カテゴリー「歴史」の151件の記事

2024年5月30日 (木)

第18話「箱館政権樹立」|明日なき戦いの果てに

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 松前藩は大政奉還後は新政府に恭順を示す一方で奥羽越列藩同盟に加わり日和見していたが尊皇派の家臣たちが隆起し新政府側についた。旧幕府軍は降伏勧告に向かった使者が殺されたため土方歳三のもと彰義隊、額兵隊、衝鋒隊などが明治元年(1868年)11月5日に松前城を攻め落とした。このとき松前藩主と主力部隊は既に渡島国檜山郡館城に移動していた。

 続いて星恂太郎率いる額兵隊が先鋒となり江差攻略に向かった旧幕府海軍が15日に江差を占領していた。ところが同日の暴風波浪で開陽丸が江差で座礁し数日後に沈没、旧幕府軍は主力軍艦を失った。館城は松岡四郎次郎が率いる部隊などの攻撃で15日に落城、松前藩主らは熊石から弘前藩へ撤退した。旧幕府軍は蝦夷地を制圧した。

 旧幕府軍は様々な組織の残党の集まりで統制が難しい状況にあった。そこで米国政治体制などを参考に日本初の選挙となる公選入札を行うことになった。選挙の結果、武陽が総裁に選出され12月15日に箱館政権が樹立した。新政府は武陽の蝦夷地開拓と防衛の嘆願書を却下し箱館政権を認めなかった。開陽丸を失った箱館政権は制海権を確保できなくなり新政府軍が蝦夷地へ上陸を開始、函館戦争が開戦した。

箱館政権閣僚
箱館政権閣僚
前列左から荒井郁之助、榎本武揚
後列左から小杉雅之進、榎本対馬、林董、松岡磐吉

箱館政権首脳陣

総裁 榎本武揚

副総裁 松平太郎

海軍奉行 荒井郁之助

陸軍奉行 大鳥圭介

陸海裁判官 竹中重固、今井信郎

陸軍奉行並 土方歳三

箱館奉行 永井尚志 松前奉行 人見勝太郎

江差奉行 松岡四郎次郎 小杉雅之進

開拓奉行 澤太郎左衛門

会計奉行 榎本道章 川村録四郎 

海軍頭 松岡磐吉 海軍頭並 甲賀源吾 根津勢吉 小笠原賢蔵 古川節蔵 浅羽甲次郎

歩兵頭 本多幸七郎 古屋佐久左衛門 歩兵頭並 滝川充太郎 伊庭八郎 大川正次郎 松岡四郎次郎 春日左衛門 星恂太郎 天野新太郎 永井蠼伸斎

砲兵頭並 関広右衛門 中島三郎助

工兵頭並 吉沢勇四郎 小菅辰之助 

器械頭並 宮重一之助 渋沢成一郎

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2024年5月29日 (水)

第二次東禅寺事件(1862年5月29日)

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 文久元年(1861年)5月28日の第一次東禅寺事件が起きるとラザフォード・オールコックは江戸は政情不安と考え公使館を横浜に移しました。

 安政5年(1858年)に安政五カ国条約を締結した幕府は国内の経済や政治の状況から各国に対して新潟、兵庫および江戸、大坂の開港開市の延期を求めていました。オールコックは当初は要請を拒否していましたが幕府の置かれた状況を理解し、幕府が各国に派遣する文久遣欧使節を支援するため文久2年2月に離日しました。

 オールコックが帰国中に代理公使を務めたエドワード・セント・ジョン・ニールは英国公使館を横浜から東禅寺に戻しました。このとき英国大使館の警備は大垣藩、岸和田藩、松本藩が担当しましたが、松本藩の伊藤軍兵衛が警護の費用負担を強いられていることや外国人警護のために日本人同士が戦うことに不満に感じ公使を殺害すれば警護の必要がなくなると考えるようになりました。

