カテゴリー「幕末・明治」の124件の記事

2025年1月23日 (木)

坂本龍馬が襲撃される|寺田屋遭難(慶応2年1866年1月23日)

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 慶応2年(1866)年1月21日に薩長同盟が成立。坂本龍馬は同年1月23日に護衛の長府藩士である三吉慎蔵(みよししんぞう)と定宿していた京都伏見の寺田屋に戻りました。龍馬は桂小五郎と西郷隆盛による薩長同盟の成立の顛末を慎蔵に説明し祝杯を交わしたと伝えられています。

  【参考】薩長同盟(1866年1月21日)

坂本龍馬 三吉慎蔵
坂本龍馬(左)と三吉慎蔵(右)

 当時、伏見の京橋は京都と大坂を結ぶ過書船が荷の揚げ降ろしと旅客の乗降をする船着き場として栄えていました。そのため多くの宿屋が建ち並び寺田屋もそのひとつでした。坂本龍馬が寺田屋を定宿とたのは寺田屋が薩摩藩の指定宿だったからです。寺田屋では文久2年(1862)に薩摩藩志士の粛清「寺田屋事件」が起きています。

  【参考】寺田屋事件こと薩摩藩志士粛清事件(1862年4月23日)

 寺田屋には宿を1人で切り盛りする面倒見の良いお登勢という女将がいました。龍馬をはじめとする多くの志士たちがお登勢を懇意にしていました。元治元年(1864年)、龍馬はお登勢に恋仲で身寄りのない楢崎龍を寺田屋で預かってもらうよう頼み込みました。お登勢は龍馬の願いを聞き、お龍はお春という名前でお登勢の娘分となり寺田屋で住み込みで働くことになりました。

寺田屋の女将のお登勢 楢崎龍
寺田屋の女将のお登勢と楢崎龍

 龍馬は文久2年(1862年)に幕府政事総裁職の松平春嶽の紹介により幕府軍艦奉行並の勝海舟と出会っています。龍馬は海舟に心服し海舟が開いた神戸海軍操練所の海軍塾塾頭を努めました。しかしながら倒幕派と尊皇派が対立し幕政が混乱する中で海舟と龍馬の幕府における立場が危うくなりました。海舟の紹介で薩摩藩との関係を深めていた龍馬の行動は問題視されるようになり倒幕派につながる要注意人物と見なされるようになりました。

 慶応2年(1866年)1月23日、龍馬が慎蔵と寺田屋に戻ると伏見奉行所に連絡が入りました。伏見奉行の肥後守の林忠交は龍馬の捕縛を命じ、同日深夜2時頃、伏見奉行所の役人と捕り方が寺田屋を包囲しました。この異変に気がついたのが入浴中のお龍でした。龍馬の危機を悟ったお龍は裸のまま裏階段を駆け上がり2階にいた龍馬と慎蔵に異変を知らせました。伏見奉行所の役人が龍馬が慎蔵に詰問すると2人は薩摩藩士と詐称しました。しかしながら、役人は肥後守の上意として捕り方に龍馬らの捕縛を命じました。

 龍馬は高杉晋作から譲られた拳銃スミス&ウェッソン・モデル2を発砲、慎蔵は手槍を振るって防戦しました。2人は捕り方2名を射殺し数人を殺傷しました。しかしながら多勢に無勢で龍馬は左右の手の親指を切られ拳銃を扱えなくなりました。

ミス&ウェッソン・モデル2
ミス&ウェッソン・モデル2

 慎蔵が必死に防戦しているとお龍が裏木戸に置いてあった大きな石がのった漬物槽を力任せにどかして龍馬らを逃しました。龍馬らは寺田屋を脱出し材木屋に身を隠しました。龍馬が動けなくなると護衛役の慎蔵は責任を感じ切腹しようとしました。しかし龍馬はこれを制止し薩摩藩邸に救援を求めに行くよう命じました。慎蔵はその場に龍馬を残して薩摩藩伏見屋敷に向かいました。

 慎蔵の報告を受けた薩摩藩邸留守居役の大山彦八は藩士3名をつれて川舟で救出に向かいました。これによって龍馬は薩摩藩に救出され九死に一生を得ました。ことの顛末は直ちに京都の西郷隆盛に報告されました。隆盛は薩摩藩士の吉井友実を伏見に派遣し情勢を探らせました。また軍医を薩摩藩邸に派遣し龍馬の治療と警護を命じました。

 翌日、伏見奉行は薩摩藩邸に龍馬の引き渡しを要求しましたが薩摩藩はこれを拒否しました。その後、龍馬とお龍と慎蔵は西郷隆盛の勧めで京都から逃れ薩摩藩の船で大阪から脱出しました。 慎蔵は下関で下船し情勢を報告するため長府藩に戻りました。龍馬はお龍と鹿児島に逃れ隆盛の紹介で湯治などをしながら旅をして過ごしました。この龍馬とお龍の旅が日本人として初めての新婚旅行とされています。龍馬が受けた傷は深く以降の写真撮影では龍馬は左手を隠していることが多いという指摘があります。

 さて寺田屋遭難に新選組が関わったという言い伝えもありますが、これは伏見奉行の林忠交の肥後守と京都守護職の松平容保の肥後守が誤認され、容保の配下の新選組が関与したと誤った説が流布されたものです。龍馬も慎蔵も伏見では新選組に捕縛されておらず嫌疑は受けていませんでした。伏見奉行は薩摩藩士を詐称する浪人が寺田屋に出入りしていることから目を付けたようです。

 第二次長州征討が始まると慎蔵は長府藩の報國隊軍監として高杉晋作指揮のもと長州藩の奇兵隊と幕府軍と戦いました。この戦には龍馬も参加しています。このときお龍は長崎の豪商の小曽根英四郎のもとで過ごしました。第二次長州征討後、龍馬は亀山社中(後の海援隊)の拠点を下関に置きお龍を呼び寄せています。龍馬とお龍は下関での生活を楽しみましたが下関が龍馬とお龍の最後に過ごした場所となりました。

 龍馬は慶応3年(1867年)11月15日に京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋井口新助邸において暗殺されていますが、襲撃は新選組によるものではなく京都見廻組によるものでした。この襲撃は龍馬が「寺田屋遭難」で伏見奉行所の捕り方を殺害したことに対する公務執行とされています。これは箱館戦争後に元京都見廻組今井信郎が自供したものです。

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2025年1月21日 (火)

薩長同盟の六箇条(慶応2年1866年1月21日)

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 慶応2年(1866年)1月21日、薩摩藩が近衛家から借りて小松帯刀が使用していた京都の近衛家別邸御花畑屋敷において薩長同盟が締結されました。近衛家別邸御花畑御屋敷跡には薩長同盟締結の地の記念碑が立てられています。

