カテゴリー「歴史」の346件の記事

2026年4月 7日 (火)

江戸幕府が修学と商業目的の海外渡航を許可(慶応2年1866年4月7日)

 嘉永六年(1853年)のマシュー・ペリー提督による黒船来航をきっかけに江戸幕府は安政五年(1858年)にアメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの5カ国と修好通商条約を締結しました(安政五カ国条約)。その後、万延元年(1860年)にポルトガル、万延元年(1861年)にプロセイン、文久3年(1864年)にスイスと同様の条約を締結しています。

 江戸幕府は長らく日本人の海外渡航を原則として禁止していました。開国後に海外渡航が許されたのは外交使節や幕府関係者のみでした。しかしながら多くの日本人が幕府の許可なく海外に渡航しています。それらはすべて密航にあたりました。密航を禁じることが実質的に困難になると、幕府は慶応2年(1866年)4月7日に日本人の海外渡航を許可する觸達を出しました。また幕府はこの年にベルギー、イタリア、デンマークと修好通商条約を締結しています。

寅四月七日觸達

 海外諸國へ向後、学科修業又は商業之ため相越度志願之者は、願出次第、御差許可相成候。

 尤(もっとも)、糺(ただ)之上、御免之印章可相渡候間、其者名前並(ならびに)如何様之手続を以、何々之儀にて何れ之國へ罷越度旨等、委細相認(したため)、陪臣は其主人、百姓町人は其所之奉行・御代官・領主・地頭より、其筋へ可申立候。

 若(もし)御免之印章なくして、竊(ひそか)に相越候者も有之候ハヽ、厳重可申付候間、心得違無之様、主人々々又は其所之奉行・御代官・領主・地頭より、入念可被申付候。

四月

現代語訳

 今後、学問の修行や商売のために海外諸国へ渡航したいと希望する者は、願い出ればすぐに許可が下りることになりました。

 もっとも身元などを審査した上で、許可の証をお渡しします。つきましては、渡航希望者の氏名、どのような手続きを経て、何の目的で、どの国へ行きたいのかといった詳細を詳しく書き記してください。申請方法は、将軍に直接仕えていない陪臣は自分の主君を通じて、農民や町人はその地の奉行、代官、領主、地頭などの役所を通じて申し出てください。

 もし許可証を持たずに密入国(密航)しようとする者がいれば、厳重に処罰します。 手違いや間違いのないよう、それぞれの主君や各地の役人は、人々に念入りに言い聞かせてください。

 幕府が許可した海外渡航の条件は、修学(学術・留学目的)と商業(貿易・ビジネス目的)に限るものでしたが、身分を問わず誰でも申請が可能でした。海外渡航の対象国は条約締結済みの国に限られました。この觸達によって、日本人は密航を犯さず合法的に海外渡航できるようになりました。多くの日本人が海外渡航すると、多くの西洋の知識や技術が導入されるようになり、商業活動の拡大と経済発展に繋がりました。

 海外渡航を許可した幕府が手間取ったのは世界に通用する旅券の作成でした。国内に駐在していた欧米の外交官の協力を得て幕府が初めて発行された旅券「御免之印章」は同年10月17日に日本帝国一座を率いてパリ万博に参加する隅田川浪五郎に対して発行されました。

慶応2年(1866年)に発行された日本最古の旅券(外交史料館蔵)
慶応2年(1866年)に発行された日本最古の旅券(外交史料館蔵)

 

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2026年3月27日 (金)

幕末の水戸藩|天狗党が挙兵(元治元年 1864年3月27日)

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 文政12年(1829年)9月、水戸藩第8代藩主の徳川斉脩は家督相続を公表しないまま病床に伏していました。斉脩には嫡子がなかったため異母弟の敬三郎が後継者でしたが、江戸家老の榊原照昌らは第11代将軍徳川家斉の子で斉脩の正室の峰姫の弟にあたる清水恒之丞を後継者とすべきと主張しました。水戸藩の多くの家臣は藩の財政が厳しい状況にあったことから家斉の子が藩主になれば江戸幕府からの支援が厚くなると考え後継者を恒之丞とすることに賛成しました。

 これに対して水戸藩士で水戸学学者の藤田東湖と会沢正志斎は異母弟とはいえ血筋から敬三郎を後継者とするべきと主張し江戸幕府に再考を求めました。同年10月4日に斉脩が亡くなると後継者を敬三郎とすると記された遺書が公開されたため、敬三郎は斉脩の養子となり江戸幕府から承認を得て水戸藩第9代藩主となりました。敬三郎は名を徳川斉昭と改めました。一方の恒之丞は後に徳川斉彊と名を改め紀州徳川家を継ぎ紀伊和歌山藩の第12代藩主となりました。

