カテゴリー「城」の9件の記事

2024年5月11日 (土)

織田信長が安土城に移居(1579年5月11日)

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 天正4年(1576年)1月、織田信長は天下布武の拠点として岐阜の稲葉山より京都に近く水運を活用できる琵琶湖沿岸の標高199メートルの安土山を選び、重臣の丹羽長秀を総普請奉行に任じこの地に安土城の築城を命じました。この地は北陸から京都へ向かう北陸街道の要衝にもなるため越前や加賀の一向一揆や上杉謙信への対策にもなったとされています。

 安土城は六角氏の観音寺城を参考に石垣で普請され、石垣の上に天守のある初めての城となりました。安土城の築城技術を使った城が江戸時代までに全国各地で築城されました。その背景には安土城の普請を手がけた石垣職人集団「穴太衆」の存在がありました。

 安土城は地下1階地上6階建てで天主の高さは約32メートルもありました。その姿はかつての城とは異なり天下布武を人々に知らしめる独創的かつ豪華なものでした。大手門からの道は直線で幅が6メートルもあり、城としては防御設備も十分ではありませんでした。安土城は軍事用の城としてではなく政治や経済の拠点として作られたと考えられます。本丸の御殿は清涼殿とよく似ており天皇を迎えるための施設だったという説もあります。 

安土城図
安土城図

 安土城が完成し織田信長が正式に天守に移ったのは天正7年(1579年)5月11日の吉日です。織田信長は天守で生活し、家族は本丸付近、家臣は山腹の武家屋敷もしくは城下町の屋敷で生活しました。

 明智光秀が饗応役を命じられた徳川家康の接待は天正10年(1582年)5月15日に安土城で執り行われました。 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変が起こったときには安土城には留守居役として蒲生賢秀が在城していましたが、明智光秀に占領される前に蒲生賢秀・氏郷父子が本拠地の日野城に信長妻子などを退去させました。

 山崎の戦いで光秀が敗れると安土城で原因不明の出火が起こり豪華な天主と本丸が焼失しましたが、本能寺の変の後も織田氏の居城として使われました。清洲会議の後には織田信長の嫡孫で織田信忠の嫡男の秀信(三法師)が居城としています。

 豊臣秀吉が天下を統一すると秀吉養子の豊臣秀次の八幡山城を築城するため安土城は天正13年(1585年)に廃城とされました。八幡山城の建設資材には安土城のものが流用されました。安土城は現在は石垣などの遺構を残すのみです。安土城がどのような姿をしていて城下町がどのような暮らしぶりであったのかは宣教師ルイス・フロイスが書き記しています。

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2024年4月 8日 (月)

江戸城が築城される(1457年4月8日)

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 江戸城と言えば江戸時代は徳川将軍家の居城で明治時代以降は皇居として知られていますが、江戸に最初に拠点を置いたのは平安時代末期の武将で武蔵江戸氏初代当主の江戸重継です。江戸重継は桓武平氏の平将常を祖とする秩父重綱の子ですが平安時代末期に武蔵国豊島郡江戸郷を継いだときに地名から江戸氏を名乗りました。

 15世紀の享徳の乱で江戸氏が没落すると扇谷上杉家当主の上杉持朝の家臣の太田道灌が康正3年(1457年)に江戸城を築城しました。江戸城が完成し道灌が居城としたのは長禄元年4月8日(1457年5月1日)と言伝えられている。最初の江戸城は平山城で子城、中城、外城の三重となっており周囲は堀や切岸で囲まれ門や橋が設置されていました。

太田道灌
"太田道灌

 上杉持朝の子で扇谷上杉家当主となった上杉定正は優秀な道灌に対して反感を持っていました。道灌は自身に対する中傷に対して弁明はしませんでした自身の功績が評価されていないことには不満があったようです。定正は道灌に対して疑心暗鬼を抱くようになりました。文明18年7月26日(1486年8月25日)、道灌は扇谷定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれたときに定正の重臣の曽我兵庫に暗殺されました。その後、江戸城は上杉氏が所有し上杉朝良が隠居城として用いた。

