カテゴリー「自動車」の14件の記事

2022年4月25日 (月)

日本初は別に存在していた|歩道橋の日(1963年4月25日)

 子どもたちを交通事故から守り安全に道路を渡らせる歩道橋。いまでこそ歩道橋はよく見かけますが昭和40年代は歩道橋は珍しい施設でした。

横断歩道橋
横断歩道橋

 日本で初めて歩道橋が設置されたのがいつなのか調べてみたところ4月25日が「歩道橋の日」とされていました。これは昭和38年(1963年)4月25日に日本初の歩道橋が大阪駅西口中央郵便局前に設置されたことに由来します。この高さ5.5メートル、長さ47.5メートル、幅4メートルの歩道橋は大和ハウス工業株式会社と川崎製鐵株式会社が共同で寄贈したものです。「大阪駅前交通安全陸橋」と名付けられ、1991年に駅前が再開発されるまで使用されました。

 ところが日本で初めて設置された歩道橋はこの歩道橋ではありません。昭和34年(1959年)6月27日に愛知県清須市(当時:西春日井郡西枇杷島町)で近隣の学校に通う子どもたちを交通事故から守るため鉄筋コンクリート製の「学童専用陸橋」が設置されました。竣工式には町長をはじめとした多くの町民が参加し渡り初めを行いました。後に「西枇杷島町横断歩道橋」と名称が変更されましたが設置当時は歩道橋という用語はなかったようです。

 当時、高度経済成長期において交通事故が増加する中で横断報道は自動車を優先した施設という指摘もありましたが、子どもを交通事故から守ることができると高く評価されるようになり各地で歩道橋が設置されるようになりました。「西枇杷島町横断歩道橋(学童専用陸橋)」は2010年まで50年間に亘って使用されましたが老朽化と道路拡張のため同年3月に市民が渡り納めを行いその後撤去されました。

 「大阪駅前交通安全陸橋」の設置日が「歩道橋の日」となったのは「学童専用陸橋」の存在が認知されていなかったからでしょうか。日本記念日協会のページでは「歩道橋の日」は見つかりませんでした。

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2022年3月19日 (土)

都内観光バス「はとバス」運行開始(1949年3月19日)

 東京で初めて路線バスを運行したのは民営バス会社の東京市街自動車(後の東京乗合自動車)です。大正8年(1919年)に運行を開始したこのバスは車体が深緑色で都民から「青バス」と呼ばれて親しまれていました。

 一方、東京で初めて運行された観光バスは東京遊覧乗合自動車が大正14年(1925年)に東京乗合自動車の協力を得て営業を開始した遊覧バスです。このバスは上野を起点として皇居、日比谷公園、愛宕山、明治神宮、浅草観音、銀座通りなどを遊覧する路線バスとして運行されました。遊覧バスには2名の案内人が乗車し観光ガイドを行いました。間もなく経営基盤の弱かった東京遊覧乗合自動車は遊覧バスの定期運行を確実にするため大正15年(1926年)に東京乗合自動車に定期遊覧バスの事業を譲渡し共同営業としました。

東京遊覧乗合自動車の遊覧バスと新聞広告
東京遊覧乗合自動車の遊覧バスと新聞広告

 昭和に入ると東京乗合自動車は経営難となり昭和10年(1935年)に日本初の地下鉄を開業した東京地下鉄道が東京乗合自動車の親会社となりました。これに伴い東京遊覧乗合自動車も大東京遊覧自動車に社名を変更ました。この会社の社長には東京地下鉄道の創業者の早川徳次が就任しました。

 昭和14年(1939年)に第二次世界大戦が始まると翌昭和15年(1940年)10月に遊覧バスは営業休止となりました。戦乱の中で東京地下鉄道のバス事業は昭和17年(1942年)に東京市に買収され、これに伴い遊覧バスの営業権も東京都に移動しました。第二次世界大戦終了後、東京地下鉄の社員だった山本龍雄が東京都に対して遊覧バス事業の払い下げを求めました。昭和23年(1948年)、東京市は遊覧バス事業の営業権を日本観光に与えることを決定し、同年8月に東京市などの出資を受けて新日本観光が設立されました。

