カテゴリー「旅行・地域」の154件の記事

2022年7月16日 (土)

三内丸山遺跡で巨大木柱発見(1994年7月16日)

 三内丸山遺跡は青森県青森市大字三内字丸山に存在する紀元前約3900年~2200年前の縄文時代の大規模集落の遺跡です。大字三内字丸山の地に遺跡が存在することは古くから知られており江戸時代の弘前藩の記録には1623年に土偶が発見されたことが記されています。しかしながら長らくの間、本格的な調査が行われることはありませんでした。

 三内丸山遺跡の調査が始まったきっかけはこの地が青森県営野球場の建設地となったためです。1992年から建設地の事前調査が進められまいいたが、この調査で三内丸山遺跡が大規模集落の跡であることがわかったのです。1994年には直径約1メートルの栗の木の柱6本が発見されました。この柱穴の間隔は4.2メートル、幅と深さは2メートルで統一されていました。縄文時代の遺跡からは縄文尺と呼ばれる35センチメートルを単位とした長さのものが発見されています。柱穴の間隔4.2メートルも縄文尺のちょうど12倍の長さです。当時の人々の測量や建築技術が高ことが伺え、この柱は巨大掘立柱建物を支えたいたと考えられました。

三内丸山遺跡復元六本柱建物(復元物)
三内丸山遺跡復元六本柱建物(復元物)

 1994年7月16日、青森県で高さ20メートの建造物を支える巨大木柱が発見されたことが報道されました。弥生時代の吉野ヶ里遺跡より約5000年も古い縄文時代の遺跡から巨大な木柱が発見されたことは驚くべきことでした。青森県は野球場の建設を中止し遺跡を保存することにしました。

 三内丸山遺跡の広さはおよそ40ヘクタールもあります。集落跡には竪穴住居、高床式倉庫、掘立柱建物、道路、捨場、墓などが整然と配置されています。新青森駅へと向かう東北新幹線は三内丸山遺跡を通り抜けます。新青森駅に到着する前に遺跡の様子を見ることができます。

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2022年6月26日 (日)

子ども130人の誘拐事件「ハーメルンの笛吹き男」(1928年6月26日)

 グリム童話に「ハーメルンの笛吹き男」という話があります。この話はヤーコブ・グリムとヴィルヘルム・グリムのグリム兄弟が1816年に出版した民話集「ドイツ伝説集」に収録したもので、ドイツの ニーダーザクセン州のハーメルンの街で1824年6月25日に起きた事件が元になっています。

 当時、ハーメルンの街ではネズミが大繁殖して住民が困り果てていました。ある日、色とりどりの服を着た笛を吹く男がやってきました。この男は住民に報酬と引き換えにネズミの退治することを提案しました。住民が男にネズミの退治を頼むと、男は笛を吹き始めました。すると町中にいたネズミたちが笛の音につられて集まってきました。男は笛を吹きながらヴェーザー川までネズミたちを引き連れて歩いて行きました。男はすべてのネズミたちを川の中に誘い込み退治しました。これで住民はネズミの大繁殖の悩みから解放されることになりましたが、男との約束をやぶり報酬を減額しました。

ハーメルンの笛吹き男のパレード
ハーメルンの笛吹き男のパレード(2009年、ハーメルンの街)

 約束を反故にされた男は住民が大切にしているものを代わりに頂くと言い残して街を去りました。そして1824年6月26日、男は再びハーメルンの街に現れました。この日、住民はセント・ジョン・ポールの日で教会を訪れて家を留守にしていました。男が笛を吹きながら街の中を歩くと家の中から子どもたちが出てきました。男は子どもたちを市外の丘まで引き連れていき、山腹の洞窟へと入っていきました。洞窟は内側から固く閉ざされて、男と子どもたちは忽然と姿を消してしまったのです。男についていった子どもの数は130人でした。伝承によっては脚が悪くて列に追いつくことができなかった子ども、耳が悪くて笛の音が聞こえなかった子どもは無事だったとされています。

 「ハーメルンの笛吹き男」の話は確かに伝承として残っており、何世紀にもわたって調査されましたが実際に何が起きたのかよくわかっていません。ネズミが大繁殖したという話も1559年頃に加えられた話でそれ以前の伝承にはネズミは出てきません。子どもたちを連れ去られた理由や子どもたちのその後についても様々な説があります。笛吹き男は犯罪者もしくは魔法使いや死神で子どもたちは不幸な結果になったという説もあれば、子どもたちがハーメルンから移民して別の街を作ったという説もあります。いずれにしてもわずかに残った記録を頼りにした確証のない説でしかありません。

