カテゴリー「船舶」の40件の記事

2024年6月 4日 (火)

松前藩がゴローニンを捕縛|ゴローニン事件(1811年6月4日)

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 1807年7月、北太平洋地域の調査の命令を受けたロシア軍艦スループ船ディアナ号の艦長ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン海軍大尉はサンクトペテルブルク沖合フィンランド湾に浮かぶコトリン島クロンシュタットからカムチャッカまでの世界一周航海に出ました。ディアナ号は赤道を越えてブラジルに向かいました。1808年4月、アフリカ大陸の喜望峰からアジアに向かおうとしたところで英露戦争の影響によりイギリス軍に拿捕されました。ディアナ号はここで1年以上も拘留されましたが1809年5月に視界不良と順風が重なった日に逃亡しました。ダイアナ号は1810年にカムチャッカに到着しました。

ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン
ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン

 文化8年(1811年)、ディアナ号はカムチャッカのペトロパブロフスクから千島列島南部の測量に向かいました。同年5月に択捉島の北側から上陸したところ千島アイヌ漂流民の護送をしていた松前奉行所調役下役の石坂武兵衛と出会いました。ゴローニンが薪水の補給を要請すると武兵衛は振別会所に赴くよう指示しました。ところが天候が悪く逆風であったことや当時未開地であった根室海峡にも関心があったためゴローニンは振別には向かわず国後島の南部に向かいました。

 5月27日、ディアナ号が泊湾に入港したところ国後陣屋の松前奉行支配調役の奈佐瀬左衛門が砲撃で警告すると、ゴローニンは補給を要請しました。6月3日に武装した日本の役人に陣屋に赴くよう指示され、6月4日、ゴローニン、フョードル・ムール少尉、アンドレ・フレブニコフ航海士をはじめとする水夫らが陣屋を訪問しました。国後陣屋はゴローニンらを接待し松前奉行に補給の許可を得るまで人質を預けるよう要求しましたが、ゴローニンがこれを無視してディアナ号に引き上げようとしたためゴローニンらを捕縛しました。

 これを受けてディアナ号副艦長ピョートル・リコルドはゴローニンらを救出するため国後陣屋を砲撃しましたが逆に彼らの身が危うくなる可能性があることから救出を断念しオホーツクへ戻りました。

 その後、ゴローニンらは陸路で箱館に連行されました。7月2日に箱館に到着し箱館詰吟味役の大島栄次郎の予備尋問を受け、8月25日に松前で監禁されました。松前奉行の荒尾成章の取り調べの結果、ゴローニンは文化3年(1806年)と文化4年(1807年)の文化露寇の事件(フヴォストフ事件)とは無関係であることが判明し幕府に対してゴローニンらの釈放を上申しましたが却下されたのです。

 この続きはまた別の機会に。

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2024年6月 2日 (日)

横浜港の開港記念日(1859年6月2日)

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 安政5年(1858年)に幕府がアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5ヵ国と結んだ安政五カ国条約によってそれまで開港されていた下田と箱館に加えて横浜港と長崎港が開港されることになりました。

 横浜港は安政6年6月2日(1859年7月1日)に日露修好通商条約、日英修好通商条約、安政6年6月5日(1859年7月4日)に日米修好通商条約、日蘭修好通商条約、安政6年7月17日(1859年8月15日)に日仏修好通商条約に基づいて開港されることになっていまし。それぞれの条約には最恵国待遇が定められていたため最も早く開港された安政6年6月2日(1859年7月1日)に5カ国に対して開港されました。

明治時代の横浜港
明治時代の横浜港

 幕府は開港日に祝賀行事などを行いませんでしたが翌年の万延元年6月2日(1860年7月19日)に洲干弁天社で開港1周年の祝賀祭が盛大に行われました。以降、この日が開港記念日となりました。明治42年(1909年)の開港50周年で記念事業が新暦7月1日に行われ、大将7年(1918年)には7月1日が開校記念日と定められました。しかし、昭和3年(1928年)には開港記念日を7月1日から6月2日にすることになり新暦6月2日が開校記念日となりました。