 この新日本観光のバスにはシンボルマークとして鳩が描かれていました。鳩が選ばれた理由は、鳩が平和や安全のシンボルだったこと、伝書鳩が目的地に到着した後に必ず厩舎に戻ってくることからバスの安全運行の願いを込めたからだそうです。この鳩のシンボルマークにより、新日本観光の遊覧バスは「はとバス」と呼ばれて親しまれるようになりました。そして昭和38年(1963年)9月1日、新日本観光は「株式会社はとバス」と社名を変更しました。

 自分は子どもの頃に「はとバス」に乗ったことがありますが、その後しばらくは「はとバス」に乗る機会はありませんでした。東京都民で「はとバス」に乗るのもなという思いも正直ありました。あるとき仕事で外国のお客様を観光案内する機会がありました。このとき自ら案内コースを考えるのは面倒だったため「はとバス」による東京観光に連れていったのです。外国のお客様は東京の有名な観光地をあっという間に巡ることができたと大喜びしました。お客様に感謝されながら自分も「はとバス」の東京観光に感激していたのです。それ以来、東京観光の機会があるたびに「はとバス」を利用したり、利用を勧めるようになりました。

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2022年3月15日 (火)

ロールス・ロイス社の創業(1906年3月15日)

 ロールス・ロイスと言えば高級な自動車や航空機エンジンの製造で有名なブランドです。現在は自動社はドイツのBMWの子会社ロールス・ロイス・モーター・カーズが製造・販売を手がけ、航空機エンジンをはじめとする工業機械はロールス・ロイス・ホールディングスが製造・販売を手がけいます。この2つの会社はその起源は1906年に創立されたロールス・ロイス社ですがお互いに独立した企業です。

 ロールス・ロイスの社名の由来は2人の創業者の名前に因んでいます。1人はイギリスで欧州車の輸入代理店を経営していたチャールズ・スチュアート・ロールズ、もう1人はイギリスで電気機器メーカーを経営していたフレデリック・ヘンリー・ロイスです。

チャールズ・スチュアート・ロールズとフレデリック・ヘンリー・ロイス
チャールズ・ロールズ(左)とヘンリー・ロイス(右)

 ロールズはイギリスの裕福な家庭に生まれ学生の頃からエンジンに興味を持ち始めモーター・スポーツの幕開けに貢献しました。やがて技術者より自動車業界のビジネスマンとして能力を発揮するようになり、1903年にイギリスで初の自動車輸入販売代理店「C.S.ロールス社 (C.S.Rolls & Co.) 」をクロード・グッドマン・ジョンソンと設立し自動車の輸入・販売を始めました。当時のイギリスには優れた自動車を開発する技術がなく、ロールズとジョンソンは国産の優秀な自動車の登場を期待しました。

 一方、ヘンリー・ロイスは貧しい家庭に生まれ苦学して電気技術者になりました。1884年に知人と電気器具製造メーカー「F.H.ロイス社 (F. H. Royce Co.)」を設立しました。ロイスは安全な発電機とモーターや小型クレーンを開発し事業に大成功します。

 1902年、ロイスはフランスのドゴービル社製の自動車「12HP」を購入しましたが、あまりの故障の多さに呆れその実用性の低さに強い不満を抱きました。この頃、電気機器の競合他社が台頭し始め、ロイスと共同経営者アーネスト・クレアモントは競争の激しい電気機器の製造・販売だけでは会社の存続は危うくなる考えていました。

 そこで自動車の将来性を高く評価していたロイスは自動車の自社開発を手がけることを決断しました。そして2年間の開発期間を経て1904年に直列2気筒1,800 ccエンジンを搭載した自動社「10HP」を発売しました。この「10HP」を購入したヘンリー・エドマンズは「10HP」が非常に優れた自動車であることを実感しました。

