カテゴリー「音楽」の114件の記事

2021年8月31日 (火)

ラデツキー行進曲の初演(1848年8月31日)

 ラデツキー行進曲は「ワルツの王」「ワルツの父」と呼ばれたオーストリアのヨハン・シュトラウス1世が作曲した行進曲です。ヨハンの最高傑作と言われ、たいへんに人気のある楽曲です。

 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートでは恒例のアンコールの最後の曲として演奏され、オーケストラの演奏に観客の拍手が加わって会場が一体化して盛り上がります。テレビやインターネットなどで見ることもできますので、クラシックをあまり聞かない人でも耳にしたことがあるのではないかと思います。

 ワルツの作曲で有名だったヨハンが行進曲を作曲することになったのは1848年のフランス革命(2月革命)が関係しています。この革命で国王ルイ・フィリップ1世が退位することになり、これを機会に革命運動がヨーロッパ中に広がり、オーストリアにも波及しました。

 この頃、ヨハン・シュトラウス1世はオーストリア皇帝フェルディナント1世に自らが提案した称号の宮廷舞踏会音楽監督を務めていましたが、オーストリア宰相クレメンス・フォン・メッテルニヒの自由主義を抑圧する政治に反対の姿勢をとっていました。そのような中で、ヨハンは自由主義を支援する「学生軍団行進曲」や「自由行進曲」など行進曲の作曲を手がけるようになりました。

 革命運動は勢いを増していきましたが、やがて君主制の打倒を主張する勢力が中心となりました。多くの人々は自由主義的な政治を望んでいましたが、君主を倒すことまでは考えていませんでした。そして、革命運動の内容を根底から覆す事件が起きました。労働者たちが陸軍省に押し寄せて、陸軍大臣テオドール・ラトゥールを殺害し吊るし首にしたのです。これを機会に自由主義を政府に求めていた多くの人々が政府側につくことになりました。そして、ヨハンも多くの人々と同様に政府側を支援することになりました。

 革命運動はオーストリア領の北イタリアにも波及し、激しい闘争が展開されていました。これを1848年7月に鎮圧したのがオーストリアのヨーゼフ・ラデツキー将軍です。同年8月31日にこの戦いの勝利の感謝祭が行われることになり、ヨハンは感謝祭のための楽曲の制作を依頼されました。ヨハンは2時間ほどでラデツキー行進曲を作りあが1948年8月31日に披露されました。

ヨハン・シュトラウス1世(左)とヨーゼフ・ラデスキー将軍(右)
ヨハン・シュトラウス1世(左)とヨーゼフ・ラデスキー将軍(右)

 ラデツキー行進曲は政府軍の士気を大いに高め、その後の戦いでも勝利をもたらしました。ヨハンは君主制を支持者とされ、とくに革命運動を進めていた人々からは裏切り者と呼ばれるようになりました。しかし、多くの人々はヨハンがウィーンを革命から救ったと評価しました。ラデツキー行進曲はオーストリアの愛国の曲とされ、ワルツ王ヨハンの代表曲となったのです。

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【記事訂正】

・オーストリアとするべきところがオーストラリアとなっていたため修正しました。

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2021年8月20日 (金)

コロナ禍でみんな頑張れ!TIF de Debut2021開催中

 新アイドルグループ結成オーディションの「TIF de Debut2021」が開催中です。

 TOKYO IDOL FESTIVAL(TIF)は2010年に始まった日本で最大規模の女性アイドルグループを中心とした音楽イベントで、TIF de Debut2021はそのTIFのステージでデビューが決まっている新しいアイドルグルーブのオーディションです。今回のオーディションで結成されるグループのサウンドプロデューサーは「HoneyWorks」です。

 現在のところ4次審査のSHOWROOM審査(2021/07/27-08/29)が行われています。知り合いから教えてもらってSHOWROOMのアプリでライブを見てみたのですが、どのライブも大変な盛り上がりようで、たくさんのサポーターがお気に入りの子を応援しています。この中から5〜7名が選ばれて新アイドルグループが結成となるようです。競争も激しそうです。

