カテゴリー「歴史」の46件の記事

2022年9月28日 (水)

英国「国王陛下万歳」初公開(1745年9月28日)

 「神よ国王を守り給え(God Save the King/Queen)とも呼ばれる「国王陛下万歳」は英連邦王国とイギリス王室属領の賛歌です。英国においては法的には国家として定められていませんが、一般にはこの曲が国家とされています。

 イギリスの君主は国王もしくは女王ですので「国王陛下万歳」の詩は国王か女王で変わります。国王のときは「God Save the King」となり「his/him」が使われます。女王のときは「God Save the Qeeng」となり「her/her」が使われます。一方、旋律は国王か女王で変化することはありません。

エリザベス2世(1944年)
エリザベス2世(1944年5月)

 「国王陛下万歳」の作者は不明ですが曲調はルネサンス時代にヨーロッパで流行した舞曲ガリヤルドに似ていると言われています。またイギリスの作曲家でオルガン建造家のジョン・ブルの鍵盤楽曲に似ているという指摘もあります。イギリスの作曲家ヘンリー・パーセルの作品の冒頭に似ており歌詞には「God Save the King」が存在するという指摘もあります。1611年にトマス・レイヴンズクロフトによって作曲されたスコットランドの賛美歌「Remember, O Thou Man」が元になっているという説もあります。

Remember O thou Man

 

 「国王陛下万歳」はチャールズ2世が国王だった1744年に「Thesaurus Musicus(1994年)」に掲載されたものが初版とされています。 翌年に起こった「1745年のジャコバイト蜂起」のときにイギリスの作曲家トマス・アーンが君主と国家の平穏を願いこの曲を編曲し「神よ、国王陛下を護り給え」を仕上げ、1745年9月28日にロンドンのドゥルーリー・レーン劇場で初めて歌唱されました。

 最後にエリザベス2世のご冥福をお祈りし「女王陛下万歳」で本記事を終わります。

イギリス 国歌「女王陛下万歳」(神よ女王陛下を守り給え)(God save the Queen)日本語訳/National Anthem of the United Kingdom

 

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ロンドンのタワーブリッジが完成(1894年6月30日)

ロンドンの時計塔ビッグベンの名前がエリザベス塔に変更

ロンドンのペリカンおじさん


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2022年8月23日 (火)

白虎士中二番隊の最期(1868年8月23日)

 白虎隊は幕末の戊辰戦争において会津藩が組織した部隊です。未成年の武家男子からなる予備兵力の部隊で兵員数は士中隊、寄合隊、足軽隊を合わせて約340名でした。

 会津戦争において会津藩は会津若松城(鶴ヶ城)を死守することが要でした。会津若松への街道に主力部隊を配置しましたが、新政府軍に対しては多勢に無勢となりました。そこで会津藩は城下町の防衛を担っていた白虎隊を前線へと送りました。白虎隊には旧式銃しか配備されておらず、兵員も若年だったため前線での活躍は期待されていませんでした。会津藩は新政府軍に対して玉砕覚悟で闘いを臨んだのです。

 当然の結果として白虎隊は各所で苦戦し撤退を余儀なくされました。戸ノ口原の戦いに破れた士中隊の二番隊は42名の隊士の多くを失い、慶応4年(1868年)8月23日に負傷者を含む7名(20名説もある)が飯盛山へ落ち延びました。このとき会津若松城周辺から立ちのぼる煙を見て本拠地が落城したと誤認して自決しました。6名(19名説もある)が死亡、隊士の飯沼貞吉は自決したものの生き残りました。

 さて白虎隊が会津若松城の落城を誤認したという話は昭和3年(1928年)の平石弁蔵著「会津戊辰戦争 増補 白虎隊娘子軍高齢者之健闘」に記載された伝承によるものです。ところがこの伝承は2010年頃に発見された飯沼貞吉が残した手記「白虎隊顛末略記」とは食い違っていました。手記には「甲怒り、乙罵り、激論以てこれ争う」と記されており、残された隊士の間で会津若松城に入城するか敵軍に攻撃を仕掛けるかで意見が割れて対立があったようです。しかしながら、負傷していることからこれ以上戦うことはできず、敵に捕まるより武士の本分を明らかにした方が良いと悟って自決したというのが史実だったようです。現在、飯盛山の現場には白虎隊の会によって落城誤認は誤りだったという説明が付け加えられています。

