カテゴリー「飛行機」の61件の記事

2021年10月25日 (月)

民間航空記念日(1951年10月25日)

 昭和20年(1945年)の第二次世界大戦終了後、連合軍は日本の航空産業に関する組織を解散・廃止とし、軍はもとより民間の航空機の運用ならびに一切の研究開発を禁じました。これによって日本の国旗を記した航空機が飛ぶことはなくなりました。

 昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が起こり、アメリカ軍が日本に戦闘機の修理や部品の供給を要請するようになり、日本の航空産業が再スタートしました。日本による航空機の運用も解禁となり、昭和26年(1951年)に日本航空株式会社による民間旅客機の定期路線が復活しました。

 この定期路線は日本航空による運行は認められず、実際にはノースウエスト航空が担当しました。機体にはマーチン2-0-2型機が使われ、操縦士も日本人ではありませんでした。日本航空株式会社が担当したのは営業と各室乗務員でした。

 5機のマーチン2-0-2型が就航し、各機体には「きん星」「もく星」「すい星」「ど星」「か星」と太陽系の惑星の名前が付けられました。定期路線の就航に伴う点検飛行や試乗は「もく星」が担いました。そして、昭和26年(1951年)10月25日、日本の国旗を記した航空機が再び日本の空に戻ってきたのです。

「もく星」と客室乗務員
「もく星」と客室乗務員

 昭和27年(1952年)4月9日に「もく星」が大阪から福岡へ向かう途中で墜落事故を起こしました。昭和28年(1953年)に日本航空株式会社が自主運行を始めると5機のマーチン2-0-2型機はノースウェスト航空に返却されました。

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2021年10月22日 (金)

パラシュートの日(1797年10月22日)

 パラシュートの原型を発明したのはイタリアのレオナルド・ダ・ビンチと言われていますが(1480年代後半)、ダ・ビンチ以前に描かれたパラシュートの図の存在も確認されています。

 世界で初めて実用的なパラシュートを作ったのはフランスのルイ=セバスティアン・ルノルマンです。1783年12月26日、ルノルマンはフランス南部の都市のモンペリエ天文台の塔の上から、木製の枠組みで作ったパラシュートで降下しました。ノルマンは建物が火災時に避難する道具としてパラシュートを開発しました。ルノルマンは自ら作ったこの道具をフランス語の抑制という意味の「パラ」と落下という意味の「シュート」を組み合わさてパラシュートと名付けました。

 1785年、気球による世界初のドーヴァー海峡横断飛行に成功したフランスのジャン・ピエール・ブランシャールは同年に熱気球から犬をパラシュートで降下させる実験に成功しました。ブランシャールは1793年に破裂した熱気球からパラシュートを用いて無事に脱出しています。最初の頃のパラシュートは木の枠に麻の布を貼り付けたもので、重量も大きく扱いにくかったようです。ブランシャールは軽量の絹製のパラシュートの開発を始めました。

 フランスの元軍人のアンドレ・ジャック・ガルヌランは絹製のパラシュートを作成し、1797年10月22日にパリでパラシュートの降下実験を行いました。ガルヌランは900 mまで上昇した熱気球から飛び降りました。気流の影響を受けてパラシュートが横揺れし不安定な状態となりましたが着地時に衝撃はあったものの無事に降下しました。この日が「パラシュートの日」となりました。

アンドレ・ジャック・ガルヌランのパラシュート降下
アンドレ・ジャック・ガルヌランのパラシュート降下

 ガルヌランは知人の助言を得て、パラシュートの頭部に排気弁を取り付け安定な降下を実現しました。1798年にはガルネランの婦人が女性初のパラシュート降下を行いました。

 この頃のパラシュートには安全性において多くの問題がありました。その後、改良が重ねられ1890年に背負うタイプのパラシュートが発明されました。1900年に入ると飛行機からの降下実験も行われ、やがて戦闘機の緊急脱出時の救命用具として使われるようになりました。

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2021年10月13日 (水)

国産動力飛行機が初飛行に成功(1911年10月13日)

