カテゴリー「飛行機」の106件の記事

2025年6月14日 (土)

一〇〇式重爆撃機「呑龍」

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 一〇〇式重爆撃機「呑龍」は性能的に限界に達しつつあった九七式重爆撃機の後継機種として日本陸軍が昭和13年(1938年)に中島飛行機に開発を命じた重爆撃機です。

一〇〇式重爆撃機「呑龍」
一〇〇式重爆撃機「呑龍」

 この新型重爆撃機はキ49として開発が進められ1939年8月に初飛行しました。昭和15年(1940年)に完成しました。昭和15年(1940年)は皇紀2600年にあたる年でした。日本陸軍がキ49を正式に採用したのは昭和16年(1941年)です。正式採用年に従う命名では一式爆撃機となりますが、皇紀2600年を記念して一〇〇式爆撃機と名付けられました。皇紀2600年を冠する航空機には一〇〇式司令部偵察機「新司偵」や一〇〇式輸送機があります。 愛称の「呑龍」は中島飛行機の工場のあった群馬県太田市の「子育て呑龍」と呼ばれる浄土宗の寺院「大光院」に由来します。「呑龍」は江戸時代に貧乏人の子弟を養育した浄土宗の僧の名前です。

飛行中の一〇〇式重爆撃機「呑龍」
飛行中の一〇〇式重爆撃機「呑龍」

 一〇〇式重爆撃機「呑龍」は戦闘機の護衛を必要としない20 mm機関砲などの重武装と時速500 kmの高速性能を有する重爆撃機として設計されました。しかし、完成した頃には敵戦闘機の性能が向上していたため実戦では戦闘機の護衛を必要としました。結果的に重装備以外は九七式重爆撃機との性能は変わらず、採用したエンジンの中島ハ41やハ109の信頼性が低く故障が頻発したことから実践部隊の評価は高くありませんでした。主に南方戦線に配備されましたが、このような事情から次第に他の爆撃機が使われるようになりました。 

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2025年5月22日 (木)

「加藤隼戦闘隊(飛行第64戦隊)」の加藤建夫隊長が戦死(昭和17年 1942年5月22日)

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 「加藤隼戦闘隊(飛行第64戦隊)」の隊長として知られる加藤建夫陸軍少将は明治36年(1903年)9月28日に北海道上川郡東旭川村(旭川市東旭川町)で生まれました。大正7年(1918年)に陸軍軍人だった父と兄にならい仙台陸軍幼年学校に入学しました。大正14年(1925年)に陸軍士官学校を卒業し札幌歩兵第25連隊附の陸軍歩兵少尉となりましたが、本人の希望により飛行第6連隊附の陸軍航空兵少尉となりました。大正15年(1926年)に所沢陸軍飛行学校に操縦学生と入学し優秀な成績を収めました。昭和2年(1927年)に同学校を卒業した際に優秀な技量成績で御賜の銀時計を拝受しています。昭和12年(1937年)から始まった日中戦争ではに陸軍航空兵大尉・飛行第2大隊第1中隊長として従軍して活躍しエースパイロットとして名前が知られるようになりました。

加藤建夫陸軍少佐
加藤建夫陸軍少佐

 昭和16年(1941年)4月、加藤は広州天河飛行場駐留の飛行第64戦隊に陸軍少佐・戦隊長として着任しました。同年8月末、飛行第64戦隊に一式戦闘機「隼」が配備されると「加藤隼戦闘隊」と呼ばれるようになりました。

  【参考】キ43 一式戦闘機「隼」の初飛行(1938年12月12日)

映画「加藤隼戦闘隊」に登場した明野陸軍飛行学校の一式戦二型(キ43-II)
映画「加藤隼戦闘隊」に登場した明野陸軍飛行学校の一式戦二型(キ43-II)

「加藤隼戦闘隊」は太平洋戦争(大東亜戦争)において南部仏印(フランス領インドシナ、ベトナム南部)、マレー半島、ジャワ島などで連合国と戦いを繰り広げ多数の敵機を撃墜しました。加藤建夫隊長は「いかなる困難にあたっても平常心を失わないこと」「何事も任務遂行を第一とすること」「個人の功名手柄に走って団結を乱さないこと」を部下に訓示し、自ら率先して困難な任務に当たり無線を活用して僚機に指示を出しながら戦闘を行いました。「加藤隼戦闘隊」が強かったのは加藤建夫隊長が編隊飛行を重視したチームプレーを重視していたからと伝えられています。

