カテゴリー「プラモデル・模型」の7件の記事

2023年11月 6日 (月)

冒険オートバイ・チャンレンジマシーン

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 実家の押し入れでポピーの「パパとあそぼう冒険オートバイチャレンジマーン」を発見しました。

Photo_20231106103101

 チャレンジマーンはバイクスタントを楽しむことができる玩具です。オートバイをスタート台に取り付けてレバーを回すとオートバイに取り付けられたフライホイールが回転します。運動エネルギーを得たオートバイが勢いよくスタートしコース上のジャンプ台を使って高く飛び上がったり、空中回転したりします。スタントバイクを駆るキャラクターにはイーブル・クニーブル、仮面ライダーストロンガー、秘密戦隊ゴレンジャーの赤レンジャーがあります。

冒険オートバイ チャレンジマシーン ポピー

 勢いよくレバーを回して何度も遊んでいたらとうとうギアが割れてしまい遊べなくなってしまい残念なことになりました。

 当時、アメリカの伝説的なバイクスタントマンのイーブル・クニーブル(Evel Knievel)による命知らずのバイクの大ジャンプが大人気でした。イーブル・クニーブルのスタントを再現したのがこの玩具でした。

Evel Knievel Kings Island 1975 - Farthest Successful Jump at 133 feet

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2023年10月28日 (土)

ルパン三世の愛車「メルセデス・ベンツ・SSK」

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 メルセデス・ベンツ・SSK(W06 II / W06 III / WS06)はダイムラー・ベンツが1928年から製造・販売した自動車です。当時、ダイムラー・ベンツに所属していたフェルディナント・ポルシェが同社を去る前に設計しました。

 ポルシェは自身が開発したSシリーズ・メルセデスベンツW06をもとにSSKを設計しました。SSKは Super Sport Kurzの略でKurzは「短い」という意味です。W06に比べてホイルベースが短縮され旋回性能向上と軽量化を実現しています。7.1リットル直列6気筒OHCスーパーチャジャー付きエンジンを搭載し最大250馬力を出すことができ最高速度190 kmに達し、レースでは敵なしでした。車体を短くしたため2座席のロードスターとして販売されました。当時の市販車としても最速の車両で、生産台数は33台とされています。

 メルセデス・ベンツ・SSKはルパン三世の愛車としても有名です。ルパン三世の第1シリーズ(1971~1972年)に登場します。次の写真はタカラトミー 『 トミカプレミアム unlimited 11 ルパン三世 メルセデスベンツ SSK 』です。

タカラトミー 『 トミカプレミアム unlimited 11 ルパン三世 メルセデスベンツ SSK 』

 

【関連記事】ルパン三世の愛車「メルセデス・ベンツ・SSK」

トミカの日産スカイライン

ポンティアック・ファイヤーバード1968(Pontiac Firebird 1968)

ロータス・ヨーロッパ

スーパーカー全国縦断フェスティバル(1977年)|カウンタックLP-400

ロールス・ロイス社の創業(1906年3月15日)

快進社創立(1911年7月1日)

東京モーターショーの始まり(1954年4月20日)|自動車産業展示会 と第1回全日本自動車ショウ

スバル360発表(1958年3月3日)

日産自動車フェアレディZを発表(1969年10月18日)

HOND CVCCエンジンを開発(1972年10月11日)

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2023年10月10日 (火)

トミカの日産スカイライン

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 スカイラインは1957年にプリンス自動車工業が製造・販売を開始した乗用車です。プリンス自動車工業は1966年に日産自動車と合併し、以降は日産自動車がスカイラインの製造・販売しています。

 タカラトミーのトミカのスカイランを買ってきました。17番が1972年に発売された4代目スカイラインC110型の2000GTです。ケンメリ、ヨンメリなどの愛称で呼ばれました。26番は1989年にj発売された8代目スカイラインR32型のGT-Rです。16年ぶりのGT-Rグレードの復活でした。34番は1968年に発売された3代目スカイラインC10型のGT-Rです。ハコスカの愛称で呼ばれました。

