カテゴリー「考古学」の14件の記事

2023年9月25日 (月)

藤ノ木古墳記念日(1985年9月25日)

 昭和60年(1985年)9月25日、奈良県斑鳩町、法隆寺の西約350メートルに位置する藤ノ木古墳で石室と家形石棺が発掘されました。これを記念し9月25日は藤ノ木古墳記念日と制定されました。現在は藤ノ木と呼ばれていますが法隆寺の古文書には「ミササキ」、「陵山(みささぎやま)」と記されています。

藤ノ木古墳
藤ノ木古墳

 藤ノ木古墳は6世紀後半の古墳時代後期に築造された直径約48メートル、高さ約9メートルの大型の円墳です。内部に約14メートルの横穴式石室があります。玄室の大きさは西壁側長さ約6.0メートル、東壁側長さ約5.7メートル、幅約2.4〜2.7メートル、高さ約4.2〜4.4メートルあり、玄室の奥に巨大な家型石棺が配置されています。

 古墳からは冠や馬具、銅鏡など多くの副葬品が出土しています。石棺には成人2人が合葬されており貴金属の副葬品が多いことから2人は王のではないものの当時の権力者であったと考えられています。成人2人は聖徳太子の叔父にあたり蘇我氏との対立で殺害された穴穂部皇子(あなほべのみこ)と宅部皇子(やかべのみこ)という説が有力視されていますが、穴穂部皇子の陵墓に第32代崇峻天皇が合葬されたという説もあります。また一人は女性であるという説もあります。

 藤ノ木古墳はこれまで昭和60年度、昭和63年度、平成12年度、平成15年度の合計5回の発掘調査が行われ、平成3年(1991年)11月16日に国指定史跡となりました。未盗掘の古墳だった埋葬当時のまま残っており当時を知る貴重な手がかりとなりました。

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2023年9月22日 (金)

ティラノサウルス@APAホテル

 先日、千葉幕張のAPAホテルに宿泊したところロビーに何か動くものが。近付いてみると恐竜のロボットでした。「ダイナソーアドベンチャーツアー in 東京ベイ幕張」というイベントを7月1日から10月31日まで開催しているようです。この恐竜はティラノサウルスですね。

ダイナソーアドベンチャーツアー in 東京ベイ幕張
ダイナソーアドベンチャーツアー in 東京ベイ幕張

 ティラノサウルスは羽毛恐竜のコエルロサウルス類で鳥類と比較的近縁であると考えられています。ティラノサウルスの仲間の原始的な恐竜ディロングには羽毛があったことが確認されています。そのためティラノサウルスも子どもの頃には羽毛が生えていたのではないかと考えられます。身体が大きくなると羽毛がなくても体温が保てるようになり成体には羽毛は存在しませんが体表には細かい鱗がありました。

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2023年1月15日 (日)

大英博物館が開館(1759年1月15日)

 大英博物館は英国ロンドンにある世界初の国立博物館です。大英帝国時代に収集されたものを所蔵展示しており文化や芸術など人類の歴史を専門とする博物館です。

 大英博物館は1727年から1741年まで王位協会の会長を務めたアイルランド人の医師・収集家のハンス・スローン卿のコレクションを展示する目的で設立された博物館です。

 スローン卿は自身が収集した8万点にのぼる蔵書・手稿・版画・硬貨・印章をイギリス政府が博物館を設立するのであれば有償で寄贈するという内容の遺言を残しました。イギリス政府は1753年に大英博物館を設立し、1759年1月15日に一般公開を開始しました。初代館長には英国の物理学者・医師・発明家のゴーウィン・ナイトが務めました。建設費用には宝くじの売上金が充当されました。

ハンス・スーロンと大英博物館の展示
ハンス・スーロンと大英博物館のエジプトの展示

 大英博物館の収蔵品が増えるにつれて円形閲覧室が建設されたり、自然博物館の分館が設立されたりしました。収蔵品の多くは個人の収集家が寄付したもので入館料は無料です。運営資金は政府からの助成金と博物館の事業収入と寄付金から賄われています。

 大英帝国時代に収集されたものは当時の英国が植民地としていた国から持ちこまれたものも多く収蔵品の返還が求められることがしばしばあります。現在、エジプトのカイロ博物館に展示されているツタンカーメンのマスクも元々は大英博物館にありました。古代ギリシアのパルテノン神殿の彫刻エルギン・マーブルやエジプトで発見された古代エジプト語のヒエログリフとデモティックとギリシア文字の3種類の文字が刻まれているロゼッタストーンは現在も大英博物館が所蔵しており返還の論争の対象となっています。

