カテゴリー「江戸時代」の16件の記事

2025年3月27日 (木)

吉田松陰と金子重之輔が黒船に密航を懇願|下田踏海(嘉永7年 1854年3月27日)

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 長州藩士の吉田松陰は江戸で佐久間象山などから西洋の学問や技術の重要性を学び国内外の情勢に関心を持っていました。嘉永5年(1852年)、松陰は交流のあった肥後藩の宮部鼎蔵らと東北を見聞する旅に出ました。このとき松蔭は長州藩の通行手形を得る前に出発しました。この行為は脱藩と見なされました。翌年、旅行から戻った松蔭は罪に問われて士族の身分を剥奪され世禄を没収されました。

吉田松陰
吉田松陰

 嘉永6年(1853年)、松蔭は学問を続けるため江戸に赴きました。同年6月、浦賀にマシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国の艦隊が来航しました。松陰は師の佐久間象山と望遠鏡で黒船を見物し西洋の文明が日本より遙かに進んでいることに感銘を受けると同時に日本の将来に危機感を持ちました。象山は松蔭に外国に留学することを勧めました。当時、日本人が海外に渡航することは禁止されていたため外国留学は密航にあたりました。

 【参考】黒船来航(1853年7月8日旧暦6月3日)

 海外留学の機会を伺っていた松陰は同年7月にロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が艦隊を率いて長崎に来航していることを知り弟子の長州藩士の金子重之輔と長崎に向かいましたが、彼らが長崎に到着したのはロシア艦隊が長崎を出港した後でした。そのため松陰は海外留学を果たせませんでした。

 【参考】ロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が長崎来航(1853年7月18日

 嘉永7年(1854年)、ペリーの艦隊が再び来航し横浜で日米和親条約が締結されました。

 【参考】マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)

 その後、艦隊が下田に移動すると松陰は重之輔と下田に向かいました。同年3月25日夜、松陰と重之輔は下田の柿崎の稲生沢川口から小舟を漕ぎ出しましたが悪天候と高波により引き返しました。27日に上陸していた米国士官に渡航を嘆願する「投夷書」と「別啓」を渡しました。「投夷書」は漢文で書かれておりその内容は「外国渡航が禁じられているが世界を見たい。密航が知られると殺されるので人道的に乗船させて欲しい」という主旨のものでした。また「別啓」は「投夷書」の要約で「認めてくれるなら海岸に迎えにきて欲しい」と書かれていました。

 松陰と重之輔はその日の夜に艦隊を訪れることを計画し翌28日午前2時頃、弁天島近くから小舟を漕ぎ出し沖合に停泊している艦隊へ向かいました。最初はミシシッピー号に漕ぎ着けましたが通訳がいなかったため旗艦ポータハン号に向かいました。

黒船に漕ぎ着ける小舟(Google Gemini作画)
黒船に漕ぎ着ける小舟(Google Gemini作画)

 ポータハン号に乗り込んだ2人はは通訳官サミュエル・ウィリアムズと筆談し渡航を懇願しました。ウィリアムズは2人の海外渡航の強い要望を理解しましたが、日米和親条約を締結しているため海外密航を幇助することはできないと答えました。近い将来に海外渡航が許されるようになるはずだからそれまで待つようにと諭され2人は海外渡航を諦めました。

 28日早朝、2人は小舟で福浦海岸まで送り届けられました。密航しようとしたことがばれると考えた松陰と重之輔は自首し下田奉行所で取り調べを受けた後に江戸小伝馬町の獄に送られました。江戸で裁きを受け身柄は萩藩へ引き渡され蟄居を命じれました。本来であれば海外密航は死罪に当たりますが、2人の処分が蟄居で済んだのはペリーが2人の思いを理解し幕府に寛大な処分を求めたからと伝えられています。

 松陰は萩の野山獄に投獄されましたがまもなく実家の杉家預かりとなりました。安政4年(1857)、叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぎ杉家の敷地に松下村塾を開塾します。この松下村塾では、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など後に明治維新の立役者となる志士たちを教育しました。

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2025年3月22日 (土)

