カテゴリー「新選組」の14件の記事

2025年12月19日 (金)

新選組の色|隊服の浅葱色と誠の赤色

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 新選組を象徴する色は隊服に用いられた浅葱色(あさぎいろ)と誠の隊旗の赤色です。

 浅葱色は藍で数回染めた透明感のある明るい青緑(シアン)です。広く知られている新選組の隊服は浅葱色の羽織に袖口と裾に白いだんだら模様(山形模様)入っています。このだんだら模様は当時人気だった歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」に登場する赤穂浪士の装束を模したものと言われています。武士としての忠義を示すもので副長の土方歳三が考案したと伝えられています。

 浅葱色の隊服と並んで新選組の象徴とされるのが隊旗の「誠」の文字です。新選組の隊旗の地色は赤色で、そこに金色または白色で「誠」の文字が染め抜かれています。「誠」の文字と赤色は「赤心」(せきしん)や「赤誠」(せきせい)と呼ばれ、真心や偽りのない心を意味しています。だんだら模様は上述の通りです。

新選組隊旗
新選組隊旗(amazon.co.jp)

 新選組はそれぞれ異なる意味を持つ浅葱色と赤色を組織の象徴として用いることで、武士と忠義の精神を表現したのです。

 偶然なのか意図的なのかはわかりまえんが、浅葱色と赤色は補色の関係になっています。

 【参考】「光の三原色」と「色の三原色」の原理と仕組み|色が見える仕組み(7) 

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2025年12月 4日 (木)

近藤勇が新選組解散を願い出る|近藤勇書簡(元治元年 1864年5月20日 小島資料館)

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 近藤勇や土方歳三は農民の出で武士になりたかったという見方がある。彼らが立身のため天然理心流の剣術を学んだのは間違いないだろう。そして幕末に現れた列強を目にして攘夷の志を強めていたのも間違いないであろう。彼らは武士になりたいだけで浪士組に応募し新選組になったのであろうか。近藤勇は彼らの志を垣間見ることができる書簡を残している。 

 近藤勇や土方歳三が京都に赴き新選組を結成することになったきっかけは、幕府が文久3年(1863年)初めに募った第14代将軍の徳川家茂の上洛の警護を担う浪士組に参加したことである。この浪士組の結成を発案して幕府に認めさせたのは庄内藩出身の清河八郎である。しかしながら清河の真の目的は将軍警護ではなく尊皇攘夷運動の志士を募ることであった。

  【参考】第9話「浪士組西へ」|明日なき戦いの果てに

近藤勇 土方歳三の写真
近藤勇と土方歳三

 同じ頃、イギリスは生麦事件の賠償問題で幕府に圧力をかけるためフランス、オランダ、アメリカに呼びかけ横浜港に四カ国の軍艦を入港させた。同年2月、浪士組が京都の壬生村に到着すると清河は浪士組の真の目的は尊皇攘夷活動であることを表明し攘夷のため江戸に戻ると主張したのである。これに強硬に反発したのが芹沢鴨と近藤勇であった。清河は浪士組を率いて江戸に戻ったが芹沢、近藤、土方をはじめとする後の新選組の面々は京都に在留することになった。

  【参考】生麦事件(文久2年 1862年8月21日)

 同年3月に江戸幕府は京都守護職を努めていた会津藩主の松平容保に旧都の治安維持を行う浪士を集めて組織化することを命じていた。京都に残留した芹沢・近藤らは会津藩士の野村左兵衛を通じてこれに応募した。彼らは松平容保の庇護のもと壬生浪士組と名乗るようになった。京都守護職の配下には幕臣で構成された正規組織の京都見廻組が存在していた。これに対して壬生浪士組は剣術に長けた町人や農民出身の浪士たちで厚生された会津藩預かりという立場の非正規組織であった。

 同年3月、徳川家茂は徳川将軍としては第3代将軍徳川家光以来229年ぶりに上洛した。家茂の上洛の目的は朝廷から求められていた攘夷実行の委任を受けることであった。列強に対して武力で攘夷をすることは困難と考えた幕府は外交交渉により通商条約の破棄し鎖港することにしたが、幕府内の開国派との対立もあり攘夷実行ができたに状態が続いた。攘夷を実行しない幕府に対して業を煮やした長州藩の尊皇攘夷派の志士たちは朝廷内の尊皇攘夷派の公家たちと画策をはじめ、同年5月に馬関海峡において列強に対して攘夷を実行したのである。この混乱により家茂が江戸に戻ることがでたのは同年6月である。

  【参考】攘夷実行に従い長州藩が米国商船を砲撃(1863年5月10日)

