カテゴリー「明治時代」の4件の記事

2025年5月 2日 (金)

郵便貯金が始まる(明治年8年 1875年5月2日)

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 郵便貯金はゆうちょ銀行の前身である日本郵政公社が運営していた貯金です。公社化以前は郵政大臣(総務大臣)が管轄する国の事業として運用されていました。現在はゆうちょ銀行の貯金として運用されています。

 日本の郵便事業は「日本近代郵便の父」と呼ばれる前島密によって導入されました。前島密は近代的な郵便制度の調査のためイギリスを訪問し同国の郵便制度について現地調査を行いました。このとき前島密はイギリスの郵便事業が郵便事業の他に為替や貯金の事業を行っていることを知り、日本の郵便制度にも為替と貯金の事業を組み入れることにしました。

日本近代郵便の父 前島密
日本近代郵便の父 前島密

 明治4年(1871年)3月1日、前島密の主導で東京大阪間で官営の郵便事業が開始されました。明治8年(1875年)1月に郵便為替の事業を開始しました。前島密は日本の経済発展のために郵便貯金の導入が必要であることを主張しましたが貯金業務の運転資金や運用上の技術的難易度から見送られました。その後、前島密の尽力によって明治8年(1875年)5月2日、東京と横浜で郵便貯金の取り扱いが始まりました。

 郵便事業と為替事業は急速に広まりましたが、郵便貯金はその必要姓が国民に理解されなかったことから貯金が集まりませんでした。前島密は公務員に郵便局へ貯金させるなど郵便貯金の拡大を図りましたが十分な成果を得ることはできませんでした。そこで前島密は貯蓄をすることよって老人や子どもを養うことができること多くの国民に知らしめるため小学校の教育に貯蓄の道徳性を取り入れるよう提案しました。このような前島密のアイデアと尽力によって国民の間で貯蓄の必要姓に対する認識が高まり郵便貯金にお金を預けるものが多くなりました。これによって多額な資金を集めることができましたが、郵便貯金の運用先が見つかりませんでした。

 明治18年(1885年)、大蔵省預金部が新設され郵便貯金の資金が預託されるようになると、資金の多くが国際として運用されるようになりました。その後、特殊銀行債や社会資本整備などにも使われるようになり、郵便貯金の国による資金運用は後の財政投融資の基礎となりました。

 郵便貯金は全国に存在する郵便局で利用できサービスの拡充を進めたことから国民の身近な金融機関となりました。多くの国民から支持された郵便貯金は世界最大の金融機関となりました。時は流れ民間企業による金融機関が台頭すると、政府が巨大金融機関を有し郵便貯金の資産が広く活用されていないことが批判されるようになり郵便貯金の民営化の声が高まるようになりました。

 平成15年(2003年)4月1日、日本郵政公社が設立されると郵便貯金は同公社が扱う事業となりました。平成19年(2007年)10月1日には日本郵政公社が分社化・民営化され、郵便貯金は日本郵政グループの子会社ゆうちょ銀行に引き継がれました。これによって明治4年(1871年)から約130年間に渡って運用された郵便貯金の歴史に幕が下ろされ単なる「貯金」となったのです。

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2025年4月30日 (水)

黒田清隆が内閣総理大臣に就任( 明治21年 1888年4月30日)

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 初代内閣総理大臣の伊藤博文は大日本帝国憲法の制定に専念するため総理大臣を辞任することにしました。伊藤博文は自分の後任に農商務大臣の黒田清隆を推挙し、自身は初代枢密院議長に就任しました。黒田清隆は農商務大臣を自身が信頼する逓信大臣の榎本武揚に兼任させ、暗殺された森有礼が努めていた文部大臣を欠員とし、その他は第一次伊東内閣の全閣僚を留任させたうえで明治21年(1888年)4月30日に黒田内閣を発足させました。なお農商務大臣には同年7月25日に井上馨が就任し、文部大臣には明治3年(1889年)2月16日に陸軍大臣の大山巌が兼任で就任しています。大山巌は同年3月22日に陸軍大臣専任となり文部大臣には榎本武揚が就任いました。榎本武揚が努めていた逓信大臣には後藤象二郎が就任しました。

黒田清隆
黒田清隆

 黒田内閣は大日本帝国憲法の制定と議会の開設により自由民主化運動が再燃することを抑えることと、欧米列強との不平等条約の改正をめざすことが主たる目的でした。また内閣に立憲改進党前総裁の大隈重信を外務大臣に留任させたり、逓信大臣に大同団結運動の指導者の後藤象二郎を就任させたりすることで自由民権派を取り込みました。自由民権諸派を分断する意図があったと伝えられいますが、黒田清隆の過去の行動を考えると何とかうまくやりたいと思って引き込んだのではないかと思います。外交においてはメキシコと平等な日墨修好通商条約を締結し、これを足がかりに列強との不平等条約の改定の交渉を進める準備を整えました。しかしながら、外務省が領事裁判権(治外法権)を撤廃する条件として裁判官に外国人を登用することを法案を出したため、これが外国人司法官任用問題に発展し黒田政権は大混乱しました。とりわけ条約改正案に反対したのは榎本武揚の後に農商務大臣に就任した井上馨でした。

 【参考】黒田清隆が「超然主義」を表明(明治22年 1889年2月12日)

