カテゴリー「明日なき戦いの果てに」の12件の記事

2024年4月12日 (金)

第11話「薩長同盟のゆくえ」|明日なき戦いの果てに

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 文久2年(1862年)8月の生麦事件をきっかけとして薩摩藩とイギリスの間で文久3年(1863年)7月に薩英戦争が起こった。戦後の講和交渉で薩摩藩とイギリスは友好関係を築き、イギリスから武器を輸入するようになった薩摩藩は軍事力を高めた。

 文久3年(1863年)8月、薩摩藩と会津藩は強硬な尊皇攘夷派の長州藩勢力や公家を京都から追放する八月十八日の政変を起こした。元治元年(1864年)7月、長州藩勢力が会津藩勢力を排除しようと禁門の変(蛤御門の変)を起こすと長州藩は朝敵とされ、幕府は慶応元年(1865年)5月に第一次長州征討を行った。薩摩藩の参戦により長州藩は敗北し、朝敵とされた長州藩は武器を入手できなくなった。

 薩英戦争で西洋の強大な軍事力を知った薩摩藩は旧態依然の幕政では日本を守ることができないと考えるようになった。同じ頃、日本の将来を憂いていたのが土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎だった。列強を前に国内が分断していては日本の未来が危ぶまれると考えていたた龍馬に勝海舟は薩摩藩の西郷隆盛を紹介した。龍馬は隆盛に長州藩と手を結ぶよう提案し、長州藩の桂小五郎にも薩摩藩と手を結ぶよう手引きした。敵対していた長州藩と薩摩藩の折り合いはなかなかつかなかったが、龍馬の亀山社中が薩摩藩名義で武器を購入し長州藩に武器を提供すると関係が改善した。そして慶応2年(1866年)1月21日、京都市上京区の薩摩藩の家老の小松帯刀(清廉)邸で西郷隆盛と長州藩の桂小五郎の間でついに薩長同盟が締結された。

薩長同盟に関わった志士たち(西郷隆盛・小松帯刀・桂小五郎・坂本龍馬・中岡慎太郎)
薩長同盟に関わった志士たち
西郷隆盛・小松帯刀・桂小五郎
坂本龍馬・中岡慎太郎

 長州藩の敵対姿勢が強まると、幕府は長州藩に説明を求めたが応じないため同年6月に第二次長州征伐を行った。戦況は長州藩が不利だったが薩摩藩は参戦しなかった。長州藩が薩摩藩から購入した西洋式軍艦や武器で奮戦していたところ7月20日に将軍家茂が死去したこともあり幕府軍は総崩れとなり長州藩が勝利した。時代は倒幕に向けて流れ始めた。

 

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2024年4月 6日 (土)

第10話「渋沢従兄弟の有為転変な人生」|明日なき戦いの果てに

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 渋沢成一郎は天保9年(1838年)に武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市血洗島)の渋沢文左衛門の長男として生まれた。渋沢家は代々養蚕業を営む名主である。文左衛門の家は分家だったが本家の跡継ぎとして弟の源助が養子に出た。この源助の長男が渋沢栄一である。

 成一郎と栄一は年長の従兄尾高惇忠のもとで儒教や日本史を学んだ。惇忠は第9代水戸藩主徳川斉昭の鷹狩りを見て尊皇攘夷論の基礎となる水戸学に傾倒していた。影響を受けた2人は江戸に赴き儒学と北辰一刀流の剣術を学び、勤王の志士と尊皇攘夷をめざすようになった。

 文久3年(1863年)、惇忠、成一郎、栄一は高崎城を乗っ取り横浜の外国人居留地を攘夷する計画を立てた。京都で八月十八日の政変を見た惇忠の弟尾高長七郎は無謀な計画を中止するよう説得した。成一郎と栄一は説得に応じ京都に赴いたが攘夷の勢力は衰退していた。

