カテゴリー「歴史」の13件の記事

2021年3月 1日 (月)

アンリ・ベクレルが放射線を発見(1896年3月1日)

 ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンがエックス線を発見したのは1895年のことでした(夜明け前「エックス線の発見(1895年11月8日)」)。レントゲンの論文を読んだフランスの物理学者アンリ・ベクレルはエックス線が蛍光を生じるのであれば、蛍光物質もエックス線を生じるではないかと考え、蛍光物質とエックス線の関係を調べる実験に着手しました。

 1896年2月、ベクレルは強い隣光を出すウラン化合物を2枚の非常に厚い黒紙に包んで遮光した写真乾板の上におき数日間日光をあてたところ、写真乾板が感光していることを発見しました。そして、27日にフランス科学アカデミーにおいて、ウラン化合物から写真乾板を感光させるXエックス線のような光線が出ていることを報告しました。このとき、ベクレルはこの現象は日光やウラン化合物が出す燐光と関係があるのではないかと考えていました。

 ベクレルは追試のため前述と同じ写真乾板を準備しました。しかし、天候が悪い日が続いて実験が出来ないため、写真乾板を黒い紙で包み、紙の上にウラン化合物とマルタ十字の形をした文鎮を重しとして乗せて机の引き出しにしまっておきました。

 1896年3月1日、ベクレルは、この写真乾板にマルタ十字が写っていることを発見しました。このことから、ベクレルは写真乾板の感光には日光や燐光は関係しておらず、ウラン化合物から出たエックス線と似た光線によるものと考えました。そして、その光線について、エックス線の実験のような特別な装置を使っておらずウラン化合物自身から直接出ていることからエックス線とは違うものと考え、ベクレル線と名付けました。その後、この放射線はエックス線と同様に空気を電離することがわかりました。このウラン化合物は放射能を持つ放射性物質であり、ベクレル線とはウラン化合物から出ている放射線だったのです。

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ベクレルとウラン化合物で感光した写真乾板(下側にマルタ十字)

 キューリー夫妻がラジウムを発見したのは、このベクレルの発表に関心を持ちベクレル線を出す物質の研究を続けた成果とされています。その後も放射性物質の研究を続けたベクレルは、キューリー夫妻とともに1903年ノーベル賞を受賞しています。

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2021年2月28日 (日)

ビスケットの日(2月28日)

 2月28日は「ビスケットの日」です。昭和55年(1980年)に全国ビスケット協会が、ビスケットのゆかりの人物「柴田方庵」の業績から制定しました。

 江戸時代の蘭学者・医師の柴田方庵は寛政12年(1800年)に常陸国で生まれ、14才に江戸に出て儒学と医学を学びました。天保2年(1831年)に長崎へ出て、シーボルトの門弟やオランダ軍医オットー・モーニッケのもとで西洋医学を学びます。モーニッケは牛痘の接種を方庵に指導しました。方庵は日本で初めて牛痘の接種を行った1人となり、各地で牛痘の接種を行い普及に努めました。

 方庵は長崎で医業を行う傍で御目見得格として長崎や海外の情報を水戸藩に伝えていました。水戸藩の萩信之助は西洋の「パン・ビスコイト」の製造方法を習得して報告するよう方庵に依頼しました。「ビスコイト」はオランダ語でビスケットのことです。

 方庵はオランダ人の職人から「パン・ビスコイト」の製法を学びました。そして、安政2年(1855年)2月28日(旧暦)に「パン・ビスコイト」の製法を書いた手紙を水戸藩に送りました。この日を記念してビスケットの日は2月8日とされました。

 また、ビスケットの語源はラテン語で2度焼かれたものを意味することから、二(2)度、焼(8)かれたものという語呂合わせも記念日制定の由来に加えられました。旧暦の2月28日は新暦では4月14日ですので、語呂合わせから旧暦2月8日を選んだのではないかと思います。

