カテゴリー「飛行機」の68件の記事

2022年2月16日 (水)

交通博物館のフライトシュミレータ?(1967年 昭和42年頃)

 東京都千代田区神田須田町に存在していた交通博物館にあった飛行機の乗り物です。機体に「T411」「つばめ」と書かれています。いろいろ調べてみましたが情報は見つからず由来はわかりませんでした。

フライトシュミレータ「つばめ」T411(交通博物館、東京神田)
フライトシュミレータ「つばめ」T411(交通博物館、東京神田)

 操縦桿と機体の傾きが連動していたかどうかは定かではないのですが当時の遊具の乗り物とは違ってフライトシュミレーターのように本格的な動きをしたようです。

操縦桿と連動して気体が本格的な動きをする
操縦桿と連動して気体が本格的な動きをする

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2022年1月27日 (木)

日本で初めて飛行機で飛ぶことに挑戦した鳥人幸吉

 世界で初めてグライダーによる飛行に成功したのはイギリスの工学者ジョージ・ケイリーです。ケイリーは1849年に三葉機を製作し10歳の少年を乗せて滑空に成功しました。1853年には単葉のグライダーを製作し使用人に操縦させて100mを超える飛行に成功しました。ケイリーは実用的な航空工学の研究も勧めその成果から「航空学の父」と呼ばれています。

 しかし、飛行機で空を飛ぶことに挑戦したのはケイリーが最初ではありません。たとえば古い記録によるとイスラムのイブン・フィルナースが875年に羽ばたき式飛行機(オーニソプター)で飛行を試みました。フィルナースの飛行機は着陸に失敗し墜落してしまいましたが飛行機で滑空を試みたのは間違いないようです。

 他にもケイリー以前に飛行機で空を飛ぶことに挑戦した人はいますが、日本でも後に鳥人幸吉と呼ばれた江戸時代中期の岡山の表具師(経師)の浮田幸吉が鳥に興味をもち鳥のように空を飛ぶことができないかと研究を始めました。浮田はハトをつかまえて翼と胴体の大きさや重さの割合を調べ、人間も同じ割合の翼を装着すれば空を飛べると考えました。

 浮田はさっそく翼を製作し両腕で羽ばたいて空を飛ぼうとしましたが人間の腕の筋力ではとてもハトのように空を飛べないことに気が付きました。そこで浮田は大きな翼で滑空するトビや鷹を参考に人間の体重を支えることができる大きな翼の製作に取りかかりました。

滑空するトビ
滑空するトビ

 浮田は表具師の知識と経験と技術を活かし試行錯誤を重ねながらついに竹を骨組みに紙と布を張り渋柿の塗料で強度を高めたハンググライダーのような翼を作りあげました。

 1785年の夏のある日、浮田は岡山城の次に高い旭川に架かる京橋の欄干からこの翼で飛び立ちました。一説によればその飛行距離は50メートルほどで飛行時間は約10秒間だったともすぐに落下したとも伝えられています。飛行実験も1度きりだったのか複数回だったのかわかりませんが、河原で夕涼みしていた町人の間で騒ぎとなり、岡山藩に捕らえられて岡山所払いの処分を受けました。

 岡山を追放された浮田は駿河国駿府(静岡市)に移りました。そこで備前屋という木綿を扱う店を開きましたがその店は養子とした甥に継がせました。その後、浮田は腕の良い歯科技師「備考斎」として名を馳せましたが、空を飛ぶ夢を持ち続け駿府でも飛行実験を行ったと伝えられています。

 復元された模型を見ると浮田のグライダーは本格的な構造をしています。ケイリーの前にグライダーの飛行を成功させていたのであれば浮田は日本初どころか世界初の空を飛んだ人になります。また、浮田が飛行機の研究開発を続けることができていたら世界に先んじて日本が実用的な飛行機を飛ばしていたかもしれません。

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2022年1月26日 (水)

ボンバルディアグローバル 7500 (9H-VIH)

 羽田空港展望台で飛行機を眺めていたところビスタジェット(VistaJet VJT)のボンバルディア・エアロスペース社のボンバルディアグローバル7500(Bombardier Global 7500)がタキシングしていました。ボンバルディアグローバル7500はビジネスジェットでこの機体(機体番号9H-VIH)を所有する会社がビスタジェット社です。

ビスタジェット・ボンバルディアグローバル750 (9H-VIH)
ビスタジェット・ボンバルディアグローバル7500 (9H-VIH)

 ビスタジェット社(VistaJet VJT)は2004年にスイスで設立されたビジネス航空会社で現在は本社はマルタにあります。同社はビジネスジェット機のレンタルをしています。通常、レンタル用ジェット機はその飛行機のオーナーが使用しないときに貸し出すオーナー制であることが多いのですが、同社は所有するビジネスジェットを顧客に貸し出すオーナー不在のフライトのレンタルサービスを提供しています。これによってレンタル用ビジネスジェット機をオーナーの所有している空港にがなくなり、顧客が所在する場所に近い空港から出発できるようになりました。

カテゴリ:飛行機の記事

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2022年1月21日 (金)

航空機の胴体上部の平らな突起物は何?

