カテゴリー「幕末・明治」の197件の記事

2026年3月15日 (日)

靴の記念日(靴の日)(明治3年 1870年3月15日)

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 日本に洋式の靴が輸入されるようになったのは幕末です。当時は西洋草履などと呼ばれました。西洋草履はサイズが大きく日本人の足には合いませんでした。幕末の洋式軍隊では輸入品の軍靴が使われていましたが、やはりサイズが合いませんでした。幕府はフランス式の洋式陸軍の部隊「伝習隊」を編成するにあたり、軍靴をフランスから輸入しましたが、軍靴が届いたのは幕府が終焉後の明治2年(明治2年)でした。新政府じは横浜の運上所に大量の軍靴を保管しましたが、日本橋や横浜に鉄砲店を開いていた元佐倉藩士で御用商人の伊勢屋勝三こと西村勝三に軍靴の売却を依頼しました。このとき日本陸軍の創始者(陸軍建設の祖)で兵部省初代大輔を努めた大村益次郎が日本人の足に合う洋靴の製造工場の設立を依頼したと伝えられています。

伊勢屋勝三こと西村勝三の銅像
伊勢屋勝三こと西村勝三の銅像

 

 西村勝三は明治3年(1870年)3月15日に築地(東京都中央区入船3丁目20-10)に伊勢勝造靴場を開き靴の製造を始めました。この靴工場の設立を支援したのは佐倉藩の最後の藩主だった堀田正倫と渋澤栄一です。西村は築地に加えて佐倉(千葉県佐倉市)にも士族授産の靴工場の相済社を開き廃藩置県で職を失った旧佐倉藩士を伝習生として靴の製造を行いました。相済社は明治30年(1897年)に解散していますが、その後、伝習生の大塚岩次郎が大塚製靴(大塚製靴株式会社)を開いています。

 「靴の記念日(靴の日)」は日本初の製靴工場の開設を記念して、昭和7年(1932年)に日本靴連盟によって制定されました。伊勢勝造靴場のあった場所には靴業発祥の地の記念碑が同連盟により建立されています。

 伊勢勝造靴場明治17年(1884年)に桜組製靴と改称し、明治35年に日本製靴株式会社となりました。この日本製靴株式会社が現在のリーガル・コーポレーションです。

 なお、 2月22日は「スニーカーの日」、9月28日は「くつやの日」、11月9日は「いい靴の日」とされています。

 

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2026年2月23日 (月)

新選組総長 山南敬助の最期( 元治2年 1865年2月23日)

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 新選組の副長を経て総長を務めた山南敬助。出自はよくわかっていませんがの記録を読み解くと天保7年(1836年)に陸奥国仙台で生まれたと考えられます。姓名の読みは「やまなみ」として知られていますが、「三南」と記録されたものがあることから「さんなん」だった可能性が高いという指摘もあります。経歴もよくわかっていませんが、北辰一刀流の免許皆伝だったこと、天然理心流剣術道場の試衛場に他流試合を挑み近藤勇に負けたこと、近藤勇を慕うようになり活動の場を試衛場に移しことが伝えられています。試衛場ではとりわけ沖田総司と懇意となり兄弟のような関係だったようです。

 文久3年(1863年)2月、清河八郎が徳川家茂の上洛を警護する目的で結成した浪士組に近藤勇や土方歳三らと参加し上洛しました。壬生に到着後、清河八郎が尊皇攘夷のため浪士組を率いて江戸に帰還することを表明すると、水戸浪士の芹沢鴨と近藤勇はこれに反対し京都に残りました。山南敬助は試衛場の面々と京都に残りました。その後、主導権争いが起こり芹沢鴨と近藤勇が主流派となりました。彼らは京都守護職を務めていた会津藩藩主の松平容保の預かりとなり壬生浪士組と名乗りました。山南敬助は土方歳三とともに副長に就任しました。

 壬生浪士組における山南敬助の活躍の記録は岩城升屋事件など断片的に垣間見ることができますが、文久3年8月の八十八日の政変の警備に出動しています。壬生浪士隊はこのときの活躍で会津藩から新選組の隊名を拝命しましした。かねてからの芹沢鴨の度重なる狼藉が目に余るようになり、朝廷から召捕りの命令が下ると会津藩は近藤勇に芹沢鴨を処分するよう密命を出します。文久3年(1863年)9月に芹沢鴨は新選組隊士らによって暗殺されました。その中に山南敬助もいたと伝えられています。