エドワード・セント・ジョン・ニール
エドワード・セント・ジョン・ニール

文久2年(1862年)5月29日の夜中、軍兵衛はニール代理公使を殺害しようと公使館の寝室に侵入しようと試みましたがイギリス兵に発見されました。軍兵衛はイギリス兵を倒したものの負傷し逃走先で自刃しました。

 ロシア軍艦対馬占領事件や文久遣欧使節の派遣でイギリスの多大な協力を得ていた幕府は事態を深刻に捉えて公使館の警備責任者を処罰、松本藩主の松平光則には差控を命じました。その後、幕府とイギリスの間で賠償金の交渉が行われましたが紛糾してまとまらないうちに武蔵国橘樹郡生麦村(神奈川県横浜市鶴見区生麦)で薩摩藩が生麦事件を起こったのです。

 幕府が第二次東禅寺事件と生麦事件の賠償金を支払い事件は解決しましたが、イギリスは薩摩と直接交渉を行うため軍艦を派遣、これが幸英戦争に発展します。薩英戦争後の講和交渉でイギリスは薩摩藩を評価しお互い関係を深めていくことになり、薩摩藩はイギリスの協力を得て軍備を整えていきます。

【関連記事】

ロシア軍艦対馬占領事件(1861年2月3日)

文久遣欧使節がイギリスとロンドン覚書を調印(1862年5月9日)

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2024年5月28日 (火)

第一次東禅寺事件(1861年5月28日)

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 1858年の日英修好通商条約が締結により安政6年(1859年)6月2日に長崎、神奈川、箱館が開港されることになりました。このとき初代駐日総領事に就いたのが清など東アジアで外交の経験を積んでいたラザフォード・オールコックです。オールコックは同年5月3日に長崎に到着、日英修好通商条約の批准書交換を行うため江戸に向かい5月26日に品川沖に到着し高輪東禅寺に入りました。

ラザフォード・オールコック
ラザフォード・オールコック

 万延元年(1860年)10月15日、江戸城の近隣でマイケル・モース事件が起こりました。この対応のためオールコックは翌1861年に香港に赴きました。オールコックが長崎を経て江戸に戻ってきたのは文久元年(1861年)5月27日です。このとき幕府は警備上の問題からオールコックに対して海路で江戸に向かうよう要請しましたが、オールコックは条約の国内旅行権を主張し瀬戸内海を経て陸路で江戸へ向かいました。特に問題は起こらず無事に江戸に到着したオールコックは高輪東禅寺に置かれたイギリス公使館に入りました。

高輪東禅寺
高輪東禅寺

 オールコックが幕府の要請を断り陸路で移動したことについて外国人に神州日本がけがされたと激怒した水戸藩脱藩の有賀半弥をはじめとする14名の攘夷派浪士たちが同年5月28日午前10時頃にイギリス公使館を襲撃しました。イギリス公使館で警備の任についていた幕府の外国奉行配下の武士たちが攘夷派浪士に応戦しました。オールコックは無事でしたが一等書記官ローレンス・オリファントと長崎駐在領事ジョージ・モリソンが負傷しました。この事件で警備をしていた武士が2名、夷派浪士は有賀半弥他2名が死亡しました。

第一次東禅寺事件
第一次東禅寺事件

 オールコックはこの事件について幕府に対し厳重に抗議し、イギリス水兵の公使館駐屯とイギリス軍艦の横浜常駐を認めさせました。幕府が警備兵を増強し1万ドルの賠償金を支払いうことで事件は解決しました。この交渉に基づいて品川の御殿山で建設が始められた公使館は文久2年(1863年)12月12日に攘夷派志士たちによって焼き討ちされています。これは英国公使館焼き討ち事件と呼ばれますが焼き討ちを首謀したのは高杉晋作でした。

 

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2024年5月27日 (月)

東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドルが浦賀に来航(1846年5月27日)

