カテゴリー「鉄道」の24件の記事

2022年3月16日 (水)

初代のぞみ300系と初の2階建て車両100系新幹線引退(2012年3月16日)

 JR東海道・山陽新幹線で「のぞみ」の運行が開始されたとき、新幹線はずいぶん速くなったなと思いました。1992年に初代のぞみの車両として採用されたのが300系新幹線です。300系の導入により、新幹線の営業最高速度は100系の220キロから270キロにアップしました。300系は1993年には山陽新幹線にも乗り入れました。

 100系は0系の先端の部分がとんがったような形をしていて、ヘッドライトが横長の目のようになった車両です。1985年に「ひかり」として運行が開始されました。東海道新幹線としては2003年に姿を消しましたが、その後は山陽新幹線の「こだま」として使われました。100系で初めて新幹線の2階席が登場し、グリーン車両として使われました。

 新幹線は2008年に0系が引退、2010年に400系(山形新幹線つばさ)が引退しています。そして、2012年3月16日に100系と300系がそろって引退しました。

 次の写真は300系の新幹線です。ずいぶん前に新横浜駅で撮影したものです。

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300系新幹線(新横浜駅)

 こちらは豊橋駅に入線する300系新幹線

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300系新幹線(新横浜駅)

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2022年3月 7日 (月)

青函連絡船が就航(1908年3月7日)

 青森と北海道を結ぶ定期航路は明治6年(1873年)2月に北海道開拓使によって開通されました。この青函航路は現在とは異なり青森県むつ市の大湊港と函館港を結び津軽海峡を渡る航路でした。

 明治12年(1879年)6月、青函航路は郵便汽船三菱会社に引き継がれ民営化されました。当時、郵便汽船三菱会社は日本の海運業を独占しており他の航路と同様に青函航路の運賃を大幅に値上げしました。この郵便汽船三菱会社に対抗するため、反三菱系の三井財閥などが明治15年(1882年)7月に共同運輸会社を設立しました。共同運輸会社はすぐに青函航路に参入しましたが、これによって青函航路の運賃値下げ競争が始まりました。顧客獲得のためこの価格競争は採算性を度外視し激化し、やがて両社の経営が立ちゆかなくなるほどの懸念が生じました。そこで政府は両社に合併することを提案し、明治18年(1885年)9月に日本郵船会社が設立されました。この新会社が青函航路を引き継くことになり毎日1往復の定期運航が行われるようになりました。

 明治24年(1891年)9月1日、日本鉄道の東北本線が上野駅ー青森駅まで全通すると人の往来や貨物の輸送量が増加しました。明治25年(1892年)8月1日に北海道炭礦鉄道の岩見沢駅ー室蘭駅が開通したことを受け、日本郵船は明治26年(1893年)2月に青函航路を室蘭港まで延伸しました。これによって函館と室蘭の間は海上輸送にはなるものの上野駅ー札幌駅が鉄道で結ばれることになりました。当初は毎日1往復の運航で間に合っていた輸送量も鉄道網の発展に伴い需要に追いつかなくなるようになりました。日本郵船は夜行便を増発したり、青森ー室蘭間の直通航路を開発したりすることで増加する輸送量に対応しました。

 明治37年(1904年)10月、北海道鉄道の函館駅ー小樽駅が開通し、明治38年(1905年)8月1日に北海道炭礦鉄道の小樽駅ー南小樽が開通すると青函航路の輸送量の需要はさらに増加しました。日本鉄道および北海道鉄道は日本郵船に増便を要望しましたが、当時は日露戦争中で船舶が不足していたことから定期運航を増便することができませんでした。そのため港に取り残される乗客や貨物が発生するようになりました。

 輸送の需要を満たすことがでいない日本郵船にしびれを切らした日本鉄道は青函航路への参入を検討し、明治38年(1905年)に高速で大型の連絡船の導入を決定し、明治39年(1906年)にイギリスの造船所に蒸気タービン船を発注しました。日本鉄道は国有化されることになりましたが連絡船の発注は継続され、2隻の蒸気タービン船「比羅夫丸」と「田村丸」を建造することになりました。