 長州藩による攘夷実行は孝明天皇と幕府の意図に反するものであった。長州藩と公家の尊皇攘夷派の不穏な動きが続く中、幕府は京都市中から過激な尊皇攘夷派の志士と公家たちを排除するため同年8月に八月十八日の政変を起こした。この政変において壬生浪士組が活躍し、松平容保は壬生浪士組を正規組織とし彼らに新選組という名前を授けた。新選組の面々は幕臣となったのである。

  【参考】八月十八日の政変(1863年8月18日)

  【参考】新撰組の日(文久3年 1863年3月13日)

 文久4年(1864年)正月、徳川家茂は2度目の上洛を果たした。前年の八十八日の政変に満足していた孝明天皇と朝廷は徳川家茂を従一位右大臣に昇進させた。松平容保も陸軍総裁職・軍事総裁職を命じられ、京都守護職には福井藩主の松平慶永が就任した。近藤勇は新選組を松平慶永の配下とすることに反対した。新選組は従来通り松平容保のもとで将軍警護のため京都市中の警備を強化した。同年2月、元号が元治に改元された。八十八日の政変により京都市中は平和を取り戻したが、京都から追放された長州藩と公家は武力により入京することを画策していた。政情不安を前に徳川家茂は同年5月に江戸へ帰還したが、このとき近藤勇は将軍の在留を求めたことを書簡に残している。

 この書簡は近藤勇が新選組の支援者で武蔵国多摩郡小野路村の名主の小島鹿之助に送ったものである。この書簡で近藤勇は徳川家茂の帰府を止めようとしたが叶わなかったこと、将軍不在の京都で攘夷は実行できず当初の自分たちの目的が果たせないため新選組を解散して江戸に戻ることを決めたことを記している。そして新選組の解散の意向を京都の状況をよく理解している幕府老中の酒井忠績に願い出たが、京都の治安維持のため慰留されたので解散を撤回したと記しています。近藤勇は幕臣として幕府からの慰留の命令を受け入れ、「只々臣たる道を守り楠公、宋の岳飛の志に続き致し度候」と決意の言葉を残しています。

一次史料:【新選組】小島資料館所蔵資料(資料グループ) 近藤勇書簡(目録)

多摩デジタル新選組資料館/新選組関連資料

新撰組の隊旗
新撰組の隊旗

 この決断により新選組は京都に残留することになり、同年6月に池田屋事件でその名を天下に知らしめました。新選組は大きな転機を迎えましたが同時に後戻りができなくなり幕末・明治維新の混乱の波に巻き込まれていくことになったのである。もし新選組が解散していたら彼らは薩摩や長州から恨みを買うこともなく、戊辰戦争にも巻き込まれることなく江戸で剣術家として暮らしていたであろう。

  【参考】池田屋事件(元治元年 1864年6月5日)

  【参考】新選組!! 近藤勇 最期の一日(慶応4年 1868年4月25日)

  【参考】新選組!! 土方歳三 最期の一日(明治2年 1869年5月11日)

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2025年10月20日 (月)

榎本艦隊が鷲ノ木に上陸(慶応4年 1868年10月20日)

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第1話 榎本武揚が旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱出(慶応4年 1868年8月19日)

第2話 榎本武揚らが仙台城で奥羽越列藩同盟の軍議に参加(慶応4年 1868年9月3日)

第3話 仙台藩が降伏し奥羽越列藩同盟が消滅(慶応4年 1868年9月12日)

 仙台藩の降伏により奥羽列藩同盟は完全に崩壊した。榎本艦隊が早めに仙台に到着していたらという「もし」がある。時間稼ぎはできたかもしれないが同盟の崩壊は免れなかったであろう。また榎本艦隊が早めに東北に到着し参戦していたら疲弊していただろう。箱館に辿りつくことなく戊辰戦争が集結していた可能性もある。

 仙台はほとんど無傷ではあったが戦場になると大きな被害を被ることになる。新政府への恭順を決断した仙台藩にとってやっかいとなったのは榎本艦隊をはじめとする新政府軍に徹底抗戦を主張する幕臣たちであった。仙台藩は榎本艦隊に物資を提供し、仙台を離れる後押しをしたのである。慶応4年(1868年)10月12日、榎本艦隊は仙台の折浜を出港した。途中で宮古湾鍬ヶ崎港に寄港し蝦夷地に向かった。蝦夷地に向かったには開陽、回天、蟠竜丸、神速の4軍艦と長鯨、大江、鳳凰、千秋(のちの回春)の4輸送艦である。先鋒を回天、しんがりを開陽とした合計8隻の艦隊は北へ向かった。

