カテゴリー「映画・テレビ」の155件の記事

2021年5月25日 (火)

映画「スターウォーズ」米国公開(1977年5月25日)

 ジョージ・ルーカス監督作品の映画「スター・ウォーズ」が日本で公開されたのは1978年7月1日でした。日本ではその約4ヶ月前の1978年2月25日にスティーブン・スピルバーグ監督作品の映画「未知との遭遇」が公開されていました(コロログ 夜明け前「映画「未知との遭遇」日本公開(1978年2月25日)」)。国内では特撮テレビドラマやSFアニメなどが流行していたこともあって、これらアメリカのSF映画を見に行くのを楽しみにしていたことを覚えています。

Star Warsのポスター
Star Warsのポスター

 当時は地球人と宇宙人の戦いを主題とするSF映画やテレビドラマを見慣れていたせいもあり、地球人と宇宙人の出会いを壮大に描いた「未知との遭遇」はとても目新しく感じました。その一方で地球人と宇宙人の戦いのシーンがなかったため少し期待外れの部分もありました。

 その後の公開されたのが「スター・ウォーズ」でした。「スター・ウォーズ」は宇宙戦争の映画ですが、地球人と宇宙人の戦いではなく人間同士の争いを主題としたもので、これも目新しさを感じました。「スター・ウォーズ」は戦争映画、西部劇、日本の武士道や時代劇、ミュージカル、ヒューマニズムなどのエッセンスが取り込まれた壮大なスペース・オペラでした。「未知との遭遇」の宇宙人との接近遭遇を見た後、人間も宇宙人も当たり前のように登場する「スター・ウォーズ」には時間的なつながりのような印象を持ちました。

 ところが、後になってわかったのですが、米国では「未知との遭遇」が公開されたのは1977年11月16日で、「スター・ウォーズ」の公開は1977年5月25日でした。つまり自分も含めて多くの日本人は「未知との遭遇」を見た後に「スター・ウォーズ」を見たわけですが、実際には「スター・ウォーズ」の方が先に公開されていたのです。両作品の時間的なつながりのような印象は、自分が勝手に感じただけのものでしたが、今でもその印象が残っています。

 さて「スター・ウォーズ」は試写の段階では酷評されたため、ルーカス監督は自信をすっかり失ってしまったそうです。巨額の製作費をかけた映画が大失敗になることを悟り、公開時はハワイの別荘に雲隠れして外界との接触を途絶えてしまいました。ルーカス監督はスピルバーグ監督に「スター・ウォーズ」と「未知との遭遇」の印税の2.5%を交換することを提案し、スピルバーグ監督も了承しました。「スター・ウォーズ」は公開直後から大好評となり、スピルバーグ監督が雲隠れしていたルーカス監督にその事実を伝えました。「スター・ウォーズ」は世界中で大ヒットし、現在もスピルバーグ監督は交換した印税の収益を得ています。

 「スター・ウォーズ」公開から44年、次の「スター・ウォーズ」(ローグ・スクワドロン/ Rogue Squadron)は2023年クリスマス公開予定とのことです。スカイウォーカーの話は完結しましたが、新しい世代の若者が主人公となるようです。

 

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2021年5月15日 (土)

ミッキー・マウス「プレーン・クレイジー」に登場(1928年5月15日)

 ミッキー・マウスはウォルト・ディズニーとアブ・アイワークスが創り出したキャラクターです。アメリカの文化を象徴するディズニーランドのキャラクターですが、その誕生の背景にはちょっとした裏話がありました。

 1927年、ウォルト・ディズニーとアブ・アイワークスは映画会社ユニバーサル・スタジオの依頼で映画「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を制作しました。この映画の成功をうけて、ディズニーは製作費の上乗せを求めましたが、ユニバーサル・スタジオはこの要求を拒否するとともに映画に登場したキャラクターの所有権を主張しました。交渉は決裂し、ディズニーとユニバーサル・スタジオの契約は打ち切りとなりました。その後、ユニバーサル・スタジオはディズニーのアニメーターなどを引き抜き、ディズニーは「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」に関する権利と人的リソースを失ってしまいました。

