カテゴリー「文化・芸術」の143件の記事

2026年1月10日 (土)

洋服を男性は右前、女性は左前に着る由来

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 和服(着物)は男性・女性に関わらず右前に着ます。右前は右の衿を先に体に合わせその上から左衿を重ねて着るので、相手から見ると左衿が上側に見えます。右前の「前」とは先に・手前にという意味です。自分から見て右衿が手前にあるので右前となります。和服(着物)が右前で統一されている理由は日本人は昔から右利きが多かったからです。右前に和服(着物)を着ると利き腕の右手を懐に入れやすいためです。右前に着ると懐中の財布や小物をすぐ取り出せます。 日本では和服(着物)を左前に着せるのは死者を弔うときです。これは死者と生者を区別するための習慣とされています。

 一方、洋服の場合は男性は右前、女性は左前に着ます。この由来にはいくつかの説がありますが、もともと西洋は男性・女性に関わらず服を左前で着ていました。中世時代に剣を腰に吊るす剣士や騎士が登場すると、右利きの剣士や騎士は外衣を右前(左側が上側)に着た方が左腰の剣を抜きやすかったため、服を右前で着るようになりました。これが一般に男性の間で広まったとされています。西洋も右利きの人が多く右前の方が利き手でボタンを留めやすいため右前が一般的になったという説もあります。

右利きの剣士は右前のマントの方が剣が抜きやすい
右利きの剣士は右前のマントの方が剣が抜きやすい

 利き手に関係なく女性が左前となったのは、当時の貴婦人はコルセットを着用していたため服を1人で着ることができず使用人に着せてもらっていたことに由来します。使用人が服を着せるときボタンを留めやすい左前が一般的になったとされています。また赤ちゃんを左手に抱えて授乳する際に左前の方が都合が良かったという説もあります。

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2025年12月14日 (日)

江戸時代の色彩文化と色の三原色

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 現代において「色の三原色」はシアン(青緑)・マゼンタ(赤紫)・イエロー(黄色)の3色(CMY)のことです。「光の三原色」はレッド(赤)・グリーン(緑)・ブルー(青)の3色(RGB)のことです。

 【参考】「光の三原色」と「色の三原色」の原理と仕組み|色が見える仕組み(7)

 庶民文化が花開いた江戸時代には衣服、工芸品、浮世絵、錦絵などに多彩な色が使われました。しかしながら江戸時代には化学染料や顔料が存在していませんでしたから、身近な自然由来の素材で染料や色材を作り出していました。当時は系統的な「光の三原色」や「色の三原色」を背景とした色彩学や染色技術はありませんでしたが、「色の三原色」と言える染料として広く用いられたのは藍(あい)・紅(べに)・苅安(かりやす)です。この3色の染料に加えて高貴な色として使われたのが江戸紫(えどむらさき)です。黒(くろ)は染料としては多様でしたが絵の具としては墨(すみ)が使われました。江戸時代は衣服の色は身分や奢侈禁止令(贅沢の禁止令)によって制限されていました。そのため人々は様々な中間色を生み出しました。

江戸の色彩三役:藍、紅、刈安
江戸の色彩三役:藍、紅、刈安

 藍はタデ科の植物である蓼藍(たであい)の葉から作られました。藍染めは日本の代表的な染色技術で深くて渋みのある青色を生み出します。染め重ねをすることにより縹(はなだ)・紺(こん)・濃紺(のうこん)を作ることができます。奢侈禁止令で藍は許されていたこともあり、庶民の衣服に広く用いられました。

 紅はキク科の植物の紅花(べにばな)から作られました。紅花から得られる赤色の色素は高値で取引されました。とりわけ濃い紅色は女性の着物や口紅に使われました。鮮やかな紅色は贅沢品とされ奢侈禁止令の対象とされましたが、薄い桃色や桜色などの中間色は広く使われました。

 苅安はイネ科の植物である刈安(かりやす)から作られました。刈安は黄色を染めるための染料です。刈安は藍と組み合わせると緑色となり、紅と組み合わせると橙色となるなど中間色を作る上で重要な基本の色でした。

 江戸紫は紫草(ムラサキ)の紫根から作られました。青みが強い紫色で江戸の町人文化を象徴する色でした。同じ原料で作られる京都の京紫(きょうむらさき )は赤みを帯びた紫色です。江戸紫は歌舞伎役者の衣装に多用されています。

