カテゴリー「蝦夷地・北海道」の5件の記事

2025年6月 3日 (火)

中島三郎助と堀達之助が黒船と交渉(嘉永6年 1853年6月3日)

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 嘉永6年(1853年)6月3日午後5時頃、それまで日本人が見たこともない4隻の大きな黒い軍艦が浦賀沖に現れました。浦賀奉行の戸田氏栄は4隻のうち司令長官旗を掲げている旗艦に浦賀奉行所与力の中島三郎助とオランダ語通詞の堀達之助を派遣しました。2人は小舟で旗艦に向かいました。

 旗艦に小舟を横付けすると堀達之助が英語で「I can speak Duch」(私はオランダ語を話せる)と伝えました。旗艦に乗船していた通訳のオランダ人アントン・ポートマンが対応しオランダ語による交渉が行われました。与力の中島三郎助は自身を浦賀副奉行と称し交渉を始めました。

 この交渉によって艦隊がマシュー・ペリー提督が率いるアメリカ合衆国の艦隊であること、艦隊の目的が将軍にアメリカ合衆国のミラード・フィルモア大統領の親書を渡すことであることがわかりました。ペリーは中島三郎助の階級が低いと親書を預けることを拒否しました。中島三郎助と堀達之助は奉行所に戻り顛末を報告、日本を大きく変化させるきかっけとなった幕府とペリーの交渉が始まったのです。

 中島三郎助は砲術に長けていたこともありアメリカ合衆国の軍艦に興味があったようです。アメリカ側の記録には中島三郎助が軍艦の船体の構造、搭載されている砲、蒸気機関をスパイのように入念に調査していたことが記されています。ペリーの帰国後、中島三郎助は幕府老中の阿部正弘に軍艦の建造と蒸気船を含む艦隊の設置をするよう意見書を提出しています。その後、中島三郎助は日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」の建造で活躍し同軍艦の副将となっています。さらに長崎海軍伝習所に一期生として入所し築地軍艦操練所教授方出役に就任しました。幕末は榎本武揚とともに旧幕府軍として戦い箱館の千代ヶ岡陣屋で戦死しました。

中島三郎助
中島三郎助

 堀達之助はアメリカ側の記録によると通詞としても人柄も高く評価されています。ペリーが嘉永7年(1854年)に再来航したときにも通詞を務め日米和親条約の翻訳にも関わっています。安政5年(1858年)9月、ドイツ商人から日本とドイツの条約締結を求められたとき幕府に報告せず独断で処理しようとしたと咎められ入牢処分となりました。このとき吉田松陰と出会い交流するようになりました。この入牢は冤罪とされ古賀謹一郎の支援で安政6年(1859年)12月赦免されました。文久2年(1862年)1月に日本初の新聞「官板バタビヤ新聞」を発行、翌文久2年(1862年)には日本初の英和辞書「英和対訳袖珍辞書」刊行、文久3年(1863年)には開成所教授となりました。慶応元年(1865年)、箱館奉行通詞に就任し、慶応2年(1866年)に「函館洋学所」を開設しました。「函館文庫」で箱館奉行所の洋書の保存を行いました。明治元年(1868年)に新政府の箱館裁判所参事席、文武学授掛となりましたが箱館戦争のため箱館を離れました。箱館戦争後は箱館に戻り開拓使に出仕しました。もし中島三郎助が戦死していなければ明治維新後は開拓使に出仕し堀達之助の再開していたかもしれません。堀達之助は明治5年(1872年)に依願退職し明治27年(1894年)に大阪で死去しました。

堀達之助
堀達之助

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2025年5月26日 (月)

五稜郭初度設計図と最終設計図

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 安政元年(1854年)3月、日米和親条約で箱館が開港すると幕府は蝦夷地を直轄し同年6月に基坂(もといざか)(元町公園)にあった松前藩の箱館奉行詰役所に箱館奉行所を設置しました。箱館奉行には竹内保徳が就任しましたが間もなく堀利煕が就任し2人体制となりました。基坂は箱館港や箱館山に近く防衛に難があるため、保徳と利煕は幕府に箱館湾内からの艦砲射撃が届かない亀田の鍛治村に城を築き箱館奉行を移転する意見書を幕府に提出しました。これを老中の阿部正弘が了承し五稜郭と箱館港に弁天台場と築島台場を建設することになりました。

 【参考】五稜郭の箱館奉行所が開所(1864年6月15日)

