カテゴリー「考古学」の9件の記事

2022年8月24日 (水)

ポンペイ最期の日(79年8月24日)

 ポンペイはイタリアのナポリ近くのヴェスヴィオ山の麓にかつて存在した古代都市です。この都市はイタリア先住民オスキ人による集落が元になって発展したものです。紀元前256年にイタリア半島中部からやって来たエトルリア人に占領されましたが、ポンペイの人々はイタリア南部のギリシア人と同盟を組み紀元前474年にエトルリア人の支配から脱しました。しばらくは安泰しましたが紀元前424年にイタリア半島を縦貫するアペニン山脈の南部に住んでいたサムニウム人に征服されました。紀元前89年にはローマによって植民地支配されとなりましたが、ローマの重要な物流拠点となり港湾が整備され商業都市として発展しました。

 遺跡の調査からポンペイはブドウの産地でワイン醸造の産業が発展していたことが分かっています。また都市には碁盤の目のように道路が張り巡らされており大通りは石で舗装されていました。都市の中心には大きな広場が存在し、ポンペイの街は都市計画に基づいて発展したことが伺えます。ポンペイの街で人々は平和に暮らしていましたが、その平和な暮らしは長くは続きませんでした。

 ポンペイの街を襲ったのは他の勢力ではなく62年2月5日に発生した大地震でした。大きな被害を受けたポンペイの人々は街の復興に取り掛かりますしたが復興が未だ道半ばの79年にヴェスヴィオ山が噴火しました。噴火は79年8月24日午後1時頃に発生したとされています。火山灰が一昼夜降り、火砕流が発生するほどの大噴火でした。大地震が発生し、火山灰は降り積もり、火砕流が海に流れ込んだことによって津波も発生しました。これによってポンペイの街は壊滅し地中に埋もれてしまいました。

噴火前のポンペイの街の予想図
噴火前のポンペイの街の予想図

 この災害でポンペイの人々は全滅したわけではありません。ポンペイの人々はヴェスヴィオ山の異常には大噴火の前から気がついていたようです。2万人の市民の多くが事前にローマなどに退避していますが、何らかの事情で街に残り逃げ遅れた約2千名の人々が被害に遭いました。

 壊滅したポンペイの街が再建されることはありませんでしたが、この地にかつて都市があったことは古くから知られていました。地中に埋もれたポンペイの古代都市が再発見されたのは噴火から1669年も経過した1748年のことです。ボンペイの街は発掘され古代の貴重な品々が発見され当時の街の様子もわかりました。また火砕流で生き埋めになってしまった人々が固まった火山灰の中の空洞として発見されました。発掘にあたった考古学者たちはこの空洞には石膏を流し当時の人々の様子を蘇らせました。その中には子どもを覆うように庇う母親の姿もありました。

 さてヴェスヴィオ山の大噴火が79年に発生したことは間違いありませんが日付については諸説あります。ボンペイの街が再発見され発掘が進むとポンペイの壊滅当時の季節がわかったのです。発見された農作物や衣服などからは噴火したのは秋以降であることが予想されました。また、2018年の発掘調査では決定的な証拠の発見がありました。ある家屋の壁に噴火が「11月の最初の日から遡って16番目の日」と記されていたのです。この記述が正しければヴェスヴィオ山の大噴火は79年10月17日だったことになります。

 なおポンペイの古代都市の遺跡は「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」として1997年にユネスコの世界遺産に登録されました。

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2022年8月11日 (木)

長期暦の元期(紀元前3114年8月11日)

 メキシコから中央アメリカ北西部でマヤ・アステカなどの高度な文明が栄えたメソアメリカ文明。このメソアメリカで古くから使用されていた暦が長期歴です。長期歴はマヤ文明で発見されたためマヤ暦とも呼ばれますが、マヤ文明に限られたものではなくメソポタミア文明で広く使われていました。

