カテゴリー「飛行機」の95件の記事

2024年7月 7日 (日)

円谷英二監督の誕生日(1901年7月7日)

ココログ「夜明け前」公式サイト

 円谷英二監督は明治34年(1901年)7月7日に福島県岩瀬郡須賀川町(須賀川市)で生まれました。小学生になると水彩画に興味を持ち大人も驚くほど上手な絵を描きました。明治43年(1910年)に徳川好敏、日野熊蔵両大尉による日本初の動力飛行機の飛行に成功すると、飛行機と操縦士に憧れるようになり模型飛行機の作成を行うようになりました。

 円谷少年が映画に出会ったのは明治44年(1911年)です。巡業に来た活動写真「桜島爆発」を見て映写の仕組みに興味を持つようになり、子ども向けの映写機を購入し手製の映画を制作するようになりました。

 模型飛行機作りの趣味も続け大正元年(1912年)には地元で新聞に取材されるほど話題になりました。大正5年(1916年)、15歳になった円谷少年は米国人飛行士アート・スミスが東京で披露した曲芸飛行のニュースを見てますます飛行機に憧れるようになりました。同年に学校を卒業した円谷少年は東京の月島機械製作所(月島ホールディングス)に入社しますが1ヶ月ほどで退社します。飛行機の操縦士になるべく同年11月に玉井清太郎と相羽有が8月に創設した日本飛行学校に第一期生として入学しました。

 こうして円谷少年は飛行機の操縦士になる夢を追いかけ始めました。しかし、大正6年(1917年)5月に唯一の教官だった玉井清太郎が墜落死、10月には台風による高波で飛行機が格納庫ごと流されてしまい日本飛行学校の継続が不可能となりました。操縦士になる夢を打ち砕かれた円谷少年は失意のうちに飛行学校を退学することになりました。

 その後、円谷少年は電気学校(東京電機大学)の夜間部に進学しながら玩具の製作会社で働き「自動スケート」「玩具電話」など様々な玩具を考案しました。大正8年(1919年)、考案した玩具が大人気となり多額の特許料を得ます。その祝いとして玩具会社の職工たちと王子の飛鳥山公園で花見を開きました。このとき職工たちが他の花見客と口論になりました。この喧嘩の仲裁に入ったのが若干18歳の円谷青年でした。この喧嘩が円谷青年の転機になります。実は職工が喧嘩をした相手は映画の制作を手がける天然色活動写真株式会社(天活)の社員だったのです。仲裁した円谷青年が聡明であると認められ同社に入社することになったのです。この会社で円谷少年はカメラマンを目指すことになりました。

 大正9年(1920年)、天活は後に国際活映(国活)に吸収され円谷青年はカメラマン助手として働いていました。このとき飛行機に搭乗して空中撮影を行う仕事が舞い込みましたが怖がって引き受けるカメラマンが誰もおらず円谷青年が自ら志願しました。パイロットを目指していた円谷青年は航空写真の撮影をやすやす成し遂げカメラマンに昇格しました。しかし、大正10年(1921年)、20歳になった円谷青年は国活を退社し兵役に就くことになりました。2年後の大正12年(1923年)に除隊し国活に復帰しカメラマンとして活躍しました。

 昭和3年(1928年)に松竹京都下加茂撮影所にカメラマンとして入社し映画の撮影を行いますが後の特撮技術に通じる特殊な撮影方法を取り入れるようになりました。昭和7年(1935年)に日活太秦撮影所から誘いを受け移籍しました。この頃、アメリカ映画「キングコング」を見て先進的な特撮に衝撃を受け特撮に興味を持つようになりました。しかしながらこの取り組みが日活と合わず昭和9年(1934年)に東宝の前身のJOトーキーに移籍しました。

カメラマンの円谷英二(1934年)
カメラマンの円谷英二(1934年)

 昭和10年(1935年)、連合艦隊の練習艦「浅間」に6カ月間乗艦し練習の様子を撮影し、初監督作品となるドキュメンタリー映画「赤道を超えて」を製作しました。同年、ファンタジー映画「かぐや姫」を撮影しています。

