カテゴリー「飛行機」の91件の記事

2023年12月12日 (火)

キ43 一式戦闘機「隼」の初飛行(1938年12月12日)

  カテゴリ:飛行機 カテゴリ:今日は何の日

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 昭和12年(1937年)に採用された中島飛行機の九七式戦闘機(キ27)は最大速度・上昇力ともに他国の戦闘機に遜色なく、とりわけ旋回性能は高く優秀な戦闘機でした。しかしながら九七式戦闘機は主脚を引き込むことができない固定脚であり将来性は明るくありませんでした。

 採用段階で九七式戦闘機の将来性に限界を感じていた陸軍は中島飛行機にキ43の試作を命令しました。中島飛行機は昭和14年(1939年)の完成を目指しキ43の開発に取り組みました。キ43の基本構造は主脚を除いて九七式戦闘機を踏襲したため開発は順調に進みました。昭和13年(1938年)12月には試作1号機(機体番号4301)が完成し、同年12月月12日に利根川河畔の中島飛行機の尾島飛行場にて初飛行しました。その後、キ43の試作機の審査が行われました。

43
キ43 一式戦闘機「隼」

 審査の結果、キ43は主脚を引き込みにしたにも関わらず九七戦闘機に比較して旋回性能が劣り、最高速度もわずか時速30 km向上しただけで、上回った性能は航続距離だけでした。同年5月に起きたノモンハン事件では九七戦闘機が大活躍したこともあり、余儀なくキ43は見直されることになりました。またノモンハン事件によってさらなる高速化と武装強化および防弾装備が要求されたこともあり、追加で製作された試作機も採用されませんでした。その後、エンジンがより強力なものに変更され性能向上が図られました。

 キ43は審査途上でしたが、日本と英国・米国の関係が悪化すると陸軍は南方作戦で活躍できる戦闘機を必要としました。次期主力戦闘機とされていたキ44二式戦闘機「鍾馗」が間に合わないことから、陸軍はキ43試作機に最低限の改修を施したものを審査し昭和16年(1941年、皇紀2601年)5月に一式戦闘機として採用しました。

 一式戦闘機は採用が遅れたため実戦配備されたのは飛行第59戦隊と飛行第64戦隊のみでした。最低限の改修で性能向上を図った一式戦闘機でしたが多くの敵戦闘機を撃墜し大きな戦果をあげました。当初はあまり知られていなかった一式戦闘機でしたが、南方作戦が終了した昭和17年(1942年)に「隼」という愛称が付けられその戦果が発表されました。飛行第64戦隊は加藤隼戦闘隊と呼ばれました。

 第二次世界大戦中期以降は「隼」は性能的にも旧型の戦闘機となり主力戦闘機の座を譲りましたが、新型飛行機も性能面で問題を抱えていたこともあり昭和20年(1945年)まで生産が続けられ現役戦闘機として活躍しました。

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2023年12月 5日 (火)

バミューダトライアングルの日(1945年12月5日)

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 魔の三角海域と知られるバミューダトライアングルはフロリダ半島先端、大西洋のプエルトリコ、バミューダ諸島を結ぶ海域のことです。この海域では古くから船舶や航空機が消失する事件が多発しています。それらの事故は原因が科学的に解明できなかったことから超常現象として取りあげられました。特に1974年のチャールズ・ベルリッツ著「The Bermuda Triangle(謎のバミューダ海域)」は世界20か国語に翻訳されてベストセラーとなり、バミューダトライアングルの名とその超常現象が広く知られるようになりました。

魔の三角海域と知られるバミューダトライアングル
魔の三角海域と知られるバミューダトライアングル

 バミューダトライアングルで特に有名となった事件は1945年12月5日にアメリカ海軍のゼネラルモーターズ社製TBMアヴェンジャー雷撃機5機(乗員14名)が訓練飛行中に消息を絶ったフライト19事件です。捜索を行ったマーティン社PBMマリナー飛行艇(乗員13名)も消息を絶ったことから超常現象が起きたのではないかと考えられました。

 海軍の当初の報告書では悪天候とコンパスの故障が重なり飛行隊を率いていた中尉が飛行コースを誤ったと結論づけていますが、中尉の責任となることを避けるため後に「原因不明」と修正されました。このことが超常現象説を増長させることになりました。なお報告書ではPBMマリナー航空機の墜落は空中爆発としています。

