カテゴリー「箱館戦争・戊辰戦争」の51件の記事

2025年1月23日 (木)

坂本龍馬が襲撃される|寺田屋遭難(慶応2年1866年1月23日)

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 慶応2年(1866)年1月21日に薩長同盟が成立。坂本龍馬は同年1月23日に護衛の長府藩士である三吉慎蔵(みよししんぞう)と定宿していた京都伏見の寺田屋に戻りました。龍馬は桂小五郎と西郷隆盛による薩長同盟の成立の顛末を慎蔵に説明し祝杯を交わしたと伝えられています。

  【参考】薩長同盟(1866年1月21日)

坂本龍馬 三吉慎蔵
坂本龍馬(左)と三吉慎蔵(右)

 当時、伏見の京橋は京都と大坂を結ぶ過書船が荷の揚げ降ろしと旅客の乗降をする船着き場として栄えていました。そのため多くの宿屋が建ち並び寺田屋もそのひとつでした。坂本龍馬が寺田屋を定宿とたのは寺田屋が薩摩藩の指定宿だったからです。寺田屋では文久2年(1862)に薩摩藩志士の粛清「寺田屋事件」が起きています。

  【参考】寺田屋事件こと薩摩藩志士粛清事件(1862年4月23日)

 寺田屋には宿を1人で切り盛りする面倒見の良いお登勢という女将がいました。龍馬をはじめとする多くの志士たちがお登勢を懇意にしていました。元治元年(1864年)、龍馬はお登勢に恋仲で身寄りのない楢崎龍を寺田屋で預かってもらうよう頼み込みました。お登勢は龍馬の願いを聞き、お龍はお春という名前でお登勢の娘分となり寺田屋で住み込みで働くことになりました。

寺田屋の女将のお登勢 楢崎龍
寺田屋の女将のお登勢と楢崎龍

 龍馬は文久2年(1862年)に幕府政事総裁職の松平春嶽の紹介により幕府軍艦奉行並の勝海舟と出会っています。龍馬は海舟に心服し海舟が開いた神戸海軍操練所の海軍塾塾頭を努めました。しかしながら倒幕派と尊皇派が対立し幕政が混乱する中で海舟と龍馬の幕府における立場が危うくなりました。海舟の紹介で薩摩藩との関係を深めていた龍馬の行動は問題視されるようになり倒幕派につながる要注意人物と見なされるようになりました。

 慶応2年(1866年)1月23日、龍馬が慎蔵と寺田屋に戻ると伏見奉行所に連絡が入りました。伏見奉行の肥後守の林忠交は龍馬の捕縛を命じ、同日深夜2時頃、伏見奉行所の役人と捕り方が寺田屋を包囲しました。この異変に気がついたのが入浴中のお龍でした。龍馬の危機を悟ったお龍は裸のまま裏階段を駆け上がり2階にいた龍馬と慎蔵に異変を知らせました。伏見奉行所の役人が龍馬が慎蔵に詰問すると2人は薩摩藩士と詐称しました。しかしながら、役人は肥後守の上意として捕り方に龍馬らの捕縛を命じました。

 龍馬は高杉晋作から譲られた拳銃スミス&ウェッソン・モデル2を発砲、慎蔵は手槍を振るって防戦しました。2人は捕り方2名を射殺し数人を殺傷しました。しかしながら多勢に無勢で龍馬は左右の手の親指を切られ拳銃を扱えなくなりました。

ミス&ウェッソン・モデル2
ミス&ウェッソン・モデル2

 慎蔵が必死に防戦しているとお龍が裏木戸に置いてあった大きな石がのった漬物槽を力任せにどかして龍馬らを逃しました。龍馬らは寺田屋を脱出し材木屋に身を隠しました。龍馬が動けなくなると護衛役の慎蔵は責任を感じ切腹しようとしました。しかし龍馬はこれを制止し薩摩藩邸に救援を求めに行くよう命じました。慎蔵はその場に龍馬を残して薩摩藩伏見屋敷に向かいました。

 慎蔵の報告を受けた薩摩藩邸留守居役の大山彦八は藩士3名をつれて川舟で救出に向かいました。これによって龍馬は薩摩藩に救出され九死に一生を得ました。ことの顛末は直ちに京都の西郷隆盛に報告されました。隆盛は薩摩藩士の吉井友実を伏見に派遣し情勢を探らせました。また軍医を薩摩藩邸に派遣し龍馬の治療と警護を命じました。

 翌日、伏見奉行は薩摩藩邸に龍馬の引き渡しを要求しましたが薩摩藩はこれを拒否しました。その後、龍馬とお龍と慎蔵は西郷隆盛の勧めで京都から逃れ薩摩藩の船で大阪から脱出しました。 慎蔵は下関で下船し情勢を報告するため長府藩に戻りました。龍馬はお龍と鹿児島に逃れ隆盛の紹介で湯治などをしながら旅をして過ごしました。この龍馬とお龍の旅が日本人として初めての新婚旅行とされています。龍馬が受けた傷は深く以降の写真撮影では龍馬は左手を隠していることが多いという指摘があります。