 昭和12年(1937年)に「東宝映画株式会社」が設立され東宝東京撮影所でカメラマンとして働くことになりましたがスタッフが特殊撮影を理解できなかったことから一人で特殊技術に取り組みオプチカル・プリンターの研究などを始めました。

 昭和14年(1939年)、陸軍航空本部の依頼で埼玉県熊谷陸軍飛行学校で飛行機操縦の教材映画を製作しました。飛行機を一人で操縦しながら空中撮影を行いました。陸軍関係者は円谷監督の飛行機技術にずいぶん驚いたようです。その後、ミニチュアを用いた戦争映画を手掛け特殊撮影が高く評価されました。昭和16年(1941年)12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争が開戦すると軍の要請により戦意高揚を目的とした戦争映画を制作することになりました。特撮は必須となり円谷監督のスタッフが特殊技術を手がけました。

 多くの戦争映画を撮影しましたが昭和20年(1945年)8月1日に召集されましたが15日に終戦を迎え撮影所に戻りました。昭和23年(1948年)3月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は戦時中に戦意高揚の映画を作成したとして公職を追放され東宝を退職しました。退職後もあきらめずに自宅にプレハブを建て円谷特殊技術研究所を設立し特撮技術の開発に取り組みながら映画の製作に参加しました。

 昭和27年(1952年)に公職追放が解かれ東宝に復帰しました。昭和29年(1954年)のゴジラの特撮を担当したのを皮切りに多くの怪獣映画で特技監督を務めました。昭和31年(1956年)には自宅の円谷特技研究所での個人としての活動を再開しました。昭和38年(1963年)に東宝を退社し同年4月12日に株式会社円谷特技プロダクションを設立、テレビドラマの特撮を手掛けるようになりました。その後の活躍は関連記事の「ウルトラQ」「ウルトラマン」などをご覧ください。

 円谷プロダクションの作品は子どもたちに夢を与えるだけでなく正義とは何かを考えさせるなど多くの影響を与え続けています。

【関連記事】

日本における動力飛行機の初飛行(1910年12月19日)

日本のライト兄弟 玉井清太郎と玉井藤一郎|羽田空港が開港(1931年8月25日)

ゴジラの日 1954年11月3日(昭和29年)

ゴジラまでシェー 怪獣大戦争の公開(昭和40年 1965年12月19日)

ウルトラQ放送開始(1966年1月2日)

ウルトラマンの日(1966年7月10日)

ウルトラセブン放送開始の日(1967年10月1日)

 

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2024年6月26日 (水)

世界初の実用ヘリコプターが初飛行(1936年6月26日)|フォッケウルフ Fw 61

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 ヘリコプターの原型は竹トンボに始まりルネサンス期にはイタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチを残しています。18世紀以降になると模型が作られるようになりやがて蒸気機関を搭載した試作機が製作されるようになりました。20世紀になると人が操縦するヘリコプターが開発されまたが空中に浮きあがることはできても実用的なものではありませんでした。

 固定翼機が主流になると回転翼をもつオートジャイロが開発されるとヘリコプターに必要な航空力学や技術的な知見が得られるようになりました。やがてホバリングが可能なヘリコプターも登場するようになりましたが飛行は不安定で実用できるようなものではありませんでした。

 安定飛行が可能な実用的ヘリコプターを開発したのは1930年代にドイツでオートジャイロの開発と生産を行っていたハインリヒ・フォッケ博士です。フォッケ博士はオートジャイロの開発を通じ回転翼による航空機はオートジャイロでは実現できないという結論に達し、ヘリコプターの開発に着手しました。1934年にはヘリコプターの試作機が完成すると、ドイツ航空省はフォッケ博士にヘリコプターの試作機フォッケウルフFw 61の製造を命令しました。

 フォッケウルフFw 61は1936年6月26日に初飛行を行いました。翌年、試作2号機作られ1937年5月10日にエンジンを止めた状態で着陸するオートローテーションに成功した。これによってドイツは世界に先駆けて安定飛行jが可能で実用的なヘリコプターの開発に成功したのです。

フォッケウルフ Fw 61のデモンストレーション
フォッケウルフ Fw 61のデモンストレーション

 

Focke-Wulf Fw 61 demonstrated by Hanna Reitsch

 

 

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2024年6月21日 (金)

モーリー島事件(1947年6月21日)

