カテゴリー「スポーツ」の398件の記事

2023年9月21日 (木)

相撲の土俵が釣屋根に(1952年9月21日)

 力士が激しいぶつかり合いをする土俵。現在の土俵の上には吊り屋根がありその四隅には天空の四方位をそれぞれ司る四神に由来する色の房が下げられています。青または緑の房は東方を守護する青龍、白い房は西方を守護する白虎、赤い房は南方を守護する朱雀、紫または黒の房は北方を守護する玄武を意味しています。房は絹糸で作られており長さ2.3メートル、太さ70センチメートル、重さ25キログラムです。

 この吊り屋根は伝統的な形式が引き継がれてきたものですがかつては吊り屋根ではなく四隅に柱で支えられていた屋根でした。吊り屋根の四隅に取り付けられている房は四本の柱に巻き付けられていた布で吊り屋根になったときに目立つように大きな房を吊るようになりました。次の写真は1910年の両国国技館の土俵です。四隅に柱があります。

両国国技館の土俵(1910年)
両国国技館の土俵(1910年)

 土俵の柱の屋根が廃止され吊り屋根となったのは蔵前国技館が仮説だった1952年9月21日から始まった九月場所からです。

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2023年9月16日 (土)

競馬の日(1954年9月16日)

 日本中央競馬会(JRA)の前進は昭和11年(1936年)に全国11の競馬倶楽部を統合した日本競馬会とです。日本競馬会は第二次世界後に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって独占禁止法に抵触するとされ昭和23年(1948年)に解散しました。

 サンフランシスコ講和条約によって日本の主権が回復すると昭和29年(1954年)9月16日、(現:農林水産省)のもとで日本中央競馬会(JRA)が発足されました。これを記念し9月16日は競馬の日とされています。

 日本中央競馬会(JRA)の初代理事長には競馬翁と呼ばれた安田伊左衛門が就任しました。安田記念は安田伊左衛門に由来するG1レースです。安田は東京優駿(日本ダービー)の創設に尽力しました。東京優駿が創設されたのは中央競馬会設立以前で第1回は昭和7年(1932年)4月24日に目黒競馬場で開催されました。

第1回東京優駿大競走(1932年)
第1回東京優駿大競走(1932年)

 昭和30年(1955年)に第2代理事長に就任したのが元農林水産大臣の有馬頼寧です。有馬は年末に中山競馬場で開催する中山グランプリの創設に尽力しました。中山グランプリが無事に開催された年明けに有馬が急逝し、次年から中山グランプリは有馬記念となりました。

【関連記事】競馬の日(1954年9月16日)

第1回中山グランプリ(有馬記念)が開催(1956年12月23日)

トキノミノル日本ダービー優勝で10戦10勝(1951年6月3日)

ナリタブライアンが三冠馬に(1994年11月6日)

茨城県霞ヶ浦近くの大きな2つのトラックは?

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2023年8月 5日 (土)

オリンピックで初の女子マラソン(1984年8月5日)

 1896年に開催された第1回アテネオリンピックにおいて「マラトンの戦い」(マラソンの日)の故事に因んでマラソン大会が行われました。翌年1897年にはボストンマラソンが開催されるとマラソンは陸上競技として広まりました。

 第1回のアテネオリンピックで行われた陸上競技では男子のみが対象でした。その後、陸上競技にも女子が参加できるようになりましたが、マラソンは女性には過酷な競技と考えられていたため女子マラソンは開催されませんでした。

 しかしながら、マラソンが女性には過酷な競技というのは根拠がなく、マラソンに参加したいという女性は少なくありませんでした。1967年のボストンマラソンに20歳の女性のキャサリン・スウィッツァー選手が自身の性別を隠して参加しました。途中で関係者に女性であることが見破られましたが協力者の援助により完走しました。これをきっかけに多くの女性選手が非公式に参加するようになり1972年に女子の参加が正式に認められました。日本では1975年に網走で開催された公式なマラソンに6人の女性が参加したのが最初です。

 1978年には世界初の第1回国際女子マラソンが米国アトランタで開催されました。日本でも同年に女子タートルフルマラソン全国大会(多摩湖女子マラソン大会とも)が東京都東大和市で開催されました。1979年にはIAAFが公認の東京国際女子マラソンが開催された。

