カテゴリー「考古学」の4件の記事

2022年1月 6日 (木)

それでも大陸は動いている(1912年1月6日)

 現代においては大陸が地球の表面を移動するという大陸移動説はプレートテクトニクス理論で実証されていますが、今から100年ほど前は馬鹿げた理論として受け入れられませんでした。

 大航海時代末期に正確な世界地図が作られるようになると、一部の学者は大陸の形状から大昔は大陸と大陸がつながっていたのではないかと考えました。また世界中に散らばる化石の分布から昔はいくつかの大陸が大きなひとつの大陸だったと唱える学者もいました。しかし、これらの説では地球が収縮することによって陸地と海洋の様子が変わったり、地球が膨張することによって大陸間の距離が大きくなったと考えられました。それらの説はそれぞれ地球収縮説、地球膨張説と呼ばれますが、どちら説も大陸同士の相対的な位置関係が変化するもので大陸自身が移動するものではありませんでした。

 ドイツの気象学者アルフレート・ロータル・ウェーゲナーは大学で天文学を学んでいましたが極地探検に興味をもち気象学を学ぶようになりました。大学卒業後は兄の働く航空気象台に就職し、気球を用いた気象観測や探偵観測を行いました。1906年にデンマークの探検隊に参加し、グリーンランドを訪れ地図の作成や極地の気象観測を行いました。

 1910年、ウェーゲナーは世界地図を見て大西洋の両岸、アメリカ大陸の東海岸とアフラ大陸の西海岸の形がよく合致することに気がつきました。当初ウェーゲナーはこれを偶然の一致ぐらいにしか考えていませんでしたが、1911年になって古生物の化石の分布から南アメリカ大陸とアフリア大陸がつながっていたことを示す古生物学的証拠の存在を知り、大陸が移動したと考えるようになりました。そして1912年1月6日にドイツのフランクフルトで行われた地質学会で太古にアメリカ大陸とアフリカ大陸が移動したとする「大陸移動説」を唱えました。

 ウェーゲナーは世界で初めて「大陸移動」という言葉を使って自説を唱えましたが当時は地球収縮説が主流でした。大陸と海底は高度が異なるものの同じものであるから、海底の上を大陸自身が移動するはずがないというのが常識だったのです。ですから、ウェーゲナーの大陸移動説は非常識な異説とされ多くの学者に相手にされませんでした。

 1914年に第一次世界大戦が始まるとウェーゲナーは陸軍の気象調査を手がける部隊で働きました。このとき大陸移動説の研究を進め自身の考えを著書にまとめました。1915年に「大陸と海洋の起源」を発表し、測地学、地質学、地球物理学、古生物学、古気候学のデータを示しながら大西洋は古代には存在しておらずひとつの大きな大陸が分離移動して大西洋ができたとする「大陸移動説」を唱えました。しかしながら、ウェーゲナーの説は認められませんでした。ウェーゲナーは諦めずに調査を進め「大陸と太陽の起源」の第二版を1919年、第三版を1922年に出版しました。1929年に出版した第四版では現存する全ての大陸はもともと1つの大陸であったが、約2億年前に分裂して移動し、現在のようになったと唱えました。

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ウェーゲナーと大陸移動の図(「大陸と太陽の起源」第4版)

 ウェーゲナーの「大陸移動説」ではマントル対流に関する言及がありましたが、大陸がどうして動くのかについてまでは説明できていませんでした。また、化石の分布についてはかつて地続きになっていた部分が海中に沈んだと考えれば説明がつくと多数の地質学者から反論されました。ウェーゲナーの「大陸移動説」が認められることはなかったのです。

 1930年、ウェーゲナーは大陸移動説の有力な手がかりを見つけるために5度目のグリーンランド探検に向かいました。グリーンランドが西に移動していることを証明することができると考えたのです。1930年11月1日、ウェーゲナーは探査から基地に戻る途中で遭難し帰らぬ人となりました。この日はウェーゲナーの50歳の誕生日でした。