 長崎港は古くから開港されており開港記念日は天正16年4月2日(1588年4月27日)に豊臣秀吉が鍋島直茂を長崎代官に任命したことに由来します。

 また6月2日は「横浜カレー記念日」でもあります。横浜開港のときに日本にカレーがやって来たことに由来し「横濱カレーミュージアム」が制定しました。

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2024年4月30日 (火)

軍艦行進曲の初演(1900年4月30日)

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 「軍艦行進曲」は明治26年(1893年)に鳥山啓が作詞した「軍艦」に明治30年(1897年)に瀬戸口藤吉が曲をつけたものです。明治33年(1900年)4月30日に神戸沖で行われた観艦式へ向かう常備艦隊旗艦の戦艦「富士」の軍楽隊によって初演されたと伝えられています。

常備艦隊旗艦の戦艦「富士」
常備艦隊旗艦の戦艦「富士」

 しかしながら、当時の記録から旗艦「富士」で伝染病患者が出たため観艦式には参加していないことがわかりました。「富士」の代わりに明治天皇の御召艦として出港したのは装甲巡洋艦「浅間」でした。このとき「浅間」で楽曲を演奏したのは横須賀から呼び寄せた軍楽隊だったようです。もし軍艦行進曲の初演が明治33年(1900年)4月30日であれば「浅間」行われたことになります。

装甲巡洋艦「浅間」
装甲巡洋艦「浅間」

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2024年4月22日 (月)

空母「赤城」進水(1925年4月22日)

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 赤城は大日本帝国海軍の航空母艦です。赤城はもともと艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を中核戦力とする日本海軍の建艦計画「八八艦隊計画」で天城型巡洋戦艦の2番艦として大正9年(1920年)に建造が始まりました。しかしながら第一次世界大戦後の1921年にワシントンD.C.で開かれた国際軍縮会議「ワシントン会議」で軍縮条約が締結されたため軍艦としての赤城の建造は中止となり、航空母艦に改造されることになりました。

 艦名の赤城は群馬県前橋市の赤城山に因みますが赤城の名を持つ日本海軍の軍艦としては2代目になります。赤城は巡洋戦艦の命名基準に従って山の名前が付けられその名前のまま航空母艦に改造されました。航空母艦の命名基準は鳳・龍・鶴・鷹など神話などに登場する空を飛ぶ瑞祥動物が付けられますが、航空母艦の命名基準がで明確に規定されたのは昭和8年です。

 赤城は完成していた巡洋戦艦をイギリス海軍カレイジャス級巡洋戦艦改造空母フューリアスを参考に三段式航空母艦に改造されました。上段と下段が飛行甲板で中段は20cm連装砲2基と艦橋が設置されていました。下段の甲板は小型機の発艦のみに使用され、大型機の発艦と全機の着艦は上段の甲板で行われました。

新造後の赤城
新造後の赤城

 赤城の進水は大正14年(1925年)4月22日、昭和2年(1927年)3月25日に竣工しました。昭和3年(1928年)6月に東郷平八郎元帥と岡田啓介海軍大臣らが赤城の航空訓練を視察しました。昭和4年(1929年)には後に連合艦隊司令長官となる山本五十六大佐が艦長に着任しました。

 航空機の性能が向上すると赤城の飛行甲板は滑走距離が不十分となりました。昭和13年(1938年)に大改装を行い上段を全通式の飛行甲板としました。中断と下段は格納庫となり常用と補用を含めた搭載機数が増えました。

改装後の赤城
改装後の赤城

 改装が完了した赤城は第一航空戦隊旗艦として支那事変に派遣し海軍陸戦隊や陸軍の上陸を支援し帰投しました。この支那事変をきっかけに太平洋戦争が始まります。赤城は昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃に機動部隊の旗艦として参加、艦載機が真珠湾に停泊中のアメリカ海軍太平洋艦隊を奇襲しました。任務を終えた赤城は同年12月24日に日本本土に帰着しました。

