カテゴリー「飛行機」の55件の記事

2021年9月15日 (水)

ブルーインパルスの編隊飛行の写真?

 航空自衛隊T-4ブルーインパルスの編隊飛行の写真です・・・がこの写真は本物ではありません。

ブルーインパルスの編隊飛行
ブルーインパルスの編隊飛行

 このブルーインパルスの編隊飛行の写真はトミカ トミカプレミアム 22 航空自衛隊 T-4 ブルーインパルスを撮影したものです。

 トミカを組み立てて写真を撮影し背景を空模様にした合成写真です。

 ちょっと左翼が影で暗くなってしまったのが気になります。

 スモークを加えるのも面白そうです。

 トミカ トミカプレミアム 22 航空自衛隊 T-4 ブルーインパルス

 

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2021年9月11日 (土)

911 アメリカ同時多発テロ事件(2001年9月11日)

 2001年9月11日はアメリカ同時多発テロ事件が起きた日です。

 この日、仕事を終えて知人の車で家まで送ってもらっている途中にラジオからニューヨーク市マンハッタンの世界貿易センタービル(WTC)に航空機が激突したらしいというニュースが入ってきました。ラジオではどんな種類の航空機が激突したのかなどの詳細は報告されませんでした。小型ジェットかプロペラ機が激突したのではないかと思っていました。

 家に着いてテレビをつけてNHKのニュースを見てみると、いきなりもう一機の航空機がWTCに激突している映像が流れました。それが生放送だったのかどうかはもう覚えていませんが、これは事故ではないということがすぐにわかりました。

自由の女神と炎上するWTC
自由の女神と炎上するWTC

 アメリカ同時多発テロ事件では4機の旅客機がハイジャックされました。

 最初にWTCに激突したのはボストン発ロサンゼルス行きのアメリカン航空11便(ボーイング767-200ER N334AA)でした。同機は午前8時にローガン国際空港を離陸し、その約15分後にハイジャックされ8時46分にWTCの北側タワーに激突しました。乗客76名、乗員11名、そして多数の人々の尊い命が失われました。

 次にWTCに激突したのはボストン発ロサンゼルス行きのユナイテッド航空175便(ボーイング767-200ER N612UA)でした。同機は午前8時14分にローガン国際空港を離陸し30分後にはハイジャックされ、午前9時03分にWTCの南棟タワーに激突しました。乗客51名、乗員9名、そして多数の人々の命が失われました。

 ワシントンD.C.発ロサンゼルス行きのアメリカン航空77便(ボーイング757-200 N644AA)はダレス国際空港を午前8時20分に離陸し30分後にはハイジャックされ、午前9時38分にバージニア州アーリントンのアメリカ国防総省本庁舎ペンタゴンに激突しました。乗客53名、乗員6名、多数の人々の命が失われました。

  ユナイテッド航空93便(ボーイング757-200 N591UA)はニューアーク発サンフランシスコ行きで、午前8時42分にニューアーク空港を離陸しました。乗客からの機内電話による通報によって同機は午前9時27分にハイジャックされたことが判明しました。同機はワシントンD.C.に向かいました。目標はアメリカ合衆国議会議事か大統領官邸ホワイトハウスだったと考えられています。外部との連絡でハイジャックの目的を知った乗客は同機の奪還を試みました。乗客たちは「Let's Roll.(さあやろうぜ)」を合言葉に犯人に立ち向かいました。調査委員会の報告によると乗客はコックピットに入ることはできなかったようですが、乗客たちの怒号、コックピットの扉を叩き壊す音、犯人たちの声がボイスレコーダーに記録されています。この乗客たちの抵抗に対して同機は急降下や急上昇を繰り返しますが、午前10時03分にペンシルベニア州ピッツバーグ郊外に時速907キロメートルの速さで墜落しました。墜落の原因は犯人の操縦ミスと考えられています。攻撃は阻止され、他の3機のように地上に甚大な被害をもたらすことはありませんでしたが、乗客33名、乗員7名の命が犠牲となりました。

 ユナイテッド航空93便のハイジャックは映画化され2006年に「ユナイテッド93(United 93)」が公開されています。

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2021年9月 6日 (月)

