カテゴリー「経済・政治・国際」の84件の記事

2025年7月 3日 (木)

初代「通天閣」の建設(1912年7月3日)

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 明治28年(1895年)、平安京遷都1100年記念行事として京都において第4回内国勧業博覧会が開催された際に、内国勧業博覧会は東京、京都、大阪において輪番で開催することが決まりました。このことから第5回内国勧業博覧会は大阪で開催されることになっていましたが、東京で開催する機運が高まりました。

 これに対し大阪商業会議所会頭の土居通夫は協定違反であり大阪の信用が失墜させると激高し資金を集めて大阪誘致運動を行いました。その結果、明治36年(1903年)に第5回内国勧業博覧会の大阪開催が決まりました。土居は内国勧業博覧会を成功させるためパリへ渡り万国博覧会の詳細な仕組みを調査、第5回内国勧業博覧会を成功に導きました。

土居通夫
土居通夫

 第5回内国勧業博覧会が閉会すると土居は博覧会跡地に娯楽施設の建設を構想し現在の新世界に「ルナパーク」を開設しました。そしてルナパークにパリのエッフェル塔を模した塔を建設することを構想しました。多くの関係者は塔の建設に反対しましたが、土居は周囲の反対を押し切って塔の計画を進めました。塔はパリの凱旋門の上にエッフェル塔の上半分をのせたようなデザインで設計は設楽貞雄が手がけました。ルナパーク開発会社で土居が社長を務めた大阪土地建物が建設を行いました。建設費用は約9万7000円とされています。

明治45年(1912年)7月3日、塔はルナパークとともに完成しました。塔の名前は儒学者の藤沢南岳によって「通天閣」と命名されました。「通」は土居通夫の「通」とされています。当初の入場料は10銭、高さは300尺(約91メートル)と宣伝されましたが実際は約75メートルでした。

初代「通天閣」
初代「通天閣」

 通天閣は、東京浅草の「凌雲閣」、神戸新開地の「神戸タワー」と共に「日本三大望楼」と称され当時の日本を代表するランドマークとなりました。この初代「通天閣」は昭和18年(1943年)1月の火災で大破しました。その後、戦時下の鉄材供出により解体・撤去されました。現在の「通天閣」は昭和31年(1956年)に再建された2代目「通天閣」です。

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エレベーターの日と浅草十二階(凌雲閣)(1979/11/10)

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2025年6月23日 (月)

自衛隊機乗り逃げ事件(昭和48年 1973年6月23日)|自衛隊青春日記(小栗 新之助 著)

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 昭和48年(1973年)6月23日午後9時頃、栃木県宇都宮市の陸上自衛隊北宇都宮駐屯地の宇都宮飛行場(RJTU)から富士重工製のLM-1連絡機が飛び立ちました。同機は南方に向かって低空飛行で飛んで行きましたがレーダーでは捕捉できませんでした。管制塔閉鎖後の出来事であったことから基地内はこの不測の事態で大騒ぎになりました。

富士重工製のLM-1連絡機
富士重工製のLM-1連絡機(同型機)
Description: English: Fuji LM-1 Nikko in Japanese JASDF markings at Lakeland Florida
Date:22 April 2009 Author:RuthAS

 部隊の調査によって同基地内の航空学校宇都宮分校に所属する20歳の三等陸曹の整備員が行方不明になっていることがわかりました。この三等陸曹は事件の直前には基地内の隊員クラブで飲酒をしていたこともわかりました。三等陸曹は操縦訓練を受けたことはなく整備士として副操縦席にわずかな時間の搭乗経験があったのみでした。離陸後に基地から無線の呼びかけにも応答せずそのまま行方不明となりました。

 自衛隊は1ヶ月にわたる捜索を続けましたがLM-1の機体も三等陸曹も発見されず燃料切れで墜落したものと判断されました。防衛庁と自衛隊は三等陸曹が酒に酔って航空機を操縦したくなりLM-1を乗り逃げしたと断定し行方不明のまま懲戒免職とし、上司も管理責任で処分されています。

