カテゴリー「スポーツ」の358件の記事

2022年5月19日 (木)

ボクシングの日(1952年5月19日)

 5月19日は日本プロボクシング協会が2010年に制定した「ボクシングの日」です。1952年5月19日、白井義男が世界フライ級王者ダド・マリノに勝利し日本初のボクシング世界チャンピオンとなりました。

 マリノはアメリカのハワイのボクシング選手で1951年5月21日に世界フライ級王者として来日し白井とノンタイトルマッチを行い10回戦判定勝ちをしています。同年12月4日、白井がハワイのホノルルに赴きマリノとノンタイトルマッチ10回戦を戦い7回TKOでマリノを倒しています。1952年5月19日、白井とマリノは1勝1敗の状態で後楽園球場で15回戦タイトルマッチを行い白井が判定勝ちし世界チャンピオンの王座を手にしました。マリノは同年11月に白井に15回戦で再挑戦しましたが判定負けしています。白井は1954年までに4度の防衛を果たし約2年間世界王者の座につき敗戦で心が折れていた日本人の希望の光となりました。

 白井がプロボクサーとなったのは戦時中の1943年のことでした。8試合を戦い全勝の成績を納めていましたが第二次世界大戦で招集され特攻隊の整備士となりました。このとき腰を痛めてボクシングができない状況になりましたが、復員後に出会ったのがGHQで働いていたアルビン・ロバー・カーンでした。カーンは生物学者でGHQの天然資源局に所属しており日本人の食糧支援のために日本沿岸の海洋生物の調査を行っていました。カーンが王子拳道会(現:帝拳)を訪れたときに目にとまったのが白井でした。

 カーンは白井の長い腕とボクシングの優れた素質を見抜き、白井に対して生活からトレーニングまで全て金銭的な支援をすることを約束し白井の専属ボクシング・コーチとなりました。カーンは生物学の専門家としてまた体育講師としての経験から白井に栄養学を取り入れた先進的な科学的トレーニングを行いました。腰痛に悩まされていた白井も次第に回復しボクシングの能力を高めていきました。またカーンは白井にガードを中心とした防御の中から相手の隙を見つけて一撃を与える「打たせずに打つ」という戦い方を教え込みました。これは当時の日本の「打たれたら打ち返す」という戦い方とは真逆な戦法で批判もありましたが白井の戦績によって認められるようになりました。

 そして迎えた1952年5月19日、カーンと二人三脚でボクシングのトレーニングを重ねてきた白井はついに日本初のボクシング世界チャンピオンとなったのです。カーンは日本が独立を果たした後も日本に残り白井が引退するまでコーチを続け白井とは家族同様の関係となりました。

白井義男が日本初の世界チャンピオンになる(1952年5月19日)
白井義男が日本初の世界チャンピオンになる(1952年5月19日)
左:白井義男とダド・マリノ 右:白井義男とアルビン・カーン(カーンは左端)

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2022年4月22日 (金)

1906年アテネオリンピック開催(1906年4月22日)

 近代オリンピックはフランスの教育者ピエール・ド・クーベルタン男爵の古代オリンピックの復活の提唱によって始まりました。第1回オリンピックは1896年にギリシア王国のアテネで開催されました。このオリンピックは資金的な問題もありましたが当時国際的な地位を向上しようとしていたギリシア王国の支援もあり大成功を収めました。

 1900年に第2回オリンピックがフランスのパリで開催され、1904年に第3回オリンピックがアメリカ合衆国のセントルイスで開催されました。しかしながら、この2つのオリンピックは同時に同地で開催された万国博覧会と一緒に行われことや不祥事も生じたため盛り上がりに欠け反省点が残る大会となりました。

 次のオリンピックは1908年にイギリスのロンドンで開催される予定でしたが、第1回オリンピックを成功さっせたギリシア王国はオリンピックは毎回ギリシアで開催されるべきだと主張しました。クーベルタン男爵はオリンピックは各国の持ち回りで開催するべきと考えていましたが、過去2回のオリンピックが盛り上がらなかったこともあり、オリンピックは4年ごとに各国で開催しその中間の年にギリシア王国で開催することに決まりました。

 そこで1906年にギリシャ王国のアテネでオリンピックが開催されました。その後、ギリシア王国が政情不安となりオリンピック開催を主張していたゲオルギオス1世が亡くなったことによって以降のアテネオリンピックの計画が頓挫し2度と開催されることはありませんでした。

1906アテネオリンピックのマラソン大会のゴール
1906アテネオリンピックのマラソン優勝者ウィリアム・シェリング選手

 1950年に国際オリンピック委員会は1906年オリンピックを公式記録から外しオリンピックの歴史から消えることになりました。そんため、この大会でのみオリンピックメダルを獲得していた選手はオリンピックのメダリストではなくなってしまいました。写真のマラソンで金メダルを獲得したウィリアム・シェリング選手は幻のオリンピックメダリストとなってしまいました。なお、シェリング選手と併走しているのはギリシア王国のゲオルギオス・ティス・エラザス王子です。現在、1906年アテネオリンピックは特別大会、暫定大会、中間大会、10周年大会などと呼ばれています。

