カテゴリー「歴史」の320件の記事

2026年7月17日 (金)

江戸が東京に改称される(慶応4年 1868年 7月17日)

 慶応3年(1867年)10月14日)の大政奉還と、それに続く同年12月日の王政復古の大号令により江戸幕府は終焉を迎えました。そして慶応4年(1868年)4月11日の江戸城開城により、江戸は新政府の支配下に入りました。

 新政府は同年5月12日に江戸府を設置し、。2ヶ月後の同年7月17日に江戸を東亰(とうけい)と改称しました。このとき江戸府も東亰府となりました。

 同年9月8日に明治に改元され、明治天皇は明治元年(1868年)9月20日に京都を出発し東京に行幸した。同年10月13日、明治天皇が江戸城へ到着すると、江戸城は東幸の皇居と定められ東京城と改称されました。

聖徳記念絵画館壁画「東京御着輦」(明治天皇の東京行幸)
聖徳記念絵画館壁画「東京御着輦」(明治天皇の東京行幸)

 明治2年(1869)年に明治天皇が東亰の皇居に入ると、東亰は名実ともに日本の首都となりました。ただし、現在に至るまで東京を首都と定めると明文化された法律はありません。東京奠都として歴史的な議論の的になっています。

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2026年7月14日 (火)

一本木関門に秋川雅史さん?ではなく土方歳三

 中古シップで土方歳三の指人形を見つけたので購入しました。

 生成AIで「函館市の土方歳三最期の地碑」に設置されている一本木関門と合成してみました。

一本木関門に秋川雅史さん?ではなく土方歳三
一本木関門に秋川雅史さん?ではなく土方歳三

  出来上がった写真を見たら、秋川雅史さんに見えてきました。

   私の〜♪

   お墓のま〜えで♪

   泣かないでください♪

   違う!

   土方歳三です!

 

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2026年6月 4日 (木)

松前藩がゴローニンを捕縛|ゴローニン事件(1811年6月4日)

ココログ「夜明け前」公式サイト

 1807年7月、北太平洋地域の調査の命令を受けたロシア軍艦スループ船ディアナ号の艦長ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン海軍大尉はサンクトペテルブルク沖合フィンランド湾に浮かぶコトリン島クロンシュタットからカムチャッカまでの世界一周航海に出ました。ディアナ号は赤道を越えてブラジルに向かいました。1808年4月、アフリカ大陸の喜望峰からアジアに向かおうとしたところで英露戦争の影響によりイギリス軍に拿捕されました。ディアナ号はここで1年以上も拘留されましたが1809年5月に視界不良と順風が重なった日に逃亡しました。ダイアナ号は1810年にカムチャッカに到着しました。

ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン
ヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン

 文化8年(1811年)、ディアナ号はカムチャッカのペトロパブロフスクから千島列島南部の測量に向かいました。同年5月に択捉島の北側から上陸したところ千島アイヌ漂流民の護送をしていた松前奉行所調役下役の石坂武兵衛と出会いました。ゴローニンが薪水の補給を要請すると武兵衛は振別会所に赴くよう指示しました。ところが天候が悪く逆風であったことや当時未開地であった根室海峡にも関心があったためゴローニンは振別には向かわず国後島の南部に向かいました。

 5月27日、ディアナ号が泊湾に入港したところ国後陣屋の松前奉行支配調役の奈佐瀬左衛門が砲撃で警告すると、ゴローニンは補給を要請しました。6月3日に武装した日本の役人に陣屋に赴くよう指示され、6月4日、ゴローニン、フョードル・ムール少尉、アンドレ・フレブニコフ航海士をはじめとする水夫らが陣屋を訪問しました。国後陣屋はゴローニンらを接待し松前奉行に補給の許可を得るまで人質を預けるよう要求しましたが、ゴローニンがこれを無視してディアナ号に引き上げようとしたためゴローニンらを捕縛しました。

 これを受けてディアナ号副艦長ピョートル・リコルドはゴローニンらを救出するため国後陣屋を砲撃しましたが逆に彼らの身が危うくなる可能性があることから救出を断念しオホーツクへ戻りました。

