カテゴリー「歴史」の280件の記事

2025年4月20日 (日)

松本城が国宝に指定される(昭和11年 1936年4月20日)

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 松本城は戦国時代にの信濃守護家小笠原氏が松本市の里山辺に林城を築城しときにその支城「深志城」として築城されました。当時は深志城と呼ばれました。林城と深志城は甲斐国の武田信玄の信濃侵攻により天文19年(1550年)7月15日に落城しこの地は武田家の所領となりました。信玄は小笠原長時を追放して林城を破城し、重臣の馬場信治を深志城の城主とし信濃侵攻の足がかりとしました。

松本城
松本城(快晴の日の松本城天守2 2024年9月1日 Author Hiroaki Kikuchi)

 武田氏滅亡後は天正10年(1582年)に織田信長の許しを得て木曽義昌が城主となりました。同年「本能寺の変」で信長が暗殺されると上杉景勝に擁立された長時の弟の小笠原洞雪斎が深志城の城主となりました。しかし洞雪斎は上杉家の傀儡となったことから家臣からの信頼を失い、徳川家康の家臣となっていた長時の三男の小笠原貞慶が深志城を奪還しました。これによって小笠原家は大名に復帰し、貞慶は深志城を松本城と改名しました。

 豊臣政権下では家康が豊臣秀吉により関東へ移封されたことから貞慶の子で松本城主の小笠原秀政も下総国古河へ移りました。松本城には家康のもとを出奔した石川数正が入城し城主となりました。数正は子の石川康長と松本城の天守、城郭、城下町を整備し、現在の松本城の基礎が築かれました。

 江戸幕府では康長が大久保長安事件に関わったとして改易となり、小笠原秀政が再び松本城主となりました。その後、秀政は家督を子の小笠原忠脩に譲りましたが、忠脩は大坂の陣で戦死し、秀政も戦傷により死去しました。松本城には松平康長が入城し松本藩主となりましたが、子の松平庸直が播磨明石に移封されました。以降、松本藩は藩主がめまぐるしく変わりましたが享保10年(1725年)に松平康長の子孫が藩主となり幕末を迎えました。戊辰戦争では新政府軍に帰順しました。

 明治5年(1872年)、天守が競売にかけられ松本城が解体されることになりましたが、地元の有力者の市川量造らが買い戻しました。明治30年(1897年)頃から天守閣が傾き始めると「松本天守閣天主保存会」が設立され寄付金により明治36年(1903年)から大正2年(1913年)にかけて「明治の大修理」が実施されました。

 松本城は昭和5年(1930年)に 国の史跡に指定されました。そして昭和11年(1936年)4月20日に天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓が国宝保存法により国宝に指定されました。昭和27年(1952年)3月29日に文化財保護法の国宝に改めて指定されました。

 第二次世界大戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の美術顧問チャールズ・ギャラガーが解体調査を文部省に勧告し、これによって昭和25年(1950年)から昭和30年(1955年)にかけて「昭和の大修理」が実施されました。

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2025年4月17日 (木)

明治政府が長崎の浦上のキリシタンを流罪|浦上四番崩れ(慶応4年 1968年閏4月17日)

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 江戸幕府は徳川家康の頃からオランダ、清、朝鮮、琉球を除く異国との外交を制限し日本人の海外渡航を禁止しました。その原因となったスペインやポルトガルが広めたキリスト教を禁じ宣教師や信徒を徹底的に弾圧する政策をとりました。幕府はキリスト教宣教師や信徒を見つけると捕縛し仏教へ改宗させ拒否するものは処刑するという厳しい対応を行っていました。そのような状況の中、表向きはキリスト教から仏教に改宗した者たちが隠れキリシタンとなって秘密裏にキリスト教の信仰を守り続けていました。彼らはしばしば幕府に発見され弾圧を受けました。

 北九州地区は戦国時代の頃からキリシタン大名がキリスト教を擁護していたため多数のキリスト教徒信徒がいました。豊臣秀吉や徳川家康の時代になると彼らは弾圧されるようになり、それでもなお信仰を続けるものたちは隠れキリシタンとなりました。唯一開港されていた長崎はキリスト教と関係が深く多数の隠れキリシタンが暮らしていました。

