カテゴリー「江戸時代」の35件の記事

2026年1月12日 (月)

江島生島事件(正徳4年 1714年1月12日)

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 正徳4年(1714年)1月12日、第七代将軍の徳川家継の生母の月光院に仕えていた御年寄の江島が門限に遅れたことをきっかけに江島生島事件が怒りました。この日、江島は月光院の名代として上野の寛永寺や芝の増上寺へ参拝に出向きました。その帰りに懇意の呉服商の後藤縫殿助の誘いで木挽町の芝居小屋「山村座」で人気役者の生島新五郎の歌舞伎を鑑賞しました。芝居の後に江島は生島たちを招いて宴会を催しましたが、宴会が長引き大奥の門限に遅れてるという失態を演じました。

江島と生島新五郎(江島生島事件)
江島と生島新五郎(江島生島事件)

 江島は大奥の七ツ口で役人と押し問答となり、この話は江戸城中に知れ渡りました。江島の門限破りは評定所で審理されることになりました。取り調べでは江島の単なる門限破りではなく大奥の規律を乱したことが問題視され、江島と生島新五郎の密通疑惑が浮上しました。最終的に江島は死罪となるところを減じられて信濃国高遠藩への流刑となりました。役者の生島も三宅島へと流されました。芝居小屋の山村座は解体、江島の取り巻きなど多くの者たちが処罰を受けました。

 江島は27年に渡り幽閉生活となり寛保元年(1741年)に享年61歳で死去しました。生島は寛保2年(1742年)に徳川吉宗により赦免され江戸に戻りましたが翌年享年73歳で死去しました。

 この江島生島事件は大正時代に歌舞伎「江島生島」で演じられ戦後には小説「絵島生島」になりました。事件の顛末が一般にも広く知られるようになりました。現将軍の母の月光院派と先代将軍の正室の天英院派の大奥内での覇権争いで、月光院派の江島の失態が天英院派の格好な攻撃材料になったという言い伝えもありますが史実では確認できずこれは後の創作のようです。

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2026年1月 1日 (木)

時代劇「木枯らし紋次郎」が放送開始(1972年1月1日)

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 昭和47年(1972年)1月1日(土)22時30分、笹沢左保原作の股旅物時代小説シリーズをテレビドラマ化した市川崑監督、中村敦夫主演の時代劇「木枯し紋次郎」の放送がフジテレビ系列で始まりました。

 当時の時代劇といえば正義の味方の主人公が悪を懲らしめる勧善懲悪の物語が主流でした。そのような中で木枯らし紋次郎は決して正義の味方とは思えないような風貌の渡世人の主人公の生き方を描いた時代劇でした。

 木枯らし紋次郎は上州新田郡三日月村の貧しい農家に生まれ、生後間引きされそうになるところを姉に救われました。十歳になると家を出て渡世人となり、ぼろぼろ三度笠(妻折笠)を被り、薄汚れた合羽を羽織り、長い楊枝を咥えた姿で旅がらすとなります。

木枯らし紋次郎
木枯らし紋次郎

 紋次郎は義理や人情に縛られることなく、他人の騒動には首を突っ込むことをしない徹底したニヒリズム(虚無主義)でアウトローの人物です。旅先で事件に巻き込まれて助太刀を頼まれても「あっしには関わりのねぇことでござんす」と断ります。しかしながら、まったく義理や人情がないわけでもなく、その時々の経緯によっては助太刀を行ったり、悪を懲らしめたりします。日本のニヒリスティックなアウトローとしてのダークヒーローの元祖と言って良いかもしれません。

紋次郎喰い

 

 木枯らし紋次郎の時代劇は手持ちカメラを多用して撮影されています。ドキュメンタリー風の映像や、必死では泥臭い殺陣など、リアリズムを追求した作りとなりました。上條恒彦が歌う哀愁が漂う主題歌「だれかが風の中で」も大人気となりました。木枯らし紋次郎は一躍、時代の寵児となったのです。

