カテゴリー「特撮のネタ」の182件の記事

2023年5月25日 (木)

映画「スターウォーズ ジェダイの復讐」米国公開(1983年5月25日)

 映画「スター・ウォーズ」の第1作目が米国で公開されたのは1977年5月25日です。そして第2作目の「スター・ウォーズ帝国の逆襲」が米国で公開されたのは1980年5月21日です。「スター・ウォーズ帝国の逆襲」ではダース・ベイダーがルーク・スカイウォーカーの父親であることが明かされ、そしてハン・ソロはカーボン冷凍されて連れ去られ、手首を切られたルークがレイアとのテレパシーで間一髪で救われます。ルークは義手を移植し、ランド・カルリシアンとチューバッカはファルコン号でソロの救出に向かいます。第2作目の>物語はこれで終了するのですが続編のなかった公開当時は何とも中途半端な終わり方な感じがしてその印象を引きずっていました。

 第2作から3年後の1983年5月25日に第3作目「スターウォーズ ジェダイの復讐」が米国で公開され、同年7月2日に日本で公開されました。第2作目のもやもやとした中途半端感を解消するためにも公開後すぐに映画館に行きました。

Retrunofthejedi

 第3作目はR2D2とC3POがルークの使者としてタトゥーインのジャバ・ザ・ハットの宮殿を訪れるとこから始まります。ジャバはルークとの交渉を拒否しR2D2とC3POを捕まえます。その後、レイア姫が扮する賞金稼ぎがチューバッカを捕まえたとやって来ます。レイアはハン・ソロを解凍しますが、ジャバはお見通しで2人を捕まえます。そこにジェダイの騎士となったルークが現れますが、ルークも捕まってしまいハン・ソロと一緒に処刑場に送られます。ルークとハン・ソロは処刑場で反撃、ランド・カロリシアンも加勢、ジャバはレイアによって倒されます。ハン・ソロの救出作戦は成功し、一行はタトゥーインを後にします。このあっという間の展開で第2作目から3年間持ち続けていたもやもや感は吹き飛んでしまいました。

 そしてルークがマスター・ヨーダを訪れ修行の続きを求めるとヨーダは既にその必要がないと息を引き取ります。半ば放心状態のルークの前に現れたのは肉体を消滅させてフォースと一体となったオビ・ワン・ケノービでした。オビ・ワンはダース・ベイダーがルークの父親のアナキン・スカイウォーカーであること、レイアがルークの妹でフォースを使うことができるもう1人のスカイウォーカーであることを明かします。これで3年間のもやもやがさらに解消したのです。その後、一行は帝国軍の再建中の第2デス・スターを破壊するためエンドアに移動し、そこでイォークと共闘して帝国軍と戦います。ベイダーがいることを悟ったルークは単身で帝国軍に向かったのです。

 3年ぶりに見たスター・ウォーズはこれまで明かされなかった秘密が解き明かされて十分満足できるものでした。これは第2作目のもやもや感が晴れたことによるものだと思います。全ての作品を通して見られる現在においてはそのようなもやもや感はないでしょうからまた違う感想となったかもしれません。

 さて現在は第3作目のタイトルは「ジェダイの帰還」となっています。英語版は昔から「Return of the Jedi」でした。実は英語版のタイトルはもともと「Return of the Jedi」でしたがインパクトが弱いという理由で「 Revenge of the Jedi」に変更となりました。このタイトルが発表されて準備が進められたのですが、ルーカスが公開前の1982年12月にジェダイは復讐を求めるべきではない、リベンジはそぐわないとして元のタイトル「Return of the Jedi」に戻しました。既に製作されていた英語版のポスターは回収されましたが、日本では関連商品が生産が進んでいたことから日本語のタイトルは「ジェダイの帰還」のままとしたのです。自分が「Return of the Jedi」のReturnが復讐という意味ではないと知ったのはずいぶん後のことでした。

【関連記事】映画「スターウォーズ ジェダイの復讐」米国公開(1983年5月25日)

映画「スターウォーズ」米国公開(1977年5月25日)

映画「スター・ウォーズ帝国の逆襲」米国公開( 1980年5月21日)

スターウォーズの日(5月4日)

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2023年5月21日 (日)

映画「スター・ウォーズ帝国の逆襲」米国公開( 1980年5月21日)

