カテゴリー「船舶」の13件の記事

2022年11月20日 (日)

南極観測艦「ふじ」が初出港(1965年11月20日)

 「ふじ」は初代南極観測船「宗谷」を引き継いだ二代目段曲観測船です。耐氷構造貨物船として建造され後に南極観測船に流用された「宗谷」に対して、「ふじ」は最初から極地探検を目的とする砕氷艦として建造されました。南極探検は文部科学省の事業ですが「宗谷」の運用は海上保安庁が担当し、「ふじ」は海上自衛隊が担当しました。

 日本の南極観測隊は昭和36年(1961年)に出発した第6次観測隊が昭和37年(1962年)に越冬せずに昭和基地を閉鎖し帰還しました。南極観測隊の派遣を中断したのは「宗谷」が老朽化したことによるものです。昭和38年(1963年)に閣議決定で南極観測を再開することになり、南極観測隊の輸送は防衛庁(当時)が担当することになりました。南極観測を行うためには「宗谷」にかわる新しい南極観測船が必要です。

 新しい南極観測船は昭和39年(1964年)8月に結ばれた文部省(当時)と日本鋼管の間の契約書に基づき建造されることになり、同年8月28日に起工式が行われました。日本鋼管鶴見造船所で短時間のうちに建造され昭和40年(1965年)3月18日に進水、同年7月15日に竣工しました。新しい南極観測船の名称は一般公募で決めることになり、約44万の応募船名から「ふじ」が選ばれました。進水式において皇太子・同妃臨席のもと「ふじ」と命名されました。

 「ふじ」は防衛庁管轄のため海上自衛隊艦番号AGB-5001の南極観測艦となりました。「ふじ」には「宗谷」の経験からヘリコプターが搭載され、「ふじ」は初のヘリコプターを搭載する自衛艦となりました。「ふじ」のエンジンはディーゼル機関ですが発電によりスクリューを動かす電気推進方式が採用されました。同年6月28日から7回に渡る海上での試運転が行われ7月15日に引き渡されました。

 「ふじ」が第7次観測隊を乗せて東京晴海埠頭を出発したのは昭和40年11月20日です。同年12月17日に南緯55度を通過し、27日に昭和基地に向かう流氷域に入りました。30日に昭和基地の沖の定着氷に停泊し、昭和41年(1966年)1月3日からヘリコプターで物資の輸送を開始、同年1月20日に昭和基地を再開しました。27日には昭和基地に接岸し陸上輸送も開始しました。2月1日に越冬隊の準備が整ったことを見届けた「ふじ」は昭和基地を離岸、4月8日に東京晴海ふ頭に帰港しました。

>南極観測船「ふじ」初出港の日
南極観測船「ふじ」初出港の日を取材するカメラマン

 「ふじ」は昭和58年(1983年)4月まで海上自衛隊により運用され、昭和59年(1984年)4月11日に退役しました。現在は名古屋港ガーデンふ頭に係留され1985年(昭和60年)8月から南極観測に関する博物館として一般公開されています。Google Mapのストリートビューで見てみると上記の写真と同じ姿がそこにありました。

 なお南極観測艦「ふじ」の役割は初代「しらせ」が引き継ぎました。2009年からは2代目「しらせ」が運用されています。

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2022年11月19日 (土)

海賊旗ジョリー・ロジャーの由来

 海賊旗は海賊船を識別するために掲げられた旗で英語ではジョリー・ロジャー(Jolly Roger)と言います。海賊旗のデザインは黒地に白色の頭蓋骨とX字型に交差した大腿骨が描かれたたもので「降伏すれば命は保証、抵抗すれば皆殺し」を意味します。

Photo_20221114143801
海賊旗
Flag of pirate Edward England, Samuel Bellamy, and others.
Author:WarX, edited by Manuel Strehl

 海賊そのものは古代から存在していましたがジョリー・ロジャーを旗印とした海賊が海原に暗躍したのは18世紀初めから約30年ほどの間です。多くの海賊が存在していたため海賊旗には様々なバリエーションがあります。たとえば髑髏と十字架のもの、大腿骨の代わりに剣を交差させたもの、赤字に白のものなどもあります。海賊たちは自分たちの旗をジョリー・ロジャーと呼んでいました。ですからジョリー・ロジャーは海賊旗の総称であり特定のデザインの旗ではありません。

