カテゴリー「飛行機」の88件の記事

2023年8月27日 (日)

ハインケルHe178が世界初のジェット飛行成功(1939年8月27日)

 世界で初めて開発されたプロペラを持たないジェット機はルーマニアの発明家アンリ・コアンダが1910年に製作したコアンダ=1910です。この航空機は機首のレシプロエンジンで遠心式ブロアーを回転させるサーモ・ジェット・エンジンが搭載されていました。世界初のジェット機として同年10月にパリで開催されたパリの第2回国際航空博覧会に展示されましたが、同年12月の地上テストで滑走路から逸脱し焼失しました。これによってコアンダ=1910の開発は中止となりました。

 実際に世界で初めて空を飛ぶことに成功したジェット機はドイツのハインケル社が開発したハインケル He 178(Heinkel He 178)です。He 178は世界初のターボジェットエンジン航空機です。

 ターボジェットエンジンはイギリス空軍のフランク・ホイットルが考案し、1929年に遠心式ターボジェットエンジンに関する特許を取得しました。この特許は機密扱いとされなかったため世界で注目され、一部の国でジェットエンジンの開発が行われました。

 最初に有力なエンジンを開発したのは空軍や航空機メーカーの技術者ではなくドイツのゲッティンゲン大学工学部の大学院生ハンス・フォン・オハインでした。 オハインはラジアルタービンを用いたジェットエンジンを考案して特許出願しました。1934年に友人が経営する自動車整備工場で試作機の製造に着手しました。1936年、オハインが開発したジェットエンジンを見たエルンスト・ハインケルはオハインをハインケル社に招きジェット機の開発に着手しました。翌1937年には気体水素を用いた遠心式ジェットエンジンの初号機ハインケルHeS 1 が製造され試験が始まりました。ジェットエンジンの開発が進められ軽油を燃料とする実用的ターボジェットエンジンHeS 3 が完成しました。He 3は単発のレシプロエンジンの急降下爆撃機 He 118に吊り下げる形で飛行試験が行われました。

 このHe 3 エンジンを搭載するために開発された機体がハインケルHe 178です。He 178はハインケル社のジークフリート・ギュンターによって設計され、金属製の胴体に木製の主翼を持つ小型機でした。

ハインケルHe178の試作二号機(上)とレプリカ(下)
ハインケルHe178の試作二号機(上)とレプリカ(下)

 最初の試作機He 178 V1 が初飛行したのは1939年8月27日です。操縦はハインケル社のテストパイロットのエーリッヒ・ヴァルシッツが担当しました。 このときの飛行時間はわずか6分程度でしたが、機体の耐久力などの性能により飛行時間は10分、最高速度は時速598キロメートルに制限されていました。試作2号機 He 178 V2 は推進力不足で離陸もできなかったのです。結果としてHe 178は従来のレシプロエンジンの戦闘機に対して性能面で優位性を示すことができず軍用機として採用されませんでした。

 しかしながらイギリスではホイットルによるジェット機の開発が進んでおり、ジェット機の将来性は確信されていたことからドイツ航空省はハインケル社に双発ジェット戦闘機 He 280の開発を進めるよう要請しました。このとき航空省は他社に対してもジェットエンジンの開発を打診しており、これによって後に世界で初めて実用配備されたジェット戦闘機メッサーシュミットMe 262に搭載されるジェットエンジンが開発されています。ハインケル社はHe 280を開発しましたがエンジン開発に手間取ったことなどから採用されませんでした。しかし、その機体はMe 262より先進的で時代を先取りしたものでした。

 さてHe 178 は試験終了後にドイツ空軍博物館に展示されていましたが1943年のベルリン空襲で焼失してしまいました。He 178は秘密裏に開発されたため一部の国を除いて他国に戦後まで知られることはなかった。現在は初飛行を行ったロストック・ラーゲ空港と米国スミソニアン航空宇宙博物館にレプリカが展示されています。

【関連記事】カテゴリ:飛行機 航空機|今日は何の日

日本初の国産ジェット機「橘花」初飛行(1944年8月7日)

世界初のジェット旅客機の初飛行(1949年7月27日)

