ガクアジサイの成長記録
通勤途上にガクアジサイが咲いています。毎年綺麗な花を咲かせるのですが今年も開花の準備を進めています。今年はちょうどフェンスから飛び出した花が一輪。この記事ではこのガクアジサイの成長の写真を紹介してきます。
【2023年5月15日】
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笛を吹いてコブラを巧みに操る蛇使い。蛇使いが笛を吹き始めるとカゴの中からコブラが現れ笛の音色に合わせて踊り出します。
実はヘビは他の動物が持っているような耳はありません。ですからヘビには外耳もなければ耳の穴もありません。一方、音を感じる内耳は機能しています。ただし内耳は身体に埋もれているため音を聞くことができません。身体の表面に伝わった振動を内耳で感じることができます。音は空気の振動ですからヘビは全身を使って音を感じていることになります。全身が鼓膜の役割を果たすので聴覚は優れていると言えます。ですが、音を聞くというより音を感じると表現した方が的を射ているかもしれません。
ですからヘビには蛇使いの笛の音色は聞こえていません。蛇使いは笛を吹いてコブラを操っているように見えますが、実際にはカゴを叩いたり、地面を叩いたりすることで振動をコブラに伝えているのです。振動を感じたコブラはカゴの中から出てきてコブラ踊りを始めます。コブラは笛の音色に合わせて踊っているわけではありません。蛇使いが笛の先をコブラに近づけると、コブラは笛の先を敵ととらえて威嚇をしているのです。蛇使いが笛を動かすとそれに合わせてコブラが動きます。これがコブラ踊りに見えるのです。蛇使いが笛の先をコブラから放すと、コブラはカゴの中に隠れてしまうというわけです。
蛇使いはコブラの習性を良く理解し、コブラの行動に合わせて笛を吹いているのです。コブラが蛇使いを巧みに操っていると言えるかもしれません。
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7月11日は世界人口デー(World Population Day)です。1989年に国連人口基金(UNFPA)が1987年7月11日に世界の人口が50億人を突破したことをきっかけに世界中の人々に人口問題への関心を高めてもらうために制定しました。当時、国連はこの日に産まれたクロアチア(当時はユーゴスラビア)の首都ザグレブで生まれた子どもを50億人目と認定し祝福しています。
さて世界の人口はいまや77億人を超えました。
地球の表面積は510,065,600平方キロメートルです。このうち、海洋の面積が362,822,000キロ平方メートルで、陸地の面積は147,244,000平方キロメートルです。
地球の陸地には人が暮らせないところもありますから、本当はもっと狭い値になるはずですが、約1億5000平方キロメートルとします。これは正方形で考えると、その1辺が約1万2,250キロメートルになります。この値は地球の直径1万2,472キロメートルよりやや小さい値ですが、地球の円がちょうど入る正方形と考えても良いでしょう。
陸地の面積を人口で割り算してみると
1人あたりの面積=1億5000平方キロメートル/77億人
=0.0195平方キロメートル
正方形で考えると、その1辺が約0.14キロメートルなります。140メートル四方に1人です。
陸地全体の面積の正方形の1辺が12,250キロメートルでしたから、
12,250/0.14=87,500
で、その正方形の一辺には8,8000人しか並べないことになります。人口が多いところ、少ないところもありますが、ならすと、これぐらいの密度ということになります。
日本は人口減少といいますが、現在の問題は人口減少そのものではなく、少子化といわれているように、各年齢層の人口のバランスが崩れていることです。人口が減りすぎるのはまずいでしょうが未来の子孫にとっては年齢層のバランスが取れていれば人口が今より減るのは決して悪いことではないように思います
大雨の後、川の水がずいぶん透明になりました。川の中を真鯉の群れが泳いでいるのが見えました。
たくさんのコイが泳いでいくのを見ていたら群れの中に紅一点、緋鯉が現れました。
緋鯉(ヒゴイ)は真鯉(マゴイ)が突然変異したものですがコイとしての違いはあるのでしょうか。また、どうして色が赤いのでしょうか。下記の【関連記事】にまとめられています。
