カテゴリー「幕末・明治」の154件の記事

2025年5月 7日 (水)

彫像「若き星たち」(北海道函館市)

 

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 北海道函館市の松前通りを五稜郭の方へ進んでいくと行啓通との交差点に北海道新聞函館支社があります。その前に函館山の方向の空を望むように手をあげている2人の若者の彫像が建てられています。若者は左側の若者は銃を持ち、右側の若者は帯刀しています。この彫像は2002年9月に建立された「若き星たち」です。

彫像「若き星たち」(彫刻 小野寺紀子)
彫像「若き星たち」(彫刻 小野寺紀子)

 彫像の右横に石碑が設置されています。この石碑には「若き星たち 戦火を超えて 若き星ふたつ 未来の空に またたかん」という詩が刻まれています。「若き星たち」は幕末の戊辰戦争の最後の戦闘となった箱館戦争において日本の未来をかけて戦った新政府軍と旧幕府軍の名もなき若き戦士の銅像です。


石碑「若き星たち」(詞 原子修作)
石碑「若き星たち」(詞 原子修作)

 こちらが彫刻「若き星たち」の設置されている場所の地図(Google Map)です。

 

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2025年5月 6日 (火)

五稜郭の2つの櫓|函館奉行所と五稜郭タワー

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 五稜郭公園にある函館奉行所の裏手に回ると奉行所の櫓の向こうに五稜郭タワーの展望台が見えます。展望台も櫓のようなものですから、復元でありながら幕末に建造された函館奉行所の櫓と現代の五稜郭タワーの櫓をこうして一枚の写真に収めるととちょっと感慨深いものがあります。

五稜郭の2つの櫓|函館奉行所と五稜郭タワー
五稜郭の2つの櫓|函館奉行所と五稜郭タワー

 さて箱館奉行所の櫓の高さは16.5メートルです。櫓の中で人が立ったときの目線の高さを15メートルとします。この高さから見渡せる範囲は約14キロメートルです。一方、五稜郭タワーの展望2回の高さは90メートルです。この高さから見渡せる範囲は約34キロメートルになります。

 写真では距離の関係でほぼ同じ高さに写っている2つの櫓ですが見える範囲には大きな差があります。

 計算方法は下記を参照してください。

【参考】東京スカイツリーから見える地平線までの距離

 

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2025年5月 5日 (月)

1889年パリ万国博覧会が開幕(1889年5月6日)

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 1889年のパリ万国博覧会はフランス革命のはじまりとされる1789年7月14日に発生した事件バスティーユ襲撃の100周年の年に開催されました。この万博の最大の象徴は現在もパリのランドマークとなっているエッフェル党です。エッフェル党はこの博覧会に合わせて建設され会場へ入場するアーチ門の役割と果たしました。

1889年パリ万国博覧会のポスター
1889年パリ万国博覧会のポスター

 博覧会には35カ国が参加し、約3,225万人の来場者を記録しました。日本を含め多くの国が参加しましたが博覧会のテーマがフランス革命で王政を打倒したことを祝うものであったため、ヨーロッパの君主制国家のイギリス、ドイツ、イタリア、オーストリア=ハンガリー帝国、ベルギー、スペイン、オランダ、ポルトガル、ロシア、スウェーデンが公式に参加をボイコットしました。国としてはボイコットしまいたが参加費用が民間企業のスポンサーにより賄われたこともあり、それらの国々から多くの企業や人々が参加しました。

 世界各国の建造物や文化や技術が紹介され同年10月31日に盛会の内に閉幕しました。日本は日本画家の久保田米僊が「水中遊漁」で金賞を受賞しています。グランプリを受賞したのはオランダのビールメーカーのハイネケンです。ハイネケンのラベルにはパリ万博でグランプリを受賞したことが書かれています。

ハイネケンのラベル
ハイネケンのラベル

 技術革新や国際交流の場として重要な役割を果たした1889年パリ万博は後の万博のモデルとなりました。

【関連記事】

エッフェル塔落成記念日(1889年3月31日)