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 弘化3年(1846年)閏5月27日、浦賀沖に2隻に軍艦が現れました。浦賀奉行と通詞の堀達之助が訪れると2隻の軍艦はアメリカ合衆国の東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドルが率いる戦列艦コロンバスとスループ・ビンセンスであることがわかりました。 ビドルは日本との通商条約締結の要望を伝えました。ビドルが締結を求めた条約はアヘン戦争後の1844年7月にアメリカ合衆国と清が結んだ望厦条約と同等なもので不平等なものでした。

浦賀に現れた戦列艦「コロンバス」と戦闘スループ「ビンセンス」
浦賀に現れた戦列艦「コロンバス」と戦闘スループ「ビンセンス」

 ビドルはもともと清に滞在中の公使に日本との外交交渉開始の指令書を届けにきたのですが、その指令書には公使が日本に行くことができない場合はビルド自身が日本に赴き交渉するように書かれていました。

 浦賀奉行の大久保因幡守は前日の26日に異国船の発見を江戸幕府に報告し指示を仰いでいましたが、幕府は条約締結を断り速やかに帰帆させるよう伝え海防を担う川越藩や忍藩に警護を命じました。やがて2隻の軍艦を多数の日本船が取り囲みました。幕府の使者が小舟でコロンバスに近づき公式な回答を伝えるためビドルに対して上陸を促しましたがビルドは自分の船に返書を持参するよう求めました。この交渉中に通訳のミスによる確認不足があり、ビルドは日本船で返書を受け取とるため小舟に乗って高官が乗船していそうな最も高級に見えた川越藩の船に近づき乗り移ろうとしました。川越藩の船にとってこのビルドの行動は想定外のことであり、船上の川越藩の兵がビルドを突き飛ばして小舟に押し戻しました。

東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドル
東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドル

 この川越藩の行動にビルドは激怒しましたが指令書に日本との交渉は穏便に進めるようにと書いてあったためことを荒立てずに謝罪と兵の処分のみを求めました。戦列艦コロンバスは多くの大砲を備えており兵隊も十分に訓練されたいたため一触即発の状態であることを認識した浦賀奉行や幕府の役人はビルドに謝罪し兵を処分することを約束しました。そしてビルドに対し日本はオランダ以外との通商を行わないこと、外交は長崎で行うため回航するよう伝えました。ビルドは交渉を中止し同年6月7日に浦賀を出港しましたが無風のため航行できず幕府の船が沖合まで曳航したそうです。

 この事件以降、幕府は異国船について軽率な行動は取らず穏便に対応することを徹底しました。アメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督率いる黒船艦隊が来港するのはこの事件から7年後の嘉永6年6月3日(1853年7月8日)のことです。

【関連記事】

イギリス船ブラザーズ号が浦賀に来港(1818年5月14日)

異国船打払令(1825年2月18日)

モリソン号事件と7人の日本人(1837年6月28日)

東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドルが浦賀に来航(1846年5月26日)

イギリス軍艦マリーナ号が浦賀で測量開始(1849年4月9日)

米国捕鯨船マンハッタン号が日本に寄港(1845年4月18日)

ジョン万次郎が帰国(1851年1月3日)

黒船来航(1853年7月8日旧暦6月3日)

ペリー上陸記念日(1853年7月14日)

マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)

ペリーが日本初の電信の公開実験を行う(1854年の2月24日)

黒船来航から箱館戦争まで関わった中島三郎助

函館とホタテ貝と黒船ペリー提督の関係

ペリー提督日本遠征記 (角川ソフィア文庫)

 

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2024年5月23日 (木)

