カテゴリー「スポーツ」の335件の記事

2021年2月27日 (土)

茨城県霞ヶ浦近くの大きな2つのトラックは?

 北の国から羽田空港に向かう航空機が茨城県の霞ヶ浦を通過した頃、眼下に写真のような広大な土地に2つの大きなトラックが現れます。

JRA美浦トレーニングセンター(航空写真)
JRA美浦トレーニングセンター(航空写真)

 この施設はJRA(日本中央競馬会)の美浦トレーニングセンター(美浦トレセン)です。美浦トレセンは競走馬のトレセンとしては日本で最大級の施設です。上空から見ても、Google Mapで見ても、すぐに見つけることができます。

 大きな2つの調教コースに挟まれた領域には厩舎や公園があります。敷地内には調教コースや厩舎のみならず、厩務員・騎手・JRA職員など家族を含めて約5000人が暮らす宿泊施設があります。その他、競馬に関わる産業を含めて考えると、周辺地域合わせて数万人の生活の馬となっており、ショッピングセンター、郵便局、病院など生活に必要な施設も存在しています。

 調教コースには芝コース、ダートコース、障害用コース、ウッドチップコースに加えて、オールウェザー対応の新素材を敷き詰めたニューポリトラックなどがります。また、プール調教用のプール、森林馬道、診療所などが設置されています。

美浦トレセン南側調教コース
美浦トレセン南側調教コース(上記写真では右側)

 美浦トレセンは競走馬の訓練施設としては最大級かつ最高級の水準にありますが、関西のJRA栗東トレーニングセンターに比べて所属馬の勝利数と獲得賞金が少ないという指摘が昔からあります。関東で行われる競争を予想するときに、関西馬が出場しているかどうかを気にする人もいます。いろいろな原因が考えられますが、有力な原因としては調教コースの坂路コースの問題があげられます。

 美浦トレセンが開場したのが1978年4月、栗東トレセンが開場したのは1969年11月です。関東の競馬場は坂が多く、関西馬は坂に慣れていないという問題がありました。1985年に栗東トレセンに坂路コースが作られると、関西馬の実力が向上し、東京競馬場や中山競馬場で関西馬の活躍が目立つようになりました。美浦トレセンには坂路コースがないため、関西馬と関東馬の実力に差がつき始めました。

 美浦トレセンに坂路コースを設置する場所を確保することは難しく、1993年まで坂路コースが設置されることはありませんでした。新設さらた美浦トレセンの坂路コースは栗東トレセンのものに比べて勾配が小さく、十分に競走馬を訓練することができませんでした。2004年に坂路コースの改修が行われましたが解決には至っていません。美浦トレセンの坂路コースのこれ以上の改善は環境的な要因から困難とされています。そこで、競走馬は栗東トレセンに留学したり、馬主都合で美浦トレセンから栗東トレセンに転厩する事例も少なくありません。

 この問題は関東馬の実力低下だけに止まらず美浦トレセンの存続にも関わることになります。そこでJRAは2018年に美浦トレセンの大規模改修を始めました。改善が難しいと言われていた坂路コースも距離を延長するのと同時に地下を掘り下げることによって高低差を栗東トレセンと同程度にすることになっています。坂路コースの完成は2022年、2026年に全体の工事が完了する予定です。

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2021年2月26日 (金)

ソフトボール大会での不思議な写真(昭和35年頃)

 昭和35年(1960年)ぐらいですが、職場のソフトボール大会での女性チームの活躍を撮影した写真です。

ソフトボール大会(昭和35年頃)
ソフトボール大会(昭和35年頃)

 キャッチャーの女性は中腰ながらボールを受けようと前方をしっかり見て構えています。

 一方、バッターの女性はバットの持ち方がしっくりしていません。それはともかく、この写真が捉えた瞬間はバッターがちょうどボールを打った直後だと思うのですが、どうしてバッターは高く飛び上がることになってしまったのでしょう。そして、この後、どうなったのでしょう。

 見ている女性たちもあまりにも冷静です。

 不思議な一枚の写真の紹介でした。

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2021年2月23日 (火)

荒川静香選手が金メダルを獲得(2006年2月23日)

 2006年2月10日から2月26日にかけてイタリアのトリノで開催された2006年トリノオリンピック。日本人選手のメダルの獲得が期待されていましたが、開幕から何日経過してもメダル獲得のニュースは聞こえてきませんでした。あっという間にたくさんの競技が終わり、気がついたらメダルを取れそうな協議はフィギュアスケートの女子シングルだけになっていました。

