カテゴリー「科学・技術」の53件の記事

2022年5月18日 (水)

18リットル缶の日(5月18日)

 5月18日は「18リットル缶の日」です。18リットル缶、かつてはその用途から「石油缶」と呼ばれた四角形の金属製の容器です。その後、用途が広がり尺貫法で1斗の容量をもつことから「一斗缶」と呼ばれるようになりました。第二次世界大戦後は単位ガロンを使って「5ガロン缶」と呼ばれましたが、日本では「一斗缶」が定着しており「5ガロン缶」と呼ばれたのはわずかな時期だけでした。現在はJIS規格で正式名称が「18リットル缶」になっていますが、俗称として「一斗缶 」と呼ばれています。

一斗缶(18リットル缶)
一斗缶(18リットル缶)

 なぜ1斗が石油缶に選ばれたかというと1斗18リットルが人が運べる最大の容量とされたからです。四角形なのは倉庫や荷台すき間なく積み上げられるようにするためです。「一斗缶」の材質は鉄鋼にスズを加えたブリキです。内容物によって内側をコーティングしており様々な液体を入れることができます。

 「斗」は尺貫法における体積の単位です。尺貫法の体積は「升」が基本単位となっています。昔は「升」の大きさは地方によって異なっていましたが江戸時代に統一されました。メートル法に換算すると一升は約1.803 906 837リットルになります。「斤」は1升の1/100、「合」は1升の1/10、「斗」は1升の10倍、「石」は一升の100倍です。1斗は10升ですから約18リットルということになります。

 一方、ガロンはヤード・ポンド法における体積の単位です。ガロンの大きさは国によって異なりますが日本は米国液量ガロンの数値を採用しています。米国液量ガロンの1ガロンは3.785412784リットルですが、日本では3.785412リットルとされています。5ガロンは18.9リットルになり一斗より約1リットル大きな値となります。

 現在の18リットル缶も正確に容量が18リットルというわけではありません。JIS規格では18リットル缶はZ1602:2003で天板と地板の一辺の長さ238.0±2.0mm、高さ349.0±2.0mm、質量1140±60 g、容量19.25±0.45リットルと定めらています。積み上げることを考えて大きさは厳密に定義されていますが、質量と容量には値に幅があります。

 さて5月18日が「18リットル缶の日」とされたのは5ガロンの「5」と18リットルの「18」に因んだものです。

 昔はそこら中で一斗缶を見かける機会がありましたが最近はポリタンクが使われるようになりあまり見かけなくなくなりました。昔は一斗缶の天板をくり抜いてゴミ箱や灰皿として使ったり、たき火やゴミ焼きに使ったりしました。18リットル缶は優秀な容器であることから現在でもたくさんの使われておりリサイクルも行われています。

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2022年5月14日 (土)

温度計の日(1686年5月14日)

 5月14日は「温度計の日」です。この日は水銀温度計を発明し華氏温度(単位:°F)を考案したドイツ人物理学者ガブリエル・ファーレンハイトのユリウス歴での誕生日1686年5月14日(グレゴリイオ歴では5月24日)に由来します。ファーレンハイトが漢字で華氏となったのはファーレンハイトの中国語表記が「華倫海特」であることに由来します。最初の「華」に人名の接頭辞「氏」を加えて華氏となりました。

 ファーレンハイトが華氏温度を提唱したのは1724年です。ファーレンハイトが華氏温度を考案した経緯には諸説あります。

 ファーレンハイトは当時使われていたレーマー温度(霊氏)(注)が日常の温度にマイナス値が現れることに不便を感じていました。そこで自身が測定できる最も低い外気温を0度としヒトの体温を100度とすることにしました。0度は寒剤を使って再現し(-17.8℃)、100度は自身の体温(ヒツジの体温という説もある)37.8℃を測定しました。この100度を12等分しさらに8等分して96等分した0~96°Fの目盛を作成しました。つまり人工的に作り出せる最低の温度を0°F、人間の平均体温を96°Fと定義したのです。華氏温度によると水の凝固点(氷の融点)は32°F、水の沸点は212度となり、その温度差がちょうど180度になります。

