カテゴリー「歴史」の302件の記事

2025年7月 7日 (月)

台場公園が開園(1928年7月7日)品川台場の御用掛が発足(8月28日)

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 台場公園は東京都港区台場の東京都港湾局所管の都立の海上公園(海浜公園)お台場海浜公園から続く東京湾に突き出た公園です。この公園は石垣で囲まれ1辺が160メートルの正方形をしています。北側には石組みの船着場跡があり、火薬庫・玉薬置所跡、兵舎礎石が残っています1975年12月1日に開園しました。

 嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督が日本に開国を求めるため黒船艦隊を率いて浦賀沖に来航しました。、江戸幕府の老中首座阿部正弘は沿岸防衛の体制が整え江戸湾を防備するため勘定奉行の松平近直、川路聖謨、勘定吟味役の竹内保徳、江川英龍に西洋式の海上砲台「台場」建設の調査を命じました。同年8月28日にこの4人に目付の堀利忠(利熈)を加えた体制で台場御用掛が発足し、将軍直轄の土木工事が始まりました。わずか1年足らずで江戸湾に第6台場まで築かれましたが実戦に使用されることはありませんでした。

 明治時代に入り、国家の近代化が進むとともに台場もその役割も終えて埋め立てや解体の対象となりましたが、第3台場と第6台場は原形を留めたままで保存されることとなりました。この第三台場が台場公園となりました。

 高度経済成長期に東京の都市開発が進むと1970年代に東京湾の埋め立て事業の一環としてお台場地区が再開発されることになりました。台場跡地を含む湾岸エリアが都民の憩いの空間「お台場海浜公園」として整備されることになりました。台場公園を含むお台場海浜公園が正式に開園したのは昭和50年(1975年)12月1日です。現在の形となったのは平成8年(1996年)です。

Google Map 第3台場跡地

 

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2025年6月17日 (火)

おまわりさんの日(明治7年 1874年6月17日)

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 明治4年(1871年)、明治政府は東京府府兵を廃止し邏卒を採用し屯所(警察署)を拠点としたパトロールを開始しました。明治7年(1874年)1月15日に東京警視庁が設置されると旧薩摩藩士の川路利良が初代大警視(警視総監)に就任しました。

 明治7年(1874年)に東京警視庁が設置され、同年6月17日に巡査制度が導入されました(※)。邏卒が地域を見回りながら治安維持にあたるようになったことから「おまわりさん」と呼ばれるようになりました。この巡査制度の導入に因み6月17日は「おまわりさんの日」とされています。

明治時代の警察官(前原一誠の逮捕、月岡芳年画)
明治時代の警察官(前原一誠の逮捕、月岡芳年画)

 なお邏卒が巡査と改称されたのは明治8年(1875年)10月に改正された「行政警察規則」によるものです。従って「おまわりさんの日」である明治7年(1874年)6月17日は巡査制度が導入された日であり警察官という職業が生まれた日です。

(※)巡査制度の導入の日付が記載された一次資料を探していますが、いまのところ見つかっていません。「おまわりさんの日」は一般社団法人・日本記念日協会には登録がないようです。

【関連記事】

110番の日(1月10日)

交番設置記念日(1881年2月2日)

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2025年6月13日 (金)

江戸幕府が一国一城令を制定(慶長20年 1615年閏6月13日)

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 日本では戦国時代に多数の城郭が築城されました。関ヶ原の戦、大阪の陣を経て江戸幕府の幕藩体制を確立させた徳川家康は大名が反乱を起こしたときの拠点となる城の数を減らすことを考えました。城を削減することにより諸大名の軍事力を縮小させ、幕府への反乱や大名同士の争いを防ぐとともに幕藩体制をより強固にすることを図ったのです。

 大坂夏の陣(1615年5月)の終結後の慶長20年(1615年)閏6月13日、徳川秀忠は家康の意向に従い諸大名に対し居城となる本城以外の支城をすべて破却することを命じる「一国一城令」を制定しました。1つの国に1つの城ですから、1つの国を所領する大名は本城を1つしかもてないことになります。この「一国一城令」により全国に約3千存在した城郭が次々と破却され約170となったと言われています。