 明治40年(1907年)末、「比羅夫丸」が横浜港に到着し翌1908年(明治41年)初めから試験運転が行われました。同年2月29日に青森港に到着し、3月7日に青森港10:00発、函館港14:00着の青函連絡船として就航しました。「田村丸」は同年4月2日に就航し、青函連絡船は1日2往復運航となり函館と青森を4時間(夜行便は5時間)で結びました。

青函連絡船「比羅夫丸」
青函連絡船「比羅夫丸」

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2022年2月27日 (日)

八甲田トンネル開通(2005年2月27日)

 東北新幹線が埼玉県の大宮駅と岩手県の盛岡駅を結んだのは1982年(昭和57年)6月23日です。1985年(昭和60年)3月14日に上野駅まで延伸され、1991年(平成3年)6月20日に東京駅まで延伸されました。以降は盛岡駅から新青森駅を目指し八戸駅まで延伸されたのが2002年(平成14年)12月1日です。

 従来の東北本線は八戸駅を出て三沢駅・野辺地駅・浅虫温泉駅などを経て北回りで青森駅に向かいました。北回りとなった理由は八戸の西方には八甲田山系があり都市が少なかったことなどがあげられます。また八甲田山系を貫く長距離のトンネルを掘るのは困難だったのです。

 速度向上と所要時間の短縮を重視する東北新幹線では北回りの路線は選ばれず八甲田山系の北側に八甲田トンネルを建設することになりました。東北新幹線は八戸駅から七戸の方面に延伸され青森をめざすことになりました。そして八甲田山系の東側に七戸十和田駅、西側に新青森駅が設置されることになりました。八甲田トンネルは1998年8月に着工され、約7年後の2005年2月27日に貫通しました。その後、トンネル内の整備が進められ、2010年12月4日に東北新幹線の八戸駅-新青森駅間の開業に伴い運用が開始されました。現在、八戸駅から青森駅までの旧東北本線は青い森鉄道として第三セクターの青い森鉄道株式会社によって運用されています。

八甲田トンネル
八甲田トンネル

 八甲田トンネルは七戸十和田駅と 新青森駅の間に位置し青森市東部の東岳山の折紙山の北川の麓を貫いています。その全長は26.455 kmで岩手一戸トンネルの25.808 kmを抜いて陸上鉄道トンネルとしては世界一の長さとなりましたが2005年4月28日にスイスのレッチュベルクベーストンネル(34.577 km)が貫通しわずか2ヶ月で世界一の座を失いました。しかしながら、レッチュベルクベーストンネルは単線であり、複線の陸上トンネルとしては八甲田トンネルが世界一となっています。

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2022年1月10日 (月)

世界初の地下鉄がロンドンで開通(1863年1月10日)

 鉄道発祥の国イギリスでは世界に先駆けて鉄道の整備が進みました。ところが首都ロンドンは建物が密集しているため鉄道を敷設することができませんでした。1834年、テムズ川の水底に「テムズトンネル」が開発すると、これを参考にロンドン市内に地下鉄を走らせる構想が持ち上がりました。そして1854年にメトロポリンタン鉄道会社による地下鉄建設が認可されました。

 なにしろ世界初の地下鉄ですから最初からロンドン市内に地下トンネルを掘るわけにはいきませんでした。1855年にロンドンと地質が似ているギブルズワースに試験トンネルが作られました。ここでは地下鉄用の列車の開発も行われました。試験トンネルの成果からロンドン市内の地下鉄の建設工事も進められ、1863年1月10日にパディントン駅とファリントン駅を結ぶ世界初の地下鉄が開業しました。開業当日は38,000人の乗客を運び他の鉄道から列車を借りるほど大人気となりました。

 さてロンドンの地下鉄開業当時は未だ電車は開発されていませんでしたので、蒸気機関車がガス灯付きの木製の客車を牽引しました。上記機関車が出す硫黄を含む煤煙を逃すため地下鉄の駅は吹き抜け構造で路線の一部は堀のようになっていました。それでも駅は煤だらけとなり、木造のホームがしばしば小火(ボヤ)を起こすなど、地下鉄の環境は良好ではなく評判はよくありませんでした。そのような状況でもロンドン地下鉄は市民の足として活用されどんどん拡張されていきました。ロンドンの地下鉄が電化されたのは1905年のことでした。

