カテゴリー「科学・技術」の37件の記事

2021年11月27日 (土)

ノーベル賞制定記念日(1895年11月27日)

 スウェーデンの化学者アルフレッド・バルンハート・ノーベルは1833年に貧しい建築家の家庭に生まれました。父は1837年にロシアのサンクトベルぐで機械や爆発物の製造で成功し兵器開発を手掛けるようになりました。

 ノーベルは父の影響で幼少期から爆発物に興味をもちその原理を学んでいましたが、父が事業成功し家庭が裕福になると化学と語学の英才教育を受けました。1850年にフランスの化学者テオフィル=ジュール・ペルーズの講座を受講し、1851年から4年間米国に留学しました。

 ペルーズの元にはニトロセルロースの研究でパイログリセリンを開発したアスカニオ・ソブレロがいました。パイログリセリンは後にニトログリセリンと改名されますが、ソブレロはニトログリセリンが非常に扱いにくい危険な物質であると警告していました。 ニトログリセリンは黒色火薬より7倍の爆発威力を持つため鉱山の発破に使われていました。しかし、導火線で点火しても爆発せず、そのくせ衝撃や摩擦で爆発してしまうため非常に扱いにくい物質でした。そのため事故が多発していました。

 1856年にクリミア戦争が終結すると父の事業はうまくいかなくなり、1859年に父はノーベルと一緒にスウェーデンに戻りました。ノーベルは1855年頃にはニトログリセリンのことを知っていたようで、スウェーデンに戻るとニトログリセリンの安全な製造方法、保管方法、使用方法などの研究開発を始めました。1863年に特許を取得するものの、この爆薬が危険であることには変わりありませんでした。

 1864年にノーベルの弟と助手の計6名がグリセリンの精製中に爆発事故で亡くなりノーベル自身も怪我を負いました。この事故でスウェーデンにおけるニトログリセリンの研究開発が許可されなくなり、ノーベルはドイツで研究を進めることにしました。ノーベルはニトログリセリンを安全に扱う方法を求め続け、1866年にニトログリセリンを珪藻土に染みこませ雷管を用いて爆発させるダイナマイトを発明しました。1867年に米国と英国でダイナマイトの特許を取得しました。

 ダイナマイトは鉱山や工事現場などで使われ人々の生活を豊かにするものとなりました。同時に軍事にも使われるようになりました。ノーベルはダイナマイトが軍事目的で使われることは想定していたようですが、ダイナマイトの破壊力が戦争を抑止すると考えていたようです。しかし、ダイナマイトは多くの人の命を奪うことになりました。「死の商人」とまで揶揄されたノーベルは自身の評価を気にするようになりました。

 ノーベルは自らの発明が多くの人命を奪っことに対する償いや自身の名誉回復のため何かできないかを考えました。そして1895年11月27日にダイナマイトで手に入れた巨額の財産を基金として人類のために最大の貢献をした人たちに賞を与えると遺言状に書いて署名しました。賞の対象となる分野は物理学、化学、医学または生理学、文学、軍縮や平和推進に貢献した個人や団体とされました。その後、経済学が追加されました。

ノーベルと遺言書
ノーベルと遺言書

 ノーベル本人は遺言書に書いた賞に名をつけませんでしたが「ノーベル賞」と呼ばれるようになりました。そして翌年12月10日にノーベルは永眠したのです。ノーベル賞の授賞式は毎年ノーベルの命日に行われています。

ノーベル (コミック版 世界の伝記)

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2021年11月22日 (月)

レーマーが光の速さは有限と発表(1676/11/22)

 光の速さは秒速約30万キロメートル、1秒で地球を7周半することができる速さです。光はあまりにも速いため昔の科学者たちは光は瞬時に伝わると考えていました。近世においても、光の屈折について考察し虹ができる仕組みを解き明かしたフランスのルネ・デカルトや、天体の運動を考察しケプラーの法則を導いたドイツのヨハネス・ケプラーも光は一瞬にして伝わると考えていました。しかし、光速が無限大である証拠は何もなかったのです。

