カテゴリー「飛行機」の102件の記事

2024年11月14日 (木)

世界初の艦上から発艦(1910年11月14日)

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 世界で最初の航空兵器を装備した軍艦は「気球母艦」です。1849年7月12日、オーストリア海軍が「気球母艦」から爆弾を取り付けた熱気球を発艦させたものの失敗に終わったという記録が残っています。1861年から1865年にかけて行われたアメリカ合衆国の南北戦争ではガス発生装置を備えた「気球母艦」が建造されました。

 現在の航空母艦のように軍艦の甲板から航空機の発艦に成功したのは1910年です。アメリカ合衆国のパイロットのユージン・バートン・イーリーは1910年初めにオレゴン州ポートランドでドイツ人実業家アーネスト・ヘンリー・ウィームのもとで自動車セールスマンとして働いていました。ウィームは航空業界にも関心をもちカーチス社製の複葉機の代理店となりました。イーリーはこのカーチス複葉機でオレゴンまで飛ばすことを志願し自ら操縦しましたが墜落させてしまいました。幸いイーリーの怪我は軽傷で飛行機も大破しませんでした。

ユージン・バートン・イーリー
ユージン・バートン・イーリー

イーリーは事故機をウィームから買い取り修理して飛行機の操縦の訓練を行いました。1910年6月にミネソタ州ミネアポリスで開催された展示会に参加し、そこでグレン・カーティスと会い彼の航空会社ヘリング・カーチス社で働くようになりました。1910年10月5日、イーライはアメリカ航空クラブのパイロットライセンスを取得しました。その後、イーライとカーチスは海軍から航空機の軍事利用を調査に協力することになり軍艦から飛行機の発艦と着艦が可能かどうかの実験を行うことになりました。

グレン・カーティス
グレン・カーティス

 1910年11月14日、イーリーはカーチスモデルD(カーチスプッシャー)で軽巡洋艦バーミンガムの艦首に仮設された83フィートの飛行甲板から発艦しました。発艦後、イーリーの飛行機は急降下し車輪が水中に入り水しぶきを上げましたがその後は浮上し港を周回して浜辺に着陸しました。これが史上初の艦船から航空機の発艦となりました。

バーミンガムから発艦するカーチスモデルD(カーチスプッシャー)
バーミンガムから発艦するカーチスモデルD(カーチスプッシャー)

 続いて2ヶ月後の1911年1月18日にイーリーはサンフランシスコ湾に停泊中の装甲巡洋艦ペンシルベニアの飛行甲板に着艦しました。飛行機はヒュー・ロビンソンが考案した着艦フックにより飛行甲板上で停止、史上初の艦船への飛行機の着艦に成功しました。

ペンシルバニアに着艦するカーチスモデルD(カーチスプッシャー)
ペンシルバニアに着艦するカーチスモデルD(カーチスプッシャー)

 イーリーの実験により艦船上での飛行機の発艦と着艦が可能であることが実証され、これが後世に登場する航空母艦の礎となりました。イーライは海軍でパイロットとして働くことを要望しましたが、当時の海軍には航空隊がなかったため彼の願いは叶いませんでした。イーライは航空ショーで展示飛行を続けました。航空隊が組織されたらイーライを雇用するつもりだった海軍はイーライに対して危険な展示飛行をやめるよう助言しましたが、イーライは死ぬまで頑張るつもりと展示飛行を続けました。イーライは1911年10月19日にジョージア州メイコンで開催された航空ショーで墜落し事故死しました。1933年、フランクリン・ルーズベルト大統領はイーライの海軍航空への貢献に対し殊勲飛行十字章を送りました。なお最初に活躍した航空母艦は水上機を搭載した「水上機母艦」で、発艦は艦船から、着艦は着水した水上機を艦船に引き上げるものでした。

 

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2024年10月18日 (金)

函館空港 ANAウイングス ボンバルディア DHC-8-400 (JA848A)

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 2024年8月18日に函館空港で撮影したANA4854便の千歳行きのANAウイングスのボンバルディア(Bombardier) DHC-8-400 (JA848A、製造番号:4102)です。ボンバルディア(Bombardier)DHC-8-402Q Dash 8 と表記される場合もあります。