ボーイング747が就航(1970年1月22日)

超音速ジェット旅客機コンコルドが就航(1976/01/21)

 

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2023年8月12日 (土)

スペースシャトル実験機「エンデバー」単独初飛行(1977年8月12日)

 米国NASAのスペースシャトル「エンタープライズ」(OV-101)はスペースシャトルのオービター1号機です。この「エンタープライズ」は滑空実験機でエンジンや耐熱シールドは装備されておらず宇宙に旅立つことはありませんでした。1976年9月17日に完成後、さまざまな地上テストを重ねました。

 1977年2月18日、ボーイング747シャトル キャリア航空機(SCA)の背中に搭載された状態で無人飛行テストが行われ、同年6月18日に同条件で有人飛行テストが行われました。そして同年8月12日の飛行テストでは「エンデバー」はボーイング747から切り離され単独飛行、滑空試験、着陸試験が行われました。その後、同テストが4回実施され機体の改良が行われました。

滑空試験中のスペースシャトル実験機「エンデバー」
滑空試験中のスペースシャトル実験機「エンデバー」

 もともとこの機体はアメリカ合衆国憲法発布200年記念しで「コンスティテューション」と名付けられることになっていましたが、「スタートレック」の宇宙船エンタープライズ号と同じ名前をつけてほしいという多数の投書が届いたため「エンタープライズ」と名付けられました。

 滑空テストの後、宇宙飛行ができるように改造する計画が持ち上がりましたが、別の滑空試験機「チャレンジャー」を改造することになり見送られました。1981年4月12日に初めて宇宙飛行をしたスーペース・シャトルは「コロンビア」です。1986年1月28日の「チャレンジャー」の爆発事故の後に「エンデバー」の改造計画が再び持ち上がりましたが「エンデバー」を新造することになりました。

 2012年4月24日、「エンタープライズ」はボーイング747の背に乗せられニューヨーク市上空をデモ飛行し、同年6月にニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に搬入されました。

Endeavour Lands in Houston for Stopover | NASA KSC SCA Space Science Center Shuttle Video

 

ココログ夜明け前

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2023年8月 7日 (月)

日本初の国産ジェット機「橘花」初飛行(1944年8月7日)

 「橘花」は大日本帝国海軍が開発した国産初の双発ジェット戦闘攻撃機[です。

 太平洋戦争の終戦一年前の昭和19年(1944年)8月、日本は戦況の悪化から燃料の入手が困難になり、高高度を高性能で飛行できるレシプロエンジンを搭載した戦闘機の開発に行き詰まりました。そこで低質の燃料や潤滑油で稼働し部品点数の少ない高性能なジェットエンジンを搭載した攻撃機「皇国二号兵器」の開発を決定しました。エンジンの開発は海軍航空技術廠が担当し、機体の開発は中島飛行機が担当しました。

 当時の日本は諸外国に比べてジェットエンジンの開発に遅れを取っており、エンジンの取り付けを翼下懸架型としたジェット戦闘機を開発することにしました。同盟国のドイツが先行して開発していたジェット戦闘機メッサーシュミットMe 262がを翼下懸架型であったことから、「橘花」の開発にあたってはMe 262を参考にすることにしました。そのため日本はドイツが必要としていた哨戒艇用ディーゼルエンジンの技術資料を提供するかわりにとドイツからメッサーシュミット Me 262 の技術資料を提供してもらう密約を結びました。日本とドイツはそれぞれ潜水艦で資料を日本占領下のインドネシアまで運び交換することにしました。情報交換は1944年末に行われましたが日本の潜水艦が米国潜水艦の攻撃を受けて沈没したため、ドイツから提供されたMe 262 機体やエンジンの詳細な設計図がほとんどが失われてしまいました。そのため日本はジェット戦闘機を独自に開発しなければなりませんでした。

 「橘花」はMe 262に似ていますがほとんど独自の設計となりました。エンジンの推力が小さいため小型の機体となり、翼もMe 262とは異なる形状となりました。物資の不足により前輪は爆撃機「銀河」の尾輪、主輪は零戦のものが流用されました。また主エンジンのみでは離陸ができないため離陸用補助エンジンが搭載されまきた。機体はジュラルミン不足のため、ブリキやマンガン鋼が使われました。物資の不足から簡素化が図られ、生産工数も短縮され、零戦の半分の2工数で製造できるように設計されました。

