カテゴリー「文化・芸術」の21件の記事

2021年3月 4日 (木)

バレエ組曲「白鳥の湖」の初演(1877年3月4日 )

 「白鳥の湖」は「眠れる森の美女」と「くるみ割り人形」に並ぶピョートル・チャイコフスキー作曲のバレエ組曲です。国立アカデミー・ボリショイ劇場の依頼によってチャイコフスキーが1875年に作曲に着手、1876年に完成させました。

 「白鳥の湖」はチャイコフスキーにとって初めてのバレエ組曲の作曲で、初演は1877年3月4日、ボリショイ劇場バレエ団によって公演されました。現在ではバレエと言えば「白鳥の湖」が定番のように頭に浮かぶ人もたくさんいると思いますが、1877年に行われた初演では高評価を得られず、40回ほど上演されたのちお蔵入りとなりました。

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チャイコフスキーと初演のオデッタ役Anna Sobeşanskaya

 1893年にチャイコフスキーが急死すると、バレエダンサー振付師マリウス・プティパとレフ・イワノフが「白鳥の湖」の振り付けを改めて行い、1895年1月15日にサンクトペテルブルク・マリインスキー劇場バレエ団によって蘇演されました。現在上演されている「白鳥の湖」には演出の異なる様々な版がありますが、どれも初演版ではなくプティパとイワノフの蘇演版が元になっています。日本での初演は1877年の初演から約70年後の1946年8月9日、東京バレエ団が帝国劇場で上演しました。

 ところで、日本の音楽学者の西岡信雄さんは、ハクチョウはダンスを踊らないことから、ダンスを踊る「白鳥」はタンチョウがモデルになっており、ツルのダンスにハクチョウをあわせたのではないかという見解を示しています。実際に「白鳥の湖」のリズムはタンチョウの求愛ダンスによく合うそうです。

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2021年2月17日 (水)

猫の食パンアート(第1部)|欧州World Cat Day(2月17日)

 2月17日は、ヨーロッパの多くの国で「World Cat Day」とされています。そこで、猫の日にちなむ記事を書こうと思っていたところ「猫の食パンアート」なるものを見つけました。インスタグラムで手作りの「猫の食パンアート」の写真を公開している「猫好きのクリエエータmihiro(@mihiro523)」さんの作品です。

 猫パンと聞くと、食パンに猫の耳がついていて、猫の顔の簡単なイラストが描かれているようなものを想像すると思いますが、この 「猫の食パンアート」はアートというだけあって、ひと味違います。見た瞬間にこれは凄いと思いました。

Nana 
猫の食パンアート(モデルNANAちゃん)

 作者のmihiroさんに聞いてみると、猫の写真を飼い主さんに提供してもらい、猫の特徴をできる限り再現するように製作しているとのことです。なるほど、こんなにリアルな猫パンに仕上がっているわけです。この写真にはNANAちゃんと、しっかりとモデルになった猫の名前が入っています。

 「猫の食パンアート」を始めたきっかけは、昨年の春頃から自宅で過ごす時間が増えたためだそうです。毎日、食パンのアートを作って、インスタグラムで紹介していたそうです。ある日「ねこねこ食パン」を見つけ、猫の食パンアートを製作したくなったのだそうです。

 写真を公開しているうちに、フォロワーである飼い主さんたちに猫の写真を提供してもらい、気が付いたらたくさんの作品が出来上がっていたそうです。その作品の数々の写真を提供して頂きましたので、紹介します。

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猫の食パンアート 作品集1

 もう1枚紹介します

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猫の食パンアート 作品集2

 まるで芸術作品を見ているかのようですね。さて、それぞれとてもリアルな仕上がりになっていますが、モデルになった猫とどれぐらい似ているのでしょうか。次の写真のモデルは「まるこ」ちゃん、顔や耳の形、模様だけでなく、表情までしっかりと再現されています。左の写真はご機嫌斜め、右の写真は上目づかいで「何か」を警戒しているようです。

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まるこちゃんの猫パン

 mihiroさんはインスタグラムのフォロワーさんの猫をモデルにしていそうです。mihiroさんをフォローすると、あなたの猫ちゃんがモデルになる日がくるかもしれません。

