カテゴリー「アニメ・コミック」の16件の記事

2022年9月25日 (日)

バカボンのパパ参上「天才バカボン」放送開始(1971年9月25日)

 「天才バカボン」は赤塚不二夫原作のギャグ漫画です。「天才バカボン」は1967年4月9日の「週刊少年マガジン」に登場しました。途中で「週刊少年サンデー」に連載が切り替わりましたが最終的には「月刊少年マガジン」の連載となり1978年12月号で終了しました。

 自分は漫画も見ていましたがやはりインパクトが大きかったのは「天才バカボン」のテレビアニメです。「天才バカボン」のテレビアニメは当初は1968年10月から日本テレビで放映する予定でパイロット版も作成されましたが諸問題により企画が頓挫しています。

 「天才バカボン」のテレビアニメが始まったのは1971年9月25日、読売テレビで毎週土曜日の19時00分~19時30分に放映されました。「天才バカボン」が始まる前、この時間帯は「巨人の星」が放映されていました。「巨人の星」の最終回の最後に星飛雄馬などの登場人物が登場し、バカボン一家を紹介します。飛雄馬がバカボンに後をよろしくと言うと天才バカボンの予告編が始まりました。

 テレビアニメ版の「天才バカボン」が原作に比べると過激な表現などが削られてずいぶんとマイルドな作りになっています。原作はナンセンスなドタバタ漫画ですが、テレビアニメ版はナンセンスでありながら人情的な物語に仕上がっています。

 キャラクターのデザインや設定は原作をほぼ踏襲していますが、原作では無職だったバカボンのパパがテレビアニメでは植木屋さんになっています。バカボンのパパに仕事を持たせるのはスポンサーの大正製薬やテレビ局の意向だったようです。バカボンのパパに仕事をもたせると言ってもスーツを着せて会社に通わせるわけにもいきません。そこで脚本を担当していた雪室俊一さんが植木屋という設定にしたそうです。植木屋さんであればスーツを着せることもありません。結果として同じ会社に通うサラリーマンと違っていろいろなところに出かけるので話が広げることができたそうです。一方でバカボンのパパは無職でなければいけないと考えていた赤塚先生は断りもなく設定が変更されてしまったことに憤慨し失望されたそうです。

 あとキャラクターデザインが大きく変わったのは本官さんです。原作では目がつながっていて鼻の穴も1つでしたが、テレビアニメでは目はつながっておらず鼻の穴も2つあります。次の絵は自分がずいぶん前に原作とかアニメの違いを考えずに何も見ないでパソコンでマウスで描いた本官さんです。まるで原作の本官さんに仕上がっています。今でも本官さんはアニメより原作の顔の方が強烈に記憶に残っています。

天才バカボンの本官さん
天才バカボンの本官さん

 今では人気の「天才バカボン」は最初から広く受け入れられてわけではありません。当時のPTAは「子どもに見せたくない番組」としてテレビ局にクレームを入れていました。その影響もあって放送開始直後は自分の家でも「天才バカボン」はなかなか見せてもらえませんでした。チャンネルを回すふりをしてバカボンのチャンネルでしばらくとめるなど姑息な手段を使って見ていました(^^ゞ

 あるとき父が自分と弟を「東宝チャンピオンまつり」(1972年公開)に連れて行ってくれたのですが、そのとき「天才バカボン 夜まわりはこわいのだ」が放映されました。これはアニメ第33話です。バカボンとパパと酔っ払いのおじさんが眼科の看板に背広を着せて本官さんをびっくりさせるシーンなどを見て3人で大笑いしました。

 この日を境に家では父の了承のもと「天才バカボン」を見ることが全面的に解禁になったのです。それ依頼、父と自分と弟で毎週3人で「天才バカボン」を大笑いしながら見るようになったのですが、母は納得がいかなかったようです。

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2022年9月18日 (日)

ブラック・ジャック定期連載終了(1978年9月18日)