 トリノオリンピックに参加したフィギュアスケートの女子選手は荒川静香選手、村主章枝選手、安藤美姫選手でした。

 2月21日に行われたショートプログラムの滑走順は安藤美姫選手14番目、荒川静香選手21番目、村主章枝選手27番目でした。安藤美姫選手は初のオリンピック参加で、怪我をひきづっていたこともあり実力を発揮することができず56ポイント8位、村主章枝選手はほとんど完全な演技でしたが点数は伸びず61.75ポイント4位となりましたが、滑走順29番の米国サーシャ・コーエン選手が演技するまでは第3位につけていました。荒川静香選手はショパンの「幻想即興曲」でほとんどミスのない演技で66.2ポイント3位につけました。ショートプログラム終了時点での1位は米国のサーシャ・コーエン選手66.73ポイント、2位はロシアのイリーナ・スルツカヤ選手66.70ポイントでしたから、大接戦で2月23日のフリースケーティングを迎えることになりました。

 フリーの滑走順は安藤美姫選手14番目、荒川静香選手21番目、村主章枝選手22番目でした。ショートプログラム8位の安藤美姫選手はフリーであえて4回転サルコーに挑戦、回転不足で転倒し84.2ポイントで16位となりました。自分らしい演技、納得できる演技を求めてのオリンピックで4回転サルコーの挑戦だったと思います。その後の活躍を考えると、安藤美姫選手にとってトリノオリンピックはかけがえのない経験になったのではないかと思います。

 ショートプログラム首位のサーシャ・コーエン選手が荒川静香選手の直前の20番目に滑り、序盤のジャンプで失敗し、点数を伸ばすことができずに116.63 ポイントとなりました。

 荒川静香選手は「トゥーランドット」でフリーに挑戦。ループジャンプで失敗しましたがほとんど完璧に演技をこなしました。また加点のないイナバウアーをあえて取り入れ、点数だけではなく自己表現を重視した演技を行いました。荒川静香選手が演技を終えると観衆はスタンディングオベーション、自己最高得点125.32ポイントを叩き出し首位につけました。

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レイバック・イナバウアー

 荒川静香選手の直後は村主章枝選手が登場、フリップからコンボを失敗した以外はノーミスの演技でしたが、他の演技で高レベルが取れず、 113.48ポイントとなり、第3位につけました。村主章枝選手の後はショート5位の米国のキミー・ワイズナー選手の演技の終了時点で、荒川静香選手1位、サーシャ・コーエン2位、村主章枝選手3位となりました。

 そして、迎えた最終滑者24番目にロシアのイリーナ・スルツカヤ選手の登場です。もうこの時点で荒川静香選手のメダル獲得は確定しています。そのまま逃げ切って金メダルとなるか、イリーナ・スルツカヤ選手に逆転されて銀メダルになるかです。村主章枝選手が銅メダルを取れるかどうかもイリーナ・スルツカヤ選手の演技にかかっていました。イリーナ・スルツカヤ選手はフリーの最高得点は2005年ロシア杯で出した130.48ポイントです。村主章枝選手の銅メダルはもちろんですが、荒川静香選手選手の金メダルも厳しいと思っていました。

 ところが、イリーナ・スルツカヤ選手のフリーの演技はかつてみたことのない失敗の繰り返しとなりました。相当なプレッシャーがかかっていたのだとは思いますが、コンビネーションがシングルジャンプとなったり、トリプルフリップがダブルとなたあり、ループジャンプで転倒したりしてしまいました。これまで完璧な演技を確実にこなしていた選手とは思えないほどキレが悪い演技となり、村主章枝選手の113.48ポイントに及ばない114.74ポイントとなりました。このイリーナ・スルツカヤ選手の演技終了時点で荒川静香選手の金メダルが確定しました。

 自分は当時テレビを見ながらとあるBBSに参加してコメントを入れていたのですが、参加者全員がテレビを見ながら盛り上がっていました。金メダル確定の瞬間には掲示板が「やったー」「おめでとう」「えらい!」などの文字で埋め尽くされたことをよく覚えています。

 2006年トリノオリンピックで日本が獲得したメダルは荒川静香選手の金メダル1個だけでしたが、日本のみならずアジア選手として初めてオリンピックのフィギュアスケートで金メダルの獲得となり、大金星となりました。

 荒川静香選手が金メダルを獲得できたのはオリンピックで完璧な演技をすることをめざして練習を重ね、冷静に演技をこなすことができたからでしょう。冷静に完璧な演技をこなすことができたのは精神的にも強くなっていたからでしょう。

 荒川静香選手は1998年長野オリンピックに出場しましたが、2002年ソルクレートシティオリンピックには出場できませんでした。しかし、その後は練習を積み重ねて2004年の世界選手権で金メダルを獲得しています。当時、荒川静香選手は世界選手権やオリンピックなどはあまり眼中になく、世界タイトルを獲得した者しか参加できないアイスショーに出演することめざしていたようです。

 その後、インタビューで引退の表明をしたこともありましたが、2006年トリノオリンピックの出場権を得て、フィギュアスケートに向かい合い、オリンピックで完璧な演技をすることへの挑戦を始めたそうです。完璧な演技は高得点を狙うこととは違い、自分らしさを追求した完璧な演技をすることでした。だからこそ加点のないイナバウアーを取り入れたのでしょう。その結実が金メダル獲得につながり、観衆を感動させてスタンドオベーションを引き起こしたのでしょう。そして、あの日にBBSであの瞬間を共有した参加者全員を感動させたったのでしょう。