 エドマンズはロールズの知り合いでロールズがイギリス製の優秀な自動車の登場を心待ちにしていることを知っていました。エドマンズは「10HP」をロールズに紹介、1904年5月にローロズとジョンソンに引き合わせました。「10HP」を見て感銘したロールズとジョンソンはロイスが製造する自動車の販売を手がけることにしました。

 当初はロールス社とロイス社は別会社でロールス・ロイスブランドの自動車の製造・販売を手がけましたが、イギリス国内製の優秀な自動車として人気となりました。こうしてロールズとロイスによって1906年3月15日にロールス・ロイス社が創立されたのです。

 ロールス・ロイス社の創立時「陸上、水上、空中で使用するエンジンを製造する」という目標が掲げられていました。ロールス・ロイス社はこの目標通りの会社として成長したのです。日本の国産旅客機YS-11にもロールス・ロイスのエンジンが採用されています。

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2022年3月 3日 (木)

スバル360発表(1958年3月3日)

 フォルクスワーゲンの「かぶと虫」に対して「てんとう虫」と呼ばれ親しまれたスバル360。スバル360は当時富士重工業だったSUBARUが開発した軽自動車で1958年から1970年まで生産・販売されました。生産台数は39万台を超え国産としては初の大衆車となりました。1960年代を代表する自動車ですが昭和のレトロカーとして現在においても現役で走っているところを時々見かけます。

 1950年代後半、国産自動車メーカーが乗用車の製造販売をしていましたがその価格は1000 ccの小型自動車でも100万円でした。昭和31年(1957年)の当時の大卒男子の初任給は13,800円ですから乗用車は高嶺の花だったのです。低価格の乗用車を販売するには軽自動車の開発が必要でしたが当時の軽自動車の規格は3輪車用で4輪の軽自動車を開発できるものではありませんでした。1952年に愛知県名古屋市の中野自動車工業が250 ccの「オートサンダル」という4輪軽自動車を製造販売しましたが実用的ではなかったため2年ほどで製造中止となりました。その後もいくつかのメーカーが4輪軽自動車の製造販売をしましたがどれも長続きしませんでした。

 1954年9月、「新・道路交通取締法」が施行されると軽自動車の規格が改められ排気量が360 ccに統一されました。この規格に沿って開発された国産初の4輪軽自動車は昭和30年(1955年)に発売された鈴木自動車工業の「スズライト」のみでしたが軽自動車は一般的ではなく生産台数は伸び悩みました。

 1952年、富士自動車工業は1500 ccの4ドアセダン「スバル1500」の開発に着手しました。富士重工業の前身の富士産業はもともとは中島飛行機でエンジンや金属モノコックの技術に長けていました。1954年に「スバル1500」の試作もできあがりましたが採算が合わずとりわけ価格面で市場競争力がないという懸念がありました。1955年、富士自動車工業を吸収合併した富士重工業は「スバル1500」の市販を断念し開発を中止しましたが同時に360 ccの軽自動車用エンジンと4人乗りの軽自動車の開発に着手しました。この背景にはラビットスクーターの成功と軽自動車用エンジンの開発への自信がありました。この軽自動車の開発には「スバル1500」の経験が大いに役に立ちました。部品も汎用品の寄せ集めではなくネジひとつから最適化されて設計されたものでした。これによって車内スペースも広がり4人乗りでも安定して走ることができる高性能の軽自動車に仕上がりました。

 さて「てんとう虫」と呼ばれた「スバル360」のデザインはラビットスクーターのデザインを担当したインダストリアルデザイナーの佐々木達三が担当しました。佐々木達三は公衆電話の赤電話やピンク電話のデザインを担当したことでも有名です。初めて自動車のボディをデザインすることになった佐々木は自ら運転免許を取得し「日野ルノー4CV」を運転して自動車を体験しました。「スバル360」はその形状から「フォルクスワーゲン」を参考にしたと言われていますがフォルクスワーゲンを模して作られたとされる「ルノー4CV」に似ています。また「スバル360」は開発当初から名付けられていたものではなく、名称が決まっていないと聞いた佐々木が「SUBARU 360」のロゴを考案しこれがそのまま車名として採用されることになりました。

