カテゴリー「特撮のネタ」の209件の記事

2024年8月 3日 (土)

日本海軍の局地戦闘機「 震電」の初飛行(1945年8月3日)

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 震電は第二次世界大戦末期に大日本帝国海軍が開発した局地戦闘機です。零戦や隼など従来の戦闘機とは全く異なる形状の前翼型飛行機でした。特徴的なデザインと戦争末期に極秘裏に開発された高性能戦闘機だったことから現在も多くの飛行機ファンを魅了し、もし終戦に間に合っていたらと語り継がれています。

局地戦闘機「 震電」
局地戦闘機「 震電」

 震電を設計したのは海軍航空技術廠飛行機部の鶴野正敬技術大尉です。鶴野大尉は昭和17年(1942年)頃、連合各国の航空機の性能向上により従来の日本の戦闘機の性能に限界を感じ高性能な戦闘機の開発を考えるようになりました。鶴野大尉が行き着いたのはエンジンとプロペラを後方に配置し前方に強力な武装を装備した前翼型戦闘機でした。

 昭和18年(1943年)、軍令部参謀に着任した源田実中佐は敵戦闘機の性能向上に対してゼロ戦の性能に限界を感じ新たな高性能戦闘機の必要性を考えていました。源田中佐は鶴野大尉のアイデアに注目し前翼型戦闘機の開発を進めることにしました。

 前翼型戦闘機は前翼の揚力により主翼を小さくすることができるため機体を小型化することが可能でした。これにより機体の空気抵抗を小さくすることができ速度を向上させることができました。この頃、米軍の高高度爆撃機B-29による日本本土空襲が激化し、高高度で高い機動性と安定性を確保できる局地戦闘機が必要でしたが、前翼型戦闘機はその目的に合致していました。

 前翼型戦闘機は各国でも開発されていましたが実用には至りませんでした。鶴野大尉の前翼型戦闘機も特異的な形状に対する批判の声も少なくなく「異端の翼」と呼ばれました。前翼型戦闘機の風洞試験や滑空試験などに成功し基礎研究が終了すると、海軍は昭和19年(1944年)5月にB-29の迎撃を目的とする十八試局地戦闘機「震電」の試作を命じました。海軍は月産300機をめざし工場での量産体制を整えました。その後、設計は順調に進みましたがエンジンを開発していた工場が空襲されるなどして試作機の製作は大幅に遅れました。

 終戦間近で戦況が悪化していた中で始められた試作機の製造でしたが鶴野大尉を中心とする開発チームは1945年6月に試作機1号機の完成にこぎ着けました。蓆田飛行場(福岡空港)で鶴野大尉が自ら滑走試験を行いましたがこのとき機種を下げすぎてプロペラを地面に接触させてしまいました。プロペラは試作2号機用のものと交換され、プロペラが地面に接触しないよう垂直尾翼のかわりとなる側翼に車輪が取り付けられました。

震電の後部
震電の後部

 こうして完成した十八試局地戦闘機「震電」は昭和20年(1945年)8月3日に製造を担当した九州飛行機によって試験飛行が行われ初飛行に成功しまいた。その後の試験飛行でエンジンが故障し部品を取り寄せとなりましたが昭和20年(1945年)8月15日の終戦を迎えました。

 「震電」は実戦に投入されることはなく完成した機体も試作1号機のみとなりました。独特なデザインと終戦に間に合わなかった幻の戦闘機として人気の戦闘機です。実戦に投入される形で小説、映画、ゲームなどに登場します。

 試作1号機は米軍に接収され現在は米国国立航空宇宙博物館別館(スティーブン F. ユードバー=ハジー・センター)に操縦席から前部のみが展示されています。また2023年に公開された映画「ゴジラ-1.0」で実物大のレプリカが作られました。このレプリカは福岡県朝倉郡大刀洗平和記念館に展示されています。

ハセガワ 1/72 日本海軍 九州 J7W1 十八試 局地戦闘機 震電 プラモデル D20

ハセガワ 1/72 日本海軍 九州 J7W1 十八試 局地戦闘機 震電 プラモデル D20

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2024年7月 7日 (日)

円谷英二監督の誕生日(1901年7月7日)

