カテゴリー「函館の話」の55件の記事

2024年2月22日 (木)

江戸幕府が蝦夷地を直轄領に(1855年2月22日)

ココログ「夜明け前」公式サイト

 かつて北海道は蝦夷地と呼ばれ江戸時代には松前藩が支配していました。18世紀半ばにロシアが蝦夷地に現れるようになると江戸幕府は蝦夷地のほとんどを松前藩から召し上げました。19世紀になると幕府は蝦夷地に対する政策を変更し、文政4年(1821年)12月7日に松前藩に蝦夷地の支配と北方警備を任せました。

 19世紀半ばになると日本近海に多くの異国船が現れるようになり海防が重要視されるようになりました。嘉永2年(1849年)、江戸幕府は城を所有していなかった松前藩に築城を命じ、安政元年(1855年)に松前福山城が築城されました。

 日本の外交政策を大きく変えることになった黒船来航があったのは嘉永6年(1853年)です。同年6月3日に米国のマシュー・ペリー提督が率いる艦隊が日本の開国と通商を求めて相模国浦賀沖に現れました。嘉永7年(1854年)1月16日にペリーの艦隊が再び来航すると、米国の圧倒的な軍事力と外交力を前に江戸幕府は同年3月3日に日米和親条約を締結しました。

 日米和親条約の締結によって蝦夷地の箱館が開港されると、ペリーは同年4月21日に箱館を訪れました。このとき松前藩が対応しましたが江戸幕府は松前藩に箱館開港は知らせていたものの日米通商条約の締結については伝えていませんでした。松前藩が日米和親条約の内容を具体的に把握したのは米国から提示された条文を見てのことです。松前藩と米国との交渉が行われましたが、松前藩は権限がないとして交渉を断りました。ペリーはこれを了承し同年5月8日に箱館を出港、箱館港についての取り決めは下田で協議しました。

 このときブラウンが撮影した松前勘解由と従者が写った銀塩写真(1854年撮影、松前町所有、松前町郷土資料館保管)が現存しています。この写真が箱館で撮影されたこと、1854年6月1日にペリーから贈られたことが記載された添状が残っています。

 次の写真は松前藩の代表としてペリーを出迎えたの松前藩家老の松前勘解由と従者です。ペリーの艦隊にに随行した写真家エリファレット・ブラウン・ジュニアが撮影したものです。

松前勘解由と従者の写
松前勘解由と従者の写真

 江戸幕府が松前藩に日米通商条約の締結を知らせなかった背景にはこの締結をきっっけに蝦夷地の直轄化を再考していたとされています。実際には江戸幕府は安政2年(1855年)2月22日に江戸幕府は松前藩から蝦夷地を再び召し上げました。これによって松前藩の領地は松前城を中心に渡島半島の南西部のみとなりました。松前藩は代償として松陸奥国、出羽国などの領地4万石と年1万8千両の手当金を受け取ることになりましたが、蝦夷地の交易による利益を上回ることはなく財政難となりました。元治元年(1864年)に松前崇広が江戸幕府老中に就任すると領地の一部が松前藩に返還されましたが財政難が改善されることはありませんでした。同年には江戸幕府による長州征伐が行われ、日本は戊辰戦争に向かう混乱の時代を迎えます。松前藩は新政府軍として箱館戦争に巻き込まれていきます。

【関連記事】江戸幕府が蝦夷地を直轄領に(1855年2月22日)

函館と黒船と日本最古の写真の関係

函館とホタテ貝と黒船ペリー提督の関係

松前城(福山城) 天守を焼失(1949年6月5日)

函館夜景の日(8月13日)

旧函館郵便局(はこだて明治館)

開陽丸が横浜に入港(慶応3年 1867年4月30日)

榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)

函館と郵政記念日の関係(1871年4月20日)

函館と赤とんぼの関係

日本最古のコンクリート電柱|函館と電柱の関係

天使の聖母トラピスチヌ修道院が設立(1898年4月30日)

四代目函館駅が落成(1942年12月20日)

青函連絡船「洞爺丸」沈没(1954年9月26日)

函館港と母船式北洋漁業

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年(1963年)11月15日

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2024年1月31日 (水)

