カテゴリー「旅行・地域」の130件の記事

2021年2月27日 (土)

茨城県霞ヶ浦近くの大きな2つのトラックは?

 北の国から羽田空港に向かう航空機が茨城県の霞ヶ浦を通過した頃、眼下に写真のような広大な土地に2つの大きなトラックが現れます。

JRA美浦トレーニングセンター(航空写真)
JRA美浦トレーニングセンター(航空写真)

 この施設はJRA(日本中央競馬会)の美浦トレーニングセンター(美浦トレセン)です。美浦トレセンは競走馬のトレセンとしては日本で最大級の施設です。上空から見ても、Google Mapで見ても、すぐに見つけることができます。

 大きな2つの調教コースに挟まれた領域には厩舎や公園があります。敷地内には調教コースや厩舎のみならず、厩務員・騎手・JRA職員など家族を含めて約5000人が暮らす宿泊施設があります。その他、競馬に関わる産業を含めて考えると、周辺地域合わせて数万人の生活の馬となっており、ショッピングセンター、郵便局、病院など生活に必要な施設も存在しています。

 調教コースには芝コース、ダートコース、障害用コース、ウッドチップコースに加えて、オールウェザー対応の新素材を敷き詰めたニューポリトラックなどがります。また、プール調教用のプール、森林馬道、診療所などが設置されています。

美浦トレセン南側調教コース
美浦トレセン南側調教コース(上記写真では右側)

 美浦トレセンは競走馬の訓練施設としては最大級かつ最高級の水準にありますが、関西のJRA栗東トレーニングセンターに比べて所属馬の勝利数と獲得賞金が少ないという指摘が昔からあります。関東で行われる競争を予想するときに、関西馬が出場しているかどうかを気にする人もいます。いろいろな原因が考えられますが、有力な原因としては調教コースの坂路コースの問題があげられます。

 美浦トレセンが開場したのが1978年4月、栗東トレセンが開場したのは1969年11月です。関東の競馬場は坂が多く、関西馬は坂に慣れていないという問題がありました。1985年に栗東トレセンに坂路コースが作られると、関西馬の実力が向上し、東京競馬場や中山競馬場で関西馬の活躍が目立つようになりました。美浦トレセンには坂路コースがないため、関西馬と関東馬の実力に差がつき始めました。

 美浦トレセンに坂路コースを設置する場所を確保することは難しく、1993年まで坂路コースが設置されることはありませんでした。新設さらた美浦トレセンの坂路コースは栗東トレセンのものに比べて勾配が小さく、十分に競走馬を訓練することができませんでした。2004年に坂路コースの改修が行われましたが解決には至っていません。美浦トレセンの坂路コースのこれ以上の改善は環境的な要因から困難とされています。そこで、競走馬は栗東トレセンに留学したり、馬主都合で美浦トレセンから栗東トレセンに転厩する事例も少なくありません。

 この問題は関東馬の実力低下だけに止まらず美浦トレセンの存続にも関わることになります。そこでJRAは2018年に美浦トレセンの大規模改修を始めました。改善が難しいと言われていた坂路コースも距離を延長するのと同時に地下を掘り下げることによって高低差を栗東トレセンと同程度にすることになっています。坂路コースの完成は2022年、2026年に全体の工事が完了する予定です。

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2021年2月20日 (土)

「八王子をどり」に向け八王子芸妓衆が再起動

 先日、ココログ 夜明け前「八王子中町と芸妓衆の思い出|八王子芸妓衆がクラファン」の記事で、クラウドファンディングの話を紹介しましたが、これは新型コロナウイルスの影響で昨年5月から延期となっていた八王子芸妓衆「第三回 八王子をどり」を開催するためのものだそうです。

 「八王子をどり」は3年に1度開催される八王子芸妓衆の晴れの舞台で初開催は2014(平成26)年でした。2020年は第3回目を開催する年でしたが、新型コロナウイルスの影響で延期となっていました。