 芹沢鴨の暗殺により新選組は近藤勇を中心としたメンバーで再編されることになり山南敬助は局長の近藤勇、副長の土方歳三に次ぐ総長となりますが、この頃から山南敬助の活躍は記録から消えます。元治元年(1864年)の池田屋事件には山南敬助の姿はありませんでした。長倉新八はこの頃、山南敬助が病気で屯所に引きこもっていたと記しています。同年11月、新選組は江戸で隊員の募集を行い、北辰一刀流の伊東甲子太郎を山南敬助より上位の立場の参謀として迎えます。

新選組隊旗
新選組隊旗(amazon.co.jp)

 山南敬助は元治2年(1865年)2月に「江戸に行く」という置き手紙を残して屯所を出ました。山南敬助のこの行動は脱走とみなされ、近藤勇と土方歳三は山南敬助と懇意だった沖田総司に後を追わせました。山南敬助は沖田総司におとなしく捕縛され屯所に戻りました。新選組では脱走は切腹とされていました。長倉新八と伊東甲子太郎は山南敬助に脱走するよう説得しましたが、死を覚悟していた山南敬助はこれを受け続けず、元治2年(1865年)2月23日に本人の希望で沖田総司の介錯により切腹して果てました。山南敬助の最期を見届けた近藤勇は山南敬助の覚悟の死を称賛して「浅野内匠頭でもこう見事にはあい果てまい」と述べたと伝えられています。

 最期の日を迎えるにあたり、長倉新八が山南敬助が馴染にしていた遊女の明里に会わせたと伝えられていますが、永倉新八の手記には明里の名は一切は登場していません。新選組始末記の著者の子母沢寛の創作とされています。山中敬助は京都の壬生屯所近くの光縁寺に眠っています。

 山南敬助が脱走した理由にはいくつかの説があります。ひとつは新選組が伊東甲子太郎を山南敬助より上位の立場で迎えたことです。しかし、伊東甲子太郎は山南敬助の死を悼んで和歌を詠んでいます。2人が対立していたとは考えられません。最も有力そうな理由は山南敬助が尊皇派だったことです。新選組はその活躍により幕臣となり尊皇派浪士の壊滅を進めます。新選組の隊士が増えて壬生村の屯所が手狭になったとき、近藤勇と土方歳三は屯所を京都の西本願寺に移しました。西本願寺は尊皇派と近い関係にあったのですが、近藤勇はあえて西本願寺を屯所とすることで尊皇派の動きを抑えようとしたのです。山南敬助は屯所の移動に反対しましたが、近藤勇や土方歳三は山南敬助の意見を受け入れませんでした。これによって特に土方歳三との対立が深まり、新選組を離脱する決心をしたと伝えられています。

 さてここからは私見になります。新選組が厳しい法度を制定したのは芹沢鴨を中心とした水戸浪士たちの狼藉を戒めるためでした。新選組は京都の治安維持活動を行う組織ですから、隊士が狼藉を働くことを許しませんでした。厳しい法度で組織を統制し、朝廷や幕府や京都の人々からの信頼を回復しようとしたのです。法度はすべての隊士を対象とするものでしたらか、近藤勇派の隊士といえども規則に反すれば処罰の対象になりました。

 先述の伊東甲子太郎は尊皇派で新選組から離脱し御陵衛士(高台寺党)を結成しました。このとき試衛場時代からの生え抜きの同士で最年少の藤堂平助が伊東甲子太郎と行動をともにしています。慶応3年(1867年)11月18日夜、新選組は伊東甲子太郎の暗殺と御陵衛士の壊滅を目的とする油小路事件を起こしました。藤堂平助は仲間とともに伊東甲子太郎の遺体の回収に駆けつけたところを待ち伏せしていた新選組に斬られ19日未明に死亡しました。長倉新八の記録によると近藤勇は藤堂平助は殺さずに助けるように指示をしていたそうです。現場で藤堂平助を見逃す手立てとられましたが、事情を知らずに鉢合わせした隊士が藤堂平助を斬ってしまったのです。藤堂平助は新選組が自分を逃そうとする意図があることを知りつつ、あえて戦う道を選んだとも伝えられています。

