カテゴリー「明日なき戦いの果てに」の28件の記事

2024年9月24日 (火)

西郷隆盛死す|西南戦争が終結(1877年9月24日)

 明治2年5月18日( 1869年6月27日)、箱館戦争が終結し鳥羽・伏見の戦いで始まった戊辰戦争に終止符が打たれると日本は新しい時代を迎えました。明治政府は政治の改革を進めましたが、これは武士など既得権益や長らく続いた秩序を破壊するものでした。新政府軍も元はと言えば江戸時代から続く諸藩の藩士らによって組織されたものでした。戊辰戦争が終結すればもとの立場に戻ります。

 新政府は明治6年(1873年)に徴兵令を導入し戊辰戦争とは異なる軍隊を編成しました。また四民平等政策を進め大名・武士を廃止して華族・士族としました。このような状況の中で一部の士族の間で不平不満が募り、征韓論の対立による明治六年政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野すと士族の不満は高まり、佐賀の乱をはじめとする明治政府に対する不平士族による士族反乱が起きるようになりました。

 下野した西郷隆盛は鹿児島に戻ると多くの時間を自宅で過ごし猟をしたり温泉で休養したりしていました。やがて西郷隆盛を慕う血気盛んな若者たちが鹿児島に集まりました。明治7年(1874年)、県令の大山綱良と西郷隆盛は彼らを指導する「私学校」を設立しました。この「私学校」は軍事色の強い学校となりましたが勢力を伸ばし関係者の多くが鹿児島県の要職を務めるようになりました。西郷隆盛は私学校で自ら教えることはありませんでした隆盛の考えとは関係なく反政府的な思想をもつ組織となりました。やがて鹿児島県そのものが反政府の独立国のようになりましたこの事態を憂慮した西郷隆盛の盟友の大久保利通は西郷隆盛と私学校の動向を調査させるため薩摩出身の警察官23名を帰省を理由に鹿児島県に派遣しました。

西郷隆盛
西郷隆盛

 明治10年(1876年)1月29日、政府は鹿児島県の陸軍省砲兵属廠の火薬庫からスナイドル銃の弾薬を大阪に移動するため赤龍丸を派遣して搬出を行いました。当時、鹿児島県は政府の主力装備のスナイドル銃の弾薬の製造を独占していたため製造設備を含めて大阪に移動しようとしたのです。「私学校」はこれに反発して火薬庫を襲い弾薬を奪いました。この「私学校」の動きに対して隆盛は政府に私学校に対する厳しい処分をする口実を与えることになったと嘆きました。

 また「私学校」は大久保利通が送り込んだ警察官を捕らえて拷問しました。隆盛を刺殺しにきたという白状を得た「私学校」は政府に対して挙兵するべきという結論に達しました。隆盛は「私学校」に対して何も述べることはないお前たちの思うようにするようにと「この体はお前さあたちに差し上げもんそ」と答えました。明治10年(1877年)2月初めに挙兵が決まりました。

 挙兵した薩摩軍に対して明治政府は有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)として副司令官に山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命しました。明治政府は十分な武器を備えて大軍を編成し、電信を駆使して迅速な情報交換を行いました。

 薩摩軍は「田丸坂の戦い」などで奮闘しましが近代的な明治政府軍には多勢に無勢 であり熊本城も落城させることもできませんでした。薩摩軍は敗走し鹿児島へ戻りましたが、5万人以上の明治政府軍に囲まれました。

田原坂の戦い(官軍は左、薩摩軍は右)鹿児島新畫之内 熊本縣田原坂撃戦之図」梅堂国政画
田原坂の戦い(官軍は左、薩摩軍は右)
鹿児島新畫之内 熊本縣田原坂撃戦之図」梅堂国政画

 明治11年(1877年)9月24日午前4時頃、明治政府軍は総攻撃を開始しました。西郷隆盛は40名の従者とともに戦場を駆け抜けましたが、やがて被弾すると別府晋介に「晋さん、もうここでよか」と告げました。同日午前7時頃、晋介は涙ながらに西郷隆盛を介錯しました。幕末に活躍し明治維新に大きな貢献を果たした古今無双の英雄である西郷隆盛の死により西南戦争は終結したのです。

