カテゴリー「飛行機」の36件の記事

2021年3月 6日 (土)

世界一周記念日(1967年3月6日)

 世界一周路線は出発地となる空港を出発し太平洋と大西洋を横断して世界を一周した後に出発地の空港に戻る単一の航空会社による路線のことです。世界一周と言っても世界のすべての国を巡るわけではありません。実際には地球一周と言った方が的を射ているでしょう。

 さて、日本の航空会社は戦後のサンフランシスコ講和条約に基づき結ばれた日米航空協定(日本国とアメリカ合衆国との間の民間航空運送協定)によって制限を受け、世界一周路線を営業することはできませんでした。

 その後、日米航空協定が改訂され、日本の航空会社が世界一周路線の営業が可能になると、日本航空は昭和42年(1967年)に日本を含むアジアの航空会社として初めて世界一周路線の営業を開始しました。この世界一周路線は西周りと東周りの週2便が設定され、機体はダグラスDC-8が使われました。第一便は同年3月6日0時30分に西回り便が東京国際空港(HND、羽田空港)を出発しました。西回りの世界一周の経路は次のように設定されていました。この日を記念して3月6日は世界一周記念日とされています。

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日本航空の世界一周航路

 東京⇒香港⇒バンコク⇒ニューデリー⇒テヘラン⇒カイロ⇒ローマ⇒フランクフルトorパリ⇒ロンドン⇒ニューヨーク⇒サンフランシスコ⇒ホノルル⇒東京

 当時の日本は東京オリンピック開催後の高度経済成長期にあり、海外旅行の人気が高まっており、世界一周路線は庶民の憧れでした。海外の航空会社もパンアメリカン航空(米国)、トランス・ワールド航空(米国)、英国海外航空、カンタス航空(オーストラリア)が世界一周路線を就航しており、各社で乗客獲得のための競争が行われていました。

 日本航空の世界一周路線は採算性が思わしくなかったことや、1972年に相次ぐ航空事故(羽田空港暴走事故、ニューデリー墜落事故、金浦空港暴走事故、ボンベイ空港誤認着陸事故、シェレメーチエヴォ墜落事故)によってDC-8を3機失ったことから、1972年に営業を終了しました。他の航空会社も採算性の問題から次第に世界一周路線を取りやめていきました。

 現在は世界一周航空券が販売されていますが、これは複数の航空会社の連携によるものです。

 ところで航空機による世界一周は次のように決められています。

・出発地を出発してすべての子午線を通過して出発地に戻ること
・北回帰線の長さ36,787.559 km以上のコースをとること

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修正 カンタス航空(カナダ)→カンタス航空(オーストラリア)

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2021年3月 5日 (金)

日本の空にキャビンアテンダント登場(1931年3月5日)

 現在においては旅客機に客室乗務員(キャビンアテンダント、CA)が乗務しているのはあたりまえのことですが、昔は機内サービスがなかったためCAという職業は存在していませんでした。機内サービスが始まったのは1919年とのことですが、最初は副操縦士が担当していました。

 CAが搭乗するようになったのは1920年代になってからです。当時のCAは男性のみでスチュワードと呼ばれていました。スチュワード(男性)、スチュワーデス(女性)は船舶料理士に由来します。1929年にはパンアメリカン航空が訓練されたCAを搭乗させました。CAは機内サービスや緊急時の対応を担当しました。

 1930年、米国のボーイング・エア・トランスポート社が初めて女性のCAを乗務させました。このCAは看護師の経験があり、機内サービスの他に緊急時の対応も担当しました。現代の感覚からすると不適切ですが、当時は多くの人が危険な乗り物と考えていた旅客機に初めて女性CAを乗務させることにより、航空機の安全性をPRする目的もあったそうです。

 さて、日本の旅客機にCAが乗務するようになったのは翌年の1931年(昭和6年)でした。日本航空学校を運営していた相羽有(あいばたもつ)が1928年に設立した東京航空輸送がCAを募集、同年2月5日採用試験を行いました。そして、140人の応募者から3人を採用したことを3月5日に発表しました。3人の女性CAはエアガールと呼ばれ、東京―下田―清水間の定期路線に乗務しました。

