カテゴリー「船舶」の4件の記事

2022年6月28日 (火)

モリソン号事件と7人の日本人(1837年6月28日)

 天保8年(1837年)6月28日(旧暦)、三浦半島の東部の神奈川家の浦賀沖に大きな商船が現れました。浦賀奉行は異国船打払令に基づきこの商船に砲撃しました。商船はやむを得なく浦賀から退去しました。この商船はマカオからやってきたアメリカ合衆国のオリファント商会のモリソン号という商船でした。モリソン号は外国との友好を目的としていたため非武装だったため反撃できませんでしたが、幕府の砲弾が鉄球だったため大きな被害を受けることなく退去しました。その後、九州の薩摩に立ち寄り交渉しましたが空砲威嚇射撃を受けたためマカオへ戻りました。

アメリカ商船モリソン号
アメリカ商船モリソン号

 当時、多くの日本船が嵐で難破し、漂流した日本人が外国船に助けられる事例がしばしばありました。モリソン号は海難で外国船に救助されてマカオに滞在していた7人の日本人を送り届けると同時に日本と通商条約を結ぶ目的でやって来ました。しかしながら、幕府側はこのモリソン号の目的を理解しないまま追い返してしまったのです。無許可の上陸で特に問題視していたイギリス船と誤認されたとも言われています。

 天保9年(1838年)、長崎のオランダ商館長がオランダ風説書でモリソン号の日本渡来の目的を報告し、これによって幕府はモリソン号の目的を理解しました。このときモリソン号はイギリスの船と誤って伝わりました。幕府内では漂流民をオランダ船で返還させる、通商と引き換えの場合は返還の必要なし、モリソン号が再来したときは攻撃する、漂流民を返還してきた場合はむやみに打ち払うべきではないなどの意見が出ました。最終的には幕府の最高司法機関である評定所は「漂流民受け取りの必要なし。モリソン号再来の場合はふたたび打ち払うべし」という厳しい結論に達しましたが、幕府内では穏便に解決するという意見も多く漂流民はオランダ船に送還させることになりました。

 さてモリソン号には7人の日本人漂流民が乗っていました。その7人とは音吉、岩吉、久吉の3人と庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松ら4人です。

 音吉、岩吉、久吉は天保3年(1832年)に鳥羽から江戸に向けて米などを運ぶ宝順丸に乗っていましたがこの船が遠州灘で海難事故に遭い太平洋を漂流しました。何とか生き延びることができた音吉ら3人はシアトル近くのアメリカ大陸のオリンピック半島にたどり着き現地人に救助されましたが、その後は奴隷のように扱われイギリス船に売り飛ばされました。音吉たちはロンドンまで連れていかれ船上で滞在していましたが1日だけ上陸を許可されロンドン市内を見学しました。音吉らが初めてロンドンの街を訪れた日本人と考えられています。このことはすぐにロンドンに報告され、3人は日本に送還されることになり天保6年(1835年)にマカオまで連れていかれました。ここで3人はイギリス貿易監督庁で通訳をしていた宣教師に預けられ現存する世界初の日本語訳聖書「ギュツラフ訳聖書」の作成を行いました。

 天保8年(1837年)、九州出身の漂流民の庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松がスペインの船でマカオにやって来ました。庄蔵ら4人は天保5年(1834年)に庄蔵が船頭を務める船で天草から長崎まで向かいましたが海難事故に遭い漂流しルソン島にたどり着きまいた。庄蔵ら4人は現地人に保護されスペイン船に引き渡されていたのです。

 異国の地マカオで出会った音吉ら3人と庄蔵ら4人はアメリカ商船モリソン号で日本に送還されることになりました。天保8年(1837年)6月2日(旧暦)にマカオを出発しましたが、モリソン号が追い返されたことから7人は帰国することができませんでした。

 音吉はその後アメリカを訪れたという説がありますがその後は上海でアヘン戦争にイギリス兵として従軍したとされています。その後、イギリス人が開いたテント商会で働きイギリス人女性と結婚しています。この妻との間に娘が産まれましたが不幸にも妻も娘も亡くなってしまいます。音吉は嘉永2年(1849年)に再び浦賀を訪れます。このときはイギリス東インド会社艦隊の帆船マリナー号の日本語通訳を務めていますが自身が日本人であることは明かさず中国人の林阿多いう偽名を使っています。その後も通訳として日本を訪れ福沢諭吉などとも会っています。日本への帰国を勧められましたが上海での暮らしがあるため断っています。音吉はテント商会で働いていたシンガポール出身の女性と再婚し、シンガポールに移住します。そこでイギリスに帰化してジョン・マシュー・オトソンと名乗りました。