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2025年4月24日 (木)

明治政府が箱館府を設置(慶応4年 1868年閏4月24日)

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 慶応4年(1868年)4月12日、新政府は五稜郭の箱館奉行所を箱館裁判所と改名し皇族の仁和寺宮嘉彰親王を総督に任命した。しかしながら嘉彰親王が総督就任を固辞したため、同年閏4月5日に副総督に任命した清水谷公考を総督に任命した。同月21日、新政府は政体書を発して府藩県三治制を導入すると裁判所は府また県に改編されることになり箱館裁判所は閏4月24日に箱館府と改称されました。府知事には清水谷が任命されました。清水谷は同年26日に箱館に入り最後の箱館奉行となった杉浦勝誠から引き継ぎを行い、同年5月1日に箱館裁判所を開設しました。同年7月17日、箱館裁判所は管内に箱館府に改称したことを告示しました。しかし、改称後も箱館裁判所と呼ぶ市民も少なくありませんでした。

箱館御役所(五稜郭)
箱館御役所(五稜郭)1868年

 当時の蝦夷地には松前藩、盛岡藩、仙台藩、会津藩、弘前藩、庄内藩が領地を持ち藩兵が北方警備に当たっていました。箱館裁判所が開設した頃には東北戦争が既に開戦しており奥羽越列藩同盟が成立していました。蝦夷地の各藩は箱館裁判所を攻撃することなく同年7月頃から東北の諸藩は蝦夷地から引き上げました。松前藩のみが引き続き警備に当たりましたが松前藩は新政府に恭順しました。

 新政府軍が東北戦争に勝利すると榎本武揚が率いる旧幕府艦隊が同年10月20日に蝦夷地の鷲ノ木(現茅部郡森町)に上陸しました。同月25日、清水谷ら箱館府の官吏は本州に退きました。翌日26日は榎本武揚が率いる旧幕府軍が箱館の五稜郭に入城しました。

 新政府軍は箱館戦争に勝利すると青森口総督を兼務していた清水谷府知事は明治2年 (1869年) 5月17日に箱館に入り箱館裁府を再開しました。その後、箱館府は箱館県と改称されました。しかし、同年7月8日に開拓使が設置されると函館府は廃止され開拓使函館支庁が同年9月に開拓使出張所に改称された。

 

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2025年4月17日 (木)

明治政府が長崎の浦上のキリシタンを流罪|浦上四番崩れ(慶応4年 1968年閏4月17日)

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 江戸幕府は徳川家康の頃からオランダ、清、朝鮮、琉球を除く異国との外交を制限し日本人の海外渡航を禁止しました。その原因となったスペインやポルトガルが広めたキリスト教を禁じ宣教師や信徒を徹底的に弾圧する政策をとりました。幕府はキリスト教宣教師や信徒を見つけると捕縛し仏教へ改宗させ拒否するものは処刑するという厳しい対応を行っていました。そのような状況の中、表向きはキリスト教から仏教に改宗した者たちが隠れキリシタンとなって秘密裏にキリスト教の信仰を守り続けていました。彼らはしばしば幕府に発見され弾圧を受けました。

 北九州地区は戦国時代の頃からキリシタン大名がキリスト教を擁護していたため多数のキリスト教徒信徒がいました。豊臣秀吉や徳川家康の時代になると彼らは弾圧されるようになり、それでもなお信仰を続けるものたちは隠れキリシタンとなりました。唯一開港されていた長崎はキリスト教と関係が深く多数の隠れキリシタンが暮らしていました。