 大永4年(1524年)には後北条氏の北条氏綱が扇谷上杉氏を破り江戸城に入りました。天正18年(1590年)、江戸城は豊臣秀吉の小田原攻めで開城し、秀吉の命で徳川家康が駿府から江戸に居城を移しました。以降、江戸城は徳川家の居城となり、江戸幕府が開かれると大規模な拡張工事が行われ日本最大の城郭になりました。

江戸城登城風景図屏風
江戸城登城風景図屏風

 大政奉還後の明治政府樹立で江戸城が無血開城したのは慶応4年4月11日(1868年5月3日)です。慶応4年7月17日(1868年9月3日)に江戸が東京に改称され、同年9月8日に元号が明治に改元されると同年10月13日に明治天皇が江戸城に入り東京城と改められました。、

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2023年11月27日 (月)

東大赤門こと旧加賀屋敷御守殿門が建立(文政10年11月27日1828年1月13日)

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 御守殿とは江戸時代の徳川将軍家の娘のうち位階が三位以上の大名に嫁いだ娘の敬称です。また御守殿の住居も御守殿といい、その門を御守殿門といいます。御守殿門は朱色で丹塗りされていたことから表門の黒門に対し赤門と呼ばれるようになりました。

 旧加賀屋敷御守殿門は文政10年11月27日(1828年1月13日)に加賀藩第13代藩主前田斉泰が第11代将軍家斉の溶姫を正室として迎えたときに御守殿とともに建立されたものです。

旧加賀屋敷御守殿門(東京帝国大学 赤門 1910年)
旧加賀屋敷御守殿門(東京帝国大学 赤門 1910年)

 現在では東京大学の赤門として有名です。東京大学本郷キャンパスは江戸時代に加賀藩前田家の上屋敷でしたが御守殿門はそのまま残されました。御守殿門は焼失しても再建されません。かつては江戸の町に十カ所以上の御守殿門がありましたが旧加賀屋敷御守殿門は現存する唯一の御守殿門です。

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2022年6月 5日 (日)

松前城(福山城) 天守を焼失(1949年6月5日)

 戦国時代。かつて蝦夷(北海道)の地にも戦国武将がいました。蠣崎氏(かきざきうじ)です。

 蠣崎氏は元々は室町時代の武田氏の子孫である武田信廣を祖とする家柄です。

 豊臣秀吉が関白になったときにはこの地からはるばる上洛を果たしたそうです。それによって秀吉に所領を安堵されました。江戸時代になると徳川家につき松前氏と名乗るようになりました。

 蠣崎氏はもともとは福山館という大きな屋敷に住んでいました。松前氏となってからも城を持っていませんでしたが、江戸末期の松前藩第12代藩主、松前松前崇広の代に幕府から北方警備を命ぜられ築城されたのが松前城です。そのため福山城とも呼ばれます。

松前神楽(昭和30年代)
松前神楽(昭和30年代)

 松前城は日本最後の旧式城郭です 幕末に城主だった松前徳広は戊辰戦争の際に五稜郭にやってきた旧幕府軍からの協力要請を無視し、これに怒った榎本武揚は土方歳三に松前に攻め込む命令を出しました。松前城は開戦から間もなく落城してしまいました。箱館戦争終盤には新政府軍と松前藩兵が松前城を奪還しています。

 明治維新後は開拓使が本丸御殿を出張所としようとしましたが老朽化が激しいため天守や本丸の表御殿と御門を残してそれ以外の建物を解体し、さらに石垣を撤去し堀を埋めて更地にしました。

 その後、松前城は天守部分が公会堂として利用されていましたが保存の予算がつかず老朽化していきました。昭和の初めには見向きもされなくなってしまいました。ところが昭和10年(1935年)に松前城跡が国の史跡となったことから保存されることになり、昭和16年(1941年)には天守や本丸の表御殿と御門が国宝に指定されました。

 第二次世界大戦の戦火を免れた松前城でしたが白壁が崩れ屋根が壊れて鯱が落下するなど無残な状態になりました。昭和23年(1948年よ)に国と北海道で修繕することになりましたが予算がつかず昭和24年(1949年)に持ち越されました。

 修繕を開始する直前の昭和24年(1949年)6月5日午前1時10分頃、松前町役場として使われていた松前奉行所跡から出火し、火の手は本丸まで広がり天守が焼失してしまいました。天守は昭和34年(1959年)に復元されています。