 藤堂平助の例を考えると、もしかすると近藤勇は山南敬助を許そうと考えていたのかもしれません。土方歳三も懇意にしていた沖田総司に山南敬助の後を追わせています。他の隊士を派遣していたら斬り合いになっていたはずです。沖田総司が迎えに行けば、山南敬助は抵抗することなく戻ってくると考えたのでしょう。そして実際には山南敬助はおとなしく沖田総司に捕縛され戻ってきました。もし山南敬助が永倉新八らの説得を聞き入れ脱走していたら、近藤勇はあえて見逃していたかもしれません。もしかすると脱走を促すよう命じたのは近藤勇だったかもしれません。

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2026年2月11日 (水)

江戸城評定における小栗忠順と榎本武揚のすれ違い|明日なき戦いの果てに番外編)

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 慶応4年(1868年)1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍は不利な戦況に追い込まれました。薩長軍は錦の御旗を掲げ我らこそが官軍であることを示しました。第十五代将軍・徳川慶喜は朝敵となることを避け、大阪城内の主戦派の収拾がつかなくなると考え、江戸へ退却することを決断した。慶喜は6日に大阪城を脱出し、側近とともに艦長の榎本武揚が不在の開陽丸で江戸に向かいました。慶喜の一行が江戸に到着したのは12日でした。

 慶喜が江戸城に帰還すると城内で評定が開かれました。この評定で徹底抗戦を主張したのが勘定奉行・陸軍奉行並の小栗忠順です。小栗は旧幕府軍には鳥羽・伏見の戦いに参戦していない多数の兵力が残っていることから、「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」という作戦を提案しています。後に小栗の作戦を聞いた大村益次郎がこの作戦が実行されていたら官軍は壊滅していたと驚愕したという逸話が残っています。おそらく慶喜も小栗の作戦が自らの朝廷への恭順の意を覆すことになることは理解していたでしょう。

徳川慶喜と勝海舟 小栗忠順と榎本武揚
徳川慶喜と勝海舟
小栗忠順と榎本武揚

 江戸城での評定は数回に渡って執り行われたと考えられますが、小栗忠順は榎本武揚らと徹底抗戦を主張したと伝えられています。徹底抗戦を主張していた小栗忠順は1月15日に罷免されています。大阪に取り残された榎本武揚が富士山で大阪湾を出港したのは12日、江戸に帰還したのは15日と伝えられています。つまり榎本武揚が江戸に戻ったときには、自分を支持してくれるはずの小栗はすで罷免されていたか、あるいは罷免直前だったことになります。ですから評定の席で小栗と榎本が一緒に徹底抗戦を主張したのかという点においては疑問が残ります。小栗の罷免後も評定は行われ、榎本は小栗が罷免されたうえでさらに徹底抗戦を主張したのでしょう。主戦派の榎本が戻ると徹底抗戦の作戦が現実のものとなりかねないので小栗を罷免したとも考えられます。

 商人の三野村利左衛門は小栗に資金提供と米国への亡命をすすめましたが、小栗は丁重に断っています。また慶喜の家臣の渋沢成一郎が彰義隊の隊長の就任を打診していますが、小栗は「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」と拒否しています。2月28日、小栗は江戸を出発し上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)へ向かいました。

 同じく徹底抗戦を主張した榎本は罷免されず1月23日付けで幕府海軍海軍副総裁に任ぜられています。これは榎本の上司だった勝海舟の意向が働いた結果と考えられます。慶喜の恭順の意向を受けて新政府と平和裏に交渉を進めようとしていた勝は交渉を有利にするためには徹底抗戦の意向を持たずとも武力の保有は必要と考えていたようです。小栗を罷免して榎本を登用した慶喜と勝の判断は江戸を救ったとも、日本の近代化を支えた人物を切り捨てたとも言えます。