世界初のロンドン地下鉄列車(GWR広軌蒸気機関車)
世界初のロンドン地下鉄列車(GWR広軌蒸気機関車)

 ところで地下鉄のことを「メトロ」と呼びますが、これは世界初の地下鉄を建設したメトロポリンタン鉄道会社に由来します。

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2022年1月 8日 (土)

日本初の発車ベルが上野駅に設置(1912年1月8日)

 日本鉄道が上野駅-熊谷駅の路線を開業したのは1883年7月28日でした。当初、列車が発車する合図として笛や鐘が使われていましたが、20世紀に入り鉄道の利用が進み乗客数が増加すると笛や鐘の合図が聞こえないという問題が起きました。そこで1912年1月8日、日本で初めて上野駅に電子式の発車報知器つまり発車ベルが設置されました。

ホームで電車を待つ乗客
ホームで電車を待つ乗客

 金属音や電子音の発車ベルはけたたましくて忙しない(せわしない)という理由から発車メロディに切り替えられましたが、現在でも発車ベルを利用している駅もあります。 ジリジリとなる発車ベルは久しぶりに聞くと懐かしい音です。

まるで火災報知機!?ことでん太田駅の発車ベル

電子音の発車ベルは次の映像で聞くことができます。

JR上野駅 発車ベル・発車メロディー

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2022年1月 7日 (金)

【おもしろ映像】陽炎と新幹線と舞雪

 陽炎でゆらいで見える線路にさっそうと現れる新幹線。陽炎の中、雪を巻き上げながら近づいてきます。新幹線の車体の光の反射もとても幻想的で全体としてかっこいい映像ですね。

雪を舞いあげる新幹線

 陽炎は空気の密度の小さい部分と大きい部分ができ、光が屈折して進む方向が乱れるために起こります。夏によく見られる現象ですが、冬でも空気の温度差が生じれば見ることができます。

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2021年12月29日 (水)

清水トンネルが貫通(1929年12月29日)

 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」。この有名な川端康成の「雪国」の冒頭の一節に登場するトンネルは上越線の群馬県と新潟県の境い目にある清水トンネルのことです。

 かつて関東と新潟を結ぶ路線は高崎から長野と直江津を経由する信越本線でした。信越本線には難所の標高956メートルの碓氷峠があり、また長距離だったため関東と新潟まで急行列車11時間もかかりました。大正14年(1914年)に福島県の郡山から会津若松を経てに新潟に向かう磐越西線が開通しましたが関東と新潟を結ぶ路線としては依然として不便だったのです。

 関東と新潟を短時間で結ぶには群馬県と新潟県の境目にある標高1,977メートルの谷川岳を抜ける必要がありました。当時の掘削技術および財政状態では長いトンネルの建設は困難でした。そこでトンネルの長さを短くするために麓付近での掘削を避けて、なるべく標高の高いところを掘削することになりました。トンネルの入り口と出口が高い位置となるため列車はトンネルの前後で昇降しなければなりません。列車は急坂を昇降することができないため、トンネル前後に緩勾配のループ線を敷設することになりました。これによって清水トンネルの長さを短縮することができました。それでも当時としてには東洋で最長のトンネルの建設に取り組むこになったのです。

 工事は鉄道省が担当し、1919年(大正8年)6月に測量に着手しました。当時、この地域はまさに陸の孤島で豪雪地帯であり測量は雪のない数カ月間で行わなければなりませんでした。そのため測量には1921年(大正10年)秋まで2年以上の歳月がかりました。

 工事は1922年(大正11年)から始まり、まず同年8月18日に群馬県側の高崎口から着手されました。新潟県側の長岡口の工事は1923年(大正12年)10月6日から始まりした。工事は難航し多くの死傷者がてましたが1929年(昭和4年)12月29日にトンネルが貫通しました。そして1931年(昭和6年)3月14日、全長9,704メートルの最長トンネルが完成しました。

