カテゴリー「科学・技術」の109件の記事

2024年4月18日 (木)

発明の日|専売特許条例の公布(1885年4月18日)

ココログ「夜明け前」公式サイト

 日本の特許に関する法律は明治4年(1871年)に専売略規則が公布されていますがこの法律は施行されることなく翌年に廃止されました。

明治17年(1884年)に農商務省外局として設置された特許局の初代局長に就任した高橋是清が特許制度を整備しました。明治18年(1885年)4月18日、特許局は専売特許条例を公布し、この条例は同年7月1日に施行しました。専売特許条例は現在の特許法の前身となるものでこれにより日本の特許制度が始まりました。

高橋是清
高橋是清

 この法律に基づいて最初に特許を取得したのは日本の彫刻家で漆工芸家の堀田瑞松です。施工日の同年7月1日に農商務省の専売特許所には鉄製船舶の船底の防錆を目的とした漆を主成分とする「堀田錆止塗料及ビ其塗法」(堀田式さび止め塗料とその塗法)を出願、同年8月14日に日本の特許第1号を取得しました。

 昭和29年(1954年)1月28日、通商産業省(経済産業省)は特許制度を広く周知させることを目的として4月18日を「発明の日」としました。特許庁は昭和60年(1985年)4月18日に専売特許条例公布100周年を記念し、日本の歴史的な発明家として次の10名を選びました。

 日本の十大発明家 

  • 豊田佐吉  特許第 1195号 木製人力織機
  • 御木本幸吉 特許第 2670号 養殖真珠
  • 高峰譲吉  特許第 4785号 アドレナリン
  • 池田菊苗  特許第14805号 グルタミン酸ソーダ
  • 鈴木梅太郎 特許第20785号 ビタミンB1
  • 杉本京太  特許第27877号 邦文タイプライター
  • 本多光太郎 特許第32234号 KS鋼
  • 八木秀次  特許第69115号 八木アンテナ
  • 丹羽保次郎 特許第84722号 写真電送方式
  • 三島徳七  特許第96371号 MK磁石鋼

 法律が施行されてからの発明家ですから江戸時代に活躍した平賀源内やキテレツ斎(^^ゞなどは対象外ということだと思います。

 

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2024年4月17日 (水)

アポロ13号が帰還(1970年4月17日)

ココログ「夜明け前」公式サイト

 アポロ13号はアメリカ合衆国のアポロ計画の3度目の有人月面飛行です。アポロ13号は1970年4月11日にサターンV 型ロケットでケネディ宇宙センター第39発射施設から発射されました。搭乗員はジェームズ・アーサー・ラヴェル・ジュニア船長、ジョン・レナード・"ジャック"・スワイガート・ジュニア司令船操縦士、フレッド・ウォレス・ヘイズ・ジュニア月着陸船操縦士の3名です。

アポロ13号の打ち上げ
アポロ13号の打ち上げ

 アポロ13号は発射直後に第2段ロケットの中央エンジンが予定より早く停止しましたが残りのエンジンで対応したため大事には至りませんでした。この原因はエンジンの振動によるもので空中分解の危険性があると判断し中央エンジンが自動的に停止したものでした。

 何とか事なきを得たアポロ13号は月を目指して飛行を続けましたが発射から2日後の13日、機械船の第2酸素タンクの残量表示の故障が発生しました。故障の原因を探るためにタンクの攪拌機のスイッチを入れたところタンク内部の電線が短絡し放電が発生、これによって第2酸素タンクが爆発してしまいました。

 このとき宇宙飛行士3人はこの爆発に気が付いておらず小惑星が衝突したと考えていました。しかし、この爆発により第1酸素タンクも損傷を受け数時間後には機械船の酸素が完全に失われることが判明しました。ジョンソン宇宙センターの管制官と宇宙飛行士は酸素を可能な限り維持するよう試みました。酸素タンクは司令船オデッセイ号にも存在していましたが、司令船の酸素は地球への帰還する大気圏突入時に必要となる10時間分しか搭載されていませんでした。月面着陸を目指していたアポロ13号には月着陸船アクエリアス号が連結されていました。宇宙飛行士たちは管制センターの指示で司令船の機能を停止し月着陸船に乗り移りました。