 自分が最初に見たライブは「エントリーNo.490あさひりい子」さん(twitter @asahi_riiko)。実はアプリの使い方がわからかったところ、いろいろ丁寧に教えてくれました。

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 4次審査が終了すると次は合宿審査(2021/09/03〜05)になるようです。あさひりい子さんの現在の順位は16位ぐらいで厳し状況のようですが最後まで諦めずに頑張りたいとのことでした。

 コロナ禍でいろいろと活動制限があると思いますが、参加者全員が目標に向かって歩んでいます。

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2021年8月 9日 (月)

白鳥の湖の日本初演(1946年8月9日)

 「白鳥の湖」はロシアのピョートル・チャイコフスキーが作曲したバレエ音楽です。1875年の春にボリショイ劇場から作曲を依頼され、翌年1876年の春に完成させました。初演は1877年3月4日にボリショイ劇場で行われましたが、1883年1月の41回目の上演を最後に打ち切られました。その後、しばらくの間は本格的な上演が行われることはありませんでした(ココログ 夜明け前「バレエ組曲「白鳥の湖」の初演(1877年3月4日 )」)。

 「白鳥の湖」が再び脚光を浴びるようになったのは1895年にサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で行われた蘇演でした。この「白鳥の湖」はプティパ=イワノフ版と呼ばれ、振付師のマリウス・プティパとレフ・イワノフが台本と振り付けを手がけたものです。この蘇演で台本、振付、音楽が大幅に改訂されました。その後も改訂版が創作されていますが、現在上演されている「白鳥の湖」の多くはプティパ=イワノフ版が元になっています。

 「白鳥の湖」は蘇演から多くの国で上演されるようになりましたが、日本で全幕が初演されたのはチャイコフスキーが作曲を完成してから70年後の1946年のことでした。日本におけるバレエの初演は帝国劇場の完成がきっかけとなりました。1911年に帝国劇場のオープンを記念に「フラワー・バレー(フラワー・ダンス)」が公演されました。翌1912年にロンドン劇場で活躍していたイタリア人舞踏家ジョヴァンニ・ヴィットリオ・ローシーが来日し、日本でバレエの指導が行われるようになりました。

 ロシアはバレエの本場ですが日露戦争(1904年〜1905年)の影響で日本に初めてロシアのバレエダンサーがやってきたのは1916年のことでした。マリンスキー劇場のダンサー3人が帝国劇場で上演を行いました。この後、ロシアではロシア革命が起こり、ロシアのバレエにも影響が及びます。1919年7月にロシアのバレリーナ、エリアナ・パヴロワはロシアから逃れて日本にやってきました。1927年に鎌倉に日本初のバレエ学校を開校し、多くの日本人にバレエを指導しました。1922年、ロシアを亡命しロンドンで活躍していたバレリーナ、アンナ・パヴロワが来日し、各地でバレエの公演を行いました。このときアンナ・パヴロワが演じた「瀕死の白鳥」が大人気となり、芥川龍之介も「僕は兎に角美しいものをみた」と絶賛しました。こうして本場ロシアのバレエが日本で広まっていったのです。

 第二次世界大戦が始まると多くの文化・芸術活動が影響を受けましたがバレエも例外ではなく活動ができなくなりました。戦争が終わるとダンサーたちバレエ界に舞い戻り、日本のバレエの活動が再開しました。このとき、服部・島田バレイ団の島田廣が日本のバレエ団体が協力し全幕上演を行うべきと考えました。島田の相談を受けた舞踊評論家の蘆原英了が声をかけ、服部・島田バレイ団、東勇作バレエ団、貝谷八百子バレエ団が合同で全幕公演を行うことになりました。

 1946年4月、蘆原を顧問として東京バレエ団が結成され「白鳥の湖」の全幕上演することが決まりました。こととき蘆原は上海で活躍していた小牧正英を紹介します。小牧正英は少年時代にアンナ・パヴロワの公演を見てバレエダンサーになることを決意し、中国ハルビンのバレエ学校に留学し、その後実力を認められハルビンや上海で活躍していたバレエダンサーでした。経験豊富な小牧が「白鳥の湖」の演出と振付を担当することになりました。