一国一城令施行之図(作:Google Gemini)
一国一城令施行之図(作:Google Gemini)

 ただし「一国一城令」は厳密かつ画一的に行われたものではなく例外もありました。例えば1つの国を複数の大名で分割して領有している場合には各大名ごとに一城が認めらました。また複数の国を領有している大名には国ごとに城が認められることもありました。一方で豊臣恩顧の大名には厳しい対応がなされ施行から数日以内に400の城郭が破却されました。

 江戸幕府は「一国一城令」に続いて「武家諸法度」を制定しています。大名が城を新たに築城することや無断で修復することを禁止しています。これらの対策は幕藩体制を強化するとともに江戸幕府を安定させました。江戸幕府は慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍として幕府を開いてから慶応3年(1867年)の大政奉還で終焉するまで265年間続きました。

【参考記事】

天下を勢力図を塗り替え奇襲作戦|桶狭間の戦い(1560年5月19日)

松平家康が徳川家康に改名し従五位下三河守に(1566年12月29日)

三方ヶ原の戦いで家康の身代わりとなった夏目廣次(吉信)(1572年12月22日)

徳川家康が征夷大将軍に就任(1603年2月12日)

方広寺鐘銘事件から大阪の陣へ(1614年10月1日)

大阪冬の陣の和議成立(1614年12月20日)

豊臣秀頼の自刃で大坂夏の陣が終結(慶長20年 1615年5月8日)

王政復古の大号令で明治政府樹立(1867年12月9日)

 

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2025年6月12日 (木)

坂本龍馬の船中八策の史実(慶応3年 1867年6月12日)

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 船中八策(せんちゅうはっさく)は幕末の土佐藩脱藩志士の坂本龍馬が幕末の慶応3年(1867年)6月12日に新たしい日本の国家体制の基本方針として8つの施策について起草したものと伝えられています。

坂本龍馬
坂本龍馬

 慶応3年(1867年)6月9日、龍馬は京都に上洛していた前土佐藩主の山内豊信(容堂)に大政奉還を提起するため土佐帆船「夕顔」で長崎を出港しました。船中八策は同年6月12日に龍馬が船中で山内容堂の信頼を得て参政に就いていた土佐藩士の後藤象二郎に述べたものを海援隊隊士の長岡謙吉が書き記したものと伝えられています。この船中八策がもとになって五箇条の御誓文が作られたとされています。

 船中八策の謙吉が書き記した原本は残っていません。資料によって若干の違いはありますが「坂本龍馬全集」には次のように記されています。

一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事
一、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事
一、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事
一、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事
一、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事
一、海軍宜ク拡張スベキ事
一、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事
一、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事

以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ。苟モ此数策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張シ、万国ト並行スルモ、亦敢テ難シトセズ。伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン。

 これを原題の言葉で意訳すると次のようになります。

一、国の政治を司る権限はすべて朝廷に返し政治の命令や方針は朝廷から出すべきである。
一、上下議政局を設置し議員を置き、国事について公議によって決定するべきである。
一、有能な公卿や諸侯、国の優秀な人材を顧問として登用し官位や爵位を与えるべきである。従来の有名無実の役職は廃止するべきである。
一、外交については広く意見を取り入れ新たな適切な規則を定めるべきである。
一、古くからの法律や制度の良い部分は取り入れながら永遠に伝わるような新しい法律を定めるべきである。
一、海軍はさらに拡張するべきである。
一、天皇直属の軍隊を組織し都を守らせるべきである。
一、金、銀、物資の価値について外国と対等な取引ができる法を設けるべきである。

「これら八つの政策は、現在の日本の情勢を考え、また世界諸国の動向をふまえれば、他に選ぶべき緊急の方策はないと言える。もしこの政策を思い切って実行すれば、天皇の権威を立て直し、国の力を強め、列強諸国と肩を並べることも決して不可能ではない。どうか、公正で開かれた道理に基づいて、大いなる決断を下し、天下を新たにする第一歩を踏み出してほしい。