清水トンネル
清水トンネル

 上越線の土樽ー土合を結ぶ清水トンネルが開通したのは1931年(昭和6年)9月1日です。清水トンネルの完成によって上野と新潟の路線は98キロメートル短縮され、11時間かかっていた所要時間も7時間となりました。清水トンネルは関東と新潟を結ぶ人流および物流を支えましたが、単線だったため輸送量を増強できなくなりました。そのため清水トンネルに併設する新清水トンネルが建設されることになりました。1967年(昭和42年)9月、下り線専用の全長13,490メートルの新清水トンネルが開通したことによって、清水トンネルは上り線専用となりました。新清水トンネルが清水トンネルより長いのは掘削技術の向上によってトンネルの前後にループ線を設置する必要がなくなったからです。

 川端康成がノーベル文学賞を受賞したのは1968年(昭和43年)です。このとき清水トンネルは既に上り専用線になっていました。清水トンネルを抜けて新潟に向かう「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は体験できなくなっていたのです。

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2021年11月30日 (火)

新幹線0系電車が定期運転終了(2008年11月30日)

 東海道新幹線は1964年東京オリンピックの開幕直前の10月1日に開業しました。新幹線の開業とともに登場したのが新幹線0系電車です。当時の日本は高度経済成長期にあり、先頭部が航空機のような丸い形状で青と白に塗り分けられた流線形の0系電車は近未来を予想させるような姿でした。時速200キロメートル以上で走る営業運転を実現し、世界初の高速鉄道列車となりました。

新幹線0系電車の試乗会(1964年9月1日)
新幹線0系電車の試乗会(昭和39年 1964年9月1日)

 開業当初は時速180キロメートルでひかり号の運転を行い東京と新大阪を4時間で結びました。翌年には時速210キロメートルの運転となり50分短縮の3時間10分となりました。1974年には1975年山陽新幹線の博多駅の開業に向けて食堂車の運用が始まりました。

 1985年の新型100系電車やその後の新型車両が登場し新幹線の高速化が進むと0系電車は性能の問題から「ひかり」としての運用が少なくなり「こだま」として運用されるようになりました。

 新型車両が投入されると旧型車両が「ひかり」から「こだま」に変更されていくため、0系新幹線の「こだま」の運用も少なくなりました。東海道新幹線では0系電車の「ひかり」は1998年に姿を消し、1999年9月18日には「こだま」の定期運用を終えています。山陽新幹線では0系電車の「ウエストひかり」が2001年に運用を終了しています。N700系が登場すると500系が「ひかり」から「こだま」に転用されるようになり、0系電車の廃止が決まりました。そして、2008年11月30日の岡山14時51分発、博多18時21分着の「こだま」659号が0系の定期運転の最後となりました。

 0系電車の定期運転終了後、12月6日、13日、14日に「0系さよなら運転」が行われ「ひかり号」として新大阪と博多を結びました。最終日の14日の新大阪14時56分発、博多18時1分着の臨時「ひかり」347号で営業運転を終了しました。そして0系は全車両が廃止されました。

 新幹線0系電車は1964年の開業から2008年の営業運転終了まで44年に渡って活躍しました。0系電車の生産は1986年で終了していますが開業以来3,216両が製造されました。0系電車は改良を重ねながら長期間に渡り使用されため歴代の新幹線の中で最多の生産台数となっています。

 2007年8月、社団法人日本機械学会は創立100周年の記念事業として0系電車を国産航空機YS-11などと一緒に機械遺産として認定しました。

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2021年11月19日 (金)

東海道本線の全線電化(1956年11月19日)

 昭和31年(1956年)の経済白書の「日本経済の成長と近代化」の最後に「もはや戦後ではない」という言葉が記されています。これは前年の昭和30年(1955年)の国民総生産(GP)が戦前の水準を超え、戦後の高度成長時代が始まり神武景気を迎えたことを意味していました。「もはや終戦ではない」は国民の間で流行し、多くの人々が将来に向けて希望を持ち始めたのです。

