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2026年5月

2026年5月30日 (土)

マツダ(東洋工業)がコスモスポーツ発表(1967年5月30日)

 マツダ コスモスポーツは昭和42年(1967年)5月30日に発表・発売が開始された世界初の実用的かつ量産型ロータリーエンジンを搭載した自動車です。

マツダ コスモスポーツ
マツダ コスモスポーツ

 1960年代の初め日本の通商産業省(経済産業省)は特定産業振興臨時措置法案(特振法案)により、国内日自動車メーカーをグループに統合しようと画策していました。

 国内自動車メーカーとしては後発だった東洋工業(マツダ)は独立を守るため固有の技術を確立する必要に迫られていました。そこで目をつけたのが西ドイツのNSU社・バンケル社が開発したヴァンケル・スパイダーに搭載されていた世界初のロータリーエンジンでした。東洋工業はNSU社と技術提携をして特許ライセンスを取得しました。 しかし、入手した試作エンジンを動かしてみると重大な欠陥が見つかりました。その問題とはローターの回転により内壁に摩耗の溝チャターマーク(通称:悪魔の爪痕)の発生でした。これによりエンジンはすぐに使い物にならなくなってしまったのです。つまり世界初のロータリーエンジンは実用化にはほど遠いものだったんのです。

 この問題を解決するため、東洋工業は昭和38年(1963年)にのちのマツダ社長となる山本健一をリーダーとするロータリーエンジン研究部を発足させ、実用的ロータリーエンジンの開発に着手しました。研究チームはあらゆる素材を使ってエンジンを作る実験を重ねた結果、ついに高強度カーボン材にアルミを染み込ませたアペックスシールを開発し、悪魔の爪痕問題を解決し、世界初の実用化10A型ロータリーエンジンへを生み出しました。

 この10A型の試作エンジンは昭和38年(1963年)10月26日~11月10日に開催された第10回全日本自動車ショー(東京モーターショー)において出展されました。このときロータリーエンジンを搭載した試作車の写真パネルも展示されましたが、実際の車両の展示はありませんでした。しかし、自動車ショーが開催される6日前の同年10月20日に、朝日新聞紙がこの試作車をスクープしていました。当時の東洋工業の松田恒次社長が自ら試作車のMAZDA 802 (L402A)のステアリングを握り広島から遠路はるばる会場まで乗り付けるパフォーマンスを行いました。この松田恒次社長の行動に注目が集まり、試作車とロータリーエンジンは自動車ショーの話題をさらうことになりました。

 この試作車は昭和39年(1964年)の第11回東京モーターショーにおいて正式に参考出品したのち、販売に向けて急ピッチに開発が進められました。昭和40年(1965年)の第12回モーターショーでマツダコスモの名が発表され、全国のディーラーへ試作車を貸し出され、ロードテスト(実走行試験)をかねたプロモーションが行われました。昭和41年(1966年)の第13回全日本自動車ショーには改良型の試作車マツダコスモスポーツが発表されました。

 昭和42年5月30日、東洋工業はコスモスポーツ(L10A型)を正式に発表し、販売を開始しました。全高わずか1,165 mmでフロントからリアへ流れる近未来的なボディのコスモスポーツは一躍人気車種となりました。斬新なデザインが実現できたのはエンジンが小型・軽量だからこその賜でした。コスモスポーツの当時の価格は148万円です。大卒初任給の給与が2万6,000円ですから、誰もが憧れる超高級スーパースポーツカーでした。このコスモスポーツの成功により、マツダは「技術のマツダ」としての地位の礎を気づいたのです。

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2026年5月27日 (水)

大津事件の犯人に無期懲役判決(明治24年 1891年5月27日)

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 大津事件(おおつじけん)は、明治24年(1891年)5月11日に来日していたロシア帝国皇太子 ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ (後の皇帝ニコライ2世)が、滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で日本人警察官の津田三蔵に突然襲撃され負傷した暗殺未遂事件です。湖南事件(こなんじけん)とも呼ばれます。この事件は単なる暗殺未遂事件に終わらず、日本とロシアの外交問題に発展し、明治政府と司法の対立、日本における司法権の独立をめぐる重大事件となりました。

ロシア帝国皇太子 ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ (後の皇帝ニコライ2世)
長崎を視察中のロシア皇太子ニコライ・ロマノフ

  明治維新後の近代化を急いでいた日本は、シベリア鉄道建設を進め極東への進出を強めていたロシア帝国に対して日本へ南下してくるのではないかと警戒感を高めていました。1891年にニコライ皇太子が極東視察の途上で日本を訪問すると、日本政府はロシアとの友好関係を深めるため国を挙げて歓迎しました。