蝦夷地の地域区分|和人地・東蝦夷地・南蝦夷地・北蝦夷地

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 15世紀から16世紀にかけて室町時代の武田氏の子孫である武田信廣を祖とする蠣崎氏が蝦夷地の渡島半島南部を支配していました。蠣崎氏は豊臣秀吉が関白になると上洛し所領を安堵されました。江戸時代になると松前氏と名乗り江戸幕府の大名となり松前藩主となりました。

 松前藩は蝦夷地のうち和人が定住し開拓を進めていた松前周辺と箱館を中心とする渡島半島一帯を和人地と未開地の蝦夷地と区別しました。松前藩は和人地の開拓を進め蝦夷地への進出の拠点としました。当時、和人地以外の蝦夷地はアイヌ民族の生活圏となっていました。松前藩は北海道太平洋側と千島を東蝦夷地とし、北海道日本海側とオホーツク海側および樺太を西蝦夷地としました。

1800
和人地と東蝦夷地と西蝦夷地(1800年)

 江戸幕府は千島経由のロシアの南下政策により防衛上の必要姓から東蝦夷地を寛政11年(1799年)に直轄地としました。西蝦夷地は東蝦夷地に比べて和人による開拓と統治が進んでいましたが、やはり防衛上の理由から文化4年(1807年)に江戸幕府の直轄地となりました。文化6年(1809年)には樺太が北蝦夷地と定められました。

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2025年3月21日 (金)

江戸幕府が慶長の禁教令を公布(慶長17年 1612年3月21日)

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 戦国時代に織田信長の擁護によりキリスト教が広まりましたが、豊臣秀吉はスペインやポルトガルの宣教師による布教活動の背景に日本植民地化の目的があることを知り天正15年(1587年)に宣教師の国外追放と南蛮貿易を禁じるバテレン追放令を発令しました。これによって宣教師は国外追放となり南蛮貿易が禁じられました。

 江戸幕府を開いた徳川家康もキリスト教について豊臣秀吉と同様な政策をとりましたが、厳しく弾圧することはしなかったため宣教師たちは日本での布教活動を再開しました。宣教師たちは江戸幕府に一定の配慮はしたものの各地で布教活動を活発化させるようになりました。

日本人キリシタン(16~17世紀)
日本人キリシタン(16~17世紀)

 布教活動を制御できないと判断した江戸幕府はキリスト教を警戒し始めました。オランダ商船リーフデ号の来日などにより欧州におけるカトリックとプロテスタントの間の紛争やスペインやポルトガルの植民地化政策による世界情勢を知った徳川家康はキリスト教の禁止を厳格化することを考え始めました。

  【参考】リーフデ号事件(1600年3月16日)

 慶長13年(1608年)、肥前日野江藩主でキリシタン大名の有馬晴信が派遣した朱印船がマカオに寄港中に取引を巡って問題を起こしたためポルトガル海軍の総司令官アンドレ・ペソアに鎮圧されました。このとき日本人の多数の死者が出たためペソアは慶長14年(1609年)に事件の顛末を徳川家康に報告するため長崎を訪れました。江戸幕府にポルトガルとの貿易に口を挟まれたくないと考えた長崎奉行の長谷川左兵衛藤広はマカオでの事件の真相を隠すことにしましたがペソアとの関係が悪化したため有馬晴信にマカオ事件に対する報復を持ちかけました。有馬晴信はペソア捕縛とポルトガル商船捕獲を徳川家康に申し入れました。徳川家康から了承を得た有馬晴信は慶長14年(1609年)末にポルトガル船を攻撃しました。これによってポルトガルとの貿易がしばらく途絶えました。

 有馬晴信はポルトガル船への報復の報償として龍造寺氏との争いで失った領地が回復されることを期待しました。ペソアの対応のため江戸幕府から派遣されれいた本多正純家臣で目付の岡本大八は有馬晴信に領地を回復するよう取り計らうと6000両を資金としてだまし取りました。キリシタン大名の有馬晴信はキリシタンだった岡本大八を盲目的に信じてしまったのです。やがてこの詐欺と贈賄の事件は徳川家康の知るところとなり有馬晴信は斬首され岡本大八は火刑となりました。これが「岡本大八事件」です。

