カテゴリー「箱館戦争・戊辰戦争」の64件の記事

2025年6月 7日 (土)

第二次長州征討(慶応2年 1866年6月7日)

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 文久3年(1863年)8月、「八月十八日の政変」において強硬な尊皇攘夷派の長州藩勢力や公家が薩摩藩と会津藩によって京都から追放されました。元治元年(1864年)7月、長州藩勢力が会津藩勢力を排除しようと「禁門の変(蛤御門の変)」を起こすと長州藩は朝敵とされ、幕府は慶応元年(1865年)5月に第一次長州征討を行いました。薩摩藩が参戦したこともあり長州藩は降伏し敗北しました。

  【参考】八月十八日の政変(1863年8月18日)

  【参考】禁門の変(蛤御門の変)勃発(1864年7月19日)

 第一次長州征討では長州藩の降伏により大規模な戦闘は起こりませんでした。朝敵となった長州藩は武器の購入などが禁止されましたが、高杉晋作をはじめとする倒幕派が再起を図りはじめました。幕府側ではこれまでの徳川家を中心とする封建的な幕政から脱却し合議制とする話し合いが進めらていましたが折り合いがつかず、薩摩藩は旧態依然とした幕政では日本の将来が危ういと考えるようになり倒幕へ傾きはじめました。同じ頃に日本の行く末を憂えていたが土佐藩を脱藩した坂本龍馬と中岡慎太郎でした。彼らは西郷隆盛に長州藩と手を結ぶよう提案し、長州藩の桂小五郎には薩摩藩と手を結ぶように話をします。これがきっかけとなって慶応2年(1866年)1月21日に薩長同盟が締結されました。

  【参考】薩長同盟(1866年1月21日)
 この同盟委により長州藩は薩摩藩から最新の武器を入手できるようになり密かに軍事力を強化しました。第一次長州征伐で敗北し朝敵となった長州藩でしたが幕府に対して反抗的な態度を示すようになりました。長州藩が軍事力を整えていることを危惧した幕府は再び長州征伐を決断しました。将軍の徳川家茂が大阪城に入り15万の大軍を長州征討に動員しました。

長州征討に参戦する幕府軍
長州征討に参戦する幕府軍

 薩長同盟を結んでいた薩摩藩が幕府に対して参戦を断りました。当初、15万人の幕府軍が優勢と思われましたが、長州藩は薩摩藩から入手した最新の武器で幕府軍を圧倒しました。幕府の戦況が不利となる中で大阪城に滞在していて徳川家茂が病死したことにより幕府軍は撤退せざるを得なくなりました。幕府は朝廷に休戦の勅命を発してもらい長州藩と停戦合意に至りました。

 幕府軍の惨敗により幕府軍の軍備は西洋の最新兵器に対しては役に立たないことが知れ渡り江戸幕府の権威を失墜させました。長州藩および薩摩藩を中心とする倒幕運動が加速しました。

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年6月 3日 (火)

中島三郎助と堀達之助が黒船と交渉(嘉永6年 1853年6月3日)

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 嘉永6年(1853年)6月3日午後5時頃、それまで日本人が見たこともない4隻の大きな黒い軍艦が浦賀沖に現れました。浦賀奉行の戸田氏栄は4隻のうち司令長官旗を掲げている旗艦に浦賀奉行所与力の中島三郎助とオランダ語通詞の堀達之助を派遣しました。2人は小舟で旗艦に向かいました。

 旗艦に小舟を横付けすると堀達之助が英語で「I can speak Duch」(私はオランダ語を話せる)と伝えました。旗艦に乗船していた通訳のオランダ人アントン・ポートマンが対応しオランダ語による交渉が行われました。与力の中島三郎助は自身を浦賀副奉行と称し交渉を始めました。

