カテゴリー「史跡」の18件の記事

2025年11月16日 (日)

日本橋の銘板が徳川慶喜の揮毫の理由は

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 東京都の流れる日本橋川に架かる日本橋は徳川家康の全国の街道の整備計画の一環で慶長8年3月3日(1603年4月14日)に建造されました。初代の日本橋は木造の太鼓橋でした。

1830年頃の日本橋の浮世絵(歌川広重作)
1830年頃の日本橋の浮世絵(歌川広重作)

 現在の石造の2連アーチの日本橋が架けられたのは明治44年(1911年)4月3日です。

  【参考】日本橋が石橋になる(1911年4月3日)

石橋の日本橋
石橋の日本橋

 日本橋は国の重要文化財に指定されています。橋の四隅の親柱に掲げられた銘板には「日本橋」と刻まれています。その文字は江戸幕府最後の第十五代征夷大将軍の徳川慶喜が揮毫したものです。

日本橋の銘板(揮毫 徳川慶喜)
日本橋の銘板(揮毫 徳川慶喜)

 本来ならば明治政府の高官が揮毫するところですが、当時の東京市長の尾崎行雄の強い意志で慶喜に揮毫を依頼されました。尾崎は慶喜が戊辰戦争で江戸城の無血開城を選んだことから、江戸が戦火を交えずに東京へ移行できたのは慶喜が屈辱に耐えて恭順の姿勢を貫いたおかげであり東京の恩人にこそ揮毫を依頼するべきと考えたと伝えられています。

 【参考】江戸城の無血開城(慶応4年 1868年4月11日)

尾崎行雄 徳川慶喜
尾崎行雄(左)と徳川慶喜(右)

 慶喜の揮毫は江戸から東京への連続性と平和的な変革を象徴するものとなりました。尾崎東京市長は翌年の1912年に退任、慶喜は2年後の1913年に他界しています。

【関連記事】

隅田川に両国橋が架けられる(1659年12月13日)

隅田川の勝鬨橋が完成(1940年6月14日)

瀬戸大橋が開通(昭和63年 1988年4月10日)

レインボーブリッジの開通日(1993年8月26日)

 

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2025年8月26日 (火)

四稜郭|箱館を見渡すことができた台場

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 四稜郭(しりょうかく)は北海道函館市の五稜郭の北東約3.5 kmの陣川町に位置する稜堡式の台場です。五稜郭があるところよりも約80 m高い場所にあり、七重浜、大森浜、函館港、函館山まで見渡すことができました。箱館戦争の明治2年(1869年)に榎本武揚が率いる旧幕府軍によって五稜郭の支城として亀田山地の麓に広がる舌状台地に建造されたものです。当時、四稜郭の手前の上山村には北海道東照宮があり、東照宮を守護するためのものでもありました。なお東照宮にも台場が設置され権現台場と呼ばれました。

箱館市内地図(箱館戦争当時)
箱館市内地図(箱館戦争当時)

 四稜郭は旧幕府軍の約200名と地元住民約100名が動員され昼夜を問わず突貫工事で数日で急造されたと伝えられています。設計はジュール・ブリュネ、建造の指揮は大鳥圭介が率いていた工兵隊が執ったと考えられています。四稜郭は四つの稜堡を持つ構造で蝶が羽を広げたような形をしており、東西約104m、南北約66mの範囲に、幅5.4m・高さ3mの土塁が築かれ、周囲には幅2.7m・深さ0.9mの空堀が巡らされています。

四稜郭
四稜郭

 内部には建物は建造されず砲台と銃兵足場が設けられた簡単な施設でした。

四稜郭の土塁と砲台(奥の坂になった部分)
四稜郭の土塁と砲台(奥の坂になった部分)

 同年5月11日、新政府軍による箱館総攻撃が始まると新政府軍の岡山藩・福山藩・水戸藩・徳山藩が四稜郭の攻撃を開始しました。松岡四郎次郎が率いる一聯隊が応戦しましたが北側の緩斜面からの攻撃で防衛戦が破られました。権現台場が陥落すると退路を断たれることを恐れ五稜郭へ撤退しました。

