一本木関門に秋川雅史さん?ではなく土方歳三
中古シップで土方歳三の指人形を見つけたので購入しました。
生成AIで「函館市の土方歳三最期の地碑」に設置されている一本木関門と合成してみました。
出来上がった写真を見たら、秋川雅史さんに見えてきました。
私の〜♪
お墓のま〜えで♪
泣かないでください♪
違う!
土方歳三です!
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梅村真也原作・ 橋本エイジ作画の漫画「ちるらん 新撰組鎮魂歌」において、土方歳三は石田散薬の行商をしながら剣を磨き、道場破りで偶然立ち寄った試衛館(試衛場)で近藤勇と出会い、勝負に敗れて試衛館に入門したとされています。しかしながら、この描写は史実とは異なり、2人が出会ったのは日野宿組合名主の佐藤彦五郎の道場です。
佐藤彦五郎は文政10年9月25日に武蔵国多摩郡日野宿で長男として生まれました。11歳で祖父の10代彦右衛門から日野本郷名主、日野宿問屋役、日野組合村寄場名主を継ぎました。嘉永2年1月18日、日野宿の大火が発生した折、家族が殺害されたことで自衛の必要姓を感じ、八王子千人同心石阪組世話役の井上松五郎に天然理心流を紹介され、嘉永3年(1850年)に天然理心流3代目宗家の近藤周助の門人となり日野宿で道場を開きました。井上松五郎の弟は後に新選組六番隊長となった井上源三郎で、次男の井上泰助も新選組隊士になっています。
近藤勇は天保5年10月5日に武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市野水)に農家の三男として生まれました。幼名は勝五郎で、後に勝太と改めています。嘉永元年(1848年)11月11日に牛込(東京都新宿区)の天然理心流剣術道場試衛場に入門しました。万延2年8月27日に府中六所宮で天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い流派一門の宗家を継ぎました。
土方歳三は天保6年5月5日(1835年5月31日)武蔵國玉郡石田村(東京都日野市石田)の農家の末子として生まれました。14歳から24歳まで奉公に出て、その後は実家に戻り土方家秘伝薬「石田散薬」を行商しながら剣術の修行に励みました。このときに試衛場に道場破りをしたという事実はありません。土方歳三は実姉のらん(とく、佐藤のぶ)が佐藤彦五郎に嫁いでいた関係から佐藤彦五郎の道場に出入りしていました。ここで彦五郎と義兄弟の契りを結んでいた試衛館の近藤勇に出会いました。土方歳三が正式に天然理心流に入門したのは安政6年(1859年)3月9日とされています。
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新選組の副長を経て総長を務めた山南敬助。出自はよくわかっていませんがの記録を読み解くと天保7年(1836年)に陸奥国仙台で生まれたと考えられます。姓名の読みは「やまなみ」として知られていますが、「三南」と記録されたものがあることから「さんなん」だった可能性が高いという指摘もあります。経歴もよくわかっていませんが、北辰一刀流の免許皆伝だったこと、天然理心流剣術道場の試衛場に他流試合を挑み近藤勇に負けたこと、近藤勇を慕うようになり活動の場を試衛場に移しことが伝えられています。試衛場ではとりわけ沖田総司と懇意となり兄弟のような関係だったようです。
文久3年(1863年)2月、清河八郎が徳川家茂の上洛を警護する目的で結成した浪士組に近藤勇や土方歳三らと参加し上洛しました。壬生に到着後、清河八郎が尊皇攘夷のため浪士組を率いて江戸に帰還することを表明すると、水戸浪士の芹沢鴨と近藤勇はこれに反対し京都に残りました。山南敬助は試衛場の面々と京都に残りました。その後、主導権争いが起こり芹沢鴨と近藤勇が主流派となりました。彼らは京都守護職を務めていた会津藩藩主の松平容保の預かりとなり壬生浪士組と名乗りました。山南敬助は土方歳三とともに副長に就任しました。