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2022年11月30日 (水)

コロッセオには本当の名前があった

 コロッセオ(コロッセウム)はイタリアの首都ローマにある古代ローマの遺跡フォロ・ロマーノの南西にある円形闘技場です。コロッセオはローマ帝国フラウィウス朝の皇帝ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌスの命により西暦70年に着工されました。10年の歳月をかけて西暦80年に完成しました。ちょうどイタリアのナポリ近くの古代都市ポンペイがヴェスヴィオ山の噴火で壊滅した次の年です。

 西暦81年に最後のフラウィウス朝の皇帝に即位したウェスパシアヌスの弟のティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌスが拡張工事を行いました。これによって最上部の観客席と高さ50メートルの天幕が完成しました。

コロッセオ(コロッセウム)ことフラウィウス円形闘技場
コロッセオ(コロッセウム)ことフラウィウス円形闘技場

 コロッセオはフラウィウス朝の皇帝が建設したことに由来し「フラウィウス円形闘技場」と名付けられました。それがいつの頃かコロッセオと呼ばれるようになりました。

 コロッセウムはラテン語で「巨大な」を意味します。「フラウィウス円形闘技場」が巨大な闘技場だったからコロッセオと呼ばれるようになったという説があります。また「フラウィウス円形闘技場」にあったローマ帝国第五代皇帝のネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスの巨大な像「コロッスス・ネロニス」に由来してコロッセオと呼ばれるようになったという説もあります。

 どちらの説が正しいのか今となっては不明ですが、コロッセオの本来の名前が「フラウィウス円形闘技場」だったことは間違いありません。

 コロッセオというとブルース・リーの映画「ドラゴンへの道」のリーが演じるタン・ロンとチャック・ノリスが演じるコルトの決闘シーンの舞台となりました。実際には格闘シーンの撮影は許可がおりず風景を作り込んだスタジオのセットでの決闘になったそうです。

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2022年11月10日 (木)

リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?(1877年11月10日)

 「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?」

 (Dr. Livingstone, I presume?)

 1877年11月10日、ニューヨーク・ヘラルド紙の特派員ヘンリー・スタンリーがアフリカ大陸のタンザニアの街ウジジ近くでスコットランドの探検家・宣教師デイヴィッド・リヴィングストンに出会ったときの言葉です。当時、この言葉がイギリスで偶然に人に出会ったときに使われるようになるほど2人の出会いの話は有名になりました。

 リヴィングストンはヨーロッパ人として初めてアフリカ大陸を探検した人物です。1830年代後半、リヴィングストンは中国で医療を学びながら布教することを目指してグラスゴー大学で医学と神学を学びました。しかし1840年に始まったアヘン戦争の影響で中国行きは断念せざるを得なくなりました。その後、アフリカ大陸での布教に興味を持ちました。当時は未開の地で「暗黒大陸」と呼ばれていたアフリカの内陸を訪れるのは至難の業でしたがアフリカに向かうことを目指しました。

 リヴィングストンがアフリカに向かったのは1840年12月8日、当時イギリス領だったアフリカ大陸南端のケープタウンに向かいました。そして布教の地を探すため北上しアフリカ内陸を探検しました。このときリヴィングストンは夜間に野生のライオンに襲われ左腕に重症を負っています。布教の地は思うように見つからずリヴィングストンは探検を続けました。1854年5月にアフリカ南西部の大西洋沿岸のアンゴラのルアンダに到着、ここで熱病や赤痢で瀕死の状態となりしばらく休息することにしました。この休息中に作成し王位地理協会に送った探検の詳細な報告書が高く評価されました。1854年9月にルアンダを出発して東に向かい1856年3月に、アフリカ大陸南東部のインド洋沿岸のモザンビークのキリマネに到着しヨーロッパ人として初のアフリカ大陸の横断を成し遂げました。同年12、資金を使い果たしたリヴィングストンはイギリスに帰国します。

 帰国後、リヴィングストンのアフリカ大陸探検の実績は高く評価され1857年の著書「南アフリカにおける宣教師の旅と探検」がベストセラーとなりました。探検家としては高く認められたものの、布教はほとんどしていなかったことから宣教師協会から除名されてしまいました。1858年には女王の勅命により再びアフリカ大陸の探検に旅立ちました。第2回目のアフリカ探検は1862年に本国からの帰国命令で終了しました。この探検でも様々な地理的な発見をしていますが第1回目ほどの業績評価は得られませんでした。しかし、このときに執筆した著者「ザンベジ川と支流」がベストセラーとなり、アフリカの奴隷貿易の実体が広く知られるようになり、奴隷解放のきっかけになりました。

