カテゴリー「函館の話」の45件の記事

2023年9月17日 (日)

函館港と母船式北洋漁業

 北洋漁業の歴史は江戸幕府が函館奉行所を置き北海道や千島列島での漁業や交易を始めたことに遡ります。安政元年に日露和親条約が締結されると北方での漁業の広域化が進み、明治時代に北海道開拓が進むと大型で近代的な漁船が導入されるようになりました。北洋で漁業を行う他国漁船はほとんどなく日本が独占状態でした。

 明治38年(1905年)に日露戦争の終結すると、日本はポーツマス条約でロシア領沿岸での漁業権を得ます。明治40年(1907年)に日露漁業協約が締結されると北洋漁業がさらに広域化しました。日本の漁獲高は増加し北洋漁業の母港のひとつだった函館港も賑わいました。

 大正6年(1917年)のロシア革命後も日本漁船の操業は続きましたが、大正11年(1922年)にソ連が成立するとソ連政府は日本に許可する漁業海域を狭めていきました。ソ連沿岸での操業ができなくなり、ソ連領内の加工工場も閉鎖せざるを得なくなりました。そのため漁船団が海域で漁業をしながら加工が可能な母船式漁業が行われるようになりました。第二次世界大戦後、日本の遠洋漁業は禁止となりましたが、昭和27年(1952年)に日本が主権を回復すると再開されました。

 母船式漁業の漁期は5月~8月までで5月初めに漁船団は函館港に集結し、関係者や家族の万歳で賑やかに見送られるなか出向していきました。その様子は北海道の春の風物となり毎年ニュースで取り上げれました。次の写真は昭和37年5月に函館山ロープウェイから函館港に集結する北洋船団を撮影したものです。函館山麓から対面の上磯まで広がる函館湾にはたくさんの船を集結させることができました。

函館港に集結する北洋船団)昭和37年5月)
函館港に集結する北洋船団)昭和37年5月)

 多くの漁獲物をもたらした北洋漁業でしたが200海里水域制限(排他的経済水域)など国際ルールの変化で北洋漁業を取り巻く状況は厳しくなり、昭和63年(1988年)に函館港は母船式北洋漁業の基地として役割を終えました。

【関連記事】函館港と母船式北洋漁業

函館夜景の日(8月13日)

旧函館郵便局(はこだて明治館)

函館とホタテ貝と黒船ペリー提督の関係

開陽丸が横浜に入港(慶応3年 1867年4月30日)

榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)

函館と郵政記念日の関係(1871年4月20日)

函館と赤とんぼの関係

日本最古のコンクリート電柱|函館と電柱の関係

天使の聖母トラピスチヌ修道院が設立(1898年4月30日)

四代目函館駅が落成(1942年12月20日)

松前城(福山城) 天守を焼失(1949年6月5日)

青函連絡船「洞爺丸」沈没(1954年9月26日)

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年(1963年)11月15日

ソ連戦闘機が函館空港に強行着陸(1976年9月6日)

函館ハリストス正教会が重要文化財に指定される(1983年6月2日)

青函トンネル営業開始(1988年3月13日)

函館カール・レイモンのショルダーハム

函館と月光仮面の関係

函館とハーバー(ノーベル化学賞)の関係

函館と天気予報の話

函館と禁酒の関係

五稜郭タワーズ

函館の八幡坂

函館の野球の球聖 久慈次郎

函館山と函館どっくゴライアスクレーン

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2023年8月28日 (月)

函館山から望む北海道駒ヶ岳

 北海道の駒ヶ岳は渡島半島の森町、鹿部町、七飯町にまたがる活火山です。内浦湾の南岸に位置することから江戸時代には内浦岳とも呼ばれていました。七飯町の大沼方面から望んだ山容が横に長くなだらかで馬がいなないている姿に似ていることから駒ヶ岳と名付けられたと言われています。

 駒ヶ岳というと大沼公園や森町からの姿を思い浮かべますが函館山の山頂からもその姿を見ることができます。次の写真は函館山の山頂から撮影した駒ヶ岳です。左側の尖った部分が駒ヶ岳の最高地点の標高1,131メートルの剣ヶ峯です。剣ヶ峯の右方には標高1,112メートルの砂原岳、さらに右方には標高892メートルの隅田盛があります。

