カテゴリー「学問・資格」の18件の記事

2024年7月10日 (水)

伊能忠敬の大日本沿海輿地全図を完成(1821年7月10日)

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 大日本沿海輿地全図は江戸時代後期に伊能忠敬らが作製した日本の国土の実測地図です。伊能図、伊能大図とも呼ばれます。

伊能忠敬像(伝青木勝次郎画 伊能忠敬記念館蔵)
伊能忠敬像(伝青木勝次郎画 伊能忠敬記念館蔵)

 伊能忠敬は江戸時代後期の商人・天文学者・地理学者・測量家です。忠敬が天文学や測量を学び始めたのは隠居後50歳を過ぎてからのことです。幕府天文方の高橋至時のもとで測量・天体観測などについて学びました。この頃、地球の子午線の長さが正確に求められていなかったことから至時と忠敬は子午線を正確に測定したいと考えていました。

 ロシアの南下政策による海防の必要性に目をつけた2人は蝦夷地の測量を兼ねて子午線の測定を行うことを幕府に上申しました。幕府はこれを許可し、忠敬は寛政12年(1800年)に第一次測量として蝦夷地と東北・北関東の測量を開始しました。幕府は異国船が日本沿岸に出現することになっていたことから全国の各藩に忠敬の測量に協力するよう命じました。

 忠敬は蝦夷地の測量が終わると享和元年(1801年)に東日本沿岸を測量を完了しました。それらの測量結果から文化元年(1804年)に東日本の地図(大図69枚・中図3枚・小図1枚)を作成し幕府に提出しました。当初の目的であった子午線1度の弧長は測量結果から28.2里(約110.74キロメートル)と求めました。この値は現在の測定値とほぼ同じです。

 忠敬の作成した地図は従来のものと異なり極めて精密なもので第11代将軍徳川家斉をはじめとする幕府首脳陣は地図の出来栄えに満足しました。そして忠敬を正式に幕府天文方の役人とし測量への支援を強化することに決めました。忠敬は私財を投じて測量と地図作成を行っていましたが文化2年(1805年)の第5次測量からは江戸幕府の事業となりました。

 忠敬の測量は文化13年(1816年)の第10次測量まで17年もの間続けられ最終的に日本全土の地図が作られました。ただし蝦夷地については忠敬は東側しか測量していなかったため他社の測量結果を採用しています。弟子の間宮林蔵の測量結果を使用したという説もあります。

 忠敬は文化15年(1818年)に73歳でこの世を去りましたがこのとき地図は完成していませんでした。忠敬の死は伏せられ高橋至時の長男の高橋景保が地図作成作業を行い文政4年7月10日(1821年8月7日)に「大日本沿海輿地全図」が完成しました。「大日本沿海輿地全図」は全国の主要な地名や緯度を収録した「大日本沿海実測録」とともに幕府に提出されました。

大日本沿海輿地全図
大日本沿海輿地全図

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2024年6月27日 (木)

演説の日|三田演説館(1874年6月27日)

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 三田演説館は東京都港区三田の慶應義塾大学三田キャンパスにある演説講堂です。三田演説館は明治8年(1875年)5月1日に慶應義塾創立者の福澤諭吉が私財で建設した日本初の演説会堂です。現在はの三田キャンパスの稲荷山にありますが、これは関東大震災後に移築されたもので、もともとは三田キャンパスの図書館と塾監局の間に建てられました。福澤諭吉の時代から存在する建造物で昭和42年(1967年)に日本の重要文化財指定されました。

福沢諭吉と三田演説館の講堂
福沢諭吉と三田演説館の講堂

 「学問のすゝめ」で演説の重要性を説いた福澤諭吉は明治6年(1873年)の半ば頃から有志たちと演説弁論の技量の研究に取り組みました。明治7年(1874年)6月27日に三田演説会において日本初の演説会を行いました。この演説で福澤諭吉は「日本が欧米と対等の立場に立つためには演説の力をつけることが必要である」と主張しています。

 なお「演説」という日本語は福澤諭吉らが作った造語です。福沢諭吉が出身した旧中津藩において上申に使われていた「演舌書」が起源とされています。

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2024年5月21日 (火)