 バミューダ島周辺は磁鉄鉱が多く含まれる玄武岩が多くコンパスに影響を与える可能性が指摘されています。また海上竜巻やハリケーンが発生しやすいことも指摘されています。しかしながら、実際にはこの海域が特別に遭難事故が多いというわけでもありません。バミューダトライアングルで起きた事故が超常現象と関連づけられるようになり遭難が多発する地帯と誤認されるようになりました。

 フライト19事件が発生した12月5日は「バミューダトライアングルの日」とされています。なおフライト19の飛行隊は1977年に公開されたスティーブン・スピルバーグ監督のSF映画「未知との遭遇」の冒頭に登場します。飛行隊はソノラ砂漠で燃料タンクが満タンで無傷の状態で発見され、地球外生命体の仕業であったことが示唆されます。映画のエンディングシーンでは乗組員たちがエイリアンの母船から地球に帰還します。

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映画「未知との遭遇」日本公開(1978年2月25日)

空飛円盤記念日 ケネス・アーノルド事件(1947年6月24日)

ロズウェル事件(1947年7月8日)

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2023年11月12日 (日)

航空自衛隊 中型輸送機C-1の初飛行(1970年11月12日)

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カテゴリ:飛行機 カテゴリ:今日は何の日

 八王子駅前のビルで「自衛隊まつり」(2023年7月15日 ~17日)が開催されていました。航空自衛隊の装備品の展示やグッズの販売が行われていましたが、ひときわ目に付いたのが「八王子航空基地プロジェクト」という1/144スケールの自衛隊機の模型や格納庫などのジオラマ展示です。そこにたくさん並んでいた航空機の一機が航空自衛隊の中型輸送機C-1です。

航空自衛隊 中型輸送機C-1
航空自衛隊 中型輸送機C-1

 航空自衛隊は戦後の日米の援助協定により1954年にカーチスC-46A/Dを36機を保有していました。しかし、カーチスC-46は戦前の機体であり既に生産が中止され部品供給に支障をきたすなどの問題が生じていました。1962年に台湾空軍から12機を購入し合計47機で運用をしていました。カーチスC-46はもともと旅客機として開発されたカーチスCW-20が原型となったため輸送機としては十分な性能ではありませんでした。この指摘は導入当初からのもので後継機の必要性が検討されましたが具体的に動き始めたのは1960年代に入ってからでした。

 1963年から新輸送機に対する要求仕様が検討され、当時既に完成していたYS-11を改造するか、開発中の海上自衛隊の対潜飛行艇PS-1を改造するか、米国の対潜哨戒機P2Vを改造するか、あるいは米国のC-130輸送機を採用するかなどが検討されました。しかし、1966年に新輸送機を新規に開発することが決まり、YS-11開発の実績のある日本航空機製造で開発が始まりました。

 日本航空機製造は製造設備を持っていないため機体の製造は三菱重工業、川崎重工業、富士重工業、新明和工業、日本飛行機の5社が分担しました。試作機(XC-1)は川崎重工業で組み立てられ昭和45年(1970年)11月12日に初飛行しました。

 日本航空機製造は自社工場を持っていないため巨額の赤字が発生しC-1の量産化の目処が立たなくなりました。また日本航空機製造は設立時の法律によって民間機のみを製造することになっていたため違法状態となり政治的な問題に発展しました。結果としてC-1の量産化は川崎重工業が担当することになりました。

【関連記事】航空自衛隊 中型輸送機C-1の初飛行

航空自衛隊YS-11FC 160号機(機体番号12-1160)|八王子「自衛隊まつり」

日本で初めて飛行機で飛ぶことに挑戦した鳥人幸吉 

二宮忠八 日本初の模型プロペラ飛行器を飛ばした男(明治24年 1891年4月29日)

ライト兄弟が初飛行に成功 (1903/12/17)

日本初のグライダーの飛行に成功(1909年12月5日)

星の王子さまの日(1900年6月29日 )

日本における動力飛行機の初飛行(1910年12月19日)

国産動力飛行機が初飛行に成功(1911年10月13日)

日本の空にキャビンアテンダント登場(1931年3月5日)

羽田空港が開港(1931年8月25日)

純国産飛行機「神風号」がロンドンに到着(1937年4月9日)

