カテゴリー「歴史」の320件の記事

2025年11月 7日 (金)

日本の立憲政治の象徴「国会議事堂」が竣工(昭和11年 1936年11月7日)

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 日本の政治の殿堂として東京都千代田区永田町一丁目7番1号に佇んでいる国会議事堂。中央塔の左側に衆議院、右側に参議院の議場が左右対称に配置された荘厳な建造物です。

国会議事堂
国会議事堂

 明治14年(1881年)10月12日、明治天皇は明治23年(1890年)までに「國會」(議会)を開くよう国会開設の勅諭を発せられました。明治18年(1885年)に第一次伊東内閣が発足すると国会議事堂の建設が構想されました。しかしながら、議事堂の建設には巨額な費用がかかり、帝国議会を開くことを優先するため仮議事堂が建設されることになりました。

 本格的な議事堂建設が決まったのは日露戦争後の明治39年(1906年)ですが大正2年(1913年)に大正政変が起きたため見送られました。大正7年(1918年)に議事堂のデザインが一般公募され宮内省(現 宮内庁)技手の渡辺福三の案が採用されました。

渡辺福三による国会議事堂の図案
渡辺福三による国会議事堂の図案

 実際の設計は大蔵省(現 財務省)臨時議院建築局により行われ、渡辺の図案を参考にしつつも大幅に変更されたデザインとなりました。鉄骨鉄筋コンクリート造、地上3階(中央会は4階)、地下1階建、資材は国産で賄う方針から全国各地から花崗岩が取り寄せられることになりました。大正9年(1920年)1月30日に当時の原内閣総理大臣をはじめとする閣僚が参列し永田町の高台において起工式が執り行われました。

 国会議事堂は建設工事は大規模となり長期間を要しました。大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災により耐震構造と防火対策が見直されました。起工から17年の歳月を経た昭和11年(1936年)11月7日、当時の広田弘毅内閣総理大臣をはじめとする約3000名が集まる中で竣工式が執り行われました。

国会議事堂の竣工式
国会議事堂の竣工式

 国会議事堂の総工費は約2,573万円で現在の価値にすると数千億円になります。資材として国産の鉄骨約1万5000トン、花崗岩2万5000トン、37種類の大理石が使用されました。国会議事堂のシンボルでもある中央塔は4階建で高さは65.45メートルです。当時の日本では最も高層の建造物となりました。この中央塔を挟んで左側が衆議院、右側が貴族院(現 参議院)が配置されました。

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2025年10月27日 (月)

吉田松陰 弟子たちに思想を託しあの世へ旅立つ(安政6年 1859年10月27日)

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 「松下村塾」を開き高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文など明治維新で活躍した志士たちに多大な影響を与えた吉田松陰。松陰は嘉永7年(1854年)にアメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督が日米和親条約を締結するため黒船艦隊を率いてやってきたときに海外渡航を単眼するも断られ密航の罪で投獄されました。その後、長州萩城下松本村の実家の杉家預かりとなり、安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾を引き継ぎました。松陰も弟子を指導しながら尊皇攘夷の思想を深めていきました。

 【参考】吉田松陰と金子重之輔が黒船に密航を懇願|下田踏海(嘉永7年 1854年3月27日)

吉田松陰
吉田松陰

 安政5年(1858年)に幕府が朝廷の許可を得ずに日米修好通商条約を締結すると、松陰は孝明天皇への弁明のため上洛する老中首座の間部詮勝を捕らえて条約を破棄させ攘夷の実行を求め拒否された場合は討ち取る計画「間部要撃策」と「伏見要駕策」を画策しました。しかしながら、久坂玄瑞、高杉晋作、桂小五郎ら弟子たちの賛同を得られず頓挫しました。松陰は幕府に対する不信感を募らせ藩を超えた尊王攘夷運動を志して「草莽崛起」を唱えて尊皇攘夷の志士たちに倒幕の蜂起を促しました。長州藩は松陰を危険な思想の持ち主として幽閉しました。

