カテゴリー「明日なき戦いの果てに」の3件の記事

2026年2月11日 (水)

江戸城評定における小栗忠順と榎本武揚のすれ違い|明日なき戦いの果てに番外編)

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 慶応4年(1868年)1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍は不利な戦況に追い込まれました。薩長軍は錦の御旗を掲げ我らこそが官軍であることを示しました。第十五代将軍・徳川慶喜は朝敵となることを避け、大阪城内の主戦派の収拾がつかなくなると考え、江戸へ退却することを決断した。慶喜は6日に大阪城を脱出し、側近とともに艦長の榎本武揚が不在の開陽丸で江戸に向かいました。慶喜の一行が江戸に到着したのは12日でした。

 慶喜が江戸城に帰還すると城内で評定が開かれました。この評定で徹底抗戦を主張したのが勘定奉行・陸軍奉行並の小栗忠順です。小栗は旧幕府軍には鳥羽・伏見の戦いに参戦していない多数の兵力が残っていることから、「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」という作戦を提案しています。後に小栗の作戦を聞いた大村益次郎がこの作戦が実行されていたら官軍は壊滅していたと驚愕したという逸話が残っています。おそらく慶喜も小栗の作戦が自らの朝廷への恭順の意を覆すことになることは理解していたでしょう。

徳川慶喜と勝海舟 小栗忠順と榎本武揚
徳川慶喜と勝海舟
小栗忠順と榎本武揚

 江戸城での評定は数回に渡って執り行われたと考えられますが、小栗忠順は榎本武揚らと徹底抗戦を主張したと伝えられています。徹底抗戦を主張していた小栗忠順は1月15日に罷免されています。大阪に取り残された榎本武揚が富士山で大阪湾を出港したのは12日、江戸に帰還したのは15日と伝えられています。つまり榎本武揚が江戸に戻ったときには、自分を支持してくれるはずの小栗はすで罷免されていたか、あるいは罷免直前だったことになります。ですから評定の席で小栗と榎本が一緒に徹底抗戦を主張したのかという点においては疑問が残ります。小栗の罷免後も評定は行われ、榎本は小栗が罷免されたうえでさらに徹底抗戦を主張したのでしょう。主戦派の榎本が戻ると徹底抗戦の作戦が現実のものとなりかねないので小栗を罷免したとも考えられます。

 商人の三野村利左衛門は小栗に資金提供と米国への亡命をすすめましたが、小栗は丁重に断っています。また慶喜の家臣の渋沢成一郎が彰義隊の隊長の就任を打診していますが、小栗は「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」と拒否しています。2月28日、小栗は江戸を出発し上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)へ向かいました。

 同じく徹底抗戦を主張した榎本は罷免されず1月23日付けで幕府海軍海軍副総裁に任ぜられています。これは榎本の上司だった勝海舟の意向が働いた結果と考えられます。慶喜の恭順の意向を受けて新政府と平和裏に交渉を進めようとしていた勝は交渉を有利にするためには徹底抗戦の意向を持たずとも武力の保有は必要と考えていたようです。小栗を罷免して榎本を登用した慶喜と勝の判断は江戸を救ったとも、日本の近代化を支えた人物を切り捨てたとも言えます。

 小栗は権田村で農地開墾や水路の整備、塾を開くなど穏やかな日々を過ごし、新政府に敵対するような準備はしていませんでした。慶応4年(1868年)閏4月4日、小栗は東善寺にいるところを新政府軍に捕縛され、6日午前中にろくに取り調べもされないまま家臣とともに斬首されました。これは新政府の意向ではなく手柄を取ろうとする現場の軽率な判断だったとも伝えられています。榎本は与えられた軍事力を背景に小栗の思いを蝦夷地まで運んだのでしょう。

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2024年9月24日 (火)

西郷隆盛死す|西南戦争が終結(1877年9月24日)

 明治2年5月18日( 1869年6月27日)、箱館戦争が終結し鳥羽・伏見の戦いで始まった戊辰戦争に終止符が打たれると日本は新しい時代を迎えました。明治政府は政治の改革を進めましたが、これは武士など既得権益や長らく続いた秩序を破壊するものでした。新政府軍も元はと言えば江戸時代から続く諸藩の藩士らによって組織されたものでした。戊辰戦争が終結すればもとの立場に戻ります。

