カテゴリー「箱館史跡」の7件の記事

2024年9月 6日 (金)

箱館新選組の屯所の跡地

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 幕末に京都守護職を務めた会津藩主の松平容保の預かりとなり京都を警備を担った新選組は慶応3年(1867年)6月に幕臣となりました。

 同年10月に第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行うが翌年に旧幕府軍と新政府軍の戊辰戦争が勃発しました。新選組は旧幕府軍として戊辰戦争に参戦しましたが、旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北すると榎本釜次郎の艦隊で江戸に撤退しました。

 その後は新政府軍の甲府進軍を阻止する任務につきを甲陽鎮撫隊と名乗り甲州街道から甲府城へ進軍しましたが「甲州勝沼の戦い」で板垣退助が率いる迅衝隊に敗北し江戸に撤退しました。ほぼ解散状態となりましたが近藤勇と土方歳三は新選組の再起をかけて下総国の流山へと移動したが近藤が新政府軍に捉えられて斬首されました。その後、副長の土方歳三が新選組を率いて宇都宮城の戦い、会津戦争などに参戦するが、奥羽越列藩同盟が瓦解すると榎本釜次郎の艦隊に合流し蝦夷地へ向かった。

 榎本釜次郎の艦隊は慶応4年(1868年)10月21日に箱館の北、内浦湾に面する鷲ノ木(森町)から上陸し、旧幕府軍は箱館を制圧し同年10月26日に五稜郭へ入城しました。箱館政権で陸軍奉行並を任命された土方歳三率いる箱館新選組は宮古湾海戦や二股口の戦いなどに参戦しましたが新政府軍が箱館に迫ると箱館山山頂を守備するようになりました。

 箱館新選組は屯所は称名寺(しょうみょうじ)に置かれました。称名寺は幕末の箱館開港後はイギリスやフランスの仮領事館として利用されました。称名寺は明治12年の函館大火で焼失し函館市船見町18-14に移転しましたがもともとは函館市大町4-6にありました。

箱館新選組の屯所の跡地(旧称名寺跡地)
箱館新選組の屯所の跡地(旧称名寺跡地)

 現在、この地には函館元町ホテルと蔵宿 屯所の庵があります。

蔵宿 屯所の庵
蔵宿 屯所の庵

 蔵宿 屯所の庵前の「新撰組 屯所」跡地の案内板です。

「新撰組  屯所」跡地の案内板
「新撰組 屯所」跡地の案内板

 箱館新選組の組織は下記の通りです。

  • 函館新選組局長 土方歳三、大野右仲、相馬主計
  • 箱館新選組隊長 相馬主計
  • 陸軍奉行並 土方歳三
  • 陸軍奉行並添役 大野右仲
  • 頭取改役 森常吉、島田魁、角ヶ谷糺
  • 改役下役会計頭取 青地源太郎
  • 会計方 山崎八蔵
  • 土方附属 市村鉄之助、野村利三郎

 箱館新選組が守備していた箱館山山頂は新政府軍陸軍参謀の黒田清隆が率いる別動隊による急襲により占領されました。箱館新選組は敗走し弁天台場に入りました。新政府軍が箱館山を占領すると箱館奉行の永井尚志は弁天台場に入り箱館新選組とともに守備を固めた。

 次の図は箱館全図 万延元年 函館市中央図書館所蔵です。右下が弁天台場、左側の真ん中あたりに称名寺があります。

 こちらは現在の箱館新選組屯所跡地(旧称名寺跡地)の地図(Google Map)です。


箱館新選組屯所跡地(旧称名寺跡地)

 箱館政権陸軍奉行並で箱館新選組局長の土方歳三は五稜郭には滞在せず箱館新選組屯所の近くの商家の佐野専左衛門方の万屋「丁サ」を宿所にしていました。土方歳三は宿所と屯所を中心に箱館山山頂や弁天台場をはじめ箱館市内を巡検し五稜郭までの約6キロメートルを馬で通いました。「丁サ」の跡地は別の記事で紹介します。

 次は現在の称名寺(北海道函館市船見町18-14)の地図(Google Map)です。ここには「土方歳三と新撰組隊士の供養碑」が建立されています。


現在の称名寺(北海道函館市船見町18-14)

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2024年8月26日 (月)