壬生浪士組における山南敬助の活躍の記録は岩城升屋事件など断片的に垣間見ることができますが、文久3年8月の八十八日の政変の警備に出動しています。壬生浪士隊はこのときの活躍で会津藩から新選組の隊名を拝命しましした。かねてからの芹沢鴨の度重なる狼藉が目に余るようになり、朝廷から召捕りの命令が下ると会津藩は近藤勇に芹沢鴨を処分するよう密命を出します。文久3年(1863年)9月に芹沢鴨は新選組隊士らによって暗殺されました。その中に山南敬助もいたと伝えられています。
芹沢鴨の暗殺により新選組は近藤勇を中心としたメンバーで再編されることになり山南敬助は局長の近藤勇、副長の土方歳三に次ぐ総長となりますが、この頃から山南敬助の活躍は記録から消えます。元治元年(1864年)の池田屋事件には山南敬助の姿はありませんでした。長倉新八はこの頃、山南敬助が病気で屯所に引きこもっていたと記しています。同年11月、新選組は江戸で隊員の募集を行い、北辰一刀流の伊東甲子太郎を山南敬助より上位の立場の参謀として迎えます。
山南敬助は元治2年(1865年)2月に「江戸に行く」という置き手紙を残して屯所を出ました。山南敬助のこの行動は脱走とみなされ、近藤勇と土方歳三は山南敬助と懇意だった沖田総司に後を追わせました。山南敬助は沖田総司におとなしく捕縛され屯所に戻りました。新選組では脱走は切腹とされていました。長倉新八と伊東甲子太郎は山南敬助に脱走するよう説得しましたが、死を覚悟していた山南敬助はこれを受け続けず、元治2年(1865年)2月23日に本人の希望で沖田総司の介錯により切腹して果てました。山南敬助の最期を見届けた近藤勇は山南敬助の覚悟の死を称賛して「浅野内匠頭でもこう見事にはあい果てまい」と述べたと伝えられています。
最期の日を迎えるにあたり、長倉新八が山南敬助が馴染にしていた遊女の明里に会わせたと伝えられていますが、永倉新八の手記には明里の名は一切は登場していません。新選組始末記の著者の子母沢寛の創作とされています。山中敬助は京都の壬生屯所近くの光縁寺に眠っています。
山南敬助が脱走した理由にはいくつかの説があります。ひとつは新選組が伊東甲子太郎を山南敬助より上位の立場で迎えたことです。しかし、伊東甲子太郎は山南敬助の死を悼んで和歌を詠んでいます。2人が対立していたとは考えられません。最も有力そうな理由は山南敬助が尊皇派だったことです。新選組はその活躍により幕臣となり尊皇派浪士の壊滅を進めます。新選組の隊士が増えて壬生村の屯所が手狭になったとき、近藤勇と土方歳三は屯所を京都の西本願寺に移しました。西本願寺は尊皇派と近い関係にあったのですが、近藤勇はあえて西本願寺を屯所とすることで尊皇派の動きを抑えようとしたのです。山南敬助は屯所の移動に反対しましたが、近藤勇や土方歳三は山南敬助の意見を受け入れませんでした。これによって特に土方歳三との対立が深まり、新選組を離脱する決心をしたと伝えられています。
さてここからは私見になります。新選組が厳しい法度を制定したのは芹沢鴨を中心とした水戸浪士たちの狼藉を戒めるためでした。新選組は京都の治安維持活動を行う組織ですから、隊士が狼藉を働くことを許しませんでした。厳しい法度で組織を統制し、朝廷や幕府や京都の人々からの信頼を回復しようとしたのです。法度はすべての隊士を対象とするものでしたらか、近藤勇派の隊士といえども規則に反すれば処罰の対象になりました。
先述の伊東甲子太郎は尊皇派で新選組から離脱し御陵衛士(高台寺党)を結成しました。このとき試衛場時代からの生え抜きの同士で最年少の藤堂平助が伊東甲子太郎と行動をともにしています。慶応3年(1867年)11月18日夜、新選組は伊東甲子太郎の暗殺と御陵衛士の壊滅を目的とする油小路事件を起こしました。藤堂平助は仲間とともに伊東甲子太郎の遺体の回収に駆けつけたところを待ち伏せしていた新選組に斬られ19日未明に死亡しました。長倉新八の記録によると近藤勇は藤堂平助は殺さずに助けるように指示をしていたそうです。現場で藤堂平助を見逃す手立てとられましたが、事情を知らずに鉢合わせした隊士が藤堂平助を斬ってしまったのです。藤堂平助は新選組が自分を逃そうとする意図があることを知りつつ、あえて戦う道を選んだとも伝えられています。