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 円谷英二監督は明治34年(1901年)7月7日に福島県岩瀬郡須賀川町(須賀川市)で生まれました。小学生になると水彩画に興味を持ち大人も驚くほど上手な絵を描きました。明治43年(1910年)に徳川好敏、日野熊蔵両大尉による日本初の動力飛行機の飛行に成功すると、飛行機と操縦士に憧れるようになり模型飛行機の作成を行うようになりました。

 円谷少年が映画に出会ったのは明治44年(1911年)です。巡業に来た活動写真「桜島爆発」を見て映写の仕組みに興味を持つようになり、子ども向けの映写機を購入し手製の映画を制作するようになりました。

 模型飛行機作りの趣味も続け大正元年(1912年)には地元で新聞に取材されるほど話題になりました。大正5年(1916年)、15歳になった円谷少年は米国人飛行士アート・スミスが東京で披露した曲芸飛行のニュースを見てますます飛行機に憧れるようになりました。同年に学校を卒業した円谷少年は東京の月島機械製作所(月島ホールディングス)に入社しますが1ヶ月ほどで退社します。飛行機の操縦士になるべく同年11月に玉井清太郎と相羽有が8月に創設した日本飛行学校に第一期生として入学しました。

 こうして円谷少年は飛行機の操縦士になる夢を追いかけ始めました。しかし、大正6年(1917年)5月に唯一の教官だった玉井清太郎が墜落死、10月には台風による高波で飛行機が格納庫ごと流されてしまい日本飛行学校の継続が不可能となりました。操縦士になる夢を打ち砕かれた円谷少年は失意のうちに飛行学校を退学することになりました。

 その後、円谷少年は電気学校(東京電機大学)の夜間部に進学しながら玩具の製作会社で働き「自動スケート」「玩具電話」など様々な玩具を考案しました。大正8年(1919年)、考案した玩具が大人気となり多額の特許料を得ます。その祝いとして玩具会社の職工たちと王子の飛鳥山公園で花見を開きました。このとき職工たちが他の花見客と口論になりました。この喧嘩の仲裁に入ったのが若干18歳の円谷青年でした。この喧嘩が円谷青年の転機になります。実は職工が喧嘩をした相手は映画の制作を手がける天然色活動写真株式会社(天活)の社員だったのです。仲裁した円谷青年が聡明であると認められ同社に入社することになったのです。この会社で円谷少年はカメラマンを目指すことになりました。

 大正9年(1920年)、天活は後に国際活映(国活)に吸収され円谷青年はカメラマン助手として働いていました。このとき飛行機に搭乗して空中撮影を行う仕事が舞い込みましたが怖がって引き受けるカメラマンが誰もおらず円谷青年が自ら志願しました。パイロットを目指していた円谷青年は航空写真の撮影をやすやす成し遂げカメラマンに昇格しました。しかし、大正10年(1921年)、20歳になった円谷青年は国活を退社し兵役に就くことになりました。2年後の大正12年(1923年)に除隊し国活に復帰しカメラマンとして活躍しました。

 昭和3年(1928年)に松竹京都下加茂撮影所にカメラマンとして入社し映画の撮影を行いますが後の特撮技術に通じる特殊な撮影方法を取り入れるようになりました。昭和7年(1935年)に日活太秦撮影所から誘いを受け移籍しました。この頃、アメリカ映画「キングコング」を見て先進的な特撮に衝撃を受け特撮に興味を持つようになりました。しかしながらこの取り組みが日活と合わず昭和9年(1934年)に東宝の前身のJOトーキーに移籍しました。

カメラマンの円谷英二(1934年)
カメラマンの円谷英二(1934年)

 昭和10年(1935年)、連合艦隊の練習艦「浅間」に6カ月間乗艦し練習の様子を撮影し、初監督作品となるドキュメンタリー映画「赤道を超えて」を製作しました。同年、ファンタジー映画「かぐや姫」を撮影しています。

 昭和12年(1937年)に「東宝映画株式会社」が設立され東宝東京撮影所でカメラマンとして働くことになりましたがスタッフが特殊撮影を理解できなかったことから一人で特殊技術に取り組みオプチカル・プリンターの研究などを始めました。

