カテゴリー「昭和の風景」の27件の記事

2023年11月15日 (水)

函館山ロープウェイ開業(1958年11月15日)

カテゴリー:函館の話

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 函館山ロープウェイ株式会社は北海道函館市の函館山の山麓と山頂を結ぶロープウェイです。昭和33年(1958年)、函館観光事業会社が設立され同年5月にロープウェイの架設工事が初まり同年11月15日に開業しました。ロープウェイの開業により誰もが手軽に函館野からの景色や函館市の夜景を楽しめるようになりました。

 開業当時の初代のロープウェイはわずか31人乗りでした。昭和45年(1970年)に2代目の45人乗り、昭和63年(1988年)に当時としては日本最大の3代目の125人乗り、平成9年(1997年)に4代目125人乗りが導入されました。現在、運行されているロープウェイは平成26年(2014年)に導入された125人乗りのもので5代目です。次の写真は昭和37年7月に函館山の山麓駅で撮影したものです。ロープウェイは初代のものです。背景の塔はカトリック元町教会です。

初代の函館山ロープウェイ(昭和37年7月 山麓駅)
初代の函館山ロープウェイ(昭和37年7月 山麓駅)

 次の写真は昭和33年(1958年)5月1日に函館山山頂から撮影したものです。函館山ロープウェイの着工は同年5月からですのでロープウェイも存在していませんがそれなりに観光客がいますね。

函館山山頂から(撮影昭和33年/1958年5月1日)
函館山山頂から(撮影昭和33年/1958年5月1日)

 函館山ロープウェイ株式会社は昭和51年に函館観光事業会社から現在の社名となりました。昭和61年(1986年)に函館市が出資し第3セクターとなり、平成4年(1992年)に日本初となるコミュニティFM放送「FMいるか」を開局しています。函館山ロープウェイ株式会社は函館観光の重要な役割を果たしています。

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2023年11月10日 (金)

紀元二千六百年式典(昭和15年 1940年11月10日)

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 昭和15年(1940年)11月10日から11日にかけて宮城前広場(皇居外苑)において内閣主催の紀元二千六百年式典が執り行われました。この式典には昭和天皇・香淳皇后が御臨席され約5万5千の人々が参列しました。紀元二千六百年の関連行事は11月14日まで行われました。 

紀元2600年記念式典会場
紀元2600年記念式典会場

 この式典は「日本書紀」に記された神武天皇即位2600年を記念して執り行われたものです。昭和10年(1935年)10月に当時の内閣総理大臣岡田啓介を会長とする「紀元二千六百年祝典準備委員会」が発足され橿原神宮周辺の整備などが計画されました。この準備委員は「紀元二千六百年祝典評議委員会」に継承されました。

 昭和15年(1940年)になると橿原神宮の初詣のラジオ中継が行われ、2月11日の紀元節(建国記念の日)には全国の神社で大祭が行われました。紀元二千六百年式典では「皇紀2600年奉祝曲」が演奏され、全国各地で記念事業が実施され多くの国民が祝福しました。

国民歌「紀元二千六百年」映像+歌詞付き / Kigen Nisen Roppyaku Nen

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2023年11月 3日 (金)

映画「ALWAYS 続・三丁目の夕日」公開(2007年11月3日)

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 2007年11月3日は「ALWAYS 続・三丁目の夕日が公開」された日です。前作「ALWAYS 三丁目の夕日」が公開されたのは2005年11月5日です。前作は昭和33年(1958年)の春から年末までの物語ですが、本作は 前作から4ヶ月後の昭和34年(1959年)の春から始まります。

 昭和34年(1959年)というと高度成長時代の幕開け期です。敗戦から復興する日本が東京オリンピックの開催を前にどんどん経済大国と成長していった時期です。その日本の姿と人間模様を描いたのがこのシリーズです。

