カテゴリー「映画・テレビ」の223件の記事

2023年1月19日 (木)

ザ・ベストテン放送開始(1978年1月19日)

 「ザ・ベストテン」は昭和53年(1978年)1月19日にTBSで放送が開始された歌番組です。毎週木曜日午後9時から生放送で放送されました。

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 この時代は歌謡曲が隆盛で各放送局で多くの歌番組が放送されていました。しかし、歌手が出演して歌うだけの番組はマンネリ化していました。そこでトークショーやコントなどを組み入れた歌番組が企画されるようになりました。

 TBSでは昭和51年(1976年10月)から「トップスターショー・歌ある限り」が放送されていましたが視聴率がふるわず、それまでとは違う新しい音楽番組を企画することになりました。そこで出てきたアイデアが人気曲を第10位から第1位まで順次発表し歌手が登場して歌うベストテン形式の番組とするものでした。この企画はすぐに了承され制作の準備が始まりました。

 当時の日本の音楽は従来の歌謡曲の他にニューミュージックが台頭し始めた頃でした。この分野のミュージシャンはテレビに出演しないことが多いことから、そのままベストテンを発表すると歌手が登場せず番組が成り立たなくなることが危惧されました。そこでベテランスタッフたちが番組が独自に選んだベストテンを発表することを提案しましたが、若手スタッフたちはありのままのベストテンを発表することを提案しました。両者の意見は対立し折り合いがつかなくなりましたが、最終的には若手スタッフの意見が取り入れられることになりました。

 昭和52年(1977年)12月27日、「トップスターショー・歌ある限り」の最終回が放送され「第19回日本レコード大賞」でノミネートされた10組の歌手が出演しました。この番組の司会を務めていたのが俳優の二谷英明さんと当時TBSアナウンサーの久米宏さんでした。

 番組の終わりに二谷さんか番組の放送終了が告知されると、後番組「ザ・ベストテン」の司会者の黒柳徹子さんが登場し新番組の案内を行いました。また久米宏さんは「ザ・ベストテン」にも引き続き出演し司会を務めることになりました。2人は同年12月31日に放送された「第19回日本レコード大賞」で司会を務めています。

 「ザ・ベストテン」は当時の人気曲をほぼそのまま発表していたためベテランスタッフが危惧していた通りニューミュージックのミュージシャンが出場辞退をする事例が多々ありました。その分、当時のアイドル歌手のトークやスタジオ演出に時間をかけることができたり、アイドル歌手が移動中の新幹線のホームなどからテレビ中継で出演して歌うなどの斬新な企画が盛り込まれました。

 こうして「ザ・ベストテン」は当時を代表する定番の音楽番組となりました。多くの人が木曜日の午後9時にテレビの前で「ザ・ベストテン」を楽しみました。「ザ・ベストテン」を見てるだけで日本で流行している歌がわかり、そして様々な演出やハプニングが楽しみとなり、金曜日には「昨日のザ・ベストテン見た?」と話題に出るほど人気だったのです。

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2023年1月 7日 (土)

スーパージェッターの日(1965年1月7日)

 スーパージェッターは漫画家の久松文雄原作のSFアニメで1965年1月7日から1966年1月20日までTBS系列局で放送されました。

 スーパージェッターは漫画の原作はなく最初からアニメとしてTBSが独自に企画したものです。TBSが「スーパージェッター」を独自に企画した背景には「エイトマン」での苦い経験がありました。TBSは「エイトマン」のアニメの放映権を米国の会社に英語の契約書を十分に確認せずに売却してしまいした。この契約書にはアニメの放映権のみならずキャラクター商品、音楽、出版などの諸権利が含まれていました。TBSは契約を撤回することもできず原作者や利害関係者に事前に確認せずに諸権利を売却してしまったのです。そこでTBSは「スーパージェッター」を全て独自に企画することにしたのです。

 さて当時見ている子どもたちはそんな大人の事情は露知らず「スーパージェッター」を毎週楽しみにしていました。ジェッターはもともと30世紀タイムパトロール723号でした。悪人ジャガーを追跡中の事故で流星号が故障し20世紀に取り残されてしまいました。30世紀に帰ることができなくなった723号は未来から来た少年ジェッターとして、国際科学捜査局で犯罪捜査を行うことになりました。