現在のキャビンアテンダント
現在のキャビンアテンダント

 東京航空輸送は1939年(昭和14年)3月27日に国策によって1938年に設立された大日本航空に吸収合併されることになりました。その大日本航空は第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)10月に解散し、同年11月のGHQの指令「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」 (SCAPIN-301) によって日本人による航空に関わる活動はいっさい禁じられました。

 余談ですが日本飛行学校の一期生にはウルトラマンの生みの親でもある円谷プロダクション創設者の円谷英二さんが入学しています。この話はまたの機会にと思います。

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2021年3月 2日 (火)

超音速ジェット旅客機コンコルドが初飛行(1969年3月2日)

 1950年代後半、イギリスとフランスはそれぞれ独自に超音速旅客機の研究を始めていました。しかし、同じような機体を開発しても営業上の競合が避けられないことや開発費用の削減などを考慮し、1961年に両国で共同開発をすることになりました。1963年11月29日に両国間で共同開発の協定書が結ばれました。当時のフランスのシャルル・ド・ゴール大統領はこのプロジェクトをフランス語で協調や調和を意味する「コンコルド(Concorde)」と名付けました。

 両国間で主導権や機体の名称の決定について論争がありましたが、開発は着々と進み、機体の名称も「コンコルド」でまとまりました。各国のナショナル・フラッグの航空会社から多数の注文が入り、1967年11月12日にフランスのトゥールーズで機体の原型が公開されました。

 その2年後の1969年3月2日、原型機が初飛行に成功、10月1日には超音速での飛行に成功しています。1976年1月21日からブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスが定期的な商業運行を開始しました

 コンコルドの機体は非常に長い流線型の胴体で、機首は離着陸時には視界確保のために機首を下方に曲げることができるようになっています。また、客室は4列配置の100席でファーストクラスのみの設定でした。

コンコルド
コンコルド(Author Arpingstone

 コンコルドはマッハ2(時速2,500km)の速度でパリ・ニューヨーク間をわずか3時間45分で結びました。当初は未来のジェット機として期待されましたが、客席数や燃料消費量による採算性の問題、離着陸時の騒音や大気汚染の問題などを解決することができず、ビジネスとしては成功しませんでした。原型機を公開した当時は100機を超える注文がありましたが、実際には20機(原型機4機と量産型16機)しか生産されませんでした。

 2000年7月、コンコルド自身の問題ではありませんでしたが墜落事故が起きてしまいます。また2001年の911米国同時多発テロにより航空業界が大打撃を受けると、2003年にブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスはコンコルドの運航を停止することを発表しました。そして、2003年10月24日、コンコルドは最後の飛行を終えました。その後、超音速旅客機が開発されることはなく、コンコルドの最後の歩行をもって、超音速旅客機は世界の空から姿を消すことになりました。

 コンコルドの詳細についてはココログ 夜明け前 「超音速ジェット旅客機コンコルドが就航(1976/01/21)」にまとめてありますのでご一読ください。

 

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2021年1月23日 (土)

ボーイング747が就航(1970年1月23日)

 ジャンボジェット機の愛称で親しまれた大型旅客機のボーイング747(B747)。この内部に2つの通路を備えたワイドボディの旅客機は乗客を500人以上も運ぶことができました。

 B747が登場する1960年代は乗客数が150〜200人の通路が1つしかないナローボディの旅客機が主流でした。高まる航空需要に応えるためには、従来の機体よりも大型で乗客数が倍以上の旅客機が必要性に迫られていました。