 映画「スター・ウォーズ」の第1作目が米国で公開されたのは1977年5月25日です。この第1作目は試写会で酷評されジョージ・ルーカス監督は巨額の製作費をかけた映画が大失敗になることを予想しすっかり落ち込んでしまったそうです。ところが公開直後から「スター・ウォーズ」は大人気となり、試写会の酷評とルーカスの予想とはまったく異なる展開になりました。第1作目が日本で公開されたのは米国公開から1年以上経過した1978年7月1日でしたが、「スター・ウォーズ」は日本でも大人気となりました。

 第2作目の「スター・ウォーズ帝国の逆襲」が米国で公開されたのは1980年5月21日です。第2作目の日本での公開は第1作目とは異なり、わずか1ヶ月後の1980年6月28日に公開されました。第2作目は物語が掘り下げられ、スノー・ウォーカーの登場など特撮も一段と凝っていました。野生生物のトーントーンやワンパも良く出来ていました。ジャバ・ザ・ハット、ヨーダ、ボバ・フェット、パルパティーン皇帝/ダース・シディアスなどのキャラクターが登場します。

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 当時、自分は第2作目の公開が決まると前売り券を何枚か買って映画館に通って見ることにしました。第1作目に比べて特撮が洗練されていたことに感動したことを覚えています。物語はダース・ベイダーがルークの父親であることを告白するなど、ずいぶん奥深いものとなりましたが当時の自分は物語より特撮映像にはまって見ていたように記憶しています。第1作目はデススターを破壊しルーク、ソロ、チューバッカの3人がレイアから勲章を授与されるというわかりやすい結末でしたが、第2作目はソロがカーボン冷凍され、ルークがクラウドシティーの下部にぶらさがっているところを救出されるなど、この後いったいどうなるの?と中途半端な結末でした。第3作目を知らない当時は中途半端な結末に少し不満を感じたことを覚えています。この不満は第3作目を見たときに一気に瓦解しました。

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2023年5月19日 (金)

【おもしろ映像】ジェダイのリー|もしブルース・リーがジェダイマスターだったら

 ジェダイの騎士の武器と言えば「ライトセイバー」です。通常の「ライトセーバー」は剣型ですが、ダース・モールが使っていたのは「ダブルブレード・ライトセーバー」は棒状の双刃のライトセーバーです。ドゥークー伯爵が使っていた「カーブ=ヒルト・ライトセーバー」は枝の部分が湾曲した剣型です。カイロ・レンは剣の鍔から短い刃が出るクロスガード・ライトセーバーを使っていました。他にも刃が短いものや日本刀のようなライトセーバーがあります。

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 しかし、あの形状のライトセイバーは見たことがありません。もしブルース・リーがジェダイマスターならあらゆる武器がライトセイバー化したのでしょう。もちろん、あの武器もです。

JEDI MASTER BRUCE LEE!

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ブルース・リーの誕生日(1940年11月27日)

映画「燃えよドラゴン」日本公開(1973年12月22日)

BRUCE LEE'S NUNCHAKU IN ACTION

映画「ブルース・リー 死亡遊戯」日本公開(1978年4月15日)

ブルース・リー 死亡遊戯ワイド特集号 月刊スクリーン 1978年5月号臨時増刊

ブルース・リー最新特集号 月刊スクリーン 1979年9月号臨時増刊

ブルース・リー 映画「死亡遊戯」のパンフレット BRUCE LEE'S GAME OF DEATH

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2023年5月13日 (土)

映画「アンドリューNDR114」日本公開(2000年5月13日)

 映画「アンドリューNDR114」は1999年に公開された米国のSF映画です。クリス・コロンバス監督作品、主演はアンドリューを演じたロビン・ウィリアムズです。この映画の原題は原作アイザック・アシモフの「Bicentennial Man(二百年男)」のままですが、日本語版は主人公のアンドロイドの名前「アンドリューNDR114」を題目として公開されました。

 原作のアイザック・アシモフは多数のSF小説を著作していますが最初のロボット小説は1950年に発表された短編集「われはロボット(I, Robot)」です。これ以前のロボット小説と言えば人間がロボットを製作しそのロボットが人間を襲うという内容が定番でした。アシモフはロボットを創造する人間の憧れと、これに反して創造主たる人間がロボットに滅ぼされるという懸念をメアリー・シェリー作の小説「フランケンシュタイン」に因みフランケンシュタイン・コンプレックスと名付けました。そして、アシモフは「われはロボット」で人間と共生共存しフランケンシュタイン・コンプレックスに対する規範で行動するロボット像を示しました。この小説に目を通したSF作家で編集担当のジョン・ウッド・キャンベル・ジュニアはアシモフが描くロボットの行動に共通点を見つけ指摘しました。そしてアシモフとキャンベルはフランケンシュタイン・コンプレックスに対する安全機能として「ロボット三原則」を見い出しました。