西郷隆盛と従者(フランス「ル・モンド紙」)
西郷隆盛と従者(フランス「ル・モンド紙」)

 隆盛は挙兵後の明治10年(1877年)2月25日に官位を剥奪されていました。戦死後、日本の新しい時代の幕開けに大きな貢献をした隆盛は賊軍の将とされました。明治天皇は隆盛の戦死の報告を受けたときに「西郷を殺せとは言わなかった」と嘆いたと伝えられています。明治天皇は隆盛を高く評価し気に入っていたのです。隆盛の部下だった黒田清隆は隆盛の名誉回復のため尽力しました。隆盛は明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布による大赦で正三位を追贈されています。黒田清隆の尽力の背景に明治天皇の意向と支援がありました。

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2024年7月28日 (日)

五稜郭公園のクルップ砲のおはなし|明日なき戦いの果てに番外編

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 北海道函館市の五稜郭公園の園内に2つの大砲が設置されています。この大砲はそのうちのひとつでクルップ砲と呼ばれるものです。 クルップ砲はドイツの製鉄・兵器製造企業のクルップ社が製造した大砲です

クルップ砲(五稜郭公園)
クルップ砲(五稜郭公園)

 18世紀末、鋳鉄はイギリスが世界の需要を独占していました。プロイセンの発明家フリードリヒ・クルップはイギリスの鋳鋼技術を解明するためライン川の畔に小さな水車小屋を建てました。ここで水力を動力として鋳鉄の研究に取り組みましたが鋳鉄技術の解明は困難を極めました。借金を抱えたフリードリヒは困窮し病気となり1826年に39歳の若さで亡くなりました。

 フリードリッヒの研究は長男のアルフレート・クルップが引き継ぎました。このときアルフレートは若干14歳でした。アルフレートは従業員とともに鋳鋼の研究を続け、ついに父が果たせなかった鋳鉄技術の解明に成功しました。クルップが最初に取り組んだのは工具、ナイフやスプーンの食器の製造でした。やがて貨幣の鋳造機や鉄道車輪の製造を行うようなりました。1830年代に大量の鉄道車輪を受注すると本格的に鉄道事業に乗り出し大成功を収めました。

アルフレート・クルップ
アルフレート・クルップ

 この頃、フランスをはじめヨーロッパ各地で革命戦争が起こりはじめました。クルップは武器の製造に着手し、1840年代に銃や大砲の製造を始めました。クルップはプロセイン陸軍に大砲を売り込みましたが相手にされませんでした。そこでクルップは宣伝のためにプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に大砲を献上しました。大砲は王宮に展示され大いに注目されました。クルップは1851年にロンドンで開催された第1回万国博覧会に大砲を出展し金賞を受賞しました。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の後を継いで国王となったヴィルヘルム1世はクルップに大砲を大量に注文しました。このとき首相のオットー・フォン・ビスマルクがクルップを訪れています。ビスマルクは軍事力を重視し1862年に「現在の大問題は演説や多数決ではなく、鉄と血でこそ解決される」という熱血演説をしています。高性能な大砲や銃を作るには純鉄が必要であると考えたのです。クルップはビスマルクと意気投合しました。ビスマルクは高品質の純鉄を製造するため物理学者に鉄の温度を測定する方法を研究させています。この研究の成果は後に量子力学につながります。

プロイセン首相時代のオットー・フォン・ビスマルク
プロイセン首相時代のオットー・フォン・ビスマルク

 クルップの大砲は成功を収め各国からも注文されるようになりました。人々は節操のない商売重視のクルップを大砲王と呼ぶようになりましたが、クルップが製造した大砲と鉄道車輪はプロセイン王国の近代化を推し進め普仏戦争での勝利を導きました。クルップは1867年のパリ万国博覧会に巨大な大砲を出展しています。

クルップ砲(「1867年パリ万博出品)
クルップ砲(「1867年パリ万博出品)

 この頃、日本の榎本武揚はオランダに注文した開陽丸を引き取るためオランダに留学していました。この期間中に榎本武揚と赤松則良はクルップを訪れ開陽丸に搭載する大砲を注文しています。開陽丸には16 cm鋳鋼施条前装砲(前装式施条砲)が18門搭載されていますがこれがクルップ砲です。