 第三回目は残念ながら1年間延期となってしまいましたが、芸妓衆は「八王子をどり」に向けて稽古を積んでいます。延期となった1年分の芸技の積み上げがあるという前向きな姿勢で取り組まれていると思います。

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 「第三回八王子をどり」は5月21日(金)〜22日(土)に開催され、八王子花柳界としてのオリジナル曲がお披露目されることになっているそうです。会場は八王子市芸術文化開館いちょうホールの大ホール、21日(土)、22日(日)ともに昼の部13:00開幕、夜の部17:00開幕で計4公演が予定されています。「感染防止対策をしっかりし、安心しておいでいただけるように準備をしております」とのことです。

 緊急事態宣言により感染者数、重傷者数も減少し、医療従事者の方々へのワクチン投与も始まりました。たいへんな影響を受けている方々がたくさんいます。いろいろなことが再起動できる年になることを願っています。

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2021年1月30日 (土)

八王子中町と芸妓衆の思い出|八王子芸妓衆がクラファン

 古くから織物の街として栄えてきた東京都八王子。その商いの場として、大正時代から繁栄してきたのが中町です。中町はJR八王子駅から北西の位置にあり、西放射線ユーロードを歩いていくとたどりつきます。

 八王子市中町には多摩地域で唯一の花街があります。戦後の昭和27年には、料亭が45軒もあり、215人の芸妓が活躍していたそうです。昭和30年代に織物業が衰退し始めると、商談や接待が減り始め、賑わいを見せていた花街にも陰りが見え始めました。

 自分が就職のため八王子に移り住んだのは昭和63年(1988年)4月のことです。さっそく上司や先輩に酒席に誘われ、八王子の街中を歩いたものです。50代の上司の行きつけのバーやスナックが中町にあり、よく連れていってもらいました。黒塀に挟まれた路地が張り巡り、見るからに高級なお店がたくさん佇んでいました。

 当時の中町には芸妓衆を呼ぶことができる料亭が10件ぐらいはあったと思います。もちろん、若輩者がそのような料亭で御座敷をあげることなどできません。中町を歩く芸妓を時々見かけるぐらいでした。綺麗な着物を来て、路地をもの静かに歩く姿を楽しませてもらいました。芸妓は十数人しかいなかったはずですから、街中で芸妓を見かけるのはとても幸運なことだったのです。

 年が開けて昭和64年になると、昭和天皇が崩御し、平成の時代がやってきました(ココログ 夜明け前「平成」の世が始まる(1989年1月8日)」)。気がついてみると、自分は昭和最期の新入社員になっていたのです。さて、4月になると新入社員が入社しました。彼らが平成最初の新入社員ということになります。当時はバブル景気のど真ん中で、例年よりも多くの新入社員が入社してきたのです。

 当時、入社2年目と3年目の社員が新入社員の歓迎会を行うというしきたりがありました。入社2年目の社員が幹事を担当することになり、自分が任されることになりました。自分の同期は5名、3年目の先輩たちは7名、そこに30名近くの新入社員です。どう考えても2年目と3年目の社員だけで歓迎会の費用を賄えるはずがありません。そこで、新入社員の歓迎会の参加者を誘い始めました。すると、あっという間に50名を超える参加者となり大宴会を行うことになってしまったのです。

 さて、当時は大きな居酒屋チェーン店もそれほど多くありませんでした。ホームページで店を探して予約なんてことができる時代ではありませんでしたから、駅近くのお店を巡っては予約の確認をする日々が続きました。ところが大人数を収容できる座敷のあるお店はあまりなく、あっても予約がいっぱいでした。京王プラザホテルもまだなかった頃です。