加藤建夫(1942年 南方戦線)
加藤建夫(1942年 南方戦線)

 昭和17年(1942年)5月22日、「加藤隼戦闘隊」がアキャブ飛行場に臨時で駐屯していたところイギリス空軍ブレニム爆撃機1機が来襲しました。加藤建夫隊長以下5機が迎撃しましたが2機がブレニム爆撃機の後上方銃座の射撃を受けて帰還、さらに加藤建夫隊長機も期待腹部の燃料タンクに被弾しました。帰還不可能と判断した加藤建夫隊長は僚機に向けて機体の翼を大きく振った後に反転し背面飛行となり火を噴きながらベンガル湾に墜落し自爆しました。加藤建夫隊長は戦死後2階級特進で少将となり「軍神」と呼ばれました。

 

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2025年5月 1日 (木)

日本初の海上空港となる長崎空港が開港(昭和50年 1975年5月1日)

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 長崎空港(IATA: NGS, ICAO: RJFU)は長崎県大村市の箕島に存在する日本初の海上空港です。長崎空港の前身は大村市今津町に存在する大村空港です。大村空港は 大日本帝国海軍大村海軍航空隊の施設で昭和20年(1945年)には特別攻撃隊の出撃基地となりました。昭和35年(1960年)に民間空港共用となりました。

 昭和46年(1971年)、空港を拡張するため沖合の箕島の造成を開始し、昭和51年(1976年)5月1日に新しい滑走路が完成しました。この新しい滑走路はB滑走路とされ、大村空港は長崎空港に改称され日本初の海上空港となりました。昭和55年(1980年)にはB滑走路は三千メートルに拡張されボーイング747をはじめとする大型ジェット旅客機が発着できるようになりました。平成2年(1990年)9月2日には「'90長崎旅博覧会」の記念イベントにコンコルドが飛来しています。長らく本土側の旧大村空港のA滑走路と箕島のB滑走路が併用されていましたが、平成23年(2011年)にA滑走路は防衛省の管轄の海上自衛隊大村航空基地となり長崎空港はB滑走路のみの運用となりました。

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2025年1月22日 (水)

飛行船の日|飛行船「雄飛」の試験飛行(大正5年 1915年1月22日)

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 飛行船「雄飛」は日本陸軍が導入した軍用飛行船です。「雄飛」は明治45年(1912年)6月にドイツから輸入した非硬式軍用単ゴンドラ飛行船「バルセヴァル」(Walserwald)です。この飛行船はドイツの飛行船設計者アウグスト・フォン・バルセヴァルにより設計され1912年にビターフェルトのドイツ航空機製造会社ルフト・ファールツォイク・ゲゼルシャフト( LFG)社で製造されました。

バルセヴァル PL 13(雄飛)
バルセヴァル PL 13(雄飛)

 「バルセヴァル」(Walserwald)は1913年3月28日に事故を起こして損傷しました。その後、所沢の基地で修理と改造が行われた。このとき船名が 「雄飛」に改名されました。改造は1914年8月に完了し1915年4月に日本陸軍に就役しました。

 1916年(大正5年)1月22日、雄飛は所沢から大阪までの試験飛行を行いました。途中、中間点の豊橋に着陸し所要時間11時間34分で大阪にと到着しました。エンジン不調のため所沢への帰路は分解されて陸送されました。「雄飛」は日本初の軍用機であり、飛行船の初飛行を記念し1月22日は「飛行船の日」と制定されました。

 「雄飛」は大正6年(1917年7月)に退役しました。飛行船が配置されていた所沢市では飛行を記念した特製焼き菓子「雄飛焼」が販売されています。

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2024年11月14日 (木)

世界初の艦上から発艦(1910年11月14日)

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 世界で最初の航空兵器を装備した軍艦は「気球母艦」です。1849年7月12日、オーストリア海軍が「気球母艦」から爆弾を取り付けた熱気球を発艦させたものの失敗に終わったという記録が残っています。1861年から1865年にかけて行われたアメリカ合衆国の南北戦争ではガス発生装置を備えた「気球母艦」が建造されました。