 現在の長崎県長崎市の肥前国彼杵郡浦上村では江戸時代の中期から明治時代初期にかけて4度に渡りキリシタン弾圧が行われました。これを「裏紙崩れ」といいます。「崩れ」は検挙のことです。寛政2年(1790年)の天保13年(1842年)の浦上二番崩れにおいては隠れキリシタンの証拠が不十分などの理由から弾圧には至りませんでしたが安政3年(1856年)の浦上三番崩れでは実際に隠れキリシタンが捕縛・処刑されるなど徹底的な弾圧が行われました。これによって浦上の隠れキリシタンたちは壊滅状況になりましたが、それでもなを難を逃れたものたちがキリスト教の信仰を守り続けました。彼らは表向きは仏教徒であることを装いながら慈母観音像を聖母マリアに見立てて信仰の対象としこれを「マリア観音」と呼びました。

マリア観音像(慈母観音像)
マリア観音像(慈母観音像)

 元治元年(1864年)、日仏修好通商条約の締結により長崎のフランス人居留地にカトリック教会の大浦天主堂が建てられました。この洋風建築の天主堂は日本人の住民の間でも話題になり、多くのものが見物に訪れました。

大浦天主堂
大浦天主堂

 大浦天主堂の司祭ベルナール・プティジャン神父は訪れる日本人の中にキリスト教信仰者がいるのではないかと期待し天主堂の一般公開を続けました。元治2年(1865年)4月、プティジャン神父のもとに浦上村の住人が訪れました。彼らはプティジャン神父にキリスト教を信仰していること告げ本物のマリア像に祈りを捧げました。プティジャン神父は驚愕し本国に「信徒発見」の詳細を報告しました。その後も天主堂に見物を装って日本人信徒が訪れるようになり、プティジャン神父は彼らに対して秘密裏にミサを行うようになりました。やがてミサが常態化するとキリスト教信者と自ら名乗るものが現れるようになりました。

ベルナール・プティジャン
ベルナール・プティジャン

 

 慶応3年(1867年)、浦上村住民が仏式の葬儀を拒否する事件があり隠れキリシタンが存在することが明るみに出ました。長崎奉行は取り調べを行ったところ信徒代表の高木仙右衛門をはじめとする者たちがキリスト教の信仰を認めました。長崎奉行は対応に困り彼らを村に返し江戸幕府に顛末を報告しました。幕府は隠密に浦上村を調査させ同年6月13日に高木仙右衛門ら信徒68名を捕縛しました。信徒たちはいっさいの抵抗をせずひざまずいて両手を出し自ら捕縛されました。その後、彼らは厳しい拷問を受けました。これが「浦上四番崩れ」です。この事件を知った諸外国は直ちに江戸幕府に対して抗議を行い宗教弾圧を批判しました。同年8月24日にフランス公使レオン・ロッシュと徳川慶喜が大阪城で会談を行いましたが同年10月に大政奉還、12月には「王政復古の大号令」が発せられ江戸幕府は終焉しました。

 江戸幕府終焉後、明治政府は慶応4年(1868年)3月15日に民衆に対する禁止令「五榜の掲示」の高札を出しましたが第三番札に「切支丹・邪宗門の禁止は江戸幕府の統制を踏襲する」とありました。長崎裁判所総督の澤宣嘉と外国事務係の井上馨は浦上の信徒たちに改宗するよう説得しましたが彼らが応じないため政府に対して中心人物の処刑とその他信徒の流罪を提案しました。政府は諸外国からの抗議を鑑みて死罪は退けて同年閏4月17日に太政官達で信徒全員を流罪とすることを発表しました。信徒たちは流刑先で幕府時代よりも著しく厳しい拷問を受けました。

 諸外国の公使は明治政府の対応を激しく非難し顛末を本国に報告しました。明治4年(1871年)に不平等条約改正の交渉のため欧米に派遣された岩倉使節団は訪問先でキリスト教の禁止令を非難され日本のキリスト教弾圧が交渉の妨げになっていることを痛感しました。キリスト教の禁止令を廃止するか継続するか国内で様々な意見が出ました。当初、日本政府はキリスト教の解禁をしない方針でしたが、明治6年(1873年)2月24日にキリスト教禁制の高札を撤去し捕縛していた信徒たちを解放しました。流罪とされた信徒は3394名、662名が死亡しました。解放された者たちはキリスト教の信仰をより強くしました。「浦上四番崩れ」をきっかけに長年続いた日本のキリスト教禁制が終戦しキリスト教が日本各地で再び広まりました。