水戸藩第9代藩主 徳川斉昭
水戸藩第9代藩主 徳川斉昭

 水戸藩主となった徳川斉昭は天保12年(1841年)に藩校の弘道館を設立し広く人材を登用しました。斉昭は自身の擁立に尽力した東湖や正志斎らを家臣として重用しました。幼い頃から正志斎のもとで水戸学を学んでいた斉昭は正志斎が体系化した尊皇攘夷思想を水戸学に取り入れ藩政改革を進めました。斉昭が進める藩政改革が過激化すると、反対派は彼らが鼻高々と偉ぶっていると揶揄し天狗党(天狗連)と呼びました。

 斉昭を支持していた江戸幕府老中の水野忠邦が失脚すると後任の阿部正弘は天保15年(1844年)に過激な藩政改革を進める斉昭を強制的に隠居させ水戸藩の家督を嫡男の慶篤に譲らせました。これによって天狗党の面々も謹慎を言い渡されました。斉昭は正弘に水戸藩では義をもって国家に忠誠する有志を天狗と呼ぶと主張し反対派を牽制しました。その後、水野忠邦が老中に短期間復帰したときに斉昭は謹慎を解かれ第10代藩主徳川慶篤の後見となり水戸藩の藩政に復権しました。

 【参考】ビスケットの日(2月28日)

 嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが率いる黒船艦隊が浦賀に来航すると、阿部正弘は人材不足の中で斉昭の軍事と外交に関する能力を評価し斉昭を海防参与に命じました。これによって斉昭は幕政に関わるようになりました。圧倒的な軍事力を背景に開国を求めるペリーに対して幕府は嘉永7年(1854年)に日米和親条約を締結しました。

 【参考】黒船来航(1853年7月8日旧暦6月3日)

 【参考】マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)

 日米修好通商条約の締結後、アメリカ合衆国の初代日本総領事に就任したタウンゼント・ハリスは幕府に通商条約の締結を求めました。安政4年(1857年)に正弘が死去すると、老中首座となった堀田正睦は米国をはじめとする列強を前に修好通商条約を締結せざるを得ないと考えるようになりました。斉昭はこれに強く反対しました。とりわけ幕政に関わり開国を主張していた彦根藩主の井伊直弼と激しく対立しました。

 安政2年(1855年)10月、安政江戸地震が発生し小石川の水戸藩藩邸が倒壊しました。この地震で斉昭の重臣の戸田忠太夫、藤田東湖が死亡しています。重臣を失った水戸藩では内部抗争が激しくなりました。

 【参考】小石川後楽園が完成(1629年9月28日)

 【参考】幕末の混乱期に大地震|安政江戸地震(1855年10月2日)

 正睦は孝明天皇の勅許を得るために上京しましたが、朝廷の公家たちはこれに反対しました。和親条約を許した孝明天皇も通商条約については国の秩序を乱すことになると考え勅許を拒否しました。勅許を得られなかった正睦は将軍の信頼を失い失脚することになりました。

 【参考】廷臣八十八卿列参事件(1858年3月12日)

 斉昭と直弼は第13代将軍の徳川家定の継嗣者の擁立でも対立しました。斉昭は実子の一橋家当主の徳川慶喜を擁立する一橋派、直弼は紀州藩主の徳川慶福を擁立する南紀派を形成し対立しました。

 【参考】一橋徳川家を創設(1740年11月18日)

 安政5年(1858年)に直弼が大老の座につくと南紀派が擁立する慶福が第13代将軍の徳川家茂となりました。直弼は列強との交渉が進む中で朝廷を説得する時間的余裕がないと考え天皇の勅許を得ぬまま日米修好通商条約を締結しました。

 【参考】日米修好通商条約に調印(1858年6月19日)

 斉昭は将軍の後継問題と条約締結に関し水戸藩主の慶篤、尾張藩主の徳川慶恕とともに無断で江戸城に登城し直弼に詰問しました。直弼はこれを問題視し斉昭を幕政から外し水戸藩江戸屋敷での謹慎を命じました。孝明天皇は勅許を得ずに条約を締結した江戸幕府を問題視し、水戸藩に対して幕政改革を指示する勅書「戊午の密勅」を直接下賜しました。

 【参考】戊午の密勅(1858年8月8日)

