カテゴリー「知る人ぞ知る」の140件の記事

2025年5月27日 (火)

「定規」と「物差し」の違い

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 「定規」や「物差し」は普段使用しているときにその違いを意識することはほとんどないと思います。しかし、「定規」と「物差し」は使用目的が異なる道具です。「定規」は直線や曲線を引いたり切ったりする道具で、「物差し」は長さを測る道具です。「定規」と「物差し」の違いは目盛りの 0 の位置がどこにあるかによって見分けることができます。先端からやや内側を0として目盛りが振られているのが「定規」で、先端を0として目盛りが振られているものが「物差し」です。

「定規」と「物差し」の違い
「定規」と「物差し」の違い

 たとえば地面からの高さは「物差し」では簡単に測ることができますが、「定規」ではそのまま測ることができません。また紙の上にある長さの直線を引くとき、「定規」では 0 の位置にペンを置いて線を引き始めることができますが、「物差し」では 0 の位置にペンを置いて線を引き始めるのは容易ではありません。「定規」と「物差し」にはこのような違いがあるのです。

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2025年4月29日 (火)

日本の国歌「君が代」の成り立ち

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 我が国の国家「君が代」の歌詞は平安時代前記の歌集「古今和歌集」に収録されている和歌「我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」に由来します。この和歌は巻七「賀歌」巻頭に読人知らずとして収録されています。「我が君」は特定の人物を指すものではないため当時の帝を意味していたとの解釈があります。

日の丸と貴婦人とともに鳴く雄鶏。竹内桂舟作、1909年
日の丸と貴婦人とともに鳴く雄鶏。竹内桂舟作、1909年

 この和歌は平安時代に紀貫之が撰した「新撰和歌」や藤原公任が撰した「和漢朗詠集」などにも収められ祝賀の歌、朗詠として親しまれるようになりました。「君」は天皇の意味とされていますが、9世紀の光孝天皇は僧で歌人の僧正遍昭の長寿の祝いで「君が八千代」と記しています。つまり「君」は天皇を意味するものではなく祝賀を送る相手の意味でした。この和歌は長寿の祝いや願いを込めて歌われていたのです。安土桃山時代の日蓮宗の僧の隆達にいたっては恋の小唄としています。

 「我が君」が「君が代」と記された最古のものは「和漢朗詠集」の鎌倉時代のものとされています。これ以降は「我が君」と記されているものはほとんど存在しないことから、時代とともに「君が代」と表現されるようになったと考えられています。そして時代が進むに連れて「君」は君主や天皇を意味するようになりました。

 幕末の開国を経て明治維新が起こり戊辰戦争が終結すると、それまで以上に外交が盛んになりました。明治2年(1869年)7月にイギリスのヴィクトリア女王の次男エディンバラ公アルフレッドが来日することが決まると、横浜のイギリス大使館護衛部隊陸軍第10連隊第1大隊軍楽隊長のジョン・ウィリアム・フェントンは日本側に式典では国歌演奏を行うのが慣例と説明しました。しかし当時の日本には国歌どころか国歌という考えがありませんでした。

 翌明治3年(1870年)、フェントンが日本初の薩摩藩の楽団「薩摩バンド」を指導していた関係で、薩摩藩歩兵隊長の大山巌が薩摩琵琶曲「蓬莱山」の一節から「君が代」の歌詞を推薦しました。フェントンは当時の日本の楽団が有する楽器で演奏できるよう作曲し「君が代」が完成しました。同年9月8日、東京の深川越中島に明治天皇の前で薩摩バンドにより初演されました。

初代 君が代 (フェントン作曲) The first version of Japan's national anthem

 しかしながら、フェントンが作曲した「君が代」は西洋的な旋律に慣れ親しんでいない日本人にとっては威厳を欠いているように聞こえました。明治9年(1876年)、海軍楽長の中村祐庸は「君が代」の楽譜を改訂を上申しました。明治13年(1880年)、宮内省伶人長林廣守が雅楽で作曲したものが採用され、これをドイツ人で海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが吹奏楽用に編曲しました。改訂された「君が代」は同年に礼式曲とされ事実上の国歌となりました。