 昭和17年(1942年)6月、赤城はミッドウェー島攻略のためミッドウェイ作戦に参加しました。赤城は同年6月5日午前1時30分にこの作戦の前哨戦とも言えるミッドウェイ海戦に参戦、艦載機がミッドウェー島アメリカ軍基地に向けて発艦しました。同日早朝に空母を含む敵艦隊発見の報告が入り、赤城はミッドウエイ島の攻撃を中止し敵艦隊攻撃のための魚雷兵装の準備を始めました。

 この準備中に米国戦闘機の攻撃を受けると、魚雷を装備し燃料を満タンにした赤城の九七艦攻および取り外したミッドウェー島爆撃用の爆弾が誘爆を始めました。懸命な対応にも関わらず赤城は内部からの大火災で午後4時20分に自力航行不可能となり総員退去しました。赤城は無人のまま漂流を続け、やがて全て燃え尽きる焼け焦げた姿となりました。赤城に対する撃沈の命令が出され同年6日午前2時、嵐、野分、萩風、舞風の第四駆逐隊の各艦が赤城右舷に魚雷を1本ずつ発射しました。昭和17年(1942年)6月6日午前2時10分、この味方駆逐艦による雷撃処分により赤城は艦尾から沈没していきました。

 2019年、ポールアレン財団は深海調査船ペトレルが中部太平洋(北緯30度30分、西経178度40分付近)の水深5,490メートルの海底に沈没ししている赤城を発見、2023年9月11日にロバート・バラードの海洋調査船EVノーチラスがミッドウェー海戦以来81年ぶりに赤城を発見し、その姿を映像で捉えました。

 

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2024年4月11日 (木)

幕府が軍艦教授所(軍艦操練所)を設立(1857年4月11日)

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 嘉永6年(1853年)の黒船来航により幕府は洋式軍艦の建造と艦隊の所有を決めた。幕府は最初の海軍教育機関としてオランダの協力を得て安政2年(1855年)に長崎海軍伝習所を設立した。長崎海軍伝習所の初代総監理には永井尚志が就任、オランダから教員が派遣され蒸気船の観光丸が練習船として供与された。伝習所の最初の目的はオランダに発注した咸臨丸と朝陽丸の乗組員養成であり、勝海舟、矢田堀景蔵、中島三郎など第一期生37名が入校した。このとき榎本釜次郎(武陽)も入校を希望したが叶わず聴講生となり翌年第二期生として入校している。

 幕府は海軍の教育機関を江戸築地の武芸訓練機関である講武所にも設置することを決め長崎海軍伝習所から永井尚志と一部の伝習生を観光丸とともに呼び寄せ安政4年4月11日(1857年5月4日)に軍艦教授所を設置した。

 軍艦教授所と長崎海軍伝習所は併設されていたが安政6年(1859年)に長崎海軍伝習所は閉鎖され軍艦教授所が主たる海軍教育機関となった。当初は幕臣向けの教育機関であったが諸藩から藩士も受け入れるようになった。元治元年(1864年)には軍艦操練所と改称された。同年、付近の火災の延焼で施設の大半が焼失したが小栗忠順らが直ちに再建した。

 次の図は二代目の歌川国輝の明治2年の作品の東京築地鉄砲洲景であるが右側の大型船のあるやや下が海軍操練所である。

 軍艦操練所は勝海舟など長崎海軍伝習所の卒業生が教官となった。榎本武揚は安政5年(1858年)に教授となった。短期間ではあるがジョン万次郎も教授を務めた関係で武陽はジョン万次郎の私塾で英語を習い、この私塾で大鳥圭介に出会っている。