 戦後の混乱の中で「白鳥の湖」の全幕上演を行うことはたいへんだったようです。東宝がバレエ団のスポンサーとなりましたが、男性のダンサーが島田、東、小牧を加えて6人しか集まりませんでした。そのような状況ですから女性ダンサーが男性のパートも踊りました。また、男性エキストラには大学の演劇部の学生たちを出演させました。この中にはフランキー堺もいたようです。また、タイツやバレエシューズも不足し、男性は水泳パンツ、女性もタイツの代わりに男性用ももひきを使うこともあったようです。トウシューズも練習用のズック製バレエ靴を利用するダンサーもいたそうです。

 そして1946年8月9日、帝国劇場で東京バレエ団第1回公演「白鳥の湖」の初演が実現したのです。当初、この公演は8月25日までの予定でしたが、大好評となり8月30日まで延長となり21日間に渡って行われました。

東京バレエ団の白鳥の湖(1946年)
東京バレエ団の白鳥の湖(1946年)
ジークフリート役の東勇作とオデット役の松尾暁子

 東京バレエ団の「白鳥の湖」は大成功しましたが、元になったそれぞれのバレエ団体の関係が悪化しました。やがて東京バレエ団の「白鳥の湖」は実態的には小牧正英が1947年に結成した小牧バレエ団の公演となり、東京バレエ団は1950年に解散しました。

 ところで1967年に放映された円谷プロダクション「ウルトラセブン」でウルトラ警備隊のキリヤマ隊長を演じた中山昭二さんが元々ダンサーであったことはファンの間では有名な話ですが、小牧バレエ団のメンバーだったそうです。東京バレエ団としての「白鳥の湖」の舞台にも立っていたのかもしれません。

  

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2021年7月12日 (月)

ローリング・ストーンズ記念日(1962年7月12日)

 1962年7月12日、イギリスのロック・バンドのローリング・ストーンズがロンドンのマーキージャズクラブでデビューしました。

 ローリング・ストーンズは1962年4月に結成され、 7月のデビューのメンバーは、ボーカルのミック・ジャガー、ギタリストのブライアン・ジョーンズとキース・リチャード、ピアニストのイアン・スチュワート、ベイシストのディック・テイラー、ドラマーのミック・エイヴォリーだったようです。ドラマーはトニー・チャップマンという説もあるのですが、キース・リチャードが2010年にミック・エイヴォリー(元キンクス)だったと語っています。

ストーンズのファンサイトの「 It’s Only Rock and Roll によると、1962年のストーンズが演奏したのは次の曲だったとのことです。

  1. Kansas City
  2. Baby What’s Wrong
  3. Confessin’ the Blues
  4. Bright Lights, Big City
  5. Dust My Broom
  6. Down the Road Apiece
  7. I’m a Love You
  8. Bad Boy
  9. I Ain’t Got You
  10. Hush-Hush
  11. Ride ‘Em on Down
  12. Back in the U.S.A.
  13. Kind of Lonesome
  14. Blues Before Sunrise
  15. Big Boss Man
  16. Don’t Stay Out All Night
  17. Tell Me You Love Me
  18. Happy Home

最初の頃はチャック・ベリーのカバー曲なども演奏していました。

The Rolling Stones Johnny B Goode 1962

 次の写真はローリング・ストーンズ1965年の3回目の北米ツアーの広告です。

ローリング・ストーンズ1965年北米ツアーの広告
ローリング・ストーンズ1965年北米ツアーの広告

 下記のアルバムは1981年の北米ツァーを収めたスティル・ライフというアルバムです。ステージ録音とライブではここまで盛り上がり方が違うのかということを実感できます。

  1. A列車で行こう (イントロ)
  2. アンダー・マイ・サム
  3. 夜をぶっとばせ
  4. シャッタード
  5. トゥエンティ・フライト・ロック
  6. ゴーイング・トゥ・ア・ゴー・ゴー
  7. レット・ミー・ゴー
  8. タイム・イズ・オン・マイ・サイド
  9. ジャスト・マイ・イマジネーション
  10. スタート・ミー・アップ
  11. サティスファクション
  12. 星条旗 (アメリカ国歌) (アウトロ)

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2021年6月29日 (火)

ビートルズ初来日(1966年6月29日)

