カテゴリー「箱館戦争・戊辰戦争」の72件の記事

2025年10月27日 (月)

吉田松陰 弟子たちに思想を託しあの世へ旅立つ(安政6年 1859年10月27日)

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 「松下村塾」を開き高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など明治維新で活躍した志士たちに多大な影響を与えた吉田松陰。松陰は嘉永7年(1854年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督が日米和親条約を締結するため黒船艦隊を率いてやってきたときに海外渡航を単眼するも断られ密航の罪で投獄されました。その後、長州萩城下松本村の実家の杉家預かりとなり、安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぎました。松陰も弟子を指導しながら尊皇攘夷の思想を深めていきました。

 【参考】吉田松陰と金子重之輔が黒船に密航を懇願|下田踏海(嘉永7年 1854年3月27日)

吉田松陰
吉田松陰

 安政5年(1858年)に幕府が朝廷の許可を得ずに日米修好通商条約を締結すると、松陰は孝明天皇への弁明のため上洛する老中首座の間部詮勝を捕らえて条約を破棄させ攘夷の実行を求め拒否された場合は討ち取る計画「間部要撃策」と「伏見要駕策」を画策しました。しかしながら、久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎ら弟子たちの賛同を得られず頓挫しました。松陰は幕府に対する不信感を募らせ藩を超えた尊王攘夷運動を志して「草莽崛起」を唱えて尊皇攘夷の志士たちに倒幕の蜂起を促しました。長州藩は松陰を危険な思想の持ち主として幽閉しました。

 安政6年(1859年)、幕府による思想弾圧の安政の大獄により梅田雲浜が捕らえられると雲浜と関係のあった松陰も連座され江戸の伝馬町牢屋敷に投獄されました。松陰は評定書で雲浜との関係を問いただされましたがあくまで参考人としての尋問で想定された罪も重いものではありませんでした。しかしながら、松陰は自身の信念を貫き尊皇攘夷と倒幕の正当性を論じるため幕府が把握していなかった「間部要撃策」を自白してしまいました。計画を知った幕府は松陰に死罪を宣告し安政6年(1859年)10月27日に伝馬町牢屋敷で執行しました。享年29歳。

 松陰はいくつかの辞世の句を遺しています。そのひとつ 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」は 自らの死を受け入れて志が後世に受け継がれることを願ったものです。松陰の死は弟子たちを奮い立たせ尊王攘夷運動の原動力となり明治維新へとつながりました。

 

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2025年10月20日 (月)

榎本艦隊が鷲ノ木に上陸(慶応4年 1868年10月20日)

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第1話 榎本武揚が旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱出(慶応4年 1868年8月19日)

第2話 榎本武揚らが仙台城で奥羽越列藩同盟の軍議に参加(慶応4年 1868年9月3日)

第3話 仙台藩が降伏し奥羽越列藩同盟が消滅(慶応4年 1868年9月12日)

 仙台藩の降伏により奥羽列藩同盟は完全に崩壊した。榎本艦隊が早めに仙台に到着していたらという「もし」がある。時間稼ぎはできたかもしれないが同盟の崩壊は免れなかったであろう。また榎本艦隊が早めに東北に到着し参戦していたら疲弊していただろう。箱館に辿りつくことなく戊辰戦争が集結していた可能性もある。

 仙台はほとんど無傷ではあったが戦場になると大きな被害を被ることになる。新政府への恭順を決断した仙台藩にとってやっかいとなったのは榎本艦隊をはじめとする新政府軍に徹底抗戦を主張する幕臣たちであった。仙台藩は榎本艦隊に物資を提供し、仙台を離れる後押しをしたのである。慶応4年(1868年)10月12日、榎本艦隊は仙台の折浜を出港した。途中で宮古湾鍬ヶ崎港に寄港し蝦夷地に向かった。蝦夷地に向かったには開陽、回天、蟠竜丸、神速の4軍艦と長鯨、大江、鳳凰、千秋(のちの回春)の4輸送艦である。先鋒を回天、しんがりを開陽とした合計8隻の艦隊は北へ向かった。

 榎本艦隊は箱館港に入港することを避けた。箱館港は開港されており外国船も入港していた。幕府が箱館防備のため五稜郭とともに建造した弁天台場は新政府軍の管轄下にあった。そんなところに榎本艦隊が現れれば戦闘状態になるのは必至である。榎本艦隊は五稜郭から北に約40キロメートル離れた鷲ノ木浜(北海道茅部郡森町鷲ノ木町)から蝦夷地に上陸することにしたのである。

南蝦夷地之内鷲ノ木着船之図(麦叢録附図)
南蝦夷地之内鷲ノ木着船之図(麦叢録附図)

