カテゴリー「科学・技術」の121件の記事

2025年5月15日 (木)

【おもしろ映像】全手動ワイン注ぎ機

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 このゴツい装置はワインボトルのコルクを抜いてワインをワイングラスに注ぐ「全手動ワイン注ぎ機」です。装置のハンドルを回すと一連の作業が始まります。

【おもしろ映像】全手動ワイン注ぎ機
【おもしろ映像】全手動ワイン注ぎ機

 よくこれだけ大がかりな装置を作ったものだと感心してしまいますが、こういうのがあるからもの作りは面白いのですね。世界でもっとも非好意率的な装置ではあるが、物作りが好きな人は誰もが欲しくなるような装置です。ハンドルを蒸気機関に繋げると「全自動ワイン注ぎ機」に進化させることもできるでしょう。

Rob Higgs

 

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2025年1月 4日 (土)

学研まんが ひみつシリーズ 忍術・手品のひみつ

 

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 子どもの頃によく「学研まんが」を読んでいました。書庫を片付けていたら「学研まんが ひみつシリーズ 忍術・手品のひみつ」が出てきました。懐かしくて読んでしまいましたよ。

 主人公の小学生の男の子のタケシが宇宙人ペコポンと戦国時代にタイムスリップして忍びの里の忍者の子どもサスケに出会い忍術を学びます。成長の早い植物アサを毎朝飛び越えて跳躍力を鍛えたり、着色した米をまいて仲間との連絡や目印として使ったり、敵国に入るときには変装したりするなど、実際の忍者が行っていた術を学ぶことができます。忍者の服装の秘密、その他、手裏剣、撒菱など多種多様の忍具の説明など読んでワクワクする知識が満載していました。

 ある事件がきっかけで宇宙人ペコポンが暴走し、ペコポンとともにタケシとサスケは現代に戻ります。サスケは現代でマジックショーをみて忍術の参考にします。大がかりな手品や科学の原理で家庭でもできる手品を紹介しながら手品のネタや仕掛けを説明していきます。手品の監修は初代の引田天功さんが担当しています。

学研まんが ひみつシリーズ 忍術・手品のひみつ
学研まんが ひみつシリーズ 忍術・手品のひみつ

 Amazonで検索してみたところ「学研まんが ひみつシリーズ 忍術・手品のひみつ (もう一度見たい!あのころの学研) Kindle版」が販売されていました。他にも当時の「学研まんがひみつシリーズ」が販売されているようです。

 自分は「恐竜のひみつ」をもう一度読みたいのですが中古本は入手可能のようですがKidle版はありませんでした。ロボットと一緒に恐竜の世界にタイムスリップし恐竜について学ぶ本です。途中で恐竜に襲われてロボットが故障して背中を縛って直すみたいなシーンもありました。恐竜の知識は昔と現在ではかなり異なるので当時のものをそのまま販売できないという判断があるのかもしれません。

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2024年12月 1日 (日)

鉄の記念日(1857年12月1日)

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 嘉永6年(1853年)、水戸藩主の徳川斉昭は鉄製大砲を製造するため那珂湊反射炉を建設しました。反射炉の建設にあたり水戸藩は盛岡藩で御鉄砲役を務め蘭学や採鉱術をはじめとする豊富な知識を身につけていた大島高任(おおしまたかとう)を招きました。高任は他の技術者とともに反射炉の建設を進め安政2年11月26日(1856年1月3日)に第一炉が完成しました。この反射炉で鉄製大砲の鋳造に成功しましたが、原材料として使われた鉄が砂鉄だったため大砲の性能は制限されました。