 船中八策の当時の資料は残っていませんが、龍馬は大政奉還後の慶応3年(1867年)11月に新政府綱領八策と呼ばれる書を何通か自筆しています。

新政府綱領八策(国会図書館)
新政府綱領八策(国会図書館)

 この新政府綱領八策は船中八策と内容がよく似ていますが、この新政府綱領八策は上述の軍艦「夕顔」での船中八策の出来事が史実であった証拠にはなりません。後藤象二郎の回想や長岡謙吉の日記にも船中八策に関することは記されていません。ですから日付の6月12日の根拠もありあません。

 龍馬が船中八策と同じような考えを持ち合わせていたのは間違いありませんが、船中八策の出来事は後年の創作と考えられています。後世に広く伝わったのは司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」などによるものでしょう。もともと大政奉還論も坂本龍馬のアイデアではありません。しかしながら坂本龍馬が大政奉還論を含む自分の考えを後藤象二郎などに伝えていたことは間違いないでしょう。

【関連記事】

神戸海軍操練所が設置される(元治元年 1864年5月14日)

薩長同盟(1866年1月21日)

薩長同盟の六箇条(慶応2年1866年1月21日)

坂本龍馬が襲撃される|寺田屋遭難(慶応2年1866年1月23日)

薩土討幕の密約|薩土密約(慶応3年 1867年5月21日)

王政復古の大号令で明治政府樹立(1867年12月9日)


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2025年6月 7日 (土)

第二次長州征討(慶応2年 1866年6月7日)

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 文久3年(1863年)8月、「八月十八日の政変」において強硬な尊皇攘夷派の長州藩勢力や公家が薩摩藩と会津藩によって京都から追放されました。元治元年(1864年)7月、長州藩勢力が会津藩勢力を排除しようと「禁門の変(蛤御門の変)」を起こすと長州藩は朝敵とされ、幕府は慶応元年(1865年)5月に第一次長州征討を行いました。薩摩藩が参戦したこともあり長州藩は降伏し敗北しました。

  【参考】八月十八日の政変(1863年8月18日)

  【参考】禁門の変(蛤御門の変)勃発(1864年7月19日)

 第一次長州征討では長州藩の降伏により大規模な戦闘は起こりませんでした。朝敵となった長州藩は武器の購入などが禁止されましたが、高杉晋作をはじめとする倒幕派が再起を図りはじめました。幕府側ではこれまでの徳川家を中心とする封建的な幕政から脱却し合議制とする話し合いが進めらていましたが折り合いがつかず、薩摩藩は旧態依然とした幕政では日本の将来が危ういと考えるようになり倒幕へ傾きはじめました。同じ頃に日本の行く末を憂えていたが土佐藩を脱藩した坂本龍馬と中岡慎太郎でした。彼らは西郷隆盛に長州藩と手を結ぶよう提案し、長州藩の桂小五郎には薩摩藩と手を結ぶように話をします。これがきっかけとなって慶応2年(1866年)1月21日に薩長同盟が締結されました。

  【参考】薩長同盟(1866年1月21日)
 この同盟委により長州藩は薩摩藩から最新の武器を入手できるようになり密かに軍事力を強化しました。第一次長州征伐で敗北し朝敵となった長州藩でしたが幕府に対して反抗的な態度を示すようになりました。長州藩が軍事力を整えていることを危惧した幕府は再び長州征伐を決断しました。将軍の徳川家茂が大阪城に入り15万の大軍を長州征討に動員しました。

長州征討に参戦する幕府軍
長州征討に参戦する幕府軍

 薩長同盟を結んでいた薩摩藩が幕府に対して参戦を断りました。当初、15万人の幕府軍が優勢と思われましたが、長州藩は薩摩藩から入手した最新の武器で幕府軍を圧倒しました。幕府の戦況が不利となる中で大阪城に滞在していて徳川家茂が病死したことにより幕府軍は撤退せざるを得なくなりました。幕府は朝廷に休戦の勅命を発してもらい長州藩と停戦合意に至りました。