薩長同盟締結の地の記念碑(近衛家別邸御花畑御屋敷跡)
薩長同盟締結の地の記念碑(近衛家別邸御花畑御屋敷跡)

 近衛家別邸御花畑御屋敷は現存しえおらず薩長同盟締結の地の記念碑は屋敷のあった道端にひっそりと建てられています。

 

 慶応2年(1866年)1月8日、近衛家別邸御花畑屋敷において西郷隆盛と桂小五郎の会談が行われましたが交渉は難航し薩長同盟の締結は困難な状態にありました。このとき坂本龍馬は下関に出かけており同席していませんでした。後日、下関から戻った坂本龍馬は薩長同盟の交渉が暗礁に乗り上げていることを知り桂小五郎にその理由を確認しました。桂小五郎は薩摩藩に頭を下げて譲歩することはこれ以上できないと表明しました。慶応2年(1866年)1月21日、西郷隆盛と小松帯刀は長州に戻ろうとしていた桂小五郎を呼び止め六箇条の条文を提示しました。桂小五郎はその場で条文の内容を確認し薩長同盟の締結を了承しました。このときの出席者は同盟を仲介した坂本龍馬、薩摩藩の西郷隆盛・小松帯刀・大久保利通・島津伊勢・桂久武・吉井友実・奈良原繁、長州藩の桂小五郎・品川弥次郎・三好軍太郎でした。

 薩摩藩から出された六箇条の条文とは会談の内容そのものでありその記録は残っていませんが、後日に桂小五郎が記憶を頼りに書き留めたものです。桂小五郎が書き留めた六箇条は次の通りです。

 一、戦ひと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事

  (戦いが始まったら直ちに2千余りの兵を急いで送り現在京にいる兵と合流させます。大阪にも1千の兵を配置し京都と大阪の両方を守を固めること)

 一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事

  (戦いに勝てそうと有利な兆しが見えたときは朝廷に働きかけて講和を成立させること)

 一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事

  (万一、戦いに負けそうでも1年や半年で決着がつくことはなく、その間も全力で戦うこと)

 一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事

  (もし幕府の兵が東に帰還した際には、直ちに朝廷に訴え速やかに冤罪を晴らすよう全力で尽力すること)

 一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事

  (橋会桑等が現在のような状況で朝廷を利用して正義に従わず調停を妨害した時は決戦に及ばざるを得ないこと)

 一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事

  (冤罪が晴れた後は双方が誠意を持って協力し皇国の皇威の回復を目指して全力を尽くすこと)

 桂小五郎はこの書き留めた六箇条に誤りがないかどうかを慶応2年1月23日付の書簡で坂本竜馬に確認を依頼しています。坂本龍馬は2月5日付で書簡に「表に御記成被候六条は小西両氏及老兄龍等も御同席にて談論せし所にて毛も相違これ無き候、後来といへとも決して変り候事はこれ無きは神明の知る所に御座候」と朱書きした返書を送り会談の内容に相違ないことを伝えています。

坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」
坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」

【関連記事】

薩長同盟(1866年1月21日)

第11話「薩長同盟のゆくえ」|明日なき戦いの果てに

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2025年1月14日 (火)

武市熊吉|喰違の変(1874年1月14日)

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 戊辰戦争が終結し国内の混乱が収まると明治政府は政治の改革を進めました。また列強との不平等条約の改正の外交交渉や諸外国の見聞のため政府は明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで岩倉具視を特命全権大使とする岩倉使節団をアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国の計12ヶ国に派遣しました。 岩倉使節団には岩倉具視をはじめとして大久保利通や木戸孝允など明治維新を主導した多くの首脳が参加したため、この間に臨時政府として留守政府が組織されました。留守政府は太政大臣三条実美、参議の西郷隆盛、井上馨、大隈重信、板垣退助、江藤新平、大木喬任らが加わりました。この間に日本と李氏朝鮮との関係が悪化し、留守政府は朝鮮を征討するため征韓論を主張するようになりました。ところが帰国した岩倉具視らは征韓論に反対し阻止しました。

留守政府
征韓を進めた留守政府
左上から三条実美・西郷隆盛・板垣退助
江藤新平・大隈重信

 「明治六年政変」により西郷隆盛や板垣退助をはじめとする征韓派参議が明治6年10月に下野すると、彼らと行動をともにしていた総勢約600人の政治家、官僚、軍人が辞職しました。多くの重要人物が政権から離れたため明治政府は大きな影響を受けました。

 廃藩置県後、自分たちの活躍する場を失い身分が危うくなっていた不平士族たちは明治政府に対して不満を募らせていました。征韓により武士の活躍の場ができると考えていた西郷隆盛が下野すると、彼らは政府に対する不満をいっそう高めるようになりました。また征韓派の士族は日本との国交を拒否する朝鮮を放置することは皇国の恥辱になるとし「明治六年政変」は岩倉具視と大久保利通の陰謀と考えるようになりました。

 土佐藩士の武市熊吉は幕末に同郷の板垣退助と行動を共にしました。戊辰戦争においては板垣退助の部下として各地を転戦し新政府軍の勝利に貢献しました。東山道先鋒官軍と甲陽鎮撫隊(旧新選組)の「甲州勝沼の戦い」では板垣退助に命じられて敵情を斥候し戦を有利に進めるきっかけを作りました。明治時代になると武市熊吉は外務省で働いていましたが西郷隆盛と板垣退助が下野すると同年11月に辞職しました。当日、武市熊吉は弟の武市喜久馬と土佐藩士の中西茂樹に政変の経緯について説明しました。これを聞いた2人は直ちに岩倉具視を暗殺すると主張しましたが、武市熊吉は時期尚早と反対しました。3人は岩倉具視の暗殺の機会を伺うことにしました。同年12月、武市熊吉のもとに多くの同志が集まり始めました。そして武市熊吉、武市喜久馬、中西茂樹、山崎則雄、島崎直方、下村義明、岩田正彦、中山泰道、澤田悦彌太の土佐藩士9人は岩倉具視の動静を探り暗殺計画を立てました。

 明治7年(1874年)1月14日午後4時頃、中西茂樹と中山泰道が外桜田(千代田区日比谷霞が関)で岩倉具視の馬車を発見しました。中山泰道はその場に待機し、中西茂樹が人力車で追跡し馬車が赤坂仮皇居(迎賓館赤坂離宮)に参内したところを見届けました。報告を受けた武市熊吉は岩倉具視の暗殺の機会が到来したとし実行に移すことを決断しました。9人の土佐藩士は襲撃場所を赤坂仮皇居(迎賓館赤坂離宮)正面の江戸城の喰違門(見附)とし隊を分けて異なる足取りで喰違門(見附)に向かいました。