 榎本艦隊は箱館港に入港することを避けた。箱館港は開港されており外国船も入港していた。幕府が箱館防備のため五稜郭とともに建造した弁天台場は新政府軍の管轄下にあった。そんなところに榎本艦隊が現れれば戦闘状態になるのは必至である。榎本艦隊は五稜郭から北に約40キロメートル離れた鷲ノ木浜(北海道茅部郡森町鷲ノ木町)から蝦夷地に上陸することにしたのである。

南蝦夷地之内鷲ノ木着船之図(麦叢録附図)
南蝦夷地之内鷲ノ木着船之図(麦叢録附図)

 慶応4年(1868年)10月20日の夜、榎本艦隊は鷲ノ木浜に到着した。翌21日にかけて雪が舞う荒海の沖合に集結した艦隊から旧幕府軍の兵士約3000名が小舟で次々と上陸を開始した。鷲ノ木村は大騒ぎになったが旧幕府軍は村の会所(役所)を拠点とした。

旧幕軍鷲ノ木上陸地の碑
旧幕軍鷲ノ木上陸地の碑
(写真提供:ZARIザリ @zarivandal x.com)

 榎本艦隊が蝦夷地に向かったことを察知した新政府軍は箱館に兵を送り防備を固めたが旧幕府軍に対峙できるほどの体制にはなかった。一方の旧幕府軍も好戦的ではなかった。榎本武揚は戦闘を避けるため館府知事の清水谷公考のもとに人見勝太郎と本多幸七郎および精鋭の歩兵30名を使者として送った。彼らは榎本武揚の檄文と嘆願書を携えて五稜郭に向かったが同年10月22日に新政府軍の奇襲を受け戦闘状態に入った。喰う幕府軍は大鳥圭介が率いる部隊と土方歳三が率いる部隊の二手に分かれ、大鳥隊が峠下・七重方面から、土方隊が鹿部・川汲峠・湯の川j方面から五稜郭を目指して進軍を開始した。榎本武揚は旧幕府軍による蝦夷地の開拓と北方警備を許可する嘆願書を勝海舟らに送っているが新政府はこれを許すことはなかった。こうして箱館戦争の火蓋が切られることになったのである。

榎本軍鷲ノ木上陸地 案内版
榎本軍鷲ノ木上陸地 案内版
(写真提供:ZARIザリ @zarivandal x.com)

 鷲ノ木は箱館戦争の終戦まで旧幕府軍の後方陣地とされた。旧幕軍の負傷兵や病人は鷲ノ木に移され治療を受けた。戦死したものは村の会所(役所)近くの霊鷲院に手厚く葬られました。

箱館戦争鷲ノ木戦没者之碑
箱館戦争鷲ノ木戦没者之碑
(写真提供:ZARIザリ @zarivandal x.com)

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2025年10月 3日 (金)

土方歳三の写真が箱館で撮影された根拠

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 箱館戦争に挑む際に撮影された洋装で椅子に座る土方歳三の写真。決戦を前に口を一文字に結び強い意志を感じさせながらどこか涼しい表情をしている。

土方歳三の写真(田本研造撮影)
土方歳三の写真(田本研造撮影)

 この写真がどこで撮影されたのかについては2つの有力な説があった。ひとつは「新選組の舞台裏」(1998年、菊池明著、中経出版)の主張である。もうひとつは「新選組研究最前線再善戦(下)」(1998年、新人物往来社)の「写真師K・Gと土方歳三」(桑嶋洋一著)の主張である。前者は近藤勇の腕組写真と同じく慶応4年(1868年)に江戸の松本良順のところで撮影されたとしている。後者は同年(明治元年)に写真家の田本研造により箱館で撮影されたとしている。

 近藤勇の腕組写真は敷物の上に和装で座っている。この時に土方歳三の写真が撮影されたのだとすると歳三も和装であった可能性が高いと考える。歳三の写真は洋装であるからもう少し後で撮影されたものであろう。問題はどこで誰により撮影されたかである。

 「写真師K・Gと土方歳三」は歳三の座っている椅子が猫足であることに注目している。箱館戦争当時に箱館で撮影された写真に榎本武揚をはじめとする箱館政権首脳の写真が存在する。この写真の前列左側の海軍奉行の荒井郁之助が座っている椅子が歳三が座っている猫足の椅子と同じものとしている。著者はオリジナルの高解像度の写真を入手し椅子が同じものであることを確認したようである。

箱館政権首脳の写真 後列左から小杉雅之進、榎本対馬、林董三郎、松岡磐吉 前列左から荒井郁之助、榎本武揚
箱館政権首脳の写真
後列左から小杉雅之進、榎本対馬、林董三郎、松岡磐吉
前列左から荒井郁之助、榎本武揚

