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2021年11月 6日 (土)

ナリタブライアンが三冠馬に(1994年11月6日)

  1993年の競馬クラシックレースの皐月賞を制したのはナリタタイシン、東京優駿を制したはウイニングチケットでした。この2つのレースで2着と惜敗したのがビワハヤヒデでした。ビワハヤヒデは1994年10月の天皇賞秋で5着となるまでは連帯率100%で16戦中1着10回うちレコードタイム4回、2着5回、5着1回で抜群に安定した優秀な成績を収めています。

 ビワハヤヒデの父はシャルード、母はパシフィカスです。両親は十分な結果を出すことはできませんでした。パシフィカスの父はノーザンダンサーで血統は良いのですが、ビワハヤヒデはデビュー前の評価では優秀な成績を収めるような馬になるとは考えられていませんでした。ただし、相手に食らいついていく根性は抜群でした。1993年の菊花賞に向けた神戸新聞杯以降で1着となり、菊花賞を優勝してからビワハヤヒデの確固たる実力が証明されていくことになりました。

 1993年、ビワハヤヒデの弟としてデビューしたのが父ブライアンズタイム・母パシフィカスのナリタブライアンでした。ナリタブライアンの素質はデビュー前から高く評価されていましたが、デビュー戦(8月)は2着、函館3歳S(9月)では6着、デイリー杯3歳S(11g津)では3着とビワハヤヒデに比べると安定した成績ではりませんでした。この3歳の時期にレース前に興奮しやすい気性や競争中に自分の影に驚いしてしまう臆病な気性であることがわかりました。気性への対策としてレース間隔を詰めることやシャドーロールを装着させることが図られました。

 ナリタブライアンが初めてシャドーロールを装着したのは京都3歳S(11月)でした。シャドーロールでナリタブライアンの集中力は大きく改善されました。このレースをレコード勝ちするとG1朝日杯3歳S(12月)は優勝、ここからナリタブライアンの伝説が始まりました。

 この頃、自分はじほぼ毎週東京競馬場に通っていました。1993年11月7日菊花賞のビワハヤヒデの優勝を見た後の21日の京都3歳Sのナリタブライアンの走りを見てこの馬は強いと思いました。G1朝日杯3歳S(12月)で優勝した後は共同通信杯4歳S(1994年2月)1着、スプリングS(3月)1着となり、G1皐月賞(4月)、G1東京優駿(5月)を快勝し、あっさりと二冠馬となりました。

 東京優駿の後、ナリタブライアンは札幌競馬場と函館競馬場で夏場を過ごしました。このとき体調を崩し、菊花賞への出場が危ぶまれ、復調するも菊花賞に向けての調整スケジュールが大幅に狂いました。

 菊花賞に向けての秋の初戦はGII京都新聞杯(10月)に出走することになりました。このレースでは最後の直線で先頭に立ちましたが、後続の馬と競い負け2着となりました。実は調教が十分に行えず、関係者にとっても、この負けは想定内だったようです。しかし、この一叩きでナリタブライアンの体調が改善され、菊花賞優勝の三冠達成の期待が高まりました。

 1994年11月6日、迎えた菊花賞。馬場は芝稍重。ナリタブライアンは単勝1.7倍の1番人気に支持されました。レースがスタートすると早めに馬郡から抜け出して後続を突き放し、前年にビワハヤヒデが記録したレーズレコードを破って優勝しました。そしてナリタブライアンは日本競馬史上で5頭目となるクラッシック三冠馬となったのです。

第55回菊花賞ナリタブライアンの単勝馬券
第55回菊花賞ナリタブライアンの単勝馬券

 1994年末の有馬記念。単勝1.2倍の1番人気となったナリタブライアンは4コーナーで先頭に立ち、そのまま直線コースを突き抜けて優勝しました。ナリタブライアンの1994年の通算成績は7戦6勝、GI4勝となり、この年のJRA賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬に選ばれた。年度の賞金は史上最高の7億1,280万2,000円になりました。

 ナリタブライアンとビワハヤヒデの兄弟対決が期待されていましたが、ビワハヤヒデはナリタブライアンが優勝した1994年菊花賞の前週に行われた天皇賞(秋)で屈腱炎を発症し引退したため実現されませんでした。もし2頭が有馬記念で戦っていたら世紀の大レースになっていたことでしょう。