 リヴィングストンの第3回目のアフリカ探検は1866年に始まりました。この探検は王位地理協会の要請によるものでナイル川の水源を探るものでした。ナイル川は白ナイル川と青ナイル川から成りますが、青ナイル川の水源がギシュ・アバイの泉であることに対し、白ナイル川の水源はヴィクトリア湖そのものなのかヴィクトリア湖に流れ込む別の水源があるのかよくわかっていませんでした。この探検では奴隷商人の妨害を受け思うように進みませんでした。リヴィングストンは地理的な発見をしていますが体調を崩し休息を余儀なくされました。

 1860年代の終わり、イギリスではリヴィングストンが消息不明で死亡説の噂が流れていました。リヴィングストンの探索も行われましたがすべて失敗に終わりました。1869年10月にニューヨーク・ヘラルド紙の経営者ジェームズ・ゴードン・ベネット・ジュニアが特派員のヘンリー・モートン・スタンリーにリヴィングストンを捜索するよう依頼しました。スタンリーがリヴィングストンの元にたどり着いたのは1871年11月10日です。このとき痩せ衰えたリヴィングストンを見てスタンリーは「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?」と声をかけたのです。スタンリーはリヴィングストンに帰国するように言いましたが、リヴィングストンはナイル川の水源の探索の継続を選びました。

スタンリーとリヴィングストン
スタンリー(上左)とリヴィングストン(上右)
リヴィングストンに出会ったスタンリー

 スタンリーはリヴィングストンと数ヶ月を過ごして1872年3月に帰国の途につきました。帰国後スタンリーはリヴィングストンに十分な資金と従者の提供を行いました。リヴィングストンは同年8月に探検を再開しましたが、1873年5月1日に病死しました。ヴィングストンの遺体は1874年4月18日にイギリスに到着しウエストミンスター寺院へ葬られました。このとき本人確認の確たる証拠となったのは第1回アフリカ探検でライオンに襲われたときの左腕の傷跡でした。

 なお白ナイル川の水源はヴィクトリア湖そのものではなくヴィクトリア湖周辺に複数存在すると考えられ、ヴィクトリア湖に注ぐカゲラ川が源流と考えられています。

 

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2022年8月24日 (水)

噴火で壊滅した町|ポンペイ最期の日(79年8月24日)

 ポンペイはイタリアのナポリ近くのヴェスヴィオ山の麓にかつて存在した古代都市です。この都市はイタリア先住民オスキ人による集落が元になって発展したものです。紀元前256年にイタリア半島中部からやって来たエトルリア人に占領されましたが、ポンペイの人々はイタリア南部のギリシア人と同盟を組み紀元前474年にエトルリア人の支配から脱しました。しばらくは安泰しましたが紀元前424年にイタリア半島を縦貫するアペニン山脈の南部に住んでいたサムニウム人に征服されました。紀元前89年にはローマによって植民地支配されとなりましたが、ローマの重要な物流拠点となり港湾が整備され商業都市として発展しました。

 遺跡の調査からポンペイはブドウの産地でワイン醸造の産業が発展していたことが分かっています。また都市には碁盤の目のように道路が張り巡らされており大通りは石で舗装されていました。都市の中心には大きな広場が存在し、ポンペイの街は都市計画に基づいて発展したことが伺えます。ポンペイの街で人々は平和に暮らしていましたが、その平和な暮らしは長くは続きませんでした。

 ポンペイの街を襲ったのは他の勢力ではなく62年2月5日に発生した大地震でした。大きな被害を受けたポンペイの人々は街の復興に取り掛かりますしたが復興が未だ道半ばの79年にヴェスヴィオ山が噴火しました。噴火は79年8月24日午後1時頃に発生したとされています。火山灰が一昼夜降り、火砕流が発生するほどの大噴火でした。大地震が発生し、火山灰は降り積もり、火砕流が海に流れ込んだことによって津波も発生しました。これによってポンペイの街は壊滅し地中に埋もれてしまいました。

噴火前のポンペイの街の予想図
噴火前のポンペイの街の予想図

 この災害でポンペイの人々は全滅したわけではありません。ポンペイの人々はヴェスヴィオ山の異常には大噴火の前から気がついていたようです。2万人の市民の多くが事前にローマなどに退避していますが、何らかの事情で街に残り逃げ遅れた約2千名の人々が被害に遭いました。

