カテゴリー「経済・政治・国際」の76件の記事

2025年3月23日 (日)

所得税法の公布(明治20年 1887年3月23日)

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 明治20年(1887年)3月23日、日本で初めて「所得税法」が公布されました。「所得税法」公布前の日本の税収は地租や酒造税などが中心でした。当時、政治に参加できるのは地租を納める大地主に限られていたことから自由民権運動を進める団体が選挙権のあり方を批判していました。政府も地租の納税義務者以外の資本家に対して選挙権を与えることにしました。また明治15年(1882年)に朝鮮で起きた壬午軍乱以降、清国に対する軍備の増強が必要となり税収を増やす必要がありました。このような背景のもと徴税に関する法整備が必要となり「所得税法」が公布されたのです。

所得税法・御署名原本・明治二十年・勅令第五号
所得税法・御署名原本・明治二十年・勅令第五号

 当初の所得税は個人に対する課税ではなく世帯合算課税で戸主に納税義務が課せられました。すべての戸主が課税の対象となったわけではなく年間所得が300円以上の戸主に納税義務が発生しました。徴税は所得に対して1%(300円)から3%(3万円以上)までの5段階の累進課税方式が採用されました。

所得税法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 睦仁 内閣総理大臣伯爵伊藤博文 大蔵大臣伯爵松方正義 勅令第五号 所得税法 第一条 凡ソ人民ノ資産又ハ営業其他ヨリ生スル所得金高一箇年三百円以上アル者ハ此税法ニ依テ所得税ヲ納ムヘシ 但同居ノ家族ニ属スルモノハ総テ戸主ノ所得ニ会算スルモノトス 第二条 所得ハ左ノ定則ニ拠テ算出スヘシ 第一 公債証書其他政府ヨリ発シ若クハ政府ノ特許ヲ得テ発スル証券ノ利子営業ニアラサル貸金預金ノ利子株式ノ利益配当金、官私ヨリ受クル俸給、手当金、年金、恩給金及割賦賞与金ハ直ニ其金額ヲ以テ所得トス 第二 第一項ヲ除クノ外資産又ハ営業其他ヨリ生スルモノハ其種類ニ応シ収入金高若クハ収入物品 

所得税法を承認し、ここに公布する。

天皇 睦仁

内閣総理大臣 伊藤博文

大蔵大臣 松方正義

勅令第五号 所得税法

第一条 すべての国民で、資産や営業などから生じる一年間の所得金額が三百円以上である者は、この税法に基づいて所得税を納めなければならない。ただし、同居の家族に属する者の所得は、すべて世帯主の所得に合算するものとする。

第二条 所得は、次の規定に基づいて算出する。

公債証書その他政府が発行する、または政府の特許を得て発行する証券の利子、営業によらない貸付金や預金の利子、株式の利益配当金、官民から受け取る俸給、手当金、年金、恩給金、割賦賞与金は、そのままその金額を所得とする。
第一項を除く、資産や営業などから生じる所得は、その種類に応じて収入金額または収入物品を基準とする。

 当時、所得が300円以上となる戸主は多くなく、納税義務は社会的地位を示すことにもなりました。そのため所得税は富裕税や名誉税とも呼ばれました。課税の対象とされたのは全戸数の1.5%の約12万人で納税額も税収の約0.8%に過ぎませんでした。つまり選挙権を新たに付与され国民はわずかでした。明治23年(1890年)に行われたた日本最初の国政選挙「第1回衆議院議員総選挙」では直接国税15円以上を納付している満25歳以上の男性に選挙権が与えられました。

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2025年3月21日 (金)

江戸幕府が慶長の禁教令を公布(慶長17年 1612年3月21日)

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 戦国時代に織田信長の擁護によりキリスト教が広まりましたが、豊臣秀吉はスペインやポルトガルの宣教師による布教活動の背景に日本植民地化の目的があることを知り天正15年(1587年)に宣教師の国外追放と南蛮貿易を禁じるバテレン追放令を発令しました。これによって宣教師は国外追放となり南蛮貿易が禁じられました。