 さて寺田屋遭難に新選組が関わったという言い伝えもありますが、これは伏見奉行の林忠交の肥後守と京都守護職の松平容保の肥後守が誤認され、容保の配下の新選組が関与したと誤った説が流布されたものです。龍馬も慎蔵も伏見では新選組に捕縛されておらず嫌疑は受けていませんでした。伏見奉行は薩摩藩士を詐称する浪人が寺田屋に出入りしていることから目を付けたようです。

 第二次長州征討が始まると慎蔵は長府藩の報國隊軍監として高杉晋作指揮のもと長州藩の奇兵隊と幕府軍と戦いました。この戦には龍馬も参加しています。このときお龍は長崎の豪商の小曽根英四郎のもとで過ごしました。第二次長州征討後、龍馬は亀山社中(後の海援隊)の拠点を下関に置きお龍を呼び寄せています。龍馬とお龍は下関での生活を楽しみましたが下関が龍馬とお龍の最後に過ごした場所となりました。

 龍馬は慶応3年(1867年)11月15日に京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋井口新助邸において暗殺されていますが、襲撃は新選組によるものではなく京都見廻組によるものでした。この襲撃は龍馬が「寺田屋遭難」で伏見奉行所の捕り方を殺害したことに対する公務執行とされています。これは箱館戦争後に元京都見廻組今井信郎が自供したものです。

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2025年1月21日 (火)

薩長同盟の六箇条(慶応2年1866年1月21日)

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 慶応2年(1866年)1月21日、薩摩藩が近衛家から借りて小松帯刀が使用していた京都の近衛家別邸御花畑屋敷において薩長同盟が締結されました。近衛家別邸御花畑御屋敷跡には薩長同盟締結の地の記念碑が立てられています。

薩長同盟締結の地の記念碑(近衛家別邸御花畑御屋敷跡)
薩長同盟締結の地の記念碑(近衛家別邸御花畑御屋敷跡)

 近衛家別邸御花畑御屋敷は現存しえおらず薩長同盟締結の地の記念碑は屋敷のあった道端にひっそりと建てられています。

 

 慶応2年(1866年)1月8日、近衛家別邸御花畑屋敷において西郷隆盛と桂小五郎の会談が行われましたが交渉は難航し薩長同盟の締結は困難な状態にありました。このとき坂本龍馬は下関に出かけており同席していませんでした。後日、下関から戻った坂本龍馬は薩長同盟の交渉が暗礁に乗り上げていることを知り桂小五郎にその理由を確認しました。桂小五郎は薩摩藩に頭を下げて譲歩することはこれ以上できないと表明しました。慶応2年(1866年)1月21日、西郷隆盛と小松帯刀は長州に戻ろうとしていた桂小五郎を呼び止め六箇条の条文を提示しました。桂小五郎はその場で条文の内容を確認し薩長同盟の締結を了承しました。このときの出席者は同盟を仲介した坂本龍馬、薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通・島津伊勢・桂久武・吉井友実・奈良原繁、長州藩の桂小五郎・品川弥次郎・三好軍太郎でした。

 薩摩藩から出された六箇条の条文とは会談の内容そのものでありその記録は残っていませんが、後日に桂小五郎が記憶を頼りに書き留めたものです。桂小五郎が書き留めた六箇条は次の通りです。

 一、戦ひと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事

  (戦いが始まったら直ちに2千余りの兵を急いで送り現在京にいる兵と合流させます。大阪にも1千の兵を配置し京都と大阪の両方を守を固めること)

 一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事

  (戦いに勝てそうと有利な兆しが見えたときは朝廷に働きかけて講和を成立させること)

 一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事

  (万一、戦いに負けそうでも1年や半年で決着がつくことはなく、その間も全力で戦うこと)

 一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事

  (もし幕府の兵が東に帰還した際には、直ちに朝廷に訴え速やかに冤罪を晴らすよう全力で尽力すること)

 一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事

  (橋会桑等が現在のような状況で朝廷を利用して正義に従わず調停を妨害した時は決戦に及ばざるを得ないこと)

 一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事

  (冤罪が晴れた後は双方が誠意を持って協力し皇国の皇威の回復を目指して全力を尽くすこと)

 桂小五郎はこの書き留めた六箇条に誤りがないかどうかを慶応2年1月23日付の書簡で坂本竜馬に確認を依頼しています。坂本龍馬は2月5日付で書簡に「表に御記成被候六条は小西両氏及老兄龍等も御同席にて談論せし所にて毛も相違これ無き候、後来といへとも決して変り候事はこれ無きは神明の知る所に御座候」と朱書きした返書を送り会談の内容に相違ないことを伝えています。

坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」
坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」

【関連記事】

薩長同盟(1866年1月21日)

第11話「薩長同盟のゆくえ」|明日なき戦いの果てに

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2024年12月19日 (木)

「錦の御旗」はどんな旗?