 ジョリー・ロジャーという言葉はフランスの私掠船が掲げていた赤旗の色「 Joli Rouge (Pretty Red) 」に由来するという説があります。フランス語でJoliは「綺麗な」「かわいらしい」「相当な」「ひどい(反語的)」という意味で、ルージュは「赤」のことです。赤が血の色で凶暴な海賊を象徴しているという説もあります。

 英語では「Jolly Roger」になりました。Jollyには「楽しい」「陽気な」「上機嫌(酒で)」「大変な(反語的)」「ひどい(反語的)」という意味があり、フランス後のJoliに相当していると考えられます。Rogerに相当するのはRougeですが、なぜRougeがRogerになったのかは良くわかっていません。rogerにはスラングで詐欺まがいの物乞いの意味があり、rogueはrogerを短縮した呼び方とされています。rogueはラテン語で「尋ねる」「物乞い」を意味するrogareに由来する言葉で「悪党」「ごろつき」「はぐれもの」「ならずもの」を意味します。またフランス語の「rogue」には「傲慢な」という意味があります。

 いずれにしてもジョリー・ロジャーはかつて世界の海をまたにかけて暗躍したならず者の海賊たちのシンボルだったのです。

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2022年9月27日 (火)

客船クィーン・エリザベスが進水(1938年9月27日)

 大型客船「クィーン・エリザベス」は1930年代半ばにスコットランドのド中西部の都市クライドバンクのジョン・ブラウン・アンド・カンパニー社の造船所で建造が始まりました。建造中はハル552と呼ばれ「クィーン・エリザベス」とは命名されていませんでした。

 ハル552は1938年9月27日に進水し、1936年にイギリス王妃となったエリザベス・ボーズ=ライアンにちなんで「クィーン・エリザベス」と命名されました。なお前女王のエリザベス2世(エリザベス・アレクサンドラ・メアリー)はエリザベス・アレクサンドラ・メアリーの長女です。

 「クィーン・エリザベス」は1934年9月26日も推進した「クイーン・メリー」を改良した大型客船船で56年間にわたって史上最大の旅客船として君臨しました。進水後はすぐに客船として利用されず1939年9月に始まった第二次世界大戦により「クイーン・メリー」とともにイギリス海軍に兵員輸送艦として徴用され1940年2月に就航しました。

大型客船クィーン・エリザベス 
大型客船クィーン・エリザベス 

 1945年に第二次世界大戦が終結すると「クィーン・エリザベス」は本来の客船に戻るべく改修され1946年10月に「クイーン・メリー」とともに北大西洋航路に就航しイギリス南部の都市サウザンプトンと米国ニューヨークを20年にわたって結びました。しかし1950年代に入り大型旅客機が就航するようになると乗客が減り始め、1958年にジェット旅客機ボーイング707の就航により乗客が激減し採算が取れなくなりました。

 これによって「クィーン・エリザベス」と「クイーン・メリー」は退役することになり以降は採算性の取れる小型の「クイーン・エリザベス2」が就航しました。「クイーン・メリー」は1967年12月、「クィーン・エリザベス」は1968年に退役しました。両船ともに米国に売約されましたが、「クィーン・エリザベス」は1970年に香港に売却されました。

 「クィーン・エリザベス」は香港の造船所で改造中の1972年1月9日に火災を起こし消火活動中に転覆しました。その後は転覆したままビクトリア・ハーバーに放置されていました。1974年に公開された映画「007 黄金銃を持つ男」にはビクトリア・ハーバーで転覆した「クィーン・エリザベス」が登場していますが1975年には解体撤去されました。

【関連記事】客船クィーン・エリザベスが進水(1938年9月27日)

ハドソン川で蒸気船クラーモントが試運行に成功(1807年8月17日)

タイタニック号が氷山に衝突(1912年04月14日)

豪華客船オリンピック号がUボートを撃沈(1918年5月12)

沈没したタイタニック号を発見(1985年9月1日)

青函連絡船「洞爺丸」沈没(1954年9月26日)

青函トンネル営業開始(1988年3月13日)

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2022年9月 3日 (土)

遭難信号「SOS」の意味は?

