カテゴリー「宇宙」の50件の記事

2023年11月18日 (土)

生誕100年 米国初の宇宙飛行士アラン・シェパード(1923年11月18日)

カテゴリ:宇宙 天文 今日は何の日

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 世界初の宇宙飛行士は旧ソビエト連邦(ソ連)のユーリイ・ガガーリンです。ガガーリンはソ連が1961年4月12日に打ち上げたボストーク1号で有人宇宙飛行に成功しました。宇宙開発でソ連に先を越されていた米国は1959年から有人宇宙飛行計画「マーキュリー計画」を進めていましたがソ連より先に有人宇宙飛行を成功させることはできませんでした。

 この米国のマーキュリー計画に宇宙飛行士と選ばれた7人のことをマーキュリーセブンといいます。その7人のうちの1人がアラン・バートレット・シェパード・ジュニアです。アラン・シェパードはニューハンプシャー州デリーで1923年11月18日に生まれました。17歳の頃から米国海軍のテストパイロットとして働き始め新型ジェット戦闘機のテスト飛行を行いました。テストパイロットとしての手腕が認められ米国航空宇宙局 (NASA) の宇宙飛行士とりマーキュリー計画に参加しました。

 1961年5月5日、アラン・シェパードはマーキュリー計画の「マーキュリー3号(フリーダム7)」に搭乗し大気圏外に出ました。わずか15分28秒の弾道飛行でしたがアラン・シェパードは米国人初の宇宙飛行士となりました。

アラン・シェパード(フリーダム7号)
アラン・シェパード(フリーダム7号)

 アラン・シェパードはその後もジェミニ計画やアポロ計画に参加しました。事故を起こしたアポロ13号に搭乗する予定でしたが中耳炎ため搭乗できませんでしたが、アポロ14号では船長として搭乗しました。この時のシェパードは47歳で月面を歩いた最高齢の人類となりました。また月面でゴルフをしたことでも有名です。アラン・シェパードは海軍少将として退役し1998年7月21日に74歳で他界しました。

 アポロ14号のアラン・シェパードの月面ゴルフなどについては米国初の宇宙飛行士アラン・シェパードの命日(1998年7月21日) を参照してください。月面ゴルフの映像などを見ることができます。

【関連記事】生誕100年 米国初の宇宙飛行士アラン・シェパード(1923年11月18日)

米国初の宇宙飛行士アラン・シェパードの命日(1998年7月21日)

 

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2023年9月24日 (日)

NASAの人工衛星UARSが大気圏突入(2011年9月24日)

 大気観測衛星UARS(Upper Atmosphere Research Satellite、和訳:上層大気観測衛星)は1991年にスペースシャトル・ディスカバリーとともに打ち上げられ、高度580キロメートの軌道を周回していました。地球の上層大気、オゾン層の観測が主たる目的でしたが、2005年に燃料がつきたため軌道高度を下げた後、同年12月15日に運用を停止しました。以降は制御不能な状態で地球を周回していました。

大気観測衛星UARS
大気観測衛星UARS

 2011年9月、米航空宇宙局NASAはUARSが23日頃に地球に落下するとの見通しを発表しました。UARSは全長10メートル、重さ6トンの大きさです。大気突入時に大部分は燃え尽きますが、分解した衛星の破片が地上に落下してくる可能性があります。破片が落下する正確な日時や場所について発表時点ではわかっておらず800キロ四方に分散して落下すると発表されました。このためNASAは落下の12時間前、6時間前、2時間前に、予想される落下時刻と落下点を発表することにしましたが2時間前の予想でも時刻で25分以上、落下点で最大1万2000キロの誤差が生じる可能性がありました。

 UARSの破片が地上にいる人に衝突する確率は3,200分の1と予測されました。一般に通常の人工衛星の落下で被害が出る確率は10000分の1と言われています。ですから3,200分の1は人工衛星の落下としては比較的高い確率です。他の確率と比較してみましょう。1回だけ5枚のカードを配るポーカーでフォーカードが出る確率は4165万分の1です。 18頭立ての競馬ででたらめに3連単を買ったときに当たる確率は4896分の1です。

 NASAは9月27日にUARSが9月24日午前4時1分(GMT)に南緯14.1度、西経170.2度の太平洋上で大気圏に突入したと発表しました。この場所は南半球の付近に陸地のない海洋です。UARSは海の藻屑となりました。破片による被害や落下の目撃の証拠もありません。

