カテゴリー「スポーツ」の340件の記事

2021年6月 3日 (木)

トキノミノル日本ダービー優勝で10戦10勝(1951年6月3日)

 1951年6月3日、競走馬「トキノミノル」は東京優駿(日本ダービー)をコースレコードで優勝し、デビュー以来10戦10勝を果たしました。

 「トキノミノル」は1950年7月2日、函館競馬場の芝800メートルの新馬戦でデビューしました。馬主だった大映社長の永田雅一はこの馬に肩入れしておらず、馬名も決まっていませんでした。そこで生産者の笠木政彦と調教師の田中和一郎がパーフェクトという名前をつけました。レース前の発馬の練習で、気性が荒く、レース直前にも主戦騎手は岩下密政を振り落としました。1番人気にはなりませんでしたが、レースが始まるとスタートは順調で、あっといい間に先頭に立ち、二着馬に8馬身差の48.1秒で優勝しました。馬主の永田はパーフェクトのことをすっかり忘れていましたが、この勝利でダービーが取れることを確信し、馬名を「トキノミノル」に変更しました。

 「トキノミノル」はその後、朝日盃三歳ステークスなど7戦7勝をあげ、1951年5月13日の皐月賞を迎えました。「トキノミノル」の名声は広く伝わり、ふだん競馬をやらない人々にも注目の一戦となりました。トキノミノルの人気は圧倒的で73.3%の単勝支持率となりました。レースではスタートから先頭に立ち2分3秒で優勝しました(単勝の配当は110円)。

 皐月賞の後、「トキノミノル」は歩行に異常が出て、その後、右前脚が裂蹄となりました。右前脚が思うように動かせないなかでの調教の結果、左前脚の腱に負担がかかり腫れ上がりました。日本優駿(日本ダービー)が迫るなか一時は出走辞退を考えざるを得ない状況になりましたが、競争の前日には両脚ともに不安が消え、出走できる状態となりました。調教も不十分であり、脚の故障も伝えられていたことから、皐月賞ほどの単勝支持率とはなりませんでしたがダントツの一番人気となりました。レースではスタートで出遅れ、先頭に立つことはできませんでしたが、向正面で次々と先行勢をかわして先頭に立ち一馬身1/4差で2分31.1秒で優勝しました。岩下密政騎手は脚に不安があったため十分に追うことはできなかったそうですが、その状態での快勝ですから誰もが「トキノミノル」は三冠馬は間違いなしと考えました。

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トキノミノル(日本ダービー)

 しかしながら、レース終了後の6月8日に「トキノミノル」の体調が悪化しはじめました。結膜炎などにかかり治療が施されましたが、破傷風にかかっていることがわかりペニシリンが投与されました。懸命の治療で一時は快方に向かっているという獣医師の判断も出ましたが、20日に再び体調を崩し、同日午後10時34分に旅立ちました。

 作家の吉屋信子が「ダービーに勝つために生まれてきた幻の馬」という追悼文を毎日新聞に寄稿すると、「トキノミノル」は「幻の馬」と呼ばれるようになりました。馬主の永田は1955年に映画「幻の馬」を制作しています。

 戦前のクリフジ(11戦11勝)についで戦後の馬で10戦以上出走して全勝優勝している馬は「トキノミノル」だけです。また10戦中7戦をレコード勝ちしています。本当に強い馬だったのです。

記:ニフティ・サーブ競馬フォーラム 「時野実」(ハンドル名)

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2021年3月30日 (火)

国立競技場落成記念日(昭和33年 1958年3月30日)

 東京都内の青山地区の名前の由来はこのあたりに江戸時代に徳川家臣の青山氏の大名屋敷の敷地があったことに由来します。明治19年(1886年)に敷地の北側に青山練兵場が設けられた。明治天皇が崩御すると青山練兵場に明治神宮外苑が建設されることになり、大正13年(1924年)に敷地に明治神宮外苑競技場が建設され、陸上競技の会場として使われるようになりました。昭和18年(1943年)には学徒出陣走行会の会場としても使われました。

 昭和20年(1945年)の敗戦後は明治神宮外苑競技場は連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) に接収され「ナイル・キニック・スタジアム」として使用されました。昭和27年(1952年)に接収が解除となり明治神宮外苑部の管理下となり一般に公開されるようになりました。

