カテゴリー「スポーツ」の365件の記事

2022年9月19日 (月)

ルーキーの長嶋茂雄選手が30本塁打を逃した幻の一発(1958年9月19日)

 4番サード長嶋。ミスタージャイアンツこと長嶋茂雄さんが読売ジャイアンツと入団契約を結んだのは昭和32年(1957年)11月、翌38年(1958年)に新人デビューしました。ルーキーの長嶋選手はオープン戦で7本のホームランを放ちました。公式戦での初ヒットはデビュー2戦目の4月7日、初ホームランは4月10日です。長嶋選手は持ち前の能力を発揮し、8月にはジャイアンツの4番打者となります。

長嶋茂雄選手(週刊ベースボール1959年1月14日号)
長嶋茂雄選手(週刊ベースボール1959年1月14日号)

 そして9月19日に後楽園球場で行われた広島23回戦。この時点で長嶋選手のホームラン数は27本。あと1本ホームランを放てば新人記録となる28号となります。5回裏ツーアウト、1万8千人のファンが声援を送る中、長嶋選手は鵜狩好応(道夫)投手の内角高めを捉えます。打球は、左中間ライナーとなりました。撃った長嶋選手は全力疾走、1塁を回ったところで打球はレフトスタンドに入ったことに気が付き、ゆっくりとダイヤモンドを回ってホームベースに戻ってきました。ファンは大歓声をあげ、そしてジャイアンツベンチの監督・コーチ・選手たちは新人記録達成を祝福しました。

 このとき広島の藤井弘一塁手が鵜狩投手にボールを渡すよう求めました。ボールを手にした藤井選手が一塁ベースを踏むと、竹元塁審は腕を上げて「アウト!」と叫びました。この事態にファンもジャイアンツベンチも長嶋本人も何が起きたのかわかりませんでした。長嶋選手が捉えた球がレフトスタンドに入ったところを誰もが目の前で見たのですから。

 この事態に竹元塁審に抗議する水原茂監督と長嶋選手。竹元塁審は長嶋選手が一塁ベースの9センチ手前を蹴りベースを踏んでいないことを見たこと、藤井一塁手がそのことを申告したためアウトを認めたことを説明しました。長嶋選手は全力疾走していたため1塁ベースを踏んだかどうかは覚えておらず反論することができませんでした。結果として28号となるはずだったホームランはピッチャーゴロとなり、この一打は幻のホームランとなってしまいました。このことがきっかけでこの試合は広島が勝利を収め巨人に4連勝しました。

 長嶋選手は9月20日に28号を放ち新人記録を達成します。その後ホームランを1本撃ち最終的に打率.305、盗塁37、本塁打29本の記録を残しました。もし9月19日の一発がホームランになっていたら、ルーキーとしてはもちろんのことジャイアンツの選手としても打率3割・本塁打30本・30盗塁のトリプルスリーの記録を達成していたのです。この年の長嶋選手の打点は92点で、本塁打と打点で二冠を獲得し新人王に選ばれました。

【関連記事】ルーキーの長嶋茂雄選手が30本塁打を逃した幻の一発(1958年9月19日)

ジャイアンツの日(1934年12月26日)

日本プロ野球史上初のノーヒット・ノーラン(1936年9月25日)

本プロ野球史上初の完全試合(1950年6月28日)

プロ野球の天覧試合の日(1959年6月25日)

王選手が年間55本塁打を記録(1964年9月23日)

ホームラン記念日(1977年9月3日)

王選手756号記念レコード 小学館「小学三年生」正月号ふろく ソノシート

長嶋茂雄さん&松井秀喜さん 国民栄誉賞をダブル受賞(2013年5月5日)

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2022年9月12日 (月)

マラソンの日(紀元前490年9月12日)

 陸上競技の長距離走マラソン。公道をコースとして42.195 kmを駆け抜ける競技です。

 マラソンは第1回近代オリンピックで古代ギリシアの故事に由来して採用された種目です。マラソンは紀元前490年9月12日にアテナイ・プラタイア連合軍がギリシアのアテナイ北東にある村マラトンに上陸したペルシア軍を撃退した「マラトンの戦い」に由来します。この戦いに勝利した連合軍は兵士フィディピディスにアテナイの元老院に勝利の知らせえの伝令を命じました。フィディピディスはマラトンからアテナイまでの約40 kmを駆け抜け、そしてアテナイの外れにたどり着いたとことで「我勝てり」と告げて息絶えました。

