カテゴリー「自動車」の26件の記事

2023年9月 9日 (土)

【おもしろ映像】米国の国家を奏でるF1カー

 2012年に5年ぶりにF1世界選手権レースのアメリカグランプリが米国テキサス州オースティンで開催されました。このとき参戦したレッドブルのチームがF1のエンジンでアメリカ合衆国の国家を奏でるパフォーマンスを行いました。

Red Bull Racing F1 Car Plays The Star-Spangled Banner

 チームのメカニックがエンジンの出力を調整するコンピュータプログラムを使ってエンジン音を変化させることにより合衆国国家のメロディーを奏でています。

【関連記事】【おもしろ映像】米国の国家を奏でるF1カー

マルボロマクラーレン M23フォード

第1回インディアナポリス500マイルレース開催(1911年5月30日)

第1回全国自動車競走大会の開催(1936年6月7日)

東京モーターショーの始まり(1954年4月20日)|自動車産業展示会 と第1回全日本自動車ショウ

スーパーカー全国縦断フェスティバル(1977年)|カウンタックLP-400

 

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2023年7月28日 (金)

Good Yearのチャンピオンキャップ

 現在、F1のタイヤはピレリが供給していますが、ピレリは1950年代にもF1にタイヤを供給していました。この時代はダンロップなど複数のタイヤメーカーが参入していました。1960年代になるとダンロップが独占状態になりましたが、1964年から米国のグッドイヤーがタイヤを履いたチームが参戦し、これをきっかけとして翌1965年からグッドイヤーがホンダやブラバムにタイヤを供給するようになりました。1965年の最終戦となった第10戦メキシコGPでホンダのRA272が初優勝したことで、これがグッドイヤーの初優勝になりました。グッドイヤーの368勝の歴史の始まを飾ったのは日本のホンダだったのです。その後、複数のメーカーが参戦しますがグッドイヤーが独占状態となりました。

 自分がF1を見るようになったのは1970年代半ばです。 F1世界選手権の日本開催のきっかけ1974年11月23日に富士グランチャンピオンレース最終戦のイベントとして行われた5台のF1による20周のデモンストレーション走行でした。この2年後の1976年10月22日から10月24日にかけて富士スピードウェイで日本初のF1世界選手権となる「1976年F1世界選手権イン・ジャパン」が開催されました。このレースは1976年のF1世界選手権第16戦として開催されました。1977年10月23日に富士スピードウェイで1977年F1世界選手権第17戦目となる決勝レースが開催されました。このレースでは大事故が発生し、以降のF1日本開催は中止となりました。

 マルボロマクラーレン M23フォード 

 当時F1のメカニックがかぶっていたグッドイヤーの帽子がかっこ良くてどこかで売っていないかと友達と探しました。するとグッドイヤーのタイヤを販売しているガソリンスタンドで売っていることがわかり買いに行きました。当時の価格で2000円ぐらいだったように思います。このグッドイヤーの帽子はチャンピオンキャップではなく、スタッフがかぶっているつばに刺繍のない帽子です。この帽子は10年ぐらい使っていたのですがボロボロになってしまいました。

つばに刺繍のないGood Yearの帽子
つばに刺繍のないGood Yearの帽子

 ちょうどその頃F1の日本開催の気運が高まり1987年にF1世界選手権第15戦日本GPが開催されました。再びグッドイヤーの帽子を探して帽子屋さんやガソリンスタンドを回ったのですが、見つけることはできませんでした。結局、帽子が手に入ったのは1990年代に鈴鹿サーキットに行ったときです。つばに刺繍のないものを探しましたが見つからず、チャンピオンキャップを買いました。この帽子も長くかぶっていますが、すっかり色あせてしまいました。ジョギングのときにかぶっています。ジョギングの後に水で洗うのですが、そのときだけかつての色が蘇ります。

Good Yearのチャンピオンキャップ
Good Yearのチャンピオンキャップ


 グッドイヤーは1998年にブリジストンが年間王者となるとF1から撤退しました。この帽子も姿を消しました。

【関連記事】Good Yearのチャンピオンキャップ

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第1回インディアナポリス500マイルレース開催(1911年5月30日)

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2023年5月30日 (火)

第1回インディアナポリス500マイルレース開催(1911年5月30日)