だれかが風の中で 木枯し紋次郎

【関連記事】

水戸黄門の放送開始(1969年8月4日)

遠山の金さんの日(天保11年 1840年3月2日)

テレビドラマ必殺シリーズ第一作「必殺仕掛人」放送開始(1972年9月2日)

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2025年12月29日 (月)

横浜鎖港談判使節団がフランスに向け出発(文久3年 1863年12月29日)

 

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 安政5年(1858年)6月19日、江戸幕府はアメリカ合衆国と日米修好通商条約を締結しました。その後、幕府は同年中にオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも修好通商条約を結びました。安政五カ国条約と呼ばれる一連の条約締結は孝明天皇の勅許を得ないまま締結されたため、攘夷派の公家や諸藩が江戸幕府の独断の進め方に反発し幕政の混乱が始まりました。

【参考】日米修好通商条約に調印(1858年6月19日)

 安政五カ国条約では江戸と大阪の開市、新潟・兵庫を開港することになっていましたが国内の経済や政治の状況から期限内での履行が困難となりました。そこで幕府は開港開市の延期交渉ならびにロシアとの樺太国境の画定交渉のため文久元年(1862年)に欧州に文久遣欧使節を派遣しました。各国との交渉は暗礁に乗り上げましたが最終的にはイギリスの協力により派遣団の目的は達成されました。

【参考】文久遣欧使節がイギリスとロンドン覚書を調印(1862年5月9日)

 幕政が混乱し攘夷派の勢力が台頭する中で江戸幕府は第14代将軍の徳川家茂と仁孝天皇の第8皇女で孝明天皇の異母妹の和宮親子内親王の婚姻を進めました。孝明天皇は政治を従来通り江戸幕府に任せる代わりに攘夷を実行するよう求めました。文久3年(1863年)、徳川家茂は征夷大将軍としては第3代将軍の徳川家光以来229年振りの上洛し孝明天皇に攘夷を約束しました。列強に対して武力による攘夷は不可能と考えた江戸幕府は外交交渉により横浜を閉港することにしました。

 文久3年(1863年)12月29日、外国奉行の池田長発(筑後守)を正史、河津祐邦(伊豆守)を副使、河田熙(相模守)を目付とする横浜鎖港談判使節団が品川沖からフランス軍艦ル・モンジュ号で出発しました。使節団の目的は横浜を再度閉鎖する交渉を行うことでしたが、列強が横浜閉港を認めるはずもなく達成不可能な任務でした。使節団の目的にはフランス士官殺害事件の賠償交渉も含まれていました。

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池田長発(筑後守)(備中国井原領主 外国奉行)

 横浜鎖港談判使節団は上海やインドを経由し、スエズから陸路でエジプトのカイロへ向かいました。使節団は元治元年(1864年)2月28日にカイロでギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見学しています。ここで撮影された写真は日本の侍の歴史において象徴的な一枚となりました。

ギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見学する横浜鎖港談判使節団
ギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見学する横浜鎖港談判使節団

 その後、使節団は地中海を経由しフランスのマルセイユに入港しパリに向かい皇帝ナポレオン3世に謁見した。横浜閉港の交渉は予想通り失敗に終わりました。使節団はパリの街で蒸気機関、鉄道、新聞、近代的な軍隊を目にしました。列強の文明の強大さを認識し鎖国や野攘夷などをやっている場合ではないと開国の重要性を考えた池田長発は独断で交渉を打ち切り同年5月17日にパリ約定を結び同年7月22日に帰国しました。

 池田長発は帰国後に幕府に対して攘夷は不可能であることと開国の必要性を訴える建白書を提出しました。幕府はこの建白書を認めずパリ約定を破棄し、池田長発の官職を解き蟄居処分としました。使節団が持ち帰った学問や技術の資料は後に明治維新を進めた志士たちに大きな影響を与えました。横浜港の閉港を目的とした使節団が日本を世界へと開かせるひとつのきっかけを作ったのです。慶応3年(1867年)、池田長発は罪を許され軍艦奉行並として復帰しましたが持病のため数ヶ月で辞職し政治の舞台から姿を消しました。

