カテゴリー「飛行機」の42件の記事

2021年6月 9日 (水)

オーストラリアの飛行家が太平洋横断の初飛行に成功(1928年6月9日)

 1928年6月9日、オーストラリアの飛行家チャールズ・エドワード・キングスフォード・スミスはアメリカからオーストラリアまで初の太平洋横断飛行を成し遂げました。

 1928年に西回りの太平洋横断を行うため米国を訪れたスミスとオーストラリアの飛行家チャールズ・ウルムはオーストラリアの極地探検家ヒューバート・ウィルキンスからフォッカーF.VII/3m単葉機を購入し、「南十字星」という名前をつけました。太平洋横断飛行には機長チャールズ、副機長ウルムに加え、米国人の無線士ジェームズ・ワーナーと航法士兼機関士ハリー・ライオンが加わりました。

 1928年5月31日午前8時54分、「南十字星」は米国カリフォルニア州オークランドを離陸しました。この飛行は無着陸ではなく、「南十字星」は3,870キロメートル離れたのハワイに向かい27時間25分かけて到着しました。次にハワイから5,077キロメートル離れたフィジーに34時間30分で到着しました。この区間は雷雨に見舞われて困難な飛行となりました。最後にフィジーから目的地のブリスベンまでの2,709キロメートルを飛行し、同年6月9日午前10時50分に到着しました。総飛行距離11,556キロメートルの太平洋横断飛行を成し遂げた瞬間でした。

スミスとウルム(左)と南十字星(右)
スミスとウルム(左)と南十字星(右)

チャールズ・エドワード・キングスフォード・スミスはオーストラリア本土を横断するの初の無着陸飛行、オーストラリア-ニュージーランドの初飛行、オーストラリアからアメリカへの東回りの太平洋横断など、航空史に様々な輝かしい記録を残しています。

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2021年5月21日 (金)

リンドバーグが世界初の単独大西洋無着陸飛行に成功(1927年5月21日)

  アメリカの飛行機乗りだったチャールズ・リンドバーグは子どもの頃から機械に興味をもち、1922年4月にネブラスカ・エアクラフト社の飛行学校に入学しました。リンドバーグはここで飛行訓練を受けましたが事故が起きた時の保証金を支払うことができなかっため、単独での飛行は許可されませんでした。そこで、リンドバーグはさらなる飛行経験を積むために、飛行機の翼の上に立って曲芸をするウィングウォーカーやパラシュート降下などの巡業をしたり、飛行場で整備士の仕事をしたりすることで資金を稼ぎました。

 リンドバーグは冬の到来とともにいったんミネソタの実家に戻りましたが、半年後の1923年5月にジョージア州アメリカスのサウザー・フィールド飛行場(元陸軍飛行訓練場)で第一次世界大戦で余剰となったカーチスJN-4「ジェニー」複葉機を購入し、初めての単独飛行を行いました。飛行場で約1週間ほど飛行訓練を行った後、ジョージア州アメリカスからアラバマ州モンゴメリーに向けて140マイルの単独横断飛行を行いました。1924年3月からアメリカ陸軍航空隊で軍事飛行訓練を1年間受け首席で卒業しましたが、陸軍がパイロットの募集をしなかったため、パートタイムで軍用飛行を行いながら民間のパイロットとして働きました。1925年10月から郵便物の輸送機のパイロットとして活躍しました。

 世界で初めての大西洋無着陸横断飛行は1919年6月にイギリスの飛行家ジョン・アルコックとアーサー・ウィッテン・ブラウンによって成し遂げられました。ヴィッカーズ社ヴィミーIV爆撃機を改造した機体で、1919年6月14日午後1時45分にカナダのニューファンドランドのセントジョンズを離陸し、16時間かけて翌日にアイルランドに着陸、1,890マイル(3,040 km)の飛行を成し遂げました。