 五稜郭の設計は蘭学者の武田斐三郎が担当しました。斐三郎は安政2年(1855年)7月にフランス軍艦コンスタンティーヌが乗組員の病気療養のために箱館に寄港した際、同艦副艦長から得た星形要塞や大砲の図面を参考に五稜郭と函館港の弁天台場の設計を行いました。この出来事は斐三郎が五稜郭と星形要塞として設計するきっかけにはなりましたが、当時は既に西洋式の築城法は伝わっており斐三郎も星形要塞の築城に関する知識は持っていたと考えられます。同じ星形要塞の長野県の龍岡城も同時期に西洋の築城法を学んだ城主の松平乗謨により建造されています。

 次の図面は斐三郎が初期に設計した五稜郭初度設計図(市立函館博物館所蔵)です。最初の計画では5つの稜堡(りょうほ)と稜堡の間に半月堡(はんげつほ)が5つ備えられています。5方向からの攻撃に備える形状となっています。

五稜郭初度設計図(市立函館博物館所蔵)
五稜郭初度設計図(市立函館博物館所蔵)

 安政5年(1858年)に列強との修好通商条約「安政の五カ国条約」が締結されると防衛の必要姓が低まりました。資金不足も相まって五稜郭の設計は大幅に変更となり、築島台場の建設も中止となりました。五稜郭は半月堡が一カ所となり石組みのアーチ状だった出入り口も簡素化されました。次の図面は五稜郭の最終段階の設計図のひとつです。

五稜郭之図(最終設計図)
五稜郭之図(最終設計図)

 半月堡は箱館の市中方向に向いた正面のものだけが建設されました。半月堡の場所をはじめとする3カ所の出入り口には函館山から切り出された安山岩で作られた石垣が設置されています。正面の半月堡と出入り口の石垣には最上部に平らな石が突き出して積んであります。これは「武者返し」「はね出し」と呼ばれるもので五稜郭の石垣の特徴となっています。

半月堡の石垣と武者返し
半月堡の石垣と武者返し


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2025年5月11日 (日)

新選組!! 土方歳三 最期の一日(明治2年 1869年5月11日)

 

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 明治2年(1869年)4月9日、蝦夷に向かった新政府軍は乙部から上陸を開始しました。新政府軍は松前口、木古内口、二股口から箱館に向けて進軍を開始しました。旧幕府軍は新政府軍の進軍を阻止するため各地で迎え撃ちましたが多勢に無勢でほどなく撤退を余儀なくされました。

渡島半島地図
渡島半島地図

 そのような状況の中で土方歳三が率いる衝鋒隊および伝習隊からなる300名の部隊は二股口で新政府軍に徹底抗戦しました。地の利もあって歳三の部隊は新政府軍の部隊を寄せ付けませんでした。新政府軍は二股口の攻略を諦め道を切り開いて箱館に向かいました。同年4月29日、矢不来が陥落すると連戦連勝していた歳三は退路を断たれることを恐れて五稜郭へ撤退しました。同年5月2日、ジュール・ブリュネらフランス軍事顧問団がフラナス軍艦コエトローゴン号で箱館を脱出しました。これをきっかけに旧幕府軍兵士たちが脱走を始めました。

二股口の戦いの古地図
二股口の戦いの古地図

 同年5月5日、歳三は五稜郭において新選組以来の小間使であった16歳の市川鉄之助に日野宿の佐藤彦五郎に自身の遺品を届け戦況を詳しく伝えるよう命じました。鉄之助は箱館の地で果てるつもりだったため拒否しましたが、歳三が抜刀し命令に従わなければ討ち果たすと威嚇したため箱館を脱出し佐藤彦五郎のもとへ向かうことにしました。歳三は多摩出身の隊士で鉄之助と同じ年頃の渡辺市造に多摩に不慣れな鉄之助の案内役として同行するよう命じました。鉄之助らが五稜郭を出ると城門の小窓から見送る人影に気がつきました。歳三は若き2人の無事を願い行く末を案じて見送ったのでしょう。

 五稜郭に戻った歳三は新選組の島田魁らと新政府軍の有川の本陣に連日夜襲を仕掛けました。このとき新政府軍は箱館総攻撃の準備を進めていました。新政府軍は陸軍本隊に五稜郭に包囲させ、陸軍の奇襲部隊には箱館山の裏手の海岸から崖をよじ登り箱館山山頂を制圧させ、海軍には箱館湾や大森浜から陸軍の攻撃を支援し五稜郭に艦砲射撃を行わせる三面作戦を講じました。

箱館市内地図(箱館戦争当時)
箱館市内地図(箱館戦争当時)