零戦の日(1939年7月6日)

ハインケルHe178が世界初のジェット飛行成功(1939年8月27日)

日本初の国産ジェット機「橘花」初飛行(1944年8月7日)

世界初のジェット旅客機の初飛行(1949年7月27日)

日本航空の設立(1951年8月1日)

民間航空記念日(1951年10月25日)

YS-11初公開|YS-11記念日(昭和37年 1962年7月11日)

ボーイング747が就航(1970年1月22日)

超音速ジェット旅客機コンコルドが就航(1976/01/21)

 

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2023年8月27日 (日)

ハインケルHe178が世界初のジェット飛行成功(1939年8月27日)

 世界で初めて開発されたプロペラを持たないジェット機はルーマニアの発明家アンリ・コアンダが1910年に製作したコアンダ=1910です。この航空機は機首のレシプロエンジンで遠心式ブロアーを回転させるサーモ・ジェット・エンジンが搭載されていました。世界初のジェット機として同年10月にパリで開催されたパリの第2回国際航空博覧会に展示されましたが、同年12月の地上テストで滑走路から逸脱し焼失しました。これによってコアンダ=1910の開発は中止となりました。

 実際に世界で初めて空を飛ぶことに成功したジェット機はドイツのハインケル社が開発したハインケル He 178(Heinkel He 178)です。He 178は世界初のターボジェットエンジン航空機です。

 ターボジェットエンジンはイギリス空軍のフランク・ホイットルが考案し、1929年に遠心式ターボジェットエンジンに関する特許を取得しました。この特許は機密扱いとされなかったため世界で注目され、一部の国でジェットエンジンの開発が行われました。

 最初に有力なエンジンを開発したのは空軍や航空機メーカーの技術者ではなくドイツのゲッティンゲン大学工学部の大学院生ハンス・フォン・オハインでした。 オハインはラジアルタービンを用いたジェットエンジンを考案して特許出願しました。1934年に友人が経営する自動車整備工場で試作機の製造に着手しました。1936年、オハインが開発したジェットエンジンを見たエルンスト・ハインケルはオハインをハインケル社に招きジェット機の開発に着手しました。翌1937年には気体水素を用いた遠心式ジェットエンジンの初号機ハインケルHeS 1 が製造され試験が始まりました。ジェットエンジンの開発が進められ軽油を燃料とする実用的ターボジェットエンジンHeS 3 が完成しました。He 3は単発のレシプロエンジンの急降下爆撃機 He 118に吊り下げる形で飛行試験が行われました。

 このHe 3 エンジンを搭載するために開発された機体がハインケルHe 178です。He 178はハインケル社のジークフリート・ギュンターによって設計され、金属製の胴体に木製の主翼を持つ小型機でした。

ハインケルHe178の試作二号機(上)とレプリカ(下)
ハインケルHe178の試作二号機(上)とレプリカ(下)

 最初の試作機He 178 V1 が初飛行したのは1939年8月27日です。操縦はハインケル社のテストパイロットのエーリッヒ・ヴァルシッツが担当しました。 このときの飛行時間はわずか6分程度でしたが、機体の耐久力などの性能により飛行時間は10分、最高速度は時速598キロメートルに制限されていました。試作2号機 He 178 V2 は推進力不足で離陸もできなかったのです。結果としてHe 178は従来のレシプロエンジンの戦闘機に対して性能面で優位性を示すことができず軍用機として採用されませんでした。

 しかしながらイギリスではホイットルによるジェット機の開発が進んでおり、ジェット機の将来性は確信されていたことからドイツ航空省はハインケル社に双発ジェット戦闘機 He 280の開発を進めるよう要請しました。このとき航空省は他社に対してもジェットエンジンの開発を打診しており、これによって後に世界で初めて実用配備されたジェット戦闘機メッサーシュミットMe 262に搭載されるジェットエンジンが開発されています。ハインケル社はHe 280を開発しましたがエンジン開発に手間取ったことなどから採用されませんでした。しかし、その機体はMe 262より先進的で時代を先取りしたものでした。

 さてHe 178 は試験終了後にドイツ空軍博物館に展示されていましたが1943年のベルリン空襲で焼失してしまいました。He 178は秘密裏に開発されたため一部の国を除いて他国に戦後まで知られることはなかった。現在は初飛行を行ったロストック・ラーゲ空港と米国スミソニアン航空宇宙博物館にレプリカが展示されています。