 江戸幕府を開いた徳川家康もキリスト教について豊臣秀吉と同様な政策をとりましたが、厳しく弾圧することはしなかったため宣教師たちは日本での布教活動を再開しました。宣教師たちは江戸幕府に一定の配慮はしたものの各地で布教活動を活発化させるようになりました。

日本人キリシタン(16~17世紀)
日本人キリシタン(16~17世紀)

 布教活動を制御できないと判断した江戸幕府はキリスト教を警戒し始めました。オランダ商船リーフデ号の来日などにより欧州におけるカトリックとプロテスタントの間の紛争やスペインやポルトガルの植民地化政策による世界情勢を知った徳川家康はキリスト教の禁止を厳格化することを考え始めました。

  【参考】リーフデ号事件(1600年3月16日)

 慶長13年(1608年)、肥前日野江藩主でキリシタン大名の有馬晴信が派遣した朱印船がマカオに寄港中に取引を巡って問題を起こしたためポルトガル海軍の総司令官アンドレ・ペソアに鎮圧されました。このとき日本人の多数の死者が出たためペソアは慶長14年(1609年)に事件の顛末を徳川家康に報告するため長崎を訪れました。江戸幕府にポルトガルとの貿易に口を挟まれたくないと考えた長崎奉行の長谷川左兵衛藤広はマカオでの事件の真相を隠すことにしましたがペソアとの関係が悪化したため有馬晴信にマカオ事件に対する報復を持ちかけました。有馬晴信はペソア捕縛とポルトガル商船捕獲を徳川家康に申し入れました。徳川家康から了承を得た有馬晴信は慶長14年(1609年)末にポルトガル船を攻撃しました。これによってポルトガルとの貿易がしばらく途絶えました。

 有馬晴信はポルトガル船への報復の報償として龍造寺氏との争いで失った領地が回復されることを期待しました。ペソアの対応のため江戸幕府から派遣されれいた本多正純家臣で目付の岡本大八は有馬晴信に領地を回復するよう取り計らうと6000両を資金としてだまし取りました。キリシタン大名の有馬晴信はキリシタンだった岡本大八を盲目的に信じてしまったのです。やがてこの詐欺と贈賄の事件は徳川家康の知るところとなり有馬晴信は斬首され岡本大八は火刑となりました。これが「岡本大八事件」です。

 徳川家康はキリシタンの大名と江戸幕府の重臣の家臣が起こした「岡本大八事件」をきっかけに慶長17年(1612年)3月21日に江戸、京都、駿府などの直轄地において教会の破壊と布教を禁じる「慶長の禁教令」を布告しました。諸大名もこれにならい同様の対応を行いました。江戸幕府はその後もキリスト教の取り締まりを強化し多くのキリスト教徒を弾圧しました。寛永14年(1637年)の「島原の乱」は有馬晴信の旧領で起きた農民やキリシタンを中心とする江戸幕府に対する反乱です。

【関連記事】

フランシスコ・ザビエルが来日(1549年7月22日)

日本初のクリスマス(1553年12月24日)

天正遣欧少年使節が長崎港を出港(天正10年 1582年1月28日)

日本二十六聖人が列聖(1862年6月8日)

 

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2025年3月18日 (火)

アメックスことアメリカン・エキスプレス創業(1850年3月18日)

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 アメリカン・エキスプレス(American Express Company)は世界的に知られる国際ブランドのクレジットカード「アメリカン・エキスプレスカード」を発行する多国籍金融サービス企業です。「アメックス(AMEX)」の略称としても知られています。

アメリカン・エキスプレスのロゴ
アメリカン・エキスプレスのロゴ

 アメリカン・エキスプレス社の歴史は古く創業は1850年3月18日です。創業2年前に1948年1月にカリフォルニア州で金が発見されゴールドラッシュが始まり太平洋沿岸の未開拓地が開拓が始まりました。同時に太平洋沿岸の開拓地から内陸部の未開地への開拓も進みました。これによって東西間の人と物の移動が活発になり米国で物流が重要な地位を占めるようなりました。

  【参考】ゴールドラッシュデー(1848年1月24日)

  【参考】西部劇「ローハイド」が日本で放送開始(1959年11月28日)