 この交渉によって艦隊がマシュー・ペリー提督が率いるアメリカ合衆国の艦隊であること、艦隊の目的が将軍にアメリカ合衆国のミラード・フィルモア大統領の親書を渡すことであることがわかりました。ペリーは中島三郎助の階級が低いと親書を預けることを拒否しました。中島三郎助と堀達之助は奉行所に戻り顛末を報告、日本を大きく変化させるきかっけとなった幕府とペリーの交渉が始まったのです。

 中島三郎助は砲術に長けていたこともありアメリカ合衆国の軍艦に興味があったようです。アメリカ側の記録には中島三郎助が軍艦の船体の構造、搭載されている砲、蒸気機関をスパイのように入念に調査していたことが記されています。ペリーの帰国後、中島三郎助は幕府老中の阿部正弘に軍艦の建造と蒸気船を含む艦隊の設置をするよう意見書を提出しています。その後、中島三郎助は日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」の建造で活躍し同軍艦の副将となっています。さらに長崎海軍伝習所に一期生として入所し築地軍艦操練所教授方出役に就任しました。幕末は榎本武揚とともに旧幕府軍として戦い箱館の千代ヶ岡陣屋で戦死しました。

中島三郎助
中島三郎助

 堀達之助はアメリカ側の記録によると通詞としても人柄も高く評価されています。ペリーが嘉永7年(1854年)に再来航したときにも通詞を務め日米和親条約の翻訳にも関わっています。安政5年(1858年)9月、ドイツ商人から日本とドイツの条約締結を求められたとき幕府に報告せず独断で処理しようとしたと咎められ入牢処分となりました。このとき吉田松陰と出会い交流するようになりました。この入牢は冤罪とされ古賀謹一郎の支援で安政6年(1859年)12月赦免されました。文久2年(1862年)1月に日本初の新聞「官板バタビヤ新聞」を発行、翌文久2年(1862年)には日本初の英和辞書「英和対訳袖珍辞書」刊行、文久3年(1863年)には開成所教授となりました。慶応元年(1865年)、箱館奉行通詞に就任し、慶応2年(1866年)に「函館洋学所」を開設しました。「函館文庫」で箱館奉行所の洋書の保存を行いました。明治元年(1868年)に新政府の箱館裁判所参事席、文武学授掛となりましたが箱館戦争のため箱館を離れました。箱館戦争後は箱館に戻り開拓使に出仕しました。もし中島三郎助が戦死していなければ明治維新後は開拓使に出仕し堀達之助の再開していたかもしれません。堀達之助は明治5年(1872年)に依願退職し明治27年(1894年)に大阪で死去しました。

堀達之助
堀達之助

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年5月26日 (月)

五稜郭初度設計図と最終設計図

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 安政元年(1854年)3月、日米和親条約で箱館が開港すると幕府は蝦夷地を直轄し同年6月に基坂(もといざか)(元町公園)にあった松前藩の箱館奉行詰役所に箱館奉行所を設置しました。箱館奉行には竹内保徳が就任しましたが間もなく堀利煕が就任し2人体制となりました。基坂は箱館港や箱館山に近く防衛に難があるため、保徳と利煕は幕府に箱館湾内からの艦砲射撃が届かない亀田の鍛治村に城を築き箱館奉行を移転する意見書を幕府に提出しました。これを老中の阿部正弘が了承し五稜郭と箱館港に弁天台場と築島台場を建設することになりました。

 【参考】五稜郭の箱館奉行所が開所(1864年6月15日)

 五稜郭の設計は蘭学者の武田斐三郎が担当しました。斐三郎は安政2年(1855年)7月にフランス軍艦コンスタンティーヌが乗組員の病気療養のために箱館に寄港した際、同艦副艦長から得た星形要塞や大砲の図面を参考に五稜郭と函館港の弁天台場の設計を行いました。この出来事は斐三郎が五稜郭と星形要塞として設計するきっかけにはなりましたが、当時は既に西洋式の築城法は伝わっており斐三郎も星形要塞の築城に関する知識は持っていたと考えられます。同じ星形要塞の長野県の龍岡城も同時期に西洋の築城法を学んだ城主の松平乗謨により建造されています。