 長期歴の大きな特徴はその周期が非常に長いためいつの出来事か特定できることです。長期歴は1日を単位とする「キン」、1ヶ月20キンとする「ウィナル」、1年18ウィナルとする「トゥン」、さらに20トゥンを「カトゥン」、20カトゥンを「パクトゥン」としました。長期歴の元期は現在使われているグレゴリオ暦に換算すると紀元前3114年8月11日になります。

チャパ・デ・コルソ石碑2号
チャパ・デ・コルソ石碑2号
メソアメリカ文明最古の長期暦が刻まれた石碑(紀元前36年)

 長期歴は長周期ですが永遠に続く暦ではなくグレゴリオ歴換算で2012年12月21日が最終日となっています。これによって2012年12月21日に地球が滅亡するという噂が流れました。しかし長期歴は最終日を迎えるとまた最初から始まるものだったようです。

 そもそもメソアメリカ文明に世界が滅亡するという予言が存在したという証拠は見つかっていません。また15世紀末にコロンブス率いるスペインの艦隊がメソアメリカにやってきたときには既に長期歴は使われていませんでした。この世界滅亡説はメソアメリカ文明由来ではなくメソアメリカに侵入した西洋社会のに由来すると考えられています。

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2022年8月 7日 (日)

コンティキ号が太平洋漂流実験成功(1947年8月7日)

 南太平洋の島々に在住するポリネシア人の文明と南米のインカ文明の類似点が多く見られることから、かつて南米のアメリカ・インディアンが太平洋を渡ってポリネシアにやって来たのではないかという説がありました。

 ポリネシア人の祖先が南米のアメリカインディアンであれば当時の航海の技術で太平洋を渡ることができたことになります。このことを確かめるためノルウェーの人類学者トール・ヘイエルダールらは1947年にマストとキャビンを持つ大型の筏を建造しました。この筏はインカ帝国の太陽神ビラコチャの別名コンティキ号と名付けられました。コンティキ号はインカ帝国を征服したスペイン人の記録から復元されました。

 船を作る材料は当時でも入手が可能であった木材や麻などの植物が使われました。帆が張られているだけで動力を持たないコンティキ号が風と海流だけで南米からポリネシアまで漂流することができればポリネシア人の祖先がアメリカ・インディアンであった証拠のひとつになります。

 1947年4月28日、コンティキ号はペルー海軍の軍艦に曳航されてペルーのカヤオ港を出発しました。カヤオ港沖80キロメートルで海流に乗ってから自力で航海を開始しました。コンティキ号は西へ進み102日後の1947年8月7日に約8000キロメートル離れたポリネシアの環礁で座礁しました。つまり漂流で南米からポリネシアまで漂流できることを証明したのです。

コンティキ号
コンティキ号

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2022年7月21日 (木)

アルテミス神殿が倒壊(紀元前356年7月21日)

 古代ギリシアの古代都市エフェソスにヘロストラトスという羊飼いがいました。彼の詳細はほとんど知られていませんが社会的地位が低く、エフェソス人でなく、奴隷だったと伝えられおり良い境遇ではなかったようです。

 ヘロストラトスは自身の立場を不満に思い、有名になって歴史に名を残したいという思いに駆られていました。そして紀元前356年7月21日にエフェソスのアルテミス神殿に火を放ちました。

 アルテミス神殿は紀元前7世紀に建てられ紀元前3世紀頃まで存在した狩猟と野獣と出産の女神アルテミスをまつる大理石製の神殿です。最初の神殿は建造後間もなく倒壊してしまいました。ヘロストラトスが放火した神殿は紀元前550年頃にリディアのクロイソス王によって再建されたものです。アルテミス神殿はヘロストラトスの放火によって再び倒壊してしまったのです。