 ロボット三原則は「人間に危害を及ぼさない」「人間への命令への服従」「、ロボット自身の自己防衛」の3つの原則から成り、次のように定義されます。

ロボット三原則】

・第一条 

 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

・第二条 

 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

・第三条 

 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。

---

 アシモフの小説において「ロボット三原則」はロボットの行動原理です。この原理に従って行動するロボットは上記の3条の競合によりその行動にしばしば懸念を生じさせます。ロボットが人間から見て理不尽な行動をしたとしても、その行動の理由は上記の3条に従ったものです。アシモフはその非合理的な行動をロボット自身とロボット三原則にフォーカスして解き明かしていきます。そして、その後の作品ではロボットを利用したい人間の利害が絡むようになり、人間とは何か、命とは何かまで踏み込んでいくのです。

 映画「アンドリューNDR114」の原作となった 「二百年男(Bicentennial Man)」はアシモフが1976年に発表した小説です。最初の「われはロボット(I, Robot)」の発表から26年後の作品です。

 とある家庭で父親が買ってきた家事ロボットNDR114。娘のアマンダにアンドリューと名付けられたNDR114は家族と一緒に生活を始めます。アンドリューの身体は鋼鉄に包まれていましたがその人工知能は人間らしい創造力を持っていました。アンドリューはその創造力で自立した生活ができるようになります。永遠に作動するアンドリューは自身に影響を与え寿命を迎えた人間たちと次々と別れる人生を繰り返します。アンドリューがどのように考え、どのように行動し、どのようにに過ごしたのか。アシモフはアンドリューの葛藤と悲哀を通じで命とは何か、生きるとはどういうことかを描きます。

 その後のアンドリューの物語を下記に記しますが映画をご覧になることをおすすめします。自分は物語に加えてロビン・ウイリアムズの名演技に感銘しました。

---
 月日は流れ科学と技術は発展、アンドリューは自身の発明した生体に適合する人工臓器や人工皮膚により、どんどん人間らしい姿になっていました。やがて、その人工臓器は人間の治療にも使われるようになり、アンドリューは人間と自身の区別に疑問を持つようになり、なぜ自分は人間ではないのかと考えるようになりました。

 アンドリューはアマンダの孫娘ポーシャと出会い2人は愛し合うようになっていました。アンドリューは人間として生きていくことを望みますが法廷はそれを認めません。

 アンドリューと人間の違いは人工知能か脳かです。これは大きな違いですが、それよりも大きな違いは人間は寿命を迎えて死ぬがアンドリューは死なないということでした。

 人類は長寿の薬を手に入れます。ポーシャはその薬を飲み2人は平和な日々を送ります。しかし、やがてポーシャは長生きに疲れ、薬を止めて死を選ぶことを決意します。アンドリューも人間になるために死を選びます。人間の血液を輸血し、血液の凝固で自身の機能を停止することにしました。これによってアンドリューの人工皮膚や人工臓器は老化現象を起こし、アンドリューは見た目もすっかり老人になったのです。

 老人となったアンドリューは再び法廷に立ち自分は人間であると主張します。法廷でどこが人間なのかと問われたアンドリューは自分の胸を指差します。

 判決の日、アンドリューとポーシャはテレビを見ていました。死を覚悟して法廷に臨んだアンドリューに対して、ついに法廷はアンドリューは200年間という歴史上最も長生きをした人間であることを認めまたのです。それと同時にアンドリューの機能は停止し本当の永遠の眠りについたのです。

 ポーシャは自身を看護していた人間の姿をしたロボットのガラテアに生命維持装置を停めるように言います。ガラテアは生命維持装置のスイッチを切り「お役に立てて光栄です」とアンドリューの口癖を言います。アンドリューの手を取りながらポーシャも永遠の眠りについたのです。

【関連記事】映画「アンドリューNDR114」日本公開(2000年5月13日)

真実の口の真実

映画の日(1896年12月1日)

チャーリーのルーツ|チャップリンの日(1889年4月16日)

チャーリー・チャップリン生まれる 映画「独裁者」の演説の内容

映画「街の灯」米国で公開(1931年2月6日)