 その後、1958年第3回アジア競技大会と第14回国民体育大会の会場として使用されることになり、昭和31年(1956年)に文部省に譲渡され、昭和32年(1959年)1月に新しい国立競技場の起工式が行われました。

 国立競技場は昭和33年(1958年)3月30日に完成し、同年5月にアジア大会が開幕、昭和34年(1959年)に夏の国民体育大会が行われました。同年5月26日にミュンヘンで開催された第55次IOC総会において、1964年東京オリンピックの開催が決まると、国立競技場はメインスタンドとして使用されることが決まり、スタンドが増築されるとともに聖火台は設置されました。

ブルーインパルスによる五輪マーク(1964年東京オリンピック開会式)AIカラー
ブルーインパルスによる五輪(1964年東京オリンピック開会式 国立競技場)

 国立競技場は2014年に閉鎖されることになり同年5月31日に閉鎖イベント「SAYONARA国立競技場FINAL “FOR THE FUTURE”」が行われ56年間の歴史を閉じると同時に聖火が消されました。

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2021年3月26日 (金)

2020-21 フィギュアスケート世界選手権 男子SP結果成績一覧 

2020-21 フィギュアスケート世界選手権の男子ショートプログラムが終了しました。

 SP第1位は羽生結弦選手、2位は初出場の鍵山優真選手、3位は米国のネイサン・チェン選手となりました。宇野昌磨選手は第6位につけています。ISU発表の成績は次に表の通りです。

 羽生選手は完璧な演技とまではいきませんでしたが期待通りの結果となりました。ジュニアからシニアとなり世界選手権初出場の鍵山優真選手のSP2位は快挙です。宇野昌磨選手は第6位となりました。

 フリーがとても楽しみです。鍵山優真選が表彰台なら快挙です。羽生選手は世界選手権初出場第3位、翌年第4位、三年目で優勝しています。

Pl. Name Nation TSS TES PCS
1 Yuzuru HANYU JPN 106.98 59.02 47.96
2 Yuma KAGIYAMA JPN 100.96 57.86 43.1
3 Nathan CHEN USA 98.85 53.42 46.43
4 Mikhail KOLYADA FSR 93.52 49.38 44.14
5 Keegan MESSING CAN 93.51 49.8 43.71
6 Shoma UNO JPN 92.62 49.02 44.6
7 Jason BROWN USA 91.25 44.86 46.39
8 Junhwan CHA KOR 91.15 49.8 41.35
9 Kevin AYMOZ FRA 88.24 44.24 44
10 Evgeni SEMENENKO FSR 86.86 48.8 38.06
11 Matteo RIZZO ITA 83.3 42.8 40.5
12 Han YAN CHN 81.52 41.17 40.35
13 Michal BREZINA CZE 81.43 40.96 41.47
14 Deniss VASILJEVS LAT 81.22 40.9 40.32
15 Daniel GRASSL ITA 79.43 39.75 39.68
16 Konstantin MILYUKOV BLR 78.86 42.43 36.43
17 Lukas BRITSCHGI SUI 78.27 44.91 34.36
18 Alexei BYCHENKO ISR 78.05 42.15 35.9
19 Boyang JIN CHN 77.95 38.24 40.71
20 Nikolaj MAJOROV SWE 75.59 39.05 36.54
21 Morisi KVITELASHVILI GEO 74.66 37.63 37.03
22 Ivan SHMURATKO UKR 73.98 39.09 34.89
23 Donovan CARRILLO MEX 73.91 40.62 33.29
24 Aleksandr SELEVKO EST 70.74 33.07 37.67
25 Vincent ZHOU USA 70.51 32.04 40.47
26 Paul FENTZ GER 68.43 34.78 34.65
27 Vladimir LITVINTSEV AZE 68.43 33.29 36.14
28 Basar OKTAR TUR 67.14 36.15 30.99
29 Maurizio ZANDRON AUT 63.88 32.8 33.08
30 Peter James HALLAM GBR 61.56 30.28 32.28
31 Valtter VIRTANEN FIN 60.27 30.19 31.08
32 Mikhail SHAIDOROV KAZ 59.14 31.97 29.17
33 Larry LOUPOLOVER BUL 58.93 28.43 30.5