 音吉以外の仲間の多くは亡くなったり行方がわからなくなりましたが、庄蔵と力松はマカオから香港に移り住んでします。音吉をはじめとした7人は日本人漂流民を救って日本に送還する活動をしていたそうです。

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2022年4月18日 (月)

米国捕鯨船マンハッタン号が日本に寄港(1845年4月18日)

 日本を公式に訪れた最初のアメリカ人はマーケイター・クーパーです。クーパーは捕鯨船マンハッタン号の船長として1843年11月9日にニューヨーク州ロングアイランドのサグハーバーを出港しました。

マーケイター・クーパー
マーケイター・クーパー

 マンハッタン号は南米のケープ・ホーンを回り太平洋に出て東へと向かいました。約1年間にわたり捕鯨活動を行い1845年2月に小笠原諸島の父島に補給のため立ち寄りました。同年3月14日にマンハッタン号は食糧としてウミガメの肉を入手するため父島から420キロメートル離れた鳥島を訪れました。このときクーパーは海岸で難破船を発見し、あたりを探索したところ遭難して漂着していた日本人11人を発見しました。

 クーパーは日本人を救出し日本に向かいましたが、翌日も江戸の帰路で難破していた小宝丸を発見し日本人11人を救出しました。マンハッタン号は救助した日本人22人を乗せて江戸に向けて針路をとりました。

 当時の日本は江戸幕府の政策によりいわゆる鎖国の状態にあったためマンハッタン号は江戸に立ち寄ることはできませんでした。房総半島沖で多くの日本の漁船と遭遇し、救助した日本人を引き渡したいというメッセージを持たせた日本人2人を一隻の漁船に託しました。その後、さらに2人の日本人を上陸させました。

 メッセージを受け取った幕府は1845年4月18日はマンハッタン号に対して日本に立ち寄ることを認め、約300隻の日本船がマンハッタン号を曳航し浦賀に入港させました。幕府はマンハッタン号が停泊中に全ての武器を取りあげましたが帰国時には返却しました。マンハッタン号を訪れた幕府高官は友好的だったようです。

 幕府はマンハッタン号を調べましたが、この時の幕府側の通訳は後にマシュー・ペリーの黒船来航時に活躍した森山栄之助が担当していました。幕府は嵐で壊れたマンハッタン号を修理する木材を提供し、さらに水、米20袋、麦20袋、小麦粉1箱、サツマイモ11袋、鶏50羽、薪2束、大量の大根、茶10ポンドを無償で提供しました。このときクーパーは幕府から書状を受け取っています。書状には難破した日本人を救助したことに対する礼が書かれていましたが、日本には二度と立ち寄らないようにというメッセージも書かれていました。

 マンハッタン号は4月21日、浦賀を出港しましたがアメリカにはすぐに戻らず太平洋を北上しカムチャッカ半島で捕鯨活動を行い大きな成果を得たのち帰国しました。このときクーパーは日本の難破船で発見した日本列島の詳細な地図を持ち帰っていました。クーパーが日本に帰国したことはアメリカで広く知られるようになりました。マシュー・ペリーが率いた黒船が1853年7月8日に浦賀沖に現れたときにはクーパーの地図が大いに役立ったと言われています。

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2022年3月 7日 (月)

青函連絡船が就航(1908年3月7日)

 青森と北海道を結ぶ定期航路は明治6年(1873年)2月に北海道開拓使によって開通されました。この青函航路は現在とは異なり青森県むつ市の大湊港と函館港を結び津軽海峡を渡る航路でした。