司令船オデッセイ号
司令船オデッセイ号

 アポロ13号の月面着陸のミッションは中止となり地球への無事帰還が新たなミッションとなりました。月に向かうアポロ13号が地球に帰還すするには機械船のエンジンを噴射して向きを変える方法(直接中止)と自由帰還軌道にそって月の裏側を回って向きを変える方法(月周回中止)の2つがあります。機械船のエンジンは爆発で損傷している可能性があるため直接中止は回避され、月周回中止が選択されました。

 ところがアポロ13号は月面着陸の目的地をめざすため自由帰還軌道からずれた軌道を取っていました。このまま進むと向きは変えられても地球に戻ることはできないため月着陸船の降下用エンジンの噴射を使って軌道修正が行われました。4月15日に月面から254.3 km上空を通過し月に最接近することに成功しました。これによってアポロ13号の地球への帰還の目処は立ちましたが宇宙飛行士が生還できるかどうかは先行きが不透明な状態でした。しかし、管制センターと宇宙飛行士はあらゆる手段を使って地球へ帰還することを目指したのです。

 宇宙飛行士が避難した月着陸船には酸素は十分に搭載されていましたが、2人が2日間滞在できるように設計されていました。宇宙飛行士たちが次に見舞われた問題は二酸化炭素の除去装置のフィルターに使われている水酸化リチウムの量でした。機内の二酸化炭素濃度が増えると中毒が発生します。月着陸船には3人が地球に帰還するまでに必要な量の水酸化リチウムはなかたのです。そこで管制センターは司令船の二酸化炭素除去フィルターを使うことにしました。司令船には十分な量のフィルターが搭載されていましたが司令船と月着陸船で使われているフィルターの規格が違っていたためその形状が異なりました。宇宙飛行士たちは管制センターの指示でビニール袋やボール紙をガムテープで貼り合わせフィルターを取り付ける枠を作成しこの難を逃れました。

 酸素と二酸化炭素の問題は解決しましたが電力と水の問題が残されていました。司令船と機械船には燃料電池が搭載されており発電とともに副産物として飲料水や冷却水を生成することができました。しかし月着陸船にはボタン電池に使われる酸化銀電池が搭載されていたため水を生成することができず電気も節約しなければなりませんでした。これによって宇宙飛行士は水を飲むことができず、船内の室温も下がり凍るほどの寒さとなりました。宇宙飛行士は汗をかいて水分が失われるのを恐れて宇宙服を着ませんでしたが、そのために船内のいたるところで水蒸気が凝縮して水滴がつきました。この結露による回路の短絡が懸念されましたが過去の事故の教訓から対策が施されていたため問題にはなりませんでした。

 苦難を乗り越えてアポロ13号は地球、目前の青い地球を見て飛行士3人は安堵したことでしょう。地球への帰還のためまず機械船を切り離しましたが、3人は機械船のタンクのカバーが全て失われているのを見て愕然としたそうです。

アポロ13号の機械船(大気圏再突入直前)
アポロ13号の機械船(大気圏再突入直前)

 3人は地球帰還直前まで滞在した月着陸船アクエリアス号から司令船オデッセイ号に乗り移りアクエリアス号を切り離しました。オデッセイ号は大気圏に突入し、1970年4月17日18:07:41 UTCに太平洋上の南緯21度38分24秒 西経165度21分42秒の地点に着水しました。こうして3人の宇宙飛行士たちが地球に生還することができたのです。アポロ13号が月面着陸を目的としたミッションでなければ宇宙飛行士たちは酸素不足で命を落としいたでしょう。

アポロ13号の宇宙飛行士(左からラヴェル、スワイガート、ヘイズ)
アポロ13号の宇宙飛行士(左からラヴェル、スワイガート、ヘイズ)

【関連記事】

ケネディ大統領が月面着陸の声明を出す(1961年5月25日)

アポロ11号打ち上げ(1969年7月16日)

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2024年4月16日 (火)

少年よ大志を抱け(1877年4月16日)