 このとき2人は江戸で知り合った一橋徳川家の家臣平岡円四郎と再会し、志はそのまま円四郎の家臣となった。翌年、長七郎が江戸で捕まり所有していた書簡から2人の倒幕の志が露見したが、円四郎は2人を処分せず一橋徳川家の家臣となるよう勧めた。倒幕の志士が幕府直属家臣になる矛盾はあれど死んでしまっては元も子もないと考えた2人は提案を受け入れた。一橋徳川家当主は斉昭の子徳川慶喜で幕府の中心とは異なる考えを持っていた。2人は慶喜のもとで良く働き高く評価された。

 慶応2年(1866年)12月、慶喜が第15第征夷大将軍となると転機が訪れた。栄一は慶応3年(1867年)にフランスのパリの万国博覧会に派遣され先進的な政治や産業の近代社会に目覚めた。幕府終焉時は日本におらず帰国後は新政府で官僚として働き実業家に転身した。一方の成一郎は幕末の混乱の中で鳥羽・伏見の戦いに参戦、将軍警護のため彰義隊を結成、後に榎本武陽と行動をともにし箱館へ向かった。

尾高惇忠と渋沢成一郎と渋沢栄一
尾高惇忠と渋沢成一郎と渋沢栄一

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2024年3月30日 (土)

第9話「浪士組西へ」|明日なき戦いの果てに

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 近藤勇は天保5年(1834年)10月5日に武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市野水)に農家の三男として生まれた。幼名は勝五郎とし後に勝太と改めた。嘉永元年(1848年)11月に天然理心流剣術道場の試衛場に入門、万延2年(1861年)に流派一門の宗家を継いだ。

 土方歳三は天保6年(1835年)5月5日に武蔵國玉郡石田村(東京都日野市石田)の農家の末子として生まれた。姉が嫁いだ天然理心流の佐藤彦五郎の道場に出入りし、ここで彦五郎と義兄弟の契りを結んでいた勇に出会った。安政6年(1859年)3月に天然理心流に入門した。

 文久3年(1863年)、徳川家茂は朝廷から攘夷実行の一任を取るため第3代将軍徳川家光以来229年ぶりに上洛することになった。同年2月、勇と歳三は試衛館の同志たちと家茂の上洛警護のために結成された浪士組に応募したが、浪士組を集めた清河八郎は実は倒幕と尊王攘夷の志を持っていた。浪士組が京都壬生(みぶ)に到着後、八郎は生麦事件で横浜に現れた英国艦隊を攘夷するため将軍警護を行わず江戸に戻ることを告げた。浪士組の目的が尊皇攘夷運動であることが露呈し芹沢鴨や勇が反発した。浪士組と江戸に戻った八郎は同年4月に幕府の刺客に暗殺された。浪士組は江戸の治安警備を担う庄内藩の新徴組となった。

清河八郎と近藤勇と土方歳三
清河八郎と近藤勇と土方歳三

 鴨、勇、歳三らは京都残留を決め京都守護会津藩藩主松平容保の預かりとなり壬生浪士組と呼ばれる治安維持組織を結成した。文久3年(1863年)、強行的な攘夷派の公家や長州藩を京都から追い出す八月十八日の政変へ出動し会津藩から新撰組という隊名を授けら同年9月25日に改名したと伝えれている。新撰組とは会津藩で本陣を守る武芸に奏でた優秀なものたちに与えられていた隊名だった。

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2024年3月26日 (火)

第8話「オランダへ航れ」|明日なき戦いの果てに

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 列強に劣らない軍艦が必要と考えた幕府はタウンゼント・ハリスに軍艦建造を頼んだが米国の南北戦争による混乱を理由に断わられた。そこで幕府はオランダに軍艦を発注し、軍艦の引き取りと西洋式操船や学問を学ばせるため内田恒次郎、榎本釜次郎(武揚)、澤太郎右衛門など長崎海軍伝習所出身者を中心とした留学生15名を派遣した。

 文久2年(1862年)6月、彼らは咸臨丸で品川沖を出港し長崎に向かった。同年9月、オランダ船で長崎を出港、途中暴風雨で無人島に漂着するも文久3年(1863年)4月にオランダのロッテルダムに到着した。