ANAウイングスのボンバルディア(Bombardier) DHC-8-400 (JA848A、製造番号:4102)
ANAウイングスのボンバルディア(Bombardier) DHC-8-400 (JA848A、製造番号:4102)

 DHC-8は1980年代の初めにデ・ハビランド・カナダ社が開発した双発ターボプロップ旅客機です。デ・ハビランド・カナダ社は世界初のジェット旅客機コメットを開発したデ・ハビランド・エアクラフト社の子会社です。

 【参考】世界初のジェット旅客機の初飛行(1949年7月27日)

 1992年にボンバルディア・エアロスペース社がデ・ハビランド・カナダ社を買収したことからDHC-8はDash 8に改称されましたが、1996年以降に生産されたものについては騒音・振動抑制装置が装備され低騒音型のQシリーズ(Quiet Series)として名称がDHCに戻されました。現在はンバルディア(Bombardier) DHC-8と呼ばれています。

【関連記事】

世界初のジェット旅客機の初飛行(1949年7月27日)

ボンバルディアグローバル 7500 (9H-VIH)

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2024年9月20日 (金)

日本初の動力飛行で「空の日」制定(1911年9月20日)

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 明治43年(1910年)12月19日、徳川好敏、日野熊蔵両陸軍大尉が代々木練兵場において日本初の動力飛行に成功しました。

 【参考記事】日本における動力飛行機の初飛行(1910年12月19日)

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日野熊蔵(左)と徳川好敏(右)

 昭和15年(1940年)に徳川好敏、日野熊蔵両陸軍大尉の偉業から30周年を迎え、また紀元2600年を記念し9月28日が「航空日」と制定されました。初飛行が12月なのに9月とされたのは12月は気候的に「航空日」の行事に適さなかったからです。翌年には「航空日」は秋晴れが多い9月20日とされました。「航空日」は第二次世界大戦の敗戦により廃止されましたが、昭和28年(1953年)に復活しました。

 平成4年(1992年)に戦後の民間航空再開40周年を記念し「航空日」は「空の日」と改称され、9月20日から30日までが「空の旬間」とされました。

【参考記事】日本航空の設立(1951年8月1日)

【参考記事】民間航空記念日(1951年10月25日)

 「空の日」のシンボルキャラクターの「くにまるくん」の名前は「空の日」の日付9月20日「く(9)」「に(2)」「まる(0)」に因んで名づけられました。

「空の日」のシンボルキャラクターの「くにまるくん」
「空の日」のシンボルキャラクターの「くにまるくん」

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2024年9月19日 (木)

広胴貨物輸送機「プレグナント グッピー」初飛行(1962年9月19日)

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 1960年代、NASAは西海岸のメーカーに発注したロケットの部品を船舶で南海岸の組み立て工場や東海岸のケープカナベラル宇宙軍施設まで運んでいましたが、海運は時間がかかり費用も高価で効率的ではありませんでした。

 同じ頃、米国の航空会社は時代遅れになったB-29スーパーフォートレスの派生型C-97ストラトフレイター輸送機をもとに開発された大型の長距離旅客機B-377ストラトクルーザーをジェット旅客機に更新していました。B-377が転売されている状況を知った元アメリカ空軍パイロットのジョン・マイケル・コンロイはこの機体を改造すればロケットの部品を輸送することができると考えNASAに広胴貨物輸送機の提案をしました。NASAの担当者は輸送機のデザインを見て妊娠したグッピーに似ているとコメントをしたと伝えれれています。そのことから輸送機の名前はプレグナント グッピーと名付けられることになりました。しかし、NASAはこの輸送機にあまり興味を示さなかったことから、コンロイは自身で借金をしてエアロ・スペースラインズ・インターナショナルを設立し輸送機の製造を開始しました。

 開発された機体は1962年9月19日にコンロイの操縦によって飛行試験に臨みました。滑走路を離陸する特大で風変りの形状をした飛行機を見た管制官は警察と消防に警戒の連絡をしましたが、大きな問題が発生することもなく離陸し見事に初飛行に成功しました。