 列強に匹敵する大砲を製造するためには高品質な鉄と製鉄技術が必要です。高任は良質な磁鉄鉱が産出される大橋(釜石)に南部藩の承諾を得て西洋式高炉を建設しました。高炉の建設にあたり高任はオランダのウルリッヒ・ヒュゲーニン著「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」(Het Gietwezen in's Rijks Ijzer - geschutgieterij te Luik)を参考にしました。この蘭書は天保7年(1836年)頃に高島流砲術の創始者の高島秋帆が入手したとされますが翻訳されたものはありませんでした。佐賀藩の第10代藩主鍋島直正が藩の蘭方医の伊東玄朴らに翻訳を命じ、それをもとに建造されたのが佐賀藩の築地反射炉です。

 高任は建設した高炉を用いて安政4年12月1日(1858年1月15日)に鉄鉱石の製錬による本格的な連続出銑に成功しました。日本において高炉での出銑は安政元年(1854年)の鹿児島の集成館高炉によるものですが、高任の高炉は日本初の商用高炉とされています。これを記念し昭和33年(1958年)に日本鉄鋼連盟が12月1日を「鉄の日」と制定しました。

 高任は明治以降も鉱業界で活躍しました。明治4年(1871年)には岩倉使節団に同行し海外の鉱山を視察しています。明治7年(1874年)には釜石に新設される国内初の官営製鉄所の建設計画に参画しましたがドイツ人技師ルイス・ビヤンヒーと意見が対立しました。高任は小型高炉を建設し運河を整備するべきと主張し、ビヤンヒーは大型高炉を建設し鉄道を整備するべきと主張しました。政府がビヤンヒーの主張を採用したため高任は計画を降りて釜石から離れました。この官営製鉄所は3年で頓挫し、「鉄商」と呼ばれた田中長兵衛に払い下げられ所長の横山久太郎らによって民間企業として再建されました。高任と同型の高炉が建設され試験操業を重ね明治19年(1886年)10月16日に49回目の試験にて連続出銑に成功しました。このことから10月16日は釜石製鉄所の創立記念日とされています。

 高任は幕末から明治まで鉱業界で中心人物として活躍したことから「日本近代製鉄の父」と呼ばれています。明治23年(1890年)には日本鉱業会の初代会長に就任しています。

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2024年9月23日 (月)

村橋久成と中川清兵衛|開拓使麦酒醸造所が開業(1876年9月23日)

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 戊辰戦争の最後の戦い「箱館戦争」が終結すると明治政府は明治2年(1869年)7月8日に北方開拓のため「開拓使」を設置しました 

 初代開拓使長官には戊辰戦争で最新式の兵器で活躍した佐賀藩の藩主の鍋島直正が明治2年(1869年)7月13日に就任しました。しかし直正は8月16日に大納言に転任したため蝦夷地へ赴任することなく辞任しました。

 続いて開拓使長官長官に就任したのは「八月十八日の政変」で七卿落ちし長州に逃れた尊王攘夷派公卿の東久世通禧です。通禧は同年9月21日に開拓使吏員、農工民約200人を率いてイギリス雇船テールス号で品川を出発し9月25日に箱館に着任しました。当時の北海道の中心地は箱館府が置かれていた箱館でしたが北海道の南端に位置していため開拓使本庁は北海道の中央に設置することになり、「北海道の父」と呼ばれる佐賀藩士の島義勇首席判官は銭函(現小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し開拓使本庁の建設を始めました。しかし、予算を使う過ぎたため長官と意見が対立し解任されました。その後は岩村通俊判官が継ぎ明治4年(1871年)5月に札幌に開拓使本庁が設置されました。

 明治3年(1870年)、政府はロシアの侵出が進む樺太の状況を鑑みて樺太開拓使を設置しました。東京で樺太専任の開拓次官に就任したのが黒田清隆です。明治4年(1871年)10月の東久世長官の辞職に伴い清孝が開拓使の長となり明治7年(1874年)に開拓使長官となりました。清孝は北海道に赴任せず東京で指揮を執りました。黒田は御雇外国人を招き北海道開拓の政策の助言を得たり技術者の育成を行わせました。