 「スバル360」の試作が完成したのは昭和32年(1957年)4月20日です。自動車を販売するには運輸省の認定試験を受ける必要がありました。ことになりました。この試験には600 kmに及ぶ長時間連続走行試験やエンストなしで峠を走る登坂試験がありました。認定試験は1956年2月4日から始まりました。テストドライバーとナビゲータは「スバル360」の積載重量を減らし負担を軽減するため小雪が降る中を薄着で運転したそうです。登坂試験では運輸省の試験官2名が乗車することになっていましたが小さすぎる自動車に乗ることを嫌がった1人が乗車を拒否し体重分の重りを積載することになりました。「スバル360」は認定試験で優れて成績を製造・販売が認められたのです。

 「スバル360」の発表は1958年3月3日12時から東京の富士重工業本社で行われました。この発表はプレス発表であったため富士重工業はカタログしか用意していませんでした。参加した記者から実車の展示と試乗を求められ急遽「スバル360」を2台準備することになりました。「スバル360」が東京本社に届くまで数時間かかりましたが実車を体験した記者たちは「スバル360」の出来映えに感動したそうです。国内外で大反響となり海外の雑誌でも「アジアのフォルクスワーゲン」と紹介されました。

スバル360コマーシャル
スバル360コマーシャル
撮影:Ypy31 Ypy31's website.

 「スバル360」発売開始は昭和33年(1958年)5月1日です。一番最初に購入したのはパナソニックの創業者の松下幸之助です。本体価格は42万5千円で当時の自動車の半額でした。初年度の販売台数は385台でしたが低価格・高性能であることから販売台数が伸び日本の大衆車の代表となり1967年に本田技研工業がN360を発表するまで軽自動車販売台数首位の座を守り続けました。 

 今でも「スバル360」を時々見かけることがありますがとても懐かしい気持ちになります。子どもの頃、隣に住んでいた家族が「スバル360」を持っていたからです。当時、自分の両親は自動車免許証を持っていなかったのでが家族ぐるみでお付き合いしていたので、「スバル360」によく乗せてもらい、いろいろなところに遊びに連れていってもらいました。また学生の頃、友達が買ってきたのが中古の青い「スバル360」でした。この青いスバル360で友人たちと珍道中のようなドライブをしましたが、いつの日かライトやワイパーのプラスチックのボタンが壊れて外れてしまい以降はむき出しになったスイッチの棒をペンチで引っ張ってON/OFFしていました。

 「スバル360」は2016年の日本機械学会の機械遺産に認定されています。

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2021年12月 3日 (金)

個人タクシーの日(1959年12月3日)

 日本で初めてタクシーの営業が開始したのは大正12年(1912年)8月5日です。このタクシーは当時東京市麹町区有楽町にあったタクシー自動車株式会社による法人タクシーでした。

 昭和13年(1938年)、石油や物資の不足を背景に東京のタクシーの営業が混乱し始めたことにより警視庁はタクシー営業を法人に限ることとしました。最低の車両台数を50台としたことによりタクシー会社の統廃合が進み、また個人によるタクシーの営業は事実上できなくなりました。第二次世界大戦が始まると石油資源確保のためタクシーの流し営業が禁止となり、東京では空襲によりタクシーの営業は大打撃を受けました。戦後は政府がタクシー会社の統廃合を進めました。戦後の混乱の中でタクシー営業が復活しました。

 1950年代の後半になり高度成長時代に入ると自動車産業も発展し、大都市を中心にたくさんのタクシーが走るようになりました。しかし、マナーの悪いタクシー運転手が増え、乱暴な運転で交通事故を起こす「神風タクシー」や不当な運賃請求をする「雲助タクシー」などが社会問題となりました。また多くの失業者が営業許可のない白タクを営業するようになりました。市民からは安心して乗れる安全なタクシーを求める声が高まりました。