 ジェッターは特殊な腕時計を持っていてこれでタイムマシンの流星号を呼び出すことができます。流星号はもともと最高速度マッハ30で飛行することができたのですが故障によってマッハ15までしか出せなくなりました。流星号は空飛ぶ自動車です。金属製のはずなのですがその形をくにゃくにゃと変えることができます。腕度計にはタイムストッパーの機能もあり、30秒間だけ時間を止めることができます。

 ジェッターが持ってる銃はパラライザーで人を傷つけることなく麻痺させる銃です。パラライザーと言えばウルトラセブンの第2話「緑の恐怖」でアンヌ隊員がヤイアール星人の姿になった人間に向けて撃った銃です。アンヌ隊員はパラライザーを撃った後に「大丈夫、神経を麻痺させて動きを止めたの」と言っています。パラライザーはウルトラセブン初出ではなかったのです。

 様々な問題を解決していく少年の活躍がかっこよかったです。主題歌の冒頭には「僕はジェッター。1千年の未来から時の流れをこえてやってきた。流星号応答せよ、流星号、来たな良し行こう」という台詞が入っていてこれがまた良かったのです。

 玩具の腕時計をつけて「流星号応答せよ、流星号、来たな良し行こう」と呼びかけるのが子どもの間で流行しました。玩具の腕度計がないときは腕にマジックで腕度計を描いていました。いやマジックで描いた腕度計に呼びかけているのを見た親が玩具の腕度計を買ってくれたのかもしれない(^^ゞ

欲張り過ぎた正義の味方
スーパージェッターのお面をつけた欲張り過ぎた正義の味方

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昭和の風景

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2023年1月 1日 (日)

テレビアニメ「バビル2世」放送開始(1973年1月1日)

 横山光輝先生原作のテレビアニメ「バビル2世」は1973年1月1日から9月24日まで毎週月曜日午後7時から放送されました。

 バビル2世はもともと1971年に週刊少年チャンピオンで連載が始まりました。超能力者バビル2世と世界征服を狙う超能力者のヨミとの闘いの物語で第10話で2人がヒマラヤで闘う中で雪崩に飲み込まれて最終回となる予定でしが、人気が急上昇したため長期連載となりテレビアニメ化が決まりました。

 アニメ版でバビル2世が住んでいるのは「バビルの塔」ですが漫画版では「バベルの塔」でした。アニメ版第1話「五千年前からの使者」の冒頭ではバビロニアの「バベルの塔」の伝説が紹介され、神に壊された「バベルの塔」は密かに隠されていたとされています。しかしながら、第1話の後半ではバビル2世が「バビルの塔」と呼んでいます。

 どうして「バベルの塔」が「バビルの塔」になったのでしょうか。実は漫画版のタイトルは「バベル2世」でしたが、これを編集担当が「バビルの塔」と誤植してしまったのが原因なのだそうです。漫画版ではタイトルは「バビル2世」のままとなり塔の名前は「バベルの塔」のままでしたが、アニメ版では第1話の冒頭だけが「バベルの塔」とされその後は「バビルの塔」になっています。

バビル2世 1 (少年チャンピオン・コミックス) コミック – 1972/6/1

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 東映アニメーションミュージアムチャンネルでバビル2世の第一話が公開されています。

 バビルの塔の主題歌はアニキこと水木一郎さんが歌っています。

【公式】バビル2世 第1話「五千年前からの使者」 <1970年代アニメ>

 

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2022年12月27日 (火)

ピーターパンの日(1904年12月27日)

 ピーターパンはスコットランドの作家ジェームス・マシュー・バリーの戯曲「ピーター・パン:大人にならない少年」(1904年)と小説「ピーター・パンとウェンディ」(1911年)の主人公です。ピーターパンの戯曲や小説は空を飛ぶことができ大人にならない少年ピーター・パンがネバーランドを冒険する物語です。