 当初から樺太を守るよりも北海道の開拓に力を入れるべきと考えていた清孝は樺太を手放す方針を取るようになりました。政府は明治7(1874年)3月に樺太をロシア領とし得撫島以北諸島を日本が領有する方針を決め明治8年(1875年)5月にロシアと樺太・千島交換条約を締結しました。この条約締結に特命全権大使として赴いたのが榎本武揚です。

黒田清隆と榎本武揚
黒田清隆と榎本武揚

 清孝は北海道の測量を行い道路や鉄道の敷設など様々な開拓事業を進めましたが広大な北海道全域を網羅することは不可能であることから産業の育成に力を入れることにしました。明治9年(1876年)に「札幌農学校」と「開拓使麦酒醸造所」を設立、その他にも洋式の農場や、製糸、製糖、製麻、葡萄酒醸造、味噌醤油醸造、缶詰製造などの工場を設立しました。

 北海道の産業のひとつとしてビール製造が選ばれたのはビールの原料となる大麦とホップを生産できること、気候がビールの醸造に適していること、醸造に必要な冷却用の氷が入手しやすいことなど地の利があるからでした。「開拓使麦酒醸造所」が設立されるとドイツでビール醸造技術を学んだ職人が赴任し本格的なビールの製造が始まりました。

 この「開拓使麦酒醸造所」の事業に大きな貢献をしたのが薩摩藩士の村橋久成とビール職人の中川清兵衛です。

村橋久成と中川清兵衛
村橋久成(左)と中川清兵衛(右)

 村橋久成は薩摩藩の島津家の一門である加治木島津家の分家の出身です。幕末の元治2年(1865年)に藩命でイギリスに留学することになりました。同年3月にグラバー商会の船で密航でイギリスへ旅立ちました。イギリスで西洋の発展を目にした久成はショックを受けて精神障害となりわずか1年で帰国しました。

 慶応4年(1868年)7月に加治木大砲隊長として戊辰戦争の東北戦争に従軍しました。会津藩の降伏後は東京に戻りましたが、明治2年(1869年)3月に黒田清隆や東郷平八郎らと薩摩藩の軍艦「春日」で箱館戦争に従軍するため青森に向かいました。新政府軍の艦隊はその途上で岩手県の宮古湾で箱館政権の軍艦の攻撃を受けています。青森到着後、旧幕軍征討青森口鎮撫総督府軍監に任じられました。箱館戦争において清孝の命令で会津遊撃隊長の諏訪常吉の見舞として箱館病院を訪れ高松凌雲に榎本武揚に降伏勧告の書簡を送っています。

 戊辰戦争が終結後は鹿児島に帰郷しましたが明治4年(1871年)に開拓使東京出張所に出仕し農業の技術改革に携わりました。明治6年(1873年)12月、北海道の七重開墾場の測量と畑の区割りを行い、明治7年(1874年)には屯田兵の入植地となる琴似兵村の区割りを行いました。明治8年(1875年)4月に七重開墾場と琴似兵村の仕事を終えると東京に戻り開拓使が計画を進めていた「開拓使麦酒醸造所」の建設責任者に任命されました。

 中川清兵衛は越後の商家の出身で家督を継ぐよう育てられましたが17歳のときに横浜へ出てドイツ商館で働くようになりました。慶応元年(1865年)4月にイギリスに密航し明治5年(1872年)にドイツに移動しました。ドイツで駐独公使の青木周蔵に出会い、青木の紹介で明治6年(1873年)にベルリンのビール製販会社ベルリンビール醸造会社ティボリ工場で働くことになりました。この工場でビール醸造を修業した清兵衛に対しベルリンビール醸造会社は修業証書を与えました。清兵衛は明治8年(1875年)に日本へ帰国しました。ほどなく久成によってビール醸造の職人として「開拓使麦酒醸造所」に雇われました。