猫好きのクリエエータmihiro(@mihiro523)のインスタグラム
https://www.instagram.com/mihiro523/

 さて、「猫の食パンアート」ですが、どのような材料で、どのような方法で製作しているのでしょうか。これについては、日本の猫の日である2月22日に第2部として紹介したいと思います。

記事全文:ココログ 夜明け前 猫の食パンアート(第1部)|欧州World Cat Day(2月17日)

【記事】

猫の食パンアート(第1部)|欧州World Cat Day(2月17日)

猫の食パンアート(第2部)|日本 猫の日(2月22日)

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2021年2月15日 (月)

美しく青きドナウの初演日(1867年2月15日)|ドナウ川とは無関係だった

 「美しき青きドナウ(An der schönen, blauen Donau)」はヨハン・シュトラウス2世が1876年に作曲したウインナ・ワルツです。

ヨハン・シュトラウス2世
ヨハン・シュトラウス2世

 1865年、ウィーン男声合唱団はシュトラウス2世に合唱曲の作曲を依頼しました。シュトラウス2世は合唱用ワルツを作曲したことはありませんでしたが、1867年に無伴奏の四部合唱の未完成の状態の曲を合唱団に送りました。その後、ピアノ伴奏部が遅れて送られてきました。

 さっそくアマチュアの詩人ヨーゼフ・ヴァイルによって作詞が行われましたが、作詞が完成したときにシュトラウス2世が5部目のワルツを送ってきました。さらにシュトラウス2世はヴァイルの作詞にいくつかの改定の注文をつけました。ヴァイルはシュトラウス2世の要求に何とか応えながら、1866年の普墺戦争でプロセイン帝国に敗れたオーストリア帝国の国民を元気づけるような歌詞を作詞しました。

 シュトラウス2世とヴァイルによって完成した曲は1867年2月15日にウィーンのディアナザールでの初演を迎えることになりました。ところが、初演の直前まで曲名がつけられていませんでした。ハンガリーの詩人カール・イシドール・ベックの詩「An der Donau」の中の「An der schönen, blauen Donau(美しく青きドナウのほとりで)」が曲名として選ばれました。残念ながら記録が残っていないため、誰が曲名をつけたのかはわかっていませんが、シュトラウス2世の父のヨハン・シュトラウス1世のワルツ「ドナウ川の歌」に似ていたことからこの曲名となったようです。

 「美しく青きドナウ」はまるで計算しつくされてできあがったような完璧とも言えるワルツです。誰もが目をつぶれば美しいドナウ川の情景を想像できるような名曲ですが、実はドナウ川を想像して作曲・作詞された曲ではなかったのです。ですから、ヴァイルの歌詞にはドナウ川が一切登場しませんし、シュトラウス2世は初演の直前になってオーケストラ伴奏を作曲しています。ドナウ川のさざなみを表現したかのような序奏も初演の直前になって追加されたものです。

 さて、よく耳にする「美しく青きドナウ」には合唱が入っていません。実はヴァイルのオーストリア国民を元気づける歌詞が時世や曲名や曲に合わなくなったことから、曲に若干手が加えられて歌詞なしでの演奏が行われるようになりました。これによって歌詞が入った曲が上演されることはなくなりましたが、曲の出来栄えがよくなり、このことが「美しく青きドナウ」を世界中の誰もが知る名曲へと押し上げたのです。

美しく青きドナウの楽譜(シュトラウス2世のサイン入り)
美しく青きドナウの楽譜(シュトラウス2世のサイン入り)

 自分が初めてこの曲を聴いたのは映画「2001年宇宙の旅」のワンシーンでした。真っ暗な宇宙空間にぽっかりと浮かぶ宇宙ステーション。回転する宇宙ステーションに、これまた回転しながら近づいて到着する宇宙船、壮大な景観にぴったりな選曲でした。

 また、オーストリア航空でウィーンを訪れたとき、着陸時にこの曲が流れていました。高度を下げ始める飛行機、窓から見えるウィーンの街、そして着陸までのプロセス、この曲がぴったりと合いました。オーストリアでは公式ではありませんが国民に第二の国家として親しまれています。だからこそナショナル・フラッグのオーストリア航空の機内でこの曲が流されるのでしょう。