函館山の山頂から望む駒ヶ岳
函館山の山頂から望む駒ヶ岳

 剣ヶ峯と砂原岳の間に直径約2キロメートルの火口があります。大沼公園の大沼、小沼、蓴菜沼は駒ヶ岳の火山活動によってできた湖沼です。北海道駒ヶ岳を望む大沼の風景は「三保の松原(静岡県)」「耶馬渓(大分県)」と並んで新日本三景に選ばれています。また駒ヶ岳は日本二百名山、北海道百名山に選ばれています。

 駒ヶ岳の名前の由来に関する言い伝えがあります。1513年、大館(松前)の松前守護職の相原季胤は「ショヤタイン、コウジ兄弟の蜂起」で弟の相原吉胤とともに大沼まで逃げましたがここで最期を悟り湖の小島で自刃しました。自刃する前に季胤は愛馬に山上に逃げるよう言いました。愛馬は季胤の言うことをきき勢い良く山に上った。このことから、この山を駒ヶ岳、季胤が鞍を掛けた岩が鞍掛岩と呼ばれるようになりました。以降、季胤の命日に駒ヶ岳から馬の鳴き声が聞こえるようになったそうです。

【関連記事】カテゴリー:函館の話

函館山から望む大森浜

海上自衛隊護衛艦DD-114「すずなみ」@函館どつく

函館夜景の日(8月13日)

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函館ハリストス正教会が重要文化財に指定される(1983年6月2日)

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2023年8月14日 (月)

函館山から望む大森浜

 先日、函館山に登りました。天気が良くて函館市の全景を見ることができました。

函館山から望む函館市
函館山から望む函館市

 太平洋側(右側)の海は白波が少し立っているように見えたので大森浜の方へカメラを向けてズームインしてみました。確かに白い波が立っていてなかなか良い感じに見えます。

函館山から望む大森浜
函館山から望む大森浜

 

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2023年8月13日 (日)

海上自衛隊護衛艦DD-114「すずなみ」@函館どつく

 知人に久しぶりに函館山の山頂に連れて行ってもらいました。函館どつくの方向を見たら自衛隊の艦艇が見えました。さっそくカメラを向けて写真を撮りました。

函館どつくに海上自衛隊の艦艇
函館どつくに海上自衛隊の艦艇

 護衛艦であることはわかったのですが艦名を識別することができないのでズームで拡大して撮影してみました。船首に114と見えたので識別することができました。海上自衛隊護衛艦DD-114「すずなみ」です。

海上自衛隊護衛艦DD-114「すずなみ」
海上自衛隊護衛艦DD-114「すずなみ」

 「すずなみ」は「たかなみ型護衛艦」の5番艦で2006年2月16日に就役し第3護衛隊群第3護衛隊に編入され舞鶴に配備されました。さまざまな任務を遂行し現在は第3護衛隊群第7護衛隊に所属し青森県の大湊を母港としています。

 「すずなみ」の命名は「澄んで清い波」に由来します。旧日本海軍の夕雲型駆逐艦「涼波」に続き2代目の「すずなみ」になります。

【関連記事】海上自衛隊護衛艦DD-114「すずなみ」@函館どつく

航空自衛隊YS-11FC 160号機(機体番号12-1160)|八王子「自衛隊まつり」

ブルーインパルス 八王子市 市制100周年記念 (2017年9月16日)

戦艦「大和」が竣工(1941年12月16日)

原爆と戦艦インディアポリスと潜水艦伊58の関係

米原潜「ノーチラス」が潜航で北極点を通過(1958年8月3日)

横須賀海軍カレー

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2023年6月 2日 (金)

函館ハリストス正教会が重要文化財に指定される(1983年6月2日)

 函館ハリストス正教会は日本ハリストス正教会に属する主の復活聖堂を備える教会です。ハリストスはギリア語でイエス・キリストを意味します。歴史上、日本における正教会の聖堂を有する最初の教会でもあり、伝道の拠点でもあります。

函館ハリストス正教会
函館ハリストス正教会

 なぜ函館が拠点になったのかは江戸幕府とロシアが1855年と1858年に結んだ日露和親条約と日露修好通商条約に関係しています。江戸幕府が函館を開港すると、初代ロシア領事ゴシュケヴィッチが来函しました。ゴシュケヴィッチは1600年に港と市街を見渡せる現在の地にロシア領事館を開き、その付属聖堂として函館ハリストス正教会復活聖堂を建立しました。1861年、修道司祭の亜使徒聖ニコライが来函、日本で初めて正教会を伝えました。

