カテゴリー「史跡」の12件の記事

2025年1月23日 (木)

坂本龍馬が襲撃される|寺田屋遭難(慶応2年1866年1月23日)

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 慶応2年(1866)年1月21日に薩長同盟が成立。坂本龍馬は同年1月23日に護衛の長府藩士である三吉慎蔵(みよししんぞう)と定宿していた京都伏見の寺田屋に戻りました。龍馬は桂小五郎と西郷隆盛による薩長同盟の成立の顛末を慎蔵に説明し祝杯を交わしたと伝えられています。

  【参考】薩長同盟(1866年1月21日)

坂本龍馬 三吉慎蔵
坂本龍馬(左)と三吉慎蔵(右)

 当時、伏見の京橋は京都と大坂を結ぶ過書船が荷の揚げ降ろしと旅客の乗降をする船着き場として栄えていました。そのため多くの宿屋が建ち並び寺田屋もそのひとつでした。坂本龍馬が寺田屋を定宿とたのは寺田屋が薩摩藩の指定宿だったからです。寺田屋では文久2年(1862)に薩摩藩志士の粛清「寺田屋事件」が起きています。

  【参考】寺田屋事件こと薩摩藩志士粛清事件(1862年4月23日)

 寺田屋には宿を1人で切り盛りする面倒見の良いお登勢という女将がいました。龍馬をはじめとする多くの志士たちがお登勢を懇意にしていました。元治元年(1864年)、龍馬はお登勢に恋仲で身寄りのない楢崎龍を寺田屋で預かってもらうよう頼み込みました。お登勢は龍馬の願いを聞き、お龍はお春という名前でお登勢の娘分となり寺田屋で住み込みで働くことになりました。

寺田屋の女将のお登勢 楢崎龍
寺田屋の女将のお登勢と楢崎龍

 龍馬は文久2年(1862年)に幕府政事総裁職の松平春嶽の紹介により幕府軍艦奉行並の勝海舟と出会っています。龍馬は海舟に心服し海舟が開いた神戸海軍操練所の海軍塾塾頭を努めました。しかしながら倒幕派と尊皇派が対立し幕政が混乱する中で海舟と龍馬の幕府における立場が危うくなりました。海舟の紹介で薩摩藩との関係を深めていた龍馬の行動は問題視されるようになり倒幕派につながる要注意人物と見なされるようになりました。

 慶応2年(1866年)1月23日、龍馬が慎蔵と寺田屋に戻ると伏見奉行所に連絡が入りました。伏見奉行の肥後守の林忠交は龍馬の捕縛を命じ、同日深夜2時頃、伏見奉行所の役人と捕り方が寺田屋を包囲しました。この異変に気がついたのが入浴中のお龍でした。龍馬の危機を悟ったお龍は裸のまま裏階段を駆け上がり2階にいた龍馬と慎蔵に異変を知らせました。伏見奉行所の役人が龍馬が慎蔵に詰問すると2人は薩摩藩士と詐称しました。しかしながら、役人は肥後守の上意として捕り方に龍馬らの捕縛を命じました。

 龍馬は高杉晋作から譲られた拳銃スミス&ウェッソン・モデル2を発砲、慎蔵は手槍を振るって防戦しました。2人は捕り方2名を射殺し数人を殺傷しました。しかしながら多勢に無勢で龍馬は左右の手の親指を切られ拳銃を扱えなくなりました。

ミス&ウェッソン・モデル2
ミス&ウェッソン・モデル2

 慎蔵が必死に防戦しているとお龍が裏木戸に置いてあった大きな石がのった漬物槽を力任せにどかして龍馬らを逃しました。龍馬らは寺田屋を脱出し材木屋に身を隠しました。龍馬が動けなくなると護衛役の慎蔵は責任を感じ切腹しようとしました。しかし龍馬はこれを制止し薩摩藩邸に救援を求めに行くよう命じました。慎蔵はその場に龍馬を残して薩摩藩伏見屋敷に向かいました。

 慎蔵の報告を受けた薩摩藩邸留守居役の大山彦八は藩士3名をつれて川舟で救出に向かいました。これによって龍馬は薩摩藩に救出され九死に一生を得ました。ことの顛末は直ちに京都の西郷隆盛に報告されました。隆盛は薩摩藩士の吉井友実を伏見に派遣し情勢を探らせました。また軍医を薩摩藩邸に派遣し龍馬の治療と警護を命じました。