 「美しく青きドナウ」、ドナウ川の美しい景観を想像するような、とても素晴らしい名曲で、完璧な出来栄えのワルツと信じ込んでいたのですが、この曲がドナウ川とは無関係に作曲されたことを知ったのはずいぶん後のことでした。

 あの名曲が・・・でもやっぱり名曲です。

ワルツ「美しく青きドナウ」

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2021年1月30日 (土)

八王子中町と芸妓衆の思い出|八王子芸妓衆がクラファン

 古くから織物の街として栄えてきた東京都八王子。その商いの場として、大正時代から繁栄してきたのが中町です。中町はJR八王子駅から北西の位置にあり、西放射線ユーロードを歩いていくとたどりつきます。

 八王子市中町には多摩地域で唯一の花街があります。戦後の昭和27年には、料亭が45軒もあり、215人の芸妓が活躍していたそうです。昭和30年代に織物業が衰退し始めると、商談や接待が減り始め、賑わいを見せていた花街にも陰りが見え始めました。

 自分が就職のため八王子に移り住んだのは昭和63年(1988年)4月のことです。さっそく上司や先輩に酒席に誘われ、八王子の街中を歩いたものです。50代の上司の行きつけのバーやスナックが中町にあり、よく連れていってもらいました。黒塀に挟まれた路地が張り巡り、見るからに高級なお店がたくさん佇んでいました。

 当時の中町には芸妓衆を呼ぶことができる料亭が10件ぐらいはあったと思います。もちろん、若輩者がそのような料亭で御座敷をあげることなどできません。中町を歩く芸妓を時々見かけるぐらいでした。綺麗な着物を来て、路地をもの静かに歩く姿を楽しませてもらいました。芸妓は十数人しかいなかったはずですから、街中で芸妓を見かけるのはとても幸運なことだったのです。

 年が開けて昭和64年になると、昭和天皇が崩御し、平成の時代がやってきました(ココログ 夜明け前「平成」の世が始まる(1989年1月8日)」)。気がついてみると、自分は昭和最期の新入社員になっていたのです。さて、4月になると新入社員が入社しました。彼らが平成最初の新入社員ということになります。当時はバブル景気のど真ん中で、例年よりも多くの新入社員が入社してきたのです。

 当時、入社2年目と3年目の社員が新入社員の歓迎会を行うというしきたりがありました。入社2年目の社員が幹事を担当することになり、自分が任されることになりました。自分の同期は5名、3年目の先輩たちは7名、そこに30名近くの新入社員です。どう考えても2年目と3年目の社員だけで歓迎会の費用を賄えるはずがありません。そこで、新入社員の歓迎会の参加者を誘い始めました。すると、あっという間に50名を超える参加者となり大宴会を行うことになってしまったのです。

 さて、当時は大きな居酒屋チェーン店もそれほど多くありませんでした。ホームページで店を探して予約なんてことができる時代ではありませんでしたから、駅近くのお店を巡っては予約の確認をする日々が続きました。ところが大人数を収容できる座敷のあるお店はあまりなく、あっても予約がいっぱいでした。京王プラザホテルもまだなかった頃です。

 八王子にわずか1年しか過ごしていない幹事は店を探すのに途方に暮れて、やってきたのが中町でした。広い座敷のある料亭があることは知っていましたが、予約の仕組みもよくわからないまま、ある古い料亭に入りました。そこは料亭ではなく置屋さんだったのではないかと思います。時代劇で番頭さんがいるような雰囲気の入り口で、そこには女将さんがいました。宴会をやりたいと事情を話すと、本当は芸妓を呼ぶ宴会をするところなのだけど、お兄さんの宴会を請負いましょうとお座敷の予約を快諾してくれたのです。料理は御膳を出してもらうことになりました。ちょうど予約が空いていたのだと思いますが、「粋なまち」と聞いていた中町で「粋なはからい」をしてもらうことができました。おかげさまで大宴会は宴も酣のうちに終えることができたのです。それから、しばらくして再び宴会の幹事を担当する機会があり、同料亭の御座敷を使わせて頂くことになりました。その頃になると、女将さんとも顔見知りになっていました。宴会が終わったときに「お兄さんたち偉くなったら芸妓さん呼んで御座敷開いてね」の言葉を今でも覚えています。