広胴貨物輸送機プレグナント グッピー
広胴貨物輸送機プレグナント グッピー

 当初、NASAはプレグナントグッピーに興味を示していませんでしたが、1963年からNASAの貨物輸送を受け持つようになりました。しかし、プレグナントグッピーは貨物室の容積は大きかったのですが積載重量は十分ではありませんでした。NASAはプレグナントグッピーではアポロ計画には対応できないと考え搭載重量の大きい輸送機を要求しました。そこで機体を延長しエンジンをレシプロからターボプロップにしたスーパーグッピーが開発されました。プレグナントグッピーはしばらくの間はスーパーグッピーとともにアポロ計画の輸送機として使用されましたがアポロ計画が終了すると売却された後に1979年に解体されました。

 

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2024年8月 3日 (土)

日本海軍の局地戦闘機「 震電」の初飛行(1945年8月3日)

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 震電は第二次世界大戦末期に大日本帝国海軍が開発した局地戦闘機です。零戦や隼など従来の戦闘機とは全く異なる形状の前翼型飛行機でした。特徴的なデザインと戦争末期に極秘裏に開発された高性能戦闘機だったことから現在も多くの飛行機ファンを魅了し、もし終戦に間に合っていたらと語り継がれています。

局地戦闘機「 震電」
局地戦闘機「 震電」

 震電を設計したのは海軍航空技術廠飛行機部の鶴野正敬技術大尉です。鶴野大尉は昭和17年(1942年)頃、連合各国の航空機の性能向上により従来の日本の戦闘機の性能に限界を感じ高性能な戦闘機の開発を考えるようになりました。鶴野大尉が行き着いたのはエンジンとプロペラを後方に配置し前方に強力な武装を装備した前翼型戦闘機でした。

 昭和18年(1943年)、軍令部参謀に着任した源田実中佐は敵戦闘機の性能向上に対してゼロ戦の性能に限界を感じ新たな高性能戦闘機の必要性を考えていました。源田中佐は鶴野大尉のアイデアに注目し前翼型戦闘機の開発を進めることにしました。

 前翼型戦闘機は前翼の揚力により主翼を小さくすることができるため機体を小型化することが可能でした。これにより機体の空気抵抗を小さくすることができ速度を向上させることができました。この頃、米軍の高高度爆撃機B-29による日本本土空襲が激化し、高高度で高い機動性と安定性を確保できる局地戦闘機が必要でしたが、前翼型戦闘機はその目的に合致していました。

 前翼型戦闘機は各国でも開発されていましたが実用には至りませんでした。鶴野大尉の前翼型戦闘機も特異的な形状に対する批判の声も少なくなく「異端の翼」と呼ばれました。前翼型戦闘機の風洞試験や滑空試験などに成功し基礎研究が終了すると、海軍は昭和19年(1944年)5月にB-29の迎撃を目的とする十八試局地戦闘機「震電」の試作を命じました。海軍は月産300機をめざし工場での量産体制を整えました。その後、設計は順調に進みましたがエンジンを開発していた工場が空襲されるなどして試作機の製作は大幅に遅れました。

 終戦間近で戦況が悪化していた中で始められた試作機の製造でしたが鶴野大尉を中心とする開発チームは1945年6月に試作機1号機の完成にこぎ着けました。蓆田飛行場(福岡空港)で鶴野大尉が自ら滑走試験を行いましたがこのとき機種を下げすぎてプロペラを地面に接触させてしまいました。プロペラは試作2号機用のものと交換され、プロペラが地面に接触しないよう垂直尾翼のかわりとなる側翼に車輪が取り付けられました。

震電の後部
震電の後部

 こうして完成した十八試局地戦闘機「震電」は昭和20年(1945年)8月3日に製造を担当した九州飛行機によって試験飛行が行われ初飛行に成功しまいた。その後の試験飛行でエンジンが故障し部品を取り寄せとなりましたが昭和20年(1945年)8月15日の終戦を迎えました。

 「震電」は実戦に投入されることはなく完成した機体も試作1号機のみとなりました。独特なデザインと終戦に間に合わなかった幻の戦闘機として人気の戦闘機です。実戦に投入される形で小説、映画、ゲームなどに登場します。