 明治26年(1893年)、文部省文部臣井上毅により「君が代」は皇統の永続性を主題とする国歌と告示されました。こうして法的な根拠はないものの「君が代」の「君」は天皇を意味するようになりました。

史上最も美しい「君が代」 / The most beautiful "Kimigayo" ever

 日本の国旗ならびに国歌が法制化されたのは平成11年(1999年)8月13日です。「国旗及び国歌に関する法律」が公布され即日施行されました。日本国憲法において天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」ことから「君が代」の「君」は天皇をはじめとする国民の長寿と国家の永続を意味するものでもあるでしょう。

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2025年4月 2日 (水)

五百円札の発行(昭和26年 1951年4月2日)

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 第二次世界大戦後の日本では物資が不足したことから物価が高騰しやすい状況にありました。戦時中の金融統制が解かれたため現金を確保するための全国規模で預金の引き出しが起こりました。また政府も物資の調達や復興などに多額な支払いをしていたため市場に多額のお金が流通しました。昭和21年(1946年)2月16日、政府はインフレショーンを防ぎ国民の現金保有を制限するため新紙幣を発行し従来の紙幣流通の停止とする通貨切替政策「新円切替」を発表しました。翌17日、政府は預金封鎖を実施、従来の旧円は強制的に銀行に貯金させ5円以上の旧紙幣の市場流通を差し止めました。さらに一世帯あたり1ヶ月の引き出し額を500円に制限しました。政府は市場に出回るお金を抑制することで物価の上昇を抑えようとしたのです。

 このとき発行されたのが最高額面のA百円券をはじめとするA号券でした。しかしながら「新円切替」でインフレーションを抑えることができずA百円券の発行量が著しく増大しました。緊急的に製作されたA号券は粗末な紙幣だったため偽札が出回るようになりました。そこで政府は昭和25年(1950年)にB千円券を発行しましたがA百円券の流通量は減少しませんでした。そこで政府は昭和26年(1951年)4月2日に千円券と百円券の間にB五百円券を発行しました。

 B五百円券の表面は岩倉具視の肖像が描かれています。この肖像画はイタリアの画家で明治時代にお雇い外国人として来日し西郷隆盛の肖像がなどを描いたエドアルド・キヨッソーネが描いた岩倉具視の肖像がもとになっています。裏面に山梨県側から見た富士山が描かれています。これは写真家の名取久作が山梨県大月市の雁ヶ腹摺山から撮影した写真がもとになっています。

五百円紙幣B号券
五百円紙幣B号券

 昭和44年(1969年)11月1日、新しい印刷技術や偽造防止技術によるC五百円券が発行されました。C五百円券は基本的に岩倉具視と富士山を描かれたB五百円券のデザインを踏襲していますが、見た目で新券とわかるような変更が加えられています。

五百円紙幣C号券
五百円紙幣C号券

 自分が子どもの頃に出回っていたのはC五百円券です。小学生の高学年の頃の月の小遣いが500円でした。毎月一度、岩倉具視と会っていたのですが、当時は500円の肖像画が誰なのかに名前を聞いてもわかりませんでした。

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2025年2月25日 (火)

正力松太郎が読売新聞を買収(大正13年 1924年2月25日)

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 読売新聞というと読売新聞社の社主および読売ジャイアンツの初代オーナーで日本テレビの創業者でもあった正力松太郎氏が育てた新聞として知られています。そのようなことから正力松太郎氏が読売新聞社の創業者と思っている人もいるかもしれません。実際には読売新聞は正力松太郎が誕生した明治18年(1885年〉よりもずっと以前に創業されています。

正力松太郎 (昭和30年1955年9月)
正力松太郎 (昭和30年1955年9月)