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2022年2月17日 (木)

長野オリンピックジャンプ団体で逆転優勝(1998年2月17日)

 1998年2月17日は長野オリンピックでジャンプラージヒル団体が行われた日です。長野オリンピックのジャンプ競技ではノーマルヒルで船木和喜選手が銀メダル、ラージヒルで船木和喜が金メダル、 原田雅彦選手が銅メダルを獲得しています。

 ラージヒル団体の日本の出場選手は 岡部孝信選手、斉藤浩哉選手、原田雅彦選手、船木和喜選手です。1本目は一番手の岡部選手が115.7点(121.5 m)、2番手の斉藤選手が131.5点(130.0 m)を出しこの時点で日本チームはトップとなります。

 三番手の原田選手の順番が回ってきたところで悪天候となり前方がほとんど見えないほどの雪となります。この雪は助走路にも積もり成績への影響も懸念されましたが競技は続行されました。各国の三番手の選手は飛距離が出ず、特に原田選手は助走速度が上がらず35.6点(79.5 m)となります。この時点で日本チームの順位は2位となりました。続いての四番手は各国の選手が120~130 mの大ジャンプを出しますが、船木選手は天候の影響で飛距離が伸びず114.3点(118.5 m)となり、日本チームは順位を4位に落とします。

 1本目終了時点でトップまでの差は13.6点、日本チームは十分に巻き返しが可能な点差でした。逆転優勝ができるかどうか注目が集まりましたが2本目が始まる前に悪天候の影響で競技が中断します。2本目が中止となった場合は1本目の順位で確定するため日本チームはメダルを獲得できなくなります。競技はしばらく再開されずテストジャンパーが飛ぶことになりました。25人のテストジャンパーは転倒することなくジャンプを終え競技が続行できることを示しました。これによって2本目の競技が再開します。

 2本目、一番手の岡部選手は143.6点(137.0 m)の今大会の最長不倒距離のジャンプを決めると日本チームはトップに返り咲き金メダル獲得の期待が高まりました。二番手の斉藤選手は124.7点(124.0 m)を出します。

 そして三番手の原田選手の順番がやってきます。悪天候とはいえ1本目に不本意な結果となった原田選手にプレッシャーがかかります。実は原田選手は4年前の1994年リレハンメルオリンピックのラージヒル団で苦い経験をしていました。この団体戦は西方仁也選手、岡部孝信選手、葛西紀明選手、原田雅彦選手で臨みましが2本目の最終ジャンパーの原田選手が105 m以上飛べば金メダル獲得でした。1本目を122 m飛んでいる原田選手にとって105 mは難しい距離ではありませんでした。誰もが金メダル確定と考えて最終の原田選手のジャンプに注目しましたがプレッシャ-がかかったのか97.5 mの失敗ジャンプとなりドイツに金メダルの座を譲り銀メダルとなってしまったのです。原田選手は本番に弱いと言われるようになったのです。

スキージャンプ
スキージャンプ

 この悪夢を吹っ切るように原田選手は思い切って2本目のジャンプに挑みました。岡部選手に匹敵する141.6点(137.0m)の最長不倒距離をジャンプを飛び日本チームの金メダル獲得を前進させました。プレッシャーから解放された原田選手は全身の力が抜け弱々しい声で最終ジャンパーの船木選手に声援を送りました。船木選手は126.0点(125.0 m)を飛び、日本チームは念願の金メダルを獲得したのです。

 なお1本目の原田選手のジャンプについて岡部選手は自分や斉藤選手や船木選手ではあの悪天候では原田選手ほどの距離は出せず日本チームは金メダルを取れなかったと言っています。これは原田選手の踏み切りが助走が低速のノーマルヒルでも距離を伸ばすことができる高く飛び出すタイプに対して他の選手は低く鋭角的に飛び出すタイプだったからです。

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2022年2月 5日 (土)

プロ野球の日(1936年2月5日)

 日本で最初のプロ野球球団は1920年に設立された日本運動協会です。続いて1921年に天勝野球団が結成されました。しかしながら、1923年に発生した関東大震災により両球団ともに解散となりました。日本運動協会は1924年に宝塚運動協会として再結成されましたが、1927年から始まった昭和金融恐慌の影響や他に球団が設立されなかったこともあり1929年に解散し日本のプロ野球はここで途絶えました。