 軍艦操練所の練習艦は観光丸、咸臨丸、朝陽丸の蒸気船、鵬翔丸、昌平丸、君沢形などの帆船が使用された。万延元年遣米使節派遣の際には
咸臨丸で勝海舟をはじめとする教官たちが乗艦している。

 軍艦操練所は軍艦所と改称され慶応2年(1866年)には幕府海軍の行政機関の役割を果たすようになりとしての機能も追加されて海軍所となった。慶応3年(1867年)に再び火災で焼失し、海軍所は築地から浜御殿へ移転した。イギリスの顧問団による教育が計画されたが江戸幕府の終焉により実現しなかった。

 

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2024年4月 9日 (火)

イギリス軍艦マリーナ号が浦賀で測量開始(1849年4月9日)

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 マシュー・ペリー提督の黒船来航より4年前の嘉永2年4月(1849年5月)、相模湾にイギリス軍艦マリーナ号が現れました。すぐに日本船が近づき役人がマリーナ号に乗り入れ湾内に進まないよう警告しました。マリーナ号は役人を乗せたまま浦賀水道に入り投錨しました。武装した日本船が現れたためマリーナ号も警戒態勢を取りました。この船には1837年に来航したアメリカのモリソン号が日本に送り返そうとした漂流者の音吉が通詞として乗船していました。このとき音吉は異国と交わり法を犯した罪で幕府に捕まることをおそれ中国人と称したようです。

 同年4月9日(同年5月30日)、薪と水を積載した日本の小船が現れたためマリーナ号艦長は役人に幕府高官に日本語の名刺を届けるよう依頼しましたが役人は物資補給が任務であり異国人との交渉は違法であるとして断りました。役人の警告にも拘わらず、マリーナ号はこの日から浦賀付近の測量を始めました。

 翌日10日に役人がマリーナ号を訪れ直ちに退去するよう求めましたがこの日の午前中は風向きが悪いため出港することができませんでした。マリーナ号は午前11時30分頃に浦賀を出港しましたが、そのまま相模湾から退去せず江戸湾に向かい測量を行いました。マリーナ号は翌日も測量を続けた後、下田湾に向かい下田に上陸しました。役人はマリーナ号に直ちに退去するよう伝えました。マリーナ号は多くの地点に上陸しながら測量を続けました。役人はこれを警戒していましたがマリーナ号が攻撃や略奪をしないことを理解すると黙認しました。

 マリーナ号が測量をし続けるため幕府は韮山代官の江川英龍(えがわひでたつ)にマリーナ号を追い払うよう要請しました。英龍は大筒小銃を備えて約40人の兵士を引き連れて下田に向かいました。4月16日、英龍はマリーナ号艦長に対して紳士的に対応し、日本は異国と交渉はしないので速やかに退去するよう求めました。艦長も英龍の要請を了承しましたがこの日は天候不良で出港できませんでした。翌日17日にマリーナ号は錨を上げて日本の小船に曳航され下田湾から出港しました。

音吉と江川英龍
音吉と江川英龍

【関連記事】

モリソン号事件と7人の日本人(1837年6月28日)

米国捕鯨船マンハッタン号が日本に寄港(1845年4月18日)

ジョン万次郎が帰国(1851年1月3日)

黒船来航(1853年7月8日旧暦6月3日)

マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)

黒船来航から箱館戦争まで関わった中島三郎助

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2024年3月31日 (日)

ホタルナ(東京都観光汽船)|隅田川の宇宙船のような水上バス

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 隅田川テラスを歩いていたら宇宙船のようなデザインの水上バスが通り過ぎていきました。この水上バスは東京都観光汽船が運用するホタルナです。

ホタルナ(東京都観光汽船)
ホタルナ(東京都観光汽船)

 ホタルナの宇宙船のようなデザインを担当したのは松本零士先生です。流線型のボディにガルウィングのドアは松本零士先生の漫画やアニメに登場するような宇宙船のようです。船体屋上の屋上デッキに出ることも可能です。ホタルナの名前は隅田川ホタルと月の光に由来しているそうです。

