カテゴリー「文化・芸術」の51件の記事

2022年5月20日 (金)

成田亨作品集(単行本)

成田亨作品集(単行本)

成田亨 (著), 富山県立近代美術館・福岡市美術館・青森県立美術館 (監修)

 映画「シンウルトラマン」が公開されました。「シンウルトラマン」にはウルトラマンのシンボルマークのような存在のカラータイマーがなく、目にも穴が開いていません。

 ウルトラマンのファンにとっては有名な話ですが、カラータイマーは3分間の戦いの中でウルトラマンの活躍とピンチを表すものとして脚本家の金城哲夫さんが成田亨さんに提案したものです。宇宙人のウルトラマンは地球人と同様に生物であると考えていた成田さんはピコピコ鳴って光るカラータイマーではロボットのようになってしまうとして目の光を暗くするなどの代案を提案したそうです。しかしテレビを見ている子どもたちにウルトラマンの状態をわかってもらう名案は見つからず渋々カラータイマーをつけることを受け入れたそうです。

 一方、目の穴については出来上がったウルトラマンのマスクの目が不完全でスーツアクターの覗き穴がなかったため「ウルトラマン前夜祭 ウルトラマン誕生」の直前にスーツアクターの安全を優先してやむを得なく成田さん自身で目に穴を開けたそうです。スーツアクターの古谷敏さんによると成田さんはウルトラマンの目に穴を開けるのにずいぶん踏襲していたそうです。それだけ自身のデザインと思い入れを大切にしていたのでしょう。

 成田さんはウルトラセブンをデザインするときには先回りしておでこに小さいビームランプをつけ、最初から覗き穴を想定して黒目のようにしたそうです。

 シンウルトラマンは成田さんのオリジナルのデザインのままのウルトラマンです。このウルトラマンのデザインが原点となってウルトラマンがずっと続いています。ヒーロー、怪獣、メカニックすべてのデザインが秀逸です。この本を開けば成田さんのオリジナルデザインが芸術の域にあることがすぐにわかるでしょう。

Photo_20220516160301

内容(「BOOK」データベースより)

ウルトラ、マイティジャック、ヒューマン、バンキッドから、モンスター大図鑑、特撮美術、後年の絵画・彫刻まで。未発表作品、実現しなかった幻の企画案も含む、全515点一挙収録。「成田亨美術/特撮/怪獣」展オフィシャル・カタログ(富山県立近代美術館・福岡市美術館・青森県立美術館)


単行本とKindle版

【関連記事】

成田亨氏の「特撮と怪獣 わが造形美術」増補版が出版

人気ブログランキングへ

 

| | | コメント (0)

2022年5月16日 (月)

旅の日(1689年5月16日)

 5月16日は「旅の日」です。松尾芭蕉が1689年5月16日(旧暦 元禄2年1869年3月27日)に「奥の細道」の旅に出発したことに由来し、1988年に「日本旅のペンクラブ」が制定しました。「日本旅のペンクラブ」の「旅の日」のページによると「年に一度、旅を愛する人々が集い、日本人の旅行観や旅行関連業界の将来など、旅について考え、語り合う機会」とされています。

 ところで芭蕉が156日をかけて約450里(1768キロメートル)に渡る「奥の細道」の旅をしたのは45歳のときでした。1日の平均移動距離は7里半(約30キロメートル)に及び40キロメートル以上歩いた日もありました。このことから芭蕉の正体は忍者で幕府の密命により東北を調査するための旅をしたという説があります。

 しかしながら当時の男性は1日10里(約39キロメートル)は歩くことができたそうです。東海道なら江戸の日本橋から京都の三条大橋までの124里124里8丁(約488キロメートル)を13日で歩きました。つまり1日あた9.6里(37.5キロメートル)も歩いていたのです。このことを考えると、松尾芭蕉が歩いた距離は当時の男性より少し速かったぐらいでしかありません。忍者は1日40里(160キロメートル)移動するそうですから芭蕉の歩行速度は忍者には及びません。

