カテゴリー「飛行機」の77件の記事

2022年8月30日 (火)

戦後初の国産航空機YS-11の初飛行(1962年8月30日)

 YS-11は第二次世界大戦後に初めて日本の航空機メーカーである日本航空機製造が開発した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機です。

 YS-11の1号機は昭和36年(1962年)7月に三菱重工業小牧工場(現:小牧南工場)で初公開されました。その後、約1ヶ月間で試験検査が行われ同年8月14日にはエンジン点火し滑走路に出て走行テストが行われました。そして8月30日に多くのマスメディア関係者が見守る中で名古屋空港(小牧空港)を離陸しました。その後、伊勢湾上空を56分間飛行しデモンストレーションを兼ねた飛行テストを終了しました。

 YS-11は1962年から平成18年(2006年)9月30日の「沖永良部空港発-鹿児島空港行」(日本エアコミューター)のラストフライトまで44年間に渡り日本の航空路線を支えました。次の写真は東亜国内空港のYS-11です。定かではありませんが1960年代半ばに釧路空港で撮影されたものではないかと思います。

東亜国内空港 YS-11型機
東亜国内空港 YS-11型機

YS-11 ~新しい日本の翼~

 

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YS-11初公開|YS-11記念日(昭和37年 1962年7月11日)

YS-11国内定期路線ラストフライト(2006年9月30日)

YS-11が機械遺産に認定

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2022年8月14日 (日)

グスターヴ・ホワイトヘッドが世界初の動力飛行に成功(1901年8月14日)

 世界で初めて動力飛行機による有人飛行に成功したのは1903年12月17日に飛行実験を行ったウィルバー・ライトとオーヴィル・ライトのライト兄弟とされています。

 ところが1901年8月14日に米国コネティカット州フェアフィールドでエンジン付きの飛行機「ナンバー21」が高度15メートル、飛距離800メートルの飛行に成功したという新聞記事が残っています。この「ナンバー21」を制作し自ら操縦桿を握っていたのがグスターヴ・ホワイトヘッドです。

 ホワイトヘッドは1874年にドイツ・バイエルン州で生まれ本名をグスタフ・アルビン・ヴァイスコプフといいます。子ども頃から飛行機に興味を持っていたヴァイスコプフは研究を重ねました。1893年にはドイツの航空学者オットー・リリエンタールに会い、1894年に米国に渡りました。このとき姓名のヴァイスコプフが白い頭を意味することから、自身の姓名をホワイトヘッドに改名しました。1897年にボストン航空協会で働くようになり、ここでリリエンタールタイプのグライダーを製作し低空飛行に成功しています。

 その後、ホワイトヘッドは飛行機の仕事から離れ1900年にコネチカット州に家族とともに定住しました。ここで仕事の傍らエンジン付きの飛行機の開発を始めました。そして1901年7月26日、自ら開発した動力飛行機で無人飛行に成功しました。そして1901年8月14日に先に述べた動力飛行機による有人飛行を成功させたのです。

  次の図の上の写真は1901年にホワイトヘッドが家族とともに撮影した「ナンバー21」の写真、下のスケッチは8月14日の飛行の様子を現場で取材していたブリッジポート・ヘラルド紙のディック・ハウエルが描いたものです。

ホワイトヘッドの動力飛行機「ナンバー21」と飛行時のスケッチ
ホワイトヘッドの動力飛行機「ナンバー21」(上)と飛行時のスケッチ(下)

 世界初の動力飛行機による有人飛行の成功がライト兄弟とされているのはホワイトヘッドの飛行の公式な記録が残っておらず写真も存在していないからです。しかしながら飛行機は実際に存在し、公式記録と写真はないものの新聞記事とスケッチは残っています。ただし記事の内容は目撃者の報告と食い違っていたようで信憑性が低いとされています。

 ライト兄弟の飛行機を所有しているスミソニアン博物館はホワイトヘッドの初飛行を認めていませんが、同博物館はライト兄弟の飛行機を入手するにあたってライト兄弟以前の飛行記録を取り扱わないという契約を結んでいます。当時、飛行機の開発競争が激しかったことが伺えます。一方、コネティカット州はホワイトヘッドの飛行を人類初飛行と認めています。また英国のジェーン年鑑も人類初の飛行はホワイトヘッドとしています。

