カテゴリー「科学・技術」の24件の記事

2021年9月 9日 (木)

2001年9月9日問題(2001年9月9日)

 西暦2000年問題。西暦2000年を迎えるに当たりコンピュータの日付の処理に大きな問題が生じる可能性が指摘された問題です。昔のコンピューターは日付を文字列として扱っていましたがメモリの節約のために西暦の上位2桁を省略し、下位2桁のみを記録していました。従って2000年を迎えると、コンピュータの日付の西暦の部分が00になってしまい、1900年と処理されてしまう可能性がありました。しかし、当時、多くの技術者たちは西暦の処理については将来新しい技術が出てくるだろうと考えて、プログラムを開発するにあたり特段の対策は考えていませんでした。また、これはとは別に2000年を閏年の処理をしないように作られているプログラムもありました(2000年2月29日問題)。そして何らの対策もないまま1990年代後半を迎えたのです。

20010909

 多くの技術者は既存のプログラムの内容を確認し必要に応じて修正を行いました。開発に関わった技術者がすでに退職していることなどもあり作業には手間がかかりました。また2000年問題によって物流や金融などで深刻な問題が起こる可能性があると大きく取り沙汰されたこともあり必要以上に慎重な対応をせざるを得なかった面もありました。大きな社会問題となりましたが、技術者の尽力によって2000年を迎えても大きな問題は起こらず収束しました。

 コンピュータの日付の処理には2001年9月9日問題もありました。これはプログラムで時間を管理するデータ型が1970年1月1日午前0時を起点とした経過秒数となっており、2001年9月9日に十進法で10桁(1,000,000,000秒)を超えることでコンピューターの処理に問題が発生する可能性が指摘されたものです。しかしながら、このデータ型は符号付きの32ビットで最大値が2,147,483,647となるため、時間の扱いに本質的な問題が生じるのは2038年1月19日未明で、2001年9月9日問題が起こるとは考えにくいという指摘もありました。

 ところが現実には2001年9月9日問題が発生したシステムも出ました。ほとんどの原因は経過秒数を文字列として扱っていたためです。文字列で数字の大小比較をすると999999999の方が1000000000より大きいと判断されてしまうため、正しく日付順に並べることができなかったり、新しいデータと判断されずに処理が行わなかったり、古いデータと判断されてデータが削除されたりする問題が発生したのです。

 このデータ型の問題は桁数の繰り上がりで生じるため2001年9月9日以前も発生していたはずです。しかし、1970年1月1日午前0時を起点とした秒数が9桁になったのは1973年であり、当時稼働していたプログラムはそれ以降に開発されたものがほとんどだったため長きに渡りこの問題が生じることがなかったのです。

 なお2038年問題はデータ型を符号付き64ビットにすることで西暦3000年まで、64ビット化ができない旧システムの場合は符号なし32ビットとすることで2106年まで回避できる見通しです。

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2021年9月 1日 (水)

帝国ホテル新館ライト館の落成記念式(1923年9月1日)

 帝国ホテルは東京に官庁を集中させる計画の中で外国要人の接客を目的として建設され明治28年(1890年)11月7日に開業しました。帝国ホテルの初代会長は渋沢栄一が務めています。

 大正5年(1916年)に帝国ホテルの総支配人、林愛作はアメリカ人建築家フランク・ロイド・ライトと新館設計の契約を結びました。建設用地の調達に難航しましたが、大正8年(1919年)9月に新館の建設に着工しました。

 ライトは新館の建設にあたって材料の調達から建物の構造まで管理し、豪華で安全性の高いホテルの建設をめざしました。そのため新館の建造には予算を大幅に上回る費用がかかりました。加えて1919年に営業中の帝国ホテルの別館が全焼、1922年には本館まで出火で全焼してしまったため、新館の早期完成が求められました。新館の設計は何度も見直され、建設費用は予算150万円に対して900万円以上となりました。これによって帝国ホテルとライトとの関係が悪化し、林は引責辞任、ライトも帰国してしまいます。営業中の建物が消失した中、未だ建設途中の1922年7月に新館の営業が開始しました。

 ホテルの建設はライトの帰国後も続けられ、大正12年(1923年)7月に完成しました。このライト館と呼ばれる新館は正面に建物本体があり、正面庭の池を挟むように2つの建物が本体の翼のように配置されています。建物はジョイントでつなぎ合わされた10個の構造物からなる耐震性に配慮された構造で、また防災に配慮し全館スチーム暖房の設備が整え、動力源も電気としました。

