カテゴリー「歴史」の196件の記事

2024年9月15日 (日)

幕府が「大船建造の禁」を解禁(1853年9月15日)

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 慶長14年(1609年)9月、江戸幕府は西国の大名らが所有する水軍力を抑止するため500石積以上の軍船と商船を没収しました。ただし500石積以上でも外洋を航行する目的の朱印船は除外されました。

 寛永12(1635年)6月、江戸幕府は武家諸法度を改定し全国の大名に対して500石積以上の大型船の建造禁止令を出しました。この禁止令では商船は除かれていましたが対象となる船種が明確ではありませんでした。そこで寛永15年(1638年)に制限対象を軍船とすることが明記されました。 大船建造はその後も見直され武家諸法度は何度も改正されました。商船は内航船の弁才船が広く使われるようになりました。

弁才船(1860年頃)
弁才船(1860年頃)

 江戸時代後期に日本沿岸に異国船が現れるようになりましたが、幕府や諸藩が所有していて船舶では対応することができませんでした。このような状況の中、大船建造の必要性の声が高まり「大船建造の禁」の撤廃が求められるようになりました。

 嘉永6年(1853年)6月にアメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督が艦隊を率いて来航しました。この黒船来航により幕府も大型軍艦の必要性を認識し「安政の改革」の中で同年年9月15日に「大船建造の禁」を解禁しました。嘉永7年(1854年)、幕府は浦賀に造船所を開き浦賀奉行に「鳳凰丸」を建造させました。これにより幕府や諸藩が西洋式の軍艦を建造し所有するようになりました。

 海運は弁才船が主流となっていましたが文久元年(1861年)には商人なども西洋式の大型商船を所有できるようになりました。しかし、「安政の大獄」や「桜田門外の変」から幕政の混乱が始まり商業の発展どころではなくなりました。

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2024年9月14日 (土)

古文書にみる榎本武揚 〔思想と生涯〕

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古文書にみる榎本武揚 〔思想と生涯〕

合田 一道 (著)

 榎本武揚の手紙や日記などをもとに榎本武揚が幕末から戊辰戦争、明治維新をどのように生き抜いたのかをまとめた伝記です。目次を見るとわかりますが時系列に榎本武揚の人生を振り返ることができます。

古文書にみる榎本武揚 〔思想と生涯〕

近代日本の万能人に資料から迫る!

裏切り者か、新政府の切り札か――日本近代史において榎本武揚ほど評価のわかれる人物は他にいない。一般的なイメージでは捉えきれないその複雑な人間像と魅力を、榎本家に現存する書簡や、図書館等に保管されている日記・古文書類を渉猟しあぶり出す。膨大な資料を読み解く中でその思想、信条に触れながら、逆賊から一転、政府高官にのぼりつめた榎本武揚という人物の実像に迫る。『環』の好評連載に大幅に加筆し、単行本化。
[附]年譜・人名索引

【目次】

この本を手にした方へ

第一章 外国への視線

  • 「鍋」と「釜」 奉行に従い蝦夷地へ 長崎海軍伝習所へ
  • 言葉の壁越えて カッテンデイケの評価 海軍伝習所閉鎖
  • オランダ留学生 西洋の大晦日 十字星を詠む
  • 新年を賀す ナポレオンの墓 汽車に驚く
  • 国際公法を学ぶ

第二章 戊辰の嵐に、立つ

  • 赤松とともに観戦 祖国の老母を思う 開陽丸と命名
  • 大河喜太郎の死 開陽丸、日本へ 武揚、開陽丸艦長に
  • 薩摩の船団を破る 母らへ決意の便り 四艦を朝廷へ
  • 八隻の旧幕艦隊 皇国一和の基を開く 咸臨丸、悲惨
  • 仙台藩、恭順

第三章 蝦夷の大地、燃ゆ

  • 嘆願、吹っ飛ぶ 開陽丸座礁、沈没 英仏艦長に嘆願書託す
  • 武揚、入札で総裁に 岩倉、嘆願書を握り潰す
  • 母、姉、妻への便り 新政府軍、蝦夷地へ 武揚、馬上から叱咤
  • 箱館総攻撃 凌雲通じ、降伏勧告 自刃果たせず
  • 降伏、東京へ護送

第四章 死を前にした化学者

  • 牢獄で新政府を批判 福沢諭吉が偽の嘆願書 武揚の便り
  • 妻、多津への思い 化学者の目 母ことの死
  • 福沢諭吉の策謀 出牢、開拓使へ 三度目の北海道

第五章 開拓使で鉱山調査

  • 武揚の見た茅ノ澗 「上等ノ汽炭ト称スベシ」
  • 武揚、ケプロンと対立 イクシベツ石炭山
  • 空知川岸に石炭山発見 小樽に土地を入手 北垣国道と再会
  • 釧路の海岸線に石炭層 松本十郎への書簡 突然、海軍中将に
  • 全権公使としてロシアへ