 1995年、5歳となったナリタブライアンは初戦のGII阪神大賞典(3月)で優勝しましたが、その後は以前のような力強さはなく1着どころか2着に入ることもありませんでした。

 1996年の初戦もGII阪神大賞典(3月)を選びました。このレースでは前年の年度代表馬のマヤノトップガンとのマッチレースを制して優勝しました。このレースは現在も語り継がれる名レースとなりました。このレースで復調が期待され、4月の天皇賞(春)では2着となりました。

 ナリタブライアンは次レースとして宝塚記念(7月)を目指しますが、期間が空くことからGI高松宮杯(5月)に出走しました。ナリタブライアンのスプリント戦への挑戦は話題を呼びましたが4着に敗退すると出走させたことを疑問視する声も多数あがりました。 

 高松宮杯の一ヶ月後、ナリタブライアンは兄のビワハヤヒデが患った屈腱炎を発症しました。治療が行われましたが復帰はかなわず、11月9日に京都競馬場、11月16日に東京競馬場で引退式が行われファンに別れを告げました。

 ナリタブライアンの成績

 21戦12勝 [12-3-1-5] G1 5勝、GII 3勝、GIII 1勝

 獲得賞金 10億2,691万6,000円 (本賞金8億9,510万円 付加賞金1億3,181万6000円)

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2021年9月25日 (土)

日本プロ野球史上初のノーヒット・ノーラン(1936年9月25日)

 ノーヒット・ノーランは1試合を通じて投手が1本も安打を許さなかった場合の記録ですが、日本プロ野球と米国メジャーリーグでは定義が異なります。

 メジャーリーグでは9回以上を1人または複数の投手が無安打に抑えた場合で安打以外で失点した場合もノーヒット・ノーランと記録されます。日本プロ野球では9回以上を1人または複数の投手が無安打に抑えた場合で安打以外の失点も許さなかった場合にノーヒット・ノーランと記録されます。つまりメジャーリーグは無安打試合(注1)、日本プロ野球では無安打無得点試合の違いがあります。先発投手がノーヒットノーランを達成した場合は個人の記録となり、複数の投手の継投で達成した場合はチームの記録となります。完全試合(注2)もノーヒット・ノーランになります。

 日本プロ野球でノーヒット・ノーランの個人記録を達成した選手はたくさんいますが、日本プロ野球史上初となるノーヒット・ノーランは1936年9月25日に読売ジャイアンツの沢村栄治投手によって成し遂げられました。

沢村栄治投手
沢村栄治投手

 沢村投手は小学生の頃から速球投手として注目され、1933年の春、1934年の春・夏の選抜中等学校野球大会で京都商業学校から甲子園に出場しました。甲子園で活躍した沢村栄治投手は慶応大学への進学を希望しましたが、1934年の夏の甲子園終了後に京都商業学校を中退しました(注3)。

 1934年11月に読売新聞社主催の日米野球が開催されることになり、沢村投手は日本選抜チームの投手として選ばれました。沢村投手は函館太洋倶楽部から選抜された久慈次郎捕手とバッテリーを組み、大リーグの強豪選手たちを相手に良く戦いました。特に同年11月20日に静岡草薙球場で行われた試合で、沢村投手は6回まで2安打7三振の無失点に抑えました。7回にルーゲー・リッグ選手の本塁打で1失点を許しチームは0対1で負けてしまいましたが、8回9三振、5安打1失点の成績を収めました。

 この日本選抜チームのメンバーが中心となって職業野球チーム「大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)」が結成されることになり、沢村投手は読売新聞社の正力松太郎社主から「一生面倒を見る」と入団を誘われました。沢村投手は家庭の状況を考えて大学進学、職業野球、どちらの道を進んでも構わないと判断しました。父親は慶応大学の進学を勧めましたが、正力社主からの度重なる誘いで職業野球への道を認め、沢村投手は大日本東京野球倶楽部に入団することになりました。

 1935年に大日本東京野球倶楽部(後に東京ジャイアンツと改名)のメンバーとしてアメリカに遠征し、21勝8敗1分けの記録を残しました。国内の試合では22勝1敗の記録を残しています。

 1936年の第2回全日本野球選手権(秋季)の職業野球リーグでは、9月25日に行われた大阪タイガース戦で日本プロ野球史上初となるノーヒット・ノーランを達成しました。通算で13勝2敗で最多勝利を獲得し、12月の優勝決定戦では3連投して大阪タイガースの打線を抑えて東京ジャイアンツに初優勝をもたらしました。沢村投手は1937年春季リーグで2度目のノーヒット・ノーランを達成し、24勝4敗、防御率0.81、7完封、勝率.857、196奪三振の投手五冠の記録を残し、初代MVPに選ばれました。