Photo_20230806020901
双発ジェット戦闘攻撃機「橘花」

 完成した試作機「立花花」の試験飛行は広島原爆投下の翌日である昭和19年(1944年)8月7日に千葉県の木更津基地で行われました。燃料不足から航空機燃料の代替品として使われていた松根テレビン油を含む低質な燃料が使われましたが、12分間の飛行に成功し、これが国産ジェット機の初飛行となりました。8月12日に陸海軍幹部視察の飛行が行われましたが、離陸時にオーバーランして飛行することはできませんでした。原因はパイロットの判断ミスによる離陸中止でした。この事故で「橘花」の脚が壊れ再飛行は不可能となり、3日後に終戦を迎えました。

【関連記事】零戦の日(1939年7月6日)

  カテゴリ:飛行機 カテゴリ:今日は何の日

零戦五二型61-120号機

お婆さんの長男は一〇〇式司令部偵察機の偵察兼通信兵

零戦の日(1939年7月6日)

太平洋戦争開戦(1941年12月8日)

長崎原爆忌(1945年8月9日)

広島原爆忌(1945年8月6日)

黒いジェット機事件(1959年9月24日)

戦後初の国産航空機YS-11の初飛行(1962年8月30日)

ソ連戦闘機が函館空港に強行着陸(1976年9月6日)

航空自衛隊YS-11FC 160号機(機体番号12-1160)|八王子「自衛隊まつり」

ココログ夜明け前

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

 

| | | コメント (0)

2023年8月 1日 (火)

日本航空の設立(1951年8月1日)

 昭和20年(1945年)の第二次世界大戦終了後、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は日本の航空産業に関する組織を解体させ、軍はもとより民間の日本の航空機の運用ならびに研究開発を禁じました。昭和25年(1950年)6月に朝鮮戦争が起こると、米軍は日本に戦闘機の修理や部品の供給を要請するため日本の航空産業を再開させました。日本による航空機の運用も解禁となり、昭和26年(1951年)に昭和26年(1951年)1月に日本航空創立準備事務所が開設された。

 このとき複数の会社が国内航空運送事業免許の申請の名乗りをあげたことから、政府は行政指導により日本航空に一本化しました。同年3月に国内航空運送事業の免許を申請され同年8月1日に日本航空株式会社が設立され本社は現在の銀座日航ホテルの場所に置かれました。当初の日本航空は株式会社と言っても半官半民の体制で社員は39名のみでした。

 同年8月27日から29日までフィリピン航空のダグラス DC-3型機(機体記号PI-C7)を借り入れて金星号と名付け試験飛行を行いました。この試験飛行には航空関係者や報道関係者が招待されました。その後、定期路線の就航予定の羽田、大阪、福岡、札幌に事務所を設置しました。

>金星号(DC-3)と客室乗務員(1951/08/27)
金星号(DC-3)と客室乗務員(1951/08/27)

 当初は日本航空自身による運行は認められず日本航空が担当したのは営業と客室乗務員のみでした。運航はパイロットを含めてノースウェスト航空が担当しました。機体はマーチン2-0-2型が使われ「きん星」「もく星」「すい星」「ど星」「か星」と名付けられた5機が就航しました。昭和26年(1951年)10月25日、日本の国旗を記した旅客機が再び飛び立っていきまいた。このことから昭和26年(1951年)10月25日は民間航空記念日 とされています。

【関連記事】日本航空の設立(1951年8月1日)

二宮忠八 日本初の模型プロペラ飛行器を飛ばした男(明治24年 1891年4月29日)

日本における動力飛行機の初飛行(1910年12月19日)

国産動力飛行機が初飛行に成功(1911年10月13日)

日本の空にキャビンアテンダント登場(1931年3月5日)

羽田空港が開港(1931年8月25日)

純国産飛行機「神風号」がロンドンに到着(1937年4月9日)

