議所・函館観光協会他など)が制定したもので、1991年から始まりました。

 函館観光の目玉は何と言っても標高334 mの函館山の頂上から見える「100万ドルの夜景」でしょう。真っ暗な海に浮かび上がった湾曲した函館市街に広がる光と色はとても綺麗で日本三大夜景のひとつです(六甲山から見える神戸市など、稲佐山から見える長崎市、函館山から見える函館市)。函館の夜景はナポリと香港と並んで世界三大夜景のひとつにもなっています。

函館の夜景
函館の夜景

 下記は2009年の函館夜景の日に打ち上げられた花火を函館山の山頂からのぞんだ映像です。

009/08/13 函館夜景の日 花火のおまけつき

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2021年6月 7日 (月)

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

 昭和37年(1962年)6月某日に撮影された北海道函館市の五稜郭公園の航空写真です。公園の北側上空から撮影したもので、よく見る五稜郭の写真とは上下逆さまになっています。写真の右上が半月堡と一の橋と二の橋で、下側が裏門橋です。

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)
五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

 撮影当時は有名なシンボルがありません。五稜郭タワーです。初代の五稜郭タワーは昭和40年(1964年)12月開業です。写真の右上の右斜め上方に向かう道路の左側に建設されました。また、昔は公園内は広場になっていて箱館奉行所(復元)はありませんでした。

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2021年5月13日 (木)

函館と赤とんぼの関係

 夕焼け小焼けの赤とんぼ、負われて見たのは、いつの日か

 有名な童謡「赤とんぼ」の歌詞です。子どもの頃、「負われて見たのは」を「こわれて見たのは」と思っていた頃があります。何が壊れたのかさっぱりわかりませんが、そう思っていたのです。

 しばらくして、「負われて見たのは」が正しいということを知りました。そして次に出てきた疑問。「負われて見たのは」って、負われたってどういうことなの?ということでした。これも、そのうち「背負われて見たのは」ということがわかりました。なるほどねぇ。

ミヤマアカネ
ミヤマアカネ

 さて、この童謡の歌詞の解釈には論争があったそうです。主人公は、赤とんぼを背負われて見たわけですが、その主人公を背負っていたのは誰か?ということです。

 「赤とんぼ」の三番目の歌詞はこうです。

十五で姐(ねえ)やは、嫁に行き、お里のたよりも、絶えはてた

 この歌詞から想像すると、主人公はこの姐やに背負われていたのではないかと考えるのが自然です。

 この「赤とんぼ」は1921年大正10年に発表された歌です。この時代を考えると、少女が幼児を背負って子守をしているのはよくある光景だったでしょう。

 これに対して、いや主人公を背負っていたのは母親だという考えもあります。歌詞には母親と思えるような人物は出てきませんが、子どもを背負っているのは母親というイメージが強かったのでしょう。

 さて、「赤とんぼ」の歌詞は三木露風(みき ろふう 1989-1964)という兵庫県出身の詩人によるものです。露風は1920(大正9年)に、函館のトラピスト修道院の講師に就任します。トラピスト修道院の初代院長であるジェラール・プーリエ院長(のちに、帰化が認められ、岡田晋理衛と名乗る)が、三木露風に講師を依頼したからです。同年、三木露風は婦人とともに函館にやってきて、函館トラピスト修道院講師に着任しました。翌1921年(大正10年)に2人は洗礼を受け、この年に三木露風は「赤とんぼ」の詞を書いています。

Photo_17
函館トラピスト修道院(実際は当別町)

 この頃の三木露風の自筆のメモが見つかっています。「赤とんぼ」は函館トラピスト修道院でアカトンボを見て、幼い頃を思い出して書いた詩であることが記載されています。「赤とんぼ」の主人公は三木露風自身であり、幼い彼を背負ったのは子守役の娘だそうです。ということですから、詞に出てくる「姐さん」は母親ではなかったということになります。

赤とんぼ  由紀さおり 安田祥子 歌詞付き 童謡

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2021年5月 9日 (日)

日本最古のコンクリート電柱|函館と電柱の関係

 函館には日本最古のコンクリート製の電柱があります。ふだん見かけるコンクリート電柱は円筒形をしていますが、日本最古のコンクリート電柱は四角形です。次の写真を見ると一目瞭然です。