ソ連戦闘機が函館空港に強行着陸(1976年9月6日)

 1976年9月6日午後1時11分、航空自衛隊奥尻レーダーサイトが高度6,000 mを速度800 km/hで西方から北海道に近づく識別不明機を捉えました。午後1時20分、航空自衛隊千歳基地からF-4EJファントム2機がスクランブル発進しました。

 識別不明機は高度を下げながらさらに北海道に近づいて来たため奥尻レーダーサイトが無線で警告しましたが、午後1時22分に北海道茂津田岬沖合いで領空に侵入しました。同期は進路を南方に向け、さらに高度を下げたためレーダーから機影が消えました。F-4EJファントムは午後1時25分に同機をレーダーで捉えたものの30秒ほどで見失いました。奥尻レーダーサイトはロシア語と英語で警告を続け、午後1時35分に再び機影を捕らえたもののすぐに見失いました。その後、奥尻レーダーサイトもF-4EJファントムも同機を捜索するものの発見することはできませんでした。

 その後、函館上空を旋回するジェット戦闘機が発見され、函館空港事務所が航空自衛隊に問い合わせを行いました。この連絡を受けて午後1時49分にF-4EJファントムが函館方面に向かいましたが、ジェット戦闘機が函館上空を3回旋回し午後1時57分に函館空港に強行着陸したため千歳空港へ引き返しました。ジェット戦闘機は着陸時にパラシュートを開きましたが、滑走路の中央あたりに着地したためオーバーランしました。空港で工事をしていた民間人が同機に近づくと、パイロットが銃を空に向けて威嚇発砲しました。

 午後2時過ぎに航空管制官の通報を受けた北海道警察が到着し、函館空港を完全封鎖しました。当初、警察と自衛隊のどちらが対応するか混乱があったようですが、領空侵犯は自衛隊の管轄だが国内の空港への着陸は警察が管轄する事件であるとして、自衛隊は警察に締め出され空港に入ることができなくなりました。

 北海道の西方からやって来た識別不明機はソビエト連邦(ソ連)のジェット戦闘機ミグ25で、パイロットはヴィクトル・イヴァーノヴィチ・ベレンコ中尉で米国への亡命を要望していることがわかりました。ソ連はベレンコ中尉の身柄とミグ25の引き渡しを要求しましたが、ベレンコ中尉は米国への亡命が認められ、ミグ25は自衛隊の百里基地に移送され日米共同の機体調査が行われることになりました。

函館空港に緊急着陸したMiG-25Pの同型機
函館空港に緊急着陸したMiG-25Pの同型機

 自衛隊はソ連が最高機密のミグ25を取り返しに来たり、破壊しに来きたりした場合に備えました。陸上自衛隊は函館駐屯地に戦車、歩兵部隊、高射砲を配置し、函館の防衛戦闘の準備をしていました。会場自衛隊も日本海側と太平洋側、そして函館付近に艦船を配備し警戒に当たりました。航空自衛隊はF-4EJによる哨戒飛行を24時間体制で行いました。実際にソ連軍が函館にやって来ることはありませんでした。

 ミグ25は1967年7月にモスクワで行われた航空ショーで初めてその姿を現しました。ミグ25の詳細は秘密のベールに包まれていましたが、最高速度はマッハ3を超え、航続距離の長い高性能な戦闘機と考えられました。当時、米国の主力戦闘機はF-4ファントムでミグ25に対抗できる戦闘機ではありませんでした。このため米国はF-15の開発に着手することになります。F-15が実戦配備されたのは1976年1月で、この事件のわずか8ヶ月前のことでした。

 日米の調査の結果、ミグ25は予想されていたほど高性能ではないことが判明しました。たとえば主翼や胴体には耐熱性の高いチタンが使われておらず、マッハ3を超える速度には耐えらず最高速度はマッハ2.83であることがわかりました。またエンジンには旧型のターボジェットエンジンが採用されており、機体が重たいため燃費が悪く、後続距離もF-15に劣ることがわかりました。電子機器には真空管が多用されており、従来の技術の信頼性を重視したもので先進的なものではありませんでした。高速で運動性が優れた戦闘機と考えられていたミグ25は領空の防衛を目的とした迎撃撃機であり、制空戦闘機ではないことがわかりました。つまりソ連や東側勢力が高性能戦闘機ミグ25で攻撃を仕掛けてくるという西側諸国の懸念が払拭されたのです。