 翌日、伏見奉行は薩摩藩邸に龍馬の引き渡しを要求しましたが薩摩藩はこれを拒否しました。その後、龍馬とお龍と慎蔵は西郷隆盛の勧めで京都から逃れ薩摩藩の船で大阪から脱出しました。 慎蔵は下関で下船し情勢を報告するため長府藩に戻りました。龍馬はお龍と鹿児島に逃れ隆盛の紹介で湯治などをしながら旅をして過ごしました。この龍馬とお龍の旅が日本人として初めての新婚旅行とされています。龍馬が受けた傷は深く以降の写真撮影では龍馬は左手を隠していることが多いという指摘があります。

 さて寺田屋遭難に新選組が関わったという言い伝えもありますが、これは伏見奉行の林忠交の肥後守と京都守護職の松平容保の肥後守が誤認され、容保の配下の新選組が関与したと誤った説が流布されたものです。龍馬も慎蔵も伏見では新選組に捕縛されておらず嫌疑は受けていませんでした。伏見奉行は薩摩藩士を詐称する浪人が寺田屋に出入りしていることから目を付けたようです。

 第二次長州征討が始まると慎蔵は長府藩の報國隊軍監として高杉晋作指揮のもと長州藩の奇兵隊と幕府軍と戦いました。この戦には龍馬も参加しています。このときお龍は長崎の豪商の小曽根英四郎のもとで過ごしました。第二次長州征討後、龍馬は亀山社中(後の海援隊)の拠点を下関に置きお龍を呼び寄せています。龍馬とお龍は下関での生活を楽しみましたが下関が龍馬とお龍の最後に過ごした場所となりました。

 龍馬は慶応3年(1867年)11月15日に京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋井口新助邸において暗殺されていますが、襲撃は新選組によるものではなく京都見廻組によるものでした。この襲撃は龍馬が「寺田屋遭難」で伏見奉行所の捕り方を殺害したことに対する公務執行とされています。これは箱館戦争後に元京都見廻組今井信郎が自供したものです。

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2025年1月21日 (火)

薩長同盟の六箇条(慶応2年1866年1月21日)

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 慶応2年(1866年)1月21日、薩摩藩が近衛家から借りて小松帯刀が使用していた京都の近衛家別邸御花畑屋敷において薩長同盟が締結されました。近衛家別邸御花畑御屋敷跡には薩長同盟締結の地の記念碑が立てられています。

薩長同盟締結の地の記念碑(近衛家別邸御花畑御屋敷跡)
薩長同盟締結の地の記念碑(近衛家別邸御花畑御屋敷跡)

 近衛家別邸御花畑御屋敷は現存しえおらず薩長同盟締結の地の記念碑は屋敷のあった道端にひっそりと建てられています。

 

 慶応2年(1866年)1月8日、近衛家別邸御花畑屋敷において西郷隆盛と桂小五郎の会談が行われましたが交渉は難航し薩長同盟の締結は困難な状態にありました。このとき坂本龍馬は下関に出かけており同席していませんでした。後日、下関から戻った坂本龍馬は薩長同盟の交渉が暗礁に乗り上げていることを知り桂小五郎にその理由を確認しました。桂小五郎は薩摩藩に頭を下げて譲歩することはこれ以上できないと表明しました。慶応2年(1866年)1月21日、西郷隆盛と小松帯刀は長州に戻ろうとしていた桂小五郎を呼び止め六箇条の条文を提示しました。桂小五郎はその場で条文の内容を確認し薩長同盟の締結を了承しました。このときの出席者は同盟を仲介した坂本龍馬、薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通・島津伊勢・桂久武・吉井友実・奈良原繁、長州藩の桂小五郎・品川弥次郎・三好軍太郎でした。

 薩摩藩から出された六箇条の条文とは会談の内容そのものでありその記録は残っていませんが、後日に桂小五郎が記憶を頼りに書き留めたものです。桂小五郎が書き留めた六箇条は次の通りです。

 一、戦ひと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事

  (戦いが始まったら直ちに2千余りの兵を急いで送り現在京にいる兵と合流させます。大阪にも1千の兵を配置し京都と大阪の両方を守を固めること)