 昭和14年(1939年)、陸軍航空本部の依頼で埼玉県熊谷陸軍飛行学校で飛行機操縦の教材映画を製作しました。飛行機を一人で操縦しながら空中撮影を行いました。陸軍関係者は円谷監督の飛行機技術にずいぶん驚いたようです。その後、ミニチュアを用いた戦争映画を手掛け特殊撮影が高く評価されました。昭和16年(1941年)12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争が開戦すると軍の要請により戦意高揚を目的とした戦争映画を制作することになりました。特撮は必須となり円谷監督のスタッフが特殊技術を手がけました。

 多くの戦争映画を撮影しましたが昭和20年(1945年)8月1日に召集されましたが15日に終戦を迎え撮影所に戻りました。昭和23年(1948年)3月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は戦時中に戦意高揚の映画を作成したとして公職を追放され東宝を退職しました。退職後もあきらめずに自宅にプレハブを建て円谷特殊技術研究所を設立し特撮技術の開発に取り組みながら映画の製作に参加しました。

 昭和27年(1952年)に公職追放が解かれ東宝に復帰しました。昭和29年(1954年)のゴジラの特撮を担当したのを皮切りに多くの怪獣映画で特技監督を務めました。昭和31年(1956年)には自宅の円谷特技研究所での個人としての活動を再開しました。昭和38年(1963年)に東宝を退社し同年4月12日に株式会社円谷特技プロダクションを設立、テレビドラマの特撮を手掛けるようになりました。その後の活躍は関連記事の「ウルトラQ」「ウルトラマン」などをご覧ください。

 円谷プロダクションの作品は子どもたちに夢を与えるだけでなく正義とは何かを考えさせるなど多くの影響を与え続けています。

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2024年6月21日 (金)

モーリー島事件(1947年6月21日)

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 1947年6月21日、アメリカ合衆国ワシントン州モーリー島の巡視していたフレッド・クリスマンとハロルド・ダールは上空に非常に大きなドーナツ型の6機の飛行物体を発見しました。飛行物体の1機が中心部から何千枚も白紙のようなものを撒き散らしはじめました。この白紙は白色の軽い金属片であることが判明しました。このとき溶岩のような物体が巡視船に落下し作業員が骨折し犬が1匹死亡しました。

モーリー島事件(1947年6月21日)
モーリー島事件(1947年6月21日)

 この事件を聞いたSF雑誌「アメイジング・ストーリーズ」現編集者のレイモンド・アルフレッド・パーマーは1947年6月24日に未確認飛行物体を飛んでいるのを目撃したケネス・アーノルドに連絡しモーリー島の事件の調査を要請しました。アーノルドはクリスマンとダールに事件の状況をインタビューし調査に乗り出しました。ダールは事件の概要を説明し、事件後に黒服の男(メン・イン・ブラック)が現れ事件について話をしないように求められたと証言しました。クリスマンはモーリー島から金属片を回収し、また珍しい乗り物を目撃したと証言しました。

 アーノルドはさらなる調査のために7月4日にUFOを目撃したユナイテッド航空のエミール・J・スミス機長を雇いました。クリスマンはアーノルドとスミスに回収した金属片を見せましたが、その金属片はありふれたものでした。

 アーノルドはカリフォルニア州ハミルトン飛行場第4空軍軍事情報部フランク・ブラウン中尉に連絡、アーノルドはブラウン中尉とウィリアム・L・デイビッドソン大尉に会いました。デイビッドソン大尉とブラウン中尉は事件について調査を行いクリスマンの金属片を回収しました。その後、 2人はB-25ミッチェルでカリフォルニアへ帰還しましたがこの飛行機が墜落し2人とも死亡しました。

 墜落事故まで発生したため事件を重く見たFBIは捜査を開始しました。ダールは「当局に尋問されたらでっちあげだと言うつもりだった」と述べていることからこの事件が虚偽であると判断して捜査を進めました。その結果、FBIはクリスマンとダールが自分たちの作り話で報酬を得るため様々な出版社に連絡を取っていたことを確認し事件はでっちあげられたものと結論づけました。

 このモーリー島事件でクリスマンとダールが処分されなかったことから、政府が事件を隠蔽しようとしたという噂も流れました。しかし、捜査において2人のジョークが本人たちが意図せずに急激に広がり、B-25ミッチェルの墜落事故も直接的な関係がないと判断されたのが真相のようです。この事件はでっちあげと結論づけられたにも関わらず、その後もUFO事件として何度も取り上げられました。とりわけ「黒服の男(メン・イン・ブラック)」という概念が広がりました。