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2021年2月 7日 (日)

長野オリンピック開幕(1988年2月7日)

 日本で初めて開催された冬季オリンピックは1972年札幌オリンピック(ココログ 夜明け前札幌オリンピック開幕(1972年2月3日) 」)でした。札幌オリンピックは1964年東京オリンピックの開催による機運の高まりで招致できた経緯があり、冬季オリンピックをもう一度日本に招致するのは容易ではないと思っていました。1985年あたりから長野県で冬季オリンピックを招致する活動が始まり、1988年に日本オリンピック委員会が長野県を1988年冬季オリンピックの候補地としました。そして、1991年の国際オリンピック委員会の総会で長野オリンピックの開催が正式に決まりました。26年ぶりに日本で冬季オリンピックが開催されることになったのです。2021年時点で冬季オリンピックは過去に南半球で開催されたことが一度もなく、長野オリンピックは開催地としては最南端で行われた冬季オリンピックとなっています。

 自分は1972年の札幌オリンピックのことをよく覚えていましたから、長野オリンピックの開催をずいぶん楽しみにしていました。しかし、1998年になると仕事の大きな山場と重なり、テレビを見る時間も取れないぐらい忙しくなっていました。それでも中継を生放送で見たいと思った自分は家のテレビで録画しつつ、乾電池で作動するポータブルのテレビを携帯して観戦しました。

 札幌オリンピックではスキージャンプの70メートル級(ノーマルヒル)で「日の丸飛行隊」の笠谷選手・今野選手・青地選手がそれぞれ金・銀・銅メダルを活躍しましたが(ココログ 夜明け前日の丸飛行隊がメダル独占(1972年2月6日)」)、他の競技ではメダルの獲得はありませんでした。

 長野オリンピックでは選手層が厚くなり、スキージャンプだけではなく、他の競技でのメダル獲得が期待されました。結果は期待通りとなり、多くの日本人選手が活躍しメダルを獲得しました。

 スキージャンプの個人戦では船木和喜選手がラージヒルで金メダルとノーマルヒルで銀メダルを獲得、原田雅彦選手がラージヒルで銅メダルを取得しました。そして、ラージヒル団体では、岡部孝信選手、斉藤浩哉、原田雅彦、船木和喜のチームが金メダルを獲得しています。この団体戦には記憶に残る逆転優勝のドラマがありました。日の丸飛行隊の強さを見せつけたオリンピックとなりました。

 ノルディック複合競技の個人戦では荻原健司選手の活躍が期待されましたが、個人4位となりメダル獲得を逃しました。荻原健司選手の双子の実弟の荻原次晴選手は6位となりました。団体戦は1992年アルベールビル、1994年リレハンメルに続いて3連続金メダル獲得の期待がかかっていましたが、残念ながら記録が伸びず5位となり、メダルを獲得することはできませんでした。

 フリースタイルスキーでは女子モーグルで里谷多英選手が金メダルを獲得しました。冬季オリンピックのすべての競技において、日本人女子選手で初めて金メダルを獲得したのは里谷多英選手です。

 スピードスケートでは清水宏保選手が500メートルで金メダル、1000メートルで銅メダルを獲得、岡崎朋美選手が500メートルで銅メダルを獲得しています。ところで、1984年サラエボオリンピックの500メートルで銀メダルを獲得し、長野オリンピックのスピードスケートの解説をしていた北沢欣浩さんは小学校の同級生のお兄さんでした。スピードスケートがとても上手な兄妹だったことを覚えています。

 ショートトラックスピードスケートでは男子500メートルで西谷岳文選手が金メダル、植松仁選手が銅メダルを取得しました。ショートトラックは1992年アルベールビルから正式競技となり、日本は5000メートルリレーで銅メダルを獲得、1994年リレハンメルおよび長野オリンピックではリレーが5位でした。なお、西谷選手と植松選手はリレーには参戦していません。

 フィギュアスピードでは後に2006年トリノオリンピックで金メダルを獲得する荒川静香選手が参戦しています。1997年の全日本選手権で優勝を果たして長野オリンピックに臨みましたが失敗が重なり13位となりました。長野オリンピック出場をきっかけに実力をつけていきました。荒川選手がトリノオリンピックで加点がつかないイナバウアーを取り入れたのは、長野オリンピックでフランスのスルヤ・ボナリー選手が禁止技バックフリップにあえて挑戦したことに感動し、自分らしさを表現して人々の記憶に残る演技をしたかったからだそうです。

 次の冬季オリンピックは2022年、開催地は中国北京です。年々実力が向上してきている日本人選手の活躍に期待しています。

Olympicmovementffag

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2021年2月 6日 (土)