ホタルナ(東京都観光汽船)
ホタルナ(東京都観光汽船)

 松本零士先生がデザインした同型でやや形が異なる「ヒミコ」「エメラルダス」も就航しています。

 

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2024年3月16日 (土)

リーフデ号事件(1600年3月16日)

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 慶長5年3月16日(1600年4月29日)に豊後国にオランダの商船リーフデ号が漂着しました。天下分け目の「関ヶ原の戦い」の約半年前の出来事でした。政治的にも軍事的にも緊張感が高まる中で、リーフデ号は日本に初めて到着したオランダ船でした。

リーフデ号の模型
リーフデ号の模型

 リーフデ号は司令官ヤックス・マフが率いる5隻の船団の一隻として1598年6月24日にネーデルラント連邦共和国のロッテルダムを出航しました。船団は大西洋を南西に向かいマゼラン海峡を通り抜けて太平洋に出たところで悪天候に遭い離ればなれになりました。その後、リーフデ号は単独で航海を続けていましたがチリの南部の沖合で船団の旗艦ホープ号に再会しました。積荷が日本で高く売れると情報を得た2隻は日本に向かいましたが途上でホープ号は沈没してしまいリーフデ号は再び単独航海となりました。

 リーフデ号が日本に漂着した場所は臼杵湾の黒島とされています。出港時の乗組員は約110人でしたが日本に漂着したときには24人となっていました。病にかかっていた乗組員も多く最終的に生存したのは14人とも伝えられています。乗組員たちは自力で上陸することができず、臼杵城主の太田一吉が派遣した小舟に救助されました。一吉から報告を受けた長崎奉行の寺沢広高は乗組員たちの拘束を決め、船内の武器弾薬を没収しました。イエズス会宣教師たちはリーフデ号は海賊船であるとして乗組員を処刑するよう要求しました。

 広高は豊臣秀頼の支持を仰ぎ大老の徳川家康の支持で乗組員とリーフデ号を大阪に移送しました。このときリーフデ号船長ヤコブ・クワッケルナックは重体だったためイングランド人のウィリアム・アダムス、オランダ人のヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルヒオール・ファン・サントフォールトらが大阪に向かいました。

 家康が彼らと初めて会見したのは同年3月30日(同年5月12日)でした。イエズス会宣教師らの報告で家康はリーフデ号を海賊船と考えていましたが、アダムスから航海の目的やカトリックを支持する国(ポルトガル・スペイン)とプロテスタントを支持する国(オランダとイングランド)の紛争や世界情勢などの話を聞き彼らは海賊ではないと判断しました。その後、何度かの会見を経て家康は彼らを釈放し江戸に呼び寄せました。ヤン=ヨーステンとアダムスは幕府の外交顧問となりました。2人は家康に高く評価されました。リーフデ号に搭載されていた武器弾薬は「関ヶ原の戦い」で使われたと伝えられいます。

徳川家康とアダムスたちの会見
徳川家康とアダムスたちの会見

 ヤン=ヨーステンは日本人と結婚し、江戸城の内堀に屋敷を構えました。この地はヤン=ヨーステンの名から八重洲と呼ばれるようになりました。ヤン=ヨーステンは東南アジアで貿易を行いながらオランダへの帰国を模索しましたが叶わず日本へ帰国する途上で船が座礁し死亡しました。

 アダムスも日本人と結婚し外交顧問を行いながら家康の側近に西洋の学問や航海術を教えました。幕府は造船の経験が豊富なアダムスに西洋式帆船の建造を依頼しました。伊東に日本初の造船ドックを建造し慶長9年(1604年)に西洋式帆船を完成させました。これを見た家康は大型船の建造を指示しました。アダムスは慶長12年(1607年)に家康が希望する大型船を完成させました。家康はアダムスの功績を高く評価し、アダムスを旗本に取り立て相模国逸見に領地を与え三浦按針と名乗らせました。三浦の由来は三浦郡、按針は水先案内人に由来します。家康が死去すると幕府は鎖国を強化し始めました。アダムスはこれに反対しましたが聞き入られず幕府の中心から遠ざけられました。