 ディズニーとアイワークスはこの崖っぷちの状況で新しい作品を企画し、その作品の登場キャラクターとしてアイワークスが創作したのがミッキー・マウスでした。当初、アイワークスは様々な動物のキャラクターを考案しましたが、ディズニーはすべてのアイデアを拒否しました。そのような状況の中で2人はかつての仕事仲間のヒュー・ハーマンが描いたマウスにヒントを得て、ミッキーマウスを生み出しました

 ミッキー・マウスは1928年11月18日にニューヨークのコロニー劇場で公開された短編アニメーションのトーキー映画「蒸気船ウィリー」でスクリーンに初登場しました。この日がミッキー・マウスの誕生日とされています。

 実はミッキー・マウスは1928年5月15日に試写された「プレーン・クレイジー(飛行機狂)」という短編アニメーションのサイレント映画に登場していました。この映画は配給会社から相手にされずお蔵入りとなりましたが、「蒸気船ウィリー」の成功を受けて、トーキー映画として作り直され1929年3月13日にシリーズ3作目として公開されました。

Plane Crazy Mickey Mouse Classic Walt Disney 1928 Sound Cartoon

 

 「プレーン・クレイジー(飛行機狂)」に登場するミッキー・マウスはやんちゃなキャラクターです。

セレブレーション! ミッキーマウス [DVD]

ミッキーマウスのスクリーンデビュー90周年を記念し、デビューから現在までのミッキーの人気短編作品だけを収録した傑作コンピレーション!

<収録内容>
・蒸気船ウィリー(1928年)
・ミッキーの大演奏会(1935年)
・ミッキーの夢物語(1936年)
・ミッキーのライバル大騒動(1936年)
・ミッキーの造船技師(1938年)
・ミッキーの移動住宅(1938年)
・ミッキーの巨人退治(1938年)
・ミッキーの船長さん(1940年)
・ミッキーのつむじ風(1941年)
・ミッキーの誕生日(1942年)
・プルートの誕生祝(1952年)
・ミッキーの魚釣り(1953年)
・ミッキーのミニー救出大作戦(2013年)

 

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2021年4月27日 (火)

ウルトラマンの空気ビニール人形(昭和42年 1967年4月2日)

 実家の写真を整理していたらウルトラマンの空気ビニール人形を高々と掲げた子どもの写真が出てきました。写真の日付は昭和42年(1967年)4月2日とありました。ウルトラマンは1966年7月17日から1967年4月9日に放送されたので、この写真は最終回のちょうど1週間前に撮影されたものです。

ウルトラマンの空気ビニール人形を掲げる子ども
ウルトラマンの空気ビニール人形を掲げる子ども(昭和42年4月 写真掲載許可済)

 ビニール人形を拡大してみました。お腹の部分に「ウルトラマン」とあります。ロゴが再現されているように見えます。また、模様も良く再現されていて、カラータイマーも確認できます。そして、目とトサカの部分が膨らんでいます。少し形が変ですが、現在だとかなり綺麗に仕上がるのでしょうが、当時は造形がたいへんだったのでしょう。

ウルトラマンの空気ビニール人形
ウルトラマンの空気ビニール人形

 ウルトラマン最終回の1週間前。後に放映されたウルトラセブンの最終回が「史上最大の侵略」前後編の2話構成だったのに対して、ウルトラマンの最終回「さらばウルトラマン」は1話で終わりました。

 1週間前の第38話「宇宙船救助命令」ではウルトラマンが終了するような雰囲気はありませんでした。事情を知らない子どもたちはウルトラマンとのお別れすることになるとは考えてもいなかったのです。

 翌週、いきなり最終回「さらばウルトラマン」が放送され、ウルトラマンがゼットンに倒されてしまいます。そして、ゾフィーに命を救われたウルトラマンはM78星雲に帰り、ハヤタ隊員は記憶を失い、普通の人間に戻ってしまいました。

 あまりの突然の出来事に子どもたちはウルトラマンとの別れを悲しみ、その後、しばらくの間はウルトラマンを偲んで夜空を見上げたのです。

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ウルトラマン 科学特捜隊ネクタイピン(本七宝)

