カテゴリー「知る人ぞ知る」の145件の記事

2026年3月15日 (日)

靴の記念日(靴の日)(明治3年 1870年3月15日)

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 日本に洋式の靴が輸入されるようになったのは幕末です。当時は西洋草履などと呼ばれました。西洋草履はサイズが大きく日本人の足には合いませんでした。幕末の洋式軍隊では輸入品の軍靴が使われていましたが、やはりサイズが合いませんでした。幕府はフランス式の洋式陸軍の部隊「伝習隊」を編成するにあたり、軍靴をフランスから輸入しましたが、軍靴が届いたのは幕府が終焉後の明治2年(明治2年)でした。新政府じは横浜の運上所に大量の軍靴を保管しましたが、日本橋や横浜に鉄砲店を開いていた元佐倉藩士で御用商人の伊勢屋勝三こと西村勝三に軍靴の売却を依頼しました。このとき日本陸軍の創始者(陸軍建設の祖)で兵部省初代大輔を努めた大村益次郎が日本人の足に合う洋靴の製造工場の設立を依頼したと伝えられています。

伊勢屋勝三こと西村勝三の銅像
伊勢屋勝三こと西村勝三の銅像

 

 西村勝三は明治3年(1870年)3月15日に築地(東京都中央区入船3丁目20-10)に伊勢勝造靴場を開き靴の製造を始めました。この靴工場の設立を支援したのは佐倉藩の最後の藩主だった堀田正倫と渋澤栄一です。西村は築地に加えて佐倉(千葉県佐倉市)にも士族授産の靴工場の相済社を開き廃藩置県で職を失った旧佐倉藩士を伝習生として靴の製造を行いました。相済社は明治30年(1897年)に解散していますが、その後、伝習生の大塚岩次郎が大塚製靴(大塚製靴株式会社)を開いています。

 「靴の記念日(靴の日)」は日本初の製靴工場の開設を記念して、昭和7年(1932年)に日本靴連盟によって制定されました。伊勢勝造靴場のあった場所には靴業発祥の地の記念碑が同連盟により建立されています。

 伊勢勝造靴場明治17年(1884年)に桜組製靴と改称し、明治35年に日本製靴株式会社となりました。この日本製靴株式会社が現在のリーガル・コーポレーションです。

 なお、 2月22日は「スニーカーの日」、9月28日は「くつやの日」、11月9日は「いい靴の日」とされています。

 

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2026年1月10日 (土)

洋服を男性は右前、女性は左前に着る由来

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 和服(着物)は男性・女性に関わらず右前に着ます。右前は右の衿を先に体に合わせその上から左衿を重ねて着るので、相手から見ると左衿が上側に見えます。右前の「前」とは先に・手前にという意味です。自分から見て右衿が手前にあるので右前となります。和服(着物)が右前で統一されている理由は日本人は昔から右利きが多かったからです。右前に和服(着物)を着ると利き腕の右手を懐に入れやすいためです。右前に着ると懐中の財布や小物をすぐ取り出せます。 日本では和服(着物)を左前に着せるのは死者を弔うときです。これは死者と生者を区別するための習慣とされています。

 一方、洋服の場合は男性は右前、女性は左前に着ます。この由来にはいくつかの説がありますが、もともと西洋は男性・女性に関わらず服を左前で着ていました。中世時代に剣を腰に吊るす剣士や騎士が登場すると、右利きの剣士や騎士は外衣を右前(左側が上側)に着た方が左腰の剣を抜きやすかったため、服を右前で着るようになりました。これが一般に男性の間で広まったとされています。西洋も右利きの人が多く右前の方が利き手でボタンを留めやすいため右前が一般的になったという説もあります。

右利きの剣士は右前のマントの方が剣が抜きやすい
右利きの剣士は右前のマントの方が剣が抜きやすい

 利き手に関係なく女性が左前となったのは、当時の貴婦人はコルセットを着用していたため服を1人で着ることができず使用人に着せてもらっていたことに由来します。使用人が服を着せるときボタンを留めやすい左前が一般的になったとされています。また赤ちゃんを左手に抱えて授乳する際に左前の方が都合が良かったという説もあります。

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2025年12月17日 (水)