 飯沼貞吉は新政府軍に捉えられましたが能力が認められ長州藩士に庇護されました。維新後には名前を貞雄と改め逓信省通信技師となりました。明治27年(1894年)から始まった日清戦争では陸軍歩兵大尉として出征しています。拳銃を所持するように命令されたときに「自分は白虎隊として死んだ身である」と拒んだそうです。飯沼貞吉の遺骨の一部は他の隊士とともに飯盛山に埋葬されています。

飯沼貞吉
飯沼貞吉

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開陽丸が横浜に入港(慶応3年 1867年4月30日)

榎本武揚らが日本初の公選入札を行う(1868年12月15日)

上野公園の西郷隆盛像の除幕式(1898年12月18日)

松前城(福山城) 天守を焼失(1949年6月5日)

ビスケットの日(2月28日)

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2022年8月 9日 (火)

長崎原爆忌(1945年8月9日)

 1945年8月6日、B-29エノラ・ゲイが広島へ原子爆弾リトル・ボーイを投下した際、被害状況を調査するために広島上空を飛んでいたのが科学観測機B-29グレート・アーティストです。このときグレート・アーティストは落下傘付きの観測機器を投下しています。この観測機器を原子爆弾と誤認した人が多かったため原子爆弾は落下傘で投下されたという噂が広がりました。

 広島への原爆投下後、米国は九州へ原子爆弾ファットマンを投下する計画を進めました。ファットマンを投下する任務を受けたのがグレート・アーティストの搭乗員でした。しかし、グレート・アーティストは科学観測機の機材を搭載していたため原爆を投下することができない状態でした。そこで別の機体のB-29ボックスカーが原爆投下機として選ばれ、ボックスカーとグレート・アーティストの搭乗員が入れ替わることになりました。

B-29ボックスカー
B-29ボックスカー

 ファットマン投下の第一目標は福岡県小倉市(現:北九州市)に設定されていました。1945年8月9日日本時間午前2時47分、ボックスカーは小倉を目指してテニアン島を離陸しました。ボックスカーより1時間前に出発し気象観測を行ったのが広島にリトルボーイを投下したエノラ・ゲイです。エノラ・ゲイは天候が良好であることを伝え、ボックスカーは予定通り小倉を攻撃目標としました。

 ボックスカーが原爆投下目標の小倉陸軍兵器工場に到着したのは午前9時44分。しかし、目視による目標確認に失敗、その後やり直したものの都合三度失敗した。この間に日本軍の迎撃機も現れたため小倉上空から離脱せざるを得なくなりました。このときボックスカーの原爆投下を妨げたのは雲ではなく八幡製鉄所が出していた黒煙でした。事前に空襲の可能性の情報を得ていた八幡製鉄所が爆撃を避けるためコールタールを焼却し煙幕を張っていたのです。八幡製鉄所の機転で小倉は原発投下を避けることができましたが、八幡製鉄所の所員は戦後も長きに渡って複雑な心境だったようです。

 この煙幕によってボックスカーは午前10時30分に小倉上空から離脱、原爆投下を第二目標の長崎市に変更しました。長崎に向かう途中、ボックスカーはグレート・アーティストとニアミスをしています。2機は空中衝突していた可能性があったのです。当初、長崎上空の天候は良好でしたがボックスカーが到着する頃には天候が悪化し視界不良となりつつありました。ボックスカーには、小倉での3度の投下失敗に加え、燃料の予備タンクのポンプが故障していたため十分な燃料が残っていませんでした。

 ボックスカーが長崎上空に到着したのは午前10時50分頃です。長崎上空には積雲が立ちこめていました。このとき燃料不足のため原爆投下目標への進路を取り直す余裕がありませんでした。目視による原爆投下が不可能だった場合は太平洋上に投棄する命令が出ていましたが、ボックスカーに搭乗していた上官の命令で目視が不可能でもレーダー爆撃を行うことになりました。命令違反のレーダー爆撃を行うことになりましたが、保内の目標から北西の地点で雲の切れ目から眼下に街が見えました。午前10時58分、ボックスカーはその地点でファットマンを投下しました。ファットマンは4分後の午前11時2分、上空503メートルで爆発しました。このときボックスカーの乗組員が搭乗したグレート・アーティストがファットマンによる被害状況を調査する観測を行い、落下傘で観測装置を投下しました。

 長崎にファットマンを投下したボックスカーの燃料はわずかになっていました。テニアン島まで帰投することはできず、午後2時頃に沖縄県読谷飛行場に緊急着陸しました。このときファットマンにはわずか26リットルの燃料しか残っていませんでした。