 後に復元されたライト兄弟の飛行機は飛行に失敗し、ホワイトヘッドの復元機は飛行に成功しています。人類初の動力飛行機による有人飛行を成功させたのはライト兄弟かホワイトヘッドか、この先も意見が分かれるところでしょう。

【関連記事】グスターヴ・ホワイトヘッドが世界初の動力飛行に成功(1901年8月14日)

クレマン・アデールが世界初の動力飛行に成功(1890年10月9日)

ライト兄弟が初飛行に成功 (1903/12/17)

二宮忠八 日本初の模型プロペラ飛行器を飛ばした男(明治24年 1891年4月29日)

日本における動力飛行機の初飛行(1910年12月19日)

世界初のジェット旅客機の初飛行(1949年7月27日)

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2022年8月 9日 (火)

長崎原爆忌(1945年8月9日)

 1945年8月6日、B-29エノラ・ゲイが広島へ原子爆弾リトル・ボーイを投下した際、被害状況を調査するために広島上空を飛んでいたのが科学観測機B-29グレート・アーティストです。このときグレート・アーティストは落下傘付きの観測機器を投下しています。この観測機器を原子爆弾と誤認した人が多かったため原子爆弾は落下傘で投下されたという噂が広がりました。

 広島への原爆投下後、米国は九州へ原子爆弾ファットマンを投下する計画を進めました。ファットマンを投下する任務を受けたのがグレート・アーティストの搭乗員でした。しかし、グレート・アーティストは科学観測機の機材を搭載していたため原爆を投下することができない状態でした。そこで別の機体のB-29ボックスカーが原爆投下機として選ばれ、ボックスカーとグレート・アーティストの搭乗員が入れ替わることになりました。

B-29ボックスカー
B-29ボックスカー

 ファットマン投下の第一目標は福岡県小倉市(現:北九州市)に設定されていました。1945年8月9日日本時間午前2時47分、ボックスカーは小倉を目指してテニアン島を離陸しました。ボックスカーより1時間前に出発し気象観測を行ったのが広島にリトルボーイを投下したエノラ・ゲイです。エノラ・ゲイは天候が良好であることを伝え、ボックスカーは予定通り小倉を攻撃目標としました。

 ボックスカーが原爆投下目標の小倉陸軍兵器工場に到着したのは午前9時44分。しかし、目視による目標確認に失敗、その後やり直したものの都合三度失敗した。この間に日本軍の迎撃機も現れたため小倉上空から離脱せざるを得なくなりました。このときボックスカーの原爆投下を妨げたのは雲ではなく八幡製鉄所が出していた黒煙でした。事前に空襲の可能性の情報を得ていた八幡製鉄所が爆撃を避けるためコールタールを焼却し煙幕を張っていたのです。八幡製鉄所の機転で小倉は原発投下を避けることができましたが、八幡製鉄所の所員は戦後も長きに渡って複雑な心境だったようです。

 この煙幕によってボックスカーは午前10時30分に小倉上空から離脱、原爆投下を第二目標の長崎市に変更しました。長崎に向かう途中、ボックスカーはグレート・アーティストとニアミスをしています。2機は空中衝突していた可能性があったのです。当初、長崎上空の天候は良好でしたがボックスカーが到着する頃には天候が悪化し視界不良となりつつありました。ボックスカーには、小倉での3度の投下失敗に加え、燃料の予備タンクのポンプが故障していたため十分な燃料が残っていませんでした。

 ボックスカーが長崎上空に到着したのは午前10時50分頃です。長崎上空には積雲が立ちこめていました。このとき燃料不足のため原爆投下目標への進路を取り直す余裕がありませんでした。目視による原爆投下が不可能だった場合は太平洋上に投棄する命令が出ていましたが、ボックスカーに搭乗していた上官の命令で目視が不可能でもレーダー爆撃を行うことになりました。命令違反のレーダー爆撃を行うことになりましたが、保内の目標から北西の地点で雲の切れ目から眼下に街が見えました。午前10時58分、ボックスカーはその地点でファットマンを投下しました。ファットマンは4分後の午前11時2分、上空503メートルで爆発しました。このときボックスカーの乗組員が搭乗したグレート・アーティストがファットマンによる被害状況を調査する観測を行い、落下傘で観測装置を投下しました。