 これで「開拓使麦酒醸造所」の役者がそろい明治9年(1876年)9月23日に開業しました。当時、外国人が設立したビール醸造所や小規模なビール醸造所はありましたが、大がかりな本格的な設備を持つ日本人の手だけによるビール醸造所が生まれたのです。しかしながら当初は発酵がうまくいかずビール醸造は失敗を繰り返しました。それでも久成と清兵衛は努力を重ね明治10年(1877年)5月にビール醸造に成功しました。製造されたビールの味に関係者は満足し明治天皇にも献上されました。同年9月に「札幌冷製麦酒」として販売が開始されると、国産の本格的なドイツビールとして大人気となりました。

 ビールの製造も販売も順調だった「開拓使麦酒醸造所」ですが、開拓使の10年計画の満期が訪れたことによって転機を迎えました。清孝は開拓使の事業を継続させるため部下の官吏に官有の施設、設備を開拓使官吏がが創設した北海社と薩摩出身の五代友厚らの関西貿易社に安値で払い下げることにしました。あまりにも安価な売却に大隈重信が反対しましたが、高値で売れる見込みもなく払い下げは内閣で決定されました。ところがこの払い下げが新聞社にリークされ、清孝が薩摩出身の友厚に便宜を図ったなどと批判され開拓使官有物払下げ事件と発展しました。これによって払い下げは中止となり明治15年(1882年)、黒田は開拓長官を辞任しました。開拓使も同年2月に廃止されました。

 その結果、「開拓使麦酒醸造所」は農商務省所管を経て北海道庁に移管されました。明治19年(1886)年に大倉組商会(現大成建設)に払下げられ、明治20(1887)年に渋沢栄一によって「札幌麦酒」が設立されました。その後は「大日本麦酒札幌工場」、「日本ビール札幌工場」を経て「サッポロビール札幌工場」となりました。

 

 開拓使は数多くの事業を手がけましたが今日まで現存し続しているのは「サッポロビール」と札幌農学校の後身となった「北海道大学」のみです。次の写真は2021年にサッポロビールとファミリーマートが限定販売した「開拓使麦種仕立て」です。「LAGER」と表記するべきところを「LAGAR」と誤記されていることが発覚したため販売中止とすることになりましたが、多くの消費者の支持と支援で販売することになったという経緯があります。この写真の「開拓使麦種仕立て」の商品名の左下に「LAGAR」の語記を確認することができます。

サッポロビール開拓使麦種仕立て
サッポロビール開拓使麦種仕立て

 さて、開拓使の払い下げにより村橋久成と中川清兵衛の人生も大きく変わりました。

 中川清兵衛は「開拓使麦酒醸造所」の成功によりは日本初の国産ビール醸造の功労者として有名人となりました。開拓使からの給与も高く、しばしば自宅に著名人を招待しビール園を開くなどしました。開拓使の廃止後はビール醸造の仕事は継続せずに小樽へ移住し小樽運河近くに旅館を開業し繁盛させました。利尻島の開発が厳しい状況にあることを知ると資財を低金利で投資し援助をしましたが、予想以上に開発費が膨大し元金も失ってしまいました。明治31年(1898年)に旅館を売却し横浜へ移住した。大正5年(1916年)に享年69歳で逝去、末期の水(死に水)は本人が希望していたサッポロビールでした。

 村橋久成は明治11年(1878年)に札幌本庁の民事局副長となります。明治13年(1880年)に東京出張所勧業試験場長に任ぜられるも「開拓使麦酒醸造所」が安価で売却する計画を知ると明治14年(1881年)に突然開拓使を辞職しました。その後、北海道で牧畜会社の社長を務めましたが何か思いがあったのか托鉢の修行僧となり家族も捨てて放浪の旅に出て行方不明となりますた。明治25年(1892年)9月25日に神戸市葺合村六軒道の路上で何も持たずに倒れているところを警察官に発見されました。警察官が名を訪ねると偽名を答えましたが、観念したのか出身地と自身と家族の親戚の名を告げました。病院に搬送されましたが28日に享年50歳で逝去しました。死因は肺結核と心臓弁膜症と伝えられています。神戸市は鹿児島市に村橋久成の名を照会したもの該当する人物なしという返事しか得られませんでした。10月12日に神戸又新日報、10月18日には東京の新聞「日本」が村橋久成の死を伝えたことにより黒田清隆の知るところとなりました。清孝は神戸で仮埋葬されていた久成の遺体を引き取り10月23日に東京で葬儀を行いました。戊辰戦争から開拓使までともに行動した久成を手厚く葬ったそうです。

