カテゴリー「函館の話」の36件の記事

2021年6月 7日 (月)

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

 昭和37年(1962年)6月某日に撮影された北海道函館市の五稜郭公園の航空写真です。公園の北側上空から撮影したもので、よく見る五稜郭の写真とは上下逆さまになっています。写真の右上が半月堡と一の橋と二の橋で、下側が裏門橋です。

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)
五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

 撮影当時は有名なシンボルがありません。五稜郭タワーです。初代の五稜郭タワーは昭和40年(1964年)12月開業です。写真の右上の右斜め上方に向かう道路の左側に建設されました。また、昔は公園内は広場になっていて箱館奉行所(復元)はありませんでした。

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2021年5月13日 (木)

函館と赤とんぼの関係

 夕焼け小焼けの赤とんぼ、負われて見たのは、いつの日か

 有名な童謡「赤とんぼ」の歌詞です。子どもの頃、「負われて見たのは」を「こわれて見たのは」と思っていた頃があります。何が壊れたのかさっぱりわかりませんが、そう思っていたのです。

 しばらくして、「負われて見たのは」が正しいということを知りました。そして次に出てきた疑問。「負われて見たのは」って、負われたってどういうことなの?ということでした。これも、そのうち「背負われて見たのは」ということがわかりました。なるほどねぇ。

ミヤマアカネ
ミヤマアカネ

 さて、この童謡の歌詞の解釈には論争があったそうです。主人公は、赤とんぼを背負われて見たわけですが、その主人公を背負っていたのは誰か?ということです。

 「赤とんぼ」の三番目の歌詞はこうです。

十五で姐(ねえ)やは、嫁に行き、お里のたよりも、絶えはてた

 この歌詞から想像すると、主人公はこの姐やに背負われていたのではないかと考えるのが自然です。

 この「赤とんぼ」は1921年大正10年に発表された歌です。この時代を考えると、少女が幼児を背負って子守をしているのはよくある光景だったでしょう。

 これに対して、いや主人公を背負っていたのは母親だという考えもあります。歌詞には母親と思えるような人物は出てきませんが、子どもを背負っているのは母親というイメージが強かったのでしょう。

 さて、「赤とんぼ」の歌詞は三木露風(みき ろふう 1989-1964)という兵庫県出身の詩人によるものです。露風は1920(大正9年)に、函館のトラピスト修道院の講師に就任します。トラピスト修道院の初代院長であるジェラール・プーリエ院長(のちに、帰化が認められ、岡田晋理衛と名乗る)が、三木露風に講師を依頼したからです。同年、三木露風は婦人とともに函館にやってきて、函館トラピスト修道院講師に着任しました。翌1921年(大正10年)に2人は洗礼を受け、この年に三木露風は「赤とんぼ」の詞を書いています。

Photo_17
函館トラピスト修道院(実際は当別町)

 この頃の三木露風の自筆のメモが見つかっています。「赤とんぼ」は函館トラピスト修道院でアカトンボを見て、幼い頃を思い出して書いた詩であることが記載されています。「赤とんぼ」の主人公は三木露風自身であり、幼い彼を背負ったのは子守役の娘だそうです。ということですから、詞に出てくる「姐さん」は母親ではなかったということになります。

赤とんぼ  由紀さおり 安田祥子 歌詞付き 童謡

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2021年5月 9日 (日)

日本最古のコンクリート電柱|函館と電柱の関係

 函館には日本最古のコンクリート製の電柱があります。ふだん見かけるコンクリート電柱は円筒形をしていますが、日本最古のコンクリート電柱は四角形です。次の写真を見ると一目瞭然です。

日本最古のコンクリート製電柱
日本最古のコンクリート製電柱

 この電柱は国内で現存するコンクリート電柱としては最古のもので、1923年(大正12)10月に当時函館にあった電力会社(現在は北海道電力)が建てたものです。

 電柱の高さは10メートル、底面は47センチメートル四方の四角形、上面が19.5センチメートル四方の四角形となっており、角錐体の形状をしています。コンクリートの内部には鉄筋が入っています。上の写真ではわかりいくいですが、次の写真を見ると底面が四角形であることがわかります。