第六章 日露交渉と「シベリア日記」

  • 樺太釜泊殺人の談判 黒田にテンの毛皮送る
  • 妻へ、いたわりの便り 樺太千島交換条約に締結 欧州の旅へ
  • ロシア・トルコが戦争 帰国、延期に
  • シベリア横断と「西比利亜日記」 馬蹄過ぐる所砲煙の如し
  • アザラシの一種を描く 寺院の仏像、日本と同じ

第七章 降りかかる国家の難題

  • 明治十四年の政変 壬午事件で清国公使に 妻子を連れ北京へ
  • 李鴻章と会い昵懇に 天津条約締結の陰に
  • 内閣発足、逓信大臣に 幌内炭鉱の発展に驚く
  • 憲法発布の朝、文部大臣暗殺 教育の責任こそ大事
  • ロシア皇太子、斬られる 同日同時間に便り出し合う
  • メキシコ殖民と妻の死

第八章 隕石で流星刀を造る

  • 三国干渉と「臥薪嘗胆」 足尾鉱毒が社会問題化
  • 大臣を辞任し、市井の人に 隕石で「流星刀」を作る
  • 流星刀の論文 黒田清隆逝く 『瘠我慢の説』
  • 「いずれ愚見を」と返事 碧血碑に詣で、死ぬ

あとがき――榎本武揚が残したもの

参考文献

年譜

人名索引

【登録情報】

出版社 ‏ : ‎ 藤原書店 (2014/9/25)
発売日 ‏ : ‎ 2014/9/25
言語 ‏ : ‎ 日本語
単行本 ‏ : ‎ 329ページ
ISBN-10 ‏ : ‎ 4894349892
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4894349896

古文書にみる榎本武揚 〔思想と生涯〕

合田 一道 (著)

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2024年9月13日 (金)

兵庫開港要求事件(1865年9月13日)

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 安政5年(1858年)に締結された日米修好通商条約およびその他諸国との条約(安政五カ国条約)により、兵庫港は1863年から開港されることになりました。天皇の勅許を得ないままで締結した通商条約に朝廷は反発し、和親条約には理解を示していた孝明天皇も通商条約には反対の意を表明し、とりわけ京都に近い兵庫の開港については拒否しました。

 安政五カ国条約では江戸と大阪の開市、新潟・兵庫を開港することになっていましたが国内の経済や政治の状況から期限内での履行が困難になったため幕府は文久元年(1862年)に文久遣欧使節を欧州に派遣しイギリスとロンドン覚書を調印したうえで各国と交渉を重ね、開市と開港を5年延長し1868年1月1日にすることになりました。これによって孝明天皇が拒否した兵庫開港も先送りできました。

文久遣欧使節(左から松平康直、竹内保徳、京極高朗、柴田剛中)
文久遣欧使節(左から松平康直、竹内保徳、京極高朗、柴田剛中)

 尊皇攘夷の勢力が台頭する中で江戸幕府は第14代将軍の徳川家茂と仁孝天皇の第8皇女で孝明天皇の異母妹の和宮親子内親王の婚姻を進めました。孝明天皇は政治を従来通り江戸幕府に任せる公武合体を進める代わりに幕府に対して攘夷を行うよう要請しました。列強に対して武力による攘夷は不可能と考えた江戸幕府は外交交渉により横浜を閉港することにしましたが幕府内での意見の対立もあり実行に移すことができずにいました。これに対して攘夷派の志士が攘夷運動を起こしました。

 文久3年(1863年)、長州藩は馬関海峡を航行するアメリカ、フランス、オランダの艦船を砲撃し武力による攘夷を実行しました。この攘夷により下関戦争が勃発、文久4年(1864年)、長州藩の海峡封鎖により多大な損失を被っていたイギリスはアメリカ、フランス、オランダとともに連合艦隊を編成し長州藩を攻撃しました。長州藩は列強の連合艦隊に太刀打ちすることはできず敗戦しました。

馬關戰争圖(藤島常興、下関市市立長府博物館)
馬關戰争圖(藤島常興、下関市市立長府博物館)

 長州藩は列強から賠償金300万ドルの支払いを求められましたが、交渉を担当した高杉晋作は伊藤博文を通訳として攘夷は幕府の命令に実行したものであり賠償金は幕府に請求するべきと主張しました。連合国はこれを了承し幕府に対して300万ドルの支払いと連合国が納得する提案をするよう求めました。

高杉晋作(中央)と伊藤博文(右)
高杉晋作(中央)と伊藤博文(右)

 江戸幕府の混乱に乗じて兵庫港の開港と天皇から勅許を得ることを考えた英国公使ハリー・パークスは連合国と強調して兵庫に艦隊を派遣しました。慶応元年9月13日、英国軍艦4隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦1隻の合計8隻からなる艦隊が横浜を出港、9月16日に兵庫港に到着しました。