 1850年3月18日、ヘンリー・ウェルズ(Henry Wells)とウィリアム・ファーゴ(William Fargo)、ジョン・バターフィールド(John Butterfield)はニューヨーク州バッファローに馬車で貨物を運ぶ運送会社をに設立しました。これがアメリカン・エキスプレスの始まりです。

 余談ですがウェルズとファーゴはカリフォルニア州のゴールドラッシュをビジネスチャンスと考えカリフォルニアへの進出を提案しましたが、他の幹部に反対され断念しました。そこで2人はカリフォルニア州サンフランシスコに運送会社を設立しています。これがアメリカ合衆国西部を基盤とする大手銀行のウェルス・ファーゴ社の始まりです。

 物流の需要が高まる中でアメリカン・エキスプレス社の業績は好調に伸び、東部を中心に展開していたビジネスはやがて全米ならびにカナダやメキシコまでに広がりました。同社の事業は貨物の輸送でしたが1882年に世界初の郵便為替業務を始めました。1891年にはファーゴが当時1社し存在していなかったトラベラーズチェック発行のビジネスに注目し世界2番目のトラベラーズチェックを発行しました。

 現在はトラベラーズチェックは既に存在していませんが、当時は海外渡航に便利な旅行小切手でした。とりわけ治安の悪い地域への渡航では現金の代わりに必要不可欠なものでした。多くのアメリカ人がアメリカン・エキスプレスのトラベラーズチェックを使うようになり、ビジネスは世界へと広がっていきました。第一次世界大戦中は多くの金融機関が為替業務を中断しましたが、アメリカン・エキスプレスはアメリカ人の海外旅行者のトラベラーズチェックの対応を行い続けたことから高く評価され信頼される企業となりました。第二次世界大戦ではヨーロッパでアメリカ人がペットとして飼っていた犬を本国に移送するなど運送業者としても高く評価されるようになりました。第二次世界大戦終了後は大型旅客機の登場により海外旅行が大衆化したことからアメリカン・エキスプレスのビジネスは拡大していきました。

 1958年、アメリカン・エキスプレスはアメリカホテル組合のクレジットカード会社を買収しクレジットカードのビジネスに参入しました。クレジットカードはトラベラーズ・チェックの代わりに広く使われるようなりました。ゴールドカードが登場したのは1966年です。

アメリカン・エキスプレス ゴールド・プリファード・カード
アメリカン・エキスプレス ゴールド・プリファード・カード

 アメリカン・エキスプレスのブランドは世界的に有名になり、同社は世界的ネットワークを活用しながら事業を多角化していきました。

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2025年3月14日 (金)

明治天皇が「五箇条の御誓文」を公布(慶応4年 明治元年3月14日)

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 慶応3年(1867年)10月14日の「大政奉還」により260年以上続いた江戸幕府が終焉し慶応4年(1868年)1月に天皇を中心とした新政府「明治政府」が樹立しました。新政府は新しい時代の政治体制の基本方針を示すため国是の検討を行いました。

 慶応4年(1868年)1月に参与の由利公正が議事之体大意五箇条を起案し、これを制度取調参与の福岡孝弟が修正しました。同年3月、参与の木戸孝允がまとめて参与の東久世通禧を通じ議定兼副総裁の岩倉具視に提出しました。これを福岡孝弟の起案した形式で公布することになりましたが、天皇と諸侯が対等になっていました。そこで木戸孝允が王政復古の理念に基づき明治天皇が天神地祇を祀り神前で公卿と諸侯を率いて誓文を読み上げる形式を提案しました。

 慶応4年 明治元年3月14日、木戸孝允の提案した形式により「五箇条の御誓文」が公布が執り行われました。一般に「五箇条の御誓文」と呼ばれますが正式な名称は「御誓文」です。

「五箇条の御誓文」を公布(京都御所紫宸殿)
「五箇条の御誓文」を公布(京都御所紫宸殿)

 「五箇条の御誓文」は以下の5つの条文からなり明治維新の理念の新政府の基本方針を示したものです。日本が従来の封建的な制度から脱却し近代国家としての基盤を築くための宣言でした。

御誓文の原本(幟仁親王揮毫)
御誓文の原本(幟仁親王揮毫)

