カテゴリー「戦国時代」の2件の記事

2024年7月22日 (月)

フランシスコ・ザビエルが来日(1549年7月22日)

 フランシスコ・ザビエルは16世紀のスペイン出身のカトリック司祭・宣教師でイエズス会の創設メンバーの一人です。

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フランシスコ・ザビエル

 世界各地での宣教を目指していたイエズス会はポルトガル王ジョアン3世の依頼で会員をポルトガル領インド西海岸のゴアに派遣することになりました。ゴア行き打診されたフランシスコ・ザビエルは承諾し1540年3月15日にローマを出発しポルトガルのリスボンに向かいました。リスボンでミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデスと合流し1541年4月7日にリスボンを出発しました。同年8月にアフリカのモザンビークに到着しここでしらばく過ごして1542年5月6日にゴアに到着しました。

 ザビエルはゴアを拠点とし各地で宣教を始め多くの人々をキリスト教に導き信者としました。1547年12月にマラッカで日本人ヤジロウ(アンジロー、安次郎)に出会いました。ヤジロウは薩摩もしくは大隅の鹿児島出身で若い頃に殺人を犯し、天文15年(1546年)に商人ジョルジュ・アルヴァレスのポルトガル船でマラッカに逃れたと伝えられています。ジョルジュは罪を告白したいと考えていたヤジロウをザビエルに引き合わせました。ヤジロウはザビエルによりゴアの教会で洗礼を受けパウロ・デ・サンタ・フェ(聖信パウロ)の名を授かりました。このヤジロウが日本人で初めて洗礼を受けイエズス会の信者となった人物とされています。フロイスの著書「日本史」ではヤジロウは八幡と紹介されています。この八幡は当時朝鮮や中国沿岸に出没していた日本の海賊船のことですからヤジロウは海賊や貿易に関わっていたと考えられています。

 ザビエルはヤジロウに日本でのキリスト教布教の可能性について尋ねると、ヤジロウは日本人の気質や日本の様子をザビエルに伝え布教は円滑に進むと答えました。ザビエルはヤジロウを気に入り日本で布教を行うため訪日することを決断しました。

 ザビエルは1548年11月にゴアで宣教監督となりました。翌1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、中国人のマヌエル、インド人のアマドール、日本人のヤジロウらとともにゴアを出発し日本を目指しました。日本上陸にはヤジロウが案内を行い薩摩半島の坊津に上陸し、許可を得て1549年8月15日(天文18年7月22日)に現在の鹿児島市祇園之洲町を訪れました。この日はちょうど聖母被昇天の祝日にあたり、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げる儀式を行いました。日本におけるキリスト教布教の第一歩を記しました。ヤジロウはザビエルの通訳者として働きながらキリスト教の書物などを日本語に翻訳し日本での布教・宣教活動に貢献しました。

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2008年8月25日 (月)

鉄砲伝来の日(1543年8月25日)

 天文12年(1543年)8月25日、鹿児島県南方の大隅国種子島に1隻の異国船が暴雨風のため漂着しました。この異国船は明国の船と言われていますがポルトガル商人が乗っていました。そのポルトガル人は、日本人が今までに見たことのない鉄砲という武器をもっていました。種子島の島主である種子島時堯はそのポルトガル人から鉄砲を2挺購入しました。

 鉄砲の威力に驚いた時堯は、さっそく鉄砲を製造を命じました。ところが、弾丸はできたもののポルトガル人の鉄砲にはネジが使われていたため鉄砲を造ることができませんでした。当時の日本にはネジがなかったのです。日本に初めてネジが伝来したのもこの時です。

 天文13年(1544年)、別の外国船にのってきた技術者に鉄砲の造り方を学んだ八板金兵衛清定が日本製の鉄砲を初めて造りました。種子島時堯は鉄砲を鹿児島県の島津義久に献上しました。義久はさらに足利将軍に献上しました。このことがきっかけで滋賀県の国友村で鉄砲鍛冶が行われるようになりました。また、別のルートでも鉄砲は全国に広まっていったのです。

 ちょうどこの頃、室町幕府と朝廷の力が衰えた日本の社会は、群雄割拠の戦国時代へと入っていました。戦国武将の中でも、いち早く鉄砲に目を付けたのは織田信長でした。織田信長は1575年長篠の戦いで3000挺の鉄砲隊を編成し、武田信玄の子、勝頼が率いる武田軍の騎馬隊を撃破しました。鉄砲は天下統一をめざす戦国武将にとって有力な武器となりました。

 鉄砲伝来については時尭の子の種子島久時が「鉄砲記」を編纂させています。久時の父の時尭が鉄砲を入手した経緯や製造方法の確立の過程などが記されている。

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