函館の坂「チャチャ登り」

ココログ「夜明け前」公式サイト

 金森倉庫を通り過ぎカトリック元町教会や函館ハリストス正教会に通じる大三坂をのぼっていき、カトリック元町教会を過ぎたあたり、函館ハリストス正教会と函館聖ヨハネ教会に挟まれた「チャチャ登り」と名付けられた道幅の狭い急勾配の坂があります。

函館の坂「チャチャ登り」
函館の坂「チャチャ登り」

 「チャチャ」はお爺さんを意味するアイヌ語です。何人もこの急坂を登るときにはお爺さんのように腰が曲がってしまうということから「チャチャ登り」と名付けられました。名前は幕末の頃につけられたと言われています。

 さてこの坂を苦労して登り函館市街の方を振り返ると教会が並んで異国情緒あふれる景色を見ることができると言われていますが実際に行ってみると木々が邪魔で思っていたほどの景色ではありません。しかし、夜になると教会がライトアップされ函館市の夜景の光も見えるのでそれなりの雰囲気になります。

【関連記事】

函館の八幡坂

天使の聖母トラピスチヌ修道院が設立(1898年4月30日)

四代目函館駅が落成(1942年12月20日)

函館ハリストス正教会が重要文化財に指定される(1983年6月2日)

日本最古のコンクリート電柱|函館と電柱の関係

函館市の実行寺の日仏親善函館発祥記念碑

旧函館郵便局(はこだて明治館)

 

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

 

| | | コメント (0)

2024年1月 9日 (火)

有為転変の人生|渋沢成一郎と渋沢栄一

ココログ「夜明け前」公式サイト

 渋沢成一郎は天保9年(1838年)に武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市血洗島)の渋沢文左衛門の長男として生まれました。渋沢家は血洗島村で養蚕業を営み市郎右衛門を襲名する名主ですが、文左衛門の家は分家筋でした。本家の跡継ぎがいなかったため文左衛門の弟の源助が婿養子となり渋沢市郎右衛門を襲名しました。その市郎右衛門の長男が渋沢栄一です。成一郎は栄一より2歳年上で従兄にあたります。

 成一郎と栄一は幼少期に10歳ほど年上の従兄の尾高惇忠のもとで儒教や日本史を学びました。尾高惇忠は第9代水戸藩主の徳川斉昭の鷹狩りを見て水戸学に傾倒していました。水戸学は第2代水戸藩主の徳川光圀が始めた「大日本史」の編纂を通じて水戸家代々で培われた尊王攘夷論の基本となった学問です。

尾高惇忠(左)・渋沢成一郎(中)・渋沢栄一(右)
尾高惇忠(左)・渋沢成一郎(中)・渋沢栄一(右)

 惇忠の影響を受けた成一郎と栄一は江戸に赴き儒学者の海保漁村の私塾の掃葉軒で学び、北辰一刀流の千葉栄次郎の道場に入門しました。この道場で勤王の志士たちと出会い尊皇攘夷を目指すようになりました。

 惇忠、成一郎、栄一は特に尊皇攘夷の具体策はもっていませんでしたが何かやらねばと考え、文久3年(1863年)に上野国群馬郡(群馬県高崎市)の高松城乗っ取り計画を立てました。その計画は高松城で兵備を整えて鎌倉街道を進軍し横浜の外国人居留地を焼き討ちにして攘夷を行い、その後は長州藩と幕府を倒すというものでした。実行日は文久3年11月23日とされ千葉道場や掃葉軒の塾生らの同志69名が参加する予定でした。これより少し前の同年10月29日、京都に赴いていた惇忠の弟で尊皇攘夷の志をもつ尾高長七郎が戻りました。京都で幕府への攘夷委任を支持する勢力が起こした「八月十八日の政変」などを見た長七郎は3人の計画が無謀であり中止するべきであると説得しました。

 成一郎と栄一は尊皇攘夷の計画がばれると親族に迷惑がかかるため渋沢家から勘当されたことにして京都へ赴きます。京都では「八月十八日の政変」の影響により尊皇攘夷の勢力が衰退し尊皇攘夷の活動などできる状態ではありませんでした。このとき2人が出会ったのが江戸の遊学で知り合いとなり家来になることを決めていた幕府の一橋家家臣の平岡円四郎でした。2人が円四郎の家臣となったのは活動しやすくなると考えたからです。幕府の家臣の家来となっても尊皇攘夷の志を捨てるつもりはなく倒幕を考えていました。