民間航空記念日(1951年10月25日)

YS-11初公開|YS-11記念日(昭和37年 1962年7月11日)

ココログ夜明け前

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2023年7月22日 (土)

航空自衛隊YS-11FC 160号機(機体番号12-1160)|八王子「自衛隊まつり」

 八王子駅の駅ビルで「自衛隊まつり」(2023年7月15日 ~17日、八王子オクトーレ)というイベントが開催されていました。航空自衛隊の装備品の展示やグッズの販売が行われていました。ひときわ目に付いたのが「八王子航空基地プロジェクト」という1/144スケールの自衛隊機の模型や格納庫などのジオラマ展示です。たくさん並んでいた模型のなかに航空自衛隊の飛行点検機YS-11FCの160号機を見つけました。

航空自衛隊飛行点検機YS-11FCの160号機の模型
航空自衛隊飛行点検機YS-11FCの160号機の模型

 飛行点検機は航空保安無線施設の機能を点検るための機体でFCはFlight Checkerの略です。YS-11FCにはアンテナや様々な無線機材や検査機器が搭載されています。

 YS-11FCには機体番号52-1151(151号機)、62-1154(154号機)、12-1160(160号機)がありました。このうち最初から飛行点検機として導入されたのが160号機で1971年に納入され運用が始まりました。151号機と154号機はそれぞれ1965年、1966年に要人(VIP)輸送仕様のYS-11Pとして導入されたものをYS-11FCに改造したものです。YS-11FCとしての運用開始は151号機は1992年、154号機は1991からです。

 現在は3機とも退役しています。154号機は2015年、160号機は2019年に退役しました。最後の151号機は2021年3月17日に退役し、日本の空から「ダートエンジン」と親しまれたオリジナルエンジンを搭載した4枚プロペラのYS-11が姿を消しました。

【関連記事】航空自衛隊YS-11FC 160号機(機体番号12-1160)|八王子「自衛隊まつり」

YS-11初公開|YS-11記念日(昭和37年 1962年7月11日)

戦後初の国産航空機YS-11の初飛行(1962年8月30日)

YS-11国内定期路線ラストフライト(2006年9月30日)

YS-11が機械遺産に認定

ココログ夜明け前

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2023年7月 6日 (木)

零戦の日(1939年7月6日)

 零式艦上戦闘機(零戦)は九六式艦上戦闘機の後継機として開発されました。零戦の仕様は昭和11年に定められ昭和12年(1937年)10月5日に大日本帝国海軍が提示した要求書に基づき試作名「十二試艦上戦闘機(十二試艦戦)」として開発が進められました。

零式艦上戦闘機一一型 (1941年)
零式艦上戦闘機一一型 (1941年)

 十二試艦戦の要求仕様は当時の戦闘機としては非常に高く中島飛行機は開発を辞退し、三菱による単独の開発となりました。開発は九六式艦上戦闘機の設計者の堀越二郎技師が担当することになりました。堀越二郎は昭和13年(1938年)4月10日に三菱A6M1計画書を海軍に提出し、格闘性能を重視する源田実や航続距離と速度を重視する柴田武雄の相反する要求に応え十二試艦戦の開発を進めました。

 十二試艦戦の試作一号機は三菱重工業名古屋航空機製作所試作工場で製造され昭和14年(1939年)3月16日に完成しました。17日には屋外でエンジンが初始動され地上運転試験が行われました。その後、この試作一号機は分解され24日に岐阜県各務原飛行場に運ばれました。到着後、組み立てられた試作一号機は入念な整備が行われました。そして4月1日に三菱による試験飛行が行われました。これが十二試艦戦の初飛行となりました。その後も試験飛行が重ねられてプロペラが二翼から三翼に変更されたり、高速飛行時の舵の効き過ぎなどの諸問題が改良が施されました。

 改良を重ねた十二試艦戦の試作一号機は同年7月6日に海軍による初の官試乗が行われました。このとき試作一号機を操縦したのは海軍航空廠飛行実験部の戦真木成一大尉と中野忠二朗少佐でした。この官試乗に因み昭和14年(1939年)7月6日は零戦の日とされています。

