カテゴリー「自動車」の18件の記事

2022年8月 5日 (金)

タクシーの日(1912年8月5日)

 日本でタクシーの営業が開始したのは大正元年(1912年)8月5日とされています。明治45年(1912年)7月10日に東京市麹町区有楽町(現:有楽町マリオン)で創業したタクシー自働車株式会社がT型フォード6台で営業を開始しました。これが日本で初めてのタクシーの営業だったことから、全国ハイヤー・タクシー連合会が平成元年(1989年)に8月5日を「タクシーの日」と制定しました。

T型フォード
T型フォード

 日本初のT型フォードのタクシーにはタクシーメーターが搭載されていました。当初の運賃は最初の1.6 kmが60銭だったそうです。当時の鉄道の新橋ー品川間の料金は6銭でしたからタクシーはずいぶん贅沢な乗り物だったのです。

 さて8月5日が「タクシーの日」とされているのは間違いありませんが、日本の自動車史研究家の佐々木烈氏によると当時の新聞広告などから本当のタクシーの営業開始日は8月15日だったようです。同氏の調査によればタクシー自働車株式会社の設立は7月10日で間違いないようですので8月5日が何に由来して「タクシーの日」となったのかについてはよくわかっていません。元々の営業開始日は8月5日に予定されていたが明治天皇の崩御によって8月15日に延期されたのではないかという説があります。

【関連記事】タクシーの日(1912年8月5日)

バスガールの日(1920年2月2日)

円太郎バス走る|都バスの日 (大正13年 1924年1月18日)

地下鉄記念日 (1927年12月30日)

個人タクシーの日(1959年12月3日)

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2022年7月 1日 (金)

快進社創立(1911年7月1日)

 「快進社(かいしんしゃ)」は橋本増治郎が1911年7月1日に創立した日本初の国産自動車メーカー「快進社自働車工場」です。

 「快進社自働車工場」は大正3年(1914年)3月20日から7月31日に東京府が主催して上野で開催された東京大正博覧会でエンジンを含む純国産自動車を出品しました。この「脱兎号(DAT CAR)」と名付けられた3人乗りの乗用車はV型2気筒10馬力エンジンを搭載し最高速度は時速32キロメートルで走ることができました。

快進社の創立者 橋本増治郎
快進社の創立者 橋本増治郎

 脱兎号のDATには由来があり、Dは橋本の支援者で田健治郎(でんけんじろう)、Aは橋本の同郷の友人の通信気樹種者で後の安中電機製作所(現:アンリツ)社長の青山祿郎、Tは日本工業会に大きな貢献をしたコマツの創業者の竹内明太郎を意味していました。

 「快進社自働車工場」は大正7年(1918年)に「株式会社快進社」となりこの年に直列4気筒15馬力エンジンで5人乗のダット41型の製造を始めました。第一次世界大戦を経て快進社は大正14年(1925年)に解散し、合資会社ダット自動車商会となりました。

 1926年、「合資会社ダット自動車商会」は1919年に「久保田鉄工所(現:クボタ)」の出資によりが設立されていた「実用自動車製造株式会社」と合併し「ダット自動車製造株式会社」となりました。

 「ダット自動車製造株式会社」は軍用保護自動車の製造を行っていましたが昭和に入ると小型自動車の施策を開始し、昭和5年(1930年)に試作車を完成させました。そしてDATの息子(SON)の意味をもつDATSONと名付けました。このときDATの意味が改められ、DはDurable(耐久性)、AはAttractive(魅力的)、TはTrustworthy(信頼)とされました。DATSONの量産が始まるとSONが「損」と読めるため同じ発音で太陽を意味するSUNに変更されDATSUNとなりました。

 DATSUNの製造は順調でしたが軍用保護自動車の製造メーカーが統合されることになりました。昭和8年(1933年)に「ダット自動車製造株式会社」は「株式会社東京石川島造船所」傘下の「石川島自動車製造所」と合併し「自動車工業株式会社」となりました。この「自動車工業株式会社」は「現在のいすゞ自動車株式会社」になりますが、DATSUNの商標と小型車両部門と工場は戸畑鋳物と日本産業株式会社の共同出資で設立された「自動車製造株式会社」に引き継がれました。