 次の図面は斐三郎が初期に設計した五稜郭初度設計図(市立函館博物館所蔵)です。最初の計画では5つの稜堡(りょうほ)と稜堡の間に半月堡(はんげつほ)が5つ備えられています。5方向からの攻撃に備える形状となっています。

五稜郭初度設計図(市立函館博物館所蔵)
五稜郭初度設計図(市立函館博物館所蔵)

 安政5年(1858年)に列強との修好通商条約「安政の五カ国条約」が締結されると防衛の必要姓が低まりました。資金不足も相まって五稜郭の設計は大幅に変更となり、築島台場の建設も中止となりました。五稜郭は半月堡が一カ所となり石組みのアーチ状だった出入り口も簡素化されました。次の図面は五稜郭の最終段階の設計図のひとつです。

五稜郭之図(最終設計図)
五稜郭之図(最終設計図)

 半月堡は箱館の市中方向に向いた正面のものだけが建設されました。半月堡の場所をはじめとする3カ所の出入り口には函館山から切り出された安山岩で作られた石垣が設置されています。正面の半月堡と出入り口の石垣には最上部に平らな石が突き出して積んであります。これは「武者返し」「はね出し」と呼ばれるもので五稜郭の石垣の特徴となっています。

半月堡の石垣と武者返し
半月堡の石垣と武者返し


ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年5月21日 (水)

薩土討幕の密約|薩土密約(慶応3年 1867年5月21日)

 幕末の日本は開国を迫る列強を前に江戸幕府の権威が失墜していました。幕政が混乱する中で幕府を中心とする政治を続けようと考える佐幕派と倒幕を狙う尊皇攘夷派が対立するようになりました。薩摩藩は当初は幕府側として尊皇攘夷派と対立しましたが徳川家を中心とする政治体制からの脱却を目指すようになりました。土佐藩は佐幕派の山内容堂が主導していましたが、乾退助(板垣退助)や中岡慎太郎などの武闘派の土佐藩士たちは倒幕を考えるようになりました。

 慶応3年(1867年)5月18日、江戸に滞在していた乾退助(板垣退助)は在京中の中岡慎太郎から四侯会議が頓挫したことを知らせる手紙を受け取り上洛しました。同日、退助や慎太郎をはじめとする土佐藩士は料亭「近安楼」で会見し武力による倒幕の密談を行いました。倒幕には薩摩藩と手を結ぶ必要があると考えた慎太郎は退助と西郷隆盛を会見させるため奔走しました。同年5月21日、退助と慎太郎は料亭「大森」で会見し隆盛へ手紙を送りました。手紙を受け取った隆盛は土佐藩との会見を決断し、同日夕方に薩摩藩家老の小松帯刀の寓居「御花畑屋敷」において会見を開きました。この会見には土佐藩から退助、慎太郎、谷干城、毛利恭助ら、薩摩藩から隆盛、帯刀、吉井幸輔ら参加し会談しました。会談において退助は戦が起きたときには土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流することを約束し、これによって薩土討幕の密約(薩土密約)が成立しました。

薩土討幕の密約 西郷隆盛・小松帯刀・中岡慎太郎・谷干城・乾退助
薩土討幕の密約
西郷隆盛・小松帯刀・中岡慎太郎・谷干城・乾退助

 翌日、退助は顛末を容堂に報告し、容堂もこれを了承し退助に軍制改革を命じました。しかしながら容堂は徳川家への恩顧から武力による倒幕を避けるための大政奉還の策を巡らせました。同年6月22日に料亭「吉田屋」において薩摩の帯刀、隆盛、大久保利通)、土佐の寺村道成(日野春章)、後藤象二郎、孝弟、慎太郎、坂本龍馬との間で「薩土盟約」が締結されました。