 この事件に関して 「自衛隊青春日記」(共栄書房)の著者の小栗新之助はこの三等陸曹が酔って1人で航空機を乗り逃げしたことに異論を唱えています。格納庫は緊急事態に備えるため施錠はされていなかったものの扉の開閉や航空機の出し入れを1人できるものではないと指摘しています。また事件の少し前に三等陸曹が基地内で革ジャンの男2人と話しているのを目撃していることを証言しています。このようなことから三等陸曹が酒に酔ってLM-1を衝動的に乗り逃げしたのではなく、背景に第三国が絡んでいて日本から亡命したのではないかという指摘もあります。事件から50年以上も経過していますが真相は謎のままです。

自衛隊青春日記

小栗 新之助 (著)

Photo_20250623235701
自衛隊青春日記

出版社 ‏ : ‎ 共栄書房 (2013/2/1)
発売日 ‏ : ‎ 2013/2/1
言語 ‏ : ‎ 日本語
単行本 ‏ : ‎ 163ページ
ISBN-10 ‏ : ‎ 4763410539
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4763410535

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2025年6月 2日 (月)

日本初のタブロイド新聞「東京曙新聞」の刊行(明治8年 1875年6月2日)

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 「東京曙新聞」は明治初期の自由民権派による政論新聞で日本で初めてのタブロイド新聞です。タブロイド新聞は通常の新聞より小さいサイズの新聞形式のことです。日本では普通の新聞のブランケット判(406×545 mm) の半分のサイズ(273×406 mm)をタブロイド判としています。

 「東京曙新聞」の前身は明治4年(1871年)に木戸孝允が創刊した「新聞雑誌」です。明治8年(1875年)1月2日に「新聞雑誌」は号数を継承し日刊紙「あけぼの」となりました。同年6月2日、「あけぼの」は号数を継承し「東京曙新聞」と改題されました。

 「東京曙新聞」は民権論や征韓論を主張し末広鉄腸や大井憲太郎らが在籍していました。編集長を務めた末広鉄腸は政府批判を繰り返し新聞紙条例により罰金2000円、自宅軟禁2カ月の刑罰を受けて一躍有名となりました。末広は同年10月に別の新聞社に移りました。

末広鉄腸
末広鉄腸

 末広の退職後、新しい編集長が社主と意見が折り合わず内紛が起こりました。これによって「東京曙新聞」は明治12年(1879年)9月30日発行第1792号で廃刊となりました。翌年10月1日に復刊しましたがこのとき号数がリセットされました。しかしながら、販売部数が伸びず明治15年(1882年)3月1日に「東洋新報」と改題するも状況は変わらず同年12月に終刊となりました。

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2025年5月 2日 (金)

郵便貯金が始まる(明治年8年 1875年5月2日)

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 郵便貯金はゆうちょ銀行の前身である日本郵政公社が運営していた貯金です。公社化以前は郵政大臣(総務大臣)が管轄する国の事業として運用されていました。現在はゆうちょ銀行の貯金として運用されています。

 日本の郵便事業は「日本近代郵便の父」と呼ばれる前島密によって導入されました。前島密は近代的な郵便制度の調査のためイギリスを訪問し同国の郵便制度について現地調査を行いました。このとき前島密はイギリスの郵便事業が郵便事業の他に為替や貯金の事業を行っていることを知り、日本の郵便制度にも為替と貯金の事業を組み入れることにしました。

日本近代郵便の父 前島密
日本近代郵便の父 前島密

 明治4年(1871年)3月1日、前島密の主導で東京大阪間で官営の郵便事業が開始されました。明治8年(1875年)1月に郵便為替の事業を開始しました。前島密は日本の経済発展のために郵便貯金の導入が必要であることを主張しましたが貯金業務の運転資金や運用上の技術的難易度から見送られました。その後、前島密の尽力によって明治8年(1875年)5月2日、東京と横浜で郵便貯金の取り扱いが始まりました。

 郵便事業と為替事業は急速に広まりましたが、郵便貯金はその必要姓が国民に理解されなかったことから貯金が集まりませんでした。前島密は公務員に郵便局へ貯金させるなど郵便貯金の拡大を図りましたが十分な成果を得ることはできませんでした。そこで前島密は貯蓄をすることよって老人や子どもを養うことができること多くの国民に知らしめるため小学校の教育に貯蓄の道徳性を取り入れるよう提案しました。このような前島密のアイデアと尽力によって国民の間で貯蓄の必要姓に対する認識が高まり郵便貯金にお金を預けるものが多くなりました。これによって多額な資金を集めることができましたが、郵便貯金の運用先が見つかりませんでした。