 慶応4年(1868年)10月20日の夜、榎本艦隊は鷲ノ木浜に到着した。翌21日にかけて雪が舞う荒海の沖合に集結した艦隊から旧幕府軍の兵士約3000名が小舟で次々と上陸を開始した。鷲ノ木村は大騒ぎになったが旧幕府軍は村の会所(役所)を拠点とした。

旧幕軍鷲ノ木上陸地の碑
旧幕軍鷲ノ木上陸地の碑
(写真提供:ZARIザリ @zarivandal x.com)

 榎本艦隊が蝦夷地に向かったことを察知した新政府軍は箱館に兵を送り防備を固めたが旧幕府軍に対峙できるほどの体制にはなかった。一方の旧幕府軍も好戦的ではなかった。榎本武揚は戦闘を避けるため館府知事の清水谷公考のもとに人見勝太郎と本多幸七郎および精鋭の歩兵30名を使者として送った。彼らは榎本武揚の檄文と嘆願書を携えて五稜郭に向かったが同年10月22日に新政府軍の奇襲を受け戦闘状態に入った。喰う幕府軍は大鳥圭介が率いる部隊と土方歳三が率いる部隊の二手に分かれ、大鳥隊が峠下・七重方面から、土方隊が鹿部・川汲峠・湯の川j方面から五稜郭を目指して進軍を開始した。榎本武揚は旧幕府軍による蝦夷地の開拓と北方警備を許可する嘆願書を勝海舟らに送っているが新政府はこれを許すことはなかった。こうして箱館戦争の火蓋が切られることになったのである。

榎本軍鷲ノ木上陸地 案内版
榎本軍鷲ノ木上陸地 案内版
(写真提供:ZARIザリ @zarivandal x.com)

 鷲ノ木は箱館戦争の終戦まで旧幕府軍の後方陣地とされた。旧幕軍の負傷兵や病人は鷲ノ木に移され治療を受けた。戦死したものは村の会所(役所)近くの霊鷲院に手厚く葬られました。

箱館戦争鷲ノ木戦没者之碑
箱館戦争鷲ノ木戦没者之碑
(写真提供:ZARIザリ @zarivandal x.com)

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2025年10月 3日 (金)

土方歳三の写真が箱館で撮影された根拠

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 箱館戦争に挑む際に撮影された洋装で椅子に座る土方歳三の写真。決戦を前に口を一文字に結び強い意志を感じさせながらどこか涼しい表情をしている。

土方歳三の写真(田本研造撮影)
土方歳三の写真(田本研造撮影)

 この写真がどこで撮影されたのかについては2つの有力な説があった。ひとつは「新選組の舞台裏」(1998年、菊池明著、中経出版)の主張である。もうひとつは「新選組研究最前線再善戦(下)」(1998年、新人物往来社)の「写真師K・Gと土方歳三」(桑嶋洋一著)の主張である。前者は近藤勇の腕組写真と同じく慶応4年(1868年)に江戸の松本良順のところで撮影されたとしている。後者は同年(明治元年)に写真家の田本研造により箱館で撮影されたとしている。

 近藤勇の腕組写真は敷物の上に和装で座っている。この時に土方歳三の写真が撮影されたのだとすると歳三も和装であった可能性が高いと考える。歳三の写真は洋装であるからもう少し後で撮影されたものであろう。問題はどこで誰により撮影されたかである。

 「写真師K・Gと土方歳三」は歳三の座っている椅子が猫足であることに注目している。箱館戦争当時に箱館で撮影された写真に榎本武揚をはじめとする箱館政権首脳の写真が存在する。この写真の前列左側の海軍奉行の荒井郁之助が座っている椅子が歳三が座っている猫足の椅子と同じものとしている。著者はオリジナルの高解像度の写真を入手し椅子が同じものであることを確認したようである。

箱館政権首脳の写真 後列左から小杉雅之進、榎本対馬、林董三郎、松岡磐吉 前列左から荒井郁之助、榎本武揚
箱館政権首脳の写真
後列左から小杉雅之進、榎本対馬、林董三郎、松岡磐吉
前列左から荒井郁之助、榎本武揚

 高解像度の写真は入手できないので荒井郁之助をトリミングした写真と土方歳三の写真をAIでカラー化してみたのが次の写真である。カラー化により椅子の形が明らかになった。確かに2つの椅子は猫足であり、4本の足をつなぐ貫が特徴的なX型であることが確認できた。おそらく高解像度の写真では白黒でも鮮明に写っていたのであろう。

