カテゴリー「戦国時代」の11件の記事

2026年1月23日 (金)

大阪冬の陣で大阪城の堀の埋立工事完了(1614年1月23日)

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると豊臣政権は秀吉の独裁的な政治体制から豊臣秀頼を徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、前田利家、宇喜多秀家からなる五大老と浅野長政、前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家からなる五奉行が支える政治体制となりました。しかしながら、五大老、五奉行の間で政治的抗争が起こりました。慶長5年(1600年)に「関ヶ原の戦い」で徳川家康が率いる東軍が石田三成率いる西軍を打ち破ると、豊臣家の所領は220万石から65万7千400石に減封となりました。

 慶長8年(1603年)に徳川家康は征夷大将軍に任命され江戸幕府を開くと豊臣政権は名実ともに終焉しましたが秀頼は淀君とともに大阪城を居城としていました。家康は徳川家を頂点とする政権作りを始め、豊臣家に対し服属を求めました。家康の主君筋にあたる豊臣家は秀吉の威光による別格的存在を主張したため家康は豊臣家を滅ぼすことを考え始めました。そして家康は方広寺鐘銘事件をきっかけに慶長19年(1614年)に豊臣家を攻め「大坂冬の陣」を起こしました。

 【参考】方広寺鐘銘事件から大阪の陣へ(1614年10月1日)

 「大阪冬の陣」では豊臣家は真田信繁(幸村)が真田丸を築いて奮戦し徳川軍を翻弄しましたが、淀君は秀頼の出陣を許さず籠城を決めました。徳川軍は大筒で大阪城への攻撃を開始、難攻不落の大阪城も無残な姿となりました。徳川軍も兵糧不足となり冬季の戦で軍が疲弊しているため家康は豊臣家に和議を求めました。豊臣家もこれに応じ双方で講和条件について交渉を重ね同年12月20日に和議が成立しました。

大坂冬の陣図屏風の大阪城
大坂冬の陣図屏風の大阪城

 【参考】大阪冬の陣の和議成立(1614年12月20日)

 講和条件により大坂城は本丸を残して二の丸と三の丸を破壊、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めることになりました。幕府は大阪城の三の丸の外堀を完全に埋めた後、さらに二の丸の内堀の埋め立てを開始しました。

惣構、三の丸、二の丸を破却することになり、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城はついに落城し、豊臣氏は滅亡した。

【参考】大阪冬の陣の和議成立(1614年12月20日)

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年9月15日 (月)

「関ヶ原の戦い」で徳川家康が勝利(慶長5年 1600年9月15日)

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 慶長5年(1600年)9月15日、美濃国(現在の岐阜県)関ヶ原で天下分け目の「関ヶ原の合戦」で徳川家康が率いる東軍が石志田三成を中心とする西軍に勝利しました。西軍の小早川秀秋の裏切りによりわずか半日で決着がついたこの戦いは日本の歴史を大きく動かし織田信長と豊臣秀吉が築いた安土桃山時代を終焉させました。

関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)
関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)

 家康は「関ヶ原の戦」の勝利によって圧倒的な政治的影響力を手にしました。慶長8年(1603年)2月12日に右大臣ならびに征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きました。

【参考記事】徳川家康が征夷大将軍に就任(1603年2月12日)

 家康は征夷大将軍職を徳川家の世襲とするため慶長10年(1605年)に徳川秀忠に家督を譲りました。家康は徳川家に臣従しない豊臣家を処分することを考え始め、方広寺鐘銘事件を理由として豊臣家征伐の行動を始め慶長19年(1614年)「大坂の陣」を起こしました。慶長20年(1615年)、大坂の陣で豊臣氏を滅亡させ江戸幕府が日本を統治する幕藩体制の築きました。

【参考記事】方広寺鐘銘事件から大阪の陣へ(1614年10月1日)

【参考記事】大阪冬の陣の和議成立(1614年12月20日)

【参考記事】豊臣秀頼の自刃で大坂夏の陣が終結(慶長20年 1615年5月8日)