帝国ホテル新館ライト館(1923年)
帝国ホテル新館ライト館(1923年)

 1923年9月1日、帝国ホテルの新館の落成記念式典が行われるこの日、帝国ホテルの職員はその準備のために朝から忙しく働いていました。同日午前11時58分32秒、あたりが急激に揺れ出し10分以上も地震の主要動が続きました。震源地は相模湾北部、死者および行方不明者10万人以上の被害を与えた関東大震災が起こったのです。

 この地震で多くの建物が倒壊し、火災で消失しましたが、帝国ホテルの新館はライトの防振・防火の対策によってわずかな被害が出ただけで、倒壊も火災も免れました。帰国していたライトはこの話を手紙で知り自分の設計が正しかったと大喜びしました。

 震災直後、有楽町の焼け野原の中でほとんど無傷の帝国ホテルが佇んでいました。帝国ホテルは避難している人々への炊き出し、大使館や通信社などの企業に客室を事務所として貸し出すなどの対応を行い復興の拠点として役割を果たしました。

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2021年8月29日 (日)

ドイツの飛行船ツェッペリン伯号が世界一周を達成(1929年8月29日)

 ドイツの大型飛行船LZ 127型、通称「グラーフ・ツェッペリン(Graf Zeppelin、ツェッペリン伯号)」はフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵が20世紀に開発した飛行船のひとつです。

 ツェッペリン伯号は全長236.6メートルで当時としては世界最大の飛行船でした。船体内部のガス袋には水素ガスが充填されていました。1928年9月18日に初飛行し、1928年10月に米国ニュージャージー州レイクハーストへ長距離飛行を行いました。ツェッペリン伯号と乗員たちは大歓迎され、ホワイトハウスに招待されました。その後、ヨーロッパの各国を訪れドイツに戻りました。

 1929年、ツェッペリン伯号による世界一周飛行が計画されると、多くの企業がスポンサーとなりました。当時、飛行船は大人気だったのです。主要なスポンサー企業の要請により出発地はドイツではなく米国ニュージャージー州レイクハーストに設定されました。

 ツェッペリン伯号はツェッペリン伯爵の飛行船開発の地であるドイツのフリードリヒスハーフェンからレイクハーストに移動、同年8月8日、レイクハーストを出発し、大西洋を横断してフリードリヒスハーフェンを目指しました。フリードリヒスハーフェンで燃料を補給した後、シベリア上空を無着陸で横断し、一路日本の茨城県の霞ヶ浦に向かいました。霞ヶ浦が選ばれたのはここに飛行船の施設があり、気象条件が良い土地柄だったからです。同年8月19日に霞ヶ浦航空隊に到着、霞ヶ浦には30万人もの見物客が訪れ、新聞には「君はツェッペリンを見たか!」という見出しが躍りました。

霞ヶ浦に寄港するツェッペリン伯号.jpg
霞ヶ浦に寄港するツェッペリン伯号.jpg

 5日後の8月23日、日本を出発したツェッペリン伯号は太平洋を無着陸で横断し米国西海岸を目指しました。3日間をかけて世界初の無着陸太平洋横断飛行を成し遂げ、サンフランシスコ上空を経由してロサンゼルスのマインズ・フィールドに到着。その後、シカゴ経由で米国を横断し、出発地のレイクハーストに向かいました。

 レイクハースト出発から21日後の1929年8月29日、ツェッペリン伯号はレイクハーストに帰着し、世界一周飛行に成功したのです。出発地のレクハーストから到着地レークハーストまでの飛行距離は3万1400キロメートル、最初のフリードリヒスハーフェンからレイクハーストまでの飛行距離を含む総飛行距離は4万91618キロメートルにも及びました。

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2021年8月28日 (土)

日本初の民間テレビ局が放送開始(1953年8月28日)

 日本で初めてテレビ放送が始まったのは昭和28年(1953年)2月1日です。同日午後2時に「JOAK-TV、こちらはNHK東京テレビジョンでありま」のアナウンスとともにNHKによる日本初のテレビの本放送が始まりました。

 実は日本初のテレビ放送の開始をめざしていたのは民間の日本テレビでした。日本テレビは1952年7月にNHKに先駆けてテレビジョン放送予備免許を取得し、テレビ放送開始の準備を進めていました。しかしながら、放送機材の取り揃えでNHKに遅れを取り、日本初のテレビ放送開始を実現することはできませんでした。