 グリム童話の「ハーメルンの笛吹き男」の最後は子どもが読む童話として書き換えられているものが多くの場合は笛吹き男も悪者ではなく約束が果たされた後に子どもたちが無事に戻ります。

 自分は「ハーメルンの笛吹き男」からゲゲゲの鬼太郎の第2シリーズ第38話「隠れ里の死神」を思い出してしまいます。死神が隠れ座頭という妖怪から子どもたちを誘拐するように頼まれます。子どもたちは「時の橋」を渡り「隠れ里」という不老不死の世界へ連れていかれます。そそこでは400年前に誘拐された子どもまでが子どものままで暮らしていました。隠れ座頭は身勝手な善意で子どもたちを隠れ里に誘拐し永遠の命を与えていたのです。家に帰りたいという子どもたちを鬼太郎は連れて帰ります。子どもたちは親に会えると大喜びで鬼太郎の後をついていきますが「時の橋」の時間を遡ることはできなかったのです。

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2022年6月11日 (土)

アルカトラズからの脱出(1962年6月11日)

 カリフォルニア州サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラズ島。ザ・ロック、囚人島、監獄島とも呼ばれるこの島は古くは軍事要塞として使われましたが、1861年に軍事刑務所となり、その後1963年まで連邦刑務所として使用されました。連邦刑務所時代は凶悪犯を収容するようになり、1930年代には当時有名なギャングだったアル・カポネやジョージ・マシンガン・ケリーなどが収容されていました。

アルカトラズ島
アルカトラズ島

 このアルカトラズ島の連邦刑務所には徹底的に脱走対策が施されていました。牢屋の格子は破壊できない鉄柵で作られ、受刑者が脱走できそうな通路やトンネルはセメントで固く埋め尽くされました。すべての牢屋は建物の外壁とは接しないように作られていました。これらの牢屋を取り囲んで見下ろすことができる高所に鉄柵で守られた監視所ガン・ギャラリーが設置され全ての受刑者を見渡せるようになっていました。食堂には催涙ガスのスプレーが設置され監視所から遠隔操作で噴霧できるようになっていました。

 このような徹底した対策にもかかわず連邦刑務所時代には14回の脱走事件が起きました。1946年3月には「アルカトラズの戦闘」と呼ばれる脱獄事件が起きています。受刑者6名が看守を襲って武器と牢屋の鍵を奪い逃亡を図りましたが出口に通じる運動場の鍵を見つけることができず銃撃戦となりました。看守2名と脱獄を図った6名のうち3名が死亡し18名が負傷しました。6名はアルカトラズから脱出することはできなかったのです。

 1960年1月20日、1人の男がアルカトラズ連邦刑務所に移送されてきました。収容番号AZ1441がつけられたこの囚人の名はフランク・モリスで数々の犯罪を繰り返した脱獄犯だったのです。モリスはIQテストで上位2%に入る133点という高得点を獲得していました。モリスはアルカトラズに収監されて間もなく脱獄を考えるようになりました。翌年1961年12月、モリスの独房の近くに収監されていたアレン・ウェスト、ジョン・アングリンとクラレンス・アングリンが加わり脱獄の計画を立て始めました。4人は刑務所内で脱獄に必要な道具を集め始め、廃棄されたノコギリの刃、金属製スプーン、掃除機のモーターで作った電気ドリルなどを使って独房の洗面台下部の裏の通路に通じる換気扇の穴を広げました。この通路はまったく警戒されておらず、彼らは最上階にあった未使用の独房を作業場としました。

 4人はこの作業場で材料を集めながらアルカトラズ島から脱出する準備を始めました。まず作業時や脱出時に自分たちの不在を看守に知られないようにするための人形の頭部を作りました。この頭部は歯磨き粉や壁を削るときに出てくるコンクリートの粉などをトイレットペーパーと混ぜたもので作られておりペンキで色が塗られていました。理髪店から入手した髪の毛を使って本物そっくりの外観に仕上げていました。そして約2年の歳月をかけてあらゆる材料を使って島からの脱出に必要な筏(いかだ)と救命胴衣を作りました。