 手塚治虫先生の漫画「ブラック・ジャック」は秋田書店の漫画雑誌「週刊少年チャンピオン」の1973年11月19日号から連載が始まりました。

 手塚先生は1950年「ジャングル大帝」、1952年「鉄腕アトム」にはじめ少年漫画雑誌で数々の作品を生み出しました。しかし、1960年代後半になると少年雑誌が若手の漫画家を起用しはじめたり、劇画の人気が高まったりしたため活躍の場が少なくなりました。1973年には旧虫プロダクションと虫プロ商事が倒産し、手塚先生にとってこの時期は厳しい状況が続きました。

 「週刊少年チャンピオン」編集部は手塚先生の状況を憂慮し、手塚治虫の漫画家としての活動30周年を記念する作品の企画を立てました。この企画では手塚治虫作品の全キャラクターが出るスターシステムの作品とされました。連載を快諾した手塚先生は手塚漫画のキャラクターが病気となってブラック・ジャックという医者にかかっていく物語を考えました。また、これまでのヒーロー的な路線を変更し、ブラック・ジャックをアウトサイダー的な存在として描くことにし、卓越した腕を持つが無免許医で法外な手術代を請求する医者という設定にしました。

 「ブラック・ジャック」は短期間の連載の計画で始まりました。当初はそれほど人気も上がりませんでしたが連載を重ねるうちに人気が出始めその後10年間の「週刊少年チャンピオン」の人気を支える作品のひとつとなりました。

アッチョンブリケ
アッチョンブリケの変顔

  「ブラック・ジャック」の定期連載は1973年9月18日号の第229話「人生という名のSL」で終了しました。「人生という名のSL」ではSLに乗っているブラック・ジャックが次々と懐かしい知人と会って話をするという物語です。

 そういえば2007年に放送された「世にも奇妙な物語 春の特別編 2007年」の「回想電車」が「人生という名のSL」に似ていました。「回想電車」は赤川次郎先生の1999年の小説です。ある男が人生を回想するように電車で懐かしい人に出会うという物語です。結末は「人生という名のSL」とは全く異なります。

【関連記事】ブラック・ジャック定期連載終了(1978年9月18日)

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2022年9月14日 (水)

銀河鉄道999放送開始(1978年9月14日)

 銀河鉄道999は松本零士先生のSF漫画です。自分が初めて銀河鉄道999を見たのはアニメではなく少年画報社の少年キングでした。少年キングでの連載は1977年でテレビのアニメ化より1年以上前です。

 当初、銀河鉄道999の連載は10話が予定されており、松本先生は10話分を編集部に渡して自身はアフリカ旅行に出かけたそうです。1977年1月に連載が始まると宇宙戦艦ヤマトの効果もあり大人気となり、連載は1981年9月まで5年間続き全220回で終了しました。少年キングでの連載は松元先生が多忙だったため非常にゆっくりとしたペースで進みました。掲載のないときもありましたし、数ページしか掲載されていないこともありました。宇宙空間を背景に999号とメーテルと鉄郎が見開きで大きく描かれたような絵がよく掲載されていたことを覚えています。少年キングを読んでいるだけでは物語が途中でわからなくなってしまうこともあったためヒットコミックスを買い集めました。

 銀河鉄道999のテレビアニメが放送されたのは1978年9月14日です。漫画を見ていたのでアニメの放送開始は楽しみにしていました。宇宙戦艦ヤマトとは異なる宇宙観になるであろうことはわかっていましたが、「無限に広がる大宇宙」を改めて認識してしまいました。オープニングの映像、主題歌、鉄郎やメーテルの声、すべて自然に受け入れることができました。

 銀河鉄道999は宮沢賢治「銀河鉄道の夜」とモーリス・メーテルリンク「青い鳥」がアイデアの元になっているそうです。銀河鉄道999の物語には星野鉄郎がメーテルと一緒に999に乗って機械の身体を無償提供してくれる終着駅を訪れるという大きな目標があります。そして終着駅めざす途上で停車する特異な星々での出来事の体験や教訓が全体の物語を創り上げていきます。見ている側もまるで一緒に旅をしているように感じました。

【関連記事】銀河鉄道999放送開始(1978年9月14日)

宇宙戦艦ヤマト放映開始(1974年10月6日)

光速エスパー放送開始(1967年8月1日)

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2022年9月 6日 (火)

宇宙戦艦ヤマト生還(2200年9月6日)