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2021年4月26日 (月)

七人の侍が公開(1954年4月26日)

 1954年4月26日は世界で最も有名な日本映画、黒澤明監督作品「七人の侍」が公開された日です。

 この完璧な出来栄えと言われる時代劇は黒澤明監督が最初から構想していたものではありませんでした。黒澤監督は1952年に公開された志村喬主演「生きる」を撮影しているときに、現実的な時代劇を制作しようと考えました。

 黒澤監督が最初に構想した時代劇は下級武士の生活を描いた「侍の一日」という作品でした。脚本家の橋本忍氏はリアリティを追求するため上野の国立国会図書館で武士の日常生活についていろいろ調べましたが、侍が昼食をとっていたのか、いつから風呂に入るようになったのかなどの記録を見つけることができませんでした。橋本氏はこのような日常生活の基本的なことが判明しなければ現実的な時代劇は制作できないと考え、黒澤監督に相談することなく脚本を書き進めることを断念し、東宝のプロデューサーに中止を申し入れました。この橋本氏の独断の行動に対して黒澤監督は不満を述べました。橋本氏は、日本の歴史は事件については詳細に書き記されているが、侍の日常生活のような記録は一切残っておらず、これではリアリティを追求した時代劇は作れないという考えを述べました。この説明を聞いた黒澤監督はそれ以上は何も言わなかったそうです。

 「侍の一日」をお蔵入りとした黒澤監督は次に「日本剣豪列伝」を企画しました。この時代劇は上泉信綱などの剣豪を登場させ、その活躍ぶりを描いたものでした。この時代劇も脚本は橋本氏が担当しましたが、多くの剣豪の戦いの短編を集めただけでは山場の連続となり物語にならないとの結論に達し制作を断念しました。

 どうしたらリアリティを追求した時代劇を制作できるのか。あるとき黒澤監督と橋本氏は戦国時代の浪人は全国を流浪しながらどのようにして生活の糧を得ていたのかという素朴な疑問がわき、東宝の担当者に調べるように頼みました。その後、映画プロデューサーの本木荘二郎氏から宿泊先する場所がない場合は百姓に飯と宿を与えてもらう代わりに盗賊などから村を守っていたという調査結果の報告があり、これが「七人の侍」の物語の原点となりました。

七人の侍ポスター(左)と黒澤明監督(右上)と橋本忍氏(右下)
七人の侍ポスター(左)と黒澤明監督(右上)と橋本忍氏(右下)

 1952年12月、黒澤監督と橋本氏は脚本の執筆に小国英雄氏を加えて熱海の旅館「水口園」に詰めて脚本の執筆を始めました。黒澤監督は七人の特徴を詳細に設定し、橋本氏と小国氏とひとつひとつのシーンの脚本を作り上げていきました。

 翌1953年5月27日に「七人の侍」の撮影が開始されました。当初は10月上旬の公開をめざし90日で撮影する予定でしたが、撮影は分散したロケ地や悪天候の影響を受けて大幅に遅れ、9月になっても全体の1/3程度しか撮影できておらず、予算も使い果たしていました。撮影は中断となり、東宝は制作を続けるのか中止とするのか決断に迫られましたが、予算を追加して制作を続行することを選択し、11月に撮影が再開されました。ところがその後も撮影は円滑に進まず、1954年1月に再び撮影が中断、東宝は黒澤監督にこれまで撮影したところまでを試写するように要求し、黒澤監督はその要請に応えました。その結果、撮影続行の決断がなされ、2月の極寒のなかで豪雨の決戦シーンが撮影されました。大雪が降るなどして撮影は困難を極めましたが3月19日にすべての撮影を終了しました。

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2021年4月 3日 (土)

仮面ライダー放送開始50周年(昭和46年 1971年4月3日)

 仮面ライダーは昭和46年(1971年)4月3日に放送が開始されました。今年は2021年ですから放送開始50周年になります。

 当時はウルトラマンのような巨大ヒーローが怪獣と戦う特撮ドラマをよく見ていました。ウルトラマン以前には等身大のヒーローが主流でしたが、巨大ヒーローに慣れ親しんでいた世代にとっては等身大のヒーローの登場は新鮮だったのです。また、多くの巨大ヒーローの必殺技は光線や飛び道具でしたが、仮面ライダーはパンチとキックとジャンプとオートバイのみで戦い必殺技はジャンプとキックを組み合わせたライダーキックでした。特段の武器を使わずに戦う点でも仮面ライダーは新鮮でした。