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2021年3月25日 (木)

2020-21 フィギュアスケート世界選手権 男子SP 結果速報のサイト

2020-21 フィギュアスケート世界選手権が開幕しました。

現在、男子ショートプログラムの演技中です。

ISUの下記のサイトで結果をリアルタイムで確認することができます。

Men - Short Program Live Results

現時点で日本の鍵山優真選手が100.96ポイントで暫定1位です。

23番滑走の宇野昌磨選手は92.62ポイントで暫定2位につけました。

羽生結弦選手は29番滑走です。

残っている選手の過去の成績を見てみるとSPのベストスコアが100ポイントを超えているのは羽生選手(111.82)と米国のネイサン・チェン選手(110.38)だけ。鍵山優真選手が表彰台に残れる可能性あり。

カナダのキーガン・メッシング選手93.51ポイントで暫定3位。宇野昌磨選手、残念ながら暫定4位に。

現時点で100ポイントを超えているのはシニア1年目で世界選手権初出場の星槎国際高横浜の鍵山優真選手、若干17才。100・96で暫定1位。これはすごい!

羽生選手106.98ポイントで暫定1位。

レイサン・チェン選手98.85ポイントで暫定3位。最終滑走者モリス・クヴィテラシヴィリ選手登場。ベストスコアは89.94。羽生選手1位、鍵山優真選手2位確定か。

SP終了。1位は羽生選手(106.98)、2位は鍵山選手(100.96)、3位はネイサン・チェン選手(98.85)。宇野選手は6位(92.62)。フリーが楽しみです。

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2021年3月10日 (水)

スルヤ・ボナリー選手の4回転トウループとバックフリップ

 2006年トリノオリンピックのフィギュアスケート女子シングルで金メダルを獲得した荒川静香選手(ココログ 夜明け前「荒川静香選手が金メダルを獲得(2006年2月23日)」)。完璧をめざして挑戦した演技の中に加点のイナバウアーを取り入れたのは得点だけにとらわれることなく自分らしさを表現して人々の記憶に残る最高の演技をしたかったからだそうです。その荒川選手の決意を後押ししたのが長野オリンピックでのフランスのスルヤ・ボナリー選手だったそうです。

 スルヤ・ボナリー選手は1973年生まれのアフリカ系フランス人で抜群の運動能力をもつ選手でした。10歳からスケートを始め、1989年頃から頭角を現し、1989年から1998年までフランス選手権を9連覇、1991年から1995年までヨーロッパ選手権を5連覇しています。

 1991年の世界選手権で、女性として世界初の4回転トウループに挑戦しています。何とか片足で着氷することはできましたが、回転不足と判定され、成功とはなりませんでした。この大会では、その他のジャンプも、失敗し、総合で5位となりました。次の動画がこのときのボナリー選手のフリー演技です。

Surya Bonaly 1991 Worlds free program (Quad toe attempt)

 ボナリー選手は1992年から1995年までの世界選手権で3年連続で2位となりましたが、金メダルを獲得することはできませんでした。

 1994年の世界選手権では、日本の佐藤有香選手が金メダルを獲得しましたが、ボナリー選手は審査に不服だったようで、1位になれなかったことを非常に悔しがり、表彰台にあがることを踏襲しました。銀メダルのプレゼンターに促されて、表彰台にはあがりましたが、銀メダルを首から外して、審査員に抗議を表しました。

 ボナリー選手の演技は技術的には高く評価されましたが、いつも演技構成点が低く評価され続けました。

 ボナリー選手の最後の演技は1998年の長野オリンピックでした。ボナリー選手はフリーの演技で、ISUの規定で禁止されているバックフリップを跳びました。そして、演技が終了すると、審査員に背を向け、観客に向かってポーズを取りました。観客はスタンディングオベーションで拍手喝采しましたが、禁止技を行ったことや、ジャンプなどの失敗で大きく減点され10位となりました。次の動画がこのときのボナリー選手のフリー演技です。3分47秒あたりでバックフリップを跳びます。

Surya Bonaly (FRA) - 1998 Nagano, Figure Skating, Ladies' Free Skate

 荒川静香選手はスルヤ・ボナリー選手が禁止技バックフリップにあえて挑戦したことに感動し、トリノオリンピックで自分らしさを追求する演技を行い金メダルを受賞しました。

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2021年2月27日 (土)

茨城県霞ヶ浦近くの大きな2つのトラックは?