 安政6年(1859年)、幕府による思想弾圧の安政の大獄により梅田雲浜が捕らえられると雲浜と関係のあった松陰も連座され江戸の伝馬町牢屋敷に投獄されました。松陰は評定書で雲浜との関係を問いただされましたがあくまで参考人としての尋問で想定された罪も重いものではありませんでした。しかしながら、松陰は自身の信念を貫き尊皇攘夷と倒幕の正当性を論じるため幕府が把握していなかった「間部要撃策」を自白してしまいました。計画を知った幕府は松陰に死罪を宣告し安政6年(1859年)10月27日に伝馬町牢屋敷で執行しました。享年29歳。

 松陰はいくつかの辞世の句を遺しています。そのひとつ 「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」は 自らの死を受け入れて志が後世に受け継がれることを願ったものです。松陰の死は弟子たちを奮い立たせ尊王攘夷運動の原動力となり明治維新へとつながりました。

 

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2025年10月18日 (土)

板垣退助らが日本初の近代的政党「自由党」の創立大会を開催(明治13年 1881年10月18日)

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 明治13年(1881年)、板垣退助や後藤象二郎らが中心となり日本で最初の近代政党「自由党」を創立しました。自由党は国会開設を求めて活動していた「国会期成同盟」を母体とし同年10月18日に東京の浅草井生村楼で創立大会が開かれました。自由党が正式に結成されたのは同年10月29日で初代総理(党首)に板垣退助が就任しました。

板垣退助(1880年頃)
板垣退助(1880年頃)

 自由党はフランスの急進的自由主義を掲げ主権在民、一院制の議会、さらに薩長中心の藩閥政府の打倒を目指しました。自由民権運動の中心的な役割を果たし、自由党の結成は日本における民主政治の実現に向けた大きな一歩となりました。翌年には大隈重信を中心とする立憲改進党など他の政党も誕生し、日本の政治は新しい時代を迎え藩閥政府による政治から政党政治への変革が始まりました。

 板垣退助は後に著書「自由党の尊王論」を発表し自由主義と尊皇思想は両立すると天皇制と民権思想の調和を主張しました。自由党は自由民権運動を進めましたが党内の急進派が秩父事件などの事件を起こし、内部対立と財政難により明治17年(1884年)10月29日に解党となりました。この解散により自由民権運動の勢いが衰退しましたが、民権運動はその後も継続されました。板垣退助は明治23年(1890年)9月15日に立憲自由党を創立し旧自由党を再興しました。

 現在の与党「自由民主党」は板垣退助の自由党を源流としています。第二次世界大戦前の二大政党の立憲政友会、立憲民政党が戦後に離合集散しながら保守合同により結党された政党です。令和になると自由民主党は左傾化が進んだこともあり一党優位政党ではなくなりました。日本の政治は多党政治になりつつあります。


【関連記事】

大久保利通、木戸孝允、板垣退助が政府方針を協議|大阪会議(明治8年 1875年2月11日)

板垣退助岐阜遭難事件(明治15年 1882年4月6日)

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2025年10月 3日 (金)

土方歳三の写真が箱館で撮影された根拠

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 箱館戦争に挑む際に撮影された洋装で椅子に座る土方歳三の写真。決戦を前に口を一文字に結び強い意志を感じさせながらどこか涼しい表情をしている。

土方歳三の写真(田本研造撮影)
土方歳三の写真(田本研造撮影)

 この写真がどこで撮影されたのかについては2つの有力な説があった。ひとつは「新選組の舞台裏」(1998年、菊池明著、中経出版)の主張である。もうひとつは「新選組研究最前線再善戦(下)」(1998年、新人物往来社)の「写真師K・Gと土方歳三」(桑嶋洋一著)の主張である。前者は近藤勇の腕組写真と同じく慶応4年(1868年)に江戸の松本良順のところで撮影されたとしている。後者は同年(明治元年)に写真家の田本研造により箱館で撮影されたとしている。