 

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2024年4月10日 (水)

テレビドラマ「バットマン」日本で放送開始(1966年4月10日)

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 バットマンはDCコミックスのボブ・ケインとビル・フィンガー原作の「バットマン」に登場するスーパーヒーローです。1939年5月に「ディテクティブ・コミックス」に初登場し人気となりました。

 現在、バットマンと言えば1986年から公開されている映画が有名ですが、昭和40年頃の日本ではテレビドラマ「バットマン」が大人気でした。このテレビドラマは11966年1月12日から1968年3月14日までアメリカで放送され、日本では昭和41年(1966年)4月10日から昭和42b年(1967年)11月15日までフジテレビ系列で放送されました。バットマンことブルース・ウィリスを演じたのはアダム・ウェスト、ロビンことディック・グレイソンを演じたのはバート・ウォードです。日本語版はバットマンを広川太一郎、ロビンを森功至が吹き返しました。

バットマン(1966年テレビドラマ)
バットマン(1966年テレビドラマ)

 このテレビドラマのバットマンのコスチュームは現在知れているものとは異なりずいぶん軽装ですがコミック版を踏襲しています。このドラマを見ていた世代の人にとってはこちらのコスチュームの方が印象に残っているかもしれません。バットモービルもかっこ良かったです。

 【関連記事】初代のバットモービルが4億円でオークション落札

 アクションシーンでは漫画の擬音のように「BAM!」「BOOM!」などの文字が表示され迫力がありました。グリーン・ホーネットが登場したときにはカトー役のブルース・リーが出演しています。

バットマン対グリーンホーネット カトー(ブルースリー)対 ロビン

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2024年4月 2日 (火)

新八犬伝放送開始(1973年4月2日)

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 人形劇「新八犬伝」はNHK総合テレビジョンで1973年4月2日から1975年3月28日まで放送された番組です。

新八犬伝
新八犬伝

「新八犬伝」の原作は江戸時代後期の文化11年(1814年)に滝沢馬琴(曲亭馬琴)が執筆を始めた長編小説の「南総里見八犬伝」です。馬琴はこの物語を28年間もかけて執筆し天保13年(1842年)8月20日(新暦:1841年9月24日)に全98巻106冊で完結させました。

 南総里見八犬伝の完成(1842年8月20日)

 南総里見八犬伝は非常に長い物語なので小説を全て読んだ人はそれほどいないかもしれません。しかし、短編にまとめた小説、映画、テレビドラマを見たことのある人は多いと思います。

 自分が南総里見八犬伝を知ったのは人形劇「新八犬伝」でした。九の文字が書かれた覆面をかぶった語り部の黒子を坂本九が演じ、「因果は巡る糸車、巡り巡って風車」「本日これまで!」など滑舌の良い名調子の口上が人気になりました。テーマ曲も軽快で良かったです。

新・八犬伝OP~めぐる糸

 残念ながら新八犬伝のマスターテープは残っておらず再放送はできない状況です。当時はテープが高価だったため上書きして使っていたのです。現在、4話を見ることができるだけになっています。

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2024年3月31日 (日)

ホタルナ(東京都観光汽船)|隅田川の宇宙船のような水上バス

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 隅田川テラスを歩いていたら宇宙船のようなデザインの水上バスが通り過ぎていきました。この水上バスは東京都観光汽船が運用するホタルナです。

ホタルナ(東京都観光汽船)
ホタルナ(東京都観光汽船)

 ホタルナの宇宙船のようなデザインを担当したのは松本零士先生です。流線型のボディにガルウィングのドアは松本零士先生の漫画やアニメに登場するような宇宙船のようです。船体屋上の屋上デッキに出ることも可能です。ホタルナの名前は隅田川ホタルと月の光に由来しているそうです。

ホタルナ(東京都観光汽船)
ホタルナ(東京都観光汽船)

 松本零士先生がデザインした同型でやや形が異なる「ヒミコ」「エメラルダス」も就航しています。

 

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2024年2月23日 (金)

アニメ「ドラゴンボール」放送開始(1986年2月23日)