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 「錦の御旗」(にしきのみはた)は天皇(朝廷)に従う官軍が使用する旗です。錦旗、菊章旗、日月旗とも呼ばれます。赤字の錦に金色の太陽が描かれたものを日之御旗、銀色の月が描かれたものを月之御旗とされています。官軍が朝敵を討伐するときにその正当性を示すために天皇の権威を象徴する旗印として利用します。

 「錦の御旗」が歴史上で初めて使用されたのは承久3年(1221年)の「承久の乱」(じょうきゅうのらん)と伝えられています。「承久の乱」は
貴族政権を率いる後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して起こした戦で、このとき後鳥羽上皇が官軍に「錦の御旗」を授けました。

 「錦の御旗」はもともと定められたものではく様々な形状のものが使われました。文治5年(1189年)の源頼朝の鎌倉政権と奥州藤原氏が東北地方で戦った「奥州合戦」では「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号と鳩の意匠が入った旗印が使われました。鎌倉時代後期の元弘元年(1331年)の鎌倉幕府打倒を目指す後醍醐天皇と鎌倉幕府が戦った「笠置山の戦い」では日輪と月輪の意匠が入った旗印が使われています。室町時代いは「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号と日輪の意匠が入った旗印が使われるようになり、後に日輪と天照皇太神が入った「錦の御旗」と足利氏の家紋の二つ引両と八幡大菩薩が入った「武家御旗」が用いられるようになりました。

 近代では慶応4年(1868年)正月に「戊辰戦争」の「鳥羽・伏見の戦い」において薩摩藩本営の東寺に掲げられた「錦の御旗」が広く知られています。この「錦の御旗」は慶応3年(1867年)10月6日に公家の岩倉具視が薩摩藩の大久保利通と長州藩の品川弥二郎に授けたものです。岩倉具視の腹心で国学者の玉松真弘(玉松操)の図案をもとに大久保利通が西陣で大和錦と紅白の緞子を織らせ京都薩摩藩邸で「錦の御旗」を作りました。また品川弥二郎も大久保利通が調達した材料を長州に持ち帰り「錦の御旗」を作りました。

 「鳥羽・伏見の戦い」が開戦すると朝廷は朝敵の幕府軍を討伐する征討大将軍の仁和寺宮嘉彰親王に「錦の御旗」と「節刀」を与えました。「錦の御旗」が掲げられると官軍の士気は大いに高まり、その一方で賊軍とされた幕府軍の士気に大きな打撃を与えました。多くの幕府の兵が狼狽して退却したことが伝えられています。

 このとき使用された「錦の御旗」をはじめとする軍旗は陸軍省の遊就館(靖國神社)や宮内省図書寮に保存され、明治21年(1888年)に長州藩士の絵師の浮田可成(うきたかせい)が新政府の依頼で描いたものが「戊辰所用錦旗及軍旗真図」(ぼしんしょようきんきおよびぐんきしんず)全4巻にまとめています。この4巻は国立公文書館デジタルアーカイブの重要文化財(公文書)戊辰所用錦旗及軍旗真図で見ることができます。次の「錦の御旗」は「戊辰所用錦旗及軍旗真図」の1巻に収録されている「赤地大和錦御旗」で日像と天照皇大神の神号が描かれています。

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 慶応4年(1868年)1月11日に起きた備前藩兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させたことで銃撃戦に発展した「神戸事件」が起こりました。このとき神戸開港の祝事で寄港してイギリス・アメリカ・オランダ・フランス・イタリアの兵士が武装して神戸に上陸したことで神戸港は占領状態となりました。14日、土佐藩士の本山茂任らがが朝廷の高松・松山両藩の征討の勅と「錦の御旗」を土佐藩に運ぶ途上で「神戸事件」を知らずに通過したところフランス兵に不審尋問されました。意思の疎通が取れずに「錦の御旗」を没収される「錦旗紛失事件」が起こりましたが土佐藩士の中島信行や長州藩士の伊藤博文らの交渉により返却されています。

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2024年11月 5日 (火)

吉田松陰が松下村塾で教育を開始(1857年11月5日)

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 「松下村塾」(しょうかそんじゅく)は、江戸時代末期(幕末)に、長州萩城下の松本村(現在の山口県萩市)に存在した私塾である。

 「松下村塾」(しょうかそんじゅく)は幕末に長州藩の松本村(山口県萩市)に存在した私塾です。天保3年(1842年)に長州藩士の吉田松陰の叔父の玉木文之進によって開かれ、松陰も幼少の頃よりここで学びました。塾長は松陰の母方の叔父の久保五郎左衛門が務めました。

 長州藩には公式な教育機関として「明倫館」がありましたが、武士の身分しか入学できませんでした。これに対して「松下村塾」には身分に関係なく塾生として入学することができました。松陰は極めて優秀で9歳で「明倫館」の兵学師範となり、長州藩主の毛利敬親にも高く評価され重用され教育の機会が与えられました。「明倫館」では山縣有朋、桂小五郎(木戸孝允)が松陰から学んでいます。

吉田松陰
吉田松陰

 やがて松陰は西洋兵学の必要性を重視するようになり、嘉永3年(1860年)に江戸に遊学し佐久間象山などから西洋兵学を学びました。嘉永5年(1862年)、肥後藩の宮部鼎蔵らと東北の見学旅行を計画し、長州藩の通行手形が発行される前に出発する必要があることから脱藩を決意しました。水戸、会津、津軽、米沢などを訪れ見聞を広め江戸に戻りましたが長州藩から士籍剥奪ならびに世禄没収の処分を受けました。

 嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーの艦隊が浦賀に来航すると、松陰は師の象山と蒸気船の黒船を遠くから観察し西洋の先進的な文明に強い印象を受けました。その後、象山の勧めで外国留学を決意しました。

【参考】黒船来航(1853年7月8日旧暦6月3日)

 当時、幕府は外国渡航を禁止していたため密航するしかありませんでした。ロシアのエフィム・プチャーチンが率いる艦隊が日露和親条約の締結交渉のため長崎に来航したときに、松陰は同郷の金子重之輔とともにプチャーチンの軍艦に乗り込む計画を立てましたが艦隊は既に出港しており目的を果たせませんでした。

【参考】ロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が長崎来航(1853年7月18日)

 嘉永7年(1854年)、ペリーが日米和親条約締結のために浦賀に再来航しました。交渉成立後、松陰は重之輔と漁民の小舟で下田港沖に停泊していた旗艦ポーハタン号に近づき乗船し外国渡航を願い出ました。しかし、ペリーは日米和親条約を結んだばかりで幕府の意に反する手助けはできないと渡航を拒否し2人を追い返しました。下田奉行に自首した2人は投獄されましたが死罪は免れました。その後、長州藩に送り届けられ引き続き囚われの身となりました。

【参考】マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)

 安政2年(1855年)、松陰は出獄しましたが、自由の身になるこは許されず実家の杉家で幽閉処分とされました。幽閉中の安政3年8月22日(1856年9月20日)、杉家において師弟に兵学を教え武士とはいかにあるべきかの講義を始めました。安政4年(1857年)11月5日、杉家の敷地に8畳間の塾舎が完成すると「松下村塾」を引き継ぎ塾生に対する教育を開始しました。


松下村塾(山口県萩市椿東1537) 

 安政5年(1858年)7月20日、松陰は長州藩主より山鹿流兵学の教授を正式に許可されましたが、同年12月井伊直弼による「安政の大獄」で投獄されるまで教育を続けました。この「松下村塾」において久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、渡辺蒿蔵、河北義次郎など幕末の倒幕や明治維新の新政府で活躍した志士たちが松陰から学びました。

 松陰の投獄後、幕政が混乱し尊皇攘夷運動と倒幕運動が盛んになると塾生の多くがこれに参加したため「松下村塾」は中断しました。「松下村塾」が再開したのは慶応2年(1866年)で明治4年(1871年)に玉木文之進が塾頭となり塾を杉家から自宅に移しました。

 明治9年(1876年)に起きた旧長州藩の士族が起こした「萩の乱」において前原一誠を始めとする元塾生が多数が参加し反乱罪で処罰されたため、玉木文之進は責任を取り切腹したことで「松下村塾」は閉鎖しました。松陰の実兄の杉民治が明治13年(1880年)に「松下村塾」を再興し、明治23年(1890年)の教育勅語で塾が閉鎖されるまで教育を行いました。

【参考】「萩の乱」殉国軍が挙兵(1876年10月28日)|明治政府に対する士族の反乱

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2024年10月26日 (土)

榎本武揚ら旧幕府軍が五稜郭に入城(1868年10月26日)

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 慶応4年 (1868年)10月26日は榎本武揚が率いる旧幕府軍が箱館の五稜郭に入城した日です。

 同年4月11日に江戸城が無血開城すると海軍副総裁の榎本武揚は北方の開拓と防備を行う目的で多くの旧幕臣を率いて蝦夷地に向かうことを決意しました。

 【参考】第15話「江戸城無血開城」|明日なき戦いの果てに

榎本武揚
榎本武揚

 同年7月、東北戦争で劣勢となった奥羽越列藩同盟からの支援要請があり、同年8月20日、榎本武揚は開陽丸を旗艦とするいわゆる榎本艦隊を率いて品川沖から脱走し仙台に向かいました。

 【参考】第16話「江戸脱出作戦」|明日なき戦いの果てに

品川沖から脱走する榎本艦隊
品川沖から脱走する榎本艦隊

 榎本艦隊は同年9月中旬には仙台東名浜沖に集結しましたが、すでに東北戦争は終結していました。ここで大鳥圭介や土方歳三など東北戦争を戦った旧幕臣が合流しました。同年10月18日、榎本艦隊は宮古湾を出向し蝦夷地の箱館へと向かいました。

 蝦夷地は古くから松前藩が支配していましたが、幕末になると幕府は松前藩領を除く蝦夷地を直轄領とし五稜郭を築城し箱館奉行を設置しました。明治維新後は新政府は箱館奉行を箱館府としました。

 【参考】江戸幕府が蝦夷地を直轄領に(1855年2月22日)

箱館御役所(五稜郭)
箱館御役所(五稜郭)1868年

 東北戦争の影響でわずかな兵しか配備されていなかった箱館府は旧幕府軍の来襲に備えるため新政府に援軍を要請しました。弘前藩、福山藩、大野藩の兵が派遣され旧幕府軍を迎え撃つことになりました。 旧幕府軍は台場の設置されている箱館港からの上陸は避け箱館から約45キロメートル北の内浦湾に面する鷲ノ木(茅部郡森町)を上陸地点としました。同年10月21日に旧幕府軍の約3,000名が上陸しました。