 安政6年(1859年)8月、直弼は江戸幕府を飛び越えて水戸藩に下賜された「戊午の密勅」は水戸藩の陰謀とし、水戸藩家老などを処罰し、斉昭に永蟄居を命じ、慶篤には出仕を禁じ謹慎処分としました。これをきっかけに井伊直弼は一橋派や尊皇攘夷派を弾圧を始めました。これが「安政の大獄」です。

 この勅書の扱いについて水戸藩内でも対立が起こりました。会沢正志斎ら尊攘鎮派は幕府の命に従い勅書を朝廷に返納することを主張しましたが、これに対して家老で武田耕雲斎を中心とした尊攘激派は密勅を実行するべきと主張しました。斉昭は正志斎の説得により安政7年(1860年)に勅書の返納を決断しましたが藩内の対立が激化したため返納を延期しました。

 その後、尊攘激派の高橋愛諸らは実力行使で勅書を奪うため挙兵しました。これに対して正志斎は鎮圧軍を編成しましたが、これを知った愛諸らは水戸藩を脱藩して江戸に逃れました。「安政の大獄」に憤慨していた水戸脱藩藩士と薩摩浪士の有村兼武と有村兼清らは同年3月3日に上巳の節句(桃の節句)の祝いで登城してきた直弼を江戸城桜田門外で襲撃し暗殺しました。これが桜田門外の変です。この事件により勅書の返納はうやむやになりました。孝明天皇は黒船来航、安政大地震、桜田門外の変と災異(凶事)が続いたため元号を安政から万延に改元する一方で幕府に対して攘夷を実行するよう求めました。

 【参考】上巳の節句とひな祭り(3月3日)

 【参考】万延に改元(1860年3月18日)

 同年8月15日、斉昭が病没すると水戸藩の混乱は激化しました。尊攘激派は第一次東禅寺事件や坂下門外の変を起こしましたが首謀者は討ち取られ勢力を弱めました。

 【参考】第一次東禅寺事件(1861年5月28日)

 文久2年(1862年)12月、孝明天皇は幕府に対し攘夷実行を勅命しました。幕府は列強が要求する開国の流れは止められず攘夷は不可能と考えていました。文久3年(1863年)3月、第14代将軍の徳川家茂は朝廷の要求に応じて上洛することになりました。このとき将軍後見職となっていた一橋慶喜は家茂に先立ち上洛することになり、慶喜の実家の水戸藩主の徳川慶篤が随行することになりました。

 この頃、水戸藩では武田耕雲斎ら尊攘激派が藩政の中心となり、尊王攘夷派の有志の結集を進めていました。武田耕雲斎、山国兵部、藤田東湖の四男の藤田小四郎などが慶篤に随行しました。上洛後、小四郎らは長州藩の桂小五郎や久坂玄瑞と出会い尊皇攘夷思想を強めていきました。その後、上洛した家茂は朝廷と幕府で協力する公武合体を前提に同年5月10日をもって攘夷を実行することを孝明天皇に約束しました。実際のところ幕府は武力による攘夷は困難なため外交的な手続きで開港地を閉港することにしました。幕府は通商条約を見直すことと海防を強化することを諸藩に命じました。しかし、列強との交渉は容易いものではなく開国派の反対もあり攘夷は実行できずにいました。

 攘夷の約束の期日の5月10日、長州藩は幕府の攘夷の命令に従うという口実で馬関海峡(関門海峡)を通過する外国船に砲撃を開始しました。この事件は列強の連合軍と長州藩の間で馬関戦争(下関戦争)に発展しました。武力による攘夷は困難であることを理解していた孝明天皇は過激な攘夷派の長州藩や公家を排除したいと考えるようになりました。

 自分の知らないところで京都守護職の会津藩藩主の松平容保に江戸に戻る勅命が出ていることを知った孝明天皇は会津藩と薩摩藩に過激な攘夷派を排除することを命じました。同年8月の「八月十八日の政変」により長州藩と攘夷派の公家は京都から一掃されました。この「八月十八日の政変」で活躍したのが江戸から家茂の護衛で随行し京都に残留した壬生浪士組です。容保は彼らの功績を評価し新選組という隊名を与えました。

 【参考】八月十八日の政変(1863年8月18日)

 【参考】第9話「浪士組西へ」|明日なき戦いの果てに

 【参考】新撰組の日(1863年3月13日)