  1938年1月、沢村投手は徴兵によって陸軍に入隊し、職業野球から離れることになりました。同年日中戦争に出征しますが、戦地での手榴弾投げ大会に何度も駆り出され右肩を痛め、戦場では左手を撃ち抜かれ重症を負ってしまいました。

 1940年の春に除隊となり東京ジャイアンツに復帰した沢村投手は兵役の影響で速球を投げられなくなっていましたが、変化球と制球力を磨き同年7月に3度目のノーヒット・ノーランを達成しました。しかし、1941年10月に2度目の徴兵で職業野球選手としての活躍が再び絶たれてしまいました。

 戦地から命からがら帰還した沢村投手は1943年1月に東京ジャイアンツに復帰しましたが、オーバースローで投球するはできなくなっていました。サイドスローに転向するもののほとんど活躍することはできませんでした。シーズン終了後、東京ジャイアンツから解雇を通告されました。他球団への移籍も考えましたが有終の美を飾るため東京ジャイアンツの沢村栄治として通算成績63勝22敗、防御率1.74を残し現役を引退しました。

 沢村投手は引退後は兵庫県の川西飛行場で働いていましたが、1944年10月に3度目の徴兵で入隊することになりました。同年12月2日、フィリピンへ向かうため輸送船に乗船していたところ、屋久島沖西方で米軍の潜水艦に撃沈され戦死しました。

 もし、沢村投手が慶応大学に進学していれば3度も徴兵されることはなかったと考えれています。沢村投手は正力社主に一生面倒を見ると言われて大学に進学せず職業野球の道を選んだ自分の判断を悔やんだそうですが、他人への恨み節はなかったそうです。

 終戦後の1947年7月、東京ジャイアンツは沢村投手の背番号14を日本プロ野球初の永久欠番としました。同年、先発投手を対象とした最優秀投手に贈る特別賞「沢村栄治賞(沢村賞)」が設立されました。1959年には野球殿堂入りし、沢村栄治の活躍が語り継がれるようになりました。

(注1)メジャー・リーグでは1996年9月17日に野茂英雄投手が日本人として初めてノーヒット・ノーランを達成しました。野茂投手は2001年4月4日にも達成しています。野茂投手以外では岩隈久志投手が2015年8月15日に達成しています

(注2)安打を許さなかっただけなく走者を出さずに完封勝利を収めた場合は完全試合ですが、プロ野球史上初の完全試合は読売ジャイアンツの藤本英雄投手が1950年6月28日に達成しました。

(注3)当時、野球統制令により学生野球とプロ野球の試合が禁じられており、学生のままでは日米野球に出場できなかったと考えられています。

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2021年9月23日 (木)

王選手が年間55本塁打を記録(1964年9月23日)

 通算本塁打868本の世界記録にはじめ数々の記録を打ち立てた元プロ野球選手・監督の王貞治さん。早稲田実業高校時代は投打で活躍し、1959年に当時としては破格の契約条件(契約金1,800万円、年俸144万円)で読売ジャイアンツに入団しました。

一本足打法
一本足打法

 入団後1959年2月のキャンプに参加し、ここでプロ野球選手としての投打の能力を見極められます。結果は投手としてプロとしては不十分、打者としては極めて優秀ということで打者をめざすことになりました。守備についてはちょうど川上哲治選手が引退したこともあり1塁に起用されることになりました。

 同年のオープン戦では本塁打5本を放ち、期待の新人として4月1日の国鉄スワローズ戦で開幕デビューしましたが、金田正一投手に3打席2三振1四球と封じられました。オープン戦では様子見で甘い球を投げていた対戦投手も公式戦では厳しく攻めてきました。結局、デビューから10試合26打席無安打となりオープン戦のような快音は聞かれませんでした。

 4月26日の国鉄スワローズ戦、7回表ツーアウト・ランナー1塁で打順8番の王選手の打席が回ってきました。王選手の成績を考えると代打の判断でしたが、次の打者が投手のためそのまま打席に立ちました。2ストライク1ボールと追い込まれたましたが、王選手のバットは4球目を捉え、打球はライトスタンドに入りました。デビュー11戦目にして決勝2ラン本塁打の初安打となりました。