 現在の長崎県長崎市の肥前国彼杵郡浦上村では江戸時代の中期から明治時代初期にかけて4度に渡りキリシタン弾圧が行われました。これを「裏紙崩れ」といいます。「崩れ」は検挙のことです。寛政2年(1790年)の天保13年(1842年)の浦上二番崩れにおいては隠れキリシタンの証拠が不十分などの理由から弾圧には至りませんでしたが安政3年(1856年)の浦上三番崩れでは実際に隠れキリシタンが捕縛・処刑されるなど徹底的な弾圧が行われました。これによって浦上の隠れキリシタンたちは壊滅状況になりましたが、それでもなを難を逃れたものたちがキリスト教の信仰を守り続けました。彼らは表向きは仏教徒であることを装いながら慈母観音像を聖母マリアに見立てて信仰の対象としこれを「マリア観音」と呼びました。

マリア観音像(慈母観音像)
マリア観音像(慈母観音像)

 元治元年(1864年)、日仏修好通商条約の締結により長崎のフランス人居留地にカトリック教会の大浦天主堂が建てられました。この洋風建築の天主堂は日本人の住民の間でも話題になり、多くのものが見物に訪れました。

大浦天主堂
大浦天主堂

 大浦天主堂の司祭ベルナール・プティジャン神父は訪れる日本人の中にキリスト教信仰者がいるのではないかと期待し天主堂の一般公開を続けました。元治2年(1865年)4月、プティジャン神父のもとに浦上村の住人が訪れました。彼らはプティジャン神父にキリスト教を信仰していること告げ本物のマリア像に祈りを捧げました。プティジャン神父は驚愕し本国に「信徒発見」の詳細を報告しました。その後も天主堂に見物を装って日本人信徒が訪れるようになり、プティジャン神父は彼らに対して秘密裏にミサを行うようになりました。やがてミサが常態化するとキリスト教信者と自ら名乗るものが現れるようになりました。

ベルナール・プティジャン
ベルナール・プティジャン

 

 慶応3年(1867年)、浦上村住民が仏式の葬儀を拒否する事件があり隠れキリシタンが存在することが明るみに出ました。長崎奉行は取り調べを行ったところ信徒代表の高木仙右衛門をはじめとする者たちがキリスト教の信仰を認めました。長崎奉行は対応に困り彼らを村に返し江戸幕府に顛末を報告しました。幕府は隠密に浦上村を調査させ同年6月13日に高木仙右衛門ら信徒68名を捕縛しました。信徒たちはいっさいの抵抗をせずひざまずいて両手を出し自ら捕縛されました。その後、彼らは厳しい拷問を受けました。これが「浦上四番崩れ」です。この事件を知った諸外国は直ちに江戸幕府に対して抗議を行い宗教弾圧を批判しました。同年8月24日にフランス公使レオン・ロッシュと徳川慶喜が大阪城で会談を行いましたが同年10月に大政奉還、12月には「王政復古の大号令」が発せられ江戸幕府は終焉しました。

 江戸幕府終焉後、明治政府は慶応4年(1868年)3月15日に民衆に対する禁止令「五榜の掲示」の高札を出しましたが第三番札に「切支丹・邪宗門の禁止は江戸幕府の統制を踏襲する」とありました。長崎裁判所総督の澤宣嘉と外国事務係の井上馨は浦上の信徒たちに改宗するよう説得しましたが彼らが応じないため政府に対して中心人物の処刑とその他信徒の流罪を提案しました。政府は諸外国からの抗議を鑑みて死罪は退けて同年閏4月17日に太政官達で信徒全員を流罪とすることを発表しました。信徒たちは流刑先で幕府時代よりも著しく厳しい拷問を受けました。

 諸外国の公使は明治政府の対応を激しく非難し顛末を本国に報告しました。明治4年(1871年)に不平等条約改正の交渉のため欧米に派遣された岩倉使節団は訪問先でキリスト教の禁止令を非難され日本のキリスト教弾圧が交渉の妨げになっていることを痛感しました。キリスト教の禁止令を廃止するか継続するか国内で様々な意見が出ました。当初、日本政府はキリスト教の解禁をしない方針でしたが、明治6年(1873年)2月24日にキリスト教禁制の高札を撤去し捕縛していた信徒たちを解放しました。流罪とされた信徒は3394名、662名が死亡しました。解放された者たちはキリスト教の信仰をより強くしました。「浦上四番崩れ」をきっかけに長年続いた日本のキリスト教禁制が終戦しキリスト教が日本各地で再び広まりました。