 当時の日本の野球はプロ野球よりも東京六大学などの学生野球の方が人気がありました。学生野球の有力選手は大学を卒業すると各地のクラブチームに入団しましたが系統的なリーグ戦は行われていませんでした。そこで東京日日新聞が主催者となり日本各地の都市を代表する野球チームに優勝を競い合わせる都市対抗野球が1927年に開催されました。

 1931年、読売新聞社の主催で米国メジャーリーグ選抜チームと六大学を中心とする日本チームとの日米対抗試合が行われました。この興業は成功を収め再び日米対抗野球が計画されましたが文部省が1932年に学生野球の興行化を禁止したため1934年に各地のクラブチームから有力選手を集めて職業野球としての全日本チームが結成されました。1934年にルー・ゲーリックやベーブ・ルースを含む全米選別野球チームが来日し各地で全日本チームとの試合が開催されました。

 この興業は大成功し、同年12月26日に全日本チームが基礎となり大日本東京野球倶楽部が結成されました。大日本東京野球倶楽部は唯一のプロ野球チームだったため米国に遠征し試合を行いました。このとき米国で東京ジャイアンツと名乗り、後に東京巨人軍と改名しました。12月26日はジャイアンツの日とされています。

 プロ野球の人気が出始めると、1935年に大阪野球倶楽部(大阪タイガース、現在の阪神タイガース)が結成、1936年には大日本野球連盟名古屋協会(名古屋軍、現在の中日ドラゴンズ)、大阪阪急野球協会(阪急軍、現在のオリックス・バファローズ)、東京野球協会(東京セネタース)、大日本野球連盟東京協会(大東京軍)、名古屋野球倶楽部(名古屋金鯱軍)が結成されました。そして1936年2月5日、東京巨人軍、大阪タイガース、名古屋軍、東京セネタース、阪急軍、大東京軍、名古屋金鯱軍の7球団で日本職業野球連盟が設立され、2月9日に巨人軍の2回目のアメリカ遠征の壮行会と金鯱軍の結成記念としてプロ野球初の対抗試合が行われました。

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東京巨人軍と大阪タイガースの当時のユニフォーム
(左:沢村栄治投手 右:御園生崇男投手)

 プロ野球のリーグ戦が開幕したのは同年4月です。このとき東京巨人軍は米国に遠征中だったため春季大会は欠場しました。同年7月からの夏季大会で東京巨人軍を含むトーナメント戦が行われました。9月行われた秋季大会で初めて優勝チーム決定戦を行われ東京巨人軍が大阪タイガースを僅差で破り優勝しました。この年の9月25日に東京巨人軍の沢村栄治投手が日本プロ野球史上初のノーヒット・ノーランを達成しています。

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2022年1月31日 (月)

冬季オリンピックで日本人が初めてメダル獲得(1956年1月31日)

 1956年1月31日、イタリアで開催されたコルチナ・ダンペッツォ冬季オリンピックのスキー回転競技で猪谷千春選手が日本人として初めて銀メダルを獲得しました。これは同時に日本人初の冬季オリンピックのメダル獲得にもなりました。

 猪谷千春選手は1931年に日本スキー界の草分け的存在の猪谷六合雄と日本人初の女性スキージャンパーの猪谷定子選手の長男として北海道国後島で産まれ、2歳の頃から両親にスキーの手ほどきを受けました。猪谷夫妻は国後島は雪質が良くないと判断し群馬県、長野県、青森県などに移住しながら猪谷選手にスキーの厳しい英才教育を施しました。

 猪谷選手がスキー選手として注目を受けたのは1943年11歳のときです。この年、栃木県で開催された明治神宮国民体育大会スキー競技会で前走し、優勝した大人の選手よりも6秒も早い記録を出し天才スキー少年と呼ばれるようになりました。その後も実力を発揮し1948年には長野県で開催された国民体育大会で優勝、1952年オスロ・オリンピックの出場が決まりました。しかし、当時の日本は戦後の占領下にありスキーも大衆化しておらずオリンピックへの参加は非常に厳しい状況だったのです。

 オスロ・オリンピックは1952年2月開幕。この約2ヶ月前に銀座ミズノスポーツで1人の米国人がスキー板の反りを確認していたところスキー板を折ってしまいました。米国人は店に弁償を申し出ましたが、支配人はスキー板の品質が悪かったことを認めました。このことがきっけで米国人は支配人と意気投合しました。そこにやって来たのが支配人の家に下宿していた猪谷選手でした。

 支配人が猪谷千春選手のことを日本スキー界の有力選手でオスロ・オリンピック出場予定であると紹介したところ、米国人はオリンピック開幕間近なのに日本人選手が十分な練習もできていない状況に驚きました。そしてオリンピック出場予定の猪谷選手と水上久選手を支援することを申し出たのです。米国人は2人のためにパスポートとビザを特別に手配し、オリンピックに向けた練習のためオーストリアのスキー場に連れて行き合板スキー板など最新のスキー用具まで提供したのです。これらの費用はすべて米国人のポケットマネーで賄われました。アメリカ人はAIG保険会社の創業者コーネリアス・バンダー・スター社長だったのです。