独房の換気扇の穴(左)と人形の頭部(右)
独房の換気扇の穴(左)と人形の頭部(右)

 脱獄の準備が整うと彼らは計画を実行に移しました。1962年6月11日の夜、4人はまずそれぞれの独房から脱出を図りました。モリスとアングリン兄弟は換気扇の穴から抜け出すことに成功しましたが、ウェストは換気扇の穴が補強によって狭くなってしまっていたため脱出を諦めました。脱出に成功した3人は裏の通路に出て換気口を登り屋上へと出ました。その後、換気パイプを伝わり地上に降りフェンスを2つ越えて刑務所の建物の死角にあたるアルカトラズ島の北東の海岸線にたどり着きました。ここで筏を膨らませ午後10時頃にアルカトラズ島を脱出しました。

 人形の頭部の効果もあり看守が彼ら3人の脱獄に気が付いたのは翌12日の朝でした。約10日間にわたって島の周りの捜索が行われました。kの捜索で筏の櫂(かい)、アングリンの財布、筏の残骸、救命胴衣が発見されました。3人はアルカトラズ島から北に2マイル離れたエンジェル島を目指していたはずですが、ゴールデンゲート近くの湾内は流れが激しく筏が転覆したと考えれています。救命胴衣を着ていても極寒の海に投げ出された3人がエンジェル島にたどり着いた可能性は極めて低いと結論づけられました。3人の生死はわからないまま、1年後の1963年3月21日にアルカトラズ刑務所は閉鎖されました。現在、アルカトラズ島は観光地となっており訪れることができます。

 この「アルカトラズからの脱出」は実話をもとにした映画としてドン・シーゲル監督、クリント・イーストウッド主演で製作され1979年に公開されています。

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2022年6月 2日 (木)

是非に及ばす(1582年6月2日)

 「是非に及ばす」。天正10年(1582年)6月2日(1582年6月21日)の未明、織田信長が京都本能寺で明智光秀の軍勢に襲われたときの言葉である。

 備中(現:岡山県)高松城の毛利軍を攻めにあたっている羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)から出陣の要請を受けた信長は、その先鋒として光秀に出陣するよう命じた。信長に対して憤りを感じていた光秀は謀反を決意しその矛先を毛利軍ではなく上洛していた信長に向けた。

 信長が本能寺に入ったのは5月30日、このとき信長はわずか二、三十騎あまりの供の者しか引き連れていなかった。天下布武を目前にした信長の余裕を見せた上洛であった。嫡男の織田信忠は信長の上洛に先立って京都入りしていた。信忠はおよそ2千の手兵を引き連れて本能寺からおよそ700メートル離れたところにある妙覚寺にいた。備中の戦の状況次第で父子ともども前線に向かう予定であった。

 6月1日、信長は本能寺で大掛かりな茶会を催した。京都の公家や町の中心的人物たちを集めての盛大な茶会だった。この茶会では信長所有のたくさんの名物茶器が披露された。茶会が終わったのが午前0時、名物茶器を堪能した参列者はそれぞれの寄宿舎に帰っていった。この中には信忠も含まれていた。

 6月2日未明、本能寺の周りがにわかにざわつき始めた。最初、信長は酒に酔いしれた者が喧嘩でもしているのだろうと思った。まもなく、ときの声があがりただ事ではない雰囲気が伝わってきた。

 信長は小姓(森蘭丸と言われている)をよぶと、「これは誰の手のものによるものか」とたずねた。小姓が明智光秀の名前を告げると、信長はただ一言「是非に及ばず」と言った。信長49才の初夏、桶狭間の戦いの前に「敦盛 」を舞った信長は下天の1日を生き抜く目前で生涯を閉じたのである。

錦絵 本能寺焼討之図(明治29年作・名古屋市所蔵)
錦絵 本能寺焼討之図(明治29年作・名古屋市所蔵)

 さて、明智光秀が織田信長を裏切った理由には諸説ありますが、もうひとつの謎は「是非に及ばす」の意味である。「是非に及ばず」とは「当否や善悪を論じるまでもなくそうするしかない。どうしようもない。しかたがない。やむを得ない。」とう意味である。