 文久4年(1864年)、成一郎と栄一と京都で落ち合う約束をしていた尾高長七郎が誤って通行人を斬りつけ殺害し捕まりました。このとき超七郎は成一郎と栄一の書簡を持っており2人が尊皇攘夷で倒幕の志を持っていることがばれてしまいます。まもなくこの件は円四郎にも伝わり、成一郎と栄一は絶体絶命になってしまいます。すると円四郎は2人に一橋家に出仕するよう勧めたのです。一橋家の士官になるということは志に反することになりますが、長州や薩摩に逃げる伝もなく、死んでしまったら元も子もないので円四郎に頼らざるを得ない状態でした。一橋家の当主は水戸斉昭の子息の一橋慶喜で朝議参与として京都に滞在しており江戸幕府とは異なる考えを持っていました。慶喜に仕えることは尊皇攘夷に反することはないと考えました。間もなく慶喜は天皇の禁裏(京都御所)を警護する禁裏御守衛総督を務めることになり、成一郎と栄一は兵力調達を行いました。

 慶応2年(1866年)12月、2人は転機を迎えます。慶喜が第15第征夷大将軍となったのです。2人は揃って幕臣となりましたが、栄一は1867年にフランスのパリで開催された万国博覧会を訪れました。このとき栄一はヨーロッパ各国を訪れ先進的な政治や産業の近代社会に目覚めます。その間に日本では大政奉還が行われ栄一は慶応4年11月に帰国しました。帰国後、栄一は新政府の官僚として働き、その後は実業家に転身、ヨーロッパでの経験を活かし数々の功績をあげます。

 一方、成一郎は幕臣として鳥羽・伏見の戦いに参戦します。慶喜が江戸に戻ると将軍警護のため彰義隊を結成し頭取となります。慶喜の謹慎場所が江戸から水戸に移ると、彰義隊を上野から撤退させようとしましたが副頭取の天野八郎が強硬に反対したため成一郎は彰義隊から脱退しました。その後は振武軍を結成し武蔵国入間郡飯能(現埼玉県飯能市)に移り官軍と戦いますが敗走します。榎本武揚の艦隊に合流し振武軍と彰義隊を合わせ新たに彰義隊を結成、箱館戦争に参戦します。箱館戦争が終結する直前は中島三郎助らと千代ヶ岡陣屋を守備していましたが、中島三郎助が討ち死にを覚悟で戦うと慶応4年(1869年)5月15日に旧幕府軍を脱走しました。成一郎は新政府軍への敵対心が人一倍強かったようですが、かつて幕臣になると決断したとき栄一と死んでしまったら元も子もないという話を思い出したのかもしれません。

 函館の湯の川方面に潜伏していましたが1か月後には新政府軍に投降しました。その後、投獄されましたが渋沢栄一が身元引受人となって赦免され明治政府の役人として働き、その後は栄一と同様に実業家に転身しました。

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2023年12月28日 (木)

函館市の実行寺の日仏親善函館発祥記念碑

ココログ「夜明け前」公式サイト

 北海道函館市船見町に日蓮宗の寺院「実行寺」があります。マシュー・ペリー提督が率いる黒船来航で安政元年(1854)年に日米和親条約が締結されると箱館が米国に開港されました。続いて幕府はイギリス、ロシア、オランダと和親条約を締結、それらの国に対して箱館は開港されました。箱館が開港さると実行寺は外国人の宿所としても利用されるようなりました。

日蓮宗の寺院「実行寺」(函館市)
日蓮宗の寺院「実行寺」(函館市)

 この実行寺の正門奥には「日仏親善函館発祥記念碑」と刻まれた石碑があります。この石碑の上部は円形の穴が空いており、穴の中央部に握手している人の手の彫刻があります。この石碑には日本とフランスの間の外交に関する逸話があります。

日仏親善函館発祥記念碑(函館市 実行寺)
日仏親善函館発祥記念碑(函館市 実行寺)

 幕府はアメリカ、イギリス、ロシア、オランダと和親条約を結びましたが、フランスとは和親条約を結んでいませんでした。そのため箱館はフランスには開港されていませんでした。安政2年(1855年)6月から7月にかけてフランス海軍のインドシナ艦隊のシビィル号、ヴィルジニ号、コンスタンチヌ号が多くの病人が出たため立て続けに緊急に箱館に寄港しました。箱館奉行の竹内保徳は人道的な見地に立ち病人たちの治療のための上陸と養生を独断で許可しました。「日仏親善函館発祥記念碑」は実行寺が日仏親善の発祥の地であること、また仏教徒とキリスト教徒の友愛の証しを記念し平成13年(2001年)に建立されたものです。