 徳川家康はキリシタンの大名と江戸幕府の重臣の家臣が起こした「岡本大八事件」をきっかけに慶長17年(1612年)3月21日に江戸、京都、駿府などの直轄地において教会の破壊と布教を禁じる「慶長の禁教令」を布告しました。諸大名もこれにならい同様の対応を行いました。江戸幕府はその後もキリスト教の取り締まりを強化し多くのキリスト教徒を弾圧しました。寛永14年(1637年)の「島原の乱」は有馬晴信の旧領で起きた農民やキリシタンを中心とする江戸幕府に対する反乱です。

【関連記事】

フランシスコ・ザビエルが来日(1549年7月22日)

日本初のクリスマス(1553年12月24日)

天正遣欧少年使節が長崎港を出港(天正10年 1582年1月28日)

日本二十六聖人が列聖(1862年6月8日)

 

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2025年3月19日 (水)

江戸幕府が「江戸廻送令」を発令(万延元年 1860年閏3月19日)

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 安政5年(1858年)に江戸幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国と修好通商条約「安政の五か国条約」を結んだことから翌年から箱館・横浜・長崎が開港され貿易が始まりました。これによって日本の商人と外国の商人の間で輸出入品の取引が行われるようになりました。

 特に大きな問題となったのは江戸に近い横浜港での貿易でした。日本からの輸出品は国内よりも海外に高く売れたため卸売り業者は江戸の問屋を通さず直接横浜港に品物を卸すようになりました。これによって国内の従来の問屋による流通が立ちゆかなくなり、また輸出品の急増により需要が供給を上回ったことで物価が高騰し、国内の経済が混乱し始めました。特に大きな問題となったのは生糸でしたが、やがて雑穀や水油なども不足するようになりました。

生糸の生産 計量の様子
生糸の生産 計量の様子

 このため江戸幕府は万延元年(1860年)閏3月19日に最初の貿易統制令「江戸廻送令」を発令し、生糸、雑穀、水油、蝋、呉服の五品については生産地から直接横浜港に卸すこと禁じ江戸へ積み廻しすることを命じました。この命によって5品目は江戸での需要を満たしてから開港地に出荷されることになりました。

「神奈川御開港、外国貿易仰せ出され候に付、諸商人共一己利徳に泥み、競而相場糶上げ、荷元を買受け、直に御開港場所江相廻し候に付、御府内入津之荷物相減、諸色払底に相成、難儀致し候趣相聞候に付、当分之内左之通仰せ出され候。

 一 雑穀、 一 水油、 一 蝋、 一 呉服、 一 糸

 右之品々に限り、貿易荷物之分者、都而御府内より相廻し候間、在々より決而神奈川表江積出し候間敷候。尤も貿易の御仕法相改り候儀にはこれなく候間、御府内問屋ども方え積付け候荷物の内買取り、貿易致し候儀は苦しからず候」

 しかしながら各国から「江戸廻送令」は自由貿易を妨げると反発され、外国商人は横浜港での貿易を続けたこともあって国内の卸売業者も横浜港へ直接出荷を続けました。その結果、「江戸廻送令」の効果はありませんでした。しかしながら、攘夷運動が盛んになると江戸幕府も「江戸廻送令」を厳しく運用するようになり、生糸の輸出が減少するなどしました。元治元年(1864年)、四国艦隊下関砲撃事件が発生すると各国は「江戸廻送令」の廃止を強く求めました。開国の流れを止めることはできないと判断した幕府は「江戸廻送令」を事実上廃止したのです。

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2025年3月10日 (月)

松平容保が会津松平家の養子になる|松平容保のおはなし

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徳川秀忠の男系が途切れる|松平容保のおはなし」の続き

 保科正之を家祖とする会津松平家は松平容敬の家督相続により代々続いてきた第2代征夷大将軍の徳川秀忠の男系の血筋が途切れました。しかし、容敬は容住の庶子とされていたことから江戸幕府の公式の記録としては容敬まで徳川秀忠の男系が続いたとされいます。

 容敬の父の高須藩主の松平和義は天保3年(1832年)に57歳で死去しました。高須藩の家督は和義の次男で容敬の兄の松平義建が継ぎました。容敬には嫡男がいなかったため弘化3年(1846年)に義建の六男で自身の甥の松平容保を養嗣子とし娘の敏姫を嫁がせました。容保は和義の孫になります。