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 1947年6月21日、アメリカ合衆国ワシントン州モーリー島の巡視していたフレッド・クリスマンとハロルド・ダールは上空に非常に大きなドーナツ型の6機の飛行物体を発見しました。飛行物体の1機が中心部から何千枚も白紙のようなものを撒き散らしはじめました。この白紙は白色の軽い金属片であることが判明しました。このとき溶岩のような物体が巡視船に落下し作業員が骨折し犬が1匹死亡しました。

モーリー島事件(1947年6月21日)
モーリー島事件(1947年6月21日)

 この事件を聞いたSF雑誌「アメイジング・ストーリーズ」現編集者のレイモンド・アルフレッド・パーマーは1947年6月24日に未確認飛行物体を飛んでいるのを目撃したケネス・アーノルドに連絡しモーリー島の事件の調査を要請しました。アーノルドはクリスマンとダールに事件の状況をインタビューし調査に乗り出しました。ダールは事件の概要を説明し、事件後に黒服の男(メン・イン・ブラック)が現れ事件について話をしないように求められたと証言しました。クリスマンはモーリー島から金属片を回収し、また珍しい乗り物を目撃したと証言しました。

 アーノルドはさらなる調査のために7月4日にUFOを目撃したユナイテッド航空のエミール・J・スミス機長を雇いました。クリスマンはアーノルドとスミスに回収した金属片を見せましたが、その金属片はありふれたものでした。

 アーノルドはカリフォルニア州ハミルトン飛行場第4空軍軍事情報部フランク・ブラウン中尉に連絡、アーノルドはブラウン中尉とウィリアム・L・デイビッドソン大尉に会いました。デイビッドソン大尉とブラウン中尉は事件について調査を行いクリスマンの金属片を回収しました。その後、 2人はB-25ミッチェルでカリフォルニアへ帰還しましたがこの飛行機が墜落し2人とも死亡しました。

 墜落事故まで発生したため事件を重く見たFBIは捜査を開始しました。ダールは「当局に尋問されたらでっちあげだと言うつもりだった」と述べていることからこの事件が虚偽であると判断して捜査を進めました。その結果、FBIはクリスマンとダールが自分たちの作り話で報酬を得るため様々な出版社に連絡を取っていたことを確認し事件はでっちあげられたものと結論づけました。

 このモーリー島事件でクリスマンとダールが処分されなかったことから、政府が事件を隠蔽しようとしたという噂も流れました。しかし、捜査において2人のジョークが本人たちが意図せずに急激に広がり、B-25ミッチェルの墜落事故も直接的な関係がないと判断されたのが真相のようです。この事件はでっちあげと結論づけられたにも関わらず、その後もUFO事件として何度も取り上げられました。とりわけ「黒服の男(メン・イン・ブラック)」という概念が広がりました。

 

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2024年4月22日 (月)

空母「赤城」進水(1925年4月22日)

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 赤城は大日本帝国海軍の航空母艦です。赤城はもともと艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を中核戦力とする日本海軍の建艦計画「八八艦隊計画」で天城型巡洋戦艦の2番艦として大正9年(1920年)に建造が始まりました。しかしながら第一次世界大戦後の1921年にワシントンD.C.で開かれた国際軍縮会議「ワシントン会議」で軍縮条約が締結されたため軍艦としての赤城の建造は中止となり、航空母艦に改造されることになりました。

 艦名の赤城は群馬県前橋市の赤城山に因みますが赤城の名を持つ日本海軍の軍艦としては2代目になります。赤城は巡洋戦艦の命名基準に従って山の名前が付けられその名前のまま航空母艦に改造されました。航空母艦の命名基準は鳳・龍・鶴・鷹など神話などに登場する空を飛ぶ瑞祥動物が付けられますが、航空母艦の命名基準がで明確に規定されたのは昭和8年です。

 赤城は完成していた巡洋戦艦をイギリス海軍カレイジャス級巡洋戦艦改造空母フューリアスを参考に三段式航空母艦に改造されました。上段と下段が飛行甲板で中段は20cm連装砲2基と艦橋が設置されていました。下段の甲板は小型機の発艦のみに使用され、大型機の発艦と全機の着艦は上段の甲板で行われました。