 余談ですが五稜郭を築城した武田斐三郎はコンスタンチーヌ号副艦長から見せられた星型城塞都市の絵図にヒントを得て五稜郭を設計したと言われています。

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2023年12月15日 (金)

黒船来航から箱館戦争まで関わった中島三郎助

ココログ「夜明け前」公式サイト

 大政奉還と明治維新のきっかけとなった嘉永6年6月3日の浦賀沖の黒船来航。黒船艦隊は第13代大統領ミラード・フィルモアが日本に開港を求めるために派遣したマシュー・ペリー提督が率いるアメリカ合衆国海軍の東インド艦隊です。このときペリーが乗船していた旗艦は蒸気外輪フリゲート艦「サスケハナ」でした。このとき浦賀奉行が使者として送ったのが奉行所与力の中島三郎助でした。三郎助は通訳の堀達之助を連れて自らを副奉行と詐称し乗船しその後の応待で重要な役割を果たしました。この頃、榎本武揚こと釜次郎は昌平坂学問所修了、翌年箱館奉行堀利煕の従者として武田斐三郎らと箱館に赴いています。土方歳三は日野の佐藤彦五郎の道場で近藤勇と出会った頃です。

中島三郎助
中島三郎助

 三郎助はペリー艦隊の記録にまるでスパイのようだと記されたほど黒船を詳細に調査しました。ペリーが離日すると軍艦の建造と蒸気船の艦隊の設置を進言する幕府老中阿部正弘宛の意見書を提出しました。幕府は浦賀奉行に西洋式の大型帆船の建造を命じ、中島らが中心となって嘉永7年(1854年)日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」を完成させました。

 安政2年(1855年)、三郎助は幕府の長崎海軍伝習所に第一期生として入所し特に洋式船に関する専門知識を学びました。この年に聴講生として釜次郎が訪れています(2年後に第二期生として入所)。また同年に造船学を学ぶため長州藩士の桂小五郎が訪れています。三郎助は小五郎を家族ぐるみで厚遇し自宅に1ヶ月半も宿泊させ造船学を学ばせました。小五郎は大政奉還後に明治府軍の重要人物となり木戸孝允と名乗るようになりますが、三郎助の恩義を一生忘れることはありませんでした。

桂小五郎(木戸孝允)
桂小五郎(木戸孝允)

 時は流れて慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発すると三郎助は海軍副総裁となっていた榎本武揚とともに「開陽丸」で江戸を脱出、東北を経て箱館に向かいました。武揚らは箱館五稜郭を占拠し箱館政権を樹立、三郎助は箱館奉行並と砲兵頭並となりました。箱館戦争が始まると三郎助は五稜郭の前衛の千代ヶ岱陣屋の隊長となりここを終戦まで守備しました。

 箱館が新政府軍に占領されると三郎助は軍議では降伏を主張しましが本人は陣屋で討死を覚悟。榎本武揚からの五稜郭撤退命令を拒否し、新政府軍の降伏勧告にも従いませんで。そして箱館戦争終結する2日前の明治2年5月16日午前3時頃、新政府軍は徹底抗戦している千代ヶ岡陣屋を夜襲しました。三郎助は大砲を指揮していましたが大砲が不発となったため台場の胸壁に登って戦いましたがそこで狙撃されました。恒太郎と英次郎は土塁の外に出て戦死。浦賀奉行時代からの部下達も最後まで降伏せず戦死しました。

 箱館戦争で戦死というと土方歳三が有名ですが、中島三郎助は戊辰戦争のきっかけとなった黒船来航から戊辰戦争最後の箱館戦争まで関わりました。黒船来航時に三郎助の通訳を務めた堀は幕末は箱館奉行通詞、明治維新後は箱館裁判所参事席となりました。

 千代ヶ岡陣屋跡は函館市千代台公園陸上競技場の教育大通りに面した歩道です。最後之地は箱館税務署前のグリーンベルト内に記念碑があります。このあたりは現在は三郎助に因んで中島町と名付けれてています。