 「八月十八日の政変」後、孝明天皇は改めて幕府に対して攘夷実行を命じました。慶喜は横浜港を閉港する攘夷を計画しましたが幕府の開港派が反発したため実行できませんでした。諸藩の攘夷派の志士たちは長州藩が京都から排除されたため水戸藩に期待を寄せるようになりました。水戸に多くの攘夷派の志士が集まると、小四郎は長州藩と連携した挙兵を企てました。耕雲斎は小四郎を止めようとしましたが、小四郎は挙兵の準備を進めました。このとき小四郎は水戸学に傾倒し尊皇攘夷派で倒幕を企ていた尾高惇忠、渋沢栄一、渋沢成一郎とも交流しています。尾高惇忠らは独自に上野国群馬郡(群馬県高崎市)の高松城乗っ取り鎌倉街道を進軍し横浜の外国人居留地を焼き討ちにして攘夷を行い長州藩と幕府を倒す計画を立てましたが実行には至りませんでした。

 【参考】有為転変の人生|渋沢成一郎と渋沢栄一

 文久4年(1864年)1月、将軍家茂は2度目の上洛を果たしました。慶喜は参預会議において横浜港の閉港について議論したものの開港派の諸侯と対立し参預会議を解体しました。朝廷から禁裏御守衛総督に任命された慶喜は水戸藩に協力を要請し、水戸藩士の原市之進と梅沢孫太郎を家臣に加えました。耕雲斎は慶喜の要請で数百名の水戸藩士を京都に派遣しました。

 元治元年(1864年)3月27日、攘夷が実行されないことに不満を持った藤田小四郎は横浜港の閉港を求めて、水戸町奉行の田丸稲之衛門を主将とする62人の同志と筑波山で挙兵しました。筑波山には各地から浪士などが集結し総勢1400人となり筑波勢と呼ばれました。彼らは天狗党を中心とする過激な尊皇攘夷派でしたが、表向きには徳川家康の遺訓として攘夷を行うこと記した檄文をもって日光東照宮で攘夷決行の祈願をしています。この筑波勢が天狗党です。このような状態の中で武田耕雲斎は藩政の混乱を収拾しようとしましたが各派閥の折り合いをつけることができませんでした。藤田らの行動は水戸藩の方針に反する行為ではあったものの、耕雲斎は後に小四郎の熱心な説得により天狗党の首領となっています。

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2026年3月26日 (木)

新選組 近藤勇と土方歳三の出会い

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 梅村真也原作・ 橋本エイジ作画の漫画「ちるらん 新撰組鎮魂歌」において、土方歳三は石田散薬の行商をしながら剣を磨き、道場破りで偶然立ち寄った試衛館(試衛場)で近藤勇と出会い、勝負に敗れて試衛館に入門したとされています。しかしながら、この描写は史実とは異なり、2人が出会ったのは日野宿組合名主の佐藤彦五郎の道場です。

 佐藤彦五郎は文政10年9月25日に武蔵国多摩郡日野宿で長男として生まれました。11歳で祖父の10代彦右衛門から日野本郷名主、日野宿問屋役、日野組合村寄場名主を継ぎました。嘉永2年1月18日、日野宿の大火が発生した折、家族が殺害されたことで自衛の必要姓を感じ、八王子千人同心石阪組世話役の井上松五郎に天然理心流を紹介され、嘉永3年(1850年)に天然理心流3代目宗家の近藤周助の門人となり日野宿で道場を開きました。井上松五郎の弟は後に新選組六番隊長となった井上源三郎で、次男の井上泰助も新選組隊士になっています。

日野宿組合名主 佐藤彦五郎
日野宿組合名主 佐藤彦五郎

 近藤勇は天保5年10月5日に武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市野水)に農家の三男として生まれました。幼名は勝五郎で、後に勝太と改めています。嘉永元年(1848年)11月11日に牛込(東京都新宿区)の天然理心流剣術道場試衛場に入門しました。万延2年8月27日に府中六所宮で天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い流派一門の宗家を継ぎました。

新選組局長 近藤勇
新選組局長 近藤勇

 土方歳三は天保6年5月5日(1835年5月31日)武蔵國玉郡石田村(東京都日野市石田)の農家の末子として生まれました。14歳から24歳まで奉公に出て、その後は実家に戻り土方家秘伝薬「石田散薬」を行商しながら剣術の修行に励みました。このときに試衛場に道場破りをしたという事実はありません。土方歳三は実姉のらん(とく、佐藤のぶ)が佐藤彦五郎に嫁いでいた関係から佐藤彦五郎の道場に出入りしていました。ここで彦五郎と義兄弟の契りを結んでいた試衛館の近藤勇に出会いました。土方歳三が正式に天然理心流に入門したのは安政6年(1859年)3月9日とされています。

