松本城が国宝に指定される(昭和11年 1936年4月20日)
松本城は戦国時代にの信濃守護家小笠原氏が松本市の里山辺に林城を築城しときにその支城「深志城」として築城されました。当時は深志城と呼ばれました。林城と深志城は甲斐国の武田信玄の信濃侵攻により天文19年(1550年)7月15日に落城しこの地は武田家の所領となりました。信玄は小笠原長時を追放して林城を破城し、重臣の馬場信治を深志城の城主とし信濃侵攻の足がかりとしました。
武田氏滅亡後は天正10年(1582年)に織田信長の許しを得て木曽義昌が城主となりました。同年「本能寺の変」で信長が暗殺されると上杉景勝に擁立された長時の弟の小笠原洞雪斎が深志城の城主となりました。しかし洞雪斎は上杉家の傀儡となったことから家臣からの信頼を失い、徳川家康の家臣となっていた長時の三男の小笠原貞慶が深志城を奪還しました。これによって小笠原家は大名に復帰し、貞慶は深志城を松本城と改名しました。
豊臣政権下では家康が豊臣秀吉により関東へ移封されたことから貞慶の子で松本城主の小笠原秀政も下総国古河へ移りました。松本城には家康のもとを出奔した石川数正が入城し城主となりました。数正は子の石川康長と松本城の天守、城郭、城下町を整備し、現在の松本城の基礎が築かれました。
江戸幕府では康長が大久保長安事件に関わったとして改易となり、小笠原秀政が再び松本城主となりました。その後、秀政は家督を子の小笠原忠脩に譲りましたが、忠脩は大坂の陣で戦死し、秀政も戦傷により死去しました。松本城には松平康長が入城し松本藩主となりましたが、子の松平庸直が播磨明石に移封されました。以降、松本藩は藩主がめまぐるしく変わりましたが享保10年(1725年)に松平康長の子孫が藩主となり幕末を迎えました。戊辰戦争では新政府軍に帰順しました。
明治5年(1872年)、天守が競売にかけられ松本城が解体されることになりましたが、地元の有力者の市川量造らが買い戻しました。明治30年(1897年)頃から天守閣が傾き始めると「松本天守閣天主保存会」が設立され寄付金により明治36年(1903年)から大正2年(1913年)にかけて「明治の大修理」が実施されました。
松本城は昭和5年(1930年)に 国の史跡に指定されました。そして昭和11年(1936年)4月20日に天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓が国宝保存法により国宝に指定されました。昭和27年(1952年)3月29日に文化財保護法の国宝に改めて指定されました。
第二次世界大戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の美術顧問チャールズ・ギャラガーが解体調査を文部省に勧告し、これによって昭和25年(1950年)から昭和30年(1955年)にかけて「昭和の大修理」が実施されました。
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