 旧幕府軍は大鳥圭介の部隊と土方歳三の部隊に分け、大鳥の部隊は峠下・七重方面から土方の部隊は部・川汲峠を経由し湯の川方面から箱館に進軍しました。一方で無血開城させるため箱館府知事の清水谷公考に人見勝太郎・本多幸七郎らの部隊を使者として派遣しましたが道中で新政府軍の襲撃を受け戦闘が始まりました。大鳥、土方の部隊はそれぞれ新政府軍を撃退すると、清水谷公考は五稜郭と箱館府を放棄することを決断し同年10月25日に青森へ撤退しました。

 【参考】第17話「蝦夷地をめざせ」|明日なき戦いの果てに

渡島半島地図
渡島半島地図

 同年10月26日、旧幕府軍は五稜郭へ入城、榎本艦隊が箱館港に入港しました。旧幕府軍は鷲ノ木上陸からわずか5日間で箱館を占領しました。同年12月15日、旧幕府軍は箱館政権を樹立。総裁は入れ札(選挙)によって榎本武揚となりました。

 【参考】榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)

箱館政権閣僚
箱館政権閣僚
前列左から荒井郁之助、榎本武揚
後列左から小杉雅之進、榎本対馬、林董、松岡磐吉

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2024年10月14日 (月)

薩摩藩と長州藩に討幕の密勅が下される(1867年10月14日)

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 文久4年(1864年)、参預会議が崩壊すると薩摩藩は将軍後見職の徳川慶喜をはじめとする幕府との対立を深めました。慶応2年(1866年)末に慶喜が15代将軍に就任すると、慶応3年(1867年)5月に薩摩藩は参預会議を再現すべく働きかけ、国事について議論する四侯会議が設けられました。改めて長州藩の処分問題と横浜鎖港問題が議論されましたが折り合いがつかず、慶喜が政治力で佐幕派公卿を見方につけ議論を強引に進めたことで四侯会議も崩壊しました。これをきっかけに薩摩藩はの同年5月21日に長州藩と「薩土討幕の密約」を結び倒幕に向かいました。これによって諸藩や朝廷の討幕派への追い風となり倒幕運動に拍車がかかりました。

将軍後見職の徳川慶喜
将軍後見職の徳川慶喜

 このような状況の中で公家の岩倉具視と薩摩藩の大久保利通が主導し討幕を進めるための画策を行いました 慶応3年(1867年)10月13日、利通は長州の広沢真臣ととも具視のもとを訪れ朝敵とされていた長州藩の藩主父子位復旧の沙汰書を受けました。翌14日に正親町三条実愛
が三条邸にて利通と真臣に「討幕の密勅」が手渡されました。同時に薩長両藩に会津藩主の松平容保と桑名藩主の松平定敬の誅戮を命ずる勅書も出されました。

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岩倉具視(左)と大久保利通(右)

 この 「倒幕の密勅」は薩摩藩の島津久光父子宛のものは10月13日付け、長州藩の毛利敬親宛のものは10月14日付けとなってていました。慶喜が賊臣とされましたが天皇の直筆はなく中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の花押もありませんでした。当時、孝明天皇の知らないところで多くの偽勅が出されたことから「倒幕の密勅」も偽勅と考えられいます。具視が主導的な役割を果たしたと考えられています。

 しかしながら、慶喜は同日10月14日に大政奉還を上奏しました。朝廷は翌15日にこれを受理したことから討幕の名目が失われました。同年10月21日、薩摩藩と長州藩に対し討幕の実行延期の沙汰書が下されました。

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2024年9月18日 (水)

青雲の果て 武人黒田清隆の戦い【HOPPAライブラリー】 Kindle版

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 黒田清隆は幕末から明治時代にかけて活躍した薩摩藩出身の軍人・政治家です。黒船来航による幕末の混乱期から明治政府樹立まで軍人として需要な役割を果たしました。箱館戦争を終結させると旧幕府軍の榎本武揚などの助命を嘆願し共に北海道開拓に取り組み、政治家として明治政府を支えて日本の近代化に大きく貢献しました。この本は黒田清隆の生涯について「青雲の果て―武人黒田清隆の戦い―」という題名で北海道開拓協会の広報誌「開発こうほう」2007年1月号から12月号までに掲載された連載をまとめたものです。連載は北海道開拓協会で読むことができます。このページの下の方にリンクを貼っておきます。

青雲の果て 武人黒田清隆の戦い【HOPPAライブラリー】 Kindle版

奥田静夫 (著) 

