童謡「赤い靴」の女の子が連れて行かれたところは?
1)赤い靴 履いてた 女の子
異人さんに 連れられて 行っちゃった
2)横浜の 埠頭から 汽船に乗って
異人さんに 連れられて 行っちゃった
3)今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
4)赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢うたび 考える
童謡「赤い靴」は大正11年(1922年)に野口雨情作詞・本居長世作曲で発表されました。「赤い靴」の作詞については諸説ありますが、野口雨情が実話をもとに作詞したという説があります。
次の写真は北海道函館市末広町23に設置されている童謡「赤い靴」の少女像「きみちゃんの像」と石碑です。
赤い靴の少女像「きみちゃんの像」は金森赤レンガ倉庫の近くにあります。
Google Map 北海道函館市末広町23 赤い靴の少女像「きみちゃんの像」
明治40年(1907年)、野口雨情は札幌の北鳴新聞社で働いていたときに鈴木志郎と妻の岩崎かよと知り合いました。この岩崎かよの娘きみが赤い靴の女の子のモデルとされています。
岩崎かよは山梨県の紡績工場で働いていましたが子どもを宿したため単身で故郷の静岡県に戻りきみを生みました。明治36年(1903年)に北海道に渡り鈴木志郎らと留寿都の平民社農場に入植することになりましたが、幼い娘を連れて行くことは困難と考えきみを養女に出しました。かよと志郎は明治39年(1906年)に結婚しています。
きみを養女に迎えたのが函館に在住していたアメリカ人宣教師のヒュエット夫妻でした。やがてヒュエット夫妻は本国に戻ることになりましたが、きみは結核にかかり渡米することができず東京の麻布の鳥居坂にあった鳥居坂教会の孤児院「永坂孤女院」に預けらました。かよはきみがヒュエット夫妻と一緒に渡米したと思い込んでいたため、きみは母かよと会うこともできず9歳で他界しました。きみの青山墓地に埋葬されました。墓にはきみの戸籍上の名前である佐野きみが刻まれています。
かよは鈴木志郎と結婚後に札幌に移住しましたが隣に住んでいた野口雨情夫妻と懇意になりました。野口雨情はかよからきみの話を聞いて大正10年(1921年)に「赤い靴」を作詞したとされています。「赤い靴」は児童雑誌「小学女生」で発表され、大正11年(1922年)に本居長世が曲をつけて童謡となりました。
「赤い靴」の歌詞は4番までですが昭和53年(1978年)に発見された草稿には5番が記されていました。 「赤い靴」の歌詞はきみの死を知らないかよの話から作詞されていますから、きみは渡米したことになっています。
5)生まれた 日本が 恋しくば
青い海眺めて ゐるんだらう
異人さんに たのんで 帰って来
さて上述が「赤い靴」の歌詞の定説とされていますが、この話は北海道テレビ記者の菊池寛の調査によるものです。菊池は昭和48年(1973年)にきみの異父妹の岡そのが新聞に投書した「私の姉は赤い靴の女の子」の記事を見て「赤い靴」の調査を開始しました。菊池の調査に基づいて昭和53年(1978年)に北海道放送で「ドキュメント・赤い靴はいてた女の子」が放送されました。昭和54年(1979年)に発表した小説「赤い靴はいてた女の子」(現代評論社刊)を発表し、この小説の記述が定説になりました。
この定説には反論もあり「赤い靴」の物語は真実ではなく捏造だったという指摘もあります。きみは北海道には行っていない、ヒュエット夫妻はきみを養女にしていない、きみを引き取った佐野がかよを安心させるために嘘をついたなどの説があります。しかし、岡そのの投書やきみの墓は青山霊園の鳥居坂教会の墓地に残されています。この物語の下地になった何らかの事実があったことは間違いないと思います。
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