大谷翔平選手に会った!看板の|伊藤園の「お~い大谷君」
スーパーに行ったらロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平選手の大きな看板がありました。
その横には伊藤園のいろいろなお茶が山積みになっていましたが「大谷翔平ボトル」が売っていました。もちろん3種類買ってきました。
Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。
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北海道百貨店の丸井今井の源流は明治4年(1872年)4月に新潟県南蒲原郡三条町出身の今井藤七と高井平吉が札幌の創成橋の創川河畔で開業した小間物屋の今井商店です。最初の今井商店はむしろ敷きの屋台のような簡素な店でしたが、低価格で親切な対応が評判となり明治7(1874年)に移転し丸井今井呉服店を開きました。当時の北海道は開拓途上でした。丸井今井呉服店は物資を仕入れて低価格で販売しました。内地から移住してきた人々の生活の支えにもなり店は大繁盛しました。
明治21年(1888年)には洋服の販売も開始し、明治23年(1890年)には滝川支店、明治24年(1891年)に小樽支店と室蘭支店を開きました。明治25年(1892年)には函館支店、明治30年(1897年)には旭川支店を開きました。大正、昭和時代を通じて順調に成長し北海道で最大の丸井今井の百貨店グループとなりました。
丸井今井はさらなる発展をめざして新規事業を展開し多角経営化を図りました。事業は順調でしたが平成9年(1997年)11月にメインバンクの北海道拓殖銀行が経営破綻すると事業の多角化が仇となり財務体質が悪化して経営危機に陥りました。その後、再建をめざしましたが経営不振から脱却することはできず平成21年(2009年)に倒産しました。
現在、丸井今井は札幌本店と函館店が存在していまが、この2つの丸井今井は三越伊勢丹ホールディングスの完全子会社として運営されています。札幌本店と函館店が存在しています。
さてこの丸井今井小樽店の写真は自宅のアルバムの中にあったものです。丸井今井小樽店は明治24年10月丸井呉服店小樽支店として色内村(現在は稲穂町)で開業しました。この写真の建物には「丸に井」と「店服呉井今」(今井呉服店)の看板があります。建物の前の「のもきは」(はきもの)店などがありずいぶん古い写真と思います。丸井今井は小樽都通り商店街にありましたがこの通りは昭和41年にアーケードがかけられていますから、この写真はそれよりも前に撮影されたものと思われます。
自分が小樽に住んでいた頃には丸井今井の他に大國屋という百貨店がありました。小樽を離れてしばらくしてから大國屋が閉店し丸井今井が小樽で唯一の百貨店となりました。平成17年(2005年)4月に丸井今井は不採算店として小樽店の閉店を発表しました。店舗存続の署名活動などが行われましたが同年10月に閉店となりました。
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家のアルバムにあった1枚の写真です。「昭和48.3.29 漁業無線局下 釧路市知人町の崖工事」との添え書きがあります。
知人町は「ちじんまち」ではなく「しりとちょう」と読みます。知人町は赤い点線で囲まれたところです。この突き出た部分を知人岬(しりとみさき)といいます。この「知人」(しりと)はアイヌ語で「シレトゥ(sir-etu)」(地の鼻、岬)に由来します。
さて写真の崖工事ですが「漁業無線局下」を手がかりに探してみると現在も崖の上に立つ漁業無線局が存在していました。写真に写っている丸いタンクも存在しています。
確かに漁業無線局下に急な崖があります。写真のおじさんたちはこの壁を工事していたのですね。いつ作られたものかわかりませんが崖上から崖下に通じる階段も確認できます。工事のおかげで階段を作ることができるようになったのは間違いないでしょう。
この階段は崖上と崖下の間を結ぶ近道になっています。かつてこのあたりには太平洋炭鉱があり太平洋石炭販売輸送臨港線が敷かれ知人駅がありました。太平洋炭鉱と臨港線の写真もありましたので別の機会に紹介します。
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隅田川テラスを歩いているとあのオブジェが見えてきます。あのオブジェのある多々目のは東京都墨田区の我妻橋にあるアサヒビールの本社ビル(アサヒビールタワー)に隣接するスーパードライホールの屋上にあります。スーパードライホールはアサヒビール創業100周年を記念して毛建設され1989年10月に竣工しました。
スーパードライホールの建物とオブジェの設計はフランスのデザイナーのフィリップ・スタルクが手掛けました。特徴的な巨大なオブジェは燃え盛る「聖火台の炎」(フラムドール、フランス語 flamme d'or、金の炎)で、「新世紀に向かって飛躍するアサヒビールの燃える心」を表したものです。金色の炎の下のスーパードライホールは聖火台をイメージしてデザインされたものです。
最初にあれに見えるオブジェが登場したときビールの泡かと思っていたのですが、聖火台の炎であることを知ったのはずいぶん後のことでしたが、やはり今でもあれに見えるのは変わりません💩