 調査後、ミグ25はソ連に返還されましたが、ソ連は防空システムの情報が漏洩したと考えミグ25の搭載機材をすべて変更しました。同年米国が実戦配備したF-15は速度性能を抑えて運動性を重視した戦闘機でした。その後、戦闘機の基本性能は超音速より亜音速での戦闘能力が重視されるようになり、最高速度の向上は求められなくなりました。そのためミグ25は現在においても世界トップクラスの超高速戦闘機です。

 さて、ミグ25によってあっさりと領空侵犯され、函館空港に強制着陸を許してしまった日本は防空の脆弱性が露呈する形になりました。もし、ベレンコ中尉の目的が亡命ではなく攻撃だったとしたら、たいへんな被害が出ていたことは間違いありません。日本はレーダー網を見直し、また、これをきっかけに早期警戒機E-2Cを導入しました。

 自分は当時中学生で北海道の小樽市に住んでいましたが函館市に引っ越すことが決まっていました。とんでもない事件が起きたということはわかりましたが、プラモデルが趣味の友人とミグ25の話で盛り上がったように記憶しています。飛行機のプラモデルといえばハセガワが有名ですが、この事件の前にミグ25のプラモデルが販売されていました。このプラモデルはずいぶん売れ、ハセガワが飛行機のプラモデルの老舗となりました。

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2021年9月 4日 (土)

幻の大型旅客機ブリストル・ブラバゾン初飛行(1949年9月4日)

 第二次世界大戦の終戦中の1942年、イギリスは戦後の民間旅客機の市場を調査するためブラバゾン委員会を設立しました。この委員会は1943年にブラバゾン報告書を提出し、大西洋を横断できる大型旅客機の案の応募を募集しました。ブラバゾン委員会は戦時中の大型爆撃機の開発と生産実績からブリストル飛行機社を選び、同社に2機の試作飛行機を発注しました。

 ブリストル飛行機社が提案したのは当時の旅客機としては全長50 m、翼幅70 mのプロペラ式大型旅客機タイプ167でした。タイプ167はボーイング747よりも大きな旅客機でしたが、大西洋横断の需要は富裕層であると予想されていたため乗客の定員は60から80名の広々とした客席とした豪華な旅客機ました。試作機は1945年から製造が開始し、この試作機はブリストル・ブラバゾンと呼ばれるようになりました。

ブリストル飛行機のブラバゾン
ブリストル飛行機のブラバゾン

 1945年9月4日、ブリストル・ブラバゾンはエンジンの駆動の不調もありましたが初飛行に成功し、大西洋を横断可能な大型旅客機として披露されました。しかしながら、当時の航空業界は大量輸送ができる航空機を期待しており、豪華旅客機のブリストル・ブラバゾンの受注はなく、2機の試作機は廃棄処分されました。ブリストル・ブラバゾンの開発には多大な費用がかかりましたが、初飛行成功までに獲得したノウハウはその後のイギリスの航空機開発の発展に多大な貢献をしました。

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2021年8月29日 (日)

ドイツの飛行船ツェッペリン伯号が世界一周を達成(1929年8月29日)

 ドイツの大型飛行船LZ 127型、通称「グラーフ・ツェッペリン(Graf Zeppelin、ツェッペリン伯号)」はフェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵が20世紀に開発した飛行船のひとつです。

 ツェッペリン伯号は全長236.6メートルで当時としては世界最大の飛行船でした。船体内部のガス袋には水素ガスが充填されていました。1928年9月18日に初飛行し、1928年10月に米国ニュージャージー州レイクハーストへ長距離飛行を行いました。ツェッペリン伯号と乗員たちは大歓迎され、ホワイトハウスに招待されました。その後、ヨーロッパの各国を訪れドイツに戻りました。

 1929年、ツェッペリン伯号による世界一周飛行が計画されると、多くの企業がスポンサーとなりました。当時、飛行船は大人気だったのです。主要なスポンサー企業の要請により出発地はドイツではなく米国ニュージャージー州レイクハーストに設定されました。