 その後、ゴローニンらは陸路で箱館に連行されました。7月2日に箱館に到着し箱館詰吟味役の大島栄次郎の予備尋問を受け、8月25日に松前で監禁されました。松前奉行の荒尾成章の取り調べの結果、ゴローニンは文化3年(1806年)と文化4年(1807年)の文化露寇の事件(フヴォストフ事件)とは無関係であることが判明し幕府に対してゴローニンらの釈放を上申しましたが却下されたのです。

 この続きはまた別の機会に。

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2026年5月17日 (日)

最初の屯田兵が入植(明治8年 1875年5月17日)

 明治2年(1869年)5月18日に五稜郭が開城し戊辰戦争が終結すると、明治政府は同年7月8日に開拓使を設置し蝦夷地の開拓と防衛強化に乗り出しました。同年8月15日には太政官布告によって蝦夷地は北海道、北蝦夷地を樺太と改名されました。

 明治4年(1871年)10月に北海道開拓次官となった黒田清隆は西郷隆盛が主唱していた士族による北方警備と開拓を実現するべく同年11月に太政官に屯田制を建議し、明治7年(1874年)に屯田兵例則が定められました。屯田兵は平時は農民として開拓に従事し、有事には軍隊として北方防備に当たる兵農一如の制度です。明治維新により特権や職を失い生活に困窮していた士族たちに職と土地を与え生計の道を立てさせる士族授産の目的もありました。

 明治8年(1875年)5月17日、現在の札幌市西区琴似に最初の屯田兵198戸と家族ら計965人が入植し琴似兵村が発足しました。彼らは彼らは家族とともに移住し、政府から土地と兵屋(家屋)を与えられました。極寒の未開地での開拓生活は過酷を極めましたが、彼らは耐え抜きながら北海道における農業の基盤を築きました。

屯田兵 北海道開拓と防備で活躍した
屯田兵 北海道開拓と防備で活躍した

 屯田兵は明治8年から明治32年までに、道内37の兵村に約7,300戸、家族を含む約4万人が入植しました。彼らが開墾した総面積は約7万4,000 haにも及びました。西南戦争、日清戦争、日露戦争の有事の際には出征し軍隊としての役割を果たしました。屯田兵制度は明治37年(1904年)まに廃止されまで続き、士族だけではなく平民も加わりました。

【関連記事】

蝦夷地が北海道に(明治2年 1870年8月15日)

北海道開拓精神が込められた「日本一きびだんご」(起備団合)

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2026年4月27日 (月)

哲学の日(紀元前399年4月27日)

ココログ「夜明け前」公式サイト

 古代ギリシアの哲学者ソクラテスは紀元前470年頃にアテナイで生まれました。西洋哲学における倫理学の基礎を築き、正しい行いや、どのように生きるかなどを説きました。ソクラテスは自著を残さなかったため謎に包まれた人物ですが弟子のプラトンの著述などを通じて業績が知られ、「汝自身を知れ」「無知の知」「善く生きろ」など名言が伝えられています。とりわけプラトンの「ソクラテスの弁明」は最も重要な古典的哲学書とされています。

ソクラテス
ソクラテス

 ソクラテスは著名な政治家や詩人など様々な人々を訪ねて対話を行い、自身が無知を自覚しているのに対して世の中の多くの人々が無知であることを自覚していないことを知らしめる活動を行いました。この活動を通じて賢者ソクラテスの評判が広がりましたが、無知を指摘した人々からは疎まれるようになりました。ソクラテスを敵視する人が増え、ソクラテスの活動を非難する声も高まりました。そのような中で富裕層の若者たちがソクラテスの影響を受けてソクラテスと同じような活動を行うようになると、ソクラテスは若者たちに悪影響を及ぼしたという罪で裁判にかけられました。

 ソクラテスは弁明を行いましたが、自説を曲げたり謝罪することはしませんでした。結果として毒薬の服用による死刑を宣告されました。弟子のプラトンたちは逃亡するように言い、ソクラテスに同情した牢屋番は牢屋の鍵を開けたままにしていたといいます。しかし、ソクラテスは自身の倫理学を貫き悪法も法であるという考えのもと死刑を受け入れ、紀元前399年4月27日に獄中で毒杯を飲みこの世を去りました。

ソクラテスの死(ジャック=ルイ・ダヴィッド、1787年)
ソクラテスの死(ジャック=ルイ・ダヴィッド、1787年)