第17話「蝦夷地をめざせ」|明日なき戦いの果てに

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 江戸を脱出した榎本艦隊は房総沖で暴風雨により離散したが慶応4年(1868年)8月下旬には仙台藩松島湾の浦戸諸島寒風沢島に投錨した。この暴風雨で咸臨丸と美賀保丸の2隻が失われた。東北戦争は既に新政府軍勝利で決着がつき奥羽越列藩同盟は崩壊、新政府は9月8日に明治に改元した。旧幕府軍志士は仙台藩軍議で再会を果たすも12日には仙台藩も降伏を決断した。榎本武陽と土方歳三は撤回を求めたが仙台藩は領地が戦場になると応じず榎本艦隊は出港準備を始めた。

 榎本艦隊には桑名藩松平定敬、大鳥圭介と伝習隊、土方歳三と新選組、古屋佐久左衛門と衝鋒隊、仙台藩の星恂太郎と額兵隊など約3千名が合流した。新政府軍が仙台に入城すると榎本艦隊は10月9日に仙台を離れた。このとき仙台藩の太江丸、鳳凰丸、千秋丸を艦隊に加えた。武陽は旧幕臣の救済策として蝦夷地の開拓とロシア侵略に備えるための防衛の必要性を説いた嘆願書を新政府軍に送り蝦夷地へ向かった。

 10月20日、榎本艦隊は内浦湾に面する鷲ノ木(森町)から蝦夷地に上陸、圭介の隊が七飯方面、歳三の隊が湯の川方面から箱館攻略に向かった。戦闘開始に先立ち交渉のため箱館府知事の清水谷公考に人見勝太郎と本田幸七郎の部隊を派遣したが箱館府軍の攻撃を受けたため交戦状態となった。

 旧幕府軍は箱館府軍を撃退しながら進軍、公考は五稜郭を放棄し青森へ退却した。26日、旧幕府軍は五稜郭を占領し榎本艦隊が箱館に入港、旧幕府軍の占領を知らずに箱館にやってきた秋田藩の軍艦の高雄丸(艦長は田島圭蔵)を拿捕し第二回天と改名し艦隊に加えた。

 武陽が五稜郭に入城したのは11月1日である。

箱館に向かう旧幕府軍の志士たち
箱館に向かう旧幕府軍の志士たち

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2024年5月17日 (金)

第16話「江戸脱出作戦」|明日なき戦いの果てに

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 旧幕府軍の抗戦派は江戸開城を前に新政府軍に対抗するため江戸を離れ始めた。抗戦派が離れることは平和的降伏を進める勝海舟にとって好都合だった。慶応4年(1868年)2月、伝習隊の一部が八王子に脱走。数日後、幕府軍歩兵2連隊が脱走、幕府陸軍歩兵差図役頭取の古屋佐久左衛門が衝鋒隊を結成した。近藤勇と土方歳三は新政府軍の東征阻止のため甲陽鎮撫隊と称し甲府城に向かったが勝沼で敗れて下総流山まで転戦するも勇は捕まり処刑された。庄内藩のもとで江戸を警備した新徴組は庄内に戻った。彰義隊の渋沢成一郎は慶喜の水戸移動に伴い江戸を離れようとしたが副頭取天野八郎の反発で暗殺されかけて離脱、彰義隊は上野戦争で壊滅し残党は旧幕府軍に合流した。

 同年4月11日の江戸開城後、それまで立場上動けなかった志士たちも江戸から脱出し始めた。大鳥圭介は同日に伝習隊本隊を率いて江戸から脱出し東北に向かった。このとき陸軍奉行並の松平太郎、歳三と島田魁らが合流している。旧幕府海軍を掌握していた海軍副総裁の榎本武陽は抗戦を主張したが慶喜は取り合わなかった。

 新政府軍が江戸開城の降伏条件の1つである旧幕府海軍艦隊の引き渡しを要求すると、武陽は悪天候を理由に艦隊8隻で品川から離脱した。これに人見勝太郎や伊庭八郎が率いる遊撃隊が同行している。その後、武陽は海舟の説得で4隻を新政府軍に引き渡したが開陽丸など主力艦は確保した。武陽は江戸脱走作戦を進め徳川家が8月15日に駿府に移ると、19日に開陽丸、回天丸、蟠竜丸、千代田形、神速丸、美賀保丸、咸臨丸、長鯨丸の8隻の艦隊を率いて江戸を脱出し奥羽越列藩同盟の支援のため東北に向かった。