 SOSと言えば助けを求める合図として使われますが、かつては船舶などで用いられていたモールス信号による遭難信号です。

 この遭難信号が定められたのは1906年にドイツのベルリンで開催された第1回国際無線電信会議です。この会議で世界共通の遭難信号としてモールス信号の「・・・― ― ― ・・・」を1908年7月1日から使用することが定められました。

 モールス信号でSは「・・・」、Oは「ーーー」ですから「・・・― ― ― ・・・」はSOSになりますが、「SOS」という言葉そのものは国際無線電信条約には使われていません。その後、遭難信号の通称が「SOS」と呼ばれるようになり、1595年に条文中に「SOS」という言葉が使われるようになり1961年1月1日から遭難信号の正式名称がSOSとなりました。

 このSOSそのものには特に意味があるわけではありません。SOSが「Save Our Souls(我らを救え)」「Save Our Ship(我が船を救え)」を略したものであるという説がありますが、これは1912年に氷山と衝突したタイタニック号の事故の後に考案されて伝わったものです。

 モールス信号による「SOS」は廃止となりましたが、「SOS」の文字は救難を求める合図として使われています。災害時に分断された地域の道路に巨大な「SOS」の文字を書いて助けを求めるなど方法で利用されています。

東日本大震災時に路上に描かれたSOS(宮城県女川町江島)
東日本大震災時に路上に描かれたSOS(宮城県女川町江島)

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沈没したタイタニック号を発見(1985年9月1日)

タイタニック号が氷山に衝突(1912年04月14日)

豪華客船オリンピック号がUボートを撃沈(1918年5月12)

青函連絡船「洞爺丸」沈没(1954年9月26日)

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2022年9月 1日 (木)

沈没したタイタニック号を発見(1985年9月1日)

 イギリスの豪華客船タイタニック号が氷山に衝突したのは1912年4月14日午後12時前です。不沈船とも呼ばれたタイタニック号でしたがこの衝突事故によりわずか2時間40分後の15日午前2時20分に真ん中から折れるように割れて沈没しました。

 タイタニック号が氷山に衝突したのは北大西洋のニューファンドランド沖です。タイタニックはマルコーニ国際海洋通信会社規定の遭難信号CQDや国際条約による遭難信号を発し近く航行する船舶に救助を求めましたが救助の船が到着したのはタイタニック号が沈没してから2時間40分後のことでした。

 タイタニック号が沈没した場所はわかっていましたが同船が発見されたのは沈没から73年後の1985年です。米国の海洋学者ロバート・デュアン・バラードが率いるウッズホール海洋研究所およびフランス国立海洋開発研究所の合同調査チームが同年9月1日に海底3,650メートルに佇むタイタニック号の残骸を発見しました。2004年6月にはタイタニック号の損傷状態が詳しく調べられ、タイタニック国際保護条約が成立しました。

ロバート・バラードと沈没したタイタニック号の船首
ロバート・バラードと沈没したタイタニック号の船首

 2つに折れて沈没したタイタニック号は確かに船体が引きちぎられていましたが横転などはしておらず沈んでいました。沈没時の衝撃により多くのものが失われたと考えられていましたが、上記の写真のように船首部分の手すりは残っており、また船内の内装備品も当時のままの状態になっていることがわかりました。少なくても船の前方は緩やかに沈んだと考えられています。一方、船の後方部分はほとんどが吹き飛んでいました。

 通常、深海ではバクテリアによる船体の損傷が少ないため多くの遺物がそのまま残されていると考えられていましたが、この海域は水温が高く船体の損傷が進んでいました。このまま損傷が進めば2100年頃には船体が崩壊すると考えられています。

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豪華客船オリンピック号がUボートを撃沈(1918年5月12)

青函連絡船「洞爺丸」沈没(1954年9月26日)

タイタニック (字幕版) 

1997年。ジェームズ・キャメロン監督。レオナルド・ディカプリオ、ケイト・ウィンスレット出演

1997

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2022年8月17日 (水)

ハドソン川で蒸気船クラーモントが試運行に成功(1807年8月17日)

 米国の技術者で発明家ロバート・フルトン。フルトンは若い頃は画家をしていましたが1786年に絵画を学ぶために英国に渡りました。しかし、英国でフルトンを魅了したのは産業革命による社会の発展でした。フルトンは絵画そっちのけで科学と技術を学んで特許を取るようになり発明家となりました。

 1797年にナポレオン戦争中のフランスに渡りフランス政府に世界初の手動式潜水艦ノーティラスや兵員輸送用の試作蒸気船を売り込みましたが採用されまえんでした。その後、駐仏米国大使ロバート・R・リビングストンの支援を受けてる全長31メートルの外輪式蒸気船を試作しセーヌ川を遡ることに成功しました。再びフランス政府に売り込みましたが採用されなかったため1804年に英国に戻りました。