アルテミス神殿の想像図
アルテミス神殿の想像図(16世紀マールテン・ファン・ヘームスケルクの版画

 放火の容疑で捕らえられたヘロストラトスはあっさりと自分の容疑を認め「自分の名を不滅のもとのとして歴史に残すためアルテミス神殿に火を放った」と供述しました。エフェソスの人々は同じような動機をもつ人間による事件を防ぐためヘロストラトスに死刑を宣告しました。さらにヘロストラトスの名を歴史残さないようにするため「記録抹消罪」とし、ヘロストラトスの名を口にした者は死刑にすると決めました。

 こうしてヘロストラトスの名は封印されたはずなのですが、この記事が書けていることからもわかる通りヘロストラトスの名は伝承されています。実はヘロストラトスの事件はアルゲアス朝マケドニア王国の君主ピリッポス2世の一代記「ピリッピカ」に記録されており、その後の古代ギリシアの歴史学でもこの事件が取りあげられています。かくしてヘロストラトスの名は2400年の時を超えて伝承され、エフェソスの人々の意に反しヘロストラトスの目的は果たされていたのです。

 なおアルテミス神殿は紀元前323年に再建されています。この再建されたアルテミス神殿はかつてのアルテミス神殿よりも大規模なもので古代世界の七不思議とされましたが、やがてこの地がローマが統治されると神殿は破壊されてしまいました。現在は遺跡が存在するのみで神殿は残っていません。

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2022年7月16日 (土)

三内丸山遺跡で巨大木柱発見(1994年7月16日)

 三内丸山遺跡は青森県青森市大字三内字丸山に存在する紀元前約3900年~2200年前の縄文時代の大規模集落の遺跡です。大字三内字丸山の地に遺跡が存在することは古くから知られており江戸時代の弘前藩の記録には1623年に土偶が発見されたことが記されています。しかしながら長らくの間、本格的な調査が行われることはありませんでした。

 三内丸山遺跡の調査が始まったきっかけはこの地が青森県営野球場の建設地となったためです。1992年から建設地の事前調査が進められまいいたが、この調査で三内丸山遺跡が大規模集落の跡であることがわかったのです。1994年には直径約1メートルの栗の木の柱6本が発見されました。この柱穴の間隔は4.2メートル、幅と深さは2メートルで統一されていました。縄文時代の遺跡からは縄文尺と呼ばれる35センチメートルを単位とした長さのものが発見されています。柱穴の間隔4.2メートルも縄文尺のちょうど12倍の長さです。当時の人々の測量や建築技術が高ことが伺え、この柱は巨大掘立柱建物を支えたいたと考えられました。

三内丸山遺跡復元六本柱建物(復元物)
三内丸山遺跡復元六本柱建物(復元物)

 1994年7月16日、青森県で高さ20メートの建造物を支える巨大木柱が発見されたことが報道されました。弥生時代の吉野ヶ里遺跡より約5000年も古い縄文時代の遺跡から巨大な木柱が発見されたことは驚くべきことでした。青森県は野球場の建設を中止し遺跡を保存することにしました。

 三内丸山遺跡の広さはおよそ40ヘクタールもあります。集落跡には竪穴住居、高床式倉庫、掘立柱建物、道路、捨場、墓などが整然と配置されています。新青森駅へと向かう東北新幹線は三内丸山遺跡を通り抜けます。新青森駅に到着する前に遺跡の様子を見ることができます。

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おにぎりの日(6月18日)

 

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2022年1月 6日 (木)

それでも大陸は動いている(1912年1月6日)

 現代においては大陸が地球の表面を移動するという大陸移動説はプレートテクトニクス理論で実証されていますが、今から100年ほど前は馬鹿げた理論として受け入れられませんでした。