 近藤勇の腕組写真は敷物の上に和装で座っている。この時に土方歳三の写真が撮影されたのだとすると歳三も和装であった可能性が高いと考える。歳三の写真は洋装であるからもう少し後で撮影されたものであろう。問題はどこで誰により撮影されたかである。

 「写真師K・Gと土方歳三」は歳三の座っている椅子が猫足であることに注目している。箱館戦争当時に箱館で撮影された写真に榎本武揚をはじめとする箱館政権首脳の写真が存在する。この写真の前列左側の海軍奉行の荒井郁之助が座っている椅子が歳三が座っている猫足の椅子と同じものとしている。著者はオリジナルの高解像度の写真を入手し椅子が同じものであることを確認したようである。

箱館政権首脳の写真 後列左から小杉雅之進、榎本対馬、林董三郎、松岡磐吉 前列左から荒井郁之助、榎本武揚
箱館政権首脳の写真
後列左から小杉雅之進、榎本対馬、林董三郎、松岡磐吉
前列左から荒井郁之助、榎本武揚

 高解像度の写真は入手できないので荒井郁之助をトリミングした写真と土方歳三の写真をAIでカラー化してみたのが次の写真である。カラー化により椅子の形が明らかになった。確かに2つの椅子は猫足であり、4本の足をつなぐ貫が特徴的なX型であることが確認できた。おそらく高解像度の写真では白黒でも鮮明に写っていたのであろう。

荒井郁之助と土方歳三が座る椅子の比較
荒井郁之助と土方歳三が座る椅子の比較

 箱館政権首脳の写真は箱館で田本研造により撮影されたものと考えられ、椅子が同じものであることから土方歳三の写真も箱館で田本研造のところで撮影されたものと結論づけることができる。

 ただし「写真師K・Gと土方歳三」では土方歳三の写真の台紙に記載されているイニシャルK・Gに注目している。土方歳三の写真には台紙に「PHOTOGRAPHER K JAPAN ARTIST」と記載されたものがある。Kの部分には重なるようにGが書いてある。「歳三の写真」(1978年、草森紳一著、新人物往来社)の表紙の写真がまさにしれである。同じ台紙が使われた古写真が函館に現存しているという。

K・Gの台紙
K・Gの台紙

 これは田本研造が使っていた台紙とは異なると指摘している。田本研造が撮影したのであれば自分の台紙を使うだろうということである。また箱館政権首脳写真の撮影場所も田本研造の写真館ではなかった可能性も指摘している。箱館政権首脳写真と土方歳三の写真がフランスに渡っていることからこの2つの写真を撮影したのは日仏写真に関係していた写真家ではないかと結論づけている。

新選組研究最前線〈下〉(新人物往来社、1988年)
「写真師K・Gと土方歳三」(桑嶋洋一)

 確かに田本研造の台紙は別のデザインです。土方歳三の写真の撮影者は田本研造であり、K・G台紙の写真は写真師K・Gが複写し整えたものかもしれない。

【関連記事】

土方歳三を撮影した写真師|田本研造の命日(1912年10月21日)

 

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2025年9月25日 (木)

北海道開拓精神が込められた「日本一きびだんご」(起備団合)

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 北海道の道民に親しまれてきた銘菓に「きびだんご」があります。「きびだんご」と言えば桃太郎でも有名な岡山県の銘菓「きびだんご」を思い出す人が多いと思いますが、北海道と岡山県の「きびだんご」は全く違う食べ物です。岡山県の「きびだんご」は米粉やきび粉などで作られた丸い団子です。他方、北海道の「きびだんご」も米粉と水飴などで作られたもので平らな形をしています。次の写真は北海道の天狗堂の「日本一きびだんご」です。

北海道 「日本一きびだんご」(天狗堂)
北海道 「日本一きびだんご」(天狗堂)