 6月25日の阪神タイガース戦の天覧試合では阪神の先発小山正明投手から4号同点2ラン本塁打を放ち巨人が4-4の同点に追いつきます。阪神は投手を村山実に交代します。9回裏、長嶋茂雄選手がサヨナラ本塁打を放ち、巨人が5-4で勝利を収めました。これが王・長嶋の初のON砲となりました。しかしながら、これ以降は入団3年目になっても当初の期待に応えるような活躍はありませんでした。

 1961年のシーズン後に荒川博打撃コーチが就任し、王選手の打撃の問題は練習不足とフォームにあり改善すれば成績が向上すると判断しました。1962年のキャンプで様々なフォームを試しました。一本足打法は上半身と下半身の動きのタイミングを合わせるためのフォームでしたが、様々なフォームの中のひとつでしかありませんでした。

  1962年のシーズンでは打順4番に起用されましたが、成績は振るいませんでした。巨人の成績も振るわず首位を他チームに明け渡していました。7月1日、試合前の会議でチームが勝てないのは王選手が打てないからだとの指摘があり、荒川コーチは王選手に三冠王を取らせる、ホームランだけならいつでも打たせると豪語し、王選手に一本足打法で打つことを指示しました。そして王選手は公式戦で初めて一本足打法で打席に立ちました。この日の打撃成績は5打数3安打4打点本塁打1本で一本足打法で大きく改善されました。開幕から6月まで本塁打9本でしたが、7月の1ヶ月間で本塁打を10本も放ったのです。王選手は一本足打法の特訓を始め、1962年の成績は497打数135安打、打率.272、本塁打38本、打点85を収め、本塁打王と打点王を獲得しました。

【面白映像!野球マニア】王貞治の素振りがヤバすぎる!!

 1963年のシーズンでは一本足打法で打ちまくり打率.305、本塁打40本の成績を収め、長嶋選手とのON砲でチームを優勝へと導きました。1963年のシーズン終了後は改めて二本足打法の練習に取り組みました。一本足打法でこれだけの成績を収めているのだから、二本足打法のフォームを改善すればもっと成績は上がるという指摘が川上哲治監督からあったからです。オープン戦まで二本足打法を試しましたが、一本足打法に勝る結果は出すことはできず、王選手は一本足打法を採用することを決断し、荒川コーチもこれに了承し、川上監督も一本足打法を認めました。

 1964年のシーズンは東京オリンピック開幕のため、ペナントレースは前倒しのスケジュールで行われました。3月20日の開幕戦では王選手は国鉄スワローズの金田投手から飛距離151メートルの城外ホームランを放ちました。以降の試合でも王選手は一本足打法で本塁打を打ちまくります。3月末までの10日間で本塁打7本を放ちました。5月3日の阪神戦では4打席連続ホームランで14〜17号を放ちました。

 5月5日の広島カープ戦、王選手が打席に立つと、広島の内野と外野のすべての選手が守備位置を右側に移動し、左側を手薄にする「王シフト」を取ります。広島の白石勝巳監督は王選手に対する心理作戦としてこのシフトを取り、王選手もこの日は4打席無安打の成績に終わりました。このシフトに対して王選手は守備選手の頭を超えれば良いと考え、ますますホームランを狙うようになりました。

 王選手のシーズン本塁打は5月末23本、6月末31本、7月末39本、8月末51本となりました。そして、9月6日の大洋線で52号を放ち、1963年に南海ホークスの野村克也選手が樹立した前人未到の日本記録に並びます。野村選手が記録を樹立したとき、この記録は簡単に破ることはできないと言われいましたが、王選手は同じ試合で53号を放ち、日本記録をあっさりと塗り替えてしまいました。

 例年より早い最終戦9月23日、大洋戦の第5回裏、王選手はシーズン55号の本塁打を放ちこのシーズンを終えました。このシーズンの成績は472打数151安打、本塁打55本、打点119、打率.320を収め本塁打と打点で再び2冠を達成しました。

 王選手がこのシーズンに放った55本の本塁打のうち24本は飛距離が120メートルを超えています。大リーグの球場でも大きなホームランとなる飛距離です。

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2021年9月 3日 (金)

ホームラン記念日(1977年9月3日)