 1952年2月にオスロ・オリンピックが開幕し猪谷選手は滑降・回転・大回転に出場しました。成績は振るわずそれぞれ24位、11位、20位となりましたが、親子で研究した滑り方が欧州の有力選手のスキー技術と遜色がないことに気が付きました。回転競技では旗門にスキーを引っかけるミスもあり、この大会への出場が自信につながり1956年コルチナ・ダンペッツオオリンピックでのメダル獲得を目標に掲げました。また猪谷選手は真っ黒なユニフォームを着ていたため「ブラック・キャット」と呼ばれようになりその存在を印象づけました。

猪谷千春選手(1952年)
猪谷千春選手(1952年)

 スター社長はオスロ・オリンピック終了後も猪谷選手を支援し続けました。猪谷選手は全米アルペン競技選手権で2位となり、1953年に米国ダートマス大学に留学し、勉学と良質な環境でのスキー練習に励みました。これらの費用もスター社長が賄いました。米国での経験で猪谷選手は英語が堪能になりました。欧州の大会にも優秀な成績を収めるようになり注目される人気選手となりました。

 そして迎えた1956年1月コルチナ・ダンペッツォオリンピック。猪谷選手は米国に留学していたため日本のスキー競技会に出場していなかっためオリンピック代表選出が危ぶまれました。しかし、関係者の尽力と猪谷選手の実力によって日本代表選手に選出されました。猪谷選手は滑降、回転、大回転に出場ました。滑降は失格、大回転では12位とんりましたが、1956年1月31日に回転で自信が目標としていた銀メダルを獲得しました。冬季オリンピックで日本代表選手が始めて獲得したメダルとなりました。

 このとき猪谷選手が競ったのがオーストリアのトニー・ザイラー選手です。ザイラー選手はこのオリンピックでアルペンスキー回転・大回転・滑降で金メダルを獲得し世界で初めて三冠を達成しました。ザイラー選手はその後も輝かしい成績を残しましたが1957年に映画に出演したためアマチュア資格を失い1960年スコーバレーオリンピックには出場できなくなりました。

 猪谷選手は選手生活を続けていましたが1959年にスター社長の誘いでAIU保険会社に就職しました。そして1960年スコーバレーオリンピックでスキー選手を引退することを決意しました。ザイラー選手が不在だったこともあり金メダル獲得を期待されましたが、金メダルを狙いすぎて自分の滑りができず滑降で34位、回転で12位、大回転で23位となりました。

 猪谷選手は引退後は保険会社で働き続けました。ダートマス大学での勉学が功を奏し業績をアップし、1978年には47歳の若さでアメリカンホーム保険会社の社長に就任しました。1980年、国際オリンピック委員会(IOC)委員就任の打診を受け1982年にIOC委員に就任しました。英語が堪能であったこともあり国際的にも活躍しオリンピックの開催や運営に尽力、2005年にはIOC副会長に就任しました。

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2022年1月14日 (金)

ミニスキージャンプ大会

 雪が降り積もると子どもたちが遊びだすのがミニスキー。ミニスキーは長さ30~50 cmぐらいのプラスチックで作られたスキー板でプラスチックのバンドでゴム長ぐつに固定します。そして平地をスケートのように滑ったり、坂道をスキーのように滑ったりして遊ぶのです。なにせ冬期間の雪のあるとき限定の遊びなので子どもたちはおおはしゃぎです。この年、ミニスキー初デビューの4歳の男の子。

ミニスキーで出動
ミニスキーで出動

 ある年にミニスキーの新しい遊び方が生まれました。それはミニスキーのジャンプです。雪で坂を作ってジャンプ台を作り、上から滑って飛び出します。小学生のお兄ちゃん、本人は滑走したー飛んだー感でいっぱいのはずですがはたからみるとこんな感じです。

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 この年を境に冬になると近所にはいたるところにミニスキージャンプ台が作られるようになりました。小学校の高学年や中学生は公園の滑り台などを利用してジャンプ台を作っていました。上の写真のジャンプ台は物置の屋根から落ちて積もった雪をそのまま利用して作ったものです。

 さて、この年からどうしてミニスキージャンプが流行り出したのでしょう。その年は1972年。札幌オリンピックの70 m級ジャンプで笠谷・金野・青地選手が金・銀・銅メダルを独占し「日の丸飛行隊として大人気となった年だったのです。

 子どもたちは日の丸飛行隊気取りでゴーグルをかけてミニスキージャンプ台に集まります。自分が飛んだ位置にストックを刺して飛距離を比べ金メダルだ銀メダルだと競ったものです。

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2022年1月12日 (水)

スキーの日(1911年1月12日)