 既に気が付いている人も多いと思いますが胴体の上部に何やらお弁当箱のような突起物が取り付けられている機体を見かけます。次の機体はエアバス社のA321ですが確かに尾翼の前部にお弁当箱のようなものが乗っかっています。以前の機体にはこのような突起物は取り付けられていませんでしたが、このお弁当箱のようなものはいったい何なのでしょうか。

エアバス社A321(ANA)
エアバス社A320(ANA)

 こちらは同機の後部だけを撮影したものです。このお弁当箱のようなもは丸みを帯びた平らな突起物です。かなり大きいので目立ちますが、これは機内で利用するWi-Fi用のアンテナです。高度10,000メートルでWi-Fiが使えるのはこのアンテナのおかげです。このアンテナで人工衛星と通信し、人工衛星経由で地上のネットワークに接続しています。

航空機の胴体上部の突起物
航空機の胴体上部の突起物

 航空機の高速で移動していますが、アンテナは水平方向と垂直方向に回転するようになっており人工衛星の位置を自動的に補足しながらとぎれなく電波を受信できるようになっています。しかし、離着陸時は機体が大きく旋回し人工衛星がうまく補足できないためある程度の高度に達するまではWi-Fiの利用は制限されています。

 ところで、このお弁当箱の前にある三角形のものは管制塔との連絡用の無線のアンテナです。垂直尾翼の前にあるのは航空機が遭難したときに救難用電波を発するアンテナです。

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2022年1月20日 (木)

日本初の海外パックツアー開始(昭和40年 1965年1月20日)

 第二次世界大戦が始まると日本政府によって一般人の海外旅行は規制されていました。第二次世界大戦後はGHQが日本人の海外旅行を厳しく制限しました。海外への渡航には仕事や留学などの目的がなければ許可されない状況が続きました。

 昭和38年(1963年)4月に仕事による渡航が一般化されましたが、外貨の持ち出しは年間総額500ドル以内に制限されていました。観光旅行などの目的で自由に渡航できるようになったのは1964年東京オリンピック開催年の昭和39年(1964年)4月です。渡航年1回で外貨の持ち出しは500ドル以内の制限がありましたが、昭和40年(1965年)1月20日に日本航空が日本発の海外パッケージツアー「ジャルパック」の販売を開始しました。

 昭和41年(1966年)1月に年1回の制限が外され渡航1回あたり500ドル以内の海外旅行が自由化されると富裕層を中心に海外旅行客が次第に増え始めました。しかしながら1970年代前半までは海外旅行は庶民にとっては高嶺の花でした。世界の観光地などを題材にしたテレビ番組が人気を博し多くの人々は「バーチャルな」海外旅行を楽しんだのです。また海外旅行を優勝賞品としたを視聴者参加型クイズ番組や懸賞付き賞品などが人気となりました。

昭和40年頃の東京国際空港(羽田空港)
昭和40年頃の東京国際空港(羽田空港)

 札幌オリンピックが開催した昭和47年(1972年)には海外渡航者が100万人を超えました。1970年にはジャンボジェット・ボーイング747が就航し団体旅行の運賃が大きく値下げされました。また日本は1971年のニクソン・ショックまで1ドル360円の固定相場制でしたが1973年から変動相場制に移行したことにより円高が進み海外渡航費用が下がりました。1985年に為替レートの安定化を目的とした先進5カ国国によるプラザ合意が行われさらに円高が進みました。また米国を初めとした各国で日本人の短期滞在渡航ビザが免除になるなど海外旅行に行きやすい環境が整いました。

 現在COVID-19の影響で海外渡航は制限されていますが、もうしばらく辛抱すると以前のように海外旅行ができるようになるでしょう。

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2022年1月 9日 (日)

ゴミ箱とANAと函館空港ラウンジ

 ときどき函館を訪れるのですが東京に戻るときに函館空港のラウンジを利用します。次の写真はそのラウンジに設置されているゴミ箱です。こういう場所でよく見かける普通のゴミ箱ですが、このゴミ箱を見た瞬間にあることを思い出し嬉しくなりました。