 信長はなぜ開口一番「是非に及ばず」と言ったのだろうか。光秀の手兵はおよそ1万3千にもなったが「是非に及ばず」という言葉が出たのは単に軍勢の差だけはないであろう。

 信長は桶狭間の合戦や浅井長政の裏切りなど何度も窮地に立ち、それを乗り越えてきた人間である。しかし、本能寺での裏切りが光秀の仕業であることを聞いて、信長は今回の窮地は逃れられないと思ったのであろう。これまで周到に何事も乗り越えてきた。やっと天下布武が目前になったところで隙が出た。これですべてが終わる。「是非に及ばず」とは、つまりこういう事態もやむを得ない、こんなこともあるだろうという信長の一瞬の覚悟を如実にあらわした言葉だったのだろうか。スペインの貿易商アビラ・ヒロンの「日本王国記」には信長は明智に包囲されていることを知ると「余は余自ら死を招いたな」と言ったとも書き記されている。

 しかし、信長は本能寺で最期まで戦っている。最初は弓で応戦していたがすべての弓の弦が切れてしまった後も諦めずに槍を持って応戦したという。しかし、肘に槍傷を受けて内に退き付き従った女房衆に「女はくるしからず、急罷出よ」と指示して脱出させている。そして自らは日がかけられた御殿の殿中の奥深くに篭り内側から納戸を締めて切腹している。

 この一部始終を記録しているのが太田牛一の「信長公記」である。太田牛一は本能寺の信長の最期の様子を女房衆の女性から聞き取ったものであると書き記しておりこの記述の信憑性は高いと考えられる。

 「既に、信長公御座所、本能寺取り巻きの勢衆、五方より乱れ入るなり。信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者ども仕出し候とおぼしめされ候のところ、一向さはなくときの声を上げ御殿へ鉄砲を打ち入れ候。是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに森乱申す様に明智が者と見え申し候と言上候へば、是非に及ばずと上意候。透をあらせず、御殿へ乗り入れ、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。」

 一般に「是非に及ばす」という言葉だけから信長がやむを得ないと考えたという解釈がある。ところが「信長公記」の記述は「是非に及ばずと上意候」で上意候とあるからこれは命令である。何を命令したかというと次の行動「透をあらせず、御殿へ乗り入れ、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候」から戦うことを命令した考えることができる。そして直ちに御殿に入り戦闘態勢を取り信長自らも弓と槍で戦ったのである。もし、信長がこのときやむを得ない、諦めたと判断したのであれば御殿に入り自刃するはずで戦うわけがありません。

 そこでこの「是非に及ばずと上意候・・・」は敵が攻めてきたことに対して、これが光秀の謀反なのかどうか是非を問いている場合ではない直ちに戦闘態勢を取るという上意だったと解釈できます。

 さて、京都に本能寺の変の歴史を求めて旅をするときには、京都市役所近くの本能寺までまず行きましょう。ここには、信長の墓があり、資料館もあります。しかし、ここは本能寺の変が起こった場所ではありません。実は本能寺は5回も移転しています。本能寺の変があったのは、本能小学校があったところです。本能小学校には本能寺跡の碑がひっそりと立っています。現在の本能寺から約1 kmで歩いていける距離です。

 時間があれば信忠がいた妙覚寺にも行ってみましょう。このあたりを歩くときには方位磁石を持っていくことをおすすめします。光秀の軍勢がどちらの方角から来たのか、妙覚寺はどの方向にあったのかなどを考えながら歩くと面白いです。その後は、二条城などに行ってみるのも良いでしょう。


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2022年5月16日 (月)

旅の日(1689年5月16日)

 5月16日は「旅の日」です。松尾芭蕉が1689年5月16日(旧暦 元禄2年1869年3月27日)に「奥の細道」の旅に出発したことに由来し、1988年に「日本旅のペンクラブ」が制定しました。「日本旅のペンクラブ」の「旅の日」のページによると「年に一度、旅を愛する人々が集い、日本人の旅行観や旅行関連業界の将来など、旅について考え、語り合う機会」とされています。

 ところで芭蕉が156日をかけて約450里(1768キロメートル)に渡る「奥の細道」の旅をしたのは45歳のときでした。1日の平均移動距離は7里半(約30キロメートル)に及び40キロメートル以上歩いた日もありました。このことから芭蕉の正体は忍者で幕府の密命により東北を調査するための旅をしたという説があります。