 本作も前作同様に昭和の町の映像づくりのこだわりがありました。ストーリーと同じぐらい映像を楽しむことができます。ゴジラで始まる映画の導入の展開もちょっとびっくり。なぜゴジラが登場もすぐになるほどなとわかります。それから自分が「あ~」と思ったのは羽田空港でした。その他、作り込まれた色々な映像を見て昔の記憶も蘇りました。

 古いものは新しいものへとかわり都市の様子もどんどん変化していきます。となりの住人の喜怒哀楽を共有する人と人とのつながり、地域ぐるみの生活、そんな人間模様を見ていると、今の時代はちょっと寂しくなったと思います。昭和の時代の近所の友達、おじさん、おばさん、どうしてるかなとか思い出します。

 本作の中で超満員の映画館が出てきます。かかっている映画は石原裕次郎主演の「嵐を呼ぶ男」。裕次郎がドラムを叩くのに合わせて観客も大盛り上がりです。昔はテレビが高価で他のメディアもほとんどありませんでした。映画が大衆の娯楽だったのです。

 2007年公開時にこの映画を映画館に見に行きました。超満員で大盛り上がりの映画館の様子をスクリーンを映し出している我が町の映画館には観客がパラパラとしかいませんでした。となりのちょっと大きな町にも映画館があり、電車に乗っていけば有名な大きな映画館があります。地方都市の映画館は経営が厳しいだろうと思っていましたが、我が町の映画館も閉館してしまいました。

ALWAYS 続・三丁目の夕日[DVD通常版]

 

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2023年5月 7日 (日)

日本初の純国産蒸気自動車の試運転(1904年5月7日)

 世界初の実用的なガソリン自動車が発明されたのは1885年にベンツが開発した3輪自動車です。その4年後の明治31(1898年)、日本に初めて自動車がやってきました。この自動車はフランスから輸入した「パナール・ルヴァッソール」というガソリン自動車でした。輸入されたのはわずかな台数だったので人々の目に触れることはありませんでした。

 日本で国産自動車が開発されるようになったのは20世紀に入ってからです。明治36年(1903年)に大阪天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会でアメリカ製の8台の自動車が注目を受けました。

 この博覧会で初めて自動車を目にした岡山の資産家の森房造と楠木健太郎は自動車が魅了されました。しかし、当時の輸入自動車の価格は9千円もしたのです。この頃の日本の公務員の初任給は8〜9円ぐらいで1円は現在の2万円以上の価値がありました。当時の9000円は数億円に相当したのです。資産家とは言え簡単に買えるものではありませんでした。

 そこで森と楠木は国産自動車を開発し岡山で馬車の代わりにバスを走らせようと考えました。国内には自動車を製造する会社は存在していませんでしたから、自動車を開発できる能力がありそうな技技術者を探しまた。そして、官民で電気や機械の経験を積んだ後に岡山に戻り電気器具、動力用蒸気機関、発電機の修理製造をしていた山羽電気工場の山羽虎夫に自動車の製作を依頼しました。山羽は自動車技術の知識や経験がありませんでしたが自動車開発に興味を持ち着手することにしました。

 山羽は神戸で輸入会社をしていた兄の元を訪れ自動車開発について相談しました。その会社は自動車の輸入販売も手がけており、山羽が訪れたときに2台の輸入自動車がありました。山羽はイタリア人の自動車技術を紹介され、実物の自動車を見ながらその仕組みを学ぶことができました。岡山に戻った山羽は自動車に関する文献を読み自動車の研究開発を進めました。そして昭和36年(1903年)9月に全長4.55メートルの10人乗りの蒸気自動車の設計を始めました。ボディはケヤキを使った木製でした。2気筒の蒸気式エンジンがミッド・シップで配置され後輪の車軸をチェーンで駆動する構造になっていました。タイヤは空気入りのものを作ることができずゴムを使いました。そして、明治37年(1904年)4月に純国産としては日本初の自動車「山羽式蒸気自動車」が完成しました。