シクラメン|シクラメンの花言葉とソロモン王の関係

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 シクラメンはサクラソウ科シクラメン属に属する多年草の球根植物です。冬の鉢花として非常に人気があり華やかな花姿から「冬の女王」とも呼ばれます。贈り物としても喜ばれる花です。 シクラメンの原産地は北アフリカから中近東、ヨーロッパの地中海沿岸地域です。涼しい雨季に開花し、暑い乾季に休眠するという特徴を持っています。日本には明治時代に伝わり大正時代に本格的な栽培が始まりました。日本では10月頃から翌年4月頃まで長期間花を楽しむことができます。シクラメンには冬に室内で楽しまれる大輪系シクラメンと寒さに比較的強く屋外でも育てられる小型のガーデンシクラメンがあります。広く知られているのは大輪系シクラメンです。

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シクラメン

 シクラメンの花は花びらが反り返るように咲きます。花の色は赤・ピンク・白・紫など多様です。その特徴的な形から和名で「篝火花」(かがりびばな)とも呼ばれます。球根が饅頭をつぶしたような形をしていることから「豚の饅頭」(豚の饅頭)とも呼ばれます。豚は欧米で「豚のパン」という別名に由来します。

 シクラメンの花言葉は「内気なはにかみ」ですが、これは旧約聖書に登場する古代イスラエル王国のソロモン王の伝説に由来するとされています。ソロモン王は王冠に花のデザインを採用しようと考え、いろいろな花に願いました。多くの花に断られましたが、シクラメンだけが承諾してました。ソロモン王がシクラメンに感謝の意を伝えるとシクラメンは恥ずかしさと嬉しさでうつむいてしまいました。シクラメンが下向きに花をつけることから作られた伝説と考えられています。

 

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2025年11月16日 (日)

日本橋の銘板が徳川慶喜の揮毫の理由は

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 東京都の流れる日本橋川に架かる日本橋は徳川家康の全国の街道の整備計画の一環で慶長8年3月3日(1603年4月14日)に建造されました。初代の日本橋は木造の太鼓橋でした。

1830年頃の日本橋の浮世絵(歌川広重作)
1830年頃の日本橋の浮世絵(歌川広重作)

 現在の石造の2連アーチの日本橋が架けられたのは明治44年(1911年)4月3日です。

  【参考】日本橋が石橋になる(1911年4月3日)

石橋の日本橋
石橋の日本橋

 日本橋は国の重要文化財に指定されています。橋の四隅の親柱に掲げられた銘板には「日本橋」と刻まれています。その文字は江戸幕府最後の第十五代征夷大将軍の徳川慶喜が揮毫したものです。

日本橋の銘板(揮毫 徳川慶喜)
日本橋の銘板(揮毫 徳川慶喜)

 本来ならば明治政府の高官が揮毫するところですが、当時の東京市長の尾崎行雄の強い意志で慶喜に揮毫を依頼されました。尾崎は慶喜が戊辰戦争で江戸城の無血開城を選んだことから、江戸が戦火を交えずに東京へ移行できたのは慶喜が屈辱に耐えて恭順の姿勢を貫いたおかげであり東京の恩人にこそ揮毫を依頼するべきと考えたと伝えられています。

 【参考】江戸城の無血開城(慶応4年 1868年4月11日)

尾崎行雄 徳川慶喜
尾崎行雄(左)と徳川慶喜(右)

 慶喜の揮毫は江戸から東京への連続性と平和的な変革を象徴するものとなりました。尾崎東京市長は翌年の1912年に退任、慶喜は2年後の1913年に他界しています。

【関連記事】

隅田川に両国橋が架けられる(1659年12月13日)

隅田川の勝鬨橋が完成(1940年6月14日)

瀬戸大橋が開通(昭和63年 1988年4月10日)

レインボーブリッジの開通日(1993年8月26日)

 

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2025年10月17日 (金)

杉玉とは?|酒蔵の軒先に吊るされた球体

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杉玉とは

 酒蔵の軒先に球体が吊るされていることを見た人も多いでしょう。この球体は杉玉(すぎだま)もしくは酒林(さかばやし)と呼ばれるもで杉の葉を集めて球状にした飾りです。杉玉は日本酒の造り酒屋のシンボルとなっていますが様々な意味と役割を持っています。

杉玉|酒蔵の軒先に吊るされた球体
杉玉|酒蔵の軒先に吊るされた球体

杉玉の役割と意味

 杉玉の起源は奈良県桜井市三輪にある酒の神様を祀る大神神社(おおみわじんじゃ)にあるとされます。大神神社の御神体である三輪山には多くの杉が自生しています。杉は御神体の象徴とされ毎年11月14日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で杉玉(酒林)が吊るされます。杉玉には今年も良い酒ができるようにという自然の恵みへの感謝と醸造の安全祈願が込められています。これが各地の酒蔵に広まりました。