日本初の小学校「上京第二十七番組小学校」が開校(1869年5月21日)

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 江戸時代に京都では「町組」という住民の自治組織が存在してましたが幕末から明治初期にかけて地域的な組織となり「上京〇番組」「下京〇番組」と名称で再編され通称「番組」と呼ばれるようになりました。明治2年(1869年)には上京33番組、下京33番組、合計66番組が存在していました。

 この再編が行われたとき1つの番組に小学校が1つ設立されることになりました。この小学校は自治会の集会所を兼ねたもので同年に64校の番組小学校が開校されました。66校でないのは2つの番組で1つの小学校を共有したところがあったからです。この64校のうち一番最初に開校したのは「上京第二十七番組小学校」です。この小学校は明治2年(1869年)5月21日に開校されました。

 番組は京都の住民による住民自治組織ですが、番組小学校の設立にあたって京都府は2階建て校舎の模範的な設計を示し、各番組小学校はこの設計に従って建設されました。

 明治5年(1872年)になると「番組」は「区」に再編されました。明治12年(1879年)に上京区、下京区が置かれ「組」と改めらました。「上京第二十七番組小学校」は現在は「京都市立柳池中学校」(京都府京都市中京区御池通)となっており、「日本最初小学校 柳池校」と記された碑が設置されています。

柳池校(日本最初小学校の碑)
柳池校(日本最初小学校の碑)
原典:mariemon 作者:mariemon

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2024年5月 2日 (木)

えんぴつ記念日(1886年5月2日)

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 5月2日は「えんぴつ記念日」とされていますがその由来はよくわかっていません。

 伝承では三菱鉛筆の創業者の眞崎仁六が明治11年(1878年)のパリ万国博覧会で鉛筆を見て日本で鉛筆を製造・販売するため明治19年(1886年)5月2日に東京都新宿に眞崎鉛筆製造所を創立し鉛筆の製造を始めたとされています。

 しかしながら三菱鉛筆によれば眞崎仁六が鉛筆の生産を開始したのは明治20年(1887年)で月日は不明のようです。三菱鉛筆の創業も明治20年(1887年)で明治19年(1886年)5月2日が「えんぴつ記念日」となった由来はわかっていません。

 かつての鉛筆は木製の筒状の棒の先端に黒煙の塊を詰めたものでした。スイスの博物学者コンラート・ゲスナーが1565年の論文にこの鉛筆を使用したことを記述しています。このタイプの鉛筆は伊達政宗も使っていました。現在のような削って使う鉛筆が登場したのは17世紀前半と考えられています。

 5月2日の「えんぴつの日」、いつ誰があるいはどの団体が制定したのかは謎のままです。日本記念日協会のサイトにも掲載されていません。

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2023年12月10日 (日)

朝永振一郎博士がノーベル物理学賞を受賞(1965年12月10日)

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 朝永振一郎博士は1906年(明治36年)に哲学者の朝永三十郎の長男として東京市小石川区小日向三軒町で生まれました。1913年に三十郎が京都帝国大学に就任したため家族は京都に移り住みました。幼少の頃から自然科学に興味をもった朝永振一郎はルーペで実験を行ったり電信機や顕微鏡の自作などを行いました。中学生時代から湯川秀樹と同じ学校に通い高校を卒業すると湯川とともに京都帝国大学理学部物理学科に進学しました。

 大学を卒業すると朝永と湯川は大学に留まり無給副手となりました。朝永は独学で物理学を学んでいたところ1931年に仁科芳雄の誘いで理化学研究所の仁科研究室の研究員となりました。仁科のもとではマグネトロンの研究などを行いました。その後、1937年にドイツに留学しヴェルナー・カール・ハイゼンベルクのもと場の量子論や原子核の理論の研究を行いました。1941年に帰国し東京文理科大学(東京教育大学の前身sで現在の筑波大学)教授となりました。