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2025年4月11日 (金)

江戸城の無血開城(慶応4年 1868年4月11日)

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 慶応4年(1868年)1月3日に開戦した戊辰戦争の「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗北すると徳川慶喜は大阪城を脱出し同年1月12日に江戸城に退却しました。慶喜は小栗忠順、松平容保、松平定敬の抗戦の主張を退け、老中の板倉勝静と若年寄の永井尚志を罷免、容保と定敬には謹慎を命じました。自らは同年2月12日に上野の寛永寺大慈院で謹慎し事態収拾を勝海舟と大久保一翁に任せました。

徳川慶喜
徳川慶喜

 新政府軍は江戸総攻撃を決断し東上を開始しました。江戸に迫る新政府軍に対して局地的に旧幕府軍が対峙しましたが新政府軍の最新の武器の前に旧幕府軍は敗戦を続けました。日本と江戸の行く末を案じた恭順派の海舟は新政府軍との和平交渉の道を探りました。慶喜は側近の高橋泥舟に新政府軍の西郷隆盛との交渉を命じたが泥舟は慶喜警護のため義弟の山本鉄舟を推薦しました。海舟は鉄舟を隆盛のもとに派遣し和平交渉を働きかけました。無益な戦いは避けたいと考えていた西郷隆盛は山岡鉄舟の説得を聞き入れ海舟と会談することを決めました。

山岡鉄舟
山岡鉄舟

 同年3月13日と14日、江戸の薩摩藩邸において海舟と隆盛の会談が行われ、江戸城の無血開城の条件の交渉が行われました。隆盛は徳川慶喜の謹慎、江戸城を新政府軍に明け渡す、旧幕府軍は武装解除することを条件に江戸を総攻撃しないこと了承しました。こうして鉄舟と隆盛の下交渉後に隆盛と海舟との会談が行われ江戸無血開城の話がまとまりました。同年4月11日、慶喜は慶寛永寺から水戸へ出発し江戸城は無血開城しました。

江戸開城談判(結城素明)
江戸開城談判(結城素明)

 江戸城の無血開城によって江戸の町と多くの人々の命が守られました。海舟は隆盛が交渉に応じない場合は江戸市中に火を放ち江戸の機能を停止させるつもりでいました。旧幕府軍を倒しても列強と対峙しなければならない新政府軍は無駄な戦を避ける必要がありました。旧幕府軍の戊辰戦争は箱館戦争まで続きましたが、江戸開城後の幕府から新政府への政権以降は大きなトラブルもなく滞りなく行われました。江戸開城は日本の近代化にとって重要な転換点となりました。

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2025年4月 6日 (日)

板垣退助岐阜遭難事件(明治15年 1882年4月6日)

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 戊辰戦争で東征大総督東山道参謀として功績をあげ元勲となった板垣退助は明治維新後に参与となりましたが征韓論の対立による「明治六年の政変」で下野しました。その後、自由民権運動を進めましたが帝国議会の樹立をめざすため参議に復帰しました。

板垣退助(1880年頃)
板垣退助(1880年頃)

 明治14年(1881年)、「国会開設の詔」が発せられると退助は自由党を結成して党首となり自由民権運動の推進と帝国会議樹立のため全国を精力的に遊説して党の拡大に努めました。明治15年(1882年)4月6日、板垣退助は岐阜で開催された演説会を終えて宿舎へ向かう途中、短刀を持った相原尚褧に襲撃されました。これが「板垣退助岐阜遭難事件」です。

板垣君遭難之図 (一陽斉豊宣 1882年)
板垣君遭難之図 (一陽斉豊宣 1882年)

 相原尚褧は士族で教員でしたが官権派の考えを持ち自由党などの民権派に強い反感を抱いていました。「国会開設の詔」が発せられても急進的な民権派の不敬事件などが収まらないため国家の行く末を案じ民権派の中心人物であった板垣退助の暗殺を決意していたのです。