 長崎にファットマンを投下したボックスカーの燃料はわずかになっていました。テニアン島まで帰投することはできず、午後2時頃に沖縄県読谷飛行場に緊急着陸しました。このときファットマンにはわずか26リットルの燃料しか残っていませんでした。

 8月9日の原爆投下、小倉への投下は阻止され何かひとつ歯車が狂っていたら長崎への投下も失敗していた可能性も十分にありました。しかしながら、結果として長崎に原爆が投下され多くの方々が犠牲となりました。

 1945年8月初めのたった数日の間に2度も繰り返された核攻撃、いかなる地域でも3度目は絶対にあってはなりません。

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広島原爆忌(1945年8月6日)

原爆と戦艦インディアポリスと潜水艦伊58の関係



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2022年8月 6日 (土)

広島原爆忌(1945年8月6日)

 8月6日は「広島原爆忌」「広島平和記念日」です。昭和20年(1945年)8月6日、原子爆弾リトルボーイを搭載したB-29型爆撃機エノラ・ゲイが広島に原爆を投下しました。

 エノラ・ゲイは8月6日午前1時45分にマリアナ諸島テニアン島ハゴイ飛行場を離陸しました。気象観測のために先行していたB-29ストレートフラッシュ号が同日同日午前7時に広島上空に到達し、広島の気象情報をテニアン島の米軍基地に報告しました。

 この報告によってエノラ・ゲイの攻撃目標が広島に決定され同日午前8時15分に広島にガンバレル型ウラニウム活性実弾の原子爆弾リトル・ボーイが投下されました。人類史上初の核攻撃によって同年末までに14万人の人々の尊い命が失われました。

エノラ・ゲイと広島原爆のキノコ雲
エノラ・ゲイと広島原爆のキノコ雲

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2022年7月24日 (日)

飛行機雲はどうしてできるのか?

 澄み切った青空を突き抜けていく飛行機雲。まるで飛行機が白い煙を吐き出しながら飛んでいるようですが、飛行機雲は空に浮かぶ雲と同じものです。どうして飛行機が飛んだ跡に雲が現れるのでしょうか。

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飛行機雲

 飛行機雲ができるしくみを考える前に空に雲ができる理由を考えてみましょう。空に浮かぶ雲の正体は細かい水や氷の粒です。それらはもともと地上や海上で蒸発した水、水蒸気です。

 空気は暖かいほどたくさんの水蒸気を含むことができますが暖かい空気は軽いので上空へと昇っていきます。気温は高さが100メートル上がるごとに1 ℃づつ低くなります。上空へ昇る空気はどんどん冷やされます。冷蔵庫に霜ができるのと同じように、空気に含まれていた水蒸気は水蒸気の形ではいられなくなり、細かい水や氷の粒になります。これが雲の正体です。

空に立ち上る雲<
空に立ち上る雲

 飛行機雲は雲がひとつもない空でも飛行機が飛んだだけでできます。空に雲がないということとは、上空の空気に含まれた水蒸気が水蒸気の形でいられるということです。飛行機雲が空に浮かぶ雲と同じなら、飛行機雲も細かい水や氷の粒でできているはずです。空に雲がないのにどうして飛行機が飛んだ跡に雲ができるのでしょうか。

 飛行機雲を良く観察してみると、飛行機雲が飛行機の主翼のエンジンから出ているのが分かります。エンジンから出る排気ガスには水蒸気が含まれています。飛行機が飛ぶのは高度1万メートルの高さですが、その気温は真夏でもマイナス60 ℃ぐらいになります。飛行機のエンジンから出た排気ガスはあっという間に冷やされて、排気ガス中の水蒸気は細かい水や氷の粒になります。これが飛行機雲として見えるのです。

 このため飛行機雲はエンジンの本数だけできることになります。ですから、エンジンが2基の飛行機は次の写真のように飛行機雲が2本できます。

エンジン2基の飛行機の飛行機雲
エンジン2基の飛行機の飛行機雲

 エンジンが4基の飛行機は飛行機雲が4本できます。

エンジン2基の飛行機の飛行機雲
エンジン4基の飛行機の飛行機雲 

 ところで、飛行機雲を出していない飛行機が飛んでいるのを見たこともあるでしょう。

飛行機雲を出していない飛行機
飛行機雲を出していない飛行機

 飛行機雲が生じないということは、飛行機の排気ガスに含まれている水蒸気が、水や氷の粒にならずに、水蒸気のままで空気中に存在できるということです。どのようなときに、そのような状態になるかというと、上空の空気に含まれる水蒸気の量が少ないときです。逆に、飛行機雲がなかなか消えないときは、上空の空気に水蒸気がたくさん含まれていて、飛行機雲の水や氷の粒がそのまま残っている状態です。