青雲の果て 武人黒田清隆の戦い【HOPPAライブラリー】 Kindle版

稀代の軍略家 黒田清隆の熱い戦いの日々を描く!!開拓長官 黒田の知られざるもう一つの顔

生麦事件・薩英戦争・薩長連合・長岡城攻防・箱館戦争・江華条約・屯田兵創設・西南戦争での活躍。

そしてライバル山県有朋との確執・榎本武揚との真の友情・家庭の崩壊・大久保利通惨殺事件・清隆の死。

【目次】

第一章 目覚め

 よか二才(にせ)/生麦事件起きる/薩英戦争で目覚める/江戸江川塾に入門

第二章 薩長連合

 蛤御門の変に参戦/薩長連合に奔走/薩長連合成立後の展開

第三章 戊辰戦争

 鳥羽伏見の激戦/北越征討へ/長岡藩河井継之助との会談決裂/山県有朋との確執/再び長岡城を奪還/庄内和平成る

第四章 箱館戦争と榎本助命

 宮古湾海戦前の忠告/箱館戦争に参戦/榎本助命に動く/清隆の結婚/榎本助命に成功

第五章 新政府への出仕

 外務・兵部省入りと開拓使への転任/征韓論、征台論、樺太放棄論などで動く/江華島事件で砲艦外交く

第六章 屯田兵の創設と西南戦争

 弱体だった北海道の防衛体制/屯田兵を創設/家庭の崩壊/西南戦争に参戦/屯田兵の参戦/征討参軍退任と妻の死

第七章 晩年の清隆

 大久保利通の惨殺/榎本武揚との生涯の友情/清隆の死/生前の清隆についての逸話など

おわりに 年表・参考文献

【登録情報】

ASIN ‏ : ‎ B019522PIS
出版社 ‏ : ‎ 北海道出版企画センター (2014/12/26)
発売日 ‏ : ‎ 2014/12/26
言語 ‏ : ‎ 日本語
ファイルサイズ ‏ : ‎ 8881 KB
Text-to-Speech(テキスト読み上げ機能) ‏ : ‎ 有効
X-Ray ‏ : ‎ 有効にされていません
Word Wise ‏ : ‎ 有効にされていません
付箋メモ ‏ : ‎ Kindle Scribeで
本の長さ ‏ : ‎ 214ページ

 

青雲の果て 武人黒田清隆の戦い【HOPPAライブラリー】 Kindle版

奥田静夫 (著) 

 

青雲の果て 武人黒田清隆の戦い【HOPPAライブラリー】 Kindle版

 

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2024年9月14日 (土)

古文書にみる榎本武揚 〔思想と生涯〕

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

古文書にみる榎本武揚 〔思想と生涯〕

合田 一道 (著)

 榎本武揚の手紙や日記などをもとに榎本武揚が幕末から戊辰戦争、明治維新をどのように生き抜いたのかをまとめた伝記です。目次を見るとわかりますが時系列に榎本武揚の人生を振り返ることができます。

古文書にみる榎本武揚 〔思想と生涯〕

近代日本の万能人に資料から迫る!

裏切り者か、新政府の切り札か――日本近代史において榎本武揚ほど評価のわかれる人物は他にいない。一般的なイメージでは捉えきれないその複雑な人間像と魅力を、榎本家に現存する書簡や、図書館等に保管されている日記・古文書類を渉猟しあぶり出す。膨大な資料を読み解く中でその思想、信条に触れながら、逆賊から一転、政府高官にのぼりつめた榎本武揚という人物の実像に迫る。『環』の好評連載に大幅に加筆し、単行本化。
[附]年譜・人名索引

【目次】

この本を手にした方へ

第一章 外国への視線

  • 「鍋」と「釜」 奉行に従い蝦夷地へ 長崎海軍伝習所へ
  • 言葉の壁越えて カッテンデイケの評価 海軍伝習所閉鎖
  • オランダ留学生 西洋の大晦日 十字星を詠む
  • 新年を賀す ナポレオンの墓 汽車に驚く
  • 国際公法を学ぶ

第二章 戊辰の嵐に、立つ

  • 赤松とともに観戦 祖国の老母を思う 開陽丸と命名
  • 大河喜太郎の死 開陽丸、日本へ 武揚、開陽丸艦長に
  • 薩摩の船団を破る 母らへ決意の便り 四艦を朝廷へ
  • 八隻の旧幕艦隊 皇国一和の基を開く 咸臨丸、悲惨
  • 仙台藩、恭順

第三章 蝦夷の大地、燃ゆ

  • 嘆願、吹っ飛ぶ 開陽丸座礁、沈没 英仏艦長に嘆願書託す
  • 武揚、入札で総裁に 岩倉、嘆願書を握り潰す
  • 母、姉、妻への便り 新政府軍、蝦夷地へ 武揚、馬上から叱咤
  • 箱館総攻撃 凌雲通じ、降伏勧告 自刃果たせず
  • 降伏、東京へ護送

第四章 死を前にした化学者

  • 牢獄で新政府を批判 福沢諭吉が偽の嘆願書 武揚の便り
  • 妻、多津への思い 化学者の目 母ことの死
  • 福沢諭吉の策謀 出牢、開拓使へ 三度目の北海道

第五章 開拓使で鉱山調査

  • 武揚の見た茅ノ澗 「上等ノ汽炭ト称スベシ」
  • 武揚、ケプロンと対立 イクシベツ石炭山
  • 空知川岸に石炭山発見 小樽に土地を入手 北垣国道と再会
  • 釧路の海岸線に石炭層 松本十郎への書簡 突然、海軍中将に
  • 全権公使としてロシアへ