 喰違門(見附)に終結した彼らは身を隠し岩倉具視が現れるのを待ちました。午後7時頃に赤坂仮皇居より人力車が出てきたため山崎則雄と中山泰道が人力車を追跡しました。残った7人の土佐藩士は喰違門(見附)で見張りを続けました。午後8時前、赤坂仮皇居より馬車が出てきました。7人は馬車の様子を見て岩倉具視が乗っていることを確信し襲撃の機会を待ちました。馬車は7人の土佐藩士が隠れていた喰違門(見附)へ向かってきました。馬車が喰違門(見附)の土塁あたりまでやってきたとき、7人の土佐藩士は「国賊!」と言い放ちながら飛び出して馬車を襲撃しました。中西茂樹が馬丁を襲って馬車を止め、岩田正彦が馬車の背後から刀を突き刺しました。すると馬車の中から岩倉具視が転がり落ちてきました。岩田正彦は手負いとなった岩倉具視を追いかけましたが、岩倉具視はそのまま水堀に飛び込んでしまいました。

竹市熊吉と岩田正彦
竹市熊吉(左)と岩田正彦(右)

 岩田正彦から岩倉具視が水堀に飛び込んだことを聞いた武市熊吉らは通りかかった僧侶と娘が持っていた提灯を奪い探索を始めました。しかしながら岩倉具視を見つけることはできませんでした。この水堀は高さ10メートル以上あり、襲撃当日は1月半ばで堀の水も極めて冷たくなっており、ここに落ちて助かるものはないと考えられました。間もなく人力車を追跡していた山崎則雄と中山泰道が戻り、9人の土佐藩士は岩倉具視は水堀に転落して死亡した信じて襲撃現場を去りました。その日の晩、9人の土佐藩士は祝杯を挙げたそうです。

 襲撃現場では9人の土佐藩士が去ると水堀の中から手負いの岩倉具視が這い出してきました。岩田正彦の刀は岩倉具視に致命傷を与えることはできていなかったのです。水堀から出てきた岩倉具視は極寒で危機的な状態となりましたが無事に救出されました。翌日、この事件が伝えられ岩倉具視が無事だったことを知った9人の土佐藩士は暗殺が失敗したことを知り落胆しました。

 警察は岩倉具視の暗殺未遂の捜査を始まましたが有力な手がかりはありませんでした。現場には武市熊吉が置き去りにした下駄が落ちていました。警察はこの下駄の外観から犯人は地方出身者と考えられ、岩倉具視を狙ったことから犯人像は政府に不満を募らせた征韓論派の士族としました。つまり犯人は西郷隆盛の出身の薩摩藩士か板垣退助の出身の土佐藩士に絞られたのですが個人を特定するまでには至りませんでした。

 警察は事件当日に犯人に提灯を奪われた僧侶と娘に聞き込みを行い薩摩弁と土佐弁を聞かせてみましたが、2人はどちらの方言も聞き覚えがなく犯人の特定には繋がりませんでした。しかしながら人力車夫の証言により犯人が土佐人であることが特定されるとやがて武市熊吉が捜査線上に浮上し同年1月17日に身柄を拘束されました。そして残りの8人の土佐藩士も逮捕されました。

 警察は9人の土佐藩士に対して厳しい取り調べを行い首謀者を特定しようとしました。誰もが岩倉具視の暗殺は全員で実行したと答えましたが、厳しい拷問の中で武市熊吉は仲間を案じて自分が首謀者であるこを自白しました。また自白の背景には判事が速やかに自白するならば顔が立つように取り計らいをするとし死罪といえども武士として切腹で最期を迎えることを約束したのです。

 ところが事件から半年後の同年7月9日に判決が申し渡され9人の土佐藩士は除族されたうえで斬首となりました。9人の土佐藩士はこの判決に対して死罪は受け入れたものの士族の身分を剥奪された除族については判事に裏切られたと憤慨しました。9人の土佐藩士は武士として最期を迎えたかったのです。政府はこれを許さず刑は当日執行されました。

 刑の執行前に9人の土佐藩士はお互いの顔を見て笑みを浮かべていたと伝えられています。それは自分たちが行ったことは正しかったというお互いの再確認だったのかもしれません。

 竹市熊吉の辞世の句は「八つ裂に 成る身は更にいとはねど 心にかかる 大君の御代」でした。自分たちはどうなっても皇国の未来を案じながら死にゆくことを記しています。この事件は襲撃現場から「喰違の変」と呼ばれるようになりました。

 「喰違の変」で命を落とした武市熊吉ら9人の土佐藩士に同情した不平士族は少なくありませんでした。西郷隆盛、板垣退助とともに下野した江藤新平は明治7年(1874年)2月1日に「佐賀の乱」を起こしています。また明治9年10月24日には熊本で旧肥後藩の士族が「神風連の乱(敬神党の乱)」を起こしています。これに呼応して旧福岡藩の支藩の旧秋月藩の士族が同年10月27日に「秋月の乱」を起こしました。西郷隆盛も「西南戦争」により明治11年(1877年)9月24日に最期を迎えています。明治11年(1878年)5月14日には「紀尾井町事件」で大久保利通が征韓派の石川県士族の島田一郎を首謀者とする士族らに暗殺されています。

 嘉永6年(1853年)6月3日のマシュー・ペリー提督の黒船来航により日本の政治は大混乱しました。尊皇攘夷と倒幕を合い言葉に江戸幕府軍や旧幕府軍と戦った新政府も内戦が終わってしまえば意見が対立し決して一枚岩ではなかったのです。かつて仲間同士だったものが袂を分かち戦い多くの優秀な人材が失われました。新しい時代を迎える代償として多くの犠牲を出したのが明治維新です。

 襲撃現場の喰違門跡には土塁や堀がほぼ当時のまま残されています。岩倉具視が飛び込んだ水堀は現在は埋め立てられて上智大学真田堀グラウンドになっており上智大学弓道場洗心道場がありますが喰違門跡前の道路とグランドの地面の高低差を確認できます。岩倉具視がいかに高い位置から飛び込んだことがわかります。

 

 





【関連記事】

「佐賀の乱」勃発(1874年2月1日)|明治政府に対する士族の反乱

「神風連の乱(敬神党の乱)」勃発(1876年10月24日)|明治政府に対する士族の反乱

「秋月の乱」の秋月党が挙兵(1876年10月27日)|明治政府に対する士族の反乱

西郷隆盛死す|西南戦争が終結(1877年9月24日)

 武市らが起こした「喰違の変」が一つの契機となって、1877年(明治10年)の「西南戦争」や1878年(明治11年)の「紀尾井町事件」など、不平士族たちの反乱が巻き起こりました。