 1809年、フルトンは米国に帰国しますが同じ頃に帰国していたリビングストンに出会います。リビングストンはフルトンがセーヌ川で走らせた蒸気船を認めていました。フルトンは再びリビングストンの支援を受けて蒸気船を建造することになりました。フルトンはさっそく蒸気船の建造に取り掛かりました。蒸気機関本体は英国の会社から取り寄せ、全長42.8メートル、排水量80トンの外輪式蒸気船が完成しました。この蒸気船は「ノース・リバー・スティームボート」と名付けられ、リビングストンの所有地の名前に由来し「クラーモント」と呼ばれました。

フルトンとリビングストンとクラーモントのレプリカ
フルトン(上左)とリビングストン(上右)とクラーモントのレプリカ(下)

 フルトンとリンビングストンは蒸気船の公開実験を1807年8月17日に行いました。同日午後1時、クラーモントはニューヨークの岸壁を出発しハドソン川を遡って最初の目的地クラモントに向かいました。出港直後に外輪が停止しましたが調整を済ませると順調に走り出しました。翌18日午後1時にクラモントに到着、150マイル先の最終目的地オールバニには32時間後に到着しました。

 当時、通常の帆船ではニューヨークからオールバニまで4日間かかっていました。追い風を受けた場合は16時間で到着することができる帆船もありましたが風あっての快速でした。クラーモントが帰路に要した時間が30時間だったことから蒸気船が風や川の流れの影響を受けず安定した速度で航行できることを実証したのです。実験の成功後、同年9月4日にクラーモントによる営業運行を開始しました。

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2022年8月 7日 (日)

コンティキ号が太平洋漂流実験成功(1947年8月7日)

 南太平洋の島々に在住するポリネシア人の文明と南米のインカ文明の類似点が多く見られることから、かつて南米のアメリカ・インディアンが太平洋を渡ってポリネシアにやって来たのではないかという説がありました。

 ポリネシア人の祖先が南米のアメリカインディアンであれば当時の航海の技術で太平洋を渡ることができたことになります。このことを確かめるためノルウェーの人類学者トール・ヘイエルダールらは1947年にマストとキャビンを持つ大型の筏を建造しました。この筏はインカ帝国の太陽神ビラコチャの別名コンティキ号と名付けられました。コンティキ号はインカ帝国を征服したスペイン人の記録から復元されました。

 船を作る材料は当時でも入手が可能であった木材や麻などの植物が使われました。帆が張られているだけで動力を持たないコンティキ号が風と海流だけで南米からポリネシアまで漂流することができればポリネシア人の祖先がアメリカ・インディアンであった証拠のひとつになります。

 1947年4月28日、コンティキ号はペルー海軍の軍艦に曳航されてペルーのカヤオ港を出発しました。カヤオ港沖80キロメートルで海流に乗ってから自力で航海を開始しました。コンティキ号は西へ進み102日後の1947年8月7日に約8000キロメートル離れたポリネシアの環礁で座礁しました。つまり漂流で南米からポリネシアまで漂流できることを証明したのです。

コンティキ号
コンティキ号

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2022年7月14日 (木)

ペリー上陸記念日(1853年7月14日)

 日本の開国と通商条約を結ぶ目的でやってきたアメリカ合衆国のマシュー・カルブレイス・ペリーが率いる黒船の艦隊が浦賀沖に現れたのは1853年7月8日です。ペリーは江戸幕府の高官に親書を手渡すことを求めましたが、江戸幕府は浦賀奉行所の与力を派遣するだけでなかなか応じませんでした。そのためペリー江戸幕府に無断で浦賀港内の測量を始め7月11日には江戸湾内に侵入しました。これに驚いた江戸幕府は親書を受け取ることにし7月14日にペリーに久里浜への上陸を許可しました。幕府軍に警護されるなかで浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見し親書を受け取りました。この7月14日は「ペリー上陸記念日」とされています。久里浜にはペリー上陸を記念して建立され1901年7月14日に除幕されたペリー上陸記念碑があります。

合衆国水師提督口上書
合衆国水師提督口上書
艦長ヘンリー・アダムス副使、ペリー提督、司令官アナン軍使

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2022年7月 8日 (金)

