カテゴリー「箱館戦争」の13件の記事

2024年4月 6日 (土)

第10話「渋沢従兄弟の有為転変な人生」|明日なき戦いの果てに

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 渋沢成一郎は天保9年(1838年)に武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市血洗島)の渋沢文左衛門の長男として生まれた。渋沢家は代々養蚕業を営む名主である。文左衛門の家は分家だったが本家の跡継ぎとして弟の源助が養子に出た。この源助の長男が渋沢栄一である。

 成一郎と栄一は年長の従兄尾高惇忠のもとで儒教や日本史を学んだ。惇忠は第9代水戸藩主徳川斉昭の鷹狩りを見て尊皇攘夷論の基礎となる水戸学に傾倒していた。影響を受けた2人は江戸に赴き儒学と北辰一刀流の剣術を学び、勤王の志士と尊皇攘夷をめざすようになった。

 文久3年(1863年)、惇忠、成一郎、栄一は高崎城を乗っ取り横浜の外国人居留地を攘夷する計画を立てた。京都で八月十八日の政変を見た惇忠の弟尾高長七郎は無謀な計画を中止するよう説得した。成一郎と栄一は説得に応じ京都に赴いたが攘夷の勢力は衰退していた。

 このとき2人は江戸で知り合った一橋徳川家の家臣平岡円四郎と再会し、志はそのまま円四郎の家臣となった。翌年、長七郎が江戸で捕まり所有していた書簡から2人の倒幕の志が露見したが、円四郎は2人を処分せず一橋徳川家の家臣となるよう勧めた。倒幕の志士が幕府直属家臣になる矛盾はあれど死んでしまっては元も子もないと考えた2人は提案を受け入れた。一橋徳川家当主は斉昭の子徳川慶喜で幕府の中心とは異なる考えを持っていた。2人は慶喜のもとで良く働き高く評価された。

 慶応2年(1866年)12月、慶喜が第15第征夷大将軍となると転機が訪れた。栄一は慶応3年(1867年)にフランスのパリの万国博覧会に派遣され先進的な政治や産業の近代社会に目覚めた。幕府終焉時は日本におらず帰国後は新政府で官僚として働き実業家に転身した。一方の成一郎は幕末の混乱の中で鳥羽・伏見の戦いに参戦、将軍警護のため彰義隊を結成、後に榎本武陽と行動をともにし箱館へ向かった。

尾高惇忠と渋沢成一郎と渋沢栄一
尾高惇忠と渋沢成一郎と渋沢栄一

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2024年4月 1日 (月)

トイレットペーパーの有料化が義務化へ(4月1日)|ライアー新聞

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ライアー新聞 2024年4月1日

 環境省は紙資源を守る観点から公衆トイレ、駅やデパートなどで事業者が提供するトイレに温水洗浄便座を設置を義務づけると同時にトイレットペーパーの有料化を義務づける方針を打ち出しました。

 環境省は我が国では温水洗浄便座の普及が進みトイレットペーパーは実質的に不要な状態になっていること、利用者がトイレットペーパーを使わないという勇気さえ持てば大幅な紙資源の節約が実現できること、温水洗浄便座がない時代でもトイレットペーパーが有料だったこともあったと説明しています。

トイレットペーパーの有料化が義務化へ(4月1日)|ライアー新聞
トイレットペーパーの有料化が義務化へ(4月1日)|ライアー新聞

 国は国民に広く理解を求めるため先んじて官公庁を中心に進めていく考えのようです。既に外務省では他国のトイレ文化を参考に温水洗浄便座付きトイレからトイレットペーパーを全て撤去し手洗運動を促進しているとのことです。

 これに対しトイレットペーパーを守る会は温水洗浄便座でもトイレットペーパーは必要、停電や故障で温水洗浄できなくなった事態と紙切れの事態が重なったときには手の施しようのない緊急状態になると反発しています。

 一方、トイレットペーパー不使用連合はトイレットペーパーを利用するかしないかは自己責任であとして有料化に賛成、どうしても利用したいのであればマイトイレットペーパーの利用を促進するべきだとしています。