 ピーターパンが初めて登場したのはバリーの1902年の小説「白い小鳥」でした。この小説は大人向けに書かれたものです。この小説の「ケンジントンガーデンのピーターパン」と題された章でピーターパンが出てきます。生後7日目のピーターが妖精や鳥に飛ぶことを教わり、人間と鳥の中間のような子とされています。バリーはこの小説からピーターパンの話を抜き出して戯曲を作りました。

 そして1904年12月27日にロンドンのヨーク公爵劇場で戯曲「ピーター・パン:大人にならない少年」が初演されました。この舞台劇の成功により出版者が1906年に「ケンジントンガーデンのピーターパン」を出版し、1911年にバリーが小説として書き直した「ピーターとウェンディ」が出版されました。

ジェームス・マシュー・バリーとMaude Adamsがブロードウェアで演じたピーターパン
ジェームス・マシュー・バリーとMaude Adamsがブロードウェアで演じたピーターパン(1905年)

 ピーターパンの作品はいろいろありますが、自分は1991年のアメリカ映画、スティーヴン・スピルバーグ監督 、 ダスティン・ホフマンおよびロビン・ウィリアムズ主演の「フック」がお気に入りです。原作とは異なりますがピーターパンが大人になったらこうなるんだろうなという感じが秀逸に描かれています。

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2022年12月22日 (木)

映画「燃えよドラゴン」日本公開(1973年12月22日)

 映画「燃えよドラゴン」は1973年に公開されたブルース・リー主演のアクション映画です。制作はゴールデン・ハーベスト傘下でブルース・リーが代表を務めたコンコルド・プロダクションとワーナー・ブラザースの合作です。監督はロバート・クローズですが、武道精神やアクションに関する部分は実質的にブルース・リーが監督しています。

 「燃えよドラゴン」の英語タイトルは「Enter the Dragon」です。Enterは入るという意味があり、何となくハンの島への侵入をイメージしますが、このEnterは「登場」や「参上」のような意味です。ですから日本語訳は「ドラゴン登場」「ドラゴン参上」のようになるのですが、司馬遼太郎の新撰組の小説「燃えよ剣」をヒントに「燃えよドラゴン」と名付けられました。

 「燃えよドラゴン」は1973年7月26日に香港で公開、続いて8月17日に米国で公開されました。日本で公開されたのは12月22日です。「燃えよドラゴン」が公開されるとブルース・リーとカンフー映画が世界中で大人気になりました。その後、ブルース・リーは世界のアクションスターとしての不動の地位を築きあげましたが、当のブルース・リーは「燃えよドラゴン」公開前の1973年7月20日にこの世を去っていました。

燃えよドラゴンのポスター
燃えよドラゴンのポスター

 「燃えよドラゴン」には多くの名シーンがありますが、自分は冒頭で少年を指導するシーンが好きです。このシーンにはブルース・リーの武道に関する名言が詰まっています。

「Don't think. Feel. It is like a finger pointing away to the moon. Don’t concentrate on the finger, or you will miss all that heavenly glory.」

ブルース・リーとトン・ワイ
ブルース・リーとトン・ワイ

 さてこのシーンでブルース・リーに説教される少年を演じたのは董瑋(トン・ワイ)という上海出身の香港の俳優です。1954年生まれですので現在は68歳、「燃えよドラゴン」公開時点では19歳と思います。董瑋はその後も多くの映画に出演し、武術指導を行うようになり監督も務めました。「新・霊幻道士 風水捜査篇」は董瑋が監督した映画で日本人ボディービルダーの西脇美智子さんが出演しています。

 董瑋-- 我愛上了英雄

 

港電影_39導亦有道-董瑋 何謂動作設計


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ブルース・リーの誕生日(1940年11月27日)

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ブルース・リー 死亡遊戯ワイド特集号 月刊スクリーン 1978年5月号臨時増刊

ブルース・リー最新特集号 月刊スクリーン 1979年9月号臨時増刊

ブルース・リー 映画「死亡遊戯」のパンフレット BRUCE LEE'S GAME OF DEATH

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2022年12月14日 (水)

アニキ初のアニメソング「原始少年リュウが行く」

 「原始少年リュウが行く」は1971年10月30日から1972年3月25日までTBS系列で放映された東映動画制作のテレビアニメ「原始少年リュウ」のOP主題歌です。作詞は石ノ森章太郎先生が手がけ、作曲は大塩潤こと渡辺岳夫先生が手がけました。 