 読売新聞は明治7年(1874年)11月2日に読売新聞社の前身の日就社によって「讀賣新聞」として創刊されました。「讀賣」とは江戸時代に瓦版を独特の面白い言い回しで読み上げて販売をしていた販売員「讀賣」のことです。この「讀賣」に因み「讀賣新聞」と名付けられました。創刊号は1枚の紙で表裏2ページでした。創刊号の発行部数は200部とされていますが実際に売れたのは半分以下だったようです。

【参考】読売新聞の創刊日(1874年11月2日)

 以降は隔日発行されました。庶民を読者対象とし漢字によみがなを降るなどの工夫により部数を伸ばし、明治8年(1875年)には日刊紙となりました。同年末には発行部数は1万7千部にもなりました。その後も順調に発行部数を伸ばしました。尾崎紅葉作の小説「金色夜叉」の連載が始まったのは明治30年(1897年)1月1日です。

【参考】「今月今夜の月の日」はどんな月(1897年1月17日)

 大正6年(1917年)12月1日、 「日就社」は社名を「読売新聞社」に変更、大正8年(1919年)1月5日には創刊号から数えて15,000号の発行を達成しました。発行部数も順調に伸ばし1920年代初頭には13万部となっていましたが、大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災により読売新聞社の社屋が炎上し発行部数が5万部にまで落ち込み経営状況は危機的状況となりました。

 正力松太郎は明治44年(1911年)に東京帝国大学法学部を卒業し内閣統計局に入りました。大正2年(1913年)に警視庁に警察官として入るとみるみるうちに出世し大正10年(1921年)には警視庁官房主事となりました。

警視庁監察官時代の正力松太郎(1918年)
警視庁監察官時代の正力松太郎(1918年)

 大正12年(1923年)12月27日、東京府東京市麹町区虎ノ門外において後に昭和天皇となる皇太子・摂政宮裕仁親王が無政府主義者の難波大助から狙撃を受けた「虎ノ門事件」が発生すると、当時警視庁警務部長の任にあった正力松太郎は暗殺未遂事件を事前に防ぐことができなかったとして引責辞職しました。

 大正13年(1924年)2月25日、正力松太郎は関東大震災後の経営難に直面していた読売新聞社を買収し第7代社長に就任しました。このとき上司だった内務大臣の後藤新平が引責辞任となった正力松太郎のために自宅を抵当に入れて資金を調達しました。正力の社長就任で読売新聞社は現在に至る発展を遂げました。なお、正力松太郎は後藤新平に借金を返済しようと考えていましたが事業が成功し返済の目処がたったときには後藤新平はこの世を去っていました。正力松太郎は恩返しのため後藤新平の故郷の岩手県胆沢郡水沢町に借金の2倍の額を寄付したそうです。水沢町はこの寄付金で昭和16年(1941年)に後藤伯記念公民館を建設、これが日本初の公民館となりました。

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2025年2月24日 (月)

2月24日が閏日だった?(1996年2月24日)

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 現在の閏年はグレゴリオ暦の従っています。次の規則に従って400年間に97回の閏年が設けられることになっています。

  • 西暦年が4で割り切れる年は閏年とする。
  • ただし西暦年が100で割り切れる年は閏年としない。
  • ただし西暦年が400で割り切れる年は閏年とする。

 閏月は2月ですがこれは古代ローマの1年の始まりが3月で2月は1年で最後の月だったことに由来します。そのため2月は他の月よりも日数が少なくなり閏日も2月の最後に付け加えられるようになりました。古代ローマではローマ暦が採用されていました。時代とともにローマ暦も変化しますが、最終的には1年の長さは355日とされ1年の終わりは2月23日でした。月は29日もしくは30日とされました。そして2年ごとに22日間または23日間の閏月が交互に挿入されるようになりました。