 なぜ水戸藩は「パン・ビスコイト」の製法が必要だったのでしょうか。「パン・ビスコイト」は西欧の保存食で兵糧になると考えたようです。当時の水戸藩は第九代藩主の徳川慶篤(とくがわよしあつ)の時代でした。父の徳川斉昭(とくがわ なりあき)は将軍徳川慶喜の実父ですが、軍事訓練を進め鉄砲の一斉射撃を行ったり、仏教弾圧の罪を行ったりしたことを幕府に問われて1844年に隠居させられ家督を慶篤に譲ります。

 その後、斉昭は藩政に復帰しますが、嘉永6年(1853年)にペリーの艦隊が浦賀に来航すると、開国に反対する攘夷論を主張します。後年、開国論を主張する井伊直弼と対立し、政争で負けてしまいます。

 安政5年(1858年)、大老となった直弼は日米修好通商条約を勅許することなく独断に調印しました。また、このとき斉昭は第十四代将軍として実子の慶喜を推挙していましたが、直弼は自分が推挙していた徳川家茂を第十四代将軍に就任させました。このことに対して斉昭は同年に賛同する尾張藩主と福井藩主と共に直弼を詰問しましたが、逆に江戸城に無断で登城した責任を追求され水戸屋敷での謹慎を命じられます。

 直弼の日米修好通商条約の調印は無勅許だったため、孝明天皇は水戸藩に幕政改革を命じる勅書を下賜しました。これを「戊午の密勅」と言いますが、直弼は将軍と江戸幕府が蔑ろにされたとして「安政の大獄」の弾圧を開始し、これにより斉昭は水戸での永久蟄居を命じられました。このとき、慶篤も登城停止とされてしまいます。その後、尊王攘夷派が幕府の実験を握ったため、水戸藩は復権しますが、このように水戸藩は波乱万丈だったのです。

 こうした経緯がビスケットの製法を入手するきっかけになったのかどうかはわかりませんが、当初は開国を迫る米国との戦争、その後は内乱への対応のため保存できる兵糧を探し始め、ビスケットにたどりついたのではないでしょうか。薩摩藩は戊辰戦争の前に東京の風月堂へ乾パンを5000人分発注したそうです。水戸藩のビスケットの製法取得にも軍事的な理由があったことはあながち否定できません。
 
 ところで、ビスケットとクッキーはよく似ていますが、消費者への混乱を避けるため、不当景品類及び不当表示防止法でその違いが定義されています。詳しくはココログ 夜明け前 「クッキーとビスケットの違い」をご一読ください。

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2021年2月13日 (土)

苗字制定記念日(2月13日)

 2月13日は苗字制定記念日です。この記念日は明治8年(1875年)2月13日にすべての国民に苗字を名乗ることを義務付けた平民苗字必称義務令が公布されたことに由来します。

 日本では江戸時代に幕府の命により公的に苗字を使用できるのは公家や武士などの支配階級の人たちに限られました。しかし、明治維新後に政府は旧来の身分制度を廃止し、公家・大名を華族、武士を士族、農民や町人などを平民として、天皇及びその一族以外は平等としました。そして、明治3年(1870年)9月19日に「平民苗字許可令」を布告し、平民に「苗字」を使用することを許可すると同時に「苗字」の使用を促しました。

 もともと多くの平民は先祖代々の「家名」を有していましたが、「苗字」を使用することによって税金を多くとられたり、徴兵されたりするなどの不利益が生じると考えた人も多く存在し、「苗字」の使用は政府の期待通りには進まなかったようです。そこで、政府は1875年(明治8年)に「苗字」の使用と登録を義務づける「平民苗字必称義務令」を公布するに至りました。多くの人は先祖代々の「家名」を苗字として登録したようですが、家名がわからない人は新しい「苗字」をつけました。また、これを機会に「苗字」を変えた人もいたようです。「平民苗字必称義務令」によって、苗字の種類がずいぶん増加したようです。このときに新たにできた「苗字」を「明治の新姓」といいます。日本人の「苗字」は同じ漢字でも読み方が違うものや同じ読み方でも漢字が異なるものも考慮すると約30万種類にもなるようです。

 さて「苗字制定記念日」は2月13日ですが、「平民苗字許可令」が布告された9月19日は「苗字の日」とされています。

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2021年1月 8日 (金)