 しかしながら当時の男性は1日10里(約39キロメートル)は歩くことができたそうです。東海道なら江戸の日本橋から京都の三条大橋までの124里124里8丁(約488キロメートル)を13日で歩きました。つまり1日あた9.6里(37.5キロメートル)も歩いていたのです。このことを考えると、松尾芭蕉が歩いた距離は当時の男性より少し速かったぐらいでしかありません。忍者は1日40里(160キロメートル)移動するそうですから芭蕉の歩行速度は忍者には及びません。

 「奥の細道」の旅で芭蕉に同行した河合曾良という人物がいます。曾良は長野県諏訪の出身で芭蕉との旅を終えた1709年に幕府の巡見使随員として九州諸国の大名の監視の旅に出ています。もしかすると曾良には忍者の素養があったのかもしれません。

松尾芭蕉と河合曾良
松尾芭蕉(左)と河合曾良(右)
森川許六作

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2022年4月29日 (金)

西表島を「いりおもてじま」と読む由来

 石垣島の西方にある西表島。八重山列島のひとつで沖縄県八重山郡竹富町に属します。イリオモテヤマネコでも有名な大自然に恵まれた西表島は動植物の多様性が認められ2021年に世界自然遺産に登録されました。

 さて西表は「いりおもて」と読みます。西を「いり」と読むのですがこれは沖縄の言葉に由来します。日の出と日の入りから、太陽が昇る東を「上がり」、沈む西を「入り」と読みました。西表島は石垣島からちょうど西にありますから日の入る方角にあります。表は石垣島の於茂登岳(おもとだけ)を意味し、於茂登岳の西にある島ということで西表島と呼ばれるようになったと考えられています。

西表島と石垣島
西表島と石垣島

 それでは石垣島から見て東の方向にある島は東表島(あがりおもてじま)と呼ばれるのでしょうか。石垣島近辺の東方の海にはそもそも島がありませんので残念ながら東表島と呼べるような島はありません。

西表島の自然図鑑 (ネイチャーガイド)

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2022年4月15日 (金)

舞浜の由来は「浦安の舞」だった|東京ディズニーランド開園(1983年4月15日)

 千葉県浦安市の東京ディズニーランドが開園したのは1983年4月15日です。子どもの頃はディズニーランドと言えば遠いアメリカにある夢の遊園地。そのディズニーランドが日本にできると聞いて喜んだものです。とはいえ当時は地方に住んでいたので東京に行く機会もそれほどあったわけではありません。それでも1986年に始めてディズニーランドに行くことができました。当時は「ビッグサンダー・マウンテン」「スプラッシュ・マウンテン」はなく「スペース・マウンテン」に乗った記憶があります。その後に言ったのは5周年を迎えた1988年だったと思います。このときは長い行列に並びましたが「ビッグサンダー・マウンテン」に乗ることができました。

ディズニーランド開園5周年特集 週間毎日グラフ(1988年5月8/15日合併号)
自宅で発見した週間毎日グラフ(1988年5月8/15日合併号)
ディズニーランド開園5周年特集

 ところでディズニーランドのある舞浜はウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートが存在する米国フロリダ州のマイアミに因んで名付けられたというのが定説でした。このブログでも「舞浜の由来はマイアミだった」という記事を2014年に掲載していますが、どうやらこの定説は覆ったようです。

 浦安市のホームページの「地域名の由来」には次のように記載されています。

【浦安市行政区画、19大字の一つです。第1期海面埋立事業で昭和50年11月29日誕生。字名(地区名)「舞浜」は、日本の代表的な神楽舞「浦安の舞」にちなんで名付けられました。舞浜の由来については、これまで、浦安市史(昭和60年3月発行)などで『大規模レジャーランド(東京ディズニーランド)が建設される地域であるため、アメリカ合衆国のディズニーワールドの近くにあるマイアミビーチにちなんで命名された。』としてきました。しかし、前市史の記述を検証する中で、昭和50年11月29日の町議会において、熊川好生町長(当時)が「浦安の舞にちなんで舞浜と名付けた」と説明し、可決されたという事実を再確認したことから、前市史などの記述を改め、「浦安の舞」を地名の由来とします。】もともとマイアミ説も十分な確証がなかったようで、浦安市史を調べているうちに今回の町議会の記録が見つかったということなのだと思います。

 