 試作機は三号機まで作られ昭和15年(1940年)7月24日、零式一号艦上戦闘機一一型として制式採用されました。なお零戦の名前は採用された昭和15年(1940年)は神武天皇即位紀元(皇紀)2600年にあたるのでその下二桁00から零式とされました。当時の日本の軍用機の型式にはその軍用機の採用年次の皇紀下2桁を使用するという規定に従ったものです。

 次の写真は現存するオリジナルの機体とエンジンで飛行可能な唯一の零戦五二型61-120号機です。

零戦五二型61-120号機
零戦五二型61-120号機

【関連記事】零戦の日(1939年7月6日)

  カテゴリ:飛行機 カテゴリ:今日は何の日

零戦五二型61-120号機

お婆さんの長男は一〇〇式司令部偵察機の偵察兼通信兵

太平洋戦争開戦(1941年12月8日)

長崎原爆忌(1945年8月9日)

広島原爆忌(1945年8月6日)

黒いジェット機事件(1959年9月24日)

戦後初の国産航空機YS-11の初飛行(1962年8月30日)

ソ連戦闘機が函館空港に強行着陸(1976年9月6日)

 

記事提供:ココログ夜明け前

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2023年7月 2日 (日)

【おもしろ映像】飛行場の踏切?

 「飛行場の踏切」と言っても飛行場の中を電車が走っているわけではありません。先日アップした記事「ヨットで世界初の単独世界一周(1898年6月27日)」でGoogle Mapを見ていたところ変わった空港を見つけました。

 地中海の入口付近にイベリア半島の南東端から突き出した小半島があります。この領域はスペインの領土ではなくイギリスの海外領土ジブラルタルです。ジブラルタルの北端にジブラルタル国際空港があります。この空港の側には「ザ・ロック」と呼ばれる大きな岩山があり、東側から滑走路への侵入を難しくしておりパイロットの間でヨーロッパで最も危険な空港とされています。

 ジブラルタル国際空港の滑走路はスペインとジブラルタルの境界にあり国境は滑走路によって分断されています。滑走路はジブラルタルとスペインを結ぶウィンストン・チャーチル・アベニューと交差していますが、この道路は高架橋でもなく地下道でもありません。滑走路と同じ平面で交差しているのです。

 ウィンストン・チャーチル・アベニューは自動車だけでなく自転車や歩行者も通行でき滑走路を横断することができるのです。航空機が離着陸するときは鉄道の踏切のように道路に設置された信号が赤になり遮断機が下ります。このような滑走路を持つ空港は他に例がなくジブラルタル国際空港の大きな特徴となっています。

Gibraltar Airport

【関連記事】

羽田空港が開港(1931年8月25日)

飛行機雲はどうしてできるのか?

ココログ夜明け前

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

2023年6月29日 (木)

星の王子さまの日(1900年6月29日 )

 6月29日は「星の王子さまの日」です。「星の王子さま」はフランスの飛行士で小説家のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの小説で、「星の王子さまの日」はサン=テグジュペリの誕生日1900年6月29日に因みます。

 サン=テグジュペリは学生時代は文学を学びましたが、志願兵として陸軍飛行連隊に入隊しパイロットとなりました。退役後は民間航空会社で働きました。仕事の傍ら小説の執筆を手がけ1926年に作家となりました。1929年に自身のパイロットの経験をもとにしたデビュー作「南方郵便機」を発表、1931年の「夜間飛行」や1939年の「人間の土地」がベストセラーとなり人気作家となりました。「人間の土地」ではアカデミー・フランセーズ賞を受賞しています。サン=テグジュペリは作家となった後も国際郵便などのパイロットとして活躍しました。

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ

 1935年にフランスとベトナム間の最短時間飛行記録に挑戦しています。同年12月30日、機体トラブルにより周りに何もないサハラ砂漠に不時着して行方不明になりました。サン=テグジュペリと整備士兼航海士のアンドレ・プレヴォの生存が絶望視されましたが徒歩で3日をかけてカイロに到着、生還を果たしました。この経験は1939 年の「人間の土地」で回想されています。なお「人間の土地」は米国と日本では「風と砂と星と」という題名で出版されました。