 1977年のプロ野球。注目されたのは読売ジャイアンツの王貞治選手のホームラン新記録達成でした。王選手の通算ホームラン数は前年引退したアメリカ大リーグのハンク・アーロンの記録755本を超える世界新記録756本まであと40本まで迫っていたのです。

 迎えた開幕戦4月2日の対中日ドラゴンズ戦では通算14本目の満塁ホームランを放ちますが、その後は調子が上がらずホームラン数や打率も低迷し始めました。30代半ばを超えた王選手に体力的な心配の声もあがり、ホームラン競争も首位の座を広島カープの山本浩二選手に譲っていました。

 しかし、5月に37歳を迎えると本来の調子を取り戻し、7月末には本塁打26号を記録しました。その後も調子をあげた王選手はホームランを量産し首位の座を取り返しました。8月31日、後楽園球場で行われた対大洋ホエールズ戦で三浦道男投手から39号ホームランを放ち、現役19年目の通算2425試合10145打席でハンク・アーロンの記録に並ぶ755号を達成しました。

 ファンや関係者の多くが王選手が次試合にでも756号を達成するだろうと予想しましたが、その後の2試合13打席はホームランが放たれることはありあませんでした。そして迎えた9月3日の対ヤクルトスワローズ戦の第2打席を迎えた3回裏、ツーストライク・スリーボールのフルカウントから投げた鈴木康二朗投手のシンカーを捕えてライトスタンドに放り込み、ついに世界新記録756号を達成しました。9月5日はその偉業に対して国民栄誉賞が贈られました。

756
王貞治選手756号を達成

 王選手は1980年まで現役を続け、現役22年、2831試合、9250打数、2786安打、2170打点、868本塁打、打率.301の記録を残して引退さました。

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2021年8月27日 (金)

1967年夏季ユニバーシアード開幕(1967年8月27日)

 ユニバーシアードは国際大学スポーツ連盟(FISU)が主催する全世界の学生を対象とする競技大会です。オリンピックの前年と翌年に2年おきに開催されるこの大会は学生オリンピックとも呼ばれます。ユニバーシアードはユニバーシティとオリンピアードに因んだ造語です。

 日本で初めてユニバーシアード大会が開催されたのは1967年で第5回目の夏季大会です。1967年夏季ユニバーシアードは同年8月27日に開幕し9月4日まで開催されました。1964年東京オリンピックの開場がそのまま利用され、東京オリンピックの興奮と感動の余韻もあり日本国中でたいへんに盛り上がりました。日本は金メダル19個、銀メダル18個、銅メダル24個の合計61個のメダルを獲得し、メダル総獲得数で第一位となりました。

1967年ユニバーシアード東京の入場式
1967年ユニバーシアード東京の入場式

 開幕式ではオリンピックの聖火さながら澤木啓祐選手が「ユウジョウノ火」の電光掲示板を背景に友情の火を掲げて走りました。澤木選手は陸上競技の5000メートルおよび10,000メートルで金メダルを獲得しています。

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友情の火を掲げて走る澤木啓祐選手

 

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2021年8月17日 (火)

プロ野球ナイター記念日(1948年8月17日)

 1948年8月17日、横浜ゲーリック球場においてプロ野球公式戦の日本で初めてのナイターが開催されました。これを記念し、8月17日はプロ野球ナイター記念日とされています。

 1876年、横浜の外国人居留地の彼我公園内にクリケット場が開かれ、多くの米国人により野球やサッカーなどが行われました。1896年には初の野球の国際試合が開催されました。1899年に横浜居留地が返還されると、彼我公園の名称は横浜公園に変更となり、ここに横浜公園球場が建設されました。この球場は関東大震災で崩壊しますが、その後再建されました。

 1934年にルー・ゲーリッグやベーブ・ルースなどを含むアメリカ大リーグ選抜軍が来日し、沢村栄治と久慈次郎、苅田久徳などを含む日本代表チームとの間で日米親善試合も開かれました(ココログ夜明け前「函館の野球の球聖 久慈次郎」)。

 横浜公園球場は第二次世界大戦中は使用停止となり1944年まで東京捕虜収容所第3分所として利用され、戦後の1945年9月に連合軍に接収されました。横浜公園球場は接収後も球場として利用され、名称は日米親善試合に来日した故ルー・ゲーリックにちなみ横浜ゲーリック球場(ルー・ゲーリック・メモリアルスタジアム)に変更されました。1946年には照明灯が設置され、ナイターが行えるようになり、大学野球や社会人野球のナイターが行われました。現在においてはプロ野球と言えばナイターが主流ですが、当時は大学野球や社会人野球の方が先んじてナイターを行なっていたのです。