 さて浦安の舞は巫女神楽のひとつで、昭和15年(1940年)11月10日に開かれる「皇紀二千六百年奉祝会」に合わせて作られたものです。なぜ、この舞が「浦安の」なのでしょうか。古語で「うら」は心を意味するそうです。「うら寂し」「うら悲し」などの言葉がありますが、この「うら」と同じです。一方の「やす」は平穏を意味します。つまり、「うらやす」は心の平穏を意味します。それに加えて、「浦安国」が日本国の別称であるということも関係しています。日本書紀にも「昔伊弉諾尊目此国曰。日本者浦安国。」とあるようです。これが「浦安の舞」の由来です。

神楽 浦安の舞

 浦安市の語源は、前身の浦安村に由来します。浦安村は明治22年(1889年)に堀江、猫実、当代島の3村が合併してできた村だそうです。浦安市の「浦安村の誕生」には浦安村の命名について次のように記載されています。

【当時漁村であった当地の漁浦の安泰を祈願する意味で、初代村長新井甚左衛門によって名付けられたといわれています。また、一説には日本国は昔「浦安の国」と称したことから、この名を採用したともいわれています。】

 魚浦の安泰を祈願する意味で「浦安」と命名したとあります。「浦安国」の浦安とも一致したため、これは良いということになり、採用されたのではないでしょうか。

 いずれにしても、舞浜がマイアミビーチに由来するという説は覆り、浦安の舞に由来するということになりました。マイアミビーチだから舞浜にしたという説が都市伝説的なものなのか、あるいはこの話も本当にあったのかどうかも興味深いところです。

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2022年3月31日 (木)

エッフェル塔落成記念日(1889年3月31日)

 パリのシャン・ド・マルス公園の北西に位置するエッフェル塔。このフランスの象徴的な建造物は1889年にパリで開催されたフランス革命100周年を記念する第4回万国博覧会に向けて建造されました。

 18世紀から19世紀にかけて起こった産業革命により工業化が進むと、ヨーロッパ各国で高さ150メートル程度の高層の教会が建造されるようになりました。1884年に米国ワシントンD.C.に独立戦争における初代大統領ジョージ・ワシントンの功績を称えるワシントン記念塔が建造されると、この高さ169メートルのオベリスクが世界最大の建造物となりました。第4回万国博覧会がパリで開催されることが決まったはこの年でした。

 第4回万国博覧会を構想するに当たってフランス革命100周年にふさわしい人目を引くような特段のプロジェクトはありませんでした。そこで高さ300メートルの鉄塔を建ててパリの万博博覧会のシンボルとしようと考えたのが建設会社エッフェル社の鉄骨構造物研究部長モーリス・ケクランと組立工法部長エミーユ・ヌーギエでした。2人は1884年6月に4脚で立つ鉄塔の原案を作成しましたが、そのデザインは鉄塔としては技術的に優れていましたが万国博覧会にふさわしいものではありませんでした。そこで建築部長ステファン・ソーヴェストルが原案に修正を加え、1階部分を万国博覧会のゲートを彷彿させるアーチ状にすることによってプランが完成しました。その後、エッフェル社の社長ギュスターヴ・エッフェルがエッフェル塔の建設実現に尽力しました。1886年に開かれた万博博覧会の建造物のコンペティションでエッフェル塔が満場一致で選ばれました。

 エッフェル塔はシャン・ド・マルス公園に建設されることになり、1887年1月28日に起工式が行われました。4本の脚から建設が始まり、翌1888年3月に1階展望台、8月に2階展望台が完成し、1889年3月30日に竣工しました。同年3月31日に当時のフランス首相ピエール・エマニュエル・ティラールらを招いて竣工式が行われ、この日がエッフェル塔落成記念日となりました。建設当時、エッフェル塔は高さ312.3メートルで世界一高い建造物となりました。 

左:建設中の4本の脚(1888年) 右:エッフェル塔(1889年)
左:建設中の4本の脚(1888年) 右:エッフェル塔(1889年)

 エッフェル塔の総工費は650万フランでしたがフランス政府からの補助金は150万フランしかありませんでした。しかも1909年にエッフェル塔をパリ市に寄贈するという条件付きでした。エッフェルは総工費を自ら金策し、1909年までの入場料を建設費の返済に当てました。

