カテゴリー「経済・政治・国際」の47件の記事

2023年10月31日 (火)

ラシュモア山の大統領像完成(1941年10月31日)

ココログ「夜明け前」公式サイト

 米国サウスダコタ州の標高1,745メートルのラシュモア山にはアメリカ合衆国の誕生、成長、発展、維持を象徴する4人の大統領ジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、エイブラハム・リンカーンの胸像が彫られています。

 この胸像は米国の彫刻家ガットスン・ボーグラムが米国政府の要請で作成したものです。400人の作業員がラシュモア山の花崗岩の露頭1927年10月4日から1941年まで14年間かけて高さ18メートルの巨大な胸像を彫りました。ラシュモア山の花崗岩は硬質のためダイナマイトで砕きながら彫刻されました。作業は困難を極めましたが1941年10月31日に完成しました。1925年3月3日にアメリカ合衆国国定記念公園に指定された。次の写真は彫刻する前のラシュモア山です。

彫刻前のラッシュモア山(1905年)
彫刻前のラッシュモア山(1905年)

 この岩肌に4人の大統領の彫刻が彫られたわけですが、もともとジェファーソンの像はワシントンの右側に彫刻される予定でしたが岩の状態が悪いためジェファーソンの作りかけの像がダイナマイトで爆破されワシントンの左側で像が彫刻されました。リンカーンとジェファーソンは再配置されました。

制作中のラッシュモア山
制作中のラッシュモア山

 ワシントンの像は1934年、ジェファーソンの像は1936年、リンカーンの像は1937年、ルーズベルトの像は 1939年に奉納され、最終的には左からジョージ・ワシントン、トーマス・ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、エイブラハム・リンカーンが並ぶ現在の姿となりました。

ラッシュモア山の4人の大統領の彫像
ラッシュモア山の4人の大統領の彫像

【関連記事】ラシュモア山の大統領像完成(1941年10月31日)

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アメリカ合衆国がロシアからアラスカ購入(1867年10月18日)

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ハワイ王国が終焉(1893年1月22日)

【おもしろ映像】大統領のカルテット: 夜明け前

テディベアの日(10月27日)

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2023年10月18日 (水)

アメリカ合衆国がロシアからアラスカ購入(1867年10月18日)

ココログ「夜明け前」公式サイト

 アメリカ合衆国のアラスカ州は同国の最北端に位置する州です。北アメリカ大陸北西端にありアリューシャン列島を含みます。アメリカ合衆国本土とは続いておらずカナダを挟んで飛地になっています。

 アラスカの地はアメリカ合衆国建国当時から同国の州だったわけではありません。18世紀頃にはロシア人が毛皮の交易のために入植していあました。やがて、ロシア帝国の国策会社・勅許会社である露米会社(ロシアンーアメリカン・カンパニー)が設立され北アメリカ大陸太平洋岸一帯でビジネスを展開するようになりました。しかしアラスカはロシアから離れているため地の利が悪く、この地に英米系の毛皮商人が進出すると毛皮獣の乱獲も起きて経営が行き詰まるようになりました。さらに1853年にクリミア戦争が勃発すると、イギリスからアラスカを防衛することができなくなることが予想され、ロシアの国家財政が逼迫するようになったためアラスカを売却することにしました。売却先をイギリスにするとシベリアに近いアラスカの地にイギリスの軍事施設が建設されるおそれがあるため、ロシアは売却先としてアメリカ合衆国を選びました。

 ロシアがアメリカ合衆国にアラスカ売却を打診したのは1859年ですが当時のアメリカ合衆国は南北戦争の混乱で余裕はありませんでした。1865年に南北統一が果たされると、ロシアは1867年3月に改めてアメリカ合衆国にアラスカ売却を打診します。同年3月30日にアラスカ売却の条約が調印され、アメリカ合衆国はロシアからアラスカの地を720万USドルで購入しました。

