カテゴリー「飛行機」の107件の記事

2025年10月 9日 (木)

三菱 零式艦上戦闘機二一型|デアゴスティーニ 第二次世界大戦 日本の傑作機コレクション 創刊号

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 デアゴスティーニの第二次世界大戦 日本の傑作機コレクション 創刊号(三菱 零式艦上戦闘機 二一型)を購入しました。 1/72のダイキャストモデルが付属しており零戦について詳しく解説しています。

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目次

シリーズガイド

  • イントロダクション
  • ダイキャストモデル紹介
  • シリーズラインアップ紹介
  • コラム 第⼆海世昇⼤戦の⽇本機
  • マガジン紹介
  • 近刊予告

マガジン目次

  • 機体概要
  • 聞発ストーリー
  • 激闘録
  • 検証!メカニズム
  • 塗装バリエーション
  • ライバル製の比較
  • ⼊物ファイル
  • コラム
    第⼆次世界⼤戰 航空機の世昇
    技術編 航空機のエンジン横造

登録情報

ASIN ‏ : ‎ B0FQTWB63Z
出版社 ‏ : ‎ デアゴスティーニ・ジャパン (2025/9/30)
発売日 ‏ : ‎ 2025/9/30
言語 ‏ : ‎ 日本語
雑誌 ‏ : ‎ 16ページ
寸法 ‏ : ‎ 29 x 22.7 x 6.3 cm

さて1/72のダイキャストモデルですが手に取ってみるとずっしりとした重さを感じます。駐機状態と飛行状態に作り分けることができます。実際には主脚と尾脚の部品を取り替えるだけで作り替えることができます。自分は駐機状態で作成してみました。

三菱 零式艦上戦闘機二一型 デアゴスティーニ 第二次世界大戦 日本の傑作機コレクション 創刊号
三菱 零式艦上戦闘機二一型
デアゴスティーニ 第二次世界大戦 日本の傑作機コレクション 創刊号

 尾翼のAI-103からこの機体は赤城戦闘機隊のハワイ真珠湾攻撃時の第一次攻撃隊制空隊、第2小隊1番機、指宿正信大尉機です。背景を空母の甲板にして白黒の写真にしてみました。

三菱 零式艦上戦闘機二一型(空母甲板を背景に)
三菱 零式艦上戦闘機二一型(空母甲板を背景に)

【関連記事】

零戦の日(1939年7月6日)

零戦五二型61-120号機

一〇〇式重爆撃機「呑龍」

キ43 一式戦闘機「隼」の初飛行(1938年12月12日)

「加藤隼戦闘隊(飛行第64戦隊)」の加藤建夫隊長が戦死(昭和17年 1942年5月22日)

日本初の国産ジェット機「橘花」初飛行(1944年8月7日)

日本海軍の局地戦闘機「 震電」の初飛行(1945年8月3日)

空母「赤城」進水(1925年4月22日)

空母「信濃」沈没(1944年11月29日)

日本海軍空母機動部隊が択捉島単冠湾から出港(1941年11月26日)

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2025年7月15日 (火)

ボーイング社が創業(1916年7月15日)

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  1909年、材木会社の社長を努めていたウィリアム・エドワード・ボーイングはワシントン州シアトルに旅行したときに初めて飛行機を見て航空機に魅せられた。ボーイングは友人の海軍技師ジョージ・コンラッド・ウェスターベルトと航空機を共同開発することにしました。

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ウィリアム・ボーイングとジョージ・ウエスターバレット

 ボーイングとウエスターバレットは水上飛行機B&Wシープレーン(ボーイングモデル1)を共同開発し、1916年7月15日に2人のイニシャルをを社名とした航空機製造会社「B&W」を設立しました。

ボーイングモデル1(B&Wシープレーン)のレプリカ(米国ワシントン州シアトルの航空博物館)
B&Wシープレーン(ボーイングモデル1)のレプリカ
(米国ワシントン州シアトルの航空博物館)

 B&W社は設立後間もなく社名をパシフィック・エアロ・プロダクツ社に変更しました。同年、ウェスターベルトは海軍から西海岸へ転勤を命じられたため同社を退職しました。ボーイングは翌1917年に社名をボーイング航空機株式会社と改名しました。当時、第一次世界大戦中であり海軍は練習機としてボーイング社の双フロート複葉単発機モデルCを採用、ボーイング社は約700機を納入し航空機メーカーとしての地位を築きました。しかし1918年に第一次世界大戦が終了すると軍用機の需要はなくなりました。当時は旅客輸送の需要はありませんでした。一方で郵便事業の航空郵の需要が高まったことから、ボーイング社はアメリカのシアトルとカナダのバンクーバーの間で世界初の国際航空郵便業務を始めました。