 黒田清隆は明治20年(1887年)に第1次伊藤内閣で農商務大臣、明治21年(1888年)4月に第2代内閣総理大臣に就任しています。榎本武揚は第1次伊藤内閣で逓信大臣、黒田内閣では逓信大臣に就任しました。その後は文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任しました。

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2024年7月15日 (月)

幕末の蒸気船物語(単行本)

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カテゴリー「船舶

幕末の蒸気船物語 単行本 – 2004/4/28

元綱 数道 (著)

 幕末に現れた列強の異国船が日本の社会を大きく変化させました。最初は異国船打ち払い令で厳しい対応をしてきた幕府も圧倒的な軍事力の差を前にして異国船を穏便に追い返すようになります。そしてアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが率いる艦隊の来航、いわゆる黒船来航では、それまで日本人が見たこともないような黒い煙をもくもくと吐く蒸気船が浦賀沖に現れました。幕政が混乱していく中で幕府も海軍の増強に取り組みはじめました。

 この本は幕末の異国から来航した蒸気船、幕府や各藩が海外から購入したり自ら造船した蒸気船をエピソードとともに解説しています。単なる蒸気船の紹介だけでなく日本の社会がどのように変わっていったのかまで知ることができます。

 著者の元綱数道氏は東京大学船舶工学科出身で造船に関わってきた方のようで蒸気船の仕組みや構造や抱えていた課題など技術的な解説もしっかりしていて読みごたえがあります。

商品の説明

内容(「MARC」データベースより

幕末期に登場した海外・日本の蒸気船について、各船舶の要目表や実際の図面等からその実像を明らかにする。ペリー来航を期に活躍し始めた蒸気船たちを歴史的エピソードに沿って解説。写真や図版を多数収録する。

幕末期に登場した海外・日本の蒸気船を黒船来航など
歴史的なエピソードに沿って紹介。
幕末期の人々は、大海原を渡って異国の船を見て
何を感じたのだろうか。
ペリー来航、薩英戦争、下関戦争、兵庫開港、箱館海戦など
歴史上に登場する蒸気船の真の姿に迫る。
【住田海事史奨励賞受賞】

登録情報


出版社 ‏ : ‎ 成山堂書店 (2004/4/28)
発売日 ‏ : ‎ 2004/4/28
言語 ‏ : ‎ 日本語
単行本 ‏ : ‎ 210ページ
ISBN-10 ‏ : ‎ 4425302516
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4425302512

幕末の蒸気船物語 単行本 – 2004/4/28

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2024年7月10日 (水)

伊能忠敬の大日本沿海輿地全図を完成(1821年7月10日)

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 大日本沿海輿地全図は江戸時代後期に伊能忠敬らが作製した日本の国土の実測地図です。伊能図、伊能大図とも呼ばれます。

伊能忠敬像(伝青木勝次郎画 伊能忠敬記念館蔵)
伊能忠敬像(伝青木勝次郎画 伊能忠敬記念館蔵)

 伊能忠敬は江戸時代後期の商人・天文学者・地理学者・測量家です。忠敬が天文学や測量を学び始めたのは隠居後50歳を過ぎてからのことです。幕府天文方の高橋至時のもとで測量・天体観測などについて学びました。この頃、地球の子午線の長さが正確に求められていなかったことから至時と忠敬は子午線を正確に測定したいと考えていました。