 時に西暦2199年、地球はガミラス星から遊星爆弾の攻撃を受け、人類は放射能汚染による滅亡の危機にさらされていた。

コミック版宇宙戦艦ヤマト(松本零士)
コミック版宇宙戦艦ヤマト(松本零士)

 宇宙戦艦ヤマトが放射能除去装置コスモクリーナーDを取りに行くため地球から遙か14万8千光年彼方にあるイスカンダルへ旅だったのは2199年10月8日です。

 地球とイスカンダルの往復距離は29万6千光年、人類に残された時間はわずか1年間しかありません。イスカンダルから提供された設計図を元に作られた波動エンジンがワープ航法でこの長旅を可能とします。

 しかし、ヤマトの行く先々にはガミラス艦隊が待ち受けています。ガミラスとの決戦を繰り返しながら任務を遂行する宇宙戦艦ヤマトが地球に生還したのは西暦2200年9月6日、人類は青い地球を取り戻したのです。最終回は地球に生還するヤマトとヤマト帰還後に赤色となった地球が青色を取り戻す映像とともに次のメッセージが流れました。

 西暦2200年9月6日ヤマト生還  宇宙は何事もなかったかのごとく 平和な時を息づいていた。

 さて宇宙戦艦ヤマトの放送開始は1974年10月6日でした。初回放送時はあまり人気がありませんでした。裏番組でカルピスまんが劇場の「アルプスの少女ハイジ」や円谷プロダクションの「SFドラマ 猿の軍団」が放送されていたのです。また、当時は子ども向けと考えられていたアニメ番組の中で宇宙戦艦ヤマトは異色の存在でした。宇宙戦艦ヤマトの視聴率は低迷、当初は全39回の放送が予定されていましたが短縮を余儀なくされ1975年3月30日に全26話で最終回を迎えました。しかし、再放送や映画化で宇宙戦艦ヤマトは大人気となり、子どもから大人まで幅広い年齢層が楽しめるアニメの先駆けとなりました。

【関連記事】宇宙戦艦ヤマト生還(2200年9月6日)

宇宙戦艦ヤマト放映開始(1974年10月6日)

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2022年8月29日 (月)

オバケのQ太郎が放映開始(1965年8月29日)

 漫画「オバケのQ太郎」は昭和39年(1964年)1月22日に小学館の週刊少年サンデー6号で連載が始まりました。当時の回想によると編集部に出入りしていた子どもが描いたお化けの漫画に着想してお化けを主人公とした漫画を藤子不二雄に連載を依頼することになったようです。

 当時、不藤子不二雄は藤本弘(後の藤子・F・不二雄)と安孫子素雄(藤子不二雄Ⓐ)の両先生がコンビとして漫画を執筆していました。漫画「オバケのQ太郎」は藤子不二雄とトキワ荘出身の漫画家で設立した「スタジオ・ゼロ」雑誌部のメンバーと手がけることになりました。週刊少年サンデーでの連載が始まりましたが読者の反応が鈍かったことや藤子不二雄自身もそれほど身が入らなかったため連載は9回にして終了してしまいました。

 ところが連載終了後に多くの読者から編集部に連載再開を求める手紙が押し寄せ、週刊少年サンデー編集部は3ヶ月後に「オバケのQ太郎」の連載を再開しました。再開された連載では藤子不二雄が中心となり、スタジオ・ゼロのメンバーは作画協力として参加する体制になりました。Q太郎の絵は藤本先生、正太君は安孫子先生、その他の人物は石ノ森章太郎先生と赤塚不二夫先生、背景画は北見けんいち先生(釣りバカ日誌)が担当していました。

 連載が再開すると「オバケのQ太郎」は大人気となり小学館の学年誌などにも掲載されるようになりました。さらにアニメ化が決まり昭和40年(1965年)8月29日にTBS系「不二家の時間」(日曜19:30~20:00)で「オバケのQ太郎」が始まったのです。この頃、テレビでは流行していたSFアニメの人気にかげりが出始めていました頃で、日本初のギャグアニメの主人公Qちゃんは子どもたちの心を鷲づかみしたのです。