新造後の赤城
新造後の赤城

 赤城の進水は大正14年(1925年)4月22日、昭和2年(1927年)3月25日に竣工しました。昭和3年(1928年)6月に東郷平八郎元帥と岡田啓介海軍大臣らが赤城の航空訓練を視察しました。昭和4年(1929年)には後に連合艦隊司令長官となる山本五十六大佐が艦長に着任しました。

 航空機の性能が向上すると赤城の飛行甲板は滑走距離が不十分となりました。昭和13年(1938年)に大改装を行い上段を全通式の飛行甲板としました。中断と下段は格納庫となり常用と補用を含めた搭載機数が増えました。

改装後の赤城
改装後の赤城

 改装が完了した赤城は第一航空戦隊旗艦として支那事変に派遣し海軍陸戦隊や陸軍の上陸を支援し帰投しました。この支那事変をきっかけに太平洋戦争が始まります。赤城は昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃に機動部隊の旗艦として参加、艦載機が真珠湾に停泊中のアメリカ海軍太平洋艦隊を奇襲しました。任務を終えた赤城は同年12月24日に日本本土に帰着しました。

 昭和17年(1942年)6月、赤城はミッドウェー島攻略のためミッドウェイ作戦に参加しました。赤城は同年6月5日午前1時30分にこの作戦の前哨戦とも言えるミッドウェイ海戦に参戦、艦載機がミッドウェー島アメリカ軍基地に向けて発艦しました。同日早朝に空母を含む敵艦隊発見の報告が入り、赤城はミッドウエイ島の攻撃を中止し敵艦隊攻撃のための魚雷兵装の準備を始めました。

 この準備中に米国戦闘機の攻撃を受けると、魚雷を装備し燃料を満タンにした赤城の九七艦攻および取り外したミッドウェー島爆撃用の爆弾が誘爆を始めました。懸命な対応にも関わらず赤城は内部からの大火災で午後4時20分に自力航行不可能となり総員退去しました。赤城は無人のまま漂流を続け、やがて全て燃え尽きる焼け焦げた姿となりました。赤城に対する撃沈の命令が出され同年6日午前2時、嵐、野分、萩風、舞風の第四駆逐隊の各艦が赤城右舷に魚雷を1本ずつ発射しました。昭和17年(1942年)6月6日午前2時10分、この味方駆逐艦による雷撃処分により赤城は艦尾から沈没していきました。

 2019年、ポールアレン財団は深海調査船ペトレルが中部太平洋(北緯30度30分、西経178度40分付近)の水深5,490メートルの海底に沈没ししている赤城を発見、2023年9月11日にロバート・バラードの海洋調査船EVノーチラスがミッドウェー海戦以来81年ぶりに赤城を発見し、その姿を映像で捉えました。

 

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2023年12月12日 (火)

キ43 一式戦闘機「隼」の初飛行(1938年12月12日)

  カテゴリ:飛行機 カテゴリ:今日は何の日

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 昭和12年(1937年)に採用された中島飛行機の九七式戦闘機(キ27)は最大速度・上昇力ともに他国の戦闘機に遜色なく、とりわけ旋回性能は高く優秀な戦闘機でした。しかしながら九七式戦闘機は主脚を引き込むことができない固定脚であり将来性は明るくありませんでした。

 採用段階で九七式戦闘機の将来性に限界を感じていた陸軍は中島飛行機にキ43の試作を命令しました。中島飛行機は昭和14年(1939年)の完成を目指しキ43の開発に取り組みました。キ43の基本構造は主脚を除いて九七式戦闘機を踏襲したため開発は順調に進みました。昭和13年(1938年)12月には試作1号機(機体番号4301)が完成し、同年12月月12日に利根川河畔の中島飛行機の尾島飛行場にて初飛行しました。その後、キ43の試作機の審査が行われました。

43
キ43 一式戦闘機「隼」

 審査の結果、キ43は主脚を引き込みにしたにも関わらず九七戦闘機に比較して旋回性能が劣り、最高速度もわずか時速30 km向上しただけで、上回った性能は航続距離だけでした。同年5月に起きたノモンハン事件では九七戦闘機が大活躍したこともあり、余儀なくキ43は見直されることになりました。またノモンハン事件によってさらなる高速化と武装強化および防弾装備が要求されたこともあり、追加で製作された試作機も採用されませんでした。その後、エンジンがより強力なものに変更され性能向上が図られました。