 大航海時代末期に正確な世界地図が作られるようになると、一部の学者は大陸の形状から大昔は大陸と大陸がつながっていたのではないかと考えました。また世界中に散らばる化石の分布から昔はいくつかの大陸が大きなひとつの大陸だったと唱える学者もいました。しかし、これらの説では地球が収縮することによって陸地と海洋の様子が変わったり、地球が膨張することによって大陸間の距離が大きくなったと考えられました。それらの説はそれぞれ地球収縮説、地球膨張説と呼ばれますが、どちら説も大陸同士の相対的な位置関係が変化するもので大陸自身が移動するものではありませんでした。

 ドイツの気象学者アルフレート・ロータル・ウェーゲナーは大学で天文学を学んでいましたが極地探検に興味をもち気象学を学ぶようになりました。大学卒業後は兄の働く航空気象台に就職し、気球を用いた気象観測や探偵観測を行いました。1906年にデンマークの探検隊に参加し、グリーンランドを訪れ地図の作成や極地の気象観測を行いました。

 1910年、ウェーゲナーは世界地図を見て大西洋の両岸、アメリカ大陸の東海岸とアフラ大陸の西海岸の形がよく合致することに気がつきました。当初ウェーゲナーはこれを偶然の一致ぐらいにしか考えていませんでしたが、1911年になって古生物の化石の分布から南アメリカ大陸とアフリア大陸がつながっていたことを示す古生物学的証拠の存在を知り、大陸が移動したと考えるようになりました。そして1912年1月6日にドイツのフランクフルトで行われた地質学会で太古にアメリカ大陸とアフリカ大陸が移動したとする「大陸移動説」を唱えました。

 ウェーゲナーは世界で初めて「大陸移動」という言葉を使って自説を唱えましたが当時は地球収縮説が主流でした。大陸と海底は高度が異なるものの同じものであるから、海底の上を大陸自身が移動するはずがないというのが常識だったのです。ですから、ウェーゲナーの大陸移動説は非常識な異説とされ多くの学者に相手にされませんでした。

 1914年に第一次世界大戦が始まるとウェーゲナーは陸軍の気象調査を手がける部隊で働きました。このとき大陸移動説の研究を進め自身の考えを著書にまとめました。1915年に「大陸と海洋の起源」を発表し、測地学、地質学、地球物理学、古生物学、古気候学のデータを示しながら大西洋は古代には存在しておらずひとつの大きな大陸が分離移動して大西洋ができたとする「大陸移動説」を唱えました。しかしながら、ウェーゲナーの説は認められませんでした。ウェーゲナーは諦めずに調査を進め「大陸と太陽の起源」の第二版を1919年、第三版を1922年に出版しました。1929年に出版した第四版では現存する全ての大陸はもともと1つの大陸であったが、約2億年前に分裂して移動し、現在のようになったと唱えました。

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ウェーゲナーと大陸移動の図(「大陸と太陽の起源」第4版)

 ウェーゲナーの「大陸移動説」ではマントル対流に関する言及がありましたが、大陸がどうして動くのかについてまでは説明できていませんでした。また、化石の分布についてはかつて地続きになっていた部分が海中に沈んだと考えれば説明がつくと多数の地質学者から反論されました。ウェーゲナーの「大陸移動説」が認められることはなかったのです。

 1930年、ウェーゲナーは大陸移動説の有力な手がかりを見つけるために5度目のグリーンランド探検に向かいました。グリーンランドが西に移動していることを証明することができると考えたのです。1930年11月1日、ウェーゲナーは探査から基地に戻る途中で遭難し帰らぬ人となりました。この日はウェーゲナーの50歳の誕生日でした。

  ウェーゲナーの死後、マントル対流の研究が進み地球内部でのマントルの熱対流が大陸移動の原動力と考えられるようになりました。また地磁気の調査によって大陸が移動したことを裏付ける証拠が見つかり、ウェーゲナーの大陸移動説が高く評価されるようになりました。1960年代後半に地球の表面を覆ういくついかの固い岩盤が動くことによって地震や大陸移動が引き起こされるというプレートテクトニクス理論が提唱されたのです。

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2021年10月16日 (土)