ガブリエル・ファーレンハイトと摂氏と華氏の温度計の比較
ガブリエル・ファーレンハイトと摂氏と華氏の温度計の比較

 また異説としてはレーマー温度では水の凝固点が7.5度、沸点が60度だったため小数点をなくすためにそれぞれに4を掛けて30度と240度にしたという説もあります。ヒトの平均体温を96°Fとし水の凝固点との差を64度になるように調整した結果、水の凝固点(氷の融点)が32°F、水の沸点が212度となったというものです。差を64度としたのは2のべき乗(2の6乗は64)としたからです。

 華氏温度は1960年代まで多くの国で使用されまたが、メートル法で摂氏温度(セルシウス温度、単位:℃)が採用されると華氏温度が使われるようになりました。しかしながら、アメリカ、カナダ、イギリスなどでは体温や気温の表記に未だに華氏温度が使われています。

 摂氏温度Cと華氏温度Fの関係は以下の通りです。

 F = 9/5 × C + 32

 C = 5/9 ×( F - 32 )

(注)1676年に光速は有限であることを発表したデンマークの天文学者オーレ・レーマーが考案した温度 

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2022年5月11日 (水)

コンピュータがチェスの世界チャンピオンに初勝利(1997年5月11日)

 1988年、カーネギー・メロン大学の学生チームはディープ・ソートというチェスをプレイするスーパーコンピュータを開発しました。ディープ・ソートは当時チェス世界チャンピオンであったロシアのガルリ・カスパロフに挑戦しましたがカスパロフに勝つことはできませんでした。

チェス
チェス

 1989年、IBMはディープ・ソートの研究開発を引き継ぎディープ・ブルーというスーパーコンピュータの開発に着手しました。もちろん、ディープ・ブルーの開発目的もカスパロフにチェスで勝つことでした。

 ディープ・ブルーはたった1秒間の間に2億手を先読みすることができました。カスパロフの過去の対戦をもとに作った数式を使って、カスパロフが打ってくるであろう手を予測することができました。ディープ・ブルーはカスパロフと2回それぞれ6戦ずつ対戦しました。

 1回目の対戦は1996年2月に行われました。このときは、カスパロフが3勝1敗2引き分けで勝利しました。ディープ・ブルーはカスパロフにかろうじて1勝することはできましたが勝ち越すことはできませんでした。

 それから約1年3ヶ月後の1997年5月11日、ディープ・ブルーはカスパロフに再挑戦しました。均衡した戦いとなりましたがディープ・ブルーは2勝1敗3引き分けでカスパロフに勝ち越したのです。この対戦は客観的には互角でコンピュータが人間を超えたと判断できるほどのものではありませんでしたが「コンピュータがチェスの世界王者に勝利した」というニュースが世界中で報道されると大きな話題となりました。

 ディープ・ブルーはチェス専用のスーパー・コンピュータですが、この高性能コンピュータの開発で得られた知識や技術は現在のコンピュータに受け継がれています。

 なお世界最強のチェスコンピュータを作る研究開発はディープ・ブルーで終了したわけではありません。2000年代初めにアラブ首長国連邦でヒドラというコンピュータが開発されています。またIBMは2007年にディープ・ブルーの子孫の位置づけのスーパーコンピュータ、ブルー・ジーンを開発しています。

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2022年4月26日 (火)

エフエム東京が開局(1970年4月26日)

 FM放送は周波数変調(frequency modulation)方式を使った放送です。音声信号に応じて送信する電波の周波数を変化させる変調方式です。超短波を用いるため超短波放送とも呼ばれます。FM方式は1928年にアメリカの電気工学者エドウィン・アームストロングによって発明され、1941年にFM放送が実用化されました。日本では昭和32年(1957年)にNHK東京超短波実験局が開設され1969年に本放送が開始されました。

ポータブルラジオ
ポータブルラジオ

 1950年代にテレビ放送が普及すると文部省(現:文部科学省)は放送を利用した高等教育の検討を始めました。文部省がテレビやラジオを利用した教育の研究に助成金を支給し始めると、FM放送を利用したラジオ局を開設する私立大学が増えました。研究を先んじて進めていたのは東洋大学でしたが大学ラジオ局開設を目指して最も早く準備を始めたのは東海大学でした。

