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明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法が公布されました。時の内閣総理大臣の黒田清隆は翌日の2月12日に鹿鳴館(東京府麹町区内山下町薩摩藩邸跡地に建造)において開催された午餐会(昼食会)において地方官らを前に政府は「超然として政党の外に立ち」とする「超然主義」を表明しました。 大日本帝国憲法起草した伊藤博文も「超絶主義」の立場を取っていました。
黒田清隆(左)と伊藤博文(右)
「超然主義」は動静に関与せず権力や制約などから超越し平然と独立の立場を貫く主義のことです。日本の内閣は大日本帝国憲法による帝国議会から大正時代初期まで、議会や政党に制約されず行動する「「超然主義」の立場を取りました。
黒田清隆の「超然主義演説」の内容は下記の通りです。
憲法は敢て臣民の一辞を容るる所に非るは勿論なり。唯た施政上の意見は人々其所説を異にし、其合同する者相投して団結をなし、所謂政党なる者の社會に存立するは亦情勢の免れさる所なり。然れとも政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らさる可らす。各員宜く意を此に留め、不偏不党の心を以て人民に臨み、撫馭(ぶぎょ)宜きを得、以て国家隆盛の治を助けんことを勉むへきなり
当時の言葉遣いでわかりにくいのですが現代語にすると下記のような内容になります。
憲法は、国民が勝手に意見を言うようなものではないのは当然です。しかし、政治のやり方についての意見は、人々それぞれが違う考えを持っており、気の合う者同士が団結して、いわゆる政党というものが社会に存在するのは、仕方のないことです。それでも政府は常に一定の方向性を持ち、政党とは関わりなく、公平で正しい立場を取らなければなりません。各役人はこのことを心に留め、偏りや党派に偏ることなく人民と接し、適切に統治を行い、国家の発展に尽くすように努めなければなりません。
黒田清隆がこうした考えを示したのは日本の国力を高めるために新規事業の立ち上げや軍備増強などの改革を断固として進める必要があると考えたからでしょう。幕末に列強との国力の差を知り、戊辰戦争を戦い抜き、北海道開拓の経験からそのような考えに至ったに違いありません。
しかしながら、井上毅をはじめとする伊藤博文以外の大日本帝国憲法起草者らは「超絶主義」はドイツ宰相オットー・フォン・ビスマルクが主導した専制政治の体制を日本に導入するようなものであり、明治天皇の「五箇条の御誓文」の言葉「「広く会議を興し、万機公論に決すべし」に反すると批判しました。そのような批判に対して黒田清隆と伊藤博文は耳を傾けず帝国会議に臨みました。
帝国会議が開かれると黒田内閣に対して民権派の野党が抵抗したことにより議会の審議が進まなくなりました。その後の内閣も「超絶主義」を取り続けたことから国民の支持を落とすことになりました。やがて政府よりの野党も「超絶主義」による国粋主義化を憂慮し内閣に反発するようになりました。このような状態では本来の目的を達成することができないと考えた伊藤博文は「超然主義」を撤回することにしました。明治33年(1900年)9月15日に近代国家を実現するための政党「立憲政友会」を結成しました。同年10月19日に第4次伊藤内閣の総理大臣となり「超然主義」を否定するようになりました。その後も「超絶主義」の内閣が樹立することもありましたが、大正時代になると「超絶主義」は時代遅れの政治体制となり淘汰されました。
黒田清隆と伊藤博文は「超然主義」を採ることで専制政治を推し進めようとしていたのでしょうか。伊藤博文は「超然主義」について次のように語っています。
苟も帝国議会の議長たるものは自己の撰挙せられたる一部の臣民を代表するにあらすして……汎(あまね)く全国の利害得失を洞察し、専ら自己の良心を以て判断するの覚悟なかるへからず。然りと雖も互いに其意見を異にするに至ては勢ひ党派を生ずべし。蓋(けだし)議会又は一社会に於て党派の興起するは免れ難しと雖、一政府の党派は甚だ不可なり。
これを現代語に訳すと次のようになります。
帝国議会の議長たる者は、選出された一部の臣民のみを代表するのではなく、広く全国の利害得失を洞察し、専ら自己の良心に基づいて判断する覚悟を持たなければならない。しかし、意見を異にするに至っては、党派が生じるのは必然である。議会や社会において党派の出現は避けられないものの、政府が党派に分かれることは極めて不適切である。
黒田清隆の演説と伊藤博文の演説を読んでみると派閥の意見に与せず正しい判断に基づいて公正な立場を取らなければならないということが趣旨となっています。明治維新後、日本の政治を主導してきたのは江戸幕府を倒し戊辰戦争に勝利した薩摩藩と長州藩を中心とする新政府でした。
薩摩藩士の黒田清隆と長州藩士の伊藤博文は内戦の戦後処理など薩長閥のやり方をよく知っていたはずです。2人は日本の政治が薩長閥からなる体制から脱却する必要性を考えていたのかもしれません。
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