 1919年5月にニューヨークのホテル経営者レイモンド・オルティーグはニューヨークーパリ間を無着陸で飛んだ最初の飛行士に対して賞金を出すオルティーグ賞を5年間の期限付きで設立しました。5年経過しても挑戦者が現れなかったため、1924年にオルティーグ賞の期間が5年間延長されました。この頃までに航空技術が発展し、多くの有名な飛行機乗りがオルティーグ賞に挑戦するようになりましたが、誰もこの大西洋無着陸飛行を成し遂げることはできませんでした。

 リンドバーグはこの飛行に挑戦することを決めましたが、無名だったため資金調達に苦労しました。2名の協力者と勤務先から援助を得ることができ、それに自己資金を加えて18,000ドルを確保することができました。他の飛行士の資金に比べるとわずかな額でしたが、リンドバーグはやり繰りをして、ライアン・エアクラフト社と共同で設計した単座・単発のスピリット・オブ・セントルイス号(ライアンNYP高翼単葉機)を手に入れました。オルティーグ賞はパイロットの人数に制限はありませんでしたが、リンドバーグはあえて単独飛行に挑戦することにしました。そのため、30時間を超える操縦を単独で続ける必要がありました。

 1927年5月20日午前5時52分、リンドバーグはロングアイランドのルーズベルト飛行場でサンドイッチ4つと水筒2本を持ってスピリット・オブ・セントルイス号に乗り込みました。飛行機には450ガロン(1,704リットル)の燃料が搭載され、総重量は5,135ポンド(2,329kg)に達していました。この日は滑走路が雨でぬかるんでいたため離陸に難儀しましたが、午前7時52分に離陸に成功しました。

 リンドバーグとスピリット・オブ・セントルイス号は高度3,000メートルで嵐の雲に見舞われたり、高度数メートルの海上を飛行するなど、さまざまな困難に直面しながらパリをめざしました。リンドバーグが目指していた目的地はパリ北部のル・ブルジェ飛行場でしたが、リンドバーグが持っていた地図には飛行場が記載されておらず、有視界飛行でル・ブルジェ飛行場をめざしました。飛行場に近づくと、眼下に明るい光が広範囲に見えたため、リンドバーグは工業地帯と思いましたが、実際にはリンドバーグの着陸を見物しようと集まった自動車のヘッドライトだったのです。

 そして、5月21日22時21分、リンドバーグとスピリット・オブ・セントルイス号はル・ブルジェ空港に着陸、大西洋単独無着陸飛行に初めて成功しました。リンドバーグの飛行距離は5,810 kmで飛行時間は33時間半に及びました。リンドバーグはオルティーグ賞と賞金25,000ドルを獲得しました。また、世界初の単独大西洋無着陸飛行となり、リンドバーグは世界的な注目を受け、一躍有名人となりました。この時、リンドバーグは25歳でした。

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リンドバーグとスピリット・オブ・セントルイス号(左)
1927年6月14日のニューヨーク市の祝宴プログラムの表紙(右)

 リンドバーグがパリ上空に達したとき「翼よ、あれがパリの灯だ!」と言ったという説がありますが、これは後世の作り話のようです。その後のリンドバーグの人生は波瀾万丈でしたが、第二次世界大戦には反対し、戦争の無惨さや愚かさについて手記を残しています。

 1931年にはニューヨークから日本を経て中国まで飛行していますが、このときに使用した水上飛行機シリウス号が1970年に開催された大阪万博で展示されリンドバーグも来日しました。リンドバーグは当時10歳の浩宮徳仁親王(第126代天皇)をシリウス号の操縦席に案内しました。徳仁天皇はドナルド・トランプ大統領が来日したときの宮中晩餐会で米国との最初の思い出は大阪万博であり、月の石を見たことや、チャールズ・リンドバーグ飛行士にシリウス号の操縦席に乗せていただいたことと仰られています。

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2021年5月15日 (土)

ミッキー・マウス「プレーン・クレイジー」に登場(1928年5月15日)

 ミッキー・マウスはウォルト・ディズニーとアブ・アイワークスが創り出したキャラクターです。アメリカの文化を象徴するディズニーランドのキャラクターですが、その誕生の背景にはちょっとした裏話がありました。