 最初の聖堂は1907年の函館大火で焼失しています。現在の聖堂は1916年に再建されたものです。聖堂および聖堂内の聖障は1983年に国の重要文化財に指定されています。また、函館ハリストス正教会はその鐘の音から市民の間で「ガンガン寺」という名前で親しまれ、1996年に環境省の「残したい日本の音風景100選」に選ばれています。

函館ハリストス正教会の鐘の音(鐘楼内で撮影)

【関連記事】函館ハリストス正教会が重要文化財に指定される(1983年6月2日)

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函館と赤とんぼの関係

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四代目函館駅が落成(1942年12月20日)

松前城(福山城) 天守を焼失(1949年6月5日)

青函連絡船「洞爺丸」沈没(1954年9月26日)

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

青函連絡船「津軽丸」進水式 昭和38年(1963年)11月15日

ソ連戦闘機が函館空港に強行着陸(1976年9月6日)

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2022年12月20日 (火)

四代目函館駅が落成(1942年12月20日)

 函館駅は1902年(明治35年)に北海道鉄道の函館ー南小樽を結ぶ起点駅として建造されました。当初、北海等鉄道は初代函館駅を現函館駅が所在する若松町に建造する予定でしたが住民との話し合いが進まず設置する場所を海岸町にしました。

 1904年に若松町に駅を建造できる環境が整い、同年7月1日に二代目函館駅が落成しました。1907年、鉄道国有法の施行により帝国鉄道庁(後の日本国有鉄道=国鉄)の駅となりました。海岸町の初代函館駅は亀田駅と改名されましたが1909年に駅舎が焼失して営業休止となり、1911年の五稜郭駅の落成に伴い廃止となりました。

 1908年、青函連絡航路の営業が開始し1910年には函館桟橋が設置されました。函館駅は本州と北海道を結ぶ玄関の役割を果たすようになりました。しかし、その二代目函館駅も大正2年(1913年)5月4日の函館大火により焼失、大正3年(1914年)12月に三代目函館駅が竣工しました。三代目函館駅では青函連絡船の設備が整えられ函館桟橋待合所が函館桟橋駅として営業を開始しました。

 昭和に入り鉄道が発展すると三代目函館駅は北海道の玄関口や道南の鉄道拠点駅として役不足なってきました。昭和9年(1934年)の函館大火後、昭和10年(1935年)頃から函館駅の改築の機運が高まり四代目函館駅の着工が計画されましたが、三代目函館駅が昭和13年(1938年)に失火により焼失、四代目函館駅が竣工するまで函館桟橋駅が使われました。

 四代目の函館駅が完成したのは昭和17年(1942年)12月20日です。四代目函館駅は函館市を象徴する建物でしたが老朽化のため建て替えられることになり、平成15年(2003年)6月21日に現在の5代目函館駅駅が開業しました。

四代目函館駅(撮影 昭和33年 1958年5月)
四代目函館駅(撮影 昭和33年 1958年5月)

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2022年6月 5日 (日)

松前城(福山城) 天守を焼失(1949年6月5日)

 戦国時代。かつて蝦夷(北海道)の地にも戦国武将がいました。蠣崎氏(かきざきうじ)です。

 蠣崎氏は元々は室町時代の武田氏の子孫である武田信廣を祖とする家柄です。

 豊臣秀吉が関白になったときにはこの地からはるばる上洛を果たしたそうです。それによって秀吉に所領を安堵されました。江戸時代になると徳川家につき松前氏と名乗るようになりました。

 蠣崎氏はもともとは福山館という大きな屋敷に住んでいました。松前氏となってからも城を持っていませんでしたが、江戸末期の松前藩第12代藩主、松前松前崇広の代に幕府から北方警備を命ぜられ築城されたのが松前城です。そのため福山城とも呼ばれます。

松前神楽(昭和30年代)
松前神楽(昭和30年代)

 松前城は日本最後の旧式城郭です 幕末に城主だった松前徳広は戊辰戦争の際に五稜郭にやってきた旧幕府軍からの協力要請を無視し、これに怒った榎本武揚は土方歳三に松前に攻め込む命令を出しました。松前城は開戦から間もなく落城してしまいました。箱館戦争終盤には新政府軍と松前藩兵が松前城を奪還しています。