 杉玉には新しい酒の出来上がりを知らせる役割があります。新酒が完成すると青々とした新しい杉玉がかけられ新酒ができたことを知らせます。青々とした杉玉は時間の経過とともに色が変化していきます。青々とした緑色の杉玉は初夏を迎える頃に色が薄くなっていきます。これは夏酒の時期になったことを意味します。

新酒の完成を伝える緑色の杉玉
新酒の完成を伝える緑色の杉玉

 秋を迎えると葉が乾燥して茶色に変化します。これは酒が熟成してひやおろしや秋あがりの飲み頃であることを意味します。

ひやおろしや秋あがりの飲み頃を伝える茶色の杉玉
ひやおろしや秋あがりの飲み頃を伝える茶色の杉玉

 このように杉玉は酒蔵の単なる飾りではなく自然への恵みと安全祈願、色の移り変わりで旬の酒を伝える役割があります。近年では日本酒に拘った酒販店や居酒屋でも杉玉を飾る店が増えています。

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2025年5月27日 (火)

「定規」と「物差し」の違い

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 「定規」や「物差し」は普段使用しているときにその違いを意識することはほとんどないと思います。しかし、「定規」と「物差し」は使用目的が異なる道具です。「定規」は直線や曲線を引いたり切ったりする道具で、「物差し」は長さを測る道具です。「定規」と「物差し」の違いは目盛りの 0 の位置がどこにあるかによって見分けることができます。先端からやや内側を0として目盛りが振られているのが「定規」で、先端を0として目盛りが振られているものが「物差し」です。

「定規」と「物差し」の違い
「定規」と「物差し」の違い

 たとえば地面からの高さは「物差し」では簡単に測ることができますが、「定規」ではそのまま測ることができません。また紙の上にある長さの直線を引くとき、「定規」では 0 の位置にペンを置いて線を引き始めることができますが、「物差し」では 0 の位置にペンを置いて線を引き始めるのは容易ではありません。「定規」と「物差し」にはこのような違いがあるのです。

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2025年4月29日 (火)

日本の国歌「君が代」の成り立ち

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 我が国の国家「君が代」の歌詞は平安時代前記の歌集「古今和歌集」に収録されている和歌「我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」に由来します。この和歌は巻七「賀歌」巻頭に読人知らずとして収録されています。「我が君」は特定の人物を指すものではないため当時の帝を意味していたとの解釈があります。

日の丸と貴婦人とともに鳴く雄鶏。竹内桂舟作、1909年
日の丸と貴婦人とともに鳴く雄鶏。竹内桂舟作、1909年

 この和歌は平安時代に紀貫之が撰した「新撰和歌」や藤原公任が撰した「和漢朗詠集」などにも収められ祝賀の歌、朗詠として親しまれるようになりました。「君」は天皇の意味とされていますが、9世紀の光孝天皇は僧で歌人の僧正遍昭の長寿の祝いで「君が八千代」と記しています。つまり「君」は天皇を意味するものではなく祝賀を送る相手の意味でした。この和歌は長寿の祝いや願いを込めて歌われていたのです。安土桃山時代の日蓮宗の僧の隆達にいたっては恋の小唄としています。

 「我が君」が「君が代」と記された最古のものは「和漢朗詠集」の鎌倉時代のものとされています。これ以降は「我が君」と記されているものはほとんど存在しないことから、時代とともに「君が代」と表現されるようになったと考えられています。そして時代が進むに連れて「君」は君主や天皇を意味するようになりました。

 幕末の開国を経て明治維新が起こり戊辰戦争が終結すると、それまで以上に外交が盛んになりました。明治2年(1869年)7月にイギリスのヴィクトリア女王の次男エディンバラ公アルフレッドが来日することが決まると、横浜のイギリス大使館護衛部隊陸軍第10連隊第1大隊軍楽隊長のジョン・ウィリアム・フェントンは日本側に式典では国歌演奏を行うのが慣例と説明しました。しかし当時の日本には国歌どころか国歌という考えがありませんでした。

 翌明治3年(1870年)、フェントンが日本初の薩摩藩の楽団「薩摩バンド」を指導していた関係で、薩摩藩歩兵隊長の大山巌が薩摩琵琶曲「蓬莱山」の一節から「君が代」の歌詞を推薦しました。フェントンは当時の日本の楽団が有する楽器で演奏できるよう作曲し「君が代」が完成しました。同年9月8日、東京の深川越中島に明治天皇の前で薩摩バンドにより初演されました。