 キ43は審査途上でしたが、日本と英国・米国の関係が悪化すると陸軍は南方作戦で活躍できる戦闘機を必要としました。次期主力戦闘機とされていたキ44二式戦闘機「鍾馗」が間に合わないことから、陸軍はキ43試作機に最低限の改修を施したものを審査し昭和16年(1941年、皇紀2601年)5月に一式戦闘機として採用しました。

 一式戦闘機は採用が遅れたため実戦配備されたのは飛行第59戦隊と飛行第64戦隊のみでした。最低限の改修で性能向上を図った一式戦闘機でしたが多くの敵戦闘機を撃墜し大きな戦果をあげました。当初はあまり知られていなかった一式戦闘機でしたが、南方作戦が終了した昭和17年(1942年)に「隼」という愛称が付けられその戦果が発表されました。飛行第64戦隊は加藤隼戦闘隊と呼ばれました。

 第二次世界大戦中期以降は「隼」は性能的にも旧型の戦闘機となり主力戦闘機の座を譲りましたが、新型飛行機も性能面で問題を抱えていたこともあり昭和20年(1945年)まで生産が続けられ現役戦闘機として活躍しました。

【関連記事】キ43 一式戦闘機「隼」の初飛行(1938年12月12日)

零戦の日(1939年7月6日)

太平洋戦争開戦(1941年12月8日)

お婆さんの長男は一〇〇式司令部偵察機の偵察兼通信兵

零戦五二型61-120号機

 

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2023年12月 5日 (火)

バミューダトライアングルの日(1945年12月5日)

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 魔の三角海域と知られるバミューダトライアングルはフロリダ半島先端、大西洋のプエルトリコ、バミューダ諸島を結ぶ海域のことです。この海域では古くから船舶や航空機が消失する事件が多発しています。それらの事故は原因が科学的に解明できなかったことから超常現象として取りあげられました。特に1974年のチャールズ・ベルリッツ著「The Bermuda Triangle(謎のバミューダ海域)」は世界20か国語に翻訳されてベストセラーとなり、バミューダトライアングルの名とその超常現象が広く知られるようになりました。

魔の三角海域と知られるバミューダトライアングル
魔の三角海域と知られるバミューダトライアングル

 バミューダトライアングルで特に有名となった事件は1945年12月5日にアメリカ海軍のゼネラルモーターズ社製TBMアヴェンジャー雷撃機5機(乗員14名)が訓練飛行中に消息を絶ったフライト19事件です。捜索を行ったマーティン社PBMマリナー飛行艇(乗員13名)も消息を絶ったことから超常現象が起きたのではないかと考えられました。

 海軍の当初の報告書では悪天候とコンパスの故障が重なり飛行隊を率いていた中尉が飛行コースを誤ったと結論づけていますが、中尉の責任となることを避けるため後に「原因不明」と修正されました。このことが超常現象説を増長させることになりました。なお報告書ではPBMマリナー航空機の墜落は空中爆発としています。

 バミューダ島周辺は磁鉄鉱が多く含まれる玄武岩が多くコンパスに影響を与える可能性が指摘されています。また海上竜巻やハリケーンが発生しやすいことも指摘されています。しかしながら、実際にはこの海域が特別に遭難事故が多いというわけでもありません。バミューダトライアングルで起きた事故が超常現象と関連づけられるようになり遭難が多発する地帯と誤認されるようになりました。

 フライト19事件が発生した12月5日は「バミューダトライアングルの日」とされています。なおフライト19の飛行隊は1977年に公開されたスティーブン・スピルバーグ監督のSF映画「未知との遭遇」の冒頭に登場します。飛行隊はソノラ砂漠で燃料タンクが満タンで無傷の状態で発見され、地球外生命体の仕業であったことが示唆されます。映画のエンディングシーンでは乗組員たちがエイリアンの母船から地球に帰還します。

【関連記事】

映画「未知との遭遇」日本公開(1978年2月25日)

空飛円盤記念日 ケネス・アーノルド事件(1947年6月24日)

ロズウェル事件(1947年7月8日)