 アニメ「ドラゴンボール」は鳥山明原作の漫画「ドラゴンボール」を原作とするテレビアニメです。フジテレビ系列で1986年2月26日から1989年4月19日まで毎週水曜日 19時から19時30分の時間帯に放送されました。「ドラゴンボール」の放送は全153話で終了しますが、その後のストーリー展開は 1989年4月26日に放送が開始された新番組「ドラゴンボールZ」に引き継がれました。

ドラゴンボールのタイト
ドラゴンボールのタイトル

 原作となった漫画「ドラゴンボール」は集英社の週刊少年ジャンプで1984年51号から1995年25号まで連載されました。単行本は42巻でアニメ版は単行本の18巻「孫悟飯とピッコロ大魔王」までをアニメ化したものです。1986年2月から同年9月までに放送された1~28を「第1期ドラゴンボール探し編」、1986年9月から1988年2月に放送された29~101話までを「第2期ドラゴンボール探し編」、1988年2月から1989年4月まで放送された102話から153話を「ピッコロ大魔王編」と分類されています。

 アニメは原作と同様にドラゴンボールを求めて旅をする物語から格闘中心の物語となり、第23回天下一武道会でマジュニア(ピッコロの生まれ変わり)を倒すところまでが放送されました。アニメ化は原作の漫画にほぼ忠実ですがアニメオリジナルの話も追加されています。これは週刊少年ジャンプの連載を追いかける形でアニメが放送され、毎週30分の放送では原作のストーリー展開に追いついてしまうためでした。

 アニメ「ドラゴンボール」の製作は前作「Dr.スランプアラレちゃん」のスタッフが担当したため鳥山明先生が考えていた厳しい格闘シーンの描画がアラレちゃん的になってしまいました。そのためアニメ「ドラゴンボール」を第153話で打ち切りとし、新体制で新番組「ドラゴンボールZ」が始まりました。ただしドラゴンボールシリーズの人気は「Dr.スランプアラレちゃん」には及びませんでした。しかしながら「ドラゴンボール」を題材としてファミコンのロールプレイングゲームは人気でした。これは鳥山明先生がデザインを担当したファミコンのゲーム「ドラゴンクエスト」の影響もあったと思います。

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鉄人28号の実写版テレビドラマの放送開始(1960年2月1日

サイボーグ009の日(1964年7月19日)

スーパージェッターの日(1965年1月7日)

オバケのQ太郎が放映開始(1965年8月29日)

テレビアニメ「おそ松くん」放送開始(1966年2月5日)

パーマン誕生の日(1967年4月2日)

マッハGoGoGo放送開始(1967年4月2日)

「巨人の星」放送開始(1968年3月30日)

海底少年マリン放送開始(1969年1月13日)

漫画「青いトリトン」連載開始(1969年9月1日)

タイガーマスク放送開始(1969年10月2日)

呼ばれて飛び出てジジャジャジャ〜ン|ハクション大魔王(1969年10月5日)

仮面ライダー放送開始50周年(昭和46年 1971年4月3日)

バカボンのパパ参上「天才バカボン」放送開始(1971年9月25日)

ど根性ガエルのピョン吉参上(1972年10月7日)

テレビアニメ「バビル2世」放送開始(1973年1月1日)

仮面ライダーV3放送開始(1973年2月17日)

宇宙戦艦ヤマト放映開始(1974年10月6日)

仮面ライダーアマゾン参上(1974年10月19日)

特撮テレビドラマ「秘密戦隊ゴレンジャー」放送開始(1975年4月5日)

特撮アニメ「恐竜探険隊ボーンフリー」放送開始(1976年10月1日)

テレビアニメ「宇宙海賊キャプテンハーロック」放送開始(1978年3月14日 )

銀河鉄道999放送開始(1978年9月14日)

ブラック・ジャック定期連載終了(1978年9月18日)

テレビアニメ「ドラえもん」全国放送開始(1979年4月8日 )

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2023年12月21日 (木)

コロムビアまんが大行進 第1集 テレビ漫画主題歌集

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 昭和41年(1966年)に発売された「コロムビアまんが大行進 第1集 テレビ漫画主題歌集」です。当時、テレビで放送されていたアニメや特撮ドラマの主題歌がたくさん収録されたオムニバス版のLPレコードです。当時の子どもにとってはとても贅沢な内容で毎日何度も繰り返して聴いたことを覚えています。