 1920年代になると再び軍用機の需要が高まりボーイング社は戦闘機メーカーのリーディングカンパニーとなりました。しかし民間の輸送機や旅客機の需要は十分ではなく航空機産業の将来は決して楽観できるものでありませんでした。ボーイング社は航空郵便のビジネスを続け1927年にボーイング・エラー・トランスポート社を設立しました。

 1933年、ボーイング社は金属製で低翼・単葉・引き込み脚を採用した当時としては画期的な旅客機ボーイング247を開発しました。ボーイング247は巡航速度300 km/hでアメリカ大陸を8時間で横断することができたことから多くのアメリカの航空会社がボーイング247を採用しました。こうして民間航空機時代の幕が開けたのです。

ボーイング247
ボーイング247

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2025年6月14日 (土)

一〇〇式重爆撃機「呑龍」

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 一〇〇式重爆撃機「呑龍」は性能的に限界に達しつつあった九七式重爆撃機の後継機種として日本陸軍が昭和13年(1938年)に中島飛行機に開発を命じた重爆撃機です。

一〇〇式重爆撃機「呑龍」
一〇〇式重爆撃機「呑龍」

 この新型重爆撃機はキ49として開発が進められ1939年8月に初飛行しました。昭和15年(1940年)に完成しました。昭和15年(1940年)は皇紀2600年にあたる年でした。日本陸軍がキ49を正式に採用したのは昭和16年(1941年)です。正式採用年に従う命名では一式爆撃機となりますが、皇紀2600年を記念して一〇〇式爆撃機と名付けられました。皇紀2600年を冠する航空機には一〇〇式司令部偵察機「新司偵」や一〇〇式輸送機があります。 愛称の「呑龍」は中島飛行機の工場のあった群馬県太田市の「子育て呑龍」と呼ばれる浄土宗の寺院「大光院」に由来します。「呑龍」は江戸時代に貧乏人の子弟を養育した浄土宗の僧の名前です。

飛行中の一〇〇式重爆撃機「呑龍」
飛行中の一〇〇式重爆撃機「呑龍」

 一〇〇式重爆撃機「呑龍」は戦闘機の護衛を必要としない20 mm機関砲などの重武装と時速500 kmの高速性能を有する重爆撃機として設計されました。しかし、完成した頃には敵戦闘機の性能が向上していたため実戦では戦闘機の護衛を必要としました。結果的に重装備以外は九七式重爆撃機との性能は変わらず、採用したエンジンの中島ハ41やハ109の信頼性が低く故障が頻発したことから実践部隊の評価は高くありませんでした。主に南方戦線に配備されましたが、このような事情から次第に他の爆撃機が使われるようになりました。 

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2025年5月22日 (木)

「加藤隼戦闘隊(飛行第64戦隊)」の加藤建夫隊長が戦死(昭和17年 1942年5月22日)

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 「加藤隼戦闘隊(飛行第64戦隊)」の隊長として知られる加藤建夫陸軍少将は明治36年(1903年)9月28日に北海道上川郡東旭川村(旭川市東旭川町)で生まれました。大正7年(1918年)に陸軍軍人だった父と兄にならい仙台陸軍幼年学校に入学しました。大正14年(1925年)に陸軍士官学校を卒業し札幌歩兵第25連隊附の陸軍歩兵少尉となりましたが、本人の希望により飛行第6連隊附の陸軍航空兵少尉となりました。大正15年(1926年)に所沢陸軍飛行学校に操縦学生と入学し優秀な成績を収めました。昭和2年(1927年)に同学校を卒業した際に優秀な技量成績で御賜の銀時計を拝受しています。昭和12年(1937年)から始まった日中戦争ではに陸軍航空兵大尉・飛行第2大隊第1中隊長として従軍して活躍しエースパイロットとして名前が知られるようになりました。

加藤建夫陸軍少佐
加藤建夫陸軍少佐

 昭和16年(1941年)4月、加藤は広州天河飛行場駐留の飛行第64戦隊に陸軍少佐・戦隊長として着任しました。同年8月末、飛行第64戦隊に一式戦闘機「隼」が配備されると「加藤隼戦闘隊」と呼ばれるようになりました。

  【参考】キ43 一式戦闘機「隼」の初飛行(1938年12月12日)