 このような状況の中で当時の楢橋渡運輸大臣はタクシー業界を改革するため個人タクシーの営業を認可する考えを表明しました。タクシー業界や族議員の反対を押し切って昭和34年(1959年) 8月11日に「永年の無事故・無違反の優良運転者に夢を与え業界に新風を送る」と声明を出しました。同年12月3日に日本で初めて個人タクシーが東京で認可されました。個人タクシーの初認可から50周年を迎えた平成21年(2009年)に全国個人タクシー協会が12月3日を個人タクシーの日と制定しました。

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2021年10月19日 (火)

ホンダのスーパーカブの生産台数が1億台に(2017年10月19日)

 本田技研工業(ホンダ)のスーパーカブは同社が1958年に製造販売を開始した小型オートバイC100に名付けられた名前です。

 もともとホンダは1952年から自転車に装着できるカブという原動機を製造販売していました。競合他社から類似の製品が販売され、さらにスクーターの人気が高まり始めると、ホンダの藤沢武夫専務(当時)は本田宗一郎社長(当時)に原動機とボディ(自転車)を一体化した完成したモペッド(注)の開発を提案しましたが、本田社長は技術的に完成車は作れないと却下しました。

 (注)原動機で走行したり、人力で走行したりすることができるペダルの付いた小型オートバイ

 本田社長と藤沢専務が1956年にヨーロッパを視察したとき、藤沢専務は本田社長に小型オートバイの開発を再提案しました。ヨーロッパでスクーターやモペッドを見たホンダ社長も小型オートバイの開発に興味を持ち、2人はペダルのない小型オートバイの新製品の構想を始めました。

 本田社長は帰国後に小型オートバイの開発に自ら取り組みました。そして、自動遠心クラッチ式変速機、燃費が良く耐久性の高い空冷4ストロークエンジンを開発、これを搭載した小型オートバイ、スーパーカブC100の販売を1958年8月に開始しました。

ホンダ スーパーカブ
ホンダ スーパーカブ

 発売に先立ってこの小型オートバイを見た藤沢専務は月に3万台売れると見積もりました。当時の日本国内のオートバイの販売台数が2万台でしたから3万台という数字は大言壮語に聞こえました。スーパーカブの初年度の年間販売台数は約2,400台、1959年は約16万7千台、1960年は約56万4千台となり、藤沢専務の見積もりが正しかったことが証明されました。

 スーパーカブは1958年の登場以来、現在も人気の高いロングセラーの小型オートバイです。2017年5月、スーパーカブの独特のデザインが認められ、乗り物としては日本初の立体商標として登録されています。

 2017年10月19日、本田はスーパーカブの累計生産台数が1億台を超えたことを発表、同一シリーズの乗り物として世界最多の生産台数および販売台数となりました。

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トミカ No.87 ホンダ スーパーカブ (BP)

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2021年10月18日 (月)

日産自動車フェアレディZを発表(1969年10月18日)

 日産自動車のフェアレディZは日本を代表するスポーツカーのひとつです。

 もともと「フェアレディ」とは日産自動車が1952年にダットサンのブランドで販売を開始したオープンカーの名前でした。1960年代後半に発売されたフェアレディは数々のレースで優勝を飾りスポーツカーとして輝かしい成績を残しています。

 しかしながら、北米でダットサンの市場を拡大しようとしていた北米日産会社にとって小型スポーツカーのフェアレディの市場競争力は必ずしも満足できるものはありませんでした。そこで北米日産の片山豊社長は北米でダットサンを拡販するには北米ユーザーのニーズに応えたスポーツカーの開発が必要であると日産本社へ要求しました。日産本社はこの要求にすぐに応じませんでしたが、片山社長の熱意を認め新しいスポーツカーの開発を決定しました。片山社長は自分が要望するスポーツカーのコンセプトを伝えました。このとき片山社長はスポーツカーの開発部門に勝利と激励の意味を込めてZ旗を送りました。

 Zを旗印として開発されたスポーツカーは1969年10月24日開幕の第16回東京モーターショーに先駆けて同年10月18日に発表されました。日本では翌11月から発売開始となり、Z、Z-L、Z432の3タイプが発売されました。Zは4速MT SOHC L20型エンジンのベースモデル、Z-Lは5速MT SOHC L20型エンジンで内装を充実させたモデル、Z432は5速MT 4バルブ、3キャブ、2カムのDOHC S20型エンジンを搭載した高性能モデルです。またレース用車両としてZ432Rも生産されました。海外ではSOHC L24型エンジンを搭載したダットサン240Zが発売されました。