ココログ「夜明け前」公式サイト

 箱館戦争が終結すると明治政府は蝦夷地を北海道に改名し北海道の開拓と警備を進めました。明治2年(1869年)に札幌本府の建設が始まり明治5年4月15日(1872年5月21日)、東京芝公園の芝増上寺に開拓使仮学校が設置されました。この開拓使仮学校の初代校長には函館政権で海軍奉行を務めた荒井郁之助が就任しています。この学校は北海道開拓のための人材の育成を目指したもので札幌に移転する計画でした。

 明治8年(1875年)5月、最初の屯田兵が札幌郊外の琴似兵村に入所すると開拓使仮学校が東京から移転し、同年7月29日に札幌学校と改称、明治9年(1876年)8月14日に札幌農学校とし開校式が行われました。札幌農学校の校長は日本人が歴任していますが、事実上の初代校長は初代教頭として招かれた米国マサチューセッツ農科大学学長のウィリアム・スミス・クラーク博士です。

ウィリアム・スミス・クラーク博士
ウィリアム・スミス・クラーク博士

 クラーク博士がマサチューセッツ農科大学で教鞭を執っていた頃、学生の中に後に同志社大学の創始者となった新島襄がいました。新島襄は日本政府にクラーク博士を紹介し、日本政府の強い要請により札幌農学校にやって来ました。クラーク博士はマサチューセッツ農科大学での1年間の休暇を利用して来日したため日本に滞在したのはわずか8ヶ月でした。

 クラーク博士はマサチューセッツ農科大学のカリキュラムを札幌農学校で展開しました。立場は教頭でしたが札幌農学校の運営は実質的にクラークが取り仕切りました。クラークの上司は開拓使の黒田清隆でクラークに英語の肩書きを札幌農学校のPresidentとすることを認めていたのです。クラークは札幌農学校をさらに発展させるため自分の後継者にマサチューセッツ農科大学の教え子を指名し、学問のみならず規律など学生の教育を行い自律的学習を学生に促しました。

札幌農学校(1880年頃)
札幌農学校(1880年頃)

 クラーク博士は明治10年(1877年)に離日することになりました。クラーク博士は札幌を出発する明治10年(1877年) 4月16 日に月寒村島松駅逓所(北広島市島松)で「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」という言葉を残しました。この言葉は後世の創作とされていましたが、後にこの言葉が記録されている同窓会誌「恵林」13号(1894年頃)が発見され創作ではないことが判明しました。

 この資料によるとクラーク博士が残した言葉は「Boys, be ambitions like this old man」でしたがambitionsはambitiousの誤植で「Boys, be ambitious like this old man」であり、その意味は「この老人のように、あなたたち若い人も野心的であれ」でした。このbe ambitiousが「大志を抱け」と訳されたのです。

【関連記事】少年よ大志を抱け(1877年4月16日)

札幌時計台が竣工(1878年10月16日)

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2024年2月24日 (土)

ペリーが日本初の電信の公開実験を行う(1854年の2月24日)

ココログ「夜明け前」公式サイト

 嘉永6年6月3日に相模国浦賀沖に米国マシュー・ペリー提督が率いる艦隊が現れました。いわゆる黒船来航ですが、ペリーの目的はアメリカ合衆国第13代大統領ミラード・フィルモアの日本に開港と通商を求める親書を江戸幕府に届けることでした。このとき幕府は第12代征夷大将軍徳川家慶が病床に伏せていたためペリーに対して回答に1年間の猶予を要求しました。ペリーもこれを了承し1年後に再び来航することを約束して同年6月12日に離日しました。

 しかしながら家慶の病状は回復することなくペリーの離日からわずか10日後に死去しました。同年10月23日に徳川家定が第13代将軍となりました。家慶の死去を知ったペリーは交渉を有利に進めようと大艦隊を率いて約束より半年も早く嘉永7年1月16日に再び来日しました。幕府は術もなく同年3月3日に米和親条約を締結したのです。このときペリーはミシン、蒸気機関車の模型、写真機など多くの品々を幕府に献上しました。

米国から贈り物の引き渡し(横浜)
米国から贈り物の引き渡し(横浜)