 昭和9年(1934年)、「自動車製造株式会社」は「日産自動車」へと社名を変更したのです。

ダットサンのDNAをひも解く

【関連記事】

ロールス・ロイス社の創業(1906年3月15日)

第1回全国自動車競走大会の開催(1936年6月7日)

スバル360発表(1958年3月3日)

日産自動車フェアレディZを発表(1969年10月18日)

スーパーカー全国縦断フェスティバル(1977年)|カウンタックLP-400

ホンダのスーパーカブの生産台数が1億台に(2017年10月19日)

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

 

 

| | | コメント (0)

2022年6月16日 (木)

【おもしろ映像】チーターとフォーミュラE(FE)のドラッグレース

 ABB Formula Eのチャンネルに南アフリカで行われたチーターとフォーミュラE(FE)のドラッグレースの動画がアップされています。

チーターとフォーミュラE(FE)のドラッグレース
チーターとフォーミュラE(FE)のドラッグレース

 FEを駆るのは元F1レーサーでFEレーサーに転向したフランスのジャン=エリック・ベルニュです。FEは現在第二世代となっており最高速度は時速280 km、時速100 kmまでの加速はわずか3秒です。

 一方のチーターの最高速度は時速100 kmを超え、96 kmまでの加速時間は3秒という報告があります。どちらも時速100 kmまで約3秒ですがチーターが最高速度で走り続けることができるのは数百メートルです。

 このドラッグレースはチーターが疾走できる短距離で行われました。スタートのタイミングが合うかどうかなどの心配ごとはありますが、両者ともに正常にスタートを切ったようです。動物の脚とモーターの対決、さてどちらに軍配があがったのでしょうか。

 

【関連記事】

チーターの走る速さはどれぐらい?

【おもしろ映像】四足走行ロボットのチーター(ワイルドキャット)

ウサイン・ボルト選手の最高速度は時速何キロか?|ラップタイムと瞬間速度

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

 

| | | コメント (0)

2022年6月 7日 (火)

第1回全国自動車競走大会の開催(1936年6月7日)

 1936年6月7日、日本初の本格的な自動車レース「第1回全国自動車競走大会」が日本自動車競走倶楽部により開催されました。この大会はかつて神奈川県川崎市中原区の多摩川河川敷に存在した多摩川スピードウェイ(オリンピアスピードウェイ)で開催されました。

第2回全国自動車競走大会
第2回全国自動車競走大会

 多摩川スピードウェイは日本のみならずアジア初の常設サーキットで長径460メートル、短径260メートル、1周1,200メートルの楕円形の左回りのダートトラックをもつサーキットでした。多摩川の河川敷の土手にコンクリート製の観客席を備えていました。この観客席は数千人を収容することができ、またサーキット全体では最大で3万人の観客を収容することができました。

 第1回全国自動車競走大会にはフォード・ブガッティ・ベントレーなどの外車にくわえて日産や本田をはじめとする国産車も参加しました。このとき本田宗一郎は自ら製作した「浜松号」で参加しましたが接触事故で負傷しリタイアしています

 国産小型レース杯で優勝したのは三井物産グループのオオタ自動車工業の「オオタ号」でした。ダットサンの優勝を確信していた日産自動車の鮎川義介社長は敗北したことに衝撃を受けて必ず優勝できる自動車を開発するよう厳命しました。日産自動車は同年10月25日に開催された第2回全国自動車競走大会において優勝を果たしています。次の影像はダットサンが優勝した第2回の様子を撮影したものです。

[MS HISTORY] Tama river Datsun Race

 多摩川スピードウェイの跡地は野球場やサッカー場になっていますが河川敷にはコンクリート製の観客が残っていましたが2021年に堤防の改修のため取り壊され一部が記念として残されました。

【関連記事】

スバル360発表(1958年3月3日)

日産自動車フェアレディZを発表(1969年10月18日)

スーパーカー全国縦断フェスティバル(1977年)|カウンタックLP-400

ホンダのスーパーカブの生産台数が1億台に(2017年10月19日)


ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

 

| | | コメント (0)

2022年4月25日 (月)

日本初は別に存在していた|歩道橋の日(1963年4月25日)

 子どもたちを交通事故から守り安全に道路を渡らせる歩道橋。いまでこそ歩道橋はよく見かけますが昭和40年代は歩道橋は珍しい施設でした。

横断歩道橋
横断歩道橋

 日本で初めて歩道橋が設置されたのがいつなのか調べてみたところ4月25日が「歩道橋の日」とされていました。これは昭和38年(1963年)4月25日に日本初の歩道橋が大阪駅西口中央郵便局前に設置されたことに由来します。この高さ5.5メートル、長さ47.5メートル、幅4メートルの歩道橋は大和ハウス工業株式会社と川崎製鐵株式会社が共同で寄贈したものです。「大阪駅前交通安全陸橋」と名付けられ、1991年に駅前が再開発されるまで使用されました。

 ところが日本で初めて設置された歩道橋はこの歩道橋ではありません。昭和34年(1959年)6月27日に愛知県清須市(当時:西春日井郡西枇杷島町)で近隣の学校に通う子どもたちを交通事故から守るため鉄筋コンクリート製の「学童専用陸橋」が設置されました。竣工式には町長をはじめとした多くの町民が参加し渡り初めを行いました。後に「西枇杷島町横断歩道橋」と名称が変更されましたが設置当時は歩道橋という用語はなかったようです。

 当時、高度経済成長期において交通事故が増加する中で横断報道は自動車を優先した施設という指摘もありましたが、子どもを交通事故から守ることができると高く評価されるようになり各地で歩道橋が設置されるようになりました。「西枇杷島町横断歩道橋(学童専用陸橋)」は2010年まで50年間に亘って使用されましたが老朽化と道路拡張のため同年3月に市民が渡り納めを行いその後撤去されました。

 「大阪駅前交通安全陸橋」の設置日が「歩道橋の日」となったのは「学童専用陸橋」の存在が認知されていなかったからでしょうか。日本記念日協会のページでは「歩道橋の日」は見つかりませんでした。

【関連記事】

緑のおばさんの日(昭和34年 1959年11月19日)

交通戦争一日休戦の日(1971年10月3日)

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2022年3月19日 (土)

都内観光バス「はとバス」運行開始(1949年3月19日)

 東京で初めて路線バスを運行したのは民営バス会社の東京市街自動車(後の東京乗合自動車)です。大正8年(1919年)に運行を開始したこのバスは車体が深緑色で都民から「青バス」と呼ばれて親しまれていました。

 一方、東京で初めて運行された観光バスは東京遊覧乗合自動車が大正14年(1925年)に東京乗合自動車の協力を得て営業を開始した遊覧バスです。このバスは上野を起点として皇居、日比谷公園、愛宕山、明治神宮、浅草観音、銀座通りなどを遊覧する路線バスとして運行されました。遊覧バスには2名の案内人が乗車し観光ガイドを行いました。間もなく経営基盤の弱かった東京遊覧乗合自動車は遊覧バスの定期運行を確実にするため大正15年(1926年)に東京乗合自動車に定期遊覧バスの事業を譲渡し共同営業としました。

東京遊覧乗合自動車の遊覧バスと新聞広告
東京遊覧乗合自動車の遊覧バスと新聞広告

 昭和に入ると東京乗合自動車は経営難となり昭和10年(1935年)に日本初の地下鉄を開業した東京地下鉄道が東京乗合自動車の親会社となりました。これに伴い東京遊覧乗合自動車も大東京遊覧自動車に社名を変更ました。この会社の社長には東京地下鉄道の創業者の早川徳次が就任しました。

 昭和14年(1939年)に第二次世界大戦が始まると翌昭和15年(1940年)10月に遊覧バスは営業休止となりました。戦乱の中で東京地下鉄道のバス事業は昭和17年(1942年)に東京市に買収され、これに伴い遊覧バスの営業権も東京都に移動しました。第二次世界大戦終了後、東京地下鉄の社員だった山本龍雄が東京都に対して遊覧バス事業の払い下げを求めました。昭和23年(1948年)、東京市は遊覧バス事業の営業権を日本観光に与えることを決定し、同年8月に東京市などの出資を受けて新日本観光が設立されました。