【参考記事】江戸幕府が一国一城令を制定(慶長20年 1615年閏6月13日)

 関ヶ原の戦い、大坂の陣を経て戦国の世が終わり約260年に渡る徳川家による江戸時代が始まったのです。

江戸城登城風景図屏風
江戸城登城風景図屏風

【関連記事】

天下を勢力図を塗り替え奇襲作戦|桶狭間の戦い(1560年5月19日)

松平家康が徳川家康に改名し従五位下三河守に(1566年12月29日)

三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなった夏目廣次(吉信)(1572年12月22日)

 

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年9月10日 (水)

武田信玄と上杉政虎(謙信)の一騎打ち(永禄4年 1561年9月10日)

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 永禄四年(1561年)9月9日、武田信玄と上杉将虎(謙信)が幾度となく雌雄を決してきた川中島の合戦の最大の激戦となる第四次合戦が開戦した。

信州川中嶋合戦之図(故人春亭画 応需広重模寫)
信州川中嶋合戦之図(故人春亭画 応需広重模寫)

 第四次合戦では武田軍約2万と上杉軍訳1万3千の軍勢が対峙しにらみ合いが続きました。信玄は軍師の山本勘助が提案した作戦「啄木鳥戦法」を採用しました。この作戦は武田軍を本隊と別働隊の二手に分け、別働隊が妻女山に布陣する上杉本陣を奇襲をかけ八幡原へ追い落としたところを本隊が迎え撃つというものでした。しかし、政虎は海津城からの炊煙がいつもより多量だったことから武田軍の動きを察知し、闇夜に乗じて息を潜めるように全軍を妻女山から下山させ「鞭声粛々、夜河を渡る」と詠われたように千曲川を静かに渡りました。そして上杉軍は深い霧が立ちこめる中、武田軍の本陣へと静かに迫りました。

 9月10日朝、霧が晴れると武田軍本陣の前に突如として上杉軍が現れました。不意をつかれ武田軍は驚愕し、上杉軍は車懸りの陣で武田軍本陣を急襲しました。武田軍は鶴翼の陣で応戦しましたが上杉軍の勢いに圧され武田信繁や山本勘助など多くの重臣が討ち死にし武田軍は壊滅寸前まで追い詰められました。

 このとき政虎は先陣を切って武田本陣に突撃し信玄と対峙したと伝えられています。政虎は床几に座った信玄に馬上から馬上から太刀を振るいました。信玄は立ち上がって軍配で受け止めました。政虎は三度に渡って信玄に斬りかかりましたが、原虎吉が槍で応戦し政虎を追い払いました。

武田信玄と上杉政虎(謙信)の一騎打ち(川中島の合戦 第四次合戦)
武田信玄と上杉政虎(謙信)の一騎打ち(川中島の合戦 第四次合戦)
(Microsoft Copilotで生成)

 やがて武田軍の別働隊が八幡原に到着すると戦況は武田軍が優勢となり上杉軍は奮戦するも八幡原から撤退していった。この第四次合戦は信玄と政虎の一騎打ちを含む最大規模の死闘となりました。両軍とも多くの犠牲者を出し明確な勝敗は定まりませんでしたが後世に語り継がれる戦となりました。

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年5月19日 (月)

天下を勢力図を塗り替え奇襲作戦|桶狭間の戦い(1560年5月19日)

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 天文21年(1552年)3月3日、尾張国を支配する織田信秀が死去すると嫡男の織田信長が家督を継ぎ織田弾正忠家の後継者となりました。家督を継いだ信長は尾張を平定していきますが、三河との国境の要地である鳴海城と笠寺城を守る山口教継が今川軍に投降していたことから尾張国内に今川家の城が存在していました。とりわけ尾張東南の大高城と沓掛城は尾張中心部と海運の要地であった知多半島を分断する位置にあり織田家にとって邪魔な存在でした。織田家を安定させた信長はそれら今川家の城を攻略し始めますが、三河を支配する今川義元にとって信長の動きは目障りなものでした。