 「原始少年リュウが行く」を歌ったのはアニメソング界帝王と呼ばれた我らがアニキ(ANIKI)こと水木一郎さんです。アニキは昭和43年(1968年)にレコードデビューを果たしました。5枚のシングルを発売しましたが残念ながら歌謡曲歌手としては成功しませんでした。1971年には作曲家に転身することを考えていましたが、そのときに仮面ライダーの音楽制作に関わり、アニメソングの女王こと歌手の堀江美都子さんの担当をしていた日本コロンビアの木村英俊プロデューサーの勧めで「原始少年リュウが行く」を歌うことにななったのです。

 「原始少年リュウが行く」はアニキにとって6枚目のシングルで初めて歌ったアニメソングです。このシングルには堀江美都子さんが歌うEDテーマ「ランのうた」が収録されました。

〇「原始少年リュウが行く」

歌:水木一郎
作詞:石森章太郎 / 作曲:大塩潤 / 編曲:高原哲

〇「ランのうた」

歌:堀江美都子
作詞:石森章太郎 / 作曲:大塩潤 / 編曲:高原哲

 次のレコードは当時よく販売されていたオムニバス版の「原始少年リュウ/ゲゲゲの鬼太郎」のレコードです。シングルですが33回転で片面に「原始少年リュウが行く」「ランのうた」の2曲が収録されています。もう片面は「ゲゲゲの鬼太郎」「カランコロンの歌」が収録されています。

原始少年リュウ/ゲゲゲの鬼太郎
原始少年リュウ/ゲゲゲの鬼太郎

 アニキが原始少年リュウの主題歌を手がけてから多くのアニメソングを歌唱するようになりました。「超人バロム1」「変身忍者 嵐」「マジンガーZ」「グレートマジンガー」「バビル2世」「ロボット刑事」「仮面ライダーX」「仮面ライダーストロンガー」「がんばれ!!ロボコン」「宇宙の騎士テッカマン」など数多くの特撮・アニメソングを歌いアニメソング界帝王として不動の地位を築いたのです。

 水木一郎さんがアニキと呼ばれるのはNHKの「おかあさんといっしょ」の初代うたのおにいさんである田中星児さんの後を継いで1976年4月から1979年3月まで2代目うたのおにいさんとして活躍したからです。アニキは当時の子どもたちにとって身近な存在だったのです。

 ありがとうアニキ!アニキは我々にとって永遠の存在、永遠のヒーローです!

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2022年12月 8日 (木)

ライダーマン登場(1973年12月8日)

 1971年4月に放送が始まった仮面ライダーは1973年2月10日に最終回を迎えました。翌週2月17日から始まったのが仮面ライダーV3でした。

 仮面ライダーの最終回は第98話でしたが本当の締めくくりは仮面ライダーV3の第2話です。第1話で瀕死の重傷をを負った宮内洋さん演じる風見志郎が仮面ライダー1号と2号による改造手術によって仮面ライダーV3となります。そして第2話で1号と2号が体内に原子爆弾を抱え込んだカメバズーカとともに洋上で大爆発、世界の平和を仮面ライダーV3に託します。その後、V3は単独でデストロンと戦いますが第33話「危うし! 帰って来たライダー1号、2号!!」でダブルライダーが再登場します。3人の仮面ライダーが再び揃ったのです。

 そして1973年12月8日に放送された第43話「敵か味方か? 謎のライダーマン 」で山口豪久(山口暁)さんが演じる結城丈二ことライダーマンが登場します。ライダーマンは仮面ライダーシリーズとしては初めての主役ではない仮面ライダーです。仮面ライダーと言ってもライダーマンは1号、2号、V3と違って完全な改造人間ではありません。改造されているのは右腕だけで強化服で戦闘力を高めているだけですから、常人を超える身体能力は有していますが他の仮面ライダーには及びません。ですからマスクも口や顎が出たままの人間であることがわかるものになっています。