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2025年4月11日 (金)

江戸城の無血開城(慶応4年 1868年4月11日)

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 慶応4年(1868年)1月3日に開戦した戊辰戦争の「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗北すると徳川慶喜は大阪城を脱出し同年1月12日に江戸城に退却しました。慶喜は小栗忠順、松平容保、松平定敬の抗戦の主張を退け、老中の板倉勝静と若年寄の永井尚志を罷免、容保と定敬には謹慎を命じました。自らは同年2月12日に上野の寛永寺大慈院で謹慎し事態収拾を勝海舟と大久保一翁に任せました。

徳川慶喜
徳川慶喜

 新政府軍は江戸総攻撃を決断し東上を開始しました。江戸に迫る新政府軍に対して局地的に旧幕府軍が対峙しましたが新政府軍の最新の武器の前に旧幕府軍は敗戦を続けました。日本と江戸の行く末を案じた恭順派の海舟は新政府軍との和平交渉の道を探りました。慶喜は側近の高橋泥舟に新政府軍の西郷隆盛との交渉を命じたが泥舟は慶喜警護のため義弟の山本鉄舟を推薦しました。海舟は鉄舟を隆盛のもとに派遣し和平交渉を働きかけました。無益な戦いは避けたいと考えていた西郷隆盛は山岡鉄舟の説得を聞き入れ海舟と会談することを決めました。

山岡鉄舟
山岡鉄舟

 同年3月13日と14日、江戸の薩摩藩邸において海舟と隆盛の会談が行われ、江戸城の無血開城の条件の交渉が行われました。隆盛は徳川慶喜の謹慎、江戸城を新政府軍に明け渡す、旧幕府軍は武装解除することを条件に江戸を総攻撃しないこと了承しました。こうして鉄舟と隆盛の下交渉後に隆盛と海舟との会談が行われ江戸無血開城の話がまとまりました。同年4月11日、慶喜は慶寛永寺から水戸へ出発し江戸城は無血開城しました。

江戸開城談判(結城素明)
江戸開城談判(結城素明)

 江戸城の無血開城によって江戸の町と多くの人々の命が守られました。海舟は隆盛が交渉に応じない場合は江戸市中に火を放ち江戸の機能を停止させるつもりでいました。旧幕府軍を倒しても列強と対峙しなければならない新政府軍は無駄な戦を避ける必要がありました。旧幕府軍の戊辰戦争は箱館戦争まで続きましたが、江戸開城後の幕府から新政府への政権以降は大きなトラブルもなく滞りなく行われました。江戸開城は日本の近代化にとって重要な転換点となりました。

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2025年4月 6日 (日)

板垣退助岐阜遭難事件(明治15年 1882年4月6日)

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 戊辰戦争で東征大総督東山道参謀として功績をあげ元勲となった板垣退助は明治維新後に参与となりましたが征韓論の対立による「明治六年の政変」で下野しました。その後、自由民権運動を進めましたが帝国議会の樹立をめざすため参議に復帰しました。

板垣退助(1880年頃)
板垣退助(1880年頃)

 明治14年(1881年)、「国会開設の詔」が発せられると退助は自由党を結成して党首となり自由民権運動の推進と帝国会議樹立のため全国を精力的に遊説して党の拡大に努めました。明治15年(1882年)4月6日、板垣退助は岐阜で開催された演説会を終えて宿舎へ向かう途中、短刀を持った相原尚褧に襲撃されました。これが「板垣退助岐阜遭難事件」です。

板垣君遭難之図 (一陽斉豊宣 1882年)
板垣君遭難之図 (一陽斉豊宣 1882年)

 相原尚褧は士族で教員でしたが官権派の考えを持ち自由党などの民権派に強い反感を抱いていました。「国会開設の詔」が発せられても急進的な民権派の不敬事件などが収まらないため国家の行く末を案じ民権派の中心人物であった板垣退助の暗殺を決意していたのです。

 退助は尚褧の襲撃により胸や手に深手を負いましたが党員たちが相原は取り押さえたことから一命を取り留めました。退助は竹内綱に抱きかかえられながら起き上がり「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い放ちました。これが後に「板垣死すとも自由は死せず」という自由民権運動の象徴的な言葉として広く知られるようになりました。この事件によって自由民権運動は大きく盛り上がり、板垣退助は国民的な人気を得ました。全国で自由党の支持者が増え自由民権運動が飛躍的に進みました。