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1928年、スコットランドの細菌学者アレクサンダー・フレミングはブドウ球菌をペトリ皿で培養中にアオカビが混入し、カビの周囲で細菌の生育が阻害されていることを発見しました。フレミングは追試を行い確かにアオカビが細菌の生育を阻害することを突き止めました。その物質を突き止めることはできませんでしたがこれをアオカビ(Penicillium notatum)の名称からペニシリンと名付けました。
フレミングの発見からしばらくの間はペニシリンがどのような物質がわかりませんでした。1940年にオックスフォード大学の細菌学者ハワード・ウォルター・フローリーと生化学者エルンスト・ボリス・チェーンがアオカビからペニシリンを単離することに成功し、ペニシリンが1つの物質ではなく混合物であることを発見しその化学組成を突き止めました。その後、フローリーの部下だった生化学者ノーマン・ヒートリーがマウスを使ってペニシリンの効果を確かめました。
当時ペニシリンの構造がわかっていなかったため人工的に合成することはできませんでした。アオカビから得られる天然のペニシリンは量が少なく大量生産ができませんでした。そのためヒトの臨床実験にはペニシリンが足りませんでした。ヒートリーはアオカビを培養する方法を考案し臨床実験ができる量のペニシリンを確保しました。
1940年12月、警察官のアルバート・アレキサンダーは誤ってバラのトゲで顔を怪我し細菌に感染し敗血症となりました。サルファ剤を投与するなど従来の治療を施しましたが全く効きませんでした。ペニシリンの副作用が懸念されましたが、アレキサンダーが瀕死の重傷で末期状態であったため1941年2月12日にペニシリンが投与されました。これがペニシリンの臨場実験となりました。アレキサンダーの体温は下がり、食欲も回復、感染症も治り始めました。しかしながら、ペニシリンの量が不足していたためアレキサンダーは再発し亡くなりました。
第二次世界大戦中のイギリスではペニシリンの大量生産は難しく、米国のロックフェラー財団と微生物学者アンドリュー・J・モイヤーがペニシリンの工業的な生産方法を確立しました。これによってペニシリンは第二次世界大戦で負傷した多くの兵士の命を救いました。
1945年、ペニシリンの功績によりフレミング、フローリー、チェインの3人がノーベル生理医学賞を受賞しました。受賞者に3人の制限があったため研究の多くを手がけたヒートリーはノーベル賞を受賞できませんでした。
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1938年12月23日、南アフリカのイーストロンドンの博物館で学芸員マージョリー・コートニー=ラティマーは南アフリカの東海岸チャルムナ川(現ティロムンカ)の沖合でヘンドリック・グーセン船長のトロール漁船が漁獲した魚の中にめずらしい形をした魚がいるのを発見しました。
その魚の体調は約1.4メートルで古代魚のような姿をしていました。魚の研究をしていたラティマーは直感的に貴重な生物を発見したと考えそ保存を試みましたが傷みがひどいため剥製にしました。
発見当初、多くの人はその魚が岩礁の海底に住むカサゴやメバルの仲間(ロックコッド)と考えました。そこでラティマーはグレアムズタウンのローズ大学教授の魚類学者ジェームズ・レナード・ブライリー・スミスに連絡を取り魚のスケッチを送りました。スケッチを見たスミスはその魚が絶滅したはずのシーラカンスであること確信し1939年2月に発表しました。
シーラカンスは魚類が両生類に進化する頃に生きていた魚です。シーラカンスは中生代白亜紀以降の地層から化石が発見されていないことから約6500年前に絶滅したと考えられていました。しかし、1938年のラティマーによる発見によって、シーラカンスが6500万年もの時を経て生き続けていたということがわりました。そしてシーラカンスは「生きている化石」と呼ばれるようになりました。
その後、シーラカンスはコモロ諸島・ケニア・タンザニア・モザンビーク・マダガスカル・イシマンガリソ湿地公園・クワズールー・ナタール南岸で発見されています。当初、シーラカンスの生き残りはこの西インド洋で発見された1種のみと考えられていましたが、1997年にインドネシアで2種目のシーラカンスが発見されています。
また1952年12日20日に西インド洋コモロ諸島で発見されたシーラカンスに対して世界で初めて詳細な学術調査が行われたことから、1952年12日20日は「シーラカンスの日」とされています。
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11月24日はイギリスのチャールズ・ダーウィンが1859年同日に「種の起源」を出版したことから進化の日とされています。