品川沖から脱走する榎本艦隊
品川沖から脱走する榎本艦隊

 榎本艦隊には永井尚志、松平太郎、成一郎、彰義隊や遊撃隊の残党、フランス軍事顧問団から離脱したジュール・ブリュネやアンドレ・カズヌーヴなど約2,000名の様々な面々が同行した。

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2024年5月16日 (木)

ローマ教皇がジャンヌ・ダルクを列聖(1920年5月16日)

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 ジャンヌ・ダルクは1412年頃にフランス東部のドンレミ村(現ドンレミ=ラ=ピュセル)の農家のジャック・ダルクとイザベル・ロメのの娘として生まれました。ジャンヌの生年が1412年頃とされているのは後の異端審問で本人の19歳ぐらいという証言に基づいています。

 ジャンスは13歳の頃(1425年頃)に大天使ミカエル、聖人アレクサンドリアのカタリナ、聖人アンティオキアのマルガリタのが現れイングランド軍を駆逐して王太子シャルルをフランス王位に就かせよという「神の声」を聴き、3人が姿を消すとあまりの美しさに泣き崩れたと証言しています。ジャンヌは17歳の頃(1429年頃)にフランス王太子シャルル7世のもとに向かいました。シャルル7世に謁見したジャンヌは神のお告げによるフランスを救う使命を伝え軍人となることを許可されました。

ジャンヌ・ダルクの彩画(1900年頃)
ジャンヌ・ダルクの彩画(1900年頃)

 シャルルは7世はイングランド軍に支配されていたオルレアンにジャンヌを派遣しました。ジャンヌの指揮により劣勢だったフランス軍は勝利を重ね、1429年5月8日にオルレアンを奪還し百年戦争の戦局に大きな影響を与えました。1429年7月、フランス王シャルル7世の戴冠式を執り行われ、ジャンヌは「神の使い」として国民から英雄視されました。

 その後もフランス軍はイングランド軍に占領されていた領土を取り戻したがやがて戦争は膠着状態となりランスとイングランドとの間で休戦協定が結ばれました。この休戦協定はすぐに失効し、ジャンヌは1930年5月にコンピエーニュ包囲戦の援軍として派遣されました。ジャンヌはブルゴーニュ公国軍を攻撃しましたがブルゴーニュ公国軍の援軍が到着したことから撤退を余儀なくされました。ジャンヌは自らが殿となって戦いましたが退路を断たれ矢を撃たれ馬から転がり落ちました。そしてブルゴーニュ公国軍部将リニー伯ジャン2世に捕らえられ捕虜となりました。当時は捕虜は身代金の支払いで身柄の引き渡しをするのが一般的でしたがシャルル7世はイングランドとの和平を重視しジャンヌを見捨てました。ジャンヌは何度か脱走を試みましたが失敗しました。

 イングランドはブルゴーニュ公フィリップ3世とリニー伯ジャン2世と交渉し、リニー伯に身代金を支払ってジャンヌの身柄を引き取りました。この交渉で重要な働きをしたのがフランス人司教ピエール・コーションでしたがこの人物はイングランドを支持していました。12月にジャンルがイングランドに連行されると、ピエール・コーションはジャンヌを異端審問にかけました。

 ジャンヌの異端審問は政治的なものでした。ジャンヌの影響力とシャルル7世への支持がイングランドとブルゴーニュ派フランス人にとって都合の悪いものだったのです。ジャンヌは物的証拠も法的根拠もなく異端審問裁判にかけられ有罪とされたのです。