 八王子にわずか1年しか過ごしていない幹事は店を探すのに途方に暮れて、やってきたのが中町でした。広い座敷のある料亭があることは知っていましたが、予約の仕組みもよくわからないまま、ある古い料亭に入りました。そこは料亭ではなく置屋さんだったのではないかと思います。時代劇で番頭さんがいるような雰囲気の入り口で、そこには女将さんがいました。宴会をやりたいと事情を話すと、本当は芸妓を呼ぶ宴会をするところなのだけど、お兄さんの宴会を請負いましょうとお座敷の予約を快諾してくれたのです。料理は御膳を出してもらうことになりました。ちょうど予約が空いていたのだと思いますが、「粋なまち」と聞いていた中町で「粋なはからい」をしてもらうことができました。おかげさまで大宴会は宴も酣のうちに終えることができたのです。それから、しばらくして再び宴会の幹事を担当する機会があり、同料亭の御座敷を使わせて頂くことになりました。その頃になると、女将さんとも顔見知りになっていました。宴会が終わったときに「お兄さんたち偉くなったら芸妓さん呼んで御座敷開いてね」の言葉を今でも覚えています。

 それから数年後、中町のとあるカラオケのできるお店に行くようになりました。そのお店も上司に紹介してもらったのですが、ママさんは元芸妓でした。お客さんの年齢層は50代以上がほとんどで、お店で働いている女性も40代以上でした。20代でこの店に行っていたのは、おそらく自分たちだけでした。他のおじさんたちがいくら払っているかはわかりませんが、自分たちは歌い放題で3,000円ぐらいで飲ませてもらったのです。しかも常連のおじさんたちが御馳走してくれるものだから、ボトルを入れたのも最初のうちだけでした。

 この常連のおじさんたちは、よく芸妓さんを連れてきていました。ある日、美空ひばりの「車屋さん」や坂本冬美の「夜桜お七」を上手に歌う20代の芸妓さんがいました。常連のおじさんたちは自分たちを席に呼んくれました。こうして幸運なことに芸妓さんとも何度かご一緒することができたのです。一人3,000円しか払ってないのに・・・常連のおじさんたちの「粋なはからい」でした。織物業の経営者さんの懇親会だったのかもしれません。このとき一人のおじさんが言っていたのが、あの大宴会でお世話になった女将さの言葉「お兄さんたち偉くなったら芸妓さん呼んで御座敷開いてね」と同じだったのです。

 時は流れて、中町の様子も様変わり。黒塀もほとんどなくなり、やがて置屋さんも料亭も、一つ、二つと消えていきました。大宴会でお世話になった女将さんのお店もなくなりました。料亭やお店の跡地にはマンションや駐車場ができ、置屋もなくなり、八王子の花街も非常に厳しい状況となりました。八王子芸妓の文化か途絶えるのではという声も聞こえるようになっていました。

  そのような状況のなかで2001年に一人の芸妓さんが20年ぶりに置屋を開業しました。その芸妓とはは「ゆき乃恵」の女将のめぐみさんです。なんと、めぐみさんこそ常連のおじさんと同席し「車屋さん」や「夜桜お七」を歌ってくれたあの芸妓さんだったのです。めぐみさんは粛々と芸を磨き、後進を育て、八王子の花街を復活させました。芸妓の人数も次第に増え、八王子まつりや多くのイベントで芸妓さんたちの姿を見ることができるようになりました。中町も黒塀の佇まいの雰囲気を取り戻し始めました。テレビや映画にも出演するようになりました。

 さて、ここにきて多くの人たちの活動に立ちはだかっているのが新型コロナウイルスです。一時期は景気の回復の兆しも見えていましたが、陽性者数が増え続け年明けに非常事態宣言、大打撃を受けている人がたくさんいます。

 そのような状況の中で、八王子芸妓衆の活動も大きく制限され、たいへん厳しい状況になっているようです。この状況を乗り越えようと八王子芸妓衆はクラウド・ファンディング「八王子芸者衆を応援してください~桑都の八王子花柳界~」を始めました。応援すると八王子芸妓衆オリジナルのお礼の品を届けてくれるようです。

 あれからちっとも偉くなっていない当時のお兄さんは、今もって芸妓さんを呼んでの宴会をしたことがありません(^^l)。過去に頂いた「粋なはからい」へのお礼として、無形文化を未来に継続してもらうためにも、本当にささやかですが応援したいと思います。

