カテゴリー「函館の話」の67件の記事

2024年9月 6日 (金)

箱館新選組の屯所の跡地

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 幕末に京都守護職を務めた会津藩主の松平容保の預かりとなり京都を警備を担った新選組は慶応3年(1867年)6月に幕臣となりました。

 同年10月に第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行うが翌年に旧幕府軍と新政府軍の戊辰戦争が勃発しました。新選組は旧幕府軍として戊辰戦争に参戦しましたが、旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北すると榎本釜次郎の艦隊で江戸に撤退しました。

 その後は新政府軍の甲府進軍を阻止する任務につきを甲陽鎮撫隊と名乗り甲州街道から甲府城へ進軍しましたが「甲州勝沼の戦い」で板垣退助が率いる迅衝隊に敗北し江戸に撤退しました。ほぼ解散状態となりましたが近藤勇と土方歳三は新選組の再起をかけて下総国の流山へと移動したが近藤が新政府軍に捉えられて斬首されました。その後、副長の土方歳三が新選組を率いて宇都宮城の戦い、会津戦争などに参戦するが、奥羽越列藩同盟が瓦解すると榎本釜次郎の艦隊に合流し蝦夷地へ向かった。

 榎本釜次郎の艦隊は慶応4年(1868年)10月21日に箱館の北、内浦湾に面する鷲ノ木(森町)から上陸し、旧幕府軍は箱館を制圧し同年10月26日に五稜郭へ入城しました。箱館政権で陸軍奉行並を任命された土方歳三率いる箱館新選組は宮古湾海戦や二股口の戦いなどに参戦しましたが新政府軍が箱館に迫ると箱館山山頂を守備するようになりました。

 箱館新選組は屯所は称名寺(しょうみょうじ)に置かれました。称名寺は幕末の箱館開港後はイギリスやフランスの仮領事館として利用されました。称名寺は明治12年の函館大火で焼失し函館市船見町18-14に移転しましたがもともとは函館市大町4-6にありました。

箱館新選組の屯所の跡地(旧称名寺跡地)
箱館新選組の屯所の跡地(旧称名寺跡地)

 現在、この地には函館元町ホテルと蔵宿 屯所の庵があります。

蔵宿 屯所の庵
蔵宿 屯所の庵

 蔵宿 屯所の庵前の「新撰組 屯所」跡地の案内板です。

「新撰組  屯所」跡地の案内板
「新撰組 屯所」跡地の案内板

 箱館新選組の組織は下記の通りです。

  • 函館新選組局長 土方歳三、大野右仲、相馬主計
  • 箱館新選組隊長 相馬主計
  • 陸軍奉行並 土方歳三
  • 陸軍奉行並添役 大野右仲
  • 頭取改役 森常吉、島田魁、角ヶ谷糺
  • 改役下役会計頭取 青地源太郎
  • 会計方 山崎八蔵
  • 土方附属 市村鉄之助、野村利三郎

 箱館新選組が守備していた箱館山山頂は新政府軍陸軍参謀の黒田清隆が率いる別動隊による急襲により占領されました。箱館新選組は敗走し弁天台場に入りました。新政府軍が箱館山を占領すると箱館奉行の永井尚志は弁天台場に入り箱館新選組とともに守備を固めた。

 次の図は箱館全図 万延元年 函館市中央図書館所蔵です。右下が弁天台場、左側の真ん中あたりに称名寺があります。

 こちらは現在の箱館新選組屯所跡地(旧称名寺跡地)の地図(Google Map)です。


箱館新選組屯所跡地(旧称名寺跡地)

 箱館政権陸軍奉行並で箱館新選組局長の土方歳三は五稜郭には滞在せず箱館新選組屯所の近くの商家の佐野専左衛門方の万屋「丁サ」を宿所にしていました。土方歳三は宿所と屯所を中心に箱館山山頂や弁天台場をはじめ箱館市内を巡検し五稜郭までの約6キロメートルを馬で通いました。「丁サ」の跡地は別の記事で紹介します。