日の丸飛行隊がメダル独占(1972年2月6日)

 1972年2月3日に開幕した1972年札幌オリンピック(ココログ 夜明け前札幌オリンピック開幕(1972年2月3日)」)。当時、冬季オリンピックの日本人メダリストは1956年コルチナ・ダンペッツオ・オリンピック(イタリア)のアルペンスキー回転で銀メダルを獲得した猪谷千春選手だけでした。

 1972年札幌オリンピックではスキージャンプでのメダル獲得が期待されていました。そして、宮の森ジャンプ競技場で行われた70メートル級で笠谷幸生選手、金野昭次選手、青地清二がそれぞれ金メダル・銀メダル・銅メダルを獲得しました。日本人がメダルを独占したことから「日の丸飛行隊」と呼ばれまいた。3人の記録は次の通りです。

=金メダル 笠谷幸生(ニッカウヰスキー)

1本目126.6 84.0 m 2本目117.6 79.0 m 総合得点244.2

=銀メダル 金野昭次(北海道拓殖銀行)

1本目120.2 82.5 m 2本目114.6 79.0 m 総合得点234.8

=銅メダル 青地清二(雪印乳業)

1本目123.3 83.5 m 2本目106.2 77.5 m 総合得点229.5

 日本人として一番最初に飛んだのが金野昭次でした。今野選手は前年の調子が悪く、オリンピック出場も危うかったのですが、関係者の強い推挙もあり、何とか出場することができました。踏切のキレが非常に良く「カミソリジャンプ」と呼ばれていた今野選手は82.5 mの記録を出し、いきなりトップに立ちました。2本目は1本目の結果から助走路が下げられましたが、79 mまで飛距離を伸ばしました。スキージャンプでは記録の悪い選手から先に飛ぶのが慣例でしたが、金野選手のジャンプは日本人選手のレベルの高さを海外勢に見せつけることになり「切り込み隊長」と呼ばれました。

 青地選手は1967年に開催された全日本スキー選手権大会ジャンプ90m級で優勝し、1970年にはノーマルヒルの宮の森ジャンプ競技場のバッケンレコード85.5 mを記録していました。札幌オリンピックでのメダル獲得が期待されていました。1本目は期待通り、83.5 mまで飛距離を伸ばしました。2本目のジャンプではバランスを大きく崩して失速してしまいました。明らかに失敗ジャンプでしたが、何とか粘り強く体勢を持ち直して77.5mまで記録を伸ばし、銅メダルを獲得しました。もし、このジャンプが失敗していなければ銀メダルは確実だったかもしれません。

 笠谷選手は国内大会では圧勝を続けていましたが、1964年インスブルックオリンピック(70 m級23位、90 m級11位)や1968年グルノーブルオリンピック(70 m級22位、90 m級20位)では結果を出すことはできませんでした。しかし、1970年のチェコスロバキアで開催されたノルディックスキー世界選手権では70m級で銀メダルを獲得、1971年に札幌で開催されたプレオリンピック大会では70 m級で優勝し、世界大会でも頭角を現すようになりました。1972年の欧州ジャンプ週間では当時としては史上初の4戦全勝を成し遂げることが確実視されていましたが、札幌オリンピックの選考試合参加によって帰国したため最終戦を欠場し、総合優勝を果たすことはできませんでした。笠谷選手は選考大会を免除されていたそうですが、あえて選考大会に出場したうえで、オリンピックに出場したそうです。笠谷選手の1本目は踏切のタイミングも良く、バネのように飛び上がり、前傾姿勢を深く取って滑空し、84 mの最長記録を出しました。2本目は踏切がややうまくいきませんでしたが、金野選手と同じ79 mまで飛距離を伸ばし、金メダルを獲得しました。

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笠谷幸生選手のジャンプ

 ところで1972年札幌オリンピックのスキージャンプ70メートル級の日本人選手と言えば上記3人が有名ですが、もう一人の日本人選手が参加していました。国土計画の藤沢隆選手です。藤沢選手は1本目81 mで4位につけていました。つまり1本目終了時点では日本人が第4位までを独占していたのです。しかしながら、藤沢選手の2本目は残念ながら失敗ジャンプとなり記録は68m、総合23位となりました。4位のノルウェーのインゴルフ・モルク選手は1本目も2本目も記録は78 mでしたから、藤沢選手が2本目のジャンプを失敗していなければ、おそらく日本人が第4位まで独占できたはずです。

=23位 藤沢隆(国土計画)

1本目117.8 81.0 m 2本目90.0 68.0 m 総合得点207.8

 2月11日に大倉山ジャンプ競技場で行われた90メートル級でも日本人選手のメダルの獲得が期待されていましたが、1本目で笠谷選手が106 mで2位につけたものの、2本目は横風にあおられて距離を伸ばすことができず85 mとなり、総合7位となりました。他の日本人選手も記録を伸ばすことができず、90メートル級でのメダル獲得は実現しませんでした。なお、90 m級には青地選手は出場せず、国土計画の板垣宏志選手が出場しました。

