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円谷英二監督は明治34年(1901年)7月7日に福島県岩瀬郡須賀川町(須賀川市)で生まれました。小学生になると水彩画に興味を持ち大人も驚くほど上手な絵を描きました。明治43年(1910年)に徳川好敏、日野熊蔵両大尉による日本初の動力飛行機の飛行に成功すると、飛行機と操縦士に憧れるようになり模型飛行機の作成を行うようになりました。
円谷少年が映画に出会ったのは明治44年(1911年)です。巡業に来た活動写真「桜島爆発」を見て映写の仕組みに興味を持つようになり、子ども向けの映写機を購入し手製の映画を制作するようになりました。
模型飛行機作りの趣味も続け大正元年(1912年)には地元で新聞に取材されるほど話題になりました。大正5年(1916年)、15歳になった円谷少年は米国人飛行士アート・スミスが東京で披露した曲芸飛行のニュースを見てますます飛行機に憧れるようになりました。同年に学校を卒業した円谷少年は東京の月島機械製作所(月島ホールディングス)に入社しますが1ヶ月ほどで退社します。飛行機の操縦士になるべく同年11月に玉井清太郎と相羽有が8月に創設した日本飛行学校に第一期生として入学しました。
こうして円谷少年は飛行機の操縦士になる夢を追いかけ始めました。しかし、大正6年(1917年)5月に唯一の教官だった玉井清太郎が墜落死、10月には台風による高波で飛行機が格納庫ごと流されてしまい日本飛行学校の継続が不可能となりました。操縦士になる夢を打ち砕かれた円谷少年は失意のうちに飛行学校を退学することになりました。
その後、円谷少年は電気学校(東京電機大学)の夜間部に進学しながら玩具の製作会社で働き「自動スケート」「玩具電話」など様々な玩具を考案しました。大正8年(1919年)、考案した玩具が大人気となり多額の特許料を得ます。その祝いとして玩具会社の職工たちと王子の飛鳥山公園で花見を開きました。このとき職工たちが他の花見客と口論になりました。この喧嘩の仲裁に入ったのが若干18歳の円谷青年でした。この喧嘩が円谷青年の転機になります。実は職工が喧嘩をした相手は映画の制作を手がける天然色活動写真株式会社(天活)の社員だったのです。仲裁した円谷青年が聡明であると認められ同社に入社することになったのです。この会社で円谷少年はカメラマンを目指すことになりました。
大正9年(1920年)、天活は後に国際活映(国活)に吸収され円谷青年はカメラマン助手として働いていました。このとき飛行機に搭乗して空中撮影を行う仕事が舞い込みましたが怖がって引き受けるカメラマンが誰もおらず円谷青年が自ら志願しました。パイロットを目指していた円谷青年は航空写真の撮影をやすやす成し遂げカメラマンに昇格しました。しかし、大正10年(1921年)、20歳になった円谷青年は国活を退社し兵役に就くことになりました。2年後の大正12年(1923年)に除隊し国活に復帰しカメラマンとして活躍しました。
昭和3年(1928年)に松竹京都下加茂撮影所にカメラマンとして入社し映画の撮影を行いますが後の特撮技術に通じる特殊な撮影方法を取り入れるようになりました。昭和7年(1935年)に日活太秦撮影所から誘いを受け移籍しました。この頃、アメリカ映画「キングコング」を見て先進的な特撮に衝撃を受け特撮に興味を持つようになりました。しかしながらこの取り組みが日活と合わず昭和9年(1934年)に東宝の前身のJOトーキーに移籍しました。
カメラマンの円谷英二(1934年)
昭和10年(1935年)、連合艦隊の練習艦「浅間」に6カ月間乗艦し練習の様子を撮影し、初監督作品となるドキュメンタリー映画「赤道を超えて」を製作しました。同年、ファンタジー映画「かぐや姫」を撮影しています。
昭和12年(1937年)に「東宝映画株式会社」が設立され東宝東京撮影所でカメラマンとして働くことになりましたがスタッフが特殊撮影を理解できなかったことから一人で特殊技術に取り組みオプチカル・プリンターの研究などを始めました。
昭和14年(1939年)、陸軍航空本部の依頼で埼玉県熊谷陸軍飛行学校で飛行機操縦の教材映画を製作しました。飛行機を一人で操縦しながら空中撮影を行いました。陸軍関係者は円谷監督の飛行機技術にずいぶん驚いたようです。その後、ミニチュアを用いた戦争映画を手掛け特殊撮影が高く評価されました。昭和16年(1941年)12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争が開戦すると軍の要請により戦意高揚を目的とした戦争映画を制作することになりました。特撮は必須となり円谷監督のスタッフが特殊技術を手がけました。
多くの戦争映画を撮影しましたが昭和20年(1945年)8月1日に召集されましたが15日に終戦を迎え撮影所に戻りました。昭和23年(1948年)3月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は戦時中に戦意高揚の映画を作成したとして公職を追放され東宝を退職しました。退職後もあきらめずに自宅にプレハブを建て円谷特殊技術研究所を設立し特撮技術の開発に取り組みながら映画の製作に参加しました。
昭和27年(1952年)に公職追放が解かれ東宝に復帰しました。昭和29年(1954年)のゴジラの特撮を担当したのを皮切りに多くの怪獣映画で特技監督を務めました。昭和31年(1956年)には自宅の円谷特技研究所での個人としての活動を再開しました。昭和38年(1963年)に東宝を退社し同年4月12日に株式会社円谷特技プロダクションを設立、テレビドラマの特撮を手掛けるようになりました。その後の活躍は関連記事の「ウルトラQ」「ウルトラマン」などをご覧ください。
円谷プロダクションの作品は子どもたちに夢を与えるだけでなく正義とは何かを考えさせるなど多くの影響を与え続けています。
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