西郷隆盛と函館の関係
明治維新の立役者となったものの新政府で袂を分かち西南戦争で散った西郷隆盛。
明治元年(1868年)8月、戊辰戦争の北越戦争の戦況が思わしくないことから西郷隆盛は薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令)として越後(新潟)に向かいました。同年9月、新政府軍が戊辰戦争の東北戦争に勝利すると、西郷隆盛は総督府下参謀の黒田清隆に最後まで戦った庄内藩に対して寛大な処分とするよう命じて東京、京都、大坂に立ち寄ったあと湯治のため鹿児島へ向かいました。
明治2年(1869年)2月、薩摩藩主の島津忠義の要請により薩摩藩に戻り藩の改革を行いました。明治元年(1868年)10月から開戦した箱館戦争の支援のため同年5月1日に薩摩藩の総差引として兵を率いて鹿児島を出港しました。途中、東京に立ち寄り箱館に到着したのは同年5月25日でしたが、箱館戦争は同月18日に新政府軍の勝利で終結していました。榎本武揚は18日に五稜郭を開城し武装解除して黒田清隆のもとに投降しました。
このとき西郷隆盛は箱館湾を視察しましたが函館には上陸しませんでした。西郷隆盛が箱館を訪れたのは新政府軍の支援の他に黒田清隆と袂を分けた榎本武揚の双方を気遣ったからとも言われています。箱館に上陸しなかったのは黒田清隆らが尽力した箱館戦争終結に介入することを避けるためとも言われています。西郷隆盛は箱館から鹿児島への帰路で東京に立ち寄りました。同年6月2日に明治維新の功労として賞典禄という恩賞を受け、新政府に留まるよう求められましたが鹿児島へ帰りました。
ところで坂本龍馬は蝦夷地開拓を目指していました。たとえ1人でも蝦夷地に新国を開く覚悟で蝦夷地への移住を考えていました。何度か実際に計画を立てましたが暗殺によって叶いませんでした。坂本龍馬と親交のあった西郷隆盛も明治4年(1871年)頃から蝦夷地の開拓と防衛に取り組むことを主張しました。西郷隆盛は明治6年(1873年)に征韓論をきっかとする対立で下野し鹿児島に戻りました。西郷隆盛と坂本龍馬の蝦夷地開拓の夢は北海道開拓次官となった黒田清隆が引き継ぎました。黒田清隆は同年11月に太政官に屯田制を建議、明治7年(1874年)に屯田兵例則が定められ、明治8年(1875年)5月に札幌郊外の琴似で屯田兵が設置されたのです。
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