=7位 笠谷幸生(ニッカウヰスキー)

1本目124.9 106.0 m 2本目84.5 85.0 m 総合得点209.4

=12位 金野昭次(北海道拓殖銀行)

1本目109.7 98.0 m 2本目89.4 88.5 m 総合得点199.1

=14位 藤沢隆(国土計画)

1本目107.2 95.5 m 2本目89.9 86.0 m 総合得点197.1

=19位 板垣宏志(国土計画)

1本目96.0 90.0 m 2本目871.1 84.0 m 総合得点183.1

 現在のジャンプの選手は飛距離を伸ばすためスキー板を大きく開いて飛びますが、当時は飛距離に加えて飛行姿勢や着地姿勢が重視されていました。スキー板を閉じて深い前傾姿勢で滑空し、綺麗なテレマークで着地する笠谷選手のジャンプは本当に綺麗でした。

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2021年2月 3日 (水)

札幌オリンピック開幕(1972年2月3日)

 日本で初めて開催されたオリンピックは1964年の東京オリンピックです。1964年東京オリンピックはアジアで開催された初めての夏季オリンピックにもなりました。

 実は日本よびアジアでの初のオリンピックは1940年に開催されるはずでした。1940年に夏季オリンピックが東京で、冬季オリンピックが札幌で行われることが決まっていました。しかしながら、1937年に開戦した日中戦争の激化や当時の世界情勢の中での日本の立場を鑑み、日本政府は1940年の東京オリンピックと札幌オリンピックの開催の権利を返上したのです。

 第二次世界大戦後、1964年東京オリンピックの開催が決まると、過去の経緯から札幌オリンピック開催の気運が高まりました。札幌は1968年の冬季オリンピックの開催地として立候補しましたが投票で負けてしまい実現は叶いませんでした。しかし、1972年の開催地としての立候補の投票では過半数を獲得することができ、1972年札幌オリンピックの開催が決まりました。1972年札幌オリンピックは同年(昭和47年)2月3日から2月13日まで行われ、日本およびアジアで初めて開催された冬季オリンピックとなりました。

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1972札幌オリンピックのポスター

 自分は1972年には北海道釧路市に住んでいました。当時は小学校の中学年でした。北海道の学校では運動会の他に冬になるとスキー大会やスケート大会が開かれます。釧路市はスケートが盛んで、学校ではスケート大会が開かれていました。多くの子どもたちはスピードスケートの靴で滑ります。ホッケーも盛んに行われていました。一方、スキーについては、釧路市内は坂がほとんどありませんのでほとんど滑る機会がありませんでした。平地ではスキー板で地面を蹴ってスケーティングで進むぐらいですから、スケートの方が楽しかったのです。それでも、スキーには興味があり、テレビで大会などをよく見ていました。

 そのような背景で始まった1972年札幌オリンピックですが、やはりスキー競技よりもスケート競技に興味がありました。ボブスレーやリュージュ、バイアスロンなどの競技は札幌オリンピックで初めて認識した記憶があります。また、テーマ曲の「虹と雪のバラード」もテレビをはじめとして至る所でかかっていました。確か実家には記念コインの100円とシンボルロゴを横向きにしたネクタイピンがあったと思います。今度、実家に戻ったときにでも探してみよう。

 スケート競技では当時は有力な日本人選手がいなかったため、友達ともあまり盛り上がらなかったように思います。フィギュアスケートで銅メダルを取得した米国のジャネット・リン選手は大人気でした。ジャネット・リン選手はフリーでスピンで転倒して尻もちをついてしまいましたが、演技そのものは美しく高得点を獲得しましたが、当時の規程のコンパルソリーフィギュアが不得意だったため銅メダルとなりました。転んでも笑顔で滑り続けるジャネット・リン選手の姿は全世界の人々を感動させました。日本では「札幌の恋人」「銀盤の妖精」と呼ばれ、大人気となりコマーシャルにも出演ししまた。

 さて、スキーの方もアルペンスキー、クロスカントリーでは日本人選手の活躍はありませんでしたが、ノルディック複合では北海道の勝呂裕司選手がメダルは逃したものの5位となりました。そして、1972年札幌オリンピックでの日本人選手の活躍と言えば、スキージャンプ70メートル級で金メダルを獲得した笠谷幸生選手、銀メダルを獲得した金野昭次選手、銅メダルを獲得した青地清二の「日の丸飛行隊」でしょう。90メートル級も期待されましたが、残念ながらメダルの獲得には至りませんでした。

 「日の丸飛行隊」の話は70メートル級の競技が行われた2月6日に記事をアップする予定です。

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2021年1月15日 (金)