ナイター試合(神宮球場)
ナイター試合(神宮球場バックネット裏)

 戦後のプロ野球は1945年に日本野球連盟が復活し、1946年にペナントレースが再開されました。そして、プロ野球でもナイターを行うことになり、横浜ゲーリック球場で初の試合が行われました。この試合は東京巨人軍と中日ドラゴンズで行われ、当日は観客があふれるほどの超満員だったそうです。

 試合は午後8時過ぎに始まり午後10時過ぎに終了、中日が巨人を3対2で下しました。開始時間を遅くしたのは日没前のナイターはボールが見えにくくなるという理由からです。当時の照明設備は現在のナイター照明に比べると十分ではなく、観客にとっては明るく見えても選手にとっては十分な明るさではなかったようです。巨人軍の青田昇選手がデッドボールを避けられず負傷したり、川上哲治選手が打ったホームランが二塁打に見間違えられたりするなどのハプニングもあったようです。

文庫 「野球」の誕生: 球場・球跡でたどる日本野球の歴史 (草思社文庫)

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2021年8月11日 (水)

ガンバレの日(昭和11年 1936年8月11日)

 昭和11年(1936年)8月11日、1936ベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎ決勝で日本の前畑秀子選手がドイツのマルタ・ゲネンゲルと激しく競り合い1秒の差をつけて優勝し、日本人女性として史上初のオリンピック金メダルを獲得しました。

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前畑秀子選手(左)と表彰台で一礼する同選手(右)

ベルリン五輪、前畑選手の泳ぎ

 この決勝の中継でNHKの河西三省アナウンサーは前畑選手の応援に力が入り、「マエハタ・ガンバレ」を38回も連呼しました。この河西三省アナウンサーの熱い応援はオリンピックの金メダル獲得を象徴する感動の実況中継となりました。

「前畑頑張れ!」 第11回オリムピック大會 女子200米平泳決勝

 

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2021年8月 2日 (月)

日本人が初めてオリンピック金メダル獲得(1928年8月2日)

 近代オリンピックの第一回は1896年にギリシアで行われました。日本が初めてオリンピックに参加したのは第5回目の1912年ストックホルムオリンピックです。

 日本人が初めてメダルを獲得したのは第7回1920年アントワープオリンピックです。男子テニスの熊谷一弥選手がシングルス、また熊谷一弥選手と柏尾誠一郎のダブルスで銀メダルを獲得しました。第8回1924年パリオリンピックでは内藤克俊選手がレスリングフリースタイルフェザー級で銅メダルを獲得しました。

 このころから国内の施設が整備され、海外の選手との交流が進み、日本人選手の実力が向上しました。第9回1928年アムステルダムオリンピックでは初の金メダルを2個、銀メダル2個、銅メダル1個を獲得しました。

 この大会で一番最初に金メダルを獲得したのが三段跳びの織田幹雄選手でした。織田選手は前回のパリオリンピックで6位入賞を果たしており、オリンピック前には当時の世界記録にせまる記録を出していました。三段跳びは8月2日に行われ、織田選手は15 m21を記録し決勝へと進みました。15 m21が大会最高記録となり、金メダルを獲得しました。

 当時、日本人の金メダル獲得は想定外だったようで、掲揚する日本の旗も用意されていませんでした。織田選手が持参した勝者を包むための大型の日本の旗を国旗掲揚台の係員に渡し、他の国の旗より4倍も大きい日本の旗が掲揚されたのです。日本という国があまり知られていなかった時代です。国家も前半が飛ばされて「さざれ石の」から流されたのです。織田選手の三段跳びの活躍の様子と国旗掲揚は次の映像で見ることができます。

Oda Becomes Asia's First Individual Olympic Champion - Amsterdam 1928 Olympics

 さて、もう一人の金メダリストは競泳男子200m平泳ぎの鶴田義行選手です。鶴田選手がメダルを獲得したのは織田選手の金メダル獲得から6日後のことでした。同じオリンピックで日本人として初の金メダリストが2名も生まれたのです。

織田幹雄選手と鶴田義行選手
織田幹雄選手(左)と鶴田義行選手(右)