板垣死すとも自由は死せず (板垣退助百回忌に際し安倍晋三揮毫)
板垣死すとも自由は死せず (板垣退助百回忌に際し安倍晋三揮毫)

 板垣退助は事件後に相原尚褧に対する助命嘆願書を提出しています。これによって尚褧は極刑を免れ無期徒刑となりました。明治22年(1889年)の大日本帝国憲法発布による恩赦において岐阜事件は民間人としての板垣退助を襲撃したものであり尚褧は国事犯でないとされました。一方で急進的に自由民権運動を進めた逮捕者が恩赦されていたことや、事件当時に明治天皇が「板垣は国家の元勲」の考えを示していたことから、尚褧は国事犯の要素もあるとして恩赦の対象となり同年3月29日に釈放されました。

 同年5月11日、尚褧は退助のもとを謝罪に訪れました。退助は「この度はつつがなく罪を償はれ出獄せられたとの由、退助に於ても恭悦に存じ奉る」と声をかけると、尚褧は退助の器の大きさに感銘し両手をついて事件のことを深く詫び、恩赦に尽力してくれたことを深謝しました。退助と尚褧は会話をはずませ、尚褧は日本のために北海道開拓に従事したいと表明しました。時間はあっという間に過ぎ、退助は帰路につく尚褧に北海道は極寒の地であり自愛すること、活躍を祈っていることを伝えて見送りました。

 同年、相原尚褧は約束通り北海道に船で向かいましたが遠州灘付近で行方不明となりました。このとき尚褧は享年36歳、船から落とされたという説、自殺したという説、尚褧に板垣暗殺を企てさせた黒幕に暗殺されたという説などがありました。

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2025年4月 5日 (土)

ヘアカットの日|女子断髪禁止令(明治5年 1872年4月5日)

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 明治明治4年(1871年)、政府は太政官布告により「散髪、制服、略服、礼服ノ外、脱刀モ自今勝手タルベシ」という「散髪脱刀令」を布告しました。これにより身分によらず髪型や服装の自由が認められ、多くの男性が髷を落として断髪し洋服を着るようになりました。

 このような変化の中で髪を短くする女性も現れましたが、当時の日本では長い黒髪が女性らしいという価値観が主流だったため女性が男性のように断髪することに対する批判が起こりました。明治5年(1872)4月5日、東京府は男女の区別が判然としない髪型は禁止すべきという考えから女性はみだりに髪を切ってはいけないという「女子断髪禁止令」(東京府達32号)を布告しました。

東京府が太政官に許可を求めた「婦人断髪ノ儀ニ付伺」
東京府が太政官に許可を求めた「婦人断髪ノ儀ニ付伺」

 当時、日本髪を結うのに鬢付け油が使われていました。結髪もさることながら洗髪も時間がかかり面倒でした。「散髪脱刀令」で髪型の自由化を求め「女子断髪禁止令」に声をあげる女性も少なくありませんでした。そのようなことから4月5日は「ヘアカットの日」とされています。

明治時代の日本髪
明治時代の日本髪

 明治18年(1885年)には「婦人束髪会」が結成され日本髪について金銭的負担や衛生的問題が指摘されるようになると日本髪を結う女性は少なくなり女性のヘアスタイルも西洋化していきました。

 

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2025年4月 3日 (木)

市川・船橋戦争(慶応4年 1968年閏4月3日)

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 慶応4年(1968年)4月11日、江戸城が無血開城し徳川慶喜は蟄居先の水戸へ移動しました。幕府海軍副総裁の榎本武揚は旧幕府艦隊7隻を率いて品川沖から館山沖に移動しました。幕府陸軍の大鳥圭介は伝習隊を率いて市川に移動、撤兵頭の福田道直は撒兵隊を率いて木更津に移動しました。

 福田ら撤兵隊は12日に木更津に本拠を置き義軍府と称しました。福田は市川の国府台に大鳥が率いる伝習隊が集結しているという情報を得ると江原鋳三郎の撒兵隊第1大隊を市川に派遣しました。しかしながら大鳥は前日に合流した新選組副長の土方歳三から近藤勇が流山で捉えられたことを聞き市川が危険であることを悟り会津藩と合流すべく北へ移動を開始していました。

江原素六(江原鋳三郎)
江原素六(江原鋳三郎)