 SNSでは多数の批判の声があがっています。

 

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2024年3月30日 (土)

第9話「浪士組西へ」|明日なき戦いの果てに

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 近藤勇は天保5年(1834年)10月5日に武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市野水)に農家の三男として生まれた。幼名は勝五郎とし後に勝太と改めた。嘉永元年(1848年)11月に天然理心流剣術道場の試衛場に入門、万延2年(1861年)に流派一門の宗家を継いだ。

 土方歳三は天保6年(1835年)5月5日に武蔵國玉郡石田村(東京都日野市石田)の農家の末子として生まれた。姉が嫁いだ天然理心流の佐藤彦五郎の道場に出入りし、ここで彦五郎と義兄弟の契りを結んでいた勇に出会った。安政6年(1859年)3月に天然理心流に入門した。

 文久3年(1863年)、徳川家茂は朝廷から攘夷実行の一任を取るため第3代将軍徳川家光以来229年ぶりに上洛することになった。同年2月、勇と歳三は試衛館の同志たちと家茂の上洛警護のために結成された浪士組に応募したが、浪士組を集めた清河八郎は実は倒幕と尊王攘夷の志を持っていた。浪士組が京都壬生(みぶ)に到着後、八郎は生麦事件で横浜に現れた英国艦隊を攘夷するため将軍警護を行わず江戸に戻ることを告げた。浪士組の目的が尊皇攘夷運動であることが露呈し芹沢鴨や勇が反発した。浪士組と江戸に戻った八郎は同年4月に幕府の刺客に暗殺された。浪士組は江戸の治安警備を担う庄内藩の新徴組となった。

清河八郎と近藤勇と土方歳三
清河八郎と近藤勇と土方歳三

 鴨、勇、歳三らは京都残留を決め京都守護会津藩藩主松平容保の預かりとなり壬生浪士組と呼ばれる治安維持組織を結成した。文久3年(1863年)、強行的な攘夷派の公家や長州藩を京都から追い出す八月十八日の政変へ出動し会津藩から新撰組という隊名を授けら同年9月25日に改名したと伝えれている。新撰組とは会津藩で本陣を守る武芸に奏でた優秀なものたちに与えられていた隊名だった。

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2024年3月26日 (火)

第8話「オランダへ航れ」|明日なき戦いの果てに

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 列強に劣らない軍艦が必要と考えた幕府はタウンゼント・ハリスに軍艦建造を頼んだが米国の南北戦争による混乱を理由に断わられた。そこで幕府はオランダに軍艦を発注し、軍艦の引き取りと西洋式操船や学問を学ばせるため内田恒次郎、榎本釜次郎(武揚)、澤太郎右衛門など長崎海軍伝習所出身者を中心とした留学生15名を派遣した。

 文久2年(1862年)6月、彼らは咸臨丸で品川沖を出港し長崎に向かった。同年9月、オランダ船で長崎を出港、途中暴風雨で無人島に漂着するも文久3年(1863年)4月にオランダのロッテルダムに到着した。

 釜次郎は長崎海軍伝習所でオランダ人教員から高く評価され、卒業後は築地軍艦操練所の教授となった。この頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、ここで江川英龍の縄武館兵学教授の大鳥圭介と出会った。

 釜次郎は開陽丸が竣工するまで西洋式船舶、砲術、蒸気機関に加え化学や国際法を学び欧州諸国を視察した。幕府がオランダに発注した最新鋭の軍艦の名前は釜次郎が発案した夜明け前(オランダ語Voorlichter、フォールリヒター)に由来し開陽丸と名付けられた。釜次郎は日本の国情を考え夜明け前を想起したと伝えられている。新しい時代の幕開けを実感していたのだろう。

開陽丸とオランダ留学時の榎本釜次郎(武陽)
開陽丸とオランダ留学時の榎本釜次郎(武陽)