黒船来航(1853年7月8日)

 嘉永6年(1853年)7月8日(嘉永6年6月3日)午後5時頃、神奈川県の浦賀沖に日本人がそれまで見たことのないような大きな黒塗りの船団が現れました。これらの船のうち2隻はロシアやイギリスの帆船の軍艦とは異なり蒸気機関を備え煙突から煙を吐き出していました。そしてそれぞれ1隻の帆船を従えていました。浦賀にはたくさんの見物客が集まりました。

 当時の人々が「黒船来航」と呼んだこの船団はアメリカ合衆国のマシュー・カルブレイス・ペリーが率いた艦隊で江戸幕府に開国させ通商関係を結ぶことを目的に日本にやって来ました。浦賀沖に停泊した艦隊は旗艦で蒸気フリゲート艦「サスケノハナ」、蒸気フリゲート艦「ミシシッピ」、帆船「サトラガ」、帆船「プリマス」の4隻でした。日本側の襲撃に備えて大砲を構えていました。砲撃の噂が伝わると見物客はいなくなり住民の間に不安が広がるようになりました。

 日本側は「黒船」を攻撃することはなく浦賀奉行は旗艦「サスケノハナ」に役人を派遣しました。艦隊の目的が徳川将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことであることを把握すると奉行は「サスケノハナ」を訪れました。しかし、ペリーは親書を渡す相手の階級が低すぎると親書を渡すことを拒絶しました。

 7月9日、ペリーは親書を渡す高位の役人を3日待つが身分の高い役人が派遣されなければ江戸湾から兵を率いて上陸し徳川将軍に親書を直接手渡しすると通告しました。そしてアメリカ合衆国に有利な通商条約を結ぶため日本を威嚇する目的で日本側に無断で浦賀港内の測量を始めました。さらに7月11日には「ミシシッピ」号を測量船の護衛の名目で江戸湾内に侵入させました。これに驚いた江戸幕府は親書を受け取ることにし長崎オランダ商館長から返事を出すよう浦賀奉行に指示しました。

 当時の徳川将軍は第12代征夷大将軍徳川家慶(いえよし)でしたが黒船来航のときには病で伏せていました。江戸幕府は7月14日に久里浜でペリーと会見し親書を受け取り、将軍が病気療養中で決断することができる状態にないので返事には1年間の猶予が欲しいことを伝えました。ペリーは外交上の交渉はせず江戸幕府の申し入れを聞き入れ1年後に再来日することにしました。

 7月15日、ペリーは「ミシシッピ」号に乗り換え江戸湾に入り江戸城に対して威嚇を行いました。艦隊は江戸幕府に事前通告をしたうえで江戸湾内でアメリカ独立記念日の祝砲や号砲の名目で砲撃を行いました。この砲撃は空砲であることが住民にも知らされていましたが、江戸の町は大混乱となりました。やがて空砲であることが広く伝わると住民たちは砲撃を楽しんだようです。

 7月17日、黒船は江戸を離れて帰っていきました。ペリーは最初の来航で日本を開国させ通商条約を結ばさせることはできませんでしたが、交渉を有利にするめるための大きな成果をあげました。

 なお将軍徳川家慶はペリーが日本を去った10日後の7月27日に亡くなりました。死因は熱中症による心不全と考えられています。

 ペリーは翌年1854年2月13日に再び浦賀に来航しました。1年間の猶予の約束より半年も早い来航でした。ペリーは将軍の死を知り江戸幕府が混乱中に交渉を有利に進めようと考えたのです。そして同年3月31日に日米和親条約が締結されたのです。 日本はこの黒船来航から明治維新における大政奉還までいわゆる幕末の混乱期に入ります。

1854年の黒船来航(リトグラフ)
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2022年6月28日 (火)

モリソン号事件と7人の日本人(1837年6月28日)

 天保8年(1837年)6月28日(旧暦)、三浦半島の東部の神奈川家の浦賀沖に大きな商船が現れました。浦賀奉行は異国船打払令に基づきこの商船に砲撃しました。商船はやむを得なく浦賀から退去しました。この商船はマカオからやってきたアメリカ合衆国のオリファント商会のモリソン号という商船でした。モリソン号は外国との友好を目的としていたため非武装だったため反撃できませんでしたが、幕府の砲弾が鉄球だったため大きな被害を受けることなく退去しました。その後、九州の薩摩に立ち寄り交渉しましたが空砲威嚇射撃を受けたためマカオへ戻りました。