 明治2年(1869)5月11日午前3時、新政府軍の朝陽と丁卯の箱館市中への砲撃が始まり総攻撃が始まりました。これに反撃できたのは旧幕府軍の幡龍のみでしたから朝陽と丁卯の砲撃を阻止することはできませんでした。

 午前4時頃、新政府軍の陸軍奇襲部隊が箱館山裏側の寒川に到着し上陸を始めました。箱館山の険しい崖をよじ登り山頂をめざしました。山頂の旧幕府軍の新選組や伝習士官隊が新政府軍に気がついたのは夜が明けた頃でした。突然の新政府軍の襲撃に反撃することもできず新選組を中心とする部隊は箱館山を下り弁天台場に逃げ込みました。その他の部隊は千代ヶ岱陣屋、五稜郭まで撤退しています。

 箱館山を制圧した新政府軍は函館市中になだれ込みました。一方、奇襲部隊の別働隊は山背泊から上陸し弁天台場を包囲し攻撃を開始しました。さらに新政府軍の甲鉄、春日が援護砲撃を行ったため弁天台場は孤立してしまいました。

 【参考】弁天台場|新撰組最期の地

弁天台場(AIカラー化)
弁天台場(AIカラー化)

 午前8時頃、朝陽と丁卯と抗戦していた幡龍の艦長の松岡磐吉は双眼鏡で着弾を確認しながら砲撃を指示しました。砲手の永倉伊佐吉が発した砲弾が朝陽丸の弾薬庫に命中、朝陽丸は爆発し轟沈したのです。これによって箱館政権軍の士気は高まりました。蟠竜は追撃してきた甲鉄らの集中砲火を受けましたが弾が尽きるまで戦闘した後に浅瀬に乗り上げました。船長の松岡磐吉をはじめとする乗組員は敵中を突破し弁天台場に逃げ込みました。伊佐吉は艦長のため退去する小舟を取りに行くと海に飛び込みましたが溺死してしまいました。

朝陽を轟沈させた幡龍
朝陽を轟沈させた幡龍

 これまで陸軍本体と戦っていた土方歳三は箱館市街と五稜郭が分断されたことを知ると側近の安富才助と沢忠助、額兵隊を率いて函館市街へ向けて出陣しました。弁天台場の新選組の相馬主計は援軍を求めるよう大野右仲を五稜郭に派遣しました。右仲は千代ヶ岱陣屋あたりで歳三が率いる部隊に出逢いました。右仲は安堵し土方隊とともに一本木関門に向かいました。そこに伝習士官隊が敗走してきました。歳三は「この機失すべからず。士官隊に令して速進せん。しかれども敗兵俄に用い難し。吾れこの柵に在りて、退く者は斬らん。子は率いて戦え」と檄を飛ばしました。「この機失すべからず。」とは幡龍が朝陽を轟沈させたことです。「子」とは右仲のことです。

一本木関門跡
一本木関門跡

 右仲は歳三の命令に従い額兵隊と伝習士官隊を率いて一本木関門から異国橋付近まで進撃しましたが新政府軍の反撃により一本木関門へと引き返しました。このとき右仲は歳三が守っているはずの一本木関門で敗走していく兵士を見て驚き千代ヶ岡陣屋まで引き返したところ、安富才助から歳三の戦死を知らされました。一本木関門で指揮をしていた歳三は一発の銃弾を腹部に受けて落馬し絶命していたのです。

 【参考】異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地

 歳三の死が五稜郭に伝えられると箱館政権で探索役主任と箱館市中取締役を兼任していた小芝長之助が遺体を引き取りにきました。歳三の遺体は五稜郭の一本松の土饅頭に埋葬されたという説がありますが埋葬場所には諸説あり確定していません。<b

 土方歳三戦死、享年35歳。近藤勇が亡くなった年齢と同じでした。

土方歳三の写真(田本研造撮影)
土方歳三の写真(田本研造撮影)

 辞世の句とされるのは次の3つです。

  ・よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ

  ・たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん

  ・鉾とりて月見るごとにおもふ哉あすは屍の上に照かと

 箱館政権の榎本武揚が降伏したのはその6日後の5月17日でした。

 

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2025年3月22日 (土)

蝦夷地の地域区分|和人地・東蝦夷地・南蝦夷地・北蝦夷地

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 15世紀から16世紀にかけて室町時代の武田氏の子孫である武田信廣を祖とする蠣崎氏が蝦夷地の渡島半島南部を支配していました。蠣崎氏は豊臣秀吉が関白になると上洛し所領を安堵されました。江戸時代になると松前氏と名乗り江戸幕府の大名となり松前藩主となりました。