フェアレディZ
フェアレディZ

 また、Zの特徴的な凹んだライトのフロントマスクとルーフからトランクにかけて滑らかに傾斜するファストバックのデザインは当時の海外のスポーツカーの匹敵する洗練されたデザインでした。

 Zはフェアレディの後継車種として発表されましたが、フェアレディZと名付けられたのは日本国内のみです。海外ではDATSUN ZやNISSAN Zと呼ばれておりフェアレディという名前は使われていません。本家のフェアレディの最終モデルフェアレディ2000はZが発売後も1970年まで生産が続けられました。

 片山豊社長は世界各国で「Z-carの父」として知られ、1998年には米国自動車殿堂入りを果たしています。

トミカ トミカプレミアム 09 日産 フェアレディZ

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2021年10月 3日 (日)

交通戦争一日休戦の日(1971年10月3日)

 高度経済成長の末期、街中をたくさんの自動車が走り交通渋滞や大気汚染が社会問題となりました。このような状況のもと東京都八王子市は昭和46年(1971年)10月3日に毎月水曜日に自家用車の利用自粛と公共交通機関の利用を呼びかけるノーカーデー(ノーマイカーデー)のキャンペーンを実施しました。「交通戦争一日休戦の日」がスローガンとされました。

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 この八王子市の取り組みは各地に広がり現在は多くの自治体でノーカーデー(ノーマイカーデー)のキャンペーン行われています。この日は公共交通機関の割引の一日乗車券が発売されるなどしますが、十分に認知されているとは言えない状態で、自治体の進め方の検討や企業への協力要請などが必要です。レジ袋やプラスチック製スプーンなどの有料化よりもノーカーデーの方が確実に二酸化炭素の排出量の抑制効果があるのではないでしょうか。

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2021年2月 2日 (火)

バスガールの日(1920年2月2日)

 関東大地震の影響により運行が困難となった東京市電の代替輸送手段として東京市営バスの運行が開始したのは大正12年(1923年)1月18日です(ココログ 夜明け前円太郎バス走る|都バスの日 (大正13年 1924年1月18日)」。

 実は東京市営バスの運行に遡ること約5年前の1918年(大正7年)10月、民営のバス会社である東京市街自動車が設立され、1919年(大正8年)3月1日からバスの営業運行を開始しています。東京市街自動車のバスは車体が深緑色であったため、都民から「青バス」と呼ばれ親しまれました。

 〜余談になりますが、緑色のバスが青色と呼ぶれたは日本人が緑色と青色を明確に区別する文化をもっていなかったからです。ご興味をもたれた方はココログ 光と色と青は進めの真実|交通信号の色」をご一読ください〜

 東京市街自動車は関東大震災後のバスの活躍により、営業路線を拡大していきました。東京市街自動車のバスには少年の車掌が常務していましたが、運賃の横領が多いため、女性の車掌を採用することにしました。大正9年(1919年)12月に女性車掌募集の新聞広告を出し、女性車掌を採用、大正10年(1920年)2月2日に女性車掌が登場しました。

東京乗合自動車のバスと女性車掌(白襟嬢)
東京乗合自動車のバスと女性車掌(1934年、撮影:石川光陽)

 東京市街自動車の女性車掌は白襟の洋服にベレー帽の制服を着ていたことから、都民から「白襟嬢」と呼ばれ大人気となりました。

 東京市街自動車と競争していた東京市営バスは1924年から女性車掌を乗務させるようになりました。東京市営バスの女性車掌は赤襟の制服を着ていたため都民から「赤襟嬢」と呼ばれました。

