カテゴリー「旅行・地域」の193件の記事

2024年3月31日 (日)

ホタルナ(東京都観光汽船)|隅田川の宇宙船のような水上バス

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 隅田川テラスを歩いていたら宇宙船のようなデザインの水上バスが通り過ぎていきました。この水上バスは東京都観光汽船が運用するホタルナです。

ホタルナ(東京都観光汽船)
ホタルナ(東京都観光汽船)

 ホタルナの宇宙船のようなデザインを担当したのは松本零士先生です。流線型のボディにガルウィングのドアは松本零士先生の漫画やアニメに登場するような宇宙船のようです。船体屋上の屋上デッキに出ることも可能です。ホタルナの名前は隅田川ホタルと月の光に由来しているそうです。

ホタルナ(東京都観光汽船)
ホタルナ(東京都観光汽船)

 松本零士先生がデザインした同型でやや形が異なる「ヒミコ」「エメラルダス」も就航しています。

 

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2024年3月29日 (金)

あれに見えるはスーパードライホールのオブジェ

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 隅田川テラスを歩いているとあのオブジェが見えてきます。あのオブジェのある多々目のは東京都墨田区の我妻橋にあるアサヒビールの本社ビル(アサヒビールタワー)に隣接するスーパードライホールの屋上にあります。スーパードライホールはアサヒビール創業100周年を記念して毛建設され1989年10月に竣工しました。

隅田川テラスから望むアサヒビールタワーとスーパードライホール
隅田川テラスから望むアサヒビールタワーとスーパードライホール

 スーパードライホールの建物とオブジェの設計はフランスのデザイナーのフィリップ・スタルクが手掛けました。特徴的な巨大なオブジェは燃え盛る「聖火台の炎」(フラムドール、フランス語 flamme d'or、金の炎)で、「新世紀に向かって飛躍するアサヒビールの燃える心」を表したものです。金色の炎の下のスーパードライホールは聖火台をイメージしてデザインされたものです。

スーパードライホールとフラムドール
スーパードライホールとフラムドール

 最初にあれに見えるオブジェが登場したときビールの泡かと思っていたのですが、聖火台の炎であることを知ったのはずいぶん後のことでしたが、やはり今でもあれに見えるのは変わりません💩

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2024年3月25日 (月)

かっぱ橋道具街のかっぱ河太郎像と合羽橋の由来

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 かっぱ橋道具街は東京の浅草と上野の間に位置する食器具や調理器具や食品サンプルなどの道具を扱う店が集まる問屋街です。

 かっぱ橋道具街の通りに道具街中央ポケットパークと呼ばれる小さな凹んだ敷地がありますが、そこに「かっぱ河太郎の像」があります。この像は東京合羽橋商店街振興組合が平成15年10月に合羽橋道具街誕生90年を記念して建立したものです。

かっぱ河太郎の像(道具街中央ポケットパーク)
かっぱ河太郎の像(道具街中央ポケットパーク)

 さて合羽橋の名前の由来は雨合羽説と妖怪の河童説があります。

 雨合羽説はこの地に伊予国新谷藩の城主の下屋敷があり侍や足軽が内職で作った雨合羽を近くの橋にたくさんかけて干していたことに由来します。

 妖怪の河童説は文化年間(1804年~1818年)に合羽屋喜八(合羽川太郎)が私財を投げ出して掘割(水路、後の新堀川)を整備したことに由来します。新堀川は1659年に江戸幕府が交通のために作った人工の堀です。現在は埋め立てられていますがこの堀に架けられていたのが合羽橋です。この地は湿地帯で水はけが悪くしばしば洪水が起こりました。見かねた合羽屋喜八(合羽川太郎)が資材を投じて掘割を整備したところ、隅田川に住んでいた河童たちが喜八の善行に心を打たれて夜ごとに工事を手伝ったという伝承があります。河童を見た人は運が開け商売繁盛したとも伝えられています。合羽屋喜八の墓はかっぱ橋本通り沿いの曹源寺(かっぱ寺)にあります。

 かっぱ河太郎はかっぱ橋道具街のマスコットキャラクターとして親しまれています。

かっぱ河太郎の像
かっぱ河太郎の像

 

 

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2023年12月30日 (土)

夕焼けで燃え上がる炎雲

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 山の稜線に太陽が沈み始めるころ空と雲が真っ赤に染まっていきます。

夕焼けで真っ赤に染まる空と雲
夕焼けで真っ赤に染まる空と雲

 この日はちょうど山の上部に山の形をした雲がありました。その部分を拡大してみると太陽は右の方にあります。わずかに沈んで下部が隠れています。光芒で山のような雲の稜線が赤く光り出したのですが、まるで山が燃えて炎が出ているように見えました。