新選組副長 土方歳三
新選組副長 土方歳三

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2026年3月19日 (木)

ロシア使節ニコライ・レザノフが長崎から退去(文化2年 1805年3月19日)

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 ロシア帝国の外交官・貴族で露米会社の総支配人を努めていたニコライ・ペトロヴィチ・レザノフは露米会社の経営改善やロシアの発展には南方の日本や清との交易を確立することが重要と考えて遣日使節の派遣を宮廷に働きかけました。

ニコライ・ペトロヴィチ・レザノフ
ニコライ・ペトロヴィチ・レザノフ

 レザノフは寛政4年(1792年)にアダム・グラスマンが日本人漂流民の大黒屋光太夫らを送還する目的でエカテリーナ号で根室に来航した際に幕府に通商を求めていたことに目を付けました。江戸幕府老中の松平定信はグラスマンに長崎港の入港許可証(信牌)「おろしや国の船壱艘長崎に至るためのしるしの事」と交付しました。グラスマンは長崎には向かわずそのままロシアに帰りましたが、幕府はこれをきっかけに蝦夷奉行を設置しました。レザノフはこの入港許可書を利用して長崎を訪れ幕府に通商を求めようと考えたのです。

【参考】江戸幕府が蝦夷奉行を設置(享和2年 1802年2月23日)

 レザノフは日本人漂流民の津太夫らを送還する目的でロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携えた正式な使節団を率いて日本に通商を求める遣日使節として長崎に向かうことになりました。レザノフはアーダム・ヨハン・フォン・クルーゼンシュテルンの世界一周航海艦隊(旗艦ナジェージタ号)で、バルト海沿岸のサンクト・ペテルブルクから出航し南米回りで太平洋に出てハワイ王国を軽油してカムチャツカ半島のペトロパブロフスク・カムチャツキーに到着しました。そして1804年(文化元年)9月に長崎に来航しました。

レザノフのナジェージダ号での長崎来航
レザノフのナジェージダ号での長崎来航

 レザノフが来日したときには松平定信は失脚しており、老中の土井利厚が対応しました。通商条約を結ぶ考えのない幕府は艦隊の入港を認めず、海上で2ヶ月も待機させました。上陸後も出島の宿舎に半年近く滞在しました。レザノフらは長崎奉行を通じて交渉を行いましたが、長崎奉行の遠山景晋(遠山景元の父)は「唐山(中国)・朝鮮・琉球・紅毛(オランダ)以外とは通商せず」という「朝廷歴世の法」を理由に通商を拒否しました。漂流民は引き取りましたが、ロシア皇帝の親書や献上品を受け取らず退去を命じました。レザノフは幕府に非礼に憤慨しましたが、翌年の文化2年(1805年)3月19日に長崎を出港しカムチャツカへ戻りました。

 日本の対応に憤慨したレザノフは日本に開港を要求するには武力による方法しかないと考えるようになり、部下に樺太や択捉島などの日本の拠点を攻撃するよう命じました。これが文化露寇(フヴォストフ事件)に発展しました。幕府は文化露寇の報復として文化8年(1811年)5月に軍艦ディアナ号で千島列島の測量を行っていたヴァーシリー・ゴローニンを拿捕、ロシアはその報復として文化9年8月13日に高田屋嘉兵衛を拿捕しました。いわゆるゴローニン事件が起こりました。

 

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2026年2月11日 (水)

江戸城評定における小栗忠順と榎本武揚のすれ違い|明日なき戦いの果てに番外編)

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 慶応4年(1868年)1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いにおいて旧幕府軍は不利な戦況に追い込まれました。薩長軍は錦の御旗を掲げ我らこそが官軍であることを示しました。第十五代将軍・徳川慶喜は朝敵となることを避け、大阪城内の主戦派の収拾がつかなくなると考え、江戸へ退却することを決断した。慶喜は6日に大阪城を脱出し、側近とともに艦長の榎本武揚が不在の開陽丸で江戸に向かいました。慶喜の一行が江戸に到着したのは12日でした。

 慶喜が江戸城に帰還すると城内で評定が開かれました。この評定で徹底抗戦を主張したのが勘定奉行・陸軍奉行並の小栗忠順です。小栗は旧幕府軍には鳥羽・伏見の戦いに参戦していない多数の兵力が残っていることから、「薩長軍が箱根を降りてきたところを陸軍で迎撃し、同時に榎本率いる旧幕府艦隊を駿河湾に突入させて艦砲射撃で後続補給部隊を壊滅させ、孤立化し補給の途絶えた薩長軍を殲滅する」という作戦を提案しています。後に小栗の作戦を聞いた大村益次郎がこの作戦が実行されていたら官軍は壊滅していたと驚愕したという逸話が残っています。おそらく慶喜も小栗の作戦が自らの朝廷への恭順の意を覆すことになることは理解していたでしょう。