 インディアナポリス500は米国インディアナ州のインディアナポリス・モーター・スピードウェイで毎年5月に開催される自動車レースです。モナコグランプリ、ル・マン24時間レースと並ぶ世界3大レースとして知られています。このレースは500マイル(約800 km)を走り、33台のマシンが参加します。オーバルトラックの最高速度は380 km/hにも達します3。

 インディアナポリス・モーター・スピードウェイは砂利とタールのコースとして1909年に建設されました。当初はオートバイレースなどの小規模なイベントが行われましたが、長距離レースが行われるようになりました。多くの観客が集まったことからコースはレンガで舗装されました。イベントに多くの観客が訪れましたが間もなく人気は下火となり観客数が減り始めました。そこで特徴のある単一のレースを開催することになり、当時の時速120 kmのレースカーで朝スタートして日が暮れるまでに完走できる500マイル(800 km)のレースを開催することになりました。 

 最初のインディアナポリス500は1911年5月30日に開催されました。エンジンの最大サイズは600立方インチ(9,800cc)でした。第1回の優勝者はマーモンモデル32を駆るレイ・ハルーンでした。平均速度は74.602マイル/時(120 km/h)でした。レースのルールではレーサーの他にライディングメカニックが同乗する必要がありましたが、レイ・ハルーンはバック・ミラーを装着したマーモンで単独で走行しました。ルール違反が指摘されましたが最終的には認められ、これが世界初のバックミラーを装着したレーシングカーによるレースとなりました。

1912年インディアナポリス500で優勝者ジョー・ドーソン(ナショナル)
1912年インディアナポリス500で優勝者ジョー・ドーソン(ナショナル)

 インディアナポリス500の平均速度は約360 km/hで最高速度は380km/hになります。この速度は周回レースの速度としては最も速く、F1レースの最高速度372.4 km/hを上回ります。単純な周回レースのように見ますが33台のマシンがテール・トゥー・ノーズでかつタイヤが接触しそうなサイドバイサイドで競い合う激しいレースです。

 このレースに初めて参戦した日本人ドライバーはヒロ松下で1990年のことです。その後、佐藤琢磨、中嶋一貴、小林可夢偉などの日本人ドライバーが参戦しています。とりわけ佐藤琢磨は2017年と2020年に2回の優勝を果たしています。

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2023年5月 7日 (日)

日本初の純国産蒸気自動車の試運転(1904年5月7日)

 世界初の実用的なガソリン自動車が発明されたのは1885年にベンツが開発した3輪自動車です。その4年後の明治31(1898年)、日本に初めて自動車がやってきました。この自動車はフランスから輸入した「パナール・ルヴァッソール」というガソリン自動車でした。輸入されたのはわずかな台数だったので人々の目に触れることはありませんでした。

 日本で国産自動車が開発されるようになったのは20世紀に入ってからです。明治36年(1903年)に大阪天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会でアメリカ製の8台の自動車が注目を受けました。

 この博覧会で初めて自動車を目にした岡山の資産家の森房造と楠木健太郎は自動車が魅了されました。しかし、当時の輸入自動車の価格は9千円もしたのです。この頃の日本の公務員の初任給は8〜9円ぐらいで1円は現在の2万円以上の価値がありました。当時の9000円は数億円に相当したのです。資産家とは言え簡単に買えるものではありませんでした。

 そこで森と楠木は国産自動車を開発し岡山で馬車の代わりにバスを走らせようと考えました。国内には自動車を製造する会社は存在していませんでしたから、自動車を開発できる能力がありそうな技技術者を探しまた。そして、官民で電気や機械の経験を積んだ後に岡山に戻り電気器具、動力用蒸気機関、発電機の修理製造をしていた山羽電気工場の山羽虎夫に自動車の製作を依頼しました。山羽は自動車技術の知識や経験がありませんでしたが自動車開発に興味を持ち着手することにしました。

 山羽は神戸で輸入会社をしていた兄の元を訪れ自動車開発について相談しました。その会社は自動車の輸入販売も手がけており、山羽が訪れたときに2台の輸入自動車がありました。山羽はイタリア人の自動車技術を紹介され、実物の自動車を見ながらその仕組みを学ぶことができました。岡山に戻った山羽は自動車に関する文献を読み自動車の研究開発を進めました。そして昭和36年(1903年)9月に全長4.55メートルの10人乗りの蒸気自動車の設計を始めました。ボディはケヤキを使った木製でした。2気筒の蒸気式エンジンがミッド・シップで配置され後輪の車軸をチェーンで駆動する構造になっていました。タイヤは空気入りのものを作ることができずゴムを使いました。そして、明治37年(1904年)4月に純国産としては日本初の自動車「山羽式蒸気自動車」が完成しました。