Google Mapでは松前城の姿を見ることができます。

松前公園

松前城天守

 

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2022年1月18日 (火)

明暦の大火(旧暦 1657年1月18日)

 ときは明暦3年1月18日(新暦1657年3月2日)、長らく雨が降らず乾燥した日々が続いていた江戸の町。この日は朝から強風で江戸の町は人出もまばらで風の音が鳴り響いていたという。強風は午後になっても止まず、末の刻(14:00)あたりに本郷丸山(文京区本郷)の本妙寺が俄にざわついたと思ったら寺から出火。折からの強風により火は瞬く間に広がり、神田、京橋を超えて隅田川の対岸までが炎に包まれたのである。この火事がようやく鎮火して間もない翌19日巳の刻(10:00)、小石川伝通院表門下 (文京区春日)新鷹匠町の大番衆与力の宿所から再び出火、飯田橋から九段あたりが延焼し江戸城までもが炎に包まれた。江戸城の天守が失われたのもこの大火によるものである。そして、この大火が未だ鎮火に至っていない申の刻(16:00)、麹町5丁目の町家から3度目の出火があり永田町、桜田門外、芝一帯が延焼し、炎は新橋の海岸に至ったところで鎮火。「明暦の大火」と呼ばれる一連の大火は江戸城を含めた江戸の町の大部分を焼失し、数万人以上、一説では十万人の尊い命を奪ったのである。

田代幸春「江戸火事図巻」(1814年)
田代幸春「江戸火事図巻」(1814年)

 「明暦の大火」の出火原因には諸説あるが有名なものは「振袖火事」の伝承である。この伝承とは以下の通り。

 遠州屋の16歳の娘が母親と本妙寺に墓参りに行った帰りにすれ違った寺の小姓に一目惚れ。娘は小姓のことが忘れられなくなり、恋の病となって寝込んでしまう。見かねた両親が小姓が着ていた振袖を作ると、娘は振袖を大事に抱いて小姓に思いを馳せる日々を送るようになる。しかし、娘の病が回復することはなくついに若い命を落とす。葬儀は本妙寺で執り行われ、両親は振袖を娘の棺にかけて見送ったのである。

 当時は棺にかけられた遺品は寺男衆がもらう風習があり、寺男衆は娘の振袖を売却。振袖は16歳の町娘のものとなったが、どういうわけかこの娘も病にかかり若い命を落とす。葬儀は最初の娘の命日にあたる日に本妙寺で執り行われ、振袖は最初の娘のときと同様に娘の棺にかけられたのである。

 寺男衆はいつものように振袖を売却、振袖は別の16歳の町娘のものとなるがこの娘も病にかかって若い命を落としてしまう。振袖は娘のお棺にかけられ三度本妙寺に持ちこまれたのである。3人の娘が若い命を落としたことで寺男衆は振袖に何らかの因縁があると考え住職に相談。住職は振袖をお焚き上げして供養、読経をしながら御護摩の火に振袖を投じた瞬間に強風が吹きあれ火のついた振袖がまるで人が立ち上がったように舞い上がり寺の軒先のところで燃え上がった。あっという間に寺は炎に包まれ、炎は強風で辺りへと広がり、江戸の町を焼き尽くしたのである。この伝承は作り話とされているが3人の娘の命を奪った振袖、そして三カ所からの出火。作り話では収まらなさそうなのである。

 さて本妙寺の隣には徳川家光と家綱の2代にわたって老中を務めた阿部忠秋の武家屋敷があったという。実は「明暦の大火」の出火元は阿部忠秋の武家屋敷だったという説がある。この説によれば江戸幕府の老中の家から出た火が江戸の町を焼き払ったという不祥事を隠蔽するため、前述の伝承とともに本妙寺を出火元としたのである。これは本妙寺火元引受説と呼ばれる。大火の後、火元の本妙寺にはお咎めはなく以前より大きな寺社が再建され、地域の寺院を統制する触頭(ふれがしら)に取り立てられている。また阿部家は本妙寺に大正時代まで毎年多額の奉納を続けていた。このようなことから本妙寺火元引受説が有力視され、当の本妙寺もこの説を支持している。