アラスカの売却の批准書
アラスカの売却の批准書

 こうしてアラスカはアメリカ合衆国の領地となりましたが長らくの間は州ではありませんでした。1958年7月7日に大統領ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワーがアラスカ州法に署名し、1959年1月3日にアラスカはアメリカ合衆国49番目の州となりました。アラスカでは毎年10月18日を「アラスカ・デー」としていますが、これはアラスカのフォートシトカで領土移譲式が執り行われアラスカがアメリカ領になった1867年10月18日に由来しています。

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2023年8月26日 (土)

ソ連が世界初の大陸間弾道ミサイル (ICBM)の実験成功を発表(1957年8月26日)

 R-7セミョールカ(ロシア語: Р-7 Семёрка、GRAUインデックス8K71)は冷戦中の1957年にソビエト連邦が秘密裏に開発した世界初の大陸間弾道ミサイル(ICBM)です。開発はセルゲイ・コロリョフが率いるOKB-1が担当しました。

R-7のロシアの切手
R-7のロシアの切手

 R-7の大元になったミサイルはドイツが開発したV2ロケットをソ連が1948年に複製したR-1です。このロケットはOKB-1によってR-2、R-3と改良されました。ソ連は同時期にドイツ人の技術者チームに射程距離3,000キロメートル、搭載弾頭3,000キログラムのG-4の開発に着手させました。G-4はR-3より優れていましたが、ソ連はR-3を採用しました。これによってOKB-1がミサイルの開発を進めることになりました。

 OKB-1がR-7の開発に着手したのは1953年です。R-7の当初の要求仕様は重量3,000キログラムの分離式弾頭を備えた射程距離8,000キロメートルの170トンの二段式ミサイルでしたが、セミパラチンスク核実験場での実験の結果から弾頭重量が5,500キログラムに変更されました。この仕様変更は設計を大きく見直す必要がありました。テストを重ねながら設計が完了したのは1954年でした。

 この背景でソ連はドイツ人チームに同じ要求仕様を提示しG-5の開発に当たらせていました。ドイツ人チームにはOKB-1でのロケット開発の情報は伝えられることはありませんでしたが、ドイツ人チームの成果はOKB-1に伝えられていました。ドイツ人チームはクラスター式ロケットを考案し、これがR-7にも採用されることになりました。クラスター式ロケットは現在のソユーズにも用いられています。

 R-7は1956年から製作され1957年3月にR-7 M1-5が完成しました。このロケットの試験はバイコヌール宇宙基地で行われ、同年5月15日19時01分(モスクワ時間)に初めて発射されました。これが世界初の大陸間弾道ミサイル (ICBM)の発射実験となりましたが、打ち上げ後400キロメートル先で燃料漏れを起こしたため破壊されました。2回目の発射テストは同年6月11日に行われましたが事前の試験でトラブルが発生し実験が中止となりました。3回目のテストは発射直前のトラブルで打ち上げが延期となりました。同年7月12日、再び3回目の発射テストが行われましたが発射後33秒でトラブルが発生しました。R-7の発射テストが成功したのは同年8月21日です。4回目の発射テストで6,000キロメートルの長距離飛行に成功したのです。この成功は1957年8月26日付けでソ連のタス通信によって「ソ連が多段大陸間弾道ミサイルの実験に成功」と配信されました。西側諸国は打ち上げまで把握していませんでした。 

 R-7自身は1961年までに28回打ち上げられましたが配備されることはありませんでしたが、改良形のR-7Aは1959年から1968年まで配備されました。またR-7は宇宙開発用ロケットにも転用され世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げや世界初の有人宇宙船ボストークの打ち上げに用いられました。ソユーズもR-7から派生したロケットです。R-7はソ連の宇宙開発の原動力となりました。

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世界初の女性宇宙飛行士を乗せた「ボストーク6号」打上げ(1963年6月16日)

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2023年8月16日 (水)

松川事件が時効(1964年8月16日)

 松川事件は昭和24年(1949年)8月17日に福島県の国鉄東北本線の松川駅ー金谷川駅間で発生した列車転覆事件です。国鉄に関わる事件として、同年7月5日の下山事件、7月15日の三鷹事件、松川事件は国鉄三大ミステリー事件と呼ばれています。