 なお銀メダルは陸上女子800 mの人見絹枝、競泳男子800m自由形リレーの米山弘選手・佐田徳平選手・新井信男選手・高石勝男選手、銅メダルは競泳男子100m自由形の高石勝男選手が獲得しました。

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2021年7月17日 (土)

1964年東京オリンピックの聖火の点火

 1964年東京オリンピックの聖火は同年8月21日にギリシアのオリンピアのヘラ神殿の遺跡で採火され、翌22日に聖火空輸特別機「シティ・オブ・トウキョウ号(日本航空)」でアテネから日本に向けて運ばれました。聖火は11カ国を経由し、9月7日に沖縄に到着しました。

 当時の沖縄は米国の占領下でしたが、国内の聖火リレーは沖縄がスタート地点に選ばれました。9月9日に「聖火号(全日空)」によって、鹿児島空港、宮崎空港を経て千歳空港に向かいました。この3箇所が国内リレーの4つコース起点となりました。

 4つのコースは鹿児島から本州の日本海側を通って東京へ向かう第一コース(9/9〜10/9)、宮崎から四国を経て本州の太平洋側を通って東京へ向かう第二コース(9/9〜10/8)、千歳から本州の日本海側を通って東京へ向かう第三コース(9/9〜10/7)、千歳から本州の太平洋側を通って東京へ向かう第四コース(9/9〜10/7)が選ばれました。地上リレーの走破距離は6,755 kmにもなりました。

 各コースの聖火は東京都庁に集められ、9日に皇居前の聖火台で集火式が行なわれました。そして1964年10日10日午後2時35分、国立競技場に向けた最終聖火リレーが行なわれた。聖火は国立霞ヶ丘競技場の千駄ヶ谷門で10万713人目の最終聖火ランナーの坂井義則選手(当時、早稲田大学1年生)の手渡されました。そして、国立競技場のトラックに入ってきました。

最終聖火ランナー坂井義則選手
最終聖火ランナー坂井義則選手

 大勢の観客が見守る中、坂井義則選手はトラックを半周します。

トラックを駆け抜ける坂井義則選手
トラックを駆け抜ける坂井義則選手

 そして、聖火台までの階段を駆け上り、1964年東京オリンピックの聖火を点火しました。

1964年東京オリンピック聖火の点火
1964年東京オリンピック聖火の点火

 坂井選手は1964年東京オリンピックの400 mおよび1,600 mリレーの強化選手でしたが、代表選考会で敗退したため出場を逃していました。もともと聖火の最終ランナーは別の選手が走る予定でしたが、オリンピック組織委員会が1945年8月6日「広島原爆投下の日」が誕生日だった坂井選手に最終ランラーを託したのです。

地図と写真で見る東京オリンピック1964 (ブルーガイド)

戦後の日本が劇的に変化した東京オリンピックから50年。高度成長の真っ只中の1964年当時の東京を、200点以上の写真と古い地図で振り返る。

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2021年7月 9日 (金)

ターザンが競泳100メートルで世界初の1分を切る

 競泳100メートルの世界初の公式記録は1905年12月3日にハンガリーのゾルタン・ハルマイ選手が記録した1分05秒8です。この世界記録は更新されていきますが、1分の壁を破る選手はなかなか出てきませんでした。

 世界で初めて1分の壁を破ったのはアメリカのジョニー・ワイズミュラー選手です。1922年7月9日、ワイスミュラー選手は100メートル自由形でデューク・カハナモク選手の世界記録1分00秒4を58.6秒に更新し、人類で初めて1分を切る記録を成し遂げました。ワイズミュラー選手は1924年2月に記録を57.4秒に更新し、同年に開催されたパリオリンピックでは100m自由形、400m自由形、競泳男子4×200mリレーで金メダル、水球で銅メダル、1928年のアムステルダムオリンピックでは100m自由形、競泳男子4×200mリレーで金メダルを獲得しました。

ジョニー・ワイズミュラー選手
ジョニー・ワイズミュラー選手

 ジョニー・ワイズミュラー選手は1929年に下着メーカーのモデルとなり一躍人気となり、映画にも出演するようになりました。1932年に映画「類人猿ターザン」の主役ターザンを演じました。筋肉隆々のワイズミュラー選手が演じたターザンは大人気となってシリーズ化され、ワイズミュラー選手は合計12本のターザン映画に出演、世界的な水泳選手から世界的に有名な俳優となりました。

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