映画「明日に向かって撃て!」の2人の最期(1908年11月7日)

ミッキー・マウス初登場(1928年11月18日)

ミッキー・マウス「プレーン・クレイジー」に登場(1928年5月15日)

ドナルドダック登場(1934年6月9日)

映画「ローマの休日」が日本で公開(1954年4月21日)

映画「七人の侍」公開(1954年4月26日)

ゴジラの日 1954年11月3日(昭和29年)

西部劇「ローハイド」が日本で放送開始(1959年11月28日)

映画「大脱走」公開(1963年7月4日) 

映画「2001年宇宙の旅」一般公開(1968/04/06)

「男はつらいよ」の日(1969年8月27日)

映画「ウエストワールド」公開(1973年11月21日)

映画「燃えよドラゴン」日本公開(1973年12月22日)

映画「スターウォーズ」米国公開(1977年5月25日)

映画「未知との遭遇」日本公開(1978年2月25日)

映画「JAWS」公開(1975年6月20日)

映画「1941」日本公開(1980年3月29日)

映画「ターミネーター」米国公開(1984年10月26日)

映画「ネバーエンディング・ストーリー」日本公開(1985年3月16日)

映画「スターゲイト」日本公開(1995年4月1日)

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2023年4月15日 (土)

映画「ブルース・リー 死亡遊戯」日本公開(1978年4月15日)

 映画「死亡遊戯」(The Game of Death)はゴールデン・ハーベスト制作、ロバート・クローズ監督、ブルース・リー主演の1978年公開の香港映画です。

ブルース・リー 映画「死亡遊戯」のパンフレット
ブルース・リー 映画「死亡遊戯」のパンフレット

 ブルース・リーは1972年「ドラゴンへの道」に続く自身の監督作品として「死亡的遊戯」の構想を重ね1972年秋に撮影を開始しました。「死亡的遊戯」の原案は主役の格闘家がある塔を登って行き各階にいる格闘家と対戦していくというものでしたがストーリーはできていませんでした。ブルース・リーは撮影を重ねながら台本を作成していたとされています。このときワーナー・ブラザーズ社からハリウッド映画「燃えよドラゴン」の企画が持ち上がり、ブルース・リーは「死亡的遊戯」の撮影を中断、1973年1月から「燃えよドラゴン」の撮影に入りました。

 「燃えよドラゴン」は香港で1973年7月26日、米国で同年8月17日、日本で同年12月22日に公開されましたが、ブルース・リー自身は公開前の同年7月20日に32歳の若さでこの世を去りました。「死亡的遊戯」の台本は「燃えよドラゴン」の撮影終了後には完成していたと言われていますがその所在は不明となっています。

 日本でブルース・リーの遺作となった「燃えよドラゴン」が人気になると過去のブルース・リー主演映画「ドラゴン危機一発」(制作1971年、日本公開1974年4月13日)、「ドラゴン怒りの鉄拳」(制作1972年、日本公開1974年7月20日)が公開、そして最後のブルース・リーとして「ドラゴンへの道」(制作1972年、日本公開1975年1月25日)が公開されました。これらの作品で主役のブルース・リーが「燃えよドラゴン」に比べて若々しかったのはブルース・リー自身が若くて元気だったからでしょう。

 ブルース・リーとドラゴンシリーズは日本で大人気になりブロマイドやキャラクター商品など販売されましたが当のブルース・リーはこの世にいなかったのです。香港のカンフー映画、日本の倉田保昭さん主演の和製ドラゴンのテレビドラマ、Gメン'75香港空手シリーズ、志穂美悦子さんの女ドラゴンの映画などが人気となりました。ブルース・リーの人気は絶えることなく当時の映画雑誌「スクリーン」や「ロードショー」に写真が掲載されたり特集号が組まれました。

 当時、自分はブルース・リーの映画はもうないだろうと思っていましたが、やがて映画雑誌で「死亡的遊戯」の残されたフィルムが話題になりどうやらブルース・リーの映画が制作されるらしいという記事を読みました。映画の題名は「死亡的遊戯」と紹介されていたように思いますが公開が近くになると「ブルース・リー死亡遊戯」となり「的」がなくなりました。

 公開前にチケットショップで前売り券を買い、公開日は友人と数人で朝から映画館に行きました。当時は映画終了後に観客の入れ替えなどなかったので2回見ました。ブルース・リーにさらに魅了されてしまいました。映画館を出てチケットショップを再び訪れ余っていた前売り券を購入し次の週に同じメンバーで再び見に行きました。このときも2回見た記憶があります。