甲府事件(1975年2月23日)

 

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2023年11月12日 (日)

航空自衛隊 中型輸送機C-1の初飛行(1970年11月12日)

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カテゴリ:飛行機 カテゴリ:今日は何の日

 八王子駅前のビルで「自衛隊まつり」(2023年7月15日 ~17日)が開催されていました。航空自衛隊の装備品の展示やグッズの販売が行われていましたが、ひときわ目に付いたのが「八王子航空基地プロジェクト」という1/144スケールの自衛隊機の模型や格納庫などのジオラマ展示です。そこにたくさん並んでいた航空機の一機が航空自衛隊の中型輸送機C-1です。

航空自衛隊 中型輸送機C-1
航空自衛隊 中型輸送機C-1

 航空自衛隊は戦後の日米の援助協定により1954年にカーチスC-46A/Dを36機を保有していました。しかし、カーチスC-46は戦前の機体であり既に生産が中止され部品供給に支障をきたすなどの問題が生じていました。1962年に台湾空軍から12機を購入し合計47機で運用をしていました。カーチスC-46はもともと旅客機として開発されたカーチスCW-20が原型となったため輸送機としては十分な性能ではありませんでした。この指摘は導入当初からのもので後継機の必要性が検討されましたが具体的に動き始めたのは1960年代に入ってからでした。

 1963年から新輸送機に対する要求仕様が検討され、当時既に完成していたYS-11を改造するか、開発中の海上自衛隊の対潜飛行艇PS-1を改造するか、米国の対潜哨戒機P2Vを改造するか、あるいは米国のC-130輸送機を採用するかなどが検討されました。しかし、1966年に新輸送機を新規に開発することが決まり、YS-11開発の実績のある日本航空機製造で開発が始まりました。

 日本航空機製造は製造設備を持っていないため機体の製造は三菱重工業、川崎重工業、富士重工業、新明和工業、日本飛行機の5社が分担しました。試作機(XC-1)は川崎重工業で組み立てられ昭和45年(1970年)11月12日に初飛行しました。

 日本航空機製造は自社工場を持っていないため巨額の赤字が発生しC-1の量産化の目処が立たなくなりました。また日本航空機製造は設立時の法律によって民間機のみを製造することになっていたため違法状態となり政治的な問題に発展しました。結果としてC-1の量産化は川崎重工業が担当することになりました。

【関連記事】航空自衛隊 中型輸送機C-1の初飛行

航空自衛隊YS-11FC 160号機(機体番号12-1160)|八王子「自衛隊まつり」

日本で初めて飛行機で飛ぶことに挑戦した鳥人幸吉 

二宮忠八 日本初の模型プロペラ飛行器を飛ばした男(明治24年 1891年4月29日)

ライト兄弟が初飛行に成功 (1903/12/17)

日本初のグライダーの飛行に成功(1909年12月5日)

星の王子さまの日(1900年6月29日 )

日本における動力飛行機の初飛行(1910年12月19日)

国産動力飛行機が初飛行に成功(1911年10月13日)

日本の空にキャビンアテンダント登場(1931年3月5日)

羽田空港が開港(1931年8月25日)

純国産飛行機「神風号」がロンドンに到着(1937年4月9日)

零戦の日(1939年7月6日)

ハインケルHe178が世界初のジェット飛行成功(1939年8月27日)

日本初の国産ジェット機「橘花」初飛行(1944年8月7日)

世界初のジェット旅客機の初飛行(1949年7月27日)

日本航空の設立(1951年8月1日)

民間航空記念日(1951年10月25日)

YS-11初公開|YS-11記念日(昭和37年 1962年7月11日)

ボーイング747が就航(1970年1月22日)

超音速ジェット旅客機コンコルドが就航(1976/01/21)

 

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2023年8月27日 (日)

ハインケルHe178が世界初のジェット飛行成功(1939年8月27日)

 世界で初めて開発されたプロペラを持たないジェット機はルーマニアの発明家アンリ・コアンダが1910年に製作したコアンダ=1910です。この航空機は機首のレシプロエンジンで遠心式ブロアーを回転させるサーモ・ジェット・エンジンが搭載されていました。世界初のジェット機として同年10月にパリで開催されたパリの第2回国際航空博覧会に展示されましたが、同年12月の地上テストで滑走路から逸脱し焼失しました。これによってコアンダ=1910の開発は中止となりました。