 退助は尚褧の襲撃により胸や手に深手を負いましたが党員たちが相原は取り押さえたことから一命を取り留めました。退助は竹内綱に抱きかかえられながら起き上がり「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い放ちました。これが後に「板垣死すとも自由は死せず」という自由民権運動の象徴的な言葉として広く知られるようになりました。この事件によって自由民権運動は大きく盛り上がり、板垣退助は国民的な人気を得ました。全国で自由党の支持者が増え自由民権運動が飛躍的に進みました。

板垣死すとも自由は死せず (板垣退助百回忌に際し安倍晋三揮毫)
板垣死すとも自由は死せず (板垣退助百回忌に際し安倍晋三揮毫)

 板垣退助は事件後に相原尚褧に対する助命嘆願書を提出しています。これによって尚褧は極刑を免れ無期徒刑となりました。明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布による恩赦において岐阜事件は民間人としての板垣退助を襲撃したものであり尚褧は国事犯でないとされました。一方で急進的に自由民権運動を進めた逮捕者が恩赦されていたことや、事件当時に明治天皇が「板垣は国家の元勲」の考えを示していたことから、尚褧は国事犯の要素もあるとして恩赦の対象となり同年3月29日に釈放されました。

 同年5月11日、尚褧は退助のもとを謝罪に訪れました。退助は「この度はつつがなく罪を償はれ出獄せられたとの由、退助に於ても恭悦に存じ奉る」と声をかけると、尚褧は退助の器の大きさに感銘し両手をついて事件のことを深く詫び、恩赦に尽力してくれたことを深謝しました。退助と尚褧は会話をはずませ、尚褧は日本のために北海道開拓に従事したいと表明しました。時間はあっという間に過ぎ、退助は帰路につく尚褧に北海道は極寒の地であり自愛すること、活躍を祈っていることを伝えて見送りました。

 同年、相原尚褧は約束通り北海道に船で向かいましたが遠州灘付近で行方不明となりました。このとき尚褧は享年36歳、船から落とされたという説、自殺したという説、尚褧に板垣暗殺を企てさせた黒幕に暗殺されたという説などがありました。

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2025年4月 3日 (木)

市川・船橋戦争(慶応4年 1968年閏4月3日)

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 慶応4年(1968年)4月11日、江戸城が無血開城し徳川慶喜は蟄居先の水戸へ移動しました。幕府海軍副総裁の榎本武揚は旧幕府艦隊7隻を率いて品川沖から館山沖に移動しました。幕府陸軍の大鳥圭介は伝習隊を率いて市川に移動、撤兵頭の福田道直は撒兵隊を率いて木更津に移動しました。

 福田ら撤兵隊は12日に木更津に本拠を置き義軍府と称しました。福田は市川の国府台に大鳥が率いる伝習隊が集結しているという情報を得ると江原鋳三郎の撒兵隊第1大隊を市川に派遣しました。しかしながら大鳥は前日に合流した新選組副長の土方歳三から近藤勇が流山で捉えられたことを聞き市川が危険であることを悟り会津藩と合流すべく北へ移動を開始していました。

江原素六(江原鋳三郎)
江原素六(江原鋳三郎)

 新政府軍は大鳥の伝習隊が北へ移動したことから戦闘態勢を解除していましたが撒兵隊の予想外の出現により千住宿を守備していた岡山藩に出兵を命じました。岡山藩は江原と武装解除の交渉を申し入れました。江原も大鳥の伝習隊との合流ができなくなったことから単独で戦うことは不可能と考えて了承しました。陣中に戻った江原が武装解除の意向を伝えると血気盛んな強硬派が反対し部隊の方針はまとまりませんでした。

 新政府軍は八幡に岡山藩、行徳に福岡藩、鎌ケ谷に佐土原藩、本陣の市川に安濃津藩を対峙させ閏4月1日までに江原に武装解除に応じなければ攻撃を開始すること通告しました。閏4月2日、最後通牒を受けた江原はこれを拒否し先手を打って新政府軍を攻撃することにしました。