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2025年12月21日 (日)

赤城の山も今宵限り|國定忠治の最期

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 「赤城の山も今宵を限り、生まれ故郷の国定の村や縄張りを捨て国を捨て、可愛い子分の手前達とも別れ別れになる首途だ」。この台詞は新国劇の演劇「國定忠治」で國定忠治が役人に追われる身となり故郷の赤城天神山を去る際に子分たちに別れを告げる名場面の台詞です。

 國定忠治は江戸時代末期の実在の人物で上州(群馬県)や信州(長野県)で活動し一帯を支配していた博徒です。天保の大飢饉の際には弱気を助ける義侠心から農民を救済したことから上州一の大親分として人々に慕われたと伝えられています。後に講談・浪曲、演劇、映画の題材となりました。

國定忠治
國定忠治

 國定忠治は賭博に加えてその縄張り争いで殺人や殺人教唆などの罪を多数犯した罪と、会津に逃走するため大戸関所の関所破りの重罪を犯した罪で捕縛され大戸処刑場で磔の刑に処せられました。演劇では國定忠治の最期は大立ち回りを演じますが、実際には中風(脳卒中)で倒れ上州で匿われていたところを役人に捕縛されています。

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2025年12月14日 (日)

江戸時代の色彩文化と色の三原色

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 現代において「色の三原色」はシアン(青緑)・マゼンタ(赤紫)・イエロー(黄色)の3色(CMY)のことです。「光の三原色」はレッド(赤)・グリーン(緑)・ブルー(青)の3色(RGB)のことです。

 【参考】「光の三原色」と「色の三原色」の原理と仕組み|色が見える仕組み(7)

 庶民文化が花開いた江戸時代には衣服、工芸品、浮世絵、錦絵などに多彩な色が使われました。しかしながら江戸時代には化学染料や顔料が存在していませんでしたから、身近な自然由来の素材で染料や色材を作り出していました。当時は系統的な「光の三原色」や「色の三原色」を背景とした色彩学や染色技術はありませんでしたが、「色の三原色」と言える染料として広く用いられたのは藍(あい)・紅(べに)・苅安(かりやす)です。この3色の染料に加えて高貴な色として使われたのが江戸紫(えどむらさき)です。黒(くろ)は染料としては多様でしたが絵の具としては墨(すみ)が使われました。江戸時代は衣服の色は身分や奢侈禁止令(贅沢の禁止令)によって制限されていました。そのため人々は様々な中間色を生み出しました。

江戸の色彩三役:藍、紅、刈安
江戸の色彩三役:藍、紅、刈安

 藍はタデ科の植物である蓼藍(たであい)の葉から作られました。藍染めは日本の代表的な染色技術で深くて渋みのある青色を生み出します。染め重ねをすることにより縹(はなだ)・紺(こん)・濃紺(のうこん)を作ることができます。奢侈禁止令で藍は許されていたこともあり、庶民の衣服に広く用いられました。

 紅はキク科の植物の紅花(べにばな)から作られました。紅花から得られる赤色の色素は高値で取引されました。とりわけ濃い紅色は女性の着物や口紅に使われました。鮮やかな紅色は贅沢品とされ奢侈禁止令の対象とされましたが、薄い桃色や桜色などの中間色は広く使われました。

 苅安はイネ科の植物である刈安(かりやす)から作られました。刈安は黄色を染めるための染料です。刈安は藍と組み合わせると緑色となり、紅と組み合わせると橙色となるなど中間色を作る上で重要な基本の色でした。

 江戸紫は紫草(ムラサキ)の紫根から作られました。青みが強い紫色で江戸の町人文化を象徴する色でした。同じ原料で作られる京都の京紫(きょうむらさき )は赤みを帯びた紫色です。江戸紫は歌舞伎役者の衣装に多用されています。

