カテゴリー「科学・技術」の7件の記事

2021年3月 2日 (火)

超音速ジェット旅客機コンコルドが初飛行(1969年3月2日)

 1950年代後半、イギリスとフランスはそれぞれ独自に超音速旅客機の研究を始めていました。しかし、同じような機体を開発しても営業上の競合が避けられないことや開発費用の削減などを考慮し、1961年に両国で共同開発をすることになりました。1963年11月29日に両国間で共同開発の協定書が結ばれました。当時のフランスのシャルル・ド・ゴール大統領はこのプロジェクトをフランス語で協調や調和を意味する「コンコルド(Concorde)」と名付けました。

 両国間で主導権や機体の名称の決定について論争がありましたが、開発は着々と進み、機体の名称も「コンコルド」でまとまりました。各国のナショナル・フラッグの航空会社から多数の注文が入り、1967年11月12日にフランスのトゥールーズで機体の原型が公開されました。

 その2年後の1969年3月2日、原型機が初飛行に成功、10月1日には超音速での飛行に成功しています。1976年1月21日からブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスが定期的な商業運行を開始しました

 コンコルドの機体は非常に長い流線型の胴体で、機首は離着陸時には視界確保のために機首を下方に曲げることができるようになっています。また、客室は4列配置の100席でファーストクラスのみの設定でした。

コンコルド
コンコルド(Author Arpingstone

 コンコルドはマッハ2(時速2,500km)の速度でパリ・ニューヨーク間をわずか3時間45分で結びました。当初は未来のジェット機として期待されましたが、客席数や燃料消費量による採算性の問題、離着陸時の騒音や大気汚染の問題などを解決することができず、ビジネスとしては成功しませんでした。原型機を公開した当時は100機を超える注文がありましたが、実際には20機(原型機4機と量産型16機)しか生産されませんでした。

 2000年7月、コンコルド自身の問題ではありませんでしたが墜落事故が起きてしまいます。また2001年の911米国同時多発テロにより航空業界が大打撃を受けると、2003年にブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスはコンコルドの運航を停止することを発表しました。そして、2003年10月24日、コンコルドは最後の飛行を終えました。その後、超音速旅客機が開発されることはなく、コンコルドの最後の歩行をもって、超音速旅客機は世界の空から姿を消すことになりました。

 コンコルドの詳細についてはココログ 夜明け前 「超音速ジェット旅客機コンコルドが就航(1976/01/21)」にまとめてありますのでご一読ください。

 

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2021年2月 2日 (火)

バスガールの日(1920年2月2日)

 関東大地震の影響により運行が困難となった東京市電の代替輸送手段として東京市営バスの運行が開始したのは大正12年(1923年)1月18日です(ココログ 夜明け前円太郎バス走る|都バスの日 (大正13年 1924年1月18日)」。

 実は東京市営バスの運行に遡ること約5年前の1918年(大正7年)10月、民営のバス会社である東京市街自動車が設立され、1919年(大正8年)3月1日からバスの営業運行を開始しています。東京市街自動車のバスは車体が深緑色であったため、都民から「青バス」と呼ばれ親しまれました。

 〜余談になりますが、緑色のバスが青色と呼ぶれたは日本人が緑色と青色を明確に区別する文化をもっていなかったからです。ご興味をもたれた方はココログ 光と色と青は進めの真実|交通信号の色」をご一読ください〜

 東京市街自動車は関東大震災後のバスの活躍により、営業路線を拡大していきました。東京市街自動車のバスには少年の車掌が常務していましたが、運賃の横領が多いため、女性の車掌を採用することにしました。大正9年(1919年)12月に女性車掌募集の新聞広告を出し、女性車掌を採用、大正10年(1920年)2月2日に女性車掌が登場しました。

東京乗合自動車のバスと女性車掌(白襟嬢)
東京乗合自動車のバスと女性車掌(1934年、撮影:石川光陽)

 東京市街自動車の女性車掌は白襟の洋服にベレー帽の制服を着ていたことから、都民から「白襟嬢」と呼ばれ大人気となりました。

 東京市街自動車と競争していた東京市営バスは1924年から女性車掌を乗務させるようになりました。東京市営バスの女性車掌は赤襟の制服を着ていたため都民から「赤襟嬢」と呼ばれました。

 昭和40年代、子どもの頃にバスに乗ったときには、女性の車掌が必ず乗務していました。顔見知りになった車掌さんもいて、バスに乗ると名前で呼んでくれた車掌さんもいました。昭和40年代後半になると「ワンマン」と書かれた車掌さんの乗っていないバスが走るようになりました。当時は「ワンマン」の意味がわからず、「このバスには犬が何か関係しているのか?」などと思ったりしたものです。