ダーウィンは1809年に裕福な医師の家庭に生まれました。子どもの頃から博物学に興味があったダーウィンは医師になるため1825年にエディンバラ大学に進学し医学と地学を学びました。しかしながら、ダーウィンは医師の仕事は自分には向かないと考え1827年に退学します。自然科学に興味をもち昆虫採集や動物のはく製の製作技術を学んだのもこの頃でした。
ダーウィンの父は医師を諦めたダーウィンを牧師にするため1827年にケンブリッジ大学神学部に転学させました。ダーウィンは牧師と博物学の仕事は両立できると考え父の提案を受けましたが、ケンブリッジ大学においても博物学や昆虫採集に没頭しました。ここで博物学者ジョン・スティーブンス・ヘンズローと出会いその後の博物学の研究に大きな影響を受けました。また地層学者アダム・セジウィッグのもとで地学的能力を発揮しています。
1831年にケンブリッジ大学を卒業したダーウィンはヘンズローの紹介で南米の探検に向かうイギリス海軍の測量船ビーグル号に研究員として乗船することになりました。ダーウインはビーグル号の航海で様々な動植物やその化石の調査を行いました。ダーウィンはこの航海における調査を通じて生物は環境に適用するように分岐して多様な種を生じると考えるようになり1938年に自然選択説に着想しました。そして長い時間をかけて自説の研究を重ねていきました。
ダーウィンが研究をしている間にイギリスのアルフレッド・ラッセル・ウォレスは独自の調査結果からダーウインの自然選択説と同様な考えを着想しました。やがてウォレスはダーウィンと手紙でやり取りするようになり、1958年にダーウインに自説の論文を送りました。当時、ダーウィンは家族の看病をしており余裕がありませんでした。ダーウィンは急ぎまとめた自身の論文とウォルスの論文を知人の学者に送り、それらの取り扱いを委ねました。知人はダーウィンとウォルシュの論文を共同で発表しました。ウォルシュには事前の相談はありませんでしたが、ウォルシュは名高いダーウィンとの共同発表に満足しました。ウォルシュは自然選択説の有力な学者の仲間入りをしたのです。
1859年11月24日、ダーウィンは長年の自分の研究をまとめた著書「種の起源」を発表しました。ダーウィンはこの著書で生物は自然選択、生存競争、適者生存などの要因によって環境に適応するように分岐し多様な種を生じると説明しています。
ダーウインは自説を自然の生物の営みに限定していましたが、ダーウインの学説は「優れたものは変革して生き残る」というような誤った解釈で人間の社会活動に思想として適用され、政治や経済そして全体主義や民族主義に利用されるようになりました。しかし、ダーウィンの進化論は優れた生物が意図的に環境に適応して生き残るという意味ではなく、環境に適応できた生物が結果として生き残ることができるというものです。
天然痘はウィルスが原因の感染症ですが、過去に多くの死者を出しています。天然痘を発症すると、高熱が出て、全身に化膿した発疹ができ、やがて死に至ります。運良く助かった人も、発疹の後が残ることから、不治の病として恐れられました。
一方で天然痘は一度発症すると二度と発症しないということがわかっていました。このことから、天然痘に感染した症状の軽い患者の発疹から取り出した膿を健康な人に接種して予防するという試みが行われていました。しかし、これはあくまでも民間療法的なもので、決して安全な方法ではなく、この予防接種で天然痘に感染して死亡した人も少なくありませんでした。
また、同じ頃、牛痘にかかると天然痘にかからないという言い伝えがありました。乳搾りなど牛の世話をしていて牛痘にかかった人は天然痘にかからないというのです。牛痘はヒトが感染しても症状が軽く、発疹の跡も残りません。
このことを手がかりにイギリスの医師のエドワード・ジェンナーは牛痘を使って、天然痘の予防をすることができないか研究を始めました。
1796年5月14日、ジェンナーは乳絞りをして牛痘にかかった女性サラ・ネルムズの手にできた発疹から取り出した膿を、ジェンナーの使用人の8歳の子どもジェームズ・フィップスに接種しました。ジェンナーはその1ヶ月半後にフィップスに天然痘を接種してみましたが、フィップスが天然痘を発症することはなかったのです。このことから5月14日が「種痘の日」とされています。
ところで、ジェンナーが自分の息子に予防接種をしたと記述されている伝記がありますが、ジェームス・フィリップスは使用人の子どもでジャンナーの子どもではありません。ジェンナーが自分の子どもに試したのは牛痘接種以前に行われた軽い天然痘(小痘瘡)の接種です。