オランダ留学中の榎本武揚
オランダ留学中の榎本武揚

 五稜郭公園に展示されているクルップ砲は昭和7年(1932年)の七重浜の埋め立て工事のときに発見されました。全長2.85メートル、重量1トン、射程距離は3000メートルに及ぶももので新政府軍の朝陽丸に搭載されていたものと考えられています。

朝陽丸(遊撃隊起終並南蝦夷戦争記 附記艦船之図)
朝陽丸(遊撃隊起終並南蝦夷戦争記 附記艦船之図)

 朝陽丸は箱館政権軍の蟠竜丸(松岡磐吉艦長)の砲撃で轟沈しました。七重浜付近で沈没した軍艦は朝陽丸のみのためこのクルップ砲は同艦のものと考えらています。

蟠竜丸(手前)と轟沈する朝陽丸(奥)
蟠竜丸(手前)と轟沈する朝陽丸(奥)

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2024年7月20日 (土)

第25話「北へ還れ」|明日なき戦いの果てに

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 榎本釜次郎は安政元年(1854年)に箱館奉行の堀利煕の従者として箱館に赴き蝦夷地や樺太の巡視に武田斐三郎らと同行している。未開の地やロシア台頭を目にした19歳の釜次郎は蝦夷地の開拓や国防の重要性を心に刻んだに違いない。

 西郷隆盛は薩摩藩兵を引き連れて箱館戦争の支援に来た。箱館到着は終戦後の25日、隆盛は箱館湾を視察し上陸せず引き返した。自身が介入し黒田清孝らの尽力に水を差すことを避けたと伝えられている。隆盛は明治4年(1871年)頃に蝦夷地開拓と防衛を主張したが征韓論で下野し明治10年に西南戦争で自決した。

  坂本龍馬も蝦夷地開拓を志し蝦夷地に新国を開くことを積年の夢とし船舶を入手して渡航計画を立てたが京都近江屋で暗殺され夢を果たせぬままこの世を去った。

 明治2年8月15日、新政府は蝦夷地を北海道と改名した。蝦夷地開拓の志は開拓次官となった黒田清隆が引き継いだ。武陽は清孝の嘆願で助命され明治5年に特赦・放免となり明治政府に仕えた。武陽の最初の仕事が清孝のもとでの北海道開拓だった。他に松平太郎、荒井郁之介、大鳥圭介、永井尚志などが開拓使に身を置いた。

 清孝は蝦夷地で新国を作ろうとした箱館政権の面々を仲間にしたのである。釜次郎は蝦夷地開拓と防衛を志し明日なき戦いに突入したが北へ還ってきた。黒船来航で分断した日本は北海道開拓を旗印にまとまった。広大な北海道で終わりの見えない開拓事業が志士たちを待っていたのである。

 明治8年5月、札幌郊外琴似に屯田兵が設置され北海道は新たな時代を迎え全国各地から開拓民が入植した。時は流れて明治31年(1898年)、渋沢栄一は蝦夷地開拓を進める北海道庁の要請で十勝清水町熊牛に十勝開墾合資会社を設立した。この会社の初代社長に就任したのが渋沢喜六こと成一郎である。

 人生万事塞翁が馬、私の好きな言葉です。

西郷隆盛、黒田清隆、榎本武揚
西郷隆盛、黒田清隆、榎本武揚

明日なき戦いの果てに(完)

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2024年7月12日 (金)

第24話「千代ヶ岱陣屋陥落と箱館戦争終結」|明日なき戦いの果てに

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 山田顕義率いる新政府軍は5月16日未明に千代ヶ岱陣屋の総攻撃を開始した。やがて白兵戦となり三郎助は台場の胸壁に登ったところを狙撃され、長男恒太郎と次男英次郎、浦賀奉行の仲間と討ち死にした。他部隊は五稜郭に撤退、徹底抗戦を主張した渋沢成一郎は湯の川へ逃れた。死んでは元も子もない、京都の経験に思いを馳せたのだろうか。