トミカのスカイライン
トミカのスカイライン

 

【関連記事】トミカの日産スカイライン

快進社創立(1911年7月1日)

日産自動車フェアレディZを発表(1969年10月18日)

 

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2023年7月22日 (土)

航空自衛隊YS-11FC 160号機(機体番号12-1160)|八王子「自衛隊まつり」

 八王子駅の駅ビルで「自衛隊まつり」(2023年7月15日 ~17日、八王子オクトーレ)というイベントが開催されていました。航空自衛隊の装備品の展示やグッズの販売が行われていました。ひときわ目に付いたのが「八王子航空基地プロジェクト」という1/144スケールの自衛隊機の模型や格納庫などのジオラマ展示です。たくさん並んでいた模型のなかに航空自衛隊の飛行点検機YS-11FCの160号機を見つけました。

航空自衛隊飛行点検機YS-11FCの160号機の模型
航空自衛隊飛行点検機YS-11FCの160号機の模型

 飛行点検機は航空保安無線施設の機能を点検るための機体でFCはFlight Checkerの略です。YS-11FCにはアンテナや様々な無線機材や検査機器が搭載されています。

 YS-11FCには機体番号52-1151(151号機)、62-1154(154号機)、12-1160(160号機)がありました。このうち最初から飛行点検機として導入されたのが160号機で1971年に納入され運用が始まりました。151号機と154号機はそれぞれ1965年、1966年に要人(VIP)輸送仕様のYS-11Pとして導入されたものをYS-11FCに改造したものです。YS-11FCとしての運用開始は151号機は1992年、154号機は1991からです。

 現在は3機とも退役しています。154号機は2015年、160号機は2019年に退役しました。最後の151号機は2021年3月17日に退役し、日本の空から「ダートエンジン」と親しまれたオリジナルエンジンを搭載した4枚プロペラのYS-11が姿を消しました。

【関連記事】航空自衛隊YS-11FC 160号機(機体番号12-1160)|八王子「自衛隊まつり」

YS-11初公開|YS-11記念日(昭和37年 1962年7月11日)

戦後初の国産航空機YS-11の初飛行(1962年8月30日)

YS-11国内定期路線ラストフライト(2006年9月30日)

YS-11が機械遺産に認定

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2021年5月 2日 (日)

航空自衛隊 F-4EJ ファントム II プラモデル作成

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 航空自衛隊F-4EJ ファントムII戦闘機は昭和43年(1968年)に航空自衛隊が採用を決めました。昭和46年(1971年)7月に米国から航空自衛隊に2機が引き渡され、その後は国内でライセンス生産も行われるようになり140機が導入されました。

 F-15J イーグルの導入により退役が進み、偵察用としてRF-4EJに改造されたり、性能を向上させたF-4EJ改に改造されましたが、老朽化により2020年に全機体が引退しました。2021年3月17日に航空自衛隊岐阜基地でラストフライトと記念式典が行われました。

 ラストフライトは3機で披露され、うち1機は「岐阜かかみがはら航空宇宙博物館」で展示されることになっています。

 ファントム戦闘機は映画やテレビ番組にもたくさん登場していたため、かつてはジェット戦闘機というとファントムの姿を思い浮かべたものです。

 ファントムの現役引退に刺激されて久しぶりにプラモデルを作ることにしました。小学生から高校生までジオラマなどを作っていましたが、大学以降はプラモデルの趣味は特段の理由もなく封印していました。あれから40年近く経過しているのですが、プラモデルの塗料やツールなどだいぶ改善されていてびっくりました。塗料やツールを揃えるのに10,000円ぐらい使ったと思います。プラモデルの価格もかつての価格の2〜3倍はしています。