【関連記事】NASAの人工衛星UARSが大気圏突入(2011年9月24日)

宇宙・天文|今日は何の日

宇宙開発記念日(1957年10月4日)

米国サターンロケットの打上げに成功(1961年10月27日)

テルスター衛星打ち上げ(1962年7月10日)

ランドサット1号の打ち上げ(1972年7月23日)

無人宇宙探査機「ボイジャー2号」打ち上げ(1977 年8月20日)

パイオニア10号が太陽系を離脱(1983年6月13日)

・科学衛星「ひてん」打ち上げ(1990/01/24)

木星探査機ガリレオが運用終了(2003年9月21日)

赤外線天文衛星「あかり」打ち上げ(2006年2月22日)

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2023年8月31日 (木)

ブルームーンのスーパームーン(2023年8月31日)

 本日2023年8月31日は満月です。月と地球の距離が最短になるため月の見掛けの大きさが通常よりも大きくなります。このような満月はスーパームーンと呼ばれます。また1ヶ月間に2回目の満月はブルームーンと呼ばれます。つまり本日の満月はブルームーンのスーパームーンということになります。次の写真は2023年8月31日午前1時過ぎに撮影したものです。

スーパームーンのブルームーン(撮影2023年8月31日 f:8 ss:320 iso:100)
スーパームーンのブルームーン(撮影2023年8月31日01:16 f:8 ss:320 iso:100)

 月の平均公転半径は384,400 キロメートルで月と地球の平均距離は約38万キロメートルです。この距離は季節によって変化します。2023年2月6日の満月は月と地球の距離が最大となり約40万6千キロメートルでした。見掛けの大きさが最も小さい満月となりました。2023年8月31日の満月は月と地球の距離が最小となり約35万7千キロメートルで見掛けの大きさが最も大きい満月となりました。

【撮影機材】

 この月の写真の撮影に使用したカメラはパナソニック デジタルカメラ ルミックス FZ85 ブラック DC-FZ85-Kです。焦点距離が20 mm〜1200 mmで、光学ズームでは60倍まで拡大可能です。超解像iAズームで2400 mm相当まで画質の劣化がほんどなく拡大できます。

 このカメラにパナソニックの純正のテレコンバージョンレンズ DMW-LT55を装着しました。倍率は1.7倍です。純正ではありますが、FZ-85で光学ズームを最大にすると、色収差の影響が出て月の縁が青みがかって写ります。

 なおFZ-85にこのテレコンをつけるには、パナソニック レンズアダプター ルミックス DMW-LA8が必要です。

 

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2023年8月26日 (土)

ソ連が世界初の大陸間弾道ミサイル (ICBM)の実験成功を発表(1957年8月26日)

 R-7セミョールカ(ロシア語: Р-7 Семёрка、GRAUインデックス8K71)は冷戦中の1957年にソビエト連邦が秘密裏に開発した世界初の大陸間弾道ミサイル(ICBM)です。開発はセルゲイ・コロリョフが率いるOKB-1が担当しました。

R-7のロシアの切手
R-7のロシアの切手

 R-7の大元になったミサイルはドイツが開発したV2ロケットをソ連が1948年に複製したR-1です。このロケットはOKB-1によってR-2、R-3と改良されました。ソ連は同時期にドイツ人の技術者チームに射程距離3,000キロメートル、搭載弾頭3,000キログラムのG-4の開発に着手させました。G-4はR-3より優れていましたが、ソ連はR-3を採用しました。これによってOKB-1がミサイルの開発を進めることになりました。

 OKB-1がR-7の開発に着手したのは1953年です。R-7の当初の要求仕様は重量3,000キログラムの分離式弾頭を備えた射程距離8,000キロメートルの170トンの二段式ミサイルでしたが、セミパラチンスク核実験場での実験の結果から弾頭重量が5,500キログラムに変更されました。この仕様変更は設計を大きく見直す必要がありました。テストを重ねながら設計が完了したのは1954年でした。