「明暦の大火」によって江戸の町の区画整理が進んだという。当時の江戸の町は過密化、衛生状態も悪く治安も悪化していた。江戸幕府は区画整理をしようと考えていたが住民と立ち退きの交渉をしたり、立ち退き後の生活を補償したりする必要がある。そこで幕府が放火し江戸の町を焼き払ったという幕府放火説がある。放火は最初の本妙寺の火事からか、2回目あるいは3回目の火事からかなのかはわからないが、「明暦の大火」は江戸城まで失うほどのものであったことからこの説は考えにくいのではないか。

 そもそも「明暦の大火」で都市改造が進んだという説は誤りだったという話もある。

明暦の大火: 「都市改造」という神話 (532) (歴史文化ライブラリー 532)

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2021年7月29日 (木)

パリのエトワール凱旋門が完成(1836年7月29日)

 フランス、パリのエトワール凱旋門はシャンゼリゼ通りの西端、シャルル・ド・ゴール広場の中心にあります。この広場はセーヌ川の右岸にあり、12本の放射状の大通りからなる12角形の中心にあります。この形が輝く星(エトワール、フランス語)に見えることから、この広場はエトワール広場(星の広場)と呼ばれていました。現在は広場の名称はシャルル・ド・ゴール広場に変更となっていますが、凱旋門は今もなお「エトワール凱旋門(Arc de triomphe de l'Etoile)」と呼ばれています。

 エトワール凱旋門はナポレオン・ボナパルトがアウステルリッツの勝利を称えるため1806年に建設を始めました。フランスの建築家ジャン・フランソワ=テレーズ・シャルグランがイタリア、ローマの「ティトゥスの凱旋門」を模範とし設計しました。基礎工事に2年を要し、1810年にナポレオンが皇后マリア・ルイーザを伴ってパリに入ったときには凱旋門はできておらず木製のモックアップのアーチを作らせました。 ジャン・シャルグランが1811年に死去したため、ジャン・ニコラ・ユイットが建設を引き継ぎました。

 ナポレオンが退位した後、工事は順調に進まず、ブルボン朝(ルイ王朝)の時代には工事が中断されました。エトワール凱旋門が落成したのは、オルレアン朝のルイ・フィリップ王の時代の1836年7月29日のことでした。

 1840年12月15日、ナポレオンが埋葬されていたサン・ヘレナからパリに改葬されるときにエトワール凱旋門をくぐりました。ナポレオンが建設を開始してから34年後のことでした。

1840
凱旋門ナポレオンの帰還(1840年)

 エトワール凱旋門はフランス革命戦争とナポレオン戦争でフランスのために戦いによって命を落とした人々を称えています。その内部と外部にはフランスの戦勝と将軍の名前が刻まれています。またアーチの元には第一次世界大戦で亡くなった戦士の墓があります。

 エトワール凱旋門の全体の大きさは高さ50 m、幅45 m、奥行き 22mで、丸天井は高さ29.19 m、幅14.62 mあります。大きなアーチは高さ29.19 m、幅14.62 m、小さなアーチは高さ18.68m、幅8.44mです。1938年にメキシコシティに完成した高さ67メートルの「革命記念塔」が完成するまで世界で最も高い凱旋門でした。 

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2021年6月 7日 (月)

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

 昭和37年(1962年)6月某日に撮影された北海道函館市の五稜郭公園の航空写真です。公園の北側上空から撮影したもので、よく見る五稜郭の写真とは上下逆さまになっています。写真の右上が半月堡と一の橋と二の橋で、下側が裏門橋です。

五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)
五稜郭公園の航空写真(昭和37年6月)

 撮影当時は有名なシンボルがありません。五稜郭タワーです。初代の五稜郭タワーは昭和40年(1964年)12月開業です。写真の右上の右斜め上方に向かう道路の左側に建設されました。また、昔は公園内は広場になっていて箱館奉行所(復元)はありませんでした。

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2020年5月13日 (水)

豊臣秀吉の京都新城が出土

 京都御苑の敷地内で豊臣秀吉の「京都新城」が出土したというニュースが流れています。

 