荒井郁之助と土方歳三が座る椅子の比較
荒井郁之助と土方歳三が座る椅子の比較

 箱館政権首脳の写真は箱館で田本研造により撮影されたものと考えられ、椅子が同じものであることから土方歳三の写真も箱館で田本研造のところで撮影されたものと結論づけることができる。

 ただし「写真師K・Gと土方歳三」では土方歳三の写真の台紙に記載されているイニシャルK・Gに注目している。土方歳三の写真には台紙に「PHOTOGRAPHER K JAPAN ARTIST」と記載されたものがある。Kの部分には重なるようにGが書いてある。「歳三の写真」(1978年、草森紳一著、新人物往来社)の表紙の写真がまさにしれである。同じ台紙が使われた古写真が函館に現存しているという。

K・Gの台紙
K・Gの台紙

 これは田本研造が使っていた台紙とは異なると指摘している。田本研造が撮影したのであれば自分の台紙を使うだろうということである。また箱館政権首脳写真の撮影場所も田本研造の写真館ではなかった可能性も指摘している。箱館政権首脳写真と土方歳三の写真がフランスに渡っていることからこの2つの写真を撮影したのは日仏写真に関係していた写真家ではないかと結論づけている。

新選組研究最前線〈下〉(新人物往来社、1988年)
「写真師K・Gと土方歳三」(桑嶋洋一)

 確かに田本研造の台紙は別のデザインです。土方歳三の写真の撮影者は田本研造であり、K・G台紙の写真は写真師K・Gが複写し整えたものかもしれない。

【関連記事】

土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

 

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2025年9月12日 (金)

仙台藩が降伏し奥羽越列藩同盟が消滅(慶応4年 1868年9月12日)

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第1話 榎本武揚が旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱出(慶応4年 1868年8月19日)

第2話 榎本武揚らが仙台城で奥羽越列藩同盟の軍議に参加(慶応4年 1868年9月3日)

 新政府軍の攻撃により奥羽列藩同盟は壊滅状態にあった。多くの旧幕府軍、藩兵は奥羽越列藩同盟盟主の輪王寺宮(北白川宮能久親王)が身を寄せていた仙台藩に終結していた。仙台藩はほとんど無傷ではあったが慶応4年 (1868年)8月11日の「旗巻峠の戦い」で大敗し新政府軍に領内への侵入を許していた。新政府軍に対して武器の性能や量が劣る仙台藩では降伏論が高まり藩政が混乱した。

【参考記事】奥羽越列藩同盟が成立(1868年5月6日)

羽越列藩同盟旗と輪王寺宮公現入道親王輪王寺宮(北白川宮能久親王)
羽越列藩同盟旗と輪王寺宮公現入道親王輪王寺宮(北白川宮能久親王)

 会津若松城は新政府軍に包囲され、庄内藩につづいて米沢藩も軍議の翌日の同年9月4日に降伏した。仙台藩主の伊達慶邦は幕政から主戦派を排除し恭順へと向かい同年9月12日に降伏した。仙台藩降伏の通知を受けた榎本武揚と土方歳三は降伏を撤回するよう求めたが仙台藩は受け入れなかった。

伊達慶邦
伊達慶邦

 仙台藩の降伏について武揚は「今の王政復古は全く薩長の策士らが幕府を倒す道具として拵(こしら)えたもの。 政権を盗むの手段にすぎず」(現在の王政復古は薩摩・長州の策略家たちが幕府を倒すための道具として作り上げたものにすぎない。単に政権を奪い取るための手段だ)と酷評した。歳三は「利不利は暫く措(お)き、弟をもって兄を討ち、臣をもって君を征す・・・武士の道を解し聖人の教えを知る者は 薩長の徒に与すべからずと信ず」(利害や損得はひとまず置いておこう。弟に兄を討たせ家臣に主君を征伐させるようなことは武士の道を理解し儒教の教えを知る者であれば薩摩や長州の連中に加担することはできないと私は信じる」と非難した。

 仙台が戦場と化すことを避けるため降伏した仙台藩は旧幕府軍をやっかいものと考えるようになり、豪商の毛利屋理兵衛に物資などを支援するよう依頼し仙台から出て行くよう仕向けたのである。幕府から借りていた「太江丸」「鳳凰丸」および薪水や食料を榎本艦隊に提供した。

 新政府軍が仙台城に入城すると同年10月9日に榎本艦隊は桑名藩主の松平定敬、大鳥圭介、土方歳三、伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した星純太郎が率いる額兵隊など合計3000人を収容し石巻に向かった。仙台藩の降伏により終結していた旧幕府軍、藩兵は行き場を失った。武揚は兼ねてより構想していた蝦夷地へ渡航を提案した。このとき蝦夷地の防衛と開拓のために蝦夷地に向かう嘆願書を提出している。