 天狗堂「日本一きびだんご」には桃太郎の絵が描いてありますが、北海道の「きびだんご」は桃太郎に由来するものではありません。岡山県の「きびだんご」は漢字では「吉備団子」と書きます。吉備(きび)は古代地域の名前で現在の岡山県と広島県東部を中心とする地域を意味します。これに対して北海道の「きびだんご」は漢字では「起備団合」と書きます。「起備団合」は何か事が起きる事前に備えて団結するという意味で明治維新後の北北海道の開拓と防衛にあたった屯田兵の携帯食を起源としています。

屯田兵 北海道開拓と防備で活躍した
屯田兵 北海道開拓と防備で活躍した

 北海道の「日本一きびだんご」は大正12年に夕張の谷田製菓が北海道開拓の起備団合の精神と関東大震災の復興の願いを込めて「谷田の日本一起備団合」として発売したのが始まりです。日持ちが良く腹持ちも良いことからお菓子としてだけでなく非常食として活用され北海道のみならず日本全国や樺太で販売されました。なお写真の天狗堂の「日本一きびだんご」は昭和48年に発売されたものです。

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2025年9月15日 (月)

「関ヶ原の戦い」で徳川家康が勝利(慶長5年 1600年9月15日)

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 慶長5年(1600年)9月15日、美濃国(現在の岐阜県)関ヶ原で天下分け目の「関ヶ原の合戦」で徳川家康が率いる東軍が石志田三成を中心とする西軍に勝利しました。西軍の小早川秀秋の裏切りによりわずか半日で決着がついたこの戦いは日本の歴史を大きく動かし織田信長と豊臣秀吉が築いた安土桃山時代を終焉させました。

関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)
関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)

 家康は「関ヶ原の戦」の勝利によって圧倒的な政治的影響力を手にしました。慶長8年(1603年)2月12日に右大臣ならびに征夷大将軍に任じられ江戸幕府を開きました。

【参考記事】徳川家康が征夷大将軍に就任(1603年2月12日)

 家康は征夷大将軍職を徳川家の世襲とするため慶長10年(1605年)に徳川秀忠に家督を譲りました。家康は徳川家に臣従しない豊臣家を処分することを考え始め、方広寺鐘銘事件を理由として豊臣家征伐の行動を始め慶長19年(1614年)「大坂の陣」を起こしました。慶長20年(1615年)、大坂の陣で豊臣氏を滅亡させ江戸幕府が日本を統治する幕藩体制の築きました。

【参考記事】方広寺鐘銘事件から大阪の陣へ(1614年10月1日)

【参考記事】大阪冬の陣の和議成立(1614年12月20日)

【参考記事】豊臣秀頼の自刃で大坂夏の陣が終結(慶長20年 1615年5月8日)

【参考記事】江戸幕府が一国一城令を制定(慶長20年 1615年閏6月13日)

 関ヶ原の戦い、大坂の陣を経て戦国の世が終わり約260年に渡る徳川家による江戸時代が始まったのです。

江戸城登城風景図屏風
江戸城登城風景図屏風

【関連記事】

天下を勢力図を塗り替え奇襲作戦|桶狭間の戦い(1560年5月19日)

松平家康が徳川家康に改名し従五位下三河守に(1566年12月29日)

三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなった夏目廣次(吉信)(1572年12月22日)

 

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2025年9月12日 (金)

仙台藩が降伏し奥羽越列藩同盟が消滅(慶応4年 1868年9月12日)

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第1話 榎本武揚が旧幕府艦隊を率いて品川沖を脱出(慶応4年 1868年8月19日)

第2話 榎本武揚らが仙台城で奥羽越列藩同盟の軍議に参加(慶応4年 1868年9月3日)

 新政府軍の攻撃により奥羽列藩同盟は壊滅状態にあった。多くの旧幕府軍、藩兵は奥羽越列藩同盟盟主の輪王寺宮(北白川宮能久親王)が身を寄せていた仙台藩に終結していた。仙台藩はほとんど無傷ではあったが慶応4年 (1868年)8月11日の「旗巻峠の戦い」で大敗し新政府軍に領内への侵入を許していた。新政府軍に対して武器の性能や量が劣る仙台藩では降伏論が高まり藩政が混乱した。