 墨は菜種油を燃やして得られる煤から作られました。水墨画、浮世絵、錦絵の線描に広く使用されました。水で薄めて濃淡を容易に操れることから影や夜景の描画にも使われました。染料としての黒は墨染めに加えて藍や刈安などに鉄分を媒染剤として加えた鉄媒染なども使われました。

 上記の基本の三色に加えて茶(ちゃ)や鼠(ねずみ)も広く使われました。奢侈禁止令が厳しくなると人々は鮮やかな色を使用することができなくなりました。そこで基本の色を使って様々な中間色が生み出されました。

 江戸時代の「色の三原色」は現代の定義とは異なりますが、当時の多様な色彩を支えた基本の色は「藍」「紅」「苅安」の3色でした。浮世絵や錦絵などには鉱物顔料が使われる場合もありました。浮世絵や錦絵は限られた色材を使いつつも高度な技術で豊かな色彩表現しました。

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2025年10月17日 (金)

杉玉とは?|酒蔵の軒先に吊るされた球体

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杉玉とは

 酒蔵の軒先に球体が吊るされていることを見た人も多いでしょう。この球体は杉玉(すぎだま)もしくは酒林(さかばやし)と呼ばれるもで杉の葉を集めて球状にした飾りです。杉玉は日本酒の造り酒屋のシンボルとなっていますが様々な意味と役割を持っています。

杉玉|酒蔵の軒先に吊るされた球体
杉玉|酒蔵の軒先に吊るされた球体

杉玉の役割と意味

 杉玉の起源は奈良県桜井市三輪にある酒の神様を祀る大神神社(おおみわじんじゃ)にあるとされます。大神神社の御神体である三輪山には多くの杉が自生しています。杉は御神体の象徴とされ毎年11月14日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で杉玉(酒林)が吊るされます。杉玉には今年も良い酒ができるようにという自然の恵みへの感謝と醸造の安全祈願が込められています。これが各地の酒蔵に広まりました。

 杉玉には新しい酒の出来上がりを知らせる役割があります。新酒が完成すると青々とした新しい杉玉がかけられ新酒ができたことを知らせます。青々とした杉玉は時間の経過とともに色が変化していきます。青々とした緑色の杉玉は初夏を迎える頃に色が薄くなっていきます。これは夏酒の時期になったことを意味します。

新酒の完成を伝える緑色の杉玉
新酒の完成を伝える緑色の杉玉

 秋を迎えると葉が乾燥して茶色に変化します。これは酒が熟成してひやおろしや秋あがりの飲み頃であることを意味します。

ひやおろしや秋あがりの飲み頃を伝える茶色の杉玉
ひやおろしや秋あがりの飲み頃を伝える茶色の杉玉

 このように杉玉は酒蔵の単なる飾りではなく自然への恵みと安全祈願、色の移り変わりで旬の酒を伝える役割があります。近年では日本酒に拘った酒販店や居酒屋でも杉玉を飾る店が増えています。

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2025年10月10日 (金)

まぐろの日(10月10日)

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 10月10日は「まぐろの日」です。日本かつお・まぐろ漁業協同組合連合会がマグロの魅力を再認識し、より多くの人にその美味しさを味わってもらうことを目的として1986年に制定しました。

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クロマグロ

 10月10日を「まぐろの日」としたのは奈良時代の著名な歌人の山部赤人(やまべのあかひと)が聖武天皇の行幸に同行し神亀3年9月15日(新暦で西暦726年10月10日)に明石地方を訪れたときにまぐろ漁が盛んに行われている風景に感銘し次の歌を詠んだことに由来します。

「万葉集」巻六・938段

「やすみししわご大君の神ながら高知ろしめす印南野の大海の原の荒たへの藤井の浦に鮪釣ると海人船騒き塩焼くと人そさはにある浦を良みうべも釣はす浜を良みうべも塩焼くあり通ひ見ますもしるし清き白浜」(八隅知之吾大王乃神随高所知流稲見野能大海乃原笶荒妙藤井乃浦尒鮪釣等海人船散動塩焼等人曽左波尒有浦乎吉美宇倍毛釣者為浜乎吉美諾毛塩焼蟻往来御覧母知師清白浜)

山部赤人像(蜷川式胤所蔵品)
山部赤人像(蜷川式胤所蔵品)

 この歌の現代訳は万葉百科 奈良県立万葉文化館によると次の通りとなります。 この歌は自然と漁業の調和を描いた叙景歌で日本人と海との深い結びつきを象徴する歌のひとつです。鮪は「シビ」と読みます。