 小栗は権田村で農地開墾や水路の整備、塾を開くなど穏やかな日々を過ごし、新政府に敵対するような準備はしていませんでした。慶応4年(1868年)閏4月4日、小栗は東善寺にいるところを新政府軍に捕縛され、6日午前中にろくに取り調べもされないまま家臣とともに斬首されました。これは新政府の意向ではなく手柄を取ろうとする現場の軽率な判断だったとも伝えられています。榎本は与えられた軍事力を背景に小栗の思いを蝦夷地まで運んだのでしょう。

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2026年2月 9日 (月)

近藤勇が本庄宿で芹沢鴨の宿を取り忘れる(文久3年 1863年2月9日)

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 文久3年(1863年)、第3代将軍徳川家光以来229年ぶりに上洛することになった徳川家茂を警備するため浪士組が結成された。近藤勇と土方歳三は試衛館の同志たちと浪士組に参加しました。浪士組は7つの隊に編成され、近藤と土方は三番隊一に組み込まれました。この三番隊一には芹沢鴨・近藤勇・山南敬助・土方歳三・永倉新八・沖田総司・原田左之助・藤堂平助・平山五郎・野口健司・平間重助など後の新選組の主要メンバーとなる面々で構成されていました。

 同年2月8日、浪士組は江戸を出発して中山道を通り京都をめざしました。翌日2月9日、一行は中山道六十九次(木曽街道六十九次)の江戸から数えて10番目の宿場である本庄宿に到着しました。宿割り役の池田徳太郎と近藤勇はこれに先乗りして各隊の宿舎を割り振りましたが、取締付筆頭(三番組小頭)の芹沢鴨の宿を手配し忘れるミスを犯してしまいました。

木曽海道六十九次「支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場」(渓斎英泉 画)
木曽海道六十九次「支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場」(渓斎英泉 画)

 本庄宿に到着した芹沢は自分の宿が用意されていないことに激怒し「野宿でよい」と言い放って、芹沢一派を集めて宿場の街道の真ん中で巨大な篝火(かがりび)を焚かせたとされています。火の粉が飛び散り危険な状態となったため、宿役人が消化を命じると、芹沢は大鉄扇で役人を気絶させるほど殴打する乱暴を働きました。近藤と池田が芹沢に謝罪し宿を手配しましたが芹沢の怒りは収まりませんでした。

本庄宿篝火事件の想像図
本庄宿篝火事件の想像図

 この事件は一般に「本庄宿篝火事件」または「大焚火事件」と呼ばれていますが、当時、本庄宿で火災が起きたという記録は残っていません。事件の顛末は永倉新八の「新選組顛末記」に残されていますが、永倉が近藤派だったため芹沢の乱暴さを強調した可能性が指摘されています。また、宿割りのミスをしたのは道中目付の岡田盟とされており近藤自身は宿取り役ではなかったという指摘もあります。いずれにせよ、この事件で芹沢派と近藤派の間に確執が生まれたのは事実とされてます。

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 芹沢は新選組になってからも狼藉を働くことが多く、朝廷から芹沢の逮捕命令が出ると新選組を預かる会津藩が芹沢の処分を命じました。これを受けて近藤は芹沢の暗殺を土方や沖田総司らに命じました。新選組が京都で狼藉を働いた集団という伝えがありますが、これは芹沢が新選組局長だった頃の話です。渋沢栄一郎は近藤や新選組のことを高く評価しています。

 

【関連記事】

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第9話「浪士組西へ」|明日なき戦いの果てに

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新選組の色|隊服の浅葱色と誠の赤色

新選組の局中法度

近藤勇が新選組解散を願い出る|近藤勇書簡(元治元年 1864年5月20日 小島資料館)

池田屋事件(元治元年 1864年6月5日)

新選組!! 近藤勇 最期の一日(慶応4年 1868年4月25日)

榎本武揚と土方歳三が仙台城で奥羽越列藩同盟の軍議に参加(慶応4年 1868年9月3日)

箱館新選組の屯所の跡地

土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

土方歳三の写真が箱館で撮影された根拠

第22話「弁天台場を救え」|明日なき戦いの果てに

新選組!! 土方歳三 最期の一日(明治2年 1869年5月11日)

異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地

弁天台場|新撰組最期の地

 