 8月9日の原爆投下、小倉への投下は阻止され何かひとつ歯車が狂っていたら長崎への投下も失敗していた可能性も十分にありました。しかしながら、結果として長崎に原爆が投下され多くの方々が犠牲となりました。

 1945年8月初めのたった数日の間に2度も繰り返された核攻撃、いかなる地域でも3度目は絶対にあってはなりません。

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2022年8月 7日 (日)

コンティキ号が太平洋漂流実験成功(1947年8月7日)

 南太平洋の島々に在住するポリネシア人の文明と南米のインカ文明の類似点が多く見られることから、かつて南米のアメリカ・インディアンが太平洋を渡ってポリネシアにやって来たのではないかという説がありました。

 ポリネシア人の祖先が南米のアメリカインディアンであれば当時の航海の技術で太平洋を渡ることができたことになります。このことを確かめるためノルウェーの人類学者トール・ヘイエルダールらは1947年にマストとキャビンを持つ大型の筏を建造しました。この筏はインカ帝国の太陽神ビラコチャの別名コンティキ号と名付けられました。コンティキ号はインカ帝国を征服したスペイン人の記録から復元されました。

 船を作る材料は当時でも入手が可能であった木材や麻などの植物が使われました。帆が張られているだけで動力を持たないコンティキ号が風と海流だけで南米からポリネシアまで漂流することができればポリネシア人の祖先がアメリカ・インディアンであった証拠のひとつになります。

 1947年4月28日、コンティキ号はペルー海軍の軍艦に曳航されてペルーのカヤオ港を出発しました。カヤオ港沖80キロメートルで海流に乗ってから自力で航海を開始しました。コンティキ号は西へ進み102日後の1947年8月7日に約8000キロメートル離れたポリネシアの環礁で座礁しました。つまり漂流で南米からポリネシアまで漂流できることを証明したのです。

コンティキ号
コンティキ号

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2022年8月 6日 (土)

広島原爆忌(1945年8月6日)

 8月6日は「広島原爆忌」「広島平和記念日」です。昭和20年(1945年)8月6日、原子爆弾リトルボーイを搭載したB-29型爆撃機エノラ・ゲイが広島に原爆を投下しました。

 エノラ・ゲイは8月6日午前1時45分にマリアナ諸島テニアン島ハゴイ飛行場を離陸しました。気象観測のために先行していたB-29ストレートフラッシュ号が同日同日午前7時に広島上空に到達し、広島の気象情報をテニアン島の米軍基地に報告しました。

 この報告によってエノラ・ゲイの攻撃目標が広島に決定され同日午前8時15分に広島にガンバレル型ウラニウム活性実弾の原子爆弾リトル・ボーイが投下されました。人類史上初の核攻撃によって同年末までに14万人の人々の尊い命が失われました。

エノラ・ゲイと広島原爆のキノコ雲
エノラ・ゲイと広島原爆のキノコ雲

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2022年7月14日 (木)

ペリー上陸記念日(1853年7月14日)

 日本の開国と通商条約を結ぶ目的でやってきたアメリカ合衆国のマシュー・カルブレイス・ペリーが率いる黒船の艦隊が浦賀沖に現れたのは1853年7月8日です。ペリーは江戸幕府の高官に親書を手渡すことを求めましたが、江戸幕府は浦賀奉行所の与力を派遣するだけでなかなか応じませんでした。そのためペリー江戸幕府に無断で浦賀港内の測量を始め7月11日には江戸湾内に侵入しました。これに驚いた江戸幕府は親書を受け取ることにし7月14日にペリーに久里浜への上陸を許可しました。幕府軍に警護されるなかで浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道がペリーと会見し親書を受け取りました。この7月14日は「ペリー上陸記念日」とされています。久里浜にはペリー上陸を記念して建立され1901年7月14日に除幕されたペリー上陸記念碑があります。

合衆国水師提督口上書
合衆国水師提督口上書
艦長ヘンリー・アダムス副使、ペリー提督、司令官アナン軍使

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2022年7月13日 (水)

日本に2つ時刻があった|日本標準時制定記念日(1886年7月13日)

 明治19年(1886年)7月13日、「本初子午線経度計算方及標準時ノ件(明治19年勅令第51号、1886年(明治19年)7月13日)」が公布されました。この勅令によって日本標準時はグリニッジ天文台子午儀の中心を通る子午線(グリニッジ子午線)を経度0度とし東経135度(GMT+9:00)の時刻と規定されました。日本標準時は明治21年(1888年)1月1日から適用されました。