日本最古のコンクリート製電柱の底面
日本最古のコンクリート製電柱の底面

 昔の電柱はほとんど木製でしたが、函館は1907年(明治40年)に大火事があり、その後も火事が続いてため、耐火性に優れた建物が造られるようになりました。その頃に作られたのがこの電柱です。この電柱のすぐ側にもう一本同じ形の電柱があり、夫婦電柱と呼ばれていたのですが、その電柱は1971年(昭和46年)に道路工事のために撤去されました。

日本最古のコンクリート製電柱の掲示板
日本最古のコンクリート製電柱の掲示板

 1923年から80年以上たった今でも、この電柱は現役として電柱の役割を果たしています。この電柱がある場所の住所は北海道函館市末広町15-1で金森赤レンガ倉庫からすぐのところにあります。函館を訪れたときには是非日本最古のコンクリート電柱まで足をのばしてご覧ください。

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2021年4月30日 (金)

開陽丸が横浜に入港(慶応3年 1867年4月30日)

 江戸幕府の海軍が幕末に所有していた「開陽丸」。

開陽丸(Voorlichter)
開陽丸(Voorlichter)

 「開陽丸」は江戸幕府が最新鋭の主力艦として外国の軍艦に対応する目的で文久2年(1862年)にオランダに発注した木造シップ型フリゲート艦です。このとき、江戸幕府は操船や海戦、国際法や医学などを学ぶ目的として留学生を15人派遣しました。その中には、榎本武揚、澤太郎左衛門などの面々が含まれていました。

 製造された「開陽丸」は全長72.08メートル、排水量2590トンの船体に400馬力の2気筒横置トランクピストン型蒸気機関と大砲26門(後に35門となる)を備え、速さ10ノット(時速18.5kメートル)で走ることができました。クルップ砲の射程距離は3,900メートルもありました「開陽丸」をオランダから日本へ移送した際の艦長オランダ海軍大尉ジュール・アーサー・エミール・ディノー(Jules Arthur Emile Dinaux)はオランダには開陽丸に勝てる軍艦はないと、その能力の高さを絶賛しました。

 1866年12月1日、「開陽丸」はオランダのブリッシンゲンを出航し、アフリカ南端を経てインド洋を渡り、半年後の1867年4月30日に横浜港に到着しました。幕府軍艦奉行の勝海舟が開陽丸を出迎え、榎本武揚は軍艦頭並、澤太郎左衛門は軍艦役並に就任することになりました。

 しかし、その半年後には大政奉還が行なわれました。慶應4年(1868年)8月19日、江戸幕府海軍副総裁の榎本武揚は無血開城の条件であった旧幕府艦隊の引渡に応じず、開陽丸を旗艦とする8隻の艦隊で品川沖から脱走し蝦夷地に向かいました。

 さて「開陽丸」の名前は江戸幕府が留学生たちに命名するよう命じました。榎本武揚が考案した夜明け前という意味の「Voor lichter(開陽)」が選ばれたと言われています。Voorが前でlichterが陽や灯という意味です。

 この「Voor lichter」はこのブログの名前の由来にもなっています。しかし、ココログを登録するときにブログのフォルダ「voorlichter」とすべきところを「voorlihter」としてしまったため、「c」が抜けた誤字となってしまいました。気がついたのはずいぶん後のことでしたから、恥ずかしながら、そのまま「voorlihter」とすることにしました。

 最終的には開陽丸は函館戦争の際に北海道で沈没してしまいますが、この先の話についてはココログ 夜明け前「榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)」をご覧ください。

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2021年4月20日 (火)

函館と郵政記念日の関係(1871年4月20日)

 4月20日は郵政記念日です。日本の国営の郵便制度は1871年4月20日に始まりました。そのことを記念する日が郵政記念日です。

 郵便制度が導入される前は、飛脚が手紙や荷物を運んでいました。飛脚は国営ではなく民間で行われていましたが、飛脚の料金が高い、配達に時間がかかるなどの問題がありました。そこで明治政府は国の交通や通信を管理する責任者である駅逓権正の前島密(まえじまひそか)にヨーロッパですでに運用されていた郵便制度を日本で導入できないか調査を命じました。