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2026年1月22日 (木)

坂本龍馬を現代のビジネスマン風にしてみた

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 この写真は慶応3年(1867年)頃に撮影された坂本龍馬の写真です。

坂本竜馬(慶応3年 1867年頃撮影)
坂本竜馬(慶応3年 1867年頃撮影)

 この写真を生成AIにカラー写真にしてもらいました。

坂本竜馬(慶応3年 1867年頃撮影)をカラー化
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  スーツを着た七三分けの髪型の現代のビジネスマン風にしてもらいました。

坂本竜馬を現代のビジネスマン風にしてみた
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2025年12月29日 (月)

横浜鎖港談判使節団がフランスに向け出発(文久3年 1863年12月29日)

 

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 安政5年(1858年)6月19日、江戸幕府はアメリカ合衆国と日米修好通商条約を締結しました。その後、幕府は同年中にオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも修好通商条約を結びました。安政五カ国条約と呼ばれる一連の条約締結は孝明天皇の勅許を得ないまま締結されたため、攘夷派の公家や諸藩が江戸幕府の独断の進め方に反発し幕政の混乱が始まりました。

【参考】日米修好通商条約に調印(1858年6月19日)

 安政五カ国条約では江戸と大阪の開市、新潟・兵庫を開港することになっていましたが国内の経済や政治の状況から期限内での履行が困難となりました。そこで幕府は開港開市の延期交渉ならびにロシアとの樺太国境の画定交渉のため文久元年(1862年)に欧州に文久遣欧使節を派遣しました。各国との交渉は暗礁に乗り上げましたが最終的にはイギリスの協力により派遣団の目的は達成されました。

【参考】文久遣欧使節がイギリスとロンドン覚書を調印(1862年5月9日)

 幕政が混乱し攘夷派の勢力が台頭する中で江戸幕府は第14代将軍の徳川家茂と仁孝天皇の第8皇女で孝明天皇の異母妹の和宮親子内親王の婚姻を進めました。孝明天皇は政治を従来通り江戸幕府に任せる代わりに攘夷を実行するよう求めました。文久3年(1863年)、徳川家茂は征夷大将軍としては第3代将軍の徳川家光以来229年振りの上洛し孝明天皇に攘夷を約束しました。列強に対して武力による攘夷は不可能と考えた江戸幕府は外交交渉により横浜を閉港することにしました。

 文久3年(1863年)12月29日、外国奉行の池田長発(筑後守)を正史、河津祐邦(伊豆守)を副使、河田熙(相模守)を目付とする横浜鎖港談判使節団が品川沖からフランス軍艦ル・モンジュ号で出発しました。使節団の目的は横浜を再度閉鎖する交渉を行うことでしたが、列強が横浜閉港を認めるはずもなく達成不可能な任務でした。使節団の目的にはフランス士官殺害事件の賠償交渉も含まれていました。

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池田長発(筑後守)(備中国井原領主 外国奉行)

 横浜鎖港談判使節団は上海やインドを経由し、スエズから陸路でエジプトのカイロへ向かいました。使節団は元治元年(1864年)2月28日にカイロでギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見学しています。ここで撮影された写真は日本の侍の歴史において象徴的な一枚となりました。

ギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見学する横浜鎖港談判使節団
ギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見学する横浜鎖港談判使節団

 その後、使節団は地中海を経由しフランスのマルセイユに入港しパリに向かい皇帝ナポレオン3世に謁見した。横浜閉港の交渉は予想通り失敗に終わりました。使節団はパリの街で蒸気機関、鉄道、新聞、近代的な軍隊を目にしました。列強の文明の強大さを認識し鎖国や野攘夷などをやっている場合ではないと開国の重要性を考えた池田長発は独断で交渉を打ち切り同年5月17日にパリ約定を結び同年7月22日に帰国しました。

 池田長発は帰国後に幕府に対して攘夷は不可能であることと開国の必要性を訴える建白書を提出しました。幕府はこの建白書を認めずパリ約定を破棄し、池田長発の官職を解き蟄居処分としました。使節団が持ち帰った学問や技術の資料は後に明治維新を進めた志士たちに大きな影響を与えました。横浜港の閉港を目的とした使節団が日本を世界へと開かせるひとつのきっかけを作ったのです。慶応3年(1867年)、池田長発は罪を許され軍艦奉行並として復帰しましたが持病のため数ヶ月で辞職し政治の舞台から姿を消しました。