男子100メートル「10秒の壁」を破った選手たち

 陸上競技の男子100メートルの世界記録は9秒台ですが、かつては9秒台を達成するのは極めて難しいとされ「10秒の壁」と言われていました。

 ワールドアスレティックス(WA、世界陸連)が公認している男子100メートルの最初の世界記録は、1912年7月6日にストックホルムオリンピックで記録された米国ドナルド・リッピンコット選手の10秒6でした。当時は手動ストップウォッチしかありませんでしたので、記録は1/10秒までしか計測することができませんでした。1/100秒まで計測可能な電動時計が使われ始めたのは1964年の東京オリンピックからですが、1976年までは手動と電動の計測結果の両方が公認記録とされました。電動時計の計測結果のみが公認となったはのは1977年以降です。

 1912年の記録から50年以上「10秒の壁」が破られることはありませんでしたが、1968年6月20日にカリフォルニア州サクラメントで開催された全米選手権において、ジム・ハインズ選手、 チャールズ・エドワード・グリーン選手、ロニー・レイ・スミス選手の3人が10秒の壁を破り、9.9秒を記録しました。この記録は公認されていますが手動計測によるもので、同時に行われた電動計測の結果では、それぞれ10秒03、10秒10、10秒14でした。

 電動計測で「10秒の壁」を破ったのは1968年10月14日のメキシコシティオリンピックで金メダルを獲得したジム・ハインズ選手です。このときの記録は電動計測で9.95秒、手動計測も9.9秒でした。世界記録は9秒95と認定され、人類初の9秒台の達成となりました。公認記録としては前述の3人が9.9秒を達成していることになっていますが、実質的にはジム・ハインズ選手の9.95秒が世界初の9秒台でしょう。

 さて、メキシコシティオリンピックは標高2000メートル超える高地で行われたため、ジム・ハインズ選手の9.95秒は「高地記録」とされました。標高が高いと気圧が低く空気抵抗が少ないためより速く走れますが、明確な基準がないため「高地記録」と記された公認記録となります。

 次に「10秒台の壁」を破って世界新記録を達成したのは米国のカルヴィン・スミス選手で、1983年7月3日にコロラドスプリングスで開催されたU.S. Olympic Festivalで9.93秒を記録しました。ジム・ハインズ選手から15年も経過しており、この記録も高地記録と記され、高地では好記録が出るジンクス通りとなりました。

 世界記録更新ではないものの、このジンクスを打ち破り、初めて平地で9秒台を達成したのが米国のカール・ルイス選手です。1983年5月14日にモデストで開催されたModesto Invitational Track and Field Meet で9.97秒を記録しました。カール・ルイス選手はその後も記録を更新し、1988年のロサンゼルスオリンピックでカルヴィン・スミス選手の世界記録を更新する9秒92しました。1991年に東京で開催された世界陸上競技選手権大会では9.86秒を記録し、人類史上初めて9.8秒台で100メートルを駆け抜けました。

 1990年代以降、世界記録は次のように数年ごとに更新され、「10秒の壁」は消滅し、9秒台の記録が当たり前になりました。

・米国のリーロイ・バレル選手(1994年9.85秒)

・カナダのドノバン・ベイリー選手(1996年9.84秒)

・米国のモーリス・グリーン選手(1999年9秒79)

・ジャマイカのアサファ・パウエル選手(2005年9秒77、2007年9秒74)

・ジャマイカのウサイン・ボルト選手(2008年9秒73、2008年9秒69、2009年9秒58)となっています。

 しかしながら、2009年のベルリンオリンピックのウサイン・ボルト選手の9秒58を最後に現在に至るまで世界記録は更新されていません。9秒58は前人未到の記録どころか後人未到の記録になっています。9秒7の壁を破った選手はボルト選手の他に米国のタイソン・ゲイ選手(2009年9秒69)、ジャマイカのヨハン・ブレーク選手(2012年9秒69)しかいません。ボルト選手の9.58秒がいかにすごい記録かわかります。

ウサイン・ボルト選手のベルリンオリンピックでの世界記録については

「ココログ」夜明け前の「ウサイン・ボルト選手の最高速度は時速何キロか?

に20メートルごとのラップタイムや最高速度、およびYouTube映像のURLを記載してありますので、興味がありましたらご一読ください。

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2020年12月28日 (月)

おめでとう!紀平梨花選手が4回転サルコー成功

 フィギュアスケート全日本選手権女子シングルで紀平梨花選手が二連覇を達成し、さらに4回転サルコーを綺麗に決めました。

紀平梨花が連覇 全日本フィギュア 女子フリー 本人生解説

 女子の4回転サルコーは難易度が高く、これまで成功していたのは2002年ジュニア・グランプリ・ファイナルでの日本の安藤美姫選手、2018年世界ジュニアフィギュア選手権でのロシアのアクレサンドラ・トルソワ選手、2019年世界選手権でのカザフスタンのエリザベート・トゥルシンバエワ選手のみです。

