カテゴリー「写真」の3件の記事

2025年3月 5日 (水)

ミスコンの日(明治41年 1908年3月5日)

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 日本で初めて行われたミス・コンテストは明治24年(1891年)に浅草の凌雲閣が企画した「東京百美人」です。写真家の小川一眞が特設の撮影スタジオで撮影した芸者約100人の写真を凌雲閣の階段の壁に貼り来場者の投票により上位5人が選ばれました。写真集も出版され入選を逃した当時17歳の「洗い髪お妻」こと枡田屋小つま(安達ツギ)が大人気となりモデルとして活動しました。

「洗い髪お妻」こと枡田屋小つま
「洗い髪お妻」こと枡田屋小つま

 「ミスコンの日」の由来となったのは明治41年(1908年)3月5日に時事新報が行った一般女性を対象とするミス・コンテスト「全国美人写真審査」です。「全国美人写真審査」はアメリカのシカゴ・トリビューン紙主催「世界美人コンクール」の日本予選として開催されたもので芸妓、女優、モデルは参加不可とされました。時事新報は明治40年(1907年)に全国22社の新聞社と協力して日本各地で一次審査を行い各地域から5名ずつ全国で215名の候補者を選びました。明治41年(1908年)2月29日に時事新報社にて実施した2次審査が行われ12人が選ばれました。1等賞となったのは当時16歳の福岡県小倉市(北九州市)の末弘ヒロ子が選ばれました。同年3月5日に入賞者が紙上掲載されたことに由来し3月5日が「ミス・コンテストの日」に制定されました。ヒロ子の写真はシカゴ・トリビューン紙に日本代表として掲載送られました。

末弘ヒロ子
末弘ヒロ子

 当時、ヒロ子は学習院女学部に在籍していましたが、学習院の院長を務めていた乃木希典はコンテストに出場したヒロ子を問題視しました。ヒロ子は諭旨退学処分とされ退学しました。しかし実際にはヒロ子をコンテストに応募したのは義兄であり本人ではありませんでした。乃木は処分が間違えだったことに気がつきヒロ子の名誉を回復しなければならないと考えました。乃木はヒロ子に良い縁談を紹介しようとしましたが小倉市長の娘に相応な人物を見つけることができずにいました。このとき陸軍大将で侯爵の野津道貫が乃木に長男で陸軍少佐の野津鎮之助を紹介しました。ヒロ子と家族は侯爵の嗣子との縁談に喜び鎮之助もヒロ子を気に入ったことから乃木が媒酌人とって結婚しました。

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2022年11月18日 (金)

実用的写真術を発明|ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールの誕生日(1787年11月18日)

 1787年11月18日は世界で初めて実用的な写真技術を発明したフランスの画家・写真家のルイ・ジャック・マンデ・ダゲールの誕生日です。

 ダゲールは若い頃にパノラマ画家ピエール・プレボに師事し、建築、劇場の舞台美術、パノラマ画を学びました。タゲールは優れた劇場イリュージョン技術により劇場設計者として有名になり、1822年7月にパリでジオラマ劇場を開きました。

ダゲレオタイプで撮影したダゲールの肖像写真
ダゲレオタイプで撮影したダゲールの肖像写真

 同じ頃、写真の技術の基礎となる印刷技術ヘリオグラフィを発明したフランスのニセフォール・ニエプスはカメラ・オブスクラの画像を写真に残す技術の開発を始めました。写真の撮影はすぐに成功したものの長く定着させることができるまで数年かかりました。何とか画像を写真として残すことができるようになりましたが、写真を撮影するのに非常に長い露出時間を要するためこの写真技術は実用的なものではありませんでした。

 1829年、ニエプスは自身が発明した写真技術を実用化するためダゲールと共同研究を始めました。そして光化学反応で変色する銀化合物を写真に利用することに成功しました。しかしながらニエプスは研究途上の1833年にこの世を去りました。ダゲールは単独で研究を継続し、ついに銀板写真法を発明し1839年に発表しました。この写真技術はダゲレオタイプと呼ばれ、10~20分の露光時間で写真を撮影することができました。フランスの科学者フランソワ・アラゴはこの実用的な写真撮影法を政府に推薦しました。ダゲールは政府から終身年金を受け取るかわりにダゲレオタイプを公開しました。これによってタゲレオタイプは世界中に広まりました。