 その後、明治28年(1895年)12月28日に公布された「標準時ニ関スル件」で明治29年(1896年)1月1日から東経135度(GMT+9:00)の標準時を「中央標準時」、東経120度(GMT+8:00)の時刻を「西部標準時」と定めました。中央標準時と西部標準時の時差は一時間で中央標準時は日本本土、西部標準時は八重山列島・宮古列島・台湾・澎湖諸島で使われました。

標準時ニ関スル件(治28年(1895年)12月28日に公布)
標準時ニ関スル件(治28年(1895年)12月28日に公布)

 しかしながら国内に2つの時間が存在することに問題が生じたため昭和12年(1937年)9月25日に「明治二十八年勅令第百六十七号標準時ニ関スル件中改正ノ件(昭和12年勅令第529号)」が公布され同年10月1日から西部標準時が廃止され日本の時間がひとつに統一されました。

 一般的にし東経135度(GMT+9:00)の時刻を日本の標準時と呼びますが、中央標準時が法令で定められている正式な名称です。

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2022年7月 8日 (金)

黒船来航(1853年7月8日)

 嘉永6年(1853年)7月8日(嘉永6年6月3日)午後5時頃、神奈川県の浦賀沖に日本人がそれまで見たことのないような大きな黒塗りの船団が現れました。これらの船のうち2隻はロシアやイギリスの帆船の軍艦とは異なり蒸気機関を備え煙突から煙を吐き出していました。そしてそれぞれ1隻の帆船を従えていました。浦賀にはたくさんの見物客が集まりました。

 当時の人々が「黒船来航」と呼んだこの船団はアメリカ合衆国のマシュー・カルブレイス・ペリーが率いた艦隊で江戸幕府に開国させ通商関係を結ぶことを目的に日本にやって来ました。浦賀沖に停泊した艦隊は旗艦で蒸気フリゲート艦「サスケノハナ」、蒸気フリゲート艦「ミシシッピ」、帆船「サトラガ」、帆船「プリマス」の4隻でした。日本側の襲撃に備えて大砲を構えていました。砲撃の噂が伝わると見物客はいなくなり住民の間に不安が広がるようになりました。

 日本側は「黒船」を攻撃することはなく浦賀奉行は旗艦「サスケノハナ」に役人を派遣しました。艦隊の目的が徳川将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことであることを把握すると奉行は「サスケノハナ」を訪れました。しかし、ペリーは親書を渡す相手の階級が低すぎると親書を渡すことを拒絶しました。

 7月9日、ペリーは親書を渡す高位の役人を3日待つが身分の高い役人が派遣されなければ江戸湾から兵を率いて上陸し徳川将軍に親書を直接手渡しすると通告しました。そしてアメリカ合衆国に有利な通商条約を結ぶため日本を威嚇する目的で日本側に無断で浦賀港内の測量を始めました。さらに7月11日には「ミシシッピ」号を測量船の護衛の名目で江戸湾内に侵入させました。これに驚いた江戸幕府は親書を受け取ることにし長崎オランダ商館長から返事を出すよう浦賀奉行に指示しました。

 当時の徳川将軍は第12代征夷大将軍徳川家慶(いえよし)でしたが黒船来航のときには病で伏せていました。江戸幕府は7月14日に久里浜でペリーと会見し親書を受け取り、将軍が病気療養中で決断することができる状態にないので返事には1年間の猶予が欲しいことを伝えました。ペリーは外交上の交渉はせず江戸幕府の申し入れを聞き入れ1年後に再来日することにしました。

 7月15日、ペリーは「ミシシッピ」号に乗り換え江戸湾に入り江戸城に対して威嚇を行いました。艦隊は江戸幕府に事前通告をしたうえで江戸湾内でアメリカ独立記念日の祝砲や号砲の名目で砲撃を行いました。この砲撃は空砲であることが住民にも知らされていましたが、江戸の町は大混乱となりました。やがて空砲であることが広く伝わると住民たちは砲撃を楽しんだようです。

 7月17日、黒船は江戸を離れて帰っていきました。ペリーは最初の来航で日本を開国させ通商条約を結ばさせることはできませんでしたが、交渉を有利にするめるための大きな成果をあげました。