オバケのQ太郎
オバケのQ太郎

  「キュッ!キュッ!キュッ!」で始まる石川進さんが歌う主題歌「オバケのQ太郎」、「オッ!オッ!オバケのケノケノマーチ」で始まるQ太郎の声優の曽我町子さんが歌う「オバQマーチ」が大人気となりました。また曽我町子さんの「オバQ音頭」は当時の盆踊りの定番となり多くの子どもたちがが「オバQ音頭」に合わせて踊りました。

【関連記事】オバケのQ太郎が放映開始(1965年8月29日)

パーマン誕生の日(1967年4月2日)

マッハGoGoGo放送開始(1967年4月2日)

「巨人の星」放送開始(1968年3月30日)

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2022年6月14日 (火)

夢でパーマンになった話

 子どもの頃から時々見る夢にヒーローになった夢がある。

 その中のひとつがパーマンになった夢である。

 本当はスーパーマンになりたかったのに。

 あるとき手に入れたのはパーマンセットだった。

 まぁスーパーマンもパーマンも空を飛べるし力もあるのだからいいだろう。

 さっそくパーマンセットを装着する。

パーマン参上
パーマン参上

 マスクをかぶった瞬間にみなぎる力。

 これでいいのだ。

 続いて肝心の空飛ぶマントを装着する。

 手をまっすぐに伸ばして大空に向かって飛び立つのだ。

 よし!飛び立つことができたぞ。

 飛ぶってこういうことか。

 初めての空飛ぶ体験である。

 あれっ地面から空中には飛び立つことができたが空高く上昇できない。

 高度1メートルぐらいしか浮いていない。

 スピードも遅い。

 なんだこれ?

 あー!塀にぶつかる!

 と思ったら塀の1メートル手前で塀に沿うように垂直に上昇。

 塀の縁まで上昇して塀の上を飛んでいく。

 堀の縁から1メートルの高さを飛んでいる。

 なんかおかしい。

 セットについてきた取扱説明書を読んでみた。

 「このマントを使うと物体から1メートル離れたところを時速20キロメートルで飛ぶことができる」とある。

 つまりだ。

 このマントでは地面から高度1メートルのところしか飛べないのだ。

 だから山登りであれば山肌を高度1メートルで飛んで頂上までいける。

 ビルなどは壁から1メートル離れたところを上昇して行くことができる。

 だから塀の上に登ることができたんだ。

 しかし、スピードは時速20キロメートル。

 自転車なみである。

 このマントの機能はあまりにもしょぼい。

 このマントでヒーローの仕事をこなすのは大変だぞ。

 人々のピンチにかっこよく空を飛んで駆けつけるなんてできない。

 とりあえずやってみよう。

 おっ東京はビルだらけだから高度は稼げる。

 このあたりじゃスピード出す必要もない。

 時速20キロメートルもまんざらじゃない。

 スピードあげるにはどうしたら良いのか。

 自動車の屋根の上で高度1メートルを維持してみる。

 おー自動車のスピードで進めるのだ。

 飛行機の背中ならもっと速く移動できるはず。

 これならヒーローの仕事もなんとかなりそうだ。

 さっそく事件発生のようだ。ふっ!出動して解決してやろう。

 パーマンセットを装着して空を飛んで現場に向かう。

 川もひとっ飛びだ!

 川に差し掛かったところで速度が落ちて墜落。

 ドボーン!

 あーなんだこれ!

 ここでどこからともなくあの御方の声。

 「そのマントは水には反発力が働かないんだよ」

 取扱説明書にも注意書きがあった。

 なんでだよー。

 「しかたないじゃない。未来のおもちゃなんだから」

 目の前に現れたのはなんとドラえもんだった。

 ここで目が覚めてすべては夢の出来事と悟る。

 夢は何でもありだな。

 現実に戻り朝ご飯を食べて学校に向かう。

 高度も低いし遅いけどあの感覚は忘れられない。

 自分にとってはあれぐらいが安全でちょうど良かったかも。

 誰にも言えないが心の中で叫ぶ。

 僕はね。空を飛んだんだよ。

 またあの夢見られるかな。

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2022年6月 9日 (木)

ドナルドダック登場(1934年6月9日)