 現在、四稜郭は国指定史跡として整備され土塁や空堀が復元されています。入り口には碑と案内版が設置されています。

史跡四稜郭の碑
史跡四稜郭の碑

史跡四稜郭案内版
"史跡四稜郭案内版

 大鳥圭介の案内版には四稜郭、ジュール・ブリュネ、フランス軍事顧問団について開設されています。

四稜郭の大鳥圭介の案内版
四稜郭の大鳥圭介の案内版

 現在は四稜郭の下方には林が広がっており当時のように箱館市街を見通すことはできません。近くの開けたところは確かに市街がよく見えます。五稜郭の箱館奉行所の太鼓櫓は16.5メートルの高さがありましたら四稜角から見える五稜郭は目立っていたと思われます。また太鼓櫓から四稜郭も良く見えたことでしょう。観光地としては五稜郭のように有名ではありませんが箱館戦争に興味がある人は訪れることをお奨めします。

 

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2025年5月 7日 (水)

彫像「若き星たち」(北海道函館市)

 

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 北海道函館市の松前通りを五稜郭の方へ進んでいくと行啓通との交差点に北海道新聞函館支社があります。その前に函館山の方向の空を望むように手をあげている2人の若者の彫像が建てられています。若者は左側の若者は銃を持ち、右側の若者は帯刀しています。この彫像は2002年9月に建立された「若き星たち」です。

彫像「若き星たち」(彫刻 小野寺紀子)
彫像「若き星たち」(彫刻 小野寺紀子)

 彫像の右横に石碑が設置されています。この石碑には「若き星たち 戦火を超えて 若き星ふたつ 未来の空に またたかん」という詩が刻まれています。「若き星たち」は幕末の戊辰戦争の最後の戦闘となった箱館戦争において日本の未来をかけて戦った新政府軍と旧幕府軍の名もなき若き戦士の銅像です。


石碑「若き星たち」(詞 原子修作)
石碑「若き星たち」(詞 原子修作)

 こちらが彫刻「若き星たち」の設置されている場所の地図(Google Map)です。

 

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2025年5月 6日 (火)

五稜郭の2つの櫓|函館奉行所と五稜郭タワー

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 五稜郭公園にある函館奉行所の裏手に回ると奉行所の櫓の向こうに五稜郭タワーの展望台が見えます。展望台も櫓のようなものですから、復元でありながら幕末に建造された函館奉行所の櫓と現代の五稜郭タワーの櫓をこうして一枚の写真に収めるととちょっと感慨深いものがあります。

五稜郭の2つの櫓|函館奉行所と五稜郭タワー
五稜郭の2つの櫓|函館奉行所と五稜郭タワー

 さて箱館奉行所の櫓の高さは16.5メートルです。櫓の中で人が立ったときの目線の高さを15メートルとします。この高さから見渡せる範囲は約14キロメートルです。一方、五稜郭タワーの展望2回の高さは90メートルです。この高さから見渡せる範囲は約34キロメートルになります。

 写真では距離の関係でほぼ同じ高さに写っている2つの櫓ですが見える範囲には大きな差があります。

 計算方法は下記を参照してください。

【参考】東京スカイツリーから見える地平線までの距離

 

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2025年4月20日 (日)

松本城が国宝に指定される(昭和11年 1936年4月20日)

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 松本城は戦国時代にの信濃守護家小笠原氏が松本市の里山辺に林城を築城しときにその支城「深志城」として築城されました。当時は深志城と呼ばれました。林城と深志城は甲斐国の武田信玄の信濃侵攻により天文19年(1550年)7月15日に落城しこの地は武田家の所領となりました。信玄は小笠原長時を追放して林城を破城し、重臣の馬場信治を深志城の城主とし信濃侵攻の足がかりとしました。

松本城
松本城(快晴の日の松本城天守2 2024年9月1日 Author Hiroaki Kikuchi)

 武田氏滅亡後は天正10年(1582年)に織田信長の許しを得て木曽義昌が城主となりました。同年「本能寺の変」で信長が暗殺されると上杉景勝に擁立された長時の弟の小笠原洞雪斎が深志城の城主となりました。しかし洞雪斎は上杉家の傀儡となったことから家臣からの信頼を失い、徳川家康の家臣となっていた長時の三男の小笠原貞慶が深志城を奪還しました。これによって小笠原家は大名に復帰し、貞慶は深志城を松本城と改名しました。