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2025年12月19日 (金)

新選組の色|隊服の浅葱色と誠の赤色

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 新選組を象徴する色は隊服に用いられた浅葱色(あさぎいろ)と誠の隊旗の赤色です。

 浅葱色は藍で数回染めた透明感のある明るい青緑(シアン)です。広く知られている新選組の隊服は浅葱色の羽織に袖口と裾に白いだんだら模様(山形模様)入っています。このだんだら模様は当時人気だった歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」に登場する赤穂浪士の装束を模したものと言われています。武士としての忠義を示すもので副長の土方歳三が考案したと伝えられています。

 浅葱色の隊服と並んで新選組の象徴とされるのが隊旗の「誠」の文字です。新選組の隊旗の地色は赤色で、そこに金色または白色で「誠」の文字が染め抜かれています。「誠」の文字と赤色は「赤心」(せきしん)や「赤誠」(せきせい)と呼ばれ、真心や偽りのない心を意味しています。だんだら模様は上述の通りです。

新選組隊旗
新選組隊旗(amazon.co.jp)

 新選組はそれぞれ異なる意味を持つ浅葱色と赤色を組織の象徴として用いることで、武士と忠義の精神を表現したのです。

 偶然なのか意図的なのかはわかりまえんが、浅葱色と赤色は補色の関係になっています。

 【参考】「光の三原色」と「色の三原色」の原理と仕組み|色が見える仕組み(7) 

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2025年12月 4日 (木)

近藤勇が新選組解散を願い出る|近藤勇書簡(元治元年 1864年5月20日 小島資料館)

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 近藤勇や土方歳三は農民の出で武士になりたかったという見方がある。彼らが立身のため天然理心流の剣術を学んだのは間違いないだろう。そして幕末に現れた列強を目にして攘夷の志を強めていたのも間違いないであろう。彼らは武士になりたいだけで浪士組に応募し新選組になったのであろうか。近藤勇は彼らの志を垣間見ることができる書簡を残している。 

 近藤勇や土方歳三が京都に赴き新選組を結成することになったきっかけは、幕府が文久3年(1863年)初めに募った第14代将軍の徳川家茂の上洛の警護を担う浪士組に参加したことである。この浪士組の結成を発案して幕府に認めさせたのは庄内藩出身の清河八郎である。しかしながら清河の真の目的は将軍警護ではなく尊皇攘夷運動の志士を募ることであった。

  【参考】第9話「浪士組西へ」|明日なき戦いの果てに

近藤勇 土方歳三の写真
近藤勇と土方歳三

 同じ頃、イギリスは生麦事件の賠償問題で幕府に圧力をかけるためフランス、オランダ、アメリカに呼びかけ横浜港に四カ国の軍艦を入港させた。同年2月、浪士組が京都の壬生村に到着すると清河は浪士組の真の目的は尊皇攘夷活動であることを表明し攘夷のため江戸に戻ると主張したのである。これに強硬に反発したのが芹沢鴨と近藤勇であった。清河は浪士組を率いて江戸に戻ったが芹沢、近藤、土方をはじめとする後の新選組の面々は京都に在留することになった。

  【参考】生麦事件(文久2年 1862年8月21日)

 同年3月に江戸幕府は京都守護職を努めていた会津藩主の松平容保に旧都の治安維持を行う浪士を集めて組織化することを命じていた。京都に残留した芹沢・近藤らは会津藩士の野村左兵衛を通じてこれに応募した。彼らは松平容保の庇護のもと壬生浪士組と名乗るようになった。京都守護職の配下には幕臣で構成された正規組織の京都見廻組が存在していた。これに対して壬生浪士組は剣術に長けた町人や農民出身の浪士たちで厚生された会津藩預かりという立場の非正規組織であった。