 一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事

  (戦いに勝てそうと有利な兆しが見えたときは朝廷に働きかけて講和を成立させること)

 一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事

  (万一、戦いに負けそうでも1年や半年で決着がつくことはなく、その間も全力で戦うこと)

 一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事

  (もし幕府の兵が東に帰還した際には、直ちに朝廷に訴え速やかに冤罪を晴らすよう全力で尽力すること)

 一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事

  (橋会桑等が現在のような状況で朝廷を利用して正義に従わず調停を妨害した時は決戦に及ばざるを得ないこと)

 一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事

  (冤罪が晴れた後は双方が誠意を持って協力し皇国の皇威の回復を目指して全力を尽くすこと)

 桂小五郎はこの書き留めた六箇条に誤りがないかどうかを慶応2年1月23日付の書簡で坂本竜馬に確認を依頼しています。坂本龍馬は2月5日付で書簡に「表に御記成被候六条は小西両氏及老兄龍等も御同席にて談論せし所にて毛も相違これ無き候、後来といへとも決して変り候事はこれ無きは神明の知る所に御座候」と朱書きした返書を送り会談の内容に相違ないことを伝えています。

坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」
坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」

【関連記事】

薩長同盟(1866年1月21日)

第11話「薩長同盟のゆくえ」|明日なき戦いの果てに

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2025年1月 5日 (日)

(旧)箱館奉行所跡の碑

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 箱館奉行所というと五稜郭公園内の復元された箱館奉行所が有名ですが、五稜郭が築城される前は現在の基坂(函館市元町公園)にありました。現在、元町公園には復元された奉行所はなく跡地を示す碑が立てられています。

箱館奉行所跡
箱館奉行所跡

 ベリー提督の箱館来航後の安政元年(1854年)6月30日、幕府は日米和親条約で開港された箱館に34年振りに奉行所を再置することにし、松前藩から上知した箱館周辺を箱館奉行所管轄の直轄地としました。 

 このとき箱館奉行には幕府の勘定吟味役・海防掛の竹内保徳が就任しました。さらに日露和親条約締結のため国境調査のため樺太・蝦夷地を巡見した堀利煕が就任し2人体制となりました。

竹内保徳と堀利煕
竹内保徳と堀利煕

 箱館奉行所は松前藩箱館奉行詰役所に置かれました。

旧箱館奉行所(松前藩箱館奉行詰役所)
旧箱館奉行所(松前藩箱館奉行詰役所)

 旧箱館奉行所のあった場所は次の地図の左上の御役所と書かれたところです。現在は前述通り「函館市元町公園」の敷地となっています。

  冒頭の箱館奉行所跡の碑はこちらの地図の右上(紫のポインタ)にあります(Google Map)

 

 竹内保徳は箱館奉行所の運用にあたり松前藩箱館奉行詰役所の建物の改装を考えていたようですが、堀利煕はこの地は箱館港湾に近く箱館山から一望できることから防衛上の問題があることを指摘しました。竹内保徳はこれを承認し、2人は箱館湾内からの艦砲射撃が届かない亀田の鍛治村に城を築き箱館奉行を移転する意見書を幕府に提出しました。老中首座の阿部正弘がこれを承認し、こうして五稜郭と箱館奉行所の建設が決まりました。

【関連記事】

五稜郭の箱館奉行所が開所(1864年6月15日)

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

榎本武揚ら旧幕府軍が五稜郭に入城(1868年10月26日)

箱館史跡

(旧)箱館奉行所跡の碑

函館市の実行寺の日仏親善函館発祥記念碑

東浜桟橋(旧桟橋)と北海道第一歩の地碑

函館運上所|税関記念日(1872年11月28日

箱館新選組の屯所の跡地

五稜郭の一本松の土饅頭

弁天台場|新撰組最期の地

異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地

箱館奉行が建造した洋式帆船スクーナー「箱館丸」

五稜郭公園のクルップ砲のおはなし|明日なき戦いの果てに番外編

ペリー会見所跡|マシュー・ペリー提督の箱館来航

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2024年12月 6日 (金)