 木戸孝允は箱館戦争で三郎助が戦死したこと酒席で知りました。酒を飲めるような状況ではなくなり酒を下げさせ三郎助の死を嘆き悲しみました。孝允は江戸で剣術を学んだ師から「剣」でなく「心」で話し合いで勝つよう教えらたといいます。黒船を見て武力では敵わないことを確信し尊皇攘夷論で新政府づくり貢献することになり三郎助と袂を分かちました。後年に明治天皇の東北巡幸で箱館を訪れたとき千代ヶ岡陣屋付近を通りがかったときに感極まって号泣したそうです。 一方、榎本武揚については厳罰に処すよう主張しました。

榎本武揚
榎本武揚

 中島三郎助は長男と次男とともに戦死しましたが慶弔4年(1866年)に生まれた三男の與曽八がいました。與曽八は三郎助の同僚によって2歳で静岡藩三等勤番士に取り立てられました。しかし一家の生活は苦しかったようです。木戸孝允は明治8年(1875年)に三郎助の妻と再開します。そして三郎助の遺族を支援し、榎本武揚に三郎助の遺族の面倒をみるよう頼みました。榎本は三男の與曽八を養育しました。こうして成長した與曽八は父と同様に船舶ついて学び、とりわけ機関の専門家となり海軍で蒸気タービンの国産化に尽力し海軍機関中将となりました。

【関連記事】黒船来航から箱館戦争まで関わった中島三郎助

西郷隆盛と函館の関係

上野公園の西郷隆盛像の除幕式(1898年12月18日)

函館と黒船と日本最古の写真の関係

土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

函館夜景の日(8月13日)

旧函館郵便局(はこだて明治館)

函館とホタテ貝と黒船ペリー提督の関係

開陽丸が横浜に入港(慶応3年 1867年4月30日)

榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)

函館と郵政記念日の関係(1871年4月20日)

函館と赤とんぼの関係

日本最古のコンクリート電柱|函館と電柱の関係

天使の聖母トラピスチヌ修道院が設立(1898年4月30日)

四代目函館駅が落成(1942年12月20日)

松前城(福山城) 天守を焼失(1949年6月5日)

青函連絡船「洞爺丸」沈没(1954年9月26日)

函館港と母船式北洋漁業

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年(1963年)11月15日

ソ連戦闘機が函館空港に強行着陸(1976年9月6日)

函館ハリストス正教会が重要文化財に指定される(1983年6月2日)

青函トンネル営業開始(1988年3月13日)

函館カール・レイモンのショルダーハム

函館と月光仮面の関係

函館とハーバー(ノーベル化学賞)の関係

函館と天気予報の話

函館と禁酒の関係

五稜郭タワーズ

函館の八幡坂

函館の野球の球聖 久慈次郎

函館山と函館どっくゴライアスクレーン

 

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2023年12月 8日 (金)

西郷隆盛と函館の関係

ココログ「夜明け前」公式サイト

 明治維新の立役者となったものの新政府で袂を分かち西南戦争で散った西郷隆盛。

2_20201217160801
上野恩賜公園の西郷隆盛像

 明治元年(1868年)8月、戊辰戦争の北越戦争の戦況が思わしくないことから西郷隆盛は薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令)として越後(新潟)に向かいました。同年9月、新政府軍が戊辰戦争の東北戦争に勝利すると、西郷隆盛は総督府下参謀の黒田清隆に最後まで戦った庄内藩に対して寛大な処分とするよう命じて東京、京都、大坂に立ち寄ったあと湯治のため鹿児島へ向かいました。

 明治2年(1869年)2月、薩摩藩主の島津忠義の要請により薩摩藩に戻り藩の改革を行いました。明治元年(1868年)10月から開戦した箱館戦争の支援のため同年5月1日に薩摩藩の総差引として兵を率いて鹿児島を出港しました。途中、東京に立ち寄り箱館に到着したのは同年5月25日でしたが、箱館戦争は同月18日に新政府軍の勝利で終結していました。榎本武揚は18日に五稜郭を開城し武装解除して黒田清隆のもとに投降しました。

 このとき西郷隆盛は箱館湾を視察しましたが函館には上陸しませんでした。西郷隆盛が箱館を訪れたのは新政府軍の支援の他に黒田清隆と袂を分けた榎本武揚の双方を気遣ったからとも言われています。箱館に上陸しなかったのは黒田清隆らが尽力した箱館戦争終結に介入することを避けるためとも言われています。西郷隆盛は箱館から鹿児島への帰路で東京に立ち寄りました。同年6月2日に明治維新の功労として賞典禄という恩賞を受け、新政府に留まるよう求められましたが鹿児島へ帰りました。