 「山羽式蒸気自動車」の試運転が行われたのは同年5月7日です。山根の会社近くから森の家までの10 kmがコースとして選ばれました。沿道でたくさんの人々が見守る中、「山羽式蒸気自動車」のエンジンは順調にスタートし時速15 km程度で走行を始めました。しばらく走行するとタイヤを取り付けるボルトが膨れタイヤのゴムが外れたり、タイヤが変形したりしました。修理をしながら走行したと伝えられていますが目的地にたどり着くことができたかどうかは諸説あるようです。当時の技術では国産の実用的なタイヤを開発する目処が立たず、また資金調達ができなくなったことから前年ながら「山羽式蒸気自動車」の開発は中止となりました。

日本初の国産自動車 山羽式蒸気自動車のレプリカが118年前の試走ルートをたどる【岡山】

 山根はこの経験から明治42年(1909年)にガソリンエンジンを開発し、これを改造した自転車の取り付けた自動二輪車の製造・販売を行いました。

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東京モーターショーの始まり(1954年4月20日)|自動車産業展示会 と第1回全日本自動車ショウ

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ホンダのスーパーカブの生産台数が1億台に(2017年10月19日)

記事提供:ココログ夜明け前

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2023年4月20日 (木)

東京モーターショーの始まり(1954年4月20日)|自動車産業展示会 と第1回全日本自動車ショウ

 「東京モーターショー」は日本自動車工業会が主催する自動車展示会です。世界中の自動車メーカーが集まり新車や自動車に関する最新技術やデザインを紹介する見本市です。その規模は世界最大級で「車の祭典」とも呼ばれています。

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 「東京モーターショー」は1954年4月20日~29日まで日比谷公園で「第1回全日本自動車ショウ」として開催されました。この「第1回全日本自動車ショウ」が開催されたきっかけは約1年前の1953年5月14日から17日まで上野恩賜公園で開催された「自動車産業展示会」に遡ります。

 世界で初めて発明された実用的なガソリン自動車は1885年にベンツが開発した3輪自動車でした。日本に自動車がやって来たのは明治31年(1898年)です。これはフランスから輸入した「パナール・ルヴァッソール」というガソリン自動車でしたが、わずかな台数しか輸入されなかったので人々の目に触れることはありませんでした。

 明治36年(1903年)に大阪天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会でアメリカ製の8台の自動車が出展され注目を受けました。これをきっかけに日本で国産自動車の開発の機運が高まりました。様々な国産自動車が開発されましたが、アメリカ製の自動車は当時既に量産体制が整っていました。アメリカのフォード・モーター社が大正14年(1925年)に横浜に工場、ゼネラルモーターズ社が昭和2年(1927年)に大阪に工場を設立してノックダウン生産を開始すると、両者は瞬く間に日本の自動車市場を席巻しました。このような状況のもと日本の自動車メーカーも優れた国産自動車を独自に開発するべく研究を重ねました。

 第二次世界大戦に向けて日米関係が悪化するとフォードとGMは日本から撤退を余儀なくされ、日本の自動車会社にチャンスが回ってきました。戦時中は日本の自動車会社が軍用車の開発製造を手がけたこともあり国産自動車の技術は高まりました。しかし、日本が第二次世界大戦に負けると、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は自動車の生産を禁止としたのです。再び自動車の生産が許可されると日本政府は経済復興のために国産自動車の生産を促しました。欧州の自動車会社と連携して自動車の開発製造をしたり、独自に自動車の開発製造が行われるようになりました。こうして国産自動車は息を吹き返したのです。

 昭和28年(1953年)に開催された「自動車産業展示会 」は大正12年(1923年)の関東大震災後に都電に替わって活躍したバス事業の
50周年を記念して日本乗合自動車協会が主催したものです。この「自動車産業展示会 」を開催するにあたって尽力したのが1951年に自動車会社の親睦と情報交換を目的として日産自動車、トヨタ自販、いすゞ自動車、日野ヂーゼル工業、民生デイゼル工業、三菱ふそうの6社の宣伝担当者が発足させた「六日会」でした。「六日会」のメンバーは競合各社の垣根を取り払い自動車会社が強力して世界に通じるモーターショーの開催をめざしました。