東浜桟橋(旧桟橋)と北海道第一歩の地碑

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 箱館港(函館港)は北海道と本州とを結ぶ玄関口として古くから利用されていましたが、安政5年(1858年)に日米修好通商条約をはじめとする「安政五カ国条約」により安政6年6月2日(1859年7月1日)に外国との貿易のため開港されました。

 当時の箱館港には大型船が停泊できる岸壁はありませんでした。箱館にやってきた大型船は函館港沖合に停泊し、そこから小型通船が人や貨物を桟橋や桟橋や船揚場まで運びました。当時、箱館に船でやってきた人々が初めて降り立つ場所が「東浜桟橋」(旧桟橋)でした。

東浜桟橋(旧桟橋)と北海道第一歩の地碑
東浜桟橋(旧桟橋)と北海道第一歩の地碑

 東浜桟橋はJR箱館駅から函館山の方へ徒歩約15分の函館市末広町24にあります。この場所には金森赤レンガ倉庫のショッピングモールなどが存在し人気のウォーターフロント観光地となっています。ショッピングモールから西の方に歩いていくと「東浜桟橋」(旧桟橋)と「北海道第一歩の地碑」があります。


北海道函館市末広町24

 北海道函館市末広町24付近は慶応時代から明治初期にかけて埋め立てられた場所で海岸線沿いの道路が造成されました。この場所は東浜町と名付けられ明治4年に箱館港の旅客乗降地として利用されるようになり、やがて長さ9.1メートル、幅3.6メートルの木造の小さな桟橋が「東浜桟橋」が設置されました。箱館港にやってきた多くの旅客がこの小さな桟橋を利用しました。当時の箱館港は北海道の玄関口でしたから本州から北海道に上陸する場所でもありました。初期の青函連絡船の旅客もこの桟橋を利用しました。桟橋前には多数の旅館や商店が建てられ、この付近は昭和初期まで中心市街地でした。

昭和30年代の東浜桟橋(旧桟橋)と旧森屋百貨店(旧金森デパート)
昭和30年代の東浜桟橋(旧桟橋)と旧森屋百貨店(旧金森デパート)

 明治43年(1910年)に函館駅に大型の桟橋が完成すると青函連絡船の乗客は新桟橋を利用するようになりました。東浜桟橋の利用者は激減し、いつの頃からか東浜桟橋は市民の間で旧桟橋と呼ばれるようになりました。旧桟橋はその後も青函連絡船以外の旅客や船員の乗降場所として利用されました。利用者は激減しましたが函館港は北洋漁業の基地港となり時期になると旧桟橋付近は大いに賑わいました。

函館港に集結する北洋漁業船団(昭和37年)
函館港に集結する北洋漁業船団(昭和37年)

 昭和4年(1929年)、旧桟橋は北海道庁から函館市の管理となりました。このときに正式名称が「東浜桟橋」となりました。古い写真には「東濱町桟橋」と書いたものがありますから「東浜桟橋」も通称だったのでしょう。それでも多くの市民は馴染のある旧桟橋という名前で呼び続けました。

 昭和40年代に函館港の岸壁が整理され大型船が埠頭などに着けられれるようになると通船が不要となり「東浜桟橋」はその役割を終えました。現在、「東浜桟橋」は観光地として整備されています。写真は最近の「東浜桟橋」です。観光用人力車が観光地巡りをしているところです。

東浜桟橋(旧桟橋)
東浜桟橋(旧桟橋)

 現在の「東浜桟橋」は昭和34年(1934年)に架け替えられたコンクリート製のものです。平成3年(1991年)にガス灯が設置され夜になると「東浜桟橋」を照らし美しい夜景を見ることができます。

 さて「東浜桟橋」の隣には「北海道第一歩の地碑」があります。昭和43年(1968年)に日本中央競馬会が明治以降に北海道に渡って来た人々が第一歩を踏んだ地を記すモニュメントとして寄贈したものです。モニュメントはヒグマと船のいかりを模したものです。

北海道第一歩の地碑
北海道第一歩の地碑

 碑文には「明治百年を迎えるに当り 此地に記念碑をたてて 開拓に渡道した先人の足跡をしのぶ」とあります。

北海道第一歩の地碑の碑文
北海道第一歩の地碑の碑文

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2024年11月28日 (木)

函館運上所|税関記念日(1872年11月28日)