 日本における動力飛行機の初飛行は1910年12月19日に成し遂げられました。このときは日本製の動力飛行機ではなくドイツ製の「グラーデ単葉機」とフランス製の「アンリ・ファルマン号」が使われました。日本陸軍の徳川好敏のアンリ・ファルマン号が先に離陸したことから、動力飛行機の初飛行を成功させたのは徳川好敏とされています。

  日本における動力飛行機の初飛行(1910年12月19日)

 この動力飛行機の初飛行の前年の1909年7月30日、気球と航空機の軍事利用のための日本初の航空機の公的機関「臨時軍用気球研究会」が設立されていました。1910年12月19日の動力飛行機の初飛行が成果すると、1911年4月に日本最初の飛行場である所沢陸軍飛行場が開設されました。この飛行場には海外製の飛行機が4機配備されましたが、間もなく飛行機の数が不足し国産の飛行機開発の機運が高まりました。

 研究会はアンリ・ファルマン号を参考にさまざまな改良を加えた国産飛行機の開発に取り組みました。1911年7月から製作が開始され10月に完成しました。10月13日に徳川好敏の操縦により試験飛行が行われ、国産動力飛行機の初飛行に成功しました。この飛行機の正式名称は臨時軍用気球研究会式一号機で、会式一号機または徳川式と呼ばれました。初飛行では高度50 mを時速72 kmで飛び、その性能はアンリ・ファルマン号を凌ぐものでした。

臨時軍用気球研究会式一号機(会式一号機、徳川式)
臨時軍用気球研究会式一号機(会式一号機、徳川式)

 会式は7号機まで製作され、会式七号小型飛行機は日本初の戦闘機となりました。しかしながら、この七号機が空中分解の事故を起こしたため開発は打ち切られました。その後、制式という名称で軍用機の開発が進められましたが、海外製の飛行機に匹敵する性能を出すことができず、国産の戦闘機の実現は叶いませんでした。輸入飛行機の国産化やライセンス生産を経て、国産の戦闘機が開発できるようになったのは1910年代後半になってからのことでした。

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2021年10月 9日 (土)

クレマン・アデールが世界初の動力飛行に成功(1890年10月9日)

 フランスの発明家クレマン・アデール。グラハム・ベルが発明した電話の改良して1880年にパリに電話網を築いたり、1881年に史上初のステレオ放送「テアトロフォーン」を発明したり、1903年にV8気筒エンジンを考案したりするなど、電気工学や機械工学の分野で活躍しました。

クレマン・アデール
クレマン・アデール

 アデールがV8気筒エンジンの開発に続いて取り組んだのが航空機の動力飛行の研究でした。アデールはフランスの航空研究家のルイ・ピエール・ムイヤールの研究成果に基づいて、1886年に最初の飛行機械「エオール号」を製作しました。

 エアール号はコウモリのような形をした単葉機でアデールが開発した全重量51 kg、定格出力20馬力(15kW)、4気筒、4枚羽根プロペラの軽蒸気エンジンを搭載していました。アデールは1890年10月9日にエアール号の試験飛行を行いました。総重量300 kgのエオール号は宙に浮かび上がり高度20 cmで距離50 mを飛ぶことに成功したのです。ライト兄弟の初飛行に先立つこと13年前に、エアール号の飛行は非制御ながら史上初の動力飛行を成し遂げていたのです。アデールは続いて「アビオンII号」を製作しました。後年アデールはアビオンII号で飛行に成功したと主張していますが、実際にはこの機体は完成していなかったことが記録に残っています。

 その後、アデールはフランス陸軍からの資金提供を受けて「アビオンIII号」を開発しました。1897年10月14日にアビオンIII号の試験飛行を行いました。アビオンIII号は短い距離を飛行しましたが十分な成果を得ることができず、フランス陸軍は資金の提供を打ち切りました。

 

エオール号の図面とアビオンIII号
エオール号の図面(上)とアビオンIII号(下)

 フランス政府はアデールの飛行実験を機密扱いとしていましたが、1903年にライト兄弟の初飛行の後にアデールが先に飛行に成功していたと発表しました。しかし、1910年にアデールの飛行は失敗であったと報告しています。

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2021年9月30日 (木)

YS-11国内定期路線ラストフライト(2006年9月30日)