 飛行機雲がすぐに消える場合には快晴の日が続き、飛行機雲がなかなか消えない場合は天気が崩れる可能性があります。

 アクロバット飛行機が飛行機雲を吐き出しながら飛んでいるところを見たことがあると思います。この飛行機雲は上述の「雲」ではなく、油をエンジンの排気熱を利用して気化した油が上空で冷やされて白い煙となったものです。ですから、これはスモークで飛行機雲ではないのですが、広義で飛行機雲と呼ばれています。人為的に作っているため、飛行機雲を出したり、止めたりすることができるのです。また、油に染料を混ぜると色のついた飛行機雲を作ることができます。

 次の写真は1964年の東京オリンピックの開会式で航空自衛隊のブルーインパルスが飛行機雲で作った五輪のマークです。

ブルーインパルスによる五輪マーク(1964年東京オリンピック開会式)AIカラー
ブルーインパルスによる五輪マーク(1964年東京オリンピック開会式)

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2022年7月23日 (土)

ギムリー・ライダー事故発生(1983年7月23日)

 1983年7月23日に撮影された飛行機の手前にレーシングカーが並んでいる写真。いったい何があったのでしょうか。

ギムリー・ライダー
ギムリー・ライダー

 1983年7月23日、エア・カナダ143便(機体:ボーイング767-200 機体番号:C-GAUN)はカナダのケベック州モントリオール・ミラベル国崎空港を出発しました。目的地はオンタリオ州オタワ・マクドナルド・カルティエ国際空港経由のアルバータ州エドモントン国際空港でした。

 143便はオンタリオ州レッドレーク上空で左側エンジンの異常を示す警報が鳴りました。燃料圧力が異常値を示していたため機長は左側エンジンの燃料ポンプをオフにました。燃料はポンプが故障しても重力で供給可能であり燃料も十分に残っていたため異常は回避できたと考えられました。

 ところが間もなく燃料圧力の異常が再発したため、機長はマニトバ州ウィニペグ・ジェームス・アームストロング・リチャードソン国際空港に緊急着陸することを決断しました。その後、143便は左側エンジンが停止し右側エンジンのみで飛行を続けました。機長はエンジンの再スタートを試みましたが、全てのエンジンの停止を知らせる警報が鳴りました。すぐに右エンジンも停止し、143便はエンジンを全て失ってしまいました。エンジンの停止とともに143便は発電機も失うことになり多くの計器が作動しなくなりました。わずかに残った降下率計や高度計などの計器からの情報を元に飛行を続けることができました。エンジンが停止すると気体を制御するためのシステムも停止しますが、このシステムを作動する電力は緊急用風力発電機で賄われたため機体制御は可能でした。エンジンが停止した理由はわかりませんでした。 

 143便は管制塔の指示で最初はウィニペグ空港をめざしていました。しかし、高度計が示す高度、降下率計からわかる降下速度、空港までの距離から計算すると滑空のみではたどり着くことができないことが判明しました。そこで143便は目的地をマニトバ州ギムリーのカナダ空軍の旧ギムリー基地に変更しました。この基地は民間空港(ギムリー・インダストリアルパーク空港)になっており、滑走路の1本は閉鎖され自動車レース場として使われていました。

 機長は滑走路に着陸するため車輪を降下させました。主脚は重力によって降下しましたが前脚は空気抵抗で十分に降下しませんでした。143便はこの状態で着陸を強いられることになりました。143便がギムリー空軍基地に近づくに連れて高度が十分に下がっていないことが判明したためグライダーや軽飛行機が使う技術フォワードスリップで高度を下げることができました。機長が趣味でグライダーの操縦に慣れ親しんでいたことが幸いしました。143便はギムリー空軍基地の滑走路に着陸、フルブレーキングにより車輪がいくつかパンクしました。前脚が十分に降下していなかったため機首が滑走路に設置し胴体着陸状態になりましたが自動車レース用に設置されたガードレールに引っかかったため着陸距離が短縮され滑走路端で行われたいたイベント会場のわずか手前で停止しました。着陸時に前方で火災が発生したため客室は一時騒然としましたが乗客61名と客室乗務員6名は生還することができました。この事故の名称は「エア・カナダ143便滑空事故」ですがギムリー空港で起こった滑空事故だったことから「ギムリー・ライダー」と呼ばれました。