 現在の航空母艦のように軍艦の甲板から航空機の発艦に成功したのは1910年です。アメリカ合衆国のパイロットのユージン・バートン・イーリーは1910年初めにオレゴン州ポートランドでドイツ人実業家アーネスト・ヘンリー・ウィームのもとで自動車セールスマンとして働いていました。ウィームは航空業界にも関心をもちカーチス社製の複葉機の代理店となりました。イーリーはこのカーチス複葉機でオレゴンまで飛ばすことを志願し自ら操縦しましたが墜落させてしまいました。幸いイーリーの怪我は軽傷で飛行機も大破しませんでした。

ユージン・バートン・イーリー
ユージン・バートン・イーリー

イーリーは事故機をウィームから買い取り修理して飛行機の操縦の訓練を行いました。1910年6月にミネソタ州ミネアポリスで開催された展示会に参加し、そこでグレン・カーティスと会い彼の航空会社ヘリング・カーチス社で働くようになりました。1910年10月5日、イーライはアメリカ航空クラブのパイロットライセンスを取得しました。その後、イーライとカーチスは海軍から航空機の軍事利用を調査に協力することになり軍艦から飛行機の発艦と着艦が可能かどうかの実験を行うことになりました。

グレン・カーティス
グレン・カーティス

 1910年11月14日、イーリーはカーチスモデルD(カーチスプッシャー)で軽巡洋艦バーミンガムの艦首に仮設された83フィートの飛行甲板から発艦しました。発艦後、イーリーの飛行機は急降下し車輪が水中に入り水しぶきを上げましたがその後は浮上し港を周回して浜辺に着陸しました。これが史上初の艦船から航空機の発艦となりました。

バーミンガムから発艦するカーチスモデルD(カーチスプッシャー)
バーミンガムから発艦するカーチスモデルD(カーチスプッシャー)

 続いて2ヶ月後の1911年1月18日にイーリーはサンフランシスコ湾に停泊中の装甲巡洋艦ペンシルベニアの飛行甲板に着艦しました。飛行機はヒュー・ロビンソンが考案した着艦フックにより飛行甲板上で停止、史上初の艦船への飛行機の着艦に成功しました。

ペンシルバニアに着艦するカーチスモデルD(カーチスプッシャー)
ペンシルバニアに着艦するカーチスモデルD(カーチスプッシャー)

 イーリーの実験により艦船上での飛行機の発艦と着艦が可能であることが実証され、これが後世に登場する航空母艦の礎となりました。イーライは海軍でパイロットとして働くことを要望しましたが、当時の海軍には航空隊がなかったため彼の願いは叶いませんでした。イーライは航空ショーで展示飛行を続けました。航空隊が組織されたらイーライを雇用するつもりだった海軍はイーライに対して危険な展示飛行をやめるよう助言しましたが、イーライは死ぬまで頑張るつもりと展示飛行を続けました。イーライは1911年10月19日にジョージア州メイコンで開催された航空ショーで墜落し事故死しました。1933年、フランクリン・ルーズベルト大統領はイーライの海軍航空への貢献に対し殊勲飛行十字章を送りました。なお最初に活躍した航空母艦は水上機を搭載した「水上機母艦」で、発艦は艦船から、着艦は着水した水上機を艦船に引き上げるものでした。

 

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2024年10月18日 (金)

函館空港 ANAウイングス ボンバルディア DHC-8-400 (JA848A)

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 2024年8月18日に函館空港で撮影したANA4854便の千歳行きのANAウイングスのボンバルディア(Bombardier) DHC-8-400 (JA848A、製造番号:4102)です。ボンバルディア(Bombardier)DHC-8-402Q Dash 8 と表記される場合もあります。

ANAウイングスのボンバルディア(Bombardier) DHC-8-400 (JA848A、製造番号:4102)
ANAウイングスのボンバルディア(Bombardier) DHC-8-400 (JA848A、製造番号:4102)

 DHC-8は1980年代の初めにデ・ハビランド・カナダ社が開発した双発ターボプロップ旅客機です。デ・ハビランド・カナダ社は世界初のジェット旅客機コメットを開発したデ・ハビランド・エアクラフト社の子会社です。

 【参考】世界初のジェット旅客機の初飛行(1949年7月27日)

