カテゴリー「松平容保のおはなし」の4件の記事

2025年3月10日 (月)

松平容保が会津松平家の養子になる|松平容保のおはなし

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

徳川秀忠の男系が途切れる|松平容保のおはなし」の続き

 保科正之を家祖とする会津松平家は松平容敬の家督相続により代々続いてきた第2代征夷大将軍の徳川秀忠の男系の血筋が途切れました。しかし、容敬は容住の庶子とされていたことから江戸幕府の公式の記録としては容敬まで徳川秀忠の男系が続いたとされいます。

 容敬の父の高須藩主の松平和義は天保3年(1832年)に57歳で死去しました。高須藩の家督は和義の次男で容敬の兄の松平義建が継ぎました。容敬には嫡男がいなかったため弘化3年(1846年)に義建の六男で自身の甥の松平容保を養嗣子とし娘の敏姫を嫁がせました。容保は和義の孫になります。

松平容保
松平容保

 松平容保は天保6年(1835年)12月29日に江戸四谷土手三番丁の高須藩邸で義建の六男(庶子)として生まれました。幼名は銈之允(けいのすけ)と称し、弘化3年(1846年)4月27日に10歳で会津藩第8代藩主の容敬の養子となりました。容保はすぐに会津には入らず江戸の和田倉門内の会津松平家上屋敷で育てられました。

 この上屋敷で容保は会津松平家の当主となる英才教育を受けました。この教育によって容保は会津藩家訓による徳川家への忠誠心、神道に基づく皇室への尊崇、儒教に基づく正義と道理を教え込まれました。

 嘉永5年(1852年)2月10日に容敬が死去し、同年2月15日に松平容保が第9代会津松平家当主・肥後守となりました。江戸幕府の記録では容保の家督相続で徳川秀忠の男系が途切れたとされています。

会津松平家系譜
会津松平家系譜

 松平容敬の父ならびに松平容保の祖父にあたる松平義和は常陸国水戸藩の第6代藩主の徳川治保の次男です。会津松平家は容敬の代から水戸徳川家の血筋になったのです。容保は会津松平家で学んだことを行動規範として幕末・明治の激動の時代を生き抜いたのです。

【関連記事】

会津藩と保科正之|松平容保のおはなし

保科正之が松平姓を名乗らなかった理由|松平容保のおはなし

徳川秀忠の男系が途切れる|松平容保のおはなし

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年2月21日 (金)

徳川秀忠の男系が途切れる|松平容保のおはなし

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

保科正之が松平姓を名乗らなかった理由|松平容保のおはなし」の続き

 元禄9年(1696年)12月9日、第2代征夷大将軍の徳川秀忠の四男(庶子)の保科正之(まさゆき)を家祖とする会津藩の第3代の保科正容(まさかた)が幕府から松平姓と三つ葉葵の紋の永代使用を認められと正容は松平正容と改姓しました。以降、会津藩は名実ともに会津松平家となりました。

徳川秀忠
徳川秀忠

 保科正之には長男の幸松、次男の正頼、三男の将監がいましたがいずれも早世しており跡を継いで第2代藩主となったのは四男の保科正経(まさつね)でした。その正経も病弱であり嫡子がいなかったため正之の六男で実弟の正容を養嗣子としました。天和元年(1681年)に正経が隠居すると松平正容が家督を継ぎました。会津松平家となった以降、藩主の名には「容」の偏諱を拝しました。

 享保16年(1731年)、正容が藩主在職中に死去しました。長男の正邦、三男の正甫がいましたが死去していため、同年に八男の松平容貞(かたさだ)が家督を継ぎました。 会津松平家の財政は正容の代から厳しい状況となり多額な借金を抱えていました。年貢の増徴により農民の間で不満が高まり、、寛永2年(1749年)に農民一揆「会津寛延一揆」が起こりました。容貞は同年の年貢を半減することで一揆を鎮めました。

 寛延3年(1750年)に容貞が享年27歳で死去すると長男の松平容頌(かたのぶ)が家督を継ぎました。容頌の代に「天明の大飢饉」が起こり会津松平家の財政は破綻寸前となりました。容頌は田中玄宰を家老として登用し藩政改革に当たらせました。藩政を倹約し荒廃した農地を復興させ特産品の製造・販売に力を入れたことにより財政の再建を成し遂げました。

 容頌は嫡子がいなかったため第3代藩主の正容の九男の容章の長男で従弟にあたる松平容詮(かたさだ)を養嗣子としていましたが家督を継ぐ前に死去したことから、文化2年(1805年)に容詮の長男の松平容住(かたおき)が家督を継ぎました。容住も玄宰と藩政改革を進めましたが藩主となって在任わずか5ヶ月の文化3年(1806年)に享年28歳で死去しました。