ゴミ箱
函館空港ラウンジのゴミ箱

 実は過去にこのラウンジを利用したとき、いつもの通り飲んだコーヒーの紙コップをゴミ箱に捨てたところ手がゴミ箱の蓋に引っかかってしまいました。蓋のバネが強くて想定していたより早く閉まってしまったのです。

 痛いなと思って見てみたら指先が切れていました。さほどのことではないなと思っていたのですが絆創膏もないのでティッシュで抑えていましたがなかなか血が止まりません。しばらくすると出血しなくなりANAの搭乗時間が近づいてきたのでラウンジを出て搭乗ゲートに向かいました。まもなく傷口が再び開き出血が始まりました。今度はなかなか止まりません。

 ここでずいぶん切れていることに気が付きました。そこで搭乗ゲートにいたANAの地上職員の女性にラウンジのゴミ箱で指を切っってしまったのでと事情を説明して絆創膏をもらえないかお願いしました。搭乗ゲートに絆創膏があるはずもなく、ANAの地上職員の方は自分の指を見てずいぶん心配してくれ、わざわざ事務所に電話をして絆創膏を持って来てくれたのです。そして自分が絆創膏を装着し終わるのを確認すると、大丈夫ですかとの声がけの後に、空港のラウンジと相談して同じことが起こらないように対策を考えると言われたのです。

 飛行機に乗った後も指先はずきずきしていましたが絆創膏のおかげで血も止まりました。家に到着した頃には痛みもなくなっていたのです。そして月日が経過し、この怪我のことはいつの間にか忘れてしまっていたのです。

 そして先日、函館を訪れた復路でいつものように函館空港ラウンジに立ち寄りコーヒーを飲みました。紙コップを捨てようとしたときに、あのときのANAの地上職員さんの対応を思い出したのです。

 なぜですって?ゴミ箱の蓋の下の方に手が挟まっても怪我をしないようにクッションが貼られていたからです。

 函館空港のラウンジはカード会社のラウンジでANAラウンジではありませんが、あのときに地上職員さんが言っていた通りANAと空港ラウンジで相談して対策を施してくれていたのです。思わず感動して撮影した一枚の写真がこのゴミ箱の写真だったというわけです。

 そして今回も無事に搭乗してお気に入りのAnother Skyを聞きながら出発を待ったのでした。

ANA「音楽につばさを〜テレワーク演奏〜」:Another Sky(ANA Team HND Orchestra)<ANAグループの有志社員が音楽をお届けします!第2弾>

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2021年12月 5日 (日)

日本初のグライダーの飛行に成功(1909年12月5日)

 明治37年(1904年)に起きた日露戦争において日本軍は中国大連の旅順港を空から偵察する必要がありました。しかし、ライト兄弟が初飛行に成功したのが1903年でしたから当時は偵察に使えるような飛行機はありませんでした。

 明治42年(1909年)、いちはやく航空戦力の有用性に気が付いた海軍司令部参謀の山本英輔は航空機の研究の必要性をまとめた意見書を上司の山屋他人に提出しました。山根は意見書を海軍中央当局に提出しました。山根は陸海軍共同での航空機の研究を提案しましたが、陸軍は応じませんでした。山本は兵科から気球搭乗経験のあった相原四郎と機関科から小濱方彦を選び航空機の研究に着手しました。

 この頃、フランス海軍のル・プリウールがフランス大使館に派遣されていました。プリウールは発明家でもありグライダーの製作をしていました。プリエールは相原の家の近くに住んでおり、やがて2人は一緒にグライダーの開発を行うようになりました。そして1909年8月に最初の飛行実験を行いましたがこのときは失敗に終わりました。

 日本軍も航空機の研究の必要を認識し1909年7月30日に陸海軍の臨時軍用気球研究会の設立を決定しました。8月30日に大まかな研究内容が決まり11月には具体的な研究テーマが決まりました。

 この研究会の会長には陸軍中将の長岡外史が就任し、委員には東京帝国大学で航空機の研究を行っていた田中舘愛橘がいました。

 長岡は陸軍参謀だった1894年にある衛生兵がまとめた航空機研究の提案書を受け取っていましたが、人が乗って空を飛ぶ機械を作れるわけがなく、たとえ作ることができても軍用には使えないとして提案を却下しています。提案書を書いた衛生兵は1891年に日本で初めて模型のプロペラ飛行機を飛ばすことに成功した二宮忠八でした。二宮は軍が飛行機に興味がないと判断し独自で飛行機の研究を進めましたが1903年のライト兄弟の初飛行の成功を聞き飛行機の研究を断念しました。二宮はライト兄弟が初飛行に成功する12年も前に模型ながら動力飛行を成功させていたのです。もし長岡が二宮の提案を理解していたら世界初の動力飛行機は日本で開発されていたかもしれません。