 三郎助の戦いが戊辰戦争最後の戦闘である。黒船来航から箱館戦争まで関わった三郎助はラストサムライの1人である。若い頃に造船学を学ぶため浦賀の三郎助の家に下宿した桂小五郎(木戸孝允)は新政府の要人ながら三郎助の死を嘆き悲しんだ。戦後に明治天皇と箱館を訪れたとき陣屋跡付近で感極まって号泣したそうである。孝允は榎本武揚と三郎助の遺族を支援、三男中島與曽八は海軍機関中将となった。

 同日午後、薩摩藩士が五稜郭を訪れ弁天台場と千代ヶ岱陣屋の陥落を伝え書簡を届けた。書簡には黒田清隆の計らいで海律全書の礼として酒樽を送ると書いてあり酒樽と肴が届けられた。毒殺を恐れ誰も手をつけない様子を見て星恂太郎が笑いながら樽を割って一杯飲むと諸将も酒を嗜んだ。

 武揚は席を外し全責任を取り自決しようとしたが介錯を頼んだ側近の大塚霍之丞が素手で武陽の短刀を鷲掴み阻止した。武陽は我に返り明朝7時に城外に出て降伏することを決断した。17日、武陽と松平太郎は五稜郭を出て酒徳利とスルメを用意して待っていた清隆と面会、降伏条件の交渉後に亀田八幡宮で降伏式を執り行った。

 明治2年5月18日、五稜郭は開城し戊辰戦争は箱館の地で終結した。市中には箱館政権兵士の遺体が放置されたままだった。賊軍の遺体を人道的に収容し埋葬したのは侠客の柳川熊吉である。明治政府官吏となっていた田島圭蔵は粛々と遺体収容を進める熊吉を咎めず黙認したという。

北夷島總督印と箱館大戦争之図(永島孟斎)
北夷島總督印と箱館大戦争之図(永島孟斎)

 

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2024年7月 4日 (木)

第23話「降伏勧告」|明日なき戦いの果てに

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 箱館総攻撃の翌日5月12日、新政府軍は五稜郭と弁天台場に艦砲射撃を行った。とりわけ甲鉄艦から五稜郭への砲撃で多数の死傷者が出た。箱館政権軍には為す術はなかったが徹底抗戦の構えだった。

 新政府軍は五稜郭へは進軍せず黒田清隆は箱館政権に対して寛大な戦後処理をする方針で降伏勧告と和議の準備を始めた。同日、薩摩藩士池田次郎兵衛と村橋直衛が箱館病院に入院していた京都守備で旧知の会津藩士諏訪常吉を訪れ和平交渉の斡旋を依頼した。

 重症の常吉は病院長高松凌雲と事務長小野権之丞に託した。凌雲は徳川慶喜の奥医師を務め箱館戦争では敵味方分け隔てなく負傷者の治療にあたっていた。凌雲と権之丞は降伏勧告の手紙を送ったが、14日に武陽と松平太郎の連名で拒否の返事が届いた。このとき武陽はオランダ留学で得た万国海律全書を戦火によって失われるのは痛恨の極みと新政府軍に送った。海律全書を手にした清隆は武陽の愛国心を理解したに違いない。

 同日、薩摩藩士田島圭蔵は弁天台場を訪れ武陽との面会を依頼、永井尚志と新撰組の相馬主計と五稜郭に赴いた。圭蔵はかつて函館政権に拿捕された秋田藩の高雄丸の艦長で武陽に釈放された経緯もあり誠意を持って交渉したが武陽が決意を覆すことはなかった。武陽は傷病者を湯の川へ送り徹底抗戦の構えだったが、尚志と主計には密かにそれとわかるように降伏の意向を示したと伝えられている。

弁天台場と入口付近
弁天台場と入口付近

 弁天台場は新政府軍の攻撃によく持ち堪えたが兵糧が尽き15日に降伏した。同日、新政府軍は中島三郎助が守備する千代ヶ岱陣屋に降伏を勧告、大鳥圭介も五稜郭へ撤退を促したが三郎助は了承しなかった。武陽は松平太郎を派遣し撤退の説得を試みた。軍議では若者達に降伏を主張していた49歳の三郎助は自らは討ち死にを覚悟していた。

 

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2024年6月28日 (金)