 第二次世界大戦終了後、連合国軍の占領下にあった日本はGHQの航空禁止令の布告により航空機産業に関わる活動が制限されました。1951年にGHQの意向で日本航空が設立されましたが、航空産業の制限はサンフランシスコ講和条約による日本の独立の1952年まで続きました。

 日本は航空機開発および製造の技術をもっていましたが、戦後の日本では主に米国製やイギリス製の航空機が使用されていました。制限が解除されると、国産の航空機の開発の機運が高まりました。

 1956年に東京大学に財団法人・輸送機設計研究協会が設立され、小型旅客輸送機の開発が始まりました。この開発には零戦、隼、紫電改、飛燕、航研機の開発に関わった5人の技術者が参加しました。輸送機設計研究協会は双発ターボプロップエンジンの構想を発表し、1958年12月にYS-11のモックアップを発表しました。1959年、輸送機設計研究協会が解散となり、日本航空機製造株式会社が設立され戦後初の国産旅客機YS-11の本格的な開発と製造が開始されました。

 YS-11の試作1号機は1962年7月11日に公開され、8月30日に初飛行しました。試作機で判明した問題点を解決し、1965年4月から民間航空会社に納入されました。一番最初の定期路線の就航は4月1日の日本国内航空(後の東亜国内航空、日本エアシステム)によるものです。1965年の就航以来、YS-11は日本の空を飛び続け多くの旅客を運びました。YS-11は1973年3月に生産終了となりましたが、その後も現役として活躍を続けました。主要路線の旅客機の主流がジェット機になると、離島への路線など短距離路線を支える航空機として重要な役割を果たしました。

日本国内航空YS-11に搭乗する親子(1965年 丘珠空港)
日本国内航空YS-11に搭乗する親子(1965年 丘珠空港)

 2005年1月、航空法が改正され「客席数が19 または最大離陸重量が5,700kgを超えかつタービン発動機を装備した飛行機」に空中衝突防止装置(TCAS II)の装備が義務付けられましたが、改修に要する費用の関係でYS-11への装備は見送られました。これによって、YS-11は旅客機としては使用できなくなりました。

 2006年年9月30日、日本エアコミュターの運行する15:55発の沖永良部空港-鹿児島空港のYS-11がラストフライトとなりました。出発の沖永良部空港ではエイサー踊りが披露され、到着した鹿児島空港では空港消防隊によるウォーターアーチで迎えられました。その後、引退記念セレモニーが行われ、YS-11は就航以来41年に渡る旅客機としての役割を終えました。

JAC YS-11(鹿児島空港 2003年撮影)
JAC YS-11(鹿児島空港 2003年撮影)

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2021年9月24日 (金)

黒いジェット機事件(1959年9月24日)

 1959年9月24日午後3時15分、神奈川県の藤沢飛行場に真っ黒なジェット機が胴体着陸のうえオーバーランする事件が発生しました。黒いジェット機には国籍を示す表記はなく正体がわかりませんでした。

 まもなくヘリコプターやセスナ機が飛来し、拳銃を持った複数の外国人が降りてきました。黒いジェット機からも拳銃を携行したパイロットが降りてきました。当日、藤沢飛行場ではグライダーの訓練が行われており多数の観客がいました。あたりは騒然として緊張感が走りました。

 胴体着陸を行った航空機はロッキード社のU-2偵察機でした。NASAの前身であるNACA(アメリカ航空諮問委員会)所属の高層の気象観測機とされ、当日、藤沢飛行場に駆けつけた外国人は米軍関係者でした。事故の捜査にやってきた藤沢警察署員は現場検証をすることができませんでした。この事件は全国紙で取り上げられることはありませんでした。

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黒いジェット機と同型機のロッキードU-2偵察機

 11月に小学館がこの事件を少年サンデーで特集、12月には衆議院本会議で「黒いジェット機事件」として取り上げられました。NACAから黒いジェット機の目的は伊勢湾台風の上層の大気観測と説明がありましたが、その真偽について議論されましたが結論は出ませんでした。