 幕府軍の惨敗により幕府軍の軍備は西洋の最新兵器に対しては役に立たないことが知れ渡り江戸幕府の権威を失墜させました。長州藩および薩摩藩を中心とする倒幕運動が加速しました。

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2025年6月 5日 (木)

池田屋事件(元治元年 1864年6月5日)

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 幕末の京都には倒幕をめざす尊王攘夷派の志士たちが潜伏し活動していました。とりわけ八月十八日の政変で京都から追放された長州藩の志士たちと公家たちが地位の回復しようと画策していました。京都守護職の松平容保は配下の新選組に京都の治安維持を命じ、とりわけ尊王攘夷派の監視と警戒に当たらせていました。

  【参考】八月十八日の政変(1863年8月18日)

松平容保
松平容保

 元治元年(1864年)5月下旬、新選組は尊王攘夷派の志士の枡屋喜右衛門が京都市中で炭薪商を営んでいることを突き止めました。新選組が炭薪商に踏み込だところ武器・弾薬と長州藩志士との書簡が発見されたため喜右衛門を拿捕しました。喜右衛門は新選組の局長の近藤勇ならびに副長の土方歳三から厳しい取調べを受けました。過酷な拷問を受けた喜右衛門は自身が古高俊太郎であることを自白したことが記録に残っています。また、八月十八日の政変で京都から追放された長州藩の志士たちらが6月下旬に京都御所に火をかけ、佐幕派公卿の中川宮を幽閉し、京都守護職の松平容保をはじめとする佐幕派大名を殺害したうえで孝明天皇を長州に連れ去る計画を実行するため多くの尊皇攘夷派の志士たちが京都市中に潜伏していることを自白したと伝えられています。

古高俊太郎(枡屋喜右衛門)
古高俊太郎(枡屋喜右衛門)

 新選組は尊王攘夷派の志士たちが京都市中で会合を開いていると考え、同年6月5日に三条から四条あたりの探索を行いました。同日夜、近藤勇らは池田屋で会談中の志士たちを発見しました。近藤勇、沖田総司、永倉新八、藤堂平助の4人が池田屋に踏み込み、残りの者は池田屋を包囲しました。このとき沖田総司は戦闘中に病で倒れ戦線離脱、藤堂平助は額を斬られて負傷し戦線離脱しました。新選組は近藤勇と永倉新八の2人のみとなったため戦闘は尊王攘夷派の志士たちに有利な展開となりましたが、まもなく土方歳三らが到着し形勢が逆転し9名を討ち取り4名を捕縛しました。他の尊王攘夷派の志士たちは逃走しましたが、明け方までには会津藩・彦根藩・桑名藩の藩士らにより拿捕されました。これが池田屋事件です。

  【参考】新撰組の日(1863年3月13日)

近藤勇 土方歳
近藤勇と土方歳三

 事件後、池田屋主人の池田屋惣兵衛は尊攘派志士をかくまっていたことを理由に捕縛され獄死しました。池田屋は営業停止となりましたがしばらくして廃業しました。現在、池田屋のあった場所は居酒屋はなの舞「池田屋」となっており建物の傍らには「池田屋騒動之址」の碑が残されています。

池田屋跡
池田屋跡

 池田屋の会談には桂小五郎(木戸孝允)も参加する予定でした。約束の時間より早く到着したため対馬藩邸で対馬藩士の大島友之允と会見していました。桂小五郎の回想によれば騒ぎに気がついた桂小五郎は池田屋に駆けつけようとしましたが大島友之允に制止され難を逃れたと伝えられています。

桂小五郎(木戸孝允)
桂小五郎(木戸孝允)