 次は現在の称名寺(北海道函館市船見町18-14)の地図(Google Map)です。ここには「土方歳三と新撰組隊士の供養碑」が建立されています。


現在の称名寺(北海道函館市船見町18-14)

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2024年8月22日 (木)

異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地

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 函館市内を走る市電の十字街の電停そばにセブンイレブンがあります。その駐車場に「異国橋」の案内版があります。

「異国橋」案内版(函館市末広町9-14
「異国橋」案内版(函館市末広町9-14)

 「異国橋」は享和元年(1801年)に「栄国橋」として建造されました。「栄国橋」のあった場所は案内版から電車通りに沿ってやや函館駅方面に戻った函館西警察署十字街交番(函館市豊川町7-31)あたりにありました。市電通りに交差する銀座通りにかつてあった掘割に架けられていたのが「栄国橋」です。下記の地図は函館市中央図書館所蔵の箱館全図 万延元年の一部を切り出したものですが中心に「異国橋」を確認することができます。

当時の異国橋付近の地図(箱館全図 万延元年 函館市中央図書館所蔵)
当時の異国橋付近の地図(箱館全図 万延元年 函館市中央図書館所蔵

 次はGoogleストリートビューで市電通りと銀座通りの交差点から見えるセブンイレブン(左端)と交番(右端)で「異国橋」があったあたりです。このあたりは港や歓楽街からも近く古くから商業が盛んでした。「栄国橋」は文字通り国が栄えるに由来し名付けられました。また「永国橋」とも呼ばれたようです。

 安政元年(1854年)の日米和親条約により箱館が開港すると箱館港の築島が外国人居留地に指定され外国人が多く居住するようになり異国情緒漂う地になったことから「異国橋」と呼ばれるようになりました。

 市電の通りを「函館どつく」の方に向かうと新撰組屯所跡や土方歳三が宿にしていた商家の佐野専左衛門方の万屋「丁サ」の跡地を訪れることができます。「函館どつく」はかつて新撰組が守備をした「弁天台場」があったところです。土方歳三は「丁サ」から五稜郭まで約6 kmを馬で通ったそうです。

 土方歳三最期の地はよくわかっていませんが、当時の記録から孤立した弁天台場を救うために出撃して「一本木関門」(函館市若松町34-1)で新政府軍と対峙しここで銃撃を受け絶命したとされます。他の記録では「異国橋」が土方歳三の最期の地と記したものもあります。

 なおセブンイレブンの「異国橋」の案内板の裏側に坂本龍馬像がありましたが青柳町に移転しています。

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2024年8月19日 (月)

箱館奉行が建造した洋式帆船スクーナー「箱館丸」

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 写真の船は函館港西埠頭に展示されている「箱館丸」の復元船です。この復元船は昭和63年(1988年)に開催された青函トンネル開通記念博覧会で建造されました。博覧会後に「箱館丸」の設計と建造に当たった船大工の続豊治の子孫が買い取り函館市に寄贈したものです。

洋式帆船スクーナー「箱館丸」
洋式帆船スクーナー「箱館丸」

 安政元年(1854年)の日米和親条約の締結で箱館は開港されることになりました。幕府は箱館を直轄地とし竹内保徳と堀利煕を箱館奉行に任命しました。箱館奉行は海防と警備強化のため幕府に蒸気船配備を申請しました。

 当時、幕府は下田沖で難破したロシア帝国のエフィム・プチャーチン提督のフリゲート艦「ディアナ」の船員が帰国できるよう伊豆国君沢郡戸田村で洋式帆船「ヘダ」を建造していました。洋式帆船の造船技術を学んだ幕府はこの「ヘダ」を原型とする洋式帆船の製造を開始し君沢形と名付けました。幕府はこの君沢形洋式帆船を箱館に2隻配備し箱館奉行に追加の同型船建造を認めましたが、君沢形の配備までに時間がかかるため箱館奉行は独自に洋式帆船を建造することにしました。