 この事態に江戸幕府は老中の阿部正外と松前崇広を派遣しました。正外と崇広は9月23日から連合国公使と交渉を行いましたが、連合国側は速やかに回答を得られない場合は江戸幕府に条約を進める力がないと判断し京都に向かい天皇と直接交渉すると強硬な主張をしてきました。正外と崇広は連合国側の要求を拒むことは不可能と考え無勅許で兵庫港を開港することを決めました。その後、一橋慶喜が無勅許による開港を咎めましたが、正外と崇広は連合国と朝廷が直接交渉を行うと幕府は崩壊すると主張しました。朝廷は無勅許での開港をした正外と崇広の官位を剥奪し改易の勅命を出しました。江戸幕府は9月29日に両名を解任しました。

阿部正外 松前崇広
阿部正外(左)と松前崇広(右)

 連合国側は改めて幕府に対して10日以内に回答をするよう求めました。この事態に孝明天皇は開港に同意し、江戸幕府は連合国と条約を締結することになりました。交渉により兵庫港の開港日は前倒しされることなく当初の慶応3(1868年)となりましたが、幕府は下関戦争の賠償金300万ドルを支払うことになりました。

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2024年9月11日 (水)

榎本釜次郎らがオランダ留学のため長崎出航(1862年9月11日)

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 文久元年(1861年)3月、異国船に匹敵する軍艦の必要性を認識した江戸幕府はアメリカ駐日行使タウンゼント・ハリスに蒸気軍艦3隻の発注を打診し、榎本釜次郎、内田正雄、澤太郎左衛門、赤松則良、田口俊平、津田真道、西周にアメリカへ留学させることにしました。しかしながら、ハリスは米国の南北戦争の拡大を理由に幕府の申し入れを断りました。そこで幕府は文久2年(1862年)3月にオランダに蒸気船1隻を発注し、釜次郎らの留学先もオランダに変更しました。

榎本武揚
榎本武揚

 オランダ留学に選ばれたのは次の15名で次世代の幕府海軍を支える期待の人物たちでした。

  • 内田恒次郎(軍艦操練所軍艦乗組 船具運用、砲術専攻)
  • 榎本釜次郎(軍艦操練所軍艦乗組 船具運用、砲術、機関専攻)
  • 澤太郎左衛門(軍艦操練所軍艦奉行支配 船具運用、砲術、鉄砲火薬専攻)
  • 赤松大三郎(外国奉行支配役並出役 船具運用、砲術、造船専攻)
  • 田口俊平(外国奉行支配調役並出役 船具、砲術、測量専攻)
  • 津田真一郎(洋書調所教授方出役 国際法、財政学、統計学専攻)
  • 西周助(洋書調所教授方出役 国際法、財政学、統計学専攻)
  • 古川庄八(水夫頭習得)
  • 山下岩吉(上等水夫習得)
  • 中島兼吉(大砲鋳物師習得)
  • 大野弥三郎(測量機械師習得)
  • 上田寅吉(船大工 船大工習得)
  • 林研海(医師 医学専攻)
  • 伊東玄伯(医師 医学専攻)
  • 大川喜太郎(鍛工習得)

 同年6月18日、15名の留学生は咸臨丸で長崎に向けて品川沖を出発しました。しかし、恒次郎、釜次郎、太郎左衛門、大三郎が麻疹にかかったため下田に立ち寄り療養することになりました。一行が長崎に到着したのは同年8月23日です。オランダ行きの準備を整えた一行は同年9月11日にオランダの商船「カリップス号」で長崎を出港しました。「カリップス号」が最初に向かったのは当時のオランダ領だったバタヴィア
(インドネシア首都ジャカルタ)です。ところがジャワ島付近で暴風雨に遭い「カリップス号」が座礁してしまいます。一行はオランダ人の船員や商人らとともにボートで漂流していたところをマレー船に発見されレパル島に運ばれました。その後、ジャワ政府から連絡を受けたオランダ領事館に救出され無事にバタヴィアに到着しました。一行はオランダ客船「テルナーテ号」に乗り換え、同年11月2日にバタヴィアを出港しオランダのロッテルダムに向かいました。

 バタヴィアからロッテルダムまでの行程は釜次郎が日誌をつけています。「テルナーテ号」はインド洋を西へ向かいアフリカ南端の喜望峰(ケープ・オブ・グッド・ホープ)を回り大西洋を北上しました。文久3年2月8日、、南大西洋に浮かぶ孤島のセントヘレナ島に上陸し島流しとなったナポレオンの寓居跡などを見学しました。セントヘレナ島からロッテルダムに向けて出向し68日間をかけて同年4月18日に到着しました。長崎出向からは250日にもなる長旅となりました。

 ロッテルダムに到着すると、ちょんまげに羽織袴で刀を差した留学生たちをめずらしがって多数のオランダ人が見物に来ました。釜次郎らを出迎えたのは海軍伝習所で教官を務めたヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケやヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトでした。伝習所で釜次郎はカッテンディーケに高く評価されていました。釜次郎はポンペの紹介でハーグで下宿することになり、ここで船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法などを学びました。そして欧州を見学して回りました。この経験が後の釜次郎の達観した世界観と優れた外交力の礎になったに違いありません。