 開陽丸は全長72 m、排水量2590 tの船体に400馬力の蒸気機関と大砲26門(後に35門)を備えていた。速さ10ノット(時速18.5 km)で航行し、クルップ砲の射程距離は3,900 mに及んだ。航海試験を担当したジュール・アーサー・エミール・ディノー海軍大尉はオランダに開陽丸に勝る軍艦はないと絶賛した。1866年12月1日、開陽丸はオランダのブリッシンゲンを出航、アフリカ南端を経てインド洋を渡り1867年4月30日に横浜港に到着した。幕府軍艦奉行の勝海舟が開陽丸を出迎え、榎本武揚は軍艦頭並、澤太郎左衛門は軍艦役並に就任した。

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2024年3月23日 (土)

第7話「混乱する幕政」|明日なき戦いの果てに

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 日米和親条約のもと安政5年(1858年)に初代日本総領事に就任したタウンゼント・ハリスは幕府に通商条約の締結を求めた。穏やかで冷静な態度のハリスの主張を聞いた13代将軍徳川家定や老中首座の堀田正睦は列強から日本を守るためには条約締結はやむを得ないと考えるようになった。日米和親条約締結以降、水戸藩を中心とした幕政への批判や外交勢力を追い払う攘夷論が高まっていた。幕府はこれらを抑えるため条約締結にあたり孝明天皇の勅許を得ることにした。

 正睦は勅許を得るため上洛したが攘夷派の公家が条約締結に反対した。同年3月12日に朝廷に条約議案が提出されると、堂上家137家のうち岩倉具視ら合計88名が抗議の座り込みを行う廷臣八十八卿列参事件を起こした。和親条約は問題ないと考えていた孝明天皇も通商条約は国の秩序を乱すと勅許を拒否した。家定は井伊直弼を大老に指名し勅許を得られなかった正睦は失脚した。

タウンゼント・ハリス、井伊直弼、徳川家茂
タウンゼント・ハリス、井伊直弼、徳川家茂

 ハリスからの催促に直弼は孝明天皇の勅許を得ないま同年6月19日に日米修好通商条約を締結、同年9月までに列強と安政五カ国条約を結んだ。幕府は条約批准書交換のため米国軍艦ポータハンで万延元年遣米施設団を派遣し、咸臨丸で木村喜毅、勝海舟、ジョン万次郎などを随行させた。

 開国を主張する南紀派の直弼は同年に徳川家茂を第14代将軍とし条約を締結させた。攘夷を主張し徳川慶喜を将軍に推した水戸藩などの一橋派が将軍人事や条約締結に反発すると、直弼は反抗者を粛正した(安政の大獄)。これが反感を買い直弼は安政7年(1860年)3月に水戸浪士らに江戸城桜田門外で暗殺された(桜田門外の変)。攘夷論は天皇や皇室を政治の中心とするべきという考えの尊王論と結びつけられ、反幕府の尊皇攘夷運動が起こり幕政の混乱が始まった。

 

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2024年3月19日 (火)

第6話「五稜郭築城」|明日なき戦いの果てに

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 安政元年(1854年)3月、日米和親条約で箱館が開港すると幕府は蝦夷地を直轄し6月に箱館奉行を基(もとい)坂(ざか)(元町公園)に設置した。初代箱館奉行には竹内保徳が就任したが、間もなく堀利煕が就任し2人体制となった。保徳は基坂いあった松前藩の箱館奉行詰役所の改築を考えたが利煕は箱館港や箱館山に近く防衛に難があるとし内陸への移転を唱えた。保徳と利煕は幕府に箱館湾内からの艦砲射撃が届かない亀田の鍛治村に城を築き箱館奉行を移転する意見書を提出、老中阿部正弘がこれを了承し五稜郭と箱館港に弁天台場を建設することになった。

五稜郭設計図と箱館奉行所と武田斐三郎
五稜郭設計図と箱館奉行所と武田斐三郎

 五稜郭の設計は蘭学者の武田斐三郎が担当した。斐三郎は安政2年(1855年)7月にフランス軍艦コンスタンティーヌが乗組員の病気療養のために箱館に寄港した際、同艦副艦長から得た星形要塞や大砲の図面を参考に五稜郭と函館港の弁天台場の設計を行った。当時、日本とフランスは和親条約を結んでおらずフランス軍艦の入港は保徳が人道的に許可したものである。このフランス軍艦の入港がなければ星形要塞の図面は入手できておらず五稜郭も違った形状をしてたかもしれない。