 ドナルドダックと言えばミッキーマウスと並んでディズニーの人気キャラクターです。ドナルドダックは1934年6月9日にディズニーの短編映画シリーズ「シリー・シンフォニー」の作品「かしこいめんどり」で初登場しました。この作品でドナルドダックは脇役でしたがコミカルな風貌と性格で人気となりました。

 「シリー・シンフォニー」は「みにくいあひるの子 」「三匹の子ぶた」「赤ずきんちゃん」などで有名ですがミッキーマウスは関係していません。ドナルドダックがミッキーマウスと初めて共演したのは1934年8月11日に公開された「ミッキーの芝居見物」です。この作品はミッキーマウス短編映画シリーズの第68作目になります。

 ミッキーマウスと共演したドラルドダックの人気は急上昇し1937年にはドナルドダックの短編映画シリーズが始まりました。ドナルドが主役を演じた1943年1月1日公開「総統の顔」は同年アカデミー賞・短編アニメ賞を受賞しました。

 ミッキーマウスの初登場が1928年ですからドナルドダックはミッキーマウスの弟分のようなものですがそんなことはお構いなし。自己中心的で短気で負けず嫌い、毒舌で人をからかったり、イタズラしたりするのが大好きです。反面、本人もあっさりと騙されてしまったり、しっぺ返しをくらったりする何とも茶目っ気のある憎めないキャラクターです。しかしその本業はアメリカ合衆国海軍軍人で航空母艦に配属されていたそうです。なるほどそれでセーラー服を着ているのかな。

 さてドナルドダックの誕生日は初登場の1934年6月9日という説もありますが、作品中で13日の金曜日(映画「三人の騎士」)、3月13日(短編映画「ドナルドの誕生日」)となっています。「ドナルドの誕生日」で3月13日となっているのですから3月13日なのでしょう。1934年3月13日は火曜日で金曜日ではありません。1931年3月13日は金曜日です。

【関連記事】

ミッキー・マウス「プレーン・クレイジー」に登場(1928年5月15日)

ミッキー・マウス初登場(1928年11月18日)

 

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2022年4月 3日 (日)

パーマン誕生の日(1967年4月2日)

 「真っ赤なマントをひるがえし~♪」、昭和42年(1967年)4月2日午後7時30分、パーマンがお茶の間のテレビに登場しました。

  パーマンのアニメ第1作はオバケのQ太郎の後番組として昭和42年(1967年)4月2日 から昭和43年(1968年4月14日)まで日曜日午後7時30分からTBS系の「不二家の時間」で放送されました。パーマンの漫画は少年サンデー1967年第2号から連載が始まり、テレビ放映の開始に先立って学年誌にも掲載されるようになり多くの子どもたちが放送開始を楽しみにしていました。

 パーマン1号は小学5年生の須羽ミツ夫が変身した姿です。スーパーマン(現バードマン)からもらったパーマンセット(マスク・マント・バッジ)を装着することによってパーマンの特殊な能力を得るのですが一人前ではない修行中のスーパーマンという位置づけで「スー」がつかないパーマンと名付けられました。

 パーマンセットは1号のミツ夫以外にも渡されており、チンパンジーの2号(現ブービー)、3号パー子、4号パーヤン、5号パー坊のパーマンたちが事故、災害、事件に立ち向かいます。彼らがパーマンに変身して出動中はコピーロボットが留守番をします。このコピーロボットが時々サボろうとしたり、ひがんだりするのも面白かったです。パーマンの正体は絶対に知られてはいけないという厳しい掟がありました。もし誰かに知られたら記憶を消されてしまいます。

 さぁパーマンが始まるよー!

パーマン参上
パーマン参上

 ところで当時TBS系では日曜日の午後7時から「タケダアワー」でウルトラマンが放送されていました。ウルトラマンは同年4月9日に最終回となり、その後はキャプテンウルトラとウルトラセブンが放映されました。

  下記の写真は1967年10月1日(日)の新聞のテレビ欄です。7時の欄にウルトラセブンの第一話「姿なき挑戦者」、そして7時30分からはパーマン第27回「パーマン5号は?の巻」「ワニザメ船長の巻」が掲載されています。それから、一番右の欄に【カラー】とありその下に「呪」という漢字が見えていますが、これはマッハGoGoGoの第27話 「呪いのクレオパトラ(前編)」です。子どもたちにとって日曜日の夜は次々とヒーローに会うことができる贅沢なひとときだったのです。