 武市に関する史跡や遺物はほとんど伝わっていません。

 

 

 

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2025年1月 9日 (木)

睦仁親王(明治天皇)が践祚(1867年1月9日)

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 第121代天皇の孝明天皇の第一皇子は孝明天皇の典侍の坊城伸子との間の子の妙香華院でした。坊城伸子は懐妊後に病気にかかり、妙香華院は生まれた当日に母とともに病死しました。孝明天皇の第二皇子は嘉永5年(1852年)9月22日(1852年11月3日)に公家の公家中山忠能の娘で典侍だった中山慶子との間に生まれた祐宮(さちのみや)です。祐宮は光格天皇の幼名と同じであり、孝明天皇は自分の唯一の皇子に期待していました。

束帯姿の明治天皇
束帯姿の明治天皇

 しかしながら中山家は天皇の正室になれる五摂家ではなかったため祐宮の皇位継承は確定的なものではありませんでした。また孝明天皇の正室は九条尚忠の娘である九条夙子(英照皇太后)であり正室との間に息子が生まれればその子が天皇を継承するのが筋でした。さらに孝明天皇の父の仁孝天皇は有栖川宮幟仁親王、有栖川宮熾仁親王、伏見宮貞教親王に親王宣下を与えていました。ですから正室に子が生まれなくても祐宮が親王になれなければ3人のうち1人が皇位継承することになります。

 祐宮は前例にならって幼少時は母の実家の中川邸で育てられ祖父の中山忠能が父親代わりとなりました。母の中山慶子は宮中にいたため祖母の中山愛子や忠能の母の中山綱子が母親代わりとなりました。公家の中川家は尊皇攘夷派で祐宮は中川家での養育で大きな影響を受けました。

 安政3年(1856年) 9月22日に祐宮は4歳となり御所に戻ることになりました。祐宮は同年9月29日から宮中で暮らすようになりましたが中山家に愛着を持っており環境変化に慣れるまで精神的に不安定な状態となりました。祐宮が親王となるためには周囲からの理解も必要です。孝明天皇は祐宮を親王とするべく宮中行事を見せるなど教育をしながら大切に育てました。祐宮もすくすくと育ちました。

 万延元年(1860年)7月10日、祐宮は勅命により准后九条夙子の実子として儲君となりました。同年9月22日に8歳を迎え、同年9月28日に親王宣下の儀式が行われ諱は 睦仁(むつひと)としました。その後、睦仁親王は天皇となるためさまざまな教育を受けました。

 孝明天皇は幕末に徳川家と公武合体による攘夷をめざし、慶応元年(1865年)9月21日に第14代将軍の徳川家茂の奏上により第二次長州征討
を勅命しました。長州再征は慶応2年(1866年)6月7日に開始されました。同年7月20日、家茂は第二次長州征伐の最中に大阪城で病死し、徳川慶喜が第15代将軍となりました。

 孝明天皇は同年12月11日から天然痘を患いました。病は峠を越したかのように見えましたが慶応2年(1866年)12月25日(1867年1月30日)に崩御しました。慶応3年(1867年)1月9日(1867年2月13日)、睦仁親王は14歳で践祚して122代天皇を継承しました。

聖徳記念絵画館壁画『践祚』(川崎小虎画、池田宣政侯爵奉納)
聖徳記念絵画館壁画『践祚』(川崎小虎画、池田宣政侯爵奉納)

 幕府による第二次長州征伐は失敗に終わり同年1月19日に第二次長州征討の解除を命じる勅命が出されました。禁門の変で長州藩を支持して蟄居させられていた中川忠能や有栖川宮熾仁親王など許しましました。これによって公武合体派の孝明天皇の庇護を受けていた幕府の権威は失墜しました。天皇の権威は高まり倒幕派の長州藩と薩摩藩が台頭するようになりました。やがて戊辰戦争が勃発し日本は混乱の時代を迎えるのです。

【関連記事】

廷臣八十八卿列参事件(1858年3月12日)

攘夷実行に従い長州藩が米国商船を砲撃(1863年5月10日)

八月十八日の政変(1863年8月18日)

禁門の変(蛤御門の変)勃発(1864年7月19日)

薩長同盟(1866年1月21日)

孝明天皇祭(1867年1月30日)

王政復古の大号令で明治政府樹立(1867年12月9日)

薩摩藩と長州藩に討幕の密勅が下される(1867年10月14日)

戊辰戦争(鳥羽伏見の戦)の開戦(1868年1月3日)

明治天皇の即位の礼(1868年8月27日)

明治時代が始まる(1868年9月8日)

明治天皇の1度目の東京行幸(1868年10月13日)

あんぱんの日(1875年4月4日)

明治天皇が崩御(1912年7月29日)

大正時代始まる(1912年7月30日)

昭和改元の日(1926年12月25日)

「平成」の世が始まる(1989年1月8日)

 

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2024年12月23日 (月)

日蘭和親条約締結(1855年12月23日)

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 日本が西洋との関係を断ち切ったのは天正15年(1587年)に豊臣秀吉が出したバテレン追放令に始まります。こによってカトリック教の布教活動が禁じられスペインやポルトガルの宣教師の国外追放となり南蛮貿易が禁じられました。江戸幕府を開いた徳川家康もスペインやポルトガルの来航と日本人の海外渡航を禁じ、外交は長崎でのオランダと清国の通商国、朝鮮と琉球の通信国に制限しました。家康がオランダとの外交を認めたのはオランダがプロテスタント国家で布教活動より貿易を目的としていたからです。

 アメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督の艦隊による黒船来航により江戸幕府は嘉永7年(1854年)3月3日に日米和親条約を締結しました。江戸幕府は同年8月23日にイギリスと日英和親条約を締結、安政元年(1854)12月21日に日露和親条約を締結しました。

 【参考】黒船来航(1853年7月8日旧暦6月3日)

 【参考】マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)

 【参考】ロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が長崎来航(1853年7月18日)

 【参考】日英和親条約の調印(1854年8月23日)

 江戸幕府は上述の通りオランダとは古くから外交をしてきましたが日蘭和親条約が締結されたのは安政2年(1855年)12月23日です。条約締結の調印はオランダ商館長(カピタン)で駐日オランダ理事官ヤン・ドンケル・クルティウスが行いました。

オランダ商館長(カピタン)・駐日オランダ理事官ヤン・ドンケル・クルティウス
オランダ商館長(カピタン)・駐日オランダ理事官ヤン・ドンケル・クルティウス

 この条約締結によりオランダはオランダは通信国となり、オランダ商館が置かれていた長崎の出島に行動範囲が限られていたオランダ人が長崎市街に出入りすることができるようになりました。クルティウスは日蘭和親条約の条文に長崎と函館での貿易を許可する条項を加えることを江戸幕府と交渉し安政4年(1857年)8月29日に調印しています。この追加条文によってオランダ以外の商人たちの貿易も認められました。日米修好通商条約が締結されたのは安政5年(1858年)6月19日です。

【参考】日米修好通商条約に調印(1858年6月19日)

【関連記事】

日仏修好通商条約の調印(1858年9月3日)

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2024年12月19日 (木)

「錦の御旗」はどんな旗?