 北の国から羽田空港に向かう航空機が茨城県の霞ヶ浦を通過した頃、眼下に写真のような広大な土地に2つの大きなトラックが現れます。

JRA美浦トレーニングセンター(航空写真)
JRA美浦トレーニングセンター(航空写真)

 この施設はJRA(日本中央競馬会)の美浦トレーニングセンター(美浦トレセン)です。美浦トレセンは競走馬のトレセンとしては日本で最大級の施設です。上空から見ても、Google Mapで見ても、すぐに見つけることができます。

 大きな2つの調教コースに挟まれた領域には厩舎や公園があります。敷地内には調教コースや厩舎のみならず、厩務員・騎手・JRA職員など家族を含めて約5000人が暮らす宿泊施設があります。その他、競馬に関わる産業を含めて考えると、周辺地域合わせて数万人の生活の馬となっており、ショッピングセンター、郵便局、病院など生活に必要な施設も存在しています。

 調教コースには芝コース、ダートコース、障害用コース、ウッドチップコースに加えて、オールウェザー対応の新素材を敷き詰めたニューポリトラックなどがります。また、プール調教用のプール、森林馬道、診療所などが設置されています。

美浦トレセン南側調教コース
美浦トレセン南側調教コース(上記写真では右側)

 美浦トレセンは競走馬の訓練施設としては最大級かつ最高級の水準にありますが、関西のJRA栗東トレーニングセンターに比べて所属馬の勝利数と獲得賞金が少ないという指摘が昔からあります。関東で行われる競争を予想するときに、関西馬が出場しているかどうかを気にする人もいます。いろいろな原因が考えられますが、有力な原因としては調教コースの坂路コースの問題があげられます。

 美浦トレセンが開場したのが1978年4月、栗東トレセンが開場したのは1969年11月です。関東の競馬場は坂が多く、関西馬は坂に慣れていないという問題がありました。1985年に栗東トレセンに坂路コースが作られると、関西馬の実力が向上し、東京競馬場や中山競馬場で関西馬の活躍が目立つようになりました。美浦トレセンには坂路コースがないため、関西馬と関東馬の実力に差がつき始めました。

 美浦トレセンに坂路コースを設置する場所を確保することは難しく、1993年まで坂路コースが設置されることはありませんでした。新設さらた美浦トレセンの坂路コースは栗東トレセンのものに比べて勾配が小さく、十分に競走馬を訓練することができませんでした。2004年に坂路コースの改修が行われましたが解決には至っていません。美浦トレセンの坂路コースのこれ以上の改善は環境的な要因から困難とされています。そこで、競走馬は栗東トレセンに留学したり、馬主都合で美浦トレセンから栗東トレセンに転厩する事例も少なくありません。

 この問題は関東馬の実力低下だけに止まらず美浦トレセンの存続にも関わることになります。そこでJRAは2018年に美浦トレセンの大規模改修を始めました。改善が難しいと言われていた坂路コースも距離を延長するのと同時に地下を掘り下げることによって高低差を栗東トレセンと同程度にすることになっています。坂路コースの完成は2022年、2026年に全体の工事が完了する予定です。

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2021年2月26日 (金)

ソフトボール大会での不思議な写真(昭和35年頃)

 昭和35年(1960年)ぐらいですが、職場のソフトボール大会での女性チームの活躍を撮影した写真です。

ソフトボール大会(昭和35年頃)
ソフトボール大会(昭和35年頃)

 キャッチャーの女性は中腰ながらボールを受けようと前方をしっかり見て構えています。

 一方、バッターの女性はバットの持ち方がしっくりしていません。それはともかく、この写真が捉えた瞬間はバッターがちょうどボールを打った直後だと思うのですが、どうしてバッターは高く飛び上がることになってしまったのでしょう。そして、この後、どうなったのでしょう。