 世界で初めて光速を測定したのはパリ天文台で働いていたデンマークの天文学者オーレ・クリステンセン・レーマーとされています。レーマーは1676年11月12日に光速の測定結果を発表し、光速を秒速22万キロメートルと求めたと言われています。ところが、レーマーは実際には光速は測定していませんし、光速の値を発表したわけでもありません。どうしてレーマーが世界で初めて光速を測定したことなったのでしょうか。

 レーマーがパリ天文台にやってきたのは1672年のことでした。このとき天文台台長を務めていたのはイタリアの天文学者ジョバンニ・カッシーニです。カッシーニは木星の衛星や土星の衛星を観測し天体観測で多大なる功績を残しています。

レーマーとカッシーニ
レーマー(左)とカッシーニ(右)

 当時はヨーロッパ諸国が海外進出を果たした大航海時代が終盤に差し掛かった頃でした。多くの航路が発見されて盛んに貿易が行われるようになると、船の安全な航行が求められるようになりました。そのためには正確な航海図と船舶が周囲に何もない洋上で自分の位置を正確に把握する方法が必要でした。

 位置は南北の位置を表す緯度と東西の位置を表す経度で求めることができます。南北の位置を表す緯度は水平線と太陽や北極星のなす角度から比較的簡単に求めることができます。一方、東西の位置を表す経度を求めるためには基準の位置と自分が存在する位置の時差を求める必要があります。当時は正確な時計がなかったため経度を正確に求めることはできませんでした。そのため、いかにして正確に時間を測るかが正確な航海図を作るための重要な鍵となっていました。

 ヨーロッパの多くの国が自国の天文台を基準にした海図を作成しようと経度を正確に求める方法の発明に懸賞金をかけていました。例えば、ガリレオは 1610 年に自作の望遠鏡で木星の4つの衛星を発見していますが、これらの衛星の食(衛星が木星の裏側に隠れる現象)が規則的に起こることから、世界のどこからでも確認できる標準の時計として使えると考え経度を求める方法を提案しています。しかし、この方法は詳細な観測データを必要としました。ガリレオの提案した方法はカッシーニによって実現されましたが、この方法は衛星の観測に時間がかかるという欠点がありました。この方法は地上で経度を求める目的には使えましたが、洋上で経度を求める目的には使えませんでした。

 レーマーはカッシーニのもとで木星の衛星の動きを調べていました。衛星イオの食が始まる時刻を調べているうちに、地球が木星の近くに存在しているときと遠くに存在しているときでは食が始まる時刻が22分ずれていることに気が付きました。

木星の衛星イオの食のずれ
木星の衛星イオの食のずれ

 レーマーはイオの公転周期は一定であることからこの現象は観測によるものと考えました。そして、光が一瞬で伝わるのであれば地球と木星の距離に関係なく食が始まるのは同時刻になるはずであり、この時間のずれは光が木星から地球に伝わる時間に関係しており、光の速度は無限大ではなく有限であるに違いないと結論づけました。そしてこの理論を1676年11月22日にパリの王立科学アカデミーで発表しました。

 実はこの現象はカッシーニも気がついていましたが、光速は無限大と考えていたため時刻のずれの原因を突き止めることはできていませんでした。そして、カッシーニはレーマーの光速は有限の値であるという主張を決して認めませんでした。そのため、レーマーの結論はフランスでは認められませんでした。一方、イギリスのニュートンやオランダの物理学者で後に光の波動説を唱えたクリティアーン・ホイヘンスはレーマーの考えを支持しました。

 さて一般にレーマーが求めた光速は秒速約 22 万キロメートルとされていますが、レーマーの興味は光速が有限であることを証明することだったようで値までは求めませんでした。レーマーの理論から光速の値を求めたのはホイヘンスです。