 それから数年後、中町のとあるカラオケのできるお店に行くようになりました。そのお店も上司に紹介してもらったのですが、ママさんは元芸妓でした。お客さんの年齢層は50代以上がほとんどで、お店で働いている女性も40代以上でした。20代でこの店に行っていたのは、おそらく自分たちだけでした。他のおじさんたちがいくら払っているかはわかりませんが、自分たちは歌い放題で3,000円ぐらいで飲ませてもらったのです。しかも常連のおじさんたちが御馳走してくれるものだから、ボトルを入れたのも最初のうちだけでした。

 この常連のおじさんたちは、よく芸妓さんを連れてきていました。ある日、美空ひばりの「車屋さん」や坂本冬美の「夜桜お七」を上手に歌う20代の芸妓さんがいました。常連のおじさんたちは自分たちを席に呼んくれました。こうして幸運なことに芸妓さんとも何度かご一緒することができたのです。一人3,000円しか払ってないのに・・・常連のおじさんたちの「粋なはからい」でした。織物業の経営者さんの懇親会だったのかもしれません。このとき一人のおじさんが言っていたのが、あの大宴会でお世話になった女将さの言葉「お兄さんたち偉くなったら芸妓さん呼んで御座敷開いてね」と同じだったのです。

 時は流れて、中町の様子も様変わり。黒塀もほとんどなくなり、やがて置屋さんも料亭も、一つ、二つと消えていきました。大宴会でお世話になった女将さんのお店もなくなりました。料亭やお店の跡地にはマンションや駐車場ができ、置屋もなくなり、八王子の花街も非常に厳しい状況となりました。八王子芸妓の文化か途絶えるのではという声も聞こえるようになっていました。

  そのような状況のなかで2001年に一人の芸妓さんが20年ぶりに置屋を開業しました。その芸妓とはは「ゆき乃恵」の女将のめぐみさんです。なんと、めぐみさんこそ常連のおじさんと同席し「車屋さん」や「夜桜お七」を歌ってくれたあの芸妓さんだったのです。めぐみさんは粛々と芸を磨き、後進を育て、八王子の花街を復活させました。芸妓の人数も次第に増え、八王子まつりや多くのイベントで芸妓さんたちの姿を見ることができるようになりました。中町も黒塀の佇まいの雰囲気を取り戻し始めました。テレビや映画にも出演するようになりました。

 さて、ここにきて多くの人たちの活動に立ちはだかっているのが新型コロナウイルスです。一時期は景気の回復の兆しも見えていましたが、陽性者数が増え続け年明けに非常事態宣言、大打撃を受けている人がたくさんいます。

 そのような状況の中で、八王子芸妓衆の活動も大きく制限され、たいへん厳しい状況になっているようです。この状況を乗り越えようと八王子芸妓衆はクラウド・ファンディング「八王子芸者衆を応援してください~桑都の八王子花柳界~」を始めました。応援すると八王子芸妓衆オリジナルのお礼の品を届けてくれるようです。

 あれからちっとも偉くなっていない当時のお兄さんは、今もって芸妓さんを呼んでの宴会をしたことがありません(^^l)。過去に頂いた「粋なはからい」へのお礼として、無形文化を未来に継続してもらうためにも、本当にささやかですが応援したいと思います。

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2021年1月24日 (日)

八王子「桑都物語」日本遺産認定記念番組|J:COMチャンネル

 東京としては初めて日本遺産に認定された八王子の桑都物語は、養蚕や織物で発展してきた桑都と呼ばれて八王子の歴史を、人々が霊山として信仰してきた高尾山とのつながりによって、過去から現在、そして未来へと紡いでいくものです。

 高尾山をはじめ、八王子城跡、滝山城跡、八王子車人形、八王子まつりなど、29の構成文化財を掲げ八王子の魅力を語ります。29の構成文化財の一覧は八王子市のホームページ「ストーリーの構成文化財」に掲載されています。