 1889年のパリ万国博覧会ではエッフェル塔は大人気となりたくさんの人々が訪れました。1900年に万国博覧会が再度パリで開催されることになると再び多くの人々が訪れましたが、やがて入場者数は減少していきました。そのため1909年のパリ市への寄贈後は解体される見込みとなりました。しかしながら、1904年に軍事用無線電波をエッフェル塔で送受信することになり解体を免れました。以降、エッフェル塔は観光用ランドマークとしてだけでなく重要な電波塔として活躍することになりました。1957年にはアンテナなどの設置により高さ321メートルとなりました。

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東京タワーの完工式(1958年12月23日)

レインボーブリッジの開通日(1993年8月26日)

東京スカイツリー開業(2012年5月22日)


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2022年2月27日 (日)

八甲田トンネル開通(2005年2月27日)

 東北新幹線が埼玉県の大宮駅と岩手県の盛岡駅を結んだのは1982年(昭和57年)6月23日です。1985年(昭和60年)3月14日に上野駅まで延伸され、1991年(平成3年)6月20日に東京駅まで延伸されました。以降は盛岡駅から新青森駅を目指し八戸駅まで延伸されたのが2002年(平成14年)12月1日です。

 従来の東北本線は八戸駅を出て三沢駅・野辺地駅・浅虫温泉駅などを経て北回りで青森駅に向かいました。北回りとなった理由は八戸の西方には八甲田山系があり都市が少なかったことなどがあげられます。また八甲田山系を貫く長距離のトンネルを掘るのは困難だったのです。

 速度向上と所要時間の短縮を重視する東北新幹線では北回りの路線は選ばれず八甲田山系の北側に八甲田トンネルを建設することになりました。東北新幹線は八戸駅から七戸の方面に延伸され青森をめざすことになりました。そして八甲田山系の東側に七戸十和田駅、西側に新青森駅が設置されることになりました。八甲田トンネルは1998年8月に着工され、約7年後の2005年2月27日に貫通しました。その後、トンネル内の整備が進められ、2010年12月4日に東北新幹線の八戸駅-新青森駅間の開業に伴い運用が開始されました。現在、八戸駅から青森駅までの旧東北本線は青い森鉄道として第三セクターの青い森鉄道株式会社によって運用されています。

八甲田トンネル
八甲田トンネル

 八甲田トンネルは七戸十和田駅と 新青森駅の間に位置し青森市東部の東岳山の折紙山の北川の麓を貫いています。その全長は26.455 kmで岩手一戸トンネルの25.808 kmを抜いて陸上鉄道トンネルとしては世界一の長さとなりましたが2005年4月28日にスイスのレッチュベルクベーストンネル(34.577 km)が貫通しわずか2ヶ月で世界一の座を失いました。しかしながら、レッチュベルクベーストンネルは単線であり、複線の陸上トンネルとしては八甲田トンネルが世界一となっています。

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2022年2月23日 (水)

富士山の日(2月23日)

 2月23日は語呂合わせ「ふ(2)じ(2)さん(3)」から富士山の日とされています。「富士山の日」は山梨県富士河口湖町(当時は山梨県河口湖町)と静岡県がそれぞれ2001年12月と2009年12月に制定しています。山梨県河口湖町は「富士山の恩恵に対する感謝を表すとともに、富士山の環境保全ならびに観光資源としての重要性を認識する機会」、静岡県は「県民が富士山について学び、考え、想いを寄せ、富士山憲章の理念に基づき、後世に引き継ぐことを期する日(静岡県富士山の日条例)」としています。

富士山
富士山

 さて「富士山の日」を最初に制定したのは自治体ではなくパソコン通信NiftyServe(現@nifty)のフォーラム「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」です。1996年(平成4年)1月に日本記念日協会に登録されました。日本記念日協会のサイトで「富士山の日」を検索すると下記の説明が表示されます。

『オンラインを通じて、全国一斉に富士山の見え具合をネット上で報告し合うなど、富士山をテーマとした活動を活発に行っているパソコン通信上の「山の展望と地図のフォーラム」が制定。日付は2と23で「富士山(ふじさん)」と読む語呂合わせと、この時期は富士山がよく望めることから』(引用:一般社団法人・日本記念日協会

 「山の展望と地図のフォーラム(FYAMAP)」は@niftyのフォーラム終了後もこちら(FYAMAP)で現在も活動が続いています。自分もNiftyServeをよく利用していました。あるフォーラムのSUBSYSを努めていた関係でこちらのフォーラムもNifTermやNif-Xで自動巡回していました。

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