 この背景でソ連はドイツ人チームに同じ要求仕様を提示しG-5の開発に当たらせていました。ドイツ人チームにはOKB-1でのロケット開発の情報は伝えられることはありませんでしたが、ドイツ人チームの成果はOKB-1に伝えられていました。ドイツ人チームはクラスター式ロケットを考案し、これがR-7にも採用されることになりました。クラスター式ロケットは現在のソユーズにも用いられています。

 R-7は1956年から製作され1957年3月にR-7 M1-5が完成しました。このロケットの試験はバイコヌール宇宙基地で行われ、同年5月15日19時01分(モスクワ時間)に初めて発射されました。これが世界初の大陸間弾道ミサイル (ICBM)の発射実験となりましたが、打ち上げ後400キロメートル先で燃料漏れを起こしたため破壊されました。2回目の発射テストは同年6月11日に行われましたが事前の試験でトラブルが発生し実験が中止となりました。3回目のテストは発射直前のトラブルで打ち上げが延期となりました。同年7月12日、再び3回目の発射テストが行われましたが発射後33秒でトラブルが発生しました。R-7の発射テストが成功したのは同年8月21日です。4回目の発射テストで6,000キロメートルの長距離飛行に成功したのです。この成功は1957年8月26日付けでソ連のタス通信によって「ソ連が多段大陸間弾道ミサイルの実験に成功」と配信されました。西側諸国は打ち上げまで把握していませんでした。 

 R-7自身は1961年までに28回打ち上げられましたが配備されることはありませんでしたが、改良形のR-7Aは1959年から1968年まで配備されました。またR-7は宇宙開発用ロケットにも転用され世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げや世界初の有人宇宙船ボストークの打ち上げに用いられました。ソユーズもR-7から派生したロケットです。R-7はソ連の宇宙開発の原動力となりました。

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宇宙・天文|今日は何の日

宇宙開発記念日(1957年10月4日)

スプートニク5号の宇宙犬ベルカとストレルカが生還(1960年8月20日)

ソ連がスプートニクス2号を打ち上げ(1957年11月3日)

地球は青かった!ユーリー・ガガーリン|ボストーク1号打ち上げ(1961年4月12日)

世界初の女性宇宙飛行士を乗せた「ボストーク6号」打上げ(1963年6月16日)

世界で初めて複数の人間を宇宙に送る(1964年10月12日)

 

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2023年8月24日 (木)

冥王星が惑星から除外され準惑星に(2006年8月24日)

 冥王星は1930年にクライド・トンボーが発見し長らく太陽系第9惑星とされていました。発見当初から冥王星は他の惑星と比較して離心率の大きい軌道と黄道面から傾いた軌道傾斜角を持つことが知られていました。1990年代に太陽系外縁天体(TNO)が発見されるようになると、冥王星が惑星であることに異論が出るようになりました。

冥王星
冥王星

 冥王星の質量は地球と同じか数倍程度と考えられていましたが、天体観測技術の向上により予想よりはるかに小さい質量であることが判明しました。また冥王星の氷の成分が彗星の氷と同じであることから冥王星は微惑星が集合したものと考えられるようになりました。 1990年代後半には様々な観測データから冥王星は太陽系外縁天体と考えられるようになりましたが、国際天文学連合(IAU)は冥王星の立場を変えることなく惑星のままとしました。

 しかしながら天体観測技術のさらなる向上によって多くの太陽系外縁天体が発見されるようになり、その中には冥王星の大きさに匹敵するものもありました。冥王星が惑星とするならば新たに発見された冥王星級の太陽系外縁天体も惑星ということになってしまいます。

 2006年8月14日からチェコのプラハで開かれたIAU総会で惑星の定義を改める議論が行われました。最初に提示された原案の定義では冥王星は惑星とされ、他に3つの天体が惑星が加えられて太陽系の惑星が12個となりました。しかしながら、この原案に対して多くの反対が声があがり大幅に見直されることになりました。そして、同年8月24日に「惑星」「準惑星 (dwarf planet)」、「太陽系小天体(small Solar system)」 が定義されることになりました。これによって冥王星は惑星ではなくなり準惑星となったのです。

【関連記事】冥王星が惑星から除外され準惑星に(2006年8月24日)

海王星の日(1846年9月23日)

冥王星が発見される(1930年2月18日)

準惑星エリスを新天体として確認(2005年1月5日)

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2023年8月20日 (日)

無人宇宙探査機「ボイジャー2号」打ち上げ(1977 年8月20日)