 駅逓権正は水陸の運輸と通信を管理する業務の責任者です。前島密は水陸運輸の改革を進めながら、当時不便であった通信業務の改革を進めなければならない考えました。全国規模の通信網を確立する必要性を考え、新しい郵便制度を提案しました。その後、前島密は鉄道の仕事で駅逓権正の任を解かれ、イギリスに渡りました。当時のイギリスは産業革命の真っ最中で、交通や通信がどんどん発展していました。鉄道の仕事で赴いたイギリスで、郵便のことも学んでいました。

 日本では1871年4月20日に前島密が作った案をもとに郵便制度が導入されました。前島密はその数ヶ月後に日本に帰ってきました。そして、自ら郵便の仕事に志願し、郵便業務の改革の仕事につきました。イギリスで実際に郵便のことを学んだ前島密はイギリスのやり方を参向に日本の郵便をどんどん改革してき、現在の郵便の基礎を作り上げました。そのため前島密は日本の郵便の父と呼ばれています。1円切手のデザインは前島密の肖像画になっています。

 前島密は1835年に新潟県上越市の農家で生まれました。名前は上野房五郎と名付けらました。12歳のときに勉強するため江戸にやってきました。1853年にペリー提督が黒船を率いて神奈川県の浦賀にやってきたとき、当時18歳の前島密はペリーと接見する役人の従者として浦賀を訪れました。

 前島密は黒船の出来ばえと、しっかりと統率された海軍にびっくりし、日本も国防をしっかりしないといけないと考えました。国防に関する上申書を国へ提出するために、全国の港湾を見て回ることを決意しました。ところが、全国の港湾を見て回るうちに自分が勉強不足であることに気がつき、ただ港湾を見て回るだけでは駄目なことに気がつきました。英語、数学、造船学などを学びました。そして、四方を海に囲まれた日本の将来のことを考え、海運に興味をもつようになり、勉強の対象は商船へと変わりました。

 23歳になった前島密は、函館で蘭学者の武田斐三郎が商船学を教えていることを知り、どうしても武田斐三郎のもとで勉強したくて函館にやってきました。武田斐三郎は航海、築城、造兵などを専門に学んでおり、幕末に函館に建造された五稜郭を設計した学者です。前島密が函館にやってきたのは1858年です。そのときの名前は巻退蔵といいました。前島密は武田斐三郎の諸術調所で2年間、航海について学び、実際に航海実習を経験しました。

前島密(幕末期)
前島密(幕末期)

明治維新の理念をカタチにした 前島密の構想力

加来 耕三 (著)

 明治はじめ、日本に郵便の仕組みを築いた前島密。「日本近代郵便の父」と呼ばれ、現在でも1円切手の肖像として有名です。前島密は郵便の創業者としてその名を不動のものとしていますが、郵便関連のほか、江戸遷都、国字の改良、海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保健など、その功績は多岐にわたります。混迷の中にあった明治維新で前島密は奇跡のような実力、無から有を生み出す“構想力"をもって卓越した功績をあげました。本書ではこの大いなる“構想力"を分析。明治維新と同じく混迷の中にある現在の悩めるビジネスマン、経営者に発揮すべき“構想力"のヒントを示し、導きます。

出版社 : つちや書店 (2019/4/25)
発売日 : 2019/4/25
言語 : 日本語
単行本(ソフトカバー) : 328ページ
ISBN-10 : 4806916706
ISBN-13 : 978-4806916703
寸法 : 18.8 x 12.8 x 2.5 cm

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2021年3月21日 (日)

旧函館郵便局(はこだて明治館)

 函館のベイエリアを歩いていると赤煉瓦造りの2階建ての建物を見つけることができます。この建物は現在は「はこだて明治館」と呼ばれていますが、かつては函館郵便局でした。明治44年(1911年)に建造され、函館大火や第二次世界大戦を経て現在も原型をとどめています。

 函館郵便局の移転後は北海道でも数少ない明治調の建物として保存されることになり、昭和37年(1962年)に民間に払い下げられました。その後は事務所や倉庫として利用され、昭和58年(1983年)にショッピングモールとなりました。