 豊臣政権下では家康が豊臣秀吉により関東へ移封されたことから貞慶の子で松本城主の小笠原秀政も下総国古河へ移りました。松本城には家康のもとを出奔した石川数正が入城し城主となりました。数正は子の石川康長と松本城の天守、城郭、城下町を整備し、現在の松本城の基礎が築かれました。

 江戸幕府では康長が大久保長安事件に関わったとして改易となり、小笠原秀政が再び松本城主となりました。その後、秀政は家督を子の小笠原忠脩に譲りましたが、忠脩は大坂の陣で戦死し、秀政も戦傷により死去しました。松本城には松平康長が入城し松本藩主となりましたが、子の松平庸直が播磨明石に移封されました。以降、松本藩は藩主がめまぐるしく変わりましたが享保10年(1725年)に松平康長の子孫が藩主となり幕末を迎えました。戊辰戦争では新政府軍に帰順しました。

 明治5年(1872年)、天守が競売にかけられ松本城が解体されることになりましたが、地元の有力者の市川量造らが買い戻しました。明治30年(1897年)頃から天守閣が傾き始めると「松本天守閣天主保存会」が設立され寄付金により明治36年(1903年)から大正2年(1913年)にかけて「明治の大修理」が実施されました。

 松本城は昭和5年(1930年)に 国の史跡に指定されました。そして昭和11年(1936年)4月20日に天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓が国宝保存法により国宝に指定されました。昭和27年(1952年)3月29日に文化財保護法の国宝に改めて指定されました。

 第二次世界大戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の美術顧問チャールズ・ギャラガーが解体調査を文部省に勧告し、これによって昭和25年(1950年)から昭和30年(1955年)にかけて「昭和の大修理」が実施されました。

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2025年2月23日 (日)

江戸幕府が蝦夷奉行を設置(享和2年 1802年2月23日)

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 江戸時代、蝦夷地は松前藩が支配をしていましたがあまりにも広大なため統治することはできませんでした。蝦夷地のほとんどは未開地であったことから松前藩の財政は石高を基本とする幕藩体制とは異なりアイヌとの交易によるものでした。このような状況から江戸幕府は問題を抱えながらも蝦夷地の統治は松前藩に任せていました。

 寛政4年(1792年)、ロシアの遣日使節アダム・グラスマンが救出した日本人漂流民の大黒屋光太夫を日本に送り届ける目的で根室に来航しました。光太夫からロシアの南下政策を知らされ北方情勢が緊迫していることを認識した江戸幕府は北方防衛の強化を意識するようになりました。寛政11年(1779年)、江戸幕府は北方警護を強めるため松前藩の領地であった箱館を含む太平洋沿岸および千島列島の東蝦夷地を仮上知し直轄地としました

【参考】大黒屋光太夫がロシア女帝エカテリーナ2世の茶会に招待される|紅茶の日(11月1日)

 享和2年(1802年)2月23日、江戸幕府は箱館に蝦夷奉行を設置し、戸川安論および羽太正養の2名を奉行に免じました。箱館奉行は遠国奉行である長崎奉行に準ずる格式とされました。同年5月、蝦夷奉行は箱館奉行と改称されました。両奉行は享和3年(1802年)より1年交代で箱館に駐在することになり最初に安論が赴任しました。文化元年(1804年)、現在の元町公園にあった道南十二館のひとつで河野政通が築いた宇須岸館(河野館または箱館)の跡地に奉行所が開かれました。

箱館奉行所跡の碑
箱館奉行所跡の碑

【参考】(旧)箱館奉行所跡の碑

 文化元年前後(1804年前後)に斜里山道(斜里越)を改修・開削した八王子千人隊千人頭原胤敦が文化2年(1805年)2月から文化5年(1808年)まで箱館奉行支配調役に任ぜられた。

 文化3年(1806年)と文化4年(1807年)にロシアの使節が日本の北方拠点を攻撃する文化露寇の事件が起きると、江戸幕府は国防体制を強化し、蝦夷地の和人地、西蝦夷地(日本海沿岸、オホーツク沿岸、樺太)を上知しました。箱館奉行を松前奉行と改め奉行所を松前に移転しました。文化6年(1809年)、樺太は西蝦夷地から分離され北蝦夷地に改称されました。ロシアの脅威が収まると文政4年(1821年)に和人地及び全蝦夷地を松前藩に返還され松前奉行は廃止されました。