織田信長 今川義元
織田信長と今川義元

 永禄3年(1560年)5月12日、義元は2万5千人の大軍を率いて駿府を出陣し尾張に侵攻しました。義元の出陣の目的は上洛と言われますが近年の研究では織田家の城を駆逐して三河の安定を図るのが目的だったと考えられています。義元は三河勢の松平元康(後の徳川家康)の隊を先行させ大高城に兵糧を運び込ませました。織田方は軍議を開きましたが雑談をするだけの信長に家臣たちは失望しました。家老たちは籠城を進言しましたが信長は出陣の考えを秘匿し動きませんでした。

 5月19日午前3時頃、今川軍の松平元康と朝比奈泰朝の部隊が織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を仕掛けると、信長は飛び起きて「敦盛」舞い出陣の準備を始めました。午前4時頃、清洲城を出て熱田神宮で軍勢を整え戦勝祈願を行いました。今川軍の勢いは止まらず織田方の城を制圧していきました。織田軍は今川軍が桶狭間山に本隊を布陣させている情報を得て進軍を始めました。

  【参考】幸若舞「敦盛」の話と人間五十年の意味

 午後1時頃、突然豪雨が降り始め視界が不良となりました。織田軍はこの雨に乗じて義元本隊に奇襲を仕掛けました。突然の奇襲により今川軍は混乱し義元は300名ほどの旗本とその場を逃れました。しかし織田軍の度重なる攻撃により義元は手勢を次第に失いついに織田軍に追いつかれてしまいました。

尾州桶狭間合戦(歌川豊宣)
尾州桶狭間合戦(歌川豊宣)

 義元は太刀を抜いて自ら奮戦しまし一番槍をつけた服部一忠に反撃するも毛利新介によって組み伏せられ討ち取られました。 総大将の義元の討ち死ににより今川軍は戦意を喪失し、信長は桶狭間の戦いに勝利しました。この戦がきっかけとなり織田信長が台頭、天下の勢力図が大きく塗り替えられることになりました。

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年3月16日 (日)

長尾景虎が関東管領となり上杉政虎に改名(永禄4年 1561年閏3月16日)

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 天文17年(1548年)12月、長尾景虎は19歳で長尾家の家督を継ぎ越後守護代となりました。天文19年(1550年)2月、越後守護の上杉定実が後継者を立てないまま死去すると、は室町幕府第13代将軍・足利義輝は景虎に越後守護を代行を命じました。これによって景虎は越後の国主となりました。その後、景虎の家督相続に不満をもった坂戸城主の長尾政景が謀反を起こしましたが景虎はこれを鎮圧し越後統一を果たしました。

上杉謙信(上杉輝虎)
上杉謙信(上杉輝虎)

 天文21年(1552年)1月、関東官僚の上杉憲政は相模国の北条氏康に攻められ領国を追われたことから景虎のもとに身を寄せました。これにより長尾家は北条家と敵対関係になりました。同年、甲斐国の武田晴信が信濃に侵攻しすると、景虎は救いを求めてきた信濃守護の小笠原長時および村上義清を支援しました。これにより長尾家は武田家と敵対関係になりました。同年9月、景虎は上洛を果たし後奈良天皇および足利義輝に謁見、天皇から御剣と天盃を下賜され、敵を討伐する勅命を受ました。景虎は晴信討伐を決意し自ら信濃国に出陣しました。これが「川中島の戦」のはじまりです。

 永禄2年(1559年)5月、景虎は再び上洛し正親町天皇や足利義輝に拝謁しました。景虎を高く評価していた義輝は室町幕府再興のため景虎を地方の大名でなく管領並の待遇をし「上杉の七免許」を与えました。「上杉の七免許」は「山内上杉家の家督」「関東管領職」「屋形号」「五七桐の紋」「裏書御免」「塗輿御免」「白傘袋・毛氈鞍覆の使用許可」という破格の特権でした。

 永禄3年(1560年)5月19日、今川義元が「桶狭間の戦い」で織田信長に討ち取ると、武田・北条・今川の甲相駿三国同盟が弱体化し、景虎は北条氏康の討伐を決断し関東へ侵攻しました。北条の支城を攻略し厩橋城を拠点とし関東の諸将に北条討伐の号令を下しました。