Gameofdeath3

 「死亡遊戯」の制作でブルース・リー本人が演じているのはラストシーンの映像だけです。「死亡遊戯」はこれに過去のブルース・リーの映像とブルース・リーの代役の映像を組み合わせて制作されました。最初はあまり気にせずに見ていましたが、ラストシーンになると映像の雰囲気がすっかり変わり、なんとも言えない緊張感が走ったことを良く覚えています。しかし、代役もそれなりにうまく演じていたので、どのシーンで誰が演じているのかわかったのは後年にビデオを入手したときです。どこで過去の映像が使われているのかなどを確認するため何度も見直しました。たとえば冒頭でスタイナーが鏡の中のリーの顔にナイフを仕込んだ杖を突きつけますが、あのシーンに使われているリーの顔は映像ではなくて写真をはめ込んでいます。

 「死亡遊戯」は世界的にはそれほどヒットしませんでしたが日本では大ヒットしました。「燃えよドラゴン」公開時に小学生だった子どもたちは「死亡遊戯」の公開には中学生になっていました。「死亡遊戯」がブルース・リーファンの世代を若年層にまで広げたことは間違いありません。

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ブルース・リーの誕生日(1940年11月27日)

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2023年4月10日 (月)

「サンダーバード」が日本で放映開始(1966年4月10日)

 テレビドラマ「サンダーバード」はジェリー・アンダーソンとシルビア・アンダーソンのAPフィルムズによって1965年に制作されたイギリスのSF特撮ドラマです。前作の「海底大戦争スティングレイ」に続くスーパーマリオネーションと呼ばれる吊り人形とスケールモデルを組み合わせた当時としては画期的な特撮ドラマでした。

Thunderbirds

 「サンダーバード」は1963年にドイツのマチルド鉱山で発生した浸水落盤事故の救助活動「レンゲデの奇跡」にヒントを得て企画されました。「レンゲデの奇跡」は地下60mに閉じ込められた11人の救出活動です。まず直径6cmの穴を掘って水や食料などを送りさらに直径62cmの穴を掘って11人をカプセルを使って次々と引き上げました。この救出活動を参考にジェリー・アンダーソンが国際救助隊が先進的なスーパーメカを使って世界各地で発生する災害や事故の救助活動を行う物語を発案したのです。

「サンダーバード」が日本で放映開始となったのは昭和41年(1966年)4月10日です。日本では円谷プロダクションの「ウルトラQ」(同年1月2日~7月3日)が放送中で本格的な特撮ドラマの人気が高まっていました。

 「サンダーバード」は人形劇ですが人形やスーパーメカが細部にわたるまで作り込まれており特撮も大がかりなものでした。サンダーバード1号から5号までの出動シーン、2号に搭載された特殊メカ、災害や事故を起こしたメカや現場の様子など非常にリアルに再現されました。

 「サンダーバード」は制作費も十分にかけられていましたから当時の日本の特撮ドラマは大きく差をつけられましたが、制作費だけではなく特撮のアイデアや技術もひと味違いました。「サンダーバード」は子どもたちの心を鷲づかみにするだけでなく、円谷プロダクションのスタッフも大いにに参考にしました。その結果として制作されたのが「ウルトラセブン」でした。

【関連記事】「サンダーバード」が日本で放映開始(1966年4月10日)

ゴジラの日 1954年11月3日(昭和29年)

ウルトラQ放送開始(1966年1月2日)

ウルトラマンの日(1966年7月10日)

キャプテン・ウルトラ放送開始(1967年4月16日)

ウルトラセブン放送開始の日(1967年10月1日)

帰って来たウルトラマン放送開始(1971年4月2日)

朝焼けの光の中に|ミラーマン登場(1971年12月5日)

映画「スターウォーズ」米国公開(1977年5月25日)

 

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2023年4月 5日 (水)

特撮テレビドラマ「秘密戦隊ゴレンジャー」放送開始(1975年4月5日)

 1970年代、仮面ライダーをはじめとする石ノ森章太郎原作の多くの変身ヒーローが生まれ特撮テレビドラマが放送されました。これらの特撮テレビドラマのヒーローの多くは悪と一人で戦う孤高のヒーローでした。仮面ライダーのようにシリーズとなって複数のヒーローが登場することもありましたが、あくまでも主役は1人でした。