 なお将軍徳川家慶はペリーが日本を去った10日後の7月27日に亡くなりました。死因は熱中症による心不全と考えられています。

 ペリーは翌年1854年2月13日に再び浦賀に来航しました。1年間の猶予の約束より半年も早い来航でした。ペリーは将軍の死を知り江戸幕府が混乱中に交渉を有利に進めようと考えたのです。そして同年3月31日に日米和親条約が締結されたのです。 日本はこの黒船来航から明治維新における大政奉還までいわゆる幕末の混乱期に入ります。

1854年の黒船来航(リトグラフ)
1854年の黒船来航(リトグラフ)

 

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2022年6月 5日 (日)

松前城(福山城) 天守を焼失(1949年6月5日)

 戦国時代。かつて蝦夷(北海道)の地にも戦国武将がいました。蠣崎氏(かきざきうじ)です。

 蠣崎氏は元々は室町時代の武田氏の子孫である武田信廣を祖とする家柄です。

 豊臣秀吉が関白になったときにはこの地からはるばる上洛を果たしたそうです。それによって秀吉に所領を安堵されました。江戸時代になると徳川家につき松前氏と名乗るようになりました。

 蠣崎氏はもともとは福山館という大きな屋敷に住んでいました。江戸末期に幕府から北方警備を命ぜられ築城されたのが松前城です。そのため福山城とも呼ばれます。

松前神楽(昭和30年代)
松前神楽(昭和30年代)

 松前城は日本最後の旧式城郭です 幕末に城主だった松前徳広は戊辰戦争の際に五稜郭にやってきた旧幕府軍からの協力要請を無視し、これに怒った榎本武揚は土方歳三に松前に攻め込む命令を出しました。松前城は開戦から間もなく落城してしまいました。箱館戦争終盤には新政府軍と松前藩兵が松前城を奪還しています。

 明治維新後は開拓使が本丸御殿を出張所としようとしましたが老朽化が激しいため天守や本丸の表御殿と御門を残してそれ以外の建物を解体し、さらに石垣を撤去し堀を埋めて更地にしました。

 その後、松前城は天守部分が公会堂として利用されていましたが保存の予算がつかず老朽化していきました。昭和の初めには見向きもされなくなってしまいました。ところが昭和10年(1935年)に松前城跡が国の史跡となったことから保存されることになり、昭和16年(1941年)には天守や本丸の表御殿と御門が国宝に指定されました。

 第二次世界大戦の戦火を免れた松前城でしたが白壁が崩れ屋根が壊れて鯱が落下するなど無残な状態になりました。昭和23年(1948年よ)に国と北海道で修繕することになりましたが予算がつかず昭和24年(1949年)に持ち越されました。

 修繕を開始する直前の昭和24年(1949年)6月5日午前1時10分頃、松前町役場として使われていた松前奉行所跡から出火し、火の手は本丸まで広がり天守が焼失してしまいました。天守は昭和34年(1959年)に復元されています。

Google Mapでは松前城の姿を見ることができます。

松前公園

松前城天守

 

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2022年6月 2日 (木)

是非に及ばす(1582年6月2日)

 「是非に及ばす」。天正10年(1582年)6月2日(1582年6月21日)の未明、織田信長が京都本能寺で明智光秀の軍勢に襲われたときの言葉である。

 備中(現:岡山県)高松城の毛利軍を攻めにあたっている羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)から出陣の要請を受けた信長は、その先鋒として光秀に出陣するよう命じた。信長に対して憤りを感じていた光秀は謀反を決意しその矛先を毛利軍ではなく上洛していた信長に向けた。

 信長が本能寺に入ったのは5月30日、このとき信長はわずか二、三十騎あまりの供の者しか引き連れていなかった。天下布武を目前にした信長の余裕を見せた上洛であった。嫡男の織田信忠は信長の上洛に先立って京都入りしていた。信忠はおよそ2千の手兵を引き連れて本能寺からおよそ700メートル離れたところにある妙覚寺にいた。備中の戦の状況次第で父子ともども前線に向かう予定であった。

 6月1日、信長は本能寺で大掛かりな茶会を催した。京都の公家や町の中心的人物たちを集めての盛大な茶会だった。この茶会では信長所有のたくさんの名物茶器が披露された。茶会が終わったのが午前0時、名物茶器を堪能した参列者はそれぞれの寄宿舎に帰っていった。この中には信忠も含まれていた。

 6月2日未明、本能寺の周りがにわかにざわつき始めた。最初、信長は酒に酔いしれた者が喧嘩でもしているのだろうと思った。まもなく、ときの声があがりただ事ではない雰囲気が伝わってきた。