 ダゲールがこの世を去ったのは1851年7月10日、有益な技術を研究開発した科学者として彼の名前はエッフェル塔に刻まれています。

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写真技術の先駆者 ジョセフ・ニセフォール・ニエプス没

カメラ発明の日(1839年8月19日)

カメラ発明の日は3月19日ではなく8月19日

写真の日(6月1日)

カメラと写真の仕組み

ピンホール現象とカメラオブスクラ 写真の仕組み(1)

カメラオブスクラの像を写真に残す 写真の仕組み(2)

白黒写真の仕組み 写真の仕組み(3)

カラー写真の始まり 写真の仕組み(4)

加色法によるカラー写真の仕組み 写真の仕組み(5)

減色法によるカラー写真の仕組み 写真の仕組み(6)

 

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2021年11月26日 (金)

世界初のインスタントカメラ発売(1948年11月26日)

 カメラの基本原理であるピンホール現象は紀元前3世紀から6世紀頃にまとめられたアリストテレスの「問題集」の中に言及があり、最初は太陽の観察などに利用されました。人物や景色などを模写する目的のカメラの原型カメラオブスクラが登場したのは15世紀頃です。

 このカメラオブスクラはスクリーンに映った像を眺めるだけで、像を写真として残すことはできませんでした。その後、感光材が発見され世界初の銀塩写真が撮影されたのは1822年です。その後、カメラと感光材が改良され1839年にジルー・タゲレオタイプというカメラが開発されました。しかし、最初のカメラは写真を撮影するのに長い露光時間を必要としました。わずかな時間で写真が撮影できるようになったのは1871年以降です。

 銀塩カメラの写真を得るには撮影したフィルムに現像・定着・停止といった操作を行い、印画紙に焼き付ける必要があります。写真屋さんにフィルムを持ち込んでプリントしてもらう必要があり、現在のデジカメで当たり前にできている撮影直後に写真を見ることはできなかったのです。

 米国の科学者・発明家のエドウィン・ハーバート・ランドは自身が発明した偏向フィルムを事業化するため研究所を設立しました。サングラスやカメラのフィルターなどを開発し事業は成功を収め、1937年に社名を「ポラロイド」に変更し、偏光フィルムをポラロイドという名前で売り出しました。このポラロイドは光学分野でさまざまな目的で使用されるようになり、ポラロイド社は広く光学分野の仕事を手掛けるようになりました。

 1940年代半ば、ランドは3歳の長女ジェニファーを連れてニューメキシコ州サンタフェに旅行しました。ランドがジェニファーの写真を撮影すると、ジェニファーは「どうして撮ったばかりの写真を見ることができないの?」と言いました。この娘の言葉でランドはインスタントカメラを思いつきました。ランドはさっそくインスタントカメラの研究を始め、フィルムだけで現像から停止までが行える拡散転写法という写真技術を発明しました。

 1947年2月21日、ランドはアメリカ光学学会でインスタントカメラのデモンストレーションを行いました。そして1948年11月26日、ポラロイド社は「ポラロイドランド95」と名付けたインスタントカメラをボストンのデパートで発売しました。このときポラロイド社はこのカメラを60台生産し3台を確保、残り57台を発売しましたが初日に完売したそうです。撮影してすぐに写真を見ることができるポラロイドカメラはその後も改良が重ねられ、1960年代には全世界で販売されるようになりました。

ランドとポラロイド635
ランドとポラロイド635

 カメラのディスプレイで撮影直後の写真を見ることができるデジカメが主流になると、ポラロイドカメラはほとんど使われなくなりました。しかしながら、銀塩カメラの常識を打ち破って登場したインスタントカメラはランドの娘の素朴な疑問に応えるものだけではなく、撮影した像を写真として残す技術を開発した最初期の技術者たちの夢を叶えたものだったと言えるでしょう。

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減色法によるカラー写真の仕組み 写真の仕組み(6)

ピッカリコニカ コニカC35EF

CASIO QV-10A-コンパクトデジタルカメラの市場を開いたデジカメ

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