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幕末に公武合体派の立場を取っていた秋月藩は攘夷の機会を探る情報収集を行うべく文久元年(1861年)に家老の臼井亘理を公用人兼長崎聞役に命じ長崎に派遣しました。長崎で亘理は幕府や諸藩が列強に対応するため留学生に洋学を学ばせ洋式兵制を整えつつあることを知りました。亘理は秋月藩10代藩主の黒田長元に洋式兵制の採用を進言しましたが藩士の多くが異国のやり方にならうことに反対したため実現しませんでした。
秋月藩が西洋兵式の採用を進めるようになったのは慶応2年(1866年)に黒田長徳が12代藩主となってからです。長徳は同年11月に亘理に西洋兵式の採用と訓練を行うよう命じました。しかしながら世の中の情勢に疎い秋月藩士たちは洋式兵制や異国文化の導入に反発しました。彼らは攘夷を進めている薩摩藩や長州藩が洋式兵制や洋式軍備を整えていることを知らなかったのです。西洋兵式を進める亘理への批判が高まり、亘理を失脚させようとする藩士も少なくありませんでした。やがて亘理を討てという過激な声まであがりました。
旧態依然とした幕藩体制の秋月藩に対して世の中の情勢は大きく変わり、慶応3年(1867年)10月15日に大政奉還の奏上が勅許され、同年12月9日の王政復古の大号令の勅命が発せられました。翌慶応4年(1868年)に幕府側が「鳥羽・伏見の戦い」で敗れると、新政府は諸藩の藩主に京都に赴くよう命じました。秋月藩主の長徳はこれを様子見し、亘理を執政心得首座公用人として全権を任せて京都に派遣しました。
尊皇攘夷派が主流となっていることを悟った亘理は秋月藩を守るためには新政府に従う必要があると考え長徳に上京を要請しました。長徳はここれに応じて上京し同年4月29日に亘理から情勢の説明を受け亘理に労いの言葉をかけました。ところが翌日、藩のために奔走していた亘理に対する讒言を聞いた長徳がこれを信用して家老の田代四郎右衛門を通じて亘理に突然の帰国命令を出しました。宗藩である福岡藩、新政府の公家、薩摩藩、長州藩は亘理を高く評価し、これからは優れた人材が活躍する時代であるとして亘理に京都に留まるよう要請しました。しかし、これが長徳や秋月藩首脳の反感を買うことになりました。こうした亘理への対応は秋月藩の守旧派によるものでした。
亘理は秋月藩に戻り藩のために働くことを決め同年5月5日に京都を発ちました。同年5月25日、自宅に戻った亘理は久しぶりに妻の清子、長男の六郎、娘のつゆに会いました。親戚や知人も集まり亘理の帰国を祝う酒席が開かれました。酒席を終えた亘理は清子と寝室に入り熟睡しました。そこに秋月藩の干城隊が侵入し亘理を襲撃しました。干城隊は亘理と異変に気がついた清子を容赦なく惨殺しました。当時11歳の長男の六郎は起こされて両親が殺害されたことを知らされました。殺害現場へ近づくことを禁じられましたが六郎はそれを振り切って見るに堪えない変わり果てた両親の姿を目にしたのです。あまりにも凄惨な現場を見た六郎は犯人に対する復讐を誓いました。
秋月藩はこの殺害事件に対して亘理は不届き者であるとしてお咎めなしとしました。この暗殺は秋月藩首脳が仕組んだものとも伝えられています。亘理の暗殺を知った新政府は秋月藩と距離を置くようになり、新しい時代に取り残された秋月藩士は「秋月の乱」を起こすことになります。
両親の復讐を決意した臼井六郎は暗殺者が誰なのか知るすべもありませんでした。同年9月に六郎は自身が通っていた道場で干城隊士の山本克己の弟の山本道之助が兄が国賊の臼井亘理を殺害したと吹聴しているところに出くわし暗殺者を特定するに至りました。後日、母を殺害したのは萩谷伝之進であることも判明しました。
六郎は養父の臼井慕(渡辺助太夫)に仇討ちの意を表明しましたが、慕は復讐は国の大禁であり軽々しく粗暴な挙動に出ないよう戒めました。そして復讐をしたいのであれば文武を学んだ後に決断するよう諭しました。秋月藩の主流派であり剣術に優れた干城隊を幼い六郎が仇討ちできるはずがありませんでした。
臼井六郎
明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県が発せられると秋月藩の非道を宗家の福岡藩に訴えたことで幽閉された秋月藩士たちが釈放されました。その中の1人に亘理の弟で叔父の上野月下がいました。秋月を離れ東京に出た月下に六郎が両親の仇を知っていると記した手紙を送ったのは明治5年(1872年)六郎15歳のときです。そして六郎は、山本克己の父の亀右衛門は亘理の支持者であり息子を手討ちにしようとしたが、亘理の暗殺が秋月藩による上意討ちだったことを知り手が出せなかったという話を聞きつけました。同年、六郎は山本克己が東京にいることを知りました。
明治9年(1876年)、19歳の六郎は小学校の教師となっていました。同年8月に親戚の者が上京することを知ると養父の慕に一緒に東京に出て学問を学びたいと申し出ました。慕は六郎の上京を許し六郎は父の形見の短刀を手に上京しました。もちろん六郎の目的は両親の仇討ちをすることでした。六郎は東京につくと叔父の月下のもとに身を寄せました。やがて山本克己が一瀬直久と名を変えて名古屋の裁判所で判事として勤務していることを知りました。しかし六郎は名古屋に赴く費用を捻出することができませんでした。