 日本テレビがテレビジョン放送本免許を取得したのは1953年8月27日です。翌28日午後11時20分、「JOAX-TV、こちらは日本テレビでございます」のアナウンスとともに日本初の民間テレビの本放送が開始しました。

 正午には日本初のテレビCMが精工舎の提供によって時報を知らせる時計のコマーシャルが放映される予定でしたが、フィルムを裏返しにセットしてしまったために反転した映像が流れてしまい中断となり日本初の放送事故となりました。このテレビCMは午後7時に改めて放映されました。

Seiko 日本初のテレビCM

 当初のテレビは1台30万円もしました。この頃の平均給与は3万円ぐらいですから、テレビを買える人はほとんどいなかったので。そこで多くの人が街頭テレビの前に集まり、テレビ放送を楽しみました。

 日本でテレビが普及し始めたのは1950年代の終わり頃からです。1959年の皇太子ご成婚のパレードのテレビ中継を多くの国民が見ました。一家に一台のテレビの時代がやってくるのは1960年代以降です。

一家に一台のテレビ(1960年代)
一家に一台のテレビ(1960年代)

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2021年8月26日 (木)

レインボーブリッジの開通日(1993年8月26日)

 東京港連絡橋、通称「レインボーブリッジ」は東京都港区の芝浦とお台場を結ぶ吊り橋で昭和62年(1987年)に着工し、平成5年(1993年)8月26日に開通しました。レインボーブリッジは都心の慢性的な交通渋滞を緩和するために建設されました。

レンボーブリッジからお台場方面へ
レンボーブリッジからお台場方面へ

 レインボーブリッジの吊り橋部分の長さは570メートル、幅29メートル、高さ126メートルあります。東京湾第一航路をまたぐため橋桁の高さは52メートルもあります。橋は2段構造になっており、上部が首都高速11号お台場線、下部中央にゆりかもめ、その両脇が臨港道路海岸青海線となっています。その外側には歩道がありますが、自転車は乗り入れ禁止で台車を借りて後輪に取り付けて手押しで運ぶ必要があります。

踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!

 通称の「レインボーブリッジ」は一般公募で決まったものですが、名前に因んだ虹色ライトアップのイベントが行われています。

レインボーブリッジ虹色ライトアップ
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2021年8月19日 (木)

カメラ発明の日(1839年8月19日)

 フランスのジョゼフ・ニセフォール・ニエプスは1822年頃に天然アスファルトを感光材に使った写真の撮影に成功しました。ニエプスは発明した写真術を太陽で描くを意味する「ヘリオグラフィー」と名づけ、世界最初の写真が現存しています。しかし、ヘリオグラフィーは1枚の写真を撮影するのに8時間の露光が必要で実用的な写真術ではありませんでした。

1822
用意された食卓(1822年)原版は残されていない

 1829年、ニエプスは写真技術の開発を進めるためフランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールと共同研究を進め、感光剤として光で化学変化する銀化合物を使う研究を行いました。ところが、1833年にニエプスは脳卒中で他界してしまいます。

 ニエプス亡き後、ダゲールはさらに研究を進め、銀メッキした銅板の表面にヨウ化銀を付着させた板を使う銀板写真を発明しました。 この銀板写真法を「ダゲレオタイプ」といい、そのカメラをダゲレオタイプのカメラといいます。1回の撮影で一枚の写真しか撮れませんでしたが、非常に鮮明な写真を撮ることができました。露光時間は30分以内にまで大幅に短縮されました。ダゲールは1839年8月19日にタゲレオタイプをフランス学士院で発表したことからこの日はカメラ発明の日とされました。

 次の写真はダゲールが1838年から1839年に撮影した写真です。街路には人馬がたくさんいたそうですが、露光時間が10分だったため動くものは写真には残りませんでした。赤丸で示したところに立ち止まって何か足を上げている人が写り込んでいますが、この人物が世界で初めて写真に写った人と考えられています。

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タンプル大通り(1838〜1839年ダゲール撮影)

 ところで、カメラ発明の日が3月19日とされている場合がありますが、これは8月19日の間違いです。8を3と誤植した可能性が高いと思われます。カメラの発明の詳細については下記の記事をご覧ください。

 ココログ 光と色と「カメラ発明の日は3月19日ではなく8月19日

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2021年8月12日 (木)

日本航空123便墜落事故(昭和60年 1985年8月12日)