 一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ

  広く会議を開き、すべてのことをみんなで話し合って決めるべきである。

 一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ

  上司と部下は心を一つにして、精力的に仕事を進めるべきである。

 一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

  官僚から武官、そして庶民に至るまで、それぞれが自分の願いを叶え、人々が不満を抱かないようにすることが大切である。

 一 舊來ノ陋習ヲ破り天地ノ公道ニ基クヘシ

  古い悪い習慣を捨て、普遍的な道理に基づいた行動をするべきである。

 一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ我國未曾有ノ変革ヲ爲ントシ朕躬ヲ以テ衆ニ先ンシ天地神明ニ誓ヒ大ニ斯國是ヲ定メ萬民保仝ノ道ヲ立ントス衆亦此旨趣ニ基キ協心努力セヨ

  世界から知識を集め、日本の国を大きく発展させよう我が国はかつてない大きな変革を遂げようとしている。私は国民の先頭に立ち、天地神明に誓い、この国のあり方を定め、万民が平和に暮らせる道を開こうとしている。皆さんも、この私の考えに基づき、心を一つにして努力してほしい。

 「五箇条の御誓文」は現代の日本国憲法の基本原理である国民主権、基本的人権の尊重、国際協調主義の理念を含んでおり、その後の日本の近代化と改革の重要な指針となりました。

【関連記事】

黒田清隆が「超然主義」を表明(明治22年 1889年2月12日)

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2025年3月 9日 (日)

京都御所建春門外に学習院が開設(弘化4年 1847年3月9日)

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 平安時代末期の治承元年(1177年)に発生した「安元の大火」により公家の教育機関「大学寮」が焼失しました。その後、長きに渡り教育機関は置かれませんでした。安永8年(1779年)11月25日に第119代天皇に即位した光格天皇は大学寮の再建を計画しましたが実現には至りませんでした。第120代天皇となった仁孝天皇は光格天皇が実現できなかった学校の再建に着手し、天保13年(1842年)に江戸幕府の承認を得て学校の設立が決めました。

第120代天皇・仁孝天皇
第120代天皇・仁孝天皇

 京都御所建春門外の開明門院跡で講堂が建設されることになり、弘化3年(1846年)に竣工しました。翌年の弘化4年年3月9日に学校が開かれ講義が始まりました。この学校は「学習所」や「習学所」と呼ばれていましたが、第121代天皇の孝明天皇が嘉永2年(1849年)に「学習院」の勅額が下賜し正式な名称が決まりました。ここで多くの公家の子弟が儒学や国学を学びました。

 

 幕末の安政大獄を経て桜田門外の変が起こると文久2年(1862年)の夏頃から朝廷の諸藩の折衝が行われるようになり「学習院」がその場として使用されるようになりました。文久3年には陳情建白書の受付を設置したこともあり、尊王攘夷派の志士が集まってくるようになりました。彼らは「学習院」で国の行く末を憂えて議論を重ねるようになりました。そのメンバーには高杉晋作、真木保臣、福羽美静などの急進的な尊王攘夷派の志士たちがいました。彼らは尊王攘夷派の公家と情報交換しながら攘夷運動や討幕運動を画策しました。

 文久3年(1863年)に「八月十八日の政変」が起こると、幕府は急進的な尊攘派公家を長州藩に追放し、尊王攘夷派の志士たちの「学習院」への出入りを禁止し陳情建白書の受付も廃止されました。元治(1864年)以後は「学習院」では政治色の強い教育は取りやめられ、本来の教育機関の機能を果たすようになりました。

 慶応3年(1867年)の大政奉還後の混乱の中で「学習院」の活動は停止し閉鎖した状態となりましたが、混乱が収まると新政府は慶応4年(1868年)3月12日に「学習院」を復興しました。同年4月15日に「大学寮代」と名称が変更されました。その後、新政府は新たな学校制度を模索しましたが国学者と漢学者の間で対立が起ったため明治元年(1868年)9月16日に国学・神道を教える「皇学所」と漢学・儒学を教える「漢学所」を設立することを決めました。これによって「大学寮代」は廃止されました。