 安藤美姫選手は2006年のトリノオリンピックで4回転サルコーに果敢に挑戦しましたが失敗してしまいました。その後、2007年11月の練習では綺麗に4回転サルコーを飛んでいますが、もともとジャンプの得意な安藤美姫選手は連続ジャンプなどで実力をつけ、4回転サルコーは封印していました。

Video5
安藤美姫選手の2007年11月の練習での4回転サルコー
(クリックでGIFアニメを見ることができます・)

 その後、ジャンプ力に加えて高速回転が要求される難易度が高い大きい4回転サルコーに挑戦する選手はなかなか出てこないと思っていましたが、安藤美姫選手の2007年の練習から10年以上も経過してロシアのロシアのアクレサンドラ・トルソワ選手とカザフスタンのエリザベート・トゥルシンバエワ選手が4回転サルコーに成功しました。

 トリプルアクセルをはじめ元々ジャンプに定評のあった紀平梨花選手ですが、4回転サルコーは2019/2020ISUグランプルファイナルで挑戦して失敗していました。このシーズンはスケート・カナダでロシアのアクレサンドラ・トルソワ選手が4回転サルコーを成功させ、紀平梨花選手は2位となっていました。ファイナルでの優勝には4回転サルコーが必要と考えての挑戦と思います。

 そして、その後も努力を積み重ねて、ついに今シーズンの全日本選手権で見事に成功させました。世界レベルの得点を叩き出すことができ、北京オリンピックがとても楽しみになりました。

 女子フィギュアの4回転サルコーは世界で初めて成功させた安藤美姫選手の頃からずっと気になっていました。特に女子の4回転サルコーが必須になっていく中で日本人選手はどうなるのかと思っていました。

 その中でジャンプの得意な紀平梨花選手には期待して見ていたのですが、4回転サルコーの着氷の瞬間、すっきりしました。そして演技終了のときには感動しました。そして、この結果に至るまでのプロセスが重要であることを教えてくれました。

 紀平梨花選手、ありがとうございます!

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2020年12月26日 (土)

ジャイアンツの日(1934年12月26日)

 1931年、読売新聞社の正力松太郎社長は米国からメジャーリーグの選抜チームを招待し、六大学を中心とする日本のチームとの日米対抗試合を行いました。この興業は成功を収めましたが、1932年に文部省が発令した「野球統制令(野球ノ統制並施行ニ関スル件)」により、学生野球の興行化が禁止されました。再度、メジャーリーグを召喚し、対抗試合を計画していた正力は関係者の提案と協力を得て職業野球チームを結成に向けて動きました。

 1934年10月、千葉県の谷津球場(後の谷津遊園)に総勢30名の選手が集まり、日米対抗試合に向けての全日本チームが結成されました。1934年11月、ルー・ゲーリッグ、ベーブ・ルース、ジミー・フォックス、レフティ・ゴメスなどの有力選手が参加したコニー・マック監督が率いる全米選抜野球チームが来日し、全国各地で全日本チームとの試合が行われました。全日本チームは16戦全敗の結果でしたが、11月20日に静岡県草薙球場で開催された試合では、日本の沢村栄治投手がルー・ゲーリックの本塁打による1失点のみに抑える好投を行いました。

 この日米対抗試合の興業が大成功したことで、12月26日に大日本東京野球倶楽部が創立されました。全日本チームを中心とする19名が創立メンバーとなり、その後3名を加えて22名となりました。

 1935年2月、大日本東京野球倶楽部は米国に遠征しますが、名称がわかりにくいとの指摘を受け、提案された東京ジャイアンツと名乗りました。米国では128日間に109試合が行われ、75勝33敗1分の好成績を収めました。米国からの遠征後、チームの名称をどうするかについて議論がありましたが、正力がジャイアンツという名前を選び、ジャイアンツを巨人とし、1936年に東京巨人軍となりました。

GIANTSのユニフォームで投球する沢村栄治投手
GIANTSのユニフォームで投球する沢村栄治投手

 最後になりますが、12月26日の大日本東京野球倶楽部の創立メンバーとして加えられ、日米対抗試合で沢村栄治投手とバッテリーを組んだのが函館太洋倶楽部(函館オーシャンクラブ)の久慈次郎捕手でした。久慈選手は大日本東京野球倶楽部に主将として参加することを求められていましたが、函館大火事で疲弊する函館のことを憂い、函館でアマチュア選手として野球を続けることを決心しました。この話はココログ・夜明け前「函館の野球の球聖 久慈次郎」で紹介しましたので、興味のある方はご一読ください。

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2020年11月25日 (水)

函館の野球の球聖 久慈次郎

 一般に野球の球聖というと米国のメジャー・リーグで活躍したタイ・カッブ選手のことですが、かつて函館には球聖と言える野球選手がいました。その選手の像が函館市オーシャンスタジアム(千代台公園野球場)に佇んでいます。その選手とは函館太洋倶楽部(函館オーシャンクラブ)で捕手として活躍した久慈次郎選手です。