 永禄4年(1561年)閏3月16日、長尾景虎は鎌倉の鶴岡八幡宮において山内上杉家の家督と上杉憲政の関東管領職を相続し「政」の字を受けて上杉政虎と改称しました。政虎は後に将軍の足利義輝より「輝」の字を受けて上杉輝虎と名乗りました。謙信はその後に称した法号ですが、上杉輝虎よりも上杉謙信の名の方が広く知られています。

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年1月28日 (火)

天正遣欧少年使節が長崎港を出港(天正10年 1582年1月28日)

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 イエズス会司祭のアレッサンドロ・ヴァリニャーノは1573年にイエズス会東インド管区の巡察師に任命されインドや中国をはじめとする東洋での宣教活動の視察を命じられました。ヴァリニャーノが東洋の東端の島国である日本の肥前国口ノ津港(長崎県南島原市)に到着したのは天正7年(1579年)7月25日です。ヴァリニャーノは巡察師として日本各地を訪れ既にキリシタン大名であった大友宗麟や高山右近と謁見しました。天正9年(1581年)には織田信長に謁見していますが、このとき黒人に興味をもった信長に黒人奴隷を献上しています。この黒人は弥助と名付けれれ本能寺の変で信長が暗殺されるまで仕えました。

イエズス会司祭 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
イエズス会司祭 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

 当時、日本における布教はポルトガル人準管区長のフランシスコ・カブラルが担当していました。日本人に対する偏見が強かったカブラルは日本人の司祭や修道士の育成は必要ないと考えていました。ヴァリニャーノはカブラルのやり方では日本での布教は進まないと考えカブラルに改善を要求しましたがカブラルが従わなかったため天正10年(1582年)にカブラルを辞職させました。

 日本人を高く評価していたヴァリニャーノは日本人の司教と修道士を育成し、日本人の文化に適応させた宣教活動を行わせる方針を採っていました。司祭育成のため天正8年(1580年)には肥前有馬(現:長崎県南島原市)と近江安土(現・滋賀県近江八幡市安土町)にセミナリヨ(小神学校)を設立しています。これを足がかりに同年に豊後臼杵にノビシャド(修練院)、天正9年(1581年)に豊後府内(現:大分県大分市)にコレジオ(大神学校)を設立しています。当時の九州地区はキリシタン大名の大友宗麟の庇護のもとで日本におけるキリスト教布教の拠点として多くの宣教師と信者がいました。

 ヴァリニャーノの活躍によって日本におけるイエズス会の信者は急増しましたが、すべての施設で多額の資金が必要となり財政難に陥りました。長崎を支配していた大村純忠がキリシタン大名に改宗すると長崎港で南蛮貿易を行う権利を獲得しました。これにより財政は改善しましたがローマの本部は長崎の支配を一時的にするよう厳重に注意しました。ヴァリニャーノは巧に知らぬふりをして貿易を続け、長崎港はイエズス会の管理下となり要塞化されていきました。

 ヴァリニャーノはローマ教皇やスペインとポルトガルの国王に日本における宣教活動を理解してもらい経済的、精神的な支援を要請することにしました。また日本人の信者にヨーロッパのキリスト教世界を見聞させ布教に役立たせようと考えました。そのため大村純忠に天正遣欧少年使節の派遣を提案しました。大村純忠はこの提案を受け入れました。

 天正遣欧少年使節に選ばれたのは肥前有馬のセミナリヨで学ぶ13~14歳の4人の少年でした。主席正使および大友宗麟の名代として伊東マンショ(伊東満所)、正史および大村純忠の名代として千々石ミゲル(千々石 紀員)、副使として中浦ジュリアン(中浦寿理安)、副使として原マルティノの4名が天正遣欧少年使節としてローマに赴くことになりました。またヴァリニャーノをはじめとするイエズス会神父や印刷技術を学ぶ日本人など8名が髄員として選ばれました。