松川事件で脱線転覆した機関車
松川事件で脱線転覆した機関車

 昭和28年(1953年)12月22日の松川事件の二審で仙台高裁では被告人20名のうち3名が無罪、17名が有罪となり4名が死刑判決となりますた。しかしながら、裁判が進むにしたがい真犯人に関する目撃証言や無実を証明する証拠が隠蔽されていたことが明らかになり、昭和38年(1963年)9月12日に最高裁は被告全員を無罪としました。

【関連記事】松川事件被告全員が無罪(昭和38年 1963年9月12日)

 被告人全員が無実となった一方で真犯人は逮捕されないまま時間は経過し、松川事件は昭和39年(1964年)8月16日に時効を迎えました。

 真犯人に関する憶測は様々な説が出され、自分が真犯人であると申し出た者もいましたが信憑性が疑われています。また左翼勢力の仕業とするためにGHQが仕組んだという謀略説もあります。いずれにしろ松川事件は真相不明のお蔵入り事件となりました。

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松川事件被告全員が無罪(昭和38年 1963年9月12日)

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2023年7月29日 (土)

アマチュア無線の日(1952年7月29日)

 日本最初の無線に関する法律は明治33年(1900年)に公布された「電信法」です。この法律では無線の利用は政府に限られており、個人や法人の無線施設の開設は認められていませんでした。

 大正4年(1915年)に「無線電信法」が施行され、これによって逓信大臣の許可を得れば個人や法人による無線施設の開設が可能になりました。しかし、私設の無線施設の利用は無線と関連する技術の学術研究に限られていました。この法律によって民間で無線の研究が進み多くの実験用私設無線施設が開設されました。

八木・宇田アンテナ
八木・宇田アンテナ

 昭和16年(1941年)には300以上の実験用私設無線施設が運用されていましたが、同年112月8日の太平洋戦争開戦により実験用私設無線施設の運用が禁止されました。この禁止措置は敗戦後も継続されましたが昭和25年(1950年)に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間通信局(CCS)の指導により電波三法(電波法・放送法・電波監理委員会設置法)が施行されました。

 昭和27年(1952年)4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効され日本が主権を取り戻すと、同年7月29日に電波法に基づきアマチュア無線局の予備免許が発給されました。昭和48年(1973年)に日本アマチュア無線連盟が7月29日をアマチュア無線の日として制定しました。

 なお国際的な「世界アマチュア無線の日」は4月18日です。これは1925年4月18日に国際アマチュア無線連合(IARU)が設立したことに由来します。

【関連記事】

世界初のラジオ放送(1906年12月24日)

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2023年7月11日 (火)

世界の人口が50億人を超える(1987年7月11日)

 世界の人口は1960年に約30億人でしたが1970年には約37億人、1975年には約41億人となりました。そして、1987年7月11日についに50億人を突破しました。その後は右肩上がりで世界の人口は増加、現在は約80億人を超えています。

  世界の人口が80億人を超える(2022年11月15日)

世界の人口推移(1960-2023年
世界の人口推移(1960-2023年)

 先進諸国では人口減少となっている国もありますが世界人口増加の勢いは衰えを見せていません。国連の予測では2050年には97億人になるとされています。2100年頃に110億人となりそこからは頭落ちになると予測されています。

 現生人類のホモサイピエンスがアフリカを離れたのが今からおよそ6万年前と考えられています。長い年月ををかけて世界各地へ広がった現生人類は人口を増やしていきついに1987年に50億人に達っしたのです。それだけの時間をかけて50億人となったわけですが、たった63年後の2050年に人口が倍増する計算になります。

 人口が増加すれば限りある資源の消費量がそれだけ増えることになります。水、食糧、エネルギーといった人が生きるために必要な資源不足を解決する知恵を出さなければなりません。その他にも貧困問題や環境破壊など様々な問題が生じるでしょう。2100年には110億人が生きることができる地球環境をめざす必要があるということになります。人口を抑制する時代がやってくるかもしれませんが、年齢層のバランスの良い人口構成を維持しながらの制御が重要な課題になります。