 ツェッペリン伯号はツェッペリン伯爵の飛行船開発の地であるドイツのフリードリヒスハーフェンからレイクハーストに移動、同年8月8日、レイクハーストを出発し、大西洋を横断してフリードリヒスハーフェンを目指しました。フリードリヒスハーフェンで燃料を補給した後、シベリア上空を無着陸で横断し、一路日本の茨城県の霞ヶ浦に向かいました。霞ヶ浦が選ばれたのはここに飛行船の施設があり、気象条件が良い土地柄だったからです。同年8月19日に霞ヶ浦航空隊に到着、霞ヶ浦には30万人もの見物客が訪れ、新聞には「君はツェッペリンを見たか!」という見出しが躍りました。

霞ヶ浦に寄港するツェッペリン伯号.jpg
霞ヶ浦に寄港するツェッペリン伯号.jpg

 5日後の8月23日、日本を出発したツェッペリン伯号は太平洋を無着陸で横断し米国西海岸を目指しました。3日間をかけて世界初の無着陸太平洋横断飛行を成し遂げ、サンフランシスコ上空を経由してロサンゼルスのマインズ・フィールドに到着。その後、シカゴ経由で米国を横断し、出発地のレイクハーストに向かいました。

 レイクハースト出発から21日後の1929年8月29日、ツェッペリン伯号はレイクハーストに帰着し、世界一周飛行に成功したのです。出発地のレクハーストから到着地レークハーストまでの飛行距離は3万1400キロメートル、最初のフリードリヒスハーフェンからレイクハーストまでの飛行距離を含む総飛行距離は4万91618キロメートルにも及びました。

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2021年8月25日 (水)

羽田空港が開港(1931年8月25日)

 日本のライト兄弟と言われた玉井清太郎と玉井藤一郎。2人は三重県四日市市の出身で母校の浜田尋常小学校で、兄18歳、弟16歳の明治43年(1910年)にフランスの飛行機ブレリオ XIの模型を参考に玉井式単葉機を製作しました。何度か滑走を試みましたが、玉井式単葉機が空を飛ぶことはありませんでした。玉井兄弟はその後も飛行機の試作と飛行実験を行いましたが失敗の繰り返しでした。

 大正元年(1912年)、清太郎は徴兵で軍隊へ入隊しました。藤一郎は兄が不在の間、飛行機の製作や飛行技術について学びましたが、1914年に軍隊に入隊しました。2年の兵役を経て除隊した清太郎は千葉の稲毛飛行場で飛行機の製造技術を学び、大正5年(1916年)に故郷の四日市市で水上飛行機による伊勢湾横断飛行に挑戦しましたが、エンジンの不調で失敗に終わりました。

 同じ頃、雑紙「飛行会」の記者で強度の近視で飛行家になる夢を絶たれた相羽有(あいばたもつ)は自作飛行機の飛行に挑戦している清太郎と出会い、意気投合した2人は大正6年(1917年)1月に東京府荏原郡羽田町羽田穴守町に日本飛行学校を開校しました。日本飛行学校の第一期生には特撮監督で円谷プロダクションの創業者の円谷英二も名を連ねています。

 日本飛行学校の初代校長に就任した清太郎は大正6年(1917年)に玉井式3号機(日本初3人乗りプロペラ機)を製作し、同年5月に公開飛行を行い東京都上空を飛行しましたが着陸寸前の高度50メートルで主翼が壊れて墜落し24歳の若さで帰らなぬ人となりました。日本飛行学校は同年9月東京湾台風による「大正6年の大津波」(高潮災害)の影響を受け、相羽有はやむなく閉校しました。

 その後、相羽有は日本初の自動車学校を開校し大成功を収めましたていましたが、航空事業が発展していく様子を見ていました。大正10年(1921年)に自動車学校に飛行科を設置し、大正13年(1924年)に日本飛行学校を再び開校しています。1928年には東京航空輸送社を設立しました。

 玉井兄弟の弟・藤一郎は大正7年(1918年)に兄の意志を継いで羽田飛行機研究所を設立し、名前を玉井照高と改めています。大正8年(1919年)に故郷の四日市市で兄の追善飛行に成功、その後は羽田で飛行学校、整備場、飛行練習所を発展させました。