  ウェーゲナーの死後、マントル対流の研究が進み地球内部でのマントルの熱対流が大陸移動の原動力と考えられるようになりました。また地磁気の調査によって大陸が移動したことを裏付ける証拠が見つかり、ウェーゲナーの大陸移動説が高く評価されるようになりました。1960年代後半に地球の表面を覆ういくついかの固い岩盤が動くことによって地震や大陸移動が引き起こされるというプレートテクトニクス理論が提唱されたのです。

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2021年10月16日 (土)

【おもしろ映像】ツタンカーメンのケーキ

 2人の女性がケーキを作っています。どうやらツタンカーメンのケーキのようです。

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ツタンカーメンのケーキ

 ツタン・カーメンの墓は1922年11月4日にイギリスのエジプト考古学者のハワード・カーターによって発見されました。三千年以上の時を経て黄金のマスクをはじめとする副葬品が発掘され、古代エジプト第18王朝のファラオ、ツタン・カメーンの名前が世界中に知られるようになりました。

  ハワード・カーターがツタンカーメンの墓を発見(1922年11月4日)

 さて、ツタンカーメンのケーキがどのような出来栄え仕上がったのかはこちらの映像をご覧ください。

Time Lapse of Molly Meldrum's Cake!

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2021年6月18日 (金)

おにぎりの日(6月18日)

 いろいろな食べ物に「○○の日」が制定されていますが、日本の食文化を代表する「おにぎり」にも「おにぎりの日」が制定されています。

おにぎりの日(6月18日)
おにぎりの日(6月18日)

 「おにぎりの日」を制定したのは石川県鹿西町(現 中能登町)で、昭和62年(1987年)11月12日に同町にある弥生時代の遺跡「杉谷チャノバタケ遺跡」(石川県鹿島郡中能登町金丸)から「おにぎりの化石」が発見されたことに由来します。

 この「おにぎりの化石」は建物は炭化した米の塊で人間の指の跡が残っており、およそ2000年前に握られた日本最古のおにぎりと考えられています。ただし、普段私たちが食べている米を炊いた後に握ったおにぎりではなく、蒸した後に焼いたもので現在の粽(ちまき)のようなものでした。そのため、この「おのぎりの化石」は考古学的には「粽状炭化米塊(チマキ状炭化米塊)」と呼ばれています。

 さて、「おにぎりの化石」が発見されたのが11月12日なのに「おにぎりの日」が6月18日となったのはどうしてでしょうか。「おいぎりの化石」が発見された遺跡のある旧「鹿西町」は「ろくせいまち」と読みます。18日は「米」の字を分解すると「十」と「八」になることから「米食の日」とされています。「鹿西町」の6と「米食の日」の18を組み合わせた6月18日が「おにぎりの日」と定められました。

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2020年11月 4日 (水)

ハワード・カーターがツタンカーメンの墓を発見(1922年11月4日)

 古代エジプト第18王朝のファラオ、ツタン・カーメン。ツタン・カーメンが古代エジプトのファラオとして最も広く知られているのは、その墓が盗掘を受けずにほとんど無傷の状態で、黄金のマスクや財宝とともに発見されたからでしょう。

 ツタンカーメンの墓は古代エジプトの都市テーベ(現在のルクソール)のナイル川西岸の王家の谷にあります。古代エジプトでは日が沈む西の方角は死を象徴すると考えられ、そこに多くの墓が作られたのです。一方、日が昇る東の方角は生を象徴すると考えられ神殿が作られました。

 ツタン・カーメンの墓はイギリスのエジプト考古学者のハワード・カーターにより、今からおよそ100年前の1922年11月4日に発見されました。この発見により、ツタン・カメーンおよびハワード・カーターの名前が世界中に知られるようになりました。

ハワード・カーター
ハワード・カーター

 ところで、カーターが偶然にツタン・カーメンの墓を発見したと説明されることも多いのですが、カーターは決して一夜にしてツタン・カーメンの墓を発見したわけではありません。発見に至まで何度も王家の谷を訪れ長期間に渡って発掘作業をしていました。入念に事前の調査を行い、得られた情報から約3千年前の王家の谷の土地の様子を想像しながら、どこに墓が埋もれているのか考え、墓の位置を特定していく発掘作業を行っています。