藤堂平助の例を考えると、もしかすると近藤勇は山南敬助を許そうと考えていたのかもしれません。土方歳三も懇意にしていた沖田総司に山南敬助の後を追わせています。他の隊士を派遣していたら斬り合いになっていたはずです。沖田総司が迎えに行けば、山南敬助は抵抗することなく戻ってくると考えたのでしょう。そして実際には山南敬助はおとなしく沖田総司に捕縛され戻ってきました。もし山南敬助が永倉新八らの説得を聞き入れ脱走していたら、近藤勇はあえて見逃していたかもしれません。もしかすると脱走を促すよう命じたのは近藤勇だったかもしれません。
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文久3年(1863年)、第3代将軍徳川家光以来229年ぶりに上洛することになった徳川家茂を警備するため浪士組が結成された。近藤勇と土方歳三は試衛館の同志たちと浪士組に参加しました。浪士組は7つの隊に編成され、近藤と土方は三番隊一に組み込まれました。この三番隊一には芹沢鴨・近藤勇・山南敬助・土方歳三・永倉新八・沖田総司・原田左之助・藤堂平助・平山五郎・野口健司・平間重助など後の新選組の主要メンバーとなる面々で構成されていました。
同年2月8日、浪士組は江戸を出発して中山道を通り京都をめざしました。翌日2月9日、一行は中山道六十九次(木曽街道六十九次)の江戸から数えて10番目の宿場である本庄宿に到着しました。宿割り役の池田徳太郎と近藤勇はこれに先乗りして各隊の宿舎を割り振りましたが、取締付筆頭(三番組小頭)の芹沢鴨の宿を手配し忘れるミスを犯してしまいました。
本庄宿に到着した芹沢は自分の宿が用意されていないことに激怒し「野宿でよい」と言い放って、芹沢一派を集めて宿場の街道の真ん中で巨大な篝火(かがりび)を焚かせたとされています。火の粉が飛び散り危険な状態となったため、宿役人が消化を命じると、芹沢は大鉄扇で役人を気絶させるほど殴打する乱暴を働きました。近藤と池田が芹沢に謝罪し宿を手配しましたが芹沢の怒りは収まりませんでした。
この事件は一般に「本庄宿篝火事件」または「大焚火事件」と呼ばれていますが、当時、本庄宿で火災が起きたという記録は残っていません。事件の顛末は永倉新八の「新選組顛末記」に残されていますが、永倉が近藤派だったため芹沢の乱暴さを強調した可能性が指摘されています。また、宿割りのミスをしたのは道中目付の岡田盟とされており近藤自身は宿取り役ではなかったという指摘もあります。いずれにせよ、この事件で芹沢派と近藤派の間に確執が生まれたのは事実とされてます。
芹沢は新選組になってからも狼藉を働くことが多く、朝廷から芹沢の逮捕命令が出ると新選組を預かる会津藩が芹沢の処分を命じました。これを受けて近藤は芹沢の暗殺を土方や沖田総司らに命じました。新選組が京都で狼藉を働いた集団という伝えがありますが、これは芹沢が新選組局長だった頃の話です。渋沢栄一郎は近藤や新選組のことを高く評価しています。
【関連記事】
・日枝神社|新選組「燃えよ剣」第10節「スタスタ坊主」の日枝明神
・近藤勇が本庄宿で芹沢鴨の宿を取り忘れる(文久3年 1863年2月9日)
・近藤勇が新選組解散を願い出る|近藤勇書簡(元治元年 1864年5月20日 小島資料館)
・新選組!! 近藤勇 最期の一日(慶応4年 1868年4月25日)
・榎本武揚と土方歳三が仙台城で奥羽越列藩同盟の軍議に参加(慶応4年 1868年9月3日)
・土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)
・新選組!! 土方歳三 最期の一日(明治2年 1869年5月11日)