 このように女子マラソンが開催されるようになり、1984年ロサンゼルスオリンピックから女子マラソンが正式に採用されました。1984年8月5日に行われたこの記念すべきオリンピックの女子マラソンで初代金メダリストとなったのは2時間24分52秒の世界新記録をマークした米国のジョーン・ベノイト・サミュエルソン選手です。

 さて世界で初めてマラソンを走った選手は誰だったでしょうか。実は1896年の第1回アテネオリンピックの男子マラソンの翌日に同じコースを走った女性選手がいます。この選手はギリシャのスタマタ・レヴィチ選手です。このスタマタ・レヴィチ選手が史上初の女子マラソンランナーとされています。

スタマタ・レヴィチの絵
スタマタ・レヴィチの絵

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マラソンの日(紀元前490年9月12日)

1906年アテネオリンピック開催(1906年4月22日)

ドランドの悲劇(1908年7月24日)

オリンピックシンボル(五輪)が公式に掲揚された日(1914年6月15日)

日本人が初めてオリンピック金メダル獲得(1928年8月2日)

1964年東京オリンピック開幕(1964年10月10日)

 

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2023年7月24日 (月)

ドランドの悲劇(1908年7月24日)

 イタリアのドランド・ピエトリ(1885年生まれ)は菓子店で働いていました。1904年にピエトリは地元で開催されるマラソン大会にイタリアでもっとも有名な長距離走者ペリクーレ・パグリアーニが参加することを知り自身も出場することにしました。このレールにおいてピエトリはパグリアーニより先にゴールしました。これがきっかけとなってピエトリはマラソン選手に転向しました。

 マラソン選手となったピエトリはすぐに頭角を現し1906年アテネオリンピックのイタリア代表に選ばれました。しかし、アテネオリンピックでトップを走っていたときに体調不良に陥り途中で棄権しました。翌1907年のイタリア選手権で優勝したことでイタリアをもっとも有名な長距離走者となりました。

 1908年ロンドンオリンピックに出場することになったピエトリは練習を重ねタイムを縮めていきました。1908年7月24日、ピエトリは金メダル獲得の期待を受けてマラソンのスタート地点ウィンザー城を後にしました。この日は選手への負担が危ぶまれるほど非常に暑い日でした。ピエトリ はレース前半はスローペースで走り、レース中盤からスピードをあげていきました。32 km地点で2位となり、39 kmでついにトップに躍り出ました。

 ゴールまで約2 kmとなったところでピエトリは喉の渇きと疲労感を自覚し始めていました。そして体調が急激に悪化していったのです。ピエトリは何とか走り続けついゴールのあるホワイトシティ・スタジアムにたどり着きましたが、あまりの疲労で進む方向を間違えそうになりました。係員が正しい方向を指し示したとき、ピエトロは地面に倒れ込んでしまったのです。ピエトロは係員よって抱き上げられ再びトラックを走り始めました。しかし、ピエトロはその後4回も倒れ込み、そのたびに係員に援助されながらゴールをめざしました。

ピエトリのゴールの瞬間(1908年ロンドンオリンピック)
ピエトリのゴールの瞬間(1908年ロンドンオリンピック)

 係員の援助を受けながらピエトリは2時間54分46秒でゴールしましたが最後の350メートルを走るのに10分も要しました。その後、アメリカのジョニー・ヘイズがわずかな差で2着でゴールしました。この様子を見ていたアメリカのチームはピエトリが係員の援助を受けていたことに対して抗議しました。ヘイズの記録は2時間55分18秒でしたからピエトリが係員の援助を受けていなければ1着なっていたことは明らかでした。 アメリカチームの主張は認められ、その結果としてピエトリは失格となり記録も抹消されました。

 ホワイトシティ・スタジアムでこの様子を見守っていたアレキサンドラ王妃は不幸にも金メダルを失うことになったピエトリに対して銀のカップを授与することを決めました。このとき医師としてスタッフとなっていた作家のアーサー・コナン・ドイルが授与式の開催を提案しました。ドイツもピエトリに金のシガレットケースを贈っています。ピエトリは記録を抹消されましたが記憶に残る選手となったのです。アメリカの作曲家アーヴィング・バーリンは「ドランド」というタイトルの曲をピエトリに捧げています。