映画「加藤隼戦闘隊」に登場した明野陸軍飛行学校の一式戦二型(キ43-II)
映画「加藤隼戦闘隊」に登場した明野陸軍飛行学校の一式戦二型(キ43-II)

「加藤隼戦闘隊」は太平洋戦争(大東亜戦争)において南部仏印(フランス領インドシナ、ベトナム南部)、マレー半島、ジャワ島などで連合国と戦いを繰り広げ多数の敵機を撃墜しました。加藤建夫隊長は「いかなる困難にあたっても平常心を失わないこと」「何事も任務遂行を第一とすること」「個人の功名手柄に走って団結を乱さないこと」を部下に訓示し、自ら率先して困難な任務に当たり無線を活用して僚機に指示を出しながら戦闘を行いました。「加藤隼戦闘隊」が強かったのは加藤建夫隊長が編隊飛行を重視したチームプレーを重視していたからと伝えられています。

加藤建夫(1942年 南方戦線)
加藤建夫(1942年 南方戦線)

 昭和17年(1942年)5月22日、「加藤隼戦闘隊」がアキャブ飛行場に臨時で駐屯していたところイギリス空軍ブレニム爆撃機1機が来襲しました。加藤建夫隊長以下5機が迎撃しましたが2機がブレニム爆撃機の後上方銃座の射撃を受けて帰還、さらに加藤建夫隊長機も期待腹部の燃料タンクに被弾しました。帰還不可能と判断した加藤建夫隊長は僚機に向けて機体の翼を大きく振った後に反転し背面飛行となり火を噴きながらベンガル湾に墜落し自爆しました。加藤建夫隊長は戦死後2階級特進で少将となり「軍神」と呼ばれました。

 

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2025年5月 1日 (木)

日本初の海上空港となる長崎空港が開港(昭和50年 1975年5月1日)

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 長崎空港(IATA: NGS, ICAO: RJFU)は長崎県大村市の箕島に存在する日本初の海上空港です。長崎空港の前身は大村市今津町に存在する大村空港です。大村空港は 大日本帝国海軍大村海軍航空隊の施設で昭和20年(1945年)には特別攻撃隊の出撃基地となりました。昭和35年(1960年)に民間空港共用となりました。

 昭和46年(1971年)、空港を拡張するため沖合の箕島の造成を開始し、昭和51年(1976年)5月1日に新しい滑走路が完成しました。この新しい滑走路はB滑走路とされ、大村空港は長崎空港に改称され日本初の海上空港となりました。昭和55年(1980年)にはB滑走路は三千メートルに拡張されボーイング747をはじめとする大型ジェット旅客機が発着できるようになりました。平成2年(1990年)9月2日には「'90長崎旅博覧会」の記念イベントにコンコルドが飛来しています。長らく本土側の旧大村空港のA滑走路と箕島のB滑走路が併用されていましたが、平成23年(2011年)にA滑走路は防衛省の管轄の海上自衛隊大村航空基地となり長崎空港はB滑走路のみの運用となりました。

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2025年1月22日 (水)

飛行船の日|飛行船「雄飛」の試験飛行(大正5年 1915年1月22日)

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 飛行船「雄飛」は日本陸軍が導入した軍用飛行船です。「雄飛」は明治45年(1912年)6月にドイツから輸入した非硬式軍用単ゴンドラ飛行船「バルセヴァル」(Walserwald)です。この飛行船はドイツの飛行船設計者アウグスト・フォン・バルセヴァルにより設計され1912年にビターフェルトのドイツ航空機製造会社ルフト・ファールツォイク・ゲゼルシャフト( LFG)社で製造されました。

バルセヴァル PL 13(雄飛)
バルセヴァル PL 13(雄飛)

 「バルセヴァル」(Walserwald)は1913年3月28日に事故を起こして損傷しました。その後、所沢の基地で修理と改造が行われた。このとき船名が 「雄飛」に改名されました。改造は1914年8月に完了し1915年4月に日本陸軍に就役しました。

 1916年(大正5年)1月22日、雄飛は所沢から大阪までの試験飛行を行いました。途中、中間点の豊橋に着陸し所要時間11時間34分で大阪にと到着しました。エンジン不調のため所沢への帰路は分解されて陸送されました。「雄飛」は日本初の軍用機であり、飛行船の初飛行を記念し1月22日は「飛行船の日」と制定されました。

 「雄飛」は大正6年(1917年7月)に退役しました。飛行船が配置されていた所沢市では飛行を記念した特製焼き菓子「雄飛焼」が販売されています。

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2024年11月14日 (木)