 後に黒いジェット機はCIA(米国中央情報局)所属で厚木基地に配属されているソビエトをはじめとする対東側諸国の偵察機であることがわかりました。同機は改良新エンジンが搭載されたばかりでした。パイロットがその性能向上に感激し飛び続けたために燃料切れになったのが胴体着陸に至った原因でした。

 同機はその後、トルコ中南部の都市アナダのインジルリク空軍基地に配属されましたが、1960年5月1日にソ連領空を偵察していたところ、ソ連の対空ミサイルで撃墜されました。米国はこの撃墜された航空機の目的を高高度での気象観測と説明しましたが、脱出したパイロットが偵察目的であることを自白しました。米国は真珠湾攻撃の二の舞を避けるためにも偵察は必要な行為と声明を出し、ソ連が指摘したスパイ行為を認めました。パイロットはスパイ容疑でソ連で有罪となりましたが、後に米ソ間のスパイ交換により釈放されました。このU-2撃墜事件は2016年に「ブリッジ・オブ・スパイ」として映画化されました。

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2021年9月15日 (水)

ブルーインパルスの編隊飛行の写真?

 航空自衛隊T-4ブルーインパルスの編隊飛行の写真です・・・がこの写真は本物ではありません。

ブルーインパルスの編隊飛行
ブルーインパルスの編隊飛行

 このブルーインパルスの編隊飛行の写真はトミカ トミカプレミアム 22 航空自衛隊 T-4 ブルーインパルスを撮影したものです。

 トミカを組み立てて写真を撮影し背景を空模様にした合成写真です。

 ちょっと左翼が影で暗くなってしまったのが気になります。

 スモークを加えるのも面白そうです。

 トミカ トミカプレミアム 22 航空自衛隊 T-4 ブルーインパルス

 

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2021年9月11日 (土)

911 アメリカ同時多発テロ事件(2001年9月11日)

 2001年9月11日はアメリカ同時多発テロ事件が起きた日です。

 この日、仕事を終えて知人の車で家まで送ってもらっている途中にラジオからニューヨーク市マンハッタンの世界貿易センタービル(WTC)に航空機が激突したらしいというニュースが入ってきました。ラジオではどんな種類の航空機が激突したのかなどの詳細は報告されませんでした。小型ジェットかプロペラ機が激突したのではないかと思っていました。

 家に着いてテレビをつけてNHKのニュースを見てみると、いきなりもう一機の航空機がWTCに激突している映像が流れました。それが生放送だったのかどうかはもう覚えていませんが、これは事故ではないということがすぐにわかりました。

自由の女神と炎上するWTC
自由の女神と炎上するWTC

 アメリカ同時多発テロ事件では4機の旅客機がハイジャックされました。

 最初にWTCに激突したのはボストン発ロサンゼルス行きのアメリカン航空11便(ボーイング767-200ER N334AA)でした。同機は午前8時にローガン国際空港を離陸し、その約15分後にハイジャックされ8時46分にWTCの北側タワーに激突しました。乗客76名、乗員11名、そして多数の人々の尊い命が失われました。

 次にWTCに激突したのはボストン発ロサンゼルス行きのユナイテッド航空175便(ボーイング767-200ER N612UA)でした。同機は午前8時14分にローガン国際空港を離陸し30分後にはハイジャックされ、午前9時03分にWTCの南棟タワーに激突しました。乗客51名、乗員9名、そして多数の人々の命が失われました。

 ワシントンD.C.発ロサンゼルス行きのアメリカン航空77便(ボーイング757-200 N644AA)はダレス国際空港を午前8時20分に離陸し30分後にはハイジャックされ、午前9時38分にバージニア州アーリントンのアメリカ国防総省本庁舎ペンタゴンに激突しました。乗客53名、乗員6名、多数の人々の命が失われました。