第六章 日露交渉と「シベリア日記」

  • 樺太釜泊殺人の談判 黒田にテンの毛皮送る
  • 妻へ、いたわりの便り 樺太千島交換条約に締結 欧州の旅へ
  • ロシア・トルコが戦争 帰国、延期に
  • シベリア横断と「西比利亜日記」 馬蹄過ぐる所砲煙の如し
  • アザラシの一種を描く 寺院の仏像、日本と同じ

第七章 降りかかる国家の難題

  • 明治十四年の政変 壬午事件で清国公使に 妻子を連れ北京へ
  • 李鴻章と会い昵懇に 天津条約締結の陰に
  • 内閣発足、逓信大臣に 幌内炭鉱の発展に驚く
  • 憲法発布の朝、文部大臣暗殺 教育の責任こそ大事
  • ロシア皇太子、斬られる 同日同時間に便り出し合う
  • メキシコ殖民と妻の死

第八章 隕石で流星刀を造る

  • 三国干渉と「臥薪嘗胆」 足尾鉱毒が社会問題化
  • 大臣を辞任し、市井の人に 隕石で「流星刀」を作る
  • 流星刀の論文 黒田清隆逝く 『瘠我慢の説』
  • 「いずれ愚見を」と返事 碧血碑に詣で、死ぬ

あとがき――榎本武揚が残したもの

参考文献

年譜

人名索引

【登録情報】

出版社 ‏ : ‎ 藤原書店 (2014/9/25)
発売日 ‏ : ‎ 2014/9/25
言語 ‏ : ‎ 日本語
単行本 ‏ : ‎ 329ページ
ISBN-10 ‏ : ‎ 4894349892
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4894349896

古文書にみる榎本武揚 〔思想と生涯〕

合田 一道 (著)

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2024年9月11日 (水)

榎本釜次郎らがオランダ留学のため長崎出航(1862年9月11日)

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 文久元年(1861年)3月、異国船に匹敵する軍艦の必要性を認識した江戸幕府はアメリカ駐日行使タウンゼント・ハリスに蒸気軍艦3隻の発注を打診し、榎本釜次郎、内田正雄、澤太郎左衛門、赤松則良、田口俊平、津田真道、西周にアメリカへ留学させることにしました。しかしながら、ハリスは米国の南北戦争の拡大を理由に幕府の申し入れを断りました。そこで幕府は文久2年(1862年)3月にオランダに蒸気船1隻を発注し、釜次郎らの留学先もオランダに変更しました。

榎本武揚
榎本武揚

 オランダ留学に選ばれたのは次の15名で次世代の幕府海軍を支える期待の人物たちでした。

  • 内田恒次郎(軍艦操練所軍艦乗組 船具運用、砲術専攻)
  • 榎本釜次郎(軍艦操練所軍艦乗組 船具運用、砲術、機関専攻)
  • 澤太郎左衛門(軍艦操練所軍艦奉行支配 船具運用、砲術、鉄砲火薬専攻)
  • 赤松大三郎(外国奉行支配役並出役 船具運用、砲術、造船専攻)
  • 田口俊平(外国奉行支配調役並出役 船具、砲術、測量専攻)
  • 津田真一郎(洋書調所教授方出役 国際法、財政学、統計学専攻)
  • 西周助(洋書調所教授方出役 国際法、財政学、統計学専攻)
  • 古川庄八(水夫頭習得)
  • 山下岩吉(上等水夫習得)
  • 中島兼吉(大砲鋳物師習得)
  • 大野弥三郎(測量機械師習得)
  • 上田寅吉(船大工 船大工習得)
  • 林研海(医師 医学専攻)
  • 伊東玄伯(医師 医学専攻)
  • 大川喜太郎(鍛工習得)

 同年6月18日、15名の留学生は咸臨丸で長崎に向けて品川沖を出発しました。しかし、恒次郎、釜次郎、太郎左衛門、大三郎が麻疹にかかったため下田に立ち寄り療養することになりました。一行が長崎に到着したのは同年8月23日です。オランダ行きの準備を整えた一行は同年9月11日にオランダの商船「カリップス号」で長崎を出港しました。「カリップス号」が最初に向かったのは当時のオランダ領だったバタヴィア
(インドネシア首都ジャカルタ)です。ところがジャワ島付近で暴風雨に遭い「カリップス号」が座礁してしまいます。一行はオランダ人の船員や商人らとともにボートで漂流していたところをマレー船に発見されレパル島に運ばれました。その後、ジャワ政府から連絡を受けたオランダ領事館に救出され無事にバタヴィアに到着しました。一行はオランダ客船「テルナーテ号」に乗り換え、同年11月2日にバタヴィアを出港しオランダのロッテルダムに向かいました。

 バタヴィアからロッテルダムまでの行程は釜次郎が日誌をつけています。「テルナーテ号」はインド洋を西へ向かいアフリカ南端の喜望峰(ケープ・オブ・グッド・ホープ)を回り大西洋を北上しました。文久3年2月8日、、南大西洋に浮かぶ孤島のセントヘレナ島に上陸し島流しとなったナポレオンの寓居跡などを見学しました。セントヘレナ島からロッテルダムに向けて出向し68日間をかけて同年4月18日に到着しました。長崎出向からは250日にもなる長旅となりました。