 ところで坂本龍馬は蝦夷地開拓を目指していました。たとえ1人でも蝦夷地に新国を開く覚悟で蝦夷地への移住を考えていました。何度か実際に計画を立てましたが暗殺によって叶いませんでした。坂本龍馬と親交のあった西郷隆盛も明治4年(1871年)頃から蝦夷地の開拓と防衛に取り組むことを主張しました。西郷隆盛は明治6年(1873年)に征韓論をきっかとする対立で下野し鹿児島に戻りました。西郷隆盛と坂本龍馬の蝦夷地開拓の夢は北海道開拓次官となった黒田清隆が引き継ぎました。黒田清隆は同年11月に太政官に屯田制を建議、明治7年(1874年)に屯田兵例則が定められ、明治8年(1875年)5月に札幌郊外の琴似で屯田兵が設置されたのです。

【関連記事】西郷隆盛と函館の関係

上野公園の西郷隆盛像の除幕式(1898年12月18日)

函館と黒船と日本最古の写真の関係

土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

函館夜景の日(8月13日)

旧函館郵便局(はこだて明治館)

函館とホタテ貝と黒船ペリー提督の関係

開陽丸が横浜に入港(慶応3年 1867年4月30日)

榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)

函館と郵政記念日の関係(1871年4月20日)

函館と赤とんぼの関係

日本最古のコンクリート電柱|函館と電柱の関係

天使の聖母トラピスチヌ修道院が設立(1898年4月30日)

四代目函館駅が落成(1942年12月20日)

松前城(福山城) 天守を焼失(1949年6月5日)

青函連絡船「洞爺丸」沈没(1954年9月26日)

函館港と母船式北洋漁業

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年(1963年)11月15日

ソ連戦闘機が函館空港に強行着陸(1976年9月6日)

函館ハリストス正教会が重要文化財に指定される(1983年6月2日)

青函トンネル営業開始(1988年3月13日)

函館カール・レイモンのショルダーハム

函館と月光仮面の関係

函館とハーバー(ノーベル化学賞)の関係

函館と天気予報の話

函館と禁酒の関係

五稜郭タワーズ

函館の八幡坂

函館の野球の球聖 久慈次郎

函館山と函館どっくゴライアスクレーン

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2023年11月15日 (水)

函館山ロープウェイ開業(1958年11月15日)

カテゴリー:函館の話

ココログ「夜明け前」公式サイト

 函館山ロープウェイ株式会社は北海道函館市の函館山の山麓と山頂を結ぶロープウェイです。昭和33年(1958年)、函館観光事業会社が設立され同年5月にロープウェイの架設工事が初まり同年11月15日に開業しました。ロープウェイの開業により誰もが手軽に函館野からの景色や函館市の夜景を楽しめるようになりました。

 開業当時の初代のロープウェイはわずか31人乗りでした。昭和45年(1970年)に2代目の45人乗り、昭和63年(1988年)に当時としては日本最大の3代目の125人乗り、平成9年(1997年)に4代目125人乗りが導入されました。現在、運行されているロープウェイは平成26年(2014年)に導入された125人乗りのもので5代目です。次の写真は昭和37年7月に函館山の山麓駅で撮影したものです。ロープウェイは初代のものです。背景の塔はカトリック元町教会です。

初代の函館山ロープウェイ(昭和37年7月 山麓駅)
初代の函館山ロープウェイ(昭和37年7月 山麓駅)

 次の写真は昭和33年(1958年)5月1日に函館山山頂から撮影したものです。函館山ロープウェイの着工は同年5月からですのでロープウェイも存在していませんがそれなりに観光客がいますね。

函館山山頂から(撮影昭和33年/1958年5月1日)
函館山山頂から(撮影昭和33年/1958年5月1日)

 函館山ロープウェイ株式会社は昭和51年に函館観光事業会社から現在の社名となりました。昭和61年(1986年)に函館市が出資し第3セクターとなり、平成4年(1992年)に日本初となるコミュニティFM放送「FMいるか」を開局しています。函館山ロープウェイ株式会社は函館観光の重要な役割を果たしています。