 次の写真は昭和37年8月に撮影されたものです。保存されることが決まった建物の前で記念撮影というところでしょうか。

旧函館郵便局(昭和37年8月撮影)
旧函館郵便局(昭和37年8月撮影)

 現在、函館のベイエリアは観光地として整備されていますが、1980年ぐらいまでは現在とはずいぶん違う雰囲気でした。当時はこの旧函館郵便局も金森赤レンガ倉庫も昔の姿のまま佇んでいましたし、近くにも興味深いものはたくさんありましたが、観光地とは言えるような場所ではありませんでした。金森赤レンガ倉庫近くの掘割にかかる石造の七財橋あたりで釣りをしている人もたくさんいました。

 さて、最後になりますが上の白黒写真をカラー化してみました。赤煉瓦の色が蘇えりました。

旧函館郵便局(AIカラー化)
旧函館郵便局(AIカラー化)

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2021年1月19日 (火)

「NHKのど自慢」放送開始(昭和21年1946年1月19日)

 心地よいチューブラーベルの音で始まる「NHKのど自慢」。「のど自慢素人音楽会」として1946年1月19日午後6時から7時半まで、NHK東京放送会館においてラジオ第一放送で公開放送されました。戦後、GHQによって放送の民主化が進められ、政府による放送の統制がなくなると、いろいろな番組が登場するようになりました。「のど自慢素人音楽会」もその中のひとつで、一般市民の聴衆者が歌声を披露できる素人参加型の番組でした。一般市民にとってラジオは聴くもので、自分の声が電波に乗るということは想像もつかないことでした。当時としては画期的な企画の番組だったのです。

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 第一回の出演者をニュースで公募したところ、900人もの応募があったそうで、瞬く間に大人気の番組となりました。「のど自慢素人音楽会」は軍隊で行われていた演芸会にヒントを得ているそうです。カラオケが日本発祥であることからも想像できますが、日本人はもともと歌を歌うのが好きだったのでしょう。

 昭和22年(1947年)には番組の名前を「のど自慢素人演芸会』に変更し、歌だけではなく、ものまねや漫才なども対象とし、面白い素人がたくさん登場しました。昭和35年(1960年)にはテレビとラジオの同時放送が開始され、昭和45年(1970年)に再び歌のみを対象とした番組とななり、番組名は「NHKのど自慢」となりました。

 「のど自慢素人音楽会」を軍隊の演芸界にヒントを得て企画したのは、当時NHKで音楽番組を担当していた三枝嘉雄(ペンネーム三枝健剛、音楽家の三枝成彰さんの父)さんだったそうです。いろいろなアイデアを盛り込んだ歌番組を企画したそうです。「NHK紅白歌合戦」を企画したのも三枝嘉雄さんです。「のど自慢素人音楽会」の開始から5年後のことでした(ココログ 夜明け前「NHK紅白音楽合戦(昭和26年 1951年1月3日)」)。

 自分は「のど自慢」というとアコーディオン奏者の横森良造さんを思い出してしまいます。出演者がマイクの前で「○番、○○を歌います」と言って歌い始めるのですが、横森さんはいかなる曲でも、どんな歌い方にも合わせてアコーディオンの伴奏をこなしていました。  

 のど自慢の影響は大きく、素人や歌や演芸を競う番組がたくさん登場しました。「スター誕生!」や「お笑いスター誕生!!」などの番組に登場した素人が後に有名な歌手や芸人になった例は枚挙にいとまがありません。

 ところで北海道出身の歌手の北島三郎さんは、函館市西高等学校に通っていたときに函館市で行われた「NHKのど自慢」の公開放送に出場されたそうです。鐘は2つしか鳴らなかったそうですが、司会者の宮田輝アナウンサーに「いい声でした」「お上手でした」と声をかけられ、この言葉で歌手を目指すことにしたそうです。

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2021年1月13日 (水)