 閏4月3日早朝、江原は八幡の岡山藩への攻撃を開始しました。安濃津藩が援軍を送りましたが両藩は総崩れとなりました。撒兵隊は士気を高めましたが岡山藩、安濃津藩、薩摩藩の援軍が駆けつけ反撃を開始しました。多勢に武勢となった江原は撤収を決断し船橋へ向かいました。しかしながら船橋は佐土原藩の攻撃を受けており、船橋に向かっていた江原の部隊は挟み撃ちになり敗走しました。江原は銃弾を受けて負傷し現地に従者と現地に潜伏しました。まもなく新政府軍は船橋を制圧し、さらに木更津の福田の本体を敗走させました。これによって市川・船橋戦争は新政府軍の勝利で終結しました。戦後の福田道直については詳細な記録が残っておらず不明となっています。敗走した撒兵隊は上総方面に南下しましたが房総最後の決戦となる五井戦争で破れました。これにより房総は新政府軍により制圧されました。

 江原鋳三郎は船橋で潜伏後に江戸に移動しましたが残党狩りの対象となっていることを知り江戸市中を転々と移動し潜伏生活を続けました。潜伏中に榎本武揚から同行するよう要請されましたが既に勝敗は決していると断りました。同年8月、徳川家が駿府に移封され、徳川家を継いだ徳川家達が静岡に移ると、江原は小野三介と名を変えてアメリカ船で静岡に向かいました。ところが悪天候による波浪のため江原を乗せた船は下田に避難しました。新政府が駿府藩に江原の拘束と引き渡しを命じていることを知った江原は名を水野泡三郎と変え小野三介を行方知らずにしました。しばらく中泉村竹原(現 長泉町)で匿われて潜伏していたところ同年10月に手配が解かれ徳川藩陸軍御用重立取扱に任命されました。明治元年(1868年)12月に名を江原素六に改めました。その後は沼津兵学校の設立に尽力し教育者として活躍しました。

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2025年3月28日 (金)

明治政府が「神仏分離令」を公布(明治元年 1868年3月28日)

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 明治維新により長らく続いた江戸幕府が終焉しました。王政復古により日本の政治体制は武家を中心とする政治から天皇を中心とする政治に戻りました。平田篤胤などの国学者たちは日本固有の文化や宗教を重視し、仏教や儒教の影響を排除した純粋な神道を復興させるべきだと主張しました。明治政府は新しい国家体制をより強固なものとし列強に対峙できるようにするには国民の意識を統一させる必要があると考え神道を純粋な形で復興させる神道国教化の政策を進めました。

 明治元年(1868年)3月28日、明治政府は神仏分離令の太政官布告「神号々仏語ヲ用ヒ或ハ仏像ヲ神体ト為シ鰐口梵鐘等装置セシ神社改正処分・三条」を公布しました。

 この神仏分離令によって明治政府は仏教的な権現や牛頭天王などの名称を用いている神号を純粋な神道の名称にすること、神社の神体として祀られている仏像をはじめとする仏教的な要素を撤去すること、神社に奉仕していた僧侶に還俗とすることなど、長年続いていた神仏習合を禁じ神道と仏教を明確に分離しました。

神仏分離の様子(Google Geminiによる作画)
神仏分離の様子(Google Geminiによる作画)

 江戸幕府の政権下では寺院は単なる宗教施設にとどまることなく行政、教育、文化、福祉など多岐にわたる役割を果たし地域社会において重要な存在でした。明治政府は寺院の機能を役所に持たせ前政権の影響を受けている寺院の社会への影響力を抑えたのです。

 「神仏分離令」は仏教を弾圧し排斥することが目的ではありませんでしたが全国各地で廃仏毀釈運動が起こり多くの寺院や仏具が破壊されました。やがて自由民権運動が起こり宗教の自由が求められるようになり神道国教化の政策は縮小していきました。

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2025年3月27日 (木)