 「山羽式蒸気自動車」の試運転が行われたのは同年5月7日です。山根の会社近くから森の家までの10 kmがコースとして選ばれました。沿道でたくさんの人々が見守る中、「山羽式蒸気自動車」のエンジンは順調にスタートし時速15 km程度で走行を始めました。しばらく走行するとタイヤを取り付けるボルトが膨れタイヤのゴムが外れたり、タイヤが変形したりしました。修理をしながら走行したと伝えられていますが目的地にたどり着くことができたかどうかは諸説あるようです。当時の技術では国産の実用的なタイヤを開発する目処が立たず、また資金調達ができなくなったことから前年ながら「山羽式蒸気自動車」の開発は中止となりました。

日本初の国産自動車 山羽式蒸気自動車のレプリカが118年前の試走ルートをたどる【岡山】

 山根はこの経験から明治42年(1909年)にガソリンエンジンを開発し、これを改造した自転車の取り付けた自動二輪車の製造・販売を行いました。

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2023年4月20日 (木)

東京モーターショーの始まり(1954年4月20日)|自動車産業展示会 と第1回全日本自動車ショウ

 「東京モーターショー」は日本自動車工業会が主催する自動車展示会です。世界中の自動車メーカーが集まり新車や自動車に関する最新技術やデザインを紹介する見本市です。その規模は世界最大級で「車の祭典」とも呼ばれています。

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 「東京モーターショー」は1954年4月20日~29日まで日比谷公園で「第1回全日本自動車ショウ」として開催されました。この「第1回全日本自動車ショウ」が開催されたきっかけは約1年前の1953年5月14日から17日まで上野恩賜公園で開催された「自動車産業展示会」に遡ります。

 世界で初めて発明された実用的なガソリン自動車は1885年にベンツが開発した3輪自動車でした。日本に自動車がやって来たのは明治31年(1898年)です。これはフランスから輸入した「パナール・ルヴァッソール」というガソリン自動車でしたが、わずかな台数しか輸入されなかったので人々の目に触れることはありませんでした。

 明治36年(1903年)に大阪天王寺で開催された第5回内国勧業博覧会でアメリカ製の8台の自動車が出展され注目を受けました。これをきっかけに日本で国産自動車の開発の機運が高まりました。様々な国産自動車が開発されましたが、アメリカ製の自動車は当時既に量産体制が整っていました。アメリカのフォード・モーター社が大正14年(1925年)に横浜に工場、ゼネラルモーターズ社が昭和2年(1927年)に大阪に工場を設立してノックダウン生産を開始すると、両者は瞬く間に日本の自動車市場を席巻しました。このような状況のもと日本の自動車メーカーも優れた国産自動車を独自に開発するべく研究を重ねました。

 第二次世界大戦に向けて日米関係が悪化するとフォードとGMは日本から撤退を余儀なくされ、日本の自動車会社にチャンスが回ってきました。戦時中は日本の自動車会社が軍用車の開発製造を手がけたこともあり国産自動車の技術は高まりました。しかし、日本が第二次世界大戦に負けると、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は自動車の生産を禁止としたのです。再び自動車の生産が許可されると日本政府は経済復興のために国産自動車の生産を促しました。欧州の自動車会社と連携して自動車の開発製造をしたり、独自に自動車の開発製造が行われるようになりました。こうして国産自動車は息を吹き返したのです。

 昭和28年(1953年)に開催された「自動車産業展示会 」は大正12年(1923年)の関東大震災後に都電に替わって活躍したバス事業の
50周年を記念して日本乗合自動車協会が主催したものです。この「自動車産業展示会 」を開催するにあたって尽力したのが1951年に自動車会社の親睦と情報交換を目的として日産自動車、トヨタ自販、いすゞ自動車、日野ヂーゼル工業、民生デイゼル工業、三菱ふそうの6社の宣伝担当者が発足させた「六日会」でした。「六日会」のメンバーは競合各社の垣根を取り払い自動車会社が強力して世界に通じるモーターショーの開催をめざしました。