アメリカ商船モリソン号
アメリカ商船モリソン号

 当時、多くの日本船が嵐で難破し、漂流した日本人が外国船に助けられる事例がしばしばありました。モリソン号は海難で外国船に救助されてマカオに滞在していた7人の日本人を送り届けると同時に日本と通商条約を結ぶ目的でやって来ました。しかしながら、幕府側はこのモリソン号の目的を理解しないまま追い返してしまったのです。無許可の上陸で特に問題視していたイギリス船と誤認されたとも言われています。

 天保9年(1838年)、長崎のオランダ商館長がオランダ風説書でモリソン号の日本渡来の目的を報告し、これによって幕府はモリソン号の目的を理解しました。このときモリソン号はイギリスの船と誤って伝わりました。幕府内では漂流民をオランダ船で返還させる、通商と引き換えの場合は返還の必要なし、モリソン号が再来したときは攻撃する、漂流民を返還してきた場合はむやみに打ち払うべきではないなどの意見が出ました。最終的には幕府の最高司法機関である評定所は「漂流民受け取りの必要なし。モリソン号再来の場合はふたたび打ち払うべし」という厳しい結論に達しましたが、幕府内では穏便に解決するという意見も多く漂流民はオランダ船に送還させることになりました。

 さてモリソン号には7人の日本人漂流民が乗っていました。その7人とは音吉、岩吉、久吉の3人と庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松ら4人です。

 音吉、岩吉、久吉は天保3年(1832年)に鳥羽から江戸に向けて米などを運ぶ宝順丸に乗っていましたがこの船が遠州灘で海難事故に遭い太平洋を漂流しました。何とか生き延びることができた音吉ら3人はシアトル近くのアメリカ大陸のオリンピック半島にたどり着き現地人に救助されましたが、その後は奴隷のように扱われイギリス船に売り飛ばされました。音吉たちはロンドンまで連れていかれ船上で滞在していましたが1日だけ上陸を許可されロンドン市内を見学しました。音吉らが初めてロンドンの街を訪れた日本人と考えられています。このことはすぐにロンドンに報告され、3人は日本に送還されることになり天保6年(1835年)にマカオまで連れていかれました。ここで3人はイギリス貿易監督庁で通訳をしていた宣教師に預けられ現存する世界初の日本語訳聖書「ギュツラフ訳聖書」の作成を行いました。

 天保8年(1837年)、九州出身の漂流民の庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松がスペインの船でマカオにやって来ました。庄蔵ら4人は天保5年(1834年)に庄蔵が船頭を務める船で天草から長崎まで向かいましたが海難事故に遭い漂流しルソン島にたどり着きまいた。庄蔵ら4人は現地人に保護されスペイン船に引き渡されていたのです。

 異国の地マカオで出会った音吉ら3人と庄蔵ら4人はアメリカ商船モリソン号で日本に送還されることになりました。天保8年(1837年)6月2日(旧暦)にマカオを出発しましたが、モリソン号が追い返されたことから7人は帰国することができませんでした。

 音吉はその後アメリカを訪れたという説がありますがその後は上海でアヘン戦争にイギリス兵として従軍したとされています。その後、イギリス人が開いたテント商会で働きイギリス人女性と結婚しています。この妻との間に娘が産まれましたが不幸にも妻も娘も亡くなってしまいます。音吉は嘉永2年(1849年)に再び浦賀を訪れます。このときはイギリス東インド会社艦隊の帆船マリナー号の日本語通訳を務めていますが自身が日本人であることは明かさず中国人の林阿多いう偽名を使っています。その後も通訳として日本を訪れ福沢諭吉などとも会っています。日本への帰国を勧められましたが上海での暮らしがあるため断っています。音吉はテント商会で働いていたシンガポール出身の女性と再婚し、シンガポールに移住します。そこでイギリスに帰化してジョン・マシュー・オトソンと名乗りました。

 音吉以外の仲間の多くは亡くなったり行方がわからなくなりましたが、庄蔵と力松はマカオから香港に移り住んでします。音吉をはじめとした7人は日本人漂流民を救って日本に送還する活動をしていたそうです。

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米国捕鯨船マンハッタン号が日本に寄港(1845年4月18日)

ゴールドラッシュデー(1848年1月24日)

ジョン万次郎が帰国(1851年1月3日)

 

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