 昭和40年代、子どもの頃にバスに乗ったときには、女性の車掌が必ず乗務していました。顔見知りになった車掌さんもいて、バスに乗ると名前で呼んでくれた車掌さんもいました。昭和40年代後半になると「ワンマン」と書かれた車掌さんの乗っていないバスが走るようになりました。当時は「ワンマン」の意味がわからず、「このバスには犬が何か関係しているのか?」などと思ったりしたものです。

 バスの停留所で待っているときに「ワンマン」のバスがやってくると、とてもがっかりしたものです。やがて、顔を覚えていた車掌さんの姿も見えなくなり、すべてのバスが「ワンマン」になりました。ドア付近には車掌さんがいた場所が残っており、その場所を見ると何か寂しい気持ちになりました。時は流れて、整理券、降車ボタン、運賃表、テープによるアナウンスが当たり前になりました。

 科学と技術が発展し、世の中便利になってくると、競争も激しくなり、効率を重視する必要が出てきます。バスの車掌さんのような仕事が消えていくわけですが、便利になっていく反面で、精神文化的な何かが失われていくような気もします。

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2021年1月20日 (水)

スーパーカー全国縦断フェスティバル(1977年)|カウンタックLP-400

 漫画家の池沢さとしさんの作品「サーキットの狼」は昭和50年(1975年)から昭和54年(1979年)まで少年ジャンプで連載されました。主人公の風吹裕矢がライバルとともにレーサーとして成長していく物語です。「サーキットの狼」には現実の自動車が登場しました。特に欧州のスポーツカーの活躍を描くことにより、スーパーカーブームの火付け役となりました。

 スーパーカーブームがはじまると、スーパーカーの下敷き、消しゴム、カードなど多くの商品が登場しました。また、プラモデルもたくさん作った記憶があります。それでも一番の感動は実物を見ることです。街の中を颯爽と走るスーパーカーを見ると指を差して喜んだものでした。しかしながら、スーパーカーを街で見ることができる機会はそう多くはありませんでした。ですからデパートの屋上などにスーパーカーが展示されると、親にせがんで連れて行ってもらったものです。

 1977年に全国で開催された「スーパーカー全国縦断フェスティバル」の写真がありました。このスーパーカーショーはモーターマガジン社が主催したもので、黄色いランボルギーニカウンタックLP-400が全国各地で展示されました。札幌の丸井今井にカウンタックがやってきたのは6月です。当時は小樽市に住んでいたのですが、父が自分と弟を札幌まで連れて行ってくれました。

 たくさんの親子が見に来ており、本物のカウンタックを目の前にした子どもたちは大興奮していました。

ランボルギーニカウンタックLP-400
ランボルギーニカウンタックLP-400

 カウンタックのドアが開くと大歓声。カウンタックのドアはハサミのように開くのが特徴です。ガルウイングと呼ばれることが多いのですが、このタイプのドアは正しくはシーザードア(シザーズドア)と言います。

カウンタックのシザードア(シザーズドア)を開いたところ
シザードア(シザーズドア)を開いたところ

 次はリアからの写真です。カウンタックはミッドシップと言ってエンジンは車体中央に搭載されています。運転席の後側のリアパネルを開くとエンジンルームが現れます。その後ろのパネルを開くとトランクがあります。

カウンタックのリアからの写真
カウンタックのリアからの写真

 このショーでは抽選か何かで10人ぐらいカウンタックのコクピットに座らせてもらうことができました。写真がないので、自分たちは外れたのでしょう。

カウンタックのコクピット
カウンタックのコクピット

 このショーには次のレーシングカーが端の方にひっそりと展示されていました。車体や展示パネルにCOX R500、RACING SHOP ADACHIと書いてあります。Googleで検索してみましたが見つからず。マッハGOGOGOに出てくるようなレーシングカーですが、よくわかりませんでした。

COX R500
COX R500

フジミ模型 1/24 サーキットの狼シリーズ No.15 カウンタックLP400 ハマの黒ヒョウ

・製品では組み立て易いエンジン無しの簡易モデルをベースにしています。
・新たにデカール ゼッケン12を追加して、流石島レース仕様とします。
・ガルウイングドアは別部品、開閉選択可能です。

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