仙台を後にする榎本艦隊
仙台を後にする榎本艦隊

 榎本艦隊は同年10月12日、蝦夷地に向けて石巻を出港した。途中で海賊行為していた幕府の輸送船「千秋丸」(のちの「回春丸」)を拿捕し、宮古湾で補給を行ったのち蝦夷地へと向かったのである。

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2025年9月 3日 (水)

榎本武揚らが仙台城で奥羽越列藩同盟の軍議に参加(慶応4年 1868年9月3日)

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榎本艦隊が品川沖を脱出

 奥羽越列藩同盟から援軍の要請を受けた榎本武揚は直ちに行動を起こすことはできなかった。徳川家の駿府移封が完了するまでは動けなかったのである。徳川慶喜と徳川家の家督を継いだ徳川家達の駿府移封を見届けた武揚は慶応4年(1868年)8月19日に「開陽」を旗艦とする軍艦「蟠竜」「回天」「千代田形」と輸送艦「咸臨丸」「長鯨丸」「神速丸」「美賀保丸」からなる艦隊を率いて品川沖を脱出し奥羽越列藩同盟を支援するため仙台へと向かった。武揚と行動をともにしたのは元若年寄の永井尚志、陸軍奉行並の松平太郎、彰義隊、遊撃隊の旧幕臣たち、さらにフランス軍事顧問団として来日したジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など総勢2000人であった。

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榎本艦隊(品川沖 慶應4年1868年8月18日)

 最終的な目的地として蝦夷地をめざしていた武揚は明治政府宛の下記の檄文と「蝦夷地開拓」など旧幕府軍が蝦夷地を目指す目的を説明した徳川家臣大挙告文を勝海舟に託しています。

檄文

 王政日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。然るに当今の政体、其名は公明正大なりと雖も、其実は然らず。王兵の東下するや、我が老寡君を誣ふるに朝敵の汚名を以てす。其処置既に甚しきに、遂に其城地を没収し、其倉庫を領収し、祖先の墳墓を棄てゝ祭らしめず、旧臣の采邑は頓に官有と為し、遂に我藩士をして居宅をさへ保つ事能わざらしむ。又甚しからずや。これ一に強藩の私意に出て、真正の王政に非ず。我輩泣いて之を帝閽に訴へんとすれば、言語梗塞して情実通ぜず。故に此地を去り長く皇国の為に一和の基業を開かんとす。それ闔国士民の綱常を維持し、数百年怠惰の弊風を一洗し、其意気を鼓舞し、皇国をして四海万国と比肩抗行せしめん事、唯此一挙に在り。 之れ我輩敢て自ら任ずる所なり。廟堂在位の君子も、水辺林下の隠士も、荀も世道人心に志ある者は、此言を聞け。

現代訳(MS Copilot)

檄文

 王政復古によって国が新しく生まれ変わることは、我々にとっても望ましいことであり、私自身もそれを願っている。 しかし、現在の政治体制は、表向きは公正で立派に見えるものの、実際にはそうではない。 王の軍が東へ進軍した際、我が藩の老君主を「朝敵(国家の敵)」と誹謗し、名誉を汚した。 その処置はすでに過酷であったが、さらに城を没収し、倉庫を取り上げ、祖先の墓を放置して供養もさせず、旧臣の領地はすべて官有地とされ、ついには藩士たちが自宅すら守れない状況に追い込まれた。 これほどの仕打ちがあるだろうか。 これはすべて、強大な藩の私利私欲によるものであり、真の王政とは言えない。我々が涙ながらにこの不条理を朝廷に訴えようとしても、言葉は遮られ、真実は伝わらない。 だからこそ、私はこの地を離れ、皇国のために新たな秩序の基盤を築こうと決意した。 それは、全国の士民が道徳と規律を守り、数百年にわたる怠惰の風習を一掃し、志を奮い立たせ、皇国が世界の国々と肩を並べて進むための、ただ一度の行動なのだ。これこそ、私が自らの責任として引き受ける覚悟である。 朝廷に仕える高官も、自然の中に隠棲する賢者も、そして世の中の道と人の心に志を持つ者は、どうかこの言葉に耳を傾けてほしい。