 バスの停留所で待っているときに「ワンマン」のバスがやってくると、とてもがっかりしたものです。やがて、顔を覚えていた車掌さんの姿も見えなくなり、すべてのバスが「ワンマン」になりました。ドア付近には車掌さんがいた場所が残っており、その場所を見ると何か寂しい気持ちになりました。時は流れて、整理券、降車ボタン、運賃表、テープによるアナウンスが当たり前になりました。

 科学と技術が発展し、世の中便利になってくると、競争も激しくなり、効率を重視する必要が出てきます。バスの車掌さんのような仕事が消えていくわけですが、便利になっていく反面で、精神文化的な何かが失われていくような気もします。

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2021年1月27日 (水)

白熱電球を発明したのは誰?|エジソンが電球の特許取得(1880年1月27日)

 白熱電球の発明者と言えば、一般に米国の発明家トーマス・アルバ・エジソンという説が広まっていますが、世界で初めて電球を発明したのはイギリスの科学者ジョセフ・スワンです。スワンは1840年代後半から、真空のガラス球にカーボン紙のフィラメントを備えた電球の実験に取り組みました。1860年に電球を点灯させることに成功していますが、最初の電球はサイズが大きくて真空度も十分ではなく、肝心の寿命が短かかっため実用的ではありませんでした。

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スワン(左)とエジソン(右)

 スワンは1875年に真空度を改善したガラス球と炭化した糸のフィラメントで新しい電球を作成しました。この電球は寿命も改善されていましたが、フィラメントの抵抗が低かったため、明るい光を灯すためにはたくさんの電流を流す必要がありました。

 スワンは1878年12月18日にニューカッスル・アポン・タイン化学協会の講演で電球の点灯実験を公開しました。この実験ではスワンが電流を流し過ぎたため電球が壊れてしまいました。1879年2月3日にニューカッスル・アポン・タイン文学哲学協会の講堂で700人の聴衆の前で電球の点灯実験を成功させました。これが世界最初の電球の点灯とされています。電球の寿命は十分ではありませんが、当時としては実用的な40時間に達していました。

 スワンは1880年1月2日にフィラメントと電球を真空にする方法に関する特許(英国特許18)を取得しました。その後、綿を処理して羊皮紙の糸のフィラメントを作る方法を考案し、1880年11月27日に特許(英国特許4933)を取得しました。そして、自身の電球がいろいろなところで使用されるようになると、1881年にスワン・エレクトリック・ライト・カンパニーを設立し、電球の生産を開始しました。同年、ニトロセルロースから導電性繊維を作る工程を開発して特許を取得し、以降はセルロースのフィラメントを使用するようになりました。スワンの電球は大きな電流を供給しなければならないために非常に高価な銅線が必要で、さらに寿命を伸ばすことが容易ではなく、効率的とは言えませんでした。

 さて、電球が開発される以前はアーク灯が普及していました。アーク灯は明るすぎて屋内での利用には難があったため屋内ではガス灯が使われるようになりましたが、爆発の危険性など安全性に問題がありました。そこで、多くの科学者や技術者が電灯の発明に取り組みました。その中にはエジソンもいました。

 エジソンは屋内で利用できる寿命の長い白熱電球の発明に取り組むためニューヨークにエジソン・エレクトリック・ライト・カンパニーを設立しました。そして、スワンの電球の点灯から約8ヶ月後の1879年10月21日、木綿糸を炭化したフィラメントを用いた電球の点灯に成功しています。この電球の寿命は45時間でした。エジソンは1880年1月27日に電球の特許(米国特許0223898)を取得し、ほぼ同時に英国でも同じ内容の特許(英国特許4576)を取得しました。

 スワンは自身が発明した電球は既存の技術を使ったものと考え、電球そのものの特許は取得していませんでした。エジソンの会社が英国で電球の販売を開始すると、まもなくエジソンとスワンの間で電球に関する特許紛争が生じました。スワンの特許が電球そのものに対してのものでありませんでしたが、英国ではスワンの電球の発明の実績は誰もが認めるところでした。一方でエジソンの特許は電球に関する幅広い請求範囲をカバーするものでした。最終的にエジソンとスワンは和解する道を選び、1883年にエジソン&スワン・ユナイテッド・エレクトリック・カンパニーを設立しました。