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 「錦の御旗」(にしきのみはた)は天皇(朝廷)に従う官軍が使用する旗です。錦旗、菊章旗、日月旗とも呼ばれます。赤字の錦に金色の太陽が描かれたものを日之御旗、銀色の月が描かれたものを月之御旗とされています。官軍が朝敵を討伐するときにその正当性を示すために天皇の権威を象徴する旗印として利用します。

 「錦の御旗」が歴史上で初めて使用されたのは承久3年(1221年)の「承久の乱」(じょうきゅうのらん)と伝えられています。「承久の乱」は
貴族政権を率いる後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して起こした戦で、このとき後鳥羽上皇が官軍に「錦の御旗」を授けました。

 「錦の御旗」はもともと定められたものではく様々な形状のものが使われました。文治5年(1189年)の源頼朝の鎌倉政権と奥州藤原氏が東北地方で戦った「奥州合戦」では「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号と鳩の意匠が入った旗印が使われました。鎌倉時代後期の元弘元年(1331年)の鎌倉幕府打倒を目指す後醍醐天皇と鎌倉幕府が戦った「笠置山の戦い」では日輪と月輪の意匠が入った旗印が使われています。室町時代いは「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号と日輪の意匠が入った旗印が使われるようになり、後に日輪と天照皇太神が入った「錦の御旗」と足利氏の家紋の二つ引両と八幡大菩薩が入った「武家御旗」が用いられるようになりました。

 近代では慶応4年(1868年)正月に「戊辰戦争」の「鳥羽・伏見の戦い」において薩摩藩本営の東寺に掲げられた「錦の御旗」が広く知られています。この「錦の御旗」は慶応3年(1867年)10月6日に公家の岩倉具視が薩摩藩の大久保利通と長州藩の品川弥二郎に授けたものです。岩倉具視の腹心で国学者の玉松真弘(玉松操)の図案をもとに大久保利通が西陣で大和錦と紅白の緞子を織らせ京都薩摩藩邸で「錦の御旗」を作りました。また品川弥二郎も大久保利通が調達した材料を長州に持ち帰り「錦の御旗」を作りました。

 「鳥羽・伏見の戦い」が開戦すると朝廷は朝敵の幕府軍を討伐する征討大将軍の仁和寺宮嘉彰親王に「錦の御旗」と「節刀」を与えました。「錦の御旗」が掲げられると官軍の士気は大いに高まり、その一方で賊軍とされた幕府軍の士気に大きな打撃を与えました。多くの幕府の兵が狼狽して退却したことが伝えられています。

 このとき使用された「錦の御旗」をはじめとする軍旗は陸軍省の遊就館(靖國神社)や宮内省図書寮に保存され、明治21年(1888年)に長州藩士の絵師の浮田可成(うきたかせい)が新政府の依頼で描いたものが「戊辰所用錦旗及軍旗真図」(ぼしんしょようきんきおよびぐんきしんず)全4巻にまとめています。この4巻は国立公文書館デジタルアーカイブの重要文化財(公文書)戊辰所用錦旗及軍旗真図で見ることができます。次の「錦の御旗」は「戊辰所用錦旗及軍旗真図」の1巻に収録されている「赤地大和錦御旗」で日像と天照皇大神の神号が描かれています。

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 慶応4年(1868年)1月11日に起きた備前藩兵が隊列を横切ったフランス人水兵らを負傷させたことで銃撃戦に発展した「神戸事件」が起こりました。このとき神戸開港の祝事で寄港してイギリス・アメリカ・オランダ・フランス・イタリアの兵士が武装して神戸に上陸したことで神戸港は占領状態となりました。14日、土佐藩士の本山茂任らがが朝廷の高松・松山両藩の征討の勅と「錦の御旗」を土佐藩に運ぶ途上で「神戸事件」を知らずに通過したところフランス兵に不審尋問されました。意思の疎通が取れずに「錦の御旗」を没収される「錦旗紛失事件」が起こりましたが土佐藩士の中島信行や長州藩士の伊藤博文らの交渉により返却されています。

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2024年12月17日 (火)

秋月藩士の臼井六郎が日本史上最後の仇討ちを実行(1880年12月17日)

 

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 幕末に公武合体派の立場を取っていた秋月藩は攘夷の機会を探る情報収集を行うべく文久元年(1861年)に家老の臼井亘理を公用人兼長崎聞役に命じ長崎に派遣しました。長崎で亘理は幕府や諸藩が列強に対応するため留学生に洋学を学ばせ洋式兵制を整えつつあることを知りました。亘理は秋月藩10代藩主の黒田長元に洋式兵制の採用を進言しましたが藩士の多くが異国のやり方にならうことに反対したため実現しませんでした。

 秋月藩が西洋兵式の採用を進めるようになったのは慶応2年(1866年)に黒田長徳が12代藩主となってからです。長徳は同年11月に亘理に西洋兵式の採用と訓練を行うよう命じました。しかしながら世の中の情勢に疎い秋月藩士たちは洋式兵制や異国文化の導入に反発しました。彼らは攘夷を進めている薩摩藩や長州藩が洋式兵制や洋式軍備を整えていることを知らなかったのです。西洋兵式を進める亘理への批判が高まり、亘理を失脚させようとする藩士も少なくありませんでした。やがて亘理を討てという過激な声まであがりました。

 旧態依然とした幕藩体制の秋月藩に対して世の中の情勢は大きく変わり、慶応3年(1867年)10月15日に大政奉還の奏上が勅許され、同年12月9日の王政復古の大号令の勅命が発せられました。翌慶応4年(1868年)に幕府側が「鳥羽・伏見の戦い」で敗れると、新政府は諸藩の藩主に京都に赴くよう命じました。秋月藩主の長徳はこれを様子見し、亘理を執政心得首座公用人として全権を任せて京都に派遣しました。

 尊皇攘夷派が主流となっていることを悟った亘理は秋月藩を守るためには新政府に従う必要があると考え長徳に上京を要請しました。長徳はここれに応じて上京し同年4月29日に亘理から情勢の説明を受け亘理に労いの言葉をかけました。ところが翌日、藩のために奔走していた亘理に対する讒言を聞いた長徳がこれを信用して家老の田代四郎右衛門を通じて亘理に突然の帰国命令を出しました。宗藩である福岡藩、新政府の公家、薩摩藩、長州藩は亘理を高く評価し、これからは優れた人材が活躍する時代であるとして亘理に京都に留まるよう要請しました。しかし、これが長徳や秋月藩首脳の反感を買うことになりました。こうした亘理への対応は秋月藩の守旧派によるものでした。