 8月12日は日本航空123便(ボーイング747SR-100型機、JA8119)が墜落した日です。

 今から36年前の昭和60年(1985年)のこの日、自分は実家に帰省していて旧友と高校の恩師の家に遊びに行っていました。ビールなどを飲みながら歓談していたところ、テレビにこの事故のニュースが流れました。たいへんな航空事故が発生したことがすぐにわかり、墜落現場は山岳地帯、時間も19:00を過ぎていたので救助活動が難航するであろうことは容易に想像がつきました。乗員乗客524名のうち520名が亡くなるという予想した通りの大事故になってしまいました。

 航空機の墜落事故ほど悲惨なものはありませんが、航空機は最も安全な乗り物と言われています。たくさんの飛行機が世界中を飛んでいてますから事故が起きる確率を考えれば確かに安全な乗り物だと言えるでしょう。自動車事故による死亡者数と比較しても、そのことがわかります。その安全な飛行機が落ちたのはなぜか。

 JA8119は昭和53年(1978年)6月2日、大阪伊丹空港着陸の際に機体尾部を滑走路に接触させた、いわゆるしりもち事故を起こしています。123便墜落事故の調査の結果から、このときの機体の修理が不十分で圧力隔壁が破壊し墜落の原因になったことがわかっています。

 運輸省航空事故調査委員会はこの事故の原因を次のように結論づけています

https://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-04.pdf

 『本事故は、事故機の後部圧力隔壁が損壊し、引き続いて尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の破壊が生じ、飛行性の低下と主操縦機能の喪失をきたしたために生じたものと推定される。

 飛行中に後部圧力隔壁が損壊したのは、同隔壁ウエブ接続部で進展していた疲労亀裂によって同隔壁の強度が低下し、飛行中の客室与圧に耐えられなくなったことによるものと推定される。

 疲労亀裂の発生、進展は、昭和53年に行われた同隔壁の不適切な修理に起因しており、それが同隔壁の損壊に至るまでに進展したことは同亀裂が点検整備で発見されなかったことも関与しているものと推定される。』

奥多摩町上空を飛行中のJA8119
奥多摩町上空を飛行中のJA8119
垂直尾翼がほとんど失われている

 JA8119はしりもち事故から123便墜落事故までの間に飛行回数12,319回、飛行時間16,195時間59分のフライトをこなしていました。8月12日は羽田ー千歳往復(503便、504便)、羽田-福岡往復(363便、366便)を運行していますが、いつ事故が起きてもおかしくない状態にあったと考えられます。

 123便の乗員たちは最後まで飛行機を飛ばし続けることに全力をそそいでいました。乗客もパニック状態にはなっていなかったようです。123便の乗員がいかに最後まで飛行機を飛ばし続けたのかは飛行記録や地上とのやり取りを聞くとわかります。どんな状況でも最後まで諦めてはいけないということを教えてくれます。

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2021年7月25日 (日)

スティーブンソンが蒸気機関車の試運転に成功(1814年7月25日)

 イギリスの旧5ポンド紙幣の裏面に、19世紀に活躍したイギリスの発明家ジョージ・スティーブンソンの肖像画と蒸気機関車の絵が印刷されています。

5
イギリスの旧5ポンド紙幣
蒸気機関車(左)とジョージ・スティーブンソン(右)

 ジョージ・スティーブンソンは1781年に炭坑労働者の次男として誕生し、やがて炭坑で石炭を運ぶトロッコのかわりに、ワットの蒸気機関を利用した機関車が作れないだろうかと考えました。蒸気機関車そのものは1802年にリチャード・トレビシックによって発明されていましたが(ココログ 夜明け前「世界初の蒸気機関車の試運転(1804年2月21日)」)、実用的に稼働する蒸気機関車はありませんでした。

 スティーブンソンは蒸気機関車の開発を進め、1814年7月25日、蒸気機関車ブリュッヘル号が石炭運搬用の貨車を8台引いて時速6.4 kmで走ることに成功、1825年にはロコモーション号が35台の貨車と客車を引いて、ストックトン~ダーリントンを時速18 kmで走りました。

 ティーブンソンは息子のロバートと鉄道の開発をさらに進めました。1830年には親子で作ったロケット号がマンチェスターとバーミンガム間を時速40 kmで走り、これをきっかけに鉄道網が急速に拡大しました。その後、親子は鉄道全体について考える鉄道技師となり、鉄道の発展に大きく貢献しました。スティーブンソン親子は鉄道の父と呼ばれています。

 日本に蒸気機関車がやってきたのは1871年(明治4年)です。1872年に、新橋と横浜を結ぶ鉄道が開通しました。

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2021年7月24日 (土)

地上波アナログテレビ放送が終了(2011年7月24日)