松平容保
松平容保

 松平容保は天保6年(1835年)12月29日に江戸四谷土手三番丁の高須藩邸で義建の六男(庶子)として生まれました。幼名は銈之允(けいのすけ)と称し、弘化3年(1846年)4月27日に10歳で会津藩第8代藩主の容敬の養子となりました。容保はすぐに会津には入らず江戸の和田倉門内の会津松平家上屋敷で育てられました。

 この上屋敷で容保は会津松平家の当主となる英才教育を受けました。この教育によって容保は会津藩家訓による徳川家への忠誠心、神道に基づく皇室への尊崇、儒教に基づく正義と道理を教え込まれました。

 嘉永5年(1852年)2月10日に容敬が死去し、同年2月15日に松平容保が第9代会津松平家当主・肥後守となりました。江戸幕府の記録では容保の家督相続で徳川秀忠の男系が途切れたとされています。

会津松平家系譜
会津松平家系譜

 松平容敬の父ならびに松平容保の祖父にあたる松平義和は常陸国水戸藩の第6代藩主の徳川治保の次男です。会津松平家は容敬の代から水戸徳川家の血筋になったのです。容保は会津松平家で学んだことを行動規範として幕末・明治の激動の時代を生き抜いたのです。

【関連記事】

会津藩と保科正之|松平容保のおはなし

保科正之が松平姓を名乗らなかった理由|松平容保のおはなし

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2025年3月 4日 (火)

文化の大火(文化3年 1806年3月4日)

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 文化3年(1806年)3月4日午前10時頃、江戸の芝の車町(牛町)(現在の東京都港区高輪2丁目)の材木座あたりで火事が発生しました。薩摩藩上屋敷(芝公園)および増上寺五重塔が全焼し強風にあおられて延焼し木挽町・数寄屋橋、京橋・日本橋のほとんど殆どを焼失しました。さらに神田、浅草方面まで燃え広がり大火となりましたが翌日の降雨でようやく鎮火しました。約12万6000戸の家屋が焼失し1200人以上の死者が出ました。町奉行所は救援活動を行い江戸8か所で炊き出しを行い被災者11万人以上に支援金を支給しました。

文化の大火
文化の大火

 この大火は「文化の大火」と呼ばれ、「明暦の大火」(明暦3年 1657年1月18日)と「明和の大火」(明和9年 1772年 2月29日)と並ぶ江戸三大大火の一つとされています。丙寅の年に大火のため丙寅の大火、車町火事・牛町火事とも呼ばれます。度重なる大火に対して第11代将軍の徳川家斉は延焼を防ぐため広小路を作るなど江戸の火災対策を強化しました。 

 この頃、「遠山の金さん」で有名な若かりし頃の遠山金四郎景元は江戸の町で放蕩生活をしていたと伝えられています。景元は庶民の生活の厳しさや娯楽の重要性を認識したのでしょう。

【関連記事】

明暦の大火(旧暦 1657年1月18日)

隅田川に両国橋が架けられる(1659年12月13日)

「八百屋お七」の物語(旧1683年3月28日)

天明の大火(天明8年 1788年1月30日)

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2025年3月 3日 (月)

日米和親条約の調印(嘉永7年 1854年3月3日))

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 嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督が率いる艦隊が浦賀に来航し日本に開国を要求しました。いわゆる黒船来航により江戸幕府は艦隊の軍事力の前になすすべもありませんでしたが、第12代征夷大将軍徳川家慶(いえよし)が病気療養中であることを理由に回答に1年間の猶予を求めました。ペリーは幕府の申し入れを聞き入れ1年後に再来日すると日本を離れ香港に向かいました。

マシュー・ペリー提督
マシュー・ペリー提督

 将軍家慶は回復することはなく同年6月22日(同年7月27日)に死去しました。香港滞在中に家慶の死を知ったペリーは幕府との交渉を有利に進めようと考え1年間の猶予を棚上げし嘉永7年1月(1854年2月)に合計9隻の艦隊を率いて再び来航しました。ペリーは幕府との外交を有利に進めるために砲艦外交を行いました。

