ベートーヴェン亡くなる|楽聖忌(1827年3月26日)
1827年3月26日、ドイツの作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンがウィーンの自宅で亡くなりました。多くの交響曲を作曲したベートーヴェンは音楽史上において重要な作曲家の1人であり日本では「楽聖」とも呼ばれます。この偉大な作曲家の忌日を記念する日が「楽聖忌」(がくせいき)でベートーヴェンの作品を振り返りその功績が讃えられます。
ベートーヴェンは1770年12月16日頃に神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンで生まれました。父親は宮廷歌手で幼い頃からベートーヴェンに対して音楽を厳しく教え込みました。スパルタ教育とも言える厳しい父親の指導によりベートーヴェンの音楽の能力は育まれ、早くから才能が注目さえるようになりました。1782年、11歳のときドイツのオペラ作曲家・オルガン奏者のクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事しました。、1792年、オーストリアの作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドンはベートーヴェンの才能を認め弟子入りを許可しウィーンに呼び寄せました。ウィーンに移住したベートーヴェンはボンに戻ることはありませんでした。
ベートーヴェンはウィーンでピアノの即興演奏者として有名になりました。1796年には同世代の音楽家の中で最も評価の高い作曲家として名声をあげました。ベートーヴェンは20代後半から耳が悪くなりました。40代で聴力を完全に失った後も精力的に作曲活動を続け交響曲、ピアノソナタ、弦楽四重奏など、多くのジャンルで傑作を生み出しました。輝かしい音楽活動の裏では持病の神経性の腹痛や下痢に悩まされ、家庭環境で精神的に病んでいた甥のカール・ヴァン・ベートーヴェンの後見人として苦労しました。
カールは叔父のベートーヴェンと暮らしていましたが、ベートーヴェンは1826年12月肺炎と黄疸を併発し病床に伏すようになりました。1827年3月23日には死期を悟り遺書をしたため「諸君、拍手したまえ。喜劇は終ったのだ」という言葉を残しました。遺書には自身の財産を全てカールに委ねると記されていました。カールが従軍中の同年3月26日に、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは享年58(満56歳没)でこの世を去りました。病床で作曲してい第10番目となる交響曲は未完となりました。
同年3月29日に執り行われた葬儀には約2万人もの人々が参列しベートーヴェンの死を哀しみました。一方でベートーヴェンから作品を献呈された貴族たちは誰も出席しなかったと伝えられています。
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