 1927年、ウォルト・ディズニーとアブ・アイワークスは映画会社ユニバーサル・スタジオの依頼で映画「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を制作しました。この映画の成功をうけて、ディズニーは製作費の上乗せを求めましたが、ユニバーサル・スタジオはこの要求を拒否するとともに映画に登場したキャラクターの所有権を主張しました。交渉は決裂し、ディズニーとユニバーサル・スタジオの契約は打ち切りとなりました。その後、ユニバーサル・スタジオはディズニーのアニメーターなどを引き抜き、ディズニーは「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」に関する権利と人的リソースを失ってしまいました。

 ディズニーとアイワークスはこの崖っぷちの状況で新しい作品を企画し、その作品の登場キャラクターとしてアイワークスが創作したのがミッキー・マウスでした。当初、アイワークスは様々な動物のキャラクターを考案しましたが、ディズニーはすべてのアイデアを拒否しました。そのような状況の中で2人はかつての仕事仲間のヒュー・ハーマンが描いたマウスにヒントを得て、ミッキーマウスを生み出しました

 ミッキー・マウスは1928年11月18日にニューヨークのコロニー劇場で公開された短編アニメーションのトーキー映画「蒸気船ウィリー」でスクリーンに初登場しました。この日がミッキー・マウスの誕生日とされています。

 実はミッキー・マウスは1928年5月15日に試写された「プレーン・クレイジー(飛行機狂)」という短編アニメーションのサイレント映画に登場していました。この映画は配給会社から相手にされずお蔵入りとなりましたが、「蒸気船ウィリー」の成功を受けて、トーキー映画として作り直され1929年3月13日にシリーズ3作目として公開されました。

Plane Crazy Mickey Mouse Classic Walt Disney 1928 Sound Cartoon

 

 「プレーン・クレイジー(飛行機狂)」に登場するミッキー・マウスはやんちゃなキャラクターです。

セレブレーション! ミッキーマウス [DVD]

ミッキーマウスのスクリーンデビュー90周年を記念し、デビューから現在までのミッキーの人気短編作品だけを収録した傑作コンピレーション!

<収録内容>
・蒸気船ウィリー(1928年)
・ミッキーの大演奏会(1935年)
・ミッキーの夢物語(1936年)
・ミッキーのライバル大騒動(1936年)
・ミッキーの造船技師(1938年)
・ミッキーの移動住宅(1938年)
・ミッキーの巨人退治(1938年)
・ミッキーの船長さん(1940年)
・ミッキーのつむじ風(1941年)
・ミッキーの誕生日(1942年)
・プルートの誕生祝(1952年)
・ミッキーの魚釣り(1953年)
・ミッキーのミニー救出大作戦(2013年)

 

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2021年4月10日 (土)

瀬戸大橋が開通(昭和63年 1988年4月10日)

 瀬戸大橋は岡山県倉敷市と香川県坂出市を結ぶ本州と四国を結ぶ橋です。瀬戸大橋は大小10からなる橋の総称です。昭和53年(1978年)に着工し、9年6カ月後の昭和63年(1988年)4月10日に開通しました。瀬戸大橋には道路と鉄道が設置されており、橋の上部が道路、下部が鉄道になっています。鉄道は新幹線を通らせることができるようになっていますが、現在は在来線のみ運行されています。

 瀬戸大橋は鉄道と道路を併用する橋としては世界最長を誇り、2015年にギネス世界記録の認定されました。2017年に日本の20世紀遺産に選定されました。

 次の写真は2005年5月21日に福岡ー羽田フライトで上空から撮影したものです。雲が出ていなかったので全景を撮影することができました。全長9,368メートルですから、橋を縦に立てると飛行機に届いてしまいます。

瀬戸大橋(福岡ー羽田フライトで撮影 2005/5/21)
瀬戸大橋(福岡ー羽田フライトで撮影 2005/5/21)