天正遣欧使節の肖像画
天正遣欧使節の肖像画

 天正10年(1582年)1月28日、天正遣欧少年使節は長崎港からローマへ向かって旅立ちました。中国のマカオ、マレーシアのマラッカ、インドのコチンとゴアに寄港しました。ヴァリニャーノはゴアに残り別行動となりました。

 天正12年(1584年)7月5日にポルトガルのリスボンに到着しました。ここでアルベルト・アウストリア枢機卿の王宮に招かれました。同年10月23日にはスペインの首都マドリードで国王フェリペ2世に歓迎されています。

 天正13年(1585年)1月30日、イタリアのリヴォルノに到着。同年2月1日にピサに到着しトスカーナ大公国のピサ宮殿でトスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見後、大公妃ビアンカ・カッペッロ主催の舞踏会に参加しました。ピサの斜塔や大聖堂のあるドゥオモ広場を訪れた記録が残っています。ピサではカヴァリエーリ広場のサント・ステファノ・デイ・カヴァリエーリ教を訪れ聖ステファノ騎士団と会見しています。

 その後、フィレンツェに立ち寄り同年2月22日にローマでローマ教皇グレゴリウス13世に謁見しました。このとき天正遣欧少年使節にローマ市民権が与えられました。同年4月2日、グレゴリウス13世の後を継いだシクストゥス5世の戴冠式にも出席しています。

 同年5月6日、天正遣欧少年使節はローマを出発しヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノなどを訪問しポルトガルに戻りました。天正14年(1586年)2月25日、欧州での目的を果たした一行はリスボンを出港し日本に向けて出港しました。同年4月23日、インドのゴアに到着しここでヴァリニャーノに再会しています。帰路途上に使節を派遣した大村純忠が天正15年(1587年)5月18日に病死、大友宗麟が天正15年5月23日に死去しました。

 同年6月19日、九州を平定した豊臣秀吉は長崎がイエズス会により要塞化され、長崎港からキリスト教信者以外の日本人が奴隷として連れ去られていることを知りキリスト教宣教と南蛮貿易を禁ずる「バテレン追放令」を出しました。「バテレン追放令」により一行は日本に入国できなくなりましたが帰国が許され天正18年(1590年)6月20日) に長崎に到着し帰国しました。

 天正19年(1591年)閏1月8日、天正遣欧少年使節は聚楽第で豊臣秀吉に謁見しました。このときフランスの作曲家ジョスカン・デ・プレの楽曲の演奏を披露しました。秀吉は彼らを高く評価し特に伊藤マンショには仕官を勧められましたがキリスト教司祭になるためこれを断り、その後はイエズス会に入会しキリスト教を学び布教活動を行いました。

 この天正遣欧少年使節の派遣はヨーロッパで日本が広く知られるようになるきっかけを作りました。また印刷技術を学んだ彼らはグーテンベルク印刷機を日本に持ち帰り日本で初めて活版印刷を行いました。この印刷物はキリシタン版と呼ばれました。一方で、豊臣政権、その後に開かれた江戸幕府はキリスト教に厳しい施策を進めるようになります。青年となった4人の前途は多難なものとなりました。

【関連記事】

フランシスコ・ザビエルが来日(1549年7月22日)

日本初のクリスマス(1553年12月24日)

日本二十六聖人が列聖(1862年6月8日)

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2024年12月29日 (日)

松平家康が徳川家康に改名し従五位下三河守に(1566年12月29日)

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 徳川家康は岡崎城主松平広忠の嫡男として天文11年(1542年)12月26日に生まれました。母は緒川城主水野忠政の娘の大子(於大の方、伝通院)です。幼名は竹千代で幼少期は人質として織田家に預けられました。広忠が死去すると義元は松平家が支配していた西三河地域を今川家の所領とするため織田家に人質として取られていた広忠の嫡男の竹千代を取り戻すことにしました。義元は人質としていた織田信秀の庶長子の織田信広との人質交換により竹千代を自分の人質としました。竹千代は駿府城に送られ岡崎城には今川家臣が城代となりました。竹千代は松平家の家督を継承しましたが岡崎城には入れず今川家で過ごしました。