 新政府軍は大鳥の伝習隊が北へ移動したことから戦闘態勢を解除していましたが撒兵隊の予想外の出現により千住宿を守備していた岡山藩に出兵を命じました。岡山藩は江原と武装解除の交渉を申し入れました。江原も大鳥の伝習隊との合流ができなくなったことから単独で戦うことは不可能と考えて了承しました。陣中に戻った江原が武装解除の意向を伝えると血気盛んな強硬派が反対し部隊の方針はまとまりませんでした。

 新政府軍は八幡に岡山藩、行徳に福岡藩、鎌ケ谷に佐土原藩、本陣の市川に安濃津藩を対峙させ閏4月1日までに江原に武装解除に応じなければ攻撃を開始すること通告しました。閏4月2日、最後通牒を受けた江原はこれを拒否し先手を打って新政府軍を攻撃することにしました。

 閏4月3日早朝、江原は八幡の岡山藩への攻撃を開始しました。安濃津藩が援軍を送りましたが両藩は総崩れとなりました。撒兵隊は士気を高めましたが岡山藩、安濃津藩、薩摩藩の援軍が駆けつけ反撃を開始しました。多勢に武勢となった江原は撤収を決断し船橋へ向かいました。しかしながら船橋は佐土原藩の攻撃を受けており、船橋に向かっていた江原の部隊は挟み撃ちになり敗走しました。江原は銃弾を受けて負傷し現地に従者と現地に潜伏しました。まもなく新政府軍は船橋を制圧し、さらに木更津の福田の本体を敗走させました。これによって市川・船橋戦争は新政府軍の勝利で終結しました。戦後の福田道直については詳細な記録が残っておらず不明となっています。敗走した撒兵隊は上総方面に南下しましたが房総最後の決戦となる五井戦争で破れました。これにより房総は新政府軍により制圧されました。

 江原鋳三郎は船橋で潜伏後に江戸に移動しましたが残党狩りの対象となっていることを知り江戸市中を転々と移動し潜伏生活を続けました。潜伏中に榎本武揚から同行するよう要請されましたが既に勝敗は決していると断りました。同年8月、徳川家が駿府に移封され、徳川家を継いだ徳川家達が静岡に移ると、江原は小野三介と名を変えてアメリカ船で静岡に向かいました。ところが悪天候による波浪のため江原を乗せた船は下田に避難しました。新政府が駿府藩に江原の拘束と引き渡しを命じていることを知った江原は名を水野泡三郎と変え小野三介を行方知らずにしました。しばらく中泉村竹原(現 長泉町)で匿われて潜伏していたところ同年10月に手配が解かれ徳川藩陸軍御用重立取扱に任命されました。明治元年(1868年)12月に名を江原素六に改めました。その後は沼津兵学校の設立に尽力し教育者として活躍しました。

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2025年3月28日 (金)

明治政府が「神仏分離令」を公布(明治元年 1868年3月28日)

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 明治維新により長らく続いた江戸幕府が終焉しました。王政復古により日本の政治体制は武家を中心とする政治から天皇を中心とする政治に戻りました。平田篤胤などの国学者たちは日本固有の文化や宗教を重視し、仏教や儒教の影響を排除した純粋な神道を復興させるべきだと主張しました。明治政府は新しい国家体制をより強固なものとし列強に対峙できるようにするには国民の意識を統一させる必要があると考え神道を純粋な形で復興させる神道国教化の政策を進めました。

 明治元年(1868年)3月28日、明治政府は神仏分離令の太政官布告「神号々仏語ヲ用ヒ或ハ仏像ヲ神体ト為シ鰐口梵鐘等装置セシ神社改正処分・三条」を公布しました。

 この神仏分離令によって明治政府は仏教的な権現や牛頭天王などの名称を用いている神号を純粋な神道の名称にすること、神社の神体として祀られている仏像をはじめとする仏教的な要素を撤去すること、神社に奉仕していた僧侶に還俗とすることなど、長年続いていた神仏習合を禁じ神道と仏教を明確に分離しました。

神仏分離の様子(Google Geminiによる作画)
神仏分離の様子(Google Geminiによる作画)

 江戸幕府の政権下では寺院は単なる宗教施設にとどまることなく行政、教育、文化、福祉など多岐にわたる役割を果たし地域社会において重要な存在でした。明治政府は寺院の機能を役所に持たせ前政権の影響を受けている寺院の社会への影響力を抑えたのです。