「平成」の世が始まる(1989年1月8日)

 1989年1月7日(土)、この日は東北新幹線で帰省先から帰京した日です。当時、東北新幹線の下りの始発駅は盛岡駅でした。盛岡駅で特急を降り、東北新幹線のホームに立ったときに、目に入ったのが昭和天皇崩御を伝える電光掲示板の速報でした。お昼前ぐらいのことです。この日は朝日の出る前から移動を開始し、当時はスマホなどもありませんでしたので、移動中は昭和天皇の崩御を知る由もありませんでした。

 昭和天皇は1987年頃から体調を崩されていました。1988年9月に「天皇陛下ご重体」のニュースが流れると、日本全国が自粛ムードとなりました。年末にかけて連日のように天皇陛下の病状が血圧や脈拍とともにテロップで流されていました。そして、1989年1月7日午前6時33分に皇居吹上御所において崩御されました。宝算87歳でした。

 昭和天皇の崩御に伴い、明仁親王が皇位を継承し、第125代の天皇に即位しました。皇位継承により、1979年に施行された元号法に基づいて改元の政令が出され、当時の小渕官房長官が新しい元号は「平成」とし、1月8日をもって平成元年とすることを記者会見で発表しました。

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元号を発表する小渕官房長官(当時)
(後に平成おじさんと呼ばれた)

 ところで、元号はもともと大日本帝国憲法で定められていましたが、戦後の日本国憲法には元号に関する条文がなくなりました。そのため、元号は法的根拠がなく慣例として使われている状態でした。昭和天皇が75歳を迎えられた頃から、元号の行末に注目が集まるようになりました。1976年の世論調査では国民の多くが元号を使用していると回答しており、その結果を踏まえて1979年6月に「元号法」が成立し、12日に公布と施行がなされました。「昭和」の元号もこの法律で定められたことになっています。

 新しい元号を決めるあたり、1988年9月頃までに最終案として絞り込まれていたのが「平成」と「修文(しゅうぶん)」と「正化(せいか)」でした。昭和天皇が崩御した1989年1月7日に元号に関する有識者会議が開かれ、8人中5人が「平成」を支持したと言われています。また、「修文」と「正化」は頭文字のSが昭和と区別がつかなくなり、「平成」はHで据わりが良いという指摘があったようです。「平成」は東京大学名誉教授で東洋史学者の山本達郎氏が考案したものと言われています。

 「平成」の世は平成31年(2019年)4月30日まで続きました。平成は昭和の半分しかありませんでしたが、思い起こせば様々なことがありました。ベルリンの壁の崩壊、米ソの冷戦終結、湾岸戦争、バブル経済の崩壊と失われた10年、自民党の55年体制の崩壊、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、アメリカ同時多発テロ、イラク戦争、世界金融危機、東日本大震災・・・いろいろなことがありました。

 そして、平成はなんと言ってもテクノロジーが一段と進化した時代でもあります。今では当たり前の存在のインターネットや通信端末ですが、IT革命が人々の生活を大きく変えました。その他の技術革新もたくさんありました。

 平成の世が終わって令和と移り変わりました。新しい時代を迎えた矢先に新型コロナウイルスに直面してしまいました。再び緊急事態となり、たいへんな状況が続いていますが、何とか乗り越えて、この事件を歴史の1ページへと封印したいものです。

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2020年12月28日 (月)

シネマトグラフの日(1895年12月28日)

 シネマトグラフはフランスのオーギュスト・リュミエール、ルイ・リュミエールのリュミエール兄弟が1895年に発明した動画をスクリーンに映し出すことができる映写機です。リュミエール兄弟は1894年にシネマトグラフで世界初の映画「工場の出口」を制作し、試写会を行いました。

上映中のシネマトグラフと映画「工場の出口」
上映中のシネマトグラフと映画「工場の出口」

 そして、1895年12月28日にパリのサロン・ナンディアン(現ホテル・スクリーブ・パリ)で「工場の出口」を含む10本の映画が観客を集めて上映されました。これが世界初の映画の商業公開となりました。下記はドイツでの興業の際の宣伝ポスターです。