総人口(億人)
1960 30.3
1961 30.7
1962 31.3
1963 31.9
1964 32.6
1965 33.3
1966 34.0
1967 34.7
1968 35.4
1969 36.1
1970 36.9
1971 37.7
1972 38.4
1973 39.2
1974 40.0
1975 40.7
1976 41.4
1977 42.2
1978 42.9
1979 43.7
1980 44.4
1981 45.2
1982 46.0
1983 46.8
1984 47.7
1985 48.5
1986 49.4
1987 50.2
1988 51.1
1989 52.0
1990 52.9
1991 53.8
1992 54.7
1993 55.6
1994 56.4
1995 57.3
1996 58.1
1997 59.0
1998 59.8
1999 60.6
2000 61.4
2001 62.3
2002 63.1
2003 63.9
2004 64.7
2005 65.5
2006 66.3
2007 67.2
2008 68.0
2009 68.9
2010 69.7
2011 70.5
2012 71.4
2013 72.3
2014 73.2
2015 74.0
2016 74.9
2017 75.8
2018 76.6
2019 77.4
2020 78.2
2021 78.9
2021 79.5
2023 80.5
世界の人口推移(1960-2023年)

【関連記事】世界の人口が50億人を超える(1987年7月11日)

世界の人口が80億人を超える(2022年11月15日)

世界人口デー|地球上で1人あたりの面積は?(1989年7月11日)

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2023年6月23日 (金)

南極はどこの国?|南極条約が発効(1961年6月23日)

 地球の南方に大きな大陸が存在するという考えは紀元前の古代ギリシアの時代からありました。もちろんこれは自然哲学的な思考によるもので実際に南極大陸が発見されていたわけではありません。しかし、当時の人々は地球は対称性があり北半球の大陸群とバランスを取ることができる大きな大陸が南方に存在するはずと考えたのです。

 南方で氷山が発見されたのは紀元後のことです。15世紀以降の大航海時代では南洋の探検が盛んに行われ卓状の氷山も発見されていますが、18世紀後半のジェームス・クックの南極圏の探検では南極大陸の発見には至りませんでした。

 南極大陸が発見されたのは19世紀に入ってからです。1820年にロシア海軍ファビアン・ゴットリープ・タッデーウス・フォン・ベリングスハウゼン、イギリス海軍エドワード・ブランスフィールド、アメリカ人アザラシ漁師で探検家ナサニエル・パーマーが氷山とは異なる氷の地形を発見したことを報告していますが3人のうち誰が最初に南極大陸を発見したのかは判明していません。彼らの発見後、南極大陸への上陸が行われるようになりました。当初は南極大陸は探検の対象とされていましたが南極は環境が厳しく人類が定住することは困難なためこの地を実行支配しようとする国はありませんでした。

南極大陸の地図
南極大陸の地図

 20世紀に入るとイギリスが南極大陸に基地を設営し内陸部の探検を始めました。1908年にイギリスは探検した範囲の諸島の領有権を主張、これをきっかけに他の国々も一定の範囲の領有権を主張するようになりました。国際法による国家の領有権の根拠は他の国に先んじてその地を実行支配してきかどうかの先占に基づきますが、南極大陸は先占が不可能なため一定の範囲の領有権を主張するセクター主義が主張されるようになりました。そして、探検の成果からオーストラリア、ノルウェー、イギリス、ニュージーランド、フランスの5カ国はお互いの承認のうえでそれぞれが主張する地域の領有権を認めるようになりました。またアルゼンチンとチリはイギリスが主張する地域の領有権を主張しました。

 やがて南極探検の対象は科学的調査になり各国が南極基地を設営するようになりました。当初は基地の生活は厳しい環境でしたが、科学技術の進歩によって定住が可能となり実効支配の可能性も出てきました。そこで南極の調査研究で国際協力体制を築く日本、アメリカ、イギリス、フランス、ソビエト連邦(現ロシア)、アルゼンチン、オーストラリア、ベルギー、チリ、ニュージーランド、ノルウェー、南アフリカの12か国が南極の平和的目的利用のため1959年12月1日に南極条約を締結、1961年6月23日に発効されました。この条約により南極の軍事利用は禁止され、南極の特定地域を実行支配する軍事行動はできなくなりました。