六郎は生活が苦しかった月下のもとを離れて仕事をすることにしました。山岡鉄舟の春風館道場を訪れたところ鉄舟は六郎を住み込みの書生としました。六郎は道場でよく働き勉学と剣術の修行に励みました。鉄舟と夫人の英子は六郎を高く評価しました。鉄舟の紹介で勝海舟の家にも出入りすることができるようになりました。同年に「秋月の乱」が起こり秋月藩士らが新政府軍の乃木希典が率いる小倉鎮台により鎮圧されたことを知った六郎はついに天罰が下ったと喜んだそうです。
【参考】「秋月の乱」の秋月党が挙兵(1876年10月27日)|明治政府に対する士族の反乱
六郎は旧秋月藩士を訪れ一瀬直久に関する情報を集めました。叔父の月下から両親暗殺について秋月藩のお咎めなしの裁定を聞き仇討ちの決意を固めました。このとき月下は復讐に反対しています。六郎は月下の忠告と養父の慕の言を忘れることはありませんでした。
明治11年(1978年)、六郎は一瀬直久が静岡裁判所の判事となり山梨県の甲府支庁で働いていることを知り仇討ちに向かいましたが一瀬直久を見つけることはできませんでした。探索をしているうちに判事が東京へ転勤になるという噂を聞きつけ東京に向かいましたが一瀬直久を見つけることはできませんでした。噂が真実ではなかったと考えて甲府に戻りました一瀬直久を見つけることはできなかったのです。
明治13年(1980年)、23歳になった六郎は東京にいました。相変わらず一瀬直久の行方はわかりませんでしたが、同年11月に一瀬直久が東京上等裁判所に転勤となり自宅の住所を知りました。六郎は仇討ちの理由を書いた文書を肌身につけて復讐の機会をうかがいました。東京裁判所や一瀬直久の自宅近くで張り込みを行いましたが一瀬直久を見つけること一向にできませんでしたが、同年12月13日に銀座を訪れたときに一瀬直久を偶然見つけました。六郎は一瀬直久の後を追いましたが姿を見失ってしまいましたが仇が東京にいることを確信できました。
その後、六郎は東京裁判所の前で張り込みを続けましたが一瀬直久を見つけることはできませんでした。同年12月17日、六郎は一瀬直久の行動を考えました。一瀬直久を見かけた銀座には旧秋月藩主の黒田邸がありました。黒田邸には在京の旧秋月藩士らがしばしば訪れていました。黒田邸の2階には旧藩士が集まる団欒所がありました。六郎は囲碁好きの一瀬直久が黒田邸を訪れていたことを思い出し何か手がかりがつかめないかと黒田邸に赴きました。
黒田邸では鵠沼文見人の夫妻が住み込みで働いており文見人の妻わかは六郎の従姉妹でした。六郎が黒田邸を訪れると文見人は不在だったため団欒所で待つことにしました。その後、戻ってきた文見人と談笑していたところ、そこに一瀬直久が姿を現したのです。六郎は仇討ちの機会をうかがいましたが他に旧藩士が2人いたので帰路で襲撃することにしました。ところが一瀬直久が郵便を出すため1階に下りたため、六郎は厠に行くと偽って後を追いました。六郎は担当を懐から出し身構えて隠れました。そして一瀬直久が戻ってきたところを「父の仇、思い知れ」「奸賊思い知れ」と襲いかかり格闘のうえ仇討ちを成功させたのです。六郎は仇討ち事件を起こし旧藩邸を汚したことを文見人に詫びて人力車を拾って現場を離れ京橋警察署に自首しました。
同年12月24日、多くの新聞がこの事件を最後の仇討ちと美談として報じました。しかし、新政府は明治6年(1873年)2月に「仇討ち禁止令」を発し私的な復讐を法律で禁じていました。幕末や明治初期であれば仇討ちは美談にもなりますが時代は変わっていたのです。六郎は取り調べにおいて仇討ちが禁止されたことは知らなかったが養父から「復讐は古来から国の大禁」と言われていたことを伝え自分が殺人罪を犯したことを認識していると述べました。当時の法律では誅殺は死罪でしたが閏刑とされ、明治14年(1881年)9月22日に終身刑の判決を受けました。
六郎の仇討ちは秋月の実家にも伝わり親族はたいへん喜んだそうです。東京で面倒を見ていた山岡鉄舟と勝海舟は六郎の行く末を案じたそうです。目的を果たして投獄された六郎は模範囚となりました。六郎のもとには山岡鉄舟の妻の英子が差し入れによく訪れました。
明治23年(1889年)に大日本帝国憲法発布されると特赦に六郎は罪を禁獄10年に減刑とされ明治24年(1891年)9月22日に釈放されました。このとき六郎は34歳でした。六郎が出所すると叔父の月下と鉄舟の春風館の書生が待っていました。山岡鉄舟は既に亡くなっていましたが妻の英子の取り計らいでその日の晩に六郎の慰労会が行われました。慰労会には政治家、大学教授、剣術家など時の著名な人物が集まっており六郎は驚いたようです。
目的を果たした六郎は気力を失いましたが明治37年(1904年)に妹つゆが住む北九州の門司を訪れ、つゆの夫で旧秋月藩士のはからいで門司駅前で饅頭屋「薄雪饅頭」を開きました。このとき六郎は48歳でしたが28歳の加藤ゐえと結婚しました。
臼井六郎 明治40年(1907年)
その後、六郎は鳥栖駅前の待合所の経営「八角亭(やすみてい)」を任されました。店は繁盛し子どもはできませんでしたが叔父の月下の次男を養子に迎え家族に囲まれて幸せに暮らしたそうです。大正6年(1917年)9月4日、六郎は病により60歳で波瀾万丈の人生の幕を閉じました。遺骨は両親の傍らに葬られました。
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