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慰問袋は戦地へ出征した兵士を慰め不便を改善し士気を高めるため届けられた袋です。慰問袋は木綿のさらしや手拭い二つ折りしたものですい。その中にはちり紙、手拭い、石鹸などの日用品、シャツ、腹巻きなどの衣料品、食料品、薬品、写真、絵画、お守り札などが入れられ、差出人の住所と氏名を記した手紙が添えられました。慰問袋は日露戦争から始まりました。次の写真の慰問袋はダニ二次世界大戦で東南アジアの戦地に届けられたものです。今では普段の生活で当たり前のものかもしれませんが、心がこもったたくさんの楽しみが詰まっていたのです。
慰問袋の中身は戦地の戦況や生活環境なども考慮された内容となっていました。遙か遠く離れた日本から届く慰問袋は戦地で戦う兵士たちにとって楽しみでした。それを手にしたときには喜び、望郷の想いに駆られたことでしょう。
次の写真は慰問袋を手にした日本陸軍の兵士たちです。同僚の兵士が撮影した写真との裏書きがありました。毎日、厳しい環境の戦地で戦っていたことでしょう。慰問袋を手にしたこのときばかりは同僚が向けたカメラのレンズの前でとても良い笑顔をしています。
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最近はほとんど見かけなくなった昔のポストですが、ときどき現役のものや現役を引退したものを見かけます。
ポストは明治4年(1871年)の郵便の開業時に初めてポストが設置されました。当時は「書状集箱」と呼ばれました。現在のポストの正式名称は「郵便差出箱」と言います。
次の写真のポストは郵便差出箱1号丸型で、昭和24年(1949年)から設置されたものです。写真のポストは田舎のある建物の敷地内にあったもので現役では使われておらず色褪せています。
次の写真も郵便差出箱1号丸型ですが、こちらは2021年も現役で使われており、定期的に色も塗り直されているのでしょう。
現在使われている郵便差出箱は14号まであるようです。
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山の稜線に太陽が沈み始めるころ空と雲が真っ赤に染まっていきます。
この日はちょうど山の上部に山の形をした雲がありました。その部分を拡大してみると太陽は右の方にあります。わずかに沈んで下部が隠れています。光芒で山のような雲の稜線が赤く光り出したのですが、まるで山が燃えて炎が出ているように見えました。
このような光景はほとんど見たことがありません。夕焼けは大自然がつくりだす芸術ですね。
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知人から贈ってもらった不思議な写真です。携帯電話のデジカメで撮影したものだそうです。「木が透けて写っているのはどうして?」という質問です。どうしてなのでしょう。
この写真は木陰でやや暗くなった場所からとても日当たりの良い明るい場所を撮影したものです。携帯電話のカメラで撮影したとのことですのでシャッタースピードや露出の設定が適切にならず多重露光のようになったのではないかと思われます。
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日暮れ時あたりがずいぶん暗くなってきたところに魚を加えたカワセミがやってきました。暗い上にズーム撮影なのでさらに暗くなって画像がよくありませんが何とか撮影することができました。画像を明るくして色の濃淡を調整してあります。
あまり大きくないカワセミです。生活環境があまり良くないのか痩せているようにも見えました。自分の身体に比べて体長の長い魚を捕まえたようです。
自分と同じぐらいの長さの魚です。しっかりとクチバシでくわえていますが魚もあばれるのでかなり持て余しています。
さてフィニッシュに持っていけるでしょうか。ゆっくりと身体を揺らし始め魚がクチバシから外れないことを確認すると、枝に魚を叩きつけ始めました。魚を弱らせています。身体をねじ曲げてのけぞってジャーマンスープレックスみたい。
本当に暗かったのでF値もシャッタースピードもぎりぎりで撮影しました。もう少し明るい時間だったらと思いましたが、カワセミさんの食事の時間を撮影させてもらっているで仕方ありません。
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昭和40年頃の汎用のレコード・プレーヤーです。この頃のレコード・プレーヤーはトランク型あるいはスーツケース型で持ち運ぶことができました。
ターン・テーブルの大きさはシングルレコードの大きさです。大きなLPレコードははみ出ますがかけることができます。スピーカーはもちろんステレオであるはずもなくモノラルです。
レコードを掛けるときには手でアームを慎重にレコード盤の上にのせるのですが、ミスをすると「ギー」と音がして最悪の場合はレコード盤の溝に傷が付いて音飛びが起こるようになってしまいます。
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