 さてこの事故の原因は燃料切れでした。しかし飛行中には燃料計は燃料切れを示していませんでした。通常、航空機には飛行に必要な燃料が燃料搭載量情報システム (FQIS)によって給油されます。しかし、143便のFQISは故障しており、この日の給油は人が行いました。当時、航空業界ではヤード・ポンド法からメートル法に移行中でした。143便はエア・カナダで最初にメートル法を採用した機体だったのです。

 143便の飛行には2万2,300キログラムの燃料が必要でしたが、係員が間違ってヤード・ポンド法で体積に換算してしまったため十分な燃料が給油されませんでした。143便の計器には手動で燃料2万2,300キログラムと登録されましたが、実際には約1万キログラムしか給油されていなかったのです。計器は2万2,300キログラムを元に残量を示していたため燃料不足に気が付くことはできなかったのです。

 機長らはモントリオールを出発するとき燃料量が心配になって何度か再計算したようですが同じ結果となったためそのまま出発し経由地のオタワで再確認することにしていました。予定通りオタワで燃料の量が測定されましたがここでも間違いを起こし燃料不足に気づくことができなかったのです。

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2022年7月15日 (金)

ボーイング社創業(1916年7月15日)

 世界を空で結ぶ航空機の世界最大規模の製造会社ボーイング社。創業者ウィリアム・E・ボーイングは1903年に大学を中退し父親が財を成した木材業で働き始めました。まもなくグリーンウッド材木社の社長に就任しますが、1909年にシアトルに旅行したとき飛行機を初めて見て虜になりました。ボーイングは米国海軍技師ジョージ・コンラッド・ウエスターバレットと1916年7月15日にシアトルに両者の頭文字から成る「B&W」という社名の航空機製造会社を設立しました。B&Wは社名と同名の双フロート水上機B&Wを製作しましたが、間もなく社名を「パシフィック・エアロ・プロダクツ」に変更されました。

 B&W社は1917年に米国が第一次世界大戦に参戦すると社名を「ボーイング・エアプレーン」に変更します。これをきっかけに米国海軍から航空機を受注しました。練習機として双フロート複葉式単発機モデルCが採用されると約700機を納入し航空機メーカーとして成長しました。しかしながら1918年に第一次世界大戦が終了すると軍用機の注文がなくなりました。

 1929年に海軍と陸軍で同型戦闘機がそれぞれF4B、P-12として採用され合計586機が生産されましたが、当時は民間の輸送機や旅客機の需要もなく航空機産業の将来は決して楽観できるものでありませんでした。そのような中でも郵便事業の航空郵の需要が高まり、シアトルとカナダのバンクーバー間で世界初の国際航空郵便の輸送を始めボーイング・エラー・トランスポート社を設立しました。

 1933年、ボーイング社は金属製で低翼・単葉・引き込み脚を採用した当時としては画期的な旅客機ボーイング247を開発しました。ボーイング247は巡航速度300 km/hでアメリカ大陸を8時間で横断することができたことから多くのアメリカの航空会社がボーイング247を採用しました。こうして民間航空機時代の幕が開けたのです。

ボーイング247
ボーイング247

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2022年6月 4日 (土)

熱気球の日(1783年6月4日)

 熱気球は球皮と呼ぶ袋にぶら下げられたゴンドラから熱した空気を送り込んで浮力を利用して飛行する気球です。

 熱気球の原理は簡単なため熱気球は古くから存在していたと考えられます。三国志で有名な諸葛亮が天灯(孔明灯)という熱気球の一種を発明していたという説があります。諸葛亮が平陽で司馬懿軍に包囲されたとき天灯を使って救援を要請したと伝えられています。天灯は大型の籠のような形をしていて情報を伝える紙が貼ってあったそうです。また1241年にモンゴル人が戦で通信手段として使ったという言い伝えや1709年にポルトガル人のバルトロメウ・デ・グスマンが熱気球の模型を飛ばしたという記録が残っています。しかし、これらの気球は小型のもので人が乗れるようなものではありませんでした。