 明治2年9月(1869年)、「大学校」を設立することから「皇学所」と「漢学所」が廃止されましたが、再開を求める運動が起こり「皇学所」と「漢学所」を統合した「大学校代」が設立されました。しかし日本の中心は東京となっていたため生徒が十分に集まりませんでした。また国学者たちと漢学者たちの対立が再燃したことから明治3年(1870年)8月に官立学校 「大学校代」は廃止されました。その後は京都府の管轄の「府学」となり京都府中学校となりました。

 現在の「学習院」は明治10年(1877年)に皇族や華族の教育機関として設立された旧制学習院がもとになっています。第二次世界大戦後の昭和22年(1947年)に廃止され、新たに私立学校として設立されたのが「学校法人学習院」です。区別をするため幕末期の「学習院」は「京都学習院」とも呼ばれます。

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2025年2月12日 (水)

黒田清隆が「超然主義」を表明(明治22年 1889年2月12日)

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 明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が公布されました。時の内閣総理大臣の黒田清隆は翌日の2月12日に鹿鳴館(東京府麹町区内山下町薩摩藩邸跡地に建造)において開催された午餐会(昼食会)において地方官らを前に政府は「超然として政党の外に立ち」とする「超然主義」を表明しました。 大日本帝国憲法起草した伊藤博文も「超絶主義」の立場を取っていました。

黒田清隆 伊藤博文
黒田清隆(左)と伊藤博文(右)

 「超然主義」は動静に関与せず権力や制約などから超越し平然と独立の立場を貫く主義のことです。日本の内閣は大日本帝国憲法による帝国議会から大正時代初期まで、議会や政党に制約されず行動する「「超然主義」の立場を取りました。

 黒田清隆の「超然主義演説」の内容は下記の通りです。

憲法は敢て臣民の一辞を容るる所に非るは勿論なり。唯た施政上の意見は人々其所説を異にし、其合同する者相投して団結をなし、所謂政党なる者の社會に存立するは亦情勢の免れさる所なり。然れとも政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らさる可らす。各員宜く意を此に留め、不偏不党の心を以て人民に臨み、撫馭(ぶぎょ)宜きを得、以て国家隆盛の治を助けんことを勉むへきなり

 当時の言葉遣いでわかりにくいのですが現代語にすると下記のような内容になります。

憲法は、国民が勝手に意見を言うようなものではないのは当然です。しかし、政治のやり方についての意見は、人々それぞれが違う考えを持っており、気の合う者同士が団結して、いわゆる政党というものが社会に存在するのは、仕方のないことです。それでも政府は常に一定の方向性を持ち、政党とは関わりなく、公平で正しい立場を取らなければなりません。各役人はこのことを心に留め、偏りや党派に偏ることなく人民と接し、適切に統治を行い、国家の発展に尽くすように努めなければなりません。

 黒田清隆がこうした考えを示したのは日本の国力を高めるために新規事業の立ち上げや軍備増強などの改革を断固として進める必要があると考えたからでしょう。幕末に列強との国力の差を知り、戊辰戦争を戦い抜き、北海道開拓の経験からそのような考えに至ったに違いありません。

 しかしながら、井上毅をはじめとする伊藤博文以外の大日本帝国憲法起草者らは「超絶主義」はドイツ宰相オットー・フォン・ビスマルクが主導した専制政治の体制を日本に導入するようなものであり、明治天皇の「五箇条の御誓文」の言葉「「広く会議を興し、万機公論に決すべし」に反すると批判しました。そのような批判に対して黒田清隆と伊藤博文は耳を傾けず帝国会議に臨みました。

 帝国会議が開かれると黒田内閣に対して民権派の野党が抵抗したことにより議会の審議が進まなくなりました。その後の内閣も「超絶主義」を取り続けたことから国民の支持を落とすことになりました。やがて政府よりの野党も「超絶主義」による国粋主義化を憂慮し内閣に反発するようになりました。このような状態では本来の目的を達成することができないと考えた伊藤博文は「超然主義」を撤回することにしました。明治33年(1900年)9月15日に近代国家を実現するための政党「立憲政友会」を結成しました。同年10月19日に第4次伊藤内閣の総理大臣となり「超然主義」を否定するようになりました。その後も「超絶主義」の内閣が樹立することもありましたが、大正時代になると「超絶主義」は時代遅れの政治体制となり淘汰されました。