オランダ留学中の榎本釜次郎
オランダ留学中の榎本釜次郎

 江戸幕府がオランダに発注した軍艦は釜次郎の発案をもとに「開陽丸」と名付けられ慶応2年(1866年)7月17日に竣工しました。

開陽丸(Voorlichter)
開陽丸(Voorlichter)

 留学生一行は同年10月25日に開陽丸(艦長はオランダ海軍大尉ジュール・アーサー・エミール・ディノー)はオランダのフリシンゲン港を出向、ブラジルのリオデジャネイロから喜望峰を周ってインド洋を東に進みオランダ領東インドのアンボイナを経由して慶応3年(1867年)3月26日に横浜港に帰着しました。開陽丸と留学生たちは軍艦奉行の勝海舟らに出迎えらました。同年5月10日、釜次郎は幕府から軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任じられ同年7月8日には軍艦頭並となりました。この年、オランダ留学生の林研海の妹で奥医師の林洞海の長女多津(たつ)と結婚しました。

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2024年9月 8日 (日)

明治時代が始まる(1868年9月8日)

  慶応3年(1867年)、江戸幕府の15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行うと明治天皇は勅令「王政復古の大号令」を発しました。これによって新政府が成立し江戸幕府は終焉しました。

 第121代孝明天皇と公武合体を進めようとしていた徳川慶喜と佐幕派の大名は大政奉還をしたうえで新政府への参画を考えていました。しかし、慶応2年(1866年)12月25日に孝明天皇が崩御しその後ろ盾を失っていました。孝明天皇が崩御すると慶応3年1月9日(1867年)に明治天皇が14歳で第122代天皇を継承しました。。即位の礼は同年11月に執り行う予定でしたが「大政奉還」に始まる混乱により見送られました。

聖徳記念絵画館壁画「践祚」(川崎小虎画、池田宣政侯爵奉納)
聖徳記念絵画館壁画「践祚」(川崎小虎画、池田宣政侯爵奉納)

 これをきっかけに倒幕派の公家、薩摩藩、長州藩が台頭し徳川慶喜の排除を画策しはじめました。薩摩藩の西郷隆盛は幕府を挑発するため勤王派浪士たちに江戸の名だたる商家を襲撃させました。幕府は江戸市中の警備を強化しましたが勤王派浪士は過激な活動を続け、たまりかねた幕府はこれを薩摩藩の開戦と見なし慶喜は朝廷に薩摩藩の罪を訴え京都に軍勢を送りました。これがきっかけとなって慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が開戦したのです。 

 明治天皇の即位の礼は慶応4年(1868年)8月27日)に執り行われました。即位の礼は江戸時代の唐風儀式を取りやめ日本古来の方式で行われました。新政府は徳川幕府の時代が終焉し新しい時代を迎えることを知らしめたのです。

 慶応4年4月11日(同年5月3日)に江戸開城すると新政府は同年5月12日(同年7月1日)に江戸府を設置し7月17日(9月3日)に江戸を東京と改称、江戸府は東京府となりました。この日、明治政府が「江戸を東京と称す」との明治天皇の公文書「詔書」を公示しています。
明治元年(1869)年に明治天皇が皇居に入ると東京は事実上の首都となりました。

 慶応4年(1868年)9月8日(1868年10月23日)、明治に改元されました。慶応は江戸時代における最後の元号となりました。明治以降は一世一元の制となり(一世一元の詔発布)となり同じ天皇の時代に改元されることはなくなりました。

 戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館戦争が終結したのは明治2年(1869年)5月18日(1869年6月27日)のことです。

【関連記事】

建国記念の日(2月11日)

慶応に改元(1865年4月7日)

薩長同盟(1866年1月21日)

孝明天皇祭(1867年1月30日)

第12話「大政奉還と明治政府樹立」|明日なき戦いの果てに

王政復古の大号令で明治政府樹立(1867年12月9日)

戊辰戦争(鳥羽伏見の戦)の開戦(1868年1月3日)

明治天皇の即位の礼(1868年8月27日)

明治時代が始まる(1868年9月8日)

明治天皇が崩御(1912年7月29日)

大正時代始まる(1912年7月30日)

昭和改元の日(1926年12月25日)

「平成」の世が始まる(1989年1月8日)

昭和の日|旧緑の日(4月29日)

東京都政記念日(1943年7月1日 )

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2024年9月 7日 (土)

日枝神社|新選組「燃えよ剣」第10節「スタスタ坊主」の日枝明神

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  東京都八王子市大和田4丁目に甲州街道に面した「日枝神社」の鳥居があります。

日枝神社(八王子市大和田町)
日枝神社(八王子市大和田町)

 この鳥居の奥の急階段を登り小高い丘の上に出ると日枝神社の本殿があります。

日枝神社の本殿(八王子市大和田町)
日枝神社の本殿(八王子市大和田町)

 境内を通り抜けると日枝神社の入り口があり社号碑がありましたのでこちらが正門のようです。

日枝神社の社号碑(八王子市大和田町)
日枝神社の社号碑(八王子市大和田町)