 橋を過ぎたとろでもう1枚撮影しました。吊り橋の様子がよくわかります。上の写真の真ん中から上の部分です。 

瀬戸大橋(福岡ー羽田フライトで撮影 2005/5/21)
瀬戸大橋(福岡ー羽田フライトで撮影 2005/5/21)

瀬戸大橋の建造は大変だったようで、NHKのプロジェクトXでも取り上げられました。

プロジェクトX 挑戦者たち 男たち不屈のドラマ 瀬戸大橋 ~世紀の難工事に挑む~ [DVD]

【内容】
本州と四国を結ぶ本四架橋は、その規模も難易度も前例のない工事である。急な海流と複雑な海底地形、地元漁師との交渉、オイルショックによる着工凍結、多くの困難の末、海中基礎工事は成功し、昭和63年、「瀬戸大橋」は完成した。四国市民400万人と、自らの家族のために力を尽くした男たちの物語。

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2021年4月 9日 (金)

純国産飛行機「神風号」がロンドンに到着(1937年4月9日)

 1937年の元旦の朝日新聞の朝刊に「国産機で再度訪欧の壮挙・英国皇帝戴冠式を奉祝」という記事が掲載されました。朝日新聞社が純国産の飛行機を使って、東京からロンドンまでの1万5千キロを飛行し、イギリスの新国王ジョージ六世の戴冠式を祝賀しに行くという大計画を発表したのです。

 この計画に用いられた飛行機は陸軍が三菱に開発を進めさせていた九七式司令部偵察機「キ15」の試作機でした。軍事機密上、軍用機が民間に引き渡されるということは考えられませんでしたが、陸軍がこの飛行機にほとんど興味をもっていなかったため、試作2号機が朝日新聞社の計画に提供されることになりました。朝日新聞社は飛行機の名前を一般から募集し「神風号」と名付けました。

神風号
神風号

 「キ15」試作2号機が完成したのが1937年3月19日でした。飛行テストを経て3月25日に朝日新聞社に引き渡されました。4月1日に命名式・出発式がとり行われました。翌2日に飯沼飛行士と塚越機関士を乗せた「神風号」は大歓声で送られる中、立川飛行場からロンドンに向けて飛び立ちました。ところが、悪天候に見舞われ、飯沼・越塚両名はいったん帰還することを決意しました。

 天候の回復を待った4月6日午前2時12分、「神風号」は再び立川飛行場を出発しました。「神風号」は途中、台北、ハノイ、カルカッタ、バグダット、アテネ、ローマ、パリ などを経由し、ついに現地時間4月9日午後3時30(日本時間4月10日午前0時30分)にロンドンに到着しました。

 総所用時間94時間17分56秒、飛行時間51時間19分23秒という15,357キロメートルの飛行記録は、東京-パリ-ロンドン間の世界記録となり、日本で初めて国際航空連盟(FAI)公認の国際記録を樹立しました。日本の航空技術が世界で認められたのです。

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2021年3月28日 (日)

はじめてのスーパーシート

 自分が初めてスーパーシートに乗ったのは1990年代後半に福岡に出張したとき。福岡空港から羽田空港へ戻る日本航空の便でした。普通席の予約をとっていたのですが、同行した先輩がスーパーシートのサービスは天下一品だから座席が空いていたらチケットを変更しようと言うのです。カウンターで聞いたところ空席があるということで追加料金を払ってスーパーシートに切り替えました。当時の価格は6000円ぐらいだったと記憶しています。そこから先輩のご自慢の解説が始まったのです。

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先輩「あのねのねぇスーパーシートはねぇ。自分は何回も乗ったので慣れているけど」