 高解像度の写真は入手できないので荒井郁之助をトリミングした写真と土方歳三の写真をAIでカラー化してみたのが次の写真である。カラー化により椅子の形が明らかになった。確かに2つの椅子は猫足であり、4本の足をつなぐ貫が特徴的なX型であることが確認できた。おそらく高解像度の写真では白黒でも鮮明に写っていたのであろう。

荒井郁之助と土方歳三が座る椅子の比較
荒井郁之助と土方歳三が座る椅子の比較

 箱館政権首脳の写真は箱館で田本研造により撮影されたものと考えられ、椅子が同じものであることから土方歳三の写真も箱館で田本研造のところで撮影されたものと結論づけることができる。

 ただし「写真師K・Gと土方歳三」では土方歳三の写真の台紙に記載されているイニシャルK・Gに注目している。土方歳三の写真には台紙に「PHOTOGRAPHER K JAPAN ARTIST」と記載されたものがある。Kの部分には重なるようにGが書いてある。「歳三の写真」(1978年、草森紳一著、新人物往来社)の表紙の写真がまさにしれである。同じ台紙が使われた古写真が函館に現存しているという。

K・Gの台紙
K・Gの台紙

 これは田本研造が使っていた台紙とは異なると指摘している。田本研造が撮影したのであれば自分の台紙を使うだろうということである。また箱館政権首脳写真の撮影場所も田本研造の写真館ではなかった可能性も指摘している。箱館政権首脳写真と土方歳三の写真がフランスに渡っていることからこの2つの写真を撮影したのは日仏写真に関係していた写真家ではないかと結論づけている。

新選組研究最前線〈下〉(新人物往来社、1988年)
「写真師K・Gと土方歳三」(桑嶋洋一)

 確かに田本研造の台紙は別のデザインです。土方歳三の写真の撮影者は田本研造であり、K・G台紙の写真は写真師K・Gが複写し整えたものかもしれない。

【関連記事】

土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

 

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2025年5月12日 (月)

箱館戦争全史

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箱館戦争全史 

好川 之範 (著)

箱館戦争全史
箱館戦争全史 (Amazon.co.jp)

 「箱館戦争全史」は幕末の戊辰戦争の最後の戦いとなった「箱館戦争」の経過や背景を詳細に解説した歴史書です。明治元年(1868年)10月、榎本武揚が率いる旧幕府軍が蝦夷地(北海道)の鷲の木に上陸してから明治2年(1869年)5月に五稜郭が落城するまでの約半年間に渡る箱館戦争の経過が詳細に記述されています。

 「鳥羽・伏見の戦い」から始まる箱館戦争前夜、旧幕府軍による蝦夷地平定、箱館政権の樹立、宮古湾海戦、新政府軍の蝦夷地上陸と箱館総攻撃に至るまでの過程が網羅されています。単に戦史を羅列したものではなく当時の社会情勢、箱館の人々の暮らし、新政府軍と旧幕府軍の志士たちの心理や生き様などを取り上げています。平易な日本で書かれているのですらすら読むことができます。郷土史料に書かれているエピソードも紹介されているので歴史書としても価値のある一冊と思います。

出版社 ‏  : ‎ KADOKAWA(新人物往来社) (2009/1/1)
発売日 ‏  : ‎ 2009/1/1
言語 ‏   : ‎ 日本語
単行本 ‏  : ‎ 257ページ
ISBN-10 : ‎ 4404035802
ISBN-13 : ‎ 978-4404035806

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2025年5月11日 (日)

新選組!! 土方歳三 最期の一日(明治2年 1869年5月11日)

 

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 明治2年(1869年)4月9日、蝦夷に向かった新政府軍は乙部から上陸を開始しました。新政府軍は松前口、木古内口、二股口から箱館に向けて進軍を開始しました。旧幕府軍は新政府軍の進軍を阻止するため各地で迎え撃ちましたが多勢に無勢でほどなく撤退を余儀なくされました。

渡島半島地図
渡島半島地図

 そのような状況の中で土方歳三が率いる衝鋒隊および伝習隊からなる300名の部隊は二股口で新政府軍に徹底抗戦しました。地の利もあって歳三の部隊は新政府軍の部隊を寄せ付けませんでした。新政府軍は二股口の攻略を諦め道を切り開いて箱館に向かいました。同年4月29日、矢不来が陥落すると連戦連勝していた歳三は退路を断たれることを恐れて五稜郭へ撤退しました。同年5月2日、ジュール・ブリュネらフランス軍事顧問団がフラナス軍艦コエトローゴン号で箱館を脱出しました。これをきっかけに旧幕府軍兵士たちが脱走を始めました。