日本最古のコンクリート製電柱
日本最古のコンクリート製電柱

 この電柱は国内で現存するコンクリート電柱としては最古のもので、1923年(大正12)10月に当時函館にあった電力会社(現在は北海道電力)が建てたものです。

 電柱の高さは10メートル、底面は47センチメートル四方の四角形、上面が19.5センチメートル四方の四角形となっており、角錐体の形状をしています。コンクリートの内部には鉄筋が入っています。上の写真ではわかりいくいですが、次の写真を見ると底面が四角形であることがわかります。

日本最古のコンクリート製電柱の底面
日本最古のコンクリート製電柱の底面

 昔の電柱はほとんど木製でしたが、函館は1907年(明治40年)に大火事があり、その後も火事が続いてため、耐火性に優れた建物が造られるようになりました。その頃に作られたのがこの電柱です。この電柱のすぐ側にもう一本同じ形の電柱があり、夫婦電柱と呼ばれていたのですが、その電柱は1971年(昭和46年)に道路工事のために撤去されました。

日本最古のコンクリート製電柱の掲示板
日本最古のコンクリート製電柱の掲示板

 1923年から80年以上たった今でも、この電柱は現役として電柱の役割を果たしています。この電柱がある場所の住所は北海道函館市末広町15-1で金森赤レンガ倉庫からすぐのところにあります。函館を訪れたときには是非日本最古のコンクリート電柱まで足をのばしてご覧ください。

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2021年4月30日 (金)

開陽丸が横浜に入港(慶応3年 1867年4月30日)

 江戸幕府の海軍が幕末に所有していた「開陽丸」。

開陽丸(Voorlichter)
開陽丸(Voorlichter)

 「開陽丸」は江戸幕府が最新鋭の主力艦として外国の軍艦に対応する目的で文久2年(1862年)にオランダに発注した木造シップ型フリゲート艦です。このとき、江戸幕府は操船や海戦、国際法や医学などを学ぶ目的として留学生を15人派遣しました。その中には、榎本武揚、澤太郎左衛門などの面々が含まれていました。

 製造された「開陽丸」は全長72.08メートル、排水量2590トンの船体に400馬力の2気筒横置トランクピストン型蒸気機関と大砲26門(後に35門となる)を備え、速さ10ノット(時速18.5kメートル)で走ることができました。クルップ砲の射程距離は3,900メートルもありました「開陽丸」をオランダから日本へ移送した際の艦長オランダ海軍大尉ジュール・アーサー・エミール・ディノー(Jules Arthur Emile Dinaux)はオランダには開陽丸に勝てる軍艦はないと、その能力の高さを絶賛しました。

 1866年12月1日、「開陽丸」はオランダのブリッシンゲンを出航し、アフリカ南端を経てインド洋を渡り、半年後の1867年4月30日に横浜港に到着しました。幕府軍艦奉行の勝海舟が開陽丸を出迎え、榎本武揚は軍艦頭並、澤太郎左衛門は軍艦役並に就任することになりました。

 しかし、その半年後には大政奉還が行なわれました。慶應4年(1868年)8月19日、江戸幕府海軍副総裁の榎本武揚は無血開城の条件であった旧幕府艦隊の引渡に応じず、開陽丸を旗艦とする8隻の艦隊で品川沖から脱走し蝦夷地に向かいました。

 さて「開陽丸」の名前は江戸幕府が留学生たちに命名するよう命じました。榎本武揚が考案した夜明け前という意味の「Voor lichter(開陽)」が選ばれたと言われています。Voorが前でlichterが陽や灯という意味です。

 この「Voor lichter」はこのブログの名前の由来にもなっています。しかし、ココログを登録するときにブログのフォルダ「voorlichter」とすべきところを「voorlihter」としてしまったため、「c」が抜けた誤字となってしまいました。気がついたのはずいぶん後のことでしたから、恥ずかしながら、そのまま「voorlihter」とすることにしました。

 最終的には開陽丸は函館戦争の際に北海道で沈没してしまいますが、この先の話についてはココログ 夜明け前「榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)」をご覧ください。

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2021年4月20日 (火)

函館と郵政記念日の関係(1871年4月20日)