 仮面ライダーが大人気となった理由のひとつに、子どもたちにとって「仮面ライダーごっこ」が遊びやすかったという点があると思います。戦いはジャンプとパンチとキックだけですから道具はいりませんし、オートバイの代わりは自転車です。自転車で走り急ブレーキをかけて後輪を滑らせるターンや自転車に腹這いになって乗る練習をよくしました。

 佐々木剛さん演じる一文字隼人の仮面ライダー2号が登場すると、それまでホラー系を意識していた仮面ライダーの雰囲気が明るくなりました。そして、本郷猛が戻ってくると仮面ライダー1号と2号が揃って活躍するようになり、こんな贅沢なことがあるのかと思って見ていました。。

 この背景には本郷猛役の藤岡弘、さんがオートバイで大怪我をしていたことは知る由もありませんでしたが、仮面ライダー2号の登場は複数のヒーローが活躍する特撮ドラマのきっかけになったと思います。

「仮面ライダーごっこ」もヒーロー役が2人でできるようになり、ますます盛り上がったのです。自分のまわりでは不思議と怪人をやりたがる子もいましたので役決めはもめずにできました。また千葉治郎さん(現:矢吹二朗さん)演じる滝和也など役回りはいろいろありました。一番、揉めたのは誰がおじさん役の立花藤兵衛をやるかだったように思います。

 「仮面ライダーごっこ」では仮面ライダーのアクションを真似て怪我をする子どももたくさんいたようです。高いところから飛び降りることに挑戦することも多かったように思います。番組中に本郷猛と一文字隼人が「仮面ライダーごっこ」をする子どもたちに、仮面ライダーだからできることだと注意をするシーンがありました。

 次のイラストは自分が子どもの頃によく描いていた仮面ライダーの絵を再現したものです。たくさん集めていた仮面ライダースナックのカードを見ながら、仮面ライダーのいろいろな絵を描いたことをよく覚えています。

仮面ライダー
仮面ライダー

 あれから50年、仮面ライダーはずっと続いています。お年寄りから子どもまでが知っているヒーローはそうはいません。そして、仮面ライダーだけではなく、仮面ライダーに影響された特撮ヒーローもたくさん登場しました。

 原作の故石森章太郎さん、番組のスタッフの皆さん、ファンの皆さん、仮面ライダー50周年おめでとうございます。

 仮面ライダーは世代を超えて共通の思い出になっています。

 仮面ライダーを世に送り出してくれたことに感謝します。

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2021年3月18日 (木)

ダンとアンヌとウルトラセブン

ダンとアンヌとウルトラセブン: ~森次晃嗣・ひし美ゆり子 2人が語る見どころガイド~

森次 晃嗣 (著) ひし美 ゆり子 (著) 円谷プロダクション (監修)

 この本はウルトラセブンとモロボシダン隊員を演じた森次晃嗣さんと友里アンヌ隊員を演じたひし美ゆり子さんが、各話のエピソードや当時の出来事などを対談形式で振り返る一冊です。 お二人は過去にもテレビや雑誌などでの対談で当時のエピソードを披露されていますが、この本はその集大成とも言える本です。また、ここ数年、お二人はファンミーティングでドラマを振り返られていました。新しい話も加わって、全話に渡って内容を深く掘り下げた対談となっています。巻末にはお二人に加えて、ウルトラマン、アマギ隊員役の古谷敏さん、制作主任の高山篤さんが登場します。この本は当時の様子を伝える貴重な資料でもあります。

 さて、ウルトラセブンは1967年10月1日に放送開始ですから、2022年には55周年を迎えます。いろいろと記念イベントが開催されると思いますが、この本のエピソードは永年に語り継がれていくでしょう。