 昭和31年(1956年)11月19日、日本国有鉄道(国鉄、現JRグループ)の東海道本線の米原ー京都間が電化され、これによって東京から神戸まで東海道本線の全線が電化されました。電化前はC62形蒸気機関車が特急「つばめ」や「はと」として東京-大阪を結びましたが、電化後はEF58形電気機関車に置き換えられました。これによって東京ー大阪の所要時間が30分短縮され7時間30分となりました。

 昭和33年(1958年)、151系(20系)の特急電車「こだま」の運行が始まり、東京ー大阪を6時間50分で結びました。「こだま」は国鉄で初めての電車による有料の長距離特急列車となりました。電車の特急がしばらく登場しなかったのは、電車の騒音が大きく乗り心地が良くなかったからです。先頭の動力車が客車を引く機関車の方が乗り心地が良かったため、とりわけ長距離の特急列車は機関車が牽引していたのです。しかしながら、技術の向上により電車の性能が向上し20系電車(後に151系に変更)が開発され「こだま」が登場することになったのです。

特急こだま
特急こだま

 「こだま」は機関車と異なり客車にも動力が搭載された動力分散方式を採用しています。機関車が客車を牽引する動力集中方式よりも速度を向上できることからその後の多くの電車や気動車で採用されるようになりました。電車の台頭により幹線を中心に鉄道の電化が全国で進められました。

 1964年10月1日に開業した東海道新幹線の0系は技術の粋を集めた動力分散方式の高速列車で未来を予想させる高度成長時代の象徴にもなりました。

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2021年11月11日 (木)

日本鉄道の設立(1881年11月11日)

 日本で鉄道敷設の機運が高まったのは幕末ですが明治維新の混乱から実際に鉄道の計画が進められるようになったのは明治時代に入ってからのことでした。

 日本初の鉄道は1872年10月14日に新橋駅(現汐留駅)と横浜駅(現桜木町駅)を結ぶ路線として開業しました。この日は「鉄道の日」とされています。

 明治政府で鉄道事業を推進していた井上勝をはじめとする鉄道関係者は日本の鉄道事業は国有鉄道で進めるを基本方針としていましたが、西南戦争などで財政が困窮したこともあり鉄道敷設は進みませんでした。

 日本初の鉄道開業に先だち、横浜の実業家高島嘉右衛門は北海道開拓支援のため東京と青森を結ぶ鉄道の建設を政府に働きかけました。当初、高島の提案は却下されましたが岩倉具視の協力を得て、華族と士族が私財で鉄道会社を設立し、東京と青森もしくは東京と新潟を結ぶ鉄道を敷設し蒸気機関車を走らせる計画を進めることになりました。そして岩倉具視をはじめとする華族や士族が参加し私設の鉄道会社「日本鉄道」を創立することが1881年8月に決まり、同年11月11日に日本鉄道会社が設立されました。

 日本鉄道は1882年に敷設工事を開始し、1883年7月28日に上野ー熊谷を開業しました。その後も延伸を続け1891年9月1日に現在の東北本線となる上野ー青森を開業しました。さらに路線を充実させて現在のJR東日本の路線の多くを敷設しました。

日本鉄道の役員と上野ー熊谷間の工事関係者(1883年)
日本鉄道の役員と上野ー熊谷間の工事関係者(1883年)

 日本鉄道の設立をきっかけとして全国各地で私設鉄道会社が設立されました。日本の最初の鉄道の基本路線の敷設は私財で設立された私鉄によって進められたのです。

  日本鉄道は私鉄ではありましたが、鉄道は極めて公共性が高く国の経済の発展に重要な役割を果たすことから路線の決定には国の意向が色濃く反映されていました。国も敷設工事に参加し、
国有地の無償提供や建設費用の利子負担など優遇措置をしています。

 1906年(明治39年)に日本の鉄道網を一元化するための鉄道国有法が公布されると、日本鉄道をはじめとする全国の私鉄が国有化されました。日本鉄道が国有化されたのは同年11月11日で同社の設立日と同じ日となりました。

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