 新政府は明治6年(1873年)に徴兵令を導入し戊辰戦争とは異なる軍隊を編成しました。また四民平等政策を進め大名・武士を廃止して華族・士族としました。このような状況の中で一部の士族の間で不平不満が募り、征韓論の対立による明治六年政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野すと士族の不満は高まり、佐賀の乱をはじめとする明治政府に対する不平士族による士族反乱が起きるようになりました。

 下野した西郷隆盛は鹿児島に戻ると多くの時間を自宅で過ごし猟をしたり温泉で休養したりしていました。やがて西郷隆盛を慕う血気盛んな若者たちが鹿児島に集まりました。明治7年(1874年)、県令の大山綱良と西郷隆盛は彼らを指導する「私学校」を設立しました。この「私学校」は軍事色の強い学校となりましたが勢力を伸ばし関係者の多くが鹿児島県の要職を務めるようになりました。西郷隆盛は私学校で自ら教えることはありませんでした隆盛の考えとは関係なく反政府的な思想をもつ組織となりました。やがて鹿児島県そのものが反政府の独立国のようになりましたこの事態を憂慮した西郷隆盛の盟友の大久保利通は西郷隆盛と私学校の動向を調査させるため薩摩出身の警察官23名を帰省を理由に鹿児島県に派遣しました。

西郷隆盛
西郷隆盛

 明治10年(1876年)1月29日、政府は鹿児島県の陸軍省砲兵属廠の火薬庫からスナイドル銃の弾薬を大阪に移動するため赤龍丸を派遣して搬出を行いました。当時、鹿児島県は政府の主力装備のスナイドル銃の弾薬の製造を独占していたため製造設備を含めて大阪に移動しようとしたのです。「私学校」はこれに反発して火薬庫を襲い弾薬を奪いました。この「私学校」の動きに対して隆盛は政府に私学校に対する厳しい処分をする口実を与えることになったと嘆きました。

 また「私学校」は大久保利通が送り込んだ警察官を捕らえて拷問しました。隆盛を刺殺しにきたという白状を得た「私学校」は政府に対して挙兵するべきという結論に達しました。隆盛は「私学校」に対して何も述べることはないお前たちの思うようにするようにと「この体はお前さあたちに差し上げもんそ」と答えました。明治10年(1877年)2月初めに挙兵が決まりました。

 挙兵した薩摩軍に対して明治政府は有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)として副司令官に山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命しました。明治政府は十分な武器を備えて大軍を編成し、電信を駆使して迅速な情報交換を行いました。

 薩摩軍は「田丸坂の戦い」などで奮闘しましが近代的な明治政府軍には多勢に無勢 であり熊本城も落城させることもできませんでした。薩摩軍は敗走し鹿児島へ戻りましたが、5万人以上の明治政府軍に囲まれました。

田原坂の戦い(官軍は左、薩摩軍は右)鹿児島新畫之内 熊本縣田原坂撃戦之図」梅堂国政画
田原坂の戦い(官軍は左、薩摩軍は右)
鹿児島新畫之内 熊本縣田原坂撃戦之図」梅堂国政画

 明治11年(1877年)9月24日午前4時頃、明治政府軍は総攻撃を開始しました。西郷隆盛は40名の従者とともに戦場を駆け抜けましたが、やがて被弾すると別府晋介に「晋さん、もうここでよか」と告げました。同日午前7時頃、晋介は涙ながらに西郷隆盛を介錯しました。幕末に活躍し明治維新に大きな貢献を果たした古今無双の英雄である西郷隆盛の死により西南戦争は終結したのです。

西郷隆盛と従者(フランス「ル・モンド紙」)
西郷隆盛と従者(フランス「ル・モンド紙」)

 隆盛は挙兵後の明治10年(1877年)2月25日に官位を剥奪されていました。戦死後、日本の新しい時代の幕開けに大きな貢献をした隆盛は賊軍の将とされました。明治天皇は隆盛の戦死の報告を受けたときに「西郷を殺せとは言わなかった」と嘆いたと伝えられています。明治天皇は隆盛を高く評価し気に入っていたのです。隆盛の部下だった黒田清隆は隆盛の名誉回復のため尽力しました。隆盛は明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布による大赦で正三位を追贈されています。黒田清隆の尽力の背景に明治天皇の意向と支援がありました。

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「佐賀の乱」勃発(1874年2月1日)|明治政府に対する士族の反乱

廃刀令の公布で武士の帯刀が禁止に(1876年3月28日)

上野公園の西郷隆盛像の除幕式(1898年12月18日)