  ユナイテッド航空93便(ボーイング757-200 N591UA)はニューアーク発サンフランシスコ行きで、午前8時42分にニューアーク空港を離陸しました。乗客からの機内電話による通報によって同機は午前9時27分にハイジャックされたことが判明しました。同機はワシントンD.C.に向かいました。目標はアメリカ合衆国議会議事か大統領官邸ホワイトハウスだったと考えられています。外部との連絡でハイジャックの目的を知った乗客は同機の奪還を試みました。乗客たちは「Let's Roll.(さあやろうぜ)」を合言葉に犯人に立ち向かいました。調査委員会の報告によると乗客はコックピットに入ることはできなかったようですが、乗客たちの怒号、コックピットの扉を叩き壊す音、犯人たちの声がボイスレコーダーに記録されています。この乗客たちの抵抗に対して同機は急降下や急上昇を繰り返しますが、午前10時03分にペンシルベニア州ピッツバーグ郊外に時速907キロメートルの速さで墜落しました。墜落の原因は犯人の操縦ミスと考えられています。攻撃は阻止され、他の3機のように地上に甚大な被害をもたらすことはありませんでしたが、乗客33名、乗員7名の命が犠牲となりました。

 ユナイテッド航空93便のハイジャックは映画化され2006年に「ユナイテッド93(United 93)」が公開されています。

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2021年9月 6日 (月)

ソ連戦闘機が函館空港に強行着陸(1976年9月6日)

 1976年9月6日午後1時11分、航空自衛隊奥尻レーダーサイトが高度6,000 mを速度800 km/hで西方から北海道に近づく識別不明機を捉えました。午後1時20分、航空自衛隊千歳基地からF-4EJファントム2機がスクランブル発進しました。

 識別不明機は高度を下げながらさらに北海道に近づいて来たため奥尻レーダーサイトが無線で警告しましたが、午後1時22分に北海道茂津田岬沖合いで領空に侵入しました。同期は進路を南方に向け、さらに高度を下げたためレーダーから機影が消えました。F-4EJファントムは午後1時25分に同機をレーダーで捉えたものの30秒ほどで見失いました。奥尻レーダーサイトはロシア語と英語で警告を続け、午後1時35分に再び機影を捕らえたもののすぐに見失いました。その後、奥尻レーダーサイトもF-4EJファントムも同機を捜索するものの発見することはできませんでした。

 その後、函館上空を旋回するジェット戦闘機が発見され、函館空港事務所が航空自衛隊に問い合わせを行いました。この連絡を受けて午後1時49分にF-4EJファントムが函館方面に向かいましたが、ジェット戦闘機が函館上空を3回旋回し午後1時57分に函館空港に強行着陸したため千歳空港へ引き返しました。ジェット戦闘機は着陸時にパラシュートを開きましたが、滑走路の中央あたりに着地したためオーバーランしました。空港で工事をしていた民間人が同機に近づくと、パイロットが銃を空に向けて威嚇発砲しました。

 午後2時過ぎに航空管制官の通報を受けた北海道警察が到着し、函館空港を完全封鎖しました。当初、警察と自衛隊のどちらが対応するか混乱があったようですが、領空侵犯は自衛隊の管轄だが国内の空港への着陸は警察が管轄する事件であるとして、自衛隊は警察に締め出され空港に入ることができなくなりました。

 北海道の西方からやって来た識別不明機はソビエト連邦(ソ連)のジェット戦闘機ミグ25で、パイロットはヴィクトル・イヴァーノヴィチ・ベレンコ中尉で米国への亡命を要望していることがわかりました。ソ連はベレンコ中尉の身柄とミグ25の引き渡しを要求しましたが、ベレンコ中尉は米国への亡命が認められ、ミグ25は自衛隊の百里基地に移送され日米共同の機体調査が行われることになりました。

函館空港に緊急着陸したMiG-25Pの同型機
函館空港に緊急着陸したMiG-25Pの同型機

 自衛隊はソ連が最高機密のミグ25を取り返しに来たり、破壊しに来きたりした場合に備えました。陸上自衛隊は函館駐屯地に戦車、歩兵部隊、高射砲を配置し、函館の防衛戦闘の準備をしていました。会場自衛隊も日本海側と太平洋側、そして函館付近に艦船を配備し警戒に当たりました。航空自衛隊はF-4EJによる哨戒飛行を24時間体制で行いました。実際にソ連軍が函館にやって来ることはありませんでした。