 この故事が史実かどうかは諸説ありますが歴史の父と呼ばれる古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが著した「歴史」第6巻に「マラトンの戦い」が記されています。一方で日付や兵士の名前が異なる異説もあります。

ペルシア戦争・マラトンの戦い
ペルシア戦争・マラトンの戦い

 1896年の第1回アテネオリンピックの開催にあたり、フランスの言語学者ミシェル・ブレアルが「マラトンの戦い」の故事に因んでマラソン競技の新設が提案され、マラトンからアテネ(アテナイ)のパナシナイコ競技場まで約40 kmを走破するマラソン競技が開催されました。翌年1897年にはボストンマラソンが開催され、マラソンは陸上競技として広まりました。

 なお現在のマラソンの距離42.195 kmは「マラトンの戦い」の故事に由来するものではありません。最初は開催地によって距離が若干異なりました。1908年第4回ロンドンオリンピックのマラソン競技で初めて26マイル385ヤード(42.195 km)の距離となりましたが、距離が26マイル385ヤードに統一されたのは1924年第8回パリオリンピック以降です。

【関連記事】マラソンの日(紀元前490年9月12日)

1906年アテネオリンピック開催(1906年4月22日)

ウサイン・ボルト選手の最高速度は時速何キロか?|ラップタイムと瞬間速度

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2022年8月26日 (金)

ボツナワ共和国のレツィレ・テボゴ選手が9秒91を記録

 20歳未満の選手の陸上競技会のU20世界陸上選手権が8月1日から6日までコロンビアのカリで開催されました。大会2日目の8月2日に男子100メートルでボツナワ共和国のレツィレ・テボゴ選手が9秒91(+0.8)のU20世界新記録で優勝しました。

 テボゴ選手は2003年生まれ。2021年にケニアで開催された同大会で10秒19、2022年2月にボツワナ陸上競技協会選手権大会で10秒08、4月にハボローネ国際大会で9秒96、7月にオレゴン州で開催された世界陸上選手権デビュー戦で9秒94と自己記録を更新してきました。ウサイン・ボルト選手の記録を更新するのではないかと期待されています

 ウサイン・ボルト選手は1986年生まれ。ボルト選手は若い頃は100メートルは走っていません。200メートルの記録は2001年21秒73、2002年20秒61、2003年20秒40、18歳となった2004年の記録は21秒05です。テボゴ選手の200メートルの記録は2021年20秒38、2022年20秒26、19秒96で同年齢の頃のボルト選手の記録を上回っています。ボルト選手が200メートルの世界記録19秒19を出したのは2009年(23歳)、100メートルで9秒67を出したのは2008年(22歳)、世界記録9秒58は2009年(23歳)です。

 U20世界陸上選手権の映像を見てみると優勝を確証した時点で右手をあげて2位の選手の方を見ています。そのまま走っていたらどのぐらい記録が縮まっていたでしょうか。レツィレ・テボゴ選手は未だ19歳、今後どこまで記録を伸ばすことができるのか。果たしてボルト選手の9秒58を打ち破ることができるのか。期待をもって見守りたい選手です。

Letsile-tebogo

9.91 ‼️ Tebogo breaks his own world U20 record | World Athletics U20 Championships Cali 2022

【関連記事】ボツナワ共和国のレツィレ・テボゴ選手が9秒91を記録

ウサイン・ボルト選手が男子100 mで9.58を記録(2009年8月16日)

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男子100メートル「10秒の壁」を破った選手たち 

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2022年8月21日 (日)

パーフェクトの日(1970年8月21日)

 8月21日は「パーフェクトの日」です。「パーフェクトの日」の由来は何かというとボウリングの記録に関係しています。ボウリングには色々な種類がありますが、日本でボウリングと言えば10本のピンを倒すテンピンボウリングのことです。