 本日、J:COMチャンネルで日本遺産に認定されたストーリーの構成文化財のうち25番目の「八王子車人形および説経浄瑠璃」、28番目の「八王子芸妓」が記念演目とともに紹介されます。

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八王子芸妓

J:COMチャンネル

[八王子]日本遺産認定記念番組 「静と動」 ▽桑都が紡いだ伝統文化のわざとこころ

J:COMチャンネル八王子 1月24日(日)20:00から

J:COMチャンネル東 京 1月24日(日)22:00から

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2020年12月26日 (土)

NHK FM リサイタル・パッシオ 選 藤澤仁奈(マリンバ)

 2016年The Great Plains 国際マリンバコンクールで第1位となったマリンバ奏者の藤澤仁奈さんが8月にNHK FMの番組「リサイタル・パッシオ 選」に出演されましたが、このたび好評であったため再放送されることになったそうです。

 以前、あるイベントで生演奏を聴かせて頂いたことがあり、マリンバの音色を聴き入ってしまいました。マリンバは木琴の一種で、楽器の分類は体鳴楽器、弦や膜などを用いず、物体そのものが叩いたり、振ったり、擦ったりすることで振動させて音を出す楽器です。シンバル、カスタネット、トライアングル、ベル、マラカス、カリンバなどがあります。マリンバは長さの異なる木製の音板を叩いて音程をつくり、音を金属製の共鳴パイプで響かせるようになっています。マリンバの音程や音色は音板の長さだけでなく、音板の裏側をいかに削るかによっても変わります。かなり奥が深い楽器です。

 さて、そんなマリンバの音色を藤澤仁奈さんの演奏で是非お楽しみください。

番組:NHK FMの番組「リサイタル・パッシオ 選」

日時:12月27日(土)20:20〜22:55(35分)

出演:マリンバ奏者 藤澤仁奈、司会:金子三勇士

楽曲:次の4曲です。

ジェネラライフ
エマニュエル・セジョルネ:作曲
(マリンバ)藤澤 仁奈
(1分35秒)

無伴奏チェロ組曲 第3番 ハ長調 BWV1009から 前奏曲
バッハ:作曲
(マリンバ)藤澤 仁奈
(3分55秒)

ミザール、あるいは並行する反射
服部 和彦:作曲
(マリンバ)藤澤 仁奈
(8分15秒)

ロマンティカ
エマニュエル・セジョルネ:作曲
(マリンバ)藤澤 仁奈
(5分38秒)

藤澤仁奈さんのYouTubeチャンネル:Nina Fujisawa

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2020年12月22日 (火)

歌舞伎十八番の勧進帳(かんじんちょう)

 山伏というのは修験者のことで、修験道の行者のことです。修験道というのは、山深くにこもって修行をする神仏習合の宗教です。神仏習合というのは神様と仏様への信仰を一緒にしたものですが、明治元年の新政府による神仏分離令によって禁止となりました。要するに神様と仏様はきちんと区別しなさいということだったのですが、もちろん現代においては信教の自由は認められています。

 ところで山伏は山で厳しい修行していたわけですから、山の中を自由に動きまわることができました。横の連携が強く、また関所を通らなくても良いという特権を持っていました。

 さて、勧進帳(かんじんちょう)という歌舞伎十八番の演目があります。源義経と武蔵坊弁慶が源頼朝から逃れて平泉の藤原氏のもとへと逃れたときに、頼朝は義経を捕まえようととして関所を強化しました。これを知った義経たちは、山伏に変装して関所を通過しようとします。弁慶は焼失した東大寺を再建するため勧進を行っていると説明しますが、関所の関守は義経たちが山伏姿で移動しているという情報を掴んでいて、義経一行ではないのかと嫌疑をかけ、関所を通そうとしません。

 そこで、弁慶が白紙の巻物を勧進帳だと読み上げます。勧進帳というのは、お寺や仏像を作るときに寄付を求めるときに使った書類です。それを読み上げ、さらに山伏の心得や秘密の呪文などをすらすらと述べたものですから、関守は一行を山伏と信じて、関所を通ることを許可します。