函館カール・レイモンのショルダーハム

 函館に行くと必ずお土産で買ってくるのが「函館カール・レイモン」のハムやソーセージです。どれも美味しいのですが、自分はよくハムを買います。

カール・レイモンのラベル
カール・レイモンのラベル

 函館カール・レイモンはドイツ製法のハム・ソーセージを製造・販売している会社で、創業者はオーストリア=ハンガリー帝国出身のマイスター、カール・ワイデル・レーモンさんです。

 レイモンは1894年にカルルスバード(現チェコのカルロヴィ・ヴァリ)の食肉加工のマイスター、アントン・レイモンの息子として生まれ、14歳のときに家業を継ぎました。その後、修行のため各国を訪れ、1915年に缶詰の大量生産の技術習得のためアメリカで3年間研修します。1919年、アメリカからヨーロッパへ戻る途中に来日しました。レイモンは直ちにヨーロッパに戻らず、日本でハム・ソーセージの技術指導をすることになり、1920年に北の地での缶詰工場の統括する拠点のあった函館に赴きました。

 レイモンは函館の滞在先の勝田旅館の娘、勝田コウと恋仲になりましたが、コウの両親は2人の結婚に大反対しました。函館は外国人の多い街でしたが、当時は外国人と結婚が許さることはほとんどなかったのです。レイモンとコウは駆け落ちすることを決意し、中国経由でカルルスバートに向かいました。2人はレイモンの家族の協力のもと、カルルスバードでハム・ソーセージの製造・販売を始めました。

 カルルスバードでの2人の生活が3年を経過したとき、レイモンは海外で暮らすコウの苦労を配慮し、函館に戻ることを決意しました。1924年、2人は函館に戻り、日本での正式の結婚、1925年に函館駅前にハム・ソーセージの工場と店を開きました。しかし、当時の日本人にはハム・ソーセージはあまり受け入れられませんでした。函館港には外国船が寄港することがあり、ドイツの軍艦からの受注をきっかけに、業績が向上し、五稜郭工場、大野工場が完成します。1933年に畜産指導のため満洲を訪れ、このときの功績により、満洲鉄道の総裁から「礼門」という日本名を授かりました。しかし、その後は大野工場が没収され、ハム・ソーセージの製造・販売が不可能となり、函館山の麓の元町に移住しました。

 第二次世界大戦終了後の1948年、レイモンは元町の自宅の隣にハム・ソーセージの工場と店を開き、1980年代初めまでこの地でハム・ソーセージの製造・販売ならびに弟子の育成を精力的に行いました。1983年、日本ハムが函館カール・レイモン社として事業を継続しました。レイモンは現役を引退し、その後も弟子の育成を続けました。レイモンはその功績により数々の章を受賞し、1987年に享年93才で亡くなりました。

 自分はレイモンさんがまだ現役だった元町のお店を何度か訪れたことがあります。また、ハムやソーセージもよく食べていました。カール・レイモンのハム・ソーセージは、あのときと今も変わらない味です。弟子の方々がドイツの製法をしっかりと受け継いできているからでしょう。

 次の写真はショルダーハムです。これ見ただけで美味そうですが、美食の知人に御馳走したら喜んで食べていました。そして、自分は上述の話を延々と語り、まるで自分の自慢話をしているようだと言われました。

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カール・レイモンのショルダーハム

 レイモンさんの伝記が出版されています。あと、amazonでハム・ソーセージが売っているか確認してみましたが、常温保存が可能なソーセージやサラミは買えるようですが、ショルダーハムはありませんでした。そういえば空港で買ったときには保冷パックで包んでもらいました。

  

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2020年12月15日 (火)

榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)

 慶応3年(1867年)、江戸幕府15代征夷大将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、新政府軍大総督府参謀の西郷隆盛と江戸幕府陸軍総裁の勝海舟によって江戸城が無血開城しました。

徳川慶喜(左)・西郷隆盛(中)・勝海舟(右)
徳川慶喜(左)・西郷隆盛(中)・勝海舟(右)