 クワッケルナックとサントフォールトは当初からオランダへの帰国を希望していましたが許可が降りるまで5年かかりました。1605年12月にオランダに向けて出港しましたがクワッケルナックはマレー半島で死亡、サントフォールトは日本に戻り貿易を行うようになりました。

 リーフデ号の生存者でオランダに帰国したものはおらず日本人女性と結婚し日本で暮らしました。オランダはキリスト教の宣教より貿易を重視しており、家康に始まる徳川幕府はオランダとの貿易は続けました。この背景にリーフデ号の日本への漂着、家康とアダムスやヤン=ヨーステンの出会い、乗組員たちの日本への貢献があったのです。

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2024年2月 3日 (土)

ロシア軍艦対馬占領事件(1861年2月3日)

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 文久元年2月3日(1861年3月14日)、長崎県の対馬沖に異国の軍艦が現れました。まもなく尾崎浦に投錨し測量を始め浅茅湾内に侵入してきました。この軍艦はロシア帝国海軍中尉ニコライ・ビリリョフ艦長が指揮する軍艦ポサードニクでした。

ボヤーリン級コルベット11番艦ポサードニク
ボヤーリン級コルベット11番艦ポサードニク

 ロシアは国土の大部分が北半球の高緯度に位置するため冬季になると海面が凍結する地域が多く海洋進出に支障をきたしていました。そのため年間を通じて凍結することのない不凍港を獲得するため南方へ侵出する政策を取りました。ロシア中国海域艦隊のワン・リハチョーフ司令官は不凍港を確保するため対馬に拠点を築くことを進言しましたが、ロシア政府は日本との関係の悪化を避けるため却下しました。しかし、海軍大臣のコンスタンチン・ニコラエヴィチが対馬への艦隊派遣を許可したため、リハチョーフ司令官はビリリョフ艦長にポサードニクで対馬に向かうよう命じました。

 対馬国府中藩15代藩主の宗義和はポサードニクに対して速やかに退去するよう要請しましたが、ビリリョフ艦長は難破による修理のために寄港したと虚偽の返答をし、修理に必要な資材や食料などの提供を求めました。そして同年3月4日に芋崎に無断で上陸すると兵舎の建設を行い、さらには船の修理工場や練兵場の建設まで始めたのです。

ニコライ・ビリリョフと宗義和
ニコライ・ビリリョフと宗義和

 藩内では攘夷派と穏健派の間で意見が対立しましたが、義和は事を荒立てることを避けポサードニクに役人を派遣し不法行為を訴えました。しかしビリリョフ艦長は軍事力による示威行動を行い略奪を始めました。これによって住民との間で紛争がおきました。

 ビリリョフ艦長は対馬藩に対し藩主との面会を求めました。義和に芋崎の租借を認めさせるのが目的でした。対馬藩が租借を認めると幕府もロシアの拠点を認めざるを得なくなるだろうと考えたのです。義和は面会の要求を断り幕府の指示を仰ぎました。

 同年4月1、ロシア兵と藩兵の間で小競り合いがあり、ロシア兵は藩兵を射殺し他2名を捕虜として捕らえ軍艦に連行しました。ロシア兵はさらなる略奪を行いました。対馬藩は紛争を回避しながら防衛策を取りビリリョフ艦長にポサードニクを速やかに退去させるよう求めました。長崎奉行もビリリョフ艦長に不法行為の書簡を送り周辺の諸藩に状況を調査させましたが解決の糸口は見つかりませんでした。