 「自動車産業展示会 」にはバスやトラックが主体の見本市でしたがトヨペットやプリンスの乗用車も展示されました。この展示会がモーターショーの開催の機運が高まり翌昭和29年(1954年)4月20日に「全日本自動車ショウ」が開催され自動車メーカー8社を含む自動車産業に関わる254社が参加したのです。展示された車両は267台、トラックなどの商用車やオートバイが主体の展示となりましたが、17台の乗用車が展示されました。当時は一般庶民が自動車を所有できる時代ではありませんでしたが10日間の開催で54万7000人が来場したのです。

 昭和39年(1964年)の第11回(1964年)に「東京モーターショー」と名称が変更され本格的な国際モーターショーを目指すことになりました。昭和48年(1973年)の第20回まで毎年開催されましたが昭和49年(1974年)はオイルショックで中止、昭和50年(1975年)の第21回以降は隔年の開催となりました。

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2022年11月24日 (木)

【面白映像】ハイウェイの恐怖

 ハイウェイを疾走する1台の自動車。対向車線は混んでいるが、こちら側はなぜか他の車は見当たらない。

 気分良くハンドルを握り車を走らせるドライバーの男。ふとサイドミラーをのぞくと、そこにはなんとハイウェイに緊急着陸しようとしている航空機が映っている。

 これはまずい!男はアクセルを踏み込み加速するが、着陸してくる飛行機の速度に敵うはずもなく追いつかれてしまう。

 運悪く飛行機の全部が車の屋根に乗ってしまう。つまり車は固定されてしまい自ら車線を変更することができない状態に。

 そこにハイウェイを逆走してくる1台の車。ドライバーはおばあちゃん。前方がちゃんと見えていなさそう。

 おばあちゃんの車はまっすぐに男の車に向かってやって来る。

 このままだと正面衝突だ!男は覚悟を決めて顔をそむける。

 さぁ、男とおばあちゃんの運命はいかに!

Old Lady Drivers!

 実はこの映像、YouTubeがまだない頃に米国の知人がURLを教えてくれたのです。20年以上前だったかもしれません。映画のような秀逸な出来映えに感心したものです。

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2022年8月 5日 (金)

タクシーの日(1912年8月5日)

 日本でタクシーの営業が開始したのは大正元年(1912年)8月5日とされています。明治45年(1912年)7月10日に東京市麹町区有楽町(現:有楽町マリオン)で創業したタクシー自働車株式会社がT型フォード6台で営業を開始しました。これが日本で初めてのタクシーの営業だったことから、全国ハイヤー・タクシー連合会が平成元年(1989年)に8月5日を「タクシーの日」と制定しました。

T型フォード
T型フォード

 日本初のT型フォードのタクシーにはタクシーメーターが搭載されていました。当初の運賃は最初の1.6 kmが60銭だったそうです。当時の鉄道の新橋ー品川間の料金は6銭でしたからタクシーはずいぶん贅沢な乗り物だったのです。

 さて8月5日が「タクシーの日」とされているのは間違いありませんが、日本の自動車史研究家の佐々木烈氏によると当時の新聞広告などから本当のタクシーの営業開始日は8月15日だったようです。同氏の調査によればタクシー自働車株式会社の設立は7月10日で間違いないようですので8月5日が何に由来して「タクシーの日」となったのかについてはよくわかっていません。元々の営業開始日は8月5日に予定されていたが明治天皇の崩御によって8月15日に延期されたのではないかという説があります。

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2022年7月 1日 (金)

快進社創立(1911年7月1日)

 「快進社(かいしんしゃ)」は橋本増治郎が1911年7月1日に創立した日本初の国産自動車メーカー「快進社自働車工場」です。

 「快進社自働車工場」は大正3年(1914年)3月20日から7月31日に東京府が主催して上野で開催された東京大正博覧会でエンジンを含む純国産自動車を出品しました。この「脱兎号(DAT CAR)」と名付けられた3人乗りの乗用車はV型2気筒10馬力エンジンを搭載し最高速度は時速32キロメートルで走ることができました。

快進社の創立者 橋本増治郎
快進社の創立者 橋本増治郎

 脱兎号のDATには由来があり、Dは橋本の支援者で田健治郎(でんけんじろう)、Aは橋本の同郷の友人の通信気樹種者で後の安中電機製作所(現:アンリツ)社長の青山祿郎、Tは日本工業会に大きな貢献をしたコマツの創業者の竹内明太郎を意味していました。

 「快進社自働車工場」は大正7年(1918年)に「株式会社快進社」となりこの年に直列4気筒15馬力エンジンで5人乗のダット41型の製造を始めました。第一次世界大戦を経て快進社は大正14年(1925年)に解散し、合資会社ダット自動車商会となりました。