榎本艦隊が銚子沖で台風に遭遇

 榎本艦隊は就航数日後に銚子沖で台風に遭遇した。暴風波浪の損傷を受けた「咸臨丸」と「幡龍丸」は清水港に入港し、「美賀保丸」は銚子の犬吠埼の黒生海岸に漂着した。「幡龍丸」は「咸臨丸」より先に清水港を出港し仙台に向かいましたが、修理に手間取った「咸臨丸」は新政府軍に攻撃され拿捕された。「美賀保丸」は座礁して沈没し乗組員の多くは新政府軍に投降した。その中には伊庭八郎もいた。八郎は無念のあまり自決しようとしたが説得され横浜の旧幕臣の尺振八宅で数ヶ月潜伏した。振八の支援でアメリカ船で蝦夷地に向かい旧幕府軍と箱館で合流を果たしている。

伊庭八郎
伊庭八郎

土方歳三も仙台に向かう

 これより4ヶ月ほど前、宇都宮城の戦いで足の指に被弾し負傷した土方歳三は日光街道の宿場町の今市に搬送されたが傷が深く治療のため会津へと移送された。会津へ旅立つ朝、歳三は日光東照宮を守る八王子千人隊の隊士で幼馴染みの土方勇太郎と面会した。歳三は勇太郎に宇都宮戦争の戦況を伝え、乱戦の中で逃げようとした一兵卒を斬り捨てたことを悔やみ涙して勇太郎に金を渡し供養を頼んだと伝えられている。

 新選組局長の近藤勇が斬首されたのは歳三が今市を立った翌日の 慶応4年(1868年)4月25日のことです。歳三が勇の死を知ったのは会津に到着した後のことである。歳三は流山で勇に投降をすすめるべきではなく切腹させるべきだったと悔やみ苛立った日々が続いた。仲間が一人一人と失われていく中で歳三は断腸の思いをしていたが負傷で戦えない身ではなす術はなかったのである。

土方歳三の写真(田本研造撮影)
土方歳三の写真(田本研造撮影)

 会津では新選組は派斎藤一が山口二郎と称して指揮を執っていました。新政府軍は京都守護職だった松平容保の会津藩を目の敵にしており総攻撃を仕掛けました。これによって奥羽列藩同盟は劣勢となった。歳三が戦線に復帰したのは同年7月初めであるが、会津藩ならびに旧幕府軍は兵力および武器ともに圧倒的勢力の新政府軍を前に苦戦を強いられた。歳三は新選組を大鳥圭介に預け自らは援軍の要請のため米沢藩に向かった。庄内藩にも援軍の要請に向かうつもりだったが庄内藩が降伏したため会津方面へと脱出した。このとき榎本艦隊が仙台に入港したことを知った歳三は会津を通り越して仙台に向かったのである。

榎本武揚らが仙台城に登城

 同年8月下旬、台風で離散した榎本艦隊は港町として栄えていた寒風沢島に到着した。同年9月2日、武揚、ブリュネらは仙台城に登城し伊達慶邦に謁見した。同年9月3日、武揚らは奥羽越列藩同盟の軍議に参加したがその中には歳三の姿もあった。武揚は軍議で奥羽の地と軍勢をもってすれば何も恐れることはないと主張し、奥羽の軍勢を統率する総督として土方歳三の他にはいないと歳三を推薦したのである。これに奥羽越列藩同盟の諸侯も賛成した。

 武揚の推薦に歳三は死を覚悟して受ける所存と了承したが奥羽越列藩同盟の諸侯に条件を出した。歳三は宇都宮で斬り捨てた兵士のことを忘れていなかった。同盟と言えども諸藩の統率が取れていないために負けた戦を見てきた歳三は統率を強めるため軍令に逆らうものは斬り捨てることを了承するよう迫ったのである。歳三が新選組で厳しく守ってきた局中法度を改めて重視したのであろう。

新選組の局中法度
新選組の局中法度

 しかしながら時は遅すぎた。奥羽越列藩同盟は新政府軍の攻撃により既に壊滅状態にあったのである。

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2025年8月26日 (火)

四稜郭|箱館を見渡すことができた台場

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 四稜郭(しりょうかく)は北海道函館市の五稜郭の北東約3.5 kmの陣川町に位置する稜堡式の台場です。五稜郭があるところよりも約80 m高い場所にあり、七重浜、大森浜、函館港、函館山まで見渡すことができました。箱館戦争の明治2年(1869年)に榎本武揚が率いる旧幕府軍によって五稜郭の支城として亀田山地の麓に広がる舌状台地に建造されたものです。当時、四稜郭の手前の上山村には北海道東照宮があり、東照宮を守護するためのものでもありました。なお東照宮にも台場が設置され権現台場と呼ばれました。

箱館市内地図(箱館戦争当時)
箱館市内地図(箱館戦争当時)