 同年3月3日(同年3月31日)、江戸幕府とアメリカ合衆国の間で日米和親条約が締結されました。この条約によって日本は約200年続けた異国との外交の制限を解き下田と箱館の2つの港を開港しました。またアメリカの船舶に対する薪水・食料など必要な物資の供給、難破船の乗組員の救助と保護が約束されました。

日米和親条約の日本語の写し
日米和親条約の日本語の写し

 その後、 日本は日米修好通商条約をはじめとする列強との不平等条約を結ぶこととなりました。列強との条約締結により日本は国際社会に組み込まれることになり日本は近代化の道を進むことになりますが、列強の排除を主張する攘夷派の反乱により幕政は混乱し江戸幕府が終焉するきっかけとなりました。

【関連記事】

黒船来航(1853年7月8日旧暦6月3日)

マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)

ロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が長崎来航(1853年7月18日)

日英和親条約の調印(1854年8月23日)

日蘭和親条約締結(1855年12月23日)

日米修好通商条約に調印(1858年6月19日)

日仏修好通商条約の調印(1858年9月3日)

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2025年3月 2日 (日)

遠山の金さんの日(天保11年 1840年3月2日)

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 3月2日は「遠山の金さん」の日です。時代劇テレビドラマ「遠山の金さん」および「江戸を斬る」の主人公のモデルとして知られる江戸時代後期の実在の旗本の遠山景元が天保11年(1840年)3月2日に北町奉行に任命されたことに由来しています。

遠山金四郎景元
遠山金四郎景元

 景元は長崎奉行をはじめ幕府の外交政策で活躍した遠山景晋の長男として寛政5年(1793年)8月23日〉に生まれました。父の景晋は永井直令の四男でしたが明和4年(1767年)に遠山景好と養子縁組し、天明6年(1786年)閏10月に遠山家を相続しました。遠山家は知行五百石の旗本で幕府から主要な役職を与えられる家柄ではありせんでしたが、景晋が能力が高く実家が永井家であったころもあり遠山家は幕府から信任される旗本となりました。

 明和7年(1770年)、養父の景好に実子の遠山景善が生まれましたが景晋が遠山家を相続することになっていたため、景晋は寛政6年(1794年)7月に景善を養子としました。景晋の実子の景元は寛政5年(1793年)生まれですが景善が養子となった後の寛政6年(1794年)9月に出生届が提出されました。享和3年(1803年)に景元は景善の養子となりました。これによって景元は実父の景晋の孫となりました。このような事情から景元は家を出て江戸の町で放蕩生活をしたと伝えられています。景元が父の父の通称であった金四郎を名乗るようになったのは文化6年(1809年)とされています。

 文政7年(1824年)に景善が亡くると景元は翌年に江戸幕府に出仕しました。徳川家の嫡男の徳川家慶の世話役を務めました。文政12年(1829年)に景晋が隠居し家督を相続しました。

 景元は天保3年(1832年)に西丸小納戸頭取格、天保5年(1834年)西丸小納戸頭取、天保6年(1835年)小普請奉行、天保7年(1836年)に従五位下左衛門少尉の官位、天保8年(1837年)作事奉行、天保9年(1838年)勘定奉行と出生し、天保11年 1840年3月2日に北町奉行に就任しました。北町奉行の景元は老中首座の水野忠邦が開始した「天保の改革」(1841年~1843年)において庶民に対して身分不相応な贅沢を禁じましたが庶民の生活を脅かすような法令の実施には反対しました。

 庶民の生活を守るため景元は南町奉行の矢部定謙とともに水野忠邦と対立することになりましたが、定謙は罷免され南町奉行には忠邦のもとで目付を努めていた鳥居耀蔵が就任しました。これによって景元は単独で忠邦と矢部と対立することになりました。寄席の全面撤廃に反対したり、芝居小屋の廃止に反対したりするなどして庶民の娯楽や生活を守るために奮闘しました。こうした景元の尽力に感謝した芝居小屋の関係者が景元を称賛する芝居「遠山の金さん」の上演を始めました。これにより庶民の間で北町奉行の遠山金四郎が善で、南町奉行所の鳥居耀蔵が悪という図式ができあがりました。景元はその後も極端に厳しい改革に反対し続けましたが、耀蔵の計略によって天保14年(1843年)2月に北町奉行を罷免され大目付となりました。表面上は栄転でしたが実質的には閑職へ追いやられたのです。