 献上品の中にはエンボッシング・モールス電信機がありました。この電信機は米国製で外箱の銘板に「For the Emperor of Japan」と彫刻されていました。この電信機は送信側でモールス信号を打つと、受信側でモールス信号が紙テープに打刻される仕組みです。ペリーは電信に必要な機材を持ってきており、横浜で電信の実験を行いました。送信機と受信機は電線で接続され約1マイル離れたところに設置さました。「YEDO, YOKOHAMA」と入力されたモールス信号は瞬時に送られ電信実験は成功しました。この実験が日本で初めて行われた公式の電信となりました。この様子は「ペリー提督日本遠征記」で読むことができます。

 ペリー提督日本遠征記 (角川ソフィア文庫)

 ペリーの電信実験を見た日本人はたいそう驚いたそうです。この技術を使いこなせば世の中が大きく変わることは誰もが想像できました。しかし、ペリーの黒船来航で日本は混乱の時代となり戊辰戦争が終結するまでは電信が普及することはありませんでした。

 明治2年(1869年)に英国から通信技師を招き電信の回線が敷設され、東京と横浜の間で電信による電報が始まると、明治政府は電信網の整備に力を入れ数年のうちに全国で電信が普及しました。張り巡らせた。明治10年(1877年)の(明治10年)の西南戦争では電信が活用され戊辰戦争とは異なり情報の伝達が飛躍的に迅速となり政府軍の勝利に貢献しました。

 エンボッシング・モールス電信機は日本の電信を発展させるきっかけを作ったものとして平成9年(1997年)に国の重要文化財に指定されました。

【関連記事】ペリーが日本初の電信の公開実験を行う(1854年の2月24日)

モリソン号事件と7人の日本人(1837年6月28日)

米国捕鯨船マンハッタン号が日本に寄港(1845年4月18日)

ジョン万次郎が帰国(1851年1月3日)

黒船来航(1853年7月8日)

マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)

函館とホタテ貝と黒船ペリー提督の関係

ペリー提督日本遠征記 (角川ソフィア文庫)

開陽丸が横浜に入港(慶応3年 1867年4月30日)

榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2024年2月 8日 (木)

Google Bardが虹の絵を描けるか

ココログ「夜明け前」公式サイト

 Google BardにAIモデル「Gemini」が組み込まれテキストだけではなく画像、動画、音声などを学習できるようになったそうです。AI画像生成ができるようになったということなの試しにいろいろやってみました。

 「Creating image of Ultraman.」「Creating image of Draemon.」「Creating image of Micky Mouse.」と入力してみたところ、ウルトラマン、ドラえもん、ミッキー・マウスを描いてくれました。

 「Creating image of Ultra Seven」「Creating image of Ultraseven」「Creating image of Ultra7」としてウルトラセブンを描いてもらったのですが、AIオリジナルデザインのウルトラ戦士が描かれました。おそらくウルトラセブンを知っていてもその姿については学習が不十分なのでしょう。

 キャラクターや俳優さんの絵や写真は存在するのでBardが絵を描けるかどうかは学習次第でしょう。それに加えて法的問題もあるかもしれません。たとえば「Superman」「Spiderman」「Batman」は描いてくれず「I can't generate images of that. Try asking me to generate images of something else.」という返事が表示されました。「Creating image of Bruce Lee.」も同じ結果になりました。著作権や肖像権の法的な判断もあるのでしょうが描くものと描かないものの違いはよくわかりませんでした。

 さて絵や写真として存在するものを描いてもらうのは面白くありません。Google Bardがテキストから学習している内容から絵を描けるかどうかそんな実験をしてみました。ということでGoogle Bardの科学的知識を探ってみました。

 出題してみた問題は「Create image of a typical natural phenomenon caused by the refraction of light.」。日本語に訳すと「光の屈折によって引き起こされる典型的な自然現象のイメージを作成せよ」となります。描いてくれたのは次の絵です。

Create image of a typical natural phenomenon caused by the refraction of light.
Create image of a typical natural phenomenon caused by the refraction of light.