二股口の戦いの古地図
二股口の戦いの古地図

 同年5月5日、歳三は五稜郭において新選組以来の小間使であった16歳の市川鉄之助に日野宿の佐藤彦五郎に自身の遺品を届け戦況を詳しく伝えるよう命じました。鉄之助は箱館の地で果てるつもりだったため拒否しましたが、歳三が抜刀し命令に従わなければ討ち果たすと威嚇したため箱館を脱出し佐藤彦五郎のもとへ向かうことにしました。歳三は多摩出身の隊士で鉄之助と同じ年頃の渡辺市造に多摩に不慣れな鉄之助の案内役として同行するよう命じました。鉄之助らが五稜郭を出ると城門の小窓から見送る人影に気がつきました。歳三は若き2人の無事を願い行く末を案じて見送ったのでしょう。

 五稜郭に戻った歳三は新選組の島田魁らと新政府軍の有川の本陣に連日夜襲を仕掛けました。このとき新政府軍は箱館総攻撃の準備を進めていました。新政府軍は陸軍本隊に五稜郭に包囲させ、陸軍の奇襲部隊には箱館山の裏手の海岸から崖をよじ登り箱館山山頂を制圧させ、海軍には箱館湾や大森浜から陸軍の攻撃を支援し五稜郭に艦砲射撃を行わせる三面作戦を講じました。

箱館市内地図(箱館戦争当時)
箱館市内地図(箱館戦争当時)

 明治2年(1869)5月11日午前3時、新政府軍の朝陽と丁卯の箱館市中への砲撃が始まり総攻撃が始まりました。これに反撃できたのは旧幕府軍の幡龍のみでしたから朝陽と丁卯の砲撃を阻止することはできませんでした。

 午前4時頃、新政府軍の陸軍奇襲部隊が箱館山裏側の寒川に到着し上陸を始めました。箱館山の険しい崖をよじ登り山頂をめざしました。山頂の旧幕府軍の新選組や伝習士官隊が新政府軍に気がついたのは夜が明けた頃でした。突然の新政府軍の襲撃に反撃することもできず新選組を中心とする部隊は箱館山を下り弁天台場に逃げ込みました。その他の部隊は千代ヶ岱陣屋、五稜郭まで撤退しています。

 箱館山を制圧した新政府軍は函館市中になだれ込みました。一方、奇襲部隊の別働隊は山背泊から上陸し弁天台場を包囲し攻撃を開始しました。さらに新政府軍の甲鉄、春日が援護砲撃を行ったため弁天台場は孤立してしまいました。

 【参考】弁天台場|新撰組最期の地

弁天台場(AIカラー化)
弁天台場(AIカラー化)

 午前8時頃、朝陽と丁卯と抗戦していた幡龍の艦長の松岡磐吉は双眼鏡で着弾を確認しながら砲撃を指示しました。砲手の永倉伊佐吉が発した砲弾が朝陽丸の弾薬庫に命中、朝陽丸は爆発し轟沈したのです。これによって箱館政権軍の士気は高まりました。蟠竜は追撃してきた甲鉄らの集中砲火を受けましたが弾が尽きるまで戦闘した後に浅瀬に乗り上げました。船長の松岡磐吉をはじめとする乗組員は敵中を突破し弁天台場に逃げ込みました。伊佐吉は艦長のため退去する小舟を取りに行くと海に飛び込みましたが溺死してしまいました。

朝陽を轟沈させた幡龍
朝陽を轟沈させた幡龍

 これまで陸軍本体と戦っていた土方歳三は箱館市街と五稜郭が分断されたことを知ると側近の安富才助と沢忠助、額兵隊を率いて函館市街へ向けて出陣しました。弁天台場の新選組の相馬主計は援軍を求めるよう大野右仲を五稜郭に派遣しました。右仲は千代ヶ岱陣屋あたりで歳三が率いる部隊に出逢いました。右仲は安堵し土方隊とともに一本木関門に向かいました。そこに伝習士官隊が敗走してきました。歳三は「この機失すべからず。士官隊に令して速進せん。しかれども敗兵俄に用い難し。吾れこの柵に在りて、退く者は斬らん。子は率いて戦え」と檄を飛ばしました。「この機失すべからず。」とは幡龍が朝陽を轟沈させたことです。「子」とは右仲のことです。