 箱館では開運業を営んでいた高田屋嘉兵衛が活躍した地であり、かつては高田屋の造船所があり船大工もたくさんいました。しかし高田屋の没落により造船所は廃止となり船大工も職を失っていました。

 安政元年(1854年)4月、箱館奉行は高田屋で船大工をしていた仏壇師の続豊治を箱館奉行所異国船応接方従僕に任命しました。豊治が選ばれたのは彼が船大工の職を失っても船舶に興味を持ち続け箱館港に寄港する異国船の構造の調査で捕縛された経験があったからでした。箱館奉行所に採用された後は役人として異国船の調査を続け、調査で得られた経験と知識から安政3年(1856年)に船大工の辻松之丞の造船所で小型船2隻の試作を完成させました。この小型船の完成度を高く評価した箱館奉行は豊治を船大工頭取に任命し洋式帆船の建造を命じました。

続豊治(函館中央図書館)
続豊治(函館中央図書館)

 豊治は箱館の築嶋でスクーナー「箱館丸」の建造を始め安政4年(1857年)7月に竣工させました。進水式には箱館奉行の堀利熈が出席しました。豊治は「箱館丸」の建造の功績により箱館御用船大工棟梁となりました。

 安政4年(1858年)11月24日、函館奉行の堀利煕は「函館丸」に試乗して江戸に戻りました。利煕は「函館丸」について速力も十分で暴風雨にも堅牢だったと高く評価しています。

 安政5年(1858年)、続豊治は2隻目のスクーナー建造を開始し、安政6年(1859年)10月に竣工させた。2番船は「亀田丸」と名付けられました。同年11月、竹内保徳は「亀田丸」で江戸に帰還にしました。

 君沢形とは異なる構造をもつ「箱館丸」「亀田丸」は箱館製であることから箱館形と呼ばれるようになりました。安政5年6月には大野藩が同型の「大野丸」を竣工させています。

 「箱館丸」は測量で日本各地を訪れています。このとき測量士として前島密が乗船していました。明治維新後も北海道で使用されましたが明治2年(1869年)9月に樺太で停泊中に暴風雨で大破し焼却処分されました。

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2024年8月16日 (金)

五稜郭の一本松の土饅頭

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 五稜郭公園内に「一本松の土饅頭」と呼ばれる松の木があります。五稜郭タワー側にある二の橋から公園に入ると五稜郭を設計した武田斐三郎の顕彰碑があります。その左側を進みさらに左奥に盛られた土の上に松の木が生えています。これが「一本松の土饅頭」です。

五稜郭の一本松の土饅頭
五稜郭の一本松の土饅頭

「五稜郭史」(片上楽天著、大正10年、1921年)には一本松の土饅頭を合葬地としたこと、伊庭八郎が埋葬されていることが記載されています。また明治32年(1899年)9月に上野東照宮で催された「伊庭八郎を偲ぶ会」において伊庭八郎の墓は土方歳三の墓の近くにあるという出席者の証言があったという記録が残っています。土方歳三の埋葬地には諸説ありますが五稜郭に運ばれて埋葬されたという記録があります。以上のことを勘案すると、この「一本松の土饅頭」に土方歳三と伊庭八郎が埋葬されたことになります。

土方歳三 伊庭八郎<
土方歳三と伊庭八郎

 明治11年(1878年)の土塁工事で多数の遺体が発見され遺体は願乗寺(東川町、本願寺西別院)に移されています。「一本松の土饅頭」は大正15年に発掘調査が行われていますがそのときには遺体は見つからなかったという記録があります。

 「一本松の土饅頭」の場所はこちらです。

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2024年7月28日 (日)

五稜郭公園のクルップ砲のおはなし|明日なき戦いの果てに番外編

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 北海道函館市の五稜郭公園の園内に2つの大砲が設置されています。この大砲はそのうちのひとつでクルップ砲と呼ばれるものです。 クルップ砲はドイツの製鉄・兵器製造企業のクルップ社が製造した大砲です

クルップ砲(五稜郭公園)
クルップ砲(五稜郭公園)