 ロシアの南下政策による海防の必要性に目をつけた2人は蝦夷地の測量を兼ねて子午線の測定を行うことを幕府に上申しました。幕府はこれを許可し、忠敬は寛政12年(1800年)に第一次測量として蝦夷地と東北・北関東の測量を開始しました。幕府は異国船が日本沿岸に出現することになっていたことから全国の各藩に忠敬の測量に協力するよう命じました。

 忠敬は蝦夷地の測量が終わると享和元年(1801年)に東日本沿岸を測量を完了しました。それらの測量結果から文化元年(1804年)に東日本の地図(大図69枚・中図3枚・小図1枚)を作成し幕府に提出しました。当初の目的であった子午線1度の弧長は測量結果から28.2里(約110.74キロメートル)と求めました。この値は現在の測定値とほぼ同じです。

 忠敬の作成した地図は従来のものと異なり極めて精密なもので第11代将軍徳川家斉をはじめとする幕府首脳陣は地図の出来栄えに満足しました。そして忠敬を正式に幕府天文方の役人とし測量への支援を強化することに決めました。忠敬は私財を投じて測量と地図作成を行っていましたが文化2年(1805年)の第5次測量からは江戸幕府の事業となりました。

 忠敬の測量は文化13年(1816年)の第10次測量まで17年もの間続けられ最終的に日本全土の地図が作られました。ただし蝦夷地については忠敬は東側しか測量していなかったため他社の測量結果を採用しています。弟子の間宮林蔵の測量結果を使用したという説もあります。

 忠敬は文化15年(1818年)に73歳でこの世を去りましたがこのとき地図は完成していませんでした。忠敬の死は伏せられ高橋至時の長男の高橋景保が地図作成作業を行い文政4年7月10日(1821年8月7日)に「大日本沿海輿地全図」が完成しました。「大日本沿海輿地全図」は全国の主要な地名や緯度を収録した「大日本沿海実測録」とともに幕府に提出されました。

大日本沿海輿地全図
大日本沿海輿地全図

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2024年7月 2日 (火)

アイザック・アシモフの科学と発見の年表 (単行本)

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アイザック・アシモフの科学と発見の年表 (単行本)

アイザック アシモフ (著), Isaac Asimov (原著), 小山 慶太 (翻訳), 輪湖 博 (翻訳)

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 科学の原理や現象が発見されたり、技術が発明されたりしたのがいつ頃なのか調べる必要がときどきあります。そんなときは、インターネットで調べたりするのですが、やみくもに探すことになりがちです。そんなときに便利なのがこの本です。

この本の本文は年代ごとに事項が解説されています。例えば

2500BC

文字

 解説文

ガラス

 解説文

という感じです。そして年表のようにまとめられた目次、人名や事項での索引が目的の記事へアクセスするのに非常に便利です。

出版社/著者からの内容紹介
SFをはじめ、科学、数学、歴史、文学など、その才能をふるってきた著者が、自ら書き下ろして編集した世界史における科学と発見の年表.自然科学全般をコラム形式の読み物としてまとめ、どこから読んでも楽しめるよう構成. --このテキストは、絶版本またはこのタイトルには設定されていない版型に関連付けられています。

内容(「BOOK」データベースより)
紀元前400万年から1992年までの科学の発見・発明に関する事項を解説した事典。アイザック・アシモフの「Chronology of Science and Discovery」の日本語版にあたり、89年から92年に関しては訳者が補記している。事項を年代順に排列し、コラム的に解説。人名索引、事項索引付き。1992年8月刊行のコンパクト版。

単行本: 546ページ
出版社: 丸善; 第2刷版 (1996/03)
ISBN-10: 4621045377
ISBN-13: 978-4621045374
発売日: 1996/03
商品の寸法: 20.6 x 15 x 3.2 cm