 日本にスキーが伝来したのは19世紀の終わりと考えられていますが、本格的なスキー技術が伝わったのは20世紀になってからです。1911年(明治44年)1月12日に新潟県上越市高田(当時の中頸城郡高田町)において、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍のテオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐が陸軍第13師団歩兵第58連隊にスキー技術を伝えました。これが日本初のスキー技術の伝来となり、高田が日本のスキー発祥の地とされました。当時、雪国で多くの人が使っていたのは橇(かんじき)でした。スキーの技術の伝来をきっかけにスキーが普及し、雪国の移動手段が一変しました。このことから全日本スキー連盟は2003年に1月12日を「スキーの日」としました。

上越でスキーを指導するレルヒ少佐
上越でスキーを指導するレルヒ少佐

 写真を見るとレルヒ少佐はストックを1本しか持っていません。当時のスキーは1本もしくは2本のストックを使いましたが、レルヒ少佐は上越の雪山の地形や雪質などからストック1本のスキー技術を伝えました。

 実は1908年に札幌農学校のスイス人講師ハンス・コラーが三角山でスキーのデモンストレーションをしています。レルヒ少佐以前にスキーを伝えたという主張もあり、日本のスキー発祥の地は上越か札幌かという論争がありました。コラーはスキー技術を指導していないという判断から上越が日本のスキー発祥の値となりました。またレルヒ少佐はスキー技術のみならず、スキーの楽しみ方やマナーなどまで伝えたそうです。

 コラーが披露したのはストックを2本使うノルウェー式のスキーでした。1916年に札幌農学校水産学科初代教授の遠藤吉三郎が欧州の留学を終えて帰国し、ノルウェー式のスキーを学生に伝えました。これによって札幌のスキーは2本ストックが主流になりました。1923年には第一回全日本スキー選手権大会が開催されると、2本のストックを使った選手が1本のストックを使った選手より圧倒的に成績で良かったことから、2本のストックを使うスキーが主流となりました。

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2021年11月 6日 (土)

ナリタブライアンが三冠馬に(1994年11月6日)

  1993年の競馬クラシックレースの皐月賞を制したのはナリタタイシン、東京優駿を制したはウイニングチケットでした。この2つのレースで2着と惜敗したのがビワハヤヒデでした。ビワハヤヒデは1994年10月の天皇賞秋で5着となるまでは連帯率100%で16戦中1着10回うちレコードタイム4回、2着5回、5着1回で抜群に安定した優秀な成績を収めています。

 ビワハヤヒデの父はシャルード、母はパシフィカスです。両親は十分な結果を出すことはできませんでした。パシフィカスの父はノーザンダンサーで血統は良いのですが、ビワハヤヒデはデビュー前の評価では優秀な成績を収めるような馬になるとは考えられていませんでした。ただし、相手に食らいついていく根性は抜群でした。1993年の菊花賞に向けた神戸新聞杯以降で1着となり、菊花賞を優勝してからビワハヤヒデの確固たる実力が証明されていくことになりました。

 1993年、ビワハヤヒデの弟としてデビューしたのが父ブライアンズタイム・母パシフィカスのナリタブライアンでした。ナリタブライアンの素質はデビュー前から高く評価されていましたが、デビュー戦(8月)は2着、函館3歳S(9月)では6着、デイリー杯3歳S(11g津)では3着とビワハヤヒデに比べると安定した成績ではりませんでした。この3歳の時期にレース前に興奮しやすい気性や競争中に自分の影に驚いしてしまう臆病な気性であることがわかりました。気性への対策としてレース間隔を詰めることやシャドーロールを装着させることが図られました。

 ナリタブライアンが初めてシャドーロールを装着したのは京都3歳S(11月)でした。シャドーロールでナリタブライアンの集中力は大きく改善されました。このレースをレコード勝ちするとG1朝日杯3歳S(12月)は優勝、ここからナリタブライアンの伝説が始まりました。

 この頃、自分はじほぼ毎週東京競馬場に通っていました。1993年11月7日菊花賞のビワハヤヒデの優勝を見た後の21日の京都3歳Sのナリタブライアンの走りを見てこの馬は強いと思いました。G1朝日杯3歳S(12月)で優勝した後は共同通信杯4歳S(1994年2月)1着、スプリングS(3月)1着となり、G1皐月賞(4月)、G1東京優駿(5月)を快勝し、あっさりと二冠馬となりました。

 東京優駿の後、ナリタブライアンは札幌競馬場と函館競馬場で夏場を過ごしました。このとき体調を崩し、菊花賞への出場が危ぶまれ、復調するも菊花賞に向けての調整スケジュールが大幅に狂いました。

 菊花賞に向けての秋の初戦はGII京都新聞杯(10月)に出走することになりました。このレースでは最後の直線で先頭に立ちましたが、後続の馬と競い負け2着となりました。実は調教が十分に行えず、関係者にとっても、この負けは想定内だったようです。しかし、この一叩きでナリタブライアンの体調が改善され、菊花賞優勝の三冠達成の期待が高まりました。