 さて、この池田屋事件ですが古高俊太郎(枡屋喜右衛門)の取り調べの記録に尊王攘夷派の志士たちの計画の自白が記されていないことから、幕府側の尊王攘夷派の志士たちの討伐の正当化を狙ったものという説もあります。桂小五郎(木戸孝允)は池田屋の会談の目的は捕縛された古高俊太郎(枡屋喜右衛門)をいかにして救うかの打ち合わせだったと回想しています。

 いずれにしろ池田屋事件により新選組の名声は高まり、長州藩は翌月に禁門の変(蛤御門の変)を起こすことになります。幕末の政局を混乱させるひとつの重要なきっかけとなった事件でした。

  【参考】禁門の変(蛤御門の変)勃発(1864年7月19日)

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2025年6月 3日 (火)

中島三郎助と堀達之助が黒船と交渉(嘉永6年 1853年6月3日)

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 嘉永6年(1853年)6月3日午後5時頃、それまで日本人が見たこともない4隻の大きな黒い軍艦が浦賀沖に現れました。浦賀奉行の戸田氏栄は4隻のうち司令長官旗を掲げている旗艦に浦賀奉行所与力の中島三郎助とオランダ語通詞の堀達之助を派遣しました。2人は小舟で旗艦に向かいました。

 旗艦に小舟を横付けすると堀達之助が英語で「I can speak Duch」(私はオランダ語を話せる)と伝えました。旗艦に乗船していた通訳のオランダ人アントン・ポートマンが対応しオランダ語による交渉が行われました。与力の中島三郎助は自身を浦賀副奉行と称し交渉を始めました。

 この交渉によって艦隊がマシュー・ペリー提督が率いるアメリカ合衆国の艦隊であること、艦隊の目的が将軍にアメリカ合衆国のミラード・フィルモア大統領の親書を渡すことであることがわかりました。ペリーは中島三郎助の階級が低いと親書を預けることを拒否しました。中島三郎助と堀達之助は奉行所に戻り顛末を報告、日本を大きく変化させるきかっけとなった幕府とペリーの交渉が始まったのです。

 中島三郎助は砲術に長けていたこともありアメリカ合衆国の軍艦に興味があったようです。アメリカ側の記録には中島三郎助が軍艦の船体の構造、搭載されている砲、蒸気機関をスパイのように入念に調査していたことが記されています。ペリーの帰国後、中島三郎助は幕府老中の阿部正弘に軍艦の建造と蒸気船を含む艦隊の設置をするよう意見書を提出しています。その後、中島三郎助は日本初の洋式軍艦「鳳凰丸」の建造で活躍し同軍艦の副将となっています。さらに長崎海軍伝習所に一期生として入所し築地軍艦操練所教授方出役に就任しました。幕末は榎本武揚とともに旧幕府軍として戦い箱館の千代ヶ岡陣屋で戦死しました。

中島三郎助
中島三郎助

 堀達之助はアメリカ側の記録によると通詞としても人柄も高く評価されています。ペリーが嘉永7年(1854年)に再来航したときにも通詞を務め日米和親条約の翻訳にも関わっています。安政5年(1858年)9月、ドイツ商人から日本とドイツの条約締結を求められたとき幕府に報告せず独断で処理しようとしたと咎められ入牢処分となりました。このとき吉田松陰と出会い交流するようになりました。この入牢は冤罪とされ古賀謹一郎の支援で安政6年(1859年)12月赦免されました。文久2年(1862年)1月に日本初の新聞「官板バタビヤ新聞」を発行、翌文久2年(1862年)には日本初の英和辞書「英和対訳袖珍辞書」刊行、文久3年(1863年)には開成所教授となりました。慶応元年(1865年)、箱館奉行通詞に就任し、慶応2年(1866年)に「函館洋学所」を開設しました。「函館文庫」で箱館奉行所の洋書の保存を行いました。明治元年(1868年)に新政府の箱館裁判所参事席、文武学授掛となりましたが箱館戦争のため箱館を離れました。箱館戦争後は箱館に戻り開拓使に出仕しました。もし中島三郎助が戦死していなければ明治維新後は開拓使に出仕し堀達之助の再開していたかもしれません。堀達之助は明治5年(1872年)に依願退職し明治27年(1894年)に大阪で死去しました。