 試作1号機は米軍に接収され現在は米国国立航空宇宙博物館別館(スティーブン F. ユードバー=ハジー・センター)に操縦席から前部のみが展示されています。また2023年に公開された映画「ゴジラ-1.0」で実物大のレプリカが作られました。このレプリカは福岡県朝倉郡大刀洗平和記念館に展示されています。

ハセガワ 1/72 日本海軍 九州 J7W1 十八試 局地戦闘機 震電 プラモデル D20

ハセガワ 1/72 日本海軍 九州 J7W1 十八試 局地戦闘機 震電 プラモデル D20

【関連記事】

零戦の日(1939年7月6日)

零戦五二型61-120号機

キ43 一式戦闘機「隼」の初飛行(1938年12月12日)

戦艦「長門」進水(1911年11月9日)

戦艦「大和」が竣工(1941年12月16日)

空母「赤城」進水(1925年4月22日)

空母「信濃」沈没(1944年11月29日)

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2024年7月31日 (水)

「星の王子さま」作者サン=テグジュペリが行方不明に(1944年7月31日)

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 フランスのリヨン出身のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは「星の王子さま」を著した小説家として有名ですが、1921年にフランス軍の兵役に志願し航空機の整備士として働きました。パイロットになることをめざしましたが経験がないため自費で民間の飛行訓練を受けパイロットの資格を得ました。その後、軍の飛行学校に入学し軍のパイロットの資格を得て空軍の航空連隊に配属されました。

アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(1942年)
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(1942年)

 1923年5月にサン=テグジュペリが何度か航空機事故を経験すると、婚約者の家族が危険な仕事に従事し続けることに反対されたため軍を退役しました。パイロットを辞めて別の仕事をすることになりましが同年9月には婚約は解消となりました。この頃から小説を執筆するようになりました。

 1926年、サン=テグジュペリは民間の郵便航空会社で定期郵便飛行のパイロットの仕事に就きました。また作家としてデビューし特に自分のパイロットとしての体験をもとにした作品を発表しました。サン=テグジュペリの本は世界中で人気となり、自身も小説を書くパイロットとして有名になりました。

 サン=テグジュペリが「星の王子さま」を書くきっかけとなったのは1935年のサハラ砂漠での不時着事故でした。誰もいない砂漠で絶望的な状態でしたが3日間かけて徒歩でカイロにたどり着き事なきを得ました。このときの経験に基づいて執筆したのが「星の王子さま」です。

 第二次世界大戦が始まると1939年9月に召集され飛行教官を務めましたが自ら前線への転属を望み偵察機のパイロットとなりました。フランスがドイツと講和するとフランスに戻りましたが1940年12月にアメリカ合衆国に亡命しニューヨークに行きました。

 ニューヨークに到着したサン=テグジュペリは連合軍の自由フランス空軍に入隊し1943年6月に北アフリカ戦線の戦場へ戻り偵察機のパイロットとなりました。このとき着陸失敗による事故を起こしたため飛行停止処分を受けました。これは除隊処分と同等なものでしたが何とか復帰することができました。爆撃機のコパイロットを命じられましたが、1944年5月にもとの部隊に戻りロッキードP-38を偵察機に改造したロッキードF-5のパイロットになりました。サン=テグジュペリはパイロットとして作家として人気があり敵軍の多くのパイロットがサン=テグジュペリとは一線を交えたくないと考えていたそうです。

ロッキードF-5A(米軍機)
ロッキードF-5A(米軍機)

 1944年7月31日、フランス内陸部グルノーブルなどの写真を偵察するためロッキードF-5Bで単機で出撃しましたが帰還することなく消息不明となりました。サン=テグジュペリの消息は長らく不明でしたが、1998年9月7日に地中海のマルセイユの南の沖合でトロール船がサン=テグジュペリの銀のブレスレットを発見しました。