 1994年11月6日、迎えた菊花賞。馬場は芝稍重。ナリタブライアンは単勝1.7倍の1番人気に支持されました。レースがスタートすると早めに馬郡から抜け出して後続を突き放し、前年にビワハヤヒデが記録したレーズレコードを破って優勝しました。そしてナリタブライアンは日本競馬史上で5頭目となるクラッシック三冠馬となったのです。

第55回菊花賞ナリタブライアンの単勝馬券
第55回菊花賞ナリタブライアンの単勝馬券

 1994年末の有馬記念。単勝1.2倍の1番人気となったナリタブライアンは4コーナーで先頭に立ち、そのまま直線コースを突き抜けて優勝しました。ナリタブライアンの1994年の通算成績は7戦6勝、GI4勝となり、この年のJRA賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬に選ばれた。年度の賞金は史上最高の7億1,280万2,000円になりました。

 ナリタブライアンとビワハヤヒデの兄弟対決が期待されていましたが、ビワハヤヒデはナリタブライアンが優勝した1994年菊花賞の前週に行われた天皇賞(秋)で屈腱炎を発症し引退したため実現されませんでした。もし2頭が有馬記念で戦っていたら世紀の大レースになっていたことでしょう。

 1995年、5歳となったナリタブライアンは初戦のGII阪神大賞典(3月)で優勝しましたが、その後は以前のような力強さはなく1着どころか2着に入ることもありませんでした。

 1996年の初戦もGII阪神大賞典(3月)を選びました。このレースでは前年の年度代表馬のマヤノトップガンとのマッチレースを制して優勝しました。このレースは現在も語り継がれる名レースとなりました。このレースで復調が期待され、4月の天皇賞(春)では2着となりました。

 ナリタブライアンは次レースとして宝塚記念(7月)を目指しますが、期間が空くことからGI高松宮杯(5月)に出走しました。ナリタブライアンのスプリント戦への挑戦は話題を呼びましたが4着に敗退すると出走させたことを疑問視する声も多数あがりました。 

 高松宮杯の一ヶ月後、ナリタブライアンは兄のビワハヤヒデが患った屈腱炎を発症しました。治療が行われましたが復帰はかなわず、11月9日に京都競馬場、11月16日に東京競馬場で引退式が行われファンに別れを告げました。

 ナリタブライアンの成績

 21戦12勝 [12-3-1-5] G1 5勝、GII 3勝、GIII 1勝

 獲得賞金 10億2,691万6,000円 (本賞金8億9,510万円 付加賞金1億3,181万6000円)

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2021年9月25日 (土)

日本プロ野球史上初のノーヒット・ノーラン(1936年9月25日)

 ノーヒット・ノーランは1試合を通じて投手が1本も安打を許さなかった場合の記録ですが、日本プロ野球と米国メジャーリーグでは定義が異なります。

 メジャーリーグでは9回以上を1人または複数の投手が無安打に抑えた場合で安打以外で失点した場合もノーヒット・ノーランと記録されます。日本プロ野球では9回以上を1人または複数の投手が無安打に抑えた場合で安打以外の失点も許さなかった場合にノーヒット・ノーランと記録されます。つまりメジャーリーグは無安打試合(注1)、日本プロ野球では無安打無得点試合の違いがあります。先発投手がノーヒットノーランを達成した場合は個人の記録となり、複数の投手の継投で達成した場合はチームの記録となります。完全試合(注2)もノーヒット・ノーランになります。

 日本プロ野球でノーヒット・ノーランの個人記録を達成した選手はたくさんいますが、日本プロ野球史上初となるノーヒット・ノーランは1936年9月25日に読売ジャイアンツの沢村栄治投手によって成し遂げられました。

沢村栄治投手
沢村栄治投手

 沢村投手は小学生の頃から速球投手として注目され、1933年の春、1934年の春・夏の選抜中等学校野球大会で京都商業学校から甲子園に出場しました。甲子園で活躍した沢村栄治投手は慶応大学への進学を希望しましたが、1934年の夏の甲子園終了後に京都商業学校を中退しました(注3)。

 1934年11月に読売新聞社主催の日米野球が開催されることになり、沢村投手は日本選抜チームの投手として選ばれました。沢村投手は函館太洋倶楽部から選抜された久慈次郎捕手とバッテリーを組み、大リーグの強豪選手たちを相手に良く戦いました。特に同年11月20日に静岡草薙球場で行われた試合で、沢村投手は6回まで2安打7三振の無失点に抑えました。7回にルーゲー・リッグ選手の本塁打で1失点を許しチームは0対1で負けてしまいましたが、8回9三振、5安打1失点の成績を収めました。