あまねく国土をお治めになるわが天皇が神らしく高々と支配なさる、印南野の邑美の原の粗末な布の葛――藤井の浦に鮪を釣る漁師の船が入り乱れ、塩を焼く人が多く立ち働いている浦が良いので、なるほど釣をするのだ、浜がよいので、なるほど塩を焼くのだ。通い続けて御覧になるのももっともなことだ、清らかな白砂の浜よ。

 マグロは古くから日本人に親しまれてきた魚であり食文化や歴史に深く根ざしています。日本人とマグロの関わりは縄文時代にまで遡ります。縄文遺跡の貝塚からマグロの骨が出土しており古代の日本人がマグロを食べていたことがわかっています。マグロは「古事記」にも記述があり漁業の対象の魚として認識されていました。江戸時代は鮮度の問題から「下魚」とされていましたが醤油漬けんする赤身のヅケマグロが寿司ネタとして人気になりました。今では高級品の中トロや大トロは食べられていませんでした。

 マグロが広く食べられるようになったのは冷凍技術が発達した昭和になってからです。脂の乗ったトロが珍重されるようになるとマグロは高級魚となりました。寿司ネタとして大人気となり日本のマグロ消費量は世界トップクラスになりました。

バチマグロ(メバチ)の刺身
バチマグロ(メバチ)の刺身

 一方でクロマグロなどの絶滅が危惧されるようになりました。現在は養殖技術の進化や資源保護の観点から、「獲る漁業」から「育てる漁業」への転換が進んでいます。

 「まぐろの日」は単なるグルメ記念日ではなく日本人の自然観・食文化の日でもあります。今宵は山部赤人の歌が描いた風景に思いを馳せながらマグロの一切れを味わいましょう。

 

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2025年8月13日 (水)

ビー玉の語源は?

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 ビー玉はガラス製の球の玩具です。一般に1.5~ 5センチメートルの大きさで透明なもの単色のもの中に模様の入ったものなどがあります。、さてこのビー玉の名前の語源には2つの説が存在します。

 ひとつ目の説はポルトガル語でガラスを意味する「ビードロ(vidro)」に由来するというものです。当初ガラス玉は「ビードロ玉」と呼ばれていたいましたが、これが「ビー玉」になったという説です。

ビー玉(ビードロ玉)
ビー玉(ビードロ玉)

 ふたつ目の説はラムネ瓶の栓に使われるガラス玉の等級に由来するものです。ラムネの栓に使われるガラス玉は中身が漏れないように表面が均質に加工されていました。このガラス玉の合格品が「A玉」、不合格品が「B玉」と呼ばれ玩具に転用されたことからビー玉と呼ばれるようになったという説です。この説は古くからのものではなく1990年代に流布されたもので信憑性は低いと考えられています。ただし、ラムネのガラス玉の等級については「A玉」「B玉」と区別していた製造メーカーもあったという証言もあります。他方、ラムネの瓶の口ゴムでガラス玉の出来具合に関係なく密閉できることから「A玉」「B玉」の等級は必要なかったという証言もあります。そもそもビー玉の出来具合の検査は当時の技術では困難という見解もあります。

ラムネの瓶のビー玉
ラムネの瓶のビー玉

 ビー玉という言葉は大正5年(1916年)の夏目漱石の著書「明暗」、大正9年(1920年)の有島武郎の著書「一房の葡萄」にも見られますが、、ビードロ玉と呼ぶ事例は第二次世界大戦後もあったようです。現時点ではビー玉はガラス玉の等級ではなくポルトガル語のビードロに由来するという説が有力です。

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2025年7月26日 (土)

幽霊の日|歌舞伎「四谷怪談」の初演日に由来(文政8 1825年7月26日)

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 7月26日は「幽霊の日」です。文政8年(1825年)7月26日に江戸中村座で鶴屋南北作の歌舞伎狂言「東海道四谷怪談(四谷怪談)」が初演されたことに由来します。四谷怪談は元禄時代に江戸の雑司ヶ谷四谷町(現:豊島区雑司が谷)で起こった事件をもとに作られた怪談で夫民谷伊右衛門に毒殺された四谷左門の娘お岩が幽霊となって復讐する物語です。

東海道四谷怪談 『神谷伊右エ門 於岩のばうこん』(歌川国芳)
東海道四谷怪談 『神谷伊右エ門 於岩のばうこん』(歌川国芳)