 ボイジャー2号はNASA (アメリカ航空宇宙局)の木星より離れた天体の観測を目的とする無人宇宙探査機です。1977年8月20日、ボイジャー2号は1977年9月5日に打ち上げられたボイジャー1号に先行してフロリダ州ケープカナベラル空軍基地からタイタンIIIEセントールロケットで打ち上げられました。

ボイジャー2号
ボイジャー2号

 ボイジャー2号は打ち上げから2年後の1979年7月9日に木星に最接近しました。この観測で木星の大赤斑が反時計回りで回転していることがわかり、新たな衛星アドラステアが発見されました。1981年には土星に再接近し、土星の上層の大気の観測を行いました。ボイジャー2号の当初の任務は土星の探査まででしたが、天王星や海王星に到達できることから計画が延長されました。

 ボイジャー2号が天王星に再接近したのは1986年1月24日です。わずか24時間ほどの観測で環の調査、大気の調査、磁場の発見、新たな10個の衛星の発見など天王星に関する様々な情報を得ました。海王星に再接近したのは1989年8月25日です。海王星が太陽より受ける熱より多い熱を放射していることを発見しました。また海王星の新たな6個の衛星を発見し、環が海王星を中心に同心円状に1周していることを確認しました。

 ボイジャー2号は海王星を探査した後、衛星トリトンでフライバイを行い太陽圏外に向かいました。現在は太陽圏外の領域の探査を目的とした星間空間ミッションに取り組んでいます。2023年7月18日、ボイジャー2号はパイオニア10号を追い抜きボイジャー1号に次いで太陽から2番目に遠い宇宙船となっています。Voygaer 1号とVoyager 2号の現在の情報は下記のサイトで参照することが可能です。2023年8月時点でボイジャー1号は地球から約149億マイル(約240億キロメートル)、ボイジャー2号は約124億マイル(約200億キロメートル)を飛んでいます。

Voyager - Mission Status

https://voyager.jpl.nasa.gov/mission/status/

 さてボイジャー1号とボイジャー2号には地球外知的生命体によって発見された場合に備えて様々な情報を記憶させたゴールドディスクを搭載しています。そのディスクには地球と地球の生物の写真、科学的な情報、地球人類からの挨拶の声、様々な地球の音や音楽が記憶されています。両機は特定の天体に向かっているわけではなく地球からどんどん離れていきます。地球との交信ができなくなっても宇宙の果てに向かって飛行を続けます。遠い未来に地球外知的生命体に発見される可能性もありますが、そのときに地球が存在しているかどうかはわかりません。

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パイオニア10号が太陽系を離脱(1983年6月13日)

 

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2023年8月18日 (金)

ソ連の探査機「ルナ24号」月面着陸(1976年8月18日)

 ルナ24号はソビエト連邦の無人月探査計画であるルナ計画の最後に打ち上げられた無人月探査機です。ルナ24号のミッションは月からの無人サンプルリターンです。同じミッションで月面に向かい着陸に失敗したルナ23号のリベンジでもありました。

 ルナ24号は1976年8月9日15時4分(UTC)にバイコヌール宇宙基地からプロトンロケットにより打ち上げられました。同年8月11日に軌道修正を行いました。その3 日後に月周回軌道に入り、1976年8月18日06:36(UTC)に北緯12度45分、東経62度12分の危難の海に無事に着陸しました。この場所は着陸に失敗したルナ23号から場所から約2.3キロメートル離れたところです。2012年の調査でルナ24号の正確な着陸位置 は北緯12.7145度、東経62.2097度と判明しています。

月着陸船ルナ24号の模型
月着陸船ルナ24号の模型

 地球からの指令によりルナ24号の着陸船はサンプルアームで2メートルほどの深さからサンプルの土を帰還用カプセルに採取しました。同年8月19日05:25(UTC)、着陸船は帰還用カプセルを打ち上げました。同年8月22日、カプセルは地球の大気圏に突入し、その後パラシュート降下し同日05:55 (UT) にシベリア西部スルグトの200km南東に着陸しました。

 回収された170.1グラムのサンプルの分析が行われました。1978年2月にソビエトの科学者により月面の土壌に水が含まれているという論文が発表されました。これはアメリカ合衆国のアポロ計画による月面の水の発見の報告を裏付けることにもなりました。