 変身ヒーローが活躍する特撮ドラマにチームで戦うという概念を加え最初から複数のヒーローを登場させたのが1975年4月5日に放送開始された「秘密戦隊ゴレンジャー」です。チームを「戦隊」と位置づけたのも画期的でした。

 しかし、よく考えてみると石ノ森章太郎作品で複数で戦うヒーローを描いた草分け的な人気作品は「サイボーグ009」です。そして石ノ森章太郎先生はレインボー戦隊ロビンでは藤子不二雄先生とともにキャラクターデザインをしています。そういう意味では複数のヒーローが戦う、チームを戦隊とするというには「秘密戦隊ゴレンジャー」が最初だったというわけではありません。また当時の子どもたちはテレビアニメの「科学忍者隊ガッチャマン」や特撮ドラマ「トリプルファイター」を知っていました。それでも「秘密戦隊ゴレンジャー」の設定やストーリー展開は斬新で大人気となりました。

 赤・青・黄・緑・桃といった色を取り入れたところは「仮面の忍者赤影」のようでもありヒーローの個性をわかりやすくしました。さらに、それぞれのヒーローは特殊能力や独自の武器をもち、黒十字軍とチームで戦うときには合体技を使ったり大型メカを使ったりします。「5人揃ってゴレンジャー」ですから「ゴレンジャーごっこ」も皆で遊べました。

 「秘密戦隊ゴレンジャー」は放送当初は「仮面ライダー」のようにシリアスな展開が多かったのですが、次第にギャグやパロディも取り入れられるようになりました。黒十字軍の怪人もコミカルな設定のものが登場するようになり、なんでも仮面つければいいってもんじゃないよみたいな感じになっていましたが、え~これを仮面にしちゃうのという楽しみもありました。このコミカル路線は大成功だったと思います。後の戦隊シリーズや仮面ライダーに面白さを加えるきっかけとなりました。

 さて「秘密戦隊ゴレンジャー」が終了すると「ジャッカー電撃隊」の放送が1977年に始まりました。東映は1978年にマーベルのスパイダーマンを主役として巨大ロボットを登場させる特撮テレビドラマ「スパイダーマン」を制作しています。「ジャッカー電撃隊」が終了するとマーベルと提携した「バトルフィーバーJ」が1979年に始まり、1980年には東映独自の「電子戦隊デンジマン」が放送されました。スーパー戦隊が冠されたのは「太陽戦隊サンバルカン」からです。

 このような背景もあり当初は「秘密戦隊ゴレンジャー」と「ジャッカー電撃隊」がスーパー戦隊シリーズに含まれておらずシリーズ第一作は「バトルフィーバーJ」とされていました。しかし1990年代に入ると「秘密戦隊ゴレンジャー」と「ジャッカー電撃隊」は外せないということになり「秘密戦隊ゴレンジャー」がスーパー戦隊シリーズの第一作とされました。当時リアルタイムで「秘密戦隊ゴレンジャー」を見ていた世代からすると、スーパー戦隊シリーズから外れていたことの方が違和感がありました。

ゴレンジャーのバンバラバンバンバン

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愛の戦士 レインボーマン|虹色|光と色のヒーロー列伝⑥

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2023年4月 2日 (日)

帰って来たウルトラマン放送開始(1971年4月2日)

 「またウルトラマンが始まるらしいぞ!」「ウソ!」「ほらこれに書いてある!」「あっ!ほんとだ!」

 昭和46年(1970年)の終わり頃から翌年の初めにかけて友達とこんなやり取りをした人も少なくないでしょう。「帰って来たウルトラマン」の放送前に学年雑誌などの記事でウルトラマンが再び始まることが紹介されたのです。

初代ウルトラマンと帰ってきたウルトラマン
初代ウルトラマンと帰ってきたウルトラマン

 「ウルトラマン」が放送されたのは昭和41年(1966年)から昭和42年(1967年)、「ウルトラセブン」が放送されたのは昭和42年(1967年)から昭和43年(1968年)です。「ウルトラセブン」が終了後に始まったのが「怪奇大作戦」でした。「怪奇大作戦」は昭和43年(1968年)から昭和44年(1969年)まで放送されたSF怪奇ドラマです。科学捜査研究所の隊員たちが怪奇現象と科学犯罪に立ち向かう物語です。これはこれで面白かったのですがウルトラマンのような巨大ヒーローも怪獣も登場しません。ウルトラマンと怪獣が大好きだった子どもたちはちょっと寂しかったのです。