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 嘉永7年(1854年)3月3日に締結された日米和親条約により下田と箱館の開港が決まりました。、安政5年(1858年)6月19日に締結された日米修好通商条約をはじめとする安政五カ国条約により、下田と箱館に加えて横浜、新潟、神戸、長崎の開港と、江戸と大坂の開市が決まると、諸外国との貿易が始まりました。江戸幕府は安政6年(1859年)に箱館、横浜、長崎に現在の税関の前身となる運上所を設置しました。運用所では輸出入の監督管理、税金の徴収などが行われました。

 箱館運上所は現在の北海道函館市大町10-3に存在していました。写真の木造ルネサンス風の洋風建築物は明治44年に新築された函館税関です。

函館運上所
函館運上所

 この建物は昭和47年(1972年)に取り壊され、現在この場所には海上自衛隊函館基地隊が設置されています。

海上自衛隊函館基地隊
海上自衛隊函館基地隊

 海上自衛隊函館基地隊の入り口の右側に函館運上所跡の案内板があります。

函館運上所跡の案内板
函館運上所跡の案内板

 案内板には下記が記されています。 

 欧米5か国との通商条約に基づき、安政6(1859)年、箱館は横浜、長崎とともに開港し国際貿易港となった。

 これにともない、税関の前身である運上所が設けられた。開港翌年の入港外国船は、商船30隻、捕鯨船21隻、軍艦18隻ノ計64隻であった。

 貿易では、輸入はほとんどなく、輸出は中国向けの昆布が4分ノ1を占め、そのほか、いりこ、するめ、干あわびなど海産物が上位をしめていた。
 明治5(1872)年、運上所は税関と改称された。昭和43年、海岸町中央埠頭に港湾合同庁舎が完成し、税関も同庁舎に移転した。なお、明治44年に新築された庁舎は、木造ルネサンス風の洋風建築であったが、昭和47(1972)年に取り壊された。(写真)

 明治2年(1869年)に 箱館が函館に改称されると箱館運上所も函館運上所と改称されました。また明治5年(1872年)11月28日には運上所の呼称が税関に統一されました。これを記念し昭和27年(1952年)に大蔵省(現在の財務省)が11月28日を「税関記念日」と制定しました。

 海上自衛隊函館基地隊と函館運上所跡の案内板のある場所(北海道函館市大町10-3)のGoogleマップストリートビューです。近くの元町公園には箱館奉行や諸術調所がありました。

 昭和43年(1968年)に海岸町中央埠頭に港湾合同庁舎が完成すると税関も同庁舎に移転しました。

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2024年9月 6日 (金)

箱館新選組の屯所の跡地

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 幕末に京都守護職を務めた会津藩主の松平容保の預かりとなり京都を警備を担った新選組は慶応3年(1867年)6月に幕臣となりました。

 同年10月に第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行うが翌年に旧幕府軍と新政府軍の戊辰戦争が勃発しました。新選組は旧幕府軍として戊辰戦争に参戦しましたが、旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北すると榎本釜次郎の艦隊で江戸に撤退しました。

 その後は新政府軍の甲府進軍を阻止する任務につきを甲陽鎮撫隊と名乗り甲州街道から甲府城へ進軍しましたが「甲州勝沼の戦い」で板垣退助が率いる迅衝隊に敗北し江戸に撤退しました。ほぼ解散状態となりましたが近藤勇と土方歳三は新選組の再起をかけて下総国の流山へと移動したが近藤が新政府軍に捉えられて斬首されました。その後、副長の土方歳三が新選組を率いて宇都宮城の戦い、会津戦争などに参戦するが、奥羽越列藩同盟が瓦解すると榎本釜次郎の艦隊に合流し蝦夷地へ向かった。

 榎本釜次郎の艦隊は慶応4年(1868年)10月21日に箱館の北、内浦湾に面する鷲ノ木(森町)から上陸し、旧幕府軍は箱館を制圧し同年10月26日に五稜郭へ入城しました。箱館政権で陸軍奉行並を任命された土方歳三率いる箱館新選組は宮古湾海戦や二股口の戦いなどに参戦しましたが新政府軍が箱館に迫ると箱館山山頂を守備するようになりました。