ジェンナーは1798年に天然痘の安全な予防方法について論文を発表したのですが、しばらくの間は認められませんでした。しかし、ジェンナーはその後も治療の実績をあげていきます。そして、1840年にはイギリス政府がジェンナーの予防接種を唯一の天然痘の予防接種とと認めました。ジェンナーは予防接種の特許を取ることができましが、ワクチンが高価となり、多くの人々が接種できなくなると考え、あえて特許を取得しませんでした。
後にジェンナーが業績を高く評価し、ジェンナーこそが免疫学の祖であると述べたのは近代細菌学の開祖と呼ばれるルイ・パスツールです。パスツールはジェンナーを感染症のワクチンを初めて開発した人と認め、予防接種のことを「Vaccination」と名付けました。なお、Vaccaはラテン語で雌牛のことです。今ではエドワード・ジャンナーは「近代免疫学の父」と呼ばれています。
WHO(世界保健機構)は1980年に天然痘は根絶されたと宣言しています。その後、世界中の研究機関で保管されていた天然痘ウィルスは米国とロシア(当時はソビエト)の研究機関で厳重に管理されることになりました。
WHOは保管されているウィルスを廃棄するよう決めましたが、米国とロシアは、天然痘ウィルスが外部に持ち出された可能性があり、生物兵器として使われたときの対策や、将来のワクチンの研究開発のためにも保存しておくべきであると主張しました。
なにしろ、天然痘ウィルスが根絶されてからは、予防接種をしたことがない人が増えていますし、過去に予防接種を受けた人も既に免疫を失っている可能性があります。
ウィルスが生物兵器としてテロに利用された場合、大きな被害が出ることは容易に想像できます。この主張に多くの国が賛同し、天然痘ウィルスは今でも保存され続けています。
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イカの口はどこにあるでしょうか。イカを料理するときによく見てみると、目と目の間にひょっとこの口のようなものがあります。これは口ではなく、漏斗と呼ばれるもので、イカはここから吸い込んだ海水を吹き出すことによって、勢いよく移動します。
イカの口は10本の足の付け根にあります。そこには、トンビやカラスのくちばしのような鋭い歯のようなものがあります。
イカの足は10本と言いますが、10本のうち2本はひときわ長く、これは触腕と呼ばれるます。イカはこの2本の腕を使って餌を捕らえます。 そして、残りの8本の足で、餌を包み込むように口に運びます。そして、くちばしで、餌を食いちぎり、口の中にあるヤスリのような歯舌で肉をすりつぶします。
新江ノ島水族館公式チャンネルでイカの捕食のようすの映像が公開されていました。
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ウイルスの存在理由について、起源、ワクチン、遺伝子組み換え技術、ミクロなモノ造りについて考えてみました。
そもそも、ウイルスは人類が誕生するずっと前から地球に存在していました。最初の猿人が現れたのがおよそ700万年前、現在の人類の祖先が現れたのはおよそ20年前です。それに対して、ウイルスが生まれたのはおよそ30億年前と考えられています。ウイルスが存在したから生物の進化もあったのです。ウイルスが存在していなければ、人類も誕生していなかったかもしれません。
また、ここで紹介した最新の技術を使うことによって、人類はウイルスをより有益なもととして扱うことができるようなるでしょう。
そのように考えると、ウイルスの存在理由は「ある」と結論づけることができるでしょう。しかしながら、ウイルスの存在理由というのは人間(筆者)の勝手な判断基準で、考えること自体がおこがましいことかもしれません。『善玉ウイルス』『悪玉ウイルス』『善悪両方の働きをするウイルス』というのも人間にとっての判断でしょう。
遺伝子組み換え技術を使えば、迅速に新しいウイルスを作り出すことができます。しかし、この技術が悪用されると、生物兵器などが簡単に作られてしまうことにもなり兼ねません。さまざまな技術を使いこなし、ウイルスをどう利用するのかは人間側の問題だということを忘れてはいけないでしょう。
下記は中古本ですが、ウイルスと地球の声明について論じており、とても面白いです。ただし、現在はamazonでは中古本も入手不可能のようです。
同じ著者の下記の本は電子書籍版は入手できます。
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