 釜次郎は長崎海軍伝習所でオランダ人教員から高く評価され、卒業後は築地軍艦操練所の教授となった。この頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、ここで江川英龍の縄武館兵学教授の大鳥圭介と出会った。

 釜次郎は開陽丸が竣工するまで西洋式船舶、砲術、蒸気機関に加え化学や国際法を学び欧州諸国を視察した。幕府がオランダに発注した最新鋭の軍艦の名前は釜次郎が発案した夜明け前(オランダ語Voorlichter、フォールリヒター)に由来し開陽丸と名付けられた。釜次郎は日本の国情を考え夜明け前を想起したと伝えられている。新しい時代の幕開けを実感していたのだろう。

開陽丸とオランダ留学時の榎本釜次郎(武陽)
開陽丸とオランダ留学時の榎本釜次郎(武陽)

 開陽丸は全長72 m、排水量2590 tの船体に400馬力の蒸気機関と大砲26門(後に35門)を備えていた。速さ10ノット(時速18.5 km)で航行し、クルップ砲の射程距離は3,900 mに及んだ。航海試験を担当したジュール・アーサー・エミール・ディノー海軍大尉はオランダに開陽丸に勝る軍艦はないと絶賛した。1866年12月1日、開陽丸はオランダのブリッシンゲンを出航、アフリカ南端を経てインド洋を渡り1867年4月30日に横浜港に到着した。幕府軍艦奉行の勝海舟が開陽丸を出迎え、榎本武揚は軍艦頭並、澤太郎左衛門は軍艦役並に就任した。

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2024年3月23日 (土)

第7話「混乱する幕政」|明日なき戦いの果てに

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 日米和親条約のもと安政5年(1858年)に初代日本総領事に就任したタウンゼント・ハリスは幕府に通商条約の締結を求めた。穏やかで冷静な態度のハリスの主張を聞いた13代将軍徳川家定や老中首座の堀田正睦は列強から日本を守るためには条約締結はやむを得ないと考えるようになった。日米和親条約締結以降、水戸藩を中心とした幕政への批判や外交勢力を追い払う攘夷論が高まっていた。幕府はこれらを抑えるため条約締結にあたり孝明天皇の勅許を得ることにした。

 正睦は勅許を得るため上洛したが攘夷派の公家が条約締結に反対した。同年3月12日に朝廷に条約議案が提出されると、堂上家137家のうち岩倉具視ら合計88名が抗議の座り込みを行う廷臣八十八卿列参事件を起こした。和親条約は問題ないと考えていた孝明天皇も通商条約は国の秩序を乱すと勅許を拒否した。家定は井伊直弼を大老に指名し勅許を得られなかった正睦は失脚した。

タウンゼント・ハリス、井伊直弼、徳川家茂
タウンゼント・ハリス、井伊直弼、徳川家茂

 ハリスからの催促に直弼は孝明天皇の勅許を得ないま同年6月19日に日米修好通商条約を締結、同年9月までに列強と安政五カ国条約を結んだ。幕府は条約批准書交換のため米国軍艦ポータハンで万延元年遣米施設団を派遣し、咸臨丸で木村喜毅、勝海舟、ジョン万次郎などを随行させた。

 開国を主張する南紀派の直弼は同年に徳川家茂を第14代将軍とし条約を締結させた。攘夷を主張し徳川慶喜を将軍に推した水戸藩などの一橋派が将軍人事や条約締結に反発すると、直弼は反抗者を粛正した(安政の大獄)。これが反感を買い直弼は安政7年(1860年)3月に水戸浪士らに江戸城桜田門外で暗殺された(桜田門外の変)。攘夷論は天皇や皇室を政治の中心とするべきという考えの尊王論と結びつけられ、反幕府の尊皇攘夷運動が起こり幕政の混乱が始まった。

 

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2024年3月19日 (火)