 「奥の細道」の旅で芭蕉に同行した河合曾良という人物がいます。曾良は長野県諏訪の出身で芭蕉との旅を終えた1709年に幕府の巡見使随員として九州諸国の大名の監視の旅に出ています。もしかすると曾良には忍者の素養があったのかもしれません。

松尾芭蕉と河合曾良
松尾芭蕉(左)と河合曾良(右)
森川許六作

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2022年4月23日 (土)

サンジョルディの日(303年4月23日)

 4月23日は「サン・ジョルディの日」です。サン・ジョルディはドラゴン退治の伝承で有名なキリスト教の聖人、聖ゲオルギオスのことです。聖ゲオルギオスはスペインのカタルーニャの守護聖人とされており西暦303年4月23日に殉教したことからこの日が祝日となりました。

聖ゲオルギウスとドラゴン(ラファエロ・サンティ)
聖ゲオルギウスとドラゴン(ラファエロ・サンティ)

 聖ゲオルギオスが倒したドラゴンの血が真っ赤な薔薇になったという伝承からカタルーニャではこの日に男女が赤い薔薇を贈り合う風習があります。また「サン・ジョルディの日」には本を送る風習があり「本の日」とも呼ばれています。これは1923年にカタルーニャの書店が赤い薔薇を添えた本を贈るキャンペーンを始めたのがきっかけで、小説「ドン・キホーテ」の作者であるスペイン人のミゲル・デ・セルバンテスの命日が1616年4月23日であることに由来しています。また-1616年4月23日ははウィリアム・シェイクスピアの命日でもあります。

 「サン・ジョルディの日」が「本の日」とともに日本に紹介されたのは20世紀後半です。1986年に日本書店商業組合連合会と日本・カタルーニャ友好親善協会が4月23日を「サン・ジョルディの日」と定めました。また日本政府は2001年12月に公布した「子どもの読書活動の推進に関する法律第10条」で4月23日を「子ども読書の日」に定めました。

 国際連合教育科学文化機関 (UNESCO) は1995年11月に開催された総会でスペインからの提案により1996年から4月23日を「世界図書・著作権デー」(世界本の日)と制定しました。

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2022年4月17日 (日)

ウルトラマン落語 [DVD]

ウルトラマン落語 [DVD]

柳家喬太郎、柳家喬之助

 先日、ウルトラセブン落語[DVD]を見たのですが、ウルトラマン落語 [DVD]も見てみました。こちらはウルトラセブン落語よりも1年前の
2016年7月10日に行われたイベント「ウルトラマンの日 in 杉並公会堂」を収録したものです。

 文無しの絵師が衝立(ついたて)に描いた5羽の雀が衝立から抜け出して飛び回る「抜け雀」。これを二次元怪獣ガヴァドンにかけた「抜けガヴァドン」。ウルトラマンのファンなら、なるほどそういうことですかとニヤニヤしながら聞くことのできる一席です。他に「ふたりのウルトラ」と「ウルトラの郷」が収録されていますが、これもまたウルトラマンのファンなら楽しめる内容です。ウルトラマンを繰り返し見ていない人にはカルトクイズ的でちょっとわからないところもあるかもしれませんが付録の解説書を読めばわかります。

ウルトラマン落語 [DVD]

内容紹介

ウルトラ怪獣がぞくぞく登場! ? 円谷プロ公認の新作落語!

創造力に富んだ新作落語に定評のある柳家喬太郎。その持ちネタの中には、ウルトラマンシリーズを題材にした作品が存在する。『ウルトラマン』放送開始から50年目に当たる2016年7月10日に行われたイベント『ウルトラマンの日 in 杉並公会堂』において、同じく大のウルトラファンの柳家喬之助とともに、初めて円谷プロダクション公認での高座が披露された!