 東海大学は1957年6月に当時の郵政省(現:総務省)に超短波放送実験局の免許を申請、1958年4月に予備免許取得、同年12月から放送を開始しました。このときの識別信号(呼出符号 )はJS2AO、周波数86.5 MHz(当時はMc:メガサイクル)、出力1 kwでした。翌年1959年11月に周波数を84.5 MHzに変更し、1960年4月に東海大学超短波放送実用化試験局(JS2H)を開局、これがFM東海となりました。実用化試験局はスポンサーの獲得と広告の放送が認められており、FM東海は日本で初めての民放FM局になりました。毎日朝5時から1時間、月曜日から土曜日の午後7時から1時間に通信教育講座「望星高校の時間」の放送を開始しました。それ以外の時間は様々なジャンルの音楽番組が放送されていました。

 この頃、東洋大学も実験局を開局していました。東洋大学は国内の大学としては放送教育の研究を先んじて進めていたため教育放送局を実現する有力候補と考えられていました。ところが資金不足により東洋大学の実験局は実用化実験局に至らないまま事業を進めることができなくなりました。実験局と実用化実験局の違いが曖昧だったため、事業が継続できなくる実験局とスポンサーを得て事業を継続している実用化実験局の格差が大きな問題となりました。このような状況の中で文部省は方針を改めてテレビやラジオを利用した放送教育は国で行うことと決めました。郵政省もFM放送実施のための必要な資料が得られたとし放送局の継続を認めませんでした。これは開局している放送局にとっては梯子を外されたようなものでした。

 郵政省は実用化実験局の免許が切れた東海大学を不法無線局として電波法違反で告発しました。これに対して東海大学は誣告罪(虚偽告訴等罪)で郵政省を提訴しましたが、株式会社の民間放送局に移行することでは話がまとまりました。これによってFM東海は1970年4月25日に閉局となり、翌日26日にエフエム東京(JOAU-FM、80.0 MHz)となりました。


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2022年4月24日 (日)

マンハッタンに超高層ウールワースビルが開業(1913年4月24日)

 ウールワースビルはニューヨーク市マンハッタン区ブロードウェイ233番地に存在する米国の初期の超高層ビルです。

 ウールワースビルは実業家フランク・ウールワースのF.W.ウールワース社の新しい本社ビルとして建築されました。ウールワースは本社ビルを新築するにあたってゴシック様式のロンドンのウェストミンスター宮殿のような建造物にしたいと考えていました。そこでウールワースは1910年にモダンで歴史的な雰囲気の超高層ビルの建築で有名な建築家キャス・ギルバートに設計を依頼しました。

 ウールワースはギルバートに大きさとしては標準的なビルの設計を依頼していましたが、近くにあった20階建て高さ110メートルのニューヨークワールドビルより高いビルを建設したいと考えるようになりました。

 ギルバートは40階建ての塔と25階建ての別館が連なった高さ170メートルのビルを提案しましたが、ウールワースは満足せず高さを190メートルにするよう求めました。これは当時マンハッタンに存在した47階建て高さ187メートルのシンガー・ビルよりも高いビルにして会社の宣伝をかねて話題を集めようと考えたからです。

 しかし、当時世界で一番高いビルは1909年に建てられた49階建て高さ210メートルのメトロポリタン生命保険会社タワーでした。ウールワースは世界一高いビルを設計するようギルバートに再要請しました。ウールワースの高さ追求の要望にギルバートは苦労しましたが最終的に57階建て高さ241メートルを設計しました。ギルバートはウールワースのゴシック様式の美しいデザインに対する拘りと、実業家の熱意に応えたのです。ウールワースビルの工事は1910年11月に始まり1912年末にはほとんど建設が終了しました。

ウールワースビル(1913年)
ウールワースビル(1913年)

 ウールワースビルは1913年4月24日に開業しました。当日、盛大なオープニングセレモニーが行われ、時の大統領だったウッドロウ・ウィルソン大統領がワシントンDCでビルの照明の点灯ボタンを押しました。ウールワースビル1913年から1930年に40ウォール・ストリート・ビルとクライスラービルが建造されるまで世界一高い建物として観光客を集めました。

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2022年4月11日 (月)

メートル法公布記念日(1921年4月11日)