 結城丈二は元々はデストロンの科学者でした。孤児だった結城丈二はデストロン首領に引き取られ育てられました。そのため首領に恩義を感じ、デストロンは平和をめざす組織で仮面ライダーは敵と信じていました。しかし、将来の大幹部候補である結城丈二を好ましくないと考えていたヨロイ元帥によってデストロンの裏切者に仕立てられ無実の罪を負わされてしまいます。硫酸プールで右腕を溶かされてしまいますが部下達に救われてカセットアームを装着する改造手術を受けライダーマンとなります。ヨロイ元帥への復讐を決意し、アジトに忍び込みますが逆に追い詰められたところをV3に救われます。V3から共にデストロンと戦うことを誘われますが首領には恩義があると言って拒みます。しかし、デストロンは結城丈二を抹殺しようとします。危機一髪のところを再びV3に救われデストロンと戦うことを決意します。

 その後はV3とともにデストロンと戦いますが首領への恩義は完全には消えず首相の呼びかけに惑わされたりV3から首領を救ったりしています。東京の中心部を攻撃するブルトンロケット計画を知り発射基地に単独で向かいます。そこで首領が自分を利用していただけという事実を知りますが、それでもブルトンロケット計画を中止するよう首領に懇願します。それを一蹴する首領の正体が人間ではないと知ってショックを受けますが、発射ボタンが押されたブルトンロケットに乗り込み、その軌道を変えて空中爆発させ東京の人々を救います。V3はライダーマンを讃えて仮面ライダー4号の名を贈ったのです。

 もともとライダーマンの登場は仮面ライダーV3の視聴率を維持をするための大人の事情によるものだったようです。リアルタイムで見ていた自分や友だちは完全な改造人間ではなくあまり強くないライダーマンをすぐに受け入れることはできませんでした。しかしながら物語が進むにつれて結城丈二の悲哀や限られた戦闘能力での怪人との戦いぶりを見てライダーマンを受け入れるようになりました。ライダーマンが仮面ライダーではないことも可哀想に思いました。最期にV3がライダーマンのことを仮面ライダー4号と名付けたことで何か心が救われた思いがしました。

RIDERMAN's first The Dark Knight bofre BATMAN!!

 

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2022年12月 5日 (月)

朝焼けの光の中に|ミラーマン登場(1971年12月5日)

 ミラーマンは円谷プロダクションの巨大ヒーローでウルトラシリーズとは別の企画で制作された特撮テレビドラマです。

 ミラーマンの原案は円谷プロダクションの脚本家だった金城哲夫氏が円谷プロダクションを退社するときに作成したものですが、原案そのものはメモ程度の内容でした。この原案に同社の脚本家の田口成光氏や満田かずほ監督が肉付けをして企画を作成しました。昭和44年(1969年)に小学館の学習雑誌で連載が開始され、旭通信社を通じてよみうりテレビで放送されていた「巨人の星」の後番組としてテレビドラマの作成も検討されましたが実現されませんでした。

 同じ頃、旭通信社はフジテレビで「長くつ下のピッピ」を放送するべく制作を進めていましたが原作者から許可が得られなかったため企画が頓挫しました。そこで旭通信社はフジテレビにミラーマンの企画を打診しフジテレビもこれに了承、1971年12月5日から大塚製薬単独スポンサーでミラーマンの放送が決まりました。

 当時、円谷プロダクションはTBSで「帰ってきたウルトラマン」を放送していました。ミラーマンをウルトラマンと区別するためのアイデアが盛り込まれま独特の雰囲気の特撮ドラマに仕上がりました。

 ミラーマンを最初に見たときには新鮮で不思議でした。まずは鏡の世界です。鏡京太郎は鏡や光るものがなければミラーマンに変身できないこと、鏡から別の鏡へ移動できることなどの設定です。ミラーマンの顔はウルトラマンよりもアメリカンヒーローに近くそれまでのウルトラシリーズとは異なる雰囲気のヒーローでした。光線技も鏡を主題にしておりミラー・ナイフはちょっと危ない割れた鏡やガラスなどを連想しました。敵をインベーダーと呼んでいたことにも何か新しさを感じて見ていました。

 そして主役の鏡京太郎を演じた石田信之さん。オーディションに参加したわけではなく、所属事務所が広告代理店に置き忘れた石田さんのプロフィールをプロデューサーが見て優しそうで純朴な雰囲気の石田信之を選んだそうです。鏡京太郎はミラーマンと人間の混血であり悩み事の多き青年でしたが、石田信之さんの雰囲気と演技はぴったりでした。

『ミラーマン』放映開始45周年記念!石田信之さんトークショー!