弁天台場|新撰組最期の地

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 安政元年(1854年)3月、日米和親条約で箱館が開港すると幕府は蝦夷地を直轄し6月に箱館奉行所を基坂(元町公園)に設置した。箱館奉行に就任した竹内保徳と堀利煕は基坂の箱館奉行所は箱館港や箱館山に近く防衛に難があるとし艦砲射撃の届かない内陸の亀田の鍛治村への移転を幕府に上申、老中阿部正弘がこれを了承し五稜郭を築城することになりました。このとき箱館湾の防衛のために建造されたのが弁天台場です。弁天台場は五稜郭を設計した武田甲斐三郎によって設計され予算10万両で安政3年(1856年)から元治元年(1864年)にかけて建設されました。

弁天台場(AIカラー化)
弁天台場(AIカラー化)

 弁天台場は将棋の駒のような不等辺六角形の形をしていて周囲は約684メートル、総面積32,340平方メートル、高さ約11メートルの石垣に囲まれていました。石垣には主に函館山で切り出された石が使われました。備前御影石で作られた大手門はアーチ型をしておりトンネル状の通路で内部に通じていました。弁天台場には24ポンド筒50挺が配備される予定でしたが製造設備の準備ができなかったため計画が頓挫しました。箱館奉行は下田沖で沈没したロシアのディアナ号の船員を救出した際にエフィム・プチャーチンが江戸幕府に献上した52挺の大砲の配置を要請しました。海軍からの要請もあったため幕府は24挺を箱館に送りました。

弁天台場入り口付近(AIカラー化)
弁天台場入り口付近(AIカラー化)

 弁天台場は異国船に対して使用されることはありませんでした。実戦に使われたのは戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争においてでした。土方歳三とともに箱館戦争に参戦した新撰組は箱館山の山頂を守備していましたが、箱館山山頂が新政府軍の奇襲により占領されると弁天台場に入りました。弁天台場は奮戦しましたが新政府軍がが箱館市中を占領すると孤立し明治2年(1869年)5月15日に五稜郭に先立ち降伏開城しました。弁天台場は明治30年頃に取り壊され使用されていた石材は函館漁港の護岸建設に使われました。

 弁天台場があった場所は次の地図の右下です。現在は「函館どつく」(函館市弁天町)の敷地となっています。

 「函館どつく」の入り口に弁天台場跡の碑が立っていますが、ここは自転車置き場になっており案内板などは設置されていません。

弁天台場跡の碑
弁天台場跡の碑

 弁天台場の案内板は函館市電の電停「函館どつく前」近くの入船児童公園にあります。公園の中には箱館奉行の永井玄蕃、玄蕃の補佐役で会計奉行の川村録四郎、新撰組の島田魁の案内柱が建てられています。

入船児童公園の入り口
入船児童公園の入り口

 また公園の入り口横に通りに面して弁天台場の案内板と「新選組最後の地」の碑が設置されています。

弁天台場の案内板 「新選組最後の地」の碑
弁天台場の案内板と「新選組最後の地」の碑

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2024年8月22日 (木)

異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地

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 函館市内を走る市電の十字街の電停そばにセブンイレブンがあります。その駐車場に「異国橋」の案内版があります。

「異国橋」案内版(函館市末広町9-14
「異国橋」案内版(函館市末広町9-14)

 「異国橋」は享和元年(1801年)に「栄国橋」として建造されました。「栄国橋」のあった場所は案内版から電車通りに沿ってやや函館駅方面に戻った函館西警察署十字街交番(函館市豊川町7-31)あたりにありました。市電通りに交差する銀座通りにかつてあった掘割に架けられていたのが「栄国橋」です。下記の地図は函館市中央図書館所蔵の箱館全図 万延元年の一部を切り出したものですが中心に「異国橋」を確認することができます。

当時の異国橋付近の地図(箱館全図 万延元年 函館市中央図書館所蔵)
当時の異国橋付近の地図(箱館全図 万延元年 函館市中央図書館所蔵

 次はGoogleストリートビューで市電通りと銀座通りの交差点から見えるセブンイレブン(左端)と交番(右端)で「異国橋」があったあたりです。このあたりは港や歓楽街からも近く古くから商業が盛んでした。「栄国橋」は文字通り国が栄えるに由来し名付けられました。また「永国橋」とも呼ばれたようです。

 安政元年(1854年)の日米和親条約により箱館が開港すると箱館港の築島が外国人居留地に指定され外国人が多く居住するようになり異国情緒漂う地になったことから「異国橋」と呼ばれるようになりました。