 亘理は秋月藩に戻り藩のために働くことを決め同年5月5日に京都を発ちました。同年5月25日、自宅に戻った亘理は久しぶりに妻の清子、長男の六郎、娘のつゆに会いました。親戚や知人も集まり亘理の帰国を祝う酒席が開かれました。酒席を終えた亘理は清子と寝室に入り熟睡しました。そこに秋月藩の干城隊が侵入し亘理を襲撃しました。干城隊は亘理と異変に気がついた清子を容赦なく惨殺しました。当時11歳の長男の六郎は起こされて両親が殺害されたことを知らされました。殺害現場へ近づくことを禁じられましたが六郎はそれを振り切って見るに堪えない変わり果てた両親の姿を目にしたのです。あまりにも凄惨な現場を見た六郎は犯人に対する復讐を誓いました。

 秋月藩はこの殺害事件に対して亘理は不届き者であるとしてお咎めなしとしました。この暗殺は秋月藩首脳が仕組んだものとも伝えられています。亘理の暗殺を知った新政府は秋月藩と距離を置くようになり、新しい時代に取り残された秋月藩士は「秋月の乱」を起こすことになります。

 両親の復讐を決意した臼井六郎は暗殺者が誰なのか知るすべもありませんでした。同年9月に六郎は自身が通っていた道場で干城隊士の山本克己の弟の山本道之助が兄が国賊の臼井亘理を殺害したと吹聴しているところに出くわし暗殺者を特定するに至りました。後日、母を殺害したのは萩谷伝之進であることも判明しました。

 六郎は養父の臼井慕(渡辺助太夫)に仇討ちの意を表明しましたが、慕は復讐は国の大禁であり軽々しく粗暴な挙動に出ないよう戒めました。そして復讐をしたいのであれば文武を学んだ後に決断するよう諭しました。秋月藩の主流派であり剣術に優れた干城隊を幼い六郎が仇討ちできるはずがありませんでした。

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臼井六郎

 明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県が発せられると秋月藩の非道を宗家の福岡藩に訴えたことで幽閉された秋月藩士たちが釈放されました。その中の1人に亘理の弟で叔父の上野月下がいました。秋月を離れ東京に出た月下に六郎が両親の仇を知っていると記した手紙を送ったのは明治5年(1872年)六郎15歳のときです。そして六郎は、山本克己の父の亀右衛門は亘理の支持者であり息子を手討ちにしようとしたが、亘理の暗殺が秋月藩による上意討ちだったことを知り手が出せなかったという話を聞きつけました。同年、六郎は山本克己が東京にいることを知りました。

 明治9年(1876年)、19歳の六郎は小学校の教師となっていました。同年8月に親戚の者が上京することを知ると養父の慕に一緒に東京に出て学問を学びたいと申し出ました。慕は六郎の上京を許し六郎は父の形見の短刀を手に上京しました。もちろん六郎の目的は両親の仇討ちをすることでした。六郎は東京につくと叔父の月下のもとに身を寄せました。やがて山本克己が一瀬直久と名を変えて名古屋の裁判所で判事として勤務していることを知りました。しかし六郎は名古屋に赴く費用を捻出することができませんでした。

 六郎は生活が苦しかった月下のもとを離れて仕事をすることにしました。山岡鉄舟の春風館道場を訪れたところ鉄舟は六郎を住み込みの書生としました。六郎は道場でよく働き勉学と剣術の修行に励みました。鉄舟と夫人の英子は六郎を高く評価しました。鉄舟の紹介で勝海舟の家にも出入りすることができるようになりました。同年に「秋月の乱」が起こり秋月藩士らが新政府軍の乃木希典が率いる小倉鎮台により鎮圧されたことを知った六郎はついに天罰が下ったと喜んだそうです。

 【参考】「秋月の乱」の秋月党が挙兵(1876年10月27日)|明治政府に対する士族の反乱

 六郎は旧秋月藩士を訪れ一瀬直久に関する情報を集めました。叔父の月下から両親暗殺について秋月藩のお咎めなしの裁定を聞き仇討ちの決意を固めました。このとき月下は復讐に反対しています。六郎は月下の忠告と養父の慕の言を忘れることはありませんでした。

 明治11年(1978年)、六郎は一瀬直久が静岡裁判所の判事となり山梨県の甲府支庁で働いていることを知り仇討ちに向かいましたが一瀬直久を見つけることはできませんでした。探索をしているうちに判事が東京へ転勤になるという噂を聞きつけ東京に向かいましたが一瀬直久を見つけることはできませんでした。噂が真実ではなかったと考えて甲府に戻りました一瀬直久を見つけることはできなかったのです。

 明治13年(1980年)、23歳になった六郎は東京にいました。相変わらず一瀬直久の行方はわかりませんでしたが、同年11月に一瀬直久が東京上等裁判所に転勤となり自宅の住所を知りました。六郎は仇討ちの理由を書いた文書を肌身につけて復讐の機会をうかがいました。東京裁判所や一瀬直久の自宅近くで張り込みを行いましたが一瀬直久を見つけること一向にできませんでしたが、同年12月13日に銀座を訪れたときに一瀬直久を偶然見つけました。六郎は一瀬直久の後を追いましたが姿を見失ってしまいましたが仇が東京にいることを確信できました。

 その後、六郎は東京裁判所の前で張り込みを続けましたが一瀬直久を見つけることはできませんでした。同年12月17日、六郎は一瀬直久の行動を考えました。一瀬直久を見かけた銀座には旧秋月藩主の黒田邸がありました。黒田邸には在京の旧秋月藩士らがしばしば訪れていました。黒田邸の2階には旧藩士が集まる団欒所がありました。六郎は囲碁好きの一瀬直久が黒田邸を訪れていたことを思い出し何か手がかりがつかめないかと黒田邸に赴きました。

 黒田邸では鵠沼文見人の夫妻が住み込みで働いており文見人の妻わかは六郎の従姉妹でした。六郎が黒田邸を訪れると文見人は不在だったため団欒所で待つことにしました。その後、戻ってきた文見人と談笑していたところ、そこに一瀬直久が姿を現したのです。六郎は仇討ちの機会をうかがいましたが他に旧藩士が2人いたので帰路で襲撃することにしました。ところが一瀬直久が郵便を出すため1階に下りたため、六郎は厠に行くと偽って後を追いました。六郎は担当を懐から出し身構えて隠れました。そして一瀬直久が戻ってきたところを「父の仇、思い知れ」「奸賊思い知れ」と襲いかかり格闘のうえ仇討ちを成功させたのです。六郎は仇討ち事件を起こし旧藩邸を汚したことを文見人に詫びて人力車を拾って現場を離れ京橋警察署に自首しました。