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2021年1月24日 (日)

八王子「桑都物語」日本遺産認定記念番組|J:COMチャンネル

 東京としては初めて日本遺産に認定された八王子の桑都物語は、養蚕や織物で発展してきた桑都と呼ばれて八王子の歴史を、人々が霊山として信仰してきた高尾山とのつながりによって、過去から現在、そして未来へと紡いでいくものです。

 高尾山をはじめ、八王子城跡、滝山城跡、八王子車人形、八王子まつりなど、29の構成文化財を掲げ八王子の魅力を語ります。29の構成文化財の一覧は八王子市のホームページ「ストーリーの構成文化財」に掲載されています。

 本日、J:COMチャンネルで日本遺産に認定されたストーリーの構成文化財のうち25番目の「八王子車人形および説経浄瑠璃」、28番目の「八王子芸妓」が記念演目とともに紹介されます。

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八王子芸妓

J:COMチャンネル

[八王子]日本遺産認定記念番組 「静と動」 ▽桑都が紡いだ伝統文化のわざとこころ

J:COMチャンネル八王子 1月24日(日)20:00から

J:COMチャンネル東 京 1月24日(日)22:00から

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2021年1月12日 (火)

桜島の大正大噴火(1914年1月12日)

 九州南部、鹿児島県鹿児島湾を見下ろす桜島。東西12キロメートル、南北10キロメートル、周囲55キロメートルの大きな火山で、現在も活発に活動し、噴火を繰り返しています。

 桜島が「島」と名付けられているのは、もともとは海に囲まれた島だったからです。1914年1月12日午前10時あらりから始まった大きな噴火によって、山の南東に大量の溶岩が流れ出し、対岸の大隅半島の間にあった海峡を埋め尽くし、ついに陸続きになりました。海峡の最大幅は400メートル、最深部は100メートルで、いかに大量の溶岩が流れ出したかを容易に想像できます。

 この大正大噴火は火砕流、溶岩流、火山灰はもちろんのこと、1月12日の夜にはマグニチュード7.1の大地震を引き起こしました。大災害となりましたが、住民の噴火に対する意識が高く、備がしっかりしていたため、死者は58名にとどまりました。

 桜島ができたのは約2万6千年前とされています。かつては桜島のある場所にさらに大きな姶良という火山がありました。約3万年前の姶良大噴火により、火山灰が降り積り、これは九州南部のシラス台地となりました。鹿児島湾北部は姶良火山が陥没してできたカルデラで、桜島へのマグマの供給源となっています。桜島は姶良カルデラの端に存在する火山です。

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湯之平展望所からのぞむ北岳

 大正大噴火で噴出した大量の火山灰・軽石は、上空20,000m近くまで上昇し、火山灰は東北地方まで届きました。このときの火山灰で黒神村の腹五社神社の鳥居が埋め尽くされてしまいました。火山灰は2メートルほど積もり、高さ3メートルの鳥居は上部の1メートルを残すのみとなりました。後世に桜島の噴火の記憶を残すため、鳥居は掘り返されることはなくそのままの姿で佇んでいます。

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桜島の黒神埋没鳥居

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2020年12月26日 (土)

霊気満山 高尾山|BS-TBS 日本遺産スペシャル

 2020年6月19日に東京都八王子市にある高尾山の物語「霊気満山 高尾山~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~」が文化庁の「日本遺産」に認定されました。東京都内としては「日本遺産」が認定されたのは今回が初めてです。

 桑都物語は、養蚕や織物で発展してきた桑都と呼ばれて八王子の歴史を、人々が霊山として信仰してきた高尾山とのつながりによって、過去から現在、そして未来へと紡いでいきます。高尾山をはじめ、八王子城跡、滝山城跡、八王子車人形、八王子まつりなど、29の構成文化財を掲げ八王子の魅力を語ります。29の構成文化財の一覧は八王子市のホームページ「ストーリーの構成文化財」に掲載されています。