徳川家康
徳川家康

 竹千代は天文24年(1555年)3月に14歳で今川家し今川義元より偏諱「元」の字を受けて次郎三郎元信と名乗り、以降は義元の配下となりました。その後、義元の姪とされる築山殿を正室としたことから今川一門に準ずる家臣となりました。弘治4年(1558年)頃に祖父の松平清康の名の一字「康」をとり元康と改めました。

 永禄3年(1560年)5月、義元は尾張侵攻を開始します。このとき元康が上洛の途上で織田信長討伐に向かったという説がありますが義元が上洛のための外交工作をしていた形跡がないことから尾張侵攻は織田家を滅ぼして所領を広げるのが目的だったと考えられます。松平元康は尾張侵攻の先鋒を任され今川方の大高城に兵糧を運び込むことを命じられました。大高城は織田軍に取り囲まれていましたが元康は5月18日に織田方の鷲津砦と丸根砦の間を突破し兵糧を届けました。5月19日に元康の軍は丸根の砦を攻め落とすことに成功、鷲津砦も今川家臣の朝比奈泰朝によって攻め落とされました。

 窮地に立たされた織田信長は自らが出陣し5月19日昼に桶狭間において今川義元を急襲し討ち取ることに成功しました。織田家臣の水野信元は大高城を守っていた甥の元康に使者を送り義元の戦死と織田軍の来襲に備えて退去するよう伝えました。元康は間者を出して今川軍が「桶狭間の戦」で敗れたことを確認したのちに大高城から退去しました。そして今川軍が退去した岡崎城に23日に入城しました。

 桶狭間の戦いの後、元康は三河の今川軍を率いて織田軍と対峙していました。しかし今川氏真が元康の支援を後回しにて長尾景虎(上杉謙信)と対峙する武田信玄と北条氏康の支援を優先したため織田家と和睦して独立することを考えるようになりました。永禄4年(1561年)、元康は伯父の水野信元の仲介で信長と「清洲同盟」を結び今川氏と断交しました。

 永禄6年(1563年)7月6日、元康は今川義元の「元」の字を捨て諱を家康と改め花押を変更しました。家康は今川家との決別を明確にしたものです。家康が「家」の字を選んだのは平安時代に活躍した武士の源義家を尊敬していたからという説、生母の於大の方の再婚相手の久松長家から偏諱を得たという説がありますが定かではありません。

 永禄7年(1564年)、今川氏真が家康討伐を表明すると三河一向一揆などが勃発しました。元康は抵抗勢力を鎮圧し永禄9年(1566年)までに東三河・奥三河を平定し三河国を統一しました。そして永禄9年(1566年)12月29日、松平家康は正親町天皇の勅許を得て姓を徳川に改名し徳川家康を名乗り従五位下三河守に叙任されました。

 松平家は清康の時代から新田氏支流世良田氏系統の清和源氏を自称していましたが、正親町天皇は世良田源氏の三河守任官は前例がないとして叙任を認めませんでした。家康は三河国出身の京誓願寺住持だった泰翁を通じて近衛前久に相談しました。前久は清和源氏新田氏の一族で源氏から藤原氏支流へ分流した得川氏が存在することに目を付け、得川氏の末裔として徳川へ「の改姓と藤原氏への本姓変更により従五位下三河守に叙任されるよう話を進めました。 この勅許により徳川姓を名乗のったのは家康のみでした。家康は徳川姓を松平氏一族や家臣の統制に利用しました。関ヶ原の戦いの勝利後、徳川家康は征夷大将軍に就任するにあたり吉良家の系図を利用し徳川氏は世良田氏直系の源姓で得川氏を復活した氏族とし本姓を藤原氏から源氏に戻しています。

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2024年12月20日 (金)

大阪冬の陣の和議成立(1614年12月20日)

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川の江戸幕府が豊臣家の大阪城を攻めた大阪の陣は 慶長19年(1614年)11月19日に「木津川口の戦い」を皮切りに開戦しました。

