京都御所建春門外に学習院が開設(弘化4年 1847年3月9日)
平安時代末期の治承元年(1177年)に発生した「安元の大火」により公家の教育機関「大学寮」が焼失しました。その後、長きに渡り教育機関は置かれませんでした。安永8年(1779年)11月25日に第119代天皇に即位した光格天皇は大学寮の再建を計画しましたが実現には至りませんでした。第120代天皇となった仁孝天皇は光格天皇が実現できなかった学校の再建に着手し、天保13年(1842年)に江戸幕府の承認を得て学校の設立が決めました。
京都御所建春門外の開明門院跡で講堂が建設されることになり、弘化3年(1846年)に竣工しました。翌年の弘化4年年3月9日に学校が開かれ講義が始まりました。この学校は「学習所」や「習学所」と呼ばれていましたが、第121代天皇の孝明天皇が嘉永2年(1849年)に「学習院」の勅額が下賜し正式な名称が決まりました。ここで多くの公家の子弟が儒学や国学を学びました。
幕末の安政大獄を経て桜田門外の変が起こると文久2年(1862年)の夏頃から朝廷の諸藩の折衝が行われるようになり「学習院」がその場として使用されるようになりました。文久3年には陳情建白書の受付を設置したこともあり、尊王攘夷派の志士が集まってくるようになりました。彼らは「学習院」で国の行く末を憂えて議論を重ねるようになりました。そのメンバーには高杉晋作、真木保臣、福羽美静などの急進的な尊王攘夷派の志士たちがいました。彼らは尊王攘夷派の公家と情報交換しながら攘夷運動や討幕運動を画策しました。
文久3年(1863年)に「八月十八日の政変」が起こると、幕府は急進的な尊攘派公家を長州藩に追放し、尊王攘夷派の志士たちの「学習院」への出入りを禁止し陳情建白書の受付も廃止されました。元治(1864年)以後は「学習院」では政治色の強い教育は取りやめられ、本来の教育機関の機能を果たすようになりました。
慶応3年(1867年)の大政奉還後の混乱の中で「学習院」の活動は停止し閉鎖した状態となりましたが、混乱が収まると新政府は慶応4年(1868年)3月12日に「学習院」を復興しました。同年4月15日に「大学寮代」と名称が変更されました。その後、新政府は新たな学校制度を模索しましたが国学者と漢学者の間で対立が起ったため明治元年(1868年)9月16日に国学・神道を教える「皇学所」と漢学・儒学を教える「漢学所」を設立することを決めました。これによって「大学寮代」は廃止されました。
明治2年9月(1869年)、「大学校」を設立することから「皇学所」と「漢学所」が廃止されましたが、再開を求める運動が起こり「皇学所」と「漢学所」を統合した「大学校代」が設立されました。しかし日本の中心は東京となっていたため生徒が十分に集まりませんでした。また国学者たちと漢学者たちの対立が再燃したことから明治3年(1870年)8月に官立学校 「大学校代」は廃止されました。その後は京都府の管轄の「府学」となり京都府中学校となりました。
現在の「学習院」は明治10年(1877年)に皇族や華族の教育機関として設立された旧制学習院がもとになっています。第二次世界大戦後の昭和22年(1947年)に廃止され、新たに私立学校として設立されたのが「学校法人学習院」です。区別をするため幕末期の「学習院」は「京都学習院」とも呼ばれます。
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