12月27日(日)午後1時よりBS-TBSにて、日本遺産スペシャルが放送されます。

構成文化財の28番目には八王子芸妓が登録されており、日本遺産スペシャルには八王子芸妓衆も登場するそうです。

霊気満山 高尾山
~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~

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2020年12月18日 (金)

八王子芸者が八王子花街の中町黒塀を紹介

 八王子の芸者さんがYouTubeで八王子市中町の八王子花街を紹介しています。八王子には東京都23区外としては唯一の花街があり、織物の街として発展した八王子とともにその歴史を重ねています。

 日々の稽古に励みながら多くのイベントに参加、伝統文化を継承している八王子の芸者さんたち。写真は越中八尾おわら風の舞で踊りを披露する八王子芸者さんたちです。

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越中八尾おわら風の舞

八王子芸者(菜乃佳、小菊、てる葉) 観光PR動画 中町黒塀 八王子花街をご紹介します!

チャンネル:HachiojiCityOffice

八王子芸者衆公式アカウント

(Instagram)八王子 芸者衆 ココちゃん

(Facebook)八王子をどり

八王子芸者さんの2021年カレンダー

八王子の観光情報
https://www.hkc.or.jp/

八王子の観光情報(Facebook)
https://www.facebook.com/hachioji.kankou

日本遺産「霊気満山 高尾山~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~」
https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/takaosann/p026876.html

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2020年12月 8日 (火)

函館ハリストス正教会が大規模修復工事へ

 北海道函館市の観光名所の函館ハリストス正教会が大規模補修工事に入るそうです。工事期間は2021年1月から2022年冬までの予定で、聖堂内の見学を休止する他、建物の改修のため足場が組まれるので聖堂の外観も見られなくなるようです。

函館ハリストス正教会
函館ハリストス正教会

 函館ハリストス正教会は日本ハリストス正教会に属する主の復活聖堂を備える教会です。ハリストスはギリア語でイエス・キリストを意味します。歴史上、日本における正教会の聖堂を有する最初の教会でもあり、伝道の拠点でもあります。

 なぜ函館が拠点になったのかは江戸幕府とロシアが1855年と1858年に結んだ日露和親条約と日露修好通商条約に関係しています。江戸幕府が函館を開港すると、初代ロシア領事ゴシュケヴィッチが来函しました。ゴシュケヴィッチは1600年に港と市街を見渡せる現在の地にロシア領事館を開き、その付属聖堂として函館ハリストス正教会復活聖堂を建立しました。1861年、修道司祭の亜使徒聖ニコライが来函、日本で初めて正教会を伝えました。

 最初の聖堂は1907年の函館大火で焼失しています。現在の聖堂は1916年に再建されたものです。聖堂および聖堂内の聖障は1983年に国の重要文化財に指定されています。また、函館ハリストス正教会はその鐘の音から市民の間で「ガンガン寺」という名前で親しまれ、1996年に環境省の「残したい日本の音風景100選」に選ばれています。

函館ハリストス正教会の鐘の音(鐘楼内で撮影)

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2020年11月10日 (火)

エレベーターの日と浅草十二階(凌雲閣)(1979/11/10)

 11月10日はエレベーターの日です。1979年(昭和54年)に日本エレベーター協会が制定しました。日本で初めてのエレベータの運用が開始されたのが11月10日だったのではないかと容易に想像できますが、少し訳ありだったようです。

 制定の年から100年前の1890年(明治23年)11月11日に東京の浅草に高さ52メートル、12階建の建物がオープンしました。この建物は「雲を凌ぐほど高い」と言う意味で凌雲閣と名づけられ、後に浅草十二階という愛称で親しまれました。

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浅草十二階(凌雲閣)の絵葉書

凌雲閣は現存していませんが、凌雲閣のあった場所には記念碑があります。


凌雲閣記念碑

 凌雲閣の最上階の展望室からは25 km先あたりまで見渡すことができたそうです。現在においては、東京スカイツリーから見える地平線までの距離は高さ350 mの第一展望台からは約67 km先、高さ450 mの第二展望台からは約76 km先まで見えますが、当時としては凌雲閣は驚くほど高層の建物だったのです。

