カテゴリー「新選組」の3件の記事

2025年3月12日 (水)

新選組の局中法度

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 近藤勇や土方歳三など新選組の主要な面々はもともとは第14代征夷大将軍の徳川家茂の上洛の警護を目的として江戸幕府の清河八郎が募集した浪士組のメンバーでした。この浪士組には腕が立てば農民でも犯罪者でも応募することができました。しかしながら八郎は倒幕と尊皇攘夷の思想を持っており、浪士組募集の目的の将軍警護は表向きの理由で本当の狙いが倒幕と攘夷の実行部隊を集めることでした。浪士隊が京都の壬生に到着したとき攘夷のため江戸に戻る命令が出たため、浪士組の本当の目的が露呈し八郎に反発したものたちは京都に残りました。彼らは会津藩預かりとなり壬生浪士組と呼ばれるようになりました。壬生浪士組は「八月十八日の政変」で活躍、会津藩は「新選組」という隊名を授けました。

 このような背景の新選組は血気盛んな浪士や志士が集まった烏合の衆の組織だったためまとまりがありませんでした。そこで組織の統制と秩序を保つために作られたのが「局中法度」です。新選組は京都の治安維持をしていたことから隊士たちの規律の乱れや不和が悪影響を与える可能性がありました。厳格な規律を設けることで新選組の組織体系を明確にしつつ隊士たちの行動を抑制し組織の結束を強化したのです。

新選組の局中法度
新選組の局中法度

 当初の新選組には近藤勇らの試衛館派と芹沢鴨の水戸藩派から成りますが、「局中法度」を作成したのは試衛館派とされています。実際に試衛館の天然理心流の入門誓約書「神文帳」に内容が似ていると指摘があります。

 新選組の局中法度は次の五箇条から成るの掟です。この掟が本格的に運用されはじめたのは近藤勇が局長、土方歳三が副長の体制となってからです。掟は厳格に運用され違反者は粛正されました。新選組を離脱し御陵衛士を結成した伊東甲子太郎に対しても「局中法度」が適用され暗殺しています。

  一、士道ニ背キ間敷事
   (武士道に背く行為をしてはならない)

  一、局ヲ脱スルヲ不許
   (新撰組からの脱退は許されない)

  一、勝手ニ金策致不可
   (無断で借金をしてはならない)

  一、勝手ニ訴訟取扱不可
   (無断で訴訟に関係してはならない)

  一、私ノ闘争ヲ不許
   (個人的な争いをしてはならない)

  右条々相背候者切腹申付ベク候也
   (以上いずれかに違反した者には切腹を申し渡すものとする)

 「局中法度」は子母沢寛が昭和3年(1928年)に「新選組始末記」で紹介して広く知られるようになりましたが、これを裏付ける一次資料は発見されていません。永倉新八は厳しい4つの掟があったと証言していることが西村兼文が明治22年(1889年)に「新撰組始末記」で言及しています。しかし「局中法度」という名称の掟ではありませんでした。土方歳三が元治元年(1864)10月に小島鹿之助に伝えた「軍中法度」をもとに子母沢寛が新選組の掟を「局中法度」と名付けたという説が有力です。

 新選組の隊士は鳥羽・伏見の戦いまでの5年間に45人の死者が出ていますが倒幕派との戦いによる死者数はわずか6名でその他は切腹や暗殺によるものでした。掟が厳しく運用されていたことが伺えますが、すべての違反隊士が粛正されたわけではありません。謹慎のような処分もありましたし、阿部十郎のように脱走したにも関わらず後に許されて帰参した者もいます。

【関連記事】

新撰組の日(1863年3月13日)

第9話「浪士組西へ」|明日なき戦いの果てに

日枝神社|新選組「燃えよ剣」第10節「スタスタ坊主」の日枝明神

箱館新選組の屯所の跡地

弁天台場|新撰組最期の地

第22話「弁天台場を救え」|明日なき戦いの果てに

異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地

五稜郭の一本松の土饅頭

土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

「ヒジカタ君の華麗なるカレー」のカレーなるお話(ベル食品)

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年3月 7日 (金)

「ヒジカタ君の華麗なるカレー」のカレーなるお話(ベル食品)

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 函館空港でお土産売り場を歩いていたら土方歳三のコーナーがありました。1月にはなかったので最近作られたコーナーではないかと思います。ぬいぐるみ、財布、手ぬぐいなど小物がたくさん並んでいます。その中にレトルトカレー「ヒジカタ君の華麗なるカレー」がありました。

Photo_20250307154901

 いつもラッキーピエロのレトルトカレーを買って帰るのですが今回は「ヒジカタ君の華麗なるカレー」も買ってきました。土方歳三とカレーライスの関係は謎ですが幕末にはカレーライスは存在していました。

 日本で初めてカレーを紹介したのは福沢諭吉とされています。万延元年(1860年)に諭吉が初めて出版した著書「増訂華英通語」に「Curry コルリ」とあります。「増訂華英通語」は諭吉が万延元年に咸臨丸で米国を訪れたときに清国の英単語集「華英通語」を入手し、これに日本語の読みをつけたものです。アメリカで販売されいた英語の単語帳ですから当時の日本人がカレーライスを食べていたということにはなりません。

 いろいろ調べてみると慶応3年(1867年)に三河屋久兵衛が江戸に西洋料理店を出店するにあたり幕府外国方御役所へ「西洋御料理御献立」を提出しています。この著作には英国式のエビカレーとチキンカレーの献立が書かれています。当時は675年に天武天皇が出した肉食禁止令が有効だったためカレーライスは普及しませんでした。