【おもしろ映像】ツタンカーメンのケーキ

 2人の女性がケーキを作っています。どうやらツタンカーメンのケーキのようです。

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ツタンカーメンのケーキ

 ツタン・カーメンの墓は1922年11月4日にイギリスのエジプト考古学者のハワード・カーターによって発見されました。三千年以上の時を経て黄金のマスクをはじめとする副葬品が発掘され、古代エジプト第18王朝のファラオ、ツタン・カメーンの名前が世界中に知られるようになりました。

  ハワード・カーターがツタンカーメンの墓を発見(1922年11月4日)

 さて、ツタンカーメンのケーキがどのような出来栄え仕上がったのかはこちらの映像をご覧ください。

Time Lapse of Molly Meldrum's Cake!

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2021年6月18日 (金)

おにぎりの日(6月18日)

 いろいろな食べ物に「○○の日」が制定されていますが、日本の食文化を代表する「おにぎり」にも「おにぎりの日」が制定されています。

おにぎりの日(6月18日)
おにぎりの日(6月18日)

 「おにぎりの日」を制定したのは石川県鹿西町(現 中能登町)で、昭和62年(1987年)11月12日に同町にある弥生時代の遺跡「杉谷チャノバタケ遺跡」(石川県鹿島郡中能登町金丸)から「おにぎりの化石」が発見されたことに由来します。

 この「おにぎりの化石」は建物は炭化した米の塊で人間の指の跡が残っており、およそ2000年前に握られた日本最古のおにぎりと考えられています。ただし、普段私たちが食べている米を炊いた後に握ったおにぎりではなく、蒸した後に焼いたもので現在の粽(ちまき)のようなものでした。そのため、この「おのぎりの化石」は考古学的には「粽状炭化米塊(チマキ状炭化米塊)」と呼ばれています。

 さて、「おにぎりの化石」が発見されたのが11月12日なのに「おにぎりの日」が6月18日となったのはどうしてでしょうか。「おいぎりの化石」が発見された遺跡のある旧「鹿西町」は「ろくせいまち」と読みます。18日は「米」の字を分解すると「十」と「八」になることから「米食の日」とされています。「鹿西町」の6と「米食の日」の18を組み合わせた6月18日が「おにぎりの日」と定められました。

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2020年11月 4日 (水)

ハワード・カーターがツタンカーメンの墓を発見(1922年11月4日)

 古代エジプト第18王朝のファラオ、ツタン・カーメン。ツタン・カーメンが古代エジプトのファラオとして最も広く知られているのは、その墓が盗掘を受けずにほとんど無傷の状態で、黄金のマスクや財宝とともに発見されたからでしょう。

 ツタンカーメンの墓は古代エジプトの都市テーベ(現在のルクソール)のナイル川西岸の王家の谷にあります。古代エジプトでは日が沈む西の方角は死を象徴すると考えられ、そこに多くの墓が作られたのです。一方、日が昇る東の方角は生を象徴すると考えられ神殿が作られました。

 ツタン・カーメンの墓はイギリスのエジプト考古学者のハワード・カーターにより、今からおよそ100年前の1922年11月4日に発見されました。この発見により、ツタン・カメーンおよびハワード・カーターの名前が世界中に知られるようになりました。

ハワード・カーター
ハワード・カーター

 ところで、カーターが偶然にツタン・カーメンの墓を発見したと説明されることも多いのですが、カーターは決して一夜にしてツタン・カーメンの墓を発見したわけではありません。発見に至まで何度も王家の谷を訪れ長期間に渡って発掘作業をしていました。入念に事前の調査を行い、得られた情報から約3千年前の王家の谷の土地の様子を想像しながら、どこに墓が埋もれているのか考え、墓の位置を特定していく発掘作業を行っています。