 社号碑の横には案内板があります。読んでみると新選組の土方歳三や沖田総司の名前が出ています。

日枝神社の案内板(八王子市大和田町)
日枝神社の案内板(八王子市大和田町)

案内板の内容

日枝神社の由緒

 日枝神社の御祭神、大山咋神(おおやまくいのかみ)は滋賀県近江の国の比叡山に坐し、山の神であると共に、広く地主(とこぬし)の神として崇められ、大地を支配し、万物の成長発展や産業万般の守護神として、その御神徳は広大無辺であります。

 徳川幕府が安定し、江戸の町が栄えるに伴って、赤坂日枝神社を総鎮守とする日枝神社が各地に分祀され、当神社は「山王さま」と呼ばれて大和田村の人々に崇敬され『新編武蔵風土記稿』の中には

  『山王社社地、四十七間に三十間、村の東よりの境にあり鎮座の

  初を知らず、御朱印社領五石を賜はれり』

と記載されております。
 
また、新撰組副長の土方歳三や一番隊組長の沖田総司が、京の都に上がる以前の血気盛んな頃、昼なお暗い山王さまの社で大暴れしたくだりが、作家司馬遼太郎の不朽の名作『燃えよ剣』に詳細に描かれております。

 現在の社殿は、昭和五十年に氏子の方々のご浄財により造営され、厄除け・商売繁盛・合格祈願・病気平癒等広く崇められております。

 この日枝神社は司馬遼太郎の「燃えよ剣」の第10節「スタスタ坊主」に「日枝明神」として登場します。新選組となる天然理心流剣術道場の試衛館の土方歳三、原田左之助、、 沖田総司、藤堂平助、永倉新八らが「山王さま」と呼ばれたこの神社で八王子宿の千人町にある甲源一刀流比留間道場の志士と斬り合うくだりがあります。

 Google Mapで日枝神社の場所を示します。日枝神社の下の方に大和田町会館とありますがその横に冒頭の鳥居と急階段があります。右上に国土交通省 相武国道事務所がありますがその前の道路に面して神社の正門があり社号碑と案内板があります。なお案内版は急階段の鳥居の前にもあります。

日枝神社(〒192-0045 東京都八王子市大和田町4丁目4−6)

 

【関連記事】

第9話「浪士組西へ」|明日なき戦いの果てに

新撰組の日(1863年3月13日)

箱館新選組の屯所の跡地

第22話「弁天台場を救え」|明日なき戦いの果てに

異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地

五稜郭の一本松の土饅頭

弁天台場|新撰組最期の地

土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

燃えよ剣(上) Kindle版

Kindle_20240907144601

 

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2024年9月 6日 (金)

箱館新選組の屯所の跡地

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 幕末に京都守護職を務めた会津藩主の松平容保の預かりとなり京都を警備を担った新選組は慶応3年(1867年)6月に幕臣となりました。

 同年10月に第15代将軍の徳川慶喜が大政奉還を行うが翌年に旧幕府軍と新政府軍の戊辰戦争が勃発しました。新選組は旧幕府軍として戊辰戦争に参戦しましたが、旧幕府軍が鳥羽・伏見の戦いに敗北すると榎本釜次郎の艦隊で江戸に撤退しました。

 その後は新政府軍の甲府進軍を阻止する任務につきを甲陽鎮撫隊と名乗り甲州街道から甲府城へ進軍しましたが「甲州勝沼の戦い」で板垣退助が率いる迅衝隊に敗北し江戸に撤退しました。ほぼ解散状態となりましたが近藤勇と土方歳三は新選組の再起をかけて下総国の流山へと移動したが近藤が新政府軍に捉えられて斬首されました。その後、副長の土方歳三が新選組を率いて宇都宮城の戦い、会津戦争などに参戦するが、奥羽越列藩同盟が瓦解すると榎本釜次郎の艦隊に合流し蝦夷地へ向かった。

 榎本釜次郎の艦隊は慶応4年(1868年)10月21日に箱館の北、内浦湾に面する鷲ノ木(森町)から上陸し、旧幕府軍は箱館を制圧し同年10月26日に五稜郭へ入城しました。箱館政権で陸軍奉行並を任命された土方歳三率いる箱館新選組は宮古湾海戦や二股口の戦いなどに参戦しましたが新政府軍が箱館に迫ると箱館山山頂を守備するようになりました。

 箱館新選組は屯所は称名寺(しょうみょうじ)に置かれました。称名寺は幕末の箱館開港後はイギリスやフランスの仮領事館として利用されました。称名寺は明治12年の函館大火で焼失し函館市船見町18-14に移転しましたがもともとは函館市大町4-6にありました。

箱館新選組の屯所の跡地(旧称名寺跡地)
箱館新選組の屯所の跡地(旧称名寺跡地)