 日本で長さ(度)・体積(量)・重さ(衡)を定めた度量衡法が公布されたのは明治24年(1891年)3月24日です。

 日本は明治19年(1886年)にはフランスが中心になって制定したメートル条約に加盟していましたが一般には尺貫法が主流でした。そこで一尺は33分の10メートル(10/33 m)、一貫は4分の15キログラム(15/4 kg)として尺貫法とメートル法を両立させました。

 英国や米国ではヤード・ポンドが一般的だったため度量衡法は明治42年(1909年)に改正され、これによって尺貫法・メートル法・ヤード・ポンド法が混在することになり度量衡に混乱を招くことになりました。

 大正時代に入ると日本は第一次世界大戦への参戦で工業化を進めます。そして日本製品を国内外で拡販するため工業規格の統一を進めることになりましあ。単位系はメートル法に一本化することになり度量衡法は大正10年(1921年)4月11日に改正されました。ただし、いきなりメートル法に一本化されたのではなく定められた統一期日までは尺貫法やヤード・ポンド法を併用することが認められました。<

 ところが日本で長らく使われてきた尺貫法を禁じることに対する反対運動が起こり統一期日が何度も延期され、ナショナリズムが進んだことにより有名無実化しました。

 1951年に計量法が公布され度量衡法は廃止となりましたがメートル法が完全に実施されたのは1959年です。ただし、最初は土地や建物の面積は坪の表記が認められていました。本当にメートル法に統一されたのは昭和41年(1966年)のことでした。

メートル法完全実施記念切手 昭和34年(1959年)発行
メートル法完全実施記念切手 昭和34年(1959年)発行

 1921年4月12日はメートル法公布記念日ですが、当時はメートルは実際には使われなかったというお話でした。

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2022年3月31日 (木)

エッフェル塔落成記念日(1889年3月31日)

 パリのシャン・ド・マルス公園の北西に位置するエッフェル塔。このフランスの象徴的な建造物は1889年にパリで開催されたフランス革命100周年を記念する第4回万国博覧会に向けて建造されました。

 18世紀から19世紀にかけて起こった産業革命により工業化が進むと、ヨーロッパ各国で高さ150メートル程度の高層の教会が建造されるようになりました。1884年に米国ワシントンD.C.に独立戦争における初代大統領ジョージ・ワシントンの功績を称えるワシントン記念塔が建造されると、この高さ169メートルのオベリスクが世界最大の建造物となりました。第4回万国博覧会がパリで開催されることが決まったはこの年でした。

 第4回万国博覧会を構想するに当たってフランス革命100周年にふさわしい人目を引くような特段のプロジェクトはありませんでした。そこで高さ300メートルの鉄塔を建ててパリの万博博覧会のシンボルとしようと考えたのが建設会社エッフェル社の鉄骨構造物研究部長モーリス・ケクランと組立工法部長エミーユ・ヌーギエでした。2人は1884年6月に4脚で立つ鉄塔の原案を作成しましたが、そのデザインは鉄塔としては技術的に優れていましたが万国博覧会にふさわしいものではありませんでした。そこで建築部長ステファン・ソーヴェストルが原案に修正を加え、1階部分を万国博覧会のゲートを彷彿させるアーチ状にすることによってプランが完成しました。その後、エッフェル社の社長ギュスターヴ・エッフェルがエッフェル塔の建設実現に尽力しました。1886年に開かれた万博博覧会の建造物のコンペティションでエッフェル塔が満場一致で選ばれました。

 エッフェル塔はシャン・ド・マルス公園に建設されることになり、1887年1月28日に起工式が行われました。4本の脚から建設が始まり、翌1888年3月に1階展望台、8月に2階展望台が完成し、1889年3月30日に竣工しました。同年3月31日に当時のフランス首相ピエール・エマニュエル・ティラールらを招いて竣工式が行われ、この日がエッフェル塔落成記念日となりました。建設当時、エッフェル塔は高さ312.3メートルで世界一高い建造物となりました。 

左:建設中の4本の脚(1888年) 右:エッフェル塔(1889年)
左:建設中の4本の脚(1888年) 右:エッフェル塔(1889年)