 同年5月11日、ニコライ皇太子は琵琶湖の観光を終えて大津市内を人力車で移動していました。このときニコライ皇太子の警備をしていた滋賀県巡査の津田三蔵が突然サーベルを抜きニコライ皇太子に斬りかかりました。津田は人力車の車夫や周囲の人々によって捕縛されました。ニコライ皇太子は頭部に傷を負いましたが命は無事でした。津田の犯行動機については本人が証言しないまま獄中で病死したため現在も定説はありませんが、ロシアに対する敵意、国家主義的な思想、西南戦争体験の情緒不安などがあげられています。

津田三蔵
津田三蔵

 警備中の警察官が起こした前代未聞な事件により日本政府は大混乱に陥りました。ロシアが激怒すれば、戦争や外交的孤立につながる危険がありました。列強に比べて力の無い日本はロシアに対してひたすら謝罪をしました。明治天皇も自ら京都に赴き、ニコライ皇太子を見舞い、神戸まで見送るなどの対応をしています。ニコライ皇太子はロシア本国からの指示で東京には赴かずロシア艦隊で神戸からウラジオストクへ帰国しました。明治天皇はロシア軍艦で開催する別離の午餐に招待されました。重臣たちは万一のことを考え参加に反対しましたが、明治天皇は、「ロシアは先進文明国である。そのロシアがなにゆえに汝らが心配するような蛮行をしなければならないのか」と制しています。

 政府首脳の中にはロシアに配慮して津田を処刑すべきという強い意見がありました。政府は天皇や皇族への危害を処罰する大逆罪を適用しようとしましたが、現在の最高裁判所長官にあたる大審院長の児島惟謙はロシア皇太子は皇族ではなく、政治的都合により法律を曲げるべきではないと大逆罪適用に反対しました。

児島惟謙
児島惟謙

 明治政府と司法の対立の結果、事件から16日後の同年5月27日、津田は謀殺未遂罪が適用され、無期徒刑(無期懲役)となりました。津田は監獄に送られた年に急性肺炎で病死し、政府による口封じという陰謀論が広がりましたが、この判決は日本における司法の独立を象徴する出来事となりました。大津事件によって司法の独立が確立したことにより、大日本帝国憲法の三権分立の意識が高まりました。

 ロシアは当初は津田の処刑を求めていましたが、日本の迅速な対応や明治天皇自らによる謝罪に対して友好的な姿勢を示し、結果的には
賠償要求も武力報復も行いませんでした。

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2026年5月26日 (火)

生成AIで蘇ったシボレー・コルベットのプラモデルの写真

 シボレー・コルベットの三代目のC3型です。大きく膨らんだ前後フェンダーにくびれた中央部、その独特の美しいボディラインからコークボトル、スティングレイの愛称で親しまれました。 歴代コルベットの中でも今もなお人気を高い車種です。

シボレー・コルベット・スティングレイ
シボレー・コルベット・スティングレイ

 デザインを担当したのはGM(ゼネラルモーターズ)の巨匠デザイナーのビル・ミッチェルと日系人デザイナーのラリー・シノダです。ビルは釣り好きで、サメやカジキの流線型に強い思い入れを持っていました。ビルはアオザメ(Mako Shark)を象ったコンセプトカーをデザインするようラリーに命じました。ラリーはコンセプトカー「マコシャーク」(Mako Shark)をデザインしました。

マコシャーク(Mako Shark)
マコシャーク(Mako Shark)

 さらにビルとラリーはデザインの改良を進め、C3型の前身となるコンセプトカー「マコシャークII」(Mako Shark II)を試作しました。

マコシャークII(Mako Shark II)
マコシャークII(Mako Shark II)

 C3型は1968年から1982年にかけて生産されました。主要なデザインは踏襲されていますが、外観は異なります。最初の写真のC3型は1973年以降のモデルと思われます。先日、見かけたのが最近のものです。これはC8型と思います。

シボレー・コルベット・スティングレイ
シボレー・コルベット・スティングレイ C8型

 自分がシボレー・コルベット・スティングレーを知ったのは池沢さとし先生の漫画「サーキットの狼」でした。流石島レースに参戦したアメリカ人レーサーのジャック・シンカーが米国旗の塗装をしたシボレー・コルベット・スティングレーに乗ってしました。1周目にホテル街でクラッシュしてしまいましたが、シボレー・コルベット・スティングレーのデザインが気に入りプラモデルを作りました。

シボレー・コルベット・スティングレーのプラモデル
シボレー・コルベット・スティングレーのプラモデル

 生成AIにこの画像の背景を白にしてカラー化してもらいました。あまりの出来映えに当時の記憶が蘇りました。

シボレー・コルベット・スティングレーのプラモデル(生成AIでカラー化)
シボレー・コルベット・スティングレーのプラモデル(生成AIでカラー化)