 【参考】方広寺鐘銘事件から大阪の陣へ(1614年10月1日)

 この戦は「大阪冬の陣」として知られています。「大阪冬の陣」では真田信繁(幸村)が真田丸を築いて奮戦し徳川軍を翻弄しましたが、徳川軍はカルバリン砲、セーカー砲、半カノン砲などの長距離砲の大筒で大阪城への攻撃を開始しました。難攻不落と言われた大阪城も砲撃を受けて無残な姿となりました。

「諸国古城之図」摂津 真田丸
「諸国古城之図」摂津 真田丸

 真冬の戦いであったことと豊臣家の兵糧買い占めにより徳川軍では兵糧不足が生じていました。そこで徳川家康は同年12月より織田有楽斎を通じで豊臣家と和議を結ぶ交渉を始めました。豊臣家も籠城により兵糧と弾薬が不足していたため和議に応じるしかありませんでした。交渉は条件の折り合いで難航しましたが徳川軍の砲撃が大阪城本丸を直撃し淀殿の侍女8名が死亡したことにより、淀殿は16日に和議に応じることを決めました。豊臣家は朝廷に働きかけ、朝廷から後陽成上皇の命による徳川家康に対する和議が勧告されまたが、家康はこれを拒否して徳川幕府主導での交渉を進めました。

徳川軍が用いたカルバリン砲と半カノン砲
徳川軍が用いたカルバリン砲と半カノン砲

 徳川幕府と豊臣家の交渉は徳川軍の京極忠高の陣で18日から始まりました。幕府からは家康側近の本多正純と家康側室の阿茶局、豊臣家からは淀殿の妹で忠高の義母の常高院との間で交渉が行われ翌19日に講和条件が整いました。20日に誓書が交換され和議が成立しました。和議の条件として、本丸を残して二の丸と三の丸は破壊、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めること、淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと、秀頼の身の安全と本領の安堵、城中諸士に対しての不問、秀頼と淀君の関東下向無用が決められました。

【関連記事】

徳川家康が征夷大将軍に就任(1603年2月12日)

方広寺鐘銘事件から大阪の陣へ(1614年10月1日)

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2024年11月25日 (月)

毛利元就が「三子教訓状」を記す|「三矢の訓」との関係(1557年11月25日)

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 60歳を迎えた毛利元就は弘治3年(1557年)11月25日に周防国富田(現・山口県周南市)の勝栄寺において息子の毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に宛てに書状「三子教訓を記しました。この「三子教訓状」は14条からなり元就が息子たちに3人で一致協力し毛利家を末永く盛り立てていくことを諭したものです。

毛利元就
毛利元就

 また毛利元就は晩年に病床に隆元・元春・隆景を呼び「1本の矢は簡単に折れるが3本纏めると折れない。3人がよく結束して毛利家を守るように」との遺訓を残したと伝えられています。息子たちは父の遺訓に従い毛利家を守ることを誓いました。これが有名な「三本の矢」の話で有名な「三矢の訓」逸話です。

毛利隆元・吉川元春・小早川隆景
毛利隆元・吉川元春・小早川隆景

 しかしこの逸話には史実と齟齬があります。毛利元就が死没したのは元亀2年(1571年)ですが、長男の毛利隆元は8年前の 永禄6年(1563年)に急逝しています。吉川元春は尼子家との戦いで出雲に長らく出陣中でした。そのため元就の臨終を見届けたのは小早川隆景と元就の孫で毛利隆元の嫡男の輝元と伝えられています。

 それでは「三矢の訓」が全くの作り話かというと江戸幕府重臣の酒井家に伝わる「前橋旧蔵聞書」にこの逸話に似た伝記が記されています。その伝記には元就が多くの子どもたちを集めて「1本の矢では簡単に折れるが多数の矢を束ねると折れない。皆で一致協力して毛利家を永続させるように」と教えたことが書かれています。この伝記の注目すべき点は隆元と元春の名は出てこず隆景以下の子どもたちが登場していることです。登場人物は史実に合致していますから実際にあった話の可能性はあります。