初代 君が代 (フェントン作曲) The first version of Japan's national anthem

 しかしながら、フェントンが作曲した「君が代」は西洋的な旋律に慣れ親しんでいない日本人にとっては威厳を欠いているように聞こえました。明治9年(1876年)、海軍楽長の中村祐庸は「君が代」の楽譜を改訂を上申しました。明治13年(1880年)、宮内省伶人長林廣守が雅楽で作曲したものが採用され、これをドイツ人で海軍軍楽教師フランツ・エッケルトが吹奏楽用に編曲しました。改訂された「君が代」は同年に礼式曲とされ事実上の国歌となりました。

 明治26年(1893年)、文部省文部臣井上毅により「君が代」は皇統の永続性を主題とする国歌と告示されました。こうして法的な根拠はないものの「君が代」の「君」は天皇を意味するようになりました。

史上最も美しい「君が代」 / The most beautiful "Kimigayo" ever

 日本の国旗ならびに国歌が法制化されたのは平成11年(1999年)8月13日です。「国旗及び国歌に関する法律」が公布され即日施行されました。日本国憲法において天皇は「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」ことから「君が代」の「君」は天皇をはじめとする国民の長寿と国家の永続を意味するものでもあるでしょう。

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2025年4月 2日 (水)

五百円札の発行(昭和26年 1951年4月2日)

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 第二次世界大戦後の日本では物資が不足したことから物価が高騰しやすい状況にありました。戦時中の金融統制が解かれたため現金を確保するための全国規模で預金の引き出しが起こりました。また政府も物資の調達や復興などに多額な支払いをしていたため市場に多額のお金が流通しました。昭和21年(1946年)2月16日、政府はインフレショーンを防ぎ国民の現金保有を制限するため新紙幣を発行し従来の紙幣流通の停止とする通貨切替政策「新円切替」を発表しました。翌17日、政府は預金封鎖を実施、従来の旧円は強制的に銀行に貯金させ5円以上の旧紙幣の市場流通を差し止めました。さらに一世帯あたり1ヶ月の引き出し額を500円に制限しました。政府は市場に出回るお金を抑制することで物価の上昇を抑えようとしたのです。

 このとき発行されたのが最高額面のA百円券をはじめとするA号券でした。しかしながら「新円切替」でインフレーションを抑えることができずA百円券の発行量が著しく増大しました。緊急的に製作されたA号券は粗末な紙幣だったため偽札が出回るようになりました。そこで政府は昭和25年(1950年)にB千円券を発行しましたがA百円券の流通量は減少しませんでした。そこで政府は昭和26年(1951年)4月2日に千円券と百円券の間にB五百円券を発行しました。

 B五百円券の表面は岩倉具視の肖像が描かれています。この肖像画はイタリアの画家で明治時代にお雇い外国人として来日し西郷隆盛の肖像がなどを描いたエドアルド・キヨッソーネが描いた岩倉具視の肖像がもとになっています。裏面に山梨県側から見た富士山が描かれています。これは写真家の名取久作が山梨県大月市の雁ヶ腹摺山から撮影した写真がもとになっています。

五百円紙幣B号券
五百円紙幣B号券

 昭和44年(1969年)11月1日、新しい印刷技術や偽造防止技術によるC五百円券が発行されました。C五百円券は基本的に岩倉具視と富士山を描かれたB五百円券のデザインを踏襲していますが、見た目で新券とわかるような変更が加えられています。

五百円紙幣C号券
五百円紙幣C号券

 自分が子どもの頃に出回っていたのはC五百円券です。小学生の高学年の頃の月の小遣いが500円でした。毎月一度、岩倉具視と会っていたのですが、当時は500円の肖像画が誰なのかに名前を聞いてもわかりませんでした。

【関連記事】

百円玉が登場(1957年12月11日)

壱万円札が初登場(1958年12月1日)

 

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2025年2月25日 (火)

正力松太郎が読売新聞を買収(大正13年 1924年2月25日)

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 読売新聞というと読売新聞社の社主および読売ジャイアンツの初代オーナーで日本テレビの創業者でもあった正力松太郎氏が育てた新聞として知られています。そのようなことから正力松太郎氏が読売新聞社の創業者と思っている人もいるかもしれません。実際には読売新聞は正力松太郎が誕生した明治18年(1885年〉よりもずっと以前に創業されています。

正力松太郎 (昭和30年1955年9月)
正力松太郎 (昭和30年1955年9月)