サン=テグジュペリの銀のブレスレット
サン=テグジュペリの銀のブレスレット

 この海域には艦船や航空機の残骸が多数沈んでいますが、その中にはロッキードF-5Bもありました。このロッキードF-5Bの存在は1950年代から知られていましたがサン=テグジュペリが偵察に向かった地と離れているため墜落現場とは考えられていませんでした。ブレスレットの発見により、2000年5月24日に発見されていたロッキードF-5Bがサン=テグジュペリの搭乗機であることが判明しました。2003年に残骸が引き揚げられ、機体番号がサン=テグジュペリが搭乗していたロッキードF-5Bと一致していました。サン=テグジュペリ本人の遺体は発見されませんでしたが間違いなく搭乗機であるとされ戦死が認められました。

 2008年3月15日のニュース記事にドイツのフォッケウルフ Fw190のパイロットだったホルスト・リッパートが1944年7月31日にマルセイユ沖の地中海上空でP-38を撃墜した証言しました。このとき撃墜機のパイロットが脱出したかどうかは確認できなかったようです。リッパートはサン=テグジュペリのファンでパイロットが彼だと分かっていたら撃墜しなかったと述べています。

 このリッパートの撃墜説が有力でしが発見された機体に弾痕はありませんでした。機体は高速で海面に激突しており自爆した可能性も指摘されています。

【関連記事】

星の王子さまの日(1900年6月29日)

「星の王子さま」作者サン=テグジュペリが行方不明に(1944年7月31日)

 

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2024年7月 7日 (日)

円谷英二監督の誕生日(1901年7月7日)

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 円谷英二監督は明治34年(1901年)7月7日に福島県岩瀬郡須賀川町(須賀川市)で生まれました。小学生になると水彩画に興味を持ち大人も驚くほど上手な絵を描きました。明治43年(1910年)に徳川好敏、日野熊蔵両大尉による日本初の動力飛行機の飛行に成功すると、飛行機と操縦士に憧れるようになり模型飛行機の作成を行うようになりました。

 円谷少年が映画に出会ったのは明治44年(1911年)です。巡業に来た活動写真「桜島爆発」を見て映写の仕組みに興味を持つようになり、子ども向けの映写機を購入し手製の映画を制作するようになりました。

 模型飛行機作りの趣味も続け大正元年(1912年)には地元で新聞に取材されるほど話題になりました。大正5年(1916年)、15歳になった円谷少年は米国人飛行士アート・スミスが東京で披露した曲芸飛行のニュースを見てますます飛行機に憧れるようになりました。同年に学校を卒業した円谷少年は東京の月島機械製作所(月島ホールディングス)に入社しますが1ヶ月ほどで退社します。飛行機の操縦士になるべく同年11月に玉井清太郎と相羽有が8月に創設した日本飛行学校に第一期生として入学しました。

 こうして円谷少年は飛行機の操縦士になる夢を追いかけ始めました。しかし、大正6年(1917年)5月に唯一の教官だった玉井清太郎が墜落死、10月には台風による高波で飛行機が格納庫ごと流されてしまい日本飛行学校の継続が不可能となりました。操縦士になる夢を打ち砕かれた円谷少年は失意のうちに飛行学校を退学することになりました。

 その後、円谷少年は電気学校(東京電機大学)の夜間部に進学しながら玩具の製作会社で働き「自動スケート」「玩具電話」など様々な玩具を考案しました。大正8年(1919年)、考案した玩具が大人気となり多額の特許料を得ます。その祝いとして玩具会社の職工たちと王子の飛鳥山公園で花見を開きました。このとき職工たちが他の花見客と口論になりました。この喧嘩の仲裁に入ったのが若干18歳の円谷青年でした。この喧嘩が円谷青年の転機になります。実は職工が喧嘩をした相手は映画の制作を手がける天然色活動写真株式会社(天活)の社員だったのです。仲裁した円谷青年が聡明であると認められ同社に入社することになったのです。この会社で円谷少年はカメラマンを目指すことになりました。

 大正9年(1920年)、天活は後に国際活映(国活)に吸収され円谷青年はカメラマン助手として働いていました。このとき飛行機に搭乗して空中撮影を行う仕事が舞い込みましたが怖がって引き受けるカメラマンが誰もおらず円谷青年が自ら志願しました。パイロットを目指していた円谷青年は航空写真の撮影をやすやす成し遂げカメラマンに昇格しました。しかし、大正10年(1921年)、20歳になった円谷青年は国活を退社し兵役に就くことになりました。2年後の大正12年(1923年)に除隊し国活に復帰しカメラマンとして活躍しました。