堀達之助
堀達之助

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2025年6月 2日 (月)

日本初のタブロイド新聞「東京曙新聞」の刊行(明治8年 1875年6月2日)

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 「東京曙新聞」は明治初期の自由民権派による政論新聞で日本で初めてのタブロイド新聞です。タブロイド新聞は通常の新聞より小さいサイズの新聞形式のことです。日本では普通の新聞のブランケット判(406×545 mm) の半分のサイズ(273×406 mm)をタブロイド判としています。

 「東京曙新聞」の前身は明治4年(1871年)に木戸孝允が創刊した「新聞雑誌」です。明治8年(1875年)1月2日に「新聞雑誌」は号数を継承し日刊紙「あけぼの」となりました。同年6月2日、「あけぼの」は号数を継承し「東京曙新聞」と改題されました。

 「東京曙新聞」は民権論や征韓論を主張し末広鉄腸や大井憲太郎らが在籍していました。編集長を務めた末広鉄腸は政府批判を繰り返し新聞紙条例により罰金2000円、自宅軟禁2カ月の刑罰を受けて一躍有名となりました。末広は同年10月に別の新聞社に移りました。

末広鉄腸
末広鉄腸

 末広の退職後、新しい編集長が社主と意見が折り合わず内紛が起こりました。これによって「東京曙新聞」は明治12年(1879年)9月30日発行第1792号で廃刊となりました。翌年10月1日に復刊しましたがこのとき号数がリセットされました。しかしながら、販売部数が伸びず明治15年(1882年)3月1日に「東洋新報」と改題するも状況は変わらず同年12月に終刊となりました。

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2025年5月26日 (月)

五稜郭初度設計図と最終設計図

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 安政元年(1854年)3月、日米和親条約で箱館が開港すると幕府は蝦夷地を直轄し同年6月に基坂(もといざか)(元町公園)にあった松前藩の箱館奉行詰役所に箱館奉行所を設置しました。箱館奉行には竹内保徳が就任しましたが間もなく堀利煕が就任し2人体制となりました。基坂は箱館港や箱館山に近く防衛に難があるため、保徳と利煕は幕府に箱館湾内からの艦砲射撃が届かない亀田の鍛治村に城を築き箱館奉行を移転する意見書を幕府に提出しました。これを老中の阿部正弘が了承し五稜郭と箱館港に弁天台場と築島台場を建設することになりました。

 【参考】五稜郭の箱館奉行所が開所(1864年6月15日)

 五稜郭の設計は蘭学者の武田斐三郎が担当しました。斐三郎は安政2年(1855年)7月にフランス軍艦コンスタンティーヌが乗組員の病気療養のために箱館に寄港した際、同艦副艦長から得た星形要塞や大砲の図面を参考に五稜郭と函館港の弁天台場の設計を行いました。この出来事は斐三郎が五稜郭と星形要塞として設計するきっかけにはなりましたが、当時は既に西洋式の築城法は伝わっており斐三郎も星形要塞の築城に関する知識は持っていたと考えられます。同じ星形要塞の長野県の龍岡城も同時期に西洋の築城法を学んだ城主の松平乗謨により建造されています。

 次の図面は斐三郎が初期に設計した五稜郭初度設計図(市立函館博物館所蔵)です。最初の計画では5つの稜堡(りょうほ)と稜堡の間に半月堡(はんげつほ)が5つ備えられています。5方向からの攻撃に備える形状となっています。

五稜郭初度設計図(市立函館博物館所蔵)
五稜郭初度設計図(市立函館博物館所蔵)

 安政5年(1858年)に列強との修好通商条約「安政の五カ国条約」が締結されると防衛の必要姓が低まりました。資金不足も相まって五稜郭の設計は大幅に変更となり、築島台場の建設も中止となりました。五稜郭は半月堡が一カ所となり石組みのアーチ状だった出入り口も簡素化されました。次の図面は五稜郭の最終段階の設計図のひとつです。