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2023年8月12日 (土)

スペースシャトル実験機「エンデバー」単独初飛行(1977年8月12日)

 米国NASAのスペースシャトル「エンタープライズ」(OV-101)はスペースシャトルのオービター1号機です。この「エンタープライズ」は滑空実験機でエンジンや耐熱シールドは装備されておらず宇宙に旅立つことはありませんでした。1976年9月17日に完成後、さまざまな地上テストを重ねました。

 1977年2月18日、ボーイング747シャトル キャリア航空機(SCA)の背中に搭載された状態で無人飛行テストが行われ、同年6月18日に同条件で有人飛行テストが行われました。そして同年8月12日の飛行テストでは「エンデバー」はボーイング747から切り離され単独飛行、滑空試験、着陸試験が行われました。その後、同テストが4回実施され機体の改良が行われました。

滑空試験中のスペースシャトル実験機「エンデバー」
滑空試験中のスペースシャトル実験機「エンデバー」

 もともとこの機体はアメリカ合衆国憲法発布200年記念しで「コンスティテューション」と名付けられることになっていましたが、「スタートレック」の宇宙船エンタープライズ号と同じ名前をつけてほしいという多数の投書が届いたため「エンタープライズ」と名付けられました。

 滑空テストの後、宇宙飛行ができるように改造する計画が持ち上がりましたが、別の滑空試験機「チャレンジャー」を改造することになり見送られました。1981年4月12日に初めて宇宙飛行をしたスーペース・シャトルは「コロンビア」です。1986年1月28日の「チャレンジャー」の爆発事故の後に「エンデバー」の改造計画が再び持ち上がりましたが「エンデバー」を新造することになりました。

 2012年4月24日、「エンタープライズ」はボーイング747の背に乗せられニューヨーク市上空をデモ飛行し、同年6月にニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に搬入されました。

Endeavour Lands in Houston for Stopover | NASA KSC SCA Space Science Center Shuttle Video

 

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2023年8月 7日 (月)

日本初の国産ジェット機「橘花」初飛行(1944年8月7日)

 「橘花」は大日本帝国海軍が開発した国産初の双発ジェット戦闘攻撃機[です。

 太平洋戦争の終戦一年前の昭和19年(1944年)8月、日本は戦況の悪化から燃料の入手が困難になり、高高度を高性能で飛行できるレシプロエンジンを搭載した戦闘機の開発に行き詰まりました。そこで低質の燃料や潤滑油で稼働し部品点数の少ない高性能なジェットエンジンを搭載した攻撃機「皇国二号兵器」の開発を決定しました。エンジンの開発は海軍航空技術廠が担当し、機体の開発は中島飛行機が担当しました。

 当時の日本は諸外国に比べてジェットエンジンの開発に遅れを取っており、エンジンの取り付けを翼下懸架型としたジェット戦闘機を開発することにしました。同盟国のドイツが先行して開発していたジェット戦闘機メッサーシュミットMe 262がを翼下懸架型であったことから、「橘花」の開発にあたってはMe 262を参考にすることにしました。そのため日本はドイツが必要としていた哨戒艇用ディーゼルエンジンの技術資料を提供するかわりにとドイツからメッサーシュミット Me 262 の技術資料を提供してもらう密約を結びました。日本とドイツはそれぞれ潜水艦で資料を日本占領下のインドネシアまで運び交換することにしました。情報交換は1944年末に行われましたが日本の潜水艦が米国潜水艦の攻撃を受けて沈没したため、ドイツから提供されたMe 262 機体やエンジンの詳細な設計図がほとんどが失われてしまいました。そのため日本はジェット戦闘機を独自に開発しなければなりませんでした。

 「橘花」はMe 262に似ていますがほとんど独自の設計となりました。エンジンの推力が小さいため小型の機体となり、翼もMe 262とは異なる形状となりました。物資の不足により前輪は爆撃機「銀河」の尾輪、主輪は零戦のものが流用されました。また主エンジンのみでは離陸ができないため離陸用補助エンジンが搭載されまきた。機体はジュラルミン不足のため、ブリキやマンガン鋼が使われました。物資の不足から簡素化が図られ、生産工数も短縮され、零戦の半分の2工数で製造できるように設計されました。