ウルトラセブンの各話をダンとアンヌが紹介

 永遠の名作『ウルトラセブン』の各話を、主人公のモロボシダン役の森次晃嗣さんと、アンヌ役のひし美ゆり子さんが対談形式で紹介します。
2人が出演した人間ドラマのシーンを中心に、ストーリーの見どころはもちろん、ゲストで登場されたの方の印象、ロケ地での様々な出来事、宇宙人や怪獣の造型など、撮影時のエピソードが満載です。『ウルトラセブン』の初心者の方も何度も見ているファンの方も、この本でセブンの世界がさらに楽しいものになります。

【編集担当からのおすすめ情報】

 森次晃嗣さん、ひし美ゆり子さんの対談が1冊の本にまとまるのは、実は今回が初めて。さらに巻末にはアマギ隊員役の古谷敏さん、制作主任の高山篤さんとの「同窓会」的座談会も特別収録。いままであまり語られてこなかった制作の裏話が公開されます!

出版社 : 小学館 (2021/2/10)
発売日 : 2021/2/10
言語 : 日本語
単行本 : 119ページ
ISBN-10 : 4093887977
ISBN-13 : 978-4093887977
寸法 : 14.8 x 0.9 x 21 cm

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2021年2月25日 (木)

映画「未知との遭遇」日本公開(1978年2月25日)

 1978年2月25日はスティーブン・スピルバーグ監督の映画「未知との遭遇」が日本で公開された日です。

 当時、自分は中学生で、公開日に友達と数名で映画館に「未知との遭遇」を見に行きました。映画について、事前に何も調べていないので、宇宙人に出あう映画を見に行くぐらいのおもむきで、どんな映画なのかは見てのお楽しみの状態でした。

 その頃、宇宙ものと言えばウルトラシリーズ(1966-1975年)、宇宙戦艦ヤマト(アニメ1974年)、キャプテンハーロック(漫画1977年)、「銀河鉄道999(漫画1977年)」など日本の漫画作品、テレビのアニメ番組、アニメ映画をよく見ていました。海外作品では「謎の円盤UFO(1970年)」や「宇宙大作戦(1966年、スタートレック)」などの再放送を見ていました。

 つまり、宇宙人の多くは地球を侵略しに来た悪者であり、宇宙人の映画と言えば地球人と宇宙人の戦いを主題としたものがほとんどだったのです。また、ジョージ・ルーカス監督の映画「スター・ウォーズ」が日本で公開されたのが1978年7月1日ですから、スター・ウォーズの人間同士が戦う宇宙戦争の世界観も体験していませんでした。

 「未知との遭遇」は地球人に接近遭遇する宇宙人との出会いを描写します。第二次世界大戦中にバミューダトライアングルで行方不明となったアメリカ軍の戦闘機が現れるなどの怪現象に始まり、謎の発光体や飛行物体の目撃、UFOの情報を集めながら岩山の模型を作り出す技術者ロイ、飛行物体に自ら近づきそして連れ去られるジリアンの息子バリー、謎を一緒に探り始めるロイとジリアン、宇宙人の正体が明かされていきます。

 この様子を見ている中学生たちは、宇宙人はどんな姿をしていていつ登場するのか、地球人が宇宙人や円盤にどのように立ち向かうのかなどを手に汗を握りながら想像し、球人と宇宙人の戦いが始まることを期待して見ていたわけですが、これが一向に宇宙人は姿を現さないのです。

 やがて、宇宙人と連絡を取る方法がわかり、地球人は第三種接近遭遇の準備を開始。宇宙人から受信したデータがワイオミング州のデビルズタワーの位置を示すものであることが判明すると、デビルズタワー周辺から住民を退避させます。実は技術者ロイが作っていた岩山の模型はデビルズタワーの形そっくりだったのです。宇宙人からのメッセージを機械に頼らずに受けていた人間がいたのです。技術者はデビルズタワーに向かいます。

 デビルズタワーにたくさんの円盤が現れる。いよいよ宇宙人と出くわし、戦いが始まる!

