日本海軍の局地戦闘機「 震電」の初飛行(1945年8月3日)
震電は第二次世界大戦末期に大日本帝国海軍が開発した局地戦闘機です。零戦や隼など従来の戦闘機とは全く異なる形状の前翼型飛行機でした。特徴的なデザインと戦争末期に極秘裏に開発された高性能戦闘機だったことから現在も多くの飛行機ファンを魅了し、もし終戦に間に合っていたらと語り継がれています。
震電を設計したのは海軍航空技術廠飛行機部の鶴野正敬技術大尉です。鶴野大尉は昭和17年(1942年)頃、連合各国の航空機の性能向上により従来の日本の戦闘機の性能に限界を感じ高性能な戦闘機の開発を考えるようになりました。鶴野大尉が行き着いたのはエンジンとプロペラを後方に配置し前方に強力な武装を装備した前翼型戦闘機でした。
昭和18年(1943年)、軍令部参謀に着任した源田実中佐は敵戦闘機の性能向上に対してゼロ戦の性能に限界を感じ新たな高性能戦闘機の必要性を考えていました。源田中佐は鶴野大尉のアイデアに注目し前翼型戦闘機の開発を進めることにしました。
前翼型戦闘機は前翼の揚力により主翼を小さくすることができるため機体を小型化することが可能でした。これにより機体の空気抵抗を小さくすることができ速度を向上させることができました。この頃、米軍の高高度爆撃機B-29による日本本土空襲が激化し、高高度で高い機動性と安定性を確保できる局地戦闘機が必要でしたが、前翼型戦闘機はその目的に合致していました。
前翼型戦闘機は各国でも開発されていましたが実用には至りませんでした。鶴野大尉の前翼型戦闘機も特異的な形状に対する批判の声も少なくなく「異端の翼」と呼ばれました。前翼型戦闘機の風洞試験や滑空試験などに成功し基礎研究が終了すると、海軍は昭和19年(1944年)5月にB-29の迎撃を目的とする十八試局地戦闘機「震電」の試作を命じました。海軍は月産300機をめざし工場での量産体制を整えました。その後、設計は順調に進みましたがエンジンを開発していた工場が空襲されるなどして試作機の製作は大幅に遅れました。
終戦間近で戦況が悪化していた中で始められた試作機の製造でしたが鶴野大尉を中心とする開発チームは1945年6月に試作機1号機の完成にこぎ着けました。蓆田飛行場(福岡空港)で鶴野大尉が自ら滑走試験を行いましたがこのとき機種を下げすぎてプロペラを地面に接触させてしまいました。プロペラは試作2号機用のものと交換され、プロペラが地面に接触しないよう垂直尾翼のかわりとなる側翼に車輪が取り付けられました。
こうして完成した十八試局地戦闘機「震電」は昭和20年(1945年)8月3日に製造を担当した九州飛行機によって試験飛行が行われ初飛行に成功しまいた。その後の試験飛行でエンジンが故障し部品を取り寄せとなりましたが昭和20年(1945年)8月15日の終戦を迎えました。
「震電」は実戦に投入されることはなく完成した機体も試作1号機のみとなりました。独特なデザインと終戦に間に合わなかった幻の戦闘機として人気の戦闘機です。実戦に投入される形で小説、映画、ゲームなどに登場します。
試作1号機は米軍に接収され現在は米国国立航空宇宙博物館別館(スティーブン F. ユードバー=ハジー・センター)に操縦席から前部のみが展示されています。また2023年に公開された映画「ゴジラ-1.0」で実物大のレプリカが作られました。このレプリカは福岡県朝倉郡大刀洗平和記念館に展示されています。
ハセガワ 1/72 日本海軍 九州 J7W1 十八試 局地戦闘機 震電 プラモデル D20
【関連記事】
・キ43 一式戦闘機「隼」の初飛行(1938年12月12日)
Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。
最近のコメント