 ボウリングのパーフェクトゲームとはすべてストライクを取ることです。1~9フレームまではストライクを取ると1フレームごとにボーナスポイント30点が加算されます。連続でストライクを取っていくと1フレーム30点、2フレーム60点、3フレーム90点と加算されていき9フレーム目で270点となります。10フレーム目は3回投球ができますがボーナスポイントはないのですべてストライクでも最高は30点です。ですので1フレームから10フレームまですべてストライクを取るパーフェクトゲームを達成すると300点になります。

 さて昭和45年(1970年)8月21日、東京都の府中スターレーンで開催された女子プロ8月月例会においてプロボウラーの中山律子選手が海野房枝選手との優勝決定戦で女子プロボウラーとしては史上初の公認パーフェクトゲームを達成しました。この日を記念して中山律子選手が所属するマネジメント会社マザーランドが「パーフェクトの日」を制定しました。

 このゲームはテレビで全国に放送され日本でボウリングが大人気となりました。中山律子選手も「さわやか律子さん」の愛称で大人気となりコマーシャルに出演したり、中山律子選手の名前を冠したボウリングゲームが発売されました。毎日のようう花王フェザーシャンプーのCM曲の「律子さん、律子さん、さわやか律子さん」が流れ、エポック社のパーフェクトボウリングなどボウリングゲームが流行しました。

 

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2022年8月18日 (木)

高校野球の日|第1回全国中等学校優勝野球大会(1915年8月18日)

 毎年夏になると開催される全国高等学校野球選手権大会が始まったのは大正4年(1915年)8月18日です。この日、大阪の豊中球場で第1回全国中等学校優勝野球大会が開幕しました。全国中学校となっているのは当時は高等学校が存在していなかったからです。日本では第二次世界大戦以前は高等学校に相当する学校は男子は旧制中学校と実業学校、女子は高等女学校でした。

 この全国中等学校優勝野球大会は豊中グランドの有効利用を目的として当時の大阪朝日新聞の村山龍平社長によって創設されました。朝日新聞が大会の開催を発表したのが同年7月1日でした。開幕まで1ヶ月半ほどしかありませんでした。出場校は作家の押川春浪が設立した武侠世界社が主催する東京都下大会で優勝した早稲田実業、東北、東海、京津、関西、兵庫、山陽、山陰、四国、九州の各地区から予選を勝ち抜いた合計10校となりました。地区予選で敗退した学校を含めると全国で73校がこの大会に参加しました。

(東北)秋田中(東京)早稲田実(東海)三重四中(京津)京都二中 

(兵庫)神戸二中(関西)和歌山中(山陽 )広島中(山陰)鳥取中

(四国)高松中(九州 )久留米商

 大会初日の第1試合は広島中対鳥取中でした。村山龍平社長が羽織袴姿で登場し1球目を投じました。ボールは見事にストライクでキャッチャーまで届きました。現在は試合開始前に始球式が行われたいましたが、このときは村山龍平社長の投球も1回表のカウントとなり広島中の先頭打者はワンストライクのカウントから試合に臨むことになりました。

村山龍平社長の投球
村山龍平社長の投球

 決勝は秋田中と京都二中が争い12回まで1対1の同点でしたが13回裏に京都二中が1点を加えてサヨナラゲームとなりました。

 開幕から決勝までの5日間で豊中球場には5000人から10000人の観客が集まりました。なお会場が甲子園球場となったのは1924年の第10回大会からです。また1948年に学制が改革されたため名称が全国高等学校野球選手権大会に変更となりました。

【関連記事】高校野球の日|第1回全国中等学校優勝野球大会(1915年8月18日)

函館の野球の球聖 久慈次郎

ジャイアンツの日(1934年12月26日)

プロ野球の日(1936年2月5日)

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2022年8月16日 (火)

ウサイン・ボルト選手が男子100 mで9.58を記録(2009年8月16日)

 2009年8月16日、ドイツのベルリンで開催された世界選手権男子100 m決勝で、ジャマイカのウサイン・ボルト選手(ウサイン・セント・レオ・ボルト選手)が人類史上初の9秒5台となる9秒58(+0.9 m/s)の世界新記録で優勝しました。