自分「はじめてです!」

先輩「乗ったことないからわからないと思うけど待合室が特別室だし最高のサービスなんだよ」

自分「サクララウンジというらしいですね」

先輩「そうそう。自分は何度も利用したけど。ラウンジは初めてなんだよね。ビールなど飲み放題、サンドイッチなど軽食も出てくるだよ」

ラウンジに入る二人

先輩「ここに座ろう。待っていれば注文を聞きにくるから」

しばし経過

自分「誰もこないよ」

先輩「いいから、待っていればいいの」

自分「ちょっと他のお客さんセルフでビール取ってきているよ。軽食なんてないよ。あられのようなお菓子しかない」

先輩「あれシステムが変わったのかな」

しばし経過

自分「そろそろ搭乗時間だよ。優先搭乗だからゲートまで行っておいた方が良いのでは?」

先輩「係員がそろそろ時間ですと言いに来るから待ってれば良い。あわてる必要はない」

しばし経過

放送「○○便にご搭乗のお客様は搭乗時間が近づいていますのでゲートにお越しください」

自分「おいおい」

先輩「あれ?」

ゲートに移動

自分「もう優先搭乗は終わってるじゃん」

長い列の最後尾に並ぶ

先輩「おかしいな。でも機内サービスは最高だから」

飛行機に搭乗

機内サービスは確かに満足

羽田に到着し、荷物荷物受け取りレーンに移動。

先輩「スーパーシートはねぇ。荷物が一番先に出てきて係員が取っくれるら、このあたりにいれば良いんだよ」

しばし経過

自分「あれ?あの荷物、自分らのじゃない?」

ベルトコンベアの上をさっそうと進んでいく荷物たち

あわてて荷物を回収に行く

自分「誰も荷物なんて回収してくれなかったじゃない」

先輩「変だな。俺が前回スーパーシートに乗った時は至れり尽くせりだったんだよ」

自分「それって何年前の話なの」

先輩「忘れた」

自分「ずいぶん前の話だよね」

先輩「そうかも」

自分「・・・」

先輩「わるい、昔とサービス変わってた」

自分「いつの話だよ」

先輩「よしっ!わかった!飲みに行こう!」

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2021年3月 6日 (土)

世界一周記念日(1967年3月6日)

 世界一周路線は出発地となる空港を出発し太平洋と大西洋を横断して世界を一周した後に出発地の空港に戻る単一の航空会社による路線のことです。世界一周と言っても世界のすべての国を巡るわけではありません。実際には地球一周と言った方が的を射ているでしょう。

 さて、日本の航空会社は戦後のサンフランシスコ講和条約に基づき結ばれた日米航空協定(日本国とアメリカ合衆国との間の民間航空運送協定)によって制限を受け、世界一周路線を営業することはできませんでした。

 その後、日米航空協定が改訂され、日本の航空会社が世界一周路線の営業が可能になると、日本航空は昭和42年(1967年)に日本を含むアジアの航空会社として初めて世界一周路線の営業を開始しました。この世界一周路線は西周りと東周りの週2便が設定され、機体はダグラスDC-8が使われました。第一便は同年3月6日0時30分に西回り便が東京国際空港(HND、羽田空港)を出発しました。西回りの世界一周の経路は次のように設定されていました。この日を記念して3月6日は世界一周記念日とされています。

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日本航空の世界一周航路

 東京⇒香港⇒バンコク⇒ニューデリー⇒テヘラン⇒カイロ⇒ローマ⇒フランクフルトorパリ⇒ロンドン⇒ニューヨーク⇒サンフランシスコ⇒ホノルル⇒東京

 当時の日本は東京オリンピック開催後の高度経済成長期にあり、海外旅行の人気が高まっており、世界一周路線は庶民の憧れでした。海外の航空会社もパンアメリカン航空(米国)、トランス・ワールド航空(米国)、英国海外航空、カンタス航空(オーストラリア)が世界一周路線を就航しており、各社で乗客獲得のための競争が行われていました。

 日本航空の世界一周路線は採算性が思わしくなかったことや、1972年に相次ぐ航空事故(羽田空港暴走事故、ニューデリー墜落事故、金浦空港暴走事故、ボンベイ空港誤認着陸事故、シェレメーチエヴォ墜落事故)によってDC-8を3機失ったことから、1972年に営業を終了しました。他の航空会社も採算性の問題から次第に世界一周路線を取りやめていきました。