 この新日本観光のバスにはシンボルマークとして鳩が描かれていました。鳩が選ばれた理由は、鳩が平和や安全のシンボルだったこと、伝書鳩が目的地に到着した後に必ず厩舎に戻ってくることからバスの安全運行の願いを込めたからだそうです。この鳩のシンボルマークにより、新日本観光の遊覧バスは「はとバス」と呼ばれて親しまれるようになりました。そして昭和38年(1963年)9月1日、新日本観光は「株式会社はとバス」と社名を変更しました。

 自分は子どもの頃に「はとバス」に乗ったことがありますが、その後しばらくは「はとバス」に乗る機会はありませんでした。東京都民で「はとバス」に乗るのもなという思いも正直ありました。あるとき仕事で外国のお客様を観光案内する機会がありました。このとき自ら案内コースを考えるのは面倒だったため「はとバス」による東京観光に連れていったのです。外国のお客様は東京の有名な観光地をあっという間に巡ることができたと大喜びしました。お客様に感謝されながら自分も「はとバス」の東京観光に感激していたのです。それ以来、東京観光の機会があるたびに「はとバス」を利用したり、利用を勧めるようになりました。

【関連記事】

バスガールの日(1920年2月2日)

円太郎バス走る|都バスの日 (大正13年 1924年1月18日)

地下鉄記念日 (1927年12月30日)

個人タクシーの日(1959年12月3日)

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2022年3月15日 (火)

ロールス・ロイス社の創業(1906年3月15日)

 ロールス・ロイスと言えば高級な自動車や航空機エンジンの製造で有名なブランドです。現在は自動社はドイツのBMWの子会社ロールス・ロイス・モーター・カーズが製造・販売を手がけ、航空機エンジンをはじめとする工業機械はロールス・ロイス・ホールディングスが製造・販売を手がけいます。この2つの会社はその起源は1906年に創立されたロールス・ロイス社ですがお互いに独立した企業です。

 ロールス・ロイスの社名の由来は2人の創業者の名前に因んでいます。1人はイギリスで欧州車の輸入代理店を経営していたチャールズ・スチュアート・ロールズ、もう1人はイギリスで電気機器メーカーを経営していたフレデリック・ヘンリー・ロイスです。

チャールズ・スチュアート・ロールズとフレデリック・ヘンリー・ロイス
チャールズ・ロールズ(左)とヘンリー・ロイス(右)

 ロールズはイギリスの裕福な家庭に生まれ学生の頃からエンジンに興味を持ち始めモーター・スポーツの幕開けに貢献しました。やがて技術者より自動車業界のビジネスマンとして能力を発揮するようになり、1903年にイギリスで初の自動車輸入販売代理店「C.S.ロールス社 (C.S.Rolls & Co.) 」をクロード・グッドマン・ジョンソンと設立し自動車の輸入・販売を始めました。当時のイギリスには優れた自動車を開発する技術がなく、ロールズとジョンソンは国産の優秀な自動車の登場を期待しました。

 一方、ヘンリー・ロイスは貧しい家庭に生まれ苦学して電気技術者になりました。1884年に知人と電気器具製造メーカー「F.H.ロイス社 (F. H. Royce Co.)」を設立しました。ロイスは安全な発電機とモーターや小型クレーンを開発し事業に大成功します。

 1902年、ロイスはフランスのドゴービル社製の自動車「12HP」を購入しましたが、あまりの故障の多さに呆れその実用性の低さに強い不満を抱きました。この頃、電気機器の競合他社が台頭し始め、ロイスと共同経営者アーネスト・クレアモントは競争の激しい電気機器の製造・販売だけでは会社の存続は危うくなる考えていました。

 そこで自動車の将来性を高く評価していたロイスは自動車の自社開発を手がけることを決断しました。そして2年間の開発期間を経て1904年に直列2気筒1,800 ccエンジンを搭載した自動社「10HP」を発売しました。この「10HP」を購入したヘンリー・エドマンズは「10HP」が非常に優れた自動車であることを実感しました。