一本木関門跡
一本木関門跡

 右仲は歳三の命令に従い額兵隊と伝習士官隊を率いて一本木関門から異国橋付近まで進撃しましたが新政府軍の反撃により一本木関門へと引き返しました。このとき右仲は歳三が守っているはずの一本木関門で敗走していく兵士を見て驚き千代ヶ岡陣屋まで引き返したところ、安富才助から歳三の戦死を知らされました。一本木関門で指揮をしていた歳三は一発の銃弾を腹部に受けて落馬し絶命していたのです。

 【参考】異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地

 歳三の死が五稜郭に伝えられると箱館政権で探索役主任と箱館市中取締役を兼任していた小芝長之助が遺体を引き取りにきました。歳三の遺体は五稜郭の一本松の土饅頭に埋葬されたという説がありますが埋葬場所には諸説あり確定していません。<b

 土方歳三戦死、享年35歳。近藤勇が亡くなった年齢と同じでした。

土方歳三の写真(田本研造撮影)
土方歳三の写真(田本研造撮影)

 辞世の句とされるのは次の3つです。

  ・よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ

  ・たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん

  ・鉾とりて月見るごとにおもふ哉あすは屍の上に照かと

 箱館政権の榎本武揚が降伏したのはその6日後の5月17日でした。

 

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2025年5月 7日 (水)

彫像「若き星たち」(北海道函館市)

 

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 北海道函館市の松前通りを五稜郭の方へ進んでいくと行啓通との交差点に北海道新聞函館支社があります。その前に函館山の方向の空を望むように手をあげている2人の若者の彫像が建てられています。若者は左側の若者は銃を持ち、右側の若者は帯刀しています。この彫像は2002年9月に建立された「若き星たち」です。

彫像「若き星たち」(彫刻 小野寺紀子)
彫像「若き星たち」(彫刻 小野寺紀子)

 彫像の右横に石碑が設置されています。この石碑には「若き星たち 戦火を超えて 若き星ふたつ 未来の空に またたかん」という詩が刻まれています。「若き星たち」は幕末の戊辰戦争の最後の戦闘となった箱館戦争において日本の未来をかけて戦った新政府軍と旧幕府軍の名もなき若き戦士の銅像です。


石碑「若き星たち」(詞 原子修作)
石碑「若き星たち」(詞 原子修作)

 こちらが彫刻「若き星たち」の設置されている場所の地図(Google Map)です。

 

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2025年4月25日 (金)

新選組!! 近藤勇 最期の一日(慶応4年 1868年4月25日)

 

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 新選組局長の近藤勇は慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦で敗北後、土方歳三らとともに幕府軍艦の富士山丸で江戸に戻りました。勇は江戸城梶橋門外の秋月種樹邸を新選組の屯所し、徳川慶喜に甲斐国甲府城の委任を願い出る建白書を提出しました。このとき慶喜は新政府に恭順することを決めていましたが、幕府は同年2月28日は新選組に「甲陽鎮撫」を命じました。陸軍総裁の勝海舟が新政府と交渉を始めるにあたり新選組などの抗戦派を江戸市中に留め置くことは得策ではないと考え甲陽鎮撫を命じたという説がありますが、新選組に兵士と兵器を提供するなど過分な支援をしていることから新選組にひと暴れさせて新政府との交渉を有利に進めようとした意図もあったのではないかと考えられています。

近藤勇
近藤勇

 幕府から甲陽鎮撫の命を受けた勇は自らの名を大久保剛と変え新選組を甲陽鎮撫隊と改名しました。このとき土方歳三も内藤隼人の変名を名乗りました。この甲陽鎮撫隊には日野宿の佐藤彦五郎も加わっています。甲陽鎮撫隊は同年3月1日に江戸の屯所を出発し甲州街道で甲府に向かいました。しかし、甲府は甲陽鎮撫隊が到着する前に板垣退助が率いる迅衝隊により制圧されていました。同年3月6日に甲陽鎮撫隊は甲州勝沼の戦い(柏尾戦争)で迅衝隊に破れて敗走しました。甲陽鎮撫隊は八王子宿まで撤退しましたが、もともと武田家臣団だった八王子千人隊が板垣退助に恭順していたため江戸に引き返しました。

 永倉新八と原田左之助は勢力を立て直し京都で新選組を庇護した会津藩の松平容保のいる会津藩に向かう計画を立て勇と会談しました。勇は計画実行にあたり2人に対して家臣となるよう求めたため2人は離脱しました。勇と土方歳三は江戸市中で隊士を募集し会津行きの準備を進めました。このとき勇は変名を大久保大和に改めています。

