会津藩と保科正之|松平容保のおはなし
会津藩は戦国時代には葦名家の領地でした。天正17年(1589年)の「摺上原の戦い」で葦名義広が伊達政宗に大敗すると会津は伊達家の領地となりました。豊臣政権の時代には豊臣秀吉が伊達政宗を信用していなかったため蒲生氏郷を入所させ蒲生家の領地としましたが氏郷が死去すると内紛が起こり宇都宮に減封されました。その後、上杉景勝が入り上杉家の領地となりました。「関ヶ原の戦い」後は徳川家康は上杉家を出羽米沢に減封し、会津を再び蒲生家の領地としました。その後、蒲生家は世継ぎが途絶えたため改易となり加藤嘉明が入り会津は加藤家の領地となりました。しかしその加藤家でも御家騒動が起こり改易となりました。
加藤家が改易されると寛永20年(1643年)に出羽山形藩より保科正之が入りました。保科正之は徳川秀忠の四男で徳川家康の孫で徳川家光の異母弟にあたります。正之は元和3年(1617年)に旧武田家臣の信濃国高遠藩主の保科正光の養子となりました。正光には養子の左源太と正之の異母弟の保科正貞がいましたが、正之を気に入りの後継者としました。
正之の生母は秀忠の妾の静であり、正之は秀忠の隠し子でした。そのため徳川家光は異母弟の存在を知らずにいました。家光が鷹狩りに出かけたときに立ち寄った方田舎の寺の住職から将軍の弟なのにわずかな領地で質素な暮らしをしている正之の話を聞き自分に異母弟がいることを知りました。このとき住職は相手が家光だとは知らなかったと伝えられています。家光は正之に会見するとたいそう気に入りました。正光が死去すると正之は高遠藩主と3万石を継ぎ従五位下肥後守に叙されました。
秀忠が死去すると家光はますます正之を重用するようになりました。わずか3万石の正之を従四位下に叙し桜田門外に上屋敷を与え幕政に参加させるようにしました。そして寛永13年(1636年)に正之を出羽国山形藩の20万石の藩主としました。正之の生母の静も秀忠の側室とされました。死後は淨光院と呼ばれました。
寛永14年(1637年)、家光は正之に保科家を正貞に譲るよう命じ正之を徳川一門の大名とすることにしました。寛永20年(1643年)、正之は陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられました。これによって幕末まで続く正之を始祖とする会津松平家が成立しました。
慶安4年(1651年)、家光は病床にありました。家光は見舞いに訪れた正之に萌黄色の直垂と鳥帽子を与え、保科家に代々萌黄色の使用を許しました。萌黄色は家光が気に入っていた色で重要な儀式には必ず着用していたことから他の大名はこの色を着用することができませんでした。家光は正之に萌黄色の着用を認めることで、周りに正之は自分と同格であることを示したのです。
死を間近に迎えたある日、家光は重鎮の大名を呼び出して大老の酒井忠勝に新しい将軍を助けるようにと将軍の遺言を伝えさせました。このとき家光は起き上がることはできず床に伏したままでした。しかし、正之を呼び寄せたときには家光は家臣に支えられながら起き上がり、正之に徳川宗家と徳川家綱を助けるよう頼みました。正之は家光の最後の願いに感銘し寛文8年(1668年)に「会津家訓十五箇条」を定め、会津藩は将軍家を守護すべき存在であり、たとえ藩主が裏切るようなことがあっても家臣はその藩主に従ってはならないという規則を作りました。
一、 大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
一、 武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。上下の分を乱すべからず。
一、 兄を敬い弟を愛すべし。
一、 婦人女子の言、一切聞くべからず。
一、 主を重んじ法を畏るべし。
一、 家中風義を励むべし。一、 賄を行い媚を求むべからず。
一、 面々、依怙贔屓(えこひいき)すべからず。
一、 士を選ぶに便辟便侫(べんぺきべんねい)の者を取るべからず。
一、 賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し出位の者あらば、これを厳格にすべし。
一、 近侍の者をして、人の善悪を告げしむべからず。
一、 政事は利害を以って道理を枉ぐべからず。僉議は私意を挟みて人言を拒むべらず。思う所を蔵せず、以てこれを争そうべし。 甚だ相争うと雖も我意を介すべからず。
一、 法を犯す者は宥すべからず。
一、 社倉は民のためこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓うれば則ち発出してこれをすくうべし。 これを他用すべからず。法を犯す者は宥すべからず。
一、 若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、土民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、 土地を領せんや。必ず上表蟄居すべし。
右十五件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなりし、
代々の会津藩主ならびに藩士は会津藩家訓15ヶ条を守り続けました。幕末の会津藩最後の藩主の松平容保もこの遺訓を忠実に守り最後まで将軍家を支え官軍と戦いました。
寛文9年(1669年)4月27日、正之は四男で嫡男の正経に家督を譲り隠居しました。そして寛文12年(1672年)12月18日、江戸三田の藩邸で享年63(満61歳)で死去しました。
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