 

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2026年4月16日 (木)

日露外交の先駆者パベル・レベデフ=ラストチキン

 18世紀後半、皇帝エカチェリーナ2世時代のロシア帝国は日本との外交と貿易を始めるにあたり、軍事力や外交使節を使わずシベリアや極東で活躍していた民間の商人たちの活動に期待していました。

 オホーツクやカムチャッカで活躍していたロシア帝国ヤクーツクの商人パベル・レベデフ=ラストチキンは大きな利益を生み出していた海上貿易に目をつけました。しかしながら、船を購入する資金がなかったためカムチャッカの司令官に千島列島と北海道近海の偵察を行う名目で支援を要請しました。船を得たラストチキンは日本に向けて出港しましたが、オホーツク海で嵐に遭い船が転覆してしまいました。ラストチキンは船を失いましたが、政府に提出した報告書がエカチェリーナ2世に認められ、別の商人のグリゴリー・シェリホフとともに千島列島における独占交易権を得ました。1775年夏に40人の入植者を引き連れてウルップ島に入植地を作る計画を立てましたが、ウルップ到着後に船が嵐で沈んでしまい計画は失敗に終わりました。

 ラストチキンは予備の船を用意し1778年に部下のドミトリー・シャバリンとイワン・アンチーピンをウルップ島に派遣しました。2人は国後島のアイヌ族長ツキノエの案内で1779年に蝦夷地の厚岸(北海道厚岸町)に到着しました。彼らは松前藩士にエカテリーナ2世の勅書と松前藩主への贈り物を渡して交渉を行おうとしましたが、松前藩は幕府に相談する必要があるため来年もう一度来るよう伝えました。この件について松前藩主の松前道広は幕府に報告しませんでした。翌年、再来した彼らに対して松前藩は交易を拒否しました。ラストチキンからの贈り物を返却し、日本との貿易を求めるのであれば長崎を訪れるよう伝えました。彼らは長崎に赴くことを断念しウルップ島に戻りました。

シャバリンとアンチーピンが厚岸に来航(1779年)
シャバリンとアンチーピンが厚岸に来航(1779年)

 その後、ウルップ島で大地震による津波が発生し、ウルップ島の船が内陸に打ち上げられてしまいました。この被害によりラストチキンは日本との貿易を断念しました。ラストチキンは日本との外交交渉に失敗してしまいましたが、当時の日本と接触した初めてのロシア人でオランダ人以外のヨーロッパ人となりました。

 エカチェリーナ2世は日本との外交交渉を民間主導から政府主導に切り替え、1792年にアダム・ラスクマンを公式の遣日使節として派遣しました。ラスクマンは漂流者の大黒屋光太夫らを送還し、日本との外交交渉を試みましたが、幕府はラスクマンに長崎への入港許可証(信牌)を交付し長崎に向かうよう要請しました。ラスクマンは長崎には向かわず帰国しました。1804年、ラスクマンが得た入港許可証(信牌)を使ってニコライ・レザノフが長崎を訪問しましたが、幕府は中国・朝鮮・琉球・オランダ以外の国と通信・通商の関係を持たないとして交渉を拒絶しました。エフィム・プチャーチンの長崎来航により日露和親条約が締結されたのは安政元年12月21日(1855年2月7日)のことです。

【参考記事】

高田屋嘉兵衛が択捉島と国後島の航路を開拓(寛政11年 1779年7月29日)

大黒屋光太夫がロシア女帝エカテリーナ2世の茶会に招待される|紅茶の日(11月1日)

ロシア使節ニコライ・レザノフが長崎から退去(文化2年 1805年3月19日)

ロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が長崎来航(1853年7月18日)

プチャーチンのディアナ号が大破|安政東海地震(1854年11月4日)

日蘭和親条約締結(1855年12月23日)

北方領土の日(1855年2月7日)

ロシア軍艦対馬占領事件(1861年2月3日)

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2026年4月 7日 (火)

江戸幕府が修学と商業目的の海外渡航を許可(慶応2年1866年4月7日)