 この通称「エディスワン」と呼ばれた会社はスワンが発明したセルロースのフィラメントを使用した電球を製造・販売していました。その一方で、エジソン自身は、より寿命が長く、効率的な電球を開発するため、フィラメントの材料を探し続けました。ある日、扇子に使われていた竹をフィラメントとして使ってみると、電球が200時間も光り続けたのです。エジソンは世界中に人を派遣し、電球のフィラメントとして最適な竹を探しました。そして、およそ1200種類の竹の中から、京都の八幡男山の真竹を選びました。真竹のフィラメントは径が細く、電灯の点灯と消灯がたやすくなりました。また、電球の寿命は2450時間にもなりました。八幡の真竹は1894年まで電球のフィラメントとして使われました。京都府八幡市の石清水八幡宮にはエジソンの記念碑、京阪電鉄の八幡市駅前にはエジソンの像が建てられています。

 エジソンは電球のフィラメントの抵抗を高くすることでの電球の電源電圧を100Vとし、電球を並列に接続しそれぞれ独立して点灯と消灯ができるようにしました。また、電球を取り付けるソケットをねじ式にして自由に交換できるようにした。こうして、エジソンは実用的で効率的な電球の開発に成功したのです。

 さて、スワンが電球の特許を出さなかったのは、スワンやエジソンが電球の発明に取り組む前から多くの電球が開発されてきたからですが、商用の実用的な電球を初めて開発したのはスワンであり、その電球をさらに発展させたのがエジソンです。

 現在の白熱電球のフィラメントにはタングステンが使用されています。タングステンのフィラメントは1904年にオーストリアのアレクサンダー・ユストとフランツ・ハナマンによって発明され、1906年に商品化されました。その後、改良を重ねて、効率が高く、寿命が長い電球が開発され、私たちの暮らしに明かりを灯してきたのです。現在では白熱電球は発光効率が悪いため、製造・販売が中止され、電球型蛍光灯やLED電球が主流になっています。

 白熱電球の仕組みついては、ココログ 夜明け前白熱電球の原理と仕組み」、LEDの仕組みについては、光と色とLEDが光る仕組み(1)」に解説がありますので、ご興味のある方はご一読ください。

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2021年1月24日 (日)

科学衛星「ひてん」打ち上げ(1990/01/24)

 世界で初めて月を探査するために立ち上げられたプロジェクトは米国のパイオニア計画です。米国は1958年から探査機の打ち上げを行いましたが失敗を繰り返し、十分な成果を得ることができませんでした。1959年3月に打ち上げたパイオニア4号で月の探査に成功しました。地球の重力圏から離れ、月面から6万キロメートルまで近づき、放射線の検出を試みました。

 同じ頃、ソビエト(現ロシア)も月探査を行うルナ計画を進めていました。1958年に探査機の打ち上げを3回試みましたが、いずれも失敗に終わりました。1959年1月に打ち上げで探査機を月に向かう軌道にのせることに成功し、月面から6千キロメートルまで近づくことに成功しました。この探査機をルナ1号と名付けました。1959年9月に打ち上げられたルナ2号は月面への衝突、ルナ3号は月の裏側の写真の撮影、ルナ9号は月面への着陸に成功しています。

 当時の冷戦化において、このソビエトの月探査の偉業やガガーリンを載せた有人宇宙飛行船ボストーク1号の打ち上げ成功は米国にとって衝撃的なものとなりました。宇宙開発でソビエトに遅れをとっていた米国は有人宇宙飛行による月面着陸をめざすアポロ計画を立ち上げたのです(ココログ 夜明け前「ケネディ大統領が月面着陸の声明を出す」)。

 20世紀末以降は月の探査がいろいろと行われています。最近では中国の探査機の嫦娥4号が2019年1月に人類初の月の裏側への着陸を果たしています。

 さて、ロシア、アメリカに次いで月へ向かった探査機は日本の探査機「ひてん」です。1990年1月24日、M-3SII-5ロケットによって鹿児島宇宙空間観測所(現内之浦宇宙空間観測所)から打ち上げられました。「ひてん」は直径1.4 m、高さ0.79 mの円筒形の探査機で、燃料と孫衛星「はごろも」を含めた重量は197kgです。

工学実験衛星「ひてん」(MUSES-A)
工学実験衛星「ひてん」(MUSES-A)

 「ひてん」のミッションは将来の宇宙探査に必要となる技術やデータの取得、月の重力を利用した精密なスイングバイの実験などです。また、ミュンヘン工科大学の共同研究として、宇宙塵カウンターによって地球と月の間に存在する宇宙塵の分布の計測もおこなわれました。