 大正12年(1923年)に関東大震災で鉄道が壊滅的な被害を受けると、航空貨物輸送の必要性が高まりました。当時、民間の航空事業は立川陸軍飛行場が使用されていましたが利用上の制約も多かったため東京の中心から近い羽田に民間の空港を建設する機運が高まりました。

 羽田空港の建設は現在の羽田整備場あたりで1930年1月に始まり、翌1931年8月25日に開港しました。開港当時の羽田空港は草地の中に一本のコンクリートの滑走路という粗末なものでした。施設も簡素なもので管制塔もありませんでした。しかし、当初から税関が設置されており国際線の運行が見込まれていました。1933年には立川飛行場の民間航空事業はすべて羽田空港へと移転しました。

開港当時の羽田空港(1933年)
開港当時の羽田空港(1933年)

 羽田に空港が建設された背景には相羽有や玉井兄弟の尽力があったことは言うまでもありません。特に玉井藤一郎はその貢献度から「日本航空界の父」とされています。

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2021年8月12日 (木)

日本航空123便墜落事故(昭和60年 1985年8月12日)

 8月12日は日本航空123便(ボーイング747SR-100型機、JA8119)が墜落した日です。

 今から36年前の昭和60年(1985年)のこの日、自分は実家に帰省していて旧友と高校の恩師の家に遊びに行っていました。ビールなどを飲みながら歓談していたところ、テレビにこの事故のニュースが流れました。たいへんな航空事故が発生したことがすぐにわかり、墜落現場は山岳地帯、時間も19:00を過ぎていたので救助活動が難航するであろうことは容易に想像がつきました。乗員乗客524名のうち520名が亡くなるという予想した通りの大事故になってしまいました。

 航空機の墜落事故ほど悲惨なものはありませんが、航空機は最も安全な乗り物と言われています。たくさんの飛行機が世界中を飛んでいてますから事故が起きる確率を考えれば確かに安全な乗り物だと言えるでしょう。自動車事故による死亡者数と比較しても、そのことがわかります。その安全な飛行機が落ちたのはなぜか。

 JA8119は昭和53年(1978年)6月2日、大阪伊丹空港着陸の際に機体尾部を滑走路に接触させた、いわゆるしりもち事故を起こしています。123便墜落事故の調査の結果から、このときの機体の修理が不十分で圧力隔壁が破壊し墜落の原因になったことがわかっています。

 運輸省航空事故調査委員会はこの事故の原因を次のように結論づけています

https://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-04.pdf

 『本事故は、事故機の後部圧力隔壁が損壊し、引き続いて尾部胴体・垂直尾翼・操縦系統の破壊が生じ、飛行性の低下と主操縦機能の喪失をきたしたために生じたものと推定される。

 飛行中に後部圧力隔壁が損壊したのは、同隔壁ウエブ接続部で進展していた疲労亀裂によって同隔壁の強度が低下し、飛行中の客室与圧に耐えられなくなったことによるものと推定される。

 疲労亀裂の発生、進展は、昭和53年に行われた同隔壁の不適切な修理に起因しており、それが同隔壁の損壊に至るまでに進展したことは同亀裂が点検整備で発見されなかったことも関与しているものと推定される。』

奥多摩町上空を飛行中のJA8119
奥多摩町上空を飛行中のJA8119
垂直尾翼がほとんど失われている

 JA8119はしりもち事故から123便墜落事故までの間に飛行回数12,319回、飛行時間16,195時間59分のフライトをこなしていました。8月12日は羽田ー千歳往復(503便、504便)、羽田-福岡往復(363便、366便)を運行していますが、いつ事故が起きてもおかしくない状態にあったと考えられます。

 123便の乗員たちは最後まで飛行機を飛ばし続けることに全力をそそいでいました。乗客もパニック状態にはなっていなかったようです。123便の乗員がいかに最後まで飛行機を飛ばし続けたのかは飛行記録や地上とのやり取りを聞くとわかります。どんな状況でも最後まで諦めてはいけないということを教えてくれます。

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2021年7月27日 (火)

世界初のジェット旅客機の初飛行(1949年7月27日)