 エッフェル塔の総工費は650万フランでしたがフランス政府からの補助金は150万フランしかありませんでした。しかも1909年にエッフェル塔をパリ市に寄贈するという条件付きでした。エッフェルは総工費を自ら金策し、1909年までの入場料を建設費の返済に当てました。

 1889年のパリ万国博覧会ではエッフェル塔は大人気となりたくさんの人々が訪れました。1900年に万国博覧会が再度パリで開催されることになると再び多くの人々が訪れましたが、やがて入場者数は減少していきました。そのため1909年のパリ市への寄贈後は解体される見込みとなりました。しかしながら、1904年に軍事用無線電波をエッフェル塔で送受信することになり解体を免れました。以降、エッフェル塔は観光用ランドマークとしてだけでなく重要な電波塔として活躍することになりました。1957年にはアンテナなどの設置により高さ321メートルとなりました。

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2022年3月21日 (月)

通産省がPCBの生産使用禁止を通達(1972年3月21日)

 PCBとはポリ塩化ビフェニル(Polychlorinated biphenyl)という化学物質のことです。PCBは2つのベンゼン環がつながった「ビフェニル」の水素原子の1つ以上が塩素原子に置き換わった構造をしており、広い意味ではダイオキシンの一種とされています。

PCB(ポリ塩化ビフェニル)の化学構造
PCB(ポリ塩化ビフェニル)の化学構造

 PCBは1881年にドイツで開発され1929年にアメリカで工業的な製造が始まりました。日本でも1954年に製造されるようになりました。PCBは耐熱性や絶縁性に優れているためので、トランス(変圧器)やコンデンサの電気機器の絶縁油などに使用されました。トランスやコンデンサは工場などの大掛かりな機械の他、蛍光灯、テレビ、電子レンジなど家電製品にも使われていました。また、熱によって分解されにくいため、いろいろな機械の加熱・冷却用の油にも使用されていました。

 PCB非常に幅広い分野で使用されるようになりましたが、毒性が高く1968年に「カネミ油症事件」が起きました。福岡県のカネミ倉庫株式会社で製造された米ぬか油を食べた人たちの身体に異常が発生したのです。皮膚が黒くなったり、肝臓が働かなくなったり、手足のしびれが起きるなどしました。原因は米ぬか油の製造ラインで脱臭工程の熱媒体として用いられていたPCBやPCDF(ポリ塩化ジベンゾフラン)が米ぬか油に混入していたからでした。この事件によってPCBの問題が注目されるようになり、当時の通商産業省は1972年3月21日にPCBの生産・使用禁止の通達を出しました。

 PCBは国内では使用されなくなってもう30年以上経ちます。PCBに対する人々の意識は薄れてきていますが、回収されていない製品が未だに存在しています。また過去に廃棄されたものから漏れ出したPCBが土壌や水質を汚染し、PCBが生物の体内に蓄積されて害を及ぼす可能性も指摘されています。

 世界的には2028年までにPCBを全廃しようというPOPs条約が2001年に成立しています。未だにPCBを含む電気機器が見つかったり、回収されたPCBの処分が遅れたりするなどの問題があります。2028年に向けてPCB問題は再び注目されるようになるでしょう。そういう意味では30年経過した現在においてPCB問題は古くて新しい問題と言えそうです。

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2022年2月22日 (火)

ガリレオが「天文対話」を刊行(1632年2月22日)

 ガリレオが地動説を唱え続けカトリック教会から有罪とされた裁判の話は有名です。しかしながら当時は天動説が主流だったもののカトリック教会自身は天動説を積極的に支持していたわけではなくガリレオが疎んじていた権力者が働きかけて有罪とされたという説があります。ガリレオが地動説を唱え有罪となるきっかけを作ったのが著書「天文対話」の発表でした。

 ガリレオは1610年に自作の天体望遠鏡で木星の衛星「ガニメデ」「エウロパ」「イオ」「カリスト」を発見しました。当時、宇宙の構造は宇宙の中心に存在する地球の周りを太陽や月などの天体が回っているという天動説(地球中心説)が信じられていました。

 ガリレオは木星の周りを回る衛星を発見し宇宙の構造は天動説では説明できないことに気が付いたのです。また金星の観察では金星が満ち欠けすることや季節によって見掛けの大きさが変わることを発見し金星が太陽の周りを回っていることに気が付きました。これらの事実からガリレオは天動説に懐疑的となりコペルニクスの地動説を支持するようになりました。