 ジャンヌが有罪となった理由のひとつはジャンヌの神の声を直接聞いたという主張です。当時は神の言葉はラテン語であり神学を学んだ聖職者のみが伝えることができるとされていました。聖職者でもなくラテン語の教育を受けていないジャンルの主張は虚偽であり教義に反すると見なされました。もうひとつの理由はジャンヌが男装していたことです。ジャンヌは甲冑にズボンを着用していましたがこれが性別を変える行為であり教義に反すると見なされたのです。

 このような理由でジャンヌは異端として有罪となり死刑判決を受けましたがジャンヌは自身の信念を変えることはありませんでした。1431年5月30日、ジャンヌはルーアンのヴィエ・マルシェ広場で高い柱に縛り付けられ火刑が執行されました。ジャンヌは修道士に十字架を掲げるよう懇願し、イギリス人兵士がジャンルの十字架を掲げてジャンルに見えるようにしました。命が尽きるまでイエスの名前を叫んだと伝えられています。こうしてジャンヌは19歳でその生涯を終えたのです。

 ジャンヌの死後も百年戦争は続き22年後の1453年まで続きました。百年戦争がフランス勝利で集結するとジャンルの有罪判決の正当性と教会法に従って裁判が進められたかをローマ教皇カリストゥス3世の命で調査することになり、1455年11月7日にジャンヌ・ダルク復権裁判が始まりました。多くの人々の証言により1456年6月にジャンヌは殉教者であることが認められ、フランス人司教ピエール・コーションはジャンヌの裁判について無実の女性が有罪判決を受け異端者として破門され処刑されたと結論付けました。ジャンヌの死から25年後の1456年7月7日、ジャンヌ・ダルクの復権が宣言されました。

 1869年、フランスのオルレアンの司教フェリックス・デュパンルーがジャンヌの列聖を申請したことがきっかけでジャンヌの列聖の声が高まりましたが実際に動き出したのは20世紀に入ってからです。1904年1月8日、ローマ教皇ピウス10世はジャンヌを尊者と宣言、1909年1月24日にローマ教皇庁はジャンヌを列福し1909年4月18日に列福式を行いました。そして1920年5月16日、ローマ教皇ベネディクトゥス15世によりジャンヌの列聖式が行われ、ジャンヌ・ダルクはカトリック教会の聖人に列聖されました。

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2024年5月15日 (水)

新政府軍が彰義隊に宣戦布告で上野戦争勃発(1868年5月15日)

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 慶応4年(1868年)1月6日、鳥羽・伏見の戦いで徳川軍の敗戦が決定的になると朝敵とされることを恐れた慶喜は大阪城を脱出し江戸に戻り朝廷に恭順することを決めた。慶喜は同年1月12日に江戸城に戻り抗戦派の小栗忠順、松平容保、松平定敬などを抑え朝廷への恭順を固辞し、事態収拾を勝海舟と大久保一翁に任せ自らは2月12日に上野の寛永寺大慈院で謹慎した。

 2月23日、将軍慶喜を警護する名目で抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎が頭取、天野八郎が副頭取となって彰義隊を結成した。幕府の恭順派は彰義隊の結成を認め慶喜警護の他に江戸市中の警備を命じ彰義隊が新政府軍と衝突しないよう懐柔をはかった。江戸の町を警護する彰義隊は市民からの評判は良かったが、新政府軍が江戸に向かって進軍を開始すると事態は変わった。

 海舟と新政府軍東征大総督府参謀の薩摩藩の西郷隆盛の会談により慶喜の水戸謹慎と江戸開城が決まると江戸の町への総攻撃は回避された。慶喜が水戸に移動すると彰義隊は寛永寺貫主の日光輪王寺門跡(輪王寺宮)の公現入道親王の元で徳川将軍家霊廟守護を名目として寛永寺に留まりました。まもなく各地から佐幕派の脱藩兵が集まり出すと、海舟は江戸での武力衝突を避けるため彰義隊に解散を要求しました。頭取の成一郎は彰義隊を上野から日光へ移動することを決めたが副頭取の八郎が強硬に反対した。八郎の隊士らにより暗殺されそうになった成一郎が彰義隊を離れると、彰義隊は上野で新政府軍に徹底抗戦することを決めた。