 この1908年ロンドンオリンピックのマラソン大会は「ピエトリの悲劇」と呼ばれ語り継がれることになったのです。現在ホワイトシティ・スタジアムは存在しませんがゴール地点だった場所は残されています。この後、ピエトリは同年11月25日に米国ニューヨーク州マディソン・スクエア・ガーデンで行われたエキシビションレースへの参加を要請されました。このレースにはピエトリとヘイズが参加し、ピエトリが優勝しました。翌年のレースにおいてもピエトリが優勝しています。

 ピエトリは1910年5月にブエノスアイレスで開催されたマラソンで2時間38分48秒2の自己ベストを達成しましたがこれが彼の最後のマラソン参加ととなりました。マラソンの成績は17戦、優勝8回、2位1回、6位1回、棄権6回、失格1回です。その後、1911年9月にイタリアのパルマで行われた15kmのレースで優勝、同年10月にスウェーデンのヨーテボリ で開催されたレースで優勝し引退しました。

 こうして「ピエトリの悲劇」の主人公ドランド・ピエトリは記録にも記憶にも残るマラソン選手になったのです。

【関連記事】ドランドの悲劇(1908年7月24日)

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2023年7月 8日 (土)

ウサイン・ボルト選手と日本記録保持者2名がリレーで200メートル競走するとどちらが勝つか?

 100メートル競走の日本記録上位2名は山縣亮太選手9.95秒とサニブラウン・アブデル・ハキーム選手の9.97秒です。この2名の記録を単純に足し算すると19.92秒です。しかし、2人目の選手のスタート動作はリレーゾーンで加速するため100メートル競走の記録より早く走れります。

 400メートルリレー走の日本記録は2019年ドーハ世界選手権で37.43秒でした。このときのラップタイムが下記の論文に記載されています。

日本代表男女 4 × 100 m リレーのバイオメカニクスサポート
~ 2019 年の国際大会における日本代表リレーチームの分析結果について~

https://www.jaaf.or.jp/pdf/about/publish/2019/2019_5-7.pdf

走者 選手名 リレータイム 100m自己ベスト
第一走者 多田修平選手 10.25秒 10.07秒
第二走者 白石黄良々選手 9.04秒 10.19秒
第三走者 桐生祥秀選手 9.19秒 9.98秒
第四走者 サニブラウン選手 8.95秒 9.97秒
合計   19.19秒  
参考 山縣選手   9.95秒
4x100メートルリレー日本記録(2019年ドーハ世界選手権で37.43秒)

 このデータから第2走者までの記録は10.25+9.04=19.29秒です。これではウサインボルト選手の200メートルの世界記録19.19秒に及びません。そこで選手を入れ替えてみます。また日本記録保持者の山縣亮太選手に第一走者となってもらいましょう。

 第一走者を山形亮太選手9.95秒、第二走者を桐生選手9.19秒)で走ったとしましょう。すると合計の記録は19.14秒になります。また第一走者を山形亮太選手(9.95秒)、第二走者をサニブラウン選手(8.95秒)で走ったとしましょう。合計の記録は18.9秒になります。

 ウサインボルト選手の200メートルの世界記録は19.19秒ですからこの世界記録だけを考えると日本選手2名で走った方がウサイン・ボルト選手より早く走れるとことになるでしょう。

 ところでウサインボルト選手は200メートルの前半100メートルは9.92秒、後半の100メートルは9.27秒でした。後半の100メートルが遅いように思います。ボルト選手は150メートル競走では14.35秒、後半の100メートルを8.70秒で走っています。つまり最初の50メートルは5.65秒です。

 ボルト選手は2009年の世界陸上で前半50メートルを5.47秒で走っています。この後100メートルを8.7秒で走れたとすると150メートルの記録は14.17秒になります。さらに50メートルを4.73秒未満で走れると上述の18.9秒を上回ります。2009年の世界陸上での後半50メートルの記録は4.11秒で14.17秒に加えると18.28秒です。ここまで早く走るのは不可能だとしても、これらのことを考えるとボルト選手は200メートルの記録をさらに短縮できる能力を持っていたと言えそうです。

【関連記事】ウサイン・ボルト選手と日本記録保持者2名がリレーで200メートル競走するとどちらが勝つか?