 同年3月、徳川家茂は徳川将軍としては第3代将軍徳川家光以来229年ぶりに上洛した。家茂の上洛の目的は朝廷から求められていた攘夷実行の委任を受けることであった。列強に対して武力で攘夷をすることは困難と考えた幕府は外交交渉により通商条約の破棄し鎖港することにしたが、幕府内の開国派との対立もあり攘夷実行ができたに状態が続いた。攘夷を実行しない幕府に対して業を煮やした長州藩の尊皇攘夷派の志士たちは朝廷内の尊皇攘夷派の公家たちと画策をはじめ、同年5月に馬関海峡において列強に対して攘夷を実行したのである。この混乱により家茂が江戸に戻ることがでたのは同年6月である。

  【参考】攘夷実行に従い長州藩が米国商船を砲撃(1863年5月10日)

 長州藩による攘夷実行は孝明天皇と幕府の意図に反するものであった。長州藩と公家の尊皇攘夷派の不穏な動きが続く中、幕府は京都市中から過激な尊皇攘夷派の志士と公家たちを排除するため同年8月に八月十八日の政変を起こした。この政変において壬生浪士組が活躍し、松平容保は壬生浪士組を正規組織とし彼らに新選組という名前を授けた。新選組の面々は幕臣となったのである。

  【参考】八月十八日の政変(1863年8月18日)

  【参考】新撰組の日(文久3年 1863年3月13日)

 文久4年(1864年)正月、徳川家茂は2度目の上洛を果たした。前年の八十八日の政変に満足していた孝明天皇と朝廷は徳川家茂を従一位右大臣に昇進させた。松平容保も陸軍総裁職・軍事総裁職を命じられ、京都守護職には福井藩主の松平慶永が就任した。近藤勇は新選組を松平慶永の配下とすることに反対した。新選組は従来通り松平容保のもとで将軍警護のため京都市中の警備を強化した。同年2月、元号が元治に改元された。八十八日の政変により京都市中は平和を取り戻したが、京都から追放された長州藩と公家は武力により入京することを画策していた。政情不安を前に徳川家茂は同年5月に江戸へ帰還したが、このとき近藤勇は将軍の在留を求めたことを書簡に残している。

 この書簡は近藤勇が新選組の支援者で武蔵国多摩郡小野路村の名主の小島鹿之助に送ったものである。この書簡で近藤勇は徳川家茂の帰府を止めようとしたが叶わなかったこと、将軍不在の京都で攘夷は実行できず当初の自分たちの目的が果たせないため新選組を解散して江戸に戻ることを決めたことを記している。そして新選組の解散の意向を京都の状況をよく理解している幕府老中の酒井忠績に願い出たが、京都の治安維持のため慰留されたので解散を撤回したと記しています。近藤勇は幕臣として幕府からの慰留の命令を受け入れ、「只々臣たる道を守り楠公、宋の岳飛の志に続き致し度候」と決意の言葉を残しています。

一次史料:【新選組】小島資料館所蔵資料(資料グループ) 近藤勇書簡(目録)

多摩デジタル新選組資料館/新選組関連資料

新撰組の隊旗
新撰組の隊旗

 この決断により新選組は京都に残留することになり、同年6月に池田屋事件でその名を天下に知らしめました。新選組は大きな転機を迎えましたが同時に後戻りができなくなり幕末・明治維新の混乱の波に巻き込まれていくことになったのである。もし新選組が解散していたら彼らは薩摩や長州から恨みを買うこともなく、戊辰戦争にも巻き込まれることなく江戸で剣術家として暮らしていたであろう。

  【参考】池田屋事件(元治元年 1864年6月5日)

  【参考】新選組!! 近藤勇 最期の一日(慶応4年 1868年4月25日)

  【参考】新選組!! 土方歳三 最期の一日(明治2年 1869年5月11日)

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2025年11月30日 (日)

日墨修好通商条約(明治21年 1888年11月30日)

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 幕末に日本が欧米列強と締結した安政五カ国条約は日本にとって不平等な修好通商条約でした。とりわけ治外法権 (領事裁判権)や関税自主権がないことが大きな問題でした。この不平等条約は明治時代になっても引き継がれました。

 明治政府はこの問題を解決するためアジア諸国以外の国と平等な修好通商条約を結び、それを足がかりとして列強と不平等条約の解消の交渉を行うことにしました。日本が選んだ国がメキシコでした。 