 その子どもたちの気持ちに応えるべく昭和45年(1970年)に始まったのが「ウルトラファイト」でした。「ウルトラファイト」にはウルトラマン、ウルトラセブン、そして多くの怪獣が登場します。しかしドラマ性はほとんどなくプロレスを見ているような感じでした。面白かったのですがウルトラマンと怪獣好きな子どもたちにはちょっと中途半端感がありました。やはり「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」のような特撮ドラマでヒーローや怪獣の活躍が見たかったのです。

 そのような中で伝わっってきたのが新しい番組「帰って来たウルトラマン」。子どもたちの間で盛り上がるのは当然のことでした。当初は断片的な情報しか公開されていませんでしたので「帰って来たウルトラマン」への期待はどんどん膨らんでいきました。

 最初の情報では「帰って来たウルトラマン」は初代ウルトラマンが帰って来たという設定でした。どのように帰って来るのかハヤタはどうなるのかなどが話題になりました。ところが途中で帰って来たウルトラマンは初代ウルトラマンとは身体の模様が違い、どうやら別人のようだということがわかったのです。3人目のウルトラマンということで期待がさらに膨らみましたが、別人の設定になった理由が玩具の販促など大人の事情だったことは大人になってから知ったことです。

 初代ウルトラマンは昔ながらのスパッツ(トランクス)、帰って来たウルトラマンは最近のパンツ(ブリーフ)、帰ってきたウルトラマンの模様のラインには縁取りがある、番組が始まる前にいろいろな違いを探したものです。しかし、その比較は雑誌に掲載されていたイラストによるものが多く実際に帰って来たウルトラマンの写真を見たのはずいぶん後になってからです。

レコード「仮面ライダーvs帰ってきたウルトラマン
レコード「仮面ライダーvs帰ってきたウルトラマン"」

 ウルトラマンと言えばもちろんハヤタが変身するウルトラマンでしたが帰ってきたウルトラマンが始まるとウルトラマンは郷秀樹が変身するウルトラマンのことになり、ハヤタが変身するウルトラマンが登場すると初代ウルトラマンと呼ばれるようになりました。帰ってきたウルトラマンは歌舞伎役者や落語家みたいに二代目ウルトラマンという感じで違和感はありませんでした。その後、ウルトラマンジャックという名前がつけられましたがこれは賛否両論でした。ウルトラ兄弟の基礎を造ったのは帰ってきたウルトラマンです。その後のエース、タロウ、レオに続いてウルトラ兄弟の客演が増えていきました。識別するのにジャックという名前をつけたというのもわからないでもありません。

 さてハヤタはウルトラマンと分離し地球に残り、ダンはウルトラセブンそのもので宇宙へ帰り、郷秀樹は帰って来たウルトラマンと分離することなく宇宙へ帰って行った。最終回では郷秀樹は次郎とルミ子に「平和の故郷を戦争に巻き込もうとしているやつらがいる。だから手助けにいくのだ」と言って宇宙へ帰って行きました。

 郷秀樹は次郎にウルトラ5つの誓いを言うように言いますが次郎は拒みました。それを言ってしまったら郷秀樹と別れてしまわなければならないと思ったのでしょう。郷秀樹が海岸で両手をあげウルトラマンに変身し宇宙へ飛び立つと次郎は思わず飛んでいくウルトラマンを追いかけるように走り出してウルトラ5の誓いを叫びました。

一つ、腹ペコのまま学校へ行かぬこと

一つ、天気のいい日に布団を干すこと

一つ、道を歩く時には車に気をつけること

一つ、他人の力を頼りにしないこと

一つ、土の上を裸足で走り回って遊ぶこと

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仮面ライダーvs帰ってきたウルトラマン

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ウルトラマンとお別れの日(1967年4月9日)

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2023年4月 1日 (土)

映画「スターゲイト」日本公開(1995年4月1日)

 映画「スターゲイト」(Stargate)は米国で1994年10月28日に公開されたアメリカのSF映画です。この映画はローランド・エメリッヒが若い頃に思い付いたアイデアが元になっています。1992年に同監督の映画「ユニバーサル・ソルジャー」が製作総指揮のマリオ・カサールに高く評価されたことから「スターゲイト」の製作が決まりました。