 しかしながら、前述の各国の領有権の主張は南極条約締結以前のことです。南極条約の第4条には、締結国の過去の領有権主張の放棄はしないこと、条約が有効期間中は締約国は領有権の新たな主張や拡大の主張は禁止されるとあります。つまり過去の領有権は棚上げ状態になっているものの無効になったわけではないことを意味します。

【関連記事】

北極の日(1909年年4月6日)

南極の日(1911年12月14日)

白瀬南極探検隊が大和雪原に到着(1912年1月28日)

南極観測船「宗谷」が南極に向けて初出航(1956年11月8日)

昭和基地開設記念日(1957年1月29日)

南極ゴジラ発見?(昭和33年 1958年2月13日)

南極探検隊タロ・ジロの日(1959年1月14日)

日本人が初めて南極点に到達(1968年12月19日)

南極で隕石アラン・ヒルズ84001を発見(1984年12月27日)

 

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2023年6月 8日 (木)

ジョージ・オーウェルの小説「1984」出版(1949年6月8日)

 「1984年」(原題: Nineteen Eighty-Four)はイギリスの作家ジョージ・オーウェルが1949年に発表した小説です。この小説は全体主義国家によって統治された近未来世界を描いています。この小説は指導者ビッグ・ブラザーをトップとする全体主義国家オセアニアを舞台に主人公ウィンストン・スミスの反体制活動を描いた物語です。

ジョージ・オーウェルと小説「1984年」表紙
ジョージ・オーウェルと小説「1984年」表紙

 1984年、世界はオセアニア、ユーラシア、エウラシアの大国によって分割統治されこれらの国は戦争を繰り返していました。オセアニアの国民は思想・言語・結婚などが統制され思想警察やテレスクリーンやマイクによって政府の監視体制のもとに支配されています。

 ウィンストンはオセアニアの大都市ロンドンに住み政府の真理省の役人として歴史記録の改竄作業を行っていました。この作業はすべての記録を政府の都合の良い内容に書き換えるものでした。この作業をしながらウィンストンは自分の考えを自身のノートにまとめていましたが、これは違法な行為でした。日々の作業の中でウィンストンは体制を疑うようになりますが過去の新聞記事を見つけたことをきっかけに反体制運動に加わります。しかしながら、ウィンストンは仲間と考えていた思想警察の人物の密告により政府に捕まります。ウィンストンは政府の愛情省で尋問と拷問を受け思想教育を施されます。そしてビッグ・ブラザーへの愛と忠誠を誓う洗脳をされたところで物語は終わります

 小説「1984年」は全体主義国家の恐ろしさや危うさを警鐘する物語で自由と民主主義の大切さを教えてくれます。

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2023年4月28日 (金)

日本版サマータイム 夏時刻法が施行(1948年4月28日)

 日照時間が長い夏季に明るい時間帯を有効に利用するため時間を通常より進めて日没時刻を遅らせる制度「夏時間(サマータイム)」。現在、日本ではこの制度は採用されていませんが、昭和23年(1948年)から昭和27年(1952年)にかけて実施されていました。

 第二次世界大戦終了後、日本は連合国に占領されましたが当時の日本ではサマータイムが導入されていませんでした。そのため連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が連合国の時間制度と合わせるために日本にサマータイムを導入することを求めました。日本政府はGHQの指導により昭和23年(1948年)4月28日に日本版サマータイムとなる夏時刻法が公布・施行されました。夏時間の期間は5月の第1土曜日の翌日(日曜)から9月の第二土曜日とされ同年から毎年実施されることになりました。昭和24年(1949年)には開始日が4月の第一土曜日の翌日(日曜)と改められましたが翌昭和25年(1950年)には5月の第1土曜日の翌日(日曜)に戻されました。

サマータイム実施(1949年)
サマータイム実施(1949年4月3日)