 同年4月、勇と土方歳三は隊士を率いて下総国流山(千葉県流山市)に移動しました。新政府軍は下野国の宇都宮城占拠を狙う会津藩と桑名藩と対峙するため日光街道を北進しましたが、流山に集結していた幕府軍が背後から攻撃を仕掛けてくる計画を知り流山を包囲しました。同年4月3日、切腹を考えていた勇は歳三に勧めにより大久保大和と名乗り新政府軍に投降しました。歳三は江戸の勝海舟のもとを訪れ近藤の助命嘆願をしましたが願いは叶いませんでした。

 新政府軍は大久保大和を板橋宿の総督府に連行し取り調べを行いました。勇は自分が大久保大和であると主張しましたが新政府軍の加納鷲雄、清原清に近藤勇であることを見抜かれました。2人は新選組に粛正された元新選組隊士の伊東甲子太郎が率いる御陵衛士だったのです。大久保大和の正体が近藤勇であることがわかると、土佐藩の谷干城と薩摩藩の平田宗高の間で勇の処遇について対立しました。宗高は勇を武士として生かしたまま京都に送ることを主張しましたが、干城は勇は浪人たちの頭に過ぎないと即時の斬首を主張しました。最終的には甲州での戦いを理由に勇は斬首のうえ京都に送られることになりました。甲陽鎮撫隊の結成が勝海舟らの指示によるものではないかと考えいた干城は勇に対して斬首の前に厳しい拷問による取り調べを行うべき主張しましたが、平田は江戸開城を前に火種を探す必要はないと主張しました。結果的に勇は即刻斬首されることになり、慶応4年(1868年)4月25日、板橋刑場にて斬首されれたうえ京都に送られました。京都の三条河原で梟首となりましたが、その後の首の行方はわかっていません。近藤勇、享年35(満33歳没)。

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2025年3月12日 (水)

新選組の局中法度

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 近藤勇や土方歳三など新選組の主要な面々はもともとは第14代征夷大将軍の徳川家茂の上洛の警護を目的として江戸幕府の清河八郎が募集した浪士組のメンバーでした。この浪士組には腕が立てば農民でも犯罪者でも応募することができました。しかしながら八郎は倒幕と尊皇攘夷の思想を持っており、浪士組募集の目的の将軍警護は表向きの理由で本当の狙いが倒幕と攘夷の実行部隊を集めることでした。浪士隊が京都の壬生に到着したとき攘夷のため江戸に戻る命令が出たため、浪士組の本当の目的が露呈し八郎に反発したものたちは京都に残りました。彼らは会津藩預かりとなり壬生浪士組と呼ばれるようになりました。壬生浪士組は「八月十八日の政変」で活躍、会津藩は「新選組」という隊名を授けました。

 このような背景の新選組は血気盛んな浪士や志士が集まった烏合の衆の組織だったためまとまりがありませんでした。そこで組織の統制と秩序を保つために作られたのが「局中法度」です。新選組は京都の治安維持をしていたことから隊士たちの規律の乱れや不和が悪影響を与える可能性がありました。厳格な規律を設けることで新選組の組織体系を明確にしつつ隊士たちの行動を抑制し組織の結束を強化したのです。

新選組の局中法度
新選組の局中法度

 当初の新選組には近藤勇らの試衛館派と芹沢鴨の水戸藩派から成りますが、「局中法度」を作成したのは試衛館派とされています。実際に試衛館の天然理心流の入門誓約書「神文帳」に内容が似ていると指摘があります。

 新選組の局中法度は次の五箇条から成るの掟です。この掟が本格的に運用されはじめたのは近藤勇が局長、土方歳三が副長の体制となってからです。掟は厳格に運用され違反者は粛正されました。新選組を離脱し御陵衛士を結成した伊東甲子太郎に対しても「局中法度」が適用され暗殺しています。

  一、士道ニ背キ間敷事
   (武士道に背く行為をしてはならない)

  一、局ヲ脱スルヲ不許
   (新撰組からの脱退は許されない)

  一、勝手ニ金策致不可
   (無断で借金をしてはならない)

  一、勝手ニ訴訟取扱不可
   (無断で訴訟に関係してはならない)

  一、私ノ闘争ヲ不許
   (個人的な争いをしてはならない)

  右条々相背候者切腹申付ベク候也
   (以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡すものとする)

 「局中法度」は子母沢寛が昭和3年(1928年)に「新選組始末記」で紹介して広く知られるようになりましたが、これを裏付ける一次資料は発見されていません。永倉新八は厳しい4つの掟があったと証言していることが西村兼文が明治22年(1889年)に「新撰組始末記」で言及しています。しかし「局中法度」という名称の掟ではありませんでした。土方歳三が元治元年(1864)10月に小島鹿之助に伝えた「軍中法度」をもとに子母沢寛が新選組の掟を「局中法度」と名付けたという説が有力です。