 現在、この地には函館元町ホテルと蔵宿 屯所の庵があります。

蔵宿 屯所の庵
蔵宿 屯所の庵

 蔵宿 屯所の庵前の「新撰組 屯所」跡地の案内板です。

「新撰組  屯所」跡地の案内板
「新撰組 屯所」跡地の案内板

 箱館新選組の組織は下記の通りです。

  • 函館新選組局長 土方歳三、大野右仲、相馬主計
  • 箱館新選組隊長 相馬主計
  • 陸軍奉行並 土方歳三
  • 陸軍奉行並添役 大野右仲
  • 頭取改役 森常吉、島田魁、角ヶ谷糺
  • 改役下役会計頭取 青地源太郎
  • 会計方 山崎八蔵
  • 土方附属 市村鉄之助、野村利三郎

 箱館新選組が守備していた箱館山山頂は新政府軍陸軍参謀の黒田清隆が率いる別動隊による急襲により占領されました。箱館新選組は敗走し弁天台場に入りました。新政府軍が箱館山を占領すると箱館奉行の永井尚志は弁天台場に入り箱館新選組とともに守備を固めた。

 次の図は箱館全図 万延元年 函館市中央図書館所蔵です。右下が弁天台場、左側の真ん中あたりに称名寺があります。

 こちらは現在の箱館新選組屯所跡地(旧称名寺跡地)の地図(Google Map)です。


箱館新選組屯所跡地(旧称名寺跡地)

 箱館政権陸軍奉行並で箱館新選組局長の土方歳三は五稜郭には滞在せず箱館新選組屯所の近くの商家の佐野専左衛門方の万屋「丁サ」を宿所にしていました。土方歳三は宿所と屯所を中心に箱館山山頂や弁天台場をはじめ箱館市内を巡検し五稜郭までの約6キロメートルを馬で通いました。「丁サ」の跡地は別の記事で紹介します。

 次は現在の称名寺(北海道函館市船見町18-14)の地図(Google Map)です。ここには「土方歳三と新撰組隊士の供養碑」が建立されています。


現在の称名寺(北海道函館市船見町18-14)

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2024年9月 3日 (火)

日仏修好通商条約の調印(1858年9月3日)

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 マシュー・ペリー提督が率いる黒船来航で安政元年(1854)年に日米和親条約が締結されると、幕府はイギリス、ロシア、オランダと和親条約を締結しましたがフランスとは和親条約を結びませんでした。

 当時、フランス皇帝ナポレオン3世は日本に開国を要請するための和親条約締結の交渉の全権をド=ブルブロン駐中国公使に与えました。この頃、フランスはイギリスとともにクリミア戦争に参戦しておりロシアに対抗するため両国の関係強化を重要視していました。フランスは日本との交渉はイギリスと協調して行うようド=ブルブロン公使に命じました。

 ド=ブルブロン公使は過去の外交関係から日本がイギリスに対して良い印象を持っていないことやフランスの軍事力がアヘン戦争に勝利し東アジアで大きな利権を得たイギリスに劣っていることを日本に知られることを危惧しました。またイギリスも多くの軍艦をクリミア戦争に派遣していました。ジェームズ・スターリング司令が率いるイギリス東インド・中国艦隊も南下してくるロシア軍艦に対応するため中国沿岸から離れることができない状態でした。ド=ブルブロン公使はイギリスが日本との和親条約を結ぶことができる状況ではないためフランスも交渉を延期せざるを得ないという書簡を同年8月8日に本国に送っています。フランス本国はド=ブルブロン公使に日本との交渉を進めるように伝えましたがド=ブルブロン公使は動きませんでした。

 ところがロシアのエフィム・プチャーチンが日露和親条約交渉のため艦隊を率いて長崎に入港していることを知ったスターリング司令はロシア軍艦を拿捕するため長崎に向かいました。スターリングの艦隊が長崎に入港したときにはプチャーチンの艦隊は既に出港していませんでした。スターリングは長崎奉行にイギリスとロシアは交戦中でロシアには領土拡大の野心があること伝え幕府に中立を求めました。幕府からイギリスとの外交交渉の許可を得た忠徳は目付役の永井尚志とともにスターリングと会見しました。スターリングは外交交渉の権限は有していませんでしたが、和親条約を締結するとと日本で補給が可能になりロシアとの交戦に有利になると考え、同年8月23日に独自の判断で日英和親条約の調印を行いました。イギリス議会もこれを追認しています。結果としてイギリスと協調して日本の交渉を行おうとしていたフランスは日本との和親条約の締結に出遅れてしまったのです。

【参考】日英和親条約の調印(1854年8月23日)

 こうしてアメリカ、イギリス、ロシア、オランダは日本と和親条約を結びましたが、フランスは機会を失い最後まで日本との和親条約を結ぶことはありませんでした。

 ・日米和親条約 嘉永7年(1854年)3月3日

 ・日英和親条約 嘉永7年(1854年)8月23日

 ・日露和親条約 安政元年(1855年)12月21日

 ・日蘭和親条約 安政2年(1856年)12月23日

 実際には幕府は列強との和親条約の締結には積極的になっており安政元年(1855年)5月にフランスに和親条約の締結を打診しています。クリミア戦争で東アジア近海でロシア艦隊の対応をしていたフランス海軍コンスタンティヌ号が長崎に入港したとき、長崎奉行が艦長ルイ=マリ=フランソワ・タルディ=ド=モントラヴェル海軍大佐に長崎と箱館の2港を開港する条約の調印を提案しています。同大佐は条約締結の権限を有していないことを理由に調印を断っています。