100メートルを最短時間8.70秒で駆け抜けた陸上選手は?

ウサイン・ボルト選手の最高速度|時速44.72 kmか44.44 kmか

【再計算】ウサイン・ボルト選手の最高速度は時速 44.44 km

 

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2023年7月 1日 (土)

2008年北京オリンピックでウサイン・ボルト選手は9.6秒を切る可能性があったか?

 2009年ドイツで開催された世界陸上選手権でウサイン・ボルト選手は9.58秒の世界新記録をマークしています。この記録は現在においても破られていません。

  ウサイン・ボルト選手の最高速度は時速44.72 kmか44.44 kmか|ラップタイムと瞬間速度

 ボルト選手は前年の2008年北京オリンピックでは同年8月16日に行われた陸上男子100メートル決勝で当時の自身の世界記録を0.3秒上回る9.69秒(+0.0 m/s)の世界新記録(当時)で優勝しています。このとき2着とは0.2秒の大差を付けた圧勝でした。

 ボルト選手はレース終盤で横を見て勝利を確信すると両手を広げながら走りゴールしました。またゴールの瞬間はやったとばかりに自信ありげに胸を手で叩いています。このボルト選手のゴール直前の動作は自信の速度を低下させたことは明白であり、もしボルト選手が全力で走っていれば9.6秒を切る世界新記録をマークできていたのではないかと言われています。当時のボルト選手のコーチだったグレン・ミルズ氏は9.52秒で走ることが可能だったと表明しています。

【公式】北京2008オリンピック 男子陸上100m ウサイン・ボルト選手【オリンピック感動名場面】

 2008年北京オリンピックのボルト選手の10メートルごとのラップタイムを下記サイトで見つけました。

  World's Fastest Man

   http://datagenetics.com/blog/july32013/index.html

 2009年世界陸上競技選手権のボルト選手の10メートルごとのラップタイムは前出のサイトにまとめてあります。

   ウサイン・ボルト選手の最高速度|時速44.72 kmか44.44 kmか

 次の表は2008年北京オリンピックと2009年世界陸上のボルト選手のリアクションタイム(RT)とラップタイムを比較したものです。

区間 北京 世界陸上
RT 0.186(s) 0.146(s)
000-010 (m) 1.85 (s) 1.89 (s)
010-020 (m) 1.02 (s) 0.99 (s)
020-030 (m) 0.91 (s) 0.90 (s)
030-040 (m) 0.87 (s) 0.86 (s)
040-050 (m) 0.85 (s) 0.83 (s)
050-060 (m) 0.82 (s) 0.82 (s)
060-070 (m) 0.82 (s) 0.81 (s)
070-080 (m) 0.82 (s) 0.82 (s)
080-090 (m) 0.83 (s) 0.83 (s)
090-100 (m) 0.90 (s) 0.83 (s)
合計 9.69 (s) 9.58 (s)

 この表を見るとやはり北京オリンピックでの90-100(m)の区間タイムが0.90秒かかっており0.07秒ロスしています。ボルト選手がこの区間を0.83秒で走ったとすると記録は、9.69 - 0.07 = 9.62秒 だったことになります。どう考えても9.52秒の記録にはなりません。

 もし、北京オリンピックのリアクションタイム0.186秒が世界陸上のリアクションタイム0.146と同じだったとしましょう。記録は 0.186 - 0.146 = 0.04秒 短縮されることになります。さきほど計算した9.62秒から引き算すると、9.62 - 0.04 = 9.58秒となり、2009年世界陸上選手権でマークした世界記録と同じタイムになります。

 また2008年北京オリンピックは無風、2009年世界陸上競技選手権では+0.9 mでした。下記のサイトに『180㎝・75㎏の選手が、平地、無風、気温26度、湿度50%、気圧1013hPaの条件下に「10秒00」で走った場合を基準として計算』した追い風の影響がまとめられています。