 石田信之さんとはTwitterで繋がっていて「いいね」や「返信」をいただいたことがあります。病気になられてからもイベントなど精力的に手がけておりましたが残念なことに2019年6月13日に他界されました。きっと鏡の世界へ行かれたのだと思います。

 

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2022年12月 3日 (土)

日本初のクイズ番組「話の泉」の放送開始(1946年12月3日)

 クイズ番組は1930年代の米国のラジオ放送で放送されるようになったのが始まりと考えられています。その中でも人気が高かったのが1938年から1948年までNBCラジオで放送された「Information Please 」という番組でした。このクイズ番組はラジオの一般リスナーが問題を投稿し文化人や著名人が答えるスタイルでした。

 当時の日本ではクイズ番組はありませんでした。日本で初めて放送されたクイズ番組は昭和21年(1946年)12月3日から昭和39年(1964年)3月31日までNHKラジオ第1放送で放送された「話の泉」です。「話の泉」は「Information Please 」を参考に企画されたものです。時事ネタやリスナーが投稿した問題を司会者が出題し文化人や著名人が答えていくトーク・ショーのようなクイズ番組でした。

 「話の泉」の司会は当時大人気だった元祖マルチタレントの徳川夢声が務めました。第3回から番組を盛り上げるために徳川夢声が回答者となり、その後の司会はNHKのアナウンサー務めるようになりました。

初代司会を務めた徳川夢声
初代司会を務めた徳川夢声

 欧米ではクイズ番組のことを「クイズ・ショー」や「ゲーム・ショー」と呼びます。日本では「クイズ番組」ですが「話の泉」放送当時は英語が一般的ではなかったので「当てもの」と呼ばれていました。

 なお日本でテレビで初めて放送されたクイズ番組は1953年2月5日から1954年5月30日までNHKで放送された「私の仕事はなんでしょう」という番組です。

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2022年11月30日 (水)

コロッセオには本当の名前があった

 コロッセオ(コロッセウム)はイタリアの首都ローマにある古代ローマの遺跡フォロ・ロマーノの南西にある円形闘技場です。コロッセオはローマ帝国フラウィウス朝の皇帝ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌスの命により西暦70年に着工されました。10年の歳月をかけて西暦80年に完成しました。ちょうどイタリアのナポリ近くの古代都市ポンペイがヴェスヴィオ山の噴火で壊滅した次の年です。

 西暦81年に最後のフラウィウス朝の皇帝に即位したウェスパシアヌスの弟のティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌスが拡張工事を行いました。これによって最上部の観客席と高さ50メートルの天幕が完成しました。

コロッセオ(コロッセウム)ことフラウィウス円形闘技場
コロッセオ(コロッセウム)ことフラウィウス円形闘技場

 コロッセオはフラウィウス朝の皇帝が建設したことに由来し「フラウィウス円形闘技場」と名付けられました。それがいつの頃かコロッセオと呼ばれるようになりました。

 コロッセウムはラテン語で「巨大な」を意味します。「フラウィウス円形闘技場」が巨大な闘技場だったからコロッセオと呼ばれるようになったという説があります。また「フラウィウス円形闘技場」にあったローマ帝国第五代皇帝のネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスの巨大な像「コロッスス・ネロニス」に由来してコロッセオと呼ばれるようになったという説もあります。

 どちらの説が正しいのか今となっては不明ですが、コロッセオの本来の名前が「フラウィウス円形闘技場」だったことは間違いありません。

 コロッセオというとブルース・リーの映画「ドラゴンへの道」のリーが演じるタン・ロンとチャック・ノリスが演じるコルトの決闘シーンの舞台となりました。実際には格闘シーンの撮影は許可がおりず風景を作り込んだスタジオのセットでの決闘になったそうです。

 【完全再現】ブルース・リーVSチャックノリス戦(ドラゴンへの道)

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