 昭和3年(1928年)に松竹京都下加茂撮影所にカメラマンとして入社し映画の撮影を行いますが後の特撮技術に通じる特殊な撮影方法を取り入れるようになりました。昭和7年(1935年)に日活太秦撮影所から誘いを受け移籍しました。この頃、アメリカ映画「キングコング」を見て先進的な特撮に衝撃を受け特撮に興味を持つようになりました。しかしながらこの取り組みが日活と合わず昭和9年(1934年)に東宝の前身のJOトーキーに移籍しました。

カメラマンの円谷英二(1934年)
カメラマンの円谷英二(1934年)

 昭和10年(1935年)、連合艦隊の練習艦「浅間」に6カ月間乗艦し練習の様子を撮影し、初監督作品となるドキュメンタリー映画「赤道を超えて」を製作しました。同年、ファンタジー映画「かぐや姫」を撮影しています。

 昭和12年(1937年)に「東宝映画株式会社」が設立され東宝東京撮影所でカメラマンとして働くことになりましたがスタッフが特殊撮影を理解できなかったことから一人で特殊技術に取り組みオプチカル・プリンターの研究などを始めました。

 昭和14年(1939年)、陸軍航空本部の依頼で埼玉県熊谷陸軍飛行学校で飛行機操縦の教材映画を製作しました。飛行機を一人で操縦しながら空中撮影を行いました。陸軍関係者は円谷監督の飛行機技術にずいぶん驚いたようです。その後、ミニチュアを用いた戦争映画を手掛け特殊撮影が高く評価されました。昭和16年(1941年)12月8日、真珠湾攻撃により太平洋戦争が開戦すると軍の要請により戦意高揚を目的とした戦争映画を制作することになりました。特撮は必須となり円谷監督のスタッフが特殊技術を手がけました。

 多くの戦争映画を撮影しましたが昭和20年(1945年)8月1日に召集されましたが15日に終戦を迎え撮影所に戻りました。昭和23年(1948年)3月、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は戦時中に戦意高揚の映画を作成したとして公職を追放され東宝を退職しました。退職後もあきらめずに自宅にプレハブを建て円谷特殊技術研究所を設立し特撮技術の開発に取り組みながら映画の製作に参加しました。

 昭和27年(1952年)に公職追放が解かれ東宝に復帰しました。昭和29年(1954年)のゴジラの特撮を担当したのを皮切りに多くの怪獣映画で特技監督を務めました。昭和31年(1956年)には自宅の円谷特技研究所での個人としての活動を再開しました。昭和38年(1963年)に東宝を退社し同年4月12日に株式会社円谷特技プロダクションを設立、テレビドラマの特撮を手掛けるようになりました。その後の活躍は関連記事の「ウルトラQ」「ウルトラマン」などをご覧ください。

 円谷プロダクションの作品は子どもたちに夢を与えるだけでなく正義とは何かを考えさせるなど多くの影響を与え続けています。

【関連記事】

日本における動力飛行機の初飛行(1910年12月19日)

日本のライト兄弟 玉井清太郎と玉井藤一郎|羽田空港が開港(1931年8月25日)

ゴジラの日 1954年11月3日(昭和29年)

ゴジラまでシェー 怪獣大戦争の公開(昭和40年 1965年12月19日)

ウルトラQ放送開始(1966年1月2日)

ウルトラマンの日(1966年7月10日)

ウルトラセブン放送開始の日(1967年10月1日)

 

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2024年6月26日 (水)

世界初の実用ヘリコプターが初飛行(1936年6月26日)|フォッケウルフ Fw 61

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 ヘリコプターの原型は竹トンボに始まりルネサンス期にはイタリアのレオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチを残しています。18世紀以降になると模型が作られるようになりやがて蒸気機関を搭載した試作機が製作されるようになりました。20世紀になると人が操縦するヘリコプターが開発されまたが空中に浮きあがることはできても実用的なものではありませんでした。