 黒田清隆と伊藤博文は「超然主義」を採ることで専制政治を推し進めようとしていたのでしょうか。伊藤博文は「超然主義」について次のように語っています。

苟も帝国議会の議長たるものは自己の撰挙せられたる一部の臣民を代表するにあらすして……汎(あまね)く全国の利害得失を洞察し、専ら自己の良心を以て判断するの覚悟なかるへからず。然りと雖も互いに其意見を異にするに至ては勢ひ党派を生ずべし。蓋(けだし)議会又は一社会に於て党派の興起するは免れ難しと雖、一政府の党派は甚だ不可なり。

 これを現代語に訳すと次のようになります。

帝国議会の議長たる者は、選出された一部の臣民のみを代表するのではなく、広く全国の利害得失を洞察し、専ら自己の良心に基づいて判断する覚悟を持たなければならない。しかし、意見を異にするに至っては、党派が生じるのは必然である。議会や社会において党派の出現は避けられないものの、政府が党派に分かれることは極めて不適切である。

 黒田清隆の演説と伊藤博文の演説を読んでみると派閥の意見に与せず正しい判断に基づいて公正な立場を取らなければならないということが趣旨となっています。明治維新後、日本の政治を主導してきたのは江戸幕府を倒し戊辰戦争に勝利した薩摩藩と長州藩を中心とする新政府でした。

 薩摩藩士の黒田清隆と長州藩士の伊藤博文は内戦の戦後処理など薩長閥のやり方をよく知っていたはずです。2人は日本の政治が薩長閥からなる体制から脱却する必要性を考えていたのかもしれません。

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2025年2月11日 (火)

大久保利通、木戸孝允、板垣退助が政府方針を協議|大阪会議(明治8年 1875年2月11日)

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 征韓論の是非で政府首脳が対立した「明治6年の政変」により、征韓派の参議の西郷隆盛、江藤新平、板垣退助などが政府を去り下野しました。政局が混乱する中で大久保利通を中心とする内務省が設置され政府の再編が進められました。しかし、台湾出兵をめぐり征韓論に反対しながら台湾へ派兵することは矛盾があるとして木戸孝允が職を辞して下野しました。

 当時、政府が進めた廃藩置県などの改革により士族の政府に対する不満が高まっていました。明治7年(1874年)に征韓論で下野した江藤新平らが不平士族の反乱「佐賀の乱」を起こしました。同年、東京では赤坂喰違坂で岩倉具視が不平士族の武市熊吉らに襲撃される「喰違の変」が起こりました。下野していた板垣退助は愛国公党を結成し自由民権運動を展開していました。さらに左大臣の島津久光が保守的な改革反対の建議書を提出するなど政局は混乱の一途をたどりました。

 【参考】「佐賀の乱」勃発(1874年2月1日)|明治政府に対する士族の反乱

 【参考】武市熊吉|喰違の変(1874年1月14日)

 このような不安定な政情にあって、政府の弱体化を危惧した前大蔵大輔の井上馨と参議の伊藤博文は久保利通と木戸孝允と板垣退助の3人が協調する必要があると考え三者による会議を開くよう画策と仲介を始めました。

井上馨 伊藤博文
井上馨(左)と伊藤博文(右)

 井上馨と伊藤博文は大久保利通を説得して下野した木戸孝允と板垣退助を政府に復帰させようと考えていましたが一度に一同が集まると紛糾すると考え個別の会談を開きました。明治8年(1875年)1月22日には木戸孝允と板垣退助の会談が行われ、同月29日には大久保利通と木戸孝允の会談が行われました。当初は三者三様の考えがまとまりそうにありませんでしたが政局を安定させる必要があると考えていた大久保利通が柔軟な姿勢を見せたことから三者の考えが一致しました。

大久保利通 木戸孝允 板垣退助
大久保利通(左)・木戸孝允(中)・板垣退助(右)

 同年2月11日、木戸孝允が大久保利通と板垣退助を招待するという形で井上馨と伊藤博文の同席のもと北浜の料亭「加賀伊」で三者会議「大阪会議」が行われました。この会議に至る前に政治の方向性は決まっていたため、「大阪会議」では政治の話はせず歓談のみの酒席となったと伝えられています。