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ドイツのシネマトグラフのポスター

 シネマトグラフは日本には1897年にやってきました。同年2月15日に大阪で自動写真という名前で上映されました。自動写真の噂は瞬く間に広がり、連日の上映は人が並ぶほど大人気となりました。

 活動写真や映画がどのように開発されたのかについては、ブログ「光と色と THE NEXT」の「活動写真と映画の始まり|ゾエトロープからシネマトグラフへ」をご一読ください。

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2020年12月18日 (金)

上野公園の西郷隆盛像の除幕式(1898年12月18日)

 歴史の節目には必ず後世に名を残す英雄が存在します。明治維新の立役者の一人である西郷隆盛は江戸幕府を無血開城させ、新政府の要職に就きました。しかし、明治元年(1868年)に新政府の国書の接受を拒絶した李氏朝鮮との外交問題が生じました。李氏朝鮮に居留していた日本人の安全も脅かされ、日本は朝鮮から撤退するか、武力で李氏朝鮮に修好条約を結ぶよう求めるかを決断する必要に迫られました。

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床次正精作西郷隆盛肖像(1887年 明治20年)

 この外交問題に対して、板垣退助は派兵した上で使節を派遣することを主張しましたが、西郷隆盛は派兵はせずに自身が使節として赴くことを主張しました。この対立について太政大臣の三条実美は兵を伴わずに李氏朝鮮に赴けば殺害される可能性が高いと考え、西郷隆盛の主張に反対しました。

 西郷隆盛は自身が殺害されることは承知の上で、使節が殺害されれば派兵の理由が立つと考えたようです。しかし、三条らは、西郷隆盛を失ってまで対応するような外交問題ではないと考えたのです。西郷隆盛は考えを改めず、これがきっかけで内部対立を起こしました。明治6年(1873年)、西郷隆盛は新政府の要職を外れて下野し、鹿児島に戻りました。内部対立と言っても、西郷隆盛の頑なな性格によるものであることは誰もが理解していました。 

 下野した西郷隆盛は多くの時間を自宅で過ごし、猟をしたり、温泉で休養したりしていました。やがて、西郷隆盛に同調した血気盛んな者たちが鹿児島に集まり、若者たちがその影響を受けはじめます。そこで、明治7年(1874年)に彼らを指導する私学校が西郷隆盛と県令の大山綱良の協力により作られることになりました。銃隊学校、砲隊学校、幼年学校から成る軍事色の強い学校でした。

 西郷隆盛の影響を受けた私学校は勢力を伸ばし、私学校の関係者の多くが鹿児島県の要職を占めるようになりました。西郷隆盛は私学校で自ら教えることはなく相変わらず多くの時間を自宅で過ごしていました。やがて私学校は西郷隆盛の意志とは関係なく、反政府的な組織となり、鹿児島県は私学校に支配された独立国の様相を呈してきました。

 西郷隆盛のかつての盟友であった大久保利通はこの状態を憂慮し表向きは帰省ということで、西郷隆盛と私学校の動向を探る目的で薩摩出身の警察官23名を鹿児島県に派遣します。また、明治10年(1876年)1月、政府が鹿児島県の陸軍の火薬庫から弾薬を移動すると、私学校はこれに反発して火薬庫を襲い弾薬を奪いました。この事件を聞いた西郷隆盛は、私学校に対する厳しい処分をする口実を政府に与えることになったと洩らしました。一方の私学校は大久保利通が送り込んだ警察官を捕らえて、拷問によって西郷隆盛を刺殺しにきたことを白状させます。これらのことに激怒した私学校は政府に対して挙兵するべきという結論に達し、西郷隆盛の考えを聞くことにしました。西郷隆盛は、何も述べることはない、お前たちの思うようにするようにと、「この体はお前さあたちに差し上げもんそ」と答えたそうです。この一言で挙兵が決まり、結成された薩摩軍は西南戦争へと進みます。明治10年(1877年)2月初めのことでした。