第6話「五稜郭築城」|明日なき戦いの果てに

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 安政元年(1854年)3月、日米和親条約で箱館が開港すると幕府は蝦夷地を直轄し6月に箱館奉行を基(もとい)坂(ざか)(元町公園)に設置した。初代箱館奉行には竹内保徳が就任したが、間もなく堀利煕が就任し2人体制となった。保徳は基坂いあった松前藩の箱館奉行詰役所の改築を考えたが利煕は箱館港や箱館山に近く防衛に難があるとし内陸への移転を唱えた。保徳と利煕は幕府に箱館湾内からの艦砲射撃が届かない亀田の鍛治村に城を築き箱館奉行を移転する意見書を提出、老中阿部正弘がこれを了承し五稜郭と箱館港に弁天台場を建設することになった。

五稜郭設計図と箱館奉行所と武田斐三郎
五稜郭設計図と箱館奉行所と武田斐三郎

 五稜郭の設計は蘭学者の武田斐三郎が担当した。斐三郎は安政2年(1855年)7月にフランス軍艦コンスタンティーヌが乗組員の病気療養のために箱館に寄港した際、同艦副艦長から得た星形要塞や大砲の図面を参考に五稜郭と函館港の弁天台場の設計を行った。当時、日本とフランスは和親条約を結んでおらずフランス軍艦の入港は保徳が人道的に許可したものである。このフランス軍艦の入港がなければ星形要塞の図面は入手できておらず五稜郭も違った形状をしてたかもしれない。

 弁天台場が完成したのは文久3年(1863年)、五稜郭は元治元年(1864年)に竣工し箱館奉行が移転された。

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2024年3月15日 (金)

第5話「長崎海軍伝習所」|明日なき戦いの果てに

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 黒船来航後、幕府は海防強化のため西洋式軍艦の輸入を決めた。またオランダの協力により長崎に海軍士官を養成する長崎海軍伝習所を安政2年(1855年)に設立した。

 長崎海軍伝習所の初代総監理には永井尚志が就任、オランダから教員が派遣され蒸気船の観光丸が練習船として供与された。伝習所の最初の目的はオランダに発注した咸臨丸と朝陽丸の乗組員養成であり第一期生37名が入校した。勝海舟、矢田堀景蔵、中島三郎助、佐々倉桐太郎、石井修三、小野友五郎、春山弁蔵、浜口興右衛門、岩田平作、山本金次郎、上田寅吉など幕末の海軍を支えた蒼々たる顔ぶれだった。

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「長崎海軍伝習所絵図」鍋島報效会蔵と永井尚志

 榎本釜次郎(武陽)も入校を希望したが叶わず聴講生となり翌年に第二期生として入校した。伝習生は第三期まで募集された。第二期と第三期の総監理には木村喜毅が就任した。第二期は伊沢謹吾、榎本武揚、肥田浜五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉、岡田井蔵、勝海舟など、第三期は澤太郎左衛門、赤松大三郎、内田恒次郎、合原操蔵、小杉雅之進、田辺太一、根津勢吉、松本良順、勝海舟、五代友厚などが入校している。

 安政4年(1857年)4月に築地軍艦操練所が設立されると、長崎海軍伝習所はその役割を終え安政6年(1859年3月)に閉鎖された。長崎海軍伝習所の卒業生達は戊辰戦争では新政府軍、旧幕府軍として参戦し袂を分かつことになったが、彼らは海軍で活躍し伝習所設立の目的である日本の海防を支えた者たちだったことは間違いない。

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2024年3月14日 (木)

第4話「マシュー・ペリー箱館へ」|明日なき戦いの果てに

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 黒船艦隊が離日して10日後、将軍家慶が死去した。この事実を知ったペリーは幕政が混乱する中で交渉を有利に進めるため幕府と約束した1年の猶予を反故にし半年後の嘉永7年(1854年)1月に再来日した。合計9隻の艦隊を江戸湾に侵入させ圧倒的な軍事力のもと砲艦外交を行ったのである。幕府は同年3月3日に日米和親条約を締結、伊豆の下田と蝦夷地の箱館が開港された。