 

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2026年5月25日 (月)

生トリガイの刺身

 トリガイ(鳥貝)は二枚貝綱マルスダレガイ目ザルガイ科の二枚貝です。から伸びる足(足身)が鳥のくちばしのような形をしていることからトリガイと名付けれたました。日本では北海道をのぞく各地で生息しているとされますが、近年では函館や石狩でも発見されています。主な漁場は東京湾、三河湾、伊勢湾、瀬戸内海などですが、東京湾(江戸前)の水揚げは激減しています。

トリガイの身
トリガイの身

 一般には湯通したものを寿司、刺身、酢の物などにします。身は噛みやすくやや甘味があります。

トリガイの寿司
トリガイの寿司

 先日、生トリガイの刺身を頂きました。生トリガイは4月から6月頃にかけて旬を迎え、生で食べられるのは1年で限られた新鮮な期間に限られます。独特の歯ごたえがあり、湯通ししたものとは比べものにならないほど強い甘みがあります。旬も終わり、来年までお預けです。

生トリガイの刺身
生トリガイの刺身

 

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2026年5月23日 (土)

【お知らせ】新サイト「Voorlichter(開陽)」を公開しました

【お知らせ】

幕末・明治期の日本と箱館の歴史を古写真や絵図とともに解説するサイト「Voorlichter(開陽) 」を公開しました。

ブログ「夜明け前」の関連記事は順次新しいサイトに移動していきます。

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2026年5月17日 (日)

最初の屯田兵が入植(明治8年 1875年5月17日)

 明治2年(1869年)5月18日に五稜郭が開城し戊辰戦争が終結すると、明治政府は同年7月8日に開拓使を設置し蝦夷地の開拓と防衛強化に乗り出しました。同年8月15日には太政官布告によって蝦夷地は北海道、北蝦夷地を樺太と改名されました。

 明治4年(1871年)10月に北海道開拓次官となった黒田清隆は西郷隆盛が主唱していた士族による北方警備と開拓を実現するべく同年11月に太政官に屯田制を建議し、明治7年(1874年)に屯田兵例則が定められました。屯田兵は平時は農民として開拓に従事し、有事には軍隊として北方防備に当たる兵農一如の制度です。明治維新により特権や職を失い生活に困窮していた士族たちに職と土地を与え生計の道を立てさせる士族授産の目的もありました。

 明治8年(1875年)5月17日、現在の札幌市西区琴似に最初の屯田兵198戸と家族ら計965人が入植し琴似兵村が発足しました。彼らは彼らは家族とともに移住し、政府から土地と兵屋(家屋)を与えられました。極寒の未開地での開拓生活は過酷を極めましたが、彼らは耐え抜きながら北海道における農業の基盤を築きました。

屯田兵 北海道開拓と防備で活躍した
屯田兵 北海道開拓と防備で活躍した

 屯田兵は明治8年から明治32年までに、道内37の兵村に約7,300戸、家族を含む約4万人が入植しました。彼らが開墾した総面積は約7万4,000 haにも及びました。西南戦争、日清戦争、日露戦争の有事の際には出征し軍隊としての役割を果たしました。屯田兵制度は明治37年(1904年)まに廃止されまで続き、士族だけではなく平民も加わりました。

【関連記事】

蝦夷地が北海道に(明治2年 1870年8月15日)

北海道開拓精神が込められた「日本一きびだんご」(起備団合)

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2026年5月16日 (土)

日野宿の佐藤彦五郎と小野路村の小嶋鹿之助

この記事は、新サイト Voorlichter(開陽)に移転・リニューアルしました。今後は以下のURLで更新していきます。
URL:https://www.goryoukaku.com/voorlichter/articles/shinsengumi/hikogoro-shikanosuke.html

 武蔵国多摩の日野宿は日本橋から甲州街道を進み内藤新宿、高井戸、布田五宿、府中に続く5番目の宿場町です。他の宿場町に比べるとやや小規模ではあったものの、多摩川の渡船場である日野の渡しを管理する重要な拠点でした。

 この日野宿を中心に日野本郷三千石の管理を代々担っていたのが日野宿名主の佐藤家です。 幕末に日野本郷名主、日野宿問屋役、日野組合村寄場名主を努めたのが佐藤彦五郎です。

佐藤彦五郎
佐藤彦五郎

 佐藤彦五郎は父の佐藤半次郎が早世したため、天保9年(1938年)に11歳で祖父で10代佐藤彦右衛門から家督を継ぎました。弘化2年(1845年)に武蔵国多摩の石田村の土方歳三の姉の土方とくと結婚しました。この縁組みにより、歳