 この日本選抜チームのメンバーが中心となって職業野球チーム「大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)」が結成されることになり、沢村投手は読売新聞社の正力松太郎社主から「一生面倒を見る」と入団を誘われました。沢村投手は家庭の状況を考えて大学進学、職業野球、どちらの道を進んでも構わないと判断しました。父親は慶応大学の進学を勧めましたが、正力社主からの度重なる誘いで職業野球への道を認め、沢村投手は大日本東京野球倶楽部に入団することになりました。

 1935年に大日本東京野球倶楽部(後に東京ジャイアンツと改名)のメンバーとしてアメリカに遠征し、21勝8敗1分けの記録を残しました。国内の試合では22勝1敗の記録を残しています。

 1936年の第2回全日本野球選手権(秋季)の職業野球リーグでは、9月25日に行われた大阪タイガース戦で日本プロ野球史上初となるノーヒット・ノーランを達成しました。通算で13勝2敗で最多勝利を獲得し、12月の優勝決定戦では3連投して大阪タイガースの打線を抑えて東京ジャイアンツに初優勝をもたらしました。沢村投手は1937年春季リーグで2度目のノーヒット・ノーランを達成し、24勝4敗、防御率0.81、7完封、勝率.857、196奪三振の投手五冠の記録を残し、初代MVPに選ばれました。

  1938年1月、沢村投手は徴兵によって陸軍に入隊し、職業野球から離れることになりました。同年日中戦争に出征しますが、戦地での手榴弾投げ大会に何度も駆り出され右肩を痛め、戦場では左手を撃ち抜かれ重症を負ってしまいました。

 1940年の春に除隊となり東京ジャイアンツに復帰した沢村投手は兵役の影響で速球を投げられなくなっていましたが、変化球と制球力を磨き同年7月に3度目のノーヒット・ノーランを達成しました。しかし、1941年10月に2度目の徴兵で職業野球選手としての活躍が再び絶たれてしまいました。

 戦地から命からがら帰還した沢村投手は1943年1月に東京ジャイアンツに復帰しましたが、オーバースローで投球するはできなくなっていました。サイドスローに転向するもののほとんど活躍することはできませんでした。シーズン終了後、東京ジャイアンツから解雇を通告されました。他球団への移籍も考えましたが有終の美を飾るため東京ジャイアンツの沢村栄治として通算成績63勝22敗、防御率1.74を残し現役を引退しました。

 沢村投手は引退後は兵庫県の川西飛行場で働いていましたが、1944年10月に3度目の徴兵で入隊することになりました。同年12月2日、フィリピンへ向かうため輸送船に乗船していたところ、屋久島沖西方で米軍の潜水艦に撃沈され戦死しました。

 もし、沢村投手が慶応大学に進学していれば3度も徴兵されることはなかったと考えれています。沢村投手は正力社主に一生面倒を見ると言われて大学に進学せず職業野球の道を選んだ自分の判断を悔やんだそうですが、他人への恨み節はなかったそうです。

 終戦後の1947年7月、東京ジャイアンツは沢村投手の背番号14を日本プロ野球初の永久欠番としました。同年、先発投手を対象とした最優秀投手に贈る特別賞「沢村栄治賞(沢村賞)」が設立されました。1959年には野球殿堂入りし、沢村栄治の活躍が語り継がれるようになりました。

(注1)メジャー・リーグでは1996年9月17日に野茂英雄投手が日本人として初めてノーヒット・ノーランを達成しました。野茂投手は2001年4月4日にも達成しています。野茂投手以外では岩隈久志投手が2015年8月15日に達成しています

(注2)安打を許さなかっただけなく走者を出さずに完封勝利を収めた場合は完全試合ですが、プロ野球史上初の完全試合は読売ジャイアンツの藤本英雄投手が1950年6月28日に達成しました。

(注3)当時、野球統制令により学生野球とプロ野球の試合が禁じられており、学生のままでは日米野球に出場できなかったと考えられています。

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2021年9月23日 (木)

王選手が年間55本塁打を記録(1964年9月23日)

 通算本塁打868本の世界記録にはじめ数々の記録を打ち立てた元プロ野球選手・監督の王貞治さん。早稲田実業高校時代は投打で活躍し、1959年に当時としては破格の契約条件(契約金1,800万円、年俸144万円)で読売ジャイアンツに入団しました。

一本足打法
一本足打法

 入団後1959年2月のキャンプに参加し、ここでプロ野球選手としての投打の能力を見極められます。結果は投手としてプロとしては不十分、打者としては極めて優秀ということで打者をめざすことになりました。守備についてはちょうど川上哲治選手が引退したこともあり1塁に起用されることになりました。