 見ている女性たちもあまりにも冷静です。

 不思議な一枚の写真の紹介でした。

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2021年2月23日 (火)

荒川静香選手が金メダルを獲得(2006年2月23日)

 2006年2月10日から2月26日にかけてイタリアのトリノで開催された2006年トリノオリンピック。日本人選手のメダルの獲得が期待されていましたが、開幕から何日経過してもメダル獲得のニュースは聞こえてきませんでした。あっという間にたくさんの競技が終わり、気がついたらメダルを取れそうな協議はフィギュアスケートの女子シングルだけになっていました。

 トリノオリンピックに参加したフィギュアスケートの女子選手は荒川静香選手、村主章枝選手、安藤美姫選手でした。

 2月21日に行われたショートプログラムの滑走順は安藤美姫選手14番目、荒川静香選手21番目、村主章枝選手27番目でした。安藤美姫選手は初のオリンピック参加で、怪我をひきづっていたこともあり実力を発揮することができず56ポイント8位、村主章枝選手はほとんど完全な演技でしたが点数は伸びず61.75ポイント4位となりましたが、滑走順29番の米国サーシャ・コーエン選手が演技するまでは第3位につけていました。荒川静香選手はショパンの「幻想即興曲」でほとんどミスのない演技で66.2ポイント3位につけました。ショートプログラム終了時点での1位は米国のサーシャ・コーエン選手66.73ポイント、2位はロシアのイリーナ・スルツカヤ選手66.70ポイントでしたから、大接戦で2月23日のフリースケーティングを迎えることになりました。

 フリーの滑走順は安藤美姫選手14番目、荒川静香選手21番目、村主章枝選手22番目でした。ショートプログラム8位の安藤美姫選手はフリーであえて4回転サルコーに挑戦、回転不足で転倒し84.2ポイントで16位となりました。自分らしい演技、納得できる演技を求めてのオリンピックで4回転サルコーの挑戦だったと思います。その後の活躍を考えると、安藤美姫選手にとってトリノオリンピックはかけがえのない経験になったのではないかと思います。

 ショートプログラム首位のサーシャ・コーエン選手が荒川静香選手の直前の20番目に滑り、序盤のジャンプで失敗し、点数を伸ばすことができずに116.63 ポイントとなりました。

 荒川静香選手は「トゥーランドット」でフリーに挑戦。ループジャンプで失敗しましたがほとんど完璧に演技をこなしました。また加点のないイナバウアーをあえて取り入れ、点数だけではなく自己表現を重視した演技を行いました。荒川静香選手が演技を終えると観衆はスタンディングオベーション、自己最高得点125.32ポイントを叩き出し首位につけました。

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レイバック・イナバウアー

 荒川静香選手の直後は村主章枝選手が登場、フリップからコンボを失敗した以外はノーミスの演技でしたが、他の演技で高レベルが取れず、 113.48ポイントとなり、第3位につけました。村主章枝選手の後はショート5位の米国のキミー・ワイズナー選手の演技の終了時点で、荒川静香選手1位、サーシャ・コーエン2位、村主章枝選手3位となりました。

 そして、迎えた最終滑者24番目にロシアのイリーナ・スルツカヤ選手の登場です。もうこの時点で荒川静香選手のメダル獲得は確定しています。そのまま逃げ切って金メダルとなるか、イリーナ・スルツカヤ選手に逆転されて銀メダルになるかです。村主章枝選手が銅メダルを取れるかどうかもイリーナ・スルツカヤ選手の演技にかかっていました。イリーナ・スルツカヤ選手はフリーの最高得点は2005年ロシア杯で出した130.48ポイントです。村主章枝選手の銅メダルはもちろんですが、荒川静香選手選手の金メダルも厳しいと思っていました。

 ところが、イリーナ・スルツカヤ選手のフリーの演技はかつてみたことのない失敗の繰り返しとなりました。相当なプレッシャーがかかっていたのだとは思いますが、コンビネーションがシングルジャンプとなったり、トリプルフリップがダブルとなたあり、ループジャンプで転倒したりしてしまいました。これまで完璧な演技を確実にこなしていた選手とは思えないほどキレが悪い演技となり、村主章枝選手の113.48ポイントに及ばない114.74ポイントとなりました。このイリーナ・スルツカヤ選手の演技終了時点で荒川静香選手の金メダルが確定しました。