 スイングバイは地球から遠く離れた宇宙探査に必要な技術で、全部で8回行われました。また地球の大気層の抵抗を利用して軌道を修正する世界初のエアロブレーキ実験を行いました。「ひてん」は他国の探査機では実現できていない極めて高度なスイングバイを成し遂げることに成功しました。また、1990年3月に孫衛星「はごろも」を分離し、月周回軌道へ投入することに成功しています。

 1993年4月、「ひてん」の任務は月面のステヴィヌス・クレーター(豊かな海)近傍に衝突することで終了しました。「ひてん」によって得られた知識と経験は、その後打上げられた探査機に活用されています。探査機「はやぶさ」の高度な制御も「ひえん」によって培われた技術がベースになっています。

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2021年1月23日 (土)

ボーイング747が就航(1970年1月23日)

 ジャンボジェット機の愛称で親しまれた大型旅客機のボーイング747(B747)。この内部に2つの通路を備えたワイドボディの旅客機は乗客を500人以上も運ぶことができました。

 B747が登場する1960年代は乗客数が150〜200人の通路が1つしかないナローボディの旅客機が主流でした。高まる航空需要に応えるためには、従来の機体よりも大型で乗客数が倍以上の旅客機が必要性に迫られていました。

 当時、米国フラッグ・キャリアとして国際航空路線を拡充していたパンアメリカン航空は、ボーイング社に対して、乗客数400人を実現する大型旅客機の開発を要求しました。この要求に対してボーイング社は開発が頓挫していた米軍向けの輸送機を民間機として設計し直すことを提案ました。1965年にパンアメリカン航空はこの計画を了承し、25機のB747を注文しました。ボーイング社は1969年に初号機をパンアメリカン航空に納入するため、28ヶ月という信じられないほどの短期間で開発設計を完了しました。当時、世界の航空会社は乗客の獲得で激しい競争をしていました。パンアメリカン航空のB747の発注に続いて、多くの航空会社がB747を発注しました。

 B747は旅客機としてだけではなく輸送機としても利用できるように、機種部分から貨物の積み下ろしができるような設計になっていました。この構造によって操縦席と客席の一部が2階に配置されました。この背景には、当時開発が進められていたコンコルドをはじめとする超音速ジェット機が旅客機の主流になっていくと考えられていたからです。そのため、B747は旅客機仕様から輸送機仕様に変更できるように作られていました。輸送機仕様のB474も貨物専用の航空会社から多くの注文がありました。

 B747の商用路線の初フライトは1970年1月23日、パンアメリカン航空のニューヨーク-ロンドン線を結ぶフライトです。その後、多くの航空会社でB747が就航しました。従来の飛行機よりも大型機が必要という要望から開発されたB474でしたが、実際には当時の航空需要に対して座席数が多すぎ、座席が満席になることはありませんでした。そのため多くの航空会社が座席を満席にするため運賃を下げて全体の売上向上を狙う戦略を取り始めました。その結果、さまざまな割引が行われるようになり、とりわけエコノミークラスの格安運賃が渡航費用を下げることになり、それまで庶民にとって高嶺の花であった海外旅行が身近なものになりました。

 当初、B474は超音速旅客機に置き換えられると考えられていましたが、超音速旅客機がその採算性や騒音問題の解決に目処が立たずに頓挫したことから、とりわけ遠距離旅客機の主流となりました。

 開発から半世紀以上たった現在においても活躍しているB474ですが、より低燃費で後続距離の長い双発の旅客機が開発されたことによって、大型機で一度にたくさんの乗客を運ぶよりも、中型機で複数回運航する航空会社が増えてきました。日本ではJALが2011年2月、ANAが2014年3月にB747の運行を終了しています。

 世界各国でもB747の需要に陰りが見え始めていましたが、新型コロナウイルスの流行がB474の終焉を決定づけることになりました。

 2020年7月、ボーイング社はB4747の生産を2022年に終了することを発表しました。

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2021年1月 5日 (火)

ゴールデン・ゲート・ブリッジが建設開始(1933年1月5日)

 カリフォルニア州とサンフランシスコのシンボルのひとつゴールデン・ゲート・ブリッジ(金門橋)。この橋は北アメリカ大陸の西海岸のサンフランシスコ半島北端のカリフォルニア州サンフランシスコとマウス郡サウサリートを結ぶ吊り橋です。サンフランシスコ湾と太平洋が接続するゴールデンゲート海峡を超え、米国国道101号線とカリフォルニア州道1号線を接続しています。

ゴールデン・ゲート・ブリッジ
ゴールデン・ゲート・ブリッジ

 当初はゴールデン海峡はフェリーで結ばれていましたが、やがて多くの人が橋の建設を望むようになりました。しかしながら、ゴールデン海峡の幅は最長で約4.8キロメートル、最短で1.8キロメートルあり、その深さは113メートルもありました。さらに強い潮の流れ、強風や深霧により、ここに橋を架けることは容易なことではありませんでした。