 日本とメキシコの関係は古くメキシコがスペイン領であった頃に始まりました。日本はスペインとの交易でメキシコと接点があったのです。慶長14年(1609年)9月にメキシコに向かうスペイン船サン・フランシスコ号が房総半島沖で台風に遭い座礁沈没しました。このとき周辺の住民が遭難者を手厚く保護しました。江戸幕府は船を失った彼らを三浦按針(ウィリアム・アダムス)が建造したサン・ブエナ・ベントゥーラ号でメキシコに送り届けました。これがきっかけでメキシコとの関係が始まりましたが、江戸幕府が鎖国政策を取ったため関係は途絶えました。

 明治7年(1874年)、メキシコの科学者フランシスコ・ディアス・コバルビアスが金星の太陽面通過の観測のため日本を訪れました。コバルビアスは日本政府や日本人に厚遇されたことに感激し、帰国後に日本と外交・通商関係を結ぶよう強く主張しました。当時のメキシコは東アジアとの貿易拡大を望んでいたため日本との関係構築を重視しました。

 明治21年(1888年)11月30日、ワシントンD.C.において駐米公使兼駐メキシコ公使の陸奥宗光と駐米メキシコ公使マティアス・ロメロの調印により日墨修好通商条約を締結されました。日墨修好通商条約は日本にとって初のアジア以外の国と結んだ初の平等条約となり、メキシコにとっては初のアジアの国と締結した条約となりました。お互いが意図していた目的の条約を締結することができたのです。

日墨修好通商条約(調印書)
日墨修好通商条約(調印書)

 条約締結後、日本とメキシコの友好関係が築かれ明治24年(1891年)に両国公使を交換、明治30年(1897年)にはメキシコへの日本人移民が行われた。この移民政策を推進したのが元外務大臣の榎本武揚でした。いわゆる榎本移民団がメキシコ南東に位置するチアバス州に移住しました。

 明治31年(1898年)、日本政府は平等条約を締結してくれたメキシコ政府に対して東京都千代田区永田町の在外公館の用地を提供しました。現在のメキシコ駐日大使館が永田町にある所以です。日墨修好通商条約は大正13年(1924年)に破棄されるまで維持されました。

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2025年11月16日 (日)

日本橋の銘板が徳川慶喜の揮毫の理由は

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 東京都の流れる日本橋川に架かる日本橋は徳川家康の全国の街道の整備計画の一環で慶長8年3月3日(1603年4月14日)に建造されました。初代の日本橋は木造の太鼓橋でした。

1830年頃の日本橋の浮世絵(歌川広重作)
1830年頃の日本橋の浮世絵(歌川広重作)

 現在の石造の2連アーチの日本橋が架けられたのは明治44年(1911年)4月3日です。

  【参考】日本橋が石橋になる(1911年4月3日)

石橋の日本橋
石橋の日本橋

 日本橋は国の重要文化財に指定されています。橋の四隅の親柱に掲げられた銘板には「日本橋」と刻まれています。その文字は江戸幕府最後の第十五代征夷大将軍の徳川慶喜が揮毫したものです。

日本橋の銘板(揮毫 徳川慶喜)
日本橋の銘板(揮毫 徳川慶喜)

 本来ならば明治政府の高官が揮毫するところですが、当時の東京市長の尾崎行雄の強い意志で慶喜に揮毫を依頼されました。尾崎は慶喜が戊辰戦争で江戸城の無血開城を選んだことから、江戸が戦火を交えずに東京へ移行できたのは慶喜が屈辱に耐えて恭順の姿勢を貫いたおかげであり東京の恩人にこそ揮毫を依頼するべきと考えたと伝えられています。

 【参考】江戸城の無血開城(慶応4年 1868年4月11日)

尾崎行雄 徳川慶喜
尾崎行雄(左)と徳川慶喜(右)

 慶喜の揮毫は江戸から東京への連続性と平和的な変革を象徴するものとなりました。尾崎東京市長は翌年の1912年に退任、慶喜は2年後の1913年に他界しています。

【関連記事】

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レインボーブリッジの開通日(1993年8月26日)

 

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