 実際に世界で初めて空を飛ぶことに成功したジェット機はドイツのハインケル社が開発したハインケル He 178(Heinkel He 178)です。He 178は世界初のターボジェットエンジン航空機です。

 ターボジェットエンジンはイギリス空軍のフランク・ホイットルが考案し、1929年に遠心式ターボジェットエンジンに関する特許を取得しました。この特許は機密扱いとされなかったため世界で注目され、一部の国でジェットエンジンの開発が行われました。

 最初に有力なエンジンを開発したのは空軍や航空機メーカーの技術者ではなくドイツのゲッティンゲン大学工学部の大学院生ハンス・フォン・オハインでした。 オハインはラジアルタービンを用いたジェットエンジンを考案して特許出願しました。1934年に友人が経営する自動車整備工場で試作機の製造に着手しました。1936年、オハインが開発したジェットエンジンを見たエルンスト・ハインケルはオハインをハインケル社に招きジェット機の開発に着手しました。翌1937年には気体水素を用いた遠心式ジェットエンジンの初号機ハインケルHeS 1 が製造され試験が始まりました。ジェットエンジンの開発が進められ軽油を燃料とする実用的ターボジェットエンジンHeS 3 が完成しました。He 3は単発のレシプロエンジンの急降下爆撃機 He 118に吊り下げる形で飛行試験が行われました。

 このHe 3 エンジンを搭載するために開発された機体がハインケルHe 178です。He 178はハインケル社のジークフリート・ギュンターによって設計され、金属製の胴体に木製の主翼を持つ小型機でした。

ハインケルHe178の試作二号機(上)とレプリカ(下)
ハインケルHe178の試作二号機(上)とレプリカ(下)

 最初の試作機He 178 V1 が初飛行したのは1939年8月27日です。操縦はハインケル社のテストパイロットのエーリッヒ・ヴァルシッツが担当しました。 このときの飛行時間はわずか6分程度でしたが、機体の耐久力などの性能により飛行時間は10分、最高速度は時速598キロメートルに制限されていました。試作2号機 He 178 V2 は推進力不足で離陸もできなかったのです。結果としてHe 178は従来のレシプロエンジンの戦闘機に対して性能面で優位性を示すことができず軍用機として採用されませんでした。

 しかしながらイギリスではホイットルによるジェット機の開発が進んでおり、ジェット機の将来性は確信されていたことからドイツ航空省はハインケル社に双発ジェット戦闘機 He 280の開発を進めるよう要請しました。このとき航空省は他社に対してもジェットエンジンの開発を打診しており、これによって後に世界で初めて実用配備されたジェット戦闘機メッサーシュミットMe 262に搭載されるジェットエンジンが開発されています。ハインケル社はHe 280を開発しましたがエンジン開発に手間取ったことなどから採用されませんでした。しかし、その機体はMe 262より先進的で時代を先取りしたものでした。

 さてHe 178 は試験終了後にドイツ空軍博物館に展示されていましたが1943年のベルリン空襲で焼失してしまいました。He 178は秘密裏に開発されたため一部の国を除いて他国に戦後まで知られることはなかった。現在は初飛行を行ったロストック・ラーゲ空港と米国スミソニアン航空宇宙博物館にレプリカが展示されています。

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日本初の国産ジェット機「橘花」初飛行(1944年8月7日)

世界初のジェット旅客機の初飛行(1949年7月27日)

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2023年8月12日 (土)

スペースシャトル実験機「エンデバー」単独初飛行(1977年8月12日)

 米国NASAのスペースシャトル「エンタープライズ」(OV-101)はスペースシャトルのオービター1号機です。この「エンタープライズ」は滑空実験機でエンジンや耐熱シールドは装備されておらず宇宙に旅立つことはありませんでした。1976年9月17日に完成後、さまざまな地上テストを重ねました。

 1977年2月18日、ボーイング747シャトル キャリア航空機(SCA)の背中に搭載された状態で無人飛行テストが行われ、同年6月18日に同条件で有人飛行テストが行われました。そして同年8月12日の飛行テストでは「エンデバー」はボーイング747から切り離され単独飛行、滑空試験、着陸試験が行われました。その後、同テストが4回実施され機体の改良が行われました。