 ホイヘンスはレーマーが観測した食のずれの時間 22 分(1320 秒)と当時知られていた地球の公転の直径2億 9120 万キロメートルから、光速を秒速 22 万キロメートルと求めました。この値が実際の光速の値である秒速 30 万キロメートルからかけ離れているのは、地球の公転の直径や食が遅れる時間が不正確だったからです。現在、知られているそれらの値(ずれ:16 分 36 秒= 996 秒、公転直径:2億 9920 万キロメートル)を使って計算すると光速は秒速30万キロメートルに近い値になります。

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光速は有限か無限か 光速の測定(2) レーマー

光速は有限か無限か 光速の測定(3) ブラッドリー

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光速の測定実験は航海図の作成がきっかけだった

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2021年11月17日 (水)

マウスの特許公開(1970年11月17日)

 マウスはパソコンを操作するのに欠かせない入力機器ですがその歴史はコンピュータでマウスが使われていなかった時代に遡ります。

 マウスは米国のダグラス・エンゲルハートによって発明されました。第二次世界大戦末期の1944年、オレゴン州立大学に在学中のエンゲルハートは徴兵によってアメリカ海軍に入隊しフィリピンで沿岸警備隊のレーダー技師として1946年まで働きました。この2年間の間に米国の技術者ヴァネヴァー・ブッシュの論文「As We May Think」 を読み衝撃を受けたといいます。

 ブッシュは1930年代に情報検索システム「Memex(メメックス)」の概念を発表し、あらゆる情報が蓄積され検索することができる通信機能を備えた装置を提唱しました。Memexはマイクロフィルムに情報を記録することができ、また記録した情報はインデックス化されており、キー操作で瞬時に検索できるものでした。また記録されたマイクロフィルムは鎖のようにつなぎ合わせることができ、枝分かれさせたり、コメントをつけたりすることができるようになっていました。Memexは単なる索引付け検索システムではなく人間の連想と同様な情報蓄積と情報検索を実現するものだったのです。ブッシュはMemexを個人の記憶の拡張するものと考え、その構想を広げていきました。そして、その考えを論文としてまとめAtlantic Monthly誌1945年7月号で発表したのです 。As We May thinkには現在でいうところのパソコン、インターネット、WWW、ウイキペディア、マルチメディアなどの発明が予想されていました。

 さてエンゲルハートは戦後に大学に戻り電気工学を学びました。卒業後いったん就職しましたが、As We May thinkの構想に基づいた環境を実現することを夢見てカリフォルニア大学バークレー校大学院に進学し電気工学を学びました。エンゲルハートはレーダー技師の経験から情報を可視化できることを知っていました。コンピュータは単なる計算機ではなく対話型となり、情報を検索して問題解決するために利用できると考えていました。1995年に博士号を取得し大学に残りましたが自分の考えていることを実現することはできないと考えて1年で退職しました。その後、会社を創業しましたがAs We May thinkの構想の実現を諦めることができずこの会社も1年で閉じてしまいました。

 エンゲルハートは1957年にスタンフォード研究所(現SRIインターナショナル、SRI International)に入所しました。ここで実績をあげたエンゲルハートは1962年に「Augmenting Human Intellect: A Conceptual Framework(人類の知性の増強: 概念的フレームワーク)」、という報告書を作成しAs We May thinkの構想の実現に向けた研究を提案しました。このエンゲルハートの報告書が評価され、国防高等研究計画局ARPA(現DARPA)が研究を支援することになりました。

 エンゲルハートは1960年代半ばまでにビットマップによる画面表示、マウス、ハイパーテキスト、グループウェア、グラフィカルユーザインタフェース (GUI) などを考案しました。パソコンも存在しておらず、ソフトウェアも目的に対応した一本プログラムでしかなかった時代に現在のコンピュータ環境の基礎となる要素を開発していたのです。

