箱館新選組の屯所の跡地
幕末に京都守護職を務めた会津藩主の松平容保の預かりとなり京都を警備を担った新選組は慶応3年(1867年)6月に幕臣となりました。
同年10月に第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行うが翌年に旧幕府軍と新政府軍の戊辰戦争が勃発しました。新選組は旧幕府軍として戊辰戦争に参戦しましたが、旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北すると榎本釜次郎の艦隊で江戸に撤退しました。
その後は新政府軍の甲府進軍を阻止する任務につきを甲陽鎮撫隊と名乗り甲州街道から甲府城へ進軍しましたが「甲州勝沼の戦い」で板垣退助が率いる迅衝隊に敗北し江戸に撤退しました。ほぼ解散状態となりましたが近藤勇と土方歳三は新選組の再起をかけて下総国の流山へと移動したが近藤が新政府軍に捉えられて斬首されました。その後、副長の土方歳三が新選組を率いて宇都宮城の戦い、会津戦争などに参戦するが、奥羽越列藩同盟が瓦解すると榎本釜次郎の艦隊に合流し蝦夷地へ向かった。
榎本釜次郎の艦隊は慶応4年(1868年)10月21日に箱館の北、内浦湾に面する鷲ノ木(森町)から上陸し、旧幕府軍は箱館を制圧し同年10月26日に五稜郭へ入城しました。箱館政権で陸軍奉行並を任命された土方歳三率いる箱館新選組は宮古湾海戦や二股口の戦いなどに参戦しましたが新政府軍が箱館に迫ると箱館山山頂を守備するようになりました。
箱館新選組は屯所は称名寺(しょうみょうじ)に置かれました。称名寺は幕末の箱館開港後はイギリスやフランスの仮領事館として利用されました。称名寺は明治12年の函館大火で焼失し函館市船見町18-14に移転しましたがもともとは函館市大町4-6にありました。
現在、この地には函館元町ホテルと蔵宿 屯所の庵があります。
蔵宿 屯所の庵前の「新撰組 屯所」跡地の案内板です。
箱館新選組の組織は下記の通りです。
- 函館新選組局長 土方歳三、大野右仲、相馬主計
- 箱館新選組隊長 相馬主計
- 陸軍奉行並 土方歳三
- 陸軍奉行並添役 大野右仲
- 頭取改役 森常吉、島田魁、角ヶ谷糺
- 改役下役会計頭取 青地源太郎
- 会計方 山崎八蔵
- 土方附属 市村鉄之助、野村利三郎
箱館新選組が守備していた箱館山山頂は新政府軍陸軍参謀の黒田清隆が率いる別動隊による急襲により占領されました。箱館新選組は敗走し弁天台場に入りました。新政府軍が箱館山を占領すると箱館奉行の永井尚志は弁天台場に入り箱館新選組とともに守備を固めた。
次の図は箱館全図 万延元年 函館市中央図書館所蔵です。右下が弁天台場、左側の真ん中あたりに称名寺があります。
こちらは現在の箱館新選組屯所跡地(旧称名寺跡地)の地図(Google Map)です。
箱館新選組屯所跡地(旧称名寺跡地)
箱館政権陸軍奉行並で箱館新選組局長の土方歳三は五稜郭には滞在せず箱館新選組屯所の近くの商家の佐野専左衛門方の万屋「丁サ」を宿所にしていました。土方歳三は宿所と屯所を中心に箱館山山頂や弁天台場をはじめ箱館市内を巡検し五稜郭までの約6キロメートルを馬で通いました。「丁サ」の跡地は別の記事で紹介します。
次は現在の称名寺(北海道函館市船見町18-14)の地図(Google Map)です。ここには「土方歳三と新撰組隊士の供養碑」が建立されています。
現在の称名寺(北海道函館市船見町18-14)
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