 壊滅したポンペイの街が再建されることはありませんでしたが、この地にかつて都市があったことは古くから知られていました。地中に埋もれたポンペイの古代都市が再発見されたのは噴火から1669年も経過した1748年のことです。ボンペイの街は発掘され古代の貴重な品々が発見され当時の街の様子もわかりました。また火砕流で生き埋めになってしまった人々が固まった火山灰の中の空洞として発見されました。発掘にあたった考古学者たちはこの空洞には石膏を流し当時の人々の様子を蘇らせました。その中には子どもを覆うように庇う母親の姿もありました。

 さてヴェスヴィオ山の大噴火が79年に発生したことは間違いありませんが日付については諸説あります。ボンペイの街が再発見され発掘が進むとポンペイの壊滅当時の季節がわかったのです。発見された農作物や衣服などからは噴火したのは秋以降であることが予想されました。また、2018年の発掘調査では決定的な証拠の発見がありました。ある家屋の壁に噴火が「11月の最初の日から遡って16番目の日」と記されていたのです。この記述が正しければヴェスヴィオ山の大噴火は79年10月17日だったことになります。

 なおポンペイの古代都市の遺跡は「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」として1997年にユネスコの世界遺産に登録されました。

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2022年8月11日 (木)

長期暦の元期(紀元前3114年8月11日)

 メキシコから中央アメリカ北西部でマヤ・アステカなどの高度な文明が栄えたメソアメリカ文明。このメソアメリカで古くから使用されていた暦が長期歴です。長期歴はマヤ文明で発見されたためマヤ暦とも呼ばれますが、マヤ文明に限られたものではなくメソポタミア文明で広く使われていました。

 長期歴の大きな特徴はその周期が非常に長いためいつの出来事か特定できることです。長期歴は1日を単位とする「キン」、1ヶ月20キンとする「ウィナル」、1年18ウィナルとする「トゥン」、さらに20トゥンを「カトゥン」、20カトゥンを「パクトゥン」としました。長期歴の元期は現在使われているグレゴリオ暦に換算すると紀元前3114年8月11日になります。

チャパ・デ・コルソ石碑2号
チャパ・デ・コルソ石碑2号
メソアメリカ文明最古の長期暦が刻まれた石碑(紀元前36年)

 長期歴は長周期ですが永遠に続く暦ではなくグレゴリオ歴換算で2012年12月21日が最終日となっています。これによって2012年12月21日に地球が滅亡するという噂が流れました。しかし長期歴は最終日を迎えるとまた最初から始まるものだったようです。

 そもそもメソアメリカ文明に世界が滅亡するという予言が存在したという証拠は見つかっていません。また15世紀末にコロンブス率いるスペインの艦隊がメソアメリカにやってきたときには既に長期歴は使われていませんでした。この世界滅亡説はメソアメリカ文明由来ではなくメソアメリカに侵入した西洋社会のに由来すると考えられています。

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今日は何の日

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2022年8月 7日 (日)

コンティキ号が太平洋漂流実験成功(1947年8月7日)

 南太平洋の島々に在住するポリネシア人の文明と南米のインカ文明の類似点が多く見られることから、かつて南米のアメリカ・インディアンが太平洋を渡ってポリネシアにやって来たのではないかという説がありました。

 ポリネシア人の祖先が南米のアメリカインディアンであれば当時の航海の技術で太平洋を渡ることができたことになります。このことを確かめるためノルウェーの人類学者トール・ヘイエルダールらは1947年にマストとキャビンを持つ大型の筏を建造しました。この筏はインカ帝国の太陽神ビラコチャの別名コンティキ号と名付けられました。コンティキ号はインカ帝国を征服したスペイン人の記録から復元されました。

 船を作る材料は当時でも入手が可能であった木材や麻などの植物が使われました。帆が張られているだけで動力を持たないコンティキ号が風と海流だけで南米からポリネシアまで漂流することができればポリネシア人の祖先がアメリカ・インディアンであった証拠のひとつになります。

 1947年4月28日、コンティキ号はペルー海軍の軍艦に曳航されてペルーのカヤオ港を出発しました。カヤオ港沖80キロメートルで海流に乗ってから自力で航海を開始しました。コンティキ号は西へ進み102日後の1947年8月7日に約8000キロメートル離れたポリネシアの環礁で座礁しました。つまり漂流で南米からポリネシアまで漂流できることを証明したのです。