 18世紀末、鋳鉄はイギリスが世界の需要を独占していました。プロイセンの発明家フリードリヒ・クルップはイギリスの鋳鋼技術を解明するためライン川の畔に小さな水車小屋を建てました。ここで水力を動力として鋳鉄の研究に取り組みましたが鋳鉄技術の解明は困難を極めました。借金を抱えたフリードリヒは困窮し病気となり1826年に39歳の若さで亡くなりました。

 フリードリッヒの研究は長男のアルフレート・クルップが引き継ぎました。このときアルフレートは若干14歳でした。アルフレートは従業員とともに鋳鋼の研究を続け、ついに父が果たせなかった鋳鉄技術の解明に成功しました。クルップが最初に取り組んだのは工具、ナイフやスプーンの食器の製造でした。やがて貨幣の鋳造機や鉄道車輪の製造を行うようなりました。1830年代に大量の鉄道車輪を受注すると本格的に鉄道事業に乗り出し大成功を収めました。

アルフレート・クルップ
アルフレート・クルップ

 この頃、フランスをはじめヨーロッパ各地で革命戦争が起こりはじめました。クルップは武器の製造に着手し、1840年代に銃や大砲の製造を始めました。クルップはプロセイン陸軍に大砲を売り込みましたが相手にされませんでした。そこでクルップは宣伝のためにプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に大砲を献上しました。大砲は王宮に展示され大いに注目されました。クルップは1851年にロンドンで開催された第1回万国博覧会に大砲を出展し金賞を受賞しました。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の後を継いで国王となったヴィルヘルム1世はクルップに大砲を大量に注文しました。このとき首相のオットー・フォン・ビスマルクがクルップを訪れています。ビスマルクは軍事力を重視し1862年に「現在の大問題は演説や多数決ではなく、鉄と血でこそ解決される」という熱血演説をしています。高性能な大砲や銃を作るには純鉄が必要であると考えたのです。クルップはビスマルクと意気投合しました。ビスマルクは高品質の純鉄を製造するため物理学者に鉄の温度を測定する方法を研究させています。この研究の成果は後に量子力学につながります。

プロイセン首相時代のオットー・フォン・ビスマルク
プロイセン首相時代のオットー・フォン・ビスマルク

 クルップの大砲は成功を収め各国からも注文されるようになりました。人々は節操のない商売重視のクルップを大砲王と呼ぶようになりましたが、クルップが製造した大砲と鉄道車輪はプロセイン王国の近代化を推し進め普仏戦争での勝利を導きました。クルップは1867年のパリ万国博覧会に巨大な大砲を出展しています。

クルップ砲(「1867年パリ万博出品)
クルップ砲(「1867年パリ万博出品)

 この頃、日本の榎本武揚はオランダに注文した開陽丸を引き取るためオランダに留学していました。この期間中に榎本武揚と赤松則良はクルップを訪れ開陽丸に搭載する大砲を注文しています。開陽丸には16 cm鋳鋼施条前装砲(前装式施条砲)が18門搭載されていますがこれがクルップ砲です。

オランダ留学中の榎本武揚
オランダ留学中の榎本武揚

 五稜郭公園に展示されているクルップ砲は昭和7年(1932年)の七重浜の埋め立て工事のときに発見されました。全長2.85メートル、重量1トン、射程距離は3000メートルに及ぶももので新政府軍の朝陽丸に搭載されていたものと考えられています。

朝陽丸(遊撃隊起終並南蝦夷戦争記 附記艦船之図)
朝陽丸(遊撃隊起終並南蝦夷戦争記 附記艦船之図)

 朝陽丸は箱館政権軍の蟠竜丸(松岡磐吉艦長)の砲撃で轟沈しました。七重浜付近で沈没した軍艦は朝陽丸のみのためこのクルップ砲は同艦のものと考えらています。

蟠竜丸(手前)と轟沈する朝陽丸(奥)
蟠竜丸(手前)と轟沈する朝陽丸(奥)

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2024年7月12日 (金)