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2025年1月23日 (木)

坂本龍馬が襲撃される|寺田屋遭難(慶応2年1866年1月23日)

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 慶応2年(1866)年1月21日に薩長同盟が成立。坂本龍馬は同年1月23日に護衛の長府藩士である三吉慎蔵(みよししんぞう)と定宿していた京都伏見の寺田屋に戻りました。龍馬は桂小五郎と西郷隆盛による薩長同盟の成立の顛末を慎蔵に説明し祝杯を交わしたと伝えられています。

  【参考】薩長同盟(1866年1月21日)

坂本龍馬 三吉慎蔵
坂本龍馬(左)と三吉慎蔵(右)

 当時、伏見の京橋は京都と大坂を結ぶ過書船が荷の揚げ降ろしと旅客の乗降をする船着き場として栄えていました。そのため多くの宿屋が建ち並び寺田屋もそのひとつでした。坂本龍馬が寺田屋を定宿とたのは寺田屋が薩摩藩の指定宿だったからです。寺田屋では文久2年(1862)に薩摩藩志士の粛清「寺田屋事件」が起きています。

  【参考】寺田屋事件こと薩摩藩志士粛清事件(1862年4月23日)

 寺田屋には宿を1人で切り盛りする面倒見の良いお登勢という女将がいました。龍馬をはじめとする多くの志士たちがお登勢を懇意にしていました。元治元年(1864年)、龍馬はお登勢に恋仲で身寄りのない楢崎龍を寺田屋で預かってもらうよう頼み込みました。お登勢は龍馬の願いを聞き、お龍はお春という名前でお登勢の娘分となり寺田屋で住み込みで働くことになりました。

寺田屋の女将のお登勢 楢崎龍
寺田屋の女将のお登勢と楢崎龍

 龍馬は文久2年(1862年)に幕府政事総裁職の松平春嶽の紹介により幕府軍艦奉行並の勝海舟と出会っています。龍馬は海舟に心服し海舟が開いた神戸海軍操練所の海軍塾塾頭を努めました。しかしながら倒幕派と尊皇派が対立し幕政が混乱する中で海舟と龍馬の幕府における立場が危うくなりました。海舟の紹介で薩摩藩との関係を深めていた龍馬の行動は問題視されるようになり倒幕派につながる要注意人物と見なされるようになりました。

 慶応2年(1866年)1月23日、龍馬が慎蔵と寺田屋に戻ると伏見奉行所に連絡が入りました。伏見奉行の肥後守の林忠交は龍馬の捕縛を命じ、同日深夜2時頃、伏見奉行所の役人と捕り方が寺田屋を包囲しました。この異変に気がついたのが入浴中のお龍でした。龍馬の危機を悟ったお龍は裸のまま裏階段を駆け上がり2階にいた龍馬と慎蔵に異変を知らせました。伏見奉行所の役人が龍馬が慎蔵に詰問すると2人は薩摩藩士と詐称しました。しかしながら、役人は肥後守の上意として捕り方に龍馬らの捕縛を命じました。

 龍馬は高杉晋作から譲られた拳銃スミス&ウェッソン・モデル2を発砲、慎蔵は手槍を振るって防戦しました。2人は捕り方2名を射殺し数人を殺傷しました。しかしながら多勢に無勢で龍馬は左右の手の親指を切られ拳銃を扱えなくなりました。

ミス&ウェッソン・モデル2
ミス&ウェッソン・モデル2

 慎蔵が必死に防戦しているとお龍が裏木戸に置いてあった大きな石がのった漬物槽を力任せにどかして龍馬らを逃しました。龍馬らは寺田屋を脱出し材木屋に身を隠しました。龍馬が動けなくなると護衛役の慎蔵は責任を感じ切腹しようとしました。しかし龍馬はこれを制止し薩摩藩邸に救援を求めに行くよう命じました。慎蔵はその場に龍馬を残して薩摩藩伏見屋敷に向かいました。