学生時代の久慈選手(左)と函館オーシャンスタジアムの像(右)
学生時代の久慈選手(左)と函館オーシャンスタジアムの捕手の構えの像(右)

 久慈選手は明治31年(1898年)に青森県青森市で生まれ、幼少期を岩手県盛岡市で過ごしました。身長が180 cm以上あったため、野球の捕手として活躍する機会が多く、盛岡中学(現岩手県立盛岡第一高等学校)に入学すると、本格的に野球を始めました。盛岡中学を卒業後は早稲田大学へと進学しました。

 久慈選手は捕手としては投手を的確にリードし、送球による盗塁の阻止や牽制、一塁へのベースカバーやバンドやフライの処理なども見事なものでした。投手へのリードによって、わざと打者にファールフライを打たせてアウトにすることが多々ありました。また、打者としても、3・4・5番のクリーンアップで活躍しました。イチロー選手のようにチャンスに強くて足が早かったそうです。

 早稲田大学を卒業した久慈選手は大正11年(1922年)に当時函館市に存在していた電力会社である函館水電に入社し、函館太洋倶楽部に入団しました。昭和2年(1927年)、神宮球場で開催された第一回全国都市対抗野球大会に参加、同年に函館水電を退社し、久慈運動具店を開業しました

 昭和6年(1931)に来日したアメリカ大リーグ選抜チームとの日米野球大会で、全日本チームに捕手兼主将として選ばれました。3年後の昭和9年(1934年)の同大会にも捕手兼首相として参加し、現在においては沢村賞で有名な当時全日本のエースであった沢村栄治とバッテリーを組みました。大リーグの選抜チームはコニー・マック監督が率い、大打者のべーブ・ルース、ルー・ゲーリッグ、ジミー・フォックス、名投手レフティ・ゴメスが参加した強豪チームです。16戦全敗の結果でしたが、沢村選手と久慈選手のバッテリーは大リーグの強豪相手に良く戦いました。特に静岡草薙球場で行われた試合においては、沢村選手が好投し、ルーゲー・リッグ選手の本塁打による1失点のみに抑えました。このとき、沢村選手は久慈選手のサインに対して首を振り、久慈選手のリードを拒否する仕草をしましたが、最終的に沢村選手が投じた一球がどちらの意図によるものなのかはわかっていないようです。

 ところで、函館市は昭和9年3月に死者2000人以上にものぼる大火に見舞われていました。炎は函館の半分を焼き尽くし、函館市民は疲弊していました。このとき久慈選手は日米野球大会の主催者の読売新聞社に16試合のうちせめて1試合を函館で開催して欲しいと嘆願しました。読売新聞社はこれを受け入れ、同年11月8日に久慈選手は函館市民が見守る中でプレーしました。

 このときの全日本チームのメンバーを中心としてプロ野球チーム「大日本東京野球倶楽部」(現:読売ジャイアンツ)が結成されることになり、久慈選手は主将としてチームへの参加を要請されました。当時としては破格の給与での対応でしたが、久慈選手はこの申し入れを断っています。大火の影響が続き、復旧の目処が立たない函館でアマチュア野球の発展に貢献することを決意したのです。

 その後、函館太洋倶楽部の監督兼捕手となった久慈監督は、毎年北海道代表としてチームとともに全国都市対抗野球大会に出場しました。毎年1回戦で敗退を続けていた函館太洋倶楽部ですが、昭和14年(1939年)に初めて1回戦に勝利しました。久慈監督はチームのメンバーとともにたいへん喜んだそうです。

 同年8月、札幌神社外苑球場で小樽新聞社主催の北海道樺太実業団野球大会が開かれました。19日、函館太洋倶楽部は1回戦で札幌倶楽部と対戦しました。2対1で札幌倶楽部がリードする7回表、ノーアウトランナー1塁で久慈監督は打席に立ちました。札幌倶楽部のバッテリーは久慈監督を敬遠しました。久慈監督は1塁に進みましたが、途中で振り返り、次の打者に声をかけようとしました。このとき、札幌倶楽部の捕手が投げた牽制球が久慈監督のこめかみを直撃したのです。試合は中断となり、久慈監督は直ちに病院に搬送され緊急手術を受けました。治療の甲斐もなく、久慈監督の意識が戻ることはなく、残念ながら帰らぬ人となってしまいました。死因は頭蓋骨破損による脳出血でした。8月21日のことでした。

 久慈監督がいかに素晴らしい選手であったかはその後の球界の対応でもわかります。全国都市対抗野球大会では敢闘賞として久慈賞が設立されました。また、昭和34年(1959年)に始まった野球殿堂においては、沢村栄治選手とともに第1回の殿堂入り選手となっています。

 もしも久慈選手が大日本東京野球倶楽部に入団していたら読売ジャイアンツの歴史に残る名捕手になっていたことでしょう。しかし、久慈選手は函館市を足がかりに北海道で野球をプレーし続けることを決意し、函館の球聖になったのです。

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