 明治18年(1885年)、大蔵省預金部が新設され郵便貯金の資金が預託されるようになると、資金の多くが国際として運用されるようになりました。その後、特殊銀行債や社会資本整備などにも使われるようになり、郵便貯金の国による資金運用は後の財政投融資の基礎となりました。

 郵便貯金は全国に存在する郵便局で利用できサービスの拡充を進めたことから国民の身近な金融機関となりました。多くの国民から支持された郵便貯金は世界最大の金融機関となりました。時は流れ民間企業による金融機関が台頭すると、政府が巨大金融機関を有し郵便貯金の資産が広く活用されていないことが批判されるようになり郵便貯金の民営化の声が高まるようになりました。

 平成15年(2003年)4月1日、日本郵政公社が設立されると郵便貯金は同公社が扱う事業となりました。平成19年(2007年)10月1日には日本郵政公社が分社化・民営化され、郵便貯金は日本郵政グループの子会社ゆうちょ銀行に引き継がれました。これによって明治4年(1871年)から約130年間に渡って運用された郵便貯金の歴史に幕が下ろされ単なる「貯金」となったのです。

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2025年4月17日 (木)

明治政府が長崎の浦上のキリシタンを流罪|浦上四番崩れ(慶応4年 1968年閏4月17日)

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 江戸幕府は徳川家康の頃からオランダ、清、朝鮮、琉球を除く異国との外交を制限し日本人の海外渡航を禁止しました。その原因となったスペインやポルトガルが広めたキリスト教を禁じ宣教師や信徒を徹底的に弾圧する政策をとりました。幕府はキリスト教宣教師や信徒を見つけると捕縛し仏教へ改宗させ拒否するものは処刑するという厳しい対応を行っていました。そのような状況の中、表向きはキリスト教から仏教に改宗した者たちが隠れキリシタンとなって秘密裏にキリスト教の信仰を守り続けていました。彼らはしばしば幕府に発見され弾圧を受けました。

 北九州地区は戦国時代の頃からキリシタン大名がキリスト教を擁護していたため多数のキリスト教徒信徒がいました。豊臣秀吉や徳川家康の時代になると彼らは弾圧されるようになり、それでもなお信仰を続けるものたちは隠れキリシタンとなりました。唯一開港されていた長崎はキリスト教と関係が深く多数の隠れキリシタンが暮らしていました。

 現在の長崎県長崎市の肥前国彼杵郡浦上村では江戸時代の中期から明治時代初期にかけて4度に渡りキリシタン弾圧が行われました。これを「裏紙崩れ」といいます。「崩れ」は検挙のことです。寛政2年(1790年)の天保13年(1842年)の浦上二番崩れにおいては隠れキリシタンの証拠が不十分などの理由から弾圧には至りませんでしたが安政3年(1856年)の浦上三番崩れでは実際に隠れキリシタンが捕縛・処刑されるなど徹底的な弾圧が行われました。これによって浦上の隠れキリシタンたちは壊滅状況になりましたが、それでもなを難を逃れたものたちがキリスト教の信仰を守り続けました。彼らは表向きは仏教徒であることを装いながら慈母観音像を聖母マリアに見立てて信仰の対象としこれを「マリア観音」と呼びました。

マリア観音像(慈母観音像)
マリア観音像(慈母観音像)

 元治元年(1864年)、日仏修好通商条約の締結により長崎のフランス人居留地にカトリック教会の大浦天主堂が建てられました。この洋風建築の天主堂は日本人の住民の間でも話題になり、多くのものが見物に訪れました。

大浦天主堂
大浦天主堂

 大浦天主堂の司祭ベルナール・プティジャン神父は訪れる日本人の中にキリスト教信仰者がいるのではないかと期待し天主堂の一般公開を続けました。元治2年(1865年)4月、プティジャン神父のもとに浦上村の住人が訪れました。彼らはプティジャン神父にキリスト教を信仰していること告げ本物のマリア像に祈りを捧げました。プティジャン神父は驚愕し本国に「信徒発見」の詳細を報告しました。その後も天主堂に見物を装って日本人信徒が訪れるようになり、プティジャン神父は彼らに対して秘密裏にミサを行うようになりました。やがてミサが常態化するとキリスト教信者と自ら名乗るものが現れるようになりました。