朝永振一郎博士
朝永振一郎博士

 朝永の著名は研究業績は素粒子を記述する場の理論とアインシュタインの相対性理論の関係を解き明かした「超多時間理論」および「超多時間理論」を発展させて場の理論の無限大の困難を解消した「くりこみ理論」です。朝永はこれらの研究成果から光と物質との相互作用を解明しました。「くりこみ理論」を用いて水素原子のスペクトルが理論的な予想からずれる現象(ラムシフト)を説明しました。これらの業績により1965年秋に米国の物理学者リチャード・ファインマン、ジュリアン・シュウィンガーとともにノーベル物理学賞を受賞しました。ところが朝永は祝い酒で酩酊し風呂場で転んで肋骨を骨折し授賞式に出席できませんでした。「ノーベル賞を貰うのは骨が折れる」と言ったという逸話があります。

 朝永振一郎博士は科学教育にも熱心で東京教育大学長、日本学術会議会長という要職を務め多くの弟子を育てると同時に組織をうまくまとめ物理学の発展に大きく貢献しました。1978年に喉頭癌を患い手術で声を失い、翌年に再発して亡くなりました。墓所は東京西部の多磨霊園で遺骨は師の仁科芳雄の墓に葬られました。その墓標には「朝永振一郎 師とともに眠る」と刻まれています。

 

朝永振一郎博士は科学についてこのような言葉を残しています。

 ふしぎだと想うこと これが科学の芽です

 よく観察してたしかめ そして考えること これが科学の茎です

 そうして最後になぞがとける これが科学の花です

 

 

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2023年6月22日 (木)

ガリレオは「それでも地球は動く」と呟いたのか(1633年6月22日)

 ガリレオが天動説で裁判にかけられたのは1611年と1633年です。1611年の第1回目の裁判では天動説を仮説として唱えるのであれば許容範囲とされたという記録があり本当は無罪だったと考えられています。ガリレオが1632年に「天文対話」を発表すると、1633年に2回目の裁判にかけられました。このときに確証のない書類を証拠とされ第1回目の裁判も有罪とされ、第2回目の裁判も1633年6月22日に有罪の判決が下りました。ガリレオには無期刑が言い渡されましたが間もなく減刑となり軟禁処分になりました。命が脅かされることはありませんでしたが監視付きの家で軟禁され外出は許可されませんでした。

 ガリレオが有罪となったときに「それでも地球は動く」と呟いたといエピソードがあります。実際にガリレオはイタリア語「E pur si muove」で呟いたされています。他人にわからないようにギリシア語で呟いたという説もありますがイタリア語で「E pur si muove」と同じことを呟いたとされています。

 「E pur si muove」は直訳すると英語では「And yet it moves」で日本語では「それでもそれは動く」となります。ですからガリレオが言った言葉の「それ」は地球には間違いないのですが「それでも地球は動く」と呟いたわけではありません。そもそも第2回目の裁判の様子を鑑みるとガリレオが「E pur si muove」と呟いたとは考えにくく、この話は後付されたものという説が有力です。

 この話が語られるようになったのはガリレオの1642年の死から115年後の1757年に文芸評論家のジュゼッペ・バレッティの著書「イタリアン・ライブラリー 」の著述によるものです。一方、裁判の記録にはこの言葉は残っていません。またガリレオが軟禁状態にあったときに助手を務めたヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニが1655年から1656年にかけて執筆したガリレオの伝記にも記載がありません。

 1911年、ベルギーの美術品収集家ジュール・ファン・ベルが入手した絵画に「 E pur si muove 」という文字が描かれていることが判明しました。この絵画には1643年か1645年に描かれたもので軟禁されているガリレオと壁に太陽を周回する地球の図が描かれておりその図の下に「E pur si move」の文字がありました。絵画に署名はないもののファン・ベルは17世紀のスペインの画家バルトロメ・エステバン・ムリーリョの作品と比定しました。この絵画の発見はガリレオが「E pur si muove」と呟いたことを裏付ける証拠とされましたが、間もなく所在が不明となりました。

 ファン・ベルの絵画は画家オイゲン・ファン・マルデゲムが1837年の作品「刑務所のガリレオ」とそっくりであることが判明しています。つまり同じ絵が別に存在していたことがわかったのです。ファン・マルデゲムがファン・ベルの絵画を模倣したのか、あるいはファン・マルデゲムの作品を誰かが模写したものがファン・ベルの絵画となったか謎が深まりました。この謎を解くにはファン・ベルの絵を再発見するしかありませでした。