【参考記事】奥羽越列藩同盟が成立(1868年5月6日)

羽越列藩同盟旗と輪王寺宮公現入道親王輪王寺宮(北白川宮能久親王)
羽越列藩同盟旗と輪王寺宮公現入道親王輪王寺宮(北白川宮能久親王)

 会津若松城は新政府軍に包囲され、庄内藩につづいて米沢藩も軍議の翌日の同年9月4日に降伏した。仙台藩主の伊達慶邦は幕政から主戦派を排除し恭順へと向かい同年9月12日に降伏した。仙台藩降伏の通知を受けた榎本武揚と土方歳三は降伏を撤回するよう求めたが仙台藩は受け入れなかった。

伊達慶邦
伊達慶邦

 仙台藩の降伏について武揚は「今の王政復古は全く薩長の策士らが幕府を倒す道具として拵(こしら)えたもの。 政権を盗むの手段にすぎず」(現在の王政復古は薩摩・長州の策略家たちが幕府を倒すための道具として作り上げたものにすぎない。単に政権を奪い取るための手段だ)と酷評した。歳三は「利不利は暫く措(お)き、弟をもって兄を討ち、臣をもって君を征す・・・武士の道を解し聖人の教えを知る者は 薩長の徒に与すべからずと信ず」(利害や損得はひとまず置いておこう。弟に兄を討たせ家臣に主君を征伐させるようなことは武士の道を理解し儒教の教えを知る者であれば薩摩や長州の連中に加担することはできないと私は信じる」と非難した。

 仙台が戦場と化すことを避けるため降伏した仙台藩は旧幕府軍をやっかいものと考えるようになり、豪商の毛利屋理兵衛に物資などを支援するよう依頼し仙台から出て行くよう仕向けたのである。幕府から借りていた「太江丸」「鳳凰丸」および薪水や食料を榎本艦隊に提供した。

 新政府軍が仙台城に入城すると同年10月9日に榎本艦隊は桑名藩主の松平定敬、大鳥圭介、土方歳三、伝習隊、衝鋒隊、仙台藩を脱藩した星純太郎が率いる額兵隊など合計3000人を収容し石巻に向かった。仙台藩の降伏により終結していた旧幕府軍、藩兵は行き場を失った。武揚は兼ねてより構想していた蝦夷地へ渡航を提案した。このとき蝦夷地の防衛と開拓のために蝦夷地に向かう嘆願書を提出している。

仙台を後にする榎本艦隊
仙台を後にする榎本艦隊

 榎本艦隊は同年10月12日、蝦夷地に向けて石巻を出港した。途中で海賊行為していた幕府の輸送船「千秋丸」(のちの「回春丸」)を拿捕し、宮古湾で補給を行ったのち蝦夷地へと向かったのである。

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2025年9月 7日 (日)

潜水艇「タートル号」による世界初の軍艦攻撃(1776年9月7日)

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 タートル型潜水艦「タートル号」は1775年にアメリカ合衆国の入植者で発明家のデヴィッド・ブッシュネルが開発した潜水艇です。当時、アメリカ独立戦争中でブッシュネルはアイデアを推薦されたジョージ・ワシントンは半信半疑でこの潜水艇の開発に資金を提供しました。オーク材で作られた卵形の潜水艇でカメのような形をしているとタートル号と名付けられました。

タートル型潜水艇
タートル型潜水艇

 タートル号の大きさはタートルは長さ約3.0メートル、高さ1.8メートル)、幅約0.9メートルです。一人乗りで人力駆動パドルプロペラで推進することができました。 船体に穴開け用のドリルが装備されており、このドリルで敵艦に穴を開けそこから時限爆弾の火薬樽を埋め込み撃沈させる機能が備えられていました。内部の照明はベンジャミン・フランクリンの提案で酸素を消費しないよう生物発光を利用しましたが海中は水温が低く十分な明るさが得られませんでした。