 薩摩郡は田丸坂の戦いなどで奮闘しましが、多勢に無勢 であり、熊本城を落城させることもできず、九州から出ることもできませんでした。薩摩軍は敗走し鹿児島へ戻りましたが、5万人を超える政府軍に囲まれました。9月24日の午前4時頃、政府軍は総攻撃を開始します。西郷隆盛は従者約40名とともに堂々と戦場を駆け抜けましたが、やがて銃弾に倒れました。西郷隆盛は従者の一人別府晋介に「晋さん、もうここでよか」と告げ、同日午前7時頃に別府晋介は涙ながらに西郷隆盛を介錯しました。その後、主だった従者が戦死し、ここに7ヶ月ほど続いた西南戦争が終戦を迎えました。

 終戦後の2月25日、西郷隆盛は官位を剥奪され、賊軍の将とされました。しかし、明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法発布に伴う大赦により、賊軍の将の汚名が挽回され、正三位を贈位されました。この背景には、西郷隆盛が倒幕と新政府の発足に多大な貢献をしたこと、結果的に賊軍となったとは言え、その過程には止むを得ない面があったこと、そして何よりも西郷隆盛と一緒に行動をしてきた同郷の黒田清隆の尽力、西郷隆盛を気に入っていた明治天皇の意向がありました。明治天皇は西郷隆盛の戦死を聞いて落胆したそうです。黒田清隆は函館戦争の終結の際、榎本武揚の処分について「榎本を殺すのなら、そんな新政府、自分は辞めて坊主になる」と西郷隆盛に助命嘆願しています。

 「上野の西郷さん」の愛称で親しまれている東京都の上野公園の西郷隆盛の像。愛犬ツンを連れた西郷さんは多くの日本人に親しまれています。

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上野恩賜公園の西郷隆盛像

 上野の西郷さんの像は恩赦をきっかけに薩摩藩出身者が中心となって作られたものです。宮内省より賜った500円に加え、全国からの寄付金で建立されました。除幕式は1898年(明治31年)12月18日に行われました。西郷隆盛死後21年後のことです。

 この像は愛犬ツンを連れて兎狩りに出かける西郷隆盛です。ツンは兎狩りが得意な薩摩犬で、西郷隆盛が薩摩川内市東郷町を訪れたときにツンを気に入り、所有者の前田善兵衛に譲って欲しいと頼み込んだそうです。前田善兵衛もツンをお気に入りでしたが、西郷さんの熱意に負けてツンを譲りました。西郷隆盛はツンを自宅に連れて行きましが、前の主人を忘れず、2回も脱走して前田善兵衛の元へ帰ったそうです。銅像の作成時にはツンは既に死んでいたため別の犬をモデルにして像が作られました。

 西郷像を作るにあたって問題となったのは西郷隆盛の写真が一枚も残っていないことでした。エドアルド・キヨッソーネの西郷隆盛の肖像画をもとに、西郷隆盛を知る人の意見を聞きながら、何度も修正をして作り上げました。だいたいは似ている顔となったようですが、西郷隆盛の人間味溢れる愛嬌ある表情や温和な表情が再現できなかったと言われています。

 除幕式の際に、西郷隆盛夫人の糸子は西郷像を見て「主人はこんなお人じゃなかった」「浴衣姿で散歩なんてしない」と言ったそうです。この発言の意味には、西郷像が西郷隆盛本人にまったく似ていないという説もありますが、西郷高森の人間味溢れる魅力的な表情が再現されていないことや西郷隆盛が多くの人の前に浴衣姿で出るような礼儀をわきまえない人間ではないという説が有力なようです。

 上野の西郷さんが建立されて120年以上が経過しています。幕末維新を新政府の重要人物として信念をもって駆け抜けた西郷隆盛。李氏朝鮮の外交問題の対立がなければ下野することもなく賊軍として戦死することもなかったのでしょうか。西郷隆盛は当時の自分の環境を鑑み、死に場所を求めていたきらいがあります。西南戦争で派兵を了解したのも死に場所を求めたからかもしれません。ですから、プロセスは違っていても同じような生き方をし、同じような結果を迎えていたかもしれません。

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2020年12月15日 (火)

榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)

 慶応3年(1867年)、江戸幕府15代征夷大将軍徳川慶喜が大政奉還を行い、新政府軍大総督府参謀の西郷隆盛と江戸幕府陸軍総裁の勝海舟によって江戸城が無血開城しました。