  記録と数字からみた「9秒98」や「9秒台」についての“超マニアックなお話” 第6回「「9秒台」の時の「風速」」

  https://www.jaaf.or.jp/news/article/11366/

 ボルト選手と体格もタイムも違いますのであくまで参考ですが、表12のAによると+0.9 mの追い風は0.048秒タイムを速める効果があります。ボルト選手の9.58秒を無風に換算すると、9.58 + 0.048 = 9.628秒になります。一方、2008北京オリンピックが+0.9mの追い風だったとすると、記録は 9.69-0.048 = 9.642秒になります。最後の10メートルとリアクションタイムを考慮すると、9.58 - 0.048 = 9.532秒となります。

 結論としては、ボルト選手は2008年オリンピック大会で最後の10メートルを全力で走ってもリアクションタイムが悪かったので9.6秒を切ることはなかった。リアクションタイムが2009年世界陸上競技選手権と同じならば9.6秒を切っていたと言えそうです。

【関連記事】

ウサイン・ボルト選手の最高速度|時速44.72 kmか44.44 kmか

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2023年6月27日 (火)

ヨットで世界初の単独世界一周(1898年6月27日)

 ヨットに乗って地球を一周する冒険に世界で初めて成し遂げたのはアメリカの冒険家で作家のジョシュア・スローカムです。スローカムが1900年に出版した自分の冒険に関する著書「Sailing Alone Around the World」は世界的なベストセラーとなりました。

 スローカムは子どもの頃から海の冒険に憧れ14歳のときに船員として働き始めました。船員として多くの経験を積んだスローカムは航海士、航海士長、船長となり、やがて船団を任されるようになりました。 

 40代後半になったスローカムは1891年からマサチューセッツ州フェアヘイブンで36フィート9インチ(11.20メートル)のオイスターボート (牡蠣漁船)として使われて廃船となっていたスプレー号を再建し、1892年6月21日に進水させました。スローカムはこのスプレー号で単独世界一周の冒険を計画し、1895年4月24日にボストンを出港しました。

ジョシュア・スローカムとスプレー号
ジョシュア・スローカムとスプレー号

 スローカムは航海の最初に自分が少年時代に住んでいたカナダノバスコシア州のブライヤー島や周辺の思い出のある町を訪れ、1895年7月3日にサンブロー島灯台から冒険の旅に出発しました。スローカムの計画はサンブロー島から東に進路を取りエジプトのスエズ運河を通過し東回りで世界一周をするつもりでした。しかし、イベリア半島南東部のジブラルタル付近で地中海南部に出現する海賊を避けるため計画を変更し、南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡(マガリャネス海峡)を通って太平洋を西回りで世界一周することにしました。しかし、長らく続いた嵐のためそのまま太平洋を横断することはできずオーストラリアの東海岸から北上してインド洋に入り南アフリカのケープタウンの喜望峰を回って北米に向かう進路を取りました。

 スローカムは海上で正確に動く時計マリンクロノメーターを使用しませんでした。正確な時間がわからないということは時差がわからないということになりますから自分のいる位置の正確な経度がわからないということです。スローカムは簡易な時計と正午の太陽の位置からイ緯度を求めることで自分の位置を把握し推測航法で航行しました。

 そして出港から3年後の1898年6月27日、スローカムは米国ロードアイランド州ニューポートに到着、4万6,000マイル(7万4,000km)以上の距離を航海し単独世界一周を成し遂げたのです。

スプレー号世界周航記 (1977年)

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2023年6月21日 (水)

人類初の100メートル競争10.0秒をマークしたアルミン・ハリー選手(1960年6月21日)

 国際陸上競技連盟が世界で初めて公認した100メートル競走の記録は1912年ストックホルムオリンピックで米国のドナルド・リッピンコットがマークした10秒6です。その後、人類は10秒の壁を破ることができるのかどうかに注目が集まるようになりました。しかしながら、10秒の壁は高く初めて10秒の壁が破られたのは56年後の1968年6月20日のジム・ハインズ選手がマークした9.9秒(手動度計、電動計時10秒03)のことでした。