 こちらはジャケットの表面です。

コロムビアまんが大行進 第1集 テレビ漫画主題歌集(ジャケット表)
コロムビアまんが大行進 第1集 テレビ漫画主題歌集(ジャケット表)

 こちらはジャケットの裏面です。

コロムビアまんが大行進 第1集 テレビ漫画主題歌集(ジャケット裏)
コロムビアまんが大行進 第1集 テレビ漫画主題歌集(ジャケット裏)

 そしてこちらはレコードです。

コロムビアまんが大行進 第1集 テレビ漫画主題歌集(レコード)
コロムビアまんが大行進 第1集 テレビ漫画主題歌集(レコード)

 この第1集に収録されている曲は次の通りです。

 A面は当時大人気だったオバケのQ太郎から始まります。石川進さんとQ太郎役の声優の曽我町子さんの歌が3曲も収録されています。マッハ・ゴー・ゴー・ゴーには「たまにゃのどかに」という曲があるのですが収録されていません。この曲は番組のエンディングで使われていたかどうか不明でレコードのみに収録されていたのかもしれません。宇宙少年ソランはオープニングとエンディングが両方収録されています。

【A面】

1. オバQ音頭

2. オバQマーチ

3. オバケのQ太郎

4. マッハ・ゴー・ゴー・ゴー

5. 宇宙少年ソラン

6. いざ行けソラン

 B面はウルトラマンと怪獣ブースカのオープニングとエンディング、スーパー・ジェッター、遊星仮面です。スーパー・ジェッターはエンディングがオープニングのインストゥルメンタル、遊星仮面はエンディングがありませんでした。

【B面】

7. ウルトラマンのうた

8. 特捜隊のうた

9. 怪獣ブースカ

10. ブースカ音頭

11. スーパー・ジェッター

12. 遊星仮面

 当時は家にステレオなんてありませんでした。写真のポータブルのレコードプレーヤーで聴いたわけです。ポータブルのものはターンテーブルの大きさがEPレコードと同じです。ここにLPレコードを置くとはみ出ることになります。アームを手でレコード盤にのせるて曲をかけるのですが置くときに失敗してギーとなったり、聴いているときにプレーヤーに誤って触れて針飛びをさせたり、レコードはどんどん傷だらけになっていくのでした。

昔のレコード・プレーヤー(昭和40年頃)
昔のレコード・プレーヤー(昭和40年頃)

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昔のレコード・プレーヤー|昭和の風景

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2023年12月 5日 (火)

バミューダトライアングルの日(1945年12月5日)

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 魔の三角海域と知られるバミューダトライアングルはフロリダ半島先端、大西洋のプエルトリコ、バミューダ諸島を結ぶ海域のことです。この海域では古くから船舶や航空機が消失する事件が多発しています。それらの事故は原因が科学的に解明できなかったことから超常現象として取りあげられました。特に1974年のチャールズ・ベルリッツ著「The Bermuda Triangle(謎のバミューダ海域)」は世界20か国語に翻訳されてベストセラーとなり、バミューダトライアングルの名とその超常現象が広く知られるようになりました。

魔の三角海域と知られるバミューダトライアングル
魔の三角海域と知られるバミューダトライアングル

 バミューダトライアングルで特に有名となった事件は1945年12月5日にアメリカ海軍のゼネラルモーターズ社製TBMアヴェンジャー雷撃機5機(乗員14名)が訓練飛行中に消息を絶ったフライト19事件です。捜索を行ったマーティン社PBMマリナー飛行艇(乗員13名)も消息を絶ったことから超常現象が起きたのではないかと考えられました。

 海軍の当初の報告書では悪天候とコンパスの故障が重なり飛行隊を率いていた中尉が飛行コースを誤ったと結論づけていますが、中尉の責任となることを避けるため後に「原因不明」と修正されました。このことが超常現象説を増長させることになりました。なお報告書ではPBMマリナー航空機の墜落は空中爆発としています。

 バミューダ島周辺は磁鉄鉱が多く含まれる玄武岩が多くコンパスに影響を与える可能性が指摘されています。また海上竜巻やハリケーンが発生しやすいことも指摘されています。しかしながら、実際にはこの海域が特別に遭難事故が多いというわけでもありません。バミューダトライアングルで起きた事故が超常現象と関連づけられるようになり遭難が多発する地帯と誤認されるようになりました。