 イギリスの貴族ジョージ・ハーバート(第5代カーナーヴォン伯爵)は古代エジプトの考古学に興味を持っていましたが、発掘を進めるためには専門家の協力が必要でした。カーナーヴォン伯爵が出会ったのがカーターでした。カーターはカーナーヴォン伯爵の資金援助を得ます。2人は1915年にエジプトの考古省から王家の谷の発掘許可を得て、発掘調査に着手しました。カーターは発掘を続けましたが、目新しい成果は得られませんでした。カーナーヴォン伯爵の資金援助も難しくなり、発掘調査の中止を検討していた矢先の1922年11月4日にツタンカーメンの墓へと導く階段を発見したのです。

 カーターの日記には11月4日の午前10時頃に階段が見つかったと記されています。もちろん、発見してすぐにその墓がツタンカーメンの墓とわかったわけではありません。日記の11月23日にカーナーヴォン伯爵が現地に到着し、11月24日(金)に墓の出入り口でツタンカーメンのヒエログリフのカルトゥーシュが識別できたと記載されています。11月25日(土)に最初のドアを開け、11月26日(日)に第二のドアを開けたとあります。まざまな財宝とツタンカーメンのカルトゥーシュを発見し、その奥にファラの墓があることを確信したと記しています。11月27日(月)には内部を照らすための電気設備が用意され、さらに詳しい調査が行われました。夢にも思わなかった光景を見た。想像を超えるオブジェクトの芸術の美しさと洗練さに驚愕した、圧倒的な印象だったと記しています。11月29日(水)には公式の公開セレモニーが行われています。

 1923年2月18日(日)、ツタンカーメンの埋葬室を開けるセレモニーがありました。このときベルギーの女王とその他のゲストが埋葬室の入り口を開けています。ところが、カーターとスタッフはこのセレモニーの準備で2月15日(木)ぐらいから入り口を開ける準備をしていたようで、翌16日(金)には入り口を開けていたようです。墓は25日(日)まで公開され、28日(水)に再び密閉されました。

 このときカーターはツタン・カーメンの石棺を開くことはできませんでした。重たい三重の石棺が開けられたのは最初の墓の発見から3年が経過した1925年10月28日のことでした。カーターはことときのことを次のように記しています。

 ピンが取り外され、蓋が持ち上げられた。究極の情景が現れた。非常に綺麗に包まれた若い王のミイラ。オシリスを象徴する悲しくて静かな表情の黄金のマスクをつけている。マスクは神の属性をもつが、ツタン・カーメンの生き写しだ。穏やかで美しい。彼の彫像や棺の上に見つけたものと同じ特徴である。マスクは少し後ろに下がっており、視線はまっすぐに天を見上げている。

 ツタンカーメンのマスクは1925年12月に棺から取り出され、それ以降はカイロにあるエジプト考古学博物館に保存されています。

 ツタンカーメンのマスクが最初に日本にやってきたのは1965年8月です。朝日新聞社と東京国立博物館主催の「ツタンカーメン展」が上野の国立博物館で開催されました。黄金のマスクをはじめ、ツタンカーメンの墓に埋葬されていた45点が展示されました。その後、京都市美術館、福岡県文化会館で展示されました。

 あれから47年後の2012年8月、再び上野の森博物館で「ツタンカーメン展」が開催されました。ツタンカーメンの黄金のマスクが再び日本にやってくることはありませんでしたが、1965年の展示品を含めた122点が展示され、古代エジプトを満喫するには十分な展示が行われました。冒頭の写真はこのときの土産品です(ゆるゆるのツタンカーメン展のお土産)。黄金のマスクの絵が入ったツタンラーメン麺というインスタントラーメンも販売されていました。

 ツタン・カーメンの調査は現在も続いています。3千3百年の時を経て、ツタン・カメーンが教えてくれるものはこれからもたくさん出てくるでしょう。


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