 初めて10秒を記録したのは旧西ドイツのアルミン・ハリー選手です。ハリー選手は1958年9月6日にフリードリヒスハーフェンで世界で初めて100メートルを10秒0(手動時計)で走りました。ところが競技場のトラックの勾配が規定の最大許容値である10 cmを超える11 cmであることが判明したためこの記録は無効になりました。

 1960年6月21日、チューリッヒのレッツィグルントで行われた陸上競技大会の100メートル競走でハリー選手は再び10.0秒をマークしました。この記録は世界新記録として認められ、ハリー選手は人類で初めて100メートルを10秒で走った人間となりました。

世界初の10秒をマークしたアルミン・ハリー選手(左側第6レーン)のゴール(1960年6月21日)
世界初の10秒をマークしたアルミン・ハリー選手(左側第6レーン)のゴール(1960年6月21日)

 ハリー選手の世界記録は8年間維持されました。記録を破ったのが前述のジム・ハインズ選手です。現在の世界記録は2009年の世界陸上でジャマイカのウサイン・ボルト選手がマークした9.58秒です。世界初の公式記録から97年後、世界初の9.9秒から41年後のことです。

  ウサイン・ボルト選手の最高速度|時速44.72 kmか44.44 kmか

 

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2023年6月18日 (日)

100メートルを最短時間8.70秒で駆け抜けた陸上選手は?

 陸上競技男子100メートルの世界記録は2009年の世界陸上競技選手権でジャマイカのウサイン・ボルト選手がマークした9.58秒です。この世界記録はしばらくの間は破られることはないだろうと考えられています。

Photo_20220802154601

 さて単に100メートルを駆け抜けるという意味では9.20秒で走った選手がいます。1996年のアトランタオリンピックの男子100メートル競走でカナダのドノバン・ベイリー選手が当時の世界新記録9.84秒をマークしました。

Donovan Bailey Wins Gold in Men's 100 Metres at Atlanta 1996

 

 同大会の男子200メートル競争で米国のマイケル・ジョンソン選手が自身の持つ世界記録19秒66を大幅に更新する世界新記録19.32秒をマークしました。

Michael Johnson 200m Final, 19.32 - 1996 Atlanta Olympics

 

 この2人の世界新記録からベイリー選手とジョンソン選手が100メートル競走をしたらどちらが勝つのか話題になりました。その理由はジョンソン選手の200メートルの記録19.32秒を半分にすると9.66秒で、ベイリー選手の100メートルの世界記録9.84秒を上回っていたからでした。

 ジョンソン選手のラップタイムから計算すると、ジョンソン選手の前半100メートルを10.12秒、後半100メートルを9.20秒で駆け抜けています。後半100メートルは20メートルの曲線と80メートルの直線ですがスタート動作を含まないため100メートル競走より速い記録が出ます。

 ジョンソン選手とベイリー選手のどちらが世界最速なのか決着をつける競争が行われることになりました。この競争は1997年5月31日に陸上競技の「世界最速決定戦」としてカナダのトロントのスカイドームで開催されました。しかし、100メートルが不得意なジョンソン選手と100メートルが得意なベイリー選手に配慮し、この競争は150メートルで決着をつけることになりました。レースは好スタートを切ったベイリー選手が先行しましたが後半のジョンソン選手の追い上げに期待が集まりました。しかし、カーブを過ぎたところでジョンソン選手が左足の故障で棄権したため決着はつきませんでした。

 現在、200メートル競争の世界記録はウサイン・ボルト選手がマークした19.19秒です。このときのボルト選手のラップタイムは前半100メートルも後半の100メートルも9秒台ですが、後半は9.27秒でマイケル・ジョンソンの9.20秒には及んでいません。このことから200メートル競走の中の100メートルを最短時間で走ったのはマイケル・ジョンソン選手ということになります。