 容住の長男は早世していたため容住の次男の松平容衆(かたひろ)が家督を継ぎました。このとき容衆はわずか3歳でした。会津松平家は男子が早世することが多く、容頌、容詮、容住が立て続けに死去し幼少の容衆が藩主となったこともあり後継者問題を抱えていました。幼児の死亡率が高いことを懸念した家老の玄宰は万一のときに備えて容衆の跡継ぎを探しました。同じ頃、常陸国水戸藩の徳川治保の次男の松平義和が尾張藩連枝の高須藩を継ぐことになると庶子であった三男の扱いが問題となりました。玄宰はこの三男を会津藩に引き取りたいと申し出でました。こうして三男は会津藩に密かに引き取られました。

 三男は容住の死去後に容衆の異母弟の容敬(かたたか)として幕府に届けられました。玄宰の懸念は的中し容衆は文政5年(1822年)に享年20歳で死去しました。容衆には嫡子がいなかったために松平容敬が家督を継ぎ第8代藩主となりました。

松平容敬
松平容敬

 容敬は容住の庶子として幕府に届けられていますが実際には松平義和の子ですから保科正之から脈々と引き継がれた徳川秀忠の男系は容衆で断絶していることになります。ただし公式上は会津松平家の徳川秀忠男系は容敬まで続いたとされています。

徳川秀忠男系 会津松平家系譜
徳川秀忠男系 会津松平家系譜

【関連記事】

会津藩と保科正之|松平容保のおはなし

保科正之が松平姓を名乗らなかった理由|松平容保のおはなし

 

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年2月 9日 (日)

保科正之が松平姓を名乗らなかった理由|松平容保のおはなし

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

会津藩と保科正之|松平容保のおはなし」の続き

 会津松平家の家祖は第2代将軍の徳川秀忠の四男で保科家の養子となった保科正之です。正之は寛文9年(1669年)に隠居し家督を四男の正経に譲りました。第2代藩主となった正経は子が女児1人しかおらず本人も病弱だったため延宝8年(1680年)に末弟で正之の六男の正容を養嗣子としました。

保科正経
保科正経

 保科正容は天和元年(1681年)に正経が享年36歳で死去すると家督を継ぎ第3代藩主となりました。元禄9年(1696年)12月9日、松平姓と三つ葉葵の紋を永代使用することを許され徳川一門(御家門)となりました。以降、会津藩主は松平姓を名乗り名実ともに会津松平家となりました。

保科正容
保科正容

 松平氏は三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の小豪族でした。戦国時代の当主の松平元康は織田信長が「桶狭間の戦い」で今川義元を討ち取ると今川家から独立し、名を家康と改め、さらに官位を得るために出自を明確にするため姓を徳川に改ました。このとき家康は自身を松平家の中で別格の存在とするため、その他の松平家は改姓させませんでした。つまり家康は松平家を徳川家の家臣「譜代」の位置づけとしたのです。

【参考】松平家康が徳川家康に改名し従五位下三河守に(1566年12月29日)

 家康は信長と同盟を結び頭角を現しましたが「本能寺の変」で信長が暗殺されると豊臣秀吉に仕えました。秀吉が死去すると「関ヶ原の戦い」で石田三成を破り天下統一を果たして征夷大将軍となり江戸幕府を開きました。家康は徳川姓と松平姓を使い分けながら強固な幕藩体制を作り上げました。

【参考】徳川家康が征夷大将軍に就任(1603年2月12日)

 徳川を名乗ることができたのは江戸幕府将軍を世襲する徳川家と御三家・御三卿などの徳川家の限られた親族のみでした。一方、松平を名乗ったのは三河時代の松平家、将軍家をはじめとする徳川家から分家した親族、御連枝、将軍より特別に松平姓を与えられた徳川家や松平家の非一族の大名家です。幕末には徳川家は12家、松平家は29家が存在していました。明治維新後は徳川家と松平家は華族となりましたが、非一族の松平家と分流の松平家の一部は本姓に戻しています。

 さて会津松平家の家祖の保科正之は第2代将軍の徳川秀忠の四男として生まれましたが庶子のためその出生を知っていたのは秀忠と側近に限られていました。異母兄の徳川家光も正之の存在を知りませんでした。家光は正之と出会うと正之を気に入り重用するようになりました。

 正之は家光の遺命により第4代将軍の徳川家綱の後見人となり幕政を支え正四位下・左中将を叙されました。徳川将軍家は正之に松平姓を名乗るように申し伝えましたが、正之は自身を養育してくれた保科家に恩義があるとして生涯保科姓を名乗り続けたのです。第2代藩主の正経も保科姓のまま他界しています。こうして会津松平家が松平を名乗り三つ葉葵の紋を使い始めたのは第3代藩主の松平正容からとなったのです。

 なお徳川家の三つ葉の葵は御三家・御三卿・松平家でそのまま使用されたわけではなく家によって若干意匠が異なります。会津松平家の家紋は会津三葵と呼ばれています。

会津三葵
会津三葵

【関連記事】

会津藩と保科正之|松平容保のおはなし

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年2月 3日 (月)