第22話「弁天台場を救え」|明日なき戦いの果てに

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 函館山を奪還するため弁天台場から伝習士官隊長滝川充太郎が新撰組、伝習士官隊を率いて山頂に向かった。山頂からの攻撃が激しく、また大森浜からの艦砲射撃を受けて一本木関門まで退いたが新政府軍の追撃により五稜郭に撤退した。市街を制圧し弁天台場を孤立させた新政府軍は一本木関門に集結し千代ヶ岱陣屋と五稜郭に対峙した。

 函館山占領の原因は新選組の怠慢という批判もあり、弁天台場は島田魁をはじめとする新選組が中心となり守備をしていた。11日早朝、土方歳三は五稜郭を出陣して桔梗に向かった。五稜郭に戻る途中で箱館港で蟠竜丸が新政府軍の朝陽丸を轟沈させたのを見た歳三は兵士の士気を高めた。そして孤立した弁天台場を救出し箱館を奪還すべく出陣したが一本木関門にて馬上で指揮を執っていたところ腹部を撃たれて落馬し絶命した。

蟠龍丸が朝陽丸を轟沈・土方歳三・一本木関門
蟠龍丸が朝陽丸を轟沈・土方歳三・一本木関門

 陸軍奉行添役大野右仲は歳三の命で弁天台場の方へ進軍していたが総崩れとなり引き返してきた。このとき歳三の直属部下の陸軍奉行添役安富才助が歳三の死を知らせたと伝えられている。歳三の戦死が伝わると箱館政権副総裁の松平太郎は箱館奪還のため諸部隊を率いて五稜郭から出陣し新政府軍と戦ったが撤退を余儀なくされた。弁天台場は新政府軍の攻撃にも拘わらず陥落しなかったが、完全に孤立し残留した兵士たちは立て籠もり防衛するだけとなった。

 土方歳三は箱館滞在中は五稜郭には常駐しておらず箱館市中の見廻りを行うため豪商の佐野専左衛門の丁サと呼ばれる万屋を宿所としていた。そのすぐ近くには新選組が屯所とした称名寺があった。歳三の最期の地には諸説あるが、歳三が仲間を救出すべく自身が暮らした箱館市中や弁天台場をめざして一本木関門より先へ先へと進軍しようとする想いの中で絶命したのは間違いないだろう。

 

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2024年6月18日 (火)

第21話「箱館総攻撃」|明日なき戦いの果てに

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 箱館政権の敗戦が濃厚になると陸海軍で勇敢に戦ったフランス軍人ブリュネらは明治2年(1869年)5月1日に戦況を視察していたフランス軍艦コエトロゴンで箱館を離脱した。同日、二股から五稜郭に帰陣した土方歳三は弁天台場に赴き新選組に七重浜の敵軍を奇襲するよう命じた。奇襲は成功したが戦況は変えられなかった。

 3日、弁天台場の下級兵の斉藤順三郎が鍛冶職人を買収し大砲を使用不能とさせた。順三郎は安政年間に七重村に入植した八王子千人同心の子で箱館政権のやり方に憤り新政府軍の遊撃隊の一員として箱館政権軍に潜り込んでいたのである。これによって新政府軍艦隊は函館湾の奥深くまで進出できるようになった。7日、回天丸が甲鉄艦の砲撃で機関部を損傷し弁天台場付近で座礁させ浮き砲台となった。

 11日早朝、新政府軍は箱館総攻撃を始めた。新政府軍の陸軍本隊は五稜郭を包囲、海軍は函館湾と大森浜から艦砲射撃をした。大鳥圭介の部隊は五稜郭北方を懸命に守ったが多勢に無勢で夜には五稜郭に撤退した。松岡四郎次郎率いる部隊は急造された四稜郭で防戦したが権現台場が占領されると退路を断たれることを恐れ五稜郭へ撤退した。

 大砲が修理され再び機能を取り戻した弁天台場は新政府軍にとって厄介な存在であった。新政府軍の陸軍参謀の黒田清隆は奇襲部隊を編成し箱館山の山頂を占領し弁天台場と箱館を急襲する作戦を決行した。11日未明、奇襲部隊は飛龍丸と豊安丸に分乗し箱館山に向かった。