1997 - Donovan Bailey vs Michael Johnson 150 m

 ボルト選手の2009年の世界陸上競技選手権の100メートルの記録とも比べてみましょう。記録の詳細データは下記の記事に記載してあります。

 ウサイン・ボルト選手の最高速度は時速44.72 kmか44.44 kmか|ラップタイムと瞬間速度

 まずは世界最速の映像を見てみましょう。

【世界最速】人類がまた進化した!ウサインボルト9秒58【世界陸上ベルリン2009】

 このページからボルト選手の10メートルごとのラップタイムを見てみましょう。

区間 時間 秒速
000-010 (m) 1.89 (s) 05.29 (m/s)
010-020 (m) 0.99 (s) 10.10 (m/s)
020-030 (m) 0.90 (s) 11.11 (m/s)
030-040 (m) 0.86 (s) 11.63 (m/s)
040-050 (m) 0.83 (s) 12.05 (m/s)
050-060 (m) 0.82 (s) 12.20 (m/s)
060-070 (m) 0.81 (s) 12.35 (m/s)
070-080 (m) 0.82 (s) 12.20 (m/s)
080-090 (m) 0.83 (s) 12.05 (m/s)
090-100 (m) 0.83 (s) 12.05 (m/s)
ウサイン・ボルト選手の10メートルごとのラップタイム

 スタートの動作を含む000-010(m)の区間の時間2.89秒は他の区間より1秒以上遅い時間になっています。010-020 (m)、020-030 (m)、030-040 (m)は加速途中のためそれ以降の区間よりやや時間が遅くなっています。そこでボルト選手が000-040(m)をそれぞれ0.83秒で走ったと仮定し他の区間のタイムを合計してみます。

 0.83 × 4 + 0.83 + 0.82 + 0.81 + 0.82 + 0.83 + 0.83 = 8.26秒

となりました。これにスタート時のリアクションタイム0.146秒を減ずると8.114秒です。これはあくまで仮定の参考データです。

 ボルト選手は150メートル競走(直線)の世界記録14.35秒を所有しています。この時の050-100(m)の時間がラップタイムが8.70秒とワールドアスレティックス(旧IAAF)のサイトに掲載されていました。200メートルの後半9.27秒より0.57秒も短縮されています。

  Bolt runs 14.35 sec for 150m; covers 50m-150m in 8.70 sec!

  https://worldathletics.org/news/news/bolt-runs-1435-sec-for-150m-covers-50m-150m-i

 この結果から判断すると100メートルの距離を最短時間で走ったのはウサイン・ボルト選手と言えそうです。

 世界記録ともなると100 m、150m、200 mの走りで大きな差が出ると思いますが、基本的にヒトがどれぐらい速く走れるかは身長や足の長さ、そして走るときの歩幅や足の回転数に関係するでしょう。

 ボルト選手の身長は195 cm、ジョンソン選手の身長は185 cmです。10cmの身長差があります。ボルト選手の足の長さは上述のサイトで紹介されている資料によれば105 cmです。一般い身長が大きいとスタートは不利と言われますがボルト選手は歩幅が大きく後半に加速できるのが特徴的です。ジョンソン選手は足が長くありませんでしたが回転数の高い力強い走りが特徴的でした。

 前述の通り200メートル後半100メートルではジョンソン選手の方が速く走っています。ところがマイケル・ジョンソン選手は100メートルの自己ベストは10.09秒ですし、ボルト選手の150 mの最後の100 mは8.70秒です。体格や歩幅が大きな要因になっていることは間違いなさそうですが、その時の調子もありますし足の回転素や地面を蹴る力など様々な要因も関係しており決して体格だけではなさそうです。

【関連記事】100メートルを最短時間8.70秒で駆け抜けた陸上選手は?

ウサイン・ボルト選手の最高速度|時速44.72 kmか44.44 kmか

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2023年6月15日 (木)

オリンピックシンボル(五輪)が公式に掲揚された日(1914年6月15日)