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2024年7月28日 (日)

五稜郭公園のクルップ砲のおはなし|明日なき戦いの果てに番外編

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 北海道函館市の五稜郭公園の園内に2つの大砲が設置されています。この大砲はそのうちのひとつでクルップ砲と呼ばれるものです。 クルップ砲はドイツの製鉄・兵器製造企業のクルップ社が製造した大砲です

クルップ砲(五稜郭公園)
クルップ砲(五稜郭公園)

 18世紀末、鋳鉄はイギリスが世界の需要を独占していました。プロイセンの発明家フリードリヒ・クルップはイギリスの鋳鋼技術を解明するためライン川の畔に小さな水車小屋を建てました。ここで水力を動力として鋳鉄の研究に取り組みましたが鋳鉄技術の解明は困難を極めました。借金を抱えたフリードリヒは困窮し病気となり1826年に39歳の若さで亡くなりました。

 フリードリッヒの研究は長男のアルフレート・クルップが引き継ぎました。このときアルフレートは若干14歳でした。アルフレートは従業員とともに鋳鋼の研究を続け、ついに父が果たせなかった鋳鉄技術の解明に成功しました。クルップが最初に取り組んだのは工具、ナイフやスプーンの食器の製造でした。やがて貨幣の鋳造機や鉄道車輪の製造を行うようなりました。1830年代に大量の鉄道車輪を受注すると本格的に鉄道事業に乗り出し大成功を収めました。

アルフレート・クルップ
アルフレート・クルップ

 この頃、フランスをはじめヨーロッパ各地で革命戦争が起こりはじめました。クルップは武器の製造に着手し、1840年代に銃や大砲の製造を始めました。クルップはプロセイン陸軍に大砲を売り込みましたが相手にされませんでした。そこでクルップは宣伝のためにプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に大砲を献上しました。大砲は王宮に展示され大いに注目されました。クルップは1851年にロンドンで開催された第1回万国博覧会に大砲を出展し金賞を受賞しました。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の後を継いで国王となったヴィルヘルム1世はクルップに大砲を大量に注文しました。このとき首相のオットー・フォン・ビスマルクがクルップを訪れています。ビスマルクは軍事力を重視し1862年に「現在の大問題は演説や多数決ではなく、鉄と血でこそ解決される」という熱血演説をしています。高性能な大砲や銃を作るには純鉄が必要であると考えたのです。クルップはビスマルクと意気投合しました。ビスマルクは高品質の純鉄を製造するため物理学者に鉄の温度を測定する方法を研究させています。この研究の成果は後に量子力学につながります。

プロイセン首相時代のオットー・フォン・ビスマルク
プロイセン首相時代のオットー・フォン・ビスマルク

 クルップの大砲は成功を収め各国からも注文されるようになりました。人々は節操のない商売重視のクルップを大砲王と呼ぶようになりましたが、クルップが製造した大砲と鉄道車輪はプロセイン王国の近代化を推し進め普仏戦争での勝利を導きました。クルップは1867年のパリ万国博覧会に巨大な大砲を出展しています。

クルップ砲(「1867年パリ万博出品)
クルップ砲(「1867年パリ万博出品)

 この頃、日本の榎本武揚はオランダに注文した開陽丸を引き取るためオランダに留学していました。この期間中に榎本武揚と赤松則良はクルップを訪れ開陽丸に搭載する大砲を注文しています。開陽丸には16 cm鋳鋼施条前装砲(前装式施条砲)が18門搭載されていますがこれがクルップ砲です。

オランダ留学中の榎本武揚
オランダ留学中の榎本武揚

 五稜郭公園に展示されているクルップ砲は昭和7年(1932年)の七重浜の埋め立て工事のときに発見されました。全長2.85メートル、重量1トン、射程距離は3000メートルに及ぶももので新政府軍の朝陽丸に搭載されていたものと考えられています。

朝陽丸(遊撃隊起終並南蝦夷戦争記 附記艦船之図)
朝陽丸(遊撃隊起終並南蝦夷戦争記 附記艦船之図)

 朝陽丸は箱館政権軍の蟠竜丸(松岡磐吉艦長)の砲撃で轟沈しました。七重浜付近で沈没した軍艦は朝陽丸のみのためこのクルップ砲は同艦のものと考えらています。

蟠竜丸(手前)と轟沈する朝陽丸(奥)
蟠竜丸(手前)と轟沈する朝陽丸(奥)

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