 慶応4年5月14日に大総督府は寛永寺の旧幕府軍を討伐することを決定、恭順派の徳川家臣らに寛永寺から徳川家の所蔵物を持ち出すよう命じ、輪王寺宮には寛永寺からの退去を促した。徳川家臣らは新政府軍に彰義隊に解散を説得するので開戦を遅らせるよう求めたが新政府軍はこれに応じず5月15日に宣戦布告を行った。上野戦争における新政府軍の指揮は長州藩の大村益次郎が担当した。益次郎は旧幕府軍を全滅させる考えで隆盛が「皆殺しにするのか」と尋ねるとあっさりと「そうです」と答えたと伝えられている。

渋沢成一郎、天野八郎、大村益次郎
渋沢成一郎、天野八郎、大村益次郎

 新政府軍の圧倒的な攻撃で午後5時頃には勝敗が決まり彰義隊は壊滅した。上野彰義隊事件の戦況は中外新聞が「別段中外新聞」で報道していますがこれが日本初の新聞の号外となりました。次の錦絵は歌川芳盛が「本能寺合戦之図」ですが実際は上野戦争を描いたものです。 歌川芳盛が本能寺合戦の名を借りて上野戦争を描いた錦絵とされています。

本能寺合戦之図(歌川芳盛)実際は上野戦争を描いたもの
本能寺合戦之図(歌川芳盛)実際は上野戦争を描いたもの

 彰義隊の残党は輪王寺宮と潜伏し榎本武揚の艦隊で平潟港(茨城県北茨城市)に落ち延びた。春日左衛門が率いる陸軍隊などはいわき方面、その他の隊士は会津へ向かった。こうして戊辰戦争は東北戦争へと進んでいった。

 彰義隊を率いた天野八郎は市中に潜んでいたところを密告されて捕らえられた。40人ほどの部隊を率いて突撃しようと後ろを見たら誰もいなかったと獄中で書き記している。5ヶ月後に獄中で病死した。彰義隊の頭取だった渋沢成一郎は榎本武揚が艦隊を率いて江戸を脱出したときに同行し箱館戦争まで参戦した。

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2024年5月14日 (火)

イギリス船ブラザーズ号が浦賀に来港(1818年5月14日)

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 文政元年(1818)5月14日、イギリスのピーター・ゴードン艦長が率いる商船ブラザース号が浦賀に現れました。ブラザーズ号は江戸時代後期に江戸湾に初めて来航した異国船です。この地域の海防を担っていた浦賀奉行と会津藩は多数の船を出しブラザーズ号を取り囲みました。

 江戸幕府が通訳を派遣しブラザーズ号の目的を確認するとゴードン船長は江戸での交易を要求しました。ブラザーズ号はアジア・太平洋の港に寄港しながら交易を行う商船で江戸に立ち寄ったのです。

 ブラザーズ号の来航の報告を受けた浦賀奉行、幕府代官の大貫次右衛門、通訳の天文方の馬場左十郎、足立左内様などが17日に到着し、翌18日からゴードン船長と会見しました。19日に現行法では交易ができないことを伝えるとゴードンは示威行動を起こすこともなく了承しました。幕府側は没収した武器などを全て返却、ブラザーズ号は21日に出帆しました。

 ブラザーズ号の来港では特に大きな問題は起こりませんでしたが江戸湾への異国船の出現はその後の日本の外国政策に大きな影響を与えることになりました。その後も度重なる異国船が現れると幕府は海防を強化する目的で文政八年(1825年)2月18日に外国船を閉め出すための異国船打払令(無二念打払令)を発令しました。当面は攘夷論が主流でしたが嘉永6年(1853年)に米国のマシュー・ペリー提督の黒船来港により江戸幕府は開国か攘夷かを迫られることになり幕政は混乱していったのです。