 箱館新選組は屯所は称名寺(しょうみょうじ)に置かれました。称名寺は幕末の箱館開港後はイギリスやフランスの仮領事館として利用されました。称名寺は明治12年の函館大火で焼失し函館市船見町18-14に移転しましたがもともとは函館市大町4-6にありました。

箱館新選組の屯所の跡地(旧称名寺跡地)
箱館新選組の屯所の跡地(旧称名寺跡地)

 現在、この地には函館元町ホテルと蔵宿 屯所の庵があります。

蔵宿 屯所の庵
蔵宿 屯所の庵

 蔵宿 屯所の庵前の「新撰組 屯所」跡地の案内板です。

「新撰組  屯所」跡地の案内板
「新撰組 屯所」跡地の案内板

 箱館新選組の組織は下記の通りです。

  • 函館新選組局長 土方歳三、大野右仲、相馬主計
  • 箱館新選組隊長 相馬主計
  • 陸軍奉行並 土方歳三
  • 陸軍奉行並添役 大野右仲
  • 頭取改役 森常吉、島田魁、角ヶ谷糺
  • 改役下役会計頭取 青地源太郎
  • 会計方 山崎八蔵
  • 土方附属 市村鉄之助、野村利三郎

 箱館新選組が守備していた箱館山山頂は新政府軍陸軍参謀の黒田清隆が率いる別動隊による急襲により占領されました。箱館新選組は敗走し弁天台場に入りました。新政府軍が箱館山を占領すると箱館奉行の永井尚志は弁天台場に入り箱館新選組とともに守備を固めた。

 次の図は箱館全図 万延元年 函館市中央図書館所蔵です。右下が弁天台場、左側の真ん中あたりに称名寺があります。

 こちらは現在の箱館新選組屯所跡地(旧称名寺跡地)の地図(Google Map)です。


箱館新選組屯所跡地(旧称名寺跡地)

 箱館政権陸軍奉行並で箱館新選組局長の土方歳三は五稜郭には滞在せず箱館新選組屯所の近くの商家の佐野専左衛門方の万屋「丁サ」を宿所にしていました。土方歳三は宿所と屯所を中心に箱館山山頂や弁天台場をはじめ箱館市内を巡検し五稜郭までの約6キロメートルを馬で通いました。「丁サ」の跡地は別の記事で紹介します。

 次は現在の称名寺(北海道函館市船見町18-14)の地図(Google Map)です。ここには「土方歳三と新撰組隊士の供養碑」が建立されています。


現在の称名寺(北海道函館市船見町18-14)

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2024年8月26日 (月)

弁天台場|新撰組最期の地

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 安政元年(1854年)3月、日米和親条約で箱館が開港すると幕府は蝦夷地を直轄し6月に箱館奉行所を基坂(元町公園)に設置した。箱館奉行に就任した竹内保徳と堀利煕は基坂の箱館奉行所は箱館港や箱館山に近く防衛に難があるとし艦砲射撃の届かない内陸の亀田の鍛治村への移転を幕府に上申、老中阿部正弘がこれを了承し五稜郭を築城することになりました。このとき箱館湾の防衛のために建造されたのが弁天台場です。弁天台場は五稜郭を設計した武田甲斐三郎によって設計され予算10万両で安政3年(1856年)から元治元年(1864年)にかけて建設されました。

弁天台場(AIカラー化)
弁天台場(AIカラー化)

 弁天台場は将棋の駒のような不等辺六角形の形をしていて周囲は約684メートル、総面積32,340平方メートル、高さ約11メートルの石垣に囲まれていました。石垣には主に函館山で切り出された石が使われました。備前御影石で作られた大手門はアーチ型をしておりトンネル状の通路で内部に通じていました。弁天台場には24ポンド筒50挺が配備される予定でしたが製造設備の準備ができなかったため計画が頓挫しました。箱館奉行は下田沖で沈没したロシアのディアナ号の船員を救出した際にエフィム・プチャーチンが江戸幕府に献上した52挺の大砲の配置を要請しました。海軍からの要請もあったため幕府は24挺を箱館に送りました。

弁天台場入り口付近(AIカラー化)
弁天台場入り口付近(AIカラー化)