 ロッテルダムに到着すると、ちょんまげに羽織袴で刀を差した留学生たちをめずらしがって多数のオランダ人が見物に来ました。釜次郎らを出迎えたのは海軍伝習所で教官を務めたヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケやヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトでした。伝習所で釜次郎はカッテンディーケに高く評価されていました。釜次郎はポンペの紹介でハーグで下宿することになり、ここで船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法などを学びました。そして欧州を見学して回りました。この経験が後の釜次郎の達観した世界観と優れた外交力の礎になったに違いありません。

オランダ留学中の榎本釜次郎
オランダ留学中の榎本釜次郎

 江戸幕府がオランダに発注した軍艦は釜次郎の発案をもとに「開陽丸」と名付けられ慶応2年(1866年)7月17日に竣工しました。

開陽丸(Voorlichter)
開陽丸(Voorlichter)

 留学生一行は同年10月25日に開陽丸(艦長はオランダ海軍大尉ジュール・アーサー・エミール・ディノー)はオランダのフリシンゲン港を出向、ブラジルのリオデジャネイロから喜望峰を周ってインド洋を東に進みオランダ領東インドのアンボイナを経由して慶応3年(1867年)3月26日に横浜港に帰着しました。開陽丸と留学生たちは軍艦奉行の勝海舟らに出迎えらました。同年5月10日、釜次郎は幕府から軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任じられ同年7月8日には軍艦頭並となりました。この年、オランダ留学生の林研海の妹で奥医師の林洞海の長女多津(たつ)と結婚しました。

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2024年9月 7日 (土)

日枝神社|新選組「燃えよ剣」第10節「スタスタ坊主」の日枝明神

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  東京都八王子市大和田4丁目に甲州街道に面した「日枝神社」の鳥居があります。

日枝神社(八王子市大和田町)
日枝神社(八王子市大和田町)

 この鳥居の奥の急階段を登り小高い丘の上に出ると日枝神社の本殿があります。

日枝神社の本殿(八王子市大和田町)
日枝神社の本殿(八王子市大和田町)

 境内を通り抜けると日枝神社の入り口があり社号碑がありましたのでこちらが正門のようです。

日枝神社の社号碑(八王子市大和田町)
日枝神社の社号碑(八王子市大和田町)

 社号碑の横には案内板があります。読んでみると新選組の土方歳三や沖田総司の名前が出ています。

日枝神社の案内板(八王子市大和田町)
日枝神社の案内板(八王子市大和田町)

案内板の内容

日枝神社の由緒

 日枝神社の御祭神、大山咋神(おおやまくいのかみ)は滋賀県近江の国の比叡山に坐し、山の神であると共に、広く地主(とこぬし)の神として崇められ、大地を支配し、万物の成長発展や産業万般の守護神として、その御神徳は広大無辺であります。

 徳川幕府が安定し、江戸の町が栄えるに伴って、赤坂日枝神社を総鎮守とする日枝神社が各地に分祀され、当神社は「山王さま」と呼ばれて大和田村の人々に崇敬され『新編武蔵風土記稿』の中には

  『山王社社地、四十七間に三十間、村の東よりの境にあり鎮座の

  初を知らず、御朱印社領五石を賜はれり』

と記載されております。
 
また、新撰組副長の土方歳三や一番隊組長の沖田総司が、京の都に上がる以前の血気盛んな頃、昼なお暗い山王さまの社で大暴れしたくだりが、作家司馬遼太郎の不朽の名作『燃えよ剣』に詳細に描かれております。

 現在の社殿は、昭和五十年に氏子の方々のご浄財により造営され、厄除け・商売繁盛・合格祈願・病気平癒等広く崇められております。

 この日枝神社は司馬遼太郎の「燃えよ剣」の第10節「スタスタ坊主」に「日枝明神」として登場します。新選組となる天然理心流剣術道場の試衛館の土方歳三、原田左之助、、 沖田総司、藤堂平助、永倉新八らが「山王さま」と呼ばれたこの神社で八王子宿の千人町にある甲源一刀流比留間道場の志士と斬り合うくだりがあります。

 Google Mapで日枝神社の場所を示します。日枝神社の下の方に大和田町会館とありますがその横に冒頭の鳥居と急階段があります。右上に国土交通省 相武国道事務所がありますがその前の道路に面して神社の正門があり社号碑と案内板があります。なお案内版は急階段の鳥居の前にもあります。

日枝神社(〒192-0045 東京都八王子市大和田町4丁目4−6)

 

【関連記事】

第9話「浪士組西へ」|明日なき戦いの果てに

新撰組の日(1863年3月13日)

箱館新選組の屯所の跡地

第22話「弁天台場を救え」|明日なき戦いの果てに

異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地

五稜郭の一本松の土饅頭

弁天台場|新撰組最期の地

土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

燃えよ剣(上) Kindle版

Kindle_20240907144601

 

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