 ブラザーズ号の来航については横浜開港資料館館報「開港のひろば」152号に企画展『七つの海を越えて「鎖国」下の日本とイギリス』の展示談話として詳しい解説が掲載されています。

 「開港のひろば」はとても勉強になります。バックナンバーも読むことができます。

 

【関連記事】イギリス船ブラザーズ号が浦賀に来港(1818年5月14日)

異国船打払令(1825年2月18日)

モリソン号事件と7人の日本人(1837年6月28日)

イギリス軍艦マリーナ号が浦賀で測量開始(1849年4月9日)

米国捕鯨船マンハッタン号が日本に寄港(1845年4月18日)

ジョン万次郎が帰国(1851年1月3日)

黒船来航(1853年7月8日旧暦6月3日)

ペリー上陸記念日(1853年7月14日)

マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)

ペリーが日本初の電信の公開実験を行う(1854年の2月24日)

黒船来航から箱館戦争まで関わった中島三郎助

函館とホタテ貝と黒船ペリー提督の関係

ペリー提督日本遠征記 (角川ソフィア文庫)

 

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2024年5月11日 (土)

織田信長が安土城に移居(1579年5月11日)

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 天正4年(1576年)1月、織田信長は天下布武の拠点として岐阜の稲葉山より京都に近く水運を活用できる琵琶湖沿岸の標高199メートルの安土山を選び、重臣の丹羽長秀を総普請奉行に任じこの地に安土城の築城を命じました。この地は北陸から京都へ向かう北陸街道の要衝にもなるため越前や加賀の一向一揆や上杉謙信への対策にもなったとされています。

 安土城は六角氏の観音寺城を参考に石垣で普請され、石垣の上に天守のある初めての城となりました。安土城の築城技術を使った城が江戸時代までに全国各地で築城されました。その背景には安土城の普請を手がけた石垣職人集団「穴太衆」の存在がありました。

 安土城は地下1階地上6階建てで天主の高さは約32メートルもありました。その姿はかつての城とは異なり天下布武を人々に知らしめる独創的かつ豪華なものでした。大手門からの道は直線で幅が6メートルもあり、城としては防御設備も十分ではありませんでした。安土城は軍事用の城としてではなく政治や経済の拠点として作られたと考えられます。本丸の御殿は清涼殿とよく似ており天皇を迎えるための施設だったという説もあります。 

安土城図
安土城図

 安土城が完成し織田信長が正式に天守に移ったのは天正7年(1579年)5月11日の吉日です。織田信長は天守で生活し、家族は本丸付近、家臣は山腹の武家屋敷もしくは城下町の屋敷で生活しました。

 明智光秀が饗応役を命じられた徳川家康の接待は天正10年(1582年)5月15日に安土城で執り行われました。 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変が起こったときには安土城には留守居役として蒲生賢秀が在城していましたが、明智光秀に占領される前に蒲生賢秀・氏郷父子が本拠地の日野城に信長妻子などを退去させました。

 山崎の戦いで光秀が敗れると安土城で原因不明の出火が起こり豪華な天主と本丸が焼失しましたが、本能寺の変の後も織田氏の居城として使われました。清洲会議の後には織田信長の嫡孫で織田信忠の嫡男の秀信(三法師)が居城としています。

 豊臣秀吉が天下を統一すると秀吉養子の豊臣秀次の八幡山城を築城するため安土城は天正13年(1585年)に廃城とされました。八幡山城の建設資材には安土城のものが流用されました。安土城は現在は石垣などの遺構を残すのみです。安土城がどのような姿をしていて城下町がどのような暮らしぶりであったのかは宣教師ルイス・フロイスが書き記しています。

[完成品] 安土城 アクリルケース付き 日本の名城 よみがえる 織田信長、お城 模型 ジオラマ完成品 B4

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