 また安政2年(1855年)6月から7月にかけてフランス海軍のシビィル号、ヴィルジニ号、コンスタンチヌ号が多くの病人が出たため立て続けに緊急に箱館に寄港しました。和親条約を結んでいないフランスに対して箱館は海港されていませんでしたが箱館奉行の竹内保徳は人道的な見地に立ち病人たちの治療のための上陸と養生を独断で許可しています。これが日仏親善のきっかけにもなりました。

 安政5年(1858年)6月19日に日米修好通商条約が締結されると、幕府は列強とも通商条約を締結しました。

 ・日米修好通商条約 安政5年(1858年)6月19日

 ・日蘭修好通商条約 安政5年(1858年)7月10日

 ・日露修好通商条約 安政5年(1858年)7月11日

 ・日英修好通商条約 安政5年(1858年)7月18日

 フランスも日仏修好通商条約を結ぶべくジャン・バティスト・ルイ・グロを全権大使としギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールとシャルル・ド・モンブランを日本に派遣しました。幕府は水野忠徳、永井尚志、井上清直、堀利煕、岩瀬忠震、野々山鉦蔵の6名が交渉にあたり安政5年(1858年)9月3日に日仏修好通商条約に調印しました。フランス語の通訳はメルメ・カション神父が務めた。

日仏修好通商条約の調印
日仏修好通商条約の調印

 1859年、ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールが後に初代駐日フランス公使となりました。同年、江戸三田の西海寺にフランス領事館が開設されシャルル・ド・モンブランが在フランス日本総領事となりました。

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2024年8月29日 (木)

レンズが撮らえた幕末維新の志士たち

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レンズが撮らえた幕末維新の志士たち

小沢健志(監修)

レンズが撮らえた幕末維新の志士たち

 幕末の志士の写真集はたくさん出版されていますが、多くの書籍はインターネットでも見ることができるような有名な写真ばかりです。この書籍は見たことのない写真が多数掲載されています。出版社の説明「薩摩藩鉄砲隊,八王子千人同心など,幕末維新を奔走した激しくも優しい男たち。名もなき志士から維新の英雄まで当時の貴重な写真で紹介する」の通り、地方の図書館・博物館・郷土資料館などに所蔵されているような写真、名も知られていない幕末の志士たちのありのままを見ることができる貴重な写真が掲載されています。

 志士たちの写真は生年順に解説とともに掲載されています。巻末の索引も便利です。

【目次】


【カラー特集】幕末生まれの男たちの記録
サムライの肖像 最新の研究動向を踏まえて
幕末・明治のドキュメント・フォト
幕末生まれの肖像 十八・十九世紀の日本とその時代を生きた男たち

島津斉彬/佐久間象山/鍋島直正/島津久光/大久保一翁/
松浦武四郎/伊達宗城/清水次郎長/村田氏寿/板倉勝静/
勝海舟/下岡蓮杖/岩倉具視/河井継之助/中浜万次郎/
山内容堂/松平春嶽/徳川慶頼/由利公正/西郷頼母/
佐々木高行/大久保利通/木戸孝允/秋月種樹/東久世通禧/
広沢真臣/江藤新平/川路利良/松平頼聴/近藤勇/岩崎弥太郎/
福澤諭吉/大友亀太郎/前島密/有栖川宮熾仁/土方歳三/
小松帯刀/坂本龍馬/井上馨/松平容保/五代友厚/荒井郁之助/
山岡鉄舟/榎本武揚/三条実美/中牟田倉之助/板垣退助/
徳川慶喜/大隈重信/近藤長次郎/後藤象二郎/中岡慎太郎/
山県有朋/上野彦馬/桐野利秋/久米邦武/高杉晋作/毛利元徳/
石丸安世/松本十郎/渋沢栄一/島津忠義/岩村通俊/黒田清隆/
伊藤博文/田中正造/時任為基/大山巌/新島襄/西郷従道/
伊東祐亨/井上勝/田中光顕/品川弥二郎/井上毅/青木周蔵/
黒木為楨/陸奥宗光/内田九一/清水谷公考/奥保鞏/中江兆民/
桂太郎/東郷平八郎/森有礼/西園寺公望/乃木希典/高村光雲/
児玉源太郎/明治天皇/山本権兵衛/北里柴三郎/金子堅太郎/
徳川昭武/犬養毅/田口卯吉/小村寿太郎/原敬/後藤新平/
斎藤実/尾崎行雄/秋山好古/坪内逍遙/加藤高明/三宅雪嶺/
嘉納治五郎/内村鑑三/加藤友三郎/田辺朔郎/森鴎外/
牧野富太郎/新渡戸稲造/岡倉天心/徳富蘇峰/明石元二郎/
森永太一郎/長岡半太郎/謝花昇/宮武外骨/豊田佐吉/
南方熊楠/幸田露伴/正岡子規/尾崎紅葉/鈴木貫太郎  