【収録内容】

・抜けガヴァドン 柳家喬太郎

 文無しの絵師が宿代代わりに描いた絵が巻き起こす騒動とは! ?古典噺「抜け雀」の改作。ウルトラマン・ファンなら思わずにやりとする仕掛けが随所にちりばめられている。

・ふたりのウルトラ 柳家喬之助

 架空の日系人独立国“ピグモニアン王国"から来たウルトラマン好きの国王が奮闘する人情話。喬太郎の創作噺を、喬太郎に劣らぬ大のウルトラファンの弟弟子、喬之助が演じる。

・ウルトラの郷 柳家喬太郎

 久しぶりの同窓会。ウルトラ怪獣のあだ名で呼びあった当時を懐かしみ旧交を温めるなか、突然の報せが…。この日がネタおろしとなった怪獣ネタ満載の新作。

・特典映像 アフタートーク

収録:2016年7月10日 杉並公会堂 小ホール

■「ウルトラ初心者向け! 『ウルトラマン落語』が10倍楽しくなる解説書」封入!

柳家喬太郎・柳家喬之助 DVD「ウルトラマン落語」予告編映像

 

ウルトラマン落語 [DVD]

柳家喬太郎、柳家喬之助

ウルトラセブン落語 [DVD]

柳家喬太郎、柳家喬之助

【関連記事】

ウルトラセブン落語(DVD)

【ぬけ雀】 古今亭 志ん朝

 

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2022年4月 8日 (金)

ミロのヴィーナスを発見(1820年4月8日)

 パリのルーブル美術館で展示されている彫刻ミロのヴィーナス。失われた台座に彫られていた碑文から起源前2世紀頃に古代ギリシアのヘレニズム時代の彫刻家アンティオキアのアレクサンドロスによって制作されたと考えられています。

 ミロのヴィーナスは1820年4月8日にオスマン帝国統治下のエーゲ海にあるミロ島(ミロス島)で壁を作るための石を礼拝堂の跡地で探していた農夫ヨルゴス・ケントロタスにより発見されました。最初にケントロタスが発見したのは大理石でできた像の上部でした。このとき同行していた考古学に興味をもっていたフランス海軍のオリヴィエ・ヴーティエが発掘を続けるように話をたところ像の破片が合計6個見つかりました。それらの破片を組み合わせたところ高さは203 cmの美しい彫刻の女性像となったのです。この女性像は発見当時は両腕が身体から外れていましたが左手はリンゴを持ち、右手は腰から足元までかけられたローブを持っていました。足は裸足で耳にはピアスがついていました。この姿から彫像のモデルはパリスの審判を競い合ったギリシア神話の三美神の1人アプロディーテーと考えられました。

 ヴーティエはこの像をフランス政府に購入するよう交渉しましたが交渉が難航したためケントロタスは地元の司祭に献上してしまいました。像は司祭からトルコの有力者に引き渡されることになりましたがコンスタンチノーブル(現在のイスタンブール)に行きの船に積み込まれる直前でトルコ駐在のフランス大使リヴィエール侯が購入することなりました。1821年、リヴィエール侯は修復したミロのヴィーナスをルイ18世に献上し、ルイ18世はこれをルーヴル美術館に収蔵させました。このとき碑文が彫られた台座が失われましたが1821年に描かれたスケッチは台座も描かれています。

ミロのヴィーナスのスケッチ(1821年)
ミロのヴィーナスのスケッチ(1821年)

 ミロのヴィーナスは過去に一度だけルーヴル美術館から海外に持ち出されて展示されたことがあります。昭和39年(1964年)の4月から6月にかけて日本の東京の国立西洋美術館と京都の京都市美術館で展示されています。

 以前ルーヴル美術館を見学する機会がありましたがミロのヴィーナスに気が付かず通り過ぎてしまいました。その後、たくさんの人が集まっていたので何か有名な美術品があると思って引き返したところミロのヴィーナスが佇んでいました。高さ2メートルを超えているのでそれなりの大きさですが、美術館の中では想像していたよりも小さく見えました。

【関連記事】

自由の女神像の除幕式(1886年10月28日)

モナ・リザの盗難が発覚(1911年8月22日)

ピカソの本名はもの凄く長い

ロダンの「考える人」は何も考えていなかった?