 慶應4年(1868年)8月19日、江戸幕府海軍副総裁の榎本武揚は無血開城の条件であった旧幕府艦隊の引渡に応じず、開陽丸を旗艦とする8隻の艦隊で蝦夷地に向かいました。途中、暴風雨により2隻を失いましたが、8月下旬には仙台に到着、仙台で桑名藩の松平定敬、大鳥圭介が率いる伝習隊、土方歳三をはじめとする旧新選組、渋沢成一郎が率いる彰義隊、古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊、星恂太郎が率いる額兵隊などの残党約3千名と合流しました。新政府軍が仙台に入城すると、榎本武揚の艦隊は10月9日に仙台を離れました。このとき、榎本武揚は旧幕臣の保護とロシア侵略に備えるため蝦夷地を開拓する嘆願書を新政府軍に送っています。

榎本武揚と開陽丸
榎本武揚と開陽丸

 榎本武揚が率いる旧幕府軍は10月20日に内浦湾に面する鷲ノ木(現、森町)から蝦夷地に上陸し、そこから函館の攻略を始めました。10月26日に五稜郭を占領し、11月1日に榎本武揚が五稜郭に入城しました。これにより蝦夷地を支配下に置くことに成功しました。

 旧幕府軍は実質的には榎本武揚が率いていましたが、様々な組織の残党の集まりであったこともあって、統制が難しい状況にありました。そこで、榎本武揚らは米国の政治体制などを参考に公選入札を行いました。その結果、榎本武揚が総裁に選出されました。投票に参加したのは指揮官以上でしたが、これが日本で初めての選挙となりました。明治元年(1868年)12月15日の新政府誕生の日のことです。

 さて、旧幕府軍は11月に新政府軍に従っていた松前藩を開城させ、その後、開陽丸とともに江差攻略に向かいました。11月15日には江差を無血占領することができましたが、その夜、暴風雨により開陽丸が座礁、沈没してしまいました。開陽丸を失った旧幕府軍は制海権を確保できなくなり、新政府軍が蝦夷地への上陸を開始、函館戦争が開戦しました。明治2年(1869年)5月18日に五稜郭が落城、歴史は戊辰戦争の集結へと向かったのです。

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2020年12月 9日 (水)

函館とホタテ貝と黒船ペリー提督の関係

 ホタテは帆立と漢字で書きます。なぜ、帆立と呼ばれるようになったのかは、ホタテの貝殻の形が帆船の帆に似ていたからといいます。しかし、生きているホタテは貝を船の帆のように立てているわけではありませんから、口を開いたホタテの形を見て帆立と名付けたそうです。1712年に出版されたされた日本初の図解百科辞典「和漢三才図会」にホタテ貝の名前が出てきます。

 さて、このこのホタテには、Patinopecten yessoensisという学名がつけれています。その意味は「北海道の櫛の模様のある皿」です。この学名がつけられた背景には、函館と江戸時代鎖国をしていた日本の外交政策を大きく変えることになったアメリカ人が関係しています。

 その外国人とは1853年に江戸湾浦賀沖に姿を現した黒船を率いていたペリー提督です。ペリー提督は日米和親条約に調印した後、日本のいくつかの都市に黒船で寄港していますが、函館には1854年5月12日にやってきました。函館の町は大騒ぎになったそうですが、日米和親条約を結んだ後ですから、この寄港は友好的なものでした。函館の弁天町にあった豪商・山田屋寿兵衛の屋敷で松前藩の役人と会見を行いました。その屋敷跡に建てられたのがこの標柱です。

ペリー提督会見所跡
ペリー提督会見所跡

 元町の基坂(もといざか)にはペリー提督来港150周年を記念する銅像が建てられています。

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ペリー提督来港150周年の銅像

 ペリー提督の艦隊は江戸幕府に鎖国を解除するよう求めただけではなく、各地で学術調査も行いました。日本各地のことが「ペリー日本遠征記」にまとめられています。

 ペリー提督の艦隊は函館にやってきたとき、ホタテを見てこれはめずらしい貝とアメリカに持ち帰ったそうです。ホタテは新種の貝として紹介され、Patinopecten yessoensisという学名がつけられました。Patinopectenは、櫛のような模様のある皿、yessoensisは蝦夷地(北海道)のことだそうです。

 かくして、ホタテの学名は「北海道の櫛のような模様のある皿」となったわけです。ホタテがいるのは日本だけではないはずなのに、学名に蝦夷が入っているのは上述のような歴史があったからです

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