 明治維新後は開拓使が本丸御殿を出張所としようとしましたが老朽化が激しいため天守や本丸の表御殿と御門を残してそれ以外の建物を解体し、さらに石垣を撤去し堀を埋めて更地にしました。

 その後、松前城は天守部分が公会堂として利用されていましたが保存の予算がつかず老朽化していきました。昭和の初めには見向きもされなくなってしまいました。ところが昭和10年(1935年)に松前城跡が国の史跡となったことから保存されることになり、昭和16年(1941年)には天守や本丸の表御殿と御門が国宝に指定されました。

 第二次世界大戦の戦火を免れた松前城でしたが白壁が崩れ屋根が壊れて鯱が落下するなど無残な状態になりました。昭和23年(1948年よ)に国と北海道で修繕することになりましたが予算がつかず昭和24年(1949年)に持ち越されました。

 修繕を開始する直前の昭和24年(1949年)6月5日午前1時10分頃、松前町役場として使われていた松前奉行所跡から出火し、火の手は本丸まで広がり天守が焼失してしまいました。天守は昭和34年(1959年)に復元されています。

Google Mapでは松前城の姿を見ることができます。

松前公園

松前城天守

 

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2022年1月 9日 (日)

ゴミ箱とANAと函館空港ラウンジ

 ときどき函館を訪れるのですが東京に戻るときに函館空港のラウンジを利用します。次の写真はそのラウンジに設置されているゴミ箱です。こういう場所でよく見かける普通のゴミ箱ですが、このゴミ箱を見た瞬間にあることを思い出し嬉しくなりました。

ゴミ箱
函館空港ラウンジのゴミ箱

 実は過去にこのラウンジを利用したとき、いつもの通り飲んだコーヒーの紙コップをゴミ箱に捨てたところ手がゴミ箱の蓋に引っかかってしまいました。蓋のバネが強くて想定していたより早く閉まってしまったのです。

 痛いなと思って見てみたら指先が切れていました。さほどのことではないなと思っていたのですが絆創膏もないのでティッシュで抑えていましたがなかなか血が止まりません。しばらくすると出血しなくなりANAの搭乗時間が近づいてきたのでラウンジを出て搭乗ゲートに向かいました。まもなく傷口が再び開き出血が始まりました。今度はなかなか止まりません。

 ここでずいぶん切れていることに気が付きました。そこで搭乗ゲートにいたANAの地上職員の女性にラウンジのゴミ箱で指を切っってしまったのでと事情を説明して絆創膏をもらえないかお願いしました。搭乗ゲートに絆創膏があるはずもなく、ANAの地上職員の方は自分の指を見てずいぶん心配してくれ、わざわざ事務所に電話をして絆創膏を持って来てくれたのです。そして自分が絆創膏を装着し終わるのを確認すると、大丈夫ですかとの声がけの後に、空港のラウンジと相談して同じことが起こらないように対策を考えると言われたのです。

 飛行機に乗った後も指先はずきずきしていましたが絆創膏のおかげで血も止まりました。家に到着した頃には痛みもなくなっていたのです。そして月日が経過し、この怪我のことはいつの間にか忘れてしまっていたのです。

 そして先日、函館を訪れた復路でいつものように函館空港ラウンジに立ち寄りコーヒーを飲みました。紙コップを捨てようとしたときに、あのときのANAの地上職員さんの対応を思い出したのです。

 なぜですって?ゴミ箱の蓋の下の方に手が挟まっても怪我をしないようにクッションが貼られていたからです。

 函館空港のラウンジはカード会社のラウンジでANAラウンジではありませんが、あのときに地上職員さんが言っていた通りANAと空港ラウンジで相談して対策を施してくれていたのです。思わず感動して撮影した一枚の写真がこのゴミ箱の写真だったというわけです。

 そして今回も無事に搭乗してお気に入りのAnother Skyを聞きながら出発を待ったのでした。

ANA「音楽につばさを〜テレワーク演奏〜」:Another Sky(ANA Team HND Orchestra)<ANAグループの有志社員が音楽をお届けします!第2弾>

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2021年9月26日 (日)

青函連絡船「洞爺丸」沈没(1954年9月26日)