 「自動車産業展示会 」にはバスやトラックが主体の見本市でしたがトヨペットやプリンスの乗用車も展示されました。この展示会がモーターショーの開催の機運が高まり翌昭和29年(1954年)4月20日に「全日本自動車ショウ」が開催され自動車メーカー8社を含む自動車産業に関わる254社が参加したのです。展示された車両は267台、トラックなどの商用車やオートバイが主体の展示となりましたが、17台の乗用車が展示されました。当時は一般庶民が自動車を所有できる時代ではありませんでしたが10日間の開催で54万7000人が来場したのです。

 昭和39年(1964年)の第11回(1964年)に「東京モーターショー」と名称が変更され本格的な国際モーターショーを目指すことになりました。昭和48年(1973年)の第20回まで毎年開催されましたが昭和49年(1974年)はオイルショックで中止、昭和50年(1975年)の第21回以降は隔年の開催となりました。

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2023年1月23日 (月)

昔のレコード・プレーヤー|昭和の風景

  昭和40年頃の汎用のレコード・プレーヤーです。この頃のレコード・プレーヤーはトランク型あるいはスーツケース型で持ち運ぶことができました。

昔のレコード・プレーヤー(昭和40年頃)
昔のレコード・プレーヤー(昭和40年頃)

 ターン・テーブルの大きさはシングルレコードの大きさです。大きなLPレコードははみ出ますがかけることができます。スピーカーはもちろんステレオであるはずもなくモノラルです。

 レコードを掛けるときには手でアームを慎重にレコード盤の上にのせるのですが、ミスをすると「ギー」と音がして最悪の場合はレコード盤の溝に傷が付いて音飛びが起こるようになってしまいます。

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2023年1月 8日 (日)

パンチキックをキック(昭和48年頃)

 タカラからパンチキックという玩具が発売されていました。商品名の通りパンチをしたりキックをしたりするものですが、底が重くなっているので転んでもすぐに起き上がってきます。パンチキックが静止している1回目の攻撃は簡単ですが、立ち上がってきたパンチキックを攻撃するのはタイミングがなかなか難しく返り討ちにあうこともあります。この写真は5歳ぐらいの男の子がパンチキックにキックしたところを撮影したものです。なかなか良いポーズで蹴りがしっかり入ったようです。

パンチキックをキック
パンチキックをキック

 少し年の離れたお兄ちゃんは布団の上でパンチキックをバックドロップしたり投げ飛ばしたり。

 それがついに家具に当たって・・・

 お母さんにこっぴどく怒られたようです。

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一枚の写真

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2023年1月 7日 (土)

スーパージェッターの日(1965年1月7日)

 スーパージェッターは漫画家の久松文雄原作のSFアニメで1965年1月7日から1966年1月20日までTBS系列局で放送されました。

 スーパージェッターは漫画の原作はなく最初からアニメとしてTBSが独自に企画したものです。TBSが「スーパージェッター」を独自に企画した背景には「エイトマン」での苦い経験がありました。TBSは「エイトマン」のアニメの放映権を米国の会社に英語の契約書を十分に確認せずに売却してしまいした。この契約書にはアニメの放映権のみならずキャラクター商品、音楽、出版などの諸権利が含まれていました。TBSは契約を撤回することもできず原作者や利害関係者に事前に確認せずに諸権利を売却してしまったのです。そこでTBSは「スーパージェッター」を全て独自に企画することにしたのです。

 さて当時見ている子どもたちはそんな大人の事情は露知らず「スーパージェッター」を毎週楽しみにしていました。ジェッターはもともと30世紀タイムパトロール723号でした。悪人ジャガーを追跡中の事故で流星号が故障し20世紀に取り残されてしまいました。30世紀に帰ることができなくなった723号は未来から来た少年ジェッターとして、国際科学捜査局で犯罪捜査を行うことになりました。

