「加藤隼戦闘隊(飛行第64戦隊)」の加藤建夫隊長が戦死(昭和17年 1942年5月22日)
「加藤隼戦闘隊(飛行第64戦隊)」の隊長として知られる加藤建夫陸軍少将は明治36年(1903年)9月28日に北海道上川郡東旭川村(旭川市東旭川町)で生まれました。大正7年(1918年)に陸軍軍人だった父と兄にならい仙台陸軍幼年学校に入学しました。大正14年(1925年)に陸軍士官学校を卒業し札幌歩兵第25連隊附の陸軍歩兵少尉となりましたが、本人の希望により飛行第6連隊附の陸軍航空兵少尉となりました。大正15年(1926年)に所沢陸軍飛行学校に操縦学生と入学し優秀な成績を収めました。昭和2年(1927年)に同学校を卒業した際に優秀な技量成績で御賜の銀時計を拝受しています。昭和12年(1937年)から始まった日中戦争ではに陸軍航空兵大尉・飛行第2大隊第1中隊長として従軍して活躍しエースパイロットとして名前が知られるようになりました。
昭和16年(1941年)4月、加藤は広州天河飛行場駐留の飛行第64戦隊に陸軍少佐・戦隊長として着任しました。同年8月末、飛行第64戦隊に一式戦闘機「隼」が配備されると「加藤隼戦闘隊」と呼ばれるようになりました。
【参考】キ43 一式戦闘機「隼」の初飛行(1938年12月12日)
「加藤隼戦闘隊」は太平洋戦争(大東亜戦争)において南部仏印(フランス領インドシナ、ベトナム南部)、マレー半島、ジャワ島などで連合国と戦いを繰り広げ多数の敵機を撃墜しました。加藤建夫隊長は「いかなる困難にあたっても平常心を失わないこと」「何事も任務遂行を第一とすること」「個人の功名手柄に走って団結を乱さないこと」を部下に訓示し、自ら率先して困難な任務に当たり無線を活用して僚機に指示を出しながら戦闘を行いました。「加藤隼戦闘隊」が強かったのは加藤建夫隊長が編隊飛行を重視したチームプレーを重視していたからと伝えられています。
昭和17年(1942年)5月22日、「加藤隼戦闘隊」がアキャブ飛行場に臨時で駐屯していたところイギリス空軍ブレニム爆撃機1機が来襲しました。加藤建夫隊長以下5機が迎撃しましたが2機がブレニム爆撃機の後上方銃座の射撃を受けて帰還、さらに加藤建夫隊長機も期待腹部の燃料タンクに被弾しました。帰還不可能と判断した加藤建夫隊長は僚機に向けて機体の翼を大きく振った後に反転し背面飛行となり火を噴きながらベンガル湾に墜落し自爆しました。加藤建夫隊長は戦死後2階級特進で少将となり「軍神」と呼ばれました。
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