 松前藩は蝦夷地のうち和人が定住し開拓を進めていた松前周辺と箱館を中心とする渡島半島一帯を和人地と未開地の蝦夷地と区別しました。松前藩は和人地の開拓を進め蝦夷地への進出の拠点としました。当時、和人地以外の蝦夷地はアイヌ民族の生活圏となっていました。松前藩は北海道太平洋側と千島を東蝦夷地とし、北海道日本海側とオホーツク海側および樺太を西蝦夷地としました。

1800
和人地と東蝦夷地と西蝦夷地(1800年)

 江戸幕府は千島経由のロシアの南下政策により防衛上の必要姓から東蝦夷地を寛政11年(1799年)に直轄地としました。西蝦夷地は東蝦夷地に比べて和人による開拓と統治が進んでいましたが、やはり防衛上の理由から文化4年(1807年)に江戸幕府の直轄地となりました。文化6年(1809年)には樺太が北蝦夷地と定められました。

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2023年10月21日 (土)

土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

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 田本研造は幕末から明治時代初期にかけて函館を中心に北海道で活躍した写真家です。天保3年(1832年)4月8日に紀州牟婁郡神川村(三重県熊野市神川町)で生まれました。23歳で長崎の蘭方医の吉雄圭斎のもとで医学やや舎密学(化学)を学びながら西洋文化の影響を受けました。

田本研造
田本研造

 安政6年(1859年)、安政五カ国条約により函館港が開港すると、箱館奉行所の通詞だけでは各国領事官の対応に手が回らなくなったため幕府が通詞を増員しました。このとき箱館に転勤となった長崎奉行所通詞の松村喜四郎に伴い箱館にやって来たのが27歳の田本研造です。

 田本は右足に凍傷を追って悪性の壊疽にかかり、ロシアの医師ゼレンスキーの手術を受け命は助かりましたが右足を切断する不運に見舞われました。田本は治療中にゼレンスキーから写真技術を学び、慶応2年(1866年)頃から写真師の仕事を始めました。写真師の横山松三郎や木津幸吉と出会い写真の研究を進めました。田本は木津と一緒に松前に赴き当時の松前城(福山城)や藩士らの写真を撮っています。

 明治2年(1869年)、田本は大工町(末広町)に北海道初の写真館を開きました。この写真館は採光用ガラス窓がついた本格的なものでした。この頃、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争で新政府軍と戦った旧幕府軍の榎本武揚や土方歳三の肖像写真、仏軍士官、幕軍兵士、軍艦の回天丸などの写真を撮影しました。とりわけ椅子に座った洋装の土方歳三の写真が有名です。

土方歳三の写真(田本研造撮影)
土方歳三の写真(田本研造撮影)

 この写真は当初は田本研造が撮影したものかどうか不明でしたが、調査によって田本研造が撮影されたものとされています

新選組研究最前線〈下〉(新人物往来社、1988年)
桑嶋洋一「写真師K・Gと土方歳三」

 箱館戦争後は明治政府の開拓使より明治4年(1871年)に札幌と周辺の撮影を命じられ弟子の井田幸吉と札幌に赴きます。田本が撮影した158枚の写真は函館出張開拓使庁から政府に送られました。政府は北海道開拓事業の進捗状況を把握しました。1873年にウィーンで開催された万国博覧会にはこの開拓使の写真が出品されました。

 田本は多数の有名な写真師を輩出し、北海道における指導者的立場の写真師となりました。田本は右足が不自由だったため郷里に帰省することはありませんでした。しかし、箱館から郷里に手紙とともに写真を送っています。田本研造は後に音無榕山と名乗り増しが、音無は郷里の音無川(熊野川)に因んだものです。郷里に思いを馳せていたのでしょう。

 田本研造は大正元年(1912年)10月21日、函館で81歳の生涯を閉じました。田本研造の墓は函館山の立待岬に近い住吉墓地にひっそりと佇んでいます。

田本研造の墓(函館市住吉墓地)
田本研造の墓(函館市住吉墓地)

 また郷里の地元熊野市には昭和56年(1981年)に鬼ヶ城に顕彰碑が建立されました。

田本研造之碑(鬼ヶ城)
田本研造之碑(鬼ヶ城)

【関連記事】土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

函館と黒船と日本最古の写真の関係

函館とホタテ貝と黒船ペリー提督の関係

開陽丸が横浜に入港(慶応3年 1867年4月30日)

榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)

松前城(福山城) 天守を焼失(1949年6月5日)

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

 

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