 墨は菜種油を燃やして得られる煤から作られました。水墨画、浮世絵、錦絵の線描に広く使用されました。水で薄めて濃淡を容易に操れることから影や夜景の描画にも使われました。染料としての黒は墨染めに加えて藍や刈安などに鉄分を媒染剤として加えた鉄媒染なども使われました。

 上記の基本の三色に加えて茶(ちゃ)や鼠(ねずみ)も広く使われました。奢侈禁止令が厳しくなると人々は鮮やかな色を使用することができなくなりました。そこで基本の色を使って様々な中間色が生み出されました。

 江戸時代の「色の三原色」は現代の定義とは異なりますが、当時の多様な色彩を支えた基本の色は「藍」「紅」「苅安」の3色でした。浮世絵や錦絵などには鉱物顔料が使われる場合もありました。浮世絵や錦絵は限られた色材を使いつつも高度な技術で豊かな色彩表現しました。

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2025年12月10日 (水)

徳川家康公の肖像画を生成AIで写真化してみた

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 大阪城天守閣に所蔵されている徳川家康公の肖像画、東照大権現像(狩野探幽画)をトリミングした画像です。この画像を生成AIで実写化してみました。

徳川家康公 東照大権現像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)
徳川家康公 東照大権現像(狩野探幽画、大阪城天守閣蔵)

 Google Gemini で実写化した画像がこちらです。威厳のある生き生きとした顔になりました。背景は異なりますが構図はほぼそのまま再現されています。

徳川家康公(Google Geminiで実写化)
徳川家康公(Google Geminiで実写化)

 次にMicrosoft Copilotで実写化してみました。もとの肖像画より優しそうな表情となりました。背景は屏風ですが元の絵とは異なります。またお召し物の束帯が少し異なります。手がリアルに描かれています。

徳川家康公(Microsoft Copilotで実写化)
徳川家康公(Microsoft Copilotで実写化)

 もとの肖像画に似ているのは Google Gemini が実写化したものと思いますが、Microsoft Copilotの実写化もさもありげです。

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2025年12月 4日 (木)

近藤勇が新選組解散を願い出る|近藤勇書簡(元治元年 1864年5月20日 小島資料館)

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 近藤勇や土方歳三は農民の出で武士になりたかったという見方がある。彼らが立身のため天然理心流の剣術を学んだのは間違いないだろう。そして幕末に現れた列強を目にして攘夷の志を強めていたのも間違いないであろう。彼らは武士になりたいだけで浪士組に応募し新選組になったのであろうか。近藤勇は彼らの志を垣間見ることができる書簡を残している。 

 近藤勇や土方歳三が京都に赴き新選組を結成することになったきっかけは、幕府が文久3年(1863年)初めに募った第14代将軍の徳川家茂の上洛の警護を担う浪士組に参加したことである。この浪士組の結成を発案して幕府に認めさせたのは庄内藩出身の清河八郎である。しかしながら清河の真の目的は将軍警護ではなく尊皇攘夷運動の志士を募ることであった。

  【参考】第9話「浪士組西へ」|明日なき戦いの果てに

近藤勇 土方歳三の写真
近藤勇と土方歳三

 同じ頃、イギリスは生麦事件の賠償問題で幕府に圧力をかけるためフランス、オランダ、アメリカに呼びかけ横浜港に四カ国の軍艦を入港させた。同年2月、浪士組が京都の壬生村に到着すると清河は浪士組の真の目的は尊皇攘夷活動であることを表明し攘夷のため江戸に戻ると主張したのである。これに強硬に反発したのが芹沢鴨と近藤勇であった。清河は浪士組を率いて江戸に戻ったが芹沢、近藤、土方をはじめとする後の新選組の面々は京都に在留することになった。

  【参考】生麦事件(文久2年 1862年8月21日)

 同年3月に江戸幕府は京都守護職を努めていた会津藩主の松平容保に旧都の治安維持を行う浪士を集めて組織化することを命じていた。京都に残留した芹沢・近藤らは会津藩士の野村左兵衛を通じてこれに応募した。彼らは松平容保の庇護のもと壬生浪士組と名乗るようになった。京都守護職の配下には幕臣で構成された正規組織の京都見廻組が存在していた。これに対して壬生浪士組は剣術に長けた町人や農民出身の浪士たちで厚生された会津藩預かりという立場の非正規組織であった。