 このローマ歴がユリウス暦に改変されるとき月の長さが30日もしくは31日となり1年は365日とされました。2月は28日とされ挿入する閏日も1日のみとなりました。ただし閏日は2月29日とはせずにローマ歴の規則を踏襲しました。ユリウス暦を改変したグレゴリオ暦では閏日を置く日を2月28日の翌日2月29日となりましたが欧州連合やローマ・カトリック教会では歴史的な理由から2月24日を閏日としていました。

2月24日が閏日だった?(1996年2月24日)
2月24日が閏日だった?(1996年2月24日)

 1990年代に欧州連合とカトリック教会は閏日をグレゴリオ暦に合わせることを決めました。1966年2月24日をもって最後の2月24日の閏日とし次回からは2月29日が閏日とされました。

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2025年2月22日 (土)

おでんの起源|おでんの日(2月22日)

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 2月22日は「おでんの日」です。平成19年(2007年)に新潟県のラジオ番組「クチこみラジオ 越後じまんず」の「新潟発の記念日をつくろう」という企画において、おでんを新潟の名物にしようと活動していた「越乃おでん会」が制定しました。おでんの熱々の具を食べるときにフーフーフーと息をふきかけて食べることから「フー(2)フー(2)フー(2)」の語呂合せで2月22日が選ばれました。

おでんの起源|おでんの日
おでんの起源|おでんの日

 さて、おでんは14世紀の室町時代に考案された田楽あるいは豆腐田楽を起源とした料理です。当時の田楽は豆腐などの具を串に刺して焼いたものと煮込んだものがありました。前者は「焼き田楽」、後者は」「煮込み田楽」と呼ばれました。

 江戸時代になると拍子木状に切った豆腐を串に刺して焼いた「豆腐田楽」が庶民の間で広く食べられていました。やがて具にこんにゃくが使われるようになると、こんにゃくの味噌田楽が親しまれるようになり、これが「おでん」と呼ばれるようになりました。

 当時、米と乾燥した大根の葉を炊き込んだ菜飯(なめし)と味噌田楽を一緒に食べる「菜飯田楽」と呼ばれる料理が食べられれていましたが、こんにゃくを煮込んだ「煮込みおでん」が食べられるようになりました。この「煮込みおでん」に他の具が入れられるようになると、この料理が「おでん」と呼ばれるようになったとされています。豆腐やこんにゃくの田楽は「焼きおでん」ではなく田楽と呼ばれるようになりあmした。

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2025年2月 5日 (水)

映画「ジュラシックパーク」に登場するヴェロキラプトルは別の恐竜だった

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 1933年に公開されたスティーヴン・スピルバーグ監督、マイケル・クライトン原作の映画「ジュラシック・パーク」。この映画にはさまざまな恐竜が登場しますが映画後半から存在感が高まりその名が広く知られるようになったのが小型の肉食恐竜「ヴェロキラプトル」です。

映画「ジュラシックパーク」に登場したヴェロキラプトル
映画「ジュラシックパーク」に登場したヴェロキラプトル

 「ヴェロキラプトル」はおよそ8千300万年から7千7万年前の中生代白亜紀後期に東アジアの大陸に生息していた獣脚類の恐竜です。細くてすらりとした小さな体格に比べて頭部が大きく後肢には大きな鋭い鉤爪があります。頭部から尾にかけての体長は約2メートルで体高は約50センチメートル、体重は約15キログラムです。だいたい七面鳥やコヨーテぐらいの大きさです。

 映画「ジュラシック・パーク」に登場した「ヴェロキラプトル」は実際の「ヴェロキラプトル」よりもずいぶん大きな体格をしています。原作の小説「ジュラシック・パーク」には「ラプトル」と呼ばれる小型恐竜が登場しますが記述されている特徴からこの「ラプトル」は「ヴェロキラプトル」と考えられています。

 映画では「ヴェロキラプトル」ではなくより全長およそ3.5メートル、体重およそ100キログラムの「デイノニクス」が採用されましたが、スピルバーグ監督が「ヴェロキラプトル」という名前を気に入り、「デイノニクス」を「ヴェロキラプトル」として登場させた経緯があります。