第24話「千代ヶ岱陣屋陥落と箱館戦争終結」|明日なき戦いの果てに

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 山田顕義率いる新政府軍は5月16日未明に千代ヶ岱陣屋の総攻撃を開始した。やがて白兵戦となり三郎助は台場の胸壁に登ったところを狙撃され、長男恒太郎と次男英次郎、浦賀奉行の仲間と討ち死にした。他部隊は五稜郭に撤退、徹底抗戦を主張した渋沢成一郎は湯の川へ逃れた。死んでは元も子もない、京都の経験に思いを馳せたのだろうか。

 三郎助の戦いが戊辰戦争最後の戦闘である。黒船来航から箱館戦争まで関わった三郎助はラストサムライの1人である。若い頃に造船学を学ぶため浦賀の三郎助の家に下宿した桂小五郎(木戸孝允)は新政府の要人ながら三郎助の死を嘆き悲しんだ。戦後に明治天皇と箱館を訪れたとき陣屋跡付近で感極まって号泣したそうである。孝允は榎本武揚と三郎助の遺族を支援、三男中島與曽八は海軍機関中将となった。

 同日午後、薩摩藩士が五稜郭を訪れ弁天台場と千代ヶ岱陣屋の陥落を伝え書簡を届けた。書簡には黒田清隆の計らいで海律全書の礼として酒樽を送ると書いてあり酒樽と肴が届けられた。毒殺を恐れ誰も手をつけない様子を見て星恂太郎が笑いながら樽を割って一杯飲むと諸将も酒を嗜んだ。

 武揚は席を外し全責任を取り自決しようとしたが介錯を頼んだ側近の大塚霍之丞が素手で武陽の短刀を鷲掴み阻止した。武陽は我に返り明朝7時に城外に出て降伏することを決断した。17日、武陽と松平太郎は五稜郭を出て酒徳利とスルメを用意して待っていた清隆と面会、降伏条件の交渉後に亀田八幡宮で降伏式を執り行った。

 明治2年5月18日、五稜郭は開城し戊辰戦争は箱館の地で終結した。市中には箱館政権兵士の遺体が放置されたままだった。賊軍の遺体を人道的に収容し埋葬したのは侠客の柳川熊吉である。明治政府官吏となっていた田島圭蔵は粛々と遺体収容を進める熊吉を咎めず黙認したという。

北夷島總督印と箱館大戦争之図(永島孟斎)
北夷島總督印と箱館大戦争之図(永島孟斎)

 

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2024年7月 4日 (木)

第23話「降伏勧告」|明日なき戦いの果てに

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 箱館総攻撃の翌日5月12日、新政府軍は五稜郭と弁天台場に艦砲射撃を行った。とりわけ甲鉄艦から五稜郭への砲撃で多数の死傷者が出た。箱館政権軍には為す術はなかったが徹底抗戦の構えだった。

 新政府軍は五稜郭へは進軍せず黒田清隆は箱館政権に対して寛大な戦後処理をする方針で降伏勧告と和議の準備を始めた。同日、薩摩藩士池田次郎兵衛と村橋直衛が箱館病院に入院していた京都守備で旧知の会津藩士諏訪常吉を訪れ和平交渉の斡旋を依頼した。

 重症の常吉は病院長高松凌雲と事務長小野権之丞に託した。凌雲は徳川慶喜の奥医師を務め箱館戦争では敵味方分け隔てなく負傷者の治療にあたっていた。凌雲と権之丞は降伏勧告の手紙を送ったが、14日に武陽と松平太郎の連名で拒否の返事が届いた。このとき武陽はオランダ留学で得た万国海律全書を戦火によって失われるのは痛恨の極みと新政府軍に送った。海律全書を手にした清隆は武陽の愛国心を理解したに違いない。

 同日、薩摩藩士田島圭蔵は弁天台場を訪れ武陽との面会を依頼、永井尚志と新撰組の相馬主計と五稜郭に赴いた。圭蔵はかつて函館政権に拿捕された秋田藩の高雄丸の艦長で武陽に釈放された経緯もあり誠意を持って交渉したが武陽が決意を覆すことはなかった。武陽は傷病者を湯の川へ送り徹底抗戦の構えだったが、尚志と主計には密かにそれとわかるように降伏の意向を示したと伝えられている。