 航空機に興味をもっていた相原は田中舘とは知り合いでプリウールを紹介しました。そして相原、プリウール、田中舘は意気投合し3人で人を乗せて飛ばすことができる動力飛行機の開発をめざすことにしました。そして手始めに相原とプリウールのグライダーを飛ばすことにしました。プリウールが設計したグライダーの模型を用いて風洞実験を行い、田中舘が航空学に基づいて改良を重ねました。そして1909年11月にグライダーの実機の製作に取り掛かりました。

 同年12月5日、相原、プリウール、田中舘は第一高等学校の校庭でグライダーの飛行実験を行いました。無人のグライダーを人力で引っ張ると機体が浮かび上がったため、プリウールや相原が搭乗しましたが重すぎて機体が浮き上がりませんでした。そこで当日見学に来ていた子どもを搭乗させてみたところ機体は¥が見事に浮き上がりました。これが日本初の人を乗せたグライダーの飛行の成功となりました。

 大人が乗ったグライダーを浮き上がらせるには人力では不十分という判断から三越百貨店創業者の日比翁助が用意した自動車で大人が乗ったグライダーを牽引してみましたが浮き上がりませんでした。校庭が狭くて十分に牽引できなかったこと、グライダー自身が動力を取り付けられるように設計されて重量が大きくなっていたのが失敗の原因でした。

 12月9日、3人は上野不忍池で改良したグライダーで飛行実験を行いました。プリウールが搭乗し1回目の飛行は失敗しましたが、2回目は見事に浮き上がり100メートルの飛行に成功しました。その後、相原が搭乗し飛行を試みましたが、20メートル上昇したところで牽引ロープが切れて墜落しました。この様子を見ていた長岡外史ら見学者は騒然となりましたが池に墜落したため相原は事なきを得ました。12月26日にはプリウールは高度10メートル、距離200メートルに及ぶ飛行に成功しています。

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相原四郎とル・プリウールと不忍池の飛行実験

 相原とプリウールの日本初のグライダーの飛行の成功をきっかけとして、臨時軍用気球研究会は航空機の研究を進めていきます。研究会には後に日本における動力飛行機の初飛行に挑戦した日野熊蔵や徳川好敏も参加しました。

 相原は1910年3月に航空機の購入や操縦を学ぶ目的でドイツに派遣されました。相原は帰国していたプリウールとベルリンで再開したのち日本に戻りました。1911年1月4日、相原が搭乗していた飛行船が墜落、相原は墜落時の衝撃が原因で8日に他界しました。相原の後継としてフランスに派遣されのちに日本海軍飛行機の元祖と呼ばれた金子養三は相原を「我国航空界のパイオニア」と述懐しています。

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2021年10月25日 (月)

民間航空記念日(1951年10月25日)

 昭和20年(1945年)の第二次世界大戦終了後、連合軍は日本の航空産業に関する組織を解散・廃止とし、軍はもとより民間の航空機の運用ならびに一切の研究開発を禁じました。これによって日本の国旗を記した航空機が飛ぶことはなくなりました。

 昭和25年(1950年)に朝鮮戦争が起こり、アメリカ軍が日本に戦闘機の修理や部品の供給を要請するようになり、日本の航空産業が再スタートしました。日本による航空機の運用も解禁となり、昭和26年(1951年)に日本航空株式会社による民間旅客機の定期路線が復活しました。

 この定期路線は日本航空による運行は認められず、実際にはノースウエスト航空が担当しました。機体にはマーチン2-0-2型機が使われ、操縦士も日本人ではありませんでした。日本航空株式会社が担当したのは営業と各室乗務員でした。

 5機のマーチン2-0-2型が就航し、各機体には「きん星」「もく星」「すい星」「ど星」「か星」と太陽系の惑星の名前が付けられました。定期路線の就航に伴う点検飛行や試乗は「もく星」が担いました。そして、昭和26年(1951年)10月25日、日本の国旗を記した航空機が再び日本の空に戻ってきたのです。

「もく星」と客室乗務員
「もく星」と客室乗務員

 昭和27年(1952年)4月9日に「もく星」が大阪から福岡へ向かう途中で墜落事故を起こしました。昭和28年(1953年)に日本航空株式会社が自主運行を始めると5機のマーチン2-0-2型機はノースウェスト航空に返却されました。