実際のヴェロキラプトルの大きさ
実際のヴェロキラプトルの大きさ

 映画公開当時は「ヴェロキラプトル」と「デイノニクス」は同属と見なされていましたが現在では異種であることがわかっています。映画では「ヴェロキラプトル」は知能は高く社会性を持ち集団で狩りする恐竜として描かれていますが実際にそのような痕跡を残す化石は見つかっていません。一方の「デイノニクス」は脳が大きく高い知能をもっていた可能性があり、化石が集団で発見されていることが多いことから群れを作り狩りをしていたと考えられています。また映画の公開直前に「ユタラプトル」という「デイノニクス」に似た新種の恐竜が発見されています。「ユタラプトル」は体長およそ7メートル、体重およそ500キログラムで「デイノニクス」より大きな恐竜です。

 結論として映画「ジュラシック・パーク」の「ヴェロキラプトル」は「デイノニクス」であり「ヴェロキラプトル」ではありませんでした。

 

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2024年12月 3日 (火)

紅白幕に対して白黒幕の名前は?

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 結婚式、入学式、卒業式、成人式などの慶事、開店、特売などに用いられる紅白の2色の縦縞模様の紅白幕。

紅白幕
紅白幕

 紅白には2つの意味があります。ひとつは紅白戦や紅白歌合戦などのように対抗する組の色を意味します。これは源平合戦において源氏が白旗、平氏が紅旗を掲げて戦ったことに由来するという説が有力です。もうひとは祝い事の紅白幕や紅白饅頭などのように縁起物の色を意味します。これは赤色が出生を意味し白色が死装束を意味することから紅白は人の一生を意味する、花嫁衣装の色の組み合わせである、祝い事に赤飯を食べるなどのその由来に諸説があります。

 一方、一般に通夜や葬式などの弔事で用いられるのは白黒の2色の縦縞模様の幕です。古くから日本では弔事には白が使われましたが、近年に弔事は黒とする欧米の習慣により白黒の幕が使われるようになったと言われています。一般に広まったのは昭和初期とされています。

鯨幕
鯨幕

 さて、この白黒幕ですが正式な名称は「鯨幕」といいます。鯨の体が黒と白の2色であることや、鯨の皮が黒で脂身が白いことに由来するとさいう説があります。なお「鯨幕」は弔事だけに使われるわけではなく、旧暦の行事、神社の行事、皇室の行事など格式の高い慶事にも使われます。

 

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2024年11月19日 (火)

バスティーユ牢獄で謎の仮面の囚人が死亡|鉄仮面(1703年11月19日)

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 1703年11月19日、フランスのバスティーユ牢獄に収監されていた1人と囚人がこの世を去りました。この人物はルイ14世の時代に捕らえられた政治犯ウスターシュ・ドージェとされています。彼は1669年7月19日に出された逮捕状により同年7月28日に逮捕され8月24日にピネローロ監獄に投獄され監獄長ベニーニュ・ドーヴェルニュ・ド・サン=マルス預りとなりました。サン=マルスはドージェの直接の世話役となり、サン=マルスが他の監獄に転勤になるとドージェも移送されました。サン=マルスとドージェがバスティーユ牢獄にやってきたのは1698年のことです。

ベニーニュ・ドーヴェルニュ・ド・サン=マルス
ベニーニュ・ドーヴェルニュ・ド・サン=マルス

 実は不思議なことにこの政治犯の名前ウスターシュ・ドージェは政府がつけた偽名でした。投獄は厳密に管理され正体が秘匿されました。看守が残した記録によるとドージェは人と会うときには必ず布製のマスクを着用しており丁重な扱いを受けていたとされています。人前でマスクを取ったり、自身の経歴を話したりしたときには射殺するよう命令が出ていました。ですから誰もドージェの素顔を見たものはありませんでした。