 この困難なプロジェクトに挑戦したのは当時としては革新的な跳開橋を設計したエンジニアのジョセフ・ストラウスです。ストラウスは過去に多くの橋の設計をしていますが、ゴールデン・ゲート・ブリッジの建設にはさらなる技術革新が必要でした。ストラウスはゴールデンゲートブリッジのチーフエンジニアとなりましたが、専門のエンジニアが必要とし、デザインと色彩についてはアーヴィング・モロー、土木建設の検証についてはチャールズ・アルトン・エリス、レオン・モイセイフを加えました。

 1933年1月5日、ゴールデン・ゲート・ブリッジの建設が開始されました。建設予算は当時の額で3,500万ドル、現在の額に換算すると約5億2300万ドルになります。ストラウスはプロジェクトの責任者とし、毎日工事を監視し続けました。労働者の安全に配慮し、橋の下にネットを張りました。このネットにより19名の命が救われました。しかし、工事完了間近の1937年2月17日に足場の落下によりネットが故障し、11人の労働者が命を落としました。工事は予定より早く進み、費用も予算より130万ドル下回りました。約4年の歳月を経て、1937年4月19日に工事が終了、5月27日に開通式が行われました。

 完成したゴールデン・ゲート・ブリッジの全長は2,737メートルあり、水面から高さ227メートルの2本の主塔の間は1,280メートルあります。橋は2本の主塔によって吊り下げられていますが、主塔に使われているメインのケーブルは27,572本のワイヤーを束ねたもので直径93センチメートルにもなります。

 ジョセフ・ストラウスはゴールデン・ゲート・ブリッジが完成してからわずか1年後にロサンゼルスで亡くなりました。ゴールデン・ゲート・ブリッジのサンフランシスコ側にジョセフ・ストラウスの像が橋を背景とするように佇んでいます。また、その近くにはメインケーブルが展示されています。

ジョセフ・ストラウスの銅像とブリッジに使われているケーブル
ジョセフ・ストラウスの銅像と主塔に使われているメインケーブル

 ゴールデン・ゲート・ブリッジの構造設計のほとんどはチャールズ・アルトン・エリスが担当しましたが、ストラウスとの対立により、エリスの功績は認められませんでした。エリスの功績が認められたのは橋の開通70年周年の2007年5月でした。開通75周年の2012年には、米国土木学会はエリスの業績を認めてサウスタワーに銘板を設置し、ゴールデン・ゲート・ブリッジは「現代世界の七不思議」のひとつであると宣言しました。

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2020年12月29日 (火)

四足走行ロボットのチーター(ワイルドキャット)

 ロボットの研究開発で有名な米国企業ボストン・ダイナミクス社(Boston Dynamics社)が国防高等研究計画局 (DARPA)の出資のもとで開発したロボットの中に「チーター(Cheetah)」と名付けられた4足走行のロボットがいます。チーター (Cheetah) は2009年のベルリンで開催された世界陸上でウサイン・ボルト選手が叩き出した瞬間スピードを上回る時速45.06キロメートル(時速28.3マイル)で走ることに成功しました。

Cheetah
ボストン・ダイナミックス社の四足歩行ロボット「チーター」

 この記録を打ち出したチーターは研究室内でケーブルによる電力供給を受け、トレッドミル上で走行しました。追い風と同様な効果が出て、ボルト選手よりも有利な条件にはなるそうです。最後にバランスを崩して前のめりになり、実験が中止となりましたが、バランス制御させうまくいけば、もっと高速で走れる可能性がありあそうです。

DARPA's Cheetah Bolts Past the Competition

 2013年にはワイルドキャットと名付けられた新型の四脚走行ロボットが開発され、屋外での走行実験の模様が公開されました。4本の脚には関節があり、足を動かすたびに関節を曲げることができます。これによって本物の四肢動物と同じように走ることができます。

Introducing WildCat

 

 ウサイン・ボルト選手の最高速度はココログ「夜明け前」の記事「ウサイン・ボルト選手の瞬間最高速度は時速何キロメートルか?」にまとめてあります。ボルト選手は100メートル9.58秒の世界記録を叩き出していますが、60~80メートルの区間で時速44.72キロメートルで走っています。

 ところで本物のチーターは時速100キロメートルを超える速さで走ります。四足走行ロボットのチーターはワイルドキャットという名前になりましが、時速100キロメートルをめざして研究開発を進めて欲しいところです。

Cheetah
チーター

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