ベルナール・プティジャン
ベルナール・プティジャン

 

 慶応3年(1867年)、浦上村住民が仏式の葬儀を拒否する事件があり隠れキリシタンが存在することが明るみに出ました。長崎奉行は取り調べを行ったところ信徒代表の高木仙右衛門をはじめとする者たちがキリスト教の信仰を認めました。長崎奉行は対応に困り彼らを村に返し江戸幕府に顛末を報告しました。幕府は隠密に浦上村を調査させ同年6月13日に高木仙右衛門ら信徒68名を捕縛しました。信徒たちはいっさいの抵抗をせずひざまずいて両手を出し自ら捕縛されました。その後、彼らは厳しい拷問を受けました。これが「浦上四番崩れ」です。この事件を知った諸外国は直ちに江戸幕府に対して抗議を行い宗教弾圧を批判しました。同年8月24日にフランス公使レオン・ロッシュと徳川慶喜が大阪城で会談を行いましたが同年10月に大政奉還、12月には「王政復古の大号令」が発せられ江戸幕府は終焉しました。

 江戸幕府終焉後、明治政府は慶応4年(1868年)3月15日に民衆に対する禁止令「五榜の掲示」の高札を出しましたが第三番札に「切支丹・邪宗門の禁止は江戸幕府の統制を踏襲する」とありました。長崎裁判所総督の澤宣嘉と外国事務係の井上馨は浦上の信徒たちに改宗するよう説得しましたが彼らが応じないため政府に対して中心人物の処刑とその他信徒の流罪を提案しました。政府は諸外国からの抗議を鑑みて死罪は退けて同年閏4月17日に太政官達で信徒全員を流罪とすることを発表しました。信徒たちは流刑先で幕府時代よりも著しく厳しい拷問を受けました。

 諸外国の公使は明治政府の対応を激しく非難し顛末を本国に報告しました。明治4年(1871年)に不平等条約改正の交渉のため欧米に派遣された岩倉使節団は訪問先でキリスト教の禁止令を非難され日本のキリスト教弾圧が交渉の妨げになっていることを痛感しました。キリスト教の禁止令を廃止するか継続するか国内で様々な意見が出ました。当初、日本政府はキリスト教の解禁をしない方針でしたが、明治6年(1873年)2月24日にキリスト教禁制の高札を撤去し捕縛していた信徒たちを解放しました。流罪とされた信徒は3394名、662名が死亡しました。解放された者たちはキリスト教の信仰をより強くしました。「浦上四番崩れ」をきっかけに長年続いた日本のキリスト教禁制が終戦しキリスト教が日本各地で再び広まりました。

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2025年4月 6日 (日)

板垣退助岐阜遭難事件(明治15年 1882年4月6日)

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 戊辰戦争で東征大総督東山道参謀として功績をあげ元勲となった板垣退助は明治維新後に参与となりましたが征韓論の対立による「明治六年の政変」で下野しました。その後、自由民権運動を進めましたが帝国議会の樹立をめざすため参議に復帰しました。

板垣退助(1880年頃)
板垣退助(1880年頃)

 明治14年(1881年)、「国会開設の詔」が発せられると退助は自由党を結成して党首となり自由民権運動の推進と帝国会議樹立のため全国を精力的に遊説して党の拡大に努めました。明治15年(1882年)4月6日、板垣退助は岐阜で開催された演説会を終えて宿舎へ向かう途中、短刀を持った相原尚褧に襲撃されました。これが「板垣退助岐阜遭難事件」です。

板垣君遭難之図 (一陽斉豊宣 1882年)
板垣君遭難之図 (一陽斉豊宣 1882年)

 相原尚褧は士族で教員でしたが官権派の考えを持ち自由党などの民権派に強い反感を抱いていました。「国会開設の詔」が発せられても急進的な民権派の不敬事件などが収まらないため国家の行く末を案じ民権派の中心人物であった板垣退助の暗殺を決意していたのです。