 当時、米国フラッグ・キャリアとして国際航空路線を拡充していたパンアメリカン航空は、ボーイング社に対して、乗客数400人を実現する大型旅客機の開発を要求しました。この要求に対してボーイング社は開発が頓挫していた米軍向けの輸送機を民間機として設計し直すことを提案ました。1965年にパンアメリカン航空はこの計画を了承し、25機のB747を注文しました。ボーイング社は1969年に初号機をパンアメリカン航空に納入するため、28ヶ月という信じられないほどの短期間で開発設計を完了しました。当時、世界の航空会社は乗客の獲得で激しい競争をしていました。パンアメリカン航空のB747の発注に続いて、多くの航空会社がB747を発注しました。

 B747は旅客機としてだけではなく輸送機としても利用できるように、機種部分から貨物の積み下ろしができるような設計になっていました。この構造によって操縦席と客席の一部が2階に配置されました。この背景には、当時開発が進められていたコンコルドをはじめとする超音速ジェット機が旅客機の主流になっていくと考えられていたからです。そのため、B747は旅客機仕様から輸送機仕様に変更できるように作られていました。輸送機仕様のB474も貨物専用の航空会社から多くの注文がありました。

 B747の商用路線の初フライトは1970年1月23日、パンアメリカン航空のニューヨーク-ロンドン線を結ぶフライトです。その後、多くの航空会社でB747が就航しました。従来の飛行機よりも大型機が必要という要望から開発されたB474でしたが、実際には当時の航空需要に対して座席数が多すぎ、座席が満席になることはありませんでした。そのため多くの航空会社が座席を満席にするため運賃を下げて全体の売上向上を狙う戦略を取り始めました。その結果、さまざまな割引が行われるようになり、とりわけエコノミークラスの格安運賃が渡航費用を下げることになり、それまで庶民にとって高嶺の花であった海外旅行が身近なものになりました。

 当初、B474は超音速旅客機に置き換えられると考えられていましたが、超音速旅客機がその採算性や騒音問題の解決に目処が立たずに頓挫したことから、とりわけ遠距離旅客機の主流となりました。

 開発から半世紀以上たった現在においても活躍しているB474ですが、より低燃費で後続距離の長い双発の旅客機が開発されたことによって、大型機で一度にたくさんの乗客を運ぶよりも、中型機で複数回運航する航空会社が増えてきました。日本ではJALが2011年2月、ANAが2014年3月にB747の運行を終了しています。

 世界各国でもB747の需要に陰りが見え始めていましたが、新型コロナウイルスの流行がB474の終焉を決定づけることになりました。

 2020年7月、ボーイング社はB4747の生産を2022年に終了することを発表しました。

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2021年1月21日 (木)

超音速ジェット旅客機コンコルドが就航(1976/01/21)

 ライト兄弟が有人動力機付飛行機の飛行に成功したのは1903年のことでした(ココログ 夜明け前「ライト兄弟が初飛行に成功 (1903/12/17)」。それから66年後の1969年3月2日、イギリスとフランスが科学技術の粋を集めて共同で開発した超音速旅客機が初飛行に成功しました。その飛行機の名前は「コンコルド」です。特徴的な三角翼を持ち、高度約1万8000メートルをマッハ2の速度で飛行することができました。

コンコルド
コンコルド(Author Arpingstone

IRST FLIGHT CONCORDE - MARCH 1969 - TOULOUSE, FRANCE

 コンコルドが商業飛行に就航したのは1976年1月21日です。英国航空(BA)とエアーフランス(AF)が同時に就航しました。当初、BAはブリティッシュエアウェイズがロンドン-バーレーン線、AFがパリ-ダカール-リオデジャネイロ線の運行を開始し、やがて他の路線を就航するようになりました。1977年にはBAとAFのコンコルド2機が同時刻にそろってニューヨークに到着するというイベントもありました。ロンドン・パリからニューヨークまでわずか約3時間45分で結びました。現在、パリからニューヨークおよびロンドンからニューヨークの飛行時間はおよそ8時間ですから、コンコルドは飛行時間を1/2以下に短縮することができました。日本には5回来ています。

