日野宿の佐藤彦五郎と小野路村の小嶋鹿之助
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武蔵国多摩の日野宿は日本橋から甲州街道を進み内藤新宿、高井戸、布田五宿、府中に続く5番目の宿場町です。他の宿場町に比べるとやや小規模ではあったものの、多摩川の渡船場である日野の渡しを管理する重要な拠点でした。
この日野宿を中心に日野本郷三千石の管理を代々担っていたのが日野宿名主の佐藤家です。 幕末に日野本郷名主、日野宿問屋役、日野組合村寄場名主を努めたのが佐藤彦五郎です。
佐藤彦五郎は父の佐藤半次郎が早世したため、天保9年(1938年)に11歳で祖父で10代佐藤彦右衛門から家督を継ぎました。弘化2年(1845年)に武蔵国多摩の石田村の土方歳三の姉の土方とくと結婚しました。この縁組みにより、歳三は佐藤家に頻繁に出入りするようになりました。佐藤とくは明治維新後に佐藤のぶと改名しています。
嘉永2年(1849年)1月18日、日野宿を焼く大火に見舞われたときに、彦五郎は祖母と近隣住民が錯乱した男に斬殺されるところを目のあたりしました。この事件によって彦五郎は日野宿名主として治安維持が必要であると考えるようになりました。慶応3年(1850年)、彦五郎は日野千人同心組頭の石坂弥次右衛門の世話役であった八王子千人同心の井上松五郎の紹介で、多摩に出向いて天然理心流を指南していた天然理心流三代目宗家の近藤周助に入門しました。彦五郎は剣術の研鑽に励み嘉永7年(1854年)に天然理心流の皆伝の免許を得て自宅に出稽古用の道場を開きました。この道場に出入りしていたのが試衛場の近藤勇や沖田総司、松五郎の弟の井上 源三郎、義弟の土方歳三らです。
武蔵国南多摩の小野路村(東京都町田市小野路町)は大山道、神奈川道、府田道、府中道、八王子道の分岐点であり交通の拠点でしたが、とりわけ江戸時代の中期以降は大山街道の宿場町として栄えました。この小野路村で名主として頭角を現したのが小島家です。幕末にこの地の名主となったのが小島鹿之助です。
鹿之助の父の小島政則が周助の門下であったことから、名主を継いだことをきっかけに、嘉永元年(1848年)に彦五郎より先んじて周助の門下なりました。その後、周助の養子となった宮川勝太(近藤勇)と出会い、さらに彦五郎とも親睦を深めるようになりました。
後に、勇、彦五郎、鹿之助の三人は三国志演義にならい義兄弟の契りを交わしています。彦五郎は文政11年(1828年)生まれ、鹿之助は天保元年(1829年)生まれ、勇は天保5年(1834年)生まれです。
武蔵国多摩は伊豆韮山代官の江川英龍(太郎左衛門、坦庵)の支配地域であり、英龍は当地の有力な名主たちに農兵政策や自警活動を勧め支援しました。そのため多摩で天然理心流の入門者が急増しました。彼らは彦五郎を通じて英龍の近代的な農兵政策を学んだと伝えられています。
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