 読売新聞は明治7年(1874年)11月2日に読売新聞社の前身の日就社によって「讀賣新聞」として創刊されました。「讀賣」とは江戸時代に瓦版を独特の面白い言い回しで読み上げて販売をしていた販売員「讀賣」のことです。この「讀賣」に因み「讀賣新聞」と名付けられました。創刊号は1枚の紙で表裏2ページでした。創刊号の発行部数は200部とされていますが実際に売れたのは半分以下だったようです。

【参考】読売新聞の創刊日(1874年11月2日)

 以降は隔日発行されました。庶民を読者対象とし漢字によみがなを降るなどの工夫により部数を伸ばし、明治8年(1875年)には日刊紙となりました。同年末には発行部数は1万7千部にもなりました。その後も順調に発行部数を伸ばしました。尾崎紅葉作の小説「金色夜叉」の連載が始まったのは明治30年(1897年)1月1日です。

【参考】「今月今夜の月の日」はどんな月(1897年1月17日)

 大正6年(1917年)12月1日、 「日就社」は社名を「読売新聞社」に変更、大正8年(1919年)1月5日には創刊号から数えて15,000号の発行を達成しました。発行部数も順調に伸ばし1920年代初頭には13万部となっていましたが、大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災により読売新聞社の社屋が炎上し発行部数が5万部にまで落ち込み経営状況は危機的状況となりました。

 正力松太郎は明治44年(1911年)に東京帝国大学法学部を卒業し内閣統計局に入りました。大正2年(1913年)に警視庁に警察官として入るとみるみるうちに出世し大正10年(1921年)には警視庁官房主事となりました。

警視庁監察官時代の正力松太郎(1918年)
警視庁監察官時代の正力松太郎(1918年)

 大正12年(1923年)12月27日、東京府東京市麹町区虎ノ門外において後に昭和天皇となる皇太子・摂政宮裕仁親王が無政府主義者の難波大助から狙撃を受けた「虎ノ門事件」が発生すると、当時警視庁警務部長の任にあった正力松太郎は暗殺未遂事件を事前に防ぐことができなかったとして引責辞職しました。

 大正13年(1924年)2月25日、正力松太郎は関東大震災後の経営難に直面していた読売新聞社を買収し第7代社長に就任しました。このとき上司だった内務大臣の後藤新平が引責辞任となった正力松太郎のために自宅を抵当に入れて資金を調達しました。正力の社長就任で読売新聞社は現在に至る発展を遂げました。なお、正力松太郎は後藤新平に借金を返済しようと考えていましたが事業が成功し返済の目処がたったときには後藤新平はこの世を去っていました。正力松太郎は恩返しのため後藤新平の故郷の岩手県胆沢郡水沢町に借金の2倍の額を寄付したそうです。水沢町はこの寄付金で昭和16年(1941年)に後藤伯記念公民館を建設、これが日本初の公民館となりました。

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2025年2月24日 (月)

2月24日が閏日だった?(1996年2月24日)

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 現在の閏年はグレゴリオ暦の従っています。次の規則に従って400年間に97回の閏年が設けられることになっています。

  • 西暦年が4で割り切れる年は閏年とする。
  • ただし西暦年が100で割り切れる年は閏年としない。
  • ただし西暦年が400で割り切れる年は閏年とする。

 閏月は2月ですがこれは古代ローマの1年の始まりが3月で2月は1年で最後の月だったことに由来します。そのため2月は他の月よりも日数が少なくなり閏日も2月の最後に付け加えられるようになりました。古代ローマではローマ暦が採用されていました。時代とともにローマ暦も変化しますが、最終的には1年の長さは355日とされ1年の終わりは2月23日でした。月は29日もしくは30日とされました。そして2年ごとに22日間または23日間の閏月が交互に挿入されるようになりました。

 このローマ歴がユリウス暦に改変されるとき月の長さが30日もしくは31日となり1年は365日とされました。2月は28日とされ挿入する閏日も1日のみとなりました。ただし閏日は2月29日とはせずにローマ歴の規則を踏襲しました。ユリウス暦を改変したグレゴリオ暦では閏日を置く日を2月28日の翌日2月29日となりましたが欧州連合やローマ・カトリック教会では歴史的な理由から2月24日を閏日としていました。

2月24日が閏日だった?(1996年2月24日)
2月24日が閏日だった?(1996年2月24日)

 1990年代に欧州連合とカトリック教会は閏日をグレゴリオ暦に合わせることを決めました。1966年2月24日をもって最後の2月24日の閏日とし次回からは2月29日が閏日とされました。

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