 有人飛行が可能な熱気球を開発したのはフランスの兄ジョゼフ=ミシェル・モンゴルフィエと弟ジャック=エティエンヌ・モンゴルフィエのモンゴルフィエ兄弟です。最初に空を飛ぶことに興味をもったのは兄ジョセフでした。1715年にパラシュートのようなものを作り家から飛び降りたそうです。あるとき焚き火で干していた洗濯物が浮かび上がるように膨らんでいるのを見て熱気球を作ることを着想しました。

 当時は空気を温めると密度が低下することはわかっていませんでした。ジョセフは焚き火の煙と一緒に浮かび上がる火の粉や煤を見て煙の中に浮力をもつ特殊な気体があると考えました。そして、その気体を「モンゴルフィエガス」と名付け煙の出る燃料を使うことにしました。

 ジョセフは木材で1 m × 1 m × 1.3 m(3フィート×3フィート×4フィート)の箱を作り、上部と側面を軽い布で覆いました。箱の底に紙くずをおいて火をつけると箱が天井まで浮き上がりました。熱気球の模型の飛行試験に成功したのです。

 ジョセフはこの結果から兄弟を熱気球の制作に誘いました。これに賛同したのがジャックでした。さっそく2人はジョセフが作った模型の3倍の大きさの熱気球を制作しました。そして1782年12月14日、この熱気球の飛行テストを行いました。燃料には羊毛と干し草を使ったこの熱気球はあっという間に上昇しましたが浮力が想定より大きかったため制御することができなくなりました。熱気球は2 kmほど浮き上がった後に落下しましたが発見した人々が化け物が落ちてきたと怖がって破壊してしまいまいた。

 モンゴルフィエ兄弟は熱気球の発明を多くの人に知ってもらうため公開実験を計画しました。薄い3枚の紙で固めて補強した織物の亜麻布(リネン)で気球を作りました。4つの布袋を1800個のボタンで留めてひとつの大きな気球としました。そして補強のため全体を漁網で覆いました。気球の大きさは容量790立方メートル、重量225 kgにもなりました。

 1783年6月4日、フランス南東部の都市アノネーで公開実験を行いました。この公開実験には役人が招待されていました。飛行実験は見事に成功し、熱気球は1.6~2.0 kmほど上昇し距離2 kmほどを10分間で飛行しました。この飛行実験の成功はパリに伝えられました。ジャックはその後壁紙職人ジャン=バティスト・レヴェイヨンの協力を得て耐火性のある強度な気球を作り同年9月11日に飛行実験を行いました。

1783年6月4日の熱気球飛行実験とモンゴルフィエ兄弟(左:ジョセフ 右:ジャック)
1783年6月4日の熱気球飛行実験とモンゴルフィエ兄弟(左:ジョセフ 右:ジャック)

 ここまでの熱気球の飛行実験は無人で行われました。これは上空でヒトが呼吸ができるのか無事でいられるのかがわからなかったためです。やがて熱気球の飛行実験の成功が重なると有人飛行が注目されるようになりました。熱気球にいきなり人を乗せる案も出ましたがモンゴルフィエ兄弟はヒツジとアヒルとニワトリを乗せることにしました。そして同年9月19日、ベルサイユ宮殿でルイ16世とマリー・アントワネットと多くの群衆の前でヒツジとアヒルとニワトリ乗せた熱気球の飛行実験を行いました。レヴェイヨン気球と名付けられた熱気球は高度460 mで8分間飛行し3 kmほど移動して着陸し飛行を成功させました。

 初めての有人飛行の実験は同年10月15日に行われました。係留した熱気球にジャックが乗り込み飛行実験を行いました。続いて理科教師のピラトール・ド・ロジェが乗り込みました。この実験では熱気球を係留していたため高度は24 mで移動距離はゼロでした。

 この成功により同年11月21日に係留なしでの熱気球の有人飛行実験が行われました。熱気球にはロジェと軍人フランソワ・ダルランド侯爵が乗り込み高度90 mで約8.8 kmを25分で飛行しました。

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2022年5月27日 (金)

航空機で初の大西洋横断飛行を達成(1919年5月27日)

 航空機で初の大西洋横断飛行達成というと1927年のアメリカの飛行機乗りチャールズ・リンドバーグの偉業を思い浮かべるかもしれません。しかし、リンドバーグの初の大西洋横断飛行は単独で無着陸飛行に成功したというものです。