徳川慶喜と勝海舟 小栗忠順と榎本武揚
徳川慶喜と勝海舟
小栗忠順と榎本武揚

 江戸城での評定は数回に渡って執り行われたと考えられますが、小栗忠順は榎本武揚らと徹底抗戦を主張したと伝えられています。徹底抗戦を主張していた小栗忠順は1月15日に罷免されています。大阪に取り残された榎本武揚が富士山で大阪湾を出港したのは12日、江戸に帰還したのは15日と伝えられています。つまり榎本武揚が江戸に戻ったときには、自分を支持してくれるはずの小栗はすで罷免されていたか、あるいは罷免直前だったことになります。ですから評定の席で小栗と榎本が一緒に徹底抗戦を主張したのかという点においては疑問が残ります。小栗の罷免後も評定は行われ、榎本は小栗が罷免されたうえでさらに徹底抗戦を主張したのでしょう。主戦派の榎本が戻ると徹底抗戦の作戦が現実のものとなりかねないので小栗を罷免したとも考えられます。

 商人の三野村利左衛門は小栗に資金提供と米国への亡命をすすめましたが、小栗は丁重に断っています。また慶喜の家臣の渋沢成一郎が彰義隊の隊長の就任を打診していますが、小栗は「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」と拒否しています。2月28日、小栗は江戸を出発し上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)へ向かいました。

 同じく徹底抗戦を主張した榎本は罷免されず1月23日付けで幕府海軍海軍副総裁に任ぜられています。これは榎本の上司だった勝海舟の意向が働いた結果と考えられます。慶喜の恭順の意向を受けて新政府と平和裏に交渉を進めようとしていた勝は交渉を有利にするためには徹底抗戦の意向を持たずとも武力の保有は必要と考えていたようです。小栗を罷免して榎本を登用した慶喜と勝の判断は江戸を救ったとも、日本の近代化を支えた人物を切り捨てたとも言えます。

 小栗は権田村で農地開墾や水路の整備、塾を開くなど穏やかな日々を過ごし、新政府に敵対するような準備はしていませんでした。慶応4年(1868年)閏4月4日、小栗は東善寺にいるところを新政府軍に捕縛され、6日午前中にろくに取り調べもされないまま家臣とともに斬首されました。これは新政府の意向ではなく手柄を取ろうとする現場の軽率な判断だったとも伝えられています。榎本は与えられた軍事力を背景に小栗の思いを蝦夷地まで運んだのでしょう。

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2026年2月 9日 (月)

近藤勇が本庄宿で芹沢鴨の宿を取り忘れる(文久3年 1863年2月9日)

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 文久3年(1863年)、第3代将軍徳川家光以来229年ぶりに上洛することになった徳川家茂を警備するため浪士組が結成された。近藤勇と土方歳三は試衛館の同志たちと浪士組に参加しました。浪士組は7つの隊に編成され、近藤と土方は三番隊一に組み込まれました。この三番隊一には芹沢鴨・近藤勇・山南敬助・土方歳三・永倉新八・沖田総司・原田左之助・藤堂平助・平山五郎・野口健司・平間重助など後の新選組の主要メンバーとなる面々で構成されていました。

 同年2月8日、浪士組は江戸を出発して中山道を通り京都をめざしました。翌日2月9日、一行は中山道六十九次(木曽街道六十九次)の江戸から数えて10番目の宿場である本庄宿に到着しました。宿割り役の池田徳太郎と近藤勇はこれに先乗りして各隊の宿舎を割り振りましたが、取締付筆頭(三番組小頭)の芹沢鴨の宿を手配し忘れるミスを犯してしまいました。

木曽海道六十九次「支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場」(渓斎英泉 画)
木曽海道六十九次「支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場」(渓斎英泉 画)

 本庄宿に到着した芹沢は自分の宿が用意されていないことに激怒し「野宿でよい」と言い放って、芹沢一派を集めて宿場の街道の真ん中で巨大な篝火(かがりび)を焚かせたとされています。火の粉が飛び散り危険な状態となったため、宿役人が消化を命じると、芹沢は大鉄扇で役人を気絶させるほど殴打する乱暴を働きました。近藤と池田が芹沢に謝罪し宿を手配しましたが芹沢の怒りは収まりませんでした。