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双発ジェット戦闘攻撃機「橘花」

 完成した試作機「橘花」の試験飛行は広島原爆投下の翌日である昭和19年(1944年)8月7日に千葉県の木更津基地で行われました。燃料不足から航空機燃料の代替品として使われていた松根テレビン油を含む低質な燃料が使われましたが、12分間の飛行に成功し、これが国産ジェット機の初飛行となりました。8月12日に陸海軍幹部視察の飛行が行われましたが、離陸時にオーバーランして飛行することはできませんでした。原因はパイロットの判断ミスによる離陸中止でした。この事故で「橘花」の脚が壊れ再飛行は不可能となり、3日後に終戦を迎えました。

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航空自衛隊YS-11FC 160号機(機体番号12-1160)|八王子「自衛隊まつり」

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2023年8月 1日 (火)

日本航空の設立(1951年8月1日)

 昭和20年(1945年)の第二次世界大戦終了後、日本を占領した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は日本の航空産業に関する組織を解体させ、軍はもとより民間の日本の航空機の運用ならびに研究開発を禁じました。昭和25年(1950年)6月に朝鮮戦争が起こると、米軍は日本に戦闘機の修理や部品の供給を要請するため日本の航空産業を再開させました。日本による航空機の運用も解禁となり、昭和26年(1951年)に昭和26年(1951年)1月に日本航空創立準備事務所が開設された。

 このとき複数の会社が国内航空運送事業免許の申請の名乗りをあげたことから、政府は行政指導により日本航空に一本化しました。同年3月に国内航空運送事業の免許を申請され同年8月1日に日本航空株式会社が設立され本社は現在の銀座日航ホテルの場所に置かれました。当初の日本航空は株式会社と言っても半官半民の体制で社員は39名のみでした。

 同年8月27日から29日までフィリピン航空のダグラス DC-3型機(機体記号PI-C7)を借り入れて金星号と名付け試験飛行を行いました。この試験飛行には航空関係者や報道関係者が招待されました。その後、定期路線の就航予定の羽田、大阪、福岡、札幌に事務所を設置しました。

>金星号(DC-3)と客室乗務員(1951/08/27)
金星号(DC-3)と客室乗務員(1951/08/27)

 当初は日本航空自身による運行は認められず日本航空が担当したのは営業と客室乗務員のみでした。運航はパイロットを含めてノースウェスト航空が担当しました。機体はマーチン2-0-2型が使われ「きん星」「もく星」「すい星」「ど星」「か星」と名付けられた5機が就航しました。昭和26年(1951年)10月25日、日本の国旗を記した旅客機が再び飛び立っていきまいた。このことから昭和26年(1951年)10月25日は民間航空記念日 とされています。

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2023年7月22日 (土)

航空自衛隊YS-11FC 160号機(機体番号12-1160)|八王子「自衛隊まつり」

 八王子駅の駅ビルで「自衛隊まつり」(2023年7月15日 ~17日、八王子オクトーレ)というイベントが開催されていました。航空自衛隊の装備品の展示やグッズの販売が行われていました。ひときわ目に付いたのが「八王子航空基地プロジェクト」という1/144スケールの自衛隊機の模型や格納庫などのジオラマ展示です。たくさん並んでいた模型のなかに航空自衛隊の飛行点検機YS-11FCの160号機を見つけました。

航空自衛隊飛行点検機YS-11FCの160号機の模型
航空自衛隊飛行点検機YS-11FCの160号機の模型

 飛行点検機は航空保安無線施設の機能を点検るための機体でFCはFlight Checkerの略です。YS-11FCにはアンテナや様々な無線機材や検査機器が搭載されています。

 YS-11FCには機体番号52-1151(151号機)、62-1154(154号機)、12-1160(160号機)がありました。このうち最初から飛行点検機として導入されたのが160号機で1971年に納入され運用が始まりました。151号機と154号機はそれぞれ1965年、1966年に要人(VIP)輸送仕様のYS-11Pとして導入されたものをYS-11FCに改造したものです。YS-11FCとしての運用開始は151号機は1992年、154号機は1991からです。

 現在は3機とも退役しています。154号機は2015年、160号機は2019年に退役しました。最後の151号機は2021年3月17日に退役し、日本の空から「ダートエンジン」と親しまれたオリジナルエンジンを搭載した4枚プロペラのYS-11が姿を消しました。