 慎蔵の報告を受けた薩摩藩邸留守居役の大山彦八は藩士3名をつれて川舟で救出に向かいました。これによって龍馬は薩摩藩に救出され九死に一生を得ました。ことの顛末は直ちに京都の西郷隆盛に報告されました。隆盛は薩摩藩士の吉井友実を伏見に派遣し情勢を探らせました。また軍医を薩摩藩邸に派遣し龍馬の治療と警護を命じました。

 翌日、伏見奉行は薩摩藩邸に龍馬の引き渡しを要求しましたが薩摩藩はこれを拒否しました。その後、龍馬とお龍と慎蔵は西郷隆盛の勧めで京都から逃れ薩摩藩の船で大阪から脱出しました。 慎蔵は下関で下船し情勢を報告するため長府藩に戻りました。龍馬はお龍と鹿児島に逃れ隆盛の紹介で湯治などをしながら旅をして過ごしました。この龍馬とお龍の旅が日本人として初めての新婚旅行とされています。龍馬が受けた傷は深く以降の写真撮影では龍馬は左手を隠していることが多いという指摘があります。

 さて寺田屋遭難に新選組が関わったという言い伝えもありますが、これは伏見奉行の林忠交の肥後守と京都守護職の松平容保の肥後守が誤認され、容保の配下の新選組が関与したと誤った説が流布されたものです。龍馬も慎蔵も伏見では新選組に捕縛されておらず嫌疑は受けていませんでした。伏見奉行は薩摩藩士を詐称する浪人が寺田屋に出入りしていることから目を付けたようです。

 第二次長州征討が始まると慎蔵は長府藩の報國隊軍監として高杉晋作指揮のもと長州藩の奇兵隊と幕府軍と戦いました。この戦には龍馬も参加しています。このときお龍は長崎の豪商の小曽根英四郎のもとで過ごしました。第二次長州征討後、龍馬は亀山社中(後の海援隊)の拠点を下関に置きお龍を呼び寄せています。龍馬とお龍は下関での生活を楽しみましたが下関が龍馬とお龍の最後に過ごした場所となりました。

 龍馬は慶応3年(1867年)11月15日に京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋井口新助邸において暗殺されていますが、襲撃は新選組によるものではなく京都見廻組によるものでした。この襲撃は龍馬が「寺田屋遭難」で伏見奉行所の捕り方を殺害したことに対する公務執行とされています。これは箱館戦争後に元京都見廻組今井信郎が自供したものです。

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2025年1月21日 (火)

薩長同盟の六箇条(慶応2年1866年1月21日)

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 慶応2年(1866年)1月21日、薩摩藩が近衛家から借りて小松帯刀が使用していた京都の近衛家別邸御花畑屋敷において薩長同盟が締結されました。近衛家別邸御花畑御屋敷跡には薩長同盟締結の地の記念碑が立てられています。

薩長同盟締結の地の記念碑(近衛家別邸御花畑御屋敷跡)
薩長同盟締結の地の記念碑(近衛家別邸御花畑御屋敷跡)

 近衛家別邸御花畑御屋敷は現存しえおらず薩長同盟締結の地の記念碑は屋敷のあった道端にひっそりと建てられています。

 

 慶応2年(1866年)1月8日、近衛家別邸御花畑屋敷において西郷隆盛と桂小五郎の会談が行われましたが交渉は難航し薩長同盟の締結は困難な状態にありました。このとき坂本龍馬は下関に出かけており同席していませんでした。後日、下関から戻った坂本龍馬は薩長同盟の交渉が暗礁に乗り上げていることを知り桂小五郎にその理由を確認しました。桂小五郎は薩摩藩に頭を下げて譲歩することはこれ以上できないと表明しました。慶応2年(1866年)1月21日、西郷隆盛と小松帯刀は長州に戻ろうとしていた桂小五郎を呼び止め六箇条の条文を提示しました。桂小五郎はその場で条文の内容を確認し薩長同盟の締結を了承しました。このときの出席者は同盟を仲介した坂本龍馬、薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通・島津伊勢・桂久武・吉井友実・奈良原繁、長州藩の桂小五郎・品川弥次郎・三好軍太郎でした。

 薩摩藩から出された六箇条の条文とは会談の内容そのものでありその記録は残っていませんが、後日に桂小五郎が記憶を頼りに書き留めたものです。桂小五郎が書き留めた六箇条は次の通りです。