 自分は当時テレビを見ながらとあるBBSに参加してコメントを入れていたのですが、参加者全員がテレビを見ながら盛り上がっていました。金メダル確定の瞬間には掲示板が「やったー」「おめでとう」「えらい!」などの文字で埋め尽くされたことをよく覚えています。

 2006年トリノオリンピックで日本が獲得したメダルは荒川静香選手の金メダル1個だけでしたが、日本のみならずアジア選手として初めてオリンピックのフィギュアスケートで金メダルの獲得となり、大金星となりました。

 荒川静香選手が金メダルを獲得できたのはオリンピックで完璧な演技をすることをめざして練習を重ね、冷静に演技をこなすことができたからでしょう。冷静に完璧な演技をこなすことができたのは精神的にも強くなっていたからでしょう。

 荒川静香選手は1998年長野オリンピックに出場しましたが、2002年ソルクレートシティオリンピックには出場できませんでした。しかし、その後は練習を積み重ねて2004年の世界選手権で金メダルを獲得しています。当時、荒川静香選手は世界選手権やオリンピックなどはあまり眼中になく、世界タイトルを獲得した者しか参加できないアイスショーに出演することめざしていたようです。

 その後、インタビューで引退の表明をしたこともありましたが、2006年トリノオリンピックの出場権を得て、フィギュアスケートに向かい合い、オリンピックで完璧な演技をすることへの挑戦を始めたそうです。完璧な演技は高得点を狙うこととは違い、自分らしさを追求した完璧な演技をすることでした。だからこそ加点のないイナバウアーを取り入れたのでしょう。その結実が金メダル獲得につながり、観衆を感動させてスタンドオベーションを引き起こしたのでしょう。そして、あの日にBBSであの瞬間を共有した参加者全員を感動させたったのでしょう。

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2021年2月 7日 (日)

長野オリンピック開幕(1988年2月7日)

 日本で初めて開催された冬季オリンピックは1972年札幌オリンピック(ココログ 夜明け前札幌オリンピック開幕(1972年2月3日) 」)でした。札幌オリンピックは1964年東京オリンピックの開催による機運の高まりで招致できた経緯があり、冬季オリンピックをもう一度日本に招致するのは容易ではないと思っていました。1985年あたりから長野県で冬季オリンピックを招致する活動が始まり、1988年に日本オリンピック委員会が長野県を1988年冬季オリンピックの候補地としました。そして、1991年の国際オリンピック委員会の総会で長野オリンピックの開催が正式に決まりました。26年ぶりに日本で冬季オリンピックが開催されることになったのです。2021年時点で冬季オリンピックは過去に南半球で開催されたことが一度もなく、長野オリンピックは開催地としては最南端で行われた冬季オリンピックとなっています。

 自分は1972年の札幌オリンピックのことをよく覚えていましたから、長野オリンピックの開催をずいぶん楽しみにしていました。しかし、1998年になると仕事の大きな山場と重なり、テレビを見る時間も取れないぐらい忙しくなっていました。それでも中継を生放送で見たいと思った自分は家のテレビで録画しつつ、乾電池で作動するポータブルのテレビを携帯して観戦しました。

 札幌オリンピックではスキージャンプの70メートル級(ノーマルヒル)で「日の丸飛行隊」の笠谷選手・今野選手・青地選手がそれぞれ金・銀・銅メダルを活躍しましたが(ココログ 夜明け前日の丸飛行隊がメダル独占(1972年2月6日)」)、他の競技ではメダルの獲得はありませんでした。

 長野オリンピックでは選手層が厚くなり、スキージャンプだけではなく、他の競技でのメダル獲得が期待されました。結果は期待通りとなり、多くの日本人選手が活躍しメダルを獲得しました。

 スキージャンプの個人戦では船木和喜選手がラージヒルで金メダルとノーマルヒルで銀メダルを獲得、原田雅彦選手がラージヒルで銅メダルを取得しました。そして、ラージヒル団体では、岡部孝信選手、斉藤浩哉、原田雅彦、船木和喜のチームが金メダルを獲得しています。この団体戦には記憶に残る逆転優勝のドラマがありました。日の丸飛行隊の強さを見せつけたオリンピックとなりました。