 1776年9月7日夜、キップス湾での戦闘においてタートル号はニューヨークのマンハッタン真南のガバナーズ島に係留されていたイギリス軍艦イーグルを攻撃しました。ドリルを固定して回すことができるほどの安定性を保つことができなかったためイーグルに穴を開けることはできず作戦は失敗しました。これが世界で初めての潜水艇による軍艦の攻撃になりました。その後も何度か攻撃をしましたが成功することはなくイギリス軍によって撃沈されました。イギリスの記録には潜水艇で攻撃された事実はなく、タートル号のことと思われるボートのことと浮遊機雷による攻撃が記録されていただけでした。一連の攻撃が本当に潜水艇による攻撃だったのか、ボートによる攻撃だったのかわかっていません。

 タートル号は1976年にアメリカ建国200周年を記念しレプリカが制作されました。現在、英国海軍潜水艦博物館において展示されています。

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2025年9月 3日 (水)

榎本武揚らが仙台城で奥羽越列藩同盟の軍議に参加(慶応4年 1868年9月3日)

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榎本艦隊が品川沖を脱出

 奥羽越列藩同盟から援軍の要請を受けた榎本武揚は直ちに行動を起こすことはできなかった。徳川家の駿府移封が完了するまでは動けなかったのである。徳川慶喜と徳川家の家督を継いだ徳川家達の駿府移封を見届けた武揚は慶応4年(1868年)8月19日に「開陽」を旗艦とする軍艦「蟠竜」「回天」「千代田形」と輸送艦「咸臨丸」「長鯨丸」「神速丸」「美賀保丸」からなる艦隊を率いて品川沖を脱出し奥羽越列藩同盟を支援するため仙台へと向かった。武揚と行動をともにしたのは元若年寄の永井尚志、陸軍奉行並の松平太郎、彰義隊、遊撃隊の旧幕臣たち、さらにフランス軍事顧問団として来日したジュール・ブリュネとアンドレ・カズヌーヴらフランス軍人など総勢2000人であった。

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榎本艦隊(品川沖 慶應4年1868年8月18日)

 最終的な目的地として蝦夷地をめざしていた武揚は明治政府宛の下記の檄文と「蝦夷地開拓」など旧幕府軍が蝦夷地を目指す目的を説明した徳川家臣大挙告文を勝海舟に託しています。

檄文

 王政日新は皇国の幸福、我輩も亦希望する所なり。然るに当今の政体、其名は公明正大なりと雖も、其実は然らず。王兵の東下するや、我が老寡君を誣ふるに朝敵の汚名を以てす。其処置既に甚しきに、遂に其城地を没収し、其倉庫を領収し、祖先の墳墓を棄てゝ祭らしめず、旧臣の采邑は頓に官有と為し、遂に我藩士をして居宅をさへ保つ事能わざらしむ。又甚しからずや。これ一に強藩の私意に出て、真正の王政に非ず。我輩泣いて之を帝閽に訴へんとすれば、言語梗塞して情実通ぜず。故に此地を去り長く皇国の為に一和の基業を開かんとす。それ闔国士民の綱常を維持し、数百年怠惰の弊風を一洗し、其意気を鼓舞し、皇国をして四海万国と比肩抗行せしめん事、唯此一挙に在り。 之れ我輩敢て自ら任ずる所なり。廟堂在位の君子も、水辺林下の隠士も、荀も世道人心に志ある者は、此言を聞け。

現代訳(MS Copilot)