 嘉永六年(1853年)のマシュー・ペリー提督による黒船来航をきっかけに江戸幕府は安政五年(1858年)にアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5カ国と修好通商条約を締結しました(安政五カ国条約)。その後、万延元年(1860年)にポルトガル、万延元年(1861年)にプロセイン、文久3年(1864年)にスイスと同様の条約を締結しています。

 江戸幕府は長らく日本人の海外渡航を原則として禁止していました。開国後に海外渡航が許されたのは外交使節や幕府関係者のみでした。しかしながら多くの日本人が幕府の許可なく海外に渡航しています。それらはすべて密航にあたりました。密航を禁じることが実質的に困難になると、幕府は慶応2年(1866年)4月7日に日本人の海外渡航を許可する觸達を出しました。また幕府はこの年にベルギー、イタリア、デンマークと修好通商条約を締結しています。

寅四月七日觸達

 海外諸國へ向後、学科修業又は商業之ため相越度志願之者は、願出次第、御差許可相成候。

 尤(もっとも)、糺(ただ)之上、御免之印章可相渡候間、其者名前並(ならびに)如何様之手続を以、何々之儀にて何れ之國へ罷越度旨等、委細相認(したため)、陪臣は其主人、百姓町人は其所之奉行・御代官・領主・地頭より、其筋へ可申立候。

 若(もし)御免之印章なくして、竊(ひそか)に相越候者も有之候ハヽ、厳重可申付候間、心得違無之様、主人々々又は其所之奉行・御代官・領主・地頭より、入念可被申付候。

四月

現代語訳

 今後、学問の修行や商売のために海外諸国へ渡航したいと希望する者は、願い出ればすぐに許可が下りることになりました。

 もっとも身元などを審査した上で、許可の証をお渡しします。つきましては、渡航希望者の氏名、どのような手続きを経て、何の目的で、どの国へ行きたいのかといった詳細を詳しく書き記してください。申請方法は、将軍に直接仕えていない陪臣は自分の主君を通じて、農民や町人はその地の奉行、代官、領主、地頭などの役所を通じて申し出てください。

 もし許可証を持たずに密入国(密航)しようとする者がいれば、厳重に処罰します。 手違いや間違いのないよう、それぞれの主君や各地の役人は、人々に念入りに言い聞かせてください。

 幕府が許可した海外渡航の条件は、修学(学術・留学目的)と商業(貿易・ビジネス目的)に限るものでしたが、身分を問わず誰でも申請が可能でした。海外渡航の対象国は条約締結済みの国に限られました。この觸達によって、日本人は密航を犯さず合法的に海外渡航できるようになりました。多くの日本人が海外渡航すると、多くの西洋の知識や技術が導入されるようになり、商業活動の拡大と経済発展に繋がりました。

 海外渡航を許可した幕府が手間取ったのは世界に通用する旅券の作成でした。国内に駐在していた欧米の外交官の協力を得て幕府が初めて発行された旅券「御免之印章」は同年10月17日に日本帝国一座を率いてパリ万博に参加する隅田川浪五郎に対して発行されました。

慶応2年(1866年)に発行された日本最古の旅券(外交史料館蔵)
慶応2年(1866年)に発行された日本最古の旅券(外交史料館蔵)

 

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2026年3月27日 (金)

幕末の水戸藩|天狗党が挙兵(元治元年 1864年3月27日)

ココログ「夜明け前」公式サイトで読む

 文政12年(1829年)9月、水戸藩第8代藩主の徳川斉脩は家督相続を公表しないまま病床に伏していました。斉脩には嫡子がなかったため異母弟の敬三郎が後継者でしたが、江戸家老の榊原照昌らは第11代将軍徳川家斉の子で斉脩の正室の峰姫の弟にあたる清水恒之丞を後継者とすべきと主張しました。水戸藩の多くの家臣は藩の財政が厳しい状況にあったことから家斉の子が藩主になれば江戸幕府からの支援が厚くなると考え後継者を恒之丞とすることに賛成しました。

 これに対して水戸藩士で水戸学学者の藤田東湖と会沢正志斎は異母弟とはいえ血筋から敬三郎を後継者とするべきと主張し江戸幕府に再考を求めました。同年10月4日に斉脩が亡くなると後継者を敬三郎とすると記された遺書が公開されたため、敬三郎は斉脩の養子となり江戸幕府から承認を得て水戸藩第9代藩主となりました。敬三郎は名を徳川斉昭と改めました。一方の恒之丞は後に徳川斉彊と名を改め紀州徳川家を継ぎ紀伊和歌山藩の第12代藩主となりました。