 イギリスの貴族ジョージ・ハーバート(第5代カーナーヴォン伯爵)は古代エジプトの考古学に興味を持っていましたが、発掘を進めるためには専門家の協力が必要でした。カーナーヴォン伯爵が出会ったのがカーターでした。カーターはカーナーヴォン伯爵の資金援助を得ます。2人は1915年にエジプトの考古省から王家の谷の発掘許可を得て、発掘調査に着手しました。カーターは発掘を続けましたが、目新しい成果は得られませんでした。カーナーヴォン伯爵の資金援助も難しくなり、発掘調査の中止を検討していた矢先の1922年11月4日にツタンカーメンの墓へと導く階段を発見したのです。

 カーターの日記には11月4日の午前10時頃に階段が見つかったと記されています。もちろん、発見してすぐにその墓がツタンカーメンの墓とわかったわけではありません。日記の11月23日にカーナーヴォン伯爵が現地に到着し、11月24日(金)に墓の出入り口でツタンカーメンのヒエログリフのカルトゥーシュが識別できたと記載されています。11月25日(土)に最初のドアを開け、11月26日(日)に第二のドアを開けたとあります。まざまな財宝とツタンカーメンのカルトゥーシュを発見し、その奥にファラの墓があることを確信したと記しています。11月27日(月)には内部を照らすための電気設備が用意され、さらに詳しい調査が行われました。夢にも思わなかった光景を見た。想像を超えるオブジェクトの芸術の美しさと洗練さに驚愕した、圧倒的な印象だったと記しています。11月29日(水)には公式の公開セレモニーが行われています。

 1923年2月18日(日)、ツタンカーメンの埋葬室を開けるセレモニーがありました。このときベルギーの女王とその他のゲストが埋葬室の入り口を開けています。ところが、カーターとスタッフはこのセレモニーの準備で2月15日(木)ぐらいから入り口を開ける準備をしていたようで、翌16日(金)には入り口を開けていたようです。墓は25日(日)まで公開され、28日(水)に再び密閉されました。

 このときカーターはツタン・カーメンの石棺を開くことはできませんでした。重たい三重の石棺が開けられたのは最初の墓の発見から3年が経過した1925年10月28日のことでした。カーターはことときのことを次のように記しています。

 ピンが取り外され、蓋が持ち上げられた。究極の情景が現れた。非常に綺麗に包まれた若い王のミイラ。オシリスを象徴する悲しくて静かな表情の黄金のマスクをつけている。マスクは神の属性をもつが、ツタン・カーメンの生き写しだ。穏やかで美しい。彼の彫像や棺の上に見つけたものと同じ特徴である。マスクは少し後ろに下がっており、視線はまっすぐに天を見上げている。

 ツタンカーメンのマスクは1925年12月に棺から取り出され、それ以降はカイロにあるエジプト考古学博物館に保存されています。

 ツタンカーメンのマスクが最初に日本にやってきたのは1965年8月です。朝日新聞社と東京国立博物館主催の「ツタンカーメン展」が上野の国立博物館で開催されました。黄金のマスクをはじめ、ツタンカーメンの墓に埋葬されていた45点が展示されました。その後、京都市美術館、福岡県文化会館で展示されました。

 あれから47年後の2012年8月、再び上野の森博物館で「ツタンカーメン展」が開催されました。ツタンカーメンの黄金のマスクが再び日本にやってくることはありませんでしたが、1965年の展示品を含めた122点が展示され、古代エジプトを満喫するには十分な展示が行われました。冒頭の写真はこのときの土産品です(ゆるゆるのツタンカーメン展のお土産)。黄金のマスクの絵が入ったツタンラーメン麺というインスタントラーメンも販売されていました。

 ツタン・カーメンの調査は現在も続いています。3千3百年の時を経て、ツタン・カメーンが教えてくれるものはこれからもたくさん出てくるでしょう。


学習漫画 世界の伝記 NEXT ハワード・カーター ツタンカーメン王の墓を発見した考古学者

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