 市電の通りを「函館どつく」の方に向かうと新撰組屯所跡や土方歳三が宿にしていた商家の佐野専左衛門方の万屋「丁サ」の跡地を訪れることができます。「函館どつく」はかつて新撰組が守備をした「弁天台場」があったところです。土方歳三は「丁サ」から五稜郭まで約6 kmを馬で通ったそうです。

 土方歳三最期の地はよくわかっていませんが、当時の記録から孤立した弁天台場を救うために出撃して「一本木関門」(函館市若松町34-1)で新政府軍と対峙しここで銃撃を受け絶命したとされます。他の記録では「異国橋」が土方歳三の最期の地と記したものもあります。

 なおセブンイレブンの「異国橋」の案内板の裏側に坂本龍馬像がありましたが青柳町に移転しています。

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2024年8月19日 (月)

箱館奉行が建造した洋式帆船スクーナー「箱館丸」

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 写真の船は函館港西埠頭に展示されている「箱館丸」の復元船です。この復元船は昭和63年(1988年)に開催された青函トンネル開通記念博覧会で建造されました。博覧会後に「箱館丸」の設計と建造に当たった船大工の続豊治の子孫が買い取り函館市に寄贈したものです。

洋式帆船スクーナー「箱館丸」
洋式帆船スクーナー「箱館丸」

 安政元年(1854年)の日米和親条約の締結で箱館は開港されることになりました。幕府は箱館を直轄地とし竹内保徳と堀利煕を箱館奉行に任命しました。箱館奉行は海防と警備強化のため幕府に蒸気船配備を申請しました。

 当時、幕府は下田沖で難破したロシア帝国のエフィム・プチャーチン提督のフリゲート艦「ディアナ」の船員が帰国できるよう伊豆国君沢郡戸田村で洋式帆船「ヘダ」を建造していました。洋式帆船の造船技術を学んだ幕府はこの「ヘダ」を原型とする洋式帆船の製造を開始し君沢形と名付けました。幕府はこの君沢形洋式帆船を箱館に2隻配備し箱館奉行に追加の同型船建造を認めましたが、君沢形の配備までに時間がかかるため箱館奉行は独自に洋式帆船を建造することにしました。

 箱館では開運業を営んでいた高田屋嘉兵衛が活躍した地であり、かつては高田屋の造船所があり船大工もたくさんいました。しかし高田屋の没落により造船所は廃止となり船大工も職を失っていました。

 安政元年(1854年)4月、箱館奉行は高田屋で船大工をしていた仏壇師の続豊治を箱館奉行所異国船応接方従僕に任命しました。豊治が選ばれたのは彼が船大工の職を失っても船舶に興味を持ち続け箱館港に寄港する異国船の構造の調査で捕縛された経験があったからでした。箱館奉行所に採用された後は役人として異国船の調査を続け、調査で得られた経験と知識から安政3年(1856年)に船大工の辻松之丞の造船所で小型船2隻の試作を完成させました。この小型船の完成度を高く評価した箱館奉行は豊治を船大工頭取に任命し洋式帆船の建造を命じました。

続豊治(函館中央図書館)
続豊治(函館中央図書館)

 豊治は箱館の築嶋でスクーナー「箱館丸」の建造を始め安政4年(1857年)7月に竣工させました。進水式には箱館奉行の堀利熈が出席しました。豊治は「箱館丸」の建造の功績により箱館御用船大工棟梁となりました。

 安政4年(1858年)11月24日、函館奉行の堀利煕は「函館丸」に試乗して江戸に戻りました。利煕は「函館丸」について速力も十分で暴風雨にも堅牢だったと高く評価しています。

 安政5年(1858年)、続豊治は2隻目のスクーナー建造を開始し、安政6年(1859年)10月に竣工させた。2番船は「亀田丸」と名付けられました。同年11月、竹内保徳は「亀田丸」で江戸に帰還にしました。

 君沢形とは異なる構造をもつ「箱館丸」「亀田丸」は箱館製であることから箱館形と呼ばれるようになりました。安政5年6月には大野藩が同型の「大野丸」を竣工させています。

 「箱館丸」は測量で日本各地を訪れています。このとき測量士として前島密が乗船していました。明治維新後も北海道で使用されましたが明治2年(1869年)9月に樺太で停泊中に暴風雨で大破し焼却処分されました。

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2024年8月16日 (金)