吉田松陰と金子重之輔が黒船に密航を懇願|下田踏海(嘉永7年 1854年3月27日)

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 長州藩士の吉田松陰は江戸で佐久間象山などから西洋の学問や技術の重要性を学び国内外の情勢に関心を持っていました。嘉永5年(1852年)、松陰は交流のあった肥後藩の宮部鼎蔵らと東北を見聞する旅に出ました。このとき松蔭は長州藩の通行手形を得る前に出発しました。この行為は脱藩と見なされました。翌年、旅行から戻った松蔭は罪に問われて士族の身分を剥奪され世禄を没収されました。

吉田松陰
吉田松陰

 嘉永6年(1853年)、松蔭は学問を続けるため江戸に赴きました。同年6月、浦賀にマシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国の艦隊が来航しました。松陰は師の佐久間象山と望遠鏡で黒船を見物し西洋の文明が日本より遙かに進んでいることに感銘を受けると同時に日本の将来に危機感を持ちました。象山は松蔭に外国に留学することを勧めました。当時、日本人が海外に渡航することは禁止されていたため外国留学は密航にあたりました。

 【参考】黒船来航(1853年7月8日旧暦6月3日)

 海外留学の機会を伺っていた松陰は同年7月にロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が艦隊を率いて長崎に来航していることを知り弟子の長州藩士の金子重之輔と長崎に向かいましたが、彼らが長崎に到着したのはロシア艦隊が長崎を出港した後でした。そのため松陰は海外留学を果たせませんでした。

 【参考】ロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が長崎来航(1853年7月18日

 嘉永7年(1854年)、ペリーの艦隊が再び来航し横浜で日米和親条約が締結されました。

 【参考】マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)

 その後、艦隊が下田に移動すると松陰は重之輔と下田に向かいました。同年3月25日夜、松陰と重之輔は下田の柿崎の稲生沢川口から小舟を漕ぎ出しましたが悪天候と高波により引き返しました。27日に上陸していた米国士官に渡航を嘆願する「投夷書」と「別啓」を渡しました。「投夷書」は漢文で書かれておりその内容は「外国渡航が禁じられているが世界を見たい。密航が知られると殺されるので人道的に乗船させて欲しい」という主旨のものでした。また「別啓」は「投夷書」の要約で「認めてくれるなら海岸に迎えにきて欲しい」と書かれていました。

 松陰と重之輔はその日の夜に艦隊を訪れることを計画し翌28日午前2時頃、弁天島近くから小舟を漕ぎ出し沖合に停泊している艦隊へ向かいました。最初はミシシッピー号に漕ぎ着けましたが通訳がいなかったため旗艦ポータハン号に向かいました。

黒船に漕ぎ着ける小舟(Google Gemini作画)
黒船に漕ぎ着ける小舟(Google Gemini作画)

 ポータハン号に乗り込んだ2人はは通訳官サミュエル・ウィリアムズと筆談し渡航を懇願しました。ウィリアムズは2人の海外渡航の強い要望を理解しましたが、日米和親条約を締結しているため海外密航を幇助することはできないと答えました。近い将来に海外渡航が許されるようになるはずだからそれまで待つようにと諭され2人は海外渡航を諦めました。

 28日早朝、2人は小舟で福浦海岸まで送り届けられました。密航しようとしたことがばれると考えた松陰と重之輔は自首し下田奉行所で取り調べを受けた後に江戸小伝馬町の獄に送られました。江戸で裁きを受け身柄は萩藩へ引き渡され蟄居を命じれました。本来であれば海外密航は死罪に当たりますが、2人の処分が蟄居で済んだのはペリーが2人の思いを理解し幕府に寛大な処分を求めたからと伝えられています。

 松陰は萩の野山獄に投獄されましたがまもなく実家の杉家預かりとなりました。安政4年(1857)、叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぎ杉家の敷地に松下村塾を開塾します。この松下村塾では、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など後に明治維新の立役者となる志士たちを教育しました。

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