 上段の右側は虹を描いていますのでこれは正解です。上段左と下段左は屈折は関係ないように思います。下段の右はオーロラですが発光原理は屈折ではありません。上段右の虹は主虹と副虹が描かれていますが過剰虹にもなっています。

 普通にテキストで虹について聞くと虹とは何か虹が生じる原理など正しい内容の回答が得られます。「Create image of rainbow」と入力すると虹を描いてくれます。景色なども工夫してあり素晴らしい絵です。しかし、「Create image of rainbow」ですから「rainbow」と虹の絵や写真を知識としてもっていれば描けてあたりまえです。

Create image of rainbow
Create image of rainbow

 最初に入力した「Create image of a typical natural phenomenon caused by the refraction of light.」では「光の屈折」と「自然現象」を結びつけ、さらに「典型的な」ものは何かを判断しなければなりません。

 ためしにテキストで「Please let me know a typical natural phenomenon caused by the refraction of light.」と「光の屈折によって引き起こされる典型的な自然現象を教えて」と聞くと、答は「One of the most typical natural phenomena caused by the refraction of light is the Rainbow.」と「光の屈折によって引き起こされる最も典型的な自然現象のひとつは虹です」とちゃんと答が返ってきます。

 であるならば「Create image of a typical natural phenomenon caused by the refraction of light.」に対しても「Create image of rainbow」と同様に典型的な虹の絵を描けそうなものですが結果は満足のいくものではありませんでした。知識の点と点を結びつけて結論づけて絵を描くにはまだ学習不足なのかもしれません。しかし、すぐに乗り越えて描けるようになるでしょう。

 つべこべ解説していたら、そんなこと考えて試してみるあなたも変わっていると言われました(^^ゞ

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2024年1月27日 (土)

高島流砲術を学んだ福澤諭吉

ココログ「夜明け前」公式サイト

 福沢諭吉は天保5年12月12日(1835年1月10日)に豊前国中津藩(大分県中津市)の下級武士の福澤百助の次男としてに生まれました。5歳の頃から漢学と一刀流を学び始め15歳の頃から勉学に励むようになりました。

福澤諭吉(文久2年1862年)
福澤諭吉(文久2年1862年)

 嘉永6年(1853年)の黒船来航により砲術の需要が高まり諸藩の藩士が砲術を学ぶようになりました。兄の三之助は諭吉に対してオランダの砲術を学ぶにはオランダ語で書かれた原著を読む必要があると長崎に遊学するよう勧めました。砲術の勉強の名目で中津藩から遊学の許可を得て安政元年(1854年)に長崎に出て蘭学を学びました。

 諭吉は中津藩士で砲術を学んでいた奥平壱岐の紹介で長崎奉行役人で砲術家の高島秋帆門下の山本物次郎の食客となり、オランダ通詞からオランダ語を習得し、蘭学や砲術を学びました。山本家には高島秋帆の高島流砲術の資料がたくさんあり、諭吉は鉄砲などの設計ができるようになりました。山本家には出島を訪れるものや大砲の設計図を見にくるものなどがたくさん訪れましたが、それらの接客は諭吉が対応していました。諭吉は長崎で多くの知識と技術を得ながら勉学に励んだのです。

 安政2年(1855年)、諭吉は長崎から大阪へ移り緒方洪庵の適塾に入門しました。安政5年(1858)に江戸に出て築地鉄砲洲にある中津藩中屋敷の長屋に移り住み蘭学塾を開きました。これが諭吉が創設した慶応義塾の始まりとされています。

【関連記事】

高島秋帆の高島流砲術

モリソン号事件と7人の日本人(1837年6月28日)

万延遣米使節団が品川出港(1860年1月18日)

アイスクリームの日(5月9日)

壱万円札が初登場(1958年12月1日)

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2024年1月14日 (日)

図解入門よくわかる最新プラスチックの仕組みとはたらき[第4版]

図解入門よくわかる最新プラスチックの仕組みとはたらき[第4版]

秀和システム 桑嶋幹・木原伸浩・工藤保広

 久しぶりに書籍の紹介です。この本は書籍としては新刊ですが、初版2005年7月、第2版2011年9月、第3版2019年9月と内容が更新され続けています。今回出版されたのは第4版です。

 ここ数年でプラスチックを取り巻く環境は大きく変化しています。プラスチックの自然環境や資源問題への影響が注目され、新たな法整備も進みました。

 この本はプラスチックの基礎(第1章)・合成(第2章)・用途(第3章、第4章)・新技術(第5章)・環境問題(第6章)について最新の情報が網羅されている入門書です。プラスチックの合成方法の解説では難しい化学式を使わずに様々な重合を解説しています。プラスチックの利用や環境問題に関わる統計データも最新のものに更新されています。