 このように土佐藩と薩摩藩は倒幕に対する基本的な考えが相反する2つの同盟を締結していますが、複雑な政局においてどちらに転んでも薩摩藩と土佐藩が協力することを約束したのです。最終的には徳川慶喜が大政奉還を上表したことから武力倒幕の動きが収まりますが、

その後、王政復古の大号令を経て、鳥羽・伏見の戦いを契機に戊辰戦争へと突入していくことになります。薩土討幕の密約は、その後の歴史の流れに大きな影響を与えた、重要な出来事の一つと言えるでしょう。

| | | コメント (0)

2025年5月18日 (日)

榎本武揚と黒田清隆の長い一日|五稜郭が開城で函館戦争終結(1869年5月18日)

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 明治2年5月14日、榎本武揚と松平太郎は連名で高松凌雲からの降伏勧告の手紙に降伏拒否と返信しました。このとき武陽は戦火によって失われるのは痛恨の極みとオランダ留学中に書き写した万国海律全書を送りました。この写本は後に黒田清隆の元に届けられました。

榎本武揚 黒田清隆
榎本武揚と黒田清隆

 同日、薩摩藩士の田島圭蔵は弁天台場を訪れ武陽との面会を依頼し永井尚志と相馬主計と五稜郭に赴きました。圭蔵はかつて秋田藩の高雄丸で船長で函館政権に拿捕されたときに釈放された経緯もあり誠意を持って交渉しました。武陽は徹底抗戦を主張したが尚志と主計には密かに降伏の意向を伝えたとされます。弁天台場に戻った尚志と主計は直ちに降伏した。武揚と大鳥圭介は一本木関門に夜襲をかけるため出撃したものの部隊の士気は低く多勢に無勢となりました。武陽は五稜郭に撤収、圭介は中島三郎助が守備する千代ヶ岳陣屋に入りました。

 明治2年5月15日、前日に千代ヶ岱陣屋に入った大鳥圭介は中島三郎助に陣屋を出て五稜郭に退避することを提案しました。しかし三郎助は断り最期まで徹底抗戦を表明しました。圭介は五稜郭に戻り武揚に報告。武揚は三郎助を説得するため太郎を派遣するも三郎助の決断を覆すことはできませんでした。この日、新政府軍は艦砲射撃は続けましたが陸軍の部隊を動かさず攻め込むことはしなかった。新政府軍陸軍参謀の黒田清隆は千代ヶ岱陣屋や五稜郭に対して降伏勧告を申し入れ不要な戦を避け寛大な処分を考えていた。

 千代ヶ岱陣屋で徹底抗戦を主張した中島三郎助は軍議では榎本武揚をはじめとする「若者」たちに降伏を主張していました。三郎助が妻に当てた手紙には自身は最期まで戦う考えであるが息子たちや浦賀からやってきた若者たちに降伏を説得しても聞き入れてくれないと書き残しています。

 明治2年5月16日未明、新政府軍は降伏勧告を拒否し徹底抗戦を主張した千代ヶ岱陣屋の攻撃を開始。この戦いで新政府軍の兵を率いたのは大村益次郎から西洋兵学を学んだ山田顕義でした。このとき黒田清隆は動かずに静観していたと伝えられています。

 山田顕義率いる新政府軍が千代台陣屋に迫るとは投降兵が進入路を手引きしました。陣屋に侵入した新政府軍が銃で激しく撃ちかけると多くの兵が投降しました。中島三郎助らは抵抗を続けるも多勢に無勢、徹底抗戦を主張していた渋沢成一郎は湯の川に逃れました。

 中島三郎助は大砲に破裂弾と散弾を詰め敵兵と自爆しようとしましたが大砲に点火しても爆発が起きませんでした。そこで胸壁に登り応戦をはじめたところを狙撃され堀の中へ落ちて絶命しました。長男恒太郎と次男英次郎、浦賀奉行の仲間も千代ヶ岱陣屋で三郎助の後を追いました。