 単独と無着陸という条件を除くと初めて大西洋の横断飛行に成功したのはアメリカ海軍のカーチスNC-4型飛行艇です。カーチスNC型は第一次世界大戦中に潜水艦に対する哨戒やドイツ潜水艦を避けることができる輸送手段としてアメリカからヨーロッパまで長距離を飛行できる航空機として開発されました。カーチスNCの開発は第一次世界大戦の終了までに間に合いませんでしたがアメリカ海軍はこの機体を使って大西洋横断飛行に挑戦することを決定しました。

 1919年5月8日、カーチスNC-1、NC-3、NC-4の3機は米国ニューヨーク州ロングアイランドのロックアウェイ海軍航空基地を出発しました。マサチューセッツ州チャタム海軍航空基地とノバスコシア州ハリファックスに立ち寄り、5月15日にカナダ東海岸のニューファンドランド島に到着しました。翌5月16日、3機のカーチスNCの大西洋中央ポルトガル西方沖のアゾレス諸島に向けて出発しました。緊急時のためアメリカ海軍の軍艦22隻が約80 kmの間隔で配備されました。これらの艦艇は夜間はサーチライトを使ってカーチスNCの飛行を支援しました。

 アゾレス諸島に向けた航路は悪天候で分厚い霧がかかっていました。この影響で海上に着水したNC-1は荒波で損傷、NC-3も機械的な問題を抱えており大西洋横断飛行を断念しました。NC-4は飛行を続け翌日の午後に約1,900 km先のアゾレス諸島に到着することができました。この飛行時間は15時間18分にもなりました。

 アゾレス諸島に到着して3日後の5月20日、NC-4はポルトガルのリスボンに向けて出発しました。ところが機体に問題が発生したため240 km先のアゾレス諸島内の島に着陸せざるを得なくなりました。そこでNC-4は修理され5月27日に再出発しました。アゾレス諸島とリスボンの間には飛行支援のためアメリカ海軍軍艦が配備されていました。NC-4は順調に航行し9時間43分をかけて5月27日にリスボンの港に着水しました。NC-4は世界で初めて大西洋横断した航空機となり、またアメリカとヨーロッパの本土間を初めて飛んだ航空機となりました。ニューファンドランドからリスボンまでの10日22時間かかりましたが実際の飛行時間は26時間46分でした。

カーチスNC-4と搭乗員
カーチスNC-4と搭乗員
搭乗員は左からリード・ストーン・ヒントン・ロッド・E.H.ハワード・ブリース
この写真には機関士のロードのかわりにハワードが映っている。
ハワードは怪我をしたため代わりに機関士ロードが任務についた。

 NC-4に搭乗したのは指揮官兼航空士のアルバート・クッシング・リード中尉、操縦士のウォルター・ヒントンとエルマー・ファウラー・ストーン、機関士のジェームス・ブリース、ユーゲン・ロード、無線士のハーバート・ロッドの6名です。6名はイギリスのプリマスでNC-1とNC-3の乗組員と再会し、その後、ロンドンやフランスのパリで盛大な歓迎を受けました。1929年2月9日にNC-4の搭乗員に米国の議会名誉黄金勲章が授与されました。

 なお世界で初めての無着陸大西洋横断飛行はイギリスの飛行家ジョン・オールコックとアーサー・ブラウンが1919年6月14日に成し遂げています。オールコックとアーサーはビッカース・ビミー機でカナダのニューファンドランド島のセントジョンからアイルランドのクリフデンまでの3186 kmを16時間12分かけて飛行しました。

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2022年2月16日 (水)

交通博物館のフライトシュミレータ?(1967年 昭和42年頃)

 東京都千代田区神田須田町に存在していた交通博物館にあった飛行機の乗り物です。機体に「T411」「つばめ」と書かれています。いろいろ調べてみましたが情報は見つからず由来はわかりませんでした。

フライトシュミレータ「つばめ」T411(交通博物館、東京神田)
フライトシュミレータ「つばめ」T411(交通博物館、東京神田)

 操縦桿と機体の傾きが連動していたかどうかは定かではないのですが当時の遊具の乗り物とは違ってフライトシュミレーターのように本格的な動きをしたようです。

操縦桿と連動して気体が本格的な動きをする
操縦桿と連動して気体が本格的な動きをする

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