 1930年台、英国と米国は世界各地の民間航空路の開拓で覇権争いをしていました。しかし、第二次世界大戦によって休止せざるを得なくなりました。第二次世界大戦の連合により、英国は大型の爆撃機、米国は輸送機を生産することになりました。

 米国の輸送機は旅客機の設計を元に生産されましたが、英国の爆撃機は爆撃機として設計され生産されました。これは第二次世界大戦終結後に再開するであろう民間航空路の開拓および旅客機の生産の競争において、英国が米国に遅れをとることを意味していました。

 英国は米国との競争に打ち勝つために1942年12月に民間旅客機の需要を調査する目的でブラバゾン委員会を設立しました。1944年に航空機メーカーに対して新型の旅客機のタイプ1からタイプ4までの4つのプランが開示されました。

 この中でもタイプ4の旅客機は大西洋横断を可能とする郵便用のジェット輸送機のプランでした。このプランに対して名乗りを上げたのが英国で初めてジェット戦闘機の開発に成功したデ・ハビランド社でした。同社はタイプ4のプランを元に大型のジェット旅客機の開発に挑戦することを表明し、1946年9月から国家プロジェクトとして開発を進められました。

 当初は無尾翼のDH.108試験機が開発されましたが、試験飛行中に墜落してしまいました。これによって試験機のパイロットだったデ・ハビランド社の社長ジェフリー・デ・ハビランドの息子が死亡し、ジェット旅客機の開発は社をあげての目標となりました。

デ・ハビランド社 DH.108型
デ・ハビランド社 DH.108型

 新型の旅客機の機体は実績のある後退翼に変更され、エンジンは自社製ターボジェットエンジンを採用することになりました。このエンジンは実績がありましたが、旅客機に採用するには十分な出力をもっていませんでした。しかし、新しいエンジンの開発には相当の年月がかかることから、計画通りのエンジンを使うことにしました。

 1947年12月に米国ボーイング社の大型の6発式ジェット戦略爆撃機B-47が初飛行に成功すると、主翼の下にエンジンを吊り下げる方法が特許となりました。そのためデ・ハビランド社は主翼にエンジンを埋め込むことにしました。

世界初のジェット旅客機の試作機
世界初のジェット旅客機の試作機

 この試作機は1949年7月27日に飛行試験が行われました。この試験飛行ではジェフリー・デ・ハビランド社長も操縦席に着きました。当時の大型旅客機はレシプロ機であり、この試作機の初飛行は世界に先駆けてのジェット旅客機の初飛行となりました。

 このジェット機はDH.106 コメットと名付けられ1951年1月に量産型の飛行機が英国海外航空に納入されました。しかし、直ちに運行開始とはならず、当時未経験だったジェット旅客機の運行に合わせた航空システムの開発が必要となりました。その開発には1年以上かかり、その間にコメットはデモ飛行で世界各国を訪れました。

 1952年5月2日、世界初のジェット旅客機の商用運航がヒースロー〜ヨハネスブルグ間を結ぶ航路で開始しました。乗客数や後続距離は従来のレシプロ機と同程度でしたが、速度が2倍となり所用時間が半減し、天候の影響を受けない高高度を飛行することができるようになると、ジェット旅客機の優位性が注目を受けるようになりました。

 コメットは就航から2年の間に5機が事故を起こしました。最初の3機は離着陸時の事故で失われましたが、幸い死者は出ませんでした。しかし、後の2機は空中分解しており、耐空証明が取り消され、運行停止処分となりました。

 その後、事故原因の徹底的な調査と機体の改善が試みられました。改良型のコメットが運行を開始した頃にはボーイング社やダグラス社など米国のジェット旅客機が台頭しており長距離路線から撤退せざるを得なくなりました。また中短距離路線の需要も次第に少なくなり、1964年に生産中止となりました。コメットは事故率が低く生産終了後もしばらくの間は使用し続けられましたが、1960年代後半に世界の空から姿を消しました。

 世界初のジェット旅客機コメットの開発と改善の挑戦はコメット自身のみならず後の航空技術の発展に多大なる貢献を果たししたのです。

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2021年7月23日 (金)