徳川慶喜(左)・西郷隆盛(中)・勝海舟(右)
徳川慶喜(左)・西郷隆盛(中)・勝海舟(右)

 慶應4年(1868年)8月19日、江戸幕府海軍副総裁の榎本武揚は無血開城の条件であった旧幕府艦隊の引渡に応じず、開陽丸を旗艦とする8隻の艦隊で蝦夷地に向かいました。途中、暴風雨により2隻を失いましたが、8月下旬には仙台に到着、仙台で桑名藩の松平定敬、大鳥圭介が率いる伝習隊、土方歳三をはじめとする旧新選組、渋沢成一郎が率いる彰義隊、古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊、星恂太郎が率いる額兵隊などの残党約3千名と合流しました。新政府軍が仙台に入城すると、榎本武揚の艦隊は10月9日に仙台を離れました。このとき、榎本武揚は旧幕臣の保護とロシア侵略に備えるため蝦夷地を開拓する嘆願書を新政府軍に送っています。

榎本武揚と開陽丸
榎本武揚と開陽丸

 榎本武揚が率いる旧幕府軍は10月20日に内浦湾に面する鷲ノ木(現、森町)から蝦夷地に上陸し、そこから函館の攻略を始めました。10月26日に五稜郭を占領し、11月1日に榎本武揚が五稜郭に入城しました。これにより蝦夷地を支配下に置くことに成功しました。

 旧幕府軍は実質的には榎本武揚が率いていましたが、様々な組織の残党の集まりであったこともあって、統制が難しい状況にありました。そこで、榎本武揚らは米国の政治体制などを参考に公選入札を行いました。その結果、榎本武揚が総裁に選出されました。投票に参加したのは指揮官以上でしたが、これが日本で初めての選挙となりました。明治元年(1868年)12月15日の新政府誕生の日のことです。

 さて、旧幕府軍は11月に新政府軍に従っていた松前藩を開城させ、その後、開陽丸とともに江差攻略に向かいました。11月15日には江差を無血占領することができましたが、その夜、暴風雨により開陽丸が座礁、沈没してしまいました。開陽丸を失った旧幕府軍は制海権を確保できなくなり、新政府軍が蝦夷地への上陸を開始、函館戦争が開戦しました。明治2年(1869年)5月18日に五稜郭が落城、歴史は戊辰戦争の集結へと向かったのです。

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2020年11月28日 (土)

太平洋記念日(1520年11月28日)

 1519年8月10日、ポルトガルの航海者フェルディナンド・マゼランは西回りで香料諸島(インドネシア・モルッカ諸島)へ渡航する航路を発見するためスペイン艦隊を率いてセビリアを出航しました。

フェルディナンド・マゼラン
フェルディナンド・マゼラン

 マゼラン艦隊はアフリカ大陸北西のカナリヤ諸島を経て南下し、同年12月13日に南アメリカ大陸東海岸のリオ・デ・ジャネイロに到着。その後、さらに南下しながら香料諸島(インドネシア・モルッカ諸島)へと通じる海峡を探索しました。

 1520年3月31日、厳しい冬を迎えた艦隊はアルゼンチンのサン・フリアン湾で越冬を開始しましたが、不満分子が反乱を起こします。反乱制圧後、マゼランは付近の探索を命じますが、しばらくの間は先を見通すことができない状況が続きました。

 1520年8月24日、マゼラン艦隊は航海を再開し、さらに南下を続け、ビルへネス岬から未知の海峡へ進入します。入り組んだ海峡を西に進み、同年11月28日、ついに太平洋へ到達しました。これを記念して、11月28日が太平洋記念日となりました。

 このとき、マゼランは大西洋に比べて太平洋が穏やかだったことから、太平洋のことをラテン語で平和な海という意味をもつ「El Mare Pacificum」と呼びました。英語ではPacific Ocean(平和な海)となり、日本語では「太平な海」と訳され、太平洋となりました。マゼラン艦隊が通過した海峡は後にマゼラン海峡と呼ばれるようになりました。