 1926年、「合資会社ダット自動車商会」は1919年に「久保田鉄工所(現:クボタ)」の出資によりが設立されていた「実用自動車製造株式会社」と合併し「ダット自動車製造株式会社」となりました。

 「ダット自動車製造株式会社」は軍用保護自動車の製造を行っていましたが昭和に入ると小型自動車の施策を開始し、昭和5年(1930年)に試作車を完成させました。そしてDATの息子(SON)の意味をもつDATSONと名付けました。このときDATの意味が改められ、DはDurable(耐久性)、AはAttractive(魅力的)、TはTrustworthy(信頼)とされました。DATSONの量産が始まるとSONが「損」と読めるため同じ発音で太陽を意味するSUNに変更されDATSUNとなりました。

 DATSUNの製造は順調でしたが軍用保護自動車の製造メーカーが統合されることになりました。昭和8年(1933年)に「ダット自動車製造株式会社」は「株式会社東京石川島造船所」傘下の「石川島自動車製造所」と合併し「自動車工業株式会社」となりました。この「自動車工業株式会社」は「現在のいすゞ自動車株式会社」になりますが、DATSUNの商標と小型車両部門と工場は戸畑鋳物と日本産業株式会社の共同出資で設立された「自動車製造株式会社」に引き継がれました。

 昭和9年(1934年)、「自動車製造株式会社」は「日産自動車」へと社名を変更したのです。

ダットサンのDNAをひも解く

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2022年6月16日 (木)

【おもしろ映像】チーターとフォーミュラE(FE)のドラッグレース

 ABB Formula Eのチャンネルに南アフリカで行われたチーターとフォーミュラE(FE)のドラッグレースの動画がアップされています。

チーターとフォーミュラE(FE)のドラッグレース
チーターとフォーミュラE(FE)のドラッグレース

 FEを駆るのは元F1レーサーでFEレーサーに転向したフランスのジャン=エリック・ベルニュです。FEは現在第二世代となっており最高速度は時速280 km、時速100 kmまでの加速はわずか3秒です。

 一方のチーターの最高速度は時速100 kmを超え、96 kmまでの加速時間は3秒という報告があります。どちらも時速100 kmまで約3秒ですがチーターが最高速度で走り続けることができるのは数百メートルです。

 このドラッグレースはチーターが疾走できる短距離で行われました。スタートのタイミングが合うかどうかなどの心配ごとはありますが、両者ともに正常にスタートを切ったようです。動物の脚とモーターの対決、さてどちらに軍配があがったのでしょうか。

 

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2022年6月 7日 (火)

第1回全国自動車競走大会の開催(1936年6月7日)

 1936年6月7日、日本初の本格的な自動車レース「第1回全国自動車競走大会」が日本自動車競走倶楽部により開催されました。この大会はかつて神奈川県川崎市中原区の多摩川河川敷に存在した多摩川スピードウェイ(オリンピアスピードウェイ)で開催されました。

第2回全国自動車競走大会
第2回全国自動車競走大会

 多摩川スピードウェイは日本のみならずアジア初の常設サーキットで長径460メートル、短径260メートル、1周1,200メートルの楕円形の左回りのダートトラックをもつサーキットでした。多摩川の河川敷の土手にコンクリート製の観客席を備えていました。この観客席は数千人を収容することができ、またサーキット全体では最大で3万人の観客を収容することができました。

 第1回全国自動車競走大会にはフォード・ブガッティ・ベントレーなどの外車にくわえて日産や本田をはじめとする国産車も参加しました。このとき本田宗一郎は自ら製作した「浜松号」で参加しましたが接触事故で負傷しリタイアしています

 国産小型レース杯で優勝したのは三井物産グループのオオタ自動車工業の「オオタ号」でした。ダットサンの優勝を確信していた日産自動車の鮎川義介社長は敗北したことに衝撃を受けて必ず優勝できる自動車を開発するよう厳命しました。日産自動車は同年10月25日に開催された第2回全国自動車競走大会において優勝を果たしています。次の影像はダットサンが優勝した第2回の様子を撮影したものです。

[MS HISTORY] Tama river Datsun Race

 多摩川スピードウェイの跡地は野球場やサッカー場になっていますが河川敷にはコンクリート製の観客が残っていましたが2021年に堤防の改修のため取り壊され一部が記念として残されました。

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