ブルーインパルスは最後にやってきた|1964年東京オリンピック開会式

 1964年東京オリンピックの開幕式は同年10月10日午後に東京都新宿区の国立競技場で行われました。

 開会式はオリンピック序曲の演奏で始まり、競技場の観客席後部に参加各国の国旗が掲揚されました。昭和天皇・香淳皇后がロイヤルボックスに着席し国歌斉唱が行われました。続いて選手の入場行進。最初にオリンピック発祥のギリシアの選手団が入場し、その後は国名順(アルファベット順)に選手団が入場、最後は日本選手団が入場しました。選手が整列すると組織委員会の会長およびIOCの会長の挨拶が行われました。

東京オリンピック 選手入場

 午後2時58分、昭和天皇が開会の宣言を行うとファンファーレが演奏され、オリンピック賛歌の合掌が行われました。続いて五輪の旗が掲揚され、オリンピック旗が前回開催地イタリアのローマ市長から東京都知事に引き継がれました。大空にオリンピックカラーのたくさんの風船が舞いあがりました。

 そして、そこへ聖火リレーの最終ランナー坂井義則選手が入場。

最終聖火ランナー坂井義則選手
最終聖火ランナー坂井義則選手

 トラックを半周した後、聖火台までの階段を駆け上がり、聖火が点火されました。

1964年東京オリンピック聖火の点火
1964年東京オリンピック聖火の点火

 日本選手団の小野喬主将が選手宣誓を行うと、たくさんの白い鳩が空に放たれました。再び国家の斉唱が行われ、そこに航空自衛隊曲技飛行隊のブルーインパルスが上空にやってきます。見事な五輪のマークを描きました。

ブルーインパルスによる五輪マーク(1964年東京オリンピック開会式)
ブルーインパルスによる五輪マーク(1964年東京オリンピック開会式)

 昭和天皇・香淳皇后がロイヤルボックスから退席。その後、選手団が退場し、開会式は閉幕となりました。

トミカ トミカプレミアム 22 航空自衛隊 T-4 ブルーインパルス

1964年の東京オリンピック : 「世紀の祭典」はいかに書かれ、語られたか

開催50年。今こそ「世紀の祭典」を追体験。名だたる作家達の当時の観戦記から、対談:市川崑×沢木耕太郎、座談会:大宅壮一×司馬遼太郎×三島由紀夫、亀倉雄策ポスター、星新一短編まで。

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2021年7月11日 (日)

YS-11初公開|YS-11記念日(昭和37年 1962年7月11日)

 昭和37年(1962年)7月11日、 日本航空機製造は三菱重工業小牧工場(現:小牧南工場)において第二次世界大戦後初の国産旅客機YS-11の試作機1号機を公開しました。公開から1ヶ月をかけてさまざまな試験検査が行われました。8月14日にエンジンが初めて点火され、25日から滑走路での走行やブレーキテストが行われました。そして、8月30日に名古屋空港を離陸し伊勢湾上空を約1時間飛行しました。YS-11の初飛行の様子は多くの関係者が見守られ実況中継されました。

 YS-11の「YS」は輸送機(Yusoki)と設計(Sekkei)に由来し、「11」はエンジンの番号1と機体仕様の番号1を組み合わせたものです。昭和33年(1958年)12月11日に横浜の日本飛行機の杉田工場で「横浜(Y)・杉田(S)で11日に会いましょう」というキャッチフレーズとともにモックアップが公開されました。このため、YS-11は当初は「ワイエスイチイチ」と呼ばれていましたが、「ワイエスジュウイチ」と呼ばれるようになりました。YS-11の試作機も11日に公開されることになりました。

YS-11「世界に誇る 国産技術の粹」(昭和33年 1958年)
YS-11「世界に誇る 国産技術の粹」(昭和33年 1958年)

  YS-11の日本国内の民間定期路線での運行は平成18年(2006年)9月30日の日本エアコミューターの「沖永良部空港発-鹿児島空港行」がラストフライトとなりました。平成19年(2007年)8月、社団法人日本機械学会がYS-11を機械遺産に認定しました。

 YS-11についての詳細はココログ 夜明け前「YS11が機械遺産に認定」にまとめてありますので、ご興味がありましたご一読ください。

ハセガワ 1/144 YS-11 試作1号機/2号機 プラモデル 10836

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