 「神仏分離令」は仏教を弾圧し排斥することが目的ではありませんでしたが全国各地で廃仏毀釈運動が起こり多くの寺院や仏具が破壊されました。やがて自由民権運動が起こり宗教の自由が求められるようになり神道国教化の政策は縮小していきました。

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2025年3月27日 (木)

吉田松陰と金子重之輔が黒船に密航を懇願|下田踏海(嘉永7年 1854年3月27日)

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 長州藩士の吉田松陰は江戸で佐久間象山などから西洋の学問や技術の重要性を学び国内外の情勢に関心を持っていました。嘉永5年(1852年)、松陰は交流のあった肥後藩の宮部鼎蔵らと東北を見聞する旅に出ました。このとき松蔭は長州藩の通行手形を得る前に出発しました。この行為は脱藩と見なされました。翌年、旅行から戻った松蔭は罪に問われて士族の身分を剥奪され世禄を没収されました。

吉田松陰
吉田松陰

 嘉永6年(1853年)、松蔭は学問を続けるため江戸に赴きました。同年6月、浦賀にマシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国の艦隊が来航しました。松陰は師の佐久間象山と望遠鏡で黒船を見物し西洋の文明が日本より遙かに進んでいることに感銘を受けると同時に日本の将来に危機感を持ちました。象山は松蔭に外国に留学することを勧めました。当時、日本人が海外に渡航することは禁止されていたため外国留学は密航にあたりました。

 【参考】黒船来航(1853年7月8日旧暦6月3日)

 海外留学の機会を伺っていた松陰は同年7月にロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が艦隊を率いて長崎に来航していることを知り弟子の長州藩士の金子重之輔と長崎に向かいましたが、彼らが長崎に到着したのはロシア艦隊が長崎を出港した後でした。そのため松陰は海外留学を果たせませんでした。

 【参考】ロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が長崎来航(1853年7月18日

 嘉永7年(1854年)、ペリーの艦隊が再び来航し横浜で日米和親条約が締結されました。

 【参考】マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)

 その後、艦隊が下田に移動すると松陰は重之輔と下田に向かいました。同年3月25日夜、松陰と重之輔は下田の柿崎の稲生沢川口から小舟を漕ぎ出しましたが悪天候と高波により引き返しました。27日に上陸していた米国士官に渡航を嘆願する「投夷書」と「別啓」を渡しました。「投夷書」は漢文で書かれておりその内容は「外国渡航が禁じられているが世界を見たい。密航が知られると殺されるので人道的に乗船させて欲しい」という主旨のものでした。また「別啓」は「投夷書」の要約で「認めてくれるなら海岸に迎えにきて欲しい」と書かれていました。

 松陰と重之輔はその日の夜に艦隊を訪れることを計画し翌28日午前2時頃、弁天島近くから小舟を漕ぎ出し沖合に停泊している艦隊へ向かいました。最初はミシシッピー号に漕ぎ着けましたが通訳がいなかったため旗艦ポータハン号に向かいました。

黒船に漕ぎ着ける小舟(Google Gemini作画)
黒船に漕ぎ着ける小舟(Google Gemini作画)

 ポータハン号に乗り込んだ2人はは通訳官サミュエル・ウィリアムズと筆談し渡航を懇願しました。ウィリアムズは2人の海外渡航の強い要望を理解しましたが、日米和親条約を締結しているため海外密航を幇助することはできないと答えました。近い将来に海外渡航が許されるようになるはずだからそれまで待つようにと諭され2人は海外渡航を諦めました。

 28日早朝、2人は小舟で福浦海岸まで送り届けられました。密航しようとしたことがばれると考えた松陰と重之輔は自首し下田奉行所で取り調べを受けた後に江戸小伝馬町の獄に送られました。江戸で裁きを受け身柄は萩藩へ引き渡され蟄居を命じれました。本来であれば海外密航は死罪に当たりますが、2人の処分が蟄居で済んだのはペリーが2人の思いを理解し幕府に寛大な処分を求めたからと伝えられています。

 松陰は萩の野山獄に投獄されましたがまもなく実家の杉家預かりとなりました。安政4年(1857)、叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぎ杉家の敷地に松下村塾を開塾します。この松下村塾では、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など後に明治維新の立役者となる志士たちを教育しました。

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2025年3月25日 (火)

カトリック教会 受胎告知の日(3月25日)