 同年12月24日、多くの新聞がこの事件を最後の仇討ちと美談として報じました。しかし、新政府は明治6年(1873年)2月に「仇討ち禁止令」を発し私的な復讐を法律で禁じていました。幕末や明治初期であれば仇討ちは美談にもなりますが時代は変わっていたのです。六郎は取り調べにおいて仇討ちが禁止されたことは知らなかったが養父から「復讐は古来から国の大禁」と言われていたことを伝え自分が殺人罪を犯したことを認識していると述べました。当時の法律では誅殺は死罪でしたが閏刑とされ、明治14年(1881年)9月22日に終身刑の判決を受けました。

 六郎の仇討ちは秋月の実家にも伝わり親族はたいへん喜んだそうです。東京で面倒を見ていた山岡鉄舟と勝海舟は六郎の行く末を案じたそうです。目的を果たして投獄された六郎は模範囚となりました。六郎のもとには山岡鉄舟の妻の英子が差し入れによく訪れました。

 明治23年(1889年)に大日本帝国憲法発布されると特赦に六郎は罪を禁獄10年に減刑とされ明治24年(1891年)9月22日に釈放されました。このとき六郎は34歳でした。六郎が出所すると叔父の月下と鉄舟の春風館の書生が待っていました。山岡鉄舟は既に亡くなっていましたが妻の英子の取り計らいでその日の晩に六郎の慰労会が行われました。慰労会には政治家、大学教授、剣術家など時の著名な人物が集まっており六郎は驚いたようです。

 目的を果たした六郎は気力を失いましたが明治37年(1904年)に妹つゆが住む北九州の門司を訪れ、つゆの夫で旧秋月藩士のはからいで門司駅前で饅頭屋「薄雪饅頭」を開きました。このとき六郎は48歳でしたが28歳の加藤ゐえと結婚しました。

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臼井六郎 明治40年(1907年)

 その後、六郎は鳥栖駅前の待合所の経営「八角亭(やすみてい)」を任されました。店は繁盛し子どもはできませんでしたが叔父の月下の次男を養子に迎え家族に囲まれて幸せに暮らしたそうです。大正6年(1917年)9月4日、六郎は病により60歳で波瀾万丈の人生の幕を閉じました。遺骨は両親の傍らに葬られました。

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2024年12月12日 (木)

英国公使館焼き討ち事件(1862年12月12日)

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 1858年の日英修好通商条約が締結により江戸高輪の東禅寺にイギリス公使館が設置され初代駐日総領事ラザフォード・オールコックが赴任しました。当時、尊皇攘夷運動が過激化し武力により外国人を排斥する事件が多発していました。東禅寺のイギリス公使館も攘夷の対象となり、水戸藩脱藩の攘夷派浪士たちが同年5月28日午前10時頃にイギリス公使館を襲撃する東禅寺事件を起こしました。

 【参考】第一次東禅寺事件(1861年5月28日)

 この事件の後、オールコックはイギリス公使館を横浜に移動しました。安政五カ国条約を締結した幕府は国内の経済や政治の状況から各国に対して約束の期日の延期を求めるため文久遣欧使節を派遣することにしました。オールコックは文久遣欧使節に協力するため文久2年2月に離日しました。 

 【参考】文久遣欧使節がイギリスとロンドン覚書を調印(1862年5月9日)

オールコックが留守中に代理公使を務めたエドワード・セント・ジョン・ニールはイギリス公使館を横浜から高輪東禅寺に戻しましたが、同年5月29日に警備を担当した藩士の攘夷派の志士がニール代理公使の殺害しようとしましたがイギリス兵に発見され失敗しました。これを第二次東禅寺事件といいます。

 【参考】第二次東禅寺事件(1862年5月29日)

 幕府に協力をしてきたイギリスはこれらの事件について厳重に抗議しました。同年8月21日(1862年9月12日)には薩摩藩がイギリス人を殺傷する生麦事件を起こしたこともあり幕府の立場はさらに悪くなりました。交渉の結果、幕府はイギリスに賠償金を支払い、品川の御殿山にイギリス公使館を建設することになりました。新しいイギリス公使館は同年12月ほぼ完成しました。

 この頃、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎らは江戸や京都において尊皇攘夷運動を展開していました。薩摩藩が生麦事件で攘夷を果たしているのに対し未だに公武合体を説いている長州藩に不満を持っていた晋作は同士とともに武州金澤(金沢八景)で外国人公使を攘夷する計画を立てました。しかしながらこの無謀な計画は長州藩主に伝わり晋作は謹慎を命じられました。

高杉晋作と久坂玄瑞
高杉晋作と久坂玄瑞

 晋作はその後も尊皇攘夷運動を諦めることはありませんでした。文久2年11月、朝廷から攘夷断行の勅使が幕府を訪れると晋作らは横浜を襲撃する計画を立てました。これも長州藩主に説得され中止となりました。晋作、玄瑞は尊皇攘夷結社「御楯組」(みたてぐみ)を結成し、秘密裏に攘夷の機会をうかがいました。そして勅使が江戸を離れたことを見計らって文久2年12月12日(1863年1月31日)、品川御殿山のイギリス公使館を焼き討ちする「英国公使館焼き討ち事件」を起こしました。これによりイギリス公使館は全焼してしまいました。オールコックは江戸は政情不安と考え、イギリス公使館を横浜で再建することにしました。

 なおこの事件は高杉晋作が首謀したものですが公式には犯人は発覚しておらず幕府も事件を追及することはありませんでした。

【関連記事】

第一次東禅寺事件(1861年5月28日)

文久遣欧使節がイギリスとロンドン覚書を調印(1862年5月9日)

第二次東禅寺事件(1862年5月29日)

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2024年12月 7日 (土)

兵庫港が開港|神戸開港記念日(1867年12月7日)

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 安政5年(1858年)の日米修好通商条約をはじめとする安政五カ国条約により兵庫港が文久2年12月7日(1863年1月1日)に開港されることになりました。しかしながら、この条約は天皇の勅許を得ないままで締結したことから、朝廷がこれに反対しました。和親条約に理解を示していた孝明天皇も通商条約には反対の立場をとり京都に近い兵庫の開港を拒否しました。