 新選組の隊士は鳥羽・伏見の戦いまでの5年間に45人の死者が出ていますが倒幕派との戦いによる死者数はわずか6名でその他は切腹や暗殺によるものでした。掟が厳しく運用されていたことが伺えますが、すべての違反隊士が粛正されたわけではありません。謹慎のような処分もありましたし、阿部十郎のように脱走したにも関わらず後に許されて帰参した者もいます。

【関連記事】

新撰組の日(1863年3月13日)

第9話「浪士組西へ」|明日なき戦いの果てに

日枝神社|新選組「燃えよ剣」第10節「スタスタ坊主」の日枝明神

箱館新選組の屯所の跡地

弁天台場|新撰組最期の地

第22話「弁天台場を救え」|明日なき戦いの果てに

異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地

五稜郭の一本松の土饅頭

土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

「ヒジカタ君の華麗なるカレー」のカレーなるお話(ベル食品)

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2025年3月 7日 (金)

「ヒジカタ君の華麗なるカレー」のカレーなるお話(ベル食品)

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 函館空港でお土産売り場を歩いていたら土方歳三のコーナーがありました。1月にはなかったので最近作られたコーナーではないかと思います。ぬいぐるみ、財布、手ぬぐいなど小物がたくさん並んでいます。その中にレトルトカレー「ヒジカタ君の華麗なるカレー」がありました。

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 いつもラッキーピエロのレトルトカレーを買って帰るのですが今回は「ヒジカタ君の華麗なるカレー」も買ってきました。土方歳三とカレーライスの関係は謎ですが幕末にはカレーライスは存在していました。

 日本で初めてカレーを紹介したのは福沢諭吉とされています。万延元年(1860年)に諭吉が初めて出版した著書「増訂華英通語」に「Curry コルリ」とあります。「増訂華英通語」は諭吉が万延元年に咸臨丸で米国を訪れたときに清国の英単語集「華英通語」を入手し、これに日本語の読みをつけたものです。アメリカで販売されいた英語の単語帳ですから当時の日本人がカレーライスを食べていたということにはなりません。

 いろいろ調べてみると慶応3年(1867年)に三河屋久兵衛が江戸に西洋料理店を出店するにあたり幕府外国方御役所へ「西洋御料理御献立」を提出しています。この著作には英国式のエビカレーとチキンカレーの献立が書かれています。当時は675年に天武天皇が出した肉食禁止令が有効だったためカレーライスは普及しませんでした。

 王政復古の大号令が発令されたのは慶応3年12月(1868年1月)です。慶応4年(1868年)1月に鳥羽伏見の戦を皮切りに戊辰戦争が発生しました。同年4月に江戸城無血開城し、同年12月に榎本武揚が箱館政権を樹立しています。榎本武揚は西洋の文化に慣れ親しんでいましたからカレーを食べた経験はあったかもしれません。もしかすると榎本武揚は土方歳三にカレーライスを勧めたことがあったかもしれません。

 余談ですが箱館政権の通詞だった五島英吉は箱館戦争後はハリストス正教会に匿われそこで料理を学び、後に函館のレストラン五島軒の初代料理長となりました。英吉が作ったカレーは「函館カレー」として販売されています。

 さて「ヒジカタ君の華麗なるカレー」はポークカレーとあります。日本で肉食奇異指令が解除されたのは明治4年(1871年)です。「ヒジカタ君の華麗なるカレー」はエビカレーあたりにすると良かったかもしれません。

 「ヒジカタ君の華麗なるカレー」、どの食品メーカーが製造・販売しているのかと思ったらなんとベル食品でした。

  • 原材料名 豚肉(北海道産)、じゃがいも(北海道産)、牛乳、カレールウ、野菜炒めペースト、オニオンソテー、食用乳化油脂、ポークエキス、チキンエキス、香辛料、豚脂、てん菜糖蜜、チャツネ、しょうゆ、濃厚ソース、しょうがペースト、にんにくペースト、たんぱく加水分解物/調味料(アミノ酸等)、カラメル色素、増粘剤(加工デンプン)、酸味料、乳化剤、香料、(一部に乳成分・小麦・大豆・鶏肉・豚肉・りんごを含む)
  • 内容量 200g
  • 製造者 ベル食品株式会社

 ベル食品と言えば子どもの頃から「成吉思汗たれ」でお世話になっています。自分はジンギスカンを食べるタレは「成吉思汗たれ」以外には考えられません。

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