目次

二足歩行
石器

宗教
芸術
弓矢
オイルランプ
動物の家畜化
農耕
陶器の製造〔ほか〕

アイザック・アシモフの科学と発見の年表 (単行本)

アイザック アシモフ (著), Isaac Asimov (原著), 小山 慶太 (翻訳), 輪湖 博 (翻訳)

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2024年6月30日 (日)

トヨタ自動車が「パブリカ UP10」を発表(1961年6月30日)

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 第二次世界大戦の敗戦によって日本は米軍を中心とする連合国軍の占領下におかれました。航空産業をはじめとする軍需産業の活動は厳しく制限されました。自動車産業も例外ではありませんでしたが鉄道や港湾が壊滅的な打撃を受けた日本では物資の輸送は自動車が担うしかありませんでした。そのためGHQは自動車産業の活動については早々に許可を出しました。1945年9月25日にトラックの生産、やや遅れて1947年6月30日に小型乗用車の生産を許可しています。ただし当時の日本経済は不況下にあり乗用車を所有できる人はほとんどいませんでした。

 戦後の高度経済成長により日本が復興しつつある中で昭和30年(1955年)5月18日に通商産業省(経済産業省)が進めようとしていた一定の条件を満たす自動車の製造・販売を援助する「国民車育成要綱案(国民車構想)」がスクープ報道されました。しかし、最高速度、燃費、月産生産台数、販売価格などの条件が厳しく当時の自動車メーカーにとって実現が不可能な内容でした。そのため国民車構想は公式な政策にはなりませんでしたが各メーカーが小型自動車の開発に着手しはじめました。
 
 国民車構想の報道より1年前の昭和29年(1954年)5月、トヨタ自動車は独自に実用的な小型自動車の要件を検討し大衆車の開発に着手していました。トヨタ自動車は国民車構想に乗じて本格的に小型自動車の開発に乗り出しました。トヨタ自動車はフランスのシトロエン2CVを参考に空冷2気筒エンジンを搭載した前輪駆動(FF)の開発を計画しました。

 ところがこの小型自動車の開発に横槍が入ったのです。横槍を入れたタクシー業界でした。小型自動車のタクシーが増加すると料金を低下せざるを得ないと懸念したのです。当時、タクシー業界は自動車メーカーにとって重要な顧客だったためトヨタ自動車はその意向を踏まえた試作小型自動車1A1型を昭和31年(1956年)9月に発表しました。1A1型は2ボックスでタクシーには使えないほど小さな車体でした。タクシー業界にタクシーとしては採用できない自家用車であることを示したのです。

 トヨタ自動車は翌年から小型自動車の開発を進め試験走行を行いましたが技術的難易度から実用的な前輪駆動を実現できず知見のある後輪駆動に変更することになりました。エンジンの排気量については国が500 ccの自動車に税制優遇するという噂があったことから500 cc程度のエンジンを搭載する予定でしたが、排気量500 ccの自動車では高速道路を満足に走ることができないこと、時速100キロメートルで巡航走行できる不必要性を考慮し700 ccのエンジンを搭載することになりました。結果として500 ccの税制優遇は実現されず700 ccの選択は正解でした。

 当時の軽自動車はリアエンジン・リアドライブ(RR)が主流でしたが、小型自動車に適したフロントエンジン・フロントドライブ(FF)を目指しました。しかし実現が難しくフロントエンジン・リアドライブ(FR)としました。FRにすると車両の重量が増えシャフトのスペースの確保が必要になりますが様々な技術的な工夫を施し重量580 kgの小型自動車を実現したのです。安価な小型自動車をめざすため製造原価を下げるために徹底的なコスト管理と効率的なものづくりを進めました。豊田市に専用の工場を建設し量産体制を整えることになりました。

 完成した自動車は労働者が購入可能な価格38万9千円で発売されることになりました。車名は発売キャンペーンとして公募を行い「パブリカ」と名づけられ、昭和36年(1961年)6月30日に「パブリカUP10」が発表されました。パブリカはPUBLICとCARの合成語です。