五稜郭の一本松の土饅頭

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 五稜郭公園内に「一本松の土饅頭」と呼ばれる松の木があります。五稜郭タワー側にある二の橋から公園に入ると五稜郭を設計した武田斐三郎の顕彰碑があります。その左側を進みさらに左奥に盛られた土の上に松の木が生えています。これが「一本松の土饅頭」です。

五稜郭の一本松の土饅頭
五稜郭の一本松の土饅頭

「五稜郭史」(片上楽天著、大正10年、1921年)には一本松の土饅頭を合葬地としたこと、伊庭八郎が埋葬されていることが記載されています。また明治32年(1899年)9月に上野東照宮で催された「伊庭八郎を偲ぶ会」において伊庭八郎の墓は土方歳三の墓の近くにあるという出席者の証言があったという記録が残っています。土方歳三の埋葬地には諸説ありますが五稜郭に運ばれて埋葬されたという記録があります。以上のことを勘案すると、この「一本松の土饅頭」に土方歳三と伊庭八郎が埋葬されたことになります。

土方歳三 伊庭八郎<
土方歳三と伊庭八郎

 明治11年(1878年)の土塁工事で多数の遺体が発見され遺体は願乗寺(東川町、本願寺西別院)に移されています。「一本松の土饅頭」は大正15年に発掘調査が行われていますがそのときには遺体は見つからなかったという記録があります。

 「一本松の土饅頭」の場所はこちらです。

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2024年7月28日 (日)

五稜郭公園のクルップ砲のおはなし|明日なき戦いの果てに番外編

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 北海道函館市の五稜郭公園の園内に2つの大砲が設置されています。この大砲はそのうちのひとつでクルップ砲と呼ばれるものです。 クルップ砲はドイツの製鉄・兵器製造企業のクルップ社が製造した大砲です

クルップ砲(五稜郭公園)
クルップ砲(五稜郭公園)

 18世紀末、鋳鉄はイギリスが世界の需要を独占していました。プロイセンの発明家フリードリヒ・クルップはイギリスの鋳鋼技術を解明するためライン川の畔に小さな水車小屋を建てました。ここで水力を動力として鋳鉄の研究に取り組みましたが鋳鉄技術の解明は困難を極めました。借金を抱えたフリードリヒは困窮し病気となり1826年に39歳の若さで亡くなりました。

 フリードリッヒの研究は長男のアルフレート・クルップが引き継ぎました。このときアルフレートは若干14歳でした。アルフレートは従業員とともに鋳鋼の研究を続け、ついに父が果たせなかった鋳鉄技術の解明に成功しました。クルップが最初に取り組んだのは工具、ナイフやスプーンの食器の製造でした。やがて貨幣の鋳造機や鉄道車輪の製造を行うようなりました。1830年代に大量の鉄道車輪を受注すると本格的に鉄道事業に乗り出し大成功を収めました。

アルフレート・クルップ
アルフレート・クルップ

 この頃、フランスをはじめヨーロッパ各地で革命戦争が起こりはじめました。クルップは武器の製造に着手し、1840年代に銃や大砲の製造を始めました。クルップはプロセイン陸軍に大砲を売り込みましたが相手にされませんでした。そこでクルップは宣伝のためにプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に大砲を献上しました。大砲は王宮に展示され大いに注目されました。クルップは1851年にロンドンで開催された第1回万国博覧会に大砲を出展し金賞を受賞しました。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の後を継いで国王となったヴィルヘルム1世はクルップに大砲を大量に注文しました。このとき首相のオットー・フォン・ビスマルクがクルップを訪れています。ビスマルクは軍事力を重視し1862年に「現在の大問題は演説や多数決ではなく、鉄と血でこそ解決される」という熱血演説をしています。高性能な大砲や銃を作るには純鉄が必要であると考えたのです。クルップはビスマルクと意気投合しました。ビスマルクは高品質の純鉄を製造するため物理学者に鉄の温度を測定する方法を研究させています。この研究の成果は後に量子力学につながります。

プロイセン首相時代のオットー・フォン・ビスマルク
プロイセン首相時代のオットー・フォン・ビスマルク

 クルップの大砲は成功を収め各国からも注文されるようになりました。人々は節操のない商売重視のクルップを大砲王と呼ぶようになりましたが、クルップが製造した大砲と鉄道車輪はプロセイン王国の近代化を推し進め普仏戦争での勝利を導きました。クルップは1867年のパリ万国博覧会に巨大な大砲を出展しています。