 この記事の最初に照会した「三子教訓状」には矢の喩え話は出てきませんが教えの骨子は一致協力せいよという点で「三矢の訓」と同じです。しかしながら両方の話には直接的な関係はないと考えられます。なぜなら3人と3矢の「三矢の訓」は明治時代に成立していますが、隆景以下の子どもたちと矢束の「前橋旧蔵聞書」が公開されたのは大正時代だからです。ただし「前橋旧蔵聞書」の伝記と同様の話は江戸時代には既に伝わっていました。「前橋旧蔵聞書」が公開後は「三子教訓状」と「三矢の訓」が混同し「三矢の訓」は「三子教訓状」をもとにした逸話と言われるようになったと考えられます。

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2024年7月22日 (月)

フランシスコ・ザビエルが来日(1549年7月22日)

 フランシスコ・ザビエルは16世紀のスペイン出身のカトリック司祭・宣教師でイエズス会の創設メンバーの一人です。

Photo_20240721165701
フランシスコ・ザビエル

 世界各地での宣教を目指していたイエズス会はポルトガル王ジョアン3世の依頼で会員をポルトガル領インド西海岸のゴアに派遣することになりました。ゴア行き打診されたフランシスコ・ザビエルは承諾し1540年3月15日にローマを出発しポルトガルのリスボンに向かいました。リスボンでミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデスと合流し1541年4月7日にリスボンを出発しました。同年8月にアフリカのモザンビークに到着しここでしらばく過ごして1542年5月6日にゴアに到着しました。

 ザビエルはゴアを拠点とし各地で宣教を始め多くの人々をキリスト教に導き信者としました。1547年12月にマラッカで日本人ヤジロウ(アンジロー、安次郎)に出会いました。ヤジロウは薩摩もしくは大隅の鹿児島出身で若い頃に殺人を犯し、天文15年(1546年)に商人ジョルジュ・アルヴァレスのポルトガル船でマラッカに逃れたと伝えられています。ジョルジュは罪を告白したいと考えていたヤジロウをザビエルに引き合わせました。ヤジロウはザビエルによりゴアの教会で洗礼を受けパウロ・デ・サンタ・フェ(聖信パウロ)の名を授かりました。このヤジロウが日本人で初めて洗礼を受けイエズス会の信者となった人物とされています。フロイスの著書「日本史」ではヤジロウは八幡と紹介されています。この八幡は当時朝鮮や中国沿岸に出没していた日本の海賊船のことですからヤジロウは海賊や貿易に関わっていたと考えられています。

 ザビエルはヤジロウに日本でのキリスト教布教の可能性について尋ねると、ヤジロウは日本人の気質や日本の様子をザビエルに伝え布教は円滑に進むと答えました。ザビエルはヤジロウを気に入り日本で布教を行うため訪日することを決断しました。

 ザビエルは1548年11月にゴアで宣教監督となりました。翌1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、中国人のマヌエル、インド人のアマドール、日本人のヤジロウらとともにゴアを出発し日本を目指しました。日本上陸にはヤジロウが案内を行い薩摩半島の坊津に上陸し、許可を得て1549年8月15日(天文18年7月22日)に現在の鹿児島市祇園之洲町を訪れました。この日はちょうど聖母被昇天の祝日にあたり、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げる儀式を行いました。日本におけるキリスト教布教の第一歩を記しました。ヤジロウはザビエルの通訳者として働きながらキリスト教の書物などを日本語に翻訳し日本での布教・宣教活動に貢献しました。

【関連記事】

日本初のクリスマス(1553年12月24日)

クリスマス・イヴはクリスマス当日(12月24日)

きよしこの夜の初演(1818年12月24日

クリスマスツリーの由来

トナカイの語源 英語のレインディアの意味

サンタクロースのトナカイの名前は?(12月24日)

ハロウィンの起源(10月31日)

クリスマスカラー「赤」「緑」「白」「金」「銀」の意味

ボクシング・デー(12月26日)

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