 エドマンズはロールズの知り合いでロールズがイギリス製の優秀な自動車の登場を心待ちにしていることを知っていました。エドマンズは「10HP」をロールズに紹介、1904年5月にローロズとジョンソンに引き合わせました。「10HP」を見て感銘したロールズとジョンソンはロイスが製造する自動車の販売を手がけることにしました。

 当初はロールス社とロイス社は別会社でロールス・ロイスブランドの自動車の製造・販売を手がけましたが、イギリス国内製の優秀な自動車として人気となりました。こうしてロールズとロイスによって1906年3月15日にロールス・ロイス社が創立されたのです。

 ロールス・ロイス社の創立時「陸上、水上、空中で使用するエンジンを製造する」という目標が掲げられていました。ロールス・ロイス社はこの目標通りの会社として成長したのです。日本の国産旅客機YS-11にもロールス・ロイスのエンジンが採用されています。

【関連記事】

ホンダのスーパーカブの生産台数が1億台に(2017年10月19日)

スバル360発表(1958年3月3日)

日産自動車フェアレディZを発表(1969年10月18日)

スーパーカー全国縦断フェスティバル(1977年)|カウンタックLP-400

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2022年3月 3日 (木)

スバル360発表(1958年3月3日)

 フォルクスワーゲンの「かぶと虫」に対して「てんとう虫」と呼ばれ親しまれたスバル360。スバル360は当時富士重工業だったSUBARUが開発した軽自動車で1958年から1970年まで生産・販売されました。生産台数は39万台を超え国産としては初の大衆車となりました。1960年代を代表する自動車ですが昭和のレトロカーとして現在においても現役で走っているところを時々見かけます。

 1950年代後半、国産自動車メーカーが乗用車の製造販売をしていましたがその価格は1000 ccの小型自動車でも100万円でした。昭和31年(1957年)の当時の大卒男子の初任給は13,800円ですから乗用車は高嶺の花だったのです。低価格の乗用車を販売するには軽自動車の開発が必要でしたが当時の軽自動車の規格は3輪車用で4輪の軽自動車を開発できるものではありませんでした。1952年に愛知県名古屋市の中野自動車工業が250 ccの「オートサンダル」という4輪軽自動車を製造販売しましたが実用的ではなかったため2年ほどで製造中止となりました。その後もいくつかのメーカーが4輪軽自動車の製造販売をしましたがどれも長続きしませんでした。

 1954年9月、「新・道路交通取締法」が施行されると軽自動車の規格が改められ排気量が360 ccに統一されました。この規格に沿って開発された国産初の4輪軽自動車は昭和30年(1955年)に発売された鈴木自動車工業の「スズライト」のみでしたが軽自動車は一般的ではなく生産台数は伸び悩みました。

 1952年、富士自動車工業は1500 ccの4ドアセダン「スバル1500」の開発に着手しました。富士重工業の前身の富士産業はもともとは中島飛行機でエンジンや金属モノコックの技術に長けていました。1954年に「スバル1500」の試作もできあがりましたが採算が合わずとりわけ価格面で市場競争力がないという懸念がありました。1955年、富士自動車工業を吸収合併した富士重工業は「スバル1500」の市販を断念し開発を中止しましたが同時に360 ccの軽自動車用エンジンと4人乗りの軽自動車の開発に着手しました。この背景にはラビットスクーターの成功と軽自動車用エンジンの開発への自信がありました。この軽自動車の開発には「スバル1500」の経験が大いに役に立ちました。部品も汎用品の寄せ集めではなくネジひとつから最適化されて設計されたものでした。これによって車内スペースも広がり4人乗りでも安定して走ることができる高性能の軽自動車に仕上がりました。