炎雲
炎雲

 このような光景はほとんど見たことがありません。夕焼けは大自然がつくりだす芸術ですね。

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2023年12月19日 (火)

江戸幕府が小笠原諸島の領有権主張(1862年12月19日)

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 小笠原諸島は東京湾から南南東に約1,000km離れたの太平洋上に位置する聟島列島、父島列島、母島列島、火山列島(硫黄列島)の4つの列島で構成されており約30の島々があります。小笠原諸島の多くの島は無人島ですが父島と母島に約2600人が住んでいます。硫黄島、南鳥島には自衛隊が常駐しています。

小笠原諸島周辺地図
小笠原諸島周辺地図

 小笠原諸島の一部を発見したのは16世紀中頃の大航海時代のスペイン船です。17世紀にはオランダ東インド会社が探検隊を派遣し多おくの島々を発見しています。日本人で初めて小笠原諸島にたどり着いたのは寛永9年(1632年)9月に遠州灘で遭難した貨物船でした。この船は阿波国(徳島県)の船頭の勘左衛門が所有する船で、紀伊国(和歌山県)の荷主の長右衛門らが乗り込み7人で江戸にミカンを運んでいました。船は20日ほど漂流し寛永10年(1633年)2月に小笠原諸島の母島にたどり着きました。翌朝、勘左衛門は亡くなっていましたが、生き残った6人は船の廃材を利用して新しい船を作り食糧を積み込み島を出発しました。父島、聟島列島、八丈島を経由して同年5月に伊豆国下田(静岡県下田市)に生還しました。

 長右衛門ら6人は下田奉行所に漂流の報告をしました。島の発見の報告を受けた江戸幕府は探検隊を派遣することにしました。この探検隊を率いたのは泉州堺出身の探検家の島谷市左衛門です。航海術に優れていた市左衛門は寛文9年(1669年)に長崎代官の命で「富国寿丸」を建造していましたが、延宝3年(1675年)4月5日に同船で下田を出港し八丈島を経由「して同年4月29日に父島に到着しました。5月1日から36日間にわたり周辺の測量や地図の作成を行い、父島に「此島大日本之内也」と記しを残し祠を建てました。同年6月6日に父島を出発し12日に下田に帰還しました。市左衛門は帰還後に「延宝無人島巡見記」を著しています。

 江戸幕府は小笠原諸島を発見したものの遠く離れた島々をしばらく放置しました。江戸幕府が小笠原諸島の領有に注目したのは幕末にマシュー・ペリー提督率いる黒船来航の後です。安政3年(1856年)に米国で出版された「ペリー提督日本遠征記」に小笠原諸島の捕鯨基地化の計画が記されていたことから、江戸幕府は島谷市左衛門の探検と調査報告をもとに小笠原諸島の実効支配をすることを決めました。

 江戸幕府は外国奉行水野忠徳に小笠原諸島に向かうことを命じました。文久元年(1862年)12月4日、約100名を率いた水野忠徳は「咸臨丸」で品川を出航しました。「咸臨丸」は同年12月19日に父島に到着、水野忠徳は島民と入植していた外国人に小笠原諸島は日本の属島であると領有宣言をしました。このとき外国人との通訳はジョン万次郎こと中濱万次郎が担当しました。島谷市左衛門の調査記録がなければ小笠原諸島は日本ではなかったかもしれません。

 さてここまで何の説明もなく「小笠原諸島」と書いてきましたが、当初は「小笠原諸島」という名前はなく単に無人島と呼ばれていただけでした。享保7年(1722年)に伊豆と相模の両国が幕府に無人島探検を具申していたところ、徳川家康の命を受けて文禄2年(1593年)に小笠原諸島を発見した小笠原貞頼の子孫と称する小笠原貞任という人物が「巽無人島記」の記述を根拠に無人島への渡航許可と領有権を申請しました。申請は許可されましたが、「巽無人島記」の「富国寿丸」による調査記録の盗用であることが判明し小笠原貞任は重追放の処分となりました
しかしながら、この出来事によって無人島群は小笠原諸島と呼ばれるようになったのです。貞任が提出した「辰巳無人島訴状幷口上留書」に父島や母島など島々の名前が書かれていました。小笠原諸島の島々の名前は貞任の虚偽から付けられたものと考えられています。

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2023年12月 4日 (月)

東北新幹線12月4日に新青森駅まで開通(2020年12月4日)

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 2020年12月4日、東北新幹線の八戸駅から新青森駅の路線が運行開始となりました。