 2011年7月24日、岩手・宮城・福島を除く日本全国で地上波アナログテレビ放送が終了し、この日の正午に地上デジタルテレビ放送に完全移行となりました。岩手・宮城・福島が除かれたのは東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)の影響によるもので、この三県の地上波アナログテレビ放送が終了は2012年3月31日に延期されました。なお、例外として石川県珠洲市は2010年7月24日、長崎県対馬市の一部は2011年1月24日にアナログテレビ放送が終了しています。

 東京では地上デジタルテレビ放送開始にあたり、新しい電波塔の必要性が高まりましたが、当初は従来の東京タワーから送信が行われました。東京タワーはデジタル放送に必要とされる高さに十分でなかったため、電波障害が発生したり、一部の地域で受信できませんでした。東京タワーにかわる電波塔として東京スカイツリーが2012年5月22日に開業となり、2013年5月31日9時から地上デジタルテレビ放送の送信を開始しました。

 当時、自分の家にはパナソニックのブラウン管テレビがありましたが、2003年頃に購入したデスクトップパソコンでアナログ放送が受信できたためほとんど使っていませんでした。デスクトップパソコンでは自動録画も自由自在、テレビ機能がサーバーとなっており、ネットワークにつながったノートパソコンからテレビも録画ビデオも見ることができたいへん便利でした。近所の人の話ではデジタル放送の受信状況が良くないということだったので、アナログ放送の機材を使い続けたのです。

 2008年頃にワンセグ放送の機能がついたガラケーを使っていましたがあまり良く映りませんでした。同じ頃、アナログをフルセグのデジタルに変換するコンバータを購入し、パナソニックのブラウン管テレビに取り付けてみましたが、やはり映りはよくありませんでした。

 ということで、そのままアナログ放送を見続けたのです。そして、予定通りの2011年7月24日正午に地上波テレビジョンアナログ放送は終了したのです。次の写真は放送終了時にパナソニックのブラウン管テレビに表示された画面です。そして25日午前0:00には完全に停波し画面は砂嵐となったのであります。

アナログテレビ放送終了の画面
アナログテレビ放送終了の画面

 アナログ放送終了によりデスクトップパソコンのテレビ機能が使えなくなってしまいました。そして自分はテレビが見られなくなり・・・いや購入してあったコンバータの信号をUSBビデオキャプチャーケーブルで取り込んでパソコンで見ていました。

 そのうちLCDテレビを購入して電気屋さんにパナソニックのブラウン管テレビを引き取ってもらおうと思っていましたが、次第にテレビを見なくなり、テレビは購入していません。そしてブラウン管テレビは現在も現役なのでした。

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ココログ 夜明け前「アナログ放送終了-放送終了の画面(2011年7月24日)

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2021年6月15日 (火)

フランクリンが凧揚げの実験を行った日(1752年6月15日)

 雷の正体が電気であることを証明したのはアメリカのベンジャミン・フランクリンとされています。フランクリンは雷が電気であることを証明するために、雷雨になりそうな雲をめがけて凧を飛ばす実験を1750年に発案しました。

 1752年5月10日、フランスの物理学者トマ・フランソワ・ダリバールはフランクリンの論文を参考に凧の代わりに高さ12メートルの金属の棒を使って実験を行いました。ワインボトルで棒を接地し、高度の低いところにできた雲から電気を取り出すことに成功したとされています。

 つまり、雷の正体が電気であることに最初に気がついたのはベンジャミン・フランクリンですが、実際に実験で確認したのはトマ・フランソワ・ダリバールだったということになります。

 フランクリンがフィラデルフィアで有名な凧揚げの実験を行ったのは1752年6月15日とされています。フランクリンは同年10月19日にこの実験を「ペンシルバニア・ガゼット」紙に報告していますが、実際に実験を自分で行ったとは記していませんでした。

10ドル紙幣に描かれたフランクリンの実験の図
10ドル紙幣に描かれたフランクリンの実験の図

 プランクリンの凧揚げの実験を詳細に伝えたのはイギリスのジョゼフ・プリーストリーです。1767年にプリーストリーはフランクリンが金属の棒は危険なため凧の麻ひもを利用して電気を取り出す実験を行うことにしたなど、実験の背景まで説明してます。プリーストリーはフランクリンから詳細な説明を受けていたと考えられています。

 フランクリンの凧揚げの実験についてはココログ 光と色と「雷の正体見たり静電気」に解説がありますので、興味のある方はご一読いただければ幸いです。

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