 信長は小姓(森蘭丸と言われている)をよぶと、「これは誰の手のものによるものか」とたずねた。小姓が明智光秀の名前を告げると、信長はただ一言「是非に及ばず」と言った。信長49才の初夏、桶狭間の戦いの前に「敦盛 」を舞った信長は下天の1日を生き抜く目前で生涯を閉じたのである。

錦絵 本能寺焼討之図(明治29年作・名古屋市所蔵)
錦絵 本能寺焼討之図(明治29年作・名古屋市所蔵)

 さて、明智光秀が織田信長を裏切った理由には諸説ありますが、もうひとつの謎は「是非に及ばす」の意味である。「是非に及ばず」とは「当否や善悪を論じるまでもなくそうするしかない。どうしようもない。しかたがない。やむを得ない。」とう意味である。

 信長はなぜ開口一番「是非に及ばず」と言ったのだろうか。光秀の手兵はおよそ1万3千にもなったが「是非に及ばず」という言葉が出たのは単に軍勢の差だけはないであろう。

 信長は桶狭間の合戦や浅井長政の裏切りなど何度も窮地に立ち、それを乗り越えてきた人間である。しかし、本能寺での裏切りが光秀の仕業であることを聞いて、信長は今回の窮地は逃れられないと思ったのであろう。これまで周到に何事も乗り越えてきた。やっと天下布武が目前になったところで隙が出た。これですべてが終わる。「是非に及ばず」とは、つまりこういう事態もやむを得ない、こんなこともあるだろうという信長の一瞬の覚悟を如実にあらわした言葉だったのだろうか。スペインの貿易商アビラ・ヒロンの「日本王国記」には信長は明智に包囲されていることを知ると「余は余自ら死を招いたな」と言ったとも書き記されている。

 しかし、信長は本能寺で最期まで戦っている。最初は弓で応戦していたがすべての弓の弦が切れてしまった後も諦めずに槍を持って応戦したという。しかし、肘に槍傷を受けて内に退き付き従った女房衆に「女はくるしからず、急罷出よ」と指示して脱出させている。そして自らは日がかけられた御殿の殿中の奥深くに篭り内側から納戸を締めて切腹している。

 この一部始終を記録しているのが太田牛一の「信長公記」である。太田牛一は本能寺の信長の最期の様子を女房衆の女性から聞き取ったものであると書き記しておりこの記述の信憑性は高いと考えられる。

 「既に、信長公御座所、本能寺取り巻きの勢衆、五方より乱れ入るなり。信長も、御小姓衆も、当座の喧嘩を下々の者ども仕出し候とおぼしめされ候のところ、一向さはなくときの声を上げ御殿へ鉄砲を打ち入れ候。是れは謀叛か、如何なる者の企てぞと、御諚のところに森乱申す様に明智が者と見え申し候と言上候へば、是非に及ばずと上意候。透をあらせず、御殿へ乗り入れ、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候。」

 一般に「是非に及ばす」という言葉だけから信長がやむを得ないと考えたという解釈がある。ところが「信長公記」の記述は「是非に及ばずと上意候」で上意候とあるからこれは命令である。何を命令したかというと次の行動「透をあらせず、御殿へ乗り入れ、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候」から戦うことを命令した考えることができる。そして直ちに御殿に入り戦闘態勢を取り信長自らも弓と槍で戦ったのである。もし、信長がこのときやむを得ない、諦めたと判断したのであれば御殿に入り自刃するはずで戦うわけがありません。

 そこでこの「是非に及ばずと上意候・・・」は敵が攻めてきたことに対して、これが光秀の謀反なのかどうか是非を問いている場合ではない直ちに戦闘態勢を取るという上意だったと解釈できます。

 さて、京都に本能寺の変の歴史を求めて旅をするときには、京都市役所近くの本能寺までまず行きましょう。ここには、信長の墓があり、資料館もあります。しかし、ここは本能寺の変が起こった場所ではありません。実は本能寺は5回も移転しています。本能寺の変があったのは、本能小学校があったところです。本能小学校には本能寺跡の碑がひっそりと立っています。現在の本能寺から約1 kmで歩いていける距離です。

 時間があれば信忠がいた妙覚寺にも行ってみましょう。このあたりを歩くときには方位磁石を持っていくことをおすすめします。光秀の軍勢がどちらの方角から来たのか、妙覚寺はどの方向にあったのかなどを考えながら歩くと面白いです。その後は、二条城などに行ってみるのも良いでしょう。


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