【関連記事】

箱館ハイカラ號-運行開始

東京初の路面電車が開業(1903年8月22日)

日本初のケーブルカー|ケーブルカーの日(1918年8月29日)

 

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2023年10月23日 (月)

森町大火(1961年10月23日)

ココログ「夜明け前」公式サイト

 昭和36年(1961年)10月23日午後11時30頃、北海道茅部郡森町の森マーケット内の飲食店「お富」にて客の投げ捨てた煙草が原因で出火し市街地の大半を焼失する森町大火が発生しました。

 大火となった原因は出火した時間が夜中だったこと、函館本線が走る海岸沿いの歓楽街だったこと、折しも狂風だったこと、消防設備が十分でなかったことなどが重なったためです。近隣の長万部町や函館市をはじめとする多くの市町村が救援に駆けつけましたが、あっという間に炎が市街を包み込みました。懸命な消火活動により翌10月24日に鎮火しました。

 住宅を失った住民は12月に仮設住宅が完成するまでの2ヶ月間を小中学校などで過ごしました。厳しい冬を迎えましたが復興にはその後5年の歳月を要しました。罹災戸数633戸、罹災者数2238人に達する大火事となりました。

 次の写真は同年10月25日に現地に取材に入ったカメラマンが同僚を撮影したものです。あまりの惨状に唖然としています。

森町大火の惨状を見て唖然とするカメラマン
森町大火の惨状を見て唖然とするカメラマン

 しかし、記録に残すために気を取り直して撮影しなければなりません。取材は3日間続いたそうです。

森町大火の記録をするため撮影するカメラマン
森町大火の記録をするため撮影するカメラマン

 この森町には森三吉神社があります。この大火で火の手は神社の目前まで迫り強風が吹き荒れていたにもかかわらず境内に火が入ることはありませんでした。神様の御神徳であるとされ「火防の社」と呼ばれるようになったそうです。

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2023年10月21日 (土)

土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

ココログ「夜明け前」公式サイト

 田本研造は幕末から明治時代初期にかけて函館を中心に北海道で活躍した写真家です。天保3年(1832年)4月8日に紀州牟婁郡神川村(三重県熊野市神川町)で生まれました。23歳で長崎の蘭方医の吉雄圭斎のもとで医学やや舎密学(化学)を学びながら西洋文化の影響を受けました。

田本研造
田本研造

 安政6年(1859年)、安政五カ国条約により函館港が開港すると、箱館奉行所の通詞だけでは各国領事官の対応に手が回らなくなったため幕府が通詞を増員しました。このとき箱館に転勤となった長崎奉行所通詞の松村喜四郎に伴い箱館にやって来たのが27歳の田本研造です。

 田本は右足に凍傷を追って悪性の壊疽にかかり、ロシアの医師ゼレンスキーの手術を受け命は助かりましたが右足を切断する不運に見舞われました。田本は治療中にゼレンスキーから写真技術を学び、慶応2年(1866年)頃から写真師の仕事を始めました。写真師の横山松三郎や木津幸吉と出会い写真の研究を進めました。田本は木津と一緒に松前に赴き当時の松前城(福山城)や藩士らの写真を撮っています。

 明治2年(1869年)、田本は大工町(末広町)に北海道初の写真館を開きました。この写真館は採光用ガラス窓がついた本格的なものでした。この頃、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争で新政府軍と戦った旧幕府軍の榎本武揚や土方歳三の肖像写真、仏軍士官、幕軍兵士、軍艦の回天丸などの写真を撮影しました。とりわけ椅子に座った洋装の土方歳三の写真が有名です。

土方歳三の写真(田本研造撮影)
土方歳三の写真(田本研造撮影)

 この写真は当初は田本研造が撮影したものかどうか不明でしたが、調査によって田本研造が撮影されたものとされています

新選組研究最前線〈下〉(新人物往来社、1988年)
桑嶋洋一「写真師K・Gと土方歳三」
 

 箱館戦争後は明治政府の開拓使より明治4年(1871年)に札幌と周辺の撮影を命じられ弟子の井田幸吉と札幌に赴きます。田本が撮影した158枚の写真は函館出張開拓使庁から政府に送られました。政府は北海道開拓事業の進捗状況を把握しました。1873年にウィーンで開催された万国博覧会にはこの開拓使の写真が出品されました。