 ルナ24号が月面に着陸し探査を行った以降は月面探査は行われず、月面探査は月周回軌道から観測を行う探査機が主流となりました。ルナ24号の月面着陸から37年後の2013年12月14日に中国の嫦娥3号が月面着陸に成功しています。

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2023年8月12日 (土)

スペースシャトル実験機「エンデバー」単独初飛行(1977年8月12日)

 米国NASAのスペースシャトル「エンタープライズ」(OV-101)はスペースシャトルのオービター1号機です。この「エンタープライズ」は滑空実験機でエンジンや耐熱シールドは装備されておらず宇宙に旅立つことはありませんでした。1976年9月17日に完成後、さまざまな地上テストを重ねました。

 1977年2月18日、ボーイング747シャトル キャリア航空機(SCA)の背中に搭載された状態で無人飛行テストが行われ、同年6月18日に同条件で有人飛行テストが行われました。そして同年8月12日の飛行テストでは「エンデバー」はボーイング747から切り離され単独飛行、滑空試験、着陸試験が行われました。その後、同テストが4回実施され機体の改良が行われました。

滑空試験中のスペースシャトル実験機「エンデバー」
滑空試験中のスペースシャトル実験機「エンデバー」

 もともとこの機体はアメリカ合衆国憲法発布200年記念しで「コンスティテューション」と名付けられることになっていましたが、「スタートレック」の宇宙船エンタープライズ号と同じ名前をつけてほしいという多数の投書が届いたため「エンタープライズ」と名付けられました。

 滑空テストの後、宇宙飛行ができるように改造する計画が持ち上がりましたが、別の滑空試験機「チャレンジャー」を改造することになり見送られました。1981年4月12日に初めて宇宙飛行をしたスーペース・シャトルは「コロンビア」です。1986年1月28日の「チャレンジャー」の爆発事故の後に「エンデバー」の改造計画が再び持ち上がりましたが「エンデバー」を新造することになりました。

 2012年4月24日、「エンタープライズ」はボーイング747の背に乗せられニューヨーク市上空をデモ飛行し、同年6月にニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に搬入されました。

Endeavour Lands in Houston for Stopover | NASA KSC SCA Space Science Center Shuttle Video

 

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2023年6月22日 (木)

ガリレオは「それでも地球は動く」と呟いたのか(1633年6月22日)

 ガリレオが天動説で裁判にかけられたのは1611年と1633年です。1611年の第1回目の裁判では天動説を仮説として唱えるのであれば許容範囲とされたという記録があり本当は無罪だったと考えられています。ガリレオが1632年に「天文対話」を発表すると、1633年に2回目の裁判にかけられました。このときに確証のない書類を証拠とされ第1回目の裁判も有罪とされ、第2回目の裁判も1633年6月22日に有罪の判決が下りました。ガリレオには無期刑が言い渡されましたが間もなく減刑となり軟禁処分になりました。命が脅かされることはありませんでしたが監視付きの家で軟禁され外出は許可されませんでした。

 ガリレオが有罪となったときに「それでも地球は動く」と呟いたといエピソードがあります。実際にガリレオはイタリア語「E pur si muove」で呟いたされています。他人にわからないようにギリシア語で呟いたという説もありますがイタリア語で「E pur si muove」と同じことを呟いたとされています。

 「E pur si muove」は直訳すると英語では「And yet it moves」で日本語では「それでもそれは動く」となります。ですからガリレオが言った言葉の「それ」は地球には間違いないのですが「それでも地球は動く」と呟いたわけではありません。そもそも第2回目の裁判の様子を鑑みるとガリレオが「E pur si muove」と呟いたとは考えにくく、この話は後付されたものという説が有力です。

 この話が語られるようになったのはガリレオの1642年の死から115年後の1757年に文芸評論家のジュゼッペ・バレッティの著書「イタリアン・ライブラリー 」の著述によるものです。一方、裁判の記録にはこの言葉は残っていません。またガリレオが軟禁状態にあったときに助手を務めたヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニが1655年から1656年にかけて執筆したガリレオの伝記にも記載がありません。