神戸港
神戸港

 安政五カ国条約では江戸と大阪の開市、新潟・兵庫を開港することになっていました。しかし、幕末の日本の政治と経済は混乱を極めており、期限内に安政五カ国条約を履行することは不可能と考えた江戸幕府は文久元年(1862年)に文久遣欧使節を欧州に派遣しました。使節はサー・ラザフォード・オールコック駐日英国公使の協力を得てイギリスと「ロンドン覚書」を調印したうえで諸外国と交渉し期限を5年間延長し慶応3年(1867年)12月7日(1868年1月1日)にすることができました。

【参考】文久遣欧使節がイギリスとロンドン覚書を調印(1862年5月9日)

 幕府は朝廷と公武合体を進めましたが、その見返りに孝明天皇は幕府に対して攘夷を求めました。列強に対して武力で攘夷を実行するのは不可能と考えた幕府は外交交渉により開港していた横浜港を閉港することを決めました。文久3年(1863年)12月(1864年2月)に池田長発を正使、河津祐邦を副使、河田熙を目付とした横浜鎖港談判使節団をフランスに派遣しました。しかしながら交渉はまとまるはずもありませんでした。列強各国は日本の安政五カ国条約履行に疑いをもつようになりました。

 攘夷を実行しない幕府に対してしびれを切らした長州藩は馬関海峡(下関海峡、関門海峡)を航行する米国商船を砲撃したことで馬関戦争(下関戦争)が起こりました。長州藩は列強の軍事力に太刀打ちできず敗戦、この戦争により幕政はますます混乱しました。

【参考】攘夷実行に従い長州藩が米国商船を砲撃(1863年5月10日)

 イギリスは幕府の混乱に乗じて兵庫港の開港の前倒しをはかり、列強各国と協力し兵庫港に艦隊を派遣し開港を求めました。これに対して孝明天皇も開港を認めざるを得なくなりました。交渉により開港の前倒しは撤回され従前の通り慶応3年(1867年)12月7日(1868年1月1日)に兵庫港が開港されました。

【参考】兵庫開港要求事件(1865年9月13日)

 ところで江戸幕府は神戸港のことを兵庫港と呼んでいましたが、大輪田泊や兵庫津と呼ばれた兵庫港が神戸港に含まれるようになったのは明治25年(1892年)です。実は幕末の「兵庫港の開港」は「神戸港の開港」を意味していました。神戸港の開港後も兵庫港は長らく開港されていませんでした。神戸港の発展により兵庫港も神戸港の一部となりました。

【関連記事】

文久遣欧使節がイギリスとロンドン覚書を調印(1862年5月9日)

攘夷実行に従い長州藩が米国商船を砲撃(1863年5月10日)

兵庫開港要求事件(1865年9月13日)

 

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2024年12月 6日 (金)

東浜桟橋(旧桟橋)と北海道第一歩の地碑

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 箱館港(函館港)は北海道と本州とを結ぶ玄関口として古くから利用されていましたが、安政5年(1858年)に日米修好通商条約をはじめとする「安政五カ国条約」により安政6年6月2日(1859年7月1日)に外国との貿易のため開港されました。

 当時の箱館港には大型船が停泊できる岸壁はありませんでした。箱館にやってきた大型船は函館港沖合に停泊し、そこから小型通船が人や貨物を桟橋や桟橋や船揚場まで運びました。当時、箱館に船でやってきた人々が初めて降り立つ場所が「東浜桟橋」(旧桟橋)でした。

東浜桟橋(旧桟橋)と北海道第一歩の地碑
東浜桟橋(旧桟橋)と北海道第一歩の地碑

 東浜桟橋はJR箱館駅から函館山の方へ徒歩約15分の函館市末広町24にあります。この場所には金森赤レンガ倉庫のショッピングモールなどが存在し人気のウォーターフロント観光地となっています。ショッピングモールから西の方に歩いていくと「東浜桟橋」(旧桟橋)と「北海道第一歩の地碑」があります。


北海道函館市末広町24

 北海道函館市末広町24付近は慶応時代から明治初期にかけて埋め立てられた場所で海岸線沿いの道路が造成されました。この場所は東浜町と名付けられ明治4年に箱館港の旅客乗降地として利用されるようになり、やがて長さ9.1メートル、幅3.6メートルの木造の小さな桟橋が「東浜桟橋」が設置されました。箱館港にやってきた多くの旅客がこの小さな桟橋を利用しました。当時の箱館港は北海道の玄関口でしたから本州から北海道に上陸する場所でもありました。初期の青函連絡船の旅客もこの桟橋を利用しました。桟橋前には多数の旅館や商店が建てられ、この付近は昭和初期まで中心市街地でした。

昭和30年代の東浜桟橋(旧桟橋)と旧森屋百貨店(旧金森デパート)
昭和30年代の東浜桟橋(旧桟橋)と旧森屋百貨店(旧金森デパート)

 明治43年(1910年)に函館駅に大型の桟橋が完成すると青函連絡船の乗客は新桟橋を利用するようになりました。東浜桟橋の利用者は激減し、いつの頃からか東浜桟橋は市民の間で旧桟橋と呼ばれるようになりました。旧桟橋はその後も青函連絡船以外の旅客や船員の乗降場所として利用されました。利用者は激減しましたが函館港は北洋漁業の基地港となり時期になると旧桟橋付近は大いに賑わいました。

函館港に集結する北洋漁業船団(昭和37年)
函館港に集結する北洋漁業船団(昭和37年)

 昭和4年(1929年)、旧桟橋は北海道庁から函館市の管理となりました。このときに正式名称が「東浜桟橋」となりました。古い写真には「東濱町桟橋」と書いたものがありますから「東浜桟橋」も通称だったのでしょう。それでも多くの市民は馴染のある旧桟橋という名前で呼び続けました。

 昭和40年代に函館港の岸壁が整理され大型船が埠頭などに着けられれるようになると通船が不要となり「東浜桟橋」はその役割を終えました。現在、「東浜桟橋」は観光地として整備されています。写真は最近の「東浜桟橋」です。観光用人力車が観光地巡りをしているところです。

東浜桟橋(旧桟橋)
東浜桟橋(旧桟橋)

 現在の「東浜桟橋」は昭和34年(1934年)に架け替えられたコンクリート製のものです。平成3年(1991年)にガス灯が設置され夜になると「東浜桟橋」を照らし美しい夜景を見ることができます。

 さて「東浜桟橋」の隣には「北海道第一歩の地碑」があります。昭和43年(1968年)に日本中央競馬会が明治以降に北海道に渡って来た人々が第一歩を踏んだ地を記すモニュメントとして寄贈したものです。モニュメントはヒグマと船のいかりを模したものです。

北海道第一歩の地碑
北海道第一歩の地碑

 碑文には「明治百年を迎えるに当り 此地に記念碑をたてて 開拓に渡道した先人の足跡をしのぶ」とあります。

北海道第一歩の地碑の碑文
北海道第一歩の地碑の碑文

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