コンティキ号
コンティキ号

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2022年7月21日 (木)

アルテミス神殿が倒壊(紀元前356年7月21日)

 古代ギリシアの古代都市エフェソスにヘロストラトスという羊飼いがいました。彼の詳細はほとんど知られていませんが社会的地位が低く、エフェソス人でなく、奴隷だったと伝えられおり良い境遇ではなかったようです。

 ヘロストラトスは自身の立場を不満に思い、有名になって歴史に名を残したいという思いに駆られていました。そして紀元前356年7月21日にエフェソスのアルテミス神殿に火を放ちました。

 アルテミス神殿は紀元前7世紀に建てられ紀元前3世紀頃まで存在した狩猟と野獣と出産の女神アルテミスをまつる大理石製の神殿です。最初の神殿は建造後間もなく倒壊してしまいました。ヘロストラトスが放火した神殿は紀元前550年頃にリディアのクロイソス王によって再建されたものです。アルテミス神殿はヘロストラトスの放火によって再び倒壊してしまったのです。

アルテミス神殿の想像図
アルテミス神殿の想像図(16世紀マールテン・ファン・ヘームスケルクの版画

 放火の容疑で捕らえられたヘロストラトスはあっさりと自分の容疑を認め「自分の名を不滅のもとのとして歴史に残すためアルテミス神殿に火を放った」と供述しました。エフェソスの人々は同じような動機をもつ人間による事件を防ぐためヘロストラトスに死刑を宣告しました。さらにヘロストラトスの名を歴史残さないようにするため「記録抹消罪」とし、ヘロストラトスの名を口にした者は死刑にすると決めました。

 こうしてヘロストラトスの名は封印されたはずなのですが、この記事が書けていることからもわかる通りヘロストラトスの名は伝承されています。実はヘロストラトスの事件はアルゲアス朝マケドニア王国の君主ピリッポス2世の一代記「ピリッピカ」に記録されており、その後の古代ギリシアの歴史学でもこの事件が取りあげられています。かくしてヘロストラトスの名は2400年の時を超えて伝承され、エフェソスの人々の意に反しヘロストラトスの目的は果たされていたのです。

 なおアルテミス神殿は紀元前323年に再建されています。この再建されたアルテミス神殿はかつてのアルテミス神殿よりも大規模なもので古代世界の七不思議とされましたが、やがてこの地がローマが統治されると神殿は破壊されてしまいました。現在は遺跡が存在するのみで神殿は残っていません。

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2022年7月16日 (土)

三内丸山遺跡で巨大木柱発見(1994年7月16日)

 三内丸山遺跡は青森県青森市大字三内字丸山に存在する紀元前約3900年~2200年前の縄文時代の大規模集落の遺跡です。大字三内字丸山の地に遺跡が存在することは古くから知られており江戸時代の弘前藩の記録には1623年に土偶が発見されたことが記されています。しかしながら長らくの間、本格的な調査が行われることはありませんでした。

 三内丸山遺跡の調査が始まったきっかけはこの地が青森県営野球場の建設地となったためです。1992年から建設地の事前調査が進められまいいたが、この調査で三内丸山遺跡が大規模集落の跡であることがわかったのです。1994年には直径約1メートルの栗の木の柱6本が発見されました。この柱穴の間隔は4.2メートル、幅と深さは2メートルで統一されていました。縄文時代の遺跡からは縄文尺と呼ばれる35センチメートルを単位とした長さのものが発見されています。柱穴の間隔4.2メートルも縄文尺のちょうど12倍の長さです。当時の人々の測量や建築技術が高ことが伺え、この柱は巨大掘立柱建物を支えたいたと考えられました。

三内丸山遺跡復元六本柱建物(復元物)
三内丸山遺跡復元六本柱建物(復元物)

 1994年7月16日、青森県で高さ20メートの建造物を支える巨大木柱が発見されたことが報道されました。弥生時代の吉野ヶ里遺跡より約5000年も古い縄文時代の遺跡から巨大な木柱が発見されたことは驚くべきことでした。青森県は野球場の建設を中止し遺跡を保存することにしました。

 三内丸山遺跡の広さはおよそ40ヘクタールもあります。集落跡には竪穴住居、高床式倉庫、掘立柱建物、道路、捨場、墓などが整然と配置されています。新青森駅へと向かう東北新幹線は三内丸山遺跡を通り抜けます。新青森駅に到着する前に遺跡の様子を見ることができます。

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