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新選組を象徴する色は隊服に用いられた浅葱色(あさぎいろ)と誠の隊旗の赤色です。
浅葱色は藍で数回染めた透明感のある明るい青緑(シアン)です。広く知られている新選組の隊服は浅葱色の羽織に袖口と裾に白いだんだら模様(山形模様)入っています。このだんだら模様は当時人気だった歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」に登場する赤穂浪士の装束を模したものと言われています。武士としての忠義を示すもので副長の土方歳三が考案したと伝えられています。
浅葱色の隊服と並んで新選組の象徴とされるのが隊旗の「誠」の文字です。新選組の隊旗の地色は赤色で、そこに金色または白色で「誠」の文字が染め抜かれています。「誠」の文字と赤色は「赤心」(せきしん)や「赤誠」(せきせい)と呼ばれ、真心や偽りのない心を意味しています。だんだら模様は上述の通りです。
新選組はそれぞれ異なる意味を持つ浅葱色と赤色を組織の象徴として用いることで、武士と忠義の精神を表現したのです。
偶然なのか意図的なのかはわかりまえんが、浅葱色と赤色は補色の関係になっています。
【参考】「光の三原色」と「色の三原色」の原理と仕組み|色が見える仕組み(7)
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近藤勇や土方歳三は農民の出で武士になりたかったという見方がある。彼らが立身のため天然理心流の剣術を学んだのは間違いないだろう。そして幕末に現れた列強を目にして攘夷の志を強めていたのも間違いないであろう。彼らは武士になりたいだけで浪士組に応募し新選組になったのであろうか。近藤勇は彼らの志を垣間見ることができる書簡を残している。
近藤勇や土方歳三が京都に赴き新選組を結成することになったきっかけは、幕府が文久3年(1863年)初めに募った第14代将軍の徳川家茂の上洛の警護を担う浪士組に参加したことである。この浪士組の結成を発案して幕府に認めさせたのは庄内藩出身の清河八郎である。しかしながら清河の真の目的は将軍警護ではなく尊皇攘夷運動の志士を募ることであった。
同じ頃、イギリスは生麦事件の賠償問題で幕府に圧力をかけるためフランス、オランダ、アメリカに呼びかけ横浜港に四カ国の軍艦を入港させた。同年2月、浪士組が京都の壬生村に到着すると清河は浪士組の真の目的は尊皇攘夷活動であることを表明し攘夷のため江戸に戻ると主張したのである。これに強硬に反発したのが芹沢鴨と近藤勇であった。清河は浪士組を率いて江戸に戻ったが芹沢、近藤、土方をはじめとする後の新選組の面々は京都に在留することになった。
同年3月に江戸幕府は京都守護職を努めていた会津藩主の松平容保に旧都の治安維持を行う浪士を集めて組織化することを命じていた。京都に残留した芹沢・近藤らは会津藩士の野村左兵衛を通じてこれに応募した。彼らは松平容保の庇護のもと壬生浪士組と名乗るようになった。京都守護職の配下には幕臣で構成された正規組織の京都見廻組が存在していた。これに対して壬生浪士組は剣術に長けた町人や農民出身の浪士たちで厚生された会津藩預かりという立場の非正規組織であった。
同年3月、徳川家茂は徳川将軍としては第3代将軍徳川家光以来229年ぶりに上洛した。家茂の上洛の目的は朝廷から求められていた攘夷実行の委任を受けることであった。列強に対して武力で攘夷をすることは困難と考えた幕府は外交交渉により通商条約の破棄し鎖港することにしたが、幕府内の開国派との対立もあり攘夷実行ができたに状態が続いた。攘夷を実行しない幕府に対して業を煮やした長州藩の尊皇攘夷派の志士たちは朝廷内の尊皇攘夷派の公家たちと画策をはじめ、同年5月に馬関海峡において列強に対して攘夷を実行したのである。この混乱により家茂が江戸に戻ることがでたのは同年6月である。
【参考】攘夷実行に従い長州藩が米国商船を砲撃(1863年5月10日)