檄文

 王政復古によって国が新しく生まれ変わることは、我々にとっても望ましいことであり、私自身もそれを願っている。 しかし、現在の政治体制は、表向きは公正で立派に見えるものの、実際にはそうではない。 王の軍が東へ進軍した際、我が藩の老君主を「朝敵(国家の敵)」と誹謗し、名誉を汚した。 その処置はすでに過酷であったが、さらに城を没収し、倉庫を取り上げ、祖先の墓を放置して供養もさせず、旧臣の領地はすべて官有地とされ、ついには藩士たちが自宅すら守れない状況に追い込まれた。 これほどの仕打ちがあるだろうか。 これはすべて、強大な藩の私利私欲によるものであり、真の王政とは言えない。我々が涙ながらにこの不条理を朝廷に訴えようとしても、言葉は遮られ、真実は伝わらない。 だからこそ、私はこの地を離れ、皇国のために新たな秩序の基盤を築こうと決意した。 それは、全国の士民が道徳と規律を守り、数百年にわたる怠惰の風習を一掃し、志を奮い立たせ、皇国が世界の国々と肩を並べて進むための、ただ一度の行動なのだ。これこそ、私が自らの責任として引き受ける覚悟である。 朝廷に仕える高官も、自然の中に隠棲する賢者も、そして世の中の道と人の心に志を持つ者は、どうかこの言葉に耳を傾けてほしい。

榎本艦隊が銚子沖で台風に遭遇

 榎本艦隊は就航数日後に銚子沖で台風に遭遇した。暴風波浪の損傷を受けた「咸臨丸」と「幡龍丸」は清水港に入港し、「美賀保丸」は銚子の犬吠埼の黒生海岸に漂着した。「幡龍丸」は「咸臨丸」より先に清水港を出港し仙台に向かいましたが、修理に手間取った「咸臨丸」は新政府軍に攻撃され拿捕された。「美賀保丸」は座礁して沈没し乗組員の多くは新政府軍に投降した。その中には伊庭八郎もいた。八郎は無念のあまり自決しようとしたが説得され横浜の旧幕臣の尺振八宅で数ヶ月潜伏した。振八の支援でアメリカ船で蝦夷地に向かい旧幕府軍と箱館で合流を果たしている。

伊庭八郎
伊庭八郎

土方歳三も仙台に向かう

 これより4ヶ月ほど前、宇都宮城の戦いで足の指に被弾し負傷した土方歳三は日光街道の宿場町の今市に搬送されたが傷が深く治療のため会津へと移送された。会津へ旅立つ朝、歳三は日光東照宮を守る八王子千人隊の隊士で幼馴染みの土方勇太郎と面会した。歳三は勇太郎に宇都宮戦争の戦況を伝え、乱戦の中で逃げようとした一兵卒を斬り捨てたことを悔やみ涙して勇太郎に金を渡し供養を頼んだと伝えられている。

 新選組局長の近藤勇が斬首されたのは歳三が今市を立った翌日の 慶応4年(1868年)4月25日のことです。歳三が勇の死を知ったのは会津に到着した後のことである。歳三は流山で勇に投降をすすめるべきではなく切腹させるべきだったと悔やみ苛立った日々が続いた。仲間が一人一人と失われていく中で歳三は断腸の思いをしていたが負傷で戦えない身ではなす術はなかったのである。

土方歳三の写真(田本研造撮影)
土方歳三の写真(田本研造撮影)

 会津では新選組は派斎藤一が山口二郎と称して指揮を執っていました。新政府軍は京都守護職だった松平容保の会津藩を目の敵にしており総攻撃を仕掛けました。これによって奥羽列藩同盟は劣勢となった。歳三が戦線に復帰したのは同年7月初めであるが、会津藩ならびに旧幕府軍は兵力および武器ともに圧倒的勢力の新政府軍を前に苦戦を強いられた。歳三は新選組を大鳥圭介に預け自らは援軍の要請のため米沢藩に向かった。庄内藩にも援軍の要請に向かうつもりだったが庄内藩が降伏したため会津方面へと脱出した。このとき榎本艦隊が仙台に入港したことを知った歳三は会津を通り越して仙台に向かったのである。

榎本武揚らが仙台城に登城

 同年8月下旬、台風で離散した榎本艦隊は港町として栄えていた寒風沢島に到着した。同年9月2日、武揚、ブリュネらは仙台城に登城し伊達慶邦に謁見した。同年9月3日、武揚らは奥羽越列藩同盟の軍議に参加したがその中には歳三の姿もあった。武揚は軍議で奥羽の地と軍勢をもってすれば何も恐れることはないと主張し、奥羽の軍勢を統率する総督として土方歳三の他にはいないと歳三を推薦したのである。これに奥羽越列藩同盟の諸侯も賛成した。