弁天台場と入口付近
弁天台場と入口付近

 弁天台場は新政府軍の攻撃によく持ち堪えたが兵糧が尽き15日に降伏した。同日、新政府軍は中島三郎助が守備する千代ヶ岱陣屋に降伏を勧告、大鳥圭介も五稜郭へ撤退を促したが三郎助は了承しなかった。武陽は松平太郎を派遣し撤退の説得を試みた。軍議では若者達に降伏を主張していた49歳の三郎助は自らは討ち死にを覚悟していた。

 

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2024年6月28日 (金)

第22話「弁天台場を救え」|明日なき戦いの果てに

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 函館山を奪還するため弁天台場から伝習士官隊長滝川充太郎が新撰組、伝習士官隊を率いて山頂に向かった。山頂からの攻撃が激しく、また大森浜からの艦砲射撃を受けて一本木関門まで退いたが新政府軍の追撃により五稜郭に撤退した。市街を制圧し弁天台場を孤立させた新政府軍は一本木関門に集結し千代ヶ岱陣屋と五稜郭に対峙した。

 函館山占領の原因は新選組の怠慢という批判もあり、弁天台場は島田魁をはじめとする新選組が中心となり守備をしていた。11日早朝、土方歳三は五稜郭を出陣して桔梗に向かった。五稜郭に戻る途中で箱館港で蟠竜丸が新政府軍の朝陽丸を轟沈させたのを見た歳三は兵士の士気を高めた。そして孤立した弁天台場を救出し箱館を奪還すべく出陣したが一本木関門にて馬上で指揮を執っていたところ腹部を撃たれて落馬し絶命した。

蟠龍丸が朝陽丸を轟沈・土方歳三・一本木関門
蟠龍丸が朝陽丸を轟沈・土方歳三・一本木関門

 陸軍奉行添役大野右仲は歳三の命で弁天台場の方へ進軍していたが総崩れとなり引き返してきた。このとき歳三の直属部下の陸軍奉行添役安富才助が歳三の死を知らせたと伝えられている。歳三の戦死が伝わると箱館政権副総裁の松平太郎は箱館奪還のため諸部隊を率いて五稜郭から出陣し新政府軍と戦ったが撤退を余儀なくされた。弁天台場は新政府軍の攻撃にも拘わらず陥落しなかったが、完全に孤立し残留した兵士たちは立て籠もり防衛するだけとなった。

 土方歳三は箱館滞在中は五稜郭には常駐しておらず箱館市中の見廻りを行うため豪商の佐野専左衛門の丁サと呼ばれる万屋を宿所としていた。そのすぐ近くには新選組が屯所とした称名寺があった。歳三の最期の地には諸説あるが、歳三が仲間を救出すべく自身が暮らした箱館市中や弁天台場をめざして一本木関門より先へ先へと進軍しようとする想いの中で絶命したのは間違いないだろう。

 

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2024年6月15日 (土)

五稜郭の箱館奉行所が開所(1864年6月15日)

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 安政元年(1854年)3月、日米和親条約で箱館が開港すると幕府は蝦夷地を直轄し6月に箱館奉行を基坂(元町公園)に設置した。初代箱館奉行には勘定吟味役・海防掛の竹内保徳が就任した。さらに日露和親条約締結のため国境調査のため樺太・蝦夷地を巡見した堀利煕が就任し2人体制となった。保徳が箱館に着任したのは同年9月で蝦夷地を巡見していた利煕の方が先に箱館に着任していた。

 保徳は基坂にあった松前藩の箱館奉行詰役所の改築を考えていたが利煕はこの地が箱館港や箱館山に近く防衛に難があるとし内陸への移転を唱えた。保徳と利煕は幕府に箱館湾内からの艦砲射撃が届かない亀田の鍛治村に城を築き箱館奉行を移転する意見書を提出、阿部正弘がこれを了承し五稜郭と箱館奉行所の建設が決まった。