 同日、五稜郭に白旗を振る薩摩藩士騎兵が現れ弁天台場と千代ヶ岱陣屋の陥落を伝え清隆の手紙を届けました。手紙には海律全書の礼と酒肴を送ると書いてあり間もなく酒樽と肴が届きました。毒殺を恐れ誰も手をつけない中で星恂太郎が笑いながら樽を割り一杯飲むと諸将も安堵して酒を嗜みはじめました。

 このとき武揚は自室に戻り全責任を取って短刀で自決しようとしました。しかし介錯を頼んだ側近の大塚霍之丞が素手で短刀を鷲掴みにして武揚の自決を阻止しました。武陽は我に返り明朝7時に城外に出て降伏することを決断したのです。こうして16日は夜が更けていきました。

 明治2年5月17日朝7時、箱館政権は五稜郭を開城。城内から騎馬に跨がる榎本武揚、松平太郎、荒井郁之助、大鳥圭介が出てきました。武陽と太郎は黒田清隆と増田虎之助と近くの空き家の店舗で面会しました。清孝と虎之助は床にゴザを敷き酒徳利とスルメを用意して武陽と太郎を迎え降伏条件の交渉をはじめ合意しました。

 明治2年5月17日、降伏条件交渉で榎本武揚と松平太郎は箱館政権幹部が罪を償くことを条件に兵士たちには寛大な処分を嘆願しました。清隆は申し入れを断り武陽に降伏手順の実行箇条の提出を要求しました。明治2年5月18日、一行は亀田八幡宮に赴き神前で降伏式を執り行ったのです。

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年5月12日 (月)

箱館戦争全史

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

箱館戦争全史 

好川 之範 (著)

箱館戦争全史
箱館戦争全史 (Amazon.co.jp)

 「箱館戦争全史」は幕末の戊辰戦争の最後の戦いとなった「箱館戦争」の経過や背景を詳細に解説した歴史書です。明治元年(1868年)10月、榎本武揚が率いる旧幕府軍が蝦夷地(北海道)の鷲の木に上陸してから明治2年(1869年)5月に五稜郭が落城するまでの約半年間に渡る箱館戦争の経過が詳細に記述されています。

 「鳥羽・伏見の戦い」から始まる箱館戦争前夜、旧幕府軍による蝦夷地平定、箱館政権の樹立、宮古湾海戦、新政府軍の蝦夷地上陸と箱館総攻撃に至るまでの過程が網羅されています。単に戦史を羅列したものではなく当時の社会情勢、箱館の人々の暮らし、新政府軍と旧幕府軍の志士たちの心理や生き様などを取り上げています。平易な日本で書かれているのですらすら読むことができます。郷土史料に書かれているエピソードも紹介されているので歴史書としても価値のある一冊と思います。

出版社 ‏  : ‎ KADOKAWA(新人物往来社) (2009/1/1)
発売日 ‏  : ‎ 2009/1/1
言語 ‏   : ‎ 日本語
単行本 ‏  : ‎ 257ページ
ISBN-10 : ‎ 4404035802
ISBN-13 : ‎ 978-4404035806

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年5月11日 (日)

新選組!! 土方歳三 最期の一日(明治2年 1869年5月11日)

 

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 明治2年(1869年)4月9日、蝦夷に向かった新政府軍は乙部から上陸を開始しました。新政府軍は松前口、木古内口、二股口から箱館に向けて進軍を開始しました。旧幕府軍は新政府軍の進軍を阻止するため各地で迎え撃ちましたが多勢に無勢でほどなく撤退を余儀なくされました。

渡島半島地図
渡島半島地図

 そのような状況の中で土方歳三が率いる衝鋒隊および伝習隊からなる300名の部隊は二股口で新政府軍に徹底抗戦しました。地の利もあって歳三の部隊は新政府軍の部隊を寄せ付けませんでした。新政府軍は二股口の攻略を諦め道を切り開いて箱館に向かいました。同年4月29日、矢不来が陥落すると連戦連勝していた歳三は退路を断たれることを恐れて五稜郭へ撤退しました。同年5月2日、ジュール・ブリュネらフランス軍事顧問団がフラナス軍艦コエトローゴン号で箱館を脱出しました。これをきっかけに旧幕府軍兵士たちが脱走を始めました。