 弁天台場が完成したのは文久3年(1863年)、五稜郭は元治元年(1864年)に竣工し箱館奉行が移転された。

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2024年3月15日 (金)

第5話「長崎海軍伝習所」|明日なき戦いの果てに

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 黒船来航後、幕府は海防強化のため西洋式軍艦の輸入を決めた。またオランダの協力により長崎に海軍士官を養成する長崎海軍伝習所を安政2年(1855年)に設立した。

 長崎海軍伝習所の初代総監理には永井尚志が就任、オランダから教員が派遣され蒸気船の観光丸が練習船として供与された。伝習所の最初の目的はオランダに発注した咸臨丸と朝陽丸の乗組員養成であり第一期生37名が入校した。勝海舟、矢田堀景蔵、中島三郎助、佐々倉桐太郎、石井修三、小野友五郎、春山弁蔵、浜口興右衛門、岩田平作、山本金次郎、上田寅吉など幕末の海軍を支えた蒼々たる顔ぶれだった。

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「長崎海軍伝習所絵図」鍋島報效会蔵と永井尚志

 榎本釜次郎(武陽)も入校を希望したが叶わず聴講生となり翌年に第二期生として入校した。伝習生は第三期まで募集された。第二期と第三期の総監理には木村喜毅が就任した。第二期は伊沢謹吾、榎本武揚、肥田浜五郎、伴鉄太郎、松岡磐吉、岡田井蔵、勝海舟など、第三期は澤太郎左衛門、赤松大三郎、内田恒次郎、合原操蔵、小杉雅之進、田辺太一、根津勢吉、松本良順、勝海舟、五代友厚などが入校している。

 安政4年(1857年)4月に築地軍艦操練所が設立されると、長崎海軍伝習所はその役割を終え安政6年(1859年3月)に閉鎖された。長崎海軍伝習所の卒業生達は戊辰戦争では新政府軍、旧幕府軍として参戦し袂を分かつことになったが、彼らは海軍で活躍し伝習所設立の目的である日本の海防を支えた者たちだったことは間違いない。

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2024年3月14日 (木)

第4話「マシュー・ペリー箱館へ」|明日なき戦いの果てに

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 黒船艦隊が離日して10日後、将軍家慶が死去した。この事実を知ったペリーは幕政が混乱する中で交渉を有利に進めるため幕府と約束した1年の猶予を反故にし半年後の嘉永7年(1854年)1月に再来日した。合計9隻の艦隊を江戸湾に侵入させ圧倒的な軍事力のもと砲艦外交を行ったのである。幕府は同年3月3日に日米和親条約を締結、伊豆の下田と蝦夷地の箱館が開港された。

 ペリーが箱館に視察に訪れたには4月21日だった。このときペリー迎えたのは松前藩だった。幕府は松前藩に箱館開港は知らせていたものの日米通商条約締結は伝えていなかった。松前藩が条約の内容を把握したのは米国から提示された条文を見たときである。松前藩は函館港の取り決めについて権限がないことを理由に交渉を断った。ペリーは5月8日に箱館を出港し下田で幕府と協議をすることにした。

 写真はペリーを出迎えた松前藩家老の松前勘解由と従者である。ペリーの艦隊に随行した写真家エリファレット・ブラウン・ジュニアが撮影したもで現存する日本最古の銀板写真のひとつである。

松前藩家老の松前勘解由と従者
松前藩家老の松前勘解由と従者

 幕府が日米通商条約を知らせなかった背景には蝦夷地の直轄化を目論んでいたからと言われている。実際に幕府は安政2年(1855年)2月に蝦夷地を直轄化し、松前藩の領地を松前城を中心に渡島半島の南西部のみとした。松前藩は代償の領地や手当金を受けたが財政難となった。元治元年(1864年)に松前崇広が江戸幕府老中に就任するも財政難は続いた。同年、幕府による長州征伐が行われ、松前藩は新政府軍として戊辰戦争に巻き込まれていくことになる。