 4月20日は郵政記念日です。日本の国営の郵便制度は1871年4月20日に始まりました。そのことを記念する日が郵政記念日です。

 郵便制度が導入される前は、飛脚が手紙や荷物を運んでいました。飛脚は国営ではなく民間で行われていましたが、飛脚の料金が高い、配達に時間がかかるなどの問題がありました。そこで明治政府は国の交通や通信を管理する責任者である駅逓権正の前島密(まえじまひそか)にヨーロッパですでに運用されていた郵便制度を日本で導入できないか調査を命じました。

 駅逓権正は水陸の運輸と通信を管理する業務の責任者です。前島密は水陸運輸の改革を進めながら、当時不便であった通信業務の改革を進めなければならない考えました。全国規模の通信網を確立する必要性を考え、新しい郵便制度を提案しました。その後、前島密は鉄道の仕事で駅逓権正の任を解かれ、イギリスに渡りました。当時のイギリスは産業革命の真っ最中で、交通や通信がどんどん発展していました。鉄道の仕事で赴いたイギリスで、郵便のことも学んでいました。

 日本では1871年4月20日に前島密が作った案をもとに郵便制度が導入されました。前島密はその数ヶ月後に日本に帰ってきました。そして、自ら郵便の仕事に志願し、郵便業務の改革の仕事につきました。イギリスで実際に郵便のことを学んだ前島密はイギリスのやり方を参向に日本の郵便をどんどん改革してき、現在の郵便の基礎を作り上げました。そのため前島密は日本の郵便の父と呼ばれています。1円切手のデザインは前島密の肖像画になっています。

 前島密は1835年に新潟県上越市の農家で生まれました。名前は上野房五郎と名付けらました。12歳のときに勉強するため江戸にやってきました。1853年にペリー提督が黒船を率いて神奈川県の浦賀にやってきたとき、当時18歳の前島密はペリーと接見する役人の従者として浦賀を訪れました。

 前島密は黒船の出来ばえと、しっかりと統率された海軍にびっくりし、日本も国防をしっかりしないといけないと考えました。国防に関する上申書を国へ提出するために、全国の港湾を見て回ることを決意しました。ところが、全国の港湾を見て回るうちに自分が勉強不足であることに気がつき、ただ港湾を見て回るだけでは駄目なことに気がつきました。英語、数学、造船学などを学びました。そして、四方を海に囲まれた日本の将来のことを考え、海運に興味をもつようになり、勉強の対象は商船へと変わりました。

 23歳になった前島密は、函館で蘭学者の武田斐三郎が商船学を教えていることを知り、どうしても武田斐三郎のもとで勉強したくて函館にやってきました。武田斐三郎は航海、築城、造兵などを専門に学んでおり、幕末に函館に建造された五稜郭を設計した学者です。前島密が函館にやってきたのは1858年です。そのときの名前は巻退蔵といいました。前島密は武田斐三郎の諸術調所で2年間、航海について学び、実際に航海実習を経験しました。

前島密(幕末期)
前島密(幕末期)

明治維新の理念をカタチにした 前島密の構想力

加来 耕三 (著)

 明治はじめ、日本に郵便の仕組みを築いた前島密。「日本近代郵便の父」と呼ばれ、現在でも1円切手の肖像として有名です。前島密は郵便の創業者としてその名を不動のものとしていますが、郵便関連のほか、江戸遷都、国字の改良、海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保健など、その功績は多岐にわたります。混迷の中にあった明治維新で前島密は奇跡のような実力、無から有を生み出す“構想力"をもって卓越した功績をあげました。本書ではこの大いなる“構想力"を分析。明治維新と同じく混迷の中にある現在の悩めるビジネスマン、経営者に発揮すべき“構想力"のヒントを示し、導きます。

出版社 : つちや書店 (2019/4/25)
発売日 : 2019/4/25
言語 : 日本語
単行本(ソフトカバー) : 328ページ
ISBN-10 : 4806916706
ISBN-13 : 978-4806916703
寸法 : 18.8 x 12.8 x 2.5 cm

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2021年3月21日 (日)

旧函館郵便局(はこだて明治館)