Photo_20220802154601

 記録によるとボルト選手のスタート反応時間は0秒146で20 mごとのラップタイムは下記の通りです。

Reaction Time 0.146 s 

020 m 2.88 s

040 m 4.64 s

060 m 6.31 s

080 m 7.92 s

100 m 9.58 s

また各区間の走破時間は下記の通りでした。

000~020 m 2.88 s

020~040 m 1.76 s

040~060 m 1.67 s

060~080 m 1.61 s

080~100 m 1.66 s

この記録から平均時速と最高速度を計算してみると

平均速度 100 m/9.58 s = 37.58 km/h

最高速度 060~080 mの20 m/1.61 s = 44.72 km/h 

となります。

 ボルト選手の世界記録の映像は下記【関連記事】のウサイン・ボルト選手の最高速度は時速何キロか?|ラップタイムと瞬間速度で見ることができます。

【関連記事】ウサイン・ボルト選手が男子100 mで9.58を記録(2009年8月16日)

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2022年6月25日 (土)

プロ野球の天覧試合の日(1959年6月25日)

 天覧試合は天皇が観戦する武道やスポーツ競技のことです。相撲ではしばしば天覧試合がありますが、プロ野球の天覧試合は昭和34年(1959年)6月25日に過去に1度だけ行われました。

 プロ野球の天覧試合は昭和天皇が後楽園球場のナイターの灯りに興味をもたれたことがきっかけとなって企画されました。後楽園球場をホームグラウンドとしたセリーグの読売ジャイアンツとパリーグの毎日大映オリオンズの試合が検討されましたが最終的には読売ジャイアンツ対大阪タイガース(巨人阪神戦)、いわゆる伝統の一戦の第11回戦が選ばれました。

 天覧試合は午後7時から始まり、昭和天皇と香淳皇后がバックネット裏の貴賓席から天覧されました。試合の開始前に両チームの全員が整列し貴賓席に向かって一礼してから試合が始まりました。プロ野球の試合は普段は応援で賑わいますが、この日は鳴り物を使った応援が禁止されたため静かな雰囲気での試合進行になりました。この様子は日本テレビとNHKで全国中継が行われました。

 先発投手はジャイアンツが藤田元司選手、タイガースが小山正明選手で両チームのエース同士の投げ合いとなりました。タイガース先行で始まった3回表、タイガースの小山投手のヒットで先制点を挙げ1-0となりました。試合は打ち合いとなり5回裏にジャイアンツの長嶋茂雄選手と坂崎一彦選手が連続で本塁打を放ち1-2と逆転します。すると6回表にタイガースの三宅秀史選手のヒットと藤本勝巳選手の本塁打で4-2と逆転します。7回裏にはジャイアンツの新人の王貞治選手が本塁打を放ち2点を追加し4-4の同点となります。このように天覧試合は両チームの点の取り合いとなり互いに一進一退の試合運びとなりました。

 7回裏王選手に本塁打を放たれたタイガースはピッチャーを交代し当時新人だった村山実投手をマウンドに送ります。この後はピッチャーの投げ合いとなり9回を迎えました。このとき時間は午後9時を過ぎ誰もが延長戦となると考えていました。天皇・皇后は午後9時15分に退席する予定で試合を最後まで見届けることができない見通しになりました。

 試合は9回裏に入りジャイアンツの最後の攻撃となりました。先頭バッターは「4番サード長嶋」。カウント2ストライク2ボールと村山投手が長嶋選手を追い詰めます。村山投手の5球目、内角高めを責める速球を長嶋選手のバットが捉えます。打球はぐんぐん伸びてレフトスタンド上段に飛び込みサヨナラ本塁打となり4-5でジャイアンツがタイガースに勝利しました。

天覧試合9回裏、村山のボールを長嶋のバットが捉える
天覧試合9回裏、村山のボールを長嶋のバットが捉える

 このとき時間は午後9時12分、天皇・皇后の退席前3分でした。天皇・皇后は試合を最後まで見届けることができたのです。この天覧試合でプロ野球の人気が上がり日本を代表するプロスポーツとなったのです。

 

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2022年5月19日 (木)

ボクシングの日(1952年5月19日)

 5月19日は日本プロボクシング協会が2010年に制定した「ボクシングの日」です。1952年5月19日、白井義男が世界フライ級王者ダド・マリノに勝利し日本初のボクシング世界チャンピオンとなりました。