 ビートルズの日本公演は1966年6月30日から7月2日まで武道館で行われました。ビートルズは日本公演の一週間前にこの年のツアーを開始し、ドイツのミュンヘン、エッセン、ハンブルグの3都市で公演を行いました。その後、日本航空JL412便(ダグラスDC-8-53型機JA8008、松島号)でロンドン、アンカレッジ経由で羽田空港に向かいました。しかしながら、台風の影響で到着が遅れ、ビートルズが羽田に到着したのは6月29日午前3時39分でした。当初の予定よりおよそ11時間遅れたということですから、本来であれば6月28日の夕方に到着していたはずです。

ビートルズ
ビートルズ

 到着が午前4時だったにも関わらず、羽田空港には多くのファンや報道陣が駆けつけました。多くの人が見守る中、ハッピを来た4人がタラップを降りてきました。キャデラックに乗り込んだビートルズはパトカーに先導されて東京ヒルトンホテルに向かい、同日の午後に記者会見を行いました。

 日本公演は6月30日は夜の部、7月1日と2日は昼の部と夜の部と合計5回行われました。俳優の岡田真澄さんの兄E.H.エリックが司会、尾藤イサオ、内田裕也、望月浩、桜井五郎、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズ、ザ・ドリフターズが前座を務め、ビートルズの日本公演を歓待しました。ビートルズもこの歓迎には感激していたそうです。

ウェルカム・ビートルズ ~ のっぽのサリー  内田裕也、ドリフターズ他

 コンサートは厳重の警備の中で行われ、暴動や事故などは生じませんでした。他の国でのコンサートに比べて日本の観客は静かにビートルズの演奏を聴き、アリーナにも観客席がなかったため、ビートルズは自分たちの演奏がよく聞こえたそうです。このときビートルズは自分たちの演奏が音が合っていなくて雑になっていることに気がつき、演奏の改善を行いました。

 ビートルズの日本公演の観客動員数は約5万人で、日本武道館で初めて開催された盛大なロック・コンサートとなりました。公演を終えた翌日7月3日午前10時44分、大勢の見送りに見守れる中でビートルズは羽田空港から日本を後にしました。

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2021年5月20日 (木)

ビル・ヘイリー「ロック・アラウンド・ザ・クロック」発売(1954年5月15日)

 ロック・アラウンド・ザ・クロックを初めて聞いたのはアメリカのテレビ・ドラマ「Happy Days」のオープニングを見たときです。なんとノリの良い曲だったことでしょう。

 このドラマは1950年代の高校生たちの青春コメディドラマで、米国では1974年から1984年まで放送されました。日本で初めて放送されたのは1978年です。当時、自分は高校生でロックンロールやハードロックを聞いていましたが、ちょうどこの頃ビートルズがデビューする前の1950年代のロカビリーが再燃し始めていたころでした。当時は矢沢永吉さんのキャロルや宇崎竜童さんのダウン・タウン・ブギウギ・バンドなどの影響もあり、リーゼントやロックンロールが流行っていましたので、過去への回帰もあったのかもしれません。 

 さて、話をもとに戻しましょう。ロック・アラウンド・ザ・クロックは1952年にアメリカの作曲家マックス・C・フリードマンとジェームズ・E・マイヤーズが共同で作曲した楽曲です。実際には2人のどちらが作曲したのかはよくわかっていません。完成した曲はビル・ヘイリーに提供されましたが、ビルが所属していたエセックス・レコード社とマイヤーズの関係がこじれていたため、レコーディングは見送られました。

 ビルの友人だったソニー・デイが1954年3月20日にアーケイド・レコード社から「ソニー・デイ・アンド・ヒズ・ナイツ」の名でこの曲をリリースしました。続いて1954年にビルのエセックス・レコード社からデッカレコード社への移籍をきっかけに、同年5月15日、ビル・ヘイリーのシングルレコード「ロック・アラウンド・ザ・クロック」がリリースされました。

ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ(1954年)
ビル・ヘイリー&ヒズ・コメッツ(1954年)

 ソニー・デイとビル・ヘイリーの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は競作に近いもので、どちらがオリジナルでどちらカヴァーという関係にはありませんでした。「競作」とは一つの作品を複数の歌手に歌わせる曲のことです。