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 エジプトの遺跡から謎の文字が刻まれた巨大な石輪が発見され、アメリカ空軍による長年の研究にも関わらず文字の意味や石輪の用途は謎のままでした。この石輪を発掘したC・P・ラングフォード教授の娘で当時発掘にも同行していたキャサリン・ラングフォード博士はエジプト考古学で異端扱いされていたダニエル・ジャクソン博士を研究者として登用、ダニエルはついに石輪の謎を解き明かします。

 石輪は宇宙空間を飛び越えて星間をつなぐ「スターゲイト」であり、アメリカ空軍は秘密裏に探索チームを編成しゲートの先に送り込ました。この部隊の責任者はジャック・オニール大佐、多言語を理解できるダニエルも部隊に加わり一緒に旅立ちました。部隊は瞬時に古代エジプトの遺跡によく似た場所へ到着し、人々が古代エジプトの太陽神ラーを名乗る生命体に支配されていること、その人々の祖先が地球から連れ去られていたことが判明します。オニール大佐率いる部隊はダニエルの知恵を借りながら人々とともにラーとの戦いを開始します。

 映画「スターゲイト」が日本で公開されたのは1995年4月1日です。この映画を初めて見たとき、この物語が本当にあった出来事かのように感じました。古代エジプトの神々と宇宙人の設定など原作および脚本がしっかりしていたからだと思います。何度も見直して物語の理解を深めるように鑑賞しました。

 宇宙空間を飛び越えて星々を旅することができる「スターゲイト」。「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」「STAR WARS」などを見ていたのでこれは絶対に続編ができると思っていました。予想していた通り1997年に続編として長編のテレビドラマ「スターゲイト SG-1」が始まりました。文化の異なる星々を訪れ壮大な物語が進みます。全話見てしまいました。その後「スターゲイト アトランティス」などの巣ピノ夫作品も製作されました。映画「スターゲイト」は多くの物語を生み出しました。

 また「スターゲイト」の物語をきっかけとして古代エジプトの考古学への興味も深まりました。古代エジプトはオカルト、SF的な印象がありましたが、いろいろ勉強しているうちにファラオ、ピラミッド、スフィンクスの秘密などがわかりオカルトやSF的なことはどんどん排除されていきました。

Pv

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映画「スターゲイト」日本公開(1995年4月1日)

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2023年3月20日 (月)

小説「日本沈没」刊行(1973年3月20日)

 小説「日本沈没」は1973年3月20日に光文社カッパ・ノベルスで刊行された小松左京原作のSF小説です。

 小松さんはこの小説を昭和39年(1964年)に執筆を開始し9年後の1973年に書き上げました。小松さんがこの小説に9年もの歳月をかけたのは日本を沈没させるような地殻変動や大地震を入念に調べてシュミレーションを行ったからだそうです。日本沈没はフィクションではあるが、フィクションだからこそ緻密に描く必要があるという考えに基づいて執筆が進められたのだと思います。

 最初に書き上げた「日本沈没」は複数巻にもなる長編小説でしたが出版にあたって上下巻にまとめられました。初版は上下巻ともにそれぞれ3万部が発売されましたが重版を経て空前の大ベストセラーとなりました。複数回にわたる映画化やドラマ化のたびに小説も売れ現在までの販売数は490万部を超える大ベストセラー小説になっています。

 自分は世代的には「日本沈没」は1974年のテレビドラマで見ました。このテレビドラマはTBS系列で日曜日の夜20時から1時間の放送でしたが同じチャンネルで19:30から円谷プロダクションの「SFドラマ猿の軍団」が放送されており続けて見ていたように思います。当時は「SFドラマ猿の軍団」の原作も小松左京さんだとは認識していませんでした。主演が「飛び出せ!青春」のレッツ・ビギンこと河野武先生役の村野武範さんだったのも印象的でした。第19話「さらば・函館の町よ」や第20話「沈みゆく北海道< 」は衝撃的でした。

函館山から望む函館市 函館山が陸続きでなくなると!
函館山から望む函館市(左)の函館山が陸続きでなくなると!(右)

 「日本沈没」は単なるSF小説ではなく、このような災害が発生したときに日本政府や社会の人々がどのように対応するのかまでを描いています。昨今ではで怪獣の出現に対して国や社会がどのように対応するのかを描いた映画「ゴジラ」や「大怪獣の後始末」がありますが、1970年代にもっとリアルな描写をした物語があったのです。

 本日2023年3月20日は「日本沈没」刊行から50周年にあたります。

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