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2024年3月 9日 (土)

第3話「黒船が来た」|明日なき戦いの果てに

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 嘉永6年(1853年)6月3日午後5時頃、相模国浦賀沖に日本人がそれまで見たことのない大きな黒塗りの4隻の船団が現れた。2隻は蒸気外輪フリゲート艦で煙突から煙を吐き出し2隻の帆船を従えていた。黒船来航で知られるこの艦隊はアメリカ合衆国第13代大統領ミラード・フィルモアが日本に開港と通商を求める親書を幕府に渡す目的で派遣したマシュー・ペリー提督率いる海軍東インド艦隊であった。

 浦賀奉行所は直ちに中島三郎助とオランダ語通詞の堀達之助を艦隊旗艦サスケハナに派遣した。達之助が旗艦に向かって英語でオランダ語が話せることを伝えると会話はオランダ語通訳で行われ、三郎助は自らを副奉行と称して乗船した。2人は艦隊の来航の目的を聞き出すなど重要な役割を果たしたが、三郎助の階級が低いという理由で親書を受け取ることはできなかった。6月4日、浦賀奉行所与力香山栄左衛門が浦賀奉行と称して訪れたが対応は変わず、ペリーは測量と称して軍艦を江戸湾に侵入させるなどの示威行動をした。

江戸湾を測量する艦隊
江戸湾を測量する艦隊とマシュー・ペリー(1855~1856)

 幕府はペリーに久里浜の上陸を認め6月6日に陸海の警備のもと浦賀奉行が会見を行った。親書を受け取った幕府は将軍徳川家慶が病で決断できる状態にないことから返事に1年間の猶予が欲しいことを伝えた。ペリーはこれを了承し1年後に再来日すると6月12日に江戸を離れた。

 この黒船来航で三郎助はペリーの軍艦を念入り調べた。海防に危機感を抱いた三郎助は日本も大型軍艦を建造し艦隊を所有する必要性を説いた。幕府は浦賀奉行に洋式軍艦の建造を認め三郎助らが中心となって嘉永7年(1854年)に日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」を完成させた。

鳳凰丸
鳳凰丸(安政2年2月・1855年3月)

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2024年3月 4日 (月)

第2話「狙われた港」|明日なき戦いの果てに

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 浦賀は江戸の入り口に位置することから江戸時代には廻船問屋や干鰯問屋が軒を連ねた。亨保5年(1720年)には江戸湾警備のため浦賀奉行が置かれ万が一の事態に備えて浦賀砲台も整備された。浦賀は湾に出入りする船が必ず寄港する要地となり隆盛を極めた。

 異国船の増加により浦賀奉行の役割は重視されるようになったが幕末に活躍したのが与力の中島三郎助である。三郎助は文政4年(1821年)に浦賀奉行与力の中島の長男として生まれ14歳で与力見習いとなった。モリソン号事件で砲術家として活躍、弘化3年(1853年)にアメリカ合衆国のジェームス・ビドルの艦隊が通商条約を求めて浦賀に来航したとき勘違いで会津藩の船と一触即発となったところを与力の父らと和平解決に尽力した。

浦賀湾の様子(12890年頃)と中島三郎助
浦賀湾の様子(12890年頃)と中島三郎助

 浦賀奉行の海防は幕府に高く評価され江戸から要人が視察に来たときには三郎助が大砲の試射を披露した。下曽根信敦から高島秋帆の高島流砲術を学んだ三郎助の砲術の腕前は江戸で噂になるほど秀逸で三郎助は嘉永2年(1849年)に与力となった。軍艦の必要性が高まると西洋式軍艦の建造が認められるようになり三郎助の大砲を載せた「蒼隼丸」が建造された。

 三郎助は大砲や砲台の製作から火薬の調合まで行うようになり浦賀海防の重要人物となった。嘉永3年(1850年)に自身が管理する「玉薬製造所」で爆発事故か発生し「蒼隼丸」などが失われると三郎助は監督不行届で押込処分(自宅謹慎)となったが時代はますます中島三郎助を求めたのである。

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