4_20220830141201

 私たちの身の回りには、日用品や家電品、自動車や飛行機などプラスチックが使われているものがたくさんあります。ところがプラスチックをどうやって作るのかなどその詳細は、あまり知られていません。本書は、プラスチック(合成樹脂)の種類や特性、用途などをやさしく解説した入門書の第4版です。新しく施行された「プラスチック資源循環促進法」やSDGsに対応した、新しい生産・分解技術についての解説を追加しました。


目次

はじめに

第1章 プラスチックとは何か

1-01 プラスチックを探してみよう
1-02 そもそもプラスチックとは
1-03 人類とプラスチックの関わり合い
1-04 プラスチックの発展(合成樹脂の利用)
1-05 プラスチックはどのような物質か
1-06 プラスチックの種類と性質
1-07 プラスチックの見分け方(用途や品質表示)
1-08 プラスチックの見分け方(化学分析)
1-09 広がるプラスチックの利用

第2章プラスチックができるまで

2-01 プラスチックのもと(モノマーとポリマー)
2-02 手をつなぎ変えながら伸びていく重合(付加重合) 
2-03 手をつないで伸びていく重合(縮合重合)
2-04 どうすれば長くなるか
2-05 プラスチックの性質を決める(分子間相互作用の重要性)
2-06 2種類以上のモノマーやポリマーを使う(共重合とポリマーアロイ)
2-07 プラスチックに形を与える(成型)
2-08 熱による成型方法いろいろ
2-09 融けないプラスチックを作る(架橋)
2-10 ゴムとエラストマー
2-11 樹脂
2-12 プラスチックの大部分はプラスチックではない!
2-13 発泡体

第3章 私たちの暮らしとプラスチック

3-01 家庭用品には汎用樹脂が活躍
3-02 文具では用途に合わせて様々な素材が活躍
3-03 家電製品はメンテナンスが少なくてすむ素材が活躍
3-04 包装はプラスチックの最も大きな利用先 
3-05 衣料には適度な強度と肌触りが大事(合成繊維)
3-06 軽くて高機能なメガネ、コンタクトレンズ
3-07 錆びない材料で維持しやすい住居
3-08 スポーツ、レジャーでは軽くて強い素材が活躍
3-09 子どもが安心して遊べる素材を
3-10 携帯電話、スマホ、タブレットにもプラスチックを幅広く活用

第4章 産業で活躍するプラスチック

4-01 自動車では内装からエンジンルームまで幅広く使用
4-02 鉄道車両とプラスチック
4-03 駆体は鋼板から繊維強化プラスチックへ(船舶、航空機)
4-04 スポーツ施設で活躍するプラスチック
4-05 実は軽くて強い発泡スチロール(土木) 
4-06 季節に関わらず様々な食材を得るために(農業、水産業)
4-07 風雨などから素材を守る(塗料)
4-08 飛行機の構造材から付箋紙まで様々なものを結ぶ(接着剤)
4-09 自然エネルギー利用で活躍するプラスチック(風力発電、太陽光発電)
4-10 電子回路を使用した製品で活躍するプラスチック
4-11 医療用器具で幅広く使用されるプラスチック

第5章 進化するプラスチック

5-01 光とプラスチック(透明性と光応答性)
5-02 音とプラスチック(防音と発音)
5-03 包装を変えたプラスチック(食品はもう腐らない)
5-04 医療を変えたプラスチック(衛生と生体適合性)
5-05 微生物や光で分解するプラスチック(分解性材料)
5-06 プラスチックによる構造材料(強力なだけではなく)
5-07 電気と磁気とエネルギーとプラスチック
5-08 薄皮 1 枚で分ける(膜分離)
5-09 プラスチックを印刷する(3D プリンター)

第6章 プラスチックの課題と私たちの生活

6-01 プラスチックがもたらすもの
6-02 プラスチックの安全性
6-03 プラスチックと資源問題
6-04 プラスチックと環境問題
6-05 プラスチックとごみ問題
6-06 プラスチックのリサイクル
6-07 容器包装リサイクル法とは
6-08 ペットボトルのリサイクル
6-09 科学と技術でプラスチックの課題を解決することができるか 
6-10 持続可能な社会とは
6-11 心豊かで快適な暮らしを続けるために