 1911年、ベルギーの美術品収集家ジュール・ファン・ベルが入手した絵画に「 E pur si muove 」という文字が描かれていることが判明しました。この絵画には1643年か1645年に描かれたもので軟禁されているガリレオと壁に太陽を周回する地球の図が描かれておりその図の下に「E pur si move」の文字がありました。絵画に署名はないもののファン・ベルは17世紀のスペインの画家バルトロメ・エステバン・ムリーリョの作品と比定しました。この絵画の発見はガリレオが「E pur si muove」と呟いたことを裏付ける証拠とされましたが、間もなく所在が不明となりました。

 ファン・ベルの絵画は画家オイゲン・ファン・マルデゲムが1837年の作品「刑務所のガリレオ」とそっくりであることが判明しています。つまり同じ絵が別に存在していたことがわかったのです。ファン・マルデゲムがファン・ベルの絵画を模倣したのか、あるいはファン・マルデゲムの作品を誰かが模写したものがファン・ベルの絵画となったか謎が深まりました。この謎を解くにはファン・ベルの絵を再発見するしかありませでした。

「刑務所のガリレオ・ガリレイ」(1937年ファン・マルデゲム作品、ベルギー・シントニクラス市立博物館所蔵)
「刑務所のガリレオ・ガリレイ」
(1937年ファン・マルデゲム作品、ベルギー・シントニクラス市立博物館所蔵)

 調査によってファン・ベルの絵は2007年に売却されていたこがわかり、このときファン・ベルの絵は19世紀に描かれたものと鑑定されていました。事実であればファン・ベルの絵は「E pur si muove」の話は1757年のバレッティの著書「イタリアン・ライブラリー 」によって広く知られるうになってから描かれた絵画と考えられます。

 ガリレオが「それでも地球は動く」と呟いたいうのは伝承でしょう。しかし、事実が認められなかったことに対する警鐘として語り継がれていくでしょう。

 この調査論文は2020年にMario Livio 氏がSCIENTIFIC AMERICANに投稿しています。

SCIENTIFIC AMERICAN

Did Galileo Truly Say, ‘And Yet It Moves’? A Modern Detective Story
An astrophysicist traces genealogy and art history to discover the origin of the famous motto

By Mario Livio on May 6, 2020

【関連記事】

地動説の提唱者コペルニクスの誕生日(1473年2月19日)

ガリレオが木星の衛星を発見(1610年1月7日)

ガリレオが「天文対話」を刊行(1632年2月22日)

ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がガリレオに謝罪(1992年10月31日)

3-02. 光速は無限大に疑問をもったガリレオ

3-03. 大航海時代が光速の測定を必要とした

月が明るく輝いて見える理由|ガリレオの天文対話

1-08. 思考実験「重いものほど速く落下するのか」

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2023年6月16日 (金)

世界初の女性宇宙飛行士を乗せた「ボストーク6号」打上げ(1963年6月16日)

 ボストーク6号は1960年代にソ連のユーリ・ガガーリンによる人類初の有人宇宙飛行を実現したボストーク計画において6番目に打ち上げられた宇宙船です。

 ボストーク6号は1963年6月16日午前9時29分52秒(UTC)にバイコヌール宇宙基地のガガーリン発射台からボストークKロケットによって打ち上げられました。ボストーク6号の乗員は女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワで世界初の女性宇宙飛行士による有人宇宙飛行ミッションとなりました。

ボストーク6号の記念切手
ボストーク6号の記念切手

 ボストーク6号は2日前に打ち上げられたボストーク5号とランデーブ飛行を行い1963年6月19日午前8時20分(UTC)に地球に帰還しました。ボストーク計画はボスホート計画に引き継がれたためボストーク6号がボストーク計画の最後の飛行となりました。

 当時は明らかにされていませんでしたが、ボストーク6号は制御プログラムの問題で本来の軌道よりも上昇してしまいました。テレシコワはこの問題を設計者のセルゲイ・コロリョフに報告、問題を解決することができました。テレシコワはコロリョフに配慮し2004年まで30年間にわたりこの事実を秘密にしていました。

 また帰還の際、テレシコフは宇宙船を予定通り誘導することができませんでした。降下直前には無線が切れてしまい、管制センターは2時間にわたってテレシコフを見失いました。救助隊がテレシコワを発見した場所はアルタイ地方の農場で予定されていた地点から数十キロメートル離れていました。強風の影響で湖に落下する可能性がありましたが無事に帰還しました。

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