 実際に起きた事件の顛末は文政10年(1827年)「文政町方書上」の中の「四谷町方書上」に記録が残されています。この書物は各町に関わる逸話などを幕府に報告するために町年寄の孫右衛門と茂八郎によって提出されたものです。四谷怪談については下記の記事にまとめてありますのでご一読ください。

 【参考】歌舞伎「東海道四谷怪談」の初演(1825年7月26日)

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2025年7月 9日 (水)

ピーテル・ブリューゲルの「死の勝利」とブラックサバスのベストアルバム

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 2025年7月5日、イギリスのロックバンド「ブラック・サバス」が英中部バーミンガムでのコンサート「Back To The Beginning」に登場しました。オジー・オズボーンは代表曲「パラノイド(Paranoid)」で締めくくり「これが最後の曲だ。皆さんのサポートのおかげで素晴らしい人生を送ることができた。心の底から感謝する」と語り引退の挨拶をしました。このコンサートがオジー・オズボーンの最後のステージとなりました。

ブラック・サバス  (1970年7月)
ブラック・サバス (1970年7月)

 ブラックサバスの「パラノイド(Paranoid)」は重厚な曲が多いなかで比較的軽快なロックです。当時「パラノイド」を聴いてアルバムを買って他の曲を聴いて驚いた人も多かったのではないかと思います。ところがその重たい曲が聴いているうちにだんだん気に入り始め「パラノイド」より好きになってしまうのです。当時はアルバムを揃えることができるほどお金を持っていませんでした。そこでグレイテストヒッツを購入することになります。自分が最初に買ったブラックサバスのアルバムは1977年に発売されたブラック・サバス「グレイテスト・ヒッツ」(Black Sabbath Greatest Hits)です。このアルバムには、「パラノイド」「アイアンマン」「チェンジズ」「サバス・ブラッディ・サバス」「ブラック・サバス」「ウォー・ピッグス」「ラグーナ・サンライズ」「トゥモローズ・ドリーム」「スウィート・リーフ」などの代表曲が収録されています。 自分はこのアルバムのレコードとCDを持っていますがどちらも絶版しているようで中古CDは1万円ぐらいの値がついています。

 このアルバムのジャケットはブラックサバスらしい薄気味の悪いデザインです。16世紀のブラバント公国(オランダとベルギー)の画家ピーテル・ブリューゲルの 1562年頃の作品「死の勝利」(蘭: De triomf van de dood 英: The Triumph of Death)を参考にデザインされました。

ピーテル・ブリューゲル
ピーテル・ブリューゲル

 ピーテル・ブリューゲルの「死の勝利」は死と混沌を表現したものです。死を象徴する骸骨の軍隊があらゆる階級の人々に襲いかかり容赦なく蹂躙(じゅうりん)していくことろを描いたものです。

「死の勝利」(ピーテル・ブリューゲル)
「死の勝利」(ピーテル・ブリューゲル)

 この恐怖や凄絶さにあふれた絵画がブラック・サバスのダークで陰鬱な音楽性と合致するためグレイテストヒッツのアルバムジャケットのデザインに選ばれたと考えられます。この絵画は著作権切れのためレコード会社が自由にジャケットに使用できたようです。アルバムのジャケットは「死の勝利」そのものではありませんがそっくりです。アルバムのジャケットを左右反転すると「死の勝利」とよく似た構図の絵になります。

左右反転したBlack Sabbath Greatest Hits(ブラックサバス・グレイテスト・ヒッツ)
左右反転したBlack Sabbath Greatest Hits(ブラックサバス・グレイテスト・ヒッツ)

 オジー・オズボーンさんの長きに渡る活動に敬意を払とともに、長きに渡り音楽を楽しませて頂いたことに深く感謝します。オジー・オズボーンさんは退されましたが自分が持っているレコードはいつまでも現役でブラック・サバスのサウンドを聴かせてくれます。

 

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2025年4月 8日 (火)

忠犬ハチ公の日(昭和9年 1934年4月8日)

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 忠犬ハチ公として有名な秋田県のハチは大正12年(1923年11月10日に秋田県北秋田郡二井田村(現:大館市)大子内の斉藤義一宅で生まれました。縁があってかねてより秋田県の子犬を育てたいと考えていた東京帝国大学農学部教授の上野英三郎の宅で飼われることになりました。ハチが東京にやってきたのは大正13年(1924年)1月15日です。

忠犬ハチ公(1934年頃)
忠犬ハチ公(1934年頃)