 エンゲルハートは1967年に「X-Y position indicator for a display system"(表示系のX-Y位置指示装置)」の特許を申請し、1970年11月18日に特許を取得しました。この装置は縦方向と横方向の2つの金属の円盤で位置を決めるもので、コードのついた装置がネズミのように見えたためマウスと名付けられました。今ではコンピュータの操作に欠かせないマウスですが当時はマウスを使うことができるコンピュータは一般には存在していませんでした。マウスの特許は1987年に失効し、エンゲルハートはマウスの発明で特許のライセンス料を受け取ることはできませんでした。

ダグラス・エンゲルハートとマウス特許の図
ダグラス・エンゲルハートとマウス特許の図

 1968年12月9日、ダグラス・エンゲルバートはコンピュータ会議 (Fall Joint Computer Conference)で自身が開発したマウスをはじめとするコンピュータの要素技術を公開しました。世界初の対話型コンピュータのデモンストレーションを行い、マウスを使ってネットワーク化されたコンピュータシステムを動かし、ハイパーテキストとリンク、テキスト編集、マルチ・ウィンドウ、CRTディスプレイ、テレビ会議などを実演した。このデモは「Mother of all demos(全てのデモの母)」と呼ばれています。エンゲルハートにとっては自身が温めてきたAs We May Think構想を実現するデモだったことでしょう。

1968 “Mother of All Demos” by SRI’s Doug Engelbart and Team

 最期にAs We May thinkはエンゲルハートに影響を与えただけでなくコンピュータネットワークの概念を生み出したジョゼフ・カール・ロブネット・リックライダーやハイパーテキストやハイパーメディアを生み出したテッド・ネルソンにも影響を与えました。

 いまやコンピュータネットワークは装置と装置だけでなく人と人をつなぐプラットフォームです。As We May Thinkに刺激された技術者の成果が次々にリンクされた結果として現在のインターネットが成り立っていると考えると感慨深いものがあります。

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NCSA Mosaic がリリース(1993年4月22日)

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Twitter記念日(2009年11月16日)

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2021年11月16日 (火)

録音文化の日(1878年11月16日)

 アメリカの発明家トーマス・アルバ・エジソンが自作の蓄音機(フォノグラフ)を発表したのは1877年12月6日のことでした。エジソンの蓄音機はScientific American誌などで紹介され世界中で知られるようになりました。

 この頃、日本は西洋文化を導入し近代化を図るため外国人学者の雇用を積極的に進めていました。イギリスのグラスゴー大学に勤務していた物理学者ジェームズ・アルフレッド・ユーイングはケルヴィン卿ことウィリアム・トムソンやフリーミング・ジェンキンのもとで働いていました。ユーイングはトムソンとジェンキンの推薦で1878年9月に来日し東京帝国大学で物理学や機械工学を教えることになりました。

 このときユーイングはエジンバラのJ. Milne & Son Makersに製作させたエジソンの蓄音機を持参していました。1878年11月16日に東京帝国大学理学部の実験室で、この蓄音機を使って日本で初めての録音と再生の実験を行いました。この蓄音機や翌年には一般公開が行われ、たくさんの人が蓄音機を見物しました。当時、日本ではこの装置を蘇言機(そごんき)や蘇音機(そおんき)と呼んでいました。

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ジェームズ・アルフレッド・ユーイング

 日本記録メディア工業会は日本で初めての録音・再生の日を記念し11月16日を「録音文化の日」と制定しました。ユーイングが実験に使った装置は2004年に重要文化財に指定され、上野の国立科学博物館・地球館2階「科学と技術の歩み」に蘇言機のレプリカが展示されています。

 なお、エジソンが蓄音機を発表した12月6日は日本オーディオ協会が1994年に「音の日」と制定しています。

円筒レコード式エジソン蓄音機 (大人の科学マガジンシリーズ) 

【関連記事】本記事:録音文化の日(1878年11月16日)

エジソンが蓄音機を公開(1877年12月6日)

ビクターが45回転のレコードを公開(1949年1月10日)

東芝カレッジエースGT-610(TOSHIBA College Ace GT-610)|昭和のオープンリールデッキテープレコーダー

今日は何の日

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2021年11月14日 (日)