 ドージェはサン=マルスによって34年間にわったって拘留され1703年11月19日に獄死しました。ドージェの埋葬証明書には「マルキオリ」と別名が記載されていました。よほど政府はこの政治犯の投獄を極秘にしたかったのでしょう。

版画「鉄仮面の男」(作者不詳、1789年)
版画「鉄仮面の男」(作者不詳、1789年)

 この政治犯の正体には諸説ありますが今以て誰なのかはわかっていません。「マルキオリ」という名前からイタリアの外交官エルコレ・アントニオ・マッティオーリという説があります。またフランスやイギリスの著名な政治家・貴族・軍人、ルイ14世に関係する人物という説もあります。この政治犯が誰であるのか多くの伝説が残されています。後世には多くの小説や映画で「鉄仮面」という題名で取り上げられました。実際には「鉄仮面」は脚色で政治犯は上述の通り布製のマスクを着用していました。

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2024年9月 9日 (月)

そのとき競輪場で何が起きたのか|鳴尾事件(1950年9月9日)

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 かつて兵庫県西宮市に存在した甲子園競輪場。甲子園競輪場は昭和24年(1949年)に兵庫県武庫郡鳴尾村(むこぐん なるおむら)に鳴尾競輪場として開設されました。兵庫県営第1回鳴尾競輪は同年6月28日に開催されました。兵庫県西宮市枝川町9−7に「鳴尾競馬場跡記念碑」があります。 昭和25年(1950年)9月9日、鳴海競馬場で発生したのが鳴尾事件です。いったい何が起こったのでしょうか。

 同年9月3日、関西を直撃した台風によって鳴尾競輪場大きな被害が出ました。開催が危ぶまれましたが収益の全てを災害復興に充当するという名目で災害救援レースが開催されました。

 同年9月9日の第11レース(発送16時50分)において走行中の本命選手の自転車のクランプピンが緩み選手はコースを外れてピンを締め直してレースに復帰しました。この選手はレースをやり直したいと申し出ましたが認められずレースはそのまま続行となり万車券となりました。

 レース中に観客からやり直しを求める怒号があがりレース結果が発表されると一部の観客が走路に出て警察官と押し問答になりました。このとき審査結果がアナウンスされ、原因は選手の手落ちで1ヶ月の謹慎処分にすることが伝えられました。さらに第12レースの車券の販売開始のアナウンスが流れると納得のいかない500名ほどの観客が大声で叫びながら金網を破って走路に侵入しました。レースの続行は不可能と判断され第12レースは開催中止となり車券も払い戻されることになりました。

 しかしながら事態は収まらず多くの観客が暴徒化し待機していた消防車からガソリンを抜いて競輪場の施設に放火しました。また投石により車券売り場の窓ガラスを破壊し内部に侵入し金庫に押しかけました。現金強奪を避けるため現場にいたわずかな警察官が威嚇射撃を行ったところ観客1名が流れ弾で死亡したことから場内は大騒ぎになりました。その後、600名の警察官と若干名のアメリカ陸軍MPが現場に駆けつけ催涙弾を使って暴徒化した観客の一部を逮捕しました。事件が鎮圧されたのは午後8時でしたが、正門付近で納得のいかない観客が暴徒化する恐れがあったため多くの逮捕者が出ました。

 この事件により競輪のイメージが悪くなり、世論では競輪廃止の声が高まりました。当時の吉田茂首相は閣僚と競輪廃止の方針を確認し全国一斉で競輪の2ヶ月間の開催自粛を決定しましたが最終的には競輪は廃止しないことになりました。その後、11月に再開されましたが競輪廃止の声は収まることがありませんでした。様々な改革を行うことで競輪は継続することになり、鳴海競馬場も名称が甲子園競馬場と変更になりました。また競輪は「けいわ」「きょうりん」と呼ばれていましたが「狂輪」「恐輪」と揶揄されたため「けいりん」と呼ばれるようになりました。

 この事件をきっかけとして競輪や競馬などを社会悪と見られるようになり、競輪・競馬の開催は土日に限定されるようになりました。

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