世界初の艦上から発艦(1910年11月14日)

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 世界で最初の航空兵器を装備した軍艦は「気球母艦」です。1849年7月12日、オーストリア海軍が「気球母艦」から爆弾を取り付けた熱気球を発艦させたものの失敗に終わったという記録が残っています。1861年から1865年にかけて行われたアメリカ合衆国の南北戦争ではガス発生装置を備えた「気球母艦」が建造されました。

 現在の航空母艦のように軍艦の甲板から航空機の発艦に成功したのは1910年です。アメリカ合衆国のパイロットのユージン・バートン・イーリーは1910年初めにオレゴン州ポートランドでドイツ人実業家アーネスト・ヘンリー・ウィームのもとで自動車セールスマンとして働いていました。ウィームは航空業界にも関心をもちカーチス社製の複葉機の代理店となりました。イーリーはこのカーチス複葉機でオレゴンまで飛ばすことを志願し自ら操縦しましたが墜落させてしまいました。幸いイーリーの怪我は軽傷で飛行機も大破しませんでした。

ユージン・バートン・イーリー
ユージン・バートン・イーリー

イーリーは事故機をウィームから買い取り修理して飛行機の操縦の訓練を行いました。1910年6月にミネソタ州ミネアポリスで開催された展示会に参加し、そこでグレン・カーティスと会い彼の航空会社ヘリング・カーチス社で働くようになりました。1910年10月5日、イーライはアメリカ航空クラブのパイロットライセンスを取得しました。その後、イーライとカーチスは海軍から航空機の軍事利用を調査に協力することになり軍艦から飛行機の発艦と着艦が可能かどうかの実験を行うことになりました。

グレン・カーティス
グレン・カーティス

 1910年11月14日、イーリーはカーチスモデルD(カーチスプッシャー)で軽巡洋艦バーミンガムの艦首に仮設された83フィートの飛行甲板から発艦しました。発艦後、イーリーの飛行機は急降下し車輪が水中に入り水しぶきを上げましたがその後は浮上し港を周回して浜辺に着陸しました。これが史上初の艦船から航空機の発艦となりました。

バーミンガムから発艦するカーチスモデルD(カーチスプッシャー)
バーミンガムから発艦するカーチスモデルD(カーチスプッシャー)

 続いて2ヶ月後の1911年1月18日にイーリーはサンフランシスコ湾に停泊中の装甲巡洋艦ペンシルベニアの飛行甲板に着艦しました。飛行機はヒュー・ロビンソンが考案した着艦フックにより飛行甲板上で停止、史上初の艦船への飛行機の着艦に成功しました。

ペンシルバニアに着艦するカーチスモデルD(カーチスプッシャー)
ペンシルバニアに着艦するカーチスモデルD(カーチスプッシャー)

 イーリーの実験により艦船上での飛行機の発艦と着艦が可能であることが実証され、これが後世に登場する航空母艦の礎となりました。イーライは海軍でパイロットとして働くことを要望しましたが、当時の海軍には航空隊がなかったため彼の願いは叶いませんでした。イーライは航空ショーで展示飛行を続けました。航空隊が組織されたらイーライを雇用するつもりだった海軍はイーライに対して危険な展示飛行をやめるよう助言しましたが、イーライは死ぬまで頑張るつもりと展示飛行を続けました。イーライは1911年10月19日にジョージア州メイコンで開催された航空ショーで墜落し事故死しました。1933年、フランクリン・ルーズベルト大統領はイーライの海軍航空への貢献に対し殊勲飛行十字章を送りました。なお最初に活躍した航空母艦は水上機を搭載した「水上機母艦」で、発艦は艦船から、着艦は着水した水上機を艦船に引き上げるものでした。

 

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2024年10月18日 (金)

函館空港 ANAウイングス ボンバルディア DHC-8-400 (JA848A)

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 2024年8月18日に函館空港で撮影したANA4854便の千歳行きのANAウイングスのボンバルディア(Bombardier) DHC-8-400 (JA848A、製造番号:4102)です。ボンバルディア(Bombardier)DHC-8-402Q Dash 8 と表記される場合もあります。

ANAウイングスのボンバルディア(Bombardier) DHC-8-400 (JA848A、製造番号:4102)
ANAウイングスのボンバルディア(Bombardier) DHC-8-400 (JA848A、製造番号:4102)