 天保14年閏9月に忠邦が「天保の改革」の失敗の責任で罷免されると、耀蔵は改革反対派に寝返り南町奉行所の地位を守りましたが翌年に忠邦が復帰すると失脚しました。南町奉行には忠邦の弟の跡部良弼が就任しましたが忠邦の老中罷免により失脚しました。幕府は南町奉行に景元を就任させたのです。

 遠山景元はその活躍により講談、歌舞伎、テレビドラマなどで桜吹雪の刺青を持つ正義あふれる奉行「遠山の金さん」として描かれました。実際には景元が入れ墨をしていたというのは伝承のみで確たる記録は残っていません。また町奉行の仕事は多岐にわたるためドラマのような裁きをしていたわけではありません。天保12年8月18日に将軍が裁判を上覧する「公事上聴」において第12代将軍の徳川家慶は景元の裁きを見て奉行の模範と称賛しました。これによって景元が名奉行と評価されるようになりました。水野忠邦らに反発しても北町奉行を解任されなかったこと、策略によって解任されたときも表向きは栄転となったこと、南町奉行に復帰することができたのは将軍からの高評価によるものだったと考えられています。景元は庶民のために尽力した正義感あふれる人物として、多くの人々に愛され続けています

 遠山景元は嘉永5年(1852年)に家督を嫡男の景纂に譲り隠居しました。剃髪して帰雲と名乗り安政2年(1855年)2月29日に享年63歳で死去しました。景元は庶民のために尽力した正義感あふれる人物として現在も多くの人々に愛され続けています

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2025年2月27日 (木)

薩摩藩が宝暦治水に着工|宝暦治水事件(宝暦4年 1754年2月27日)

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 濃尾平野を流れる木曽川・長良川・揖斐川の木曽三川は下流の川底が高く流れが良くなかったことからお互いに複雑に絡み合い合流と分流を繰り返していました。特に美濃国では洪水が多発しましたが複数の小さな領国に分かれていたため総合的の治水対策ができませんでした。

 享保20年(1735年)に美濃郡代の井沢為永が木曾三川の治水工事を提案しましたが莫大な費用がかかるため当時財政難だった幕府は許可しませんでした。その後、小規模な治水工事は行われましたが抜本的な解決には至りませんでした。木曾三川の合流と分流は収まらず、時代とともに洪水の被害は拡大していきました。流域の多くの村が繰り返し被害に遭い限界に達していたことから、第9代将軍の徳川家重は宝暦3年(1753年)12月に薩摩藩主の島津重年に木曾三川の治水工事を命じました。

 江戸幕府が薩摩藩に治水工事を命じたのは幕府自身が財政難により大規模工事を行う余裕がなかったからです。一方で当時の薩摩藩は政治的にも経済的にも強固となっており、幕府はその影響力を弱めるために治水工事で多額の費用を拠出させようとしたのです。しかし実際のところ薩摩藩も多額の借金を抱えており決して財政的な余裕はありませんでした。幕府の一方的な命令に対し不満を募らせるものも少なくありませんでした。

 宝暦4年(1754年)1月、薩摩藩は家老の平田靱負に総奉行、大目付の伊集院十蔵を副奉行に任じ、藩士を治水工事の現地の美濃国に派遣しました。平田靱負は2月半ばに大坂に到着し金策をしてから美濃国に入りました。同年2月27日、薩摩藩は木曾三川の治水工事に着工しました。

平田靱負像(鹿児島市平田公園)
平田靱負像(鹿児島市平田公園)

 春になると雪解け水によって河川の水流が増加するため治水工事は二期に分けられました。第1期工事は同年5月22日まで行われ過去の水害で破壊された堤防などの復旧が行われました。第二期工事は同年9月21日に始まり治水対策を目的とした工事が行われ翌宝暦5年(1755年)3月28日に完了しました。薩摩藩は莫大な費用と多くの犠牲者を出しながら工事を完遂しました。揖斐川の河口に設けられた「大榑川洗堰」は薩摩藩の技術力の高さを示すものとなりました。