安全第一には第三まである

 工場や工事現場などに掲示されている安全第一の看板。安全を最も重視するという意味の安全第一は米国で生まれた「safety-first」というスローガンに由来します。

安全第一の看板
安全第一の看板

 1900年代の初め米国では大量生産のみに重視されたものづくりが行われていました。また労働環境は劣悪で安全への配慮もなかったため労働災害に遭う労働者がたくさんいました。そのような現場から良い製品が生まれるはずもなく品質も低かったのです。

 このような状況を良しとしなかったのが製鉄会社USスチールの社長エルバート・ヘンリー・ゲーリーでした。ゲーリーは何よりも重要なことは労働者の安全であると考え会社の経営方針を見直し「安全第一、品質第二、生産第三」をスローガンとして掲げました。

エルバート・ヘンリー・ゲーリー(1915)
エルバート・ヘンリー・ゲーリー(1915)

 このスローガンの取り組みによって労働災害は激減し、労働者たちの意識もかわり品質の向上とさらなる大量生産が実現できるようになったのです。

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2021年11月12日 (金)

電話料金が3分10円に(1972年11月12日)

 現代社会では多くの人が電話を携帯していますが、グラハム・ベルが実用的な電話を発明して特許を申請したのは1876年のことです。ベルが電話を開発してまもなく当時ボストンに留学中の伊沢修二(東京音楽学校校長 )と金子堅太郎(後の司法大臣の)がベルの研究所を訪れました。このとき2人は電話で日本語で通話しました。英語の次に電話が運んだ音声は日本語だったのです。

 電話が日本に輸入されたのは1877年、翌1878年には国産のベル式電話機が開発されました。1883年、上海の電話交換局を視察した工部省電信局長の石井忠亮は電話事業の必要性を感じ、政府に国営電話事業の開始を進言しました。これによって日本の電話事業が始まり、1890年に東京都と横浜で電話事業が始まりました。

 最初の電話料金は市内通話は年定額料金で市外通話は区間ごとに料金が異なりました。市内通話は定額料金でかけ放題だったのですが、電話を頻繁に使う人とほとんど使わない人で料金が同じであることに対して不満の声があがりました。そこで、電話を利用した回数で課金する度数制が提案されましたが、電話を頻繁に利用する新聞社などが度数制は通信機関の発展の妨げになると猛反対しました。このため度数制が導入されるまでにはしばらくの時間を要しました。電話料金の度数制が導入されたのは1920年のことです。

 この市内通話の度数制は50年以上にわたり採用されましたが、電話が一般的な通信手段になるにつれて市内通話と市外通話の料金の著しい格差が問題となりました。1970年代初め、市内通話の料金は1回7円で時間の制限なく通話ができるのに対して、市外通話は距離と時間によって課金されていました。この格差を解消するため1972年11月12日に電話料金の度数制が時分制に改められ、市内通話と市外通話の著しい料金格差が解消されました。これによって市内通話の料金は3分10円となりました。

公衆電話をかける女性
公衆電話をかける女性

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グラハム・ベルが電話の特許権を申請(1876年2月14日)

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2021年11月10日 (水)

【おもしろ映像】スケルトンな蒸気機関エンジン

 ガラス製の蒸気機関モデルの映像です。右側の枝付きフラスコで水を加熱し水蒸気とし、その圧力で中央のピストンとクランクシャフトが動き左側の車輪が回転します。すべてがガラスで作られており、シール材は使われていないそうです。かなり精巧に作られています。

ガラス製の蒸気機関モデル
ガラス製の蒸気機関モデル

Working Model of Stephenson's STEAM ENGINE made of GLASS ! Rare!