 北海道と本州を結んでいた青函連絡船は1908年に就航が始まりました。昭和20年(1945年)7月に米軍による空襲で就航していた12隻の青函連絡船は全船が失われました。終戦後、国内の船舶を転用したり、修復された連絡船が使用されたりしまたが、航路の需要を十分に賄うことができませんでした。そこで、GHQの許可を得て大型連絡船が4隻建造されました。そのひとつが洞爺丸で昭和22年(1947年)11月27日に就航しました。

 洞爺丸は昭和29年(1954年)9月26日に6時30分に青森港を出港し11時5分に函館港に到着しました。14時40分に函館港を出港する予定でしたが11時30分に暴風警報が出ました。10時50分に出港していた別の連絡船が暴風の影響で難航となり、以降の連絡船は引き返したり、欠航したりしました。

青函連絡船・洞爺丸
青函連絡船・洞爺丸

 洞爺丸は大型の連絡船で堪航性も優れていたため午後3時に出港の準備が進められていましたが、引き返してきた連絡船からの乗客や貨物の乗り換えに時間がかかり、また停電が重なって予定通り出港することができなくなりました。台風が来る前に本州側の陸奥湾内に入るためには早めに出港する必要がありましたが洞爺丸は欠航とはならず、出港見合わせになりました。

 16時に台風は17時頃に渡島半島を通り夜間に北海道を通過するとの台風情報が発表されました。そして17時頃には風が弱まり晴れ間が見えるようになり台風の目に入ったと判断されました。洞爺丸の船長は出港時間を18時30分と決めました。18時頃から再び天候が悪化しましたが、洞爺丸は18時39分に函館港を出港しました。しかし、強風のため洞爺丸は防波堤外で両舷の錨を下ろし船首を風上に向けて姿勢を保ちながら海上で待機しました。

 通常はこの待機で波浪をやり過ごすことができますが、波が高く波長が洞爺丸の全長よりやや長かったため船尾の車両甲板に大量の海水が流入し始めました。十分な排水を行うことができず、22時過ぎには左舷および右舷の機械が停止し、操船が不能な状態に陥りました。船内では七重浜に座礁することが伝えられ、乗員・乗客に救命胴衣着用の指示が出されました。

 洞爺丸は右舷方向に傾きその傾斜は40度にまで達しました。そして海底に座礁し22時39分にSOSを発します。通常は座礁で船体が安定して沈没を免れることが多いのすが、洞爺丸の船体は不運にも海底の状況により左舷の下部が海面に出るほど傾斜し22時45分に転覆しました。この事故により乗客や乗組員など1,155名が死亡または行方不明となり救助されたのは159名でした。

 洞爺丸沈没事故は1912年のタイタニック号の沈没事故に次ぐ著名な船舶の海難事故として知られるようになりました。この事故によって青函トンネル建設の機運が高まりました。

【関連記事】

タイタニック号が氷山に衝突(1912年04月14日)

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海峡の鉄路 青函連絡船 110年の軌跡と記憶

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2021年9月 6日 (月)

ソ連戦闘機が函館空港に強行着陸(1976年9月6日)

 1976年9月6日午後1時11分、航空自衛隊奥尻レーダーサイトが高度6,000 mを速度800 km/hで西方から北海道に近づく識別不明機を捉えました。午後1時20分、航空自衛隊千歳基地からF-4EJファントム2機がスクランブル発進しました。

 識別不明機は高度を下げながらさらに北海道に近づいて来たため奥尻レーダーサイトが無線で警告しましたが、午後1時22分に北海道茂津田岬沖合いで領空に侵入しました。同期は進路を南方に向け、さらに高度を下げたためレーダーから機影が消えました。F-4EJファントムは午後1時25分に同機をレーダーで捉えたものの30秒ほどで見失いました。奥尻レーダーサイトはロシア語と英語で警告を続け、午後1時35分に再び機影を捕らえたもののすぐに見失いました。その後、奥尻レーダーサイトもF-4EJファントムも同機を捜索するものの発見することはできませんでした。

 その後、函館上空を旋回するジェット戦闘機が発見され、函館空港事務所が航空自衛隊に問い合わせを行いました。この連絡を受けて午後1時49分にF-4EJファントムが函館方面に向かいましたが、ジェット戦闘機が函館上空を3回旋回し午後1時57分に函館空港に強行着陸したため千歳空港へ引き返しました。ジェット戦闘機は着陸時にパラシュートを開きましたが、滑走路の中央あたりに着地したためオーバーランしました。空港で工事をしていた民間人が同機に近づくと、パイロットが銃を空に向けて威嚇発砲しました。