二股口の戦いの古地図
二股口の戦いの古地図

 同年5月5日、歳三は五稜郭において新選組以来の小間使であった16歳の市川鉄之助に日野宿の佐藤彦五郎に自身の遺品を届け戦況を詳しく伝えるよう命じました。鉄之助は箱館の地で果てるつもりだったため拒否しましたが、歳三が抜刀し命令に従わなければ討ち果たすと威嚇したため箱館を脱出し佐藤彦五郎のもとへ向かうことにしました。歳三は多摩出身の隊士で鉄之助と同じ年頃の渡辺市造に多摩に不慣れな鉄之助の案内役として同行するよう命じました。鉄之助らが五稜郭を出ると城門の小窓から見送る人影に気がつきました。歳三は若き2人の無事を願い行く末を案じて見送ったのでしょう。

 五稜郭に戻った歳三は新選組の島田魁らと新政府軍の有川の本陣に連日夜襲を仕掛けました。このとき新政府軍は箱館総攻撃の準備を進めていました。新政府軍は陸軍本隊に五稜郭に包囲させ、陸軍の奇襲部隊には箱館山の裏手の海岸から崖をよじ登り箱館山山頂を制圧させ、海軍には箱館湾や大森浜から陸軍の攻撃を支援し五稜郭に艦砲射撃を行わせる三面作戦を講じました。

箱館市内地図(箱館戦争当時)
箱館市内地図(箱館戦争当時)

 明治2年(1869)5月11日午前3時、新政府軍の朝陽と丁卯の箱館市中への砲撃が始まり総攻撃が始まりました。これに反撃できたのは旧幕府軍の幡龍のみでしたから朝陽と丁卯の砲撃を阻止することはできませんでした。

 午前4時頃、新政府軍の陸軍奇襲部隊が箱館山裏側の寒川に到着し上陸を始めました。箱館山の険しい崖をよじ登り山頂をめざしました。山頂の旧幕府軍の新選組や伝習士官隊が新政府軍に気がついたのは夜が明けた頃でした。突然の新政府軍の襲撃に反撃することもできず新選組を中心とする部隊は箱館山を下り弁天台場に逃げ込みました。その他の部隊は千代ヶ岱陣屋、五稜郭まで撤退しています。

 箱館山を制圧した新政府軍は函館市中になだれ込みました。一方、奇襲部隊の別働隊は山背泊から上陸し弁天台場を包囲し攻撃を開始しました。さらに新政府軍の甲鉄、春日が援護砲撃を行ったため弁天台場は孤立してしまいました。

 【参考】弁天台場|新撰組最期の地

弁天台場(AIカラー化)
弁天台場(AIカラー化)

 午前8時頃、朝陽と丁卯と抗戦していた幡龍の艦長の松岡磐吉は双眼鏡で着弾を確認しながら砲撃を指示しました。砲手の永倉伊佐吉が発した砲弾が朝陽丸の弾薬庫に命中、朝陽丸は爆発し轟沈したのです。これによって箱館政権軍の士気は高まりました。蟠竜は追撃してきた甲鉄らの集中砲火を受けましたが弾が尽きるまで戦闘した後に浅瀬に乗り上げました。船長の松岡磐吉をはじめとする乗組員は敵中を突破し弁天台場に逃げ込みました。伊佐吉は艦長のため退去する小舟を取りに行くと海に飛び込みましたが溺死してしまいました。