 この一連の会議により木戸孝允と板垣退助は同年3月から政府に復帰することなり、政府は立憲政治に向けて改革を進めることになりました。同年4月14日に明治天皇より「漸次立憲政体樹立の詔書」が発せられ、三権分立のため立法機関として元老院、司法機関として大審院、地方自治よる行政の確立をめざすため地方官会議が開かれることになりました。

 しかしながら木戸孝允と板垣退助が対立するようになると板垣退助は参議を辞任しました。また木戸孝允も板垣退助が下野したことや自身の持病により政府内の立場が弱まりました。また板垣退助と協調していた島津久光が主張が認められないという理由で辞表を提出しますた。結果として、政府は大久保利通と岩倉具視が実権を握る体制に戻りました。大阪会議の体制は半年で崩壊してしまいましたが、立憲政体や議会政治への移行など日本政治の近代化に向けた重要な一歩を印すことになりました。

 

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2025年2月 1日 (土)

戸籍制度の全国統一「壬申戸籍」が施工(明治5年2月1日)

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 江戸時代には戸籍は存在しておらず国民は「宗門人別改帳」(しゅうもんにんべつあらためちょう)によって管理されいました。「宗門人別改帳」は豊臣政権が所領を詳しく調査するために作成した「人別改帳」と江戸幕府がキリスト教禁止令以降に宗教の信仰を調査するために作成した「宗門改帳」が統合されたものです。幕府は各藩に「宗門人別改帳」の定期的な更新を義務づけてました。江戸時代後期に宗教信仰の管理の必要性が薄れると「宗門人別改帳」 は戸籍原簿や租税台帳のような役割を果たすようになりました。

 明治維新により大政奉還がなされ江戸幕府が終焉すると、明治政府は明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県を行いました。これによって各藩は廃止され地方の統治は中央政権のもとに府や県として一元管理されるようになりました。明治政府は廃藩置県を実施するにあたり、中央政権の管理のもとに「宗門人別改帳」 を全国統一することが必要不可欠と考え、同年4月4日に「日太政官布告第一七〇号」により戸籍法を公布しました。明治5年(1872年)2月1日に現在の戸籍のもとになる戸籍制度を施行しました。

明治時代後期の戸籍
明治時代後期の戸籍
(イメージ画像「壬申戸籍」ではない)

 この戸籍は実施年が干支が干支が壬(みずのえ)申(さる)の明治5年だったことから「壬申戸籍」(じんじんこせき)と呼ばれています。現在の市町村が管理する戸籍を遡ると源流は「壬申戸籍」に至ります。

 新たな戸籍制度の導入によって戸籍が全国一律の基準で集計されるようになり、皇族・華族・士族・卒族・地士・旧神宮・僧・尼・平民など身分ごとに個別に登録されるようになりました。最初の集計結果では当時の日本の人口は約3千300万人とされています。その後、身分制度は撤廃されましたが壬申戸籍に記載された身分の項目は残りました。明治19年に改められた戸籍にも身分が転記されていました。

 明治31年(1898年)の戸籍法改正で「壬申戸籍」は新しい戸籍の「改製原戸籍」となりました。改製原戸籍の法律で定める保存期間が終了すると「壬申戸籍」は廃棄されることになりましたが閲覧が可能な市町村も存在しました。

 「壬申戸籍」実際には廃棄されておらず法務局で封印され厳重に保管されており非公開となっています。身分が記載されており差別に繋がることから開示請求を行っても閲覧することはできません。しかし流出した事例はありました。

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2025年1月31日 (金)

生命保険の日(明治15年 1882年1月31日)

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 明治15年(1882年)1月31日、日本で初めて生命保険が支払われたというニュースが新聞で報じられました。これによって生命保険が広く知られるようになったことから一般社団法人MDRT日本会が顧客のために初心を忘れないようにとの思いを込めて1月31日を「生命保険の日」と制定しました。生命保険を受け取ったのは1月20日に心臓病で急死した警察官の遺族でした。保険料は30円に対して保険金1000円が支払われました。

 さて日本で生命保険を紹介したのは福沢諭吉とされています。安政7年(1860年)に万延元年遣米使節の随員として渡米した諭吉は慶応3年(1867年)にアメリカ合衆国に注文した軍艦を受け取りに行く幕府軍艦受取委員の随員として再び渡米しました。