 夏時間が導入は当時の日本人の生活に大きな影響を与えました。ひとつは日没が遅くなったことで時刻で働くサラリーマンのような仕事では残業が増えて労働条件が悪化しました。農家など自然に関わる仕事では生活習慣に混乱が生じました。時刻を進めても従来通りの時刻を考えながら生活していた人も少なくなかったため夏時間の導入の効果が十分に出ず単に面倒になっただけという面もありました。

 このような背景の中、昭和26年(1951年)にサンフランシスコ平和条約が締結されると夏時間は打ち切りとなりました。そして日本の主権が回復したサンフランシスコ平和条約の発効日にあたる昭和27年(1952年)4月28日に先立つ同年4月11日に「夏時刻法を廃止する法律」が施行され夏時間は廃止されました。

【関連記事】

長期暦の元期(紀元前3114年8月11日) 

「午砲の制」発布で「丸の内ドン」開始(1871年9月9日) 

半ドンの日(1876年3月12日)

グリニッジ天文台を経度0度に制定(1884年10月13日)

日本に2つ時刻があった|日本標準時制定記念日(1886年7月13日)

日本で一番寒かった日(1902年1月25日) 

大正時代始まる(1912年7月30日) 

時の記念日(1920年6月10日) 

昭和改元の日(1926年12月25日)

戦争が終わった日はいつか(昭和20年 1945年8月15日) 

Made in Occupied Japan(1947年2月20日) 

振替休日を導入(1973年4月12日)

「平成」の世が始まる(1989年1月8日) 

プレミアムフライデー開始(2017年2月24日) 

建国記念の日(2月11日) 

苗字制定記念日(2月13日) 

一年の折り返しの日(7月2日)

冬の始まり|立冬(11月7日) 

冬至とは(2020年12月21日)

 

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2023年4月14日 (金)

上杉鷹山に学ぶ再建の精神 

 今からおよそ 200年前の江戸時代に徳川幕府下の米沢藩主として、当時お家取り潰しと言われるほどに貧窮に喘いでいた藩の政治経済を再建し、奇跡的な繁栄をもたらした名君、上杉鷹山の言葉を紹介します。

 上杉鷹山は15才の時、養子として上杉謙信より七代後の上杉家当主の座につきました。また上杉鷹山はかつての 米国大統領 J.F.ケネディが「最も尊敬する日本人政治家と言った人物でもあります。

上杉鷹山
上杉鷹山

 当時の米沢藩は巨額の負債を抱えその返済のメドは全くありませんでした。家臣達からは半知借上げとして給料の半分を遅配し、農民も年貢を納めきれないという貧窮のどん底に喘いでいました。米沢藩は「死に体」になっておりその回復は絶望視されていました。

 こんなところの藩主になった鷹山の前途はまさに多難でした。多額の費用がかかる名門の上杉家ゆかりの伝統行事も控えなければなりません。下の文章は藩政再建の方向づけを明確にするために、鷹山が自分の真情を「夏のタ」という一文にして重臣達に示し、彼らの決起を促したものです。

「およそ天下の事を開始するにあたっては、30目前からその理由などを十分検討しておき、それが開始されてからは、事実上変わってしまうことのないよう に30日ごとに調査と討議を反復し、一日たりとも中断しないことが必要である。このことを昔から『終わりて則ち始め有り』といっている。太陽の移り変わり、月の満ち欠け、寒暑の動きなどはすべて中断されることがない。従って、こ のように毎日検討することは天の行である。一つの問題を解決するためにはこのようにしなければならない。ものごとがある方向ヘ行くであろうと予想されれば、それに対してはこのように対策を立てるというふうに、配慮をしておくことが当然である。それをしないで、実質上問題が起こってから、あれこれと苦労しても、すでに効果はない。ことが進行しはじめてから努力してみても、その努力している中に、すでに失敗の要素が生じつつある。そんなわけであるから、対策として立てられた方法はいくらいいものであっても、その方法だけに任せておいて配慮や尽力をしなかったら決して成功するものではない。