朝陽を轟沈させた幡龍
朝陽を轟沈させた幡龍

 これまで陸軍本体と戦っていた土方歳三は箱館市街と五稜郭が分断されたことを知ると側近の安富才助と沢忠助、額兵隊を率いて函館市街へ向けて出陣しました。弁天台場の新選組の相馬主計は援軍を求めるよう大野右仲を五稜郭に派遣しました。右仲は千代ヶ岱陣屋あたりで歳三が率いる部隊に出逢いました。右仲は安堵し土方隊とともに一本木関門に向かいました。そこに伝習士官隊が敗走してきました。歳三は「この機失すべからず。士官隊に令して速進せん。しかれども敗兵俄に用い難し。吾れこの柵に在りて、退く者は斬らん。子は率いて戦え」と檄を飛ばしました。「この機失すべからず。」とは幡龍が朝陽を轟沈させたことです。「子」とは右仲のことです。

一本木関門跡
一本木関門跡

 右仲は歳三の命令に従い額兵隊と伝習士官隊を率いて一本木関門から異国橋付近まで進撃しましたが新政府軍の反撃により一本木関門へと引き返しました。このとき右仲は歳三が守っているはずの一本木関門で敗走していく兵士を見て驚き千代ヶ岡陣屋まで引き返したところ、安富才助から歳三の戦死を知らされました。一本木関門で指揮をしていた歳三は一発の銃弾を腹部に受けて落馬し絶命していたのです。

 【参考】異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地

 歳三の死が五稜郭に伝えられると箱館政権で探索役主任と箱館市中取締役を兼任していた小芝長之助が遺体を引き取りにきました。歳三の遺体は五稜郭の一本松の土饅頭に埋葬されたという説がありますが埋葬場所には諸説あり確定していません。<b

 土方歳三戦死、享年35歳。近藤勇が亡くなった年齢と同じでした。

土方歳三の写真(田本研造撮影)
土方歳三の写真(田本研造撮影)

 辞世の句とされるのは次の3つです。

  ・よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ

  ・たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん

  ・鉾とりて月見るごとにおもふ哉あすは屍の上に照かと

 箱館政権の榎本武揚が降伏したのはその6日後の5月17日でした。

 

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年5月 7日 (水)

彫像「若き星たち」(北海道函館市)

 

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 北海道函館市の松前通りを五稜郭の方へ進んでいくと行啓通との交差点に北海道新聞函館支社があります。その前に函館山の方向の空を望むように手をあげている2人の若者の彫像が建てられています。若者は左側の若者は銃を持ち、右側の若者は帯刀しています。この彫像は2002年9月に建立された「若き星たち」です。

彫像「若き星たち」(彫刻 小野寺紀子)
彫像「若き星たち」(彫刻 小野寺紀子)

 彫像の右横に石碑が設置されています。この石碑には「若き星たち 戦火を超えて 若き星ふたつ 未来の空に またたかん」という詩が刻まれています。「若き星たち」は幕末の戊辰戦争の最後の戦闘となった箱館戦争において日本の未来をかけて戦った新政府軍と旧幕府軍の名もなき若き戦士の銅像です。


石碑「若き星たち」(詞 原子修作)
石碑「若き星たち」(詞 原子修作)

 こちらが彫刻「若き星たち」の設置されている場所の地図(Google Map)です。

 

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年4月24日 (木)

明治政府が箱館府を設置(慶応4年 1868年閏4月24日)

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 慶応4年(1868年)4月12日、新政府は五稜郭の箱館奉行所を箱館裁判所と改名し皇族の仁和寺宮嘉彰親王を総督に任命した。しかしながら嘉彰親王が総督就任を固辞したため、同年閏4月5日に副総督に任命した清水谷公考を総督に任命した。同月21日、新政府は政体書を発して府藩県三治制を導入すると裁判所は府また県に改編されることになり箱館裁判所は閏4月24日に箱館府と改称されました。府知事には清水谷が任命されました。清水谷は同年26日に箱館に入り最後の箱館奉行となった杉浦勝誠から引き継ぎを行い、同年5月1日に箱館裁判所を開設しました。同年7月17日、箱館裁判所は管内に箱館府に改称したことを告示しました。しかし、改称後も箱館裁判所と呼ぶ市民も少なくありませんでした。