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YS-11初公開|YS-11記念日(昭和37年 1962年7月11日)

戦後初の国産航空機YS-11の初飛行(1962年8月30日)

YS-11国内定期路線ラストフライト(2006年9月30日)

YS-11が機械遺産に認定

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2023年7月 6日 (木)

零戦の日(1939年7月6日)

 零式艦上戦闘機(零戦)は九六式艦上戦闘機の後継機として開発されました。零戦の仕様は昭和11年に定められ昭和12年(1937年)10月5日に大日本帝国海軍が提示した要求書に基づき試作名「十二試艦上戦闘機(十二試艦戦)」として開発が進められました。

零式艦上戦闘機一一型 (1941年)
零式艦上戦闘機一一型 (1941年)

 十二試艦戦の要求仕様は当時の戦闘機としては非常に高く中島飛行機は開発を辞退し、三菱による単独の開発となりました。開発は九六式艦上戦闘機の設計者の堀越二郎技師が担当することになりました。堀越二郎は昭和13年(1938年)4月10日に三菱A6M1計画書を海軍に提出し、格闘性能を重視する源田実や航続距離と速度を重視する柴田武雄の相反する要求に応え十二試艦戦の開発を進めました。

 十二試艦戦の試作一号機は三菱重工業名古屋航空機製作所試作工場で製造され昭和14年(1939年)3月16日に完成しました。17日には屋外でエンジンが初始動され地上運転試験が行われました。その後、この試作一号機は分解され24日に岐阜県各務原飛行場に運ばれました。到着後、組み立てられた試作一号機は入念な整備が行われました。そして4月1日に三菱による試験飛行が行われました。これが十二試艦戦の初飛行となりました。その後も試験飛行が重ねられてプロペラが二翼から三翼に変更されたり、高速飛行時の舵の効き過ぎなどの諸問題が改良が施されました。

 改良を重ねた十二試艦戦の試作一号機は同年7月6日に海軍による初の官試乗が行われました。このとき試作一号機を操縦したのは海軍航空廠飛行実験部の戦真木成一大尉と中野忠二朗少佐でした。この官試乗に因み昭和14年(1939年)7月6日は零戦の日とされています。

 試作機は三号機まで作られ昭和15年(1940年)7月24日、零式一号艦上戦闘機一一型として制式採用されました。なお零戦の名前は採用された昭和15年(1940年)は神武天皇即位紀元(皇紀)2600年にあたるのでその下二桁00から零式とされました。当時の日本の軍用機の型式にはその軍用機の採用年次の皇紀下2桁を使用するという規定に従ったものです。

 次の写真は現存するオリジナルの機体とエンジンで飛行可能な唯一の零戦五二型61-120号機です。

零戦五二型61-120号機
零戦五二型61-120号機

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2023年7月 2日 (日)

【おもしろ映像】飛行場の踏切?

 「飛行場の踏切」と言っても飛行場の中を電車が走っているわけではありません。先日アップした記事「ヨットで世界初の単独世界一周(1898年6月27日)」でGoogle Mapを見ていたところ変わった空港を見つけました。

 地中海の入口付近にイベリア半島の南東端から突き出した小半島があります。この領域はスペインの領土ではなくイギリスの海外領土ジブラルタルです。ジブラルタルの北端にジブラルタル国際空港があります。この空港の側には「ザ・ロック」と呼ばれる大きな岩山があり、東側から滑走路への侵入を難しくしておりパイロットの間でヨーロッパで最も危険な空港とされています。

 ジブラルタル国際空港の滑走路はスペインとジブラルタルの境界にあり国境は滑走路によって分断されています。滑走路はジブラルタルとスペインを結ぶウィンストン・チャーチル・アベニューと交差していますが、この道路は高架橋でもなく地下道でもありません。滑走路と同じ平面で交差しているのです。

 ウィンストン・チャーチル・アベニューは自動車だけでなく自転車や歩行者も通行でき滑走路を横断することができるのです。航空機が離着陸するときは鉄道の踏切のように道路に設置された信号が赤になり遮断機が下ります。このような滑走路を持つ空港は他に例がなくジブラルタル国際空港の大きな特徴となっています。

Gibraltar Airport

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