 さて「てんとう虫」と呼ばれた「スバル360」のデザインはラビットスクーターのデザインを担当したインダストリアルデザイナーの佐々木達三が担当しました。佐々木達三は公衆電話の赤電話やピンク電話のデザインを担当したことでも有名です。初めて自動車のボディをデザインすることになった佐々木は自ら運転免許を取得し「日野ルノー4CV」を運転して自動車を体験しました。「スバル360」はその形状から「フォルクスワーゲン」を参考にしたと言われていますがフォルクスワーゲンを模して作られたとされる「ルノー4CV」に似ています。また「スバル360」は開発当初から名付けられていたものではなく、名称が決まっていないと聞いた佐々木が「SUBARU 360」のロゴを考案しこれがそのまま車名として採用されることになりました。

 「スバル360」の試作が完成したのは昭和32年(1957年)4月20日です。自動車を販売するには運輸省の認定試験を受ける必要がありました。ことになりました。この試験には600 kmに及ぶ長時間連続走行試験やエンストなしで峠を走る登坂試験がありました。認定試験は1956年2月4日から始まりました。テストドライバーとナビゲータは「スバル360」の積載重量を減らし負担を軽減するため小雪が降る中を薄着で運転したそうです。登坂試験では運輸省の試験官2名が乗車することになっていましたが小さすぎる自動車に乗ることを嫌がった1人が乗車を拒否し体重分の重りを積載することになりました。「スバル360」は認定試験で優れて成績を製造・販売が認められたのです。

 「スバル360」の発表は1958年3月3日12時から東京の富士重工業本社で行われました。この発表はプレス発表であったため富士重工業はカタログしか用意していませんでした。参加した記者から実車の展示と試乗を求められ急遽「スバル360」を2台準備することになりました。「スバル360」が東京本社に届くまで数時間かかりましたが実車を体験した記者たちは「スバル360」の出来映えに感動したそうです。国内外で大反響となり海外の雑誌でも「アジアのフォルクスワーゲン」と紹介されました。

スバル360コマーシャル
スバル360コマーシャル
撮影:Ypy31 Ypy31's website.

 「スバル360」発売開始は昭和33年(1958年)5月1日です。一番最初に購入したのはパナソニックの創業者の松下幸之助です。本体価格は42万5千円で当時の自動車の半額でした。初年度の販売台数は385台でしたが低価格・高性能であることから販売台数が伸び日本の大衆車の代表となり1967年に本田技研工業がN360を発表するまで軽自動車販売台数首位の座を守り続けました。 

 今でも「スバル360」を時々見かけることがありますがとても懐かしい気持ちになります。子どもの頃、隣に住んでいた家族が「スバル360」を持っていたからです。当時、自分の両親は自動車免許証を持っていなかったのでが家族ぐるみでお付き合いしていたので、「スバル360」によく乗せてもらい、いろいろなところに遊びに連れていってもらいました。また学生の頃、友達が買ってきたのが中古の青い「スバル360」でした。この青いスバル360で友人たちと珍道中のようなドライブをしましたが、いつの日かライトやワイパーのプラスチックのボタンが壊れて外れてしまい以降はむき出しになったスイッチの棒をペンチで引っ張ってON/OFFしていました。

 「スバル360」は2016年の日本機械学会の機械遺産に認定されています。

【関連記事】

ホンダのスーパーカブの生産台数が1億台に(2017年10月19日)

日産自動車フェアレディZを発表(1969年10月18日)

スーパーカー全国縦断フェスティバル(1977年)|カウンタックLP-400

人気ブログランキングへ

 

| | | コメント (0)

2021年12月 3日 (金)

個人タクシーの日(1959年12月3日)

 日本で初めてタクシーの営業が開始したのは大正12年(1912年)8月5日です。このタクシーは当時東京市麹町区有楽町にあったタクシー自動車株式会社による法人タクシーでした。

 昭和13年(1938年)、石油や物資の不足を背景に東京のタクシーの営業が混乱し始めたことにより警視庁はタクシー営業を法人に限ることとしました。最低の車両台数を50台としたことによりタクシー会社の統廃合が進み、また個人によるタクシーの営業は事実上できなくなりました。第二次世界大戦が始まると石油資源確保のためタクシーの流し営業が禁止となり、東京では空襲によりタクシーの営業は大打撃を受けました。戦後は政府がタクシー会社の統廃合を進めました。戦後の混乱の中でタクシー営業が復活しました。