長州藩による攘夷実行は孝明天皇と幕府の意図に反するものであった。長州藩と公家の尊皇攘夷派の不穏な動きが続く中、幕府は京都市中から過激な尊皇攘夷派の志士と公家たちを排除するため同年8月に八月十八日の政変を起こした。この政変において壬生浪士組が活躍し、松平容保は壬生浪士組を正規組織とし彼らに新選組という名前を授けた。新選組の面々は幕臣となったのである。
文久4年(1864年)正月、徳川家茂は2度目の上洛を果たした。前年の八十八日の政変に満足していた孝明天皇と朝廷は徳川家茂を従一位右大臣に昇進させた。松平容保も陸軍総裁職・軍事総裁職を命じられ、京都守護職には福井藩主の松平慶永が就任した。近藤勇は新選組を松平慶永の配下とすることに反対した。新選組は従来通り松平容保のもとで将軍警護のため京都市中の警備を強化した。同年2月、元号が元治に改元された。八十八日の政変により京都市中は平和を取り戻したが、京都から追放された長州藩と公家は武力により入京することを画策していた。政情不安を前に徳川家茂は同年5月に江戸へ帰還したが、このとき近藤勇は将軍の在留を求めたことを書簡に残している。
この書簡は近藤勇が新選組の支援者で武蔵国多摩郡小野路村の名主の小島鹿之助に送ったものである。この書簡で近藤勇は徳川家茂の帰府を止めようとしたが叶わなかったこと、将軍不在の京都で攘夷は実行できず当初の自分たちの目的が果たせないため新選組を解散して江戸に戻ることを決めたことを記している。そして新選組の解散の意向を京都の状況をよく理解している幕府老中の酒井忠績に願い出たが、京都の治安維持のため慰留されたので解散を撤回したと記しています。近藤勇は幕臣として幕府からの慰留の命令を受け入れ、「只々臣たる道を守り楠公、宋の岳飛の志に続き致し度候」と決意の言葉を残しています。
一次史料:【新選組】小島資料館所蔵資料(資料グループ) 近藤勇書簡(目録)
この決断により新選組は京都に残留することになり、同年6月に池田屋事件でその名を天下に知らしめました。新選組は大きな転機を迎えましたが同時に後戻りができなくなり幕末・明治維新の混乱の波に巻き込まれていくことになったのである。もし新選組が解散していたら彼らは薩摩や長州から恨みを買うこともなく、戊辰戦争にも巻き込まれることなく江戸で剣術家として暮らしていたであろう。
【参考】新選組!! 近藤勇 最期の一日(慶応4年 1868年4月25日)
【参考】新選組!! 土方歳三 最期の一日(明治2年 1869年5月11日)
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第1話 榎本武揚が旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱出(慶応4年 1868年8月19日)
第2話 榎本武揚らが仙台城で奥羽越列藩同盟の軍議に参加(慶応4年 1868年9月3日)
第3話 仙台藩が降伏し奥羽越列藩同盟が消滅(慶応4年 1868年9月12日)
仙台藩の降伏により奥羽列藩同盟は完全に崩壊した。榎本艦隊が早めに仙台に到着していたらという「もし」がある。時間稼ぎはできたかもしれないが同盟の崩壊は免れなかったであろう。また榎本艦隊が早めに東北に到着し参戦していたら疲弊していただろう。箱館に辿りつくことなく戊辰戦争が集結していた可能性もある。
仙台はほとんど無傷ではあったが戦場になると大きな被害を被ることになる。新政府への恭順を決断した仙台藩にとってやっかいとなったのは榎本艦隊をはじめとする新政府軍に徹底抗戦を主張する幕臣たちであった。仙台藩は榎本艦隊に物資を提供し、仙台を離れる後押しをしたのである。慶応4年(1868年)10月12日、榎本艦隊は仙台の折浜を出港した。途中で宮古湾鍬ヶ崎港に寄港し蝦夷地に向かった。蝦夷地に向かったには開陽、回天、蟠竜丸、神速の4軍艦と長鯨、大江、鳳凰、千秋(のちの回春)の4輸送艦である。先鋒を回天、しんがりを開陽とした合計8隻の艦隊は北へ向かった。