 地球人が送った信号によって、たくさんの円盤は飛び去っていきました。いやいや戦いは始まらないぞ。

 すると、デビルズタワーの背後から巨大な円盤が姿を現します。

 色光と音(レミドドソ)でメッセージのやり取りをする宇宙人と地球人。やがて巨大な円盤はデビルズタワーの頂上に着陸、円盤の入り口が開くと、あたりが眩い光で照らされます。その光の中から連れ去られた多くの地球人が返される。その中には連れ去られた幼児もいました。そして、姿を現すたくさんの宇宙人たち。

 結局のところ、宇宙人が何を目的に地球にやってきたのか明かされることはありまでんでした。宇宙人との戦いもありません。

 宇宙人と言えば、すぐに侵略だ戦争だという発想でしたが、「未知との遭遇」を見て実際の世界で宇宙人がやってきたら、このような出会いになるのかもしれないと思うようになりました。遠くに突き進む山間の道路をたくさん落書きしていた記憶があります。

 ところで後年ずいぶん大人になってから見た映画ですが、いやいやそんな平和な出会だけではないよという映画がありました。

 巨大な円盤がやってきてあっという間に地球の侵略を開始する映画「インデペンデンス・デイ」です。

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2021年2月24日 (水)

正義の味方 月光仮面参上(1958年2月24)

 「どこの誰かは知らないけれど誰もがみんな知っている」。2月24日は月光仮面のテレビ番組の放映が始まった日です。

 月光仮面が登場する前から「正義の味方」と呼ばれたヒーローはいますが、多くの国民が初めて認知した「正義の味方」と言えば月光仮面でしょう。

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函館市さかえ通りにある月光仮面の像
夜明け前「函館と月光仮面の関係」 

 月光仮面の原作者の川内康範さんは「正義の味方」をヒーローの立ち位置として定義づけました。正義とは本来神仏のように普遍的な存在で、「正義の味方」は正義を守ろうとする者ではあるものの正義そのものではないといことです。

 ですから、「正義の味方」は、悪を懲らしめ、善を助けるが、裁きはしません。加えて「正義の味方」は正義を守るのと同時に誰を守るのかという点において、普遍的な正義からぶれた判断や行動をとらざるを得ないこともあります。

 川内康範さんは「正義の味方」を象徴するものとして月を選びました。月光仮面のシンボルが満月ではなく三日月となっているのは、人の善悪や、人の心の変化を月の満ち欠けで表現したからだそうです。月光仮面の詳しい話については、ブログ  光と色と THE NEXT月光仮面|月光|光と色のヒーロー列伝②」をご一読ください。

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2021年2月 1日 (月)

日本でテレビの本放送始まる(昭和28年 1953年2月1日午後2時)

 日本初のテレビ放送はNHKが昭和14年(1939年)5月13日に実施した公開実験で行われました。翌年には公開実験で日本初のテレビドラマが放送されましたが、本放送に向けての計画は日中戦争の影響により頓挫しました。第二次世界大戦後の1945年にGHQによって日本におけるテレビの研究は中止となりましたが、翌年には解禁となりました。そして、昭和23年(1948年)6月4日にNHKが戦後初の公開実験が行い、本放送の計画が再開されました。

 それから5年後の昭和28年(1953年)2月1日午後2時、NHK東京放送局の「JOAK-TV、こちらはNHK東京テレビジョンであります」のアナウンスとともに日本初のテレビの本放送が始まりました。当時のNHK会長の古垣鉄郎は「テレビは国民生活全体の上に革命的ともいえる大きな働きを持つ」と挨拶しました。放送時間は1日約4時間で、テレビカメラはスタジオ用3台、中継用2台の合計5台しかありませんでした。映画やフィルム撮影のニュースは録画放送でしたが、多くの番組が生放送でした。もちろん白黒放送しかありませんでした。受信料は200円で、契約者数は866名でした。

 民放によるテレビ放送の計画はNHKによるテレビ放送開始前から進められていました。昭和28年(1953年)8月28日に日本テレビ放送網が開局し、民放のテレビ放送が始まりました。