パブリカUP10
パブリカUP10

 初代のパブリカは質素な作りだったため自家用車としては人気がありませんでした。そこでデラックス仕様のパブリカ700デラックス(UP10D)が追加され、さらにエンジンを800 ccとしたパブリカ800スーパー(UP20S型)が追加されました。トヨタ・スポーツ800(ヨタハチ)はパブリカがもとになっています。

 パブリカは1961年の登場から国民に愛される車として1988年まで生産・販売されました。

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2024年6月26日 (水)

世界初の実用ヘリコプターが初飛行(1936年6月26日)|フォッケウルフ Fw 61

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 ヘリコプターの原型は竹トンボに始まりルネサンス期にはイタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチを残しています。18世紀以降になると模型が作られるようになりやがて蒸気機関を搭載した試作機が製作されるようになりました。20世紀になると人が操縦するヘリコプターが開発されまたが空中に浮きあがることはできても実用的なものではありませんでした。

 固定翼機が主流になると回転翼をもつオートジャイロが開発されるとヘリコプターに必要な航空力学や技術的な知見が得られるようになりました。やがてホバリングが可能なヘリコプターも登場するようになりましたが飛行は不安定で実用できるようなものではありませんでした。

 安定飛行が可能な実用的ヘリコプターを開発したのは1930年代にドイツでオートジャイロの開発と生産を行っていたハインリヒ・フォッケ博士です。フォッケ博士はオートジャイロの開発を通じ回転翼による航空機はオートジャイロでは実現できないという結論に達し、ヘリコプターの開発に着手しました。1934年にはヘリコプターの試作機が完成すると、ドイツ航空省はフォッケ博士にヘリコプターの試作機フォッケウルフFw 61の製造を命令しました。

 フォッケウルフFw 61は1936年6月26日に初飛行を行いました。翌年、試作2号機作られ1937年5月10日にエンジンを止めた状態で着陸するオートローテーションに成功した。これによってドイツは世界に先駆けて安定飛行jが可能で実用的なヘリコプターの開発に成功したのです。

フォッケウルフ Fw 61のデモンストレーション
フォッケウルフ Fw 61のデモンストレーション

 

Focke-Wulf Fw 61 demonstrated by Hanna Reitsch

 

 

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2024年6月10日 (月)

窓付き封筒の特許取得(1902年6月10日)

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 窓付き封筒は中に入っている手紙に書いてある宛名が見える封筒でビジネスで良く使われています。

 この窓付き封筒は昔からありますが米国イリノイ州シカゴのアメリカス・F・キャラハンが発明したものです。キャラハンは発明した窓付き封筒を「アウトルック封筒」(Outlook Envelope)と名づけ1901年12月9日に特許を申請、1902年6月10日に特許を取得しました(米国特許番号701839)。キャラハンは特許をマサチューセッツ州のエンベロープ社に貸与、同社は1902年7月に製造を開始した。

窓付き封筒(米国特許番号701839)
窓付き封筒(米国特許番号701839)

 窓就く封筒の登場により封筒内の手紙の宛先を郵便の受取人の宛先にも使用できるようになったことから宛名を封筒に印刷する必要がなくなりました。開発当時は文字はタイプライターで打っていましたので手間や打ち間違いなくなりインクの節約にもなりました。一方で窓の部分を切り抜きグラシン紙を取り付けた封筒の製造には手間がかかりましたが封筒に宛名を書かないで済むことの方が便利だったようです。また当時は紙も貴重品であり封筒に使う紙を印刷ができない品質のものを選べるようになりました。第二次世界大戦中、イギリスでは紙不足で新聞紙の封筒が使われたこともあるようです。

 長らくの間、窓の素材にはグラシン紙が使われましたがプラスチックのフィルムが使われるようになったのは20世紀の終わり頃からです。

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