 ペリーが箱館に視察に訪れたには4月21日だった。このときペリー迎えたのは松前藩だった。幕府は松前藩に箱館開港は知らせていたものの日米通商条約締結は伝えていなかった。松前藩が条約の内容を把握したのは米国から提示された条文を見たときである。松前藩は函館港の取り決めについて権限がないことを理由に交渉を断った。ペリーは5月8日に箱館を出港し下田で幕府と協議をすることにした。

 写真はペリーを出迎えた松前藩家老の松前勘解由と従者である。ペリーの艦隊に随行した写真家エリファレット・ブラウン・ジュニアが撮影したもで現存する日本最古の銀板写真のひとつである。

松前藩家老の松前勘解由と従者
松前藩家老の松前勘解由と従者

 幕府が日米通商条約を知らせなかった背景には蝦夷地の直轄化を目論んでいたからと言われている。実際に幕府は安政2年(1855年)2月に蝦夷地を直轄化し、松前藩の領地を松前城を中心に渡島半島の南西部のみとした。松前藩は代償の領地や手当金を受けたが財政難となった。元治元年(1864年)に松前崇広が江戸幕府老中に就任するも財政難は続いた。同年、幕府による長州征伐が行われ、松前藩は新政府軍として戊辰戦争に巻き込まれていくことになる。

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2024年3月13日 (水)

新撰組の日(1863年3月13日)

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 3月13日は「新撰組の日」です。実は「新撰組の日」はもうひとつあってそちらは2月27日です。2月27日は新撰組の前身となる「浪士組」が文久3年(1863年)2月27日に結成されたことに由来します。3月13日は文久3年(1863年)3月13日に「浪士組」が都守護職を務めていた会津藩預かりとなり「壬生浪士組」と名乗ったことに由来します。こちらは東京都日野市観光協会が制定したものです。

新撰組の隊旗
新撰組の隊旗

 新撰組の中心人物と言えば近藤勇と土方歳三です。

 近藤勇は天保5年10月5日(1834年11月5日)に武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市野水)に農家の三男として生まれ幼名は勝五郎とし後に勝太と改めました。嘉永元年(1848年)11月11日に牛込(東京都新宿区)の天然理心流剣術道場試衛場に入門、万延2年8月27日に府中六所宮で天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い流派一門の宗家を継ぎました。流派の門人同士で付き合いを広げました。

 土方歳三は天保6年5月5日(1835年5月31日)武蔵國玉郡石田村(東京都日野市石田)の農家の末子として生まれました。14歳から24歳まで奉公に出て、その後は実家に戻り土方家秘伝薬「石田散薬」の行商を行いながら剣術の修行に励みました。姉が嫁いだ天然理心流の佐藤彦五郎の道場に出入りし、ここで彦五郎と義兄弟の契りを結んでいた試衛館の近藤勇に出会いました。安政6年(1859年)3月9日、天然理心流に正式に入門しました。

 文久3年(1863年)2月、近藤勇と土方歳三は試衛館の同志たちと第14代将軍徳川家茂警護を目的とする浪士組に応募し京都に赴きました。この浪士組は腕が立てば犯罪者でも農民でも応募ができたが、浪士組を発案した清河八郎 は実は倒幕と尊王攘夷の思想の持ち主でした。つまり勇や歳三は清河八郎の策略に騙されて浪士組に応募したことになります。

 八郎は上洛を予定していた将軍家茂の前衛として同年2月8日に浪士組を率いて京都へ向けて出発しました。八郎と浪士組は2月23日に京都の壬生村に到着しました。八郎は同日夜に浪士たちを壬生の新徳寺に集め浪士組全員の署名を取り御所学習院に上書を提出すると説きました。八郎は浪士組を幕府から切り離して尊王攘夷運動をさせることを企てていたのです。しかし、八郎の説明の仕方が巧みだったのでしょう。このときは尊皇論や攘夷論に異論を唱えるものはいませんでした。しかしながら、八郎の説明は幕府と距離を置いた朝廷に偏ったもので違和感をもったものもいたと思われます。上書は24日に提出され、2月28日から浪士組の御所拝観を行う予定があったと伝えられています。