 京都新城は、秀吉が最晩年に嫡子の秀頼のために京都御苑の京都仙洞御所があるあたりに築城した東西400メートル、南北800メートルにわたる規模の平城です。この平城の記録はあまり残っていないことから「幻の城」と呼ばれていますが、実在していたのは確かです。

 残っている数少ない記録によると、この平城は1597年(慶長2年)1月に普請が始まりました。5月に秀吉が築城を直接監督しており、6月の終わりには完成していたと思われます。同年9月に秀吉と秀頼が移り住み、秀吉が城主となりました。9月末に秀頼が従三位左近衛権中将となると、秀吉は城主を秀頼に譲り、この城から退去しています。この平城は太閤御屋敷などと呼ばれていましたが、秀頼が城主になると、秀頼卿御城などと呼ばれるようになりました。

 1598年(慶長3年)8月に秀吉が隠居先の伏見城で死去すると、秀頼は豊臣家の家督をついで大阪城に転居しました。関ヶ原の合戦(慶長5年、1600年10月)の約2年前のことです。

 秀吉が死去したあとの豊臣政権では徳川家康が五代老の筆頭となりました。秀吉は秀頼が成人するまで政務は家康に任せるという遺言を残しています。これらのことから徳川家康は大阪で政務を執るため1599年(慶長4年)9月に大阪城の西の丸に入りました。このとき、秀吉の正室の高台院(北政所)がこの平城に転居しました。以後、この平城は高台院屋敷などと呼ばれました。

 関ヶ原の合戦の前に、高台院屋敷が城として利用されるのを避けるため、堀や石垣など防御のための施設が撤去されました。当時の記録が一切残っていないため、この城がどのような構造をしていたのかは謎となっており、幻の城と呼ばれる所以でもあります。

 高台院は関ヶ原の合戦以降も、ここに住み続けましたが、屋敷の規模は次第に縮小していったようです。1602年(慶長7年)には一部が取り壊され、二条城へ移動されたという記録も残っています。1623年(寛永元年)に高台院が死去すると、高台院の甥の木下利房が居住しました。なお、木下利房は秀吉とは血のつながりはありません。

 1626年(寛永4年)に後水尾天皇の譲位を受けて、この屋敷は解体され、仙洞御所(太上天皇・太上法皇・上皇の御所)が建設されました。この京都の仙洞御所の正式名称は桜町殿といいます。桜町殿の建設により、屋敷は完全に解体され、その跡には全く残っていませんが、西本願寺の飛雲閣をはじめとする施設がこの屋敷から移築されたものという説があります。

 今回の京都新城の出土は、消化設備の設置に合わせて、仙洞御所の敷地の一部を調査していたところ、8メートルにわたる石垣が見つかったことがきっかけとなったようです。周辺からは豊臣家の桐の家紋や金箔瓦も出土したころから、豊臣秀吉の幻の城「太閤御屋敷」「秀頼卿御城」「高台院屋敷」の跡であると結論づけられました。

 なお「京都新城」は現在の呼称です。そのため、当時を舞台とした小説やテレビドラマを見ても、「京都新城」という呼び方は出てきません

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2012年7月17日 (火)

Google Street View で五稜郭公園を散策

昨日紹介した「Googleストリートビューでみる日本の観光ガイド - 夏休み特集を公開」で、五稜郭公園を散策してみました。

Google Mapで五稜郭公園を確認すると、公園の外堀周辺と内部の散策路を歩くことができるようになっています。

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観光の際の散策路の王道は下の地図の左下の五稜郭タワーから、五稜郭公園内部へと入っていくコースです。

まず、五稜郭タワーです。

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公園の敷地に入り、2つの橋をわたり、内部へと入っていきます。

まずはひとつめの橋。右側に五稜郭と書いた標石があります。うわー、人の頭が消えてますよ。

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そしてふたつめの橋。

Map2

この奥には藤のトンネルがあります。

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そして、藤のトンネルをくぐり抜けて少し歩いた先にある公園の真ん中には2010年に再建された函館奉行所があります

大きな地図で見る

このあたりは30年以上前は何もない広場で、子どもたちが野球などをして遊んでいました。昭和の終わり頃には、野外劇場が作られていました。

Google Mapは現在の状況を見せてくれるだけでなく、いろいろと昔の記憶がよみがえらせてくれます。

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