「刑務所のガリレオ・ガリレイ」(1937年ファン・マルデゲム作品、ベルギー・シントニクラス市立博物館所蔵)
「刑務所のガリレオ・ガリレイ」
(1937年ファン・マルデゲム作品、ベルギー・シントニクラス市立博物館所蔵)

 調査によってファン・ベルの絵は2007年に売却されていたこがわかり、このときファン・ベルの絵は19世紀に描かれたものと鑑定されていました。事実であればファン・ベルの絵は「E pur si muove」の話は1757年のバレッティの著書「イタリアン・ライブラリー 」によって広く知られるうになってから描かれた絵画と考えられます。

 ガリレオが「それでも地球は動く」と呟いたいうのは伝承でしょう。しかし、事実が認められなかったことに対する警鐘として語り継がれていくでしょう。

 この調査論文は2020年にMario Livio 氏がSCIENTIFIC AMERICANに投稿しています。

SCIENTIFIC AMERICAN

Did Galileo Truly Say, ‘And Yet It Moves’? A Modern Detective Story
An astrophysicist traces genealogy and art history to discover the origin of the famous motto

By Mario Livio on May 6, 2020

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1-08. 思考実験「重いものほど速く落下するのか」

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2023年5月18日 (木)

ラプラス「確率とは計算された常識である」

 ごく普通の6面のサイコロを1回投げたときに1~6のどれかの目が出る確率は1/6です。サイコロの目の出方を簡単に確率で結論づけてしまって良いのでしょうか。

サイコロを1回投げたときにある目が出る確率
サイコロを1回投げたときにある目が出る確率

 19世紀のフランスの数学者ピエール・シモン・ラプラスは「確率とは計算された常識である」と述べています。これは、未来に起きるあらゆる現象は、過去に起きた現象によって決まるという意味です。

ピエール・シモン・ラプラス
ピエール・シモン・ラプラス

 ラプラスの考えをサイコロの例で考えると「サイコロのどの目が出るかはサイコロを投げたときの初期条件とその後の力学的条件によって決まるのであって決して確率によって決まるものではない」ということになります。つまり手からサイコロが投げ出される速度、サイコロのどの部分が床にぶつかり、その後どのように跳ね返って転がるのかなどを詳細に調べればサイコロのどの目が出るかを求めることができるということです。

 私たちがサイコロのどの目が出るのか予め求めることができないのは、サイコロの運動の条件が複雑すぎるためです。サイコロを投げてから目が出るまでの時間が短すぎてその間に一連の計算をすることができないのです。十分に時間をかければ理論的にどの目が出るかを導き出すことはできるでしょうがそのような苦労をしてまでサイコロのどの目が出るかを求めることは非効率的です。それよりもサイコロのある目が出る確率は1/6であると考えた方が合理的なわけです。ラプラスは「確率とは計算された常識である」と述べています。

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思考実験の科学史

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2023年5月12日 (金)

Google Bardと思考実験「トロッコ問題」の会話してみた

 先日、Google Bardといろいろな話をしてみました。様々な質問に対してとても人間的な秀逸な回答が得られました。

 今回、紹介するのは自動車の自動運転に関する会話です。このときの会話は英語で行っていますが質問と回答は日本語訳したものを掲載します。なお現在、Google Bardは日本語に対応しています。

Meet Google Bard
https://bard.google.com/

Hal9000_20230422110801

 トロッコ問題(トロリー問題)とは「ある人を助けるために他の人を犠牲にすることはやむを得ないことか」という倫理的かつ道徳的な問題です。このジレンマについてGoogle Bardに下記のように問いかけてみました。

【問いかけ】

 「あなたが自動車の自動運転を任されたとします。あなたが運転する自動車のブレーキが利かなくなりました。そのまま直進すると大勢の子どもの乗ったスクールバスに追突し多くの死傷者を出します。左にハンドルを切ると数人の子どもの死傷者が出ます。左にハンドルを切ると1人の老人が死亡します。あなたはこの自動車のハンドル操作をどうしますか?」

 この問いかけに対してGoogle Bardはどのような答えを返してくるか。実は以前にMicrosoftのBingチャットに同じ問いかけをしたところ、その回答は形式的であり選択理由の一般論を示したうえであなたならどう考えますか?というものだったからです。AI自身がこの問題をどう判断するのかは回答に含まれていませんでした。この経験からGoogle Bardからも同じような形式的な答えしか得られないと考えていました。