 第2次世界大戦が始まると陸軍予備役少尉であったサン=テグジュペリは1939年9月4日に召集され飛行学校の教官を務めました。サン=テグジュペリは教官では満足せず前線でパイロットとして活躍したいと考えました。周囲の人々は著名な作家を前線に送ることはできないと猛反対しましたが、サン=テグジュペリの意思は固く同年11月に偵察機のパイロットとして前線の偵察部隊に転属しました。1940年5月のドイツ軍のフランス侵攻でフランスのヴィシー政権がドイツと講和を結ぶと、サン=テグジュペリは同年12月に米国へ亡命しました。

 サン=テグジュペリは亡命後も祖国を思い、自由フランス空軍に入隊し1943年6月に偵察部隊に着任します。ところが着陸事故を起こしてしまい同年8月に飛行禁止処分を受け操縦桿を握ることができなくなりました。その後、努力の末に爆撃機の副操縦士として復帰しますが、サン=テグジュペリは偵察機に拘り軍の命令を無視して1944年5月に偵察部隊に戻りました。1944年7月31日、サン=テグジュペリはフランス内陸部の偵察のためロッキードP-38ライトニング偵察機型の単座のロッキードF-5Bで単機で出撃しました。ロッキードF-5Bは帰還せず、サン=テグジュペリは消息不明となりました。

 サン=テグジュペリは長らく行方不明とされていましたが、1998年に地中海のマルセイユ沖でトロール船が遺品を発見し2000年にン=テグジュペリのロッキードF-5Bが発見され2003年に引き上げられました。これによってサン=テグジュペリの戦死が公式に確定しましたが、サン=テグジュペリの遺骨は発見されませんでした。

 2008年にドイツの元空軍パイロットでジャーナリストのホルスト・リパートが戦時中にメッサーシュミットBf109で1944年7月31日に地中海上空でP-38を撃墜していたことを証言しました。このP-38を操縦していたパイロットがサン=テグジュペリと考えられますが、リパートは撃墜時にパイロットの脱出は確認していないと述べています。当時、敵軍も含めて多くのパイロットがパイロットであり作家のサン=テグジュペリのことを尊敬していました。多くの敵軍パイロットはサン=テグジュペリの部隊とは闘いたくないと考えていました。リパートもその1人だったようで、「もし(P-38のパイロットが)サン=テグジュペリと知っていたら絶対に撃たなかった。サン=テグジュペリは好きな作家の一人だった」と真情を吐露述しています。

 最後になりますがサン=テグジュペリの名作「星の王子さま」はサハラ砂漠に不時着した主人公のぼく(=パイロット)がある小惑星からやってきた王子と出会い王子と別れるまでの物語です。サン=テグジュペリは自身のサハラ砂漠に不時着したときの経験をもとに「星の王子さま」を執筆しました。サン=テグジュペリはこの物語を通じて「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)」「大切なものは、目に見えない」など人が普段のあくせくした生活の中で忘れてしまったことを思い起こすことの重要性を説いています。また物語の中には第二次世界大戦の悲劇に通じる表現もあり、サン=テグジュペリが戦時下の人々を勇気づける内容になっているという解釈もあります。

【関連記事】星の王子さまの日(1900年6月29日 )

サンジョルディの日(303年4月23日)

小説「ドン・キホーテ」の前巻が出版(1605年1月16日)

シェイクスピアの悲劇リア王の初演(1606年12月26日)

「八百屋お七」の物語(旧1683年3月28日) 

歌舞伎十八番の勧進帳(かんじんちょう) 

子ども130人の誘拐事件「ハーメルンの笛吹き男」(1824年6月26日)

メリーさんのひつじ(1830年5月24日)

「今月今夜の月の日」はどんな月(1897年1月17日)

ピーターパンの日(1904年12月27日)

吾輩があの猫である(1908年9月13日)

漱石の日「夏目なにがしで暮らしたい」(1911年2月21日)

川端康成「雪国」刊行(1937年6月12日)

ジョージ・オーウェルの小説「1984」出版(1949年6月8日)