 固定翼機が主流になると回転翼をもつオートジャイロが開発されるとヘリコプターに必要な航空力学や技術的な知見が得られるようになりました。やがてホバリングが可能なヘリコプターも登場するようになりましたが飛行は不安定で実用できるようなものではありませんでした。

 安定飛行が可能な実用的ヘリコプターを開発したのは1930年代にドイツでオートジャイロの開発と生産を行っていたハインリヒ・フォッケ博士です。フォッケ博士はオートジャイロの開発を通じ回転翼による航空機はオートジャイロでは実現できないという結論に達し、ヘリコプターの開発に着手しました。1934年にはヘリコプターの試作機が完成すると、ドイツ航空省はフォッケ博士にヘリコプターの試作機フォッケウルフFw 61の製造を命令しました。

 フォッケウルフFw 61は1936年6月26日に初飛行を行いました。翌年、試作2号機作られ1937年5月10日にエンジンを止めた状態で着陸するオートローテーションに成功した。これによってドイツは世界に先駆けて安定飛行jが可能で実用的なヘリコプターの開発に成功したのです。

フォッケウルフ Fw 61のデモンストレーション
フォッケウルフ Fw 61のデモンストレーション

 

Focke-Wulf Fw 61 demonstrated by Hanna Reitsch

 

 

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2024年6月21日 (金)

モーリー島事件(1947年6月21日)

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 1947年6月21日、アメリカ合衆国ワシントン州モーリー島の巡視していたフレッド・クリスマンとハロルド・ダールは上空に非常に大きなドーナツ型の6機の飛行物体を発見しました。飛行物体の1機が中心部から何千枚も白紙のようなものを撒き散らしはじめました。この白紙は白色の軽い金属片であることが判明しました。このとき溶岩のような物体が巡視船に落下し作業員が骨折し犬が1匹死亡しました。

モーリー島事件(1947年6月21日)
モーリー島事件(1947年6月21日)

 この事件を聞いたSF雑誌「アメイジング・ストーリーズ」現編集者のレイモンド・アルフレッド・パーマーは1947年6月24日に未確認飛行物体を飛んでいるのを目撃したケネス・アーノルドに連絡しモーリー島の事件の調査を要請しました。アーノルドはクリスマンとダールに事件の状況をインタビューし調査に乗り出しました。ダールは事件の概要を説明し、事件後に黒服の男(メン・イン・ブラック)が現れ事件について話をしないように求められたと証言しました。クリスマンはモーリー島から金属片を回収し、また珍しい乗り物を目撃したと証言しました。

 アーノルドはさらなる調査のために7月4日にUFOを目撃したユナイテッド航空のエミール・J・スミス機長を雇いました。クリスマンはアーノルドとスミスに回収した金属片を見せましたが、その金属片はありふれたものでした。

 アーノルドはカリフォルニア州ハミルトン飛行場第4空軍軍事情報部フランク・ブラウン中尉に連絡、アーノルドはブラウン中尉とウィリアム・L・デイビッドソン大尉に会いました。デイビッドソン大尉とブラウン中尉は事件について調査を行いクリスマンの金属片を回収しました。その後、 2人はB-25ミッチェルでカリフォルニアへ帰還しましたがこの飛行機が墜落し2人とも死亡しました。

 墜落事故まで発生したため事件を重く見たFBIは捜査を開始しました。ダールは「当局に尋問されたらでっちあげだと言うつもりだった」と述べていることからこの事件が虚偽であると判断して捜査を進めました。その結果、FBIはクリスマンとダールが自分たちの作り話で報酬を得るため様々な出版社に連絡を取っていたことを確認し事件はでっちあげられたものと結論づけました。

 このモーリー島事件でクリスマンとダールが処分されなかったことから、政府が事件を隠蔽しようとしたという噂も流れました。しかし、捜査において2人のジョークが本人たちが意図せずに急激に広がり、B-25ミッチェルの墜落事故も直接的な関係がないと判断されたのが真相のようです。この事件はでっちあげと結論づけられたにも関わらず、その後もUFO事件として何度も取り上げられました。とりわけ「黒服の男(メン・イン・ブラック)」という概念が広がりました。

 

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2024年4月22日 (月)

空母「赤城」進水(1925年4月22日)

