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2021年1月17日 (日)

マルボロマクラーレン M23フォード 

 中学生だった頃に作成したマルボロマクラーレン M23フォードのプラモデルの写真が出てきました。下手くそながら塗装、組み立てからデカール貼りまで、ずいぶん時間をかけて作った記憶があります。なぜマルボロマクラーレンのプラモデルを作ったかというと、初めて開催されたF1日本グランプリをテレビで見たからです。

マルボロマクラーレンM23フォードのプラモデル(カラー着色)
マルボロマクラーレンM23フォードのプラモデル

 1977年10月23日に富士スピードウェイで1977年のF1世界選手権第17戦目となる決勝レースが開催されました。日本でのF1レースは前年に「F1世界選手権イン・ジャパン」として開催されていました。このレースは富士グランチャンピオンレース最終戦のイベントとして開催されたもので、海外のF1チームやドライバーが参戦していますが、F1世界選手権の公式なレースではありませんでした。

 この日本グランプリには当時チャンピオンとして君臨していたフェラーリのニキ・ラウダ選手が参戦しておらず、代役として当時は無名のジル・ヴィルヌーヴ選手が参戦しました。決勝戦の6週目で14位だったヴィルヌーヴ選手のフェラーリT312T2の左前輪が第一コーナー入り口でロニー・ピーターソン選手のティレルの6輪車P34の右後輪に接触し、カタパルトで飛ばされたかのように空中に舞い上がりました。フェラーリは逆さまに落下し、側転してエスケープゾーンに突っ込んだ状態で停止しました。事故の規模にもかかわらずヴィルヌーヴ選手は無傷でしたが、立ち入り禁止区域にいた観客と警備員の2人が死亡しました。

 レースは中心とはならずに続行し、予選2位のジェームス・ハント選手のマルボロマクラーレンM23フォードがすべての周回においてトップのラップタイムを出す独走となりました。ハント選手は2位のカルロス・ロイテマンのフェラーリを約2分近く離してゴールし、優勝を果たしました。ハント選手は1976年のワールドチャンピオンで、1977年は5位となりました。このレースがハント選手の最後の優勝だったのですが、レース終了後に帰国することになっており、空港までの渋滞を避けたいという理由で帰ってしまい、表彰式には出席しませんでした。

 F1日本グランプリは次の年も行われる予定でしたが、発生した大事故によりF1レースに対する世論の風当たりも強くなったことや、採算が取れなかったことなどで、日本モータースポーツ協会はF1の開催契約を解除しました。

 このニュースを聞いたとき、自分はとてもがっかりしました。こういう経緯もあってTAMIYAのF1のプラモデルを買って作ったのです。

TAMIYA マルボロマクラーレンM23フォード
TAMIYA マルボロマクラーレンM23フォード

 実はマルボロマクラーレンの他に、フェラーリT312T2とティレルP34も作ろうと決めていたのですが、ランボルギーニ・カウンタックなどのスーパーカーのプラモデルが作りたくなり、お小遣いが足りなくなって買わなかったのです(^^;)

 ところで冒頭のカラー写真は下記の白黒写真をAIカラー化したものです。デカールの色の再現が悪く、黄色っぽいオレンジ色になっていたため赤で着色しました。しかし、デカールが赤系統の色であることはきちんと認識されていました。白黒写真も味がありますが、カラー化することで生き生きとします。

マルボロマクラーレンM23フォードのプラモデル
マルボロマクラーレンM23フォードのプラモデル

 最後になりますが、F1が日本で再開されたのは、10年後の1987年鈴鹿サーキットで開催された日本グランプリでした。F1は瞬く間にブームになりましたが、1976年や1977年のレースのことを知っている人はあまり周りにはいなかったように思います。F1!F1と大騒ぎしていた年長の先輩に「え〜、あのレースを知らないの〜」とツッコミを入れたものです。

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