 この事態に対して幕府は箱館奉行の村垣範正を通じて箱館ロシア総領事ヨシフ・ゴシケーヴィチにポサードニクの退去を要請、また外国奉行の小栗忠順を対馬に派遣しました。文久元年5月7日に咸臨丸で対馬に到着した忠順はビリリョフ艦長と会見を繰り返しましたが交渉は膠着しました。忠順は交渉を諦め5月20日に対馬を離れ江戸に戻りました。忠順は対馬を直轄地すること、正式な外交交渉で話を進めること、国際世論に訴えて必要とあらばイギリス海軍の協力を得ることを提案しましたが幕府はこれを聞き入れず忠順は外国奉行を辞任しました。

 交渉は暗礁に乗り上げ義和はビリリョフ艦長と会見さざるを得なくなりました。5月26日に行われた会見ではビリリョフ艦長は長期滞在を礼を言い武器、望遠鏡、家畜などを献上したうえで、大砲の献上と島の警備協力をする代わりに芋崎の永久租借を要求してきました。義和は交渉は幕府と直接するように伝え会見を終えました。しかしながら幕府も行き詰まっていました。

 事態を解決に導いたのはイギリスでした。同年7月9日、イギリス公使のラザフォード・オールコックとイギリス海軍中将ジェームズ・ホープがイギリス海軍によるロシア軍艦退去を幕府に提案してきました。幕府はイギリスに協力を要請、23日にイギリス東洋艦隊の軍艦エンカウンターとリンドーブがポサードニクに対して示威行動を行いました。このイギリスの干渉を箱館奉行を通じて知ったゴシケーヴィチは軍艦ヲフルチニックを対馬に派遣しビリリョフ艦長に退去するよう命じました。文久元年8月15日(1861年9月19日)、ポサードニクは対馬から退去したのです。

 幕府は対馬に外国奉行を派遣しロシアの施設を破壊しました。オールコックがが協力を申し出た背景にはロシア軍艦の駆逐もありますが、イギリスによる対馬占領も念頭にあったようです。対馬藩は文久2年(1862年)に長州藩と同盟し、翌年には孝明天皇より攘夷の勅許を得ています。

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2024年1月23日 (火)

ペリー提督日本遠征記 (角川ソフィア文庫)

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ペリー提督日本遠征記 (上) (角川ソフィア文庫)

ペリー提督日本遠征記 (下) (角川ソフィア文庫)

M・C・ペリー (著)、F・L・ホークス (編集)、宮崎 壽子 (翻訳)

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  幕末の混乱と明治維新はアメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督の黒船来航がきっかけでした。本書はペリー提督が1852年から1854年にかて日本に来航したときの記録をまとめたものです。ペリー提督がまとめた報告書に乗組士官の覚書を加えたた文書をF.L.ホークスが編纂し1856年に出版されました。

ペリー提督がノーフォークを出港し大西洋回りで日本にやってくるまでのこと、嘉永6年(1853年)の琉球来航、小笠原探検、浦賀来航、嘉永7年(1854年)の再来航など様子が詳しく記録されています。米国人から見た幕府や江戸の様子が書かれています。嘉永6年(1853年)の浦賀来航では中島三郎助とのやり取りが詳細に書かれており興味深いです。

【出版社の説明】

 喜望峰をめぐる大航海の末ペリー艦隊が日本に到着、幕府に国書を手渡すまでの克明な記録。当時の琉球王朝や庶民の姿、小笠原をめぐる各国のせめぎあいを描く。美しい図版も多数収録、読みやすい完全翻訳版!

出版社 ‏ : ‎ KADOKAWA/角川学芸出版 (2014/8/23)
発売日 ‏ : ‎ 2014/8/23
言語 ‏ : ‎ 日本語
文庫 ‏ : ‎ 643ページ
ISBN-10 ‏ : ‎ 4044092125
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4044092122
寸法 ‏ : ‎ 10.6 x 2.5 x 15 cm

 


ペリー提督日本遠征記 (上) (角川ソフィア文庫)
ペリー提督日本遠征記 (下) (角川ソフィア文庫)

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