 弁天台場は異国船に対して使用されることはありませんでした。実戦に使われたのは戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争においてでした。土方歳三とともに箱館戦争に参戦した新撰組は箱館山の山頂を守備していましたが、箱館山山頂が新政府軍の奇襲により占領されると弁天台場に入りました。弁天台場は奮戦しましたが新政府軍がが箱館市中を占領すると孤立し明治2年(1869年)5月15日に五稜郭に先立ち降伏開城しました。弁天台場は明治30年頃に取り壊され使用されていた石材は函館漁港の護岸建設に使われました。

 弁天台場があった場所は次の地図の右下です。現在は「函館どつく」(函館市弁天町)の敷地となっています。

 「函館どつく」の入り口に弁天台場跡の碑が立っていますが、ここは自転車置き場になっており案内板などは設置されていません。

弁天台場跡の碑
弁天台場跡の碑

 弁天台場の案内板は函館市電の電停「函館どつく前」近くの入船児童公園にあります。公園の中には箱館奉行の永井玄蕃、玄蕃の補佐役で会計奉行の川村録四郎、新撰組の島田魁の案内柱が建てられています。

入船児童公園の入り口
入船児童公園の入り口

 また公園の入り口横に通りに面して弁天台場の案内板と「新選組最後の地」の碑が設置されています。

弁天台場の案内板 「新選組最後の地」の碑
弁天台場の案内板と「新選組最後の地」の碑

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2024年8月22日 (木)

異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地

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 函館市内を走る市電の十字街の電停そばにセブンイレブンがあります。その駐車場に「異国橋」の案内版があります。

「異国橋」案内版(函館市末広町9-14
「異国橋」案内版(函館市末広町9-14)

 「異国橋」は享和元年(1801年)に「栄国橋」として建造されました。「栄国橋」のあった場所は案内版から電車通りに沿ってやや函館駅方面に戻った函館西警察署十字街交番(函館市豊川町7-31)あたりにありました。市電通りに交差する銀座通りにかつてあった掘割に架けられていたのが「栄国橋」です。下記の地図は函館市中央図書館所蔵の箱館全図 万延元年の一部を切り出したものですが中心に「異国橋」を確認することができます。

当時の異国橋付近の地図(箱館全図 万延元年 函館市中央図書館所蔵)
当時の異国橋付近の地図(箱館全図 万延元年 函館市中央図書館所蔵

 次はGoogleストリートビューで市電通りと銀座通りの交差点から見えるセブンイレブン(左端)と交番(右端)で「異国橋」があったあたりです。このあたりは港や歓楽街からも近く古くから商業が盛んでした。「栄国橋」は文字通り国が栄えるに由来し名付けられました。また「永国橋」とも呼ばれたようです。

 安政元年(1854年)の日米和親条約により箱館が開港すると箱館港の築島が外国人居留地に指定され外国人が多く居住するようになり異国情緒漂う地になったことから「異国橋」と呼ばれるようになりました。

 市電の通りを「函館どつく」の方に向かうと新撰組屯所跡や土方歳三が宿にしていた商家の佐野専左衛門方の万屋「丁サ」の跡地を訪れることができます。「函館どつく」はかつて新撰組が守備をした「弁天台場」があったところです。土方歳三は「丁サ」から五稜郭まで約6 kmを馬で通ったそうです。

 土方歳三最期の地はよくわかっていませんが、当時の記録から孤立した弁天台場を救うために出撃して「一本木関門」(函館市若松町34-1)で新政府軍と対峙しここで銃撃を受け絶命したとされます。他の記録では「異国橋」が土方歳三の最期の地と記したものもあります。

 なおセブンイレブンの「異国橋」の案内板の裏側に坂本龍馬像がありましたが青柳町に移転しています。

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2024年8月19日 (月)

箱館奉行が建造した洋式帆船スクーナー「箱館丸」

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 写真の船は函館港西埠頭に展示されている「箱館丸」の復元船です。この復元船は昭和63年(1988年)に開催された青函トンネル開通記念博覧会で建造されました。博覧会後に「箱館丸」の設計と建造に当たった船大工の続豊治の子孫が買い取り函館市に寄贈したものです。

洋式帆船スクーナー「箱館丸」
洋式帆船スクーナー「箱館丸」

 安政元年(1854年)の日米和親条約の締結で箱館は開港されることになりました。幕府は箱館を直轄地とし竹内保徳と堀利煕を箱館奉行に任命しました。箱館奉行は海防と警備強化のため幕府に蒸気船配備を申請しました。