 ビルの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」は映画「暴力教室」の主題歌として起用され、全米チャートで8週連続1位の大ヒットとなりました。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が採用されたのは、主演で教師役のグレン・フォードの息子ピーター・フォードがレコードを持っていて、非行少年の雰囲気に合う主題歌を探していた映画監督リチャード・ブルックスにこの曲を紹介したからと言われてます。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」以前にもロックンロールは存在していましたが、この曲の大成功が世界的なロックンロール流行のきっかけとなりました。

 Rock Around The Clock - Happy Days Theme

Rock Around the Clock

Bill Haley & His Comets

 

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2021年5月 8日 (土)

ビートルズ最後のアルバム「Let It Be」発売(1970年5月8日)

 「レット・イット・ビー(Let It Be)」は1970年5月8日に発売されたビートルズの13作目アルバムです。

「レット・イット・ビー」は12作目の「アビイ・ロード」より前に行なわれた「ゲット・バック・セッション」を元に制作されました。そのため、「アビイ・ロード」がビートルズの最終アルバムと考えられていましたが、1990年代に「レット・イット・ビー」の収録が「アビイ・ロード」発売以降も行われていたことを示す資料が見つかり、「レット・イット・ビー」が名実ともに最終アルバムであることが確認されました。

 ビートルズがレコーディングと映画撮影のために「ゲット・バック・セッション」を開始したのは1969年1月2日です。この頃、すでにビートルズの人間関係は不安定になっていましたが、当初はポールの原点に帰ろう(Get back)というコンセプトでうまく進んでいるように見えました。

 しかし、まもなくポールとジョージ・ハリスンが対立し、さらにジョージとジョン・レノンの対立が起こり、ジョージが参加を拒否しました。その後、話し合いにより1月21日にジョージが復帰し、ジョージの提案でキーボード奏者のビリー・プレストンが参加することになりました。1月30日にはビートルズ最後のライブ「ルーフトップ・コンサート」が行われました。

 このような状況の中で「ゲット・バック・セッション」は頓挫し、ビートルズは2月22日から新しい楽曲の録音を開始、4月11日に「ゲット・バック・セッション」の成果である「ゲット・バック」が発売されるものの、7月1日から「アビイ・ロード」の制作を開始しました。

 その一方で「ゲット・バック・セッション」をアルバムにまとめる作業も進められ、5月28日にはマスターテープができあがっていました。12月になると、映画のサウンドトラックとして作り直すことになり、追加の収録も行われました。1970年1月5日に新しいマスターテープができあがりましたが、これもビートルズの判断でお蔵入りとなりました。

 「ゲット・バック・セッション」のテープを「レット・イット・ビー」にまとめたのはアメリカ人プロデューサーのフィル・スペクターです。フィルは3月23日からテープの編集を依頼され、短期間でアルバムにまとめあげました。そして、1970年5月8日、ついに「レット・イット・ビー」が発売開始となりました。

 レノンとハリソンはフィルの仕事ぶりを高く評価しましたが、ポールは「ロング・アンド・ワインディング・ロード」の出来栄えに不満を示し、アルバム発売を中止することまでを考えましたが実行には移しませんでした。

 発売後「レット・イット・ビー」は全英アルバムチャートで3週連続1位を獲得しました。1970年5月18日にはアメリカで発売となり、全世界で1,000万枚以上の売上となりました。

 ビートルズは1970年4月10日にポール・マッカートニーが脱退を表明したことにより事実上の解散となりましたので「レットイットビー」はビートルズ解散後に発売されたアルバムになりました。

 

 

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2021年5月 7日 (金)

ベートーヴェン「交響曲第9番」の初演(1824年5月7日)

 交響曲第9番 ニ短調 作品125はベートーヴェンが1824年に発表した交響曲です。独唱と合唱を伴うことから「合唱」や「合唱付き」とも呼ばれますが、日本では「第九」として親しまれ、年末に演奏会が行われるのが恒例となっています。