 ミグ25は1967年7月にモスクワで行われた航空ショーで初めてその姿を現しました。ミグ25の詳細は秘密のベールに包まれていましたが、最高速度はマッハ3を超え、航続距離の長い高性能な戦闘機と考えられました。当時、米国の主力戦闘機はF-4ファントムでミグ25に対抗できる戦闘機ではありませんでした。このため米国はF-15の開発に着手することになります。F-15が実戦配備されたのは1976年1月で、この事件のわずか8ヶ月前のことでした。

 日米の調査の結果、ミグ25は予想されていたほど高性能ではないことが判明しました。たとえば主翼や胴体には耐熱性の高いチタンが使われておらず、マッハ3を超える速度には耐えらず最高速度はマッハ2.83であることがわかりました。またエンジンには旧型のターボジェットエンジンが採用されており、機体が重たいため燃費が悪く、後続距離もF-15に劣ることがわかりました。電子機器には真空管が多用されており、従来の技術の信頼性を重視したもので先進的なものではありませんでした。高速で運動性が優れた戦闘機と考えられていたミグ25は領空の防衛を目的とした迎撃撃機であり、制空戦闘機ではないことがわかりました。つまりソ連や東側勢力が高性能戦闘機ミグ25で攻撃を仕掛けてくるという西側諸国の懸念が払拭されたのです。

 調査後、ミグ25はソ連に返還されましたが、ソ連は防空システムの情報が漏洩したと考えミグ25の搭載機材をすべて変更しました。同年米国が実戦配備したF-15は速度性能を抑えて運動性を重視した戦闘機でした。その後、戦闘機の基本性能は超音速より亜音速での戦闘能力が重視されるようになり、最高速度の向上は求められなくなりました。そのためミグ25は現在においても世界トップクラスの超高速戦闘機です。

 さて、ミグ25によってあっさりと領空侵犯され、函館空港に強制着陸を許してしまった日本は防空の脆弱性が露呈する形になりました。もし、ベレンコ中尉の目的が亡命ではなく攻撃だったとしたら、たいへんな被害が出ていたことは間違いありません。日本はレーダー網を見直し、また、これをきっかけに早期警戒機E-2Cを導入しました。

 自分は当時中学生で北海道の小樽市に住んでいましたが函館市に引っ越すことが決まっていました。とんでもない事件が起きたということはわかりましたが、プラモデルが趣味の友人とミグ25の話で盛り上がったように記憶しています。飛行機のプラモデルといえばハセガワが有名ですが、この事件の前にミグ25のプラモデルが販売されていました。このプラモデルはずいぶん売れ、ハセガワが飛行機のプラモデルの老舗となりました。

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2021年9月 4日 (土)

幻の大型旅客機ブリストル・ブラバゾン初飛行(1949年9月4日)

 第二次世界大戦の終戦中の1942年、イギリスは戦後の民間旅客機の市場を調査するためブラバゾン委員会を設立しました。この委員会は1943年にブラバゾン報告書を提出し、大西洋を横断できる大型旅客機の案の応募を募集しました。ブラバゾン委員会は戦時中の大型爆撃機の開発と生産実績からブリストル飛行機社を選び、同社に2機の試作飛行機を発注しました。

 ブリストル飛行機社が提案したのは当時の旅客機としては全長50 m、翼幅70 mのプロペラ式大型旅客機タイプ167でした。タイプ167はボーイング747よりも大きな旅客機でしたが、大西洋横断の需要は富裕層であると予想されていたため乗客の定員は60から80名の広々とした客席とした豪華な旅客機ました。試作機は1945年から製造が開始し、この試作機はブリストル・ブラバゾンと呼ばれるようになりました。

ブリストル飛行機のブラバゾン
ブリストル飛行機のブラバゾン

 1945年9月4日、ブリストル・ブラバゾンはエンジンの駆動の不調もありましたが初飛行に成功し、大西洋を横断可能な大型旅客機として披露されました。しかしながら、当時の航空業界は大量輸送ができる航空機を期待しており、豪華旅客機のブリストル・ブラバゾンの受注はなく、2機の試作機は廃棄処分されました。ブリストル・ブラバゾンの開発には多大な費用がかかりましたが、初飛行成功までに獲得したノウハウはその後のイギリスの航空機開発の発展に多大な貢献をしました。

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