 1992年にボンバルディア・エアロスペース社がデ・ハビランド・カナダ社を買収したことからDHC-8はDash 8に改称されましたが、1996年以降に生産されたものについては騒音・振動抑制装置が装備され低騒音型のQシリーズ(Quiet Series)として名称がDHCに戻されました。現在はンバルディア(Bombardier) DHC-8と呼ばれています。

【関連記事】

世界初のジェット旅客機の初飛行(1949年7月27日)

ボンバルディアグローバル 7500 (9H-VIH)

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2024年9月20日 (金)

日本初の動力飛行で「空の日」制定(1911年9月20日)

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 明治43年(1910年)12月19日、徳川好敏、日野熊蔵両陸軍大尉が代々木練兵場において日本初の動力飛行に成功しました。

 【参考記事】日本における動力飛行機の初飛行(1910年12月19日)

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日野熊蔵(左)と徳川好敏(右)

 昭和15年(1940年)に徳川好敏、日野熊蔵両陸軍大尉の偉業から30周年を迎え、また紀元2600年を記念し9月28日が「航空日」と制定されました。初飛行が12月なのに9月とされたのは12月は気候的に「航空日」の行事に適さなかったからです。翌年には「航空日」は秋晴れが多い9月20日とされました。「航空日」は第二次世界大戦の敗戦により廃止されましたが、昭和28年(1953年)に復活しました。

 平成4年(1992年)に戦後の民間航空再開40周年を記念し「航空日」は「空の日」と改称され、9月20日から30日までが「空の旬間」とされました。

【参考記事】日本航空の設立(1951年8月1日)

【参考記事】民間航空記念日(1951年10月25日)

 「空の日」のシンボルキャラクターの「くにまるくん」の名前は「空の日」の日付9月20日「く(9)」「に(2)」「まる(0)」に因んで名づけられました。

「空の日」のシンボルキャラクターの「くにまるくん」
「空の日」のシンボルキャラクターの「くにまるくん」

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2024年9月19日 (木)

広胴貨物輸送機「プレグナント グッピー」初飛行(1962年9月19日)

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 1960年代、NASAは西海岸のメーカーに発注したロケットの部品を船舶で南海岸の組み立て工場や東海岸のケープカナベラル宇宙軍施設まで運んでいましたが、海運は時間がかかり費用も高価で効率的ではありませんでした。

 同じ頃、米国の航空会社は時代遅れになったB-29スーパーフォートレスの派生型C-97ストラトフレイター輸送機をもとに開発された大型の長距離旅客機B-377ストラトクルーザーをジェット旅客機に更新していました。B-377が転売されている状況を知った元アメリカ空軍パイロットのジョン・マイケル・コンロイはこの機体を改造すればロケットの部品を輸送することができると考えNASAに広胴貨物輸送機の提案をしました。NASAの担当者は輸送機のデザインを見て妊娠したグッピーに似ているとコメントをしたと伝えれれています。そのことから輸送機の名前はプレグナント グッピーと名付けられることになりました。しかし、NASAはこの輸送機にあまり興味を示さなかったことから、コンロイは自身で借金をしてエアロ・スペースラインズ・インターナショナルを設立し輸送機の製造を開始しました。

 開発された機体は1962年9月19日にコンロイの操縦によって飛行試験に臨みました。滑走路を離陸する特大で風変りの形状をした飛行機を見た管制官は警察と消防に警戒の連絡をしましたが、大きな問題が発生することもなく離陸し見事に初飛行に成功しました。

広胴貨物輸送機プレグナント グッピー
広胴貨物輸送機プレグナント グッピー

 当初、NASAはプレグナントグッピーに興味を示していませんでしたが、1963年からNASAの貨物輸送を受け持つようになりました。しかし、プレグナントグッピーは貨物室の容積は大きかったのですが積載重量は十分ではありませんでした。NASAはプレグナントグッピーではアポロ計画には対応できないと考え搭載重量の大きい輸送機を要求しました。そこで機体を延長しエンジンをレシプロからターボプロップにしたスーパーグッピーが開発されました。プレグナントグッピーはしばらくの間はスーパーグッピーとともにアポロ計画の輸送機として使用されましたがアポロ計画が終了すると売却された後に1979年に解体されました。

 

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2024年8月 3日 (土)

日本海軍の局地戦闘機「 震電」の初飛行(1945年8月3日)