滑空試験中のスペースシャトル実験機「エンデバー」
滑空試験中のスペースシャトル実験機「エンデバー」

 もともとこの機体はアメリカ合衆国憲法発布200年記念しで「コンスティテューション」と名付けられることになっていましたが、「スタートレック」の宇宙船エンタープライズ号と同じ名前をつけてほしいという多数の投書が届いたため「エンタープライズ」と名付けられました。

 滑空テストの後、宇宙飛行ができるように改造する計画が持ち上がりましたが、別の滑空試験機「チャレンジャー」を改造することになり見送られました。1981年4月12日に初めて宇宙飛行をしたスーペース・シャトルは「コロンビア」です。1986年1月28日の「チャレンジャー」の爆発事故の後に「エンデバー」の改造計画が再び持ち上がりましたが「エンデバー」を新造することになりました。

 2012年4月24日、「エンタープライズ」はボーイング747の背に乗せられニューヨーク市上空をデモ飛行し、同年6月にニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に搬入されました。

Endeavour Lands in Houston for Stopover | NASA KSC SCA Space Science Center Shuttle Video

 

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2023年8月 7日 (月)

日本初の国産ジェット機「橘花」初飛行(1944年8月7日)

 「橘花」は大日本帝国海軍が開発した国産初の双発ジェット戦闘攻撃機[です。

 太平洋戦争の終戦一年前の昭和19年(1944年)8月、日本は戦況の悪化から燃料の入手が困難になり、高高度を高性能で飛行できるレシプロエンジンを搭載した戦闘機の開発に行き詰まりました。そこで低質の燃料や潤滑油で稼働し部品点数の少ない高性能なジェットエンジンを搭載した攻撃機「皇国二号兵器」の開発を決定しました。エンジンの開発は海軍航空技術廠が担当し、機体の開発は中島飛行機が担当しました。

 当時の日本は諸外国に比べてジェットエンジンの開発に遅れを取っており、エンジンの取り付けを翼下懸架型としたジェット戦闘機を開発することにしました。同盟国のドイツが先行して開発していたジェット戦闘機メッサーシュミットMe 262がを翼下懸架型であったことから、「橘花」の開発にあたってはMe 262を参考にすることにしました。そのため日本はドイツが必要としていた哨戒艇用ディーゼルエンジンの技術資料を提供するかわりにとドイツからメッサーシュミット Me 262 の技術資料を提供してもらう密約を結びました。日本とドイツはそれぞれ潜水艦で資料を日本占領下のインドネシアまで運び交換することにしました。情報交換は1944年末に行われましたが日本の潜水艦が米国潜水艦の攻撃を受けて沈没したため、ドイツから提供されたMe 262 機体やエンジンの詳細な設計図がほとんどが失われてしまいました。そのため日本はジェット戦闘機を独自に開発しなければなりませんでした。

 「橘花」はMe 262に似ていますがほとんど独自の設計となりました。エンジンの推力が小さいため小型の機体となり、翼もMe 262とは異なる形状となりました。物資の不足により前輪は爆撃機「銀河」の尾輪、主輪は零戦のものが流用されました。また主エンジンのみでは離陸ができないため離陸用補助エンジンが搭載されまきた。機体はジュラルミン不足のため、ブリキやマンガン鋼が使われました。物資の不足から簡素化が図られ、生産工数も短縮され、零戦の半分の2工数で製造できるように設計されました。

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双発ジェット戦闘攻撃機「橘花」

 完成した試作機「橘花」の試験飛行は広島原爆投下の翌日である昭和19年(1944年)8月7日に千葉県の木更津基地で行われました。燃料不足から航空機燃料の代替品として使われていた松根テレビン油を含む低質な燃料が使われましたが、12分間の飛行に成功し、これが国産ジェット機の初飛行となりました。8月12日に陸海軍幹部視察の飛行が行われましたが、離陸時にオーバーランして飛行することはできませんでした。原因はパイロットの判断ミスによる離陸中止でした。この事故で「橘花」の脚が壊れ再飛行は不可能となり、3日後に終戦を迎えました。

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