 ところが、関守の部下が一行の1人が義経に似ていると進言します。関守は一行を呼び止めますが、それを聞いた弁慶はもっていた杖で義経を叩きます。この弁慶の機転によって一行は難を逃れることができました。弁慶は主君の義経を助けるためとは言え、義経を叩いたことを涙を流して詫びます。義経は弁慶の手を取り、2人で共に戦った平家との戦の話をします。そこへ、関守が現れて、関所での一行への無礼を詫びて酒をすすめます。弁慶は酒を飲み、舞いをひとさしすると、関守に目礼し、義経の後を追いかけます。

 この関守は富樫左衛門という者で、もともとは義経を取り逃がしたという設定でしたが、後になって、弁慶が義経を叩いたときの心、義経の心に思いをはせて、わざと逃がしたという、かっこいい役回になりました。

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勧進帳 左から源義経と武蔵坊弁慶と富樫左衛門(歌川国芳作)

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2020年12月18日 (金)

八王子芸者が八王子花街の中町黒塀を紹介

 八王子の芸者さんがYouTubeで八王子市中町の八王子花街を紹介しています。八王子には東京都23区外としては唯一の花街があり、織物の街として発展した八王子とともにその歴史を重ねています。

 日々の稽古に励みながら多くのイベントに参加、伝統文化を継承している八王子の芸者さんたち。写真は越中八尾おわら風の舞で踊りを披露する八王子芸者さんたちです。

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越中八尾おわら風の舞

八王子芸者(菜乃佳、小菊、てる葉) 観光PR動画 中町黒塀 八王子花街をご紹介します!

チャンネル:HachiojiCityOffice

八王子芸者衆公式アカウント

(Instagram)八王子 芸者衆 ココちゃん

(Facebook)八王子をどり

八王子芸者さんの2021年カレンダー

八王子の観光情報
https://www.hkc.or.jp/

八王子の観光情報(Facebook)
https://www.facebook.com/hachioji.kankou

日本遺産「霊気満山 高尾山~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~」
https://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/takaosann/p026876.html

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2020年10月12日 (月)

サンフランシスコの五重塔

 サンフランシスコのジャパンタウンには五重塔があります。1968年にジャパンセンターが建設されたときに、日本からサンフランシスコ市に親善のため贈られたそうです。

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 この五重塔はたいへん簡単な構造で、円盤が重なったような形をしており、日本風とは言えません。しかしながら、「この平和の塔は日本の人々から友情のしるしとして贈られた」と書いてありました。たぶん、五重塔を造るための寄付金が贈られ、現地で建設したのではないでしょうか。

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2020年10月10日 (土)

浅草寺の五重塔

 浅草寺の五重塔は慶安元年(1648年)に建立されました。1648年というと、徳川3代将軍家光の最後の方の時代です。家光は1651年に死去し、その年から4代将軍家綱の時代に入ります。 現在の五重塔は昭和48年(1973年)に再建されたものです。その高さは48 mもあります。

浅草寺の五重塔
浅草寺の五重塔

 浅草寺の五重塔は大正12年(1923年)の関東大震災の際には、倒壊しませんでしたが、昭和20年(1945年)の東京大空襲によって焼失してしまいました。もともとの五重塔は本堂の東側にあったそうですが、再建されたこの塔は西側に建てられました。東側には、地面に塔の跡を記した10 cm四方の「塔」と一文字だけ書いた小さな文字盤があります。探してみるのも面白いかもしれません。現在の五重塔も、なかなか昔の雰囲気を漂わせていますが、鉄筋コンクリートで造られているそうです。

 ちなみに日本でもっとも古い五重塔は、奈良県の法隆寺の五重塔です。国宝であり、ユネスコの世界遺産にも登録されています。法隆寺は今から1400年ほど前の推古15年(607年)に、推古天皇と聖徳太子によって建立されたと言われています。法隆寺の五重塔はおよそ1300年ほど前に建立されたものと考えられています。

 五重塔は、ひとつひとつの階を別々に作り上げ、それを重ねあげて建てます。木材と木材は強固に結合されているわけではなく、切り込みでつながっているだけですが、これが揺れに強い理由と考えられています。塔がゆれると、それぞれの階が揺れを吸収するように揺れるのだそうです。

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