幕末生まれの肖像 - 人名索引 【カラー特集】上野彦馬の写真アルバム
上野彦馬の写真史における位置
 ●おもな写真
   長崎中島河畔の上野彦馬邸/上野彦馬/島津図書久治/
   ロシア艦上集合写真/軍艦記念写真/金星観測眼視望遠鏡機材/
   金星観測施設/合成写真/朝顔/
   長崎高島炭鉱・長崎造船所・立神第一ドック ほか
上野彦馬のレポート
 ●おもな写真
   長崎県令内海忠勝/長崎県令石田英吉/岩崎彌之助/
   福島安正少佐/上田安三郎/ロシア軍人像/原田保次/
   座った和服女性/二人の和服女性/福池屋の桃太郎/
   踊り衣装着用の女児/机の前に座る彦馬/永見傳三郎/
   上野彦馬一族集合写真/町人たち ほか
上野彦馬の風景写真
 ●おもな写真
   長崎・大浦川沿いの居留地/飽の浦船着場と長崎港/
   長崎製鉄所/工部省長崎造船局の台風被害/樺島湊/
   大波止沿岸/東山手の十二番館/中島川と高麗橋/
   高麗橋と八幡町付近/諏訪神社旧中門/崇福寺楼門/
   清水寺と市街地周辺/飽の浦恵美須神社 ほか
名の知られていないわけではない芸術家
 ●おもな写真
   和装のイギリス海軍主計官補ハーベイと人力車夫/
   ピエール・ロチとお菊さん/中島川と上野彦馬邸/
   西南戦争での吉次廠舎/上野彦馬と家族
彦馬写真の台紙裏デザインの変遷
上野彦馬の生い立ち
(コラム)堀江鍬次郎
(コラム)二つの葛藤

 

出版社 ‏ : ‎ 山川出版社 (2012/5/1)
発売日 ‏ : ‎ 2012/5/1
言語 ‏ : ‎ 日本語
単行本 ‏ : ‎ 207ページ
ISBN-10 ‏ : ‎ 4634150220
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4634150225

【関連記事】

レンズが撮らえた幕末維新の日本

幕末の蒸気船物語(単行本)

ペリー提督日本遠征記 (角川ソフィア文庫)

 

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2024年8月27日 (火)

明治天皇の即位の礼(1868年8月27日)

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 第121代の孝明天皇は慶応2年(1867年)12月25日に崩御されました。慶応3年(1867年)1月9日、睦仁親王が皇位を継承し第122代天皇となりました。即位の礼は同年11月に執り行う予定でしたが同年10月4日に徳川慶喜が大政奉還を行うなど国事多難により見送られました。同年年12月9日、明治天皇は京都御所の御学問所にて勅令「王政復古の大号令」を発し新政府が樹立、徳川家康以来260年間続いた徳川将軍家による幕府が終焉しました。

 新政府は徳川幕府の時代が終焉し新しい時代を迎えることを知らしめる即位の礼を執り行うことにしました。慶応4年・明治元年(1868年)5月に神祇官副知事の津和野藩主で亀井茲監を「御即位新式取調御用掛」に任命しました。岩倉具視は中国の模倣である唐風儀式を取りやめ日本古来の方式で執り行うよう命じました。

 同年8月17日、新政府は即位の礼を8月27日に執り行うことを発表しました。同月21日から一連の儀式が始まりました。即位の礼の前日には天皇と国民の絆を強めるため天皇誕生日(旧暦9月22日。新暦11月3日)を天長節として国民の祝日と定めました。そして8月27日に京都御所にて即位の礼が執り行われ明治天皇の即位が宣明されました。天皇の礼服は唐風の冕冠・袞衣から黄櫨染御袍の束帯となり、従来の中国式や仏式の儀式は神道の儀式に改められました。

聖徳記念絵画館壁画「即位礼」
聖徳記念絵画館壁画「即位礼」

 皇威や国威を世界に知らしめることを目的として即位の礼の会場にはかつて水戸藩主徳川斉昭が孝明天皇に献上した直径1メートルの地球儀が設置されました。また、これまでは宣命使が小声で読み上げていた宣命を大声で読むよう改め万民奉賀の寿詞を奏上しました。参列は公家のみではなく武士も許されました。宣明には神武天皇から始まる「神武創業」「万世一系」が加えられました。大嘗祭は明治4年(1871年)11月17日に東京で執り行われました。

 なお明治に改元されたのは慶応4年(1868年)9月8日です。明治以降は一世一元の制となり(一世一元の詔発布)となり同じ天皇の時代に改元されることはなくなりました。

【関連記事】

建国記念の日(2月11日)

万延に改元(1860年3月18日)

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第12話「大政奉還と明治政府樹立」|明日なき戦いの果てに

明治天皇が崩御(1912年7月29日)

大正時代始まる(1912年7月30日)

昭和改元の日(1926年12月25日)

昭和の日|旧緑の日(4月29日)

「平成」の世が始まる(1989年1月8日)

 

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