水戸藩第9代藩主 徳川斉昭
水戸藩第9代藩主 徳川斉昭

 水戸藩主となった徳川斉昭は天保12年(1841年)に藩校の弘道館を設立し広く人材を登用しました。斉昭は自身の擁立に尽力した東湖や正志斎らを家臣として重用しました。幼い頃から正志斎のもとで水戸学を学んでいた斉昭は正志斎が体系化した尊皇攘夷思想を水戸学に取り入れ藩政改革を進めました。斉昭が進める藩政改革が過激化すると、反対派は彼らが鼻高々と偉ぶっていると揶揄し天狗党(天狗連)と呼びました。

 斉昭を支持していた江戸幕府老中の水野忠邦が失脚すると後任の阿部正弘は天保15年(1844年)に過激な藩政改革を進める斉昭を強制的に隠居させ水戸藩の家督を嫡男の慶篤に譲らせました。これによって天狗党の面々も謹慎を言い渡されました。斉昭は正弘に水戸藩では義をもって国家に忠誠する有志を天狗と呼ぶと主張し反対派を牽制しました。その後、水野忠邦が老中に短期間復帰したときに斉昭は謹慎を解かれ第10代藩主徳川慶篤の後見となり水戸藩の藩政に復権しました。

 【参考】ビスケットの日(2月28日)

 嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが率いる黒船艦隊が浦賀に来航すると、阿部正弘は人材不足の中で斉昭の軍事と外交に関する能力を評価し斉昭を海防参与に命じました。これによって斉昭は幕政に関わるようになりました。圧倒的な軍事力を背景に開国を求めるペリーに対して幕府は嘉永7年(1854年)に日米和親条約を締結しました。

 【参考】黒船来航(1853年7月8日旧暦6月3日)

 【参考】マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)

 日米修好通商条約の締結後、アメリカ合衆国の初代日本総領事に就任したタウンゼント・ハリスは幕府に通商条約の締結を求めました。安政4年(1857年)に正弘が死去すると、老中首座となった堀田正睦は米国をはじめとする列強を前に修好通商条約を締結せざるを得ないと考えるようになりました。斉昭はこれに強く反対しました。とりわけ幕政に関わり開国を主張していた彦根藩主の井伊直弼と激しく対立しました。

 安政2年(1855年)10月、安政江戸地震が発生し小石川の水戸藩藩邸が倒壊しました。この地震で斉昭の重臣の戸田忠太夫、藤田東湖が死亡しています。重臣を失った水戸藩では内部抗争が激しくなりました。

 【参考】小石川後楽園が完成(1629年9月28日)

 【参考】幕末の混乱期に大地震|安政江戸地震(1855年10月2日)

 正睦は孝明天皇の勅許を得るために上京しましたが、朝廷の公家たちはこれに反対しました。和親条約を許した孝明天皇も通商条約については国の秩序を乱すことになると考え勅許を拒否しました。勅許を得られなかった正睦は将軍の信頼を失い失脚することになりました。

 【参考】廷臣八十八卿列参事件(1858年3月12日)

 斉昭と直弼は第13代将軍の徳川家定の継嗣者の擁立でも対立しました。斉昭は実子の一橋家当主の徳川慶喜を擁立する一橋派、直弼は紀州藩主の徳川慶福を擁立する南紀派を形成し対立しました。

 【参考】一橋徳川家を創設(1740年11月18日)

 安政5年(1858年)に直弼が大老の座につくと南紀派が擁立する慶福が第13代将軍の徳川家茂となりました。直弼は列強との交渉が進む中で朝廷を説得する時間的余裕がないと考え天皇の勅許を得ぬまま日米修好通商条約を締結しました。

 【参考】日米修好通商条約に調印(1858年6月19日)