 ガリレオの裁判は1616年と1633年に2回行われています。第1回目の裁判でガリレオは有罪を受ていますが判決文が第2回の裁判のために偽造された可能性が高くどのような判決が下されたのかはよくわかっていません。裁判を担当した判事は判決の前に友人に対して地動説をひとつの絶対的な真理ではなく仮説として発表し慎重に行動するのであれば許容範囲という旨の手紙を送っています。判事はガリレオの地動説に頭から否定的ではなかったと考えられます。もうひとつの事実としてはローマ教皇庁は裁判後にコペルニクスの地動説を禁じコペルニクスの「天球の回転について 」を閲覧禁止としています。しかし、コペルニクスの著書は単なる算術的な仮説として閲覧が解禁されています。地動説は間違いではあるが天体の動きを予測する占星術にとって便利な「手法」だったのでしょう。

 1630年になるとガリレオは天文学を解説した「天文対話」という本の執筆を始めました。「天文対話」はアリストテレス派のシムプリチオ、コペルニクス派のサルヴィアチ、そして中立的な立場のザグレドの3人を登場させて天文学の議論をさせる内容でした。ガリレオは地動説と天動説をあくまでも仮説として3人に議論させています。これによって地動説を絶対的な説とすることを避けたのです。そして第1回目の判事の判決から「天文対話」を出版しても問題がないと考えローマ教皇庁の許可を得たうえで1632年2月22日に「天文対話」をフィレンツェで出版しました。

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ガリレオ「天文対話」(1632年)

 ところがガリレオは1633年に第2回目の裁判にかけられます。第1回目の裁判で地動説を二度と唱えないとした誓約を反故にし「天文対話」を出版したことが理由とされました。ガリレオは第1回目の裁判の判事が記した地動説を唱えないという誓約はしていないという証明書を提出して反論しましたが、このとき第1回目の判決文が提示されました。この判決文にはガリレオのサインもなく第1回目の裁判の判事の手紙やガリレオの主張と大きく食い違っていることから第2回目の裁判のために偽造されたものと考えれています。「天文対話」のローマ教皇庁へ許可を取った経緯についても話がねじ曲げられてしまいました。第1回目の判事は既に死去してり、ガリレオは無罪を証明することができず有罪判決を受けました。

 ガリレオは無期刑になりましたが直ぐに減刑となり軟禁処分になりました。軟禁先は監視付きの家ででした。命が脅かされることはありませんでしたが自宅への帰宅など外出は許可されませんでした。「天文対話」は禁書となりました。ガリレオは1642年1月8日に軟禁先で亡くなりました。その後、ヨハネス・ケプラーやアイザック・ニュートンにより天動説は科学的に否定されましたが、ガリレオ裁判が覆ることはありませんでした。「天文対話」が禁書を解かれたのは1822年のことでした。それから170年後の1992年、ガリレオの無罪が認められローマ教皇がガリレオに謝罪しました。

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2022年2月15日 (火)

【おもしろ映像】地球の出と地球の入り

 2007年に宇宙航空研究開発機構 (JAXA) の月周回衛星「かぐや」が撮影した月の地平線から出てくる地球と地平線に沈む地球、つまり月から望む「地球の出」と「地球の入り」です。

 地球の出は、ちょっと地球が小さくて迫力がないのですが、地球の入りはそこそこ大きく映っていてとても綺麗です。

Kaguya HDTV Images of Earth Rise Over the Moon

 ところで、月には空気がありませんから、地球のように宇宙からやってくる光が大気で屈折するということはありません。つまり大気差がないということになります。

 夜空に輝く星の光は地球の大気で屈折しています。この屈折の度合いは天頂ではゼロですが、星の高さが低くなればなるほど大きくなります。そのため高度の低い星は実際に星がある位置よりも浮き上がって見えています。この現象を大気差といいます。水平線(地平線)近くの星では角度にして約0.6度もずれています。見かけの月の直径は角度にすると約0.5度ですから、私たちが月が沈んでいくのを見ているとき、月の実体はすでに水平線(地平線)に沈んでいることになるのです。

大気差の仕組み
大気差の仕組み

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