 ノルディック複合競技の個人戦では荻原健司選手の活躍が期待されましたが、個人4位となりメダル獲得を逃しました。荻原健司選手の双子の実弟の荻原次晴選手は6位となりました。団体戦は1992年アルベールビル、1994年リレハンメルに続いて3連続金メダル獲得の期待がかかっていましたが、残念ながら記録が伸びず5位となり、メダルを獲得することはできませんでした。

 フリースタイルスキーでは女子モーグルで里谷多英選手が金メダルを獲得しました。冬季オリンピックのすべての競技において、日本人女子選手で初めて金メダルを獲得したのは里谷多英選手です。

 スピードスケートでは清水宏保選手が500メートルで金メダル、1000メートルで銅メダルを獲得、岡崎朋美選手が500メートルで銅メダルを獲得しています。ところで、1984年サラエボオリンピックの500メートルで銀メダルを獲得し、長野オリンピックのスピードスケートの解説をしていた北沢欣浩さんは小学校の同級生のお兄さんでした。スピードスケートがとても上手な兄妹だったことを覚えています。

 ショートトラックスピードスケートでは男子500メートルで西谷岳文選手が金メダル、植松仁選手が銅メダルを取得しました。ショートトラックは1992年アルベールビルから正式競技となり、日本は5000メートルリレーで銅メダルを獲得、1994年リレハンメルおよび長野オリンピックではリレーが5位でした。なお、西谷選手と植松選手はリレーには参戦していません。

 フィギュアスピードでは後に2006年トリノオリンピックで金メダルを獲得する荒川静香選手が参戦しています。1997年の全日本選手権で優勝を果たして長野オリンピックに臨みましたが失敗が重なり13位となりました。長野オリンピック出場をきっかけに実力をつけていきました。荒川選手がトリノオリンピックで加点がつかないイナバウアーを取り入れたのは、長野オリンピックでフランスのスルヤ・ボナリー選手が禁止技バックフリップにあえて挑戦したことに感動し、自分らしさを表現して人々の記憶に残る演技をしたかったからだそうです。

 次の冬季オリンピックは2022年、開催地は中国北京です。年々実力が向上してきている日本人選手の活躍に期待しています。

Olympicmovementffag

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2021年2月 6日 (土)

日の丸飛行隊がメダル独占(1972年2月6日)

 1972年2月3日に開幕した1972年札幌オリンピック(ココログ 夜明け前札幌オリンピック開幕(1972年2月3日)」)。当時、冬季オリンピックの日本人メダリストは1956年コルチナ・ダンペッツオ・オリンピック(イタリア)のアルペンスキー回転で銀メダルを獲得した猪谷千春選手だけでした。

 1972年札幌オリンピックではスキージャンプでのメダル獲得が期待されていました。そして、宮の森ジャンプ競技場で行われた70メートル級で笠谷幸生選手、金野昭次選手、青地清二がそれぞれ金メダル・銀メダル・銅メダルを獲得しました。日本人がメダルを独占したことから「日の丸飛行隊」と呼ばれまいた。3人の記録は次の通りです。

=金メダル 笠谷幸生(ニッカウヰスキー)

1本目126.6 84.0 m 2本目117.6 79.0 m 総合得点244.2

=銀メダル 金野昭次(北海道拓殖銀行)

1本目120.2 82.5 m 2本目114.6 79.0 m 総合得点234.8

=銅メダル 青地清二(雪印乳業)

1本目123.3 83.5 m 2本目106.2 77.5 m 総合得点229.5

 日本人として一番最初に飛んだのが金野昭次でした。今野選手は前年の調子が悪く、オリンピック出場も危うかったのですが、関係者の強い推挙もあり、何とか出場することができました。踏切のキレが非常に良く「カミソリジャンプ」と呼ばれていた今野選手は82.5 mの記録を出し、いきなりトップに立ちました。2本目は1本目の結果から助走路が下げられましたが、79 mまで飛距離を伸ばしました。スキージャンプでは記録の悪い選手から先に飛ぶのが慣例でしたが、金野選手のジャンプは日本人選手のレベルの高さを海外勢に見せつけることになり「切り込み隊長」と呼ばれました。