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 受胎告知とは「新約聖書」の「ルカによる福音書」(1章26–38節)に記されている出来事です。大天使ガブリエルは聖母マリアに「あなたは聖霊によって身ごもり、男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい」と告げたとされています。

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聖女マルガリータと聖アンサヌスのいる受胎告知
(1333年 シモーネ・マルティーニ、リッポ・メンミ作)

 イエス・キリストの生年は紀元前6~4世紀頃とされています。イエス・キリストの降誕を祝うクリスマス12月25日から逆算して9ヶ月前の3月25日が「受胎告知の日」「受胎告知の祝日」とされています。日本では妊娠期間は10ヶ月とされていますが、欧米では文化や数え方の違いにより9ヶ月とされています。 「受胎告知の日」には多くの教会において特別な礼拝が行われたり、祈りを捧げたりします。

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2025年3月23日 (日)

所得税法の公布(明治20年 1887年3月23日)

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 明治20年(1887年)3月23日、日本で初めて「所得税法」が公布されました。「所得税法」公布前の日本の税収は地租や酒造税などが中心でした。当時、政治に参加できるのは地租を納める大地主に限られていたことから自由民権運動を進める団体が選挙権のあり方を批判していました。政府も地租の納税義務者以外の資本家に対して選挙権を与えることにしました。また明治15年(1882年)に朝鮮で起きた壬午軍乱以降、清国に対する軍備の増強が必要となり税収を増やす必要がありました。このような背景のもと徴税に関する法整備が必要となり「所得税法」が公布されたのです。

所得税法・御署名原本・明治二十年・勅令第五号
所得税法・御署名原本・明治二十年・勅令第五号

 当初の所得税は個人に対する課税ではなく世帯合算課税で戸主に納税義務が課せられました。すべての戸主が課税の対象となったわけではなく年間所得が300円以上の戸主に納税義務が発生しました。徴税は所得に対して1%(300円)から3%(3万円以上)までの5段階の累進課税方式が採用されました。

所得税法ヲ裁可シ茲ニ之ヲ公布セシム 睦仁 内閣総理大臣伯爵伊藤博文 大蔵大臣伯爵松方正義 勅令第五号 所得税法 第一条 凡ソ人民ノ資産又ハ営業其他ヨリ生スル所得金高一箇年三百円以上アル者ハ此税法ニ依テ所得税ヲ納ムヘシ 但同居ノ家族ニ属スルモノハ総テ戸主ノ所得ニ会算スルモノトス 第二条 所得ハ左ノ定則ニ拠テ算出スヘシ 第一 公債証書其他政府ヨリ発シ若クハ政府ノ特許ヲ得テ発スル証券ノ利子営業ニアラサル貸金預金ノ利子株式ノ利益配当金、官私ヨリ受クル俸給、手当金、年金、恩給金及割賦賞与金ハ直ニ其金額ヲ以テ所得トス 第二 第一項ヲ除クノ外資産又ハ営業其他ヨリ生スルモノハ其種類ニ応シ収入金高若クハ収入物品 

所得税法を承認し、ここに公布する。

天皇 睦仁

内閣総理大臣 伊藤博文

大蔵大臣 松方正義

勅令第五号 所得税法

第一条 すべての国民で、資産や営業などから生じる一年間の所得金額が三百円以上である者は、この税法に基づいて所得税を納めなければならない。ただし、同居の家族に属する者の所得は、すべて世帯主の所得に合算するものとする。

第二条 所得は、次の規定に基づいて算出する。

公債証書その他政府が発行する、または政府の特許を得て発行する証券の利子、営業によらない貸付金や預金の利子、株式の利益配当金、官民から受け取る俸給、手当金、年金、恩給金、割賦賞与金は、そのままその金額を所得とする。
第一項を除く、資産や営業などから生じる所得は、その種類に応じて収入金額または収入物品を基準とする。

 当時、所得が300円以上となる戸主は多くなく、納税義務は社会的地位を示すことにもなりました。そのため所得税は富裕税や名誉税とも呼ばれました。課税の対象とされたのは全戸数の1.5%の約12万人で納税額も税収の約0.8%に過ぎませんでした。つまり選挙権を新たに付与され国民はわずかでした。明治23年(1890年)に行われたた日本最初の国政選挙「第1回衆議院議員総選挙」では直接国税15円以上を納付している満25歳以上の男性に選挙権が与えられました。

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