 同年10月18日、外務大臣の大隈重信は国家主義団体玄洋社団員来島恒喜による爆烈弾の襲撃を受け右足切断の重傷を負いました。この事件により黒田清隆は同年10月23日に大隈重信を除く全閣僚の辞任を提出しました。公布された憲法が施行されていないこともあって、明治天皇は黒田清隆の辞任は認め、それ以外の閣僚には留任を命じました。そして内大臣の三条実美に内閣総理大臣を兼任させました。これにより三条暫定内閣が成立しました。黒田清隆は辞任後に枢密顧問官に就任しました。同年11月21日、黒田と伊藤に対し元勲優遇の詔が下されました。

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2025年4月 6日 (日)

板垣退助岐阜遭難事件(明治15年 1882年4月6日)

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 戊辰戦争で東征大総督東山道参謀として功績をあげ元勲となった板垣退助は明治維新後に参与となりましたが征韓論の対立による「明治六年の政変」で下野しました。その後、自由民権運動を進めましたが帝国議会の樹立をめざすため参議に復帰しました。

板垣退助(1880年頃)
板垣退助(1880年頃)

 明治14年(1881年)、「国会開設の詔」が発せられると退助は自由党を結成して党首となり自由民権運動の推進と帝国会議樹立のため全国を精力的に遊説して党の拡大に努めました。明治15年(1882年)4月6日、板垣退助は岐阜で開催された演説会を終えて宿舎へ向かう途中、短刀を持った相原尚褧に襲撃されました。これが「板垣退助岐阜遭難事件」です。

板垣君遭難之図 (一陽斉豊宣 1882年)
板垣君遭難之図 (一陽斉豊宣 1882年)

 相原尚褧は士族で教員でしたが官権派の考えを持ち自由党などの民権派に強い反感を抱いていました。「国会開設の詔」が発せられても急進的な民権派の不敬事件などが収まらないため国家の行く末を案じ民権派の中心人物であった板垣退助の暗殺を決意していたのです。

 退助は尚褧の襲撃により胸や手に深手を負いましたが党員たちが相原は取り押さえたことから一命を取り留めました。退助は竹内綱に抱きかかえられながら起き上がり「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い放ちました。これが後に「板垣死すとも自由は死せず」という自由民権運動の象徴的な言葉として広く知られるようになりました。この事件によって自由民権運動は大きく盛り上がり、板垣退助は国民的な人気を得ました。全国で自由党の支持者が増え自由民権運動が飛躍的に進みました。

板垣死すとも自由は死せず (板垣退助百回忌に際し安倍晋三揮毫)
板垣死すとも自由は死せず (板垣退助百回忌に際し安倍晋三揮毫)

 板垣退助は事件後に相原尚褧に対する助命嘆願書を提出しています。これによって尚褧は極刑を免れ無期徒刑となりました。明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布による恩赦において岐阜事件は民間人としての板垣退助を襲撃したものであり尚褧は国事犯でないとされました。一方で急進的に自由民権運動を進めた逮捕者が恩赦されていたことや、事件当時に明治天皇が「板垣は国家の元勲」の考えを示していたことから、尚褧は国事犯の要素もあるとして恩赦の対象となり同年3月29日に釈放されました。

 同年5月11日、尚褧は退助のもとを謝罪に訪れました。退助は「この度はつつがなく罪を償はれ出獄せられたとの由、退助に於ても恭悦に存じ奉る」と声をかけると、尚褧は退助の器の大きさに感銘し両手をついて事件のことを深く詫び、恩赦に尽力してくれたことを深謝しました。退助と尚褧は会話をはずませ、尚褧は日本のために北海道開拓に従事したいと表明しました。時間はあっという間に過ぎ、退助は帰路につく尚褧に北海道は極寒の地であり自愛すること、活躍を祈っていることを伝えて見送りました。

 同年、相原尚褧は約束通り北海道に船で向かいましたが遠州灘付近で行方不明となりました。このとき尚褧は享年36歳、船から落とされたという説、自殺したという説、尚褧に板垣暗殺を企てさせた黒幕に暗殺されたという説などがありました。

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2025年4月 5日 (土)

ヘアカットの日|女子断髪禁止令(明治5年 1872年4月5日)

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 明治明治4年(1871年)、政府は太政官布告により「散髪、制服、略服、礼服ノ外、脱刀モ自今勝手タルベシ」という「散髪脱刀令」を布告しました。これにより身分によらず髪型や服装の自由が認められ、多くの男性が髷を落として断髪し洋服を着るようになりました。

 このような変化の中で髪を短くする女性も現れましたが、当時の日本では長い黒髪が女性らしいという価値観が主流だったため女性が男性のように断髪することに対する批判が起こりました。明治5年(1872)4月5日、東京府は男女の区別が判然としない髪型は禁止すべきという考えから女性はみだりに髪を切ってはいけないという「女子断髪禁止令」(東京府達32号)を布告しました。

東京府が太政官に許可を求めた「婦人断髪ノ儀ニ付伺」
東京府が太政官に許可を求めた「婦人断髪ノ儀ニ付伺」

 当時、日本髪を結うのに鬢付け油が使われていました。結髪もさることながら洗髪も時間がかかり面倒でした。「散髪脱刀令」で髪型の自由化を求め「女子断髪禁止令」に声をあげる女性も少なくありませんでした。そのようなことから4月5日は「ヘアカットの日」とされています。

明治時代の日本髪
明治時代の日本髪

 明治18年(1885年)には「婦人束髪会」が結成され日本髪について金銭的負担や衛生的問題が指摘されるようになると日本髪を結う女性は少なくなり女性のヘアスタイルも西洋化していきました。

 

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