 同年3月、徳川家茂は徳川将軍としては第3代将軍徳川家光以来229年ぶりに上洛した。家茂の上洛の目的は朝廷から求められていた攘夷実行の委任を受けることであった。列強に対して武力で攘夷をすることは困難と考えた幕府は外交交渉により通商条約の破棄し鎖港することにしたが、幕府内の開国派との対立もあり攘夷実行ができたに状態が続いた。攘夷を実行しない幕府に対して業を煮やした長州藩の尊皇攘夷派の志士たちは朝廷内の尊皇攘夷派の公家たちと画策をはじめ、同年5月に馬関海峡において列強に対して攘夷を実行したのである。この混乱により家茂が江戸に戻ることがでたのは同年6月である。

  【参考】攘夷実行に従い長州藩が米国商船を砲撃(1863年5月10日)

 長州藩による攘夷実行は孝明天皇と幕府の意図に反するものであった。長州藩と公家の尊皇攘夷派の不穏な動きが続く中、幕府は京都市中から過激な尊皇攘夷派の志士と公家たちを排除するため同年8月に八月十八日の政変を起こした。この政変において壬生浪士組が活躍し、松平容保は壬生浪士組を正規組織とし彼らに新選組という名前を授けた。新選組の面々は幕臣となったのである。

  【参考】八月十八日の政変(1863年8月18日)

  【参考】新撰組の日(文久3年 1863年3月13日)

 文久4年(1864年)正月、徳川家茂は2度目の上洛を果たした。前年の八十八日の政変に満足していた孝明天皇と朝廷は徳川家茂を従一位右大臣に昇進させた。松平容保も陸軍総裁職・軍事総裁職を命じられ、京都守護職には福井藩主の松平慶永が就任した。近藤勇は新選組を松平慶永の配下とすることに反対した。新選組は従来通り松平容保のもとで将軍警護のため京都市中の警備を強化した。同年2月、元号が元治に改元された。八十八日の政変により京都市中は平和を取り戻したが、京都から追放された長州藩と公家は武力により入京することを画策していた。政情不安を前に徳川家茂は同年5月に江戸へ帰還したが、このとき近藤勇は将軍の在留を求めたことを書簡に残している。

 この書簡は近藤勇が新選組の支援者で武蔵国多摩郡小野路村の名主の小島鹿之助に送ったものである。この書簡で近藤勇は徳川家茂の帰府を止めようとしたが叶わなかったこと、将軍不在の京都で攘夷は実行できず当初の自分たちの目的が果たせないため新選組を解散して江戸に戻ることを決めたことを記している。そして新選組の解散の意向を京都の状況をよく理解している幕府老中の酒井忠績に願い出たが、京都の治安維持のため慰留されたので解散を撤回したと記しています。近藤勇は幕臣として幕府からの慰留の命令を受け入れ、「只々臣たる道を守り楠公、宋の岳飛の志に続き致し度候」と決意の言葉を残しています。

一次史料:【新選組】小島資料館所蔵資料(資料グループ) 近藤勇書簡(目録)

多摩デジタル新選組資料館/新選組関連資料

新撰組の隊旗
新撰組の隊旗

 この決断により新選組は京都に残留することになり、同年6月に池田屋事件でその名を天下に知らしめました。新選組は大きな転機を迎えましたが同時に後戻りができなくなり幕末・明治維新の混乱の波に巻き込まれていくことになったのである。もし新選組が解散していたら彼らは薩摩や長州から恨みを買うこともなく、戊辰戦争にも巻き込まれることなく江戸で剣術家として暮らしていたであろう。

  【参考】池田屋事件(元治元年 1864年6月5日)

  【参考】新選組!! 近藤勇 最期の一日(慶応4年 1868年4月25日)