 午後2時過ぎに航空管制官の通報を受けた北海道警察が到着し、函館空港を完全封鎖しました。当初、警察と自衛隊のどちらが対応するか混乱があったようですが、領空侵犯は自衛隊の管轄だが国内の空港への着陸は警察が管轄する事件であるとして、自衛隊は警察に締め出され空港に入ることができなくなりました。

 北海道の西方からやって来た識別不明機はソビエト連邦(ソ連)のジェット戦闘機ミグ25で、パイロットはヴィクトル・イヴァーノヴィチ・ベレンコ中尉で米国への亡命を要望していることがわかりました。ソ連はベレンコ中尉の身柄とミグ25の引き渡しを要求しましたが、ベレンコ中尉は米国への亡命が認められ、ミグ25は自衛隊の百里基地に移送され日米共同の機体調査が行われることになりました。

函館空港に緊急着陸したMiG-25Pの同型機
函館空港に緊急着陸したMiG-25Pの同型機

 自衛隊はソ連が最高機密のミグ25を取り返しに来たり、破壊しに来きたりした場合に備えました。陸上自衛隊は函館駐屯地に戦車、歩兵部隊、高射砲を配置し、函館の防衛戦闘の準備をしていました。会場自衛隊も日本海側と太平洋側、そして函館付近に艦船を配備し警戒に当たりました。航空自衛隊はF-4EJによる哨戒飛行を24時間体制で行いました。実際にソ連軍が函館にやって来ることはありませんでした。

 ミグ25は1967年7月にモスクワで行われた航空ショーで初めてその姿を現しました。ミグ25の詳細は秘密のベールに包まれていましたが、最高速度はマッハ3を超え、航続距離の長い高性能な戦闘機と考えられました。当時、米国の主力戦闘機はF-4ファントムでミグ25に対抗できる戦闘機ではありませんでした。このため米国はF-15の開発に着手することになります。F-15が実戦配備されたのは1976年1月で、この事件のわずか8ヶ月前のことでした。

 日米の調査の結果、ミグ25は予想されていたほど高性能ではないことが判明しました。たとえば主翼や胴体には耐熱性の高いチタンが使われておらず、マッハ3を超える速度には耐えらず最高速度はマッハ2.83であることがわかりました。またエンジンには旧型のターボジェットエンジンが採用されており、機体が重たいため燃費が悪く、後続距離もF-15に劣ることがわかりました。電子機器には真空管が多用されており、従来の技術の信頼性を重視したもので先進的なものではありませんでした。高速で運動性が優れた戦闘機と考えられていたミグ25は領空の防衛を目的とした迎撃撃機であり、制空戦闘機ではないことがわかりました。つまりソ連や東側勢力が高性能戦闘機ミグ25で攻撃を仕掛けてくるという西側諸国の懸念が払拭されたのです。

 調査後、ミグ25はソ連に返還されましたが、ソ連は防空システムの情報が漏洩したと考えミグ25の搭載機材をすべて変更しました。同年米国が実戦配備したF-15は速度性能を抑えて運動性を重視した戦闘機でした。その後、戦闘機の基本性能は超音速より亜音速での戦闘能力が重視されるようになり、最高速度の向上は求められなくなりました。そのためミグ25は現在においても世界トップクラスの超高速戦闘機です。

 さて、ミグ25によってあっさりと領空侵犯され、函館空港に強制着陸を許してしまった日本は防空の脆弱性が露呈する形になりました。もし、ベレンコ中尉の目的が亡命ではなく攻撃だったとしたら、たいへんな被害が出ていたことは間違いありません。日本はレーダー網を見直し、また、これをきっかけに早期警戒機E-2Cを導入しました。

 自分は当時中学生で北海道の小樽市に住んでいましたが函館市に引っ越すことが決まっていました。とんでもない事件が起きたということはわかりましたが、プラモデルが趣味の友人とミグ25の話で盛り上がったように記憶しています。飛行機のプラモデルといえばハセガワが有名ですが、この事件の前にミグ25のプラモデルが販売されていました。このプラモデルはずいぶん売れ、ハセガワが飛行機のプラモデルの老舗となりました。

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