 マリノはアメリカのハワイのボクシング選手で1951年5月21日に世界フライ級王者として来日し白井とノンタイトルマッチを行い10回戦判定勝ちをしています。同年12月4日、白井がハワイのホノルルに赴きマリノとノンタイトルマッチ10回戦を戦い7回TKOでマリノを倒しています。1952年5月19日、白井とマリノは1勝1敗の状態で後楽園球場で15回戦タイトルマッチを行い白井が判定勝ちし世界チャンピオンの王座を手にしました。マリノは同年11月に白井に15回戦で再挑戦しましたが判定負けしています。白井は1954年までに4度の防衛を果たし約2年間世界王者の座につき敗戦で心が折れていた日本人の希望の光となりました。

 白井がプロボクサーとなったのは戦時中の1943年のことでした。8試合を戦い全勝の成績を納めていましたが第二次世界大戦で招集され特攻隊の整備士となりました。このとき腰を痛めてボクシングができない状況になりましたが、復員後に出会ったのがGHQで働いていたアルビン・ロバー・カーンでした。カーンは生物学者でGHQの天然資源局に所属しており日本人の食糧支援のために日本沿岸の海洋生物の調査を行っていました。カーンが王子拳道会(現:帝拳)を訪れたときに目にとまったのが白井でした。

 カーンは白井の長い腕とボクシングの優れた素質を見抜き、白井に対して生活からトレーニングまで全て金銭的な支援をすることを約束し白井の専属ボクシング・コーチとなりました。カーンは生物学の専門家としてまた体育講師としての経験から白井に栄養学を取り入れた先進的な科学的トレーニングを行いました。腰痛に悩まされていた白井も次第に回復しボクシングの能力を高めていきました。またカーンは白井にガードを中心とした防御の中から相手の隙を見つけて一撃を与える「打たせずに打つ」という戦い方を教え込みました。これは当時の日本の「打たれたら打ち返す」という戦い方とは真逆な戦法で批判もありましたが白井の戦績によって認められるようになりました。

 そして迎えた1952年5月19日、カーンと二人三脚でボクシングのトレーニングを重ねてきた白井はついに日本初のボクシング世界チャンピオンとなったのです。カーンは日本が独立を果たした後も日本に残り白井が引退するまでコーチを続け白井とは家族同様の関係となりました。

白井義男が日本初の世界チャンピオンになる(1952年5月19日)
白井義男が日本初の世界チャンピオンになる(1952年5月19日)
左:白井義男とダド・マリノ 右:白井義男とアルビン・カーン(カーンは左端)

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2022年4月22日 (金)

1906年アテネオリンピック開催(1906年4月22日)

 近代オリンピックはフランスの教育者ピエール・ド・クーベルタン男爵の古代オリンピックの復活の提唱によって始まりました。第1回オリンピックは1896年にギリシア王国のアテネで開催されました。このオリンピックは資金的な問題もありましたが当時国際的な地位を向上しようとしていたギリシア王国の支援もあり大成功を収めました。

 1900年に第2回オリンピックがフランスのパリで開催され、1904年に第3回オリンピックがアメリカ合衆国のセントルイスで開催されました。しかしながら、この2つのオリンピックは同時に同地で開催された万国博覧会と一緒に行われことや不祥事も生じたため盛り上がりに欠け反省点が残る大会となりました。

 次のオリンピックは1908年にイギリスのロンドンで開催される予定でしたが、第1回オリンピックを成功さっせたギリシア王国はオリンピックは毎回ギリシアで開催されるべきだと主張しました。クーベルタン男爵はオリンピックは各国の持ち回りで開催するべきと考えていましたが、過去2回のオリンピックが盛り上がらなかったこともあり、オリンピックは4年ごとに各国で開催しその中間の年にギリシア王国で開催することに決まりました。

 そこで1906年にギリシャ王国のアテネでオリンピックが開催されました。その後、ギリシア王国が政情不安となりオリンピック開催を主張していたゲオルギオス1世が亡くなったことによって以降のアテネオリンピックの計画が頓挫し2度と開催されることはありませんでした。