 五輪旗ことオリンピックシンボルはオリンピック憲章第1章8で「単色または5色の同じ大きさの結び合う5つの輪」から成るオリンピック・リングと定義されています。

オリンピックシンボル
オリンピックシンボル

 オリンピックシンボルは近代オリンピックの創立者のフランスのピエール・ド・クーベルタン男爵が1913年に考案したものです。

 クーベルダン男爵は古代オリンピックが開催されたギリシアのデルフォイの祭壇にあった石碑に刻まれていた五輪の紋章を参考に考案したという説があります。しかし、この石碑は第11回ベルリンオリンピックの際に組織委員会の事務総長のカール・ディームが聖火リレーの式典の演出のために設置したものでした。式典は盛大に執り行われましたが、この石碑は撤去されませんでした。1950年代後半にアメリカ人作家のリン・プールとグレイ・プールがデルフォイを訪れたときにこの石を再発見し「古代競技の歴史(History of ancient Olympic games、1963年)」で紹介しました。この石碑は「カール・ディエムの石」として知られるようになり、オリンピック・リングのデザインは古代オリンピックに由来するものという説が流布しました。

 実際にはクーベルタンはフランス・スポーツ競技社団連合(USFSA)の責任者を務めていたときにオリンピックシンボルを思い付いたとされています。USFSAのロゴは青と赤の2つのリングを組み合わせたものでこれを五輪い拡張したと考えられています。

フランス・スポーツ競技社団連合(USFSA)のロゴ
フランス・スポーツ競技社団連合(USFSA)のロゴ

 クーベルタン男爵はこの5つの輪をヨーロッパ大陸、アメリカ大陸、アフリカ大陸、アジア大陸、オセアニア大陸の5つの世界大陸に見立てました。また5つの大陸と色には関係がなく、どの輪がどの大陸かは定義されていません。すべての参加国の国旗を再現できる色として白、青、黄、黒、緑、赤の6色が選ばれました。このことはクーベルタン男爵が「Olympique 1913年8月号」において「このように組み合わせられた6色(旗の白地を含む)は例外なくすべての国の色を再現している。スウェーデンの青と黄、ギリシャの青と白、フランス、イギリス、アメリカ、ドイツ、ベルギー、イタリア、ハンガリーの三色旗、スペインの黄と赤、ブラジルとオーストラリアの革新的な国旗、古代日本と現代中国の国旗も含まれている。まさに、国際的なエンブレムです」と述べています。

 さてオリンピックシンボル(五輪)が制定された日は多くのサイトで五輪旗制定記念日(6月14日)として紹介されています。1914年6月14日にパリで開かれたオリンピック委員会で制定されたことが由来となっています。

 オリンピックシンボルについていろいろと調べてみたところいくつかの論文が見つかりました。下記の論文は国際オリンピック史学会(International Society of Olympic Historians、ISOH)の「JOURNAL OF OLYMPIC HISTORY」に掲載されたものです。

THE STORY OF THE RINGS By Karl Lennart

JOURNAL OF OLYMPIC HISTORY  VOLUME 10  DECEMBER 2001/JANUARY 2002  61

http://isoh.org/wp-content/uploads/JOH-Archives/JOHv10n1m.pdf

 この論文には下記の記載があります。

引用「At the opening ceremony of the Olympic congress on June 15, 1914 in the Sorbonne, it ”flew” officially for the first time. But it had already been shown on the 13th at the first meeting of the session and on the 14th at a ceremony.」

翻訳「1914年6月15日、ソルボンヌ大学で開催されたオリンピック会議のセレモニーで五輪マークは初めて公式にはためきました。 しかし、このマークは13日の第1回会合と14日の式典ですでに披露されていたのです。」

 この記述からお披露目されたのは6月13日と14日ですが公式に掲揚されたのは6月15日です。オリンピックシンボルが制定された日が何日なのかはわかりませんでしたが6月15日が公認された日という論文もいくつかありました。五輪制定記念日が6月14日とされているのは式典に因んだ日と思われます。

 ところでこの論文に式典について面白いことが書いてあります。式典の式次には印刷会社のミスにより上下がひっくり返った上に2輪、下に3輪の誤ったロゴが印刷されていたとあります。またクーベルタン男爵はパリ大会後のオリンピックで五輪旗を掲揚することを述べていたようですが、1914年の会議でこの件について何らかの決定がなされたのかどうかは不明とあります。

 1916年ベルリンオリンピックは第一次世界大戦で中止となったので、五輪旗がオリンピックで掲揚されたのは1920年にベルギーで開催されたアントワープオリンピックでした。

【関連記事】

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