 飛龍丸の清隆が率いる部隊は函館山南東側の寒川から上陸し絶壁をよじ登り山頂を急襲し占領した。山頂を監視していた新選組の監視兵は遁走し弁天台場に逃げ込んだ。一方、豊安丸の部隊は箱館山西北側の山背泊(入舟町)から上陸し弁天台場へ向かった。新政府軍が箱館山を占領すると箱館奉行の永井尚志は弁天台場に入り守備を固めた。

箱館市内地図(箱館戦争当時)
箱館市内地図(箱館戦争当時)

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2024年6月11日 (火)

第20話「蝦夷地上陸作戦」|明日なき戦いの果てに

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 宮古湾海戦後に新政府の海軍が青森に到着したのは明治2年(1869年)3月26日である。4月9日、新政府軍は乙部に到着した。箱館政権軍は新政府軍の上陸と江差攻略を阻止できず松前まで退却した。12日、陸軍参謀黒田清隆が率いる部隊が江差に上陸、新政府軍は松前、木古内、二股から箱館に向けて進軍を開始した。

渡島半島地図
渡島半島地図

 松前では伊庭八郎が率いる遊撃隊と春日左衛門が率いる彰義隊が江差奪還を試みたが19日には松前を占拠され撤退した。木古内は彰義隊が守っていたが大鳥圭介率いる伝習隊や額兵隊が援軍となり新政府軍を迎え撃つも撤退を余儀なくされた。さらなる援軍で木古内を奪還したものの地の利のある矢不来に退き胸壁と砲台を築いて布陣した。このとき会津藩士の諏訪常吉は敵軍宛に和平の置き手紙を当別に残している。

 29日、新政府軍は矢不来を街道側、海側、山側から攻撃、甲鉄艦や春日丸が艦砲射撃を行った。箱館政権軍は壊滅状態となり衝鋒隊の天野新太郎や永井蠖伸斎が戦死した。圭介は有川まで撤退し榎本武揚と合流するが箱館政権軍は総崩れとなり箱館へ敗走した。

 一方、二股では土方歳三が指揮する衝鋒隊、伝習隊が台場山に胸壁を構築し新政府軍を迎撃した。歳三の部隊は険しい山頂という地の利も得て小隊が交代しながら小銃を撃ちかけ新政府軍を撃退した。新政府軍は山をよじ登り台場山に乱入し激しい戦いを繰り広げたが25日には撤退し二股を迂回する道を切り開き始めた。29日に矢不来が占拠されると退路を絶たれることを恐れた歳三は五稜郭へ撤退した。

 28日、青森口総督の清水谷公考が江差に到着、新政府軍は有川に集結し箱館総攻撃の準備を整えた。最後の決戦を前に新政府軍は有川沖に榎本艦隊を牽制・攻撃しつつ艦砲射撃による陸軍の進軍を支援するため甲鉄艦、朝陽丸、春日丸、陽春丸、延年丸、丁卯丸の6隻の艦隊を集結させた。開陽丸を失い制海権を失った榎本艦隊は回天丸、播龍丸の2隻を残すのみであった。

 

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2024年6月 6日 (木)

第19話「超兵器甲鉄艦」|明日なき戦いの果てに

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 新政府は旧幕府軍が箱館を占領すると青森に部隊を集めて交戦の準備を始めた。明治元年(1868年)11月9日、奥羽征討軍参謀山田顕義を青森口陸軍参謀とし、19日に旧幕府軍追討令を出して箱館府知事の清水谷公考を青森口総督とした。新政府陸軍は明治2年2月に青森に集結し雪解けを待った。海軍は米国から最新鋭装甲軍艦の甲鉄艦を2月に購入した。甲鉄艦は衝角と大砲3基が備えた超兵器の装甲軍艦であった。

甲鉄艦
甲鉄艦

 3月9日、長崎海軍伝習所出身の海軍参謀の増田虎之助(明道)が率いる甲鉄艦を旗艦とする春日丸、陽春丸、丁卯丸、豊安丸、戊辰丸、晨風丸、飛龍丸の8隻の艦隊が品川沖から青森に向かった。