 四稜郭は旧幕府軍の約200名と地元住民約100名が動員され昼夜を問わず突貫工事で数日で急造されたと伝えられています。設計はジュール・ブリュネ、建造の指揮は大鳥圭介が率いていた工兵隊が執ったと考えられています。四稜郭は四つの稜堡を持つ構造で蝶が羽を広げたような形をしており、東西約104m、南北約66mの範囲に、幅5.4m・高さ3mの土塁が築かれ、周囲には幅2.7m・深さ0.9mの空堀が巡らされています。

四稜郭
四稜郭

 内部には建物は建造されず砲台と銃兵足場が設けられた簡単な施設でした。

四稜郭の土塁と砲台(奥の坂になった部分)
四稜郭の土塁と砲台(奥の坂になった部分)

 同年5月11日、新政府軍による箱館総攻撃が始まると新政府軍の岡山藩・福山藩・水戸藩・徳山藩が四稜郭の攻撃を開始しました。松岡四郎次郎が率いる一聯隊が応戦しましたが北側の緩斜面からの攻撃で防衛戦が破られました。権現台場が陥落すると退路を断たれることを恐れ五稜郭へ撤退しました。

 現在、四稜郭は国指定史跡として整備され土塁や空堀が復元されています。入り口には碑と案内版が設置されています。

史跡四稜郭の碑
史跡四稜郭の碑

史跡四稜郭案内版
"史跡四稜郭案内版

 大鳥圭介の案内版には四稜郭、ジュール・ブリュネ、フランス軍事顧問団について開設されています。

四稜郭の大鳥圭介の案内版
四稜郭の大鳥圭介の案内版

 現在は四稜郭の下方には林が広がっており当時のように箱館市街を見通すことはできません。近くの開けたところは確かに市街がよく見えます。五稜郭の箱館奉行所の太鼓櫓は16.5メートルの高さがありましたら四稜角から見える五稜郭は目立っていたと思われます。また太鼓櫓から四稜郭も良く見えたことでしょう。観光地としては五稜郭のように有名ではありませんが箱館戦争に興味がある人は訪れることをお奨めします。

 

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2025年8月19日 (火)

榎本武揚が旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱出(慶応4年 1868年8月19日)

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大政奉還と王政復古の大号令

 慶応3年(1867年)10月14日、幕府の行き詰まりと身の危険を感じていた第15代征夷大将軍・徳川慶喜は大政奉還を申し入れ翌15日に受理された。これにより政権は江戸幕府から朝廷に返上された。幕府が政権を朝廷に返上した後も、日本の領土は依然として幕府に従属しており、朝廷および倒幕派の諸藩には日本の政治を統括する体制が整っていなかった。慶喜は大政奉還を行っても徳川家および幕府が実質的に政権を担うことになると考えていた。

徳川慶喜
徳川 慶喜

 慶喜の腹積もりを察知した倒幕派は徳川家が政治の中心的役割を果たすこと阻止するよう朝廷に働きかけた。慶応3年(1867年)12月9日、京都御所の御学問所において明治天皇より勅令「王政復古の大号令」が発された。これにより新政府が樹立され徳川家康以来260年間続いた江戸幕府は終焉を迎えた。新政府は慶喜に内大臣の官位を返上させ、江戸幕府の領地を朝廷に返還させた。これに慶喜と幕臣が反発し鳥羽伏見の戦いが勃発、ここに旧幕府軍と新政府軍の間で戊辰戦争が始まったのである。

江戸開城

 鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍は最新鋭の武器を装備した新政府軍に太刀打ちできなかった。さらに新政府軍が錦の御旗を掲げたことにより慶喜は戦意を喪失した。徹底抗戦を主張する抗戦派の幕臣たちを前に慶喜は内密に恭順を決断し江戸へ戻った。江戸において抗戦派の幕臣たちは戦闘継続を主張したが、慶喜は恭順の姿勢を変えず自らは寛永寺で謹慎することにした。

 新政府軍は江戸城の開城を求めて東征を開始し、旧幕府軍を次々と沈静化させた。慶応4年(1868年)4月11日、徳川慶喜が寛永寺から水戸へ移り、江戸城は無血開城され大総督府に接収されたのである。

江戸開城談判(結城素明)
江戸開城談判(結城素明)

榎本武揚が旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱出

 新政府は降伏条件のひとつとして幕府が所有する軍艦の引き渡しを要求していた。これを断固として拒否したのが旧幕府海軍を統制していた海軍副総裁・榎本武揚である。武揚は抗戦派の幕臣らとともに艦隊を率いて品川沖を出港し館山沖へと移動した。

榎本武揚
榎本武揚

 この事態を危惧した勝海舟は降伏条件の緩和を前提に武揚の説得を試みた。武揚はこれに応じて品川沖へ帰還し、新政府に軍艦「富士」「朝陽」「翔鶴」「観光」の4隻を引き渡す一方で「開陽」などの主力軍艦の温存に成功した。