 1950年代の後半になり高度成長時代に入ると自動車産業も発展し、大都市を中心にたくさんのタクシーが走るようになりました。しかし、マナーの悪いタクシー運転手が増え、乱暴な運転で交通事故を起こす「神風タクシー」や不当な運賃請求をする「雲助タクシー」などが社会問題となりました。また多くの失業者が営業許可のない白タクを営業するようになりました。市民からは安心して乗れる安全なタクシーを求める声が高まりました。

 このような状況の中で当時の楢橋渡運輸大臣はタクシー業界を改革するため個人タクシーの営業を認可する考えを表明しました。タクシー業界や族議員の反対を押し切って昭和34年(1959年) 8月11日に「永年の無事故・無違反の優良運転者に夢を与え業界に新風を送る」と声明を出しました。同年12月3日に日本で初めて個人タクシーが東京で認可されました。個人タクシーの初認可から50周年を迎えた平成21年(2009年)に全国個人タクシー協会が12月3日を個人タクシーの日と制定しました。

Photo_20211203100701

【関連記事】

円太郎バス走る|都バスの日 (大正13年 1924年1月18日)

バスガールの日(1920年2月2日)

交通戦争一日休戦の日(1971年10月3日)

カテゴリー「自動車」

人気ブログランキングへ


科学・学び 人気記事 一覧 科学・学びブログ天紹介所

| | | コメント (0)

2021年10月19日 (火)

ホンダのスーパーカブの生産台数が1億台に(2017年10月19日)

 本田技研工業(ホンダ)のスーパーカブは同社が1958年に製造販売を開始した小型オートバイC100に名付けられた名前です。

 もともとホンダは1952年から自転車に装着できるカブという原動機を製造販売していました。競合他社から類似の製品が販売され、さらにスクーターの人気が高まり始めると、ホンダの藤沢武夫専務(当時)は本田宗一郎社長(当時)に原動機とボディ(自転車)を一体化した完成したモペッド(注)の開発を提案しましたが、本田社長は技術的に完成車は作れないと却下しました。

 (注)原動機で走行したり、人力で走行したりすることができるペダルの付いた小型オートバイ

 本田社長と藤沢専務が1956年にヨーロッパを視察したとき、藤沢専務は本田社長に小型オートバイの開発を再提案しました。ヨーロッパでスクーターやモペッドを見たホンダ社長も小型オートバイの開発に興味を持ち、2人はペダルのない小型オートバイの新製品の構想を始めました。

 本田社長は帰国後に小型オートバイの開発に自ら取り組みました。そして、自動遠心クラッチ式変速機、燃費が良く耐久性の高い空冷4ストロークエンジンを開発、これを搭載した小型オートバイ、スーパーカブC100の販売を1958年8月に開始しました。

ホンダ スーパーカブ
ホンダ スーパーカブ

 発売に先立ってこの小型オートバイを見た藤沢専務は月に3万台売れると見積もりました。当時の日本国内のオートバイの販売台数が2万台でしたから3万台という数字は大言壮語に聞こえました。スーパーカブの初年度の年間販売台数は約2,400台、1959年は約16万7千台、1960年は約56万4千台となり、藤沢専務の見積もりが正しかったことが証明されました。

 スーパーカブは1958年の登場以来、現在も人気の高いロングセラーの小型オートバイです。2017年5月、スーパーカブの独特のデザインが認められ、乗り物としては日本初の立体商標として登録されています。

 2017年10月19日、本田はスーパーカブの累計生産台数が1億台を超えたことを発表、同一シリーズの乗り物として世界最多の生産台数および販売台数となりました。

【関連記事】

日産自動車フェアレディZを発表(1969年10月18日)

スーパーカー全国縦断フェスティバル(1977年)|カウンタックLP-400

円太郎バス走る|都バスの日 (大正13年 1924年1月18日)

バスガールの日(1920年2月2日)

トミカ No.87 ホンダ スーパーカブ (BP)

人気ブログランキングへ


科学・学び 人気記事 一覧 科学・学びブログ天紹介所

 

| | | コメント (0)