箱館御役所(五稜郭)
箱館御役所(五稜郭)1868年

 当時の蝦夷地には松前藩、盛岡藩、仙台藩、会津藩、弘前藩、庄内藩が領地を持ち藩兵が北方警備に当たっていました。箱館裁判所が開設した頃には東北戦争が既に開戦しており奥羽越列藩同盟が成立していました。蝦夷地の各藩は箱館裁判所を攻撃することなく同年7月頃から東北の諸藩は蝦夷地から引き上げました。松前藩のみが引き続き警備に当たりましたが松前藩は新政府に恭順しました。

 新政府軍が東北戦争に勝利すると榎本武揚が率いる旧幕府艦隊が同年10月20日に蝦夷地の鷲ノ木(現茅部郡森町)に上陸しました。同月25日、清水谷ら箱館府の官吏は本州に退きました。翌日26日は榎本武揚が率いる旧幕府軍が箱館の五稜郭に入城しました。

 新政府軍は箱館戦争に勝利すると青森口総督を兼務していた清水谷府知事は明治2年 (1869年) 5月17日に箱館に入り箱館裁府を再開しました。その後、箱館府は箱館県と改称されました。しかし、同年7月8日に開拓使が設置されると函館府は廃止され開拓使函館支庁が同年9月に開拓使出張所に改称された。

 

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2025年4月11日 (金)

江戸城の無血開城(慶応4年 1868年4月11日)

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 慶応4年(1868年)1月3日に開戦した戊辰戦争の「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗北すると徳川慶喜は大阪城を脱出し同年1月12日に江戸城に退却しました。慶喜は小栗忠順、松平容保、松平定敬の抗戦の主張を退け、老中の板倉勝静と若年寄の永井尚志を罷免、容保と定敬には謹慎を命じました。自らは同年2月12日に上野の寛永寺大慈院で謹慎し事態収拾を勝海舟と大久保一翁に任せました。

徳川慶喜
徳川慶喜

 新政府軍は江戸総攻撃を決断し東上を開始しました。江戸に迫る新政府軍に対して局地的に旧幕府軍が対峙しましたが新政府軍の最新の武器の前に旧幕府軍は敗戦を続けました。日本と江戸の行く末を案じた恭順派の海舟は新政府軍との和平交渉の道を探りました。慶喜は側近の高橋泥舟に新政府軍の西郷隆盛との交渉を命じたが泥舟は慶喜警護のため義弟の山本鉄舟を推薦しました。海舟は鉄舟を隆盛のもとに派遣し和平交渉を働きかけました。無益な戦いは避けたいと考えていた西郷隆盛は山岡鉄舟の説得を聞き入れ海舟と会談することを決めました。

山岡鉄舟
山岡鉄舟

 同年3月13日と14日、江戸の薩摩藩邸において海舟と隆盛の会談が行われ、江戸城の無血開城の条件の交渉が行われました。隆盛は徳川慶喜の謹慎、江戸城を新政府軍に明け渡す、旧幕府軍は武装解除することを条件に江戸を総攻撃しないこと了承しました。こうして鉄舟と隆盛の下交渉後に隆盛と海舟との会談が行われ江戸無血開城の話がまとまりました。同年4月11日、慶喜は慶寛永寺から水戸へ出発し江戸城は無血開城しました。

江戸開城談判(結城素明)
江戸開城談判(結城素明)

 江戸城の無血開城によって江戸の町と多くの人々の命が守られました。海舟は隆盛が交渉に応じない場合は江戸市中に火を放ち江戸の機能を停止させるつもりでいました。旧幕府軍を倒しても列強と対峙しなければならない新政府軍は無駄な戦を避ける必要がありました。旧幕府軍の戊辰戦争は箱館戦争まで続きましたが、江戸開城後の幕府から新政府への政権以降は大きなトラブルもなく滞りなく行われました。江戸開城は日本の近代化にとって重要な転換点となりました。

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