 明治12年(1879年)6月、青函航路は郵便汽船三菱会社に引き継がれ民営化されました。当時、郵便汽船三菱会社は日本の海運業を独占しており他の航路と同様に青函航路の運賃を大幅に値上げしました。この郵便汽船三菱会社に対抗するため、反三菱系の三井財閥などが明治15年(1882年)7月に共同運輸会社を設立しました。共同運輸会社はすぐに青函航路に参入しましたが、これによって青函航路の運賃値下げ競争が始まりました。顧客獲得のためこの価格競争は採算性を度外視し激化し、やがて両社の経営が立ちゆかなくなるほどの懸念が生じました。そこで政府は両社に合併することを提案し、明治18年(1885年)9月に日本郵船会社が設立されました。この新会社が青函航路を引き継くことになり毎日1往復の定期運航が行われるようになりました。

 明治24年(1891年)9月1日、日本鉄道の東北本線が上野駅ー青森駅まで全通すると人の往来や貨物の輸送量が増加しました。明治25年(1892年)8月1日に北海道炭礦鉄道の岩見沢駅ー室蘭駅が開通したことを受け、日本郵船は明治26年(1893年)2月に青函航路を室蘭港まで延伸しました。これによって函館と室蘭の間は海上輸送にはなるものの上野駅ー札幌駅が鉄道で結ばれることになりました。当初は毎日1往復の運航で間に合っていた輸送量も鉄道網の発展に伴い需要に追いつかなくなるようになりました。日本郵船は夜行便を増発したり、青森ー室蘭間の直通航路を開発したりすることで増加する輸送量に対応しました。

 明治37年(1904年)10月、北海道鉄道の函館駅ー小樽駅が開通し、明治38年(1905年)8月1日に北海道炭礦鉄道の小樽駅ー南小樽が開通すると青函航路の輸送量の需要はさらに増加しました。日本鉄道および北海道鉄道は日本郵船に増便を要望しましたが、当時は日露戦争中で船舶が不足していたことから定期運航を増便することができませんでした。そのため港に取り残される乗客や貨物が発生するようになりました。

 輸送の需要を満たすことがでいない日本郵船にしびれを切らした日本鉄道は青函航路への参入を検討し、明治38年(1905年)に高速で大型の連絡船の導入を決定し、明治39年(1906年)にイギリスの造船所に蒸気タービン船を発注しました。日本鉄道は国有化されることになりましたが連絡船の発注は継続され、2隻の蒸気タービン船「比羅夫丸」と「田村丸」を建造することになりました。

 明治40年(1907年)末、「比羅夫丸」が横浜港に到着し翌1908年(明治41年)初めから試験運転が行われました。同年2月29日に青森港に到着し、3月7日に青森港10:00発、函館港14:00着の青函連絡船として就航しました。「田村丸」は同年4月2日に就航し、青函連絡船は1日2往復運航となり函館と青森を4時間(夜行便は5時間)で結びました。

青函連絡船「比羅夫丸」
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2022年2月14日 (月)

海王丸(初代)が進水(1930年2月14日)

 「海王丸」は日本の大型帆船の航海練習船です。現在「海王丸」というと1989年に就航した2代目の「海王丸(海王丸II世)」のことですが、初代の「海王丸(初代)」は1930年に就航しました。

初代「海王丸」於函館港
初代「海王丸」於函館港

 「海王丸(初代)」が建造されるきっかけは1927年に起きた鹿児島県立商船水産学校の練習船「霧島丸」の海難事故でした。同年3月、「霧島丸」は宮城県金華山沖で暴風雨に遭い沈没し乗組員および生徒の合計53名全員の尊い命が失われました。この事故によって翌1928年により安全に航行できる大型帆船の航海練習船が2隻建造されることになりました。2隻の建造費用は182万円で当時としては国家予算に対して巨額を投じる大型プロジェクトとなりました。2隻は1930年に完成し、第1船の「日本丸(初代)」が同年1月27日、「海王丸(初代)」が同年2月14日に進水式が行われました。

 「海王丸(初代)」はその姿から「海の貴婦人」と呼ばれ半世紀に渡り活躍しました。戦時中は帆が取り外されたうえに船体も白色から灰色に塗り替えられ石炭の輸送船として使われました。戦後は多くの引き揚げ者を日本に送り届けました。役目を終えた1955年に帆が取り付けられ船体が白色に再塗装され美しい姿に戻りました。1989年に引退し現在は富山県の「みなとオアシス海王丸パーク」に展示されています。なお姉妹船の「日本丸(初代)」は横浜の「日本丸メモリアルパーク」で展示されています。

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