 2月29日、八郎は再び浪士たちを新徳寺に集めました。文久2年8月21日(1862年[1]9月14日)に起きた生麦事件の幕府の処理に不満を感じた英国艦隊が横浜に現れたのです。八郎は江戸へ帰還し英国艦隊に対して攘夷を行うことを唱えたのです。3月3日、朝廷から江戸へ戻るよう沙汰が下りましたが、将軍家茂が京都に来るのは3月4日でした。これによって八郎が発案した浪士組の本当の目的が将軍警護でなく尊王攘夷運動であることが露呈したのです。これに対して芹沢鴨や勇が反発し、浪士組の取締役の鵜殿鳩翁が辞任、後任に高橋泥舟が取締役となりました。こうした混乱で御所拝観が行われたかどうかは定かではなく前日の2月27日に新撰組の原点となる「浪士組」が結成された日とされています。

 3月13日、浪士組は江戸に戻りました。江戸に戻った八郎は4月13日に幕府の命令で暗殺されました。江戸に戻った浪士組は攘夷活動を取らず江戸の治安警備を担う「新徴組」となりました。一方、鴨や勇らは江戸に戻らず京都残留を決め京都守護の会津藩を頼りました。会津藩の野村左兵衛の進言で会津藩預かりとなりました。京都守護職の会津藩主の松平容保は鴨や勇に京都の治安維持組織を結成することを認めました。この治安組織は「壬生浪士組」と呼ばれました。やがて壬生浪士組の内部抗争が起こり、鴨が筆頭、勇と新見錦が局長となりました。

 壬生浪士組 は文久3年8月18日(1863年9月30日)に起きた「八月十八日の政変」に出動、会津藩は「壬生浪士組」に「新撰組」という隊名を授け、同年9月25日に「新撰組」と改名したと伝えれています。新撰組はかつて会津藩で本陣を守る武芸に奏でた優秀なものたちに与えられていた隊名でした。

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2024年3月 9日 (土)

第3話「黒船が来た」|明日なき戦いの果てに

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 嘉永6年(1853年)6月3日午後5時頃、相模国浦賀沖に日本人がそれまで見たことのない大きな黒塗りの4隻の船団が現れた。2隻は蒸気外輪フリゲート艦で煙突から煙を吐き出し2隻の帆船を従えていた。黒船来航で知られるこの艦隊はアメリカ合衆国第13代大統領ミラード・フィルモアが日本に開港と通商を求める親書を幕府に渡す目的で派遣したマシュー・ペリー提督率いる海軍東インド艦隊であった。

 浦賀奉行所は直ちに中島三郎助とオランダ語通詞の堀達之助を艦隊旗艦サスケハナに派遣した。達之助が旗艦に向かって英語でオランダ語が話せることを伝えると会話はオランダ語通訳で行われ、三郎助は自らを副奉行と称して乗船した。2人は艦隊の来航の目的を聞き出すなど重要な役割を果たしたが、三郎助の階級が低いという理由で親書を受け取ることはできなかった。6月4日、浦賀奉行所与力香山栄左衛門が浦賀奉行と称して訪れたが対応は変わず、ペリーは測量と称して軍艦を江戸湾に侵入させるなどの示威行動をした。

江戸湾を測量する艦隊
江戸湾を測量する艦隊とマシュー・ペリー(1855~1856)

 幕府はペリーに久里浜の上陸を認め6月6日に陸海の警備のもと浦賀奉行が会見を行った。親書を受け取った幕府は将軍徳川家慶が病で決断できる状態にないことから返事に1年間の猶予が欲しいことを伝えた。ペリーはこれを了承し1年後に再来日すると6月12日に江戸を離れた。

 この黒船来航で三郎助はペリーの軍艦を念入り調べた。海防に危機感を抱いた三郎助は日本も大型軍艦を建造し艦隊を所有する必要性を説いた。幕府は浦賀奉行に洋式軍艦の建造を認め三郎助らが中心となって嘉永7年(1854年)に日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」を完成させた。

鳳凰丸
鳳凰丸(安政2年2月・1855年3月)

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