 退助は尚褧の襲撃により胸や手に深手を負いましたが党員たちが相原は取り押さえたことから一命を取り留めました。退助は竹内綱に抱きかかえられながら起き上がり「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い放ちました。これが後に「板垣死すとも自由は死せず」という自由民権運動の象徴的な言葉として広く知られるようになりました。この事件によって自由民権運動は大きく盛り上がり、板垣退助は国民的な人気を得ました。全国で自由党の支持者が増え自由民権運動が飛躍的に進みました。

板垣死すとも自由は死せず (板垣退助百回忌に際し安倍晋三揮毫)
板垣死すとも自由は死せず (板垣退助百回忌に際し安倍晋三揮毫)

 板垣退助は事件後に相原尚褧に対する助命嘆願書を提出しています。これによって尚褧は極刑を免れ無期徒刑となりました。明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布による恩赦において岐阜事件は民間人としての板垣退助を襲撃したものであり尚褧は国事犯でないとされました。一方で急進的に自由民権運動を進めた逮捕者が恩赦されていたことや、事件当時に明治天皇が「板垣は国家の元勲」の考えを示していたことから、尚褧は国事犯の要素もあるとして恩赦の対象となり同年3月29日に釈放されました。

 同年5月11日、尚褧は退助のもとを謝罪に訪れました。退助は「この度はつつがなく罪を償はれ出獄せられたとの由、退助に於ても恭悦に存じ奉る」と声をかけると、尚褧は退助の器の大きさに感銘し両手をついて事件のことを深く詫び、恩赦に尽力してくれたことを深謝しました。退助と尚褧は会話をはずませ、尚褧は日本のために北海道開拓に従事したいと表明しました。時間はあっという間に過ぎ、退助は帰路につく尚褧に北海道は極寒の地であり自愛すること、活躍を祈っていることを伝えて見送りました。

 同年、相原尚褧は約束通り北海道に船で向かいましたが遠州灘付近で行方不明となりました。このとき尚褧は享年36歳、船から落とされたという説、自殺したという説、尚褧に板垣暗殺を企てさせた黒幕に暗殺されたという説などがありました。

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2025年4月 5日 (土)

ヘアカットの日|女子断髪禁止令(明治5年 1872年4月5日)

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 明治明治4年(1871年)、政府は太政官布告により「散髪、制服、略服、礼服ノ外、脱刀モ自今勝手タルベシ」という「散髪脱刀令」を布告しました。これにより身分によらず髪型や服装の自由が認められ、多くの男性が髷を落として断髪し洋服を着るようになりました。

 このような変化の中で髪を短くする女性も現れましたが、当時の日本では長い黒髪が女性らしいという価値観が主流だったため女性が男性のように断髪することに対する批判が起こりました。明治5年(1872)4月5日、東京府は男女の区別が判然としない髪型は禁止すべきという考えから女性はみだりに髪を切ってはいけないという「女子断髪禁止令」(東京府達32号)を布告しました。

東京府が太政官に許可を求めた「婦人断髪ノ儀ニ付伺」
東京府が太政官に許可を求めた「婦人断髪ノ儀ニ付伺」

 当時、日本髪を結うのに鬢付け油が使われていました。結髪もさることながら洗髪も時間がかかり面倒でした。「散髪脱刀令」で髪型の自由化を求め「女子断髪禁止令」に声をあげる女性も少なくありませんでした。そのようなことから4月5日は「ヘアカットの日」とされています。

明治時代の日本髪
明治時代の日本髪

 明治18年(1885年)には「婦人束髪会」が結成され日本髪について金銭的負担や衛生的問題が指摘されるようになると日本髪を結う女性は少なくなり女性のヘアスタイルも西洋化していきました。

 

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2025年3月28日 (金)

明治政府が「神仏分離令」を公布(明治元年 1868年3月28日)

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 明治維新により長らく続いた江戸幕府が終焉しました。王政復古により日本の政治体制は武家を中心とする政治から天皇を中心とする政治に戻りました。平田篤胤などの国学者たちは日本固有の文化や宗教を重視し、仏教や儒教の影響を排除した純粋な神道を復興させるべきだと主張しました。明治政府は新しい国家体制をより強固なものとし列強に対峙できるようにするには国民の意識を統一させる必要があると考え神道を純粋な形で復興させる神道国教化の政策を進めました。