クルップ砲(「1867年パリ万博出品)
クルップ砲(「1867年パリ万博出品)

 この頃、日本の榎本武揚はオランダに注文した開陽丸を引き取るためオランダに留学していました。この期間中に榎本武揚と赤松則良はクルップを訪れ開陽丸に搭載する大砲を注文しています。開陽丸には16 cm鋳鋼施条前装砲(前装式施条砲)が18門搭載されていますがこれがクルップ砲です。

オランダ留学中の榎本武揚
オランダ留学中の榎本武揚

 五稜郭公園に展示されているクルップ砲は昭和7年(1932年)の七重浜の埋め立て工事のときに発見されました。全長2.85メートル、重量1トン、射程距離は3000メートルに及ぶももので新政府軍の朝陽丸に搭載されていたものと考えられています。

朝陽丸(遊撃隊起終並南蝦夷戦争記 附記艦船之図)
朝陽丸(遊撃隊起終並南蝦夷戦争記 附記艦船之図)

 朝陽丸は箱館政権軍の蟠竜丸(松岡磐吉艦長)の砲撃で轟沈しました。七重浜付近で沈没した軍艦は朝陽丸のみのためこのクルップ砲は同艦のものと考えらています。

蟠竜丸(手前)と轟沈する朝陽丸(奥)
蟠竜丸(手前)と轟沈する朝陽丸(奥)

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2024年6月23日 (日)

ペリー会見所跡|マシュー・ペリー提督の箱館来航

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カテゴリ:箱館史跡 幕末から明治初期に箱館で起きた史実に関係する史跡を紹介します。

 マシュー・ペリー提督が率いる黒船艦隊が浦賀沖に現れたのは嘉永6年6月3日(1853年7月8日)です。ペリーはアメリカ合衆国第13代大統領ミラード・フィルモアが日本に開港と通商を求める親書を幕府に渡す目的で日本にやってきました。幕府から久里浜に上陸を認められたペリーは同年6月6日に浦賀奉行と会見を行いました。親書を受け取った幕府は将軍徳川家慶が病で決断できる状態にないことから返事に1年間の猶予が欲しいことを伝えた。ペリーはこれを了承し1年後に再来日すると6月12日に江戸を離れた。

 ペリーが離日して10日後、将軍家慶が死去した。この事実を知ったペリーは半年後の嘉永7年(1854年)1月に再来日した。ペリーは圧倒的な軍事力のもと砲艦外交を行い、幕府は同年3月3日に日米和親条約を締結し伊豆の下田と蝦夷地の箱館が開港された。

 ペリーが箱館に視察に訪れたには4月21日。このときペリー迎えたのは松前藩だった。松前藩とペリーの会見は箱館弁天町の豪商・山田屋寿兵衛の屋敷で行われた。

山田屋寿兵衛の屋敷での松前藩とペリー提督の会見
山田屋寿兵衛の屋敷での松前藩とペリー提督の会見

 幕府は松前藩に箱館開港は知らせていたものの日米通商条約締結は伝えていなかった。松前藩が条約の内容を把握したのは米国から提示された条文を見たときである。松前藩は函館港の取り決めについて権限がないことを理由に交渉を断った。ペリーは5月8日に箱館を出港し下田で幕府と協議をすることにした。

 ペリー会見所跡は〒040-0051 北海道函館市弁天町15-7に史跡があり案内板が設置されています。かつては次の写真のように標柱が建てれていましたが現在は標柱の後ろの建造物が建て替えられており標柱も撤去されています。

ペリー提督会見所跡
ペリー提督会見所跡

 ペリー会見所跡をGoogle Mapで示しました。案内板以外には何もありませんが函館山を観光したときに歩いていける距離です。港の方には「箱館丸」の復元船の展示もあります。電車通り沿いに函館駅の方へ向かうとペリー提督来航記念碑のあるペリー広場があります。

ペリー会見所跡(〒040-0051 北海道函館市弁天町15-7)

 リンクをアクセスするとGoogleストリートでも確認できます。

【関連記事】

第4話「マシュー・ペリー箱館へ」|明日なき戦いの果てに

函館と黒船と日本最古の写真の関係

函館とホタテ貝と黒船ペリー提督の関係

ペリー提督日本遠征記 (角川ソフィア文庫)

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