 買ってきたプラモデルはハセガワの「ハセガワ 1/72 航空自衛隊 F-4EJ ファントム II プラモデル C1」です。

 このプラモデルは価格が712円ととても安いのですが、amazonのレビューにもある通りパーツの出来具合がよくありません。胴体を張り合わせると隙間ができたり、ヨレがあったりします。金型が老朽化しているせいかもしれません。仮組みをして確認しながら、隙間はパテで埋めるんどして作っていこうと思います。

 

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2021年3月24日 (水)

思い出のヨンパチシリーズと三宅模型

 ヨンパチシリーズと聞いてすぐに戦車や歩兵セットのプラモデルとわかる人はそうはいないと思います。ヨンパチシリーズは1972年にバンダイが販売を開始した 1/48スケールのミリタリー模型の「機甲師団シリーズ」でした。

 当時、戦車や歩兵セットのプラモデルというとタミヤの1/35スケールの「ミリタリーミニチュアシリーズ」で、お小遣いを貯めてはよく購入していました。しかし、自分は小学校中学年でしたので、1ヶ月のお小遣いでは歩兵セットは買えても、とても戦車は買うことができなかったのです。

 当時、自分は北海道釧路市に住んでいて、当時入り浸っていた釧路駅前の模型店(三宅模型店)で「機甲師団シリーズ」に出会いました。バンダイの「機甲師団シリーズ」は1/48スケールとタミヤの「ミリタリーミニチュアシリーズ」よりひとまわり小さいのですが、小学生にとっては魅力的な価格でした。記憶では88 m高射砲が400円、8トンハーフトラックは500円ぐらいだったと思います。キューベルワーゲンやシュビムビームワーゲンなどのジープや歩兵セットはさらに安価で、土のうセット、ジェリカンセットをはじめとするアクセサリーセットも豊富にありました。

 毎月のお小遣いで戦車が買えるので、バンダイの「機甲師団シリーズ」を購入するようになりました。当時、同じクラスの友だちだったシロウくんとイサムくんと自分を合わせた3人で「ヨンパチグループ」を結成し、それぞれが作成したプラモデルを持ち寄って並べたり、ジオラマを作成したりしました。シロウくんは手が器用で3人の中では一番プラモデル作りが上手で人形を改造したり、ジオラマを作成したりしていました。シロウくんに影響を受けたイサムくんと自分もジオラマを作るようになったのです。次の写真はその頃に作ったジオラマと思います。まぁ雑な作りでしたし、時代考証もしていませんので出来具合についてはご勘弁を。

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小学生作成のヨンパチシリーズのジオラマ

 あるときバンダイに手紙と作成したプラモデルの写真を送ったら、とても親切な返事がきました。そして、カタログや資料などを送ってくれたのです。ますます「ヨンパチシリーズ」にはまっていったのです。

 当初は「ヨンパチシリーズ」という言葉はあまり知られていなかったようで、先の三宅模型店でも自分たちが「ヨンパチ」「ヨンパチ」と呼んでいたら、ご主人から「これヨンパチって呼ぶの?」と聞かれました。「48分の1だからヨンパチ」と説明してその日は帰ったのですが、次にお店に行ったときには、それまでは品揃えとしてはあまり十分ではなかったのに、なんと「機甲師団シリーズ」のコーナーができていました。そして「ヨンパチシリーズ」というポップ広告が出ていたのですから3人で大喜びした記憶があります。

 設計図やバンダイから送ってもらった資料などはノートに貼って大事に保存していたのですが、実家を探しても見当たりません。どこかにあるはずなのですが。そして、自分は1975年に引っ越しで釧路から離れてしまいました。シロウくんもイサムくんも、それ以来会っていませんし、今となっては年賀状も途絶えて連絡先もわかりません。

 以前、三宅模型店さんのホームページを見つけて、掲示板に上記のような話を書き込んだところ返事をいただいたことがありました。現在のご主人は三代目とのことです。自分たち悪ガキの相手をしてくれていたのは1970年代前半ですので初代のご主人でしょうか。ご主人にはいろいろよくしていただきました。