 現在は世界一周航空券が販売されていますが、これは複数の航空会社の連携によるものです。

 ところで航空機による世界一周は次のように決められています。

・出発地を出発してすべての子午線を通過して出発地に戻ること
・北回帰線の長さ36,787.559 km以上のコースをとること

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修正 カンタス航空(カナダ)→カンタス航空(オーストラリア)

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2021年3月 5日 (金)

日本の空にキャビンアテンダント登場(1931年3月5日)

 現在においては旅客機に客室乗務員(キャビンアテンダント、CA)が乗務しているのはあたりまえのことですが、昔は機内サービスがなかったためCAという職業は存在していませんでした。機内サービスが始まったのは1919年とのことですが、最初は副操縦士が担当していました。

 CAが搭乗するようになったのは1920年代になってからです。当時のCAは男性のみでスチュワードと呼ばれていました。スチュワード(男性)、スチュワーデス(女性)は船舶料理士に由来します。1929年にはパンアメリカン航空が訓練されたCAを搭乗させました。CAは機内サービスや緊急時の対応を担当しました。

 1930年、米国のボーイング・エア・トランスポート社が初めて女性のCAを乗務させました。このCAは看護師の経験があり、機内サービスの他に緊急時の対応も担当しました。現代の感覚からすると不適切ですが、当時は多くの人が危険な乗り物と考えていた旅客機に初めて女性CAを乗務させることにより、航空機の安全性をPRする目的もあったそうです。

 さて、日本の旅客機にCAが乗務するようになったのは翌年の1931年(昭和6年)でした。日本航空学校を運営していた相羽有(あいばたもつ)が1928年に設立した東京航空輸送がCAを募集、同年2月5日採用試験を行いました。そして、140人の応募者から3人を採用したことを3月5日に発表しました。3人の女性CAはエアガールと呼ばれ、東京―下田―清水間の定期路線に乗務しました。

現在のキャビンアテンダント
現在のキャビンアテンダント

 東京航空輸送は1939年(昭和14年)3月27日に国策によって1938年に設立された大日本航空に吸収合併されることになりました。その大日本航空は第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)10月に解散し、同年11月のGHQの指令「民間航空廃止ニ関スル連合軍最高司令官指令覚書」 (SCAPIN-301) によって日本人による航空に関わる活動はいっさい禁じられました。

 余談ですが日本飛行学校の一期生にはウルトラマンの生みの親でもある円谷プロダクション創設者の円谷英二さんが入学しています。この話はまたの機会にと思います。

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2021年3月 2日 (火)

超音速ジェット旅客機コンコルドが初飛行(1969年3月2日)

 1950年代後半、イギリスとフランスはそれぞれ独自に超音速旅客機の研究を始めていました。しかし、同じような機体を開発しても営業上の競合が避けられないことや開発費用の削減などを考慮し、1961年に両国で共同開発をすることになりました。1963年11月29日に両国間で共同開発の協定書が結ばれました。当時のフランスのシャルル・ド・ゴール大統領はこのプロジェクトをフランス語で協調や調和を意味する「コンコルド(Concorde)」と名付けました。

 両国間で主導権や機体の名称の決定について論争がありましたが、開発は着々と進み、機体の名称も「コンコルド」でまとまりました。各国のナショナル・フラッグの航空会社から多数の注文が入り、1967年11月12日にフランスのトゥールーズで機体の原型が公開されました。

 その2年後の1969年3月2日、原型機が初飛行に成功、10月1日には超音速での飛行に成功しています。1976年1月21日からブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスが定期的な商業運行を開始しました

 コンコルドの機体は非常に長い流線型の胴体で、機首は離着陸時には視界確保のために機首を下方に曲げることができるようになっています。また、客室は4列配置の100席でファーストクラスのみの設定でした。

コンコルド
コンコルド(Author Arpingstone

 コンコルドはマッハ2(時速2,500km)の速度でパリ・ニューヨーク間をわずか3時間45分で結びました。当初は未来のジェット機として期待されましたが、客席数や燃料消費量による採算性の問題、離着陸時の騒音や大気汚染の問題などを解決することができず、ビジネスとしては成功しませんでした。原型機を公開した当時は100機を超える注文がありましたが、実際には20機(原型機4機と量産型16機)しか生産されませんでした。