 当時の一般のサラリーマンの月給は手取りで1万千円程度、テレビは20万円もしました。高価なテレビを購入することができたのは一部の富裕層のみで、多くの人はテレビを見ることすらできませんでした。そこで、日本テレビ放送網は多くの人々がテレビを見ることができるようにするため、駅や公園や街中に街頭テレビを積極的に設置する戦略を講じました。この戦略は大成功となり、プロレスやボクシングの中継が始まると、街頭テレビの前には人だかりができました。テレビが人を集める効果があり、広告宣伝の効果が極めて高いことを示すことができたのです。最初のコマーシャルは精工舎(現セイコーホールディングス)が提供する時報だったそうです。

街頭テレビでプロレスラー力道山の試合を観戦する群衆
街頭テレビでプロレスラー力道山の試合を観戦する群衆

 その後、多くの民間放送局が開局し、テレビ放送がラジオ放送に替わって主流になってきました。そして、昭和35年(1960年)9月10日、カラーテレビの放送が始まると、本格的なテレビの時代が到来したのです。

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2021年1月30日 (土)

ビートルズの最後のライブ(1969年1月30日)

 1962年10月5日、イギリスのリバプール出身のバンド、ビートルズがシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビューしました。「ラヴ・ミー・ドゥ」はミュージック・ウィーク誌トップ50で17位でした。約1ヶ月後の11月5日に発表した2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」がメロディー・メーカー誌のトップ50で1位となると、ビートルズは一躍脚光を浴びて人気グループとなり、ここにビートルズの輝かしい歴史がスタートしました。

 ビートルズは数年後にはワールド・ツァーを開始し、世界各国で最も有名な大人気のロックバンドになりました。1966年6月には武道館で日本公演を行いました。1966年10月にワールド・ツァーが終了すると、ビートルズはスタジオ録音を中心とした音楽活動や映画制作を進めました。

 1969年1月、レコーディングと映画の撮影のため映画スタジオでトゥイッケナム・スタジオでゲット・バック・セッションを開始しましたが、メンバー同士の人間関係の悪化が目立つようになってきました。ポール・マッカートニーとジョージ・ハリスンが対立し、ジョージが参加を拒否します。話し合いの結果、ジョージは復帰することになりましたが、彼の要望により、スタジオをビートルズのアップル・コア社があったサヴィル・ロウに移動し、セッション・プレイヤーとしてビリー・プレストンを参加させての再開となりました。

 このスタジオで録音された楽曲はアルバムとして直ちにリリースされず、次作「アビイ・ロード」が1969年9月に先に発表されました。このことから長らくの間ビートルズが最後に収録したアルバムは「アビイ・ロード」と考えられていましたが、1990年代になってゲット・バック・セッションが「アビイ・ロード」の発表後も続いていたことが判明しました。これによってビートルズの最終アルバムはゲット・バック・セッションの録音を中心に制作された「レット・イット・ビー」であることがわかりました。

 さて、ビートルズはゲットバックセッションの中でライブ・コンサートを収録する計画を立てていました。このコンサートは事前に通知されることなく、1969年1月30日午後にアップル・コア社の屋上で行われました。突如としてロンドンのビジネス街で始まったビートルズのコンサートを見ようと、路上ではたくさんの人がアップル・コア社の屋上を見上げ、近くのビルの屋上にもたくさんの人が集まり、警察がビートルズの演奏を制止するために出動する事態となりました。

 ビートルズは警察官が屋上に到着した後もそのまま演奏を42分間にわたって続けコンサートを終了しました。ポールは最後の曲「ゲット・バック」で「You've been playing on the roofs again, and you know your Momma doesn't like it, she's gonna have you arrested!(また屋上で遊んでるよね。ママが好きじゃないことは知ってるよ。ママに逮捕されるよ)」と歌詞を替えて歌いました。すべの曲の演奏が終わると、ジョン・レノンが「I'd like to say "Thank you" on behalf of the group and ourselves and I hope we passed the audition.(グループと我々を代表して「ありがとう」と言いたい。オーディションに通ったことと願っています)」とジョークを飛ばしました。

 このコンサートは「ルーフトップコンサート」と呼ばれ、ビートルズの最期のコンサートとなり、映画「レット・イット・ビー」のラストでみることができます。ビートルズは映画「レット・イット・ビー」の公開から1年も経たない1971年3月に解散するに至りました。

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