  【参考】新選組!! 土方歳三 最期の一日(明治2年 1869年5月11日)

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2025年12月 1日 (月)

江戸幕府が天文方を設置( 貞享元年 1685年12月1日)

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 日本では暦の編纂は朝廷の陰陽寮(おんようりょう )が所轄し土御門家(つちみかどけ)が担っていました。当時、暦として使われていたのは中国の唐の時代に作られ渤海から日本に伝わった太陰太陽暦「宣明暦」(せんみょうれき)でした。日本では宣明暦は862年から約823年間に渡り使われてきましたが、誤差が大きいため文化が発展するにつれて農業や祭礼に支障をきたすようになりました。

 この暦の誤差を解決しようとして研究したのが囲碁技師で神道家の渋川春海(別名 安井算哲)です。春海は若い頃から数学・天文学を学び万治2年(1659年)21歳の時に天体観測のデータに基づき中国四国地で緯度・経度を計測しました。寛文10年(1670年)から独自に天体観測を行いその結果をもとにして中国の授時暦へ改暦を提唱しましたが、日食の予報に失敗したため却下されました。春海は朱子学者の中村惕斎の協力を得て日食の予報の失敗の原因を突き止め授時暦を日本向けに改良した大和暦を作成しました。 この暦は日本初の国産歴「貞享暦」(じょうきょうれき )として朝廷に採用されました。改暦の背景として、春海が碁や神道を通じた徳川光圀や土御門泰福などの有力者とのつながりがあったこと、観測データに基づいた春海の大和暦が正確で高く評価されたことが伝えられています。

渋川春海(別名 安井算哲)
渋川春海(別名 安井算哲)

 江戸幕府は暦が政治や社会にとって重要であることを鑑み、編暦の権限を朝廷から幕府へ移管しました。貞享元年12月1日(1685年1月5日)に寺社奉行に天文方を設置し春海を250石で初代の幕府天文方「天文職」に任命しました。春海は貞享2年(1685年)に牛込藁町に司天台を設置し本格的な天体観測を始めました。この日を境に日本の暦は独自の観測に基づく科学的な裏付けのある暦法となりました。

 天文方は延享4年(1747年)には若年寄支配となり幕府直轄の重要組織となりました。天台は何度かの移転を経て天明2年(1782年)に浅草に移設され浅草天文台(頒暦所)が設立されました。このとき初めて「天文台」と呼ばれるようになりました。

浅草天文台(頒暦所)(葛飾北斎 富嶽百「鳥越の不二」)
浅草天文台(頒暦所)(葛飾北斎 富嶽百「鳥越の不二」)

 天文方は暦の編纂と全国への頒布、天体観測による暦の精度向上、地図作成や測量事業の役割を果たし江戸時代の科学技術の発展の象徴的組織となりました。

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2025年11月20日 (木)

松前崇広とエゲリア号事件(文久3年 1863年11月20日)

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 文久3年(1863)年11月20日午後8時、箱館港に向けて航行中のイギリス商船エゲリア号が松前町内大沢地区(大沢村大字櫃の下)の沖合で座礁しました。当時、箱館は日英修好通商条約によって開港されていました。しかし、孝明天皇は朝廷の勅許を得ずにアメリカ合衆国をはじめとする列強と修好通商条約を結んだ幕府に対して同年3月に孝明天皇は攘夷の勅命を下しました。第14代将軍の徳川家茂は攘夷を約束しましたが幕府内部の意見の対立もあり攘夷を実行することはできずにいました。同年5月、攘夷を実行しない幕府に業を煮やした長州藩は馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して砲撃を加えました。これによりイギリスは多大な経済的損失を受けました。