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2022年3月29日 (火)

ウルトラセブン落語(DVD)

ウルトラセブン落語 [DVD]

柳家喬太郎、林家二楽、柳家喬之助

 このDVDは2017年6月25日に行われた「ウルトラセブン放送開始50年記念落語会」の映像です。古典落語の登場人物をウルトラセブンの登場人物に置き換え、ウルトラセブンの名言が散りばめられた楽しい落語になっています。ウルトラセブンファンなら「あ~なるほどね」とニヤニヤしながら見ることができる内容です。

ウルトラセブン落語 [DVD]

内容紹介

 ウルトラファンからも、落語ファンからも大好評! 「ウルトラマン落語」の第二弾が遂に登場! !

 創造力に富んだ新作落語に定評のある柳家喬太郎が、『ウルトラマン』放送開始から50年目に当たる2016年に、円谷プロ公認による「ウルトラマン落語会」を開催。それ以来、高座に「ウルトラマン落語」を掛ける機会も増え、新作も次々と生まれている。そんな中、『ウルトラセブン』放送開始50年を記念し、2017年6月25日に東京上野の鈴本演芸場でウルトラマン愛にあふれる落語会が開催された。

 高座に上がったのは、ウルトラカラーの着物に身を包んだ、我らが師匠(ヒーロー)・柳家喬太郎。ウルトラ愛では兄弟子喬太郎に引けを取らない柳家喬之助。アイスラッガーのように切れ味鋭くハサミを操る、紙切りの林家二楽。ウルトラファンならずとも楽しめる、ウルトラファンならさらに楽しめる名人芸をとくとご堪能あれ。

【収録内容】

・「私情最大の侵略」 柳家喬太郎

 とある下町の中小企業。大のウルトラファンである社長は、若手有望新入社員モロボシの歓迎会で大はしゃぎ。しかし、そこでモロボシはあることを打ち明ける。『ウルトラセブン』の名場面を想起させるやりとりが随所にちりばめられた創作落語。

・「子ほめ M78」 柳家喬之助

 御隠居から、人をほめればタダ酒が飲めると教えられた八つぁん。たまたま仲間に赤ん坊が生まれたことを思い出し、タダ酒をもらうべく世辞を言いに行くが…。古典噺「子ほめ」の舞台をM78星雲に移し、ウルトラシリーズに関連するワードをふんだんに盛り込んだ改作落語。

・「ウルトラ紙切り セブン編」 林家二楽

 客席からのウルトラ関連のお題に、繊細かつ大胆なハサミさばきと軽快な話芸で応える、これぞ名人芸! ウルトラ愛があふれ興奮気味の二楽に、観ているこちらも思わず笑顔に。「ウルトラセブンの歌」に合わせて次々と繰り出すクオリティの高い作品の数々に、客席は大いに沸いた!

・「セブン段目」 柳家喬太郎

 家業そっちのけで常軌を逸した芝居マニアの若旦那が、何をやっても芝居のセリフになってしまう、という古典噺「七段目(しちだんめ)」。これが芝居マニアでなく、特撮マニアだったら! ? これでもかと繰り出される『ウルトラセブン』の名セリフの数々に、セブン・ファンは頬が緩みっぱなしに!

収録:2017年6月25日 鈴本演芸場

【特典映像】

トーク 楽屋一同(ゲスト:森次晃嗣<モロボシ・ダン>)
★「ウルトラ初心者向け! 『ウルトラセブン落語』が10倍楽しくなる解説書」封入!