 青地選手は1967年に開催された全日本スキー選手権大会ジャンプ90m級で優勝し、1970年にはノーマルヒルの宮の森ジャンプ競技場のバッケンレコード85.5 mを記録していました。札幌オリンピックでのメダル獲得が期待されていました。1本目は期待通り、83.5 mまで飛距離を伸ばしました。2本目のジャンプではバランスを大きく崩して失速してしまいました。明らかに失敗ジャンプでしたが、何とか粘り強く体勢を持ち直して77.5mまで記録を伸ばし、銅メダルを獲得しました。もし、このジャンプが失敗していなければ銀メダルは確実だったかもしれません。

 笠谷選手は国内大会では圧勝を続けていましたが、1964年インスブルックオリンピック(70 m級23位、90 m級11位)や1968年グルノーブルオリンピック(70 m級22位、90 m級20位)では結果を出すことはできませんでした。しかし、1970年のチェコスロバキアで開催されたノルディックスキー世界選手権では70m級で銀メダルを獲得、1971年に札幌で開催されたプレオリンピック大会では70 m級で優勝し、世界大会でも頭角を現すようになりました。1972年の欧州ジャンプ週間では当時としては史上初の4戦全勝を成し遂げることが確実視されていましたが、札幌オリンピックの選考試合参加によって帰国したため最終戦を欠場し、総合優勝を果たすことはできませんでした。笠谷選手は選考大会を免除されていたそうですが、あえて選考大会に出場したうえで、オリンピックに出場したそうです。笠谷選手の1本目は踏切のタイミングも良く、バネのように飛び上がり、前傾姿勢を深く取って滑空し、84 mの最長記録を出しました。2本目は踏切がややうまくいきませんでしたが、金野選手と同じ79 mまで飛距離を伸ばし、金メダルを獲得しました。

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笠谷幸生選手のジャンプ

 ところで1972年札幌オリンピックのスキージャンプ70メートル級の日本人選手と言えば上記3人が有名ですが、もう一人の日本人選手が参加していました。国土計画の藤沢隆選手です。藤沢選手は1本目81 mで4位につけていました。つまり1本目終了時点では日本人が第4位までを独占していたのです。しかしながら、藤沢選手の2本目は残念ながら失敗ジャンプとなり記録は68m、総合23位となりました。4位のノルウェーのインゴルフ・モルク選手は1本目も2本目も記録は78 mでしたから、藤沢選手が2本目のジャンプを失敗していなければ、おそらく日本人が第4位まで独占できたはずです。

=23位 藤沢隆(国土計画)

1本目117.8 81.0 m 2本目90.0 68.0 m 総合得点207.8

 2月11日に大倉山ジャンプ競技場で行われた90メートル級でも日本人選手のメダルの獲得が期待されていましたが、1本目で笠谷選手が106 mで2位につけたものの、2本目は横風にあおられて距離を伸ばすことができず85 mとなり、総合7位となりました。他の日本人選手も記録を伸ばすことができず、90メートル級でのメダル獲得は実現しませんでした。なお、90 m級には青地選手は出場せず、国土計画の板垣宏志選手が出場しました。

=7位 笠谷幸生(ニッカウヰスキー)

1本目124.9 106.0 m 2本目84.5 85.0 m 総合得点209.4

=12位 金野昭次(北海道拓殖銀行)

1本目109.7 98.0 m 2本目89.4 88.5 m 総合得点199.1

=14位 藤沢隆(国土計画)

1本目107.2 95.5 m 2本目89.9 86.0 m 総合得点197.1

=19位 板垣宏志(国土計画)

1本目96.0 90.0 m 2本目871.1 84.0 m 総合得点183.1

 現在のジャンプの選手は飛距離を伸ばすためスキー板を大きく開いて飛びますが、当時は飛距離に加えて飛行姿勢や着地姿勢が重視されていました。スキー板を閉じて深い前傾姿勢で滑空し、綺麗なテレマークで着地する笠谷選手のジャンプは本当に綺麗でした。

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