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 震電は第二次世界大戦末期に大日本帝国海軍が開発した局地戦闘機です。零戦や隼など従来の戦闘機とは全く異なる形状の前翼型飛行機でした。特徴的なデザインと戦争末期に極秘裏に開発された高性能戦闘機だったことから現在も多くの飛行機ファンを魅了し、もし終戦に間に合っていたらと語り継がれています。

局地戦闘機「 震電」
局地戦闘機「 震電」

 震電を設計したのは海軍航空技術廠飛行機部の鶴野正敬技術大尉です。鶴野大尉は昭和17年(1942年)頃、連合各国の航空機の性能向上により従来の日本の戦闘機の性能に限界を感じ高性能な戦闘機の開発を考えるようになりました。鶴野大尉が行き着いたのはエンジンとプロペラを後方に配置し前方に強力な武装を装備した前翼型戦闘機でした。

 昭和18年(1943年)、軍令部参謀に着任した源田実中佐は敵戦闘機の性能向上に対してゼロ戦の性能に限界を感じ新たな高性能戦闘機の必要性を考えていました。源田中佐は鶴野大尉のアイデアに注目し前翼型戦闘機の開発を進めることにしました。

 前翼型戦闘機は前翼の揚力により主翼を小さくすることができるため機体を小型化することが可能でした。これにより機体の空気抵抗を小さくすることができ速度を向上させることができました。この頃、米軍の高高度爆撃機B-29による日本本土空襲が激化し、高高度で高い機動性と安定性を確保できる局地戦闘機が必要でしたが、前翼型戦闘機はその目的に合致していました。

 前翼型戦闘機は各国でも開発されていましたが実用には至りませんでした。鶴野大尉の前翼型戦闘機も特異的な形状に対する批判の声も少なくなく「異端の翼」と呼ばれました。前翼型戦闘機の風洞試験や滑空試験などに成功し基礎研究が終了すると、海軍は昭和19年(1944年)5月にB-29の迎撃を目的とする十八試局地戦闘機「震電」の試作を命じました。海軍は月産300機をめざし工場での量産体制を整えました。その後、設計は順調に進みましたがエンジンを開発していた工場が空襲されるなどして試作機の製作は大幅に遅れました。

 終戦間近で戦況が悪化していた中で始められた試作機の製造でしたが鶴野大尉を中心とする開発チームは1945年6月に試作機1号機の完成にこぎ着けました。蓆田飛行場(福岡空港)で鶴野大尉が自ら滑走試験を行いましたがこのとき機種を下げすぎてプロペラを地面に接触させてしまいました。プロペラは試作2号機用のものと交換され、プロペラが地面に接触しないよう垂直尾翼のかわりとなる側翼に車輪が取り付けられました。

震電の後部
震電の後部

 こうして完成した十八試局地戦闘機「震電」は昭和20年(1945年)8月3日に製造を担当した九州飛行機によって試験飛行が行われ初飛行に成功しまいた。その後の試験飛行でエンジンが故障し部品を取り寄せとなりましたが昭和20年(1945年)8月15日の終戦を迎えました。

 「震電」は実戦に投入されることはなく完成した機体も試作1号機のみとなりました。独特なデザインと終戦に間に合わなかった幻の戦闘機として人気の戦闘機です。実戦に投入される形で小説、映画、ゲームなどに登場します。

 試作1号機は米軍に接収され現在は米国国立航空宇宙博物館別館(スティーブン F. ユードバー=ハジー・センター)に操縦席から前部のみが展示されています。また2023年に公開された映画「ゴジラ-1.0」で実物大のレプリカが作られました。このレプリカは福岡県朝倉郡大刀洗平和記念館に展示されています。

ハセガワ 1/72 日本海軍 九州 J7W1 十八試 局地戦闘機 震電 プラモデル D20

ハセガワ 1/72 日本海軍 九州 J7W1 十八試 局地戦闘機 震電 プラモデル D20

【関連記事】

零戦の日(1939年7月6日)

零戦五二型61-120号機

キ43 一式戦闘機「隼」の初飛行(1938年12月12日)

戦艦「長門」進水(1911年11月9日)

戦艦「大和」が竣工(1941年12月16日)

空母「赤城」進水(1925年4月22日)

空母「信濃」沈没(1944年11月29日)

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2024年7月31日 (水)