 このような緊張が高まる中でエゲリア号の事故が起きると箱館奉行の役人や列強各国の箱館駐在領事が現場を訪れました。開港している箱館港以外での外国船の扱いについては難しい面もありました。箱館奉行の役人の対応は尊大で横柄で遭難者への対応も通商条約に反していため各国駐在領事は函館奉行に対して断固とした姿勢を取りました。そのような状況の中で当時の幕府の寺社奉行で開国派だった松前藩主の松前崇広はあくまでも人道主義を貫くことを主張しました。松前藩は現場近くに救難小屋を建てエゲリア号の遭難者を収容し、食料や衣類を提供するとともに負傷者を手厚く看護しました。松前藩は遭難者を厚遇して送還し、イギリスからの謝礼金の申し出も断りました。

松前崇広
松前崇広

 松前藩の人命尊重の対応に対して各国駐在領事は感銘し、当事国のイギリス領事のラザフォード・オールコックは本国に顛末を報告しました。元治元年(1864年)5月、イギリスのハノーヴァー朝第6代女王ヴィクトリア女王は松前藩に感謝の意を込めて松前崇広に松前家の家紋の入った金の懐中時計を贈りました。

イギリス・ハノーヴァー朝第6代女王 ヴィクトリア女王
、イギリス・ハノーヴァー朝第6代女王 ヴィクトリア女王

 松前崇広は同年7月に幕府の老中格、同年11月に老中に就任しています。慶応元年(1865年)、松前崇広は老中の阿部正弘とともに朝廷の許可を得ずに兵庫開港を決定したため、同年10月に朝廷は2人は対して官位剥奪および謹慎を命ずる勅命を下しました。

 【参考】兵庫開港要求事件(1865年9月13日)

 松前崇広は死去するまでヴィクトリア女王から賜った金時計を肌身離さず大切にしていたと伝えられています。

日英友好の石碑(松前公園)
"日英友好の石碑(松前公園)

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2025年10月27日 (月)

吉田松陰 弟子たちに思想を託しあの世へ旅立つ(安政6年 1859年10月27日)

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 「松下村塾」を開き高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など明治維新で活躍した志士たちに多大な影響を与えた吉田松陰。松陰は嘉永7年(1854年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督が日米和親条約を締結するため黒船艦隊を率いてやってきたときに海外渡航を単眼するも断られ密航の罪で投獄されました。その後、長州萩城下松本村の実家の杉家預かりとなり、安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぎました。松陰も弟子を指導しながら尊皇攘夷の思想を深めていきました。

 【参考】吉田松陰と金子重之輔が黒船に密航を懇願|下田踏海(嘉永7年 1854年3月27日)

吉田松陰
吉田松陰

 安政5年(1858年)に幕府が朝廷の許可を得ずに日米修好通商条約を締結すると、松陰は孝明天皇への弁明のため上洛する老中首座の間部詮勝を捕らえて条約を破棄させ攘夷の実行を求め拒否された場合は討ち取る計画「間部要撃策」と「伏見要駕策」を画策しました。しかしながら、久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎ら弟子たちの賛同を得られず頓挫しました。松陰は幕府に対する不信感を募らせ藩を超えた尊王攘夷運動を志して「草莽崛起」を唱えて尊皇攘夷の志士たちに倒幕の蜂起を促しました。長州藩は松陰を危険な思想の持ち主として幽閉しました。

 安政6年(1859年)、幕府による思想弾圧の安政の大獄により梅田雲浜が捕らえられると雲浜と関係のあった松陰も連座され江戸の伝馬町牢屋敷に投獄されました。松陰は評定書で雲浜との関係を問いただされましたがあくまで参考人としての尋問で想定された罪も重いものではありませんでした。しかしながら、松陰は自身の信念を貫き尊皇攘夷と倒幕の正当性を論じるため幕府が把握していなかった「間部要撃策」を自白してしまいました。計画を知った幕府は松陰に死罪を宣告し安政6年(1859年)10月27日に伝馬町牢屋敷で執行しました。享年29歳。

 松陰はいくつかの辞世の句を遺しています。そのひとつ 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」は 自らの死を受け入れて志が後世に受け継がれることを願ったものです。松陰の死は弟子たちを奮い立たせ尊王攘夷運動の原動力となり明治維新へとつながりました。

 

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