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 赤城は大日本帝国海軍の航空母艦です。赤城はもともと艦齢8年未満の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻を中核戦力とする日本海軍の建艦計画「八八艦隊計画」で天城型巡洋戦艦の2番艦として大正9年(1920年)に建造が始まりました。しかしながら第一次世界大戦後の1921年にワシントンD.C.で開かれた国際軍縮会議「ワシントン会議」で軍縮条約が締結されたため軍艦としての赤城の建造は中止となり、航空母艦に改造されることになりました。

 艦名の赤城は群馬県前橋市の赤城山に因みますが赤城の名を持つ日本海軍の軍艦としては2代目になります。赤城は巡洋戦艦の命名基準に従って山の名前が付けられその名前のまま航空母艦に改造されました。航空母艦の命名基準は鳳・龍・鶴・鷹など神話などに登場する空を飛ぶ瑞祥動物が付けられますが、航空母艦の命名基準がで明確に規定されたのは昭和8年です。

 赤城は完成していた巡洋戦艦をイギリス海軍カレイジャス級巡洋戦艦改造空母フューリアスを参考に三段式航空母艦に改造されました。上段と下段が飛行甲板で中段は20cm連装砲2基と艦橋が設置されていました。下段の甲板は小型機の発艦のみに使用され、大型機の発艦と全機の着艦は上段の甲板で行われました。

新造後の赤城
新造後の赤城

 赤城の進水は大正14年(1925年)4月22日、昭和2年(1927年)3月25日に竣工しました。昭和3年(1928年)6月に東郷平八郎元帥と岡田啓介海軍大臣らが赤城の航空訓練を視察しました。昭和4年(1929年)には後に連合艦隊司令長官となる山本五十六大佐が艦長に着任しました。

 航空機の性能が向上すると赤城の飛行甲板は滑走距離が不十分となりました。昭和13年(1938年)に大改装を行い上段を全通式の飛行甲板としました。中断と下段は格納庫となり常用と補用を含めた搭載機数が増えました。

改装後の赤城
改装後の赤城

 改装が完了した赤城は第一航空戦隊旗艦として支那事変に派遣し海軍陸戦隊や陸軍の上陸を支援し帰投しました。この支那事変をきっかけに太平洋戦争が始まります。赤城は昭和16年(1941)12月8日の真珠湾攻撃に機動部隊の旗艦として参加、艦載機が真珠湾に停泊中のアメリカ海軍太平洋艦隊を奇襲しました。任務を終えた赤城は同年12月24日に日本本土に帰着しました。

 昭和17年(1942年)6月、赤城はミッドウェー島攻略のためミッドウェイ作戦に参加しました。赤城は同年6月5日午前1時30分にこの作戦の前哨戦とも言えるミッドウェイ海戦に参戦、艦載機がミッドウェー島アメリカ軍基地に向けて発艦しました。同日早朝に空母を含む敵艦隊発見の報告が入り、赤城はミッドウエイ島の攻撃を中止し敵艦隊攻撃のための魚雷兵装の準備を始めました。

 この準備中に米国戦闘機の攻撃を受けると、魚雷を装備し燃料を満タンにした赤城の九七艦攻および取り外したミッドウェー島爆撃用の爆弾が誘爆を始めました。懸命な対応にも関わらず赤城は内部からの大火災で午後4時20分に自力航行不可能となり総員退去しました。赤城は無人のまま漂流を続け、やがて全て燃え尽きる焼け焦げた姿となりました。赤城に対する撃沈の命令が出され同年6日午前2時、嵐、野分、萩風、舞風の第四駆逐隊の各艦が赤城右舷に魚雷を1本ずつ発射しました。昭和17年(1942年)6月6日午前2時10分、この味方駆逐艦による雷撃処分により赤城は艦尾から沈没していきました。

 2019年、ポールアレン財団は深海調査船ペトレルが中部太平洋(北緯30度30分、西経178度40分付近)の水深5,490メートルの海底に沈没ししている赤城を発見、2023年9月11日にロバート・バラードの海洋調査船EVノーチラスがミッドウェー海戦以来81年ぶりに赤城を発見し、その姿を映像で捉えました。

 

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