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勝海舟

 海舟は武揚に対し振る舞いを自重するよう要請したが、新政府による徳川家への処分に不満を抱いていた武揚は恭順する意思を持ち合わせていなかった。同年7月、新政府の東征軍に抵抗する仙台藩をはじめとする東北諸藩で結成された奥羽越列藩同盟は武揚に援軍を要請した。これに呼応した武揚は同年8月19日に「開陽」を旗艦とする「蟠竜」「回天」「千代田形」の軍艦4隻と、「咸臨丸」「長鯨丸」「神速丸」「美賀保丸」の運送船4隻、計8隻からなる艦隊を率いて品川沖を脱出し仙台へと向かった。こうして旧幕府軍による最後の戦いの火蓋が切られたのである。

戊辰中徳川軍艦八隻品川沖開帆之図(1868年)
戊辰中徳川軍艦八隻品川沖開帆之図(1868年)

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2025年8月 5日 (火)

五稜郭タワーに展示されている大砲「四斤山砲」

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 北海道函館市の五稜郭タワーを訪れると写真の大砲が展示されています。この大砲は1859年にフランスの砲兵士官ジャン・エルンスト・デュコ・ド・ライットが開発したライット・システムと呼ばれる大砲の一種で砲弾重量が4キログラムの前装ライフル式の青銅製山砲です。この大砲は幕末にオランダの紹介により江戸幕府が洋式野戦砲として輸入したもので四斤山砲と呼ばれました。四斤山砲は幕府陸軍により慶応2年(1866年)の第二次長州征討において初めて使用されました。五稜郭タワーに展示されている四斤山砲bは実物大のレプリカです。

四斤山砲のレプリカ(五稜郭タワー)
 四斤山砲のレプリカ(五稜郭タワー)

 四斤山砲は軽量で分解して馬2頭で運搬できるため山岳地帯での運用に適していました。また砲口から砲弾と装薬を装填する前装式ですが砲身にはライフリングが施されており砲弾に回転を与えることによって飛距離と命中精度を高めることができました。砲弾も内部に火薬を詰めた榴弾や榴散弾、内部に鉄球を詰めた爆裂弾が使用することができ敵を面制圧することが可能でした。こうした特徴が日本の戦場に適しており国内でコピー品が多数製造されるようになり戊辰戦争から西南戦争にかけて旧幕府軍や新政府軍の主力野戦砲として使用されました。

 五稜郭タワーに展示されている四斤山砲のレプリカは函館で毎年5月に開催される「函館五稜郭祭」をはじめとする箱館戦争に関するイベントに登場し号砲を響かせています。

四斤山砲のレプリカ(五稜郭タワー)
四斤山砲のレプリカ(五稜郭タワー)

第56回箱館五稜郭祭【(2025年5月24日放送)函館市民ニュース】

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2025年6月 7日 (土)

第二次長州征討(慶応2年 1866年6月7日)

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 文久3年(1863年)8月、「八月十八日の政変」において強硬な尊皇攘夷派の長州藩勢力や公家が薩摩藩と会津藩によって京都から追放されました。元治元年(1864年)7月、長州藩勢力が会津藩勢力を排除しようと「禁門の変(蛤御門の変)」を起こすと長州藩は朝敵とされ、幕府は慶応元年(1865年)5月に第一次長州征討を行いました。薩摩藩が参戦したこともあり長州藩は降伏し敗北しました。

  【参考】八月十八日の政変(1863年8月18日)

  【参考】禁門の変(蛤御門の変)勃発(1864年7月19日)

 第一次長州征討では長州藩の降伏により大規模な戦闘は起こりませんでした。朝敵となった長州藩は武器の購入などが禁止されましたが、高杉晋作をはじめとする倒幕派が再起を図りはじめました。幕府側ではこれまでの徳川家を中心とする封建的な幕政から脱却し合議制とする話し合いが進めらていましたが折り合いがつかず、薩摩藩は旧態依然とした幕政では日本の将来が危ういと考えるようになり倒幕へ傾きはじめました。同じ頃に日本の行く末を憂えていたが土佐藩を脱藩した坂本龍馬と中岡慎太郎でした。彼らは西郷隆盛に長州藩と手を結ぶよう提案し、長州藩の桂小五郎には薩摩藩と手を結ぶように話をします。これがきっかけとなって慶応2年(1866年)1月21日に薩長同盟が締結されました。