 当時、幕府は下田沖で難破したロシア帝国のエフィム・プチャーチン提督のフリゲート艦「ディアナ」の船員が帰国できるよう伊豆国君沢郡戸田村で洋式帆船「ヘダ」を建造していました。洋式帆船の造船技術を学んだ幕府はこの「ヘダ」を原型とする洋式帆船の製造を開始し君沢形と名付けました。幕府はこの君沢形洋式帆船を箱館に2隻配備し箱館奉行に追加の同型船建造を認めましたが、君沢形の配備までに時間がかかるため箱館奉行は独自に洋式帆船を建造することにしました。

 箱館では開運業を営んでいた高田屋嘉兵衛が活躍した地であり、かつては高田屋の造船所があり船大工もたくさんいました。しかし高田屋の没落により造船所は廃止となり船大工も職を失っていました。

 安政元年(1854年)4月、箱館奉行は高田屋で船大工をしていた仏壇師の続豊治を箱館奉行所異国船応接方従僕に任命しました。豊治が選ばれたのは彼が船大工の職を失っても船舶に興味を持ち続け箱館港に寄港する異国船の構造の調査で捕縛された経験があったからでした。箱館奉行所に採用された後は役人として異国船の調査を続け、調査で得られた経験と知識から安政3年(1856年)に船大工の辻松之丞の造船所で小型船2隻の試作を完成させました。この小型船の完成度を高く評価した箱館奉行は豊治を船大工頭取に任命し洋式帆船の建造を命じました。

続豊治(函館中央図書館)
続豊治(函館中央図書館)

 豊治は箱館の築嶋でスクーナー「箱館丸」の建造を始め安政4年(1857年)7月に竣工させました。進水式には箱館奉行の堀利熈が出席しました。豊治は「箱館丸」の建造の功績により箱館御用船大工棟梁となりました。

 安政4年(1858年)11月24日、函館奉行の堀利煕は「函館丸」に試乗して江戸に戻りました。利煕は「函館丸」について速力も十分で暴風雨にも堅牢だったと高く評価しています。

 安政5年(1858年)、続豊治は2隻目のスクーナー建造を開始し、安政6年(1859年)10月に竣工させた。2番船は「亀田丸」と名付けられました。同年11月、竹内保徳は「亀田丸」で江戸に帰還にしました。

 君沢形とは異なる構造をもつ「箱館丸」「亀田丸」は箱館製であることから箱館形と呼ばれるようになりました。安政5年6月には大野藩が同型の「大野丸」を竣工させています。

 「箱館丸」は測量で日本各地を訪れています。このとき測量士として前島密が乗船していました。明治維新後も北海道で使用されましたが明治2年(1869年)9月に樺太で停泊中に暴風雨で大破し焼却処分されました。

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2024年8月16日 (金)

五稜郭の一本松の土饅頭

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 五稜郭公園内に「一本松の土饅頭」と呼ばれる松の木があります。五稜郭タワー側にある二の橋から公園に入ると五稜郭を設計した武田斐三郎の顕彰碑があります。その左側を進みさらに左奥に盛られた土の上に松の木が生えています。これが「一本松の土饅頭」です。

五稜郭の一本松の土饅頭
五稜郭の一本松の土饅頭

「五稜郭史」(片上楽天著、大正10年、1921年)には一本松の土饅頭を合葬地としたこと、伊庭八郎が埋葬されていることが記載されています。また明治32年(1899年)9月に上野東照宮で催された「伊庭八郎を偲ぶ会」において伊庭八郎の墓は土方歳三の墓の近くにあるという出席者の証言があったという記録が残っています。土方歳三の埋葬地には諸説ありますが五稜郭に運ばれて埋葬されたという記録があります。以上のことを勘案すると、この「一本松の土饅頭」に土方歳三と伊庭八郎が埋葬されたことになります。

土方歳三 伊庭八郎<
土方歳三と伊庭八郎

 明治11年(1878年)の土塁工事で多数の遺体が発見され遺体は願乗寺(東川町、本願寺西別院)に移されています。「一本松の土饅頭」は大正15年に発掘調査が行われていますがそのときには遺体は見つからなかったという記録があります。

 「一本松の土饅頭」の場所はこちらです。

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