柳家喬太郎・林家二楽・柳家喬之助 DVD「ウルトラセブン落語」予告編映像

ウルトラセブン落語 [DVD]

柳家喬太郎、林家二楽、柳家喬之助

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2022年3月28日 (月)

「八百屋お七」の物語(旧1683年3月28日)

 ときは天保2年12月28日(新暦1863年1月25日)の正午頃、江戸の駒込の大円寺からあがった火の手は辺りの建物を次々と飲み込みながら延焼し続けたのである。消火に至ったのは翌朝の5時頃、いわゆる天和の大火と呼ばれる江戸の大火である。

 この大火によって江戸本郷の八百屋八兵衛の店は焼け出され、八兵衛一家は檀那寺でしばらく避難生活をすることになったのである。避難生活が続く中で八兵衛の娘のお七は寺の小姓と恋仲になる。やがて店が再建され八兵衛の一家は檀那寺を引き払い元の日常生活へ戻る。お七もかつてのありふれた生活へと戻るが小姓を忘れることができずその思いは募るばかり。しかし、お七と小姓が再び会う機会もなく無情に時は過ぎていくばかりであった。

 どうしたら庄之介に会うことができるでしょう。思い詰めたお七は再び家が火事になって焼き出されれば檀那寺の生活を始められると考えるようになる。そしてある日のことついに自宅に放火してしまう。幸い近所の人がすぐに気が付いて火はすぐに消火されたのである。放火はぼや程度で済み大事には至らなかったものの、お七は放火の罪で捕縛され鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑に処せられたという。天保3年(1683年)3月28日のことです。この顛末が市中に広まり「八百屋お七」の伝承が生まれることになったのである。天和の大火がなければお七が小姓と会うこともなかったはずであり、いつの頃から天和の火災はお七火事とも呼ばれるようになったのである。

八百屋お七(二代目 歌川国輝画)1867年
八百屋お七(二代目 歌川国輝画)1867年

 さて、

 「八百屋お七」の物語は井原西鶴の「好色五人女」をはじめとして文学、浄瑠璃、歌舞伎、浮世絵などの作品となりました。ところが、お七に関する詳細な記録は残っていません。天保3年の歴史的資料「御当代記」には「駒込のお七付火之事、此三月之事にて二十日時分よりさらされし也」と記載されていますが、江戸幕府の御仕置裁許帳にはお七という名前の女性が処罰されたという記載はありません。

 ですから「八百屋のお七」について言えることは、お七が放火して処刑されたことだけです。お七の放火の動機もわからなければ、火あぶりの刑に処せられたのかどうかもわかりません。お七が八百屋の娘だったのかどうかもわかりませんし、お七の年齢も不詳です。

 ところで丙午生まれの女性に関する迷信が古くからあります。これは江戸時代初期には「丙午には火事が多い」という言い伝えだったようです。しかし「八百屋のお七」の事件に後、お七が丙午生まれだったことから女性に関する迷信となったと考えられています。お七が本当に丙午生まれだとすると、お七の誕生年は1666年となり数え年で18歳となりますが他の伝承では16歳だったとあります。

 こうした食い違いは創作によるものと考えられていますが、たくさんの創作が生み出されています。その創作の中にはかつては史実とされたものもありますが現在のところ「八百屋のお七」についての詳細はわかっていません。

 しかし、「八百屋のお七」の物語は当時の人々から同情されたのは事実のようです。物語に脚色された部分が多いにしろ、元になった事件はあり、お七は実在していたのではないでしょうか。天和の大火がなければ「八百屋お七」の物語が生まれることもなく、丙午生まれの迷信もなかったでしょう。いろいろ調べていくとさらなる疑問も出てきますが、このあたりで筆を置くことにします。

【関連記事】

明暦の大火(旧暦 1657年1月18日)

歌舞伎十八番の勧進帳(かんじんちょう)

「今月今夜の月の日」はどんな月(1897年1月17日)

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2022年3月13日 (日)

横書きは左から右に(1942年3月13日)

 この記事をご覧になっているほとんどの方は当たり前のように文字を左から右へと追いながらすらすら読まれていると思います。しかしながら、ひと昔前の日本では横書きは右から左へと読むように書かれていました。