Concorde Inaugural flight | Heathrow Airport | 1976 

 しかし、技術の推移を集めたコンコルドも時代の流れに乗ることができませんでした。燃料費、機体の保守などの採算が合わず、騒音の問題も解決できませんでした。

 2000年7月にはエアーフランスのパリ・シャルル・ド・ゴール発、ニューヨーク行きのコンコルド4590便が墜落事故を起こしました。この事故により、コンコルドの耐空証明が取り消され、BAとAFは1年以上もコンコルドを運航できなくなりました。

 墜落したコンコルドは離陸前に第2エンジンに異常があり、部品を交換し、出発が約1時間遅れていました。当初、部品の交換と事故の関係が疑われましたが、調査の結果、この事故は離陸時にタイヤがパンクしたことによって発生したことがわかりました。パンクしたタイヤの破片が燃料タンクを破損し、漏れ出した燃料が発火したことが墜落の原因だったのです。

 パンクの原因は、コンコルドが離陸するわずか5分前に離陸したコンチネンタル空港のDC-10が滑走路に落とした部品によるものだったのです。もし、エンジンの異常がなく予定通り離陸していたら、コンコルド4590便の事故は起こっていなかったことになります。

Concorde Flight 4590

 911米国同時多発テロにより航空業界が大打撃を受けると、ついにAFは2003年5月、BAは同年10月にコンコルドの運航を終了したのです。

 2003年10月24日、ロンドンのヒースロー空港では20万人を超える人が大空を見つめていました。コンコルドが着陸し、コクピットからイギリスの国旗が降られると歓声が沸き上がりました。そして、超音速旅客機コンコルドは27年間の仕事を終え、大空からその姿を消したのです。

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 コンコルドの終焉によって超音速旅客機の実現は絶望的なものになりましたが、2020年代になって再び機運が高まっています。現在、米国コロラド州のブーム・テクノロジーが超音速旅客機の開発を進めています。

 すでに試験機「XB-1」を公開しており、2021年にニューヨーク―ロンドン間3時間15分の初飛行を行う予定のようです。また、本格的な旅客機の公開は2025年を予定しているようです。

 新型コロナウイルスが障害になっていることは間違いないと思いますが、コンコルドが果たせなかった夢をのせた超音速旅客機が再び世界の空を駆け抜ける日はそう遠くないかもしれません。

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2021年1月16日 (土)

北海道エアシステム(HAC)のサーブ340Bが退役

 2020年12月29日に北海道エアシステム(HAC、NTH/JL)のサーブ340B(JAC03HC)がラストフライトとなり現役を引退しました。HACはサーブ340Bを三機保有しており、今回退役したJAC03HCは導入3号機です。JAC03HCは1999年9月21日の就航から21年100日目でその役割をの終えました。

 この後、2021年夏までに1号機のJA01HC、年末までにJA02HCが退役する予定です。これによって民間航空機としてのすべてのサーブ340は日本の空から姿を消すことになります。

 次の写真はJAL 2748便の函館発札幌(丘珠)行きのサーブ340B JAC02HCです。悪天候で到着が遅れ、出発も遅れていましたが、ちょうどドアが開いてエアステアが降ろされたところでした。

340ja02hc
サーブ340B JAC02HC

 サーブ340Bは1クラス36席の近距離用双発ターボプロップ旅客機です。HACは2021年4月に1クラス48席のターボプロップ双発旅客機ATR42-600の1号機を就航させ、新型コロナウイルスの影響もあるようですが、2021年末には3機すべてのサーブ430BがATR42-600になります。

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2021年1月14日 (木)

AIR DO B737-700(JA09AN)

 函館空港で撮影したAIR DO ボーイング737-700(型式ANA-781、機体番号JA09AN)です。この機体JA09ANは元々はANAが導入したもので、2007年7月にANAとして登録され、2015年9月に抹消、同年同月にAIR DOとして再登録され、AIR DOに転籍となりました。

AIR DO ボーイング737-700(型式ANA-781、機体番号JA09AN)
AIR DO ボーイング737-700(型式ANA-781、機体番号JA09AN)