 王政復古の大号令が発令されたのは慶応3年12月(1868年1月)です。慶応4年(1868年)1月に鳥羽伏見の戦を皮切りに戊辰戦争が発生しました。同年4月に江戸城無血開城し、同年12月に榎本武揚が箱館政権を樹立しています。榎本武揚は西洋の文化に慣れ親しんでいましたからカレーを食べた経験はあったかもしれません。もしかすると榎本武揚は土方歳三にカレーライスを勧めたことがあったかもしれません。

 余談ですが箱館政権の通詞だった五島英吉は箱館戦争後はハリストス正教会に匿われそこで料理を学び、後に函館のレストラン五島軒の初代料理長となりました。英吉が作ったカレーは「函館カレー」として販売されています。

 さて「ヒジカタ君の華麗なるカレー」はポークカレーとあります。日本で肉食奇異指令が解除されたのは明治4年(1871年)です。「ヒジカタ君の華麗なるカレー」はエビカレーあたりにすると良かったかもしれません。

 「ヒジカタ君の華麗なるカレー」、どの食品メーカーが製造・販売しているのかと思ったらなんとベル食品でした。

  • 原材料名 豚肉(北海道産)、じゃがいも(北海道産)、牛乳、カレールウ、野菜炒めペースト、オニオンソテー、食用乳化油脂、ポークエキス、チキンエキス、香辛料、豚脂、てん菜糖蜜、チャツネ、しょうゆ、濃厚ソース、しょうがペースト、にんにくペースト、たんぱく加水分解物/調味料(アミノ酸等)、カラメル色素、増粘剤(加工デンプン)、酸味料、乳化剤、香料、(一部に乳成分・小麦・大豆・鶏肉・豚肉・りんごを含む)
  • 内容量 200g
  • 製造者 ベル食品株式会社

 ベル食品と言えば子どもの頃から「成吉思汗たれ」でお世話になっています。自分はジンギスカンを食べるタレは「成吉思汗たれ」以外には考えられません。

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2024年9月 7日 (土)

日枝神社|新選組「燃えよ剣」第10節「スタスタ坊主」の日枝明神

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

  東京都八王子市大和田4丁目に甲州街道に面した「日枝神社」の鳥居があります。

日枝神社(八王子市大和田町)
日枝神社(八王子市大和田町)

 この鳥居の奥の急階段を登り小高い丘の上に出ると日枝神社の本殿があります。

日枝神社の本殿(八王子市大和田町)
日枝神社の本殿(八王子市大和田町)

 境内を通り抜けると日枝神社の入り口があり社号碑がありましたのでこちらが正門のようです。

日枝神社の社号碑(八王子市大和田町)
日枝神社の社号碑(八王子市大和田町)

 社号碑の横には案内板があります。読んでみると新選組の土方歳三や沖田総司の名前が出ています。

日枝神社の案内板(八王子市大和田町)
日枝神社の案内板(八王子市大和田町)

案内板の内容

日枝神社の由緒

 日枝神社の御祭神、大山咋神(おおやまくいのかみ)は滋賀県近江の国の比叡山に坐し、山の神であると共に、広く地主(とこぬし)の神として崇められ、大地を支配し、万物の成長発展や産業万般の守護神として、その御神徳は広大無辺であります。

 徳川幕府が安定し、江戸の町が栄えるに伴って、赤坂日枝神社を総鎮守とする日枝神社が各地に分祀され、当神社は「山王さま」と呼ばれて大和田村の人々に崇敬され『新編武蔵風土記稿』の中には

  『山王社社地、四十七間に三十間、村の東よりの境にあり鎮座の

  初を知らず、御朱印社領五石を賜はれり』

と記載されております。
 
また、新撰組副長の土方歳三や一番隊組長の沖田総司が、京の都に上がる以前の血気盛んな頃、昼なお暗い山王さまの社で大暴れしたくだりが、作家司馬遼太郎の不朽の名作『燃えよ剣』に詳細に描かれております。

 現在の社殿は、昭和五十年に氏子の方々のご浄財により造営され、厄除け・商売繁盛・合格祈願・病気平癒等広く崇められております。

 この日枝神社は司馬遼太郎の「燃えよ剣」の第10節「スタスタ坊主」に「日枝明神」として登場します。新選組となる天然理心流剣術道場の試衛館の土方歳三、原田左之助、、 沖田総司、藤堂平助、永倉新八らが「山王さま」と呼ばれたこの神社で八王子宿の千人町にある甲源一刀流比留間道場の志士と斬り合うくだりがあります。

 Google Mapで日枝神社の場所を示します。日枝神社の下の方に大和田町会館とありますがその横に冒頭の鳥居と急階段があります。右上に国土交通省 相武国道事務所がありますがその前の道路に面して神社の正門があり社号碑と案内板があります。なお案内版は急階段の鳥居の前にもあります。

日枝神社(〒192-0045 東京都八王子市大和田町4丁目4−6)

 

【関連記事】

第9話「浪士組西へ」|明日なき戦いの果てに

新撰組の日(1863年3月13日)

箱館新選組の屯所の跡地

第22話「弁天台場を救え」|明日なき戦いの果てに

異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地

五稜郭の一本松の土饅頭

弁天台場|新撰組最期の地

土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

燃えよ剣(上) Kindle版

Kindle_20240907144601

 

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)