 武揚の推薦に歳三は死を覚悟して受ける所存と了承したが奥羽越列藩同盟の諸侯に条件を出した。歳三は宇都宮で斬り捨てた兵士のことを忘れていなかった。同盟と言えども諸藩の統率が取れていないために負けた戦を見てきた歳三は統率を強めるため軍令に逆らうものは斬り捨てることを了承するよう迫ったのである。歳三が新選組で厳しく守ってきた局中法度を改めて重視したのであろう。

新選組の局中法度
新選組の局中法度

 しかしながら時は遅すぎた。奥羽越列藩同盟は新政府軍の攻撃により既に壊滅状態にあったのである。

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2025年9月 2日 (火)

日本が降伏文書に署名(昭和20年 1945年9月2日)

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 昭和20年(1945年)9月2日、第二次世界大戦の終戦を同年8月15日に表明した日本とアメリカ合衆国を中心とする連合国との間で降伏文書が調印されました。これにより休戦協定(停戦協定)が結ばれポツダム宣言の受諾と日本の降伏が外交文書において確定されました。

 調印は東京湾に停泊中のアメリカ合衆国海軍の戦艦ミズーリの甲板で行われました。調印式は同日午前9時から執り行われました。最初に連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが演説を行いました。日本からは天皇および大日本帝国政府の代表として重光葵外務大臣が、大本営の代表として梅津美治郎参謀総長が降伏文書に署名しました。連合国からはマッカーサーをはじめとする各国代表が署名を行いました。

降伏文書の調印
降伏文書の調印

 このときミズーリの甲板で掲げられた国旗はアメリカ合衆国のものだけでしたが、当時の国旗である48州の星条旗とは別に31州の星条旗の2つの国旗が掲げられました。31州の星条旗は嘉永6年(1853年)にマシュー・ペリーが黒船来航で日本に開国を要求した当時の星条旗でした。またミズーリが停泊した位置も嘉永7年(1854年)にペリーが日米和親条約調印の際に旗艦ポーハタン号を停泊させてたのと同じ位置でした。この黒船来航に合わせた演出はマッカーサーによるものとされています。

 日本が実質的にポツダム宣言を受け入れたのは同年8月14日で翌日の8月15日に昭和天皇が大東亜戦争終結ノ詔書を自ら読み上げた玉音放送により全国民に日本が戦争に負け降伏したことが伝えられました。8月いっぱいは小競り合いが続いた地域もありましたが日本が軍に停戦命令を出したの翌8月16日です。この経緯から日本では8月15日が戦争に負けたことを認め降伏することを決断した終戦記念日とされています。

 日本は終戦を迎えるにあたり日ソ中立条約を結んでいたソビエト連邦を仲介役として和平交渉を進める外国工作をしていましたが、アメリカ合衆国はソ連といち早く交渉を行いヤルタ会談においてソ連に対して千島列島の領有を認める代わりに対日参戦を確約させました。アメリカ合衆国はソ連に対して日本を攻撃するための軍事訓練と戦艦などを無償提供する極秘軍事作戦「プロジェクト・フラ」を開始しました。この作戦により軍事力を強化したソ連は日ソ中立条約を一歩的に破棄し同年8月8日に日本対して戦線布告しました。ソ連は同年9月2日の降伏調印をした後も進軍を続け、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、千島列島、択捉、国後、色丹、歯舞を支配下に置いた9月5日に停戦しました。

 ヤルタ会談で連合国側がソ連に領有を許可した千島列島の範囲には択捉、国後、色丹、歯舞は含まれないというのが日本の主張であり現在も北方領土問題が解決されないままになっています。また玉音放送後の停戦以降も侵攻を続けたソ連とその侵攻で北方領土を占領されたため、9月2日を終戦の日と認めるわけにはいかないというのが日本の立場です。ソ連は「終戦後」の9月5日まで侵攻を続けたのです。

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