当家の場合も格別の大倹約が実施され、出費はこれまでの半分とし年々3千 千両の予備費と、そのほかに不時の出費に備えて2千両を貯えるという方針が決定された。ところが、その3千両の方は、この9月までに確保される予定になっているものの、不時の備えとしての2千両は見通しが立っていない。また、借入金に対する返済予定は9千8百両のところ、去年家臣からの出金11千5 5百両をこれに当てているので、その分が減っていなければならないのに、現在高では逆に倍増 して1万両以上になっている。これはもってのほかのことである。長期借入金については30年の年賦返済を金主に頼んだが、これも去年の分はまだ返済されていない。予算だけはできたけれど実行がまるでできていない。

時節柄とはいいながら、先祖代々取り行ってきた諸行事も省けるだけ省き、家格を顧みず倹約につとめている。ことに家臣も貧乏に苦しんでいるところへ、さらに出金を命じて返済に当てることにした。ところがそれらの甲斐がないのは実に遺憾なことである。金主たちは、もともと彼らの利益のために当家ヘ金を貸したものではあるが、 その金によって、長年にわたって数々の難渋を凌ぎ、またこれによってしなければならない政策も実行することができたのだから、その返済をおろそかにすべきではない。

とはいえ、このように衰えていることなので、年々約束通りの返済は無理である。だが、その場、その場で、誠のない言葉で目先を凌いでいくよりは、真実をもって、可能な額を返済していくべきである。30年の年賦にしてくれるよう各金主に頼んだが、それをいまもって承知していない相手もある。それをいいことにして、去年払うと決めた分さえを払っていないことは、全く信義を失うものであり、恥辱の上の恥辱と言わざるを得ない。予算を立ててはじめからこれを破ろうと思っている者は一人もいないのだが、行き当たりばったりでいくために実行が全く伴わないのである。

予算を立ててから1年もならないのにこんな有様では5年先にはどうなることか。目先だけが何とかなっていれば、人間はとかく緩みがちになるものである。これは誰にでもあることだから、時々幹部には鞭を加えて、先に述べたように間断なく検討を反復させることが肝要である。

9千8百両の借金が1万両になってしまったことも、対応が不十分だったからである。数字上は予算通りにやっていれば、不時入用の2千両も貯えられたはずである。まずこの2千両を貯えるよう、即刻各担当者に通達すべきである。

その上で、今後は毎年1月1日に各担当者が月次予定を組み、その後前月の実績を精算して翌月の担当者に引き渡すようにせよ。月次予定通りにいかず、不時の出費があった時には全体会議を開いて、即時協議して対策を立てよ。こうすれば各担当者は緊張して努力するようになり、前月の実績が好ましくなければ、それは翌月の担当者が苦しむことになるので、協議も自然に真剣になり油断を戒めることにもなる。

現状のままで放っておけば、3年も経たないうちに予算は崩れてしまう。そうなったら、皆でこれほどまでに努力して決定してきた大倹約も、ただの空騒ぎしただけのことに終わって、少しも国の役には立たず、他から笑われるだけある。そのことを私は非常に恐れている。

今日、藩政の上では暴戻の君主もおられないし、専横な重臣もいない。家臣達はみんな真面目に勤めていて、賄賂なども全く行われていない。他に対して何一つ恥じることはないのに、財政だけが困難になっており、そのために満足な対策も立てられず、心ならずも不義理をしていることは実に嘆かわしいことである。

この上は、各幹部、責任者は財政を再建するために全力をあげ、月々年々、間断なく検討を尽くすようにせよ。そうすれば、必ず再建は可能であること違いない。」

 こんなことを書いたそうです。鷹山がやってきたとき、米沢藩の古い家老達は再建は無理だと思っていました。あるとき鷹山は消えた囲炉裏の中をつついていたところ、まだ火がついている小さな灰のかけらを見つけました。灰のかけらを集めていたら、まだ燃えるはずなのに消えていた灰に火がうつり、そうして囲炉裏に火がよみがえったそうです。それを見て鷹山はあきらめムードの藩の中でやる気の火種になる人たちを見つけて火を大きくしていこうと決意したそうです。

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