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榎本艦隊が品川沖を脱出
奥羽越列藩同盟から援軍の要請を受けた榎本武揚は直ちに行動を起こすことはできなかった。徳川家の駿府移封が完了するまでは動けなかったのである。徳川慶喜と徳川家の家督を継いだ徳川家達の駿府移封を見届けた武揚は慶応4年(1868年)8月19日に「開陽」を旗艦とする軍艦「蟠竜」「回天」「千代田形」と輸送艦「咸臨丸」「長鯨丸」「神速丸」「美賀保丸」からなる艦隊を率いて品川沖を脱出し奥羽越列藩同盟を支援するため仙台へと向かった。武揚と行動をともにしたのは元若年寄の永井尚志、陸軍奉行並の松平太郎、彰義隊、遊撃隊の旧幕臣たち、さらにフランス軍事顧問団として来日したジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など総勢2000人であった。

榎本艦隊(品川沖 慶應4年1868年8月18日)
最終的な目的地として蝦夷地をめざしていた武揚は明治政府宛の下記の檄文と「蝦夷地開拓」など旧幕府軍が蝦夷地を目指す目的を説明した徳川家臣大挙告文を勝海舟に託しています。
檄文
王政日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。然るに当今の政体、其名は公明正大なりと雖も、其実は然らず。王兵の東下するや、我が老寡君を誣ふるに朝敵の汚名を以てす。其処置既に甚しきに、遂に其城地を没収し、其倉庫を領収し、祖先の墳墓を棄てゝ祭らしめず、旧臣の采邑は頓に官有と為し、遂に我藩士をして居宅をさへ保つ事能わざらしむ。又甚しからずや。これ一に強藩の私意に出て、真正の王政に非ず。我輩泣いて之を帝閽に訴へんとすれば、言語梗塞して情実通ぜず。故に此地を去り長く皇国の為に一和の基業を開かんとす。それ闔国士民の綱常を維持し、数百年怠惰の弊風を一洗し、其意気を鼓舞し、皇国をして四海万国と比肩抗行せしめん事、唯此一挙に在り。 之れ我輩敢て自ら任ずる所なり。廟堂在位の君子も、水辺林下の隠士も、荀も世道人心に志ある者は、此言を聞け。
現代訳(MS Copilot)
檄文
王政復古によって国が新しく生まれ変わることは、我々にとっても望ましいことであり、私自身もそれを願っている。 しかし、現在の政治体制は、表向きは公正で立派に見えるものの、実際にはそうではない。 王の軍が東へ進軍した際、我が藩の老君主を「朝敵(国家の敵)」と誹謗し、名誉を汚した。 その処置はすでに過酷であったが、さらに城を没収し、倉庫を取り上げ、祖先の墓を放置して供養もさせず、旧臣の領地はすべて官有地とされ、ついには藩士たちが自宅すら守れない状況に追い込まれた。 これほどの仕打ちがあるだろうか。 これはすべて、強大な藩の私利私欲によるものであり、真の王政とは言えない。我々が涙ながらにこの不条理を朝廷に訴えようとしても、言葉は遮られ、真実は伝わらない。 だからこそ、私はこの地を離れ、皇国のために新たな秩序の基盤を築こうと決意した。 それは、全国の士民が道徳と規律を守り、数百年にわたる怠惰の風習を一掃し、志を奮い立たせ、皇国が世界の国々と肩を並べて進むための、ただ一度の行動なのだ。これこそ、私が自らの責任として引き受ける覚悟である。 朝廷に仕える高官も、自然の中に隠棲する賢者も、そして世の中の道と人の心に志を持つ者は、どうかこの言葉に耳を傾けてほしい。
榎本艦隊が銚子沖で台風に遭遇
榎本艦隊は就航数日後に銚子沖で台風に遭遇した。暴風波浪の損傷を受けた「咸臨丸」と「幡龍丸」は清水港に入港し、「美賀保丸」は銚子の犬吠埼の黒生海岸に漂着した。「幡龍丸」は「咸臨丸」より先に清水港を出港し仙台に向かいましたが、修理に手間取った「咸臨丸」は新政府軍に攻撃され拿捕された。「美賀保丸」は座礁して沈没し乗組員の多くは新政府軍に投降した。その中には伊庭八郎もいた。八郎は無念のあまり自決しようとしたが説得され横浜の旧幕臣の尺振八宅で数ヶ月潜伏した。振八の支援でアメリカ船で蝦夷地に向かい旧幕府軍と箱館で合流を果たしている。

伊庭八郎
土方歳三も仙台に向かう
これより4ヶ月ほど前、宇都宮城の戦いで足の指に被弾し負傷した土方歳三は日光街道の宿場町の今市に搬送されたが傷が深く治療のため会津へと移送された。会津へ旅立つ朝、歳三は日光東照宮を守る八王子千人隊の隊士で幼馴染みの土方勇太郎と面会した。歳三は勇太郎に宇都宮戦争の戦況を伝え、乱戦の中で逃げようとした一兵卒を斬り捨てたことを悔やみ涙して勇太郎に金を渡し供養を頼んだと伝えられている。
新選組局長の近藤勇が斬首されたのは歳三が今市を立った翌日の 慶応4年(1868年)4月25日のことです。歳三が勇の死を知ったのは会津に到着した後のことである。歳三は流山で勇に投降をすすめるべきではなく切腹させるべきだったと悔やみ苛立った日々が続いた。仲間が一人一人と失われていく中で歳三は断腸の思いをしていたが負傷で戦えない身ではなす術はなかったのである。

土方歳三の写真(田本研造撮影)
会津では新選組は派斎藤一が山口二郎と称して指揮を執っていました。新政府軍は京都守護職だった松平容保の会津藩を目の敵にしており総攻撃を仕掛けました。これによって奥羽列藩同盟は劣勢となった。歳三が戦線に復帰したのは同年7月初めであるが、会津藩ならびに旧幕府軍は兵力および武器ともに圧倒的勢力の新政府軍を前に苦戦を強いられた。歳三は新選組を大鳥圭介に預け自らは援軍の要請のため米沢藩に向かった。庄内藩にも援軍の要請に向かうつもりだったが庄内藩が降伏したため会津方面へと脱出した。このとき榎本艦隊が仙台に入港したことを知った歳三は会津を通り越して仙台に向かったのである。
榎本武揚らが仙台城に登城
同年8月下旬、台風で離散した榎本艦隊は港町として栄えていた寒風沢島に到着した。同年9月2日、武揚、ブリュネらは仙台城に登城し伊達慶邦に謁見した。同年9月3日、武揚らは奥羽越列藩同盟の軍議に参加したがその中には歳三の姿もあった。武揚は軍議で奥羽の地と軍勢をもってすれば何も恐れることはないと主張し、奥羽の軍勢を統率する総督として土方歳三の他にはいないと歳三を推薦したのである。これに奥羽越列藩同盟の諸侯も賛成した。
武揚の推薦に歳三は死を覚悟して受ける所存と了承したが奥羽越列藩同盟の諸侯に条件を出した。歳三は宇都宮で斬り捨てた兵士のことを忘れていなかった。同盟と言えども諸藩の統率が取れていないために負けた戦を見てきた歳三は統率を強めるため軍令に逆らうものは斬り捨てることを了承するよう迫ったのである。歳三が新選組で厳しく守ってきた局中法度を改めて重視したのであろう。

新選組の局中法度
しかしながら時は遅すぎた。奥羽越列藩同盟は新政府軍の攻撃により既に壊滅状態にあったのである。
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