 愛犬家の上野はハチをたいそうかわいがりました。上野が出かけるときにはハチは玄関先で見送り、上野も最寄り駅の渋谷駅までハチを連れていくことがよくありました。ハチも渋谷駅まで上野を迎えに行きました。

 ハチが上野宅にやってきてから約1年後の大正14年(1925年)5月21日、上野は大学で会議に出席した後に脳溢血で倒れ死去しました。上野がいなくなったことを悟ったハチは食欲がなくなり3日間は何も口にしなかったと伝えられています。上野の通夜は25日に行われましたが、このときハチは上野を迎えるため渋谷駅で待っていました。

上野家と忠犬ハチ公
上野家と忠犬ハチ公

 その後、ハチは上野の妻の親戚や浅草の知人の家に預けられましたが散歩中に逸走して上野を迎えに渋谷駅を訪れることもしばしばあったようです。近所とのトラブルもありハチは上野宅に戻ってきました。しかし近所の畑を走り回って荒らすことから、昭和2年(1927年)に渋谷の隣町の富ケ谷に住んでいた上野宅の出入りの植木職人の小林菊三郎に預けられることになりました。小林はハチが子犬の頃から可愛がっていたことからハチも小林に慣れ親しんでいました。小林の家に移り住んでからハチは上野の帰宅時間に合わせて渋谷駅に出かけるようになりました。このときハチは必ず旧上野邸に寄り家の中の様子を窓越しに見ていたそうです。食事の時間になると小林宅に戻りまた渋谷駅に出かけることを繰り返し、上野の姿を探しながら帰りを待ち続けました。

 ハチは通行人からいたずらされたり野犬と間違われてよく捕まったりていましたが、ハチが上野を迎えに渋谷駅に通っていることを知っていた日本犬保存会の初代会長の斎藤弘吉が昭和7年(1932年)にハチの物語を東京朝日新聞に「いとしや老犬物語」という題名で寄稿しました。これがきっかけとなってハチは多くの人々に知られるようになり、その忠犬ぶりが人々を感動させました。やがて渋谷駅で上野の帰りを待ち続けるハチは「ハチ公」と呼ばれるようになり人々からかわいがられるようになりました。渋谷駅もハチが駅で寝泊まりすることを特別に許可しました。

 新聞で「忠犬ハチ公」のことを知った彫刻家の安藤照は斎藤弘吉にハチ公の銅像を造りたいと申し出ました。小林はハチを連れて安藤のアトリエに通い銅像の製作が始まりました。ところが上野家からハチのことを任されたと称する人物が現れハチ公の木像を製作する資金集めと称して絵はがきの販売を始めました。安藤は「忠犬ハチ公」の銅像の完成を急ぎました。

 昭和9年(1934年)4月21日、渋谷駅正面に「忠犬ハチ公像」が設置され除幕式には上野の妻をはじめとする多くの人々が集まり銅像の完成を祝いました。このとき銅像のモデルとなったハチも除幕式に参列していました。銅像の完成を急いだためハチが生存中に銅像が設置されたのですが、生存中に銅像が設置されることは異例なことでした。

 ハチは除幕式の翌年の昭和10年(1935年)3月8日に亡くなりました。ハチは渋谷駅のいつもの場所と反対側で見つかりました。渋谷駅の「忠犬ハチ公」の像は花環で囲まれ大勢の人々がハチの死を哀しみました。ハチは解剖され剥製とされました。当時の解剖で死因はフィラリアもしくは焼き鳥の串を飲み込んだことと伝えられていますが、後年の調査で重度の癌にかかっていたことが判明しています。

初代「忠犬ハチ公」銅像(ハチの一周忌)
初代「忠犬ハチ公」銅像(ハチの一周忌)

 第二次世界大戦が始まり物資の不足が深刻化すると昭和16年(1941年)に金属回収令の勅令が出されますた。「忠犬ハチ公」の銅像ももれなく対象となり供出されることになりました。これに対して抗議運動が起こりましたが他の銅像や鐘あらゆる金属製品が供出されるなかで「忠犬ハチ公」の銅像だけ特別に対応するわけにはいきませんでした。そこで示しがつかないという理由で昭和19年(1944年)10月に渋谷駅から「撤去」されることになりましたが、昭和20年(1945年)8月14日に溶解され東海道線を走る機関車の部品となりました。