 とにかく良い思い出ででした。現在は1/48スケールのミリタリーモデルはタミヤ製のものが手に入ります。最近になって時間を見つけて昔を思い出しながらまた作ってみようかなと考えています。

 

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2021年1月17日 (日)

マルボロマクラーレン M23フォード 

 中学生だった頃に作成したマルボロマクラーレン M23フォードのプラモデルの写真が出てきました。下手くそながら塗装、組み立てからデカール貼りまで、ずいぶん時間をかけて作った記憶があります。なぜマルボロマクラーレンのプラモデルを作ったかというと、初めて開催されたF1日本グランプリをテレビで見たからです。

マルボロマクラーレンM23フォードのプラモデル(カラー着色)
マルボロマクラーレンM23フォードのプラモデル

 1977年10月23日に富士スピードウェイで1977年のF1世界選手権第17戦目となる決勝レースが開催されました。日本でのF1レースは前年に「F1世界選手権イン・ジャパン」として開催されていました。このレースは富士グランチャンピオンレース最終戦のイベントとして開催されたもので、海外のF1チームやドライバーが参戦していますが、F1世界選手権の公式なレースではありませんでした。

 この日本グランプリには当時チャンピオンとして君臨していたフェラーリのニキ・ラウダ選手が参戦しておらず、代役として当時は無名のジル・ヴィルヌーヴ選手が参戦しました。決勝戦の6週目で14位だったヴィルヌーヴ選手のフェラーリT312T2の左前輪が第一コーナー入り口でロニー・ピーターソン選手のティレルの6輪車P34の右後輪に接触し、カタパルトで飛ばされたかのように空中に舞い上がりました。フェラーリは逆さまに落下し、側転してエスケープゾーンに突っ込んだ状態で停止しました。事故の規模にもかかわらずヴィルヌーヴ選手は無傷でしたが、立ち入り禁止区域にいた観客と警備員の2人が死亡しました。

 レースは中心とはならずに続行し、予選2位のジェームス・ハント選手のマルボロマクラーレンM23フォードがすべての周回においてトップのラップタイムを出す独走となりました。ハント選手は2位のカルロス・ロイテマンのフェラーリを約2分近く離してゴールし、優勝を果たしました。ハント選手は1976年のワールドチャンピオンで、1977年は5位となりました。このレースがハント選手の最後の優勝だったのですが、レース終了後に帰国することになっており、空港までの渋滞を避けたいという理由で帰ってしまい、表彰式には出席しませんでした。

 F1日本グランプリは次の年も行われる予定でしたが、発生した大事故によりF1レースに対する世論の風当たりも強くなったことや、採算が取れなかったことなどで、日本モータースポーツ協会はF1の開催契約を解除しました。

 このニュースを聞いたとき、自分はとてもがっかりしました。こういう経緯もあってTAMIYAのF1のプラモデルを買って作ったのです。

TAMIYA マルボロマクラーレンM23フォード
TAMIYA マルボロマクラーレンM23フォード

 実はマルボロマクラーレンの他に、フェラーリT312T2とティレルP34も作ろうと決めていたのですが、ランボルギーニ・カウンタックなどのスーパーカーのプラモデルが作りたくなり、お小遣いが足りなくなって買わなかったのです(^^;)

 ところで冒頭のカラー写真は下記の白黒写真をAIカラー化したものです。デカールの色の再現が悪く、黄色っぽいオレンジ色になっていたため赤で着色しました。しかし、デカールが赤系統の色であることはきちんと認識されていました。白黒写真も味がありますが、カラー化することで生き生きとします。

マルボロマクラーレンM23フォードのプラモデル
マルボロマクラーレンM23フォードのプラモデル

 最後になりますが、F1が日本で再開されたのは、10年後の1987年鈴鹿サーキットで開催された日本グランプリでした。F1は瞬く間にブームになりましたが、1976年や1977年のレースのことを知っている人はあまり周りにはいなかったように思います。F1!F1と大騒ぎしていた年長の先輩に「え〜、あのレースを知らないの〜」とツッコミを入れたものです。

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