榎本艦隊は箱館港に入港することを避けた。箱館港は開港されており外国船も入港していた。幕府が箱館防備のため五稜郭とともに建造した弁天台場は新政府軍の管轄下にあった。そんなところに榎本艦隊が現れれば戦闘状態になるのは必至である。榎本艦隊は五稜郭から北に約40キロメートル離れた鷲ノ木浜(北海道茅部郡森町鷲ノ木町)から蝦夷地に上陸することにしたのである。
慶応4年(1868年)10月20日の夜、榎本艦隊は鷲ノ木浜に到着した。翌21日にかけて雪が舞う荒海の沖合に集結した艦隊から旧幕府軍の兵士約3000名が小舟で次々と上陸を開始した。鷲ノ木村は大騒ぎになったが旧幕府軍は村の会所(役所)を拠点とした。
榎本艦隊が蝦夷地に向かったことを察知した新政府軍は箱館に兵を送り防備を固めたが旧幕府軍に対峙できるほどの体制にはなかった。一方の旧幕府軍も好戦的ではなかった。榎本武揚は戦闘を避けるため館府知事の清水谷公考のもとに人見勝太郎と本多幸七郎および精鋭の歩兵30名を使者として送った。彼らは榎本武揚の檄文と嘆願書を携えて五稜郭に向かったが同年10月22日に新政府軍の奇襲を受け戦闘状態に入った。喰う幕府軍は大鳥圭介が率いる部隊と土方歳三が率いる部隊の二手に分かれ、大鳥隊が峠下・七重方面から、土方隊が鹿部・川汲峠・湯の川j方面から五稜郭を目指して進軍を開始した。榎本武揚は旧幕府軍による蝦夷地の開拓と北方警備を許可する嘆願書を勝海舟らに送っているが新政府はこれを許すことはなかった。こうして箱館戦争の火蓋が切られることになったのである。
鷲ノ木は箱館戦争の終戦まで旧幕府軍の後方陣地とされた。旧幕軍の負傷兵や病人は鷲ノ木に移され治療を受けた。戦死したものは村の会所(役所)近くの霊鷲院に手厚く葬られました。
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箱館戦争に挑む際に撮影された洋装で椅子に座る土方歳三の写真。決戦を前に口を一文字に結び強い意志を感じさせながらどこか涼しい表情をしている。
この写真がどこで撮影されたのかについては2つの有力な説があった。ひとつは「新選組の舞台裏」(1998年、菊池明著、中経出版)の主張である。もうひとつは「新選組研究最前線再善戦(下)」(1998年、新人物往来社)の「写真師K・Gと土方歳三」(桑嶋洋一著)の主張である。前者は近藤勇の腕組写真と同じく慶応4年(1868年)に江戸の松本良順のところで撮影されたとしている。後者は同年(明治元年)に写真家の田本研造により箱館で撮影されたとしている。
近藤勇の腕組写真は敷物の上に和装で座っている。この時に土方歳三の写真が撮影されたのだとすると歳三も和装であった可能性が高いと考える。歳三の写真は洋装であるからもう少し後で撮影されたものであろう。問題はどこで誰により撮影されたかである。
「写真師K・Gと土方歳三」は歳三の座っている椅子が猫足であることに注目している。箱館戦争当時に箱館で撮影された写真に榎本武揚をはじめとする箱館政権首脳の写真が存在する。この写真の前列左側の海軍奉行の荒井郁之助が座っている椅子が歳三が座っている猫足の椅子と同じものとしている。著者はオリジナルの高解像度の写真を入手し椅子が同じものであることを確認したようである。
高解像度の写真は入手できないので荒井郁之助をトリミングした写真と土方歳三の写真をAIでカラー化してみたのが次の写真である。カラー化により椅子の形が明らかになった。確かに2つの椅子は猫足であり、4本の足をつなぐ貫が特徴的なX型であることが確認できた。おそらく高解像度の写真では白黒でも鮮明に写っていたのであろう。
箱館政権首脳の写真は箱館で田本研造により撮影されたものと考えられ、椅子が同じものであることから土方歳三の写真も箱館で田本研造のところで撮影されたものと結論づけることができる。