 一、戦ひと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事

  (戦いが始まったら直ちに2千余りの兵を急いで送り現在京にいる兵と合流させます。大阪にも1千の兵を配置し京都と大阪の両方を守を固めること)

 一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事

  (戦いに勝てそうと有利な兆しが見えたときは朝廷に働きかけて講和を成立させること)

 一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事

  (万一、戦いに負けそうでも1年や半年で決着がつくことはなく、その間も全力で戦うこと)

 一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事

  (もし幕府の兵が東に帰還した際には、直ちに朝廷に訴え速やかに冤罪を晴らすよう全力で尽力すること)

 一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事

  (橋会桑等が現在のような状況で朝廷を利用して正義に従わず調停を妨害した時は決戦に及ばざるを得ないこと)

 一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事

  (冤罪が晴れた後は双方が誠意を持って協力し皇国の皇威の回復を目指して全力を尽くすこと)

 桂小五郎はこの書き留めた六箇条に誤りがないかどうかを慶応2年1月23日付の書簡で坂本竜馬に確認を依頼しています。坂本龍馬は2月5日付で書簡に「表に御記成被候六条は小西両氏及老兄龍等も御同席にて談論せし所にて毛も相違これ無き候、後来といへとも決して変り候事はこれ無きは神明の知る所に御座候」と朱書きした返書を送り会談の内容に相違ないことを伝えています。

坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」
坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」

【関連記事】

薩長同盟(1866年1月21日)

第11話「薩長同盟のゆくえ」|明日なき戦いの果てに

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2025年1月 5日 (日)

(旧)箱館奉行所跡の碑

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 箱館奉行所というと五稜郭公園内の復元された箱館奉行所が有名ですが、五稜郭が築城される前は現在の基坂(函館市元町公園)にありました。現在、元町公園には復元された奉行所はなく跡地を示す碑が立てられています。

箱館奉行所跡
箱館奉行所跡

 ベリー提督の箱館来航後の安政元年(1854年)6月30日、幕府は日米和親条約で開港された箱館に34年振りに奉行所を再置することにし、松前藩から上知した箱館周辺を箱館奉行所管轄の直轄地としました。 

 このとき箱館奉行には幕府の勘定吟味役・海防掛の竹内保徳が就任しました。さらに日露和親条約締結のため国境調査のため樺太・蝦夷地を巡見した堀利煕が就任し2人体制となりました。

竹内保徳と堀利煕
竹内保徳と堀利煕

 箱館奉行所は松前藩箱館奉行詰役所に置かれました。

旧箱館奉行所(松前藩箱館奉行詰役所)
旧箱館奉行所(松前藩箱館奉行詰役所)

 旧箱館奉行所のあった場所は次の地図の左上の御役所と書かれたところです。現在は前述通り「函館市元町公園」の敷地となっています。

  冒頭の箱館奉行所跡の碑はこちらの地図の右上(紫のポインタ)にあります(Google Map)

 

 竹内保徳は箱館奉行所の運用にあたり松前藩箱館奉行詰役所の建物の改装を考えていたようですが、堀利煕はこの地は箱館港湾に近く箱館山から一望できることから防衛上の問題があることを指摘しました。竹内保徳はこれを承認し、2人は箱館湾内からの艦砲射撃が届かない亀田の鍛治村に城を築き箱館奉行を移転する意見書を幕府に提出しました。老中首座の阿部正弘がこれを承認し、こうして五稜郭と箱館奉行所の建設が決まりました。

【関連記事】

五稜郭の箱館奉行所が開所(1864年6月15日)

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

榎本武揚ら旧幕府軍が五稜郭に入城(1868年10月26日)

箱館史跡

(旧)箱館奉行所跡の碑

函館市の実行寺の日仏親善函館発祥記念碑

東浜桟橋(旧桟橋)と北海道第一歩の地碑

函館運上所|税関記念日(1872年11月28日

箱館新選組の屯所の跡地

五稜郭の一本松の土饅頭

弁天台場|新撰組最期の地

異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地

箱館奉行が建造した洋式帆船スクーナー「箱館丸」

五稜郭公園のクルップ砲のおはなし|明日なき戦いの果てに番外編

ペリー会見所跡|マシュー・ペリー提督の箱館来航

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2024年12月 6日 (金)