 五稜郭は安政7年(1857年)に着工、箱館奉行所は文久元年(1861年)に建設が開始された。五稜郭は元治元年(1864年)に竣工し同年6月15日に八代目の箱館奉行の小出秀実が五稜郭の奉行所で業務を開始した。五稜郭の工事は付帯施設の建設や植林も含め慶応2年(1866年)に完了した。

箱館御役所(五稜郭)
箱館御役所(五稜郭)1868年

 大政奉還後、新政府は箱館府を設置し五稜郭は慶応4年(1868年)閏4月に箱館府知事の清水谷公考に引き渡された。同年10月21日に榎本武明が率いる旧幕府軍に占領された。旧幕府軍は五稜郭の防備を固める工事を行い明治2年(1869年)3月に改修が完了した。

 五稜郭の箱館奉行所をはじめとする建物の多くは函館戦争後の明治4年(1871年)に開拓使により取り壊された。五稜郭は大正時代に公園として公開されましたが公園内には博物館と広場があるだけであった。

 函館市は箱館奉行所の復元をはじめとする五稜郭の史跡整備を計画し昭和60年(1985年)から発掘調査を開始した。平成18年(2006年)、残された資料から箱館奉行所の復元工事が始まり平成22年(2010年)に箱館奉行所が五稜郭に蘇ったのである。

復元された箱館奉行所(五稜郭)
復元された箱館奉行所(五稜郭)

歴代箱館奉行(函館市)

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2024年6月11日 (火)

第20話「蝦夷地上陸作戦」|明日なき戦いの果てに

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 宮古湾海戦後に新政府の海軍が青森に到着したのは明治2年(1869年)3月26日である。4月9日、新政府軍は乙部に到着した。箱館政権軍は新政府軍の上陸と江差攻略を阻止できず松前まで退却した。12日、陸軍参謀黒田清隆が率いる部隊が江差に上陸、新政府軍は松前、木古内、二股から箱館に向けて進軍を開始した。

渡島半島地図
渡島半島地図

 松前では伊庭八郎が率いる遊撃隊と春日左衛門が率いる彰義隊が江差奪還を試みたが19日には松前を占拠され撤退した。木古内は彰義隊が守っていたが大鳥圭介率いる伝習隊や額兵隊が援軍となり新政府軍を迎え撃つも撤退を余儀なくされた。さらなる援軍で木古内を奪還したものの地の利のある矢不来に退き胸壁と砲台を築いて布陣した。このとき会津藩士の諏訪常吉は敵軍宛に和平の置き手紙を当別に残している。

 29日、新政府軍は矢不来を街道側、海側、山側から攻撃、甲鉄艦や春日丸が艦砲射撃を行った。箱館政権軍は壊滅状態となり衝鋒隊の天野新太郎や永井蠖伸斎が戦死した。圭介は有川まで撤退し榎本武揚と合流するが箱館政権軍は総崩れとなり箱館へ敗走した。

 一方、二股では土方歳三が指揮する衝鋒隊、伝習隊が台場山に胸壁を構築し新政府軍を迎撃した。歳三の部隊は険しい山頂という地の利も得て小隊が交代しながら小銃を撃ちかけ新政府軍を撃退した。新政府軍は山をよじ登り台場山に乱入し激しい戦いを繰り広げたが25日には撤退し二股を迂回する道を切り開き始めた。29日に矢不来が占拠されると退路を絶たれることを恐れた歳三は五稜郭へ撤退した。

 28日、青森口総督の清水谷公考が江差に到着、新政府軍は有川に集結し箱館総攻撃の準備を整えた。最後の決戦を前に新政府軍は有川沖に榎本艦隊を牽制・攻撃しつつ艦砲射撃による陸軍の進軍を支援するため甲鉄艦、朝陽丸、春日丸、陽春丸、延年丸、丁卯丸の6隻の艦隊を集結させた。開陽丸を失い制海権を失った榎本艦隊は回天丸、播龍丸の2隻を残すのみであった。

 

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