 新政府軍艦隊が宮古湾に入る情報を得た箱館政権はフランス海軍士官アンリ・ニコールの発案による甲鉄艦拿捕の計画を立て3月20日に荒井郁之助を指揮官とし回天丸、蟠竜丸、第二回天(高雄丸)を派遣した。この艦隊には土方歳三が率いる陸軍兵が乗船していた。

回天丸
回天丸

 23日の暴風雨の影響で集結地の山田湾に到着したのは回天丸と第二回天だけで蟠竜丸は鮫港(八戸)で待機した。第二回天は蒸気機関のトラブルのため回天丸のみで計画を実行することになった。25日早朝、回天は宮古湾へ突入し甲鉄艦を奇襲した。回天丸は外輪船のため横付けできず甲鉄艦の側面に艦首を突っ込み、さらに船高が甲鉄艦より高いため兵隊の突入が制限される不利な体勢となった。

甲鉄艦へアボルタージュする回天丸
甲鉄艦へアボルタージュする回天丸

 甲鉄艦に飛び降りる兵隊はガトリング砲や小銃で撃たれ、新政府軍の他の軍艦が参戦したため甲鉄艦の拿捕は失敗に終わった。回天丸と蟠竜丸は箱館に帰還できたが第二回天は新政府軍に拿捕された。この宮古湾海戦で回天丸艦長の甲賀源吾、新選組の野村利三郎をはじめ19名が戦死した。この宮古湾海戦の回天丸の奇襲を評価したのが新政府軍の春日丸に乗船し砲術士官として参戦していた後の元帥海軍大将東郷平八郎である。

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2024年5月30日 (木)

第18話「箱館政権樹立」|明日なき戦いの果てに

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 松前藩は大政奉還後は新政府に恭順を示す一方で奥羽越列藩同盟に加わり日和見していたが尊皇派の家臣たちが隆起し新政府側についた。旧幕府軍は降伏勧告に向かった使者が殺されたため土方歳三のもと彰義隊、額兵隊、衝鋒隊などが明治元年(1868年)11月5日に松前城を攻め落とした。このとき松前藩主と主力部隊は既に渡島国檜山郡館城に移動していた。

 続いて星恂太郎率いる額兵隊が先鋒となり江差攻略に向かった旧幕府海軍が15日に江差を占領していた。ところが同日の暴風波浪で開陽丸が江差で座礁し数日後に沈没、旧幕府軍は主力軍艦を失った。館城は松岡四郎次郎が率いる部隊などの攻撃で15日に落城、松前藩主らは熊石から弘前藩へ撤退した。旧幕府軍は蝦夷地を制圧した。

 旧幕府軍は様々な組織の残党の集まりで統制が難しい状況にあった。そこで米国政治体制などを参考に日本初の選挙となる公選入札を行うことになった。選挙の結果、武陽が総裁に選出され12月15日に箱館政権が樹立した。新政府は武陽の蝦夷地開拓と防衛の嘆願書を却下し箱館政権を認めなかった。開陽丸を失った箱館政権は制海権を確保できなくなり新政府軍が蝦夷地へ上陸を開始、函館戦争が開戦した。

箱館政権閣僚
箱館政権閣僚
前列左から荒井郁之助、榎本武揚
後列左から小杉雅之進、榎本対馬、林董、松岡磐吉

箱館政権首脳陣

総裁 榎本武揚

副総裁 松平太郎

海軍奉行 荒井郁之助

陸軍奉行 大鳥圭介

陸海裁判官 竹中重固、今井信郎

陸軍奉行並 土方歳三

箱館奉行 永井尚志 松前奉行 人見勝太郎

江差奉行 松岡四郎次郎 小杉雅之進

開拓奉行 澤太郎左衛門

会計奉行 榎本道章 川村録四郎 

海軍頭 松岡磐吉 海軍頭並 甲賀源吾 根津勢吉 小笠原賢蔵 古川節蔵 浅羽甲次郎

歩兵頭 本多幸七郎 古屋佐久左衛門 歩兵頭並 滝川充太郎 伊庭八郎 大川正次郎 松岡四郎次郎 春日左衛門 星恂太郎 天野新太郎 永井蠼伸斎

砲兵頭並 関広右衛門 中島三郎助

工兵頭並 吉沢勇四郎 小菅辰之助 

器械頭並 宮重一之助 渋沢成一郎

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