 新青森駅までの路線の開通前は東京駅から八戸駅まで「はやて」で約3時間、八戸駅から青森駅までは弘前行きの「つがる」や函館行きの「スーパー白鳥」で約1時間かかりました。乗り換えなど考えると最短でも4時間以上かかりました。新青森駅までの開通によって東京駅から新青森駅が当時の最短の列車で3時間20分で結ばれるようになりました。2011年3月には新型車両のE5系「はやぶさ」が導入され宇都宮駅から盛岡駅間を300 km/hで運転できるようになり所用時間が3時間10分となりました。2013年3月には新青森駅発着の全ての列車がE5系「はやぶさ」に置き換えられ同区間の320 km/hの運転が開始されました。ですので実質的には約1時間の短縮となります。青森駅と新青森駅が場所が異なるので多少不便にはなりますが1時間短縮はかなり大きいので青森市内で用事がある人も便利になりました。

 また八戸駅から北海道の函館駅まで行くにはスーパー白鳥で3時間6分かかりました。青森駅から函館駅までは同じスーパー白鳥で約2時間かかります。青森駅と新青森駅は非常に近いので新青森駅から函館駅までの所要時間は2時間はかからないでしょうが、それほど大きな短縮とはなりません。東京駅から函館駅は「はやて」と「スーパー白鳥」で6時間30分ぐらいかかっていまたが、新青森までの開通により3時間20分+2時間で5時間20分ぐらいになりまいた。

 現在は北海道新幹線「はやぶさ」により東京駅から新函館北斗駅まで4時間を切っています。新函館北斗駅から函館駅までは「はこだてライナー」で所要時間20分ぐらいで到着します。

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2023年11月15日 (水)

函館山ロープウェイ開業(1958年11月15日)

カテゴリー:函館の話

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 函館山ロープウェイ株式会社は北海道函館市の函館山の山麓と山頂を結ぶロープウェイです。昭和33年(1958年)、函館観光事業会社が設立され同年5月にロープウェイの架設工事が初まり同年11月15日に開業しました。ロープウェイの開業により誰もが手軽に函館野からの景色や函館市の夜景を楽しめるようになりました。

 開業当時の初代のロープウェイはわずか31人乗りでした。昭和45年(1970年)に2代目の45人乗り、昭和63年(1988年)に当時としては日本最大の3代目の125人乗り、平成9年(1997年)に4代目125人乗りが導入されました。現在、運行されているロープウェイは平成26年(2014年)に導入された125人乗りのもので5代目です。次の写真は昭和37年7月に函館山の山麓駅で撮影したものです。ロープウェイは初代のものです。背景の塔はカトリック元町教会です。

初代の函館山ロープウェイ(昭和37年7月 山麓駅)
初代の函館山ロープウェイ(昭和37年7月 山麓駅)

 次の写真は山頂から撮影したロープウェイと函館市街です。

初代の函館山ロープウェイ(昭和37年7月)
初代の函館山ロープウェイ(昭和37年7月)

 次の写真は昭和33年(1958年)5月1日に函館山山頂から撮影したものです。函館山ロープウェイの着工は同年5月からですのでロープウェイも存在していませんがそれなりに観光客がいますね。

函館山山頂から(撮影昭和33年/1958年5月1日)
函館山山頂から(撮影昭和33年/1958年5月1日)

 函館山ロープウェイ株式会社は昭和51年に函館観光事業会社から現在の社名となりました。昭和61年(1986年)に函館市が出資し第3セクターとなり、平成4年(1992年)に日本初となるコミュニティFM放送「FMいるか」を開局しています。函館山ロープウェイ株式会社は函館観光の重要な役割を果たしています。

 これらの写真には五稜郭タワーが写っていません。初代の五稜郭タワーは五稜郭築城100年を記念して昭和39年(1964年)年12月に建造されたものです。

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2023年11月 4日 (土)

奥妙義の高岩(ぐんま百名山、碓氷軽井沢)

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 上越自動車道の碓氷軽井沢ICのすぐそばに岩だった山があります。日本二百名山並びに日本三大奇景として知られる妙義山の西に位置するこの岩山は奥妙義の高岩と呼ばれる巨大な岩峰です。高岩は「ぐんま百名山」の64番目に登録されています。

Photo
碓氷軽井沢の高岩(ぐんま百名山)

 高岩の標高は1084メートル。雄岳と雌岳の2つの岩峰からなる双耳峰です。この特徴的な形状は安山岩の凝灰角礫岩が侵食されてできたものです。同時代に形成された同様な岩山が見られます。高岩の侵食がさらに進むと岩山が完全に分離しそれぞれ独立したビュートと呼ばれる孤立丘になります。

 高岩のある場所はこちらになります。

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2023年10月23日 (月)

森町大火(1961年10月23日)

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 昭和36年(1961年)10月23日午後11時30頃、北海道茅部郡森町の森マーケット内の飲食店「お富」にて客の投げ捨てた煙草が原因で出火し市街地の大半を焼失する森町大火が発生しました。