 2000年7月、コンコルド自身の問題ではありませんでしたが墜落事故が起きてしまいます。また2001年の911米国同時多発テロにより航空業界が大打撃を受けると、2003年にブリティッシュ・エアウェイズとエールフランスはコンコルドの運航を停止することを発表しました。そして、2003年10月24日、コンコルドは最後の飛行を終えました。その後、超音速旅客機が開発されることはなく、コンコルドの最後の歩行をもって、超音速旅客機は世界の空から姿を消すことになりました。

 コンコルドの詳細についてはココログ 夜明け前 「超音速ジェット旅客機コンコルドが就航(1976/01/21)」にまとめてありますのでご一読ください。

 

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2021年1月23日 (土)

ボーイング747が就航(1970年1月23日)

 ジャンボジェット機の愛称で親しまれた大型旅客機のボーイング747(B747)。この内部に2つの通路を備えたワイドボディの旅客機は乗客を500人以上も運ぶことができました。

 B747が登場する1960年代は乗客数が150〜200人の通路が1つしかないナローボディの旅客機が主流でした。高まる航空需要に応えるためには、従来の機体よりも大型で乗客数が倍以上の旅客機が必要性に迫られていました。

 当時、米国フラッグ・キャリアとして国際航空路線を拡充していたパンアメリカン航空は、ボーイング社に対して、乗客数400人を実現する大型旅客機の開発を要求しました。この要求に対してボーイング社は開発が頓挫していた米軍向けの輸送機を民間機として設計し直すことを提案ました。1965年にパンアメリカン航空はこの計画を了承し、25機のB747を注文しました。ボーイング社は1969年に初号機をパンアメリカン航空に納入するため、28ヶ月という信じられないほどの短期間で開発設計を完了しました。当時、世界の航空会社は乗客の獲得で激しい競争をしていました。パンアメリカン航空のB747の発注に続いて、多くの航空会社がB747を発注しました。

 B747は旅客機としてだけではなく輸送機としても利用できるように、機種部分から貨物の積み下ろしができるような設計になっていました。この構造によって操縦席と客席の一部が2階に配置されました。この背景には、当時開発が進められていたコンコルドをはじめとする超音速ジェット機が旅客機の主流になっていくと考えられていたからです。そのため、B747は旅客機仕様から輸送機仕様に変更できるように作られていました。輸送機仕様のB474も貨物専用の航空会社から多くの注文がありました。

 B747の商用路線の初フライトは1970年1月23日、パンアメリカン航空のニューヨーク-ロンドン線を結ぶフライトです。その後、多くの航空会社でB747が就航しました。従来の飛行機よりも大型機が必要という要望から開発されたB474でしたが、実際には当時の航空需要に対して座席数が多すぎ、座席が満席になることはありませんでした。そのため多くの航空会社が座席を満席にするため運賃を下げて全体の売上向上を狙う戦略を取り始めました。その結果、さまざまな割引が行われるようになり、とりわけエコノミークラスの格安運賃が渡航費用を下げることになり、それまで庶民にとって高嶺の花であった海外旅行が身近なものになりました。

 当初、B474は超音速旅客機に置き換えられると考えられていましたが、超音速旅客機がその採算性や騒音問題の解決に目処が立たずに頓挫したことから、とりわけ遠距離旅客機の主流となりました。

 開発から半世紀以上たった現在においても活躍しているB474ですが、より低燃費で後続距離の長い双発の旅客機が開発されたことによって、大型機で一度にたくさんの乗客を運ぶよりも、中型機で複数回運航する航空会社が増えてきました。日本ではJALが2011年2月、ANAが2014年3月にB747の運行を終了しています。

 世界各国でもB747の需要に陰りが見え始めていましたが、新型コロナウイルスの流行がB474の終焉を決定づけることになりました。

 2020年7月、ボーイング社はB4747の生産を2022年に終了することを発表しました。

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