 ジェッターは特殊な腕時計を持っていてこれでタイムマシンの流星号を呼び出すことができます。流星号はもともと最高速度マッハ30で飛行することができたのですが故障によってマッハ15までしか出せなくなりました。流星号は空飛ぶ自動車です。金属製のはずなのですがその形をくにゃくにゃと変えることができます。腕度計にはタイムストッパーの機能もあり、30秒間だけ時間を止めることができます。

 ジェッターが持ってる銃はパラライザーで人を傷つけることなく麻痺させる銃です。パラライザーと言えばウルトラセブンの第2話「緑の恐怖」でアンヌ隊員がヤイアール星人の姿になった人間に向けて撃った銃です。アンヌ隊員はパラライザーを撃った後に「大丈夫、神経を麻痺させて動きを止めたの」と言っています。パラライザーはウルトラセブン初出ではなかったのです。

 様々な問題を解決していく少年の活躍がかっこよかったです。主題歌の冒頭には「僕はジェッター。1千年の未来から時の流れをこえてやってきた。流星号応答せよ、流星号、来たな良し行こう」という台詞が入っていてこれがまた良かったのです。

 玩具の腕時計をつけて「流星号応答せよ、流星号、来たな良し行こう」と呼びかけるのが子どもの間で流行しました。玩具の腕度計がないときは腕にマジックで腕度計を描いていました。いやマジックで描いた腕度計に呼びかけているのを見た親が玩具の腕度計を買ってくれたのかもしれない(^^ゞ

欲張り過ぎた正義の味方
スーパージェッターのお面をつけた欲張り過ぎた正義の味方

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欲張り過ぎた正義の味方(昭和43年頃)

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2023年1月 3日 (火)

チョコレートパフェを食べる兄弟|昭和の風景(昭和47年)

 昭和のある日、親に連れられてデパートのレストランでチョコレートパフェを食べる兄弟の写真。喫茶店やレストランのチョコレートパフェは家では食べられない上等のスイーツ。いやいや昭和の時代にスイーツなんて言葉はありませんでした。でも家庭では簡単には食べられないのは今も同じかもしれません。

チョコレートパフェを食べる兄弟(昭和47年)
チョコレートパフェを食べる兄弟(昭和47年)

 めったに食べられない美味しいチョコレートパフェ。背の高い容器に入っているので2人とも立ち上がって上から長いスプーンを使って美味しいクリームをすくおうとしています。よく見ると、この兄弟、おそろいの服を着ていますね。母親のコーディネートでしょうか。

 昭和のある日の子どもたちのひとときをとらえた写真でした。

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2022年12月19日 (月)

土管の中で遊ぶ子どもたち|昭和の風景(昭和40年頃)

 昭和40年代頃までの空き地には建設資材が無造作に置かれていました。当時は上水道、下水道、送電などのインフラが十分に行き渡っていませんでした。高度経済成長の中でインフラ整備のための土木工事工事が盛んに進められていました。

 空き地に置かれた建設資材の定番は土管でした。アニメ「ドラえもん」に登場する空き地にも土管が置かれ、そこで子どもたちが遊んでいる様子が描かれています。空き地で遊んでいて雨が降ると土管の中に逃げ込んだものです。

 ある日、空き地に行ってみたら普段より大きな土管が置いてあり子どもたちは大喜び。雨も降っていないのに土管の中へ入り込みます。狭い土管の中に入ると何となく落ち着きます。なんだか秘密基地を手に入れたかのようで満足げな顔をしています。

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土管の中の子ども(昭和40年頃)

 当時は公園の整備も進んでおらず空き地は住民の広場としての役割も果たしていました。現在は空き地はめっきり少なくなり数少ない空き地には塀や柵などで囲まれていて中に入ることはできません。空き地で遊ぶ子どもたちの姿を見ることははほとんどできなくなりました。子どもが怪我でもしたら空き地に自由に入れるようにしていた土地の管理者側の責任問題になる時代ですから仕方がありません。

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