 終戦から3年後の昭和23年(1948年)、安藤の息子の安藤士によって「忠犬ハチ公」の銅像が再建されました。た連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)もハチの忠犬ぶりを理解し関係者が銅像の再建を支援しました。再建された「忠犬ハチ公」の銅像の除幕式は同年8月15日に行われました。

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2025年4月 5日 (土)

ヘアカットの日|女子断髪禁止令(明治5年 1872年4月5日)

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 明治明治4年(1871年)、政府は太政官布告により「散髪、制服、略服、礼服ノ外、脱刀モ自今勝手タルベシ」という「散髪脱刀令」を布告しました。これにより身分によらず髪型や服装の自由が認められ、多くの男性が髷を落として断髪し洋服を着るようになりました。

 このような変化の中で髪を短くする女性も現れましたが、当時の日本では長い黒髪が女性らしいという価値観が主流だったため女性が男性のように断髪することに対する批判が起こりました。明治5年(1872)4月5日、東京府は男女の区別が判然としない髪型は禁止すべきという考えから女性はみだりに髪を切ってはいけないという「女子断髪禁止令」(東京府達32号)を布告しました。

東京府が太政官に許可を求めた「婦人断髪ノ儀ニ付伺」
東京府が太政官に許可を求めた「婦人断髪ノ儀ニ付伺」

 当時、日本髪を結うのに鬢付け油が使われていました。結髪もさることながら洗髪も時間がかかり面倒でした。「散髪脱刀令」で髪型の自由化を求め「女子断髪禁止令」に声をあげる女性も少なくありませんでした。そのようなことから4月5日は「ヘアカットの日」とされています。

明治時代の日本髪
明治時代の日本髪

 明治18年(1885年)には「婦人束髪会」が結成され日本髪について金銭的負担や衛生的問題が指摘されるようになると日本髪を結う女性は少なくなり女性のヘアスタイルも西洋化していきました。

 

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2025年3月26日 (水)

ベートーヴェン亡くなる|楽聖忌(1827年3月26日)

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 1827年3月26日、ドイツの作曲家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンがウィーンの自宅で亡くなりました。多くの交響曲を作曲したベートーヴェンは音楽史上において重要な作曲家の1人であり日本では「楽聖」とも呼ばれます。この偉大な作曲家の忌日を記念する日が「楽聖忌」(がくせいき)でベートーヴェンの作品を振り返りその功績が讃えられます。

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

 ベートーヴェンは1770年12月16日頃に神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンで生まれました。父親は宮廷歌手で幼い頃からベートーヴェンに対して音楽を厳しく教え込みました。スパルタ教育とも言える厳しい父親の指導によりベートーヴェンの音楽の能力は育まれ、早くから才能が注目さえるようになりました。1782年、11歳のときドイツのオペラ作曲家・オルガン奏者のクリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに師事しました。、1792年、オーストリアの作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドンはベートーヴェンの才能を認め弟子入りを許可しウィーンに呼び寄せました。ウィーンに移住したベートーヴェンはボンに戻ることはありませんでした。

 ベートーヴェンはウィーンでピアノの即興演奏者として有名になりました。1796年には同世代の音楽家の中で最も評価の高い作曲家として名声をあげました。ベートーヴェンは20代後半から耳が悪くなりました。40代で聴力を完全に失った後も精力的に作曲活動を続け交響曲、ピアノソナタ、弦楽四重奏など、多くのジャンルで傑作を生み出しました。輝かしい音楽活動の裏では持病の神経性の腹痛や下痢に悩まされ、家庭環境で精神的に病んでいた甥のカール・ヴァン・ベートーヴェンの後見人として苦労しました。

 カールは叔父のベートーヴェンと暮らしていましたが、ベートーヴェンは1826年12月肺炎と黄疸を併発し病床に伏すようになりました。1827年3月23日には死期を悟り遺書をしたため「諸君、拍手したまえ。喜劇は終ったのだ」という言葉を残しました。遺書には自身の財産を全てカールに委ねると記されていました。カールが従軍中の同年3月26日に、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは享年58(満56歳没)でこの世を去りました。病床で作曲してい第10番目となる交響曲は未完となりました。

 同年3月29日に執り行われた葬儀には約2万人もの人々が参列しベートーヴェンの死を哀しみました。一方でベートーヴェンから作品を献呈された貴族たちは誰も出席しなかったと伝えられています。

死の床のベートーヴェン(ヨーゼフ・ダンハウザーのスケッチ)
死の床のベートーヴェン(ヨーゼフ・ダンハウザーのスケッチ)

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