 函館のベイエリアを歩いていると赤煉瓦造りの2階建ての建物を見つけることができます。この建物は現在は「はこだて明治館」と呼ばれていますが、かつては函館郵便局でした。明治44年(1911年)に建造され、函館大火や第二次世界大戦を経て現在も原型をとどめています。

 函館郵便局の移転後は北海道でも数少ない明治調の建物として保存されることになり、昭和37年(1962年)に民間に払い下げられました。その後は事務所や倉庫として利用され、昭和58年(1983年)にショッピングモールとなりました。

 次の写真は昭和37年8月に撮影されたものです。保存されることが決まった建物の前で記念撮影というところでしょうか。

旧函館郵便局(昭和37年8月撮影)
旧函館郵便局(昭和37年8月撮影)

 現在、函館のベイエリアは観光地として整備されていますが、1980年ぐらいまでは現在とはずいぶん違う雰囲気でした。当時はこの旧函館郵便局も金森赤レンガ倉庫も昔の姿のまま佇んでいましたし、近くにも興味深いものはたくさんありましたが、観光地とは言えるような場所ではありませんでした。金森赤レンガ倉庫近くの掘割にかかる石造の七財橋あたりで釣りをしている人もたくさんいました。

 さて、最後になりますが上の白黒写真をカラー化してみました。赤煉瓦の色が蘇えりました。

旧函館郵便局(AIカラー化)
旧函館郵便局(AIカラー化)

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2021年1月19日 (火)

「NHKのど自慢」放送開始(昭和21年1946年1月19日)

 心地よいチューブラーベルの音で始まる「NHKのど自慢」。「のど自慢素人音楽会」として1946年1月19日午後6時から7時半まで、NHK東京放送会館においてラジオ第一放送で公開放送されました。戦後、GHQによって放送の民主化が進められ、政府による放送の統制がなくなると、いろいろな番組が登場するようになりました。「のど自慢素人音楽会」もその中のひとつで、一般市民の聴衆者が歌声を披露できる素人参加型の番組でした。一般市民にとってラジオは聴くもので、自分の声が電波に乗るということは想像もつかないことでした。当時としては画期的な企画の番組だったのです。

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 第一回の出演者をニュースで公募したところ、900人もの応募があったそうで、瞬く間に大人気の番組となりました。「のど自慢素人音楽会」は軍隊で行われていた演芸会にヒントを得ているそうです。カラオケが日本発祥であることからも想像できますが、日本人はもともと歌を歌うのが好きだったのでしょう。

 昭和22年(1947年)には番組の名前を「のど自慢素人演芸会』に変更し、歌だけではなく、ものまねや漫才なども対象とし、面白い素人がたくさん登場しました。昭和35年(1960年)にはテレビとラジオの同時放送が開始され、昭和45年(1970年)に再び歌のみを対象とした番組とななり、番組名は「NHKのど自慢」となりました。

 「のど自慢素人音楽会」を軍隊の演芸界にヒントを得て企画したのは、当時NHKで音楽番組を担当していた三枝嘉雄(ペンネーム三枝健剛、音楽家の三枝成彰さんの父)さんだったそうです。いろいろなアイデアを盛り込んだ歌番組を企画したそうです。「NHK紅白歌合戦」を企画したのも三枝嘉雄さんです。「のど自慢素人音楽会」の開始から5年後のことでした(ココログ 夜明け前「NHK紅白音楽合戦(昭和26年 1951年1月3日)」)。

 自分は「のど自慢」というとアコーディオン奏者の横森良造さんを思い出してしまいます。出演者がマイクの前で「○番、○○を歌います」と言って歌い始めるのですが、横森さんはいかなる曲でも、どんな歌い方にも合わせてアコーディオンの伴奏をこなしていました。  

 のど自慢の影響は大きく、素人や歌や演芸を競う番組がたくさん登場しました。「スター誕生!」や「お笑いスター誕生!!」などの番組に登場した素人が後に有名な歌手や芸人になった例は枚挙にいとまがありません。

 ところで北海道出身の歌手の北島三郎さんは、函館市西高等学校に通っていたときに函館市で行われた「NHKのど自慢」の公開放送に出場されたそうです。鐘は2つしか鳴らなかったそうですが、司会者の宮田輝アナウンサーに「いい声でした」「お上手でした」と声をかけられ、この言葉で歌手を目指すことにしたそうです。

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