ウルトラセブン 1967年10月1日(日)の新聞のテレビ欄
1967年10月1日(日)の新聞のテレビ欄

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マッハGoGoGo放送開始(1967年4月2日)

「巨人の星」放送開始(1968年3月30日)

宇宙戦艦ヤマト放映開始(1974年10月6日)

 

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2022年3月30日 (水)

「巨人の星」放送開始(1968年3月30日)

 テレビアニメ「巨人の星」(原作:梶原一騎、作画:川崎のぼる)は1968年3月30日(土)に放送開始、毎週土曜日19:00~19:30の枠で1971年9月18日まで三年半にわたり放送されました。子どもから大人まで多くの野球ファンがテレビの前で手に汗を握り星飛雄馬の成長、活躍、苦悩に釘付けとなりました。

 巨人の星は読売テレビ制作で日本テレビ系列で全国放送され大塚製薬が単独で提供していました。自分は「巨人の星」は読売巨人軍で活躍する選手・星飛雄馬の物語ですから読売テレビ制作・日本テレビ系列で放送は当たり前と考えていました。

 ところが東京ムービーで制作されたアニメは最初TBSに持ちこまれたそうです。ところがTBSとの交渉はうまくいきませんでした。その後、日本テレビやフジテレビと交渉しましたが話がまとまりませんでした。最終的に読売テレビに企画が持ちこまれ、なんとかアニメ化することができるようになったそうです。

 原作の梶原一騎先生も巨人ファンというわけではなかったようで、作画の川崎のぼる先生も「巨人の星」を週刊少年マガジンで連載するまで野球には興味がなかったようです。

 「巨人の星」は栄光の巨人軍の物語でアニメを見て読売ジャイアンツのファンになった人も多いと思いますが、制作サイドは巨人ファンというわけではなかったようです。

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2022年3月17日 (木)

漫画週刊誌の日(1959年3月17日)

 3月17日は漫画週刊誌の日です。自分が子どもの頃は漫画週刊誌と言えば集英社の「少年ジャンプ」か秋田書店の「少年チャンミオン」が大人気でした。その他に講談社の「少年マガジン」や小学館の「少年サンデー」や少年画報社の「少年キング」などがありました。この中で一番最初に創刊されたのが1959年3月17日に発売開始された「少年マガジン」と「少年サンデー」でした。

 「少年マガジン」も「少年サンデー」が創刊される背景には週刊誌ブームとテレビの普及がありました。テレビではヒーロードラマが放送されるようになり、小学館と講談社で漫画を掲載した少年週刊誌の企画が進みました。「少年サンデー」は当初は1959年5月5日の子どもの日に創刊される予定でしたが「少年マガジン」と創刊へ向けての競争となりました。この結果、両誌ともに創刊時期が早まって同年3月17日に同時に創刊されました。当初は掲載された漫画は両誌ともに5本で読み物が中心でした。

少年マガジンと少年サンデーの創刊号
少年マガジンと少年サンデーの創刊号

 創刊当時は「少年マガジン」は付録付きで40円、「少年サンデー」が30円でした。この値段の差もあって創刊号は「少年サンデー」が「少年マガジン」よりも販売部数を伸ばしました。その後「少年マガジン」も価格を30円に値下げし内容勝負の競争を始めました。

 当初は小学館が学年誌を販売していたこともあって「少年サンデー」には人気漫画家の漫画が掲載されていました。「おそ松くん(赤塚不二夫、1962年)」「オバケのQ太郎(藤子不二雄、1964年)」「パーマン(藤子不二雄、1966年)」「ジャイアントロボ(横山光輝、1967年)、「どろろ(手塚治虫、1967年)」などが「少年サンデー」の人気を押し上げました。

 こうした背景もあってしばらくの間は「少年サンデー」の人気が高く、「少年マガジン」は苦戦したようです。「ハリスの旋風(ちばてつや、1965年)」「巨人の星(原作:梶原一騎、作画:川崎のぼる、1966年)」「あしたのジョー(ちばてつや、1968年)」が掲載されるようになると「少年マガジン」も大人気となりました。

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