五稜郭之図(最終設計図)
五稜郭之図(最終設計図)

 半月堡は箱館の市中方向に向いた正面のものだけが建設されました。半月堡の場所をはじめとする3カ所の出入り口には函館山から切り出された安山岩で作られた石垣が設置されています。正面の半月堡と出入り口の石垣には最上部に平らな石が突き出して積んであります。これは「武者返し」「はね出し」と呼ばれるもので五稜郭の石垣の特徴となっています。

半月堡の石垣と武者返し
半月堡の石垣と武者返し


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2025年5月22日 (木)

「加藤隼戦闘隊(飛行第64戦隊)」の加藤建夫隊長が戦死(昭和17年 1942年5月22日)

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 「加藤隼戦闘隊(飛行第64戦隊)」の隊長として知られる加藤建夫陸軍少将は明治36年(1903年)9月28日に北海道上川郡東旭川村(旭川市東旭川町)で生まれました。大正7年(1918年)に陸軍軍人だった父と兄にならい仙台陸軍幼年学校に入学しました。大正14年(1925年)に陸軍士官学校を卒業し札幌歩兵第25連隊附の陸軍歩兵少尉となりましたが、本人の希望により飛行第6連隊附の陸軍航空兵少尉となりました。大正15年(1926年)に所沢陸軍飛行学校に操縦学生と入学し優秀な成績を収めました。昭和2年(1927年)に同学校を卒業した際に優秀な技量成績で御賜の銀時計を拝受しています。昭和12年(1937年)から始まった日中戦争ではに陸軍航空兵大尉・飛行第2大隊第1中隊長として従軍して活躍しエースパイロットとして名前が知られるようになりました。

加藤建夫陸軍少佐
加藤建夫陸軍少佐

 昭和16年(1941年)4月、加藤は広州天河飛行場駐留の飛行第64戦隊に陸軍少佐・戦隊長として着任しました。同年8月末、飛行第64戦隊に一式戦闘機「隼」が配備されると「加藤隼戦闘隊」と呼ばれるようになりました。

  【参考】キ43 一式戦闘機「隼」の初飛行(1938年12月12日)

映画「加藤隼戦闘隊」に登場した明野陸軍飛行学校の一式戦二型(キ43-II)
映画「加藤隼戦闘隊」に登場した明野陸軍飛行学校の一式戦二型(キ43-II)

「加藤隼戦闘隊」は太平洋戦争(大東亜戦争)において南部仏印(フランス領インドシナ、ベトナム南部)、マレー半島、ジャワ島などで連合国と戦いを繰り広げ多数の敵機を撃墜しました。加藤建夫隊長は「いかなる困難にあたっても平常心を失わないこと」「何事も任務遂行を第一とすること」「個人の功名手柄に走って団結を乱さないこと」を部下に訓示し、自ら率先して困難な任務に当たり無線を活用して僚機に指示を出しながら戦闘を行いました。「加藤隼戦闘隊」が強かったのは加藤建夫隊長が編隊飛行を重視したチームプレーを重視していたからと伝えられています。

加藤建夫(1942年 南方戦線)
加藤建夫(1942年 南方戦線)

 昭和17年(1942年)5月22日、「加藤隼戦闘隊」がアキャブ飛行場に臨時で駐屯していたところイギリス空軍ブレニム爆撃機1機が来襲しました。加藤建夫隊長以下5機が迎撃しましたが2機がブレニム爆撃機の後上方銃座の射撃を受けて帰還、さらに加藤建夫隊長機も期待腹部の燃料タンクに被弾しました。帰還不可能と判断した加藤建夫隊長は僚機に向けて機体の翼を大きく振った後に反転し背面飛行となり火を噴きながらベンガル湾に墜落し自爆しました。加藤建夫隊長は戦死後2階級特進で少将となり「軍神」と呼ばれました。

 

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