索引 
参考文献

コラム

・目的によって作り出される複合材料
・高分子の概念を提唱したヘルマン・シュタウディンガー
・レゾール型とノボラック型のフェノール樹脂
・赤外分光法 
・超高分子量ポリエチレンとゲル紡糸法
・ポリマーアロイがもたらしたエンジニアリングプラスチック、PPE
・アクリルとは
・架橋と紙おむつ
・フッ素樹脂で加工した調理器具
・プラスチックと金属の表面の違い
・不織布マスクにもプラスチックが活用されています
・プラスチックボディの車?旧東ドイツのトラバント 
・接着剤による接着の仕組み
・太陽電池(PN 接合型太陽電池と色素増感太陽電池)
・高分子圧電材料
・プラスチックによる電線の被覆
・インテリジェント材料
・レジ袋に使われている原油の量
・洗濯バサミがバラバラに崩れる理由は?
・二酸化炭素からプラスチックの合成
・ゴミ収集車
・有害廃棄物の国境を越える移動及びその処分の規制に関するバーゼル条約 
・生分解性プラスチックは環境にやさしいと言えるか? 

出版社 :秀和システム; 第4版 (2022/8/31)
発売日 :2022/8/31
言語  :日本語
単行本 :318ページ
ISBN-10:4798068292
ISBN-13:978-4798068299
寸法  :14.8 x 2.3 x 21 cm

図解入門よくわかる最新プラスチックの仕組みとはたらき[第4版]

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2023年12月26日 (火)

キュリー夫人がラジウムを発見(1898年12月26日)

ココログ「夜明け前」公式サイト

 世界で初めて発見された放射線は1895年にドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンが陰極線の実験で発見したエックス線です。レントゲンの論文を読んだフランスの物理学者アンリ・ベクレルは1896年にウラン化合物そのものから何らかの光が出ていることを発見しこれをベクレル線と名付けました。このベクレルの発表に関心をもちベクレル線を出す物質の研究を始めたのがピエール・キュリー、マリ・キュリー夫妻です。当初は放射線についてはよくわかっていませんでした。

キュリー夫妻と放射線測定装置
キュリー夫妻と放射線測定装置

 1898年にキュリー夫妻はピッチブレンド(閃ウラン鉱)から元素を単離していたところバリウムと同様な化学的性質を示すものから放射線が出ていることを確認しました。2人はピッチブレンドの中に放射線を出す物質が存在すると考え分離・精製したところ光を出す物質を発見しました。この物質は塩化ラジウムでした。

 キュリー夫妻は1898年12月26日に放射線を発するラテン語のradius にちなんでラジウムと命名した新元素を発表しました。また放射線を出す性質を放射能と名付けました。キューリー夫妻はベクレルとともに1903年ノーベル賞を受賞、ピエール・キュリーは1906年に亡くなりますがマリ・キュリーはその後もラジウムの研究を続け塩化ラジウムから金属ラジウムの単離に成功しています。

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2023年12月16日 (土)

渋沢栄一が製紙工場設立|紙の記念日(1875年12月16日)

ココログ「夜明け前」公式サイト  

明治維新後、西洋に匹敵する力を持つためには国内の産業を発展させる必要がありました。そのためには人材育成や情報共有が必須です。そこで人々の知識を高めるために新聞や書籍などの印刷物の普及が求められ安価で大量生産が可能な洋紙の必要性が高まりました。ところが当時は国内で洋紙の製造はしておらず輸入に頼っていました。このような考えをもとに洋紙の国産化を考え製紙工場の立ち上げに尽力したのが渋沢栄一です。

渋沢栄一(官僚時代)
渋沢栄一(官僚時代)