 このガラス製蒸気機関のモデルは蒸気機関車による鉄道の実用化に成功し「鉄道の父」と呼ばれたジョージ・スティーブンソンが製作した蒸気機関をモデル化したものです。

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世界初の蒸気機関車の試運転(1804年2月21日)

スティーブンソンが蒸気機関車の試運転に成功(1814年7月25日)

子供の科学別冊「紙で作る日本の蒸気機関車」

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2021年11月 1日 (月)

灯台記念日(1868年11月1日)

 船は広い海上を自由に進んでいるように見えますが、海には浅瀬や暗礁など危険なところがあります。船はこのような危険なところを避けて進まなければなりません。そこで、航路という船の通り道が決められています。もちろん海上ですから航路は目に見える通り道ではありません。船が航路を進むためには船自身が海上のどこにいるのかが分かる目印が必要です。

 船が陸地の近くを航行する場合、昼間であれば船からまわりの景色が見えるので岬などを目印にすることができます。しかし、夜になるとあたりが真っ暗で何も見えなくなります。また、昼間でも陸地から遠く離れた場合、目印を見つけるのが難しくなります。そこで岬などの船から見やすい場所に塔を建てて狼煙をあげたり、かがり火を灯したりして目印にしました。

 世界で最も古い灯台は、今からおよそ2300年前に作られたエジプトのアレキサンドリアの港にあったファロス灯台と言われています。日本ではおよそ1300年前の遣唐使の時代に、海難事故を防ぐために狼煙やかがり火が目印として使われました。江戸時代になるとたくさんの灯台が造られるようになりました。当時の日本の灯台は櫓のような形をしていました。

 日本で初めて作られた西洋式の灯台は神奈川県横須賀市の三浦半島の観音崎灯台です。観音崎灯台は1868年11月1日(新暦9月17日)に着工され、翌1869年2月11日(新暦1869年1月1日)に完成し点灯されました。日本は1857年に鎖国を解き開国していましたが日本近海には灯台が体系的に設置されていなかったため航海しにくいという問題がありました。そのため諸外国は日本との条約の中で日本に灯台を作らせたのです。

初代観音埼灯台
初代観音埼灯台

 初代の観音崎灯台は1922年4月26日に発生した地震の被害で取り壊され、1923年3月15日に再建されました。しかし、同年9月1日に発生した関東大震災で再び崩壊しました。1925年6月1日にコンクリート製の灯台が建造され、現在に至るまで使用されています。

 1949年、海上保安庁が灯台業務の開始を記念するため、観音崎灯台着工日の1868年11月1日に因み毎年11月1日を灯台記念日と定めました。観音崎灯台は1998年11月1日に日本の灯台50選に選定されました。

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2021年10月21日 (木)

あかりの日(1879年10月21日)

  10月21日は「あかりの日」です。1879年10月21日に米国の発明家トーマス・アルバ・エジソンが実用的な白熱電球の開発に成功したことに因んで昭和56年(1981年)に日本電気協会・照明学会・日本照明工業会が制定しました。

 エジソンが白熱電球のフィラメントとして日本の竹を使ったという話は有名ですが、エジソンが最初に作った実用的な白熱電球のフィラメントは木綿を炭化させたものでした。この電球の寿命はわずか約45時間でしたが、当時としては実用的な寿命の長い白熱電球でした。エジソンは1880年1月27日に電球の特許(米国特許0223898)を取得し、ほぼ同時に英国でも同じ内容の特許(英国特許4576)を取得しています。

エジソンの白熱電球の米国特許の図(1880年)
エジソンの白熱電球の米国特許の図(1880年)

 よくエジソンが白熱電球の発明者と言われますが、白熱電球そのものを発明したのは英国の科学者ジョセフ・スワンです。スワンは1860年に白熱電球を発明しています。しかし、スワンの電球は寿命が短く大電流を流さなければならないなど実用的なものではありませんでした。

 エジソンの白熱電球の電源電圧は100Vで複数の電球を並列に接続してもそれぞれ独立に点灯と消灯ができました。またソケットをねじ式にすることによって電球が交換できるようになっていました。また配電設備を構築し、白熱電球を広く普及させました。

 エジソンは配電システムを含めた実用的で効率的な白熱電球の開発に成功したのです。

白熱電球を発明したのは誰?|エジソンが電球の特許取得(1880年1月27日)