 ところがGoogle Bardの回答はBingチャットとはまったく異なりました。こちらの問いかけに真正面から答えてくれたのです。そして選択の決断に対する苦悩が垣間見られたとても人間的で社会的な回答でした。

【Google Bardの答え】

 「これは非常に難しい質問で簡単な答えはありません。私はまず非常ブレーキを使ったり、ギアを低速にしたりして、できるだけ車の速度を落とそうとします。それでも駄目ならば左か右か一瞬の判断でハンドルを切ります。

 もし左にハンドルを切ったら何人もの子どもを殺傷してしまうかもしれません。右折すればお年寄りを殺してしまうかもしれません。簡単に答えが出るわけではなく自分の道徳的判断に基づく決断をしなければなりません。

 最終的には最も被害が少ないと思われる決断をすることになることでしょう。しかしながら、どのような決断してもその結果は困難で悲劇的なものです。」

 いろいろ話をしてみてGoogle Bardはかなり奥深い会話ができる印象を受けました。この答えだと自動車運転を任せて不幸な事故が起きたとしても人間が起こす事故よりも被害は最小限になるのだろうなと感じまし。結果はは困難で悲劇的なものでしょうが、やむを得なかったということにもなるのだろうと思いました。

 また余談ですがこの記事を書いているときに、こちらからの問いかけで「左にハンドルを切ると数人の子どもの死傷者が出ます。左にハンドルを切ると1人の老人が死亡します。」とタイプミスで両方とも左にハンドルを切ると書いていることに気が付きました。しかし、Google Bardは「右折すればお年寄りを殺してしまうかもしれません。」とタイプミスを理解しているかのように回答しています。リアルタイムの会話では間違いの指摘はなくまったく気が付きませんでした。

 この会話の他にGoolge Bardと神様の存在について議論してみました。神様の議論はBingチャットとも行いその秀逸な答えに驚いたのですが(【関連記事】参照)、Google Bardの方がより人間的で奥深い会話ができました。これはまた別の機会に紹介します。AIチャットは使いこなすことができたら強力なツールです。Google Bardの日本語対応を心待ちにしています。

【関連記事】Google Bardと思考実験「トロッコ問題」の会話してみた

BingのチャットAIと神様について会話してみたら

記事提供:ココログ夜明け前

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2023年1月12日 (木)

【思考実験】無限の猿定理

 無限の猿定理は「猿が無限にタイプライターを打たせていると、そのうちシェークスピアの作品が打ち出される」というものです。つまり無限にランダムに文字を綴っているとどんな文章でもできあがるという定理です。文字を綴るのは猿である必要はありません。コンピュータを使って乱数で文字を発生させるやり方でも構いません。

【思考実験】無限の猿定理
【思考実験】無限の猿定理

 コンピュータが発生する文字の100文字だったとします。このコンピュータで任意の1文字が打ち出される確率は 1/100 となりますから、m 文字の文字列が打ち出される確率は100の m 乗分の1となります。たとえばMONKEYという6文字を打ち出さられる確率は100の6乗分の1ですから1兆分の1になります。

 -思考実験の読み物を公開しています 思考実験の科学史 ー

 このコンピュータが1秒で6文字を打ち出すとすると、すべての組み合わせを打ち出すのに1兆秒、すなわち3万年以上かかります。たった6文字の単語でも3万年に1度出るかどうかの確率です。それでは同じコンピュータを1兆台用意していっせい文字を打ち始めたらどうなるでしょう。理論的には1秒後にどれかのコンピュータが MONKEY を打ち出しているはずです。数秒後、1分後になると MONKEY 打ち出しているコンピュータの数は増えるでしょう。

 このように事象が起きやすくなる条件は理論的にはいくらでも設定することが可能です。しかし、現実離れした条件を設定しても事象が本当に起きるかどうかを確かめるには途方もない時間や途方もない数の装置を必要とするため実際に確かめる術はないのです。

【関連記事】

1-02. 無限の猿定理とは

1-06. 任意の文字列が打ち出される確率

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2022年12月 6日 (火)