 現在の日本語では漢字・ひらがな・かたかなの文字が使われていますが、もともと古代の日本には文字がありませんでした。日本人が漢字に初めて出会ったのは1世紀頃と考えられています。当時、中国大陸から伝わった金印や銅銭に漢字が書かれています。5世紀頃になると日本の地名や人名が漢字で記載された日本製の剣や銅鏡が作られるようになりました。日本人は日本語を表現する文字として漢字を積極的に使うようになり、やがてひらがなやかたかなを作り出しました。

 この漢字の影響を受けて当初の日本語には縦書きしかありませんでした。縦書きは文字が上から下へと書かれ右から左へと行が進みます。縦書きが右から左へと行が進む理由として巻物に文字を書いていたことに由来するという説があります。左手に巻物を持ち、右手に持った筆で文字を書いていけば右から左へ行が進むことになります。

 それでは横書きが使われるようになったのはどうしてでしょうか。それは横長の扁額(看板)や暖簾などに文字を書く必要性があったからに違いありません。右から左への横書き(右横書)の古い扁額(看板)や暖簾を見たことがある人も多いと思いますが、それらの横書きは1行ですから1文字で行を折り返す縦書きと考えることもできます。

 江戸時代の後期になると蘭学が盛んになり横書きの書物が出版されるようになりましたが、本格的に横書きが使用されるようになったのは明治時代に入ってからです。この頃になると外国語や数字や記号を含む文書は右横書では都合が悪く、左から右への横書き(左横書)で書かれるようになりました。大正時代になると身近なものの多くの表記が縦書きから横書きに書き換えられるようになりましたが、右横書と左横書の文章が世の中に入り乱れるようになりました。

 また同じ出版物の中で右横書と左横書の文章が併用されているものもたくさんありました。こうなると読者もどちらから読めば良いのか戸惑うことも多く文章の起点を記した出版物もありました。

 こうした混乱を避けるため政府は昭和17年(1942年)3月13日に「横書統一案要綱」をまとめま「国語ノ横書ハ本要綱ニヨリ之ヲ左書トスルコト」と左横書を推奨しました。同年7月には国語審議会も横書きは左横書で統一するように答申しました。しかしながら当時は戦時中でもあり、欧米の言語と同じ左横書はいかがなものかという意見も出て統一するには至りませんでした。

文部省図書局国語課は「横書統一案要綱」(昭47厚生00035100)
文部省図書局国語課は「横書統一案要綱」(昭47厚生00035100)

 戦後になるといっそう欧米化が進み右横書では読みずらいものが多くなり、次第に左横書が主流にとなっていきました。新聞も右横書から左横書を採用するようになりました。政府は昭和24年(1949年)4月5日に「公用文作成の基準について(依命通達)」を通達し、一定の猶予期間をもって左横書とするこことを定めました。昔の文書に使われているカナはカタカナで今となってはたいへん読みづらいのですが、このとき同時に文章に使うかな文字はひらがなに統一するよう定められています。

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2022年3月12日 (土)

半ドンの日(1876年3月12日)

 週明けの月曜日から働き始めてすぐに週末の休みを楽しみにしてしまいます。あ、もちろん仕事はちゃんとやっていますw。

 現在は週休二日制が広く採用されていますがこの制度を日本で始めたのは松下電器産業(現:パナソニック)だそうです。1965年に当時同社会長だった松下幸之助がいち早く導入を決断しました。当初は週休二日制を導入する企業はほとんどありませんでした。企業で週休二日制が導入されるようになったのは1980年頃からです。官公庁が導入したのは1992年、学校で導入されたのは2002年です。

 自分が子ども頃、親たちは土曜日は出勤、子どもは学校でした。ただし、土曜日は会社も学校も午前中までで午後には帰宅することができました。子どもも大人も土曜日の午後から日曜日の夜まで1日半の休みをとても楽しみにしていたのです。

土曜日の夜は宴会(昭和36年)
土曜日の夜は宴会(昭和36年)