東浜桟橋(旧桟橋)と北海道第一歩の地碑

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 箱館港(函館港)は北海道と本州とを結ぶ玄関口として古くから利用されていましたが、安政5年(1858年)に日米修好通商条約をはじめとする「安政五カ国条約」により安政6年6月2日(1859年7月1日)に外国との貿易のため開港されました。

 当時の箱館港には大型船が停泊できる岸壁はありませんでした。箱館にやってきた大型船は函館港沖合に停泊し、そこから小型通船が人や貨物を桟橋や桟橋や船揚場まで運びました。当時、箱館に船でやってきた人々が初めて降り立つ場所が「東浜桟橋」(旧桟橋)でした。

東浜桟橋(旧桟橋)と北海道第一歩の地碑
東浜桟橋(旧桟橋)と北海道第一歩の地碑

 東浜桟橋はJR箱館駅から函館山の方へ徒歩約15分の函館市末広町24にあります。この場所には金森赤レンガ倉庫のショッピングモールなどが存在し人気のウォーターフロント観光地となっています。ショッピングモールから西の方に歩いていくと「東浜桟橋」(旧桟橋)と「北海道第一歩の地碑」があります。


北海道函館市末広町24

 北海道函館市末広町24付近は慶応時代から明治初期にかけて埋め立てられた場所で海岸線沿いの道路が造成されました。この場所は東浜町と名付けられ明治4年に箱館港の旅客乗降地として利用されるようになり、やがて長さ9.1メートル、幅3.6メートルの木造の小さな桟橋が「東浜桟橋」が設置されました。箱館港にやってきた多くの旅客がこの小さな桟橋を利用しました。当時の箱館港は北海道の玄関口でしたから本州から北海道に上陸する場所でもありました。初期の青函連絡船の旅客もこの桟橋を利用しました。桟橋前には多数の旅館や商店が建てられ、この付近は昭和初期まで中心市街地でした。

昭和30年代の東浜桟橋(旧桟橋)と旧森屋百貨店(旧金森デパート)
昭和30年代の東浜桟橋(旧桟橋)と旧森屋百貨店(旧金森デパート)

 明治43年(1910年)に函館駅に大型の桟橋が完成すると青函連絡船の乗客は新桟橋を利用するようになりました。東浜桟橋の利用者は激減し、いつの頃からか東浜桟橋は市民の間で旧桟橋と呼ばれるようになりました。旧桟橋はその後も青函連絡船以外の旅客や船員の乗降場所として利用されました。利用者は激減しましたが函館港は北洋漁業の基地港となり時期になると旧桟橋付近は大いに賑わいました。

函館港に集結する北洋漁業船団(昭和37年)
函館港に集結する北洋漁業船団(昭和37年)

 昭和4年(1929年)、旧桟橋は北海道庁から函館市の管理となりました。このときに正式名称が「東浜桟橋」となりました。古い写真には「東濱町桟橋」と書いたものがありますから「東浜桟橋」も通称だったのでしょう。それでも多くの市民は馴染のある旧桟橋という名前で呼び続けました。

 昭和40年代に函館港の岸壁が整理され大型船が埠頭などに着けられれるようになると通船が不要となり「東浜桟橋」はその役割を終えました。現在、「東浜桟橋」は観光地として整備されています。写真は最近の「東浜桟橋」です。観光用人力車が観光地巡りをしているところです。

東浜桟橋(旧桟橋)
東浜桟橋(旧桟橋)

 現在の「東浜桟橋」は昭和34年(1934年)に架け替えられたコンクリート製のものです。平成3年(1991年)にガス灯が設置され夜になると「東浜桟橋」を照らし美しい夜景を見ることができます。

 さて「東浜桟橋」の隣には「北海道第一歩の地碑」があります。昭和43年(1968年)に日本中央競馬会が明治以降に北海道に渡って来た人々が第一歩を踏んだ地を記すモニュメントとして寄贈したものです。モニュメントはヒグマと船のいかりを模したものです。

北海道第一歩の地碑
北海道第一歩の地碑

 碑文には「明治百年を迎えるに当り 此地に記念碑をたてて 開拓に渡道した先人の足跡をしのぶ」とあります。

北海道第一歩の地碑の碑文
北海道第一歩の地碑の碑文

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