本庄宿篝火事件の想像図
本庄宿篝火事件の想像図

 この事件は一般に「本庄宿篝火事件」または「大焚火事件」と呼ばれていますが、当時、本庄宿で火災が起きたという記録は残っていません。事件の顛末は永倉新八の「新選組顛末記」に残されていますが、永倉が近藤派だったため芹沢の乱暴さを強調した可能性が指摘されています。また、宿割りのミスをしたのは道中目付の岡田盟とされており近藤自身は宿取り役ではなかったという指摘もあります。いずれにせよ、この事件で芹沢派と近藤派の間に確執が生まれたのは事実とされてます。

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 芹沢は新選組になってからも狼藉を働くことが多く、朝廷から芹沢の逮捕命令が出ると新選組を預かる会津藩が芹沢の処分を命じました。これを受けて近藤は芹沢の暗殺を土方や沖田総司らに命じました。新選組が京都で狼藉を働いた集団という伝えがありますが、これは芹沢が新選組局長だった頃の話です。渋沢栄一郎は近藤や新選組のことを高く評価しています。

 

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2026年1月25日 (日)

雪原の屈辱から逆襲そして没落へ|カノッサの屈辱(1077年1月25日)

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 1077年1月25日、北イタリアのアペニン山脈に囲まれ冬の厳しい寒さに包まれたカノッサ城の城門の前に粗末な衣をまとった1人の男が佇んでいました。この男はドイツ王ハインリヒ4世、後に神聖ローマ皇帝となった人物です。

カノッサの屈辱(Eduard Schwoiser)
カノッサの屈辱(Eduard Schwoiser)

 当時のキリスト教の世界では司教や修道院長を任命する権限「叙任権」をめぐり、王権と教皇権が激しく対立していました。教皇グレゴリウス7世は王権による聖職者任命を禁じていましたが、これに反発した改革を進めていたハインリヒ4世を破門しました。破門は単なる宗教的処罰に留まらず「王への忠誠義務は無効」と宣言されたことにより諸侯たちはハインリヒ4世に反旗をひるがえしました。

神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世 ローマ教皇グレゴリウス7世
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世(左)とローマ教皇グレゴリウス7世(右)

 孤立したハインリヒ4世は王位を守るために破門の解除を求めるため教皇が滞在するカノッサ城に向かいました。しかしながら、教皇のグレゴリウス7世は面会に応じませんでした。そこでハインリヒ4世は罪を悔いると3日間も雪の中で赦しを待ち続けました。この行動は後にカノッサの屈辱として語り継がれるようになりました。その様子を見ていたグレゴリウス7世はハインリヒ4世城内に迎え入れ破門を解除しました。これによって諸侯がハインリヒ4世に反旗を翻す口実は失われました。

 ハインリッヒ4世はドイツに戻ると対立する王を擁立していた諸侯との戦を数年に渡り繰り広げました。1080年、対立勢力が優勢になるとグレゴリウス7世は再びハインリヒ4世を破門しました。これに対してハインリヒ4世は許しを請うことは無く軍事力で対応しました。翌1081年、ハインリヒ4世は軍勢を率いてローマを取り囲みました。グレゴリウス7世はローマから逃れました。1084年、ハインリヒ4世は自らが擁立した教皇クレメンス3世から神聖ローマ皇帝に戴冠されました。グレゴリウス7世はローマに帰還することはできず、1085年に亡命先のサレルノで客死しました。このとき「私は正義を愛し、不義を憎んだ。ゆえに流刑の身で死ぬのだ」と最期の言葉を残したと伝えられています。
勝利を収めたハインリヒ4世でしたが、晩年は自らの息子たちの反乱により再び権力の座を脅かされました。権力をめぐる闘争はハインリヒ4世の人生の最後まで続きました。ハインリヒ4世は最終的に破門と廃位の憂い目にあい1106年に没しました。

 カノッサの屈辱は、単なる王の敗北ではなく王権と教皇権という二つの巨大な権力がぶつかり合った事件でした。その後のヨーロッパにおける「国家と宗教」の関係を形づくる重要な転換点となりました。教皇と皇帝との間の叙任権を巡る闘争は、叙任権が教皇にあることを定めたヴォルムス協約が成立する1122年まで続きました。

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2026年1月23日 (金)

大阪冬の陣で大阪城の堀の埋立工事完了(1614年1月23日)