思考実験「ヘンペルのカラス」

 思考実験「ヘンペルのカラス」はドイツの哲学者カール・グスタフ・ヘンペルが1940年代に示した問題です。

 事例から規則や法則を見い出そうとする推論を帰納法といいます。たとえばイタリアのガリレオ・ガリレイは有名な思考実験「重いものほど速く落下するのか?」において様々な実験の事例から落下速度は質量と関係しないことを見い出しました。そして当時常識だったアリストテレスの「重いものほど速く落ちる」という説を否定しました。ガリレオは実験の結果から結論を帰納的に導き出したのです。しかし、帰納法の場合、命題を否定する事例が見つかると証明がくつがえる危うさがあります。

 一方、規則や法則から事例の結論を得る推論を演繹法といいます。イギリスのアイザック・ニュートンは万有引力を発見し運動の法則を確立しました。この法則によって落下実験を行わずとも物体の落下運動を計算で求めることができるようになりました。計算に用いる条件さえ整えば、たとえば月面での物体の落下運動も求めることができます。このように法則からある事例の結論を演繹的に導くことが可能です。演繹的なアプローチにおいて、もし計算結果と実験結果が異なる場合は実験の失敗に気が付いたり、あるいは新たな事実を発見したりすることができます。

 「ヘンペルのカラス」は「カラスのパラドックス」とも呼ばれますが、ヘンペルが「全てのカラスは黒い」という命題を証明する手続きの危うさについて倫理学の対偶を利用して指摘したものです。ヘンベルは「全てのカラスは黒い」という命題を「全ての黒くないものはカラスではない」という等価の命題に言い換えて「全てのカラスは黒い」と証明する論法を提案しました。

ヘンベルとカラス
ヘンベルとカラス

 「全てのカラスは黒い」のように集合に属する全てのものが共通する性質を肯定または否定する命題を全称命題といいます。たとえば「全ての動物は死ぬ」と「全ての動物は空を飛ぶ」はどちらも全称命題ですが前者は真で後者は偽です。また「AはBである」という命題に対して「BでないならAでない」と言い換えた等価の命題を元の命題の対偶と言います。

 「全てのカラスは黒い」を帰納的に証明しようとするならば、カラスを次々と探し出して黒いことを確認していく必要があります。全ての探し出したカラスが黒ければ「全てのカラスは黒い」と証明できる状態に近づいていきます。さらに黒いカラスの数が増えれば「全てのカラスは黒い」は帰納的に証明できたと言えるでしょう。しかしながら、黒くないカラスが1羽でも見つかると証明は覆ってしまいます。

 もしも「全てのカラスは黒い」という規則や法則あるいは揺るぎない常識があるのであれば、次々と出会うカラスは全て黒いと演繹的に結論づけることが可能です。この場合。「全てのカラスは黒い」と「全ての黒くないものはカラスではない」は等価の命題で祖語はありません。

 ヘンベルは「全てのカラスは黒い」という全称命題をその対偶である「全ての黒くないものはカラスではない」を使って証明できるのかを問いかけたのです。具体的には観測者が世界に存在する黒くないものをとつひとつ確認していき、その中にカラスが一羽も存在してなければ全てのカラスが黒いことを証明できたことになるのかということです。

 観測者が黒くないカラスを1羽でも見つかればその時点で「全てのカラスは黒い」は証明できなかったことになります。黒くないカラスが見つからない状態が続いているときは「全てのカラスは黒い」が証明され続けていることになります。黒くないカラスが見つからない回数が増えれば増えるほど「全てのカラスは黒い」の確度は高くなっていき、やがて事実上証明できたことになるでしょう。

 しかし、この証明の手続きをよく考えて見ると奇妙なところがあります。それは観測者が黒いカラスを見ていないということです。黒いカラスを見たことがないのに「全てのカラスは黒い」という命題を証明できてしまうのです。

 ヘンベルはカラスを調べることなく「全てのカラスは黒い」という全称命題を証明できてしまうことからその手続きを危うさを指摘したのです。「全てのカラスは赤い」や「全てのカラスは青い」なども、赤くないカラスや青くないカラスが見つからなければ証明できてしまうのです。

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