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2021年10月22日 (金)

パラシュートの日(1797年10月22日)

 パラシュートの原型を発明したのはイタリアのレオナルド・ダ・ビンチと言われていますが(1480年代後半)、ダ・ビンチ以前に描かれたパラシュートの図の存在も確認されています。

 世界で初めて実用的なパラシュートを作ったのはフランスのルイ=セバスティアン・ルノルマンです。1783年12月26日、ルノルマンはフランス南部の都市のモンペリエ天文台の塔の上から、木製の枠組みで作ったパラシュートで降下しました。ノルマンは建物が火災時に避難する道具としてパラシュートを開発しました。ルノルマンは自ら作ったこの道具をフランス語の抑制という意味の「パラ」と落下という意味の「シュート」を組み合わさてパラシュートと名付けました。

 1785年、気球による世界初のドーヴァー海峡横断飛行に成功したフランスのジャン・ピエール・ブランシャールは同年に熱気球から犬をパラシュートで降下させる実験に成功しました。ブランシャールは1793年に破裂した熱気球からパラシュートを用いて無事に脱出しています。最初の頃のパラシュートは木の枠に麻の布を貼り付けたもので、重量も大きく扱いにくかったようです。ブランシャールは軽量の絹製のパラシュートの開発を始めました。

 フランスの元軍人のアンドレ・ジャック・ガルヌランは絹製のパラシュートを作成し、1797年10月22日にパリでパラシュートの降下実験を行いました。ガルヌランは900 mまで上昇した熱気球から飛び降りました。気流の影響を受けてパラシュートが横揺れし不安定な状態となりましたが着地時に衝撃はあったものの無事に降下しました。この日が「パラシュートの日」となりました。

アンドレ・ジャック・ガルヌランのパラシュート降下
アンドレ・ジャック・ガルヌランのパラシュート降下

 ガルヌランは知人の助言を得て、パラシュートの頭部に排気弁を取り付け安定な降下を実現しました。1798年にはガルネランの婦人が女性初のパラシュート降下を行いました。

 この頃のパラシュートには安全性において多くの問題がありました。その後、改良が重ねられ1890年に背負うタイプのパラシュートが発明されました。1900年に入ると飛行機からの降下実験も行われ、やがて戦闘機の緊急脱出時の救命用具として使われるようになりました。

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2021年10月13日 (水)

国産動力飛行機が初飛行に成功(1911年10月13日)

 日本における動力飛行機の初飛行は1910年12月19日に成し遂げられました。このときは日本製の動力飛行機ではなくドイツ製の「グラーデ単葉機」とフランス製の「アンリ・ファルマン号」が使われました。日本陸軍の徳川好敏のアンリ・ファルマン号が先に離陸したことから、動力飛行機の初飛行を成功させたのは徳川好敏とされています。

  日本における動力飛行機の初飛行(1910年12月19日)

 この動力飛行機の初飛行の前年の1909年7月30日、気球と航空機の軍事利用のための日本初の航空機の公的機関「臨時軍用気球研究会」が設立されていました。1910年12月19日の動力飛行機の初飛行が成果すると、1911年4月に日本最初の飛行場である所沢陸軍飛行場が開設されました。この飛行場には海外製の飛行機が4機配備されましたが、間もなく飛行機の数が不足し国産の飛行機開発の機運が高まりました。

 研究会はアンリ・ファルマン号を参考にさまざまな改良を加えた国産飛行機の開発に取り組みました。1911年7月から製作が開始され10月に完成しました。10月13日に徳川好敏の操縦により試験飛行が行われ、国産動力飛行機の初飛行に成功しました。この飛行機の正式名称は臨時軍用気球研究会式一号機で、会式一号機または徳川式と呼ばれました。初飛行では高度50 mを時速72 kmで飛び、その性能はアンリ・ファルマン号を凌ぐものでした。

臨時軍用気球研究会式一号機(会式一号機、徳川式)
臨時軍用気球研究会式一号機(会式一号機、徳川式)

 会式は7号機まで製作され、会式七号小型飛行機は日本初の戦闘機となりました。しかしながら、この七号機が空中分解の事故を起こしたため開発は打ち切られました。その後、制式という名称で軍用機の開発が進められましたが、海外製の飛行機に匹敵する性能を出すことができず、国産の戦闘機の実現は叶いませんでした。輸入飛行機の国産化やライセンス生産を経て、国産の戦闘機が開発できるようになったのは1910年代後半になってからのことでした。

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