白熱電球の原理と仕組み

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2021年10月14日 (木)

鉄道記念日から鉄道の日へ(1922年10月14日)

 イギリスの技術者リチャード・トレヴィシックが世界で初めて蒸気機関車の試運転に成功したのは1804年2月21日のことでした。この鉄道はレールが軟弱だったり、蒸気機関車が故障しやすかったりしたため実用化には至りませんでした。

 その後、蒸気機関車および鉄道の運用面の開発を行い、鉄道の実用化に成功したのがスティーブン親子です。スティーブンソン親子の開発した最初の鉄道は1825年にストックトン~ダーリントン間で開業しました。1830年にマンチェスターとバーミンガム間が開業すると、これをきっかけに鉄道が発展しました。日本に鉄道に関する情報が入ってきたのはそれよりも10年以上も後のことでした。

 1854年にアメリカのマシュー・ペリーが2度目の来日をした際、蒸気機関車の大型の模型を幕府に献上しました。この模型は走行することができ、日本の役人を屋根に乗せて走ったという記録が残っています。鉄道模型に興味を持ったのは佐賀藩で1885年にからくり儀右衛門こと田中久重らがアルコール燃料で走る蒸気機関車の模型を製作しました。模型ながら国産初の蒸気機関車となりました。

 幕末になると鉄道敷設の気運が高まりますが明治維新の混乱もあり具体的に計画が進められるようになったのは明治に入ってからのことです。アジアの植民地化を進める欧米諸国に対応するため富国強兵を進めていた政府は鉄道の敷設を重視しました。しかし、鉄道の敷設には膨大な資金を要し、鉄道よりも軍備が先という意見もあり、広域の鉄道敷設の計画は頓挫しました。そこで鉄道の有用性を示すため、1869年に新橋駅(現汐留駅)と横浜駅(現桜木町駅)の結ぶ路線の建設が決まりました。

 鉄道敷設には莫大な資金と高い技術力が必要で、当時の日本は独自に鉄道を敷設する実力を持ち合わせていませんでした。そこで関係が良好だった鉄道の発祥の国であるイギリスから資金と技術の提供を受けることになりました。1870年、日本政府はイギリスの技術者エドモンド・モレルを鉄道技術主任として迎え鉄道の建設を開始しました。

 1872年6月12日に品川駅 - 横浜駅(現桜木町駅)間の運転を開始し安全確認と乗務員の訓練を行いました。そして1872年10月14日に新橋駅(現汐留駅)で開業の式典が行われ、明治天皇のお召し列車が新橋駅(現汐留駅)と横浜駅(現桜木町駅)を往復しました。翌15日から一般旅客を乗せての営業が開始しました。所要時間53分をかけて列車は1日に9往復しました。1922年、鉄道省は国内初の鉄道の開業を記念し10月14日を「鉄道記念日」としました。1994年に運輸省の提案により「鉄道の日」と改称され、JRグループだけではなく全ての鉄道の記念日となりました。

明治初期の列車(鉄道院160形蒸気機関車)
明治初期の列車(鉄道院160形蒸気機関車)

 新橋駅(現汐留駅)と横浜駅(現桜木町駅)間は全長29 kmありましたが、鉄道工事を簡略化するため線路は海岸付近に敷設されました。このため約10 kmにわたって海上に線路を敷設するための高輪築堤が建設されました。この10 kmの区間は遠くから見ると列車がまるで海上を走っているかのように見えました。高輪築堤はその後の東京湾の埋め立てによって位置がわからなくなりましたが、2019年に高輪ゲートウェイ駅の工事で高輪築堤跡の一部が発見されました。

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世界初の蒸気機関車の試運転(1804年2月21日)

スティーブンソンが蒸気機関車の試運転に成功(1814年7月25日)

地下鉄記念日 (1927年12月30日)

新幹線開業の日(昭和39年 1964年10月1日)

モノレール開業記念日(昭和39年 1964年9月17日)

青函トンネル営業開始(1988年3月13日)

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