 官僚から実業家となった渋沢栄一は政府に働きかけ明治6年(1873年)に大蔵省紙幣寮から民間企業「抄紙会社」を独立させました。洋紙の原料として襤褸(木綿の古布)を使うことになり、大都市近郊が襤褸が入手しやすいという理由から「抄紙会社」の工場は東京の王子に建設されることになりました。資金不足に陥り計画が危うくなりましたが、渋沢栄一が尽力して銀行などから融資を受け明治8年(1875年)12月16日に工場の営業運転開始にこぎ着けました。当初は政府の地券状用紙の注文が会社を支えましたが、やがて新聞紙や雑誌に用いられる民需の用紙を生産するようになり渋沢栄一の当初の製紙工場設立の目的を果たすことができるようになりました。

 この「抄紙会社」は明治9年(1876年)に「製紙会社」へ名称が変更され、明治26年(1893年)に「王子製紙株式会社」となりました。その後は規模が拡大し「大王子製紙」と呼ばれました。第二次世界大戦後は財閥解体の対象となり昭和24年(1949年)に「苫小牧製紙」「本州製紙」「十條製紙」の3社に分社されました。現在この3社は再編され苫小牧製紙」「本州製紙」が王子ホールディングスとなり十條製紙が日本製紙となっています。

【関連記事】渋沢栄一が製紙工場設立|紙の記念日(1875年12月16日)

名前に番号が入る銀行の由来|国立銀行の日(1873年6月11日)

日本初の火力発電所が日本初の送電を開始(1887年11月29日)

帝国ホテル新館ライト館の落成記念式(1923年9月1日)

地下鉄記念日 (1927年12月30日)

壱万円札が初登場(1958年12月1日)

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

2023年12月10日 (日)

朝永振一郎博士がノーベル物理学賞を受賞(1965年12月10日)

ココログ「夜明け前」公式サイト

 朝永振一郎博士は1906年(明治36年)に哲学者の朝永三十郎の長男として東京市小石川区小日向三軒町で生まれました。1913年に三十郎が京都帝国大学に就任したため家族は京都に移り住みました。幼少の頃から自然科学に興味をもった朝永振一郎はルーペで実験を行ったり電信機や顕微鏡の自作などを行いました。中学生時代から湯川秀樹と同じ学校に通い高校を卒業すると湯川とともに京都帝国大学理学部物理学科に進学しました。

 大学を卒業すると朝永と湯川は大学に留まり無給副手となりました。朝永は独学で物理学を学んでいたところ1931年に仁科芳雄の誘いで理化学研究所の仁科研究室の研究員となりました。仁科のもとではマグネトロンの研究などを行いました。その後、1937年にドイツに留学しヴェルナー・カール・ハイゼンベルクのもと場の量子論や原子核の理論の研究を行いました。1941年に帰国し東京文理科大学(東京教育大学の前身sで現在の筑波大学)教授となりました。

朝永振一郎博士
朝永振一郎博士

 朝永の著名は研究業績は素粒子を記述する場の理論とアインシュタインの相対性理論の関係を解き明かした「超多時間理論」および「超多時間理論」を発展させて場の理論の無限大の困難を解消した「くりこみ理論」です。朝永はこれらの研究成果から光と物質との相互作用を解明しました。「くりこみ理論」を用いて水素原子のスペクトルが理論的な予想からずれる現象(ラムシフト)を説明しました。これらの業績により1965年秋に米国の物理学者リチャード・ファインマン、ジュリアン・シュウィンガーとともにノーベル物理学賞を受賞しました。ところが朝永は祝い酒で酩酊し風呂場で転んで肋骨を骨折し授賞式に出席できませんでした。「ノーベル賞を貰うのは骨が折れる」と言ったという逸話があります。

 朝永振一郎博士は科学教育にも熱心で東京教育大学長、日本学術会議会長という要職を務め多くの弟子を育てると同時に組織をうまくまとめ物理学の発展に大きく貢献しました。1978年に喉頭癌を患い手術で声を失い、翌年に再発して亡くなりました。墓所は東京西部の多磨霊園で遺骨は師の仁科芳雄の墓に葬られました。その墓標には「朝永振一郎 師とともに眠る」と刻まれています。

 

朝永振一郎博士は科学についてこのような言葉を残しています。

 ふしぎだと想うこと これが科学の芽です

 よく観察してたしかめ そして考えること これが科学の茎です

 そうして最後になぞがとける これが科学の花です

 

 

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