 第四楽章の「歓喜の歌」が有名ですが、歌詞はドイツの詩人フリードリヒ・フォン・シラー「歓喜に寄す」が採用されています。ベートーヴェンはシラーの「歓喜に寄す」の詩が大のお気に入りで、22歳の時にこの詩に曲をつけたいと考えるようになりました。交響曲第1番の作曲に手掛けた1799年より7年も遡ること1792年のことでした。当時から「歓喜の歌」の構想を抱いていたと考えられますが、交響曲に仕上げることになるとは本人も考えていなかったようです。

 1817年にロンドンのフィルハーモニック協会から交響曲の作曲の依頼があり、ベートーヴェンは交響曲第9番の作曲を本格的に始めました。当初は2曲の交響曲を作曲する予定でしたが、最終的には構想していた2つの交響曲を統合することにしました。有名な「歓喜の歌」のメロディは1822年頃に考えられ、1824年に全体ができあがり、数回の改訂を経て同年5月7日にウィーンのケルントナートーア劇場で初演されました。

ベートーヴェンとケルントナートーア劇場
ベートーヴェンとケルントナートーア劇場

 この初演にはベートーヴェン本人も立ち合いました。ベートーヴェンはすでに聴覚を失っていましたが、指揮台に立ってメトロノームでテンポを指示し、その後ろでミヒャエル・ウムラウフが実際の指揮を行いました。演奏はリハーサル不足で出来栄えは良くなかったようですが、観客は歓喜に満ちた拍手喝采しました。

 ベートーヴェン本人は初演は失敗したと考え、演奏後に観客の方を振り返ることができなかったようです。歌手のカロリーネ・ウンガーがベートーヴェンを聴衆の方を振り向かせました。ベートーヴェンは観客に深々と一礼して降壇したそうです。

 その後、ベートーヴェンは第十交響曲の作曲の構想を開始しましたが、ベートーヴェンの作曲活動は交響曲から弦楽四重奏曲に移っていきました。ベートーヴェンは1827年3月26日に57歳で亡くなり、第十交響曲は断片的なアイデアが残るのみで楽章はありませんでした。かくして第9番がベートーヴェンの最後の交響曲となったのです。


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2021年4月18日 (日)

YAMAHAのレトロオルガンS-20型

 先日、中古ショップの店内を歩いていたらとても懐かしいものが目に入ってきました。昔、実家にあったYAMAHAの電子オルガンと同型のものです。自分は6才ぐらいまでオルガンを習っていたのでこのYAMAHAの電子オルガンを使っていたのですが、どんなモデルだったのかはうる覚えでした。Googleで「ヤマハ レトロ オルガン」で画像検索してみたところ、このオルガンはYAMAHA S-20型ということがわかりました。 

 鍵盤の右側に電源スイッチと電源ランプ、左側には音量か音程の調整レバーがあり、写真では見にくいですが右下にペダルがあります。

YAMAHA オルガンS-20型
YAMAHA 電子オルガン S-20型

 オルガンを習うのは6才やめてしまったので現在は弾くことができませんが、当時は練習曲の「ちょうちょ」や「チューリップ」は両手で弾くことができました。このオルガンを弾いてよく遊んだものです。

 小学校6年の時の引っ越しの際、このオルガンは近所付き合いをしていた低学年の子がいる家に譲られることになり、このオルガンと別れ別れになる門出となったのです。

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2021年4月11日 (日)

マリンバ奏者 藤澤仁奈さんにサイン頂きました!

 先日、こちらで紹介させて頂いたマリンバ奏者の藤澤仁奈さんの「リサイタル」(ココログ 夜明け前 藤澤仁奈さん(マリンバ奏者 )のファーストアルバム「リサイタル」)を購入しました。知人を通じてサインを頂くことができました。ありがとうございます!

 サインの右下にはマリンバを奏でるのに欠かせないマレットが描かれています。マリンバの深みのある音色に加えて奏者の繊細な音への思い入れがマレットから鍵盤に伝わり一音一音に現れており、さまざまな音色に耳を澄ませて聞くことができます。

「リサイタル」(マリンバ奏者 藤澤仁奈)
「リサイタル」(マリンバ奏者 藤澤仁奈) 

 収録曲は下記の通りです。

「リサイタル」(マリンバ奏者 藤澤仁奈)

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