 斉昭は将軍の後継問題と条約締結に関し水戸藩主の慶篤、尾張藩主の徳川慶恕とともに無断で江戸城に登城し直弼に詰問しました。直弼はこれを問題視し斉昭を幕政から外し水戸藩江戸屋敷での謹慎を命じました。孝明天皇は勅許を得ずに条約を締結した江戸幕府を問題視し、水戸藩に対して幕政改革を指示する勅書「戊午の密勅」を直接下賜しました。

 【参考】戊午の密勅(1858年8月8日)

 安政6年(1859年)8月、直弼は江戸幕府を飛び越えて水戸藩に下賜された「戊午の密勅」は水戸藩の陰謀とし、水戸藩家老などを処罰し、斉昭に永蟄居を命じ、慶篤には出仕を禁じ謹慎処分としました。これをきっかけに井伊直弼は一橋派や尊皇攘夷派を弾圧を始めました。これが「安政の大獄」です。

 この勅書の扱いについて水戸藩内でも対立が起こりました。会沢正志斎ら尊攘鎮派は幕府の命に従い勅書を朝廷に返納することを主張しましたが、これに対して家老で武田耕雲斎を中心とした尊攘激派は密勅を実行するべきと主張しました。斉昭は正志斎の説得により安政7年(1860年)に勅書の返納を決断しましたが藩内の対立が激化したため返納を延期しました。

 その後、尊攘激派の高橋愛諸らは実力行使で勅書を奪うため挙兵しました。これに対して正志斎は鎮圧軍を編成しましたが、これを知った愛諸らは水戸藩を脱藩して江戸に逃れました。「安政の大獄」に憤慨していた水戸脱藩藩士と薩摩浪士の有村兼武と有村兼清らは同年3月3日に上巳の節句(桃の節句)の祝いで登城してきた直弼を江戸城桜田門外で襲撃し暗殺しました。これが桜田門外の変です。この事件により勅書の返納はうやむやになりました。孝明天皇は黒船来航、安政大地震、桜田門外の変と災異(凶事)が続いたため元号を安政から万延に改元する一方で幕府に対して攘夷を実行するよう求めました。

 【参考】上巳の節句とひな祭り(3月3日)

 【参考】万延に改元(1860年3月18日)

 同年8月15日、斉昭が病没すると水戸藩の混乱は激化しました。尊攘激派は第一次東禅寺事件や坂下門外の変を起こしましたが首謀者は討ち取られ勢力を弱めました。

 【参考】第一次東禅寺事件(1861年5月28日)

 文久2年(1862年)12月、孝明天皇は幕府に対し攘夷実行を勅命しました。幕府は列強が要求する開国の流れは止められず攘夷は不可能と考えていました。文久3年(1863年)3月、第14代将軍の徳川家茂は朝廷の要求に応じて上洛することになりました。このとき将軍後見職となっていた一橋慶喜は家茂に先立ち上洛することになり、慶喜の実家の水戸藩主の徳川慶篤が随行することになりました。

 この頃、水戸藩では武田耕雲斎ら尊攘激派が藩政の中心となり、尊王攘夷派の有志の結集を進めていました。武田耕雲斎、山国兵部、藤田東湖の四男の藤田小四郎などが慶篤に随行しました。上洛後、小四郎らは長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞と出会い尊皇攘夷思想を強めていきました。その後、上洛した家茂は朝廷と幕府で協力する公武合体を前提に同年5月10日をもって攘夷を実行することを孝明天皇に約束しました。実際のところ幕府は武力による攘夷は困難なため外交的な手続きで開港地を閉港することにしました。幕府は通商条約を見直すことと海防を強化することを諸藩に命じました。しかし、列強との交渉は容易いものではなく開国派の反対もあり攘夷は実行できずにいました。

 攘夷の約束の期日の5月10日、長州藩は幕府の攘夷の命令に従うという口実で馬関海峡(関門海峡)を通過する外国船に砲撃を開始しました。この事件は列強の連合軍と長州藩の間で馬関戦争(下関戦争)に発展しました。武力による攘夷は困難であることを理解していた孝明天皇は過激な攘夷派の長州藩や公家を排除したいと考えるようになりました。

 自分の知らないところで京都守護職の会津藩藩主の松平容保に江戸に戻る勅命が出ていることを知った孝明天皇は会津藩と薩摩藩に過激な攘夷派を排除することを命じました。同年8月の「八月十八日の政変」により長州藩と攘夷派の公家は京都から一掃されました。この「八月十八日の政変」で活躍したのが江戸から家茂の護衛で随行し京都に残留した壬生浪士組です。容保は彼らの功績を評価し新選組という隊名を与えました。