 明治元年(1868年)3月28日、明治政府は神仏分離令の太政官布告「神号々仏語ヲ用ヒ或ハ仏像ヲ神体ト為シ鰐口梵鐘等装置セシ神社改正処分・三条」を公布しました。

 この神仏分離令によって明治政府は仏教的な権現や牛頭天王などの名称を用いている神号を純粋な神道の名称にすること、神社の神体として祀られている仏像をはじめとする仏教的な要素を撤去すること、神社に奉仕していた僧侶に還俗とすることなど、長年続いていた神仏習合を禁じ神道と仏教を明確に分離しました。

神仏分離の様子(Google Geminiによる作画)
神仏分離の様子(Google Geminiによる作画)

 江戸幕府の政権下では寺院は単なる宗教施設にとどまることなく行政、教育、文化、福祉など多岐にわたる役割を果たし地域社会において重要な存在でした。明治政府は寺院の機能を役所に持たせ前政権の影響を受けている寺院の社会への影響力を抑えたのです。

 「神仏分離令」は仏教を弾圧し排斥することが目的ではありませんでしたが全国各地で廃仏毀釈運動が起こり多くの寺院や仏具が破壊されました。やがて自由民権運動が起こり宗教の自由が求められるようになり神道国教化の政策は縮小していきました。

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2025年3月23日 (日)

所得税法の公布(明治20年 1887年3月23日)

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 明治20年(1887年)3月23日、日本で初めて「所得税法」が公布されました。「所得税法」公布前の日本の税収は地租や酒造税などが中心でした。当時、政治に参加できるのは地租を納める大地主に限られていたことから自由民権運動を進める団体が選挙権のあり方を批判していました。政府も地租の納税義務者以外の資本家に対して選挙権を与えることにしました。また明治15年(1882年)に朝鮮で起きた壬午軍乱以降、清国に対する軍備の増強が必要となり税収を増やす必要がありました。このような背景のもと徴税に関する法整備が必要となり「所得税法」が公布されたのです。

所得税法・御署名原本・明治二十年・勅令第五号
所得税法・御署名原本・明治二十年・勅令第五号

 当初の所得税は個人に対する課税ではなく世帯合算課税で戸主に納税義務が課せられました。すべての戸主が課税の対象となったわけではなく年間所得が300円以上の戸主に納税義務が発生しました。徴税は所得に対して1%(300円)から3%(3万円以上)までの5段階の累進課税方式が採用されました。

所得税法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 睦仁 内閣総理大臣伯爵伊藤博文 大蔵大臣伯爵松方正義 勅令第五号 所得税法 第一条 凡ソ人民ノ資産又ハ営業其他ヨリ生スル所得金高一箇年三百円以上アル者ハ此税法ニ依テ所得税ヲ納ムヘシ 但同居ノ家族ニ属スルモノハ総テ戸主ノ所得ニ会算スルモノトス 第二条 所得ハ左ノ定則ニ拠テ算出スヘシ 第一 公債証書其他政府ヨリ発シ若クハ政府ノ特許ヲ得テ発スル証券ノ利子営業ニアラサル貸金預金ノ利子株式ノ利益配当金、官私ヨリ受クル俸給、手当金、年金、恩給金及割賦賞与金ハ直ニ其金額ヲ以テ所得トス 第二 第一項ヲ除クノ外資産又ハ営業其他ヨリ生スルモノハ其種類ニ応シ収入金高若クハ収入物品 

所得税法を承認し、ここに公布する。

天皇 睦仁

内閣総理大臣 伊藤博文

大蔵大臣 松方正義

勅令第五号 所得税法

第一条 すべての国民で、資産や営業などから生じる一年間の所得金額が三百円以上である者は、この税法に基づいて所得税を納めなければならない。ただし、同居の家族に属する者の所得は、すべて世帯主の所得に合算するものとする。