福沢諭吉
福沢諭吉

 この渡米で諭吉はアメリカ合衆国の文化を見聞しましたが上司の命に従わなかったという理由で帰国後に謹慎を命じられました。この謹慎中に諭吉は欧米の文化を紹介する著書「西洋旅案内」を執筆しました。この著書の中で諭吉は欧米では損害保険や生命保険などの保険制度が導入されていることを紹介しています。

福沢諭吉著「西洋旅案内」
福沢諭吉著「西洋旅案内」

 諭吉の著書で保険制度を知った岩倉使節団随員の若山儀一らは明治13年(1880年)に日本初の生命保険会社「日東保生会社」を設立しました。しかし当時の日本では人の死によって金儲けをする商売という倫理的問題の指摘もあり加入者も少なく倒産してしました。明治14年(1881年)、諭吉の門下の阿部泰蔵が有限明治生命保険会を設立しました。これが日本最古の現存する明治生命保険です。明治21年(1888年)には帝国生命(現朝日生命)、明治22年(1889年)には日本生命が設立されました。

 第二次世界大戦前までの保険は被保険者が死亡したときに遺族に補償金を支払う生命保険よりも老後の生活のための貯蓄性の高い養老保険が主流でした。これは家庭の大黒柱である家長が亡くなっても親戚縁者で遺族を支え合うのが一般的だったからです。第二次世界大戦後は核家族化が進んだため遺族の生活を補償する終身保険などが主流となりました。

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2025年1月26日 (日)

丸井今井呉服店小樽店

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 北海道百貨店の丸井今井の源流は明治4年(1872年)4月に新潟県南蒲原郡三条町出身の今井藤七と高井平吉が札幌の創成橋の創川河畔で開業した小間物屋の今井商店です。最初の今井商店はむしろ敷きの屋台のような簡素な店でしたが、低価格で親切な対応が評判となり明治7(1874年)に移転し丸井今井呉服店を開きました。当時の北海道は開拓途上でした。丸井今井呉服店は物資を仕入れて低価格で販売しました。内地から移住してきた人々の生活の支えにもなり店は大繁盛しました。

 明治21年(1888年)には洋服の販売も開始し、明治23年(1890年)には滝川支店、明治24年(1891年)に小樽支店と室蘭支店を開きました。明治25年(1892年)には函館支店、明治30年(1897年)には旭川支店を開きました。大正、昭和時代を通じて順調に成長し北海道で最大の丸井今井の百貨店グループとなりました。

丸井今井呉服店小樽店
丸井今井呉服店小樽店

 丸井今井はさらなる発展をめざして新規事業を展開し多角経営化を図りました。事業は順調でしたが平成9年(1997年)11月にメインバンクの北海道拓殖銀行が経営破綻すると事業の多角化が仇となり財務体質が悪化して経営危機に陥りました。その後、再建をめざしましたが経営不振から脱却することはできず平成21年(2009年)に倒産しました。

 現在、丸井今井は札幌本店と函館店が存在していまが、この2つの丸井今井は三越伊勢丹ホールディングスの完全子会社として運営されています。札幌本店と函館店が存在しています。

 さてこの丸井今井小樽店の写真は自宅のアルバムの中にあったものです。丸井今井小樽店は明治24年10月丸井呉服店小樽支店として色内村(現在は稲穂町)で開業しました。この写真の建物には「丸に井」と「店服呉井今」(今井呉服店)の看板があります。建物の前の「のもきは」(はきもの)店などがありずいぶん古い写真と思います。丸井今井は小樽都通り商店街にありましたがこの通りは昭和41年にアーケードがかけられていますから、この写真はそれよりも前に撮影されたものと思われます。

 自分が小樽に住んでいた頃には丸井今井の他に大國屋という百貨店がありました。小樽を離れてしばらくしてから大國屋が閉店し丸井今井が小樽で唯一の百貨店となりました。平成17年(2005年)4月に丸井今井は不採算店として小樽店の閉店を発表しました。店舗存続の署名活動などが行われましたが同年10月に閉店となりました。

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