 工事の現場では慢性的に人手不足となっており総奉行の平田靱負は薩摩藩と江戸幕府に人足の追加の派遣を要請しています。宝暦4年(1754年)8月には工事現場で赤痢が流行し数十名の死者が出ました。またこの治水工事では多くの自害者が出ています。多くの場合、詳細は不明
とされていますが、幕府の役人が堤を破壊したことに対する抗議で自害した者もいたようです。結果として薩摩藩士51名が自害し、33名が病死したと伝えられています。工事完了後には総奉行の平田靱負も責任を取って自害しました。こうして薩摩藩士と地元の住民の努力と犠牲により木曽三川による洪水は収まりました。

 最近の研究では多くの薩摩藩士が犠牲になったのは事実ではあるものの死因が病死や事故死ではなく自害であると裏付ける資料は発見されていません。自害が広まったのは明治23年(1890年)に出版された「治水雑誌」の記述によるものですが、この雑誌も薩摩藩士の自害は伝承として裏付ける資料を提示していません。また責任を取って自害したとされる総奉行の平田靱負についても病死とされています。

 

 宝暦治水事件により江戸幕府と薩摩藩が対立するようになり後の明治維新の伏線になったという説もありますが、徳川吉宗の時代には徳川家と薩摩藩主島津氏は血縁関係を結んでいます。むしろ宝暦治水工事によって外様大名にも関わらず薩摩藩は優遇されたと考えられます。

>水とのたたかい~宝暦治水のあらまし(岐阜県海津市平田公園)
水とのたたかい~宝暦治水のあらまし(岐阜県海津市平田公園)

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2025年2月23日 (日)

江戸幕府が蝦夷奉行を設置(享和2年 1802年2月23日)

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 江戸時代、蝦夷地は松前藩が支配をしていましたがあまりにも広大なため統治することはできませんでした。蝦夷地のほとんどは未開地であったことから松前藩の財政は石高を基本とする幕藩体制とは異なりアイヌとの交易によるものでした。このような状況から江戸幕府は問題を抱えながらも蝦夷地の統治は松前藩に任せていました。

 寛政4年(1792年)、ロシアの遣日使節アダム・グラスマンが救出した日本人漂流民の大黒屋光太夫を日本に送り届ける目的で根室に来航しました。光太夫からロシアの南下政策を知らされ北方情勢が緊迫していることを認識した江戸幕府は北方防衛の強化を意識するようになりました。寛政11年(1779年)、江戸幕府は北方警護を強めるため松前藩の領地であった箱館を含む太平洋沿岸および千島列島の東蝦夷地を仮上知し直轄地としました

【参考】大黒屋光太夫がロシア女帝エカテリーナ2世の茶会に招待される|紅茶の日(11月1日)

 享和2年(1802年)2月23日、江戸幕府は箱館に蝦夷奉行を設置し、戸川安論および羽太正養の2名を奉行に免じました。箱館奉行は遠国奉行である長崎奉行に準ずる格式とされました。同年5月、蝦夷奉行は箱館奉行と改称されました。両奉行は享和3年(1802年)より1年交代で箱館に駐在することになり最初に安論が赴任しました。文化元年(1804年)、現在の元町公園にあった道南十二館のひとつで河野政通が築いた宇須岸館(河野館または箱館)の跡地に奉行所が開かれました。

箱館奉行所跡の碑
箱館奉行所跡の碑

【参考】(旧)箱館奉行所跡の碑

 文化元年前後(1804年前後)に斜里山道(斜里越)を改修・開削した八王子千人隊千人頭原胤敦が文化2年(1805年)2月から文化5年(1808年)まで箱館奉行支配調役に任ぜられた。

 文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシアの使節が日本の北方拠点を攻撃する文化露寇の事件が起きると、江戸幕府は国防体制を強化し、蝦夷地の和人地、西蝦夷地(日本海沿岸、オホーツク沿岸、樺太)を上知しました。箱館奉行を松前奉行と改め奉行所を松前に移転しました。文化6年(1809年)、樺太は西蝦夷地から分離され北蝦夷地に改称されました。ロシアの脅威が収まると文政4年(1821年)に和人地及び全蝦夷地を松前藩に返還され松前奉行は廃止されました。

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