 大火となった原因は出火した時間が夜中だったこと、函館本線が走る海岸沿いの歓楽街だったこと、折しも狂風だったこと、消防設備が十分でなかったことなどが重なったためです。近隣の長万部町や函館市をはじめとする多くの市町村が救援に駆けつけましたが、あっという間に炎が市街を包み込みました。懸命な消火活動により翌10月24日に鎮火しました。

 住宅を失った住民は12月に仮設住宅が完成するまでの2ヶ月間を小中学校などで過ごしました。厳しい冬を迎えましたが復興にはその後5年の歳月を要しました。罹災戸数633戸、罹災者数2238人に達する大火事となりました。

 次の写真は同年10月25日に現地に取材に入ったカメラマンが同僚を撮影したものです。あまりの惨状に唖然としています。

森町大火の惨状を見て唖然とするカメラマン
森町大火の惨状を見て唖然とするカメラマン

 しかし、記録に残すために気を取り直して撮影しなければなりません。取材は3日間続いたそうです。

森町大火の記録をするため撮影するカメラマン
森町大火の記録をするため撮影するカメラマン

 この森町には森三吉神社があります。この大火で火の手は神社の目前まで迫り強風が吹き荒れていたにもかかわらず境内に火が入ることはありませんでした。神様の御神徳であるとされ「火防の社」と呼ばれるようになったそうです。

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2023年10月21日 (土)

土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

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 田本研造は幕末から明治時代初期にかけて函館を中心に北海道で活躍した写真家です。天保3年(1832年)4月8日に紀州牟婁郡神川村(三重県熊野市神川町)で生まれました。23歳で長崎の蘭方医の吉雄圭斎のもとで医学やや舎密学(化学)を学びながら西洋文化の影響を受けました。

田本研造
田本研造

 安政6年(1859年)、安政五カ国条約により函館港が開港すると、箱館奉行所の通詞だけでは各国領事官の対応に手が回らなくなったため幕府が通詞を増員しました。このとき箱館に転勤となった長崎奉行所通詞の松村喜四郎に伴い箱館にやって来たのが27歳の田本研造です。

 田本は右足に凍傷を追って悪性の壊疽にかかり、ロシアの医師ゼレンスキーの手術を受け命は助かりましたが右足を切断する不運に見舞われました。田本は治療中にゼレンスキーから写真技術を学び、慶応2年(1866年)頃から写真師の仕事を始めました。写真師の横山松三郎や木津幸吉と出会い写真の研究を進めました。田本は木津と一緒に松前に赴き当時の松前城(福山城)や藩士らの写真を撮っています。

 明治2年(1869年)、田本は大工町(末広町)に北海道初の写真館を開きました。この写真館は採光用ガラス窓がついた本格的なものでした。この頃、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争で新政府軍と戦った旧幕府軍の榎本武揚や土方歳三の肖像写真、仏軍士官、幕軍兵士、軍艦の回天丸などの写真を撮影しました。とりわけ椅子に座った洋装の土方歳三の写真が有名です。

土方歳三の写真(田本研造撮影)
土方歳三の写真(田本研造撮影)

 この写真は当初は田本研造が撮影したものかどうか不明でしたが、調査によって田本研造が撮影されたものとされています

新選組研究最前線〈下〉(新人物往来社、1988年)
桑嶋洋一「写真師K・Gと土方歳三」
 

 箱館戦争後は明治政府の開拓使より明治4年(1871年)に札幌と周辺の撮影を命じられ弟子の井田幸吉と札幌に赴きます。田本が撮影した158枚の写真は函館出張開拓使庁から政府に送られました。政府は北海道開拓事業の進捗状況を把握しました。1873年にウィーンで開催された万国博覧会にはこの開拓使の写真が出品されました。

 田本は多数の有名な写真師を輩出し、北海道における指導者的立場の写真師となりました。田本は右足が不自由だったため郷里に帰省することはありませんでした。しかし、箱館から郷里に手紙とともに写真を送っています。田本研造は後に音無榕山と名乗り増しが、音無は郷里の音無川(熊野川)に因んだものです。郷里に思いを馳せていたのでしょう。

 田本研造は大正元年(1912年)10月21日、函館で81歳の生涯を閉じました。田本研造の墓は函館山の立待岬に近い住吉墓地にひっそりと佇んでいます。

田本研造の墓(函館市住吉墓地)
田本研造の墓(函館市住吉墓地)

 また郷里の地元熊野市には昭和56年(1981年)に鬼ヶ城に顕彰碑が建立されました。

田本研造之碑(鬼ヶ城)
田本研造之碑(鬼ヶ城)

【関連記事】土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

函館と黒船と日本最古の写真の関係

函館とホタテ貝と黒船ペリー提督の関係

開陽丸が横浜に入港(慶応3年 1867年4月30日)

榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)

松前城(福山城) 天守を焼失(1949年6月5日)

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

 

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