 フライト19事件が発生した12月5日は「バミューダトライアングルの日」とされています。なおフライト19の飛行隊は1977年に公開されたスティーブン・スピルバーグ監督のSF映画「未知との遭遇」の冒頭に登場します。飛行隊はソノラ砂漠で燃料タンクが満タンで無傷の状態で発見され、地球外生命体の仕業であったことが示唆されます。映画のエンディングシーンでは乗組員たちがエイリアンの母船から地球に帰還します。

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ロズウェル事件(1947年7月8日)

甲府事件(1975年2月23日)

 

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2023年12月 1日 (金)

映画「トータル・リコール」日本公開(1990年12月1日)

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映画「トータル・リコール」日本公開(1990年12月1日)

 

 映画「トータルリコール」はポール・バーホーベン監督、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の1990年に公開されたSFアクション映画です。脚本は映画「エイリアン」の原案を作成したロナルド・シュゼット、ダン・オバノン、映画「ゴーストハンターズ 」の脚本家ゲイリー・ゴールドマンが担当しました。米国では1990年6月1日に公開され、日本では1990年12月1日に公開されました。

 「トータル・リコール」の原作は米国のSF作家フィリップ・K・ディックの短編小説「追憶売ります」です。映画化のきっかけはロナルド・シュゼットの学生時代に遡ります。SFや映画作成に興味を持ちUCLAで舞台芸術を学んでいたシュゼットは1974年に「追憶売ります」を読み、この短編小説の映画化の権利を1000ドルで購入しました。そして自主制作映画「ダーク・スター」の制作者ジョン・カーペンターとオバノンに連絡を取りました。意気投合したシュゼットとオノバンはそれぞれが構想していた「エイリアン」と「トータル・リコール」の映画の制作に取り掛かりました。「エイリアン」は1979年に公開されましたが、「トータルリコール」が公開されるまでには16年を要しました。「追憶売ります」は数十ページの作品だったため映画化するにあたって原作にないシーンが追加されています。

  映画「エイリアン」日本公開(1979年7月21日)

  映画「エイリアン2」公開(1986年8月30日)

 アーノルド・シュワルツェネッガー演じる主役のダグ・クエイドはリコール社で「秘密諜報員として火星を旅する」という記憶を購入したことがきっかけで命を狙われるようになりやがて自身の記憶に疑問を抱くようになります。真実を確かめるためクエイドは火星に赴きます。クエイドは過去の記憶が消されており自身が全く別人であることを知ります。クエイドはもともとはハウザーという人物でした。火星の社会を支配する独裁者コーヘイゲンが反乱軍の謎のリーダーを探るためハウザーの記憶を消して地球の労働者ダグラス・クエイドの記憶を植え付けていたのです。クエイドはハウザーだったことを理解しますが「自分はクエイド」であると言い聞かせハウザーという人格を否定し反乱軍に協力し火星に平和をもたらします。

 当時としては画期的なVFX技術に加えて映画「ターミネーター」で人気となったアーノルド・シュワルツェネッガーのアクションシーンが話題となりました。そして「トータル・リコール」の最も印象深いところはクエイドの体験が現実のものなのか、あるいはリコール社で植え付けられた記憶なのかが明確ではないストーリー展開でした。バーホーベン監督はクエイドの見た夢と考えたようですが、何が現実で何が夢なのかの判断は観客に任せるような展開にしました。さらにヒトの記憶を消去したり書き換えたりすることができる世界を描きクエイドの体験を通じて観客に自分は何か考えさせます。

  映画「ターミネーター」米国公開(1984年10月26日)

 映画の最後はスクリーンがホワイトアウトしエンドロールが始まります。これはこの映画がリコール社で見た夢であることを含蓄していると言われています。DVDのオーディオコメンタリーでそのことが述べられいます。さらに日本語吹き替えのVHS版ではクエイドがリコール社の記憶装置から起き上がるシーンが追加されています。これは本編でクエイドが記憶装置に横になるシーンを逆に再生したものだそうです。

 いやいや映画館の座席が記憶装置で映画を見ていた観客の記憶が・・・

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