  【参考】薩長同盟(1866年1月21日)
 この同盟委により長州藩は薩摩藩から最新の武器を入手できるようになり密かに軍事力を強化しました。第一次長州征伐で敗北し朝敵となった長州藩でしたが幕府に対して反抗的な態度を示すようになりました。長州藩が軍事力を整えていることを危惧した幕府は再び長州征伐を決断しました。将軍の徳川家茂が大阪城に入り15万の大軍を長州征討に動員しました。

長州征討に参戦する幕府軍
長州征討に参戦する幕府軍

 薩長同盟を結んでいた薩摩藩が幕府に対して参戦を断りました。当初、15万人の幕府軍が優勢と思われましたが、長州藩は薩摩藩から入手した最新の武器で幕府軍を圧倒しました。幕府の戦況が不利となる中で大阪城に滞在していて徳川家茂が病死したことにより幕府軍は撤退せざるを得なくなりました。幕府は朝廷に休戦の勅命を発してもらい長州藩と停戦合意に至りました。

 幕府軍の惨敗により幕府軍の軍備は西洋の最新兵器に対しては役に立たないことが知れ渡り江戸幕府の権威を失墜させました。長州藩および薩摩藩を中心とする倒幕運動が加速しました。

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2025年6月 3日 (火)

中島三郎助と堀達之助が黒船と交渉(嘉永6年 1853年6月3日)

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 嘉永6年(1853年)6月3日午後5時頃、それまで日本人が見たこともない4隻の大きな黒い軍艦が浦賀沖に現れました。浦賀奉行の戸田氏栄は4隻のうち司令長官旗を掲げている旗艦に浦賀奉行所与力の中島三郎助とオランダ語通詞の堀達之助を派遣しました。2人は小舟で旗艦に向かいました。

 旗艦に小舟を横付けすると堀達之助が英語で「I can speak Duch」(私はオランダ語を話せる)と伝えました。旗艦に乗船していた通訳のオランダ人アントン・ポートマンが対応しオランダ語による交渉が行われました。与力の中島三郎助は自身を浦賀副奉行と称し交渉を始めました。

 この交渉によって艦隊がマシュー・ペリー提督が率いるアメリカ合衆国の艦隊であること、艦隊の目的が将軍にアメリカ合衆国のミラード・フィルモア大統領の親書を渡すことであることがわかりました。ペリーは中島三郎助の階級が低いと親書を預けることを拒否しました。中島三郎助と堀達之助は奉行所に戻り顛末を報告、日本を大きく変化させるきかっけとなった幕府とペリーの交渉が始まったのです。

 中島三郎助は砲術に長けていたこともありアメリカ合衆国の軍艦に興味があったようです。アメリカ側の記録には中島三郎助が軍艦の船体の構造、搭載されている砲、蒸気機関をスパイのように入念に調査していたことが記されています。ペリーの帰国後、中島三郎助は幕府老中の阿部正弘に軍艦の建造と蒸気船を含む艦隊の設置をするよう意見書を提出しています。その後、中島三郎助は日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」の建造で活躍し同軍艦の副将となっています。さらに長崎海軍伝習所に一期生として入所し築地軍艦操練所教授方出役に就任しました。幕末は榎本武揚とともに旧幕府軍として戦い箱館の千代ヶ岡陣屋で戦死しました。

中島三郎助
中島三郎助

 堀達之助はアメリカ側の記録によると通詞としても人柄も高く評価されています。ペリーが嘉永7年(1854年)に再来航したときにも通詞を務め日米和親条約の翻訳にも関わっています。安政5年(1858年)9月、ドイツ商人から日本とドイツの条約締結を求められたとき幕府に報告せず独断で処理しようとしたと咎められ入牢処分となりました。このとき吉田松陰と出会い交流するようになりました。この入牢は冤罪とされ古賀謹一郎の支援で安政6年(1859年)12月赦免されました。文久2年(1862年)1月に日本初の新聞「官板バタビヤ新聞」を発行、翌文久2年(1862年)には日本初の英和辞書「英和対訳袖珍辞書」刊行、文久3年(1863年)には開成所教授となりました。慶応元年(1865年)、箱館奉行通詞に就任し、慶応2年(1866年)に「函館洋学所」を開設しました。「函館文庫」で箱館奉行所の洋書の保存を行いました。明治元年(1868年)に新政府の箱館裁判所参事席、文武学授掛となりましたが箱館戦争のため箱館を離れました。箱館戦争後は箱館に戻り開拓使に出仕しました。もし中島三郎助が戦死していなければ明治維新後は開拓使に出仕し堀達之助の再開していたかもしれません。堀達之助は明治5年(1872年)に依願退職し明治27年(1894年)に大阪で死去しました。

堀達之助
堀達之助

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