 【参考】八月十八日の政変(1863年8月18日)

 【参考】第9話「浪士組西へ」|明日なき戦いの果てに

 【参考】新撰組の日(1863年3月13日)

 「八月十八日の政変」後、孝明天皇は改めて幕府に対して攘夷実行を命じました。慶喜は横浜港を閉港する攘夷を計画しましたが幕府の開港派が反発したため実行できませんでした。諸藩の攘夷派の志士たちは長州藩が京都から排除されたため水戸藩に期待を寄せるようになりました。水戸に多くの攘夷派の志士が集まると、小四郎は長州藩と連携した挙兵を企てました。耕雲斎は小四郎を止めようとしましたが、小四郎は挙兵の準備を進めました。このとき小四郎は水戸学に傾倒し尊皇攘夷派で倒幕を企ていた尾高惇忠、渋沢栄一、渋沢成一郎とも交流しています。尾高惇忠らは独自に上野国群馬郡(群馬県高崎市)の高松城乗っ取り鎌倉街道を進軍し横浜の外国人居留地を焼き討ちにして攘夷を行い長州藩と幕府を倒す計画を立てましたが実行には至りませんでした。

 【参考】有為転変の人生|渋沢成一郎と渋沢栄一

 文久4年(1864年)1月、将軍家茂は2度目の上洛を果たしました。慶喜は参預会議において横浜港の閉港について議論したものの開港派の諸侯と対立し参預会議を解体しました。朝廷から禁裏御守衛総督に任命された慶喜は水戸藩に協力を要請し、水戸藩士の原市之進と梅沢孫太郎を家臣に加えました。耕雲斎は慶喜の要請で数百名の水戸藩士を京都に派遣しました。

 元治元年(1864年)3月27日、攘夷が実行されないことに不満を持った藤田小四郎は横浜港の閉港を求めて、水戸町奉行の田丸稲之衛門を主将とする62人の同志と筑波山で挙兵しました。筑波山には各地から浪士などが集結し総勢1400人となり筑波勢と呼ばれました。彼らは天狗党を中心とする過激な尊皇攘夷派でしたが、表向きには徳川家康の遺訓として攘夷を行うこと記した檄文をもって日光東照宮で攘夷決行の祈願をしています。この筑波勢が天狗党です。このような状態の中で武田耕雲斎は藩政の混乱を収拾しようとしましたが各派閥の折り合いをつけることができませんでした。藤田らの行動は水戸藩の方針に反する行為ではあったものの、耕雲斎は後に小四郎の熱心な説得により天狗党の首領となっています。

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2026年3月26日 (木)

新選組 近藤勇と土方歳三の出会い

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 梅村真也原作・ 橋本エイジ作画の漫画「ちるらん 新撰組鎮魂歌」において、土方歳三は石田散薬の行商をしながら剣を磨き、道場破りで偶然立ち寄った試衛館(試衛場)で近藤勇と出会い、勝負に敗れて試衛館に入門したとされています。しかしながら、この描写は史実とは異なり、2人が出会ったのは日野宿組合名主の佐藤彦五郎の道場です。

 佐藤彦五郎は文政10年9月25日に武蔵国多摩郡日野宿で長男として生まれました。11歳で祖父の10代彦右衛門から日野本郷名主、日野宿問屋役、日野組合村寄場名主を継ぎました。嘉永2年1月18日、日野宿の大火が発生した折、家族が殺害されたことで自衛の必要姓を感じ、八王子千人同心石阪組世話役の井上松五郎に天然理心流を紹介され、嘉永3年(1850年)に天然理心流3代目宗家の近藤周助の門人となり日野宿で道場を開きました。井上松五郎の弟は後に新選組六番隊長となった井上源三郎で、次男の井上泰助も新選組隊士になっています。

日野宿組合名主 佐藤彦五郎
日野宿組合名主 佐藤彦五郎

 近藤勇は天保5年10月5日に武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市野水)に農家の三男として生まれました。幼名は勝五郎で、後に勝太と改めています。嘉永元年(1848年)11月11日に牛込(東京都新宿区)の天然理心流剣術道場試衛場に入門しました。万延2年8月27日に府中六所宮で天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い流派一門の宗家を継ぎました。