 DHC-8は1980年代の初めにデ・ハビランド・カナダ社が開発した双発ターボプロップ旅客機です。デ・ハビランド・カナダ社は世界初のジェット旅客機コメットを開発したデ・ハビランド・エアクラフト社の子会社です。

 【参考】世界初のジェット旅客機の初飛行(1949年7月27日)

 1992年にボンバルディア・エアロスペース社がデ・ハビランド・カナダ社を買収したことからDHC-8はDash 8に改称されましたが、1996年以降に生産されたものについては騒音・振動抑制装置が装備され低騒音型のQシリーズ(Quiet Series)として名称がDHCに戻されました。現在はンバルディア(Bombardier) DHC-8と呼ばれています。

【関連記事】

世界初のジェット旅客機の初飛行(1949年7月27日)

ボンバルディアグローバル 7500 (9H-VIH)

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2024年9月20日 (金)

日本初の動力飛行で「空の日」制定(1911年9月20日)

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 明治43年(1910年)12月19日、徳川好敏、日野熊蔵両陸軍大尉が代々木練兵場において日本初の動力飛行に成功しました。

 【参考記事】日本における動力飛行機の初飛行(1910年12月19日)

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日野熊蔵(左)と徳川好敏(右)

 昭和15年(1940年)に徳川好敏、日野熊蔵両陸軍大尉の偉業から30周年を迎え、また紀元2600年を記念し9月28日が「航空日」と制定されました。初飛行が12月なのに9月とされたのは12月は気候的に「航空日」の行事に適さなかったからです。翌年には「航空日」は秋晴れが多い9月20日とされました。「航空日」は第二次世界大戦の敗戦により廃止されましたが、昭和28年(1953年)に復活しました。

 平成4年(1992年)に戦後の民間航空再開40周年を記念し「航空日」は「空の日」と改称され、9月20日から30日までが「空の旬間」とされました。

【参考記事】日本航空の設立(1951年8月1日)

【参考記事】民間航空記念日(1951年10月25日)

 「空の日」のシンボルキャラクターの「くにまるくん」の名前は「空の日」の日付9月20日「く(9)」「に(2)」「まる(0)」に因んで名づけられました。

「空の日」のシンボルキャラクターの「くにまるくん」
「空の日」のシンボルキャラクターの「くにまるくん」

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2024年9月19日 (木)

広胴貨物輸送機「プレグナント グッピー」初飛行(1962年9月19日)

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 1960年代、NASAは西海岸のメーカーに発注したロケットの部品を船舶で南海岸の組み立て工場や東海岸のケープカナベラル宇宙軍施設まで運んでいましたが、海運は時間がかかり費用も高価で効率的ではありませんでした。

 同じ頃、米国の航空会社は時代遅れになったB-29スーパーフォートレスの派生型C-97ストラトフレイター輸送機をもとに開発された大型の長距離旅客機B-377ストラトクルーザーをジェット旅客機に更新していました。B-377が転売されている状況を知った元アメリカ空軍パイロットのジョン・マイケル・コンロイはこの機体を改造すればロケットの部品を輸送することができると考えNASAに広胴貨物輸送機の提案をしました。NASAの担当者は輸送機のデザインを見て妊娠したグッピーに似ているとコメントをしたと伝えれれています。そのことから輸送機の名前はプレグナント グッピーと名付けられることになりました。しかし、NASAはこの輸送機にあまり興味を示さなかったことから、コンロイは自身で借金をしてエアロ・スペースラインズ・インターナショナルを設立し輸送機の製造を開始しました。

 開発された機体は1962年9月19日にコンロイの操縦によって飛行試験に臨みました。滑走路を離陸する特大で風変りの形状をした飛行機を見た管制官は警察と消防に警戒の連絡をしましたが、大きな問題が発生することもなく離陸し見事に初飛行に成功しました。

広胴貨物輸送機プレグナント グッピー
広胴貨物輸送機プレグナント グッピー

 当初、NASAはプレグナントグッピーに興味を示していませんでしたが、1963年からNASAの貨物輸送を受け持つようになりました。しかし、プレグナントグッピーは貨物室の容積は大きかったのですが積載重量は十分ではありませんでした。NASAはプレグナントグッピーではアポロ計画には対応できないと考え搭載重量の大きい輸送機を要求しました。そこで機体を延長しエンジンをレシプロからターボプロップにしたスーパーグッピーが開発されました。プレグナントグッピーはしばらくの間はスーパーグッピーとともにアポロ計画の輸送機として使用されましたがアポロ計画が終了すると売却された後に1979年に解体されました。

 

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