 この凌雲閣のもう一つの目玉が、日本初の電動式エレベーターでした。2基のエレベータが設置され、1階から8階まで一度に10人を運ぶことができました。11日に行われた招待客向けの開業の式典には大勢の人が集まりましたが、エレベータはわずか1〜2時間ぐらいで故障してしまいました。このエレベーターはその後もたびたび故障し、安全性に問題があることから開業から半年後に運転が中止となりました。1914年にはエレベータが再建されましたが、環境客を集めることができず経営難が続きました。

 1923年9月1日に関東大震災が発生すると、凌雲閣の8階より上階の部分が崩壊しました。このとき展望台にいた人々は残念ながら亡くなっていますが、一人だけ看板に引っ掛かり奇跡的に助かったそうです。再建は断念され、同年9月23日に陸軍工兵隊により爆破解体されました。

 さて、既にお気づきの人もいると思いますが、凌雲閣の開業が11月11日なのに、エレベーターの日が11月10日に制定されたのはなぜでしょうか。実は凌雲閣の開業予定日は10日で、当時の新聞広告や電柱広告には10日に開業式をすると広く宣伝されていました。しかし、10日は天候が悪く、人が集まることができないという理由から、開業式が延期となりました。

 開業式は次の日に延期となったもののエレベーター自体は10日に凌雲閣に引き渡されて運転されていました。そのため、エレベータの日は11月10日と制定されました。

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2020年10月31日 (土)

沖縄の首里城が焼失|今日は何の日

 今からちょうど一年前の今日2019年10月31日、沖縄の首里城で火災が発生しました。炎はあっという間に広がり、正殿・北殿・南殿が全焼し、その他の建屋にも被害が及びました。首里城は過去に4度焼失していますので、5度目の焼失です。前回、首里城が焼失したのは1945年で第二次世界大戦の沖縄戦によるものでした。

 1958年に守礼門が再建されると、その他の建物の再建も進められ、2000年には世界遺産に登録、2006年には日本100名城の100番目の城として登録されました。そして、2019年1月に復元工事が完了したところでした。同年の10月に焼失したことは非常に残念なことです。長きに渡る再建に関わった方々の思いを想像すると言葉が見つかりません。

 自分は首里城は一度だけですが、15年ほど前に見学したことがあります。そのときの写真がありましたのでいくつかアップします。

 まずは首里城の正門の守礼門です。守礼門は約480年前に建造されたと考えられています。1945年に第二次世界大戦の沖縄戦で焼失しましたが、前述の通り、1958年に再建されました。

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守礼門

 続いて歓会門です。首里城郭に入る第一の門です。歓会門も沖縄戦で焼失していますが、1974年に復元されています。

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歓会門

 次は瑞泉門です。首里城郭に入る第二の門です。

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瑞泉門

 第三の門である漏刻門の写真はありませんでした。ということで次は第四の門である広福門です。

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広福門

 そして、首里城正殿の御庭へ入る最後の門、奉神門です。

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奉神門

 奉神門を抜けると、正殿があります。

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正殿

 北殿の写真はありませんでした。次は南殿です。

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南殿

  展示してあった朝拝御規式の模型です。朝拝御規式は元旦に執り行われた儀式だそうです。

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朝拝御規式の模型

 次は正殿二階の玉座です。これは復元されたものです。

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正殿二階の玉座

 首里城の火災から1年が経過し、再建に向けての取り組みが進められているようです。国内外から多くの寄付が募られ、その額は50億円以上とのことです。いろいろと入手が難しい材料などもあると思いますが、2026年の完成を目指し、2022年に着工する予定ようです。

 首里城が再建されることを楽しみにしています。その頃には新型コロナウイルスも一段落し、多くの人が訪れるのではないでしょうか。

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