新選組局長 近藤勇
新選組局長 近藤勇

 土方歳三は天保6年5月5日(1835年5月31日)武蔵國玉郡石田村(東京都日野市石田)の農家の末子として生まれました。14歳から24歳まで奉公に出て、その後は実家に戻り土方家秘伝薬「石田散薬」を行商しながら剣術の修行に励みました。このときに試衛場に道場破りをしたという事実はありません。土方歳三は実姉のらん(とく、佐藤のぶ)が佐藤彦五郎に嫁いでいた関係から佐藤彦五郎の道場に出入りしていました。ここで彦五郎と義兄弟の契りを結んでいた試衛館の近藤勇に出会いました。土方歳三が正式に天然理心流に入門したのは安政6年(1859年)3月9日とされています。

新選組副長 土方歳三
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2026年3月19日 (木)

ロシア使節ニコライ・レザノフが長崎から退去(文化2年 1805年3月19日)

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 ロシア帝国の外交官・貴族で露米会社の総支配人を努めていたニコライ・ペトロヴィチ・レザノフは露米会社の経営改善やロシアの発展には南方の日本や清との交易を確立することが重要と考えて遣日使節の派遣を宮廷に働きかけました。

ニコライ・ペトロヴィチ・レザノフ
ニコライ・ペトロヴィチ・レザノフ

 レザノフは寛政4年(1792年)にアダム・グラスマンが日本人漂流民の大黒屋光太夫らを送還する目的でエカテリーナ号で根室に来航した際に幕府に通商を求めていたことに目を付けました。江戸幕府老中の松平定信はグラスマンに長崎港の入港許可証(信牌)「おろしや国の船壱艘長崎に至るためのしるしの事」と交付しました。グラスマンは長崎には向かわずそのままロシアに帰りましたが、幕府はこれをきっかけに蝦夷奉行を設置しました。レザノフはこの入港許可書を利用して長崎を訪れ幕府に通商を求めようと考えたのです。

【参考】江戸幕府が蝦夷奉行を設置(享和2年 1802年2月23日)

 レザノフは日本人漂流民の津太夫らを送還する目的でロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えた正式な使節団を率いて日本に通商を求める遣日使節として長崎に向かうことになりました。レザノフはアーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの世界一周航海艦隊(旗艦ナジェージタ号)で、バルト海沿岸のサンクト・ペテルブルクから出航し南米回りで太平洋に出てハワイ王国を軽油してカムチャツカ半島のペトロパブロフスク・カムチャツキーに到着しました。そして1804年(文化元年)9月に長崎に来航しました。

レザノフのナジェージダ号での長崎来航
レザノフのナジェージダ号での長崎来航

 レザノフが来日したときには松平定信は失脚しており、老中の土井利厚が対応しました。通商条約を結ぶ考えのない幕府は艦隊の入港を認めず、海上で2ヶ月も待機させました。上陸後も出島の宿舎に半年近く滞在しました。レザノフらは長崎奉行を通じて交渉を行いましたが、長崎奉行の遠山景晋(遠山景元の父)は「唐山(中国)・朝鮮・琉球・紅毛(オランダ)以外とは通商せず」という「朝廷歴世の法」を理由に通商を拒否しました。漂流民は引き取りましたが、ロシア皇帝の親書や献上品を受け取らず退去を命じました。レザノフは幕府に非礼に憤慨しましたが、翌年の文化2年(1805年)3月19日に長崎を出港しカムチャツカへ戻りました。

 日本の対応に憤慨したレザノフは日本に開港を要求するには武力による方法しかないと考えるようになり、部下に樺太や択捉島などの日本の拠点を攻撃するよう命じました。これが文化露寇(フヴォストフ事件)に発展しました。幕府は文化露寇の報復として文化8年(1811年)5月に軍艦ディアナ号で千島列島の測量を行っていたヴァーシリー・ゴローニンを拿捕、ロシアはその報復として文化9年8月13日に高田屋嘉兵衛を拿捕しました。いわゆるゴローニン事件が起こりました。

 

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