1906アテネオリンピックのマラソン大会のゴール
1906アテネオリンピックのマラソン優勝者ウィリアム・シェリング選手

 1950年に国際オリンピック委員会は1906年オリンピックを公式記録から外しオリンピックの歴史から消えることになりました。そんため、この大会でのみオリンピックメダルを獲得していた選手はオリンピックのメダリストではなくなってしまいました。写真のマラソンで金メダルを獲得したウィリアム・シェリング選手は幻のオリンピックメダリストとなってしまいました。なお、シェリング選手と併走しているのはギリシア王国のゲオルギオス・ティス・エラザス王子です。現在、1906年アテネオリンピックは特別大会、暫定大会、中間大会、10周年大会などと呼ばれています。

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2022年2月17日 (木)

長野オリンピックジャンプ団体で逆転優勝(1998年2月17日)

 1998年2月17日は長野オリンピックでジャンプラージヒル団体が行われた日です。長野オリンピックのジャンプ競技ではノーマルヒルで船木和喜選手が銀メダル、ラージヒルで船木和喜が金メダル、 原田雅彦選手が銅メダルを獲得しています。

 ラージヒル団体の日本の出場選手は 岡部孝信選手、斉藤浩哉選手、原田雅彦選手、船木和喜選手です。1本目は一番手の岡部選手が115.7点(121.5 m)、2番手の斉藤選手が131.5点(130.0 m)を出しこの時点で日本チームはトップとなります。

 三番手の原田選手の順番が回ってきたところで悪天候となり前方がほとんど見えないほどの雪となります。この雪は助走路にも積もり成績への影響も懸念されましたが競技は続行されました。各国の三番手の選手は飛距離が出ず、特に原田選手は助走速度が上がらず35.6点(79.5 m)となります。この時点で日本チームの順位は2位となりました。続いての四番手は各国の選手が120~130 mの大ジャンプを出しますが、船木選手は天候の影響で飛距離が伸びず114.3点(118.5 m)となり、日本チームは順位を4位に落とします。

 1本目終了時点でトップまでの差は13.6点、日本チームは十分に巻き返しが可能な点差でした。逆転優勝ができるかどうか注目が集まりましたが2本目が始まる前に悪天候の影響で競技が中断します。2本目が中止となった場合は1本目の順位で確定するため日本チームはメダルを獲得できなくなります。競技はしばらく再開されずテストジャンパーが飛ぶことになりました。25人のテストジャンパーは転倒することなくジャンプを終え競技が続行できることを示しました。これによって2本目の競技が再開します。

 2本目、一番手の岡部選手は143.6点(137.0 m)の今大会の最長不倒距離のジャンプを決めると日本チームはトップに返り咲き金メダル獲得の期待が高まりました。二番手の斉藤選手は124.7点(124.0 m)を出します。

 そして三番手の原田選手の順番がやってきます。悪天候とはいえ1本目に不本意な結果となった原田選手にプレッシャーがかかります。実は原田選手は4年前の1994年リレハンメルオリンピックのラージヒル団で苦い経験をしていました。この団体戦は西方仁也選手、岡部孝信選手、葛西紀明選手、原田雅彦選手で臨みましが2本目の最終ジャンパーの原田選手が105 m以上飛べば金メダル獲得でした。1本目を122 m飛んでいる原田選手にとって105 mは難しい距離ではありませんでした。誰もが金メダル確定と考えて最終の原田選手のジャンプに注目しましたがプレッシャ-がかかったのか97.5 mの失敗ジャンプとなりドイツに金メダルの座を譲り銀メダルとなってしまったのです。原田選手は本番に弱いと言われるようになったのです。

スキージャンプ
スキージャンプ

 この悪夢を吹っ切るように原田選手は思い切って2本目のジャンプに挑みました。岡部選手に匹敵する141.6点(137.0m)の最長不倒距離をジャンプを飛び日本チームの金メダル獲得を前進させました。プレッシャーから解放された原田選手は全身の力が抜け弱々しい声で最終ジャンパーの船木選手に声援を送りました。船木選手は126.0点(125.0 m)を飛び、日本チームは念願の金メダルを獲得したのです。

 なお1本目の原田選手のジャンプについて岡部選手は自分や斉藤選手や船木選手ではあの悪天候では原田選手ほどの距離は出せず日本チームは金メダルを取れなかったと言っています。これは原田選手の踏み切りが助走が低速のノーマルヒルでも距離を伸ばすことができる高く飛び出すタイプに対して他の選手は低く鋭角的に飛び出すタイプだったからです。

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