 同年のオープン戦では本塁打5本を放ち、期待の新人として4月1日の国鉄スワローズ戦で開幕デビューしましたが、金田正一投手に3打席2三振1四球と封じられました。オープン戦では様子見で甘い球を投げていた対戦投手も公式戦では厳しく攻めてきました。結局、デビューから10試合26打席無安打となりオープン戦のような快音は聞かれませんでした。

 4月26日の国鉄スワローズ戦、7回表ツーアウト・ランナー1塁で打順8番の王選手の打席が回ってきました。王選手の成績を考えると代打の判断でしたが、次の打者が投手のためそのまま打席に立ちました。2ストライク1ボールと追い込まれたましたが、王選手のバットは4球目を捉え、打球はライトスタンドに入りました。デビュー11戦目にして決勝2ラン本塁打の初安打となりました。

 6月25日の阪神タイガース戦の天覧試合では阪神の先発小山正明投手から4号同点2ラン本塁打を放ち巨人が4-4の同点に追いつきます。阪神は投手を村山実に交代します。9回裏、長嶋茂雄選手がサヨナラ本塁打を放ち、巨人が5-4で勝利を収めました。これが王・長嶋の初のON砲となりました。しかしながら、これ以降は入団3年目になっても当初の期待に応えるような活躍はありませんでした。

 1961年のシーズン後に荒川博打撃コーチが就任し、王選手の打撃の問題は練習不足とフォームにあり改善すれば成績が向上すると判断しました。1962年のキャンプで様々なフォームを試しました。一本足打法は上半身と下半身の動きのタイミングを合わせるためのフォームでしたが、様々なフォームの中のひとつでしかありませんでした。

  1962年のシーズンでは打順4番に起用されましたが、成績は振るいませんでした。巨人の成績も振るわず首位を他チームに明け渡していました。7月1日、試合前の会議でチームが勝てないのは王選手が打てないからだとの指摘があり、荒川コーチは王選手に三冠王を取らせる、ホームランだけならいつでも打たせると豪語し、王選手に一本足打法で打つことを指示しました。そして王選手は公式戦で初めて一本足打法で打席に立ちました。この日の打撃成績は5打数3安打4打点本塁打1本で一本足打法で大きく改善されました。開幕から6月まで本塁打9本でしたが、7月の1ヶ月間で本塁打を10本も放ったのです。王選手は一本足打法の特訓を始め、1962年の成績は497打数135安打、打率.272、本塁打38本、打点85を収め、本塁打王と打点王を獲得しました。

【面白映像!野球マニア】王貞治の素振りがヤバすぎる!!

 1963年のシーズンでは一本足打法で打ちまくり打率.305、本塁打40本の成績を収め、長嶋選手とのON砲でチームを優勝へと導きました。1963年のシーズン終了後は改めて二本足打法の練習に取り組みました。一本足打法でこれだけの成績を収めているのだから、二本足打法のフォームを改善すればもっと成績は上がるという指摘が川上哲治監督からあったからです。オープン戦まで二本足打法を試しましたが、一本足打法に勝る結果は出すことはできず、王選手は一本足打法を採用することを決断し、荒川コーチもこれに了承し、川上監督も一本足打法を認めました。

 1964年のシーズンは東京オリンピック開幕のため、ペナントレースは前倒しのスケジュールで行われました。3月20日の開幕戦では王選手は国鉄スワローズの金田投手から飛距離151メートルの城外ホームランを放ちました。以降の試合でも王選手は一本足打法で本塁打を打ちまくります。3月末までの10日間で本塁打7本を放ちました。5月3日の阪神戦では4打席連続ホームランで14〜17号を放ちました。

 5月5日の広島カープ戦、王選手が打席に立つと、広島の内野と外野のすべての選手が守備位置を右側に移動し、左側を手薄にする「王シフト」を取ります。広島の白石勝巳監督は王選手に対する心理作戦としてこのシフトを取り、王選手もこの日は4打席無安打の成績に終わりました。このシフトに対して王選手は守備選手の頭を超えれば良いと考え、ますますホームランを狙うようになりました。

 王選手のシーズン本塁打は5月末23本、6月末31本、7月末39本、8月末51本となりました。そして、9月6日の大洋線で52号を放ち、1963年に南海ホークスの野村克也選手が樹立した前人未到の日本記録に並びます。野村選手が記録を樹立したとき、この記録は簡単に破ることはできないと言われいましたが、王選手は同じ試合で53号を放ち、日本記録をあっさりと塗り替えてしまいました。

 例年より早い最終戦9月23日、大洋戦の第5回裏、王選手はシーズン55号の本塁打を放ちこのシーズンを終えました。このシーズンの成績は472打数151安打、本塁打55本、打点119、打率.320を収め本塁打と打点で再び2冠を達成しました。

 王選手がこのシーズンに放った55本の本塁打のうち24本は飛距離が120メートルを超えています。大リーグの球場でも大きなホームランとなる飛距離です。

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