「星の王子さま」作者サン=テグジュペリが行方不明に(1944年7月31日)

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 フランスのリヨン出身のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは「星の王子さま」を著した小説家として有名ですが、1921年にフランス軍の兵役に志願し航空機の整備士として働きました。パイロットになることをめざしましたが経験がないため自費で民間の飛行訓練を受けパイロットの資格を得ました。その後、軍の飛行学校に入学し軍のパイロットの資格を得て空軍の航空連隊に配属されました。

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(1942年)
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(1942年)

 1923年5月にサン=テグジュペリが何度か航空機事故を経験すると、婚約者の家族が危険な仕事に従事し続けることに反対されたため軍を退役しました。パイロットを辞めて別の仕事をすることになりましが同年9月には婚約は解消となりました。この頃から小説を執筆するようになりました。

 1926年、サン=テグジュペリは民間の郵便航空会社で定期郵便飛行のパイロットの仕事に就きました。また作家としてデビューし特に自分のパイロットとしての体験をもとにした作品を発表しました。サン=テグジュペリの本は世界中で人気となり、自身も小説を書くパイロットとして有名になりました。

 サン=テグジュペリが「星の王子さま」を書くきっかけとなったのは1935年のサハラ砂漠での不時着事故でした。誰もいない砂漠で絶望的な状態でしたが3日間かけて徒歩でカイロにたどり着き事なきを得ました。このときの経験に基づいて執筆したのが「星の王子さま」です。

 第二次世界大戦が始まると1939年9月に召集され飛行教官を務めましたが自ら前線への転属を望み偵察機のパイロットとなりました。フランスがドイツと講和するとフランスに戻りましたが1940年12月にアメリカ合衆国に亡命しニューヨークに行きました。

 ニューヨークに到着したサン=テグジュペリは連合軍の自由フランス空軍に入隊し1943年6月に北アフリカ戦線の戦場へ戻り偵察機のパイロットとなりました。このとき着陸失敗による事故を起こしたため飛行停止処分を受けました。これは除隊処分と同等なものでしたが何とか復帰することができました。爆撃機のコパイロットを命じられましたが、1944年5月にもとの部隊に戻りロッキードP-38を偵察機に改造したロッキードF-5のパイロットになりました。サン=テグジュペリはパイロットとして作家として人気があり敵軍の多くのパイロットがサン=テグジュペリとは一線を交えたくないと考えていたそうです。

ロッキードF-5A(米軍機)
ロッキードF-5A(米軍機)

 1944年7月31日、フランス内陸部グルノーブルなどの写真を偵察するためロッキードF-5Bで単機で出撃しましたが帰還することなく消息不明となりました。サン=テグジュペリの消息は長らく不明でしたが、1998年9月7日に地中海のマルセイユの南の沖合でトロール船がサン=テグジュペリの銀のブレスレットを発見しました。

サン=テグジュペリの銀のブレスレット
サン=テグジュペリの銀のブレスレット

 この海域には艦船や航空機の残骸が多数沈んでいますが、その中にはロッキードF-5Bもありました。このロッキードF-5Bの存在は1950年代から知られていましたがサン=テグジュペリが偵察に向かった地と離れているため墜落現場とは考えられていませんでした。ブレスレットの発見により、2000年5月24日に発見されていたロッキードF-5Bがサン=テグジュペリの搭乗機であることが判明しました。2003年に残骸が引き揚げられ、機体番号がサン=テグジュペリが搭乗していたロッキードF-5Bと一致していました。サン=テグジュペリ本人の遺体は発見されませんでしたが間違いなく搭乗機であるとされ戦死が認められました。

 2008年3月15日のニュース記事にドイツのフォッケウルフ Fw190のパイロットだったホルスト・リッパートが1944年7月31日にマルセイユ沖の地中海上空でP-38を撃墜した証言しました。このとき撃墜機のパイロットが脱出したかどうかは確認できなかったようです。リッパートはサン=テグジュペリのファンでパイロットが彼だと分かっていたら撃墜しなかったと述べています。

 このリッパートの撃墜説が有力でしが発見された機体に弾痕はありませんでした。機体は高速で海面に激突しており自爆した可能性も指摘されています。

【関連記事】

星の王子さまの日(1900年6月29日)

「星の王子さま」作者サン=テグジュペリが行方不明に(1944年7月31日)

 

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