小説「日本沈没」刊行(1973年3月20日)

ココログ夜明け前

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

 

| | | コメント (0)

2023年3月31日 (金)

ANA最後のジャンボジェット機 BOEING 747-400 JA8961が退役(2014年3月31日)

 ずいぶん前になりますが地方の空港から羽田空港に戻ったときに、ANAのボーイングBOEING 747-400Dを見かけました。

ANA ボーイング747-400D(JA8961)
ANA ボーイング747-400D(JA8961)

 JALのB747-400/400Dは既に全機が退役していますが、ANAのB747-400Dは2014年3月末までに全機が退役することになっています。この機体はそのうちの1機で、機体番号はJA8961でした。これは那覇行きのANA135便(Flight Aware)です。

Ja89612

 JA8961は機体番号25643/972で、型式は481Dです。この機体は1993年5月に導入されたもので、1996年冬季に「スヌーピー号」の塗装が施されました。スヌーピー号はANAが北海道スキーツァー25周年を記念する特別塗装機で、ANAの当時のキャラクターだったスヌーピーと仲間達がスケートボードやスキーを楽しんでいるイラストが描かれていました。

 当時、ANAはB747-400の全機退役に向けて「THANKS JUMBO!キャンペ-ン(ANA)」を実施していました。

Ja89613

 正面からも一枚

Ja89614

 JA8961のラストフライトは2014年3月31日は羽田/那覇線。那覇発羽田行きのNH126便がANA最後のジャンボジェット機の国内線フライトとなりました。羽田に到着した際には消防車の放水アーチで出迎え、35年のANAジャンボジェット機の運航の歴史に幕を閉じました。

【関連記事】飛行機

ボーイング社創業(1916年7月15日)

ボーイング747が就航(1970年1月22日)

超音速ジェット旅客機コンコルドが就航(1976/01/21)

YS-11初公開|YS-11記念日(昭和37年 1962年7月11日)

戦後初の国産航空機YS-11の初飛行(1962年8月30日)

YS-11国内定期路線ラストフライト(2006年9月30日)

YS-11が機械遺産に認定

零戦五二型61-120号機

飛行機雲はどうしてできるのか?

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2023年1月17日 (火)

パロマレス米軍機墜落事故(1966年1月17日)

 1960年代の米ソ冷戦時、米国空軍は核兵器を装備した戦略爆撃機B-52でソ連の国境近くまで継続的に飛行する空中警戒であるクローム・ドーム作戦を展開していました。

 1966年1月17日、4発の水爆を搭載した米空軍戦略航空軍団(SAC)所属の戦略爆撃機B-52Gは地中海上空高度3万1千フィート(9448メートル)で空中給油機KC-135Aから給油を受けていましたが、2機が衝突して墜落する事故が発生しました。この事故でB-52の搭乗員7名のうち4名は脱出しましたが3名が亡くなり、 KC-135Aの乗員4名は全員が亡くなりました。

 B-52に搭載されていた4個の水爆のうち3個はスペインのアンダルシア州アルメリア県クエバス・デル・アルマンソーラのパロマレス集落に落下し、1個は付近の海中に落下しました。

Photo_20230116145201
海中から引き上げられた水爆

 地上に落ちた3個の水爆のうち1個は無傷で発見されましたが、残りの2個は核爆発は免れたものの起爆用火薬が爆発し周囲2平方キロメートルにウランとプルトニウムが飛散し、深刻な放射能汚染を引き起こしました。

 海中に落ちた水爆は米軍の探索によって2ヶ月後の3月17日に発見され引き上げられました。この作業中に潜水夫が大怪我をしています。2000年に公開されたキューバ・グッディング・ジュニア主演のアメリか映画「ザ・ダイバー(MEN OF HONOR)」はこのダイバーであるカール・ブラシアの半生を描いたものです。

 落下地点のパロマレスは現在においても規制値以上の放射性物質が検出される土地もあり厳重に管理されて閉鎖されていますが、パロマレスの住民には健康被害は出ていないようです。

【関連記事】

航空機|今日は何の日

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

| | | コメント (0)

より以前の記事一覧