 日本で土曜日が午前中までで日曜日が休日となったのは明治9年(1876年)のことです。太政官布告により同年3月12日から官公庁で土曜半休・日曜休日制が導入されました。これに伴い民間企業も土曜半休・日曜休日制を採用しました。

 それ以前は明治元年(1868年)の太政官布告により官公庁の休みは31日を除く1と6のつく日と決められていました。これは江戸時代からの習慣をそのまま踏襲したものですが海外交易が盛んになり休日を諸外国と合わせる必要性が高まり、土曜半休・日曜休日制としたのです。なんと昔の日本の休日は週ごとではなく土曜日と日曜が休みではなかったのです。

 さて土曜日の午前中まで働くことは「半ドン」と呼ばれていました。「半ドン」の由来には2つの説があります。

 ひとつはオランダ語の休日「ドンタク(zondaq)」が日本でも休日を意味する言葉として広まりました。たとえば福岡県の博多市で毎年5月に「博多どんたく港まつり」が行われますが、この名称も「ドンタク(zondaq)」に由来しています。博多市民の全員がお休みしてお祭りに総参加して楽しみましょうということです。土曜日は半分が休みのためドンタクの半分ということから「半ドン」と呼ばれるようになったというものです。

 もうひとつは午砲に由来するよるというものです。明治4年(1871年)から皇居で毎日正午を知らせる大砲が撃たれるようになりました。この大砲は午砲やドンと呼ばれ、土曜日はドンの合図で仕事が終わることから都心で働く人々の間で「半ドン」と呼ばれるようになり、その後、午砲が全国の主要都市で行われるようになり「半ドン」が全国的に広まったというものです。どちらの説が正しいのかわかりませんが、全国的に広がったことからどちらの効果もあったのではないかと思います。

 自分は大学生の頃は週休2日制ではありませんでした。就職して週休2日制になったときにはなんとも贅沢な週末なんだろうと思ったものです。しかし慣れというのはおそろしいものでいつの頃から週休2日制に慣れ親しんでしまいありがたさも失われてしまいました。

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2022年3月 5日 (土)

水彩画「のりもの」(1968年)

 水彩画「のりもの」(1968年)。作者は当時5歳の男の子です。初めて水彩絵の具で描いた絵と思われます。白黒写真しか残っていないため何が描かれているのかがよくわかりません。手前の右に黒丸が2つついたものが描かれています。これが「のりもの」でしょうか。

>のりもの(1968年)
のりもの(1968年)

 AIカラー化アプリでカラー写真にしてみました。色が正しく再現されているかはわかりませんが何が描かれているのか多少視認しやすくなりました。

のりもの(1968年)カラー化<
のりもの(1968年)カラー化

 やはり手前の右は「のりもの」です。おそらく自動車でしょう。この自動車、右側へ向かって進んでいるのでしょう。何か右上についています。これパトライト?ならば緊急自動車でしょうか。上部に綺麗な形の白い三角形が描かれています。パトライトの光でしょうか。う~む。

 この自動車の左側にも何かが描かれています。下部には黒丸をたくさん並べたものか黒いラインのようなものがあります。おそらくこれも「のりもの」でしょう。もしかするとこれはキャタピラ?となると重機や戦車かもしれません。いやいや当時放送していた特撮ドラマ「ウルトラセブン」のウルトラ警備隊の特殊車両かもしれませんぞ。

 絵の上部には蛇のようなもの、何かが連なったようなものが描かれています。これは電車でしょうか。さっぱりわかりません。

 作者と思われる人物に聞いたところ「この絵を描いた記憶はあるが何を描いたのかはまったく記憶にない。雨降りの日の絵にしたような記憶がある」ということでした。すると上部の蛇のようなものは連なった黒雲でしょうか。青は雨や水たまり?

 本人も記憶の彼方ですから、この水彩画に何が描かれているのかは永遠の謎ですな。

【関連記事】水彩画「のりもの」(1968年)

あの子が描いたウルトラマン(昭和42年 1967年8月)

あの子が描いたウルトラセブン(昭和42年)

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