ただし「写真師K・Gと土方歳三」では土方歳三の写真の台紙に記載されているイニシャルK・Gに注目している。土方歳三の写真には台紙に「PHOTOGRAPHER K JAPAN ARTIST」と記載されたものがある。Kの部分には重なるようにGが書いてある。「歳三の写真」(1978年、草森紳一著、新人物往来社)の表紙の写真がまさにしれである。同じ台紙が使われた古写真が函館に現存しているという。
これは田本研造が使っていた台紙とは異なると指摘している。田本研造が撮影したのであれば自分の台紙を使うだろうということである。また箱館政権首脳写真の撮影場所も田本研造の写真館ではなかった可能性も指摘している。箱館政権首脳写真と土方歳三の写真がフランスに渡っていることからこの2つの写真を撮影したのは日仏写真に関係していた写真家ではないかと結論づけている。
確かに田本研造の台紙は別のデザインです。土方歳三の写真の撮影者は田本研造であり、K・G台紙の写真は写真師K・Gが複写し整えたものかもしれない。
【関連記事】
・土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)
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好川 之範 (著)

箱館戦争全史 (Amazon.co.jp)
「箱館戦争全史」は幕末の戊辰戦争の最後の戦いとなった「箱館戦争」の経過や背景を詳細に解説した歴史書です。明治元年(1868年)10月、榎本武揚が率いる旧幕府軍が蝦夷地(北海道)の鷲の木に上陸してから明治2年(1869年)5月に五稜郭が落城するまでの約半年間に渡る箱館戦争の経過が詳細に記述されています。
「鳥羽・伏見の戦い」から始まる箱館戦争前夜、旧幕府軍による蝦夷地平定、箱館政権の樹立、宮古湾海戦、新政府軍の蝦夷地上陸と箱館総攻撃に至るまでの過程が網羅されています。単に戦史を羅列したものではなく当時の社会情勢、箱館の人々の暮らし、新政府軍と旧幕府軍の志士たちの心理や生き様などを取り上げています。平易な日本で書かれているのですらすら読むことができます。郷土史料に書かれているエピソードも紹介されているので歴史書としても価値のある一冊と思います。
出版社 : KADOKAWA(新人物往来社) (2009/1/1)
発売日 : 2009/1/1
言語 : 日本語
単行本 : 257ページ
ISBN-10 : 4404035802
ISBN-13 : 978-4404035806
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明治2年(1869年)4月9日、蝦夷に向かった新政府軍は乙部から上陸を開始しました。新政府軍は松前口、木古内口、二股口から箱館に向けて進軍を開始しました。旧幕府軍は新政府軍の進軍を阻止するため各地で迎え撃ちましたが多勢に無勢でほどなく撤退を余儀なくされました。
そのような状況の中で土方歳三が率いる衝鋒隊および伝習隊からなる300名の部隊は二股口で新政府軍に徹底抗戦しました。地の利もあって歳三の部隊は新政府軍の部隊を寄せ付けませんでした。新政府軍は二股口の攻略を諦め道を切り開いて箱館に向かいました。同年4月29日、矢不来が陥落すると連戦連勝していた歳三は退路を断たれることを恐れて五稜郭へ撤退しました。同年5月2日、ジュール・ブリュネらフランス軍事顧問団がフラナス軍艦コエトローゴン号で箱館を脱出しました。これをきっかけに旧幕府軍兵士たちが脱走を始めました。
同年5月5日、歳三は五稜郭において新選組以来の小間使であった16歳の市川鉄之助に日野宿の佐藤彦五郎に自身の遺品を届け戦況を詳しく伝えるよう命じました。鉄之助は箱館の地で果てるつもりだったため拒否しましたが、歳三が抜刀し命令に従わなければ討ち果たすと威嚇したため箱館を脱出し佐藤彦五郎のもとへ向かうことにしました。歳三は多摩出身の隊士で鉄之助と同じ年頃の渡辺市造に多摩に不慣れな鉄之助の案内役として同行するよう命じました。鉄之助らが五稜郭を出ると城門の小窓から見送る人影に気がつきました。歳三は若き2人の無事を願い行く末を案じて見送ったのでしょう。