第二条 所得は、次の規定に基づいて算出する。

公債証書その他政府が発行する、または政府の特許を得て発行する証券の利子、営業によらない貸付金や預金の利子、株式の利益配当金、官民から受け取る俸給、手当金、年金、恩給金、割賦賞与金は、そのままその金額を所得とする。
第一項を除く、資産や営業などから生じる所得は、その種類に応じて収入金額または収入物品を基準とする。

 当時、所得が300円以上となる戸主は多くなく、納税義務は社会的地位を示すことにもなりました。そのため所得税は富裕税や名誉税とも呼ばれました。課税の対象とされたのは全戸数の1.5%の約12万人で納税額も税収の約0.8%に過ぎませんでした。つまり選挙権を新たに付与され国民はわずかでした。明治23年(1890年)に行われたた日本最初の国政選挙「第1回衆議院議員総選挙」では直接国税15円以上を納付している満25歳以上の男性に選挙権が与えられました。

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2025年3月21日 (金)

江戸幕府が慶長の禁教令を公布(慶長17年 1612年3月21日)

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 戦国時代に織田信長の擁護によりキリスト教が広まりましたが、豊臣秀吉はスペインやポルトガルの宣教師による布教活動の背景に日本植民地化の目的があることを知り天正15年(1587年)に宣教師の国外追放と南蛮貿易を禁じるバテレン追放令を発令しました。これによって宣教師は国外追放となり南蛮貿易が禁じられました。

 江戸幕府を開いた徳川家康もキリスト教について豊臣秀吉と同様な政策をとりましたが、厳しく弾圧することはしなかったため宣教師たちは日本での布教活動を再開しました。宣教師たちは江戸幕府に一定の配慮はしたものの各地で布教活動を活発化させるようになりました。

日本人キリシタン(16~17世紀)
日本人キリシタン(16~17世紀)

 布教活動を制御できないと判断した江戸幕府はキリスト教を警戒し始めました。オランダ商船リーフデ号の来日などにより欧州におけるカトリックとプロテスタントの間の紛争やスペインやポルトガルの植民地化政策による世界情勢を知った徳川家康はキリスト教の禁止を厳格化することを考え始めました。

  【参考】リーフデ号事件(1600年3月16日)

 慶長13年(1608年)、肥前日野江藩主でキリシタン大名の有馬晴信が派遣した朱印船がマカオに寄港中に取引を巡って問題を起こしたためポルトガル海軍の総司令官アンドレ・ペソアに鎮圧されました。このとき日本人の多数の死者が出たためペソアは慶長14年(1609年)に事件の顛末を徳川家康に報告するため長崎を訪れました。江戸幕府にポルトガルとの貿易に口を挟まれたくないと考えた長崎奉行の長谷川左兵衛藤広はマカオでの事件の真相を隠すことにしましたがペソアとの関係が悪化したため有馬晴信にマカオ事件に対する報復を持ちかけました。有馬晴信はペソア捕縛とポルトガル商船捕獲を徳川家康に申し入れました。徳川家康から了承を得た有馬晴信は慶長14年(1609年)末にポルトガル船を攻撃しました。これによってポルトガルとの貿易がしばらく途絶えました。

 有馬晴信はポルトガル船への報復の報償として龍造寺氏との争いで失った領地が回復されることを期待しました。ペソアの対応のため江戸幕府から派遣されれいた本多正純家臣で目付の岡本大八は有馬晴信に領地を回復するよう取り計らうと6000両を資金としてだまし取りました。キリシタン大名の有馬晴信はキリシタンだった岡本大八を盲目的に信じてしまったのです。やがてこの詐欺と贈賄の事件は徳川家康の知るところとなり有馬晴信は斬首され岡本大八は火刑となりました。これが「岡本大八事件」です。

 徳川家康はキリシタンの大名と江戸幕府の重臣の家臣が起こした「岡本大八事件」をきっかけに慶長17年(1612年)3月21日に江戸、京都、駿府などの直轄地において教会の破壊と布教を禁じる「慶長の禁教令」を布告しました。諸大名もこれにならい同様の対応を行いました。江戸幕府はその後もキリスト教の取り締まりを強化し多くのキリスト教徒を弾圧しました。寛永14年(1637年)の「島原の乱」は有馬晴信の旧領で起きた農民やキリシタンを中心とする江戸幕府に対する反乱です。

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