 田本は多数の有名な写真師を輩出し、北海道における指導者的立場の写真師となりました。田本は右足が不自由だったため郷里に帰省することはありませんでした。しかし、箱館から郷里に手紙とともに写真を送っています。田本研造は後に音無榕山と名乗り増しが、音無は郷里の音無川(熊野川)に因んだものです。郷里に思いを馳せていたのでしょう。

 田本研造は大正元年(1912年)10月21日、函館で81歳の生涯を閉じました。田本研造の墓は函館山の立待岬に近い住吉墓地にひっそりと佇んでいます。

田本研造の墓(函館市住吉墓地)
田本研造の墓(函館市住吉墓地)

 また郷里の地元熊野市には昭和56年(1981年)に鬼ヶ城に顕彰碑が建立されました。

田本研造之碑(鬼ヶ城)
田本研造之碑(鬼ヶ城)

【関連記事】土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

函館と黒船と日本最古の写真の関係

函館とホタテ貝と黒船ペリー提督の関係

開陽丸が横浜に入港(慶応3年 1867年4月30日)

榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)

松前城(福山城) 天守を焼失(1949年6月5日)

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

 

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2023年10月 4日 (水)

函館と黒船と日本最古の写真の関係

 幕末の1853年の黒船来航時にマシュー・ペリー提督に随行したエリファレット・ブラウン・ジュニアという写真家がいました。ブラウンはもともと画家でしたが同じく画家だった弟が写真に興味を持つようになり自身も写真家となりました。

 ブラウンは寄港先で景色や人物の銀板写真をタゲレオタイプカメラで撮影しました。ブラウンが撮影した一連の銀板写真は国内で日本人を撮影した現存する最古の写真とされています。

 ペリーが黒船で函館を訪れたのは安政元年(1854年)5月です。このときブラウンは同年5月17日(旧暦4月21日)から同年6月3日(旧暦5月8日)まで北海道函館市船見町にある日蓮宗の実行寺(じつぎょうじ)に滞在しここで写真撮影のためのスタジオを作りました。

 このとき松前藩の代表としてペリーを出迎えたのは松前藩の家老の松前勘解由です。勘解由は同年5月19日(4月23日)にミシシッピ号を訪問しペリーと会談、ペリーはその3日後の同年5月22日に函館に上陸し函館の弁天町にあった豪商・山田屋寿兵衛の屋敷で会談を行いました。

 このときブラウンが撮影した松前勘解由と従者が写った銀塩写真(1854年撮影、松前町所有、松前町郷土資料館保管)が現存しています。この写真が箱館で撮影されたこと、1854年6月1日にペリーから贈られたことが記載された添状が残っています。

松前勘解由と従者の写
松前勘解由と従者の写真

 この写真は日本最古の銀板写真の一つとして国の重要文化財に登録されています。ブラウンが日本で撮影した写真から制作された木版画やリトグラフは「ペリー提督日本遠征記」に収録されています。ブラウンは日本各地で400点を超える写真を撮影したと述べていますが多くの写真原版が失われています。

【関連記事】函館と黒船と日本最古の写真の関係

函館夜景の日(8月13日)

旧函館郵便局(はこだて明治館)

函館とホタテ貝と黒船ペリー提督の関係

開陽丸が横浜に入港(慶応3年 1867年4月30日)

榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)

函館と郵政記念日の関係(1871年4月20日)

函館と赤とんぼの関係

日本最古のコンクリート電柱|函館と電柱の関係

天使の聖母トラピスチヌ修道院が設立(1898年4月30日)

四代目函館駅が落成(1942年12月20日)

松前城(福山城) 天守を焼失(1949年6月5日)

青函連絡船「洞爺丸」沈没(1954年9月26日)

函館港と母船式北洋漁業

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年(1963年)11月15日

ソ連戦闘機が函館空港に強行着陸(1976年9月6日)

函館ハリストス正教会が重要文化財に指定される(1983年6月2日)

青函トンネル営業開始(1988年3月13日)

函館カール・レイモンのショルダーハム

函館と月光仮面の関係

函館とハーバー(ノーベル化学賞)の関係

函館と天気予報の話

函館と禁酒の関係

五稜郭タワーズ

函館の八幡坂

函館の野球の球聖 久慈次郎

函館山と函館どっくゴライアスクレーン

 

ココログ夜明け前公式サイト

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