会津藩と保科正之|松平容保のおはなし

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 会津藩は戦国時代には葦名家の領地でした。天正17年(1589年)の「摺上原の戦い」で葦名義広が伊達政宗に大敗すると会津は伊達家の領地となりました。豊臣政権の時代には豊臣秀吉が伊達政宗を信用していなかったため蒲生氏郷を入所させ蒲生家の領地としましたが氏郷が死去すると内紛が起こり宇都宮に減封されました。その後、上杉景勝が入り上杉家の領地となりました。「関ヶ原の戦い」後は徳川家康は上杉家を出羽米沢に減封し、会津を再び蒲生家の領地としました。その後、蒲生家は世継ぎが途絶えたため改易となり加藤嘉明が入り会津は加藤家の領地となりました。しかしその加藤家でも御家騒動が起こり改易となりました。

 加藤家が改易されると寛永20年(1643年)に出羽山形藩より保科正之が入りました。保科正之は徳川秀忠の四男で徳川家康の孫で徳川家光の異母弟にあたります。正之は元和3年(1617年)に旧武田家臣の信濃国高遠藩主の保科正光の養子となりました。正光には養子の左源太と正之の異母弟の保科正貞がいましたが、正之を気に入りの後継者としました。

保科正之
保科正之

 正之の生母は秀忠の妾の静であり、正之は秀忠の隠し子でした。そのため徳川家光は異母弟の存在を知らずにいました。家光が鷹狩りに出かけたときに立ち寄った方田舎の寺の住職から将軍の弟なのにわずかな領地で質素な暮らしをしている正之の話を聞き自分に異母弟がいることを知りました。このとき住職は相手が家光だとは知らなかったと伝えられています。家光は正之に会見するとたいそう気に入りました。正光が死去すると正之は高遠藩主と3万石を継ぎ従五位下肥後守に叙されました。

 秀忠が死去すると家光はますます正之を重用するようになりました。わずか3万石の正之を従四位下に叙し桜田門外に上屋敷を与え幕政に参加させるようにしました。そして寛永13年(1636年)に正之を出羽国山形藩の20万石の藩主としました。正之の生母の静も秀忠の側室とされました。死後は淨光院と呼ばれました。

 寛永14年(1637年)、家光は正之に保科家を正貞に譲るよう命じ正之を徳川一門の大名とすることにしました。寛永20年(1643年)、正之は陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられました。これによって幕末まで続く正之を始祖とする会津松平家が成立しました。

 慶安4年(1651年)、家光は病床にありました。家光は見舞いに訪れた正之に萌黄色の直垂と鳥帽子を与え、保科家に代々萌黄色の使用を許しました。萌黄色は家光が気に入っていた色で重要な儀式には必ず着用していたことから他の大名はこの色を着用することができませんでした。家光は正之に萌黄色の着用を認めることで、周りに正之は自分と同格であることを示したのです。

 死を間近に迎えたある日、家光は重鎮の大名を呼び出して大老の酒井忠勝に新しい将軍を助けるようにと将軍の遺言を伝えさせました。このとき家光は起き上がることはできず床に伏したままでした。しかし、正之を呼び寄せたときには家光は家臣に支えられながら起き上がり、正之に徳川宗家と徳川家綱を助けるよう頼みました。正之は家光の最後の願いに感銘し寛文8年(1668年)に「会津家訓十五箇条」を定め、会津藩は将軍家を守護すべき存在であり、たとえ藩主が裏切るようなことがあっても家臣はその藩主に従ってはならないという規則を作りました。

会津藩家訓15ヶ条

一、 大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
一、 武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。上下の分を乱すべからず。
一、 兄を敬い弟を愛すべし。
一、 婦人女子の言、一切聞くべからず。
一、 主を重んじ法を畏るべし。
一、 家中風義を励むべし。一、 賄を行い媚を求むべからず。
一、 面々、依怙贔屓(えこひいき)すべからず。
一、 士を選ぶに便辟便侫(べんぺきべんねい)の者を取るべからず。
一、 賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し出位の者あらば、これを厳格にすべし。
一、 近侍の者をして、人の善悪を告げしむべからず。
一、 政事は利害を以って道理を枉ぐべからず。僉議は私意を挟みて人言を拒むべらず。思う所を蔵せず、以てこれを争そうべし。 甚だ相争うと雖も我意を介すべからず。
一、 法を犯す者は宥すべからず。
一、 社倉は民のためこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓うれば則ち発出してこれをすくうべし。 これを他用すべからず。法を犯す者は宥すべからず。
一、 若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、土民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、 土地を領せんや。必ず上表蟄居すべし。

右十五件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなりし、

 代々の会津藩主ならびに藩士は会津藩家訓15ヶ条を守り続けました。幕末の会津藩最後の藩主の松平容保もこの遺訓を忠実に守り最後まで将軍家を支え官軍と戦いました。
 
 寛文9年(1669年)4月27日、正之は四男で嫡男の正経に家督を譲り隠居しました。そして寛文12年(1672年)12月18日、江戸三田の藩邸で享年63(満61歳)で死去しました。

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)