五稜郭に戻った歳三は新選組の島田魁らと新政府軍の有川の本陣に連日夜襲を仕掛けました。このとき新政府軍は箱館総攻撃の準備を進めていました。新政府軍は陸軍本隊に五稜郭に包囲させ、陸軍の奇襲部隊には箱館山の裏手の海岸から崖をよじ登り箱館山山頂を制圧させ、海軍には箱館湾や大森浜から陸軍の攻撃を支援し五稜郭に艦砲射撃を行わせる三面作戦を講じました。
明治2年(1869)5月11日午前3時、新政府軍の朝陽と丁卯の箱館市中への砲撃が始まり総攻撃が始まりました。これに反撃できたのは旧幕府軍の幡龍のみでしたから朝陽と丁卯の砲撃を阻止することはできませんでした。
午前4時頃、新政府軍の陸軍奇襲部隊が箱館山裏側の寒川に到着し上陸を始めました。箱館山の険しい崖をよじ登り山頂をめざしました。山頂の旧幕府軍の新選組や伝習士官隊が新政府軍に気がついたのは夜が明けた頃でした。突然の新政府軍の襲撃に反撃することもできず新選組を中心とする部隊は箱館山を下り弁天台場に逃げ込みました。その他の部隊は千代ヶ岱陣屋、五稜郭まで撤退しています。
箱館山を制圧した新政府軍は函館市中になだれ込みました。一方、奇襲部隊の別働隊は山背泊から上陸し弁天台場を包囲し攻撃を開始しました。さらに新政府軍の甲鉄、春日が援護砲撃を行ったため弁天台場は孤立してしまいました。
【参考】弁天台場|新撰組最期の地
午前8時頃、朝陽と丁卯と抗戦していた幡龍の艦長の松岡磐吉は双眼鏡で着弾を確認しながら砲撃を指示しました。砲手の永倉伊佐吉が発した砲弾が朝陽丸の弾薬庫に命中、朝陽丸は爆発し轟沈したのです。これによって箱館政権軍の士気は高まりました。蟠竜は追撃してきた甲鉄らの集中砲火を受けましたが弾が尽きるまで戦闘した後に浅瀬に乗り上げました。船長の松岡磐吉をはじめとする乗組員は敵中を突破し弁天台場に逃げ込みました。伊佐吉は艦長のため退去する小舟を取りに行くと海に飛び込みましたが溺死してしまいました。
これまで陸軍本体と戦っていた土方歳三は箱館市街と五稜郭が分断されたことを知ると側近の安富才助と沢忠助、額兵隊を率いて函館市街へ向けて出陣しました。弁天台場の新選組の相馬主計は援軍を求めるよう大野右仲を五稜郭に派遣しました。右仲は千代ヶ岱陣屋あたりで歳三が率いる部隊に出逢いました。右仲は安堵し土方隊とともに一本木関門に向かいました。そこに伝習士官隊が敗走してきました。歳三は「この機失すべからず。士官隊に令して速進せん。しかれども敗兵俄に用い難し。吾れこの柵に在りて、退く者は斬らん。子は率いて戦え」と檄を飛ばしました。「この機失すべからず。」とは幡龍が朝陽を轟沈させたことです。「子」とは右仲のことです。
右仲は歳三の命令に従い額兵隊と伝習士官隊を率いて一本木関門から異国橋付近まで進撃しましたが新政府軍の反撃により一本木関門へと引き返しました。このとき右仲は歳三が守っているはずの一本木関門で敗走していく兵士を見て驚き千代ヶ岡陣屋まで引き返したところ、安富才助から歳三の戦死を知らされました。一本木関門で指揮をしていた歳三は一発の銃弾を腹部に受けて落馬し絶命していたのです。
歳三の死が五稜郭に伝えられると箱館政権で探索役主任と箱館市中取締役を兼任していた小芝長之助が遺体を引き取りにきました。歳三の遺体は五稜郭の一本松の土饅頭に埋葬されたという説がありますが埋葬場所には諸説あり確定していません。<b
土方歳三戦死、享年35歳。近藤勇が亡くなった年齢と同じでした。
辞世の句とされるのは次の3つです。
・よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ
・たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん
・鉾とりて月見るごとにおもふ哉あすは屍の上に照かと
箱館政権の榎本武揚が降伏したのはその6日後の5月17日でした。
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