 その後、マゼラン艦隊は香料諸島をめざして西へ進みましたが、途中、セブ島周辺の島々でキリスト教の布教を行いました。島々の多くの王はマゼランに従いましたが、マクタン島の王の一人がマゼランに従いませんでした。マゼランは60人の兵士を率いてマクタン島に出撃しました。敵兵が1500人にも配備されていたにもかかわらず、マゼランは神が味方するからと突撃を命じます。多勢に無勢でマゼランたちは敗走し、1521年4月27日にマゼラン自身も戦死してしまいます。

 マゼランの死後も艦隊は航海を続け、同年11月8日に香料諸島に到着します。目的を果たした艦隊は1522年9月8日に出発地のスペインのセビリアに到着、ついに地球一周を果たしました。

 マゼラン艦隊がセビリアを出航したとき、5隻の船に270人の船員が乗っていました。セビリアに帰投できた船は1隻、船員はわずか18名でした。当時、帆船での地球一周の渡航がいかに過酷だったかがわかります。

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2020年11月10日 (火)

エレベーターの日と浅草十二階(凌雲閣)(1979/11/10)

 11月10日はエレベーターの日です。1979年(昭和54年)に日本エレベーター協会が制定しました。日本で初めてのエレベータの運用が開始されたのが11月10日だったのではないかと容易に想像できますが、少し訳ありだったようです。

 制定の年から100年前の1890年(明治23年)11月11日に東京の浅草に高さ52メートル、12階建の建物がオープンしました。この建物は「雲を凌ぐほど高い」と言う意味で凌雲閣と名づけられ、後に浅草十二階という愛称で親しまれました。

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浅草十二階(凌雲閣)の絵葉書

凌雲閣は現存していませんが、凌雲閣のあった場所には記念碑があります。


凌雲閣記念碑

 凌雲閣の最上階の展望室からは25 km先あたりまで見渡すことができたそうです。現在においては、東京スカイツリーから見える地平線までの距離は高さ350 mの第一展望台からは約67 km先、高さ450 mの第二展望台からは約76 km先まで見えますが、当時としては凌雲閣は驚くほど高層の建物だったのです。

 この凌雲閣のもう一つの目玉が、日本初の電動式エレベーターでした。2基のエレベータが設置され、1階から8階まで一度に10人を運ぶことができました。11日に行われた招待客向けの開業の式典には大勢の人が集まりましたが、エレベータはわずか1〜2時間ぐらいで故障してしまいました。このエレベーターはその後もたびたび故障し、安全性に問題があることから開業から半年後に運転が中止となりました。1914年にはエレベータが再建されましたが、環境客を集めることができず経営難が続きました。

 1923年9月1日に関東大震災が発生すると、凌雲閣の8階より上階の部分が崩壊しました。このとき展望台にいた人々は残念ながら亡くなっていますが、一人だけ看板に引っ掛かり奇跡的に助かったそうです。再建は断念され、同年9月23日に陸軍工兵隊により爆破解体されました。

 さて、既にお気づきの人もいると思いますが、凌雲閣の開業が11月11日なのに、エレベーターの日が11月10日に制定されたのはなぜでしょうか。実は凌雲閣の開業予定日は10日で、当時の新聞広告や電柱広告には10日に開業式をすると広く宣伝されていました。しかし、10日は天候が悪く、人が集まることができないという理由から、開業式が延期となりました。

 開業式は次の日に延期となったもののエレベーター自体は10日に凌雲閣に引き渡されて運転されていました。そのため、エレベータの日は11月10日と制定されました。

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2020年10月12日 (月)

サンフランシスコの五重塔

 サンフランシスコのジャパンタウンには五重塔があります。1968年にジャパンセンターが建設されたときに、日本からサンフランシスコ市に親善のため贈られたそうです。

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 この五重塔はたいへん簡単な構造で、円盤が重なったような形をしており、日本風とは言えません。しかしながら、「この平和の塔は日本の人々から友情のしるしとして贈られた」と書いてありました。たぶん、五重塔を造るための寄付金が贈られ、現地で建設したのではないでしょうか。

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