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 慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると豊臣政権は秀吉の独裁的な政治体制から豊臣秀頼を徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、前田利家、宇喜多秀家からなる五大老と浅野長政、前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家からなる五奉行が支える政治体制となりました。しかしながら、五大老、五奉行の間で政治的抗争が起こりました。慶長5年(1600年)に「関ヶ原の戦い」で徳川家康が率いる東軍が石田三成率いる西軍を打ち破ると、豊臣家の所領は220万石から65万7千400石に減封となりました。

 慶長8年(1603年)に徳川家康は征夷大将軍に任命され江戸幕府を開くと豊臣政権は名実ともに終焉しましたが秀頼は淀君とともに大阪城を居城としていました。家康は徳川家を頂点とする政権作りを始め、豊臣家に対し服属を求めました。家康の主君筋にあたる豊臣家は秀吉の威光による別格的存在を主張したため家康は豊臣家を滅ぼすことを考え始めました。そして家康は方広寺鐘銘事件をきっかけに慶長19年(1614年)に豊臣家を攻め「大坂冬の陣」を起こしました。

 【参考】方広寺鐘銘事件から大阪の陣へ(1614年10月1日)

 「大阪冬の陣」では豊臣家は真田信繁(幸村)が真田丸を築いて奮戦し徳川軍を翻弄しましたが、淀君は秀頼の出陣を許さず籠城を決めました。徳川軍は大筒で大阪城への攻撃を開始、難攻不落の大阪城も無残な姿となりました。徳川軍も兵糧不足となり冬季の戦で軍が疲弊しているため家康は豊臣家に和議を求めました。豊臣家もこれに応じ双方で講和条件について交渉を重ね同年12月20日に和議が成立しました。

大坂冬の陣図屏風の大阪城
大坂冬の陣図屏風の大阪城

 【参考】大阪冬の陣の和議成立(1614年12月20日)

 講和条件により大坂城は本丸を残して二の丸と三の丸を破壊、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めることになりました。幕府は大阪城の三の丸の外堀を完全に埋めた後、さらに二の丸の内堀の埋め立てを開始しました。

惣構、三の丸、二の丸を破却することになり、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城はついに落城し、豊臣氏は滅亡した。

【参考】大阪冬の陣の和議成立(1614年12月20日)

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2026年1月22日 (木)

坂本龍馬を現代のビジネスマン風にしてみた

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 この写真は慶応3年(1867年)頃に撮影された坂本龍馬の写真です。

坂本竜馬(慶応3年 1867年頃撮影)
坂本竜馬(慶応3年 1867年頃撮影)

 この写真を生成AIにカラー写真にしてもらいました。

坂本竜馬(慶応3年 1867年頃撮影)をカラー化
坂本竜馬(慶応3年 1867年頃撮影)をカラー化

  スーツを着た七三分けの髪型の現代のビジネスマン風にしてもらいました。

坂本竜馬を現代のビジネスマン風にしてみた
坂本竜馬を現代のビジネスマン風にしてみた

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2026年1月15日 (木)

成人の日の由来「元服の儀」|小正月(1月15日)

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  新年の1月1日(元日)から7日までの期間を大正月(たいしょうがつ)といいます。この期間は年神様(歳神様、歳徳神)を迎える神聖な厳かな時期です。年神様の依り代やお供え物として門松や鏡餅を飾り、家族の健康と繁栄を祈願します。1月15日は小正月(こしょうがつ)で正月行事の終わりの日です。どんど焼き(左義長)で正月飾りを燃やして餅花(もちばな)や繭玉(まゆだま)を飾り無病息災や豊作を願います。

 奈良時代になると小正月には男子が成人になることを祝うとともに大人となった自覚を持つ重要な通過儀礼「元服の儀」が行われました。元服の元は頭、服は着用を意味します。元服は数え年で12歳から16歳の男子が子どもの髪型、服装、幼名を捨て成人となる人生の大きな節目です。

元服の儀
元服の儀

 

 元服の儀では髪型を整え、烏帽子や冠をかぶり、幼名を大人の名前に改める成人の儀式です。小正月は年最初の満月の日でもあり、月が満ちることが成人の儀式に結びつけられ、この日に元服の儀が執り行われるようになったと考えられています。

 この元服の儀に由来して昭和23年(1948年)に定められたのが1月15日の祝日「成人の日」でした。現在、成人の日は2000年にハッピーマンデー制度が導入されたため1月第2月曜日となっていますが、小正月で元服の儀が執り行われた1月15日は日本の歴史と文化を語るうえで重要な日です。

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