 このフライトはAIR DO 128便、函館発(13:00)、中部国際空港行き(14:40)です。機体番号ごとのフライト情報は「FlightAware」で検索できます(JA09Nのフライト情報)。この写真はANAの函館発(12:05)、羽田行き(13:35)の機体がエプロンから離れてプッシュバックされているときに撮影したものです。ANAの出発が機材整備のため遅れたため撮影できました。

 ココログ「夜明け前」の飛行機に関する記事はカテゴリ「飛行機」で閲覧することができます。 

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2020年12月27日 (日)

飛行機から見た飛行機雲

 ずいぶん前に撮影した写真ですが、飛んでいる飛行機の上空を別の飛行機が飛んで行きます。

飛行機から見た飛行機雲
飛行機から見た飛行機雲

 お互いもの凄いスピードで飛んでいるのであっという間の出来事でしたが、すれ違ったわけではないので、撮影には多少の余裕がありました。

雲ひとつない真っ青な空に飛行機雲
雲ひとつない真っ青な空に飛行機雲

 真っ青な空に飛行機雲。自然の雲はこちらの飛行機の下方にありますので、雲ひとつない空を突き抜けていくとても綺麗な飛行機雲を撮影することができました。

 大空を突き抜ける飛行機雲。どうして飛行機雲が飛行機から出てくるのかについてはココログ「夜明け前」の「飛行機雲はどうしてできるのか?」をご一読ください。

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2020年12月19日 (土)

日本における動力飛行機の初飛行(1910年12月19日)

 19世紀末から20世紀の初めにかけて、世界各国の技術者が空を飛ぶことへの挑戦をしていました。初めてエンジンを搭載した飛行機の初飛行に成功したのはアメリカのライト兄弟です。ライト兄弟は1903年12月17日にライトフライヤー号で最高速度48 km/h、高度9.15 m、航続距離260 mの59秒間の飛行に成功しています(ライト兄弟が初飛行に成功)。

 日本にも飛行機の研究をしていた技術者がいました。二宮忠八は明治24年(1891年)4月29日に日本初のゴム動力の模型プロペラ飛行器を飛ばすことに成功し、本格的に飛行機の開発に取り組みました。しかし、ライト兄弟に先を越されてしまったことを知り、飛行機の開発を諦めてしまいました(二宮忠八 日本初の模型プロペラ飛行器を飛ばした男)。

 日本における動力飛行機の初飛行は外国製の飛行機を使って行われました。使用された飛行機はドイツ製の「グラーデ単葉機」とフランス製の「アンリ・ファルマン号」でした。

グラデー単葉機とアンリ・ファルマン号
グラデー単葉機(左)とアンリ・ファルマン号(右)

 この2機の外国製飛行機で初飛行に成功したのは陸軍軍人の日野熊蔵と徳川好敏です。2人は1910年(明治43年)4月11日、操縦技術習得のためフランスのアンリ・ファルマン飛行学校エタンプ校に派遣されました。その後、日野熊蔵はドイツで操縦技術を学び、グラーデ単葉機を購入しました。

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日野熊蔵(左)と徳川好敏(右)

 初飛行の記録会が公開されたのは1910年12月19日代々木練兵場(現在は代々木公園)でした。日野熊蔵はグラデー単葉機、徳川好敏はアンリ・ファルコン号で初飛行に成功、これが日本における動力飛行機による初飛行と記録されました。

 当初は日野式自動拳銃などを発明していた日野熊蔵に注目が集まっていましたが、初飛行の挑戦は最初に徳川好敏のアンリ・ファルコン号、日野熊蔵のグラデー単葉機の順番に行われました。そのため、徳川好敏が日本初飛行と記録されました。徳川好敏は清水徳川家8代当主でもあり、この初飛行の成功によって当時没落していた徳川家の名誉回復にもなりました。

 実は公開日の5日前の1910年12月14日、日野熊蔵が滑走試験をしていたところ、機体が空中に浮き上がり、初飛行を果たしていました。当初はこれが日本における動力飛行機の初飛行とされましたが、初飛行を報じた新聞社は1社のみでした。その新聞によると、このときの飛行距離は60 mとされていますが新聞記者の目測でしかありませんでした。また、日野熊蔵本人や現場を仕切っていた物理学者の田中館愛橘も初飛行成功には言及していません。実際には滑走中に飛行機が浮き上がっただけであり、操縦できる状態の「飛行」ではなかったようです。日野熊蔵本人もフランスやドイツで飛行訓練を受けていますので、飛行機が飛んでいる状態を身をもって知っていたはずです。その日野熊蔵本人が初飛行に言及していないのですから「飛行」とは言えなかったのでしょう。

 結果として14日の日野熊蔵の初飛行は記録として残らず、19日に最初に飛行に成功した徳川好敏のアンリ・ファルンコン号の飛行が日本における動力飛行機の初飛行とされている。

 二宮忠八が飛行機の開発を上層部に上申していましたが却下されたそうです。もしも開発を継続することができていたら、日本における動力飛行機の初飛行は国産飛行機で成し遂げれていたかもしれません。

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2020年12月17日 (木)

ライト兄弟が初飛行に成功 (1903/12/17)

 アフリカでの人類が誕生以来、人類にとって移動することは生きていくために必要不可欠なことでした。最初は自分の身体のみで移動していましたが、やがて動物を利用したり、道具を利用するようになりました。陸上の移動や水上の移動はかなり古くから発達しましたが、空は簡単ではありませんでした。空を飛ぶ鳥を見て、どうやったら空を飛ぶことができるのだろうかと考え、その偉業に挑戦しようとした人はたくさんいたに違いありません。

 イタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチは1490年にヘリコプターや人力のオーニソプター(羽ばたき機)の設計図を残しています。ヘリコプターは竹トンボのようなものを見ていれば思いつくと思いますが、ダ・ヴィンチのヘリコプターはゼンマイで螺旋状のプロペラを回転させるものでした。オープニソプターは鳥の骨格や羽ばたきを観察して設計したものでした。しかし、当時の技術ではこのアイデアを実現することはできませんでした。

レオナルド・ダ・ヴィンチのヘリコプターと人力飛行機(はばたき機)のスケッチ
レオナルド・ダ・ヴィンチのヘリコプターとオーニソプターのスケッチ

 最初に空を飛ぶことに成功したのは飛行機ではなく熱気球でした。世界では初めて熱気球による有人飛行を成功させたのはフランスのジョゼフ=ミシェル・モンゴルフィエとジャック=エティエンヌ・モンゴルフィエのモンゴルフィエ兄弟です。彼らは実験を重ね、1783年11月21日に地上に係留されていない気球による有人飛行を成功させました。

 19世紀末、空の移動手段はモンゴルフィエ兄弟の熱気球から発展した飛行船でした。飛行船は浮力で空中に浮かび上がることができますが、揚力で飛ぶ動力をもつ飛行機は実現されていませんでした。この頃、ドイツのオットー・リリエンタールはイギリスのジョージ・ケイリーが考案したハンググライダーを作り、改良を重ねて飛行実験を繰り返していました。リリエンタールの飛行実験は世界中で報道され、空を飛ぶ飛行機の実現への期待が高まりました。リリエンタールは1896年8月9日の飛行実験で墜落して死亡しています。

 リリエンタールの飛行実験に興味をもったのがアメリカのオハイオ州デイトンで自転車屋を運営していたウィルバー・ライトとオーヴィル・ライトのライト兄弟です。

ライト兄弟 ウィルバー・ライト(三男)とオーヴィル・ライト(四男)
ライト兄弟 ウィルバー・ライト(三男)とオーヴィル・ライト(四男)

 ライト兄弟は実際に飛行機を製作し、飛行実験を開始しました。ライト兄弟の飛行機は木製の骨組みに布を張ったものでしたが、動力としては自力で開発した水冷12馬力の小型エンジンを採用しました。また、機体の姿勢制御として、左右の主翼をねじることによって機体を傾ける方法を考案しました。パイロットは腹這いに搭乗し、左手で機種を上下するレバー、右手で機体を傾けるレバーを操作するようになっていました。

 1903年12月17日、ライト兄弟はアメリカ・ノースカロライナ州のキティホーク近郊のキルデビルヒルズという町で動力飛行機の公開実験を行いました。ライト兄弟が公開実験に使った飛行機は「ライトフライヤー号」といいます。

ライトフライヤー号
ライトフライヤー号

 飛行実験は砂場で行われたため、ライトフライヤー号はレールの上を滑走して飛び立つようになっていました。静止している飛行機は左右のバランスが取れないため、人の手で翼を支える必要がありました。エンジンを始動すると、滑走する飛行機と一緒に走り、空へ飛んでいくライトフライヤー号とパイロットを見送ります。

 この日には4回飛行し、1回目は弟のオーヴィルによる操縦で12秒(約36.5 m)の飛行に成功しました。2回目は12秒(約53.3 m)、3回目は15秒(約60.9 m)、そして最後の4回目は兄のウィルバーによる操縦で59秒(約259.6 m)の飛行に成功しました。動力飛行機による人類初の飛行に成功した世紀の瞬間でした。

 ライト兄弟は公開飛行に先立って新聞社や友人などに多くの招待状を出していましたが、この世紀の瞬間に立ち会ったの観客は5人だけだったそうです。ライト兄弟にとって初飛行は栄光だけではありませんでした。「機械が空を飛ぶことは不可能」などと言われ、しばらくの間はライト兄弟による初飛行は信用されませんでした。また、飛行機が兵器として注目されたこともあり、ライト兄弟が取得した飛行機に関する特許は紛争が絶えませんでした。

 ライト兄弟のライバルであったグレン・カーチスは1903年の10月と12月に飛行実験に失敗したスミソニアン協会のサミュエル・ラングレーの飛行機エアロドームが世界初の飛行機であると主張し、1914年にエアロドームの再実験を行いました。再現されたエアロドームは飛行に成功、スミソニアン協会は世界で初めて飛行機を作ったのはサミュエル・ラングレーとしたのです。ところが、このエアロドームは多くの改良がされており、1903年の当時のものではありありませんでした。

 兄のウィルバーは特許紛争の中でチフスによって1912年に亡くなりました。一方、弟のオーヴィルも飛行機の開発をやめてしまいました。失意の中、ロンドン科学博物館がライトフライヤー号を展示したいとオーヴィルに申し出てきました。オーヴィルはこの申し入れを受諾し、大学の倉庫に保管されていたライトフライヤー号を1928年にイギリスに送りました。

 ライトフライヤー号がロンドン科学博物館に展示されていることはやがて問題へと発展しました。スミソニアン協会はオーヴィルにライトフライヤー号をアメリカに戻すように要請しましたが、オーヴィルは頑なに断りました。1942年、スミソニアン協会は1914年のエアロドームの実験が虚偽であったことを認め、ライト兄弟に初飛行の偉業を認めて謝罪しました。これを受けてオーヴィルはライトフライヤー号をアメリカに戻すことを承諾しました。

 1948年12月17日、ライトフライヤー号がワシントン国立博物館で盛大に展示公開されました。ライト兄弟が初飛行に成功してからちょうど45年後のことです。オーヴィルは1948年の初めに亡くなっていました。

 オーヴィルは晩年に飛行機を発明を後悔したと言っています。1943年に最近100年間の十大発明は何かと聞かれたときには、飛行機を加えませんでした。そして、オーヴィルは第二次世界大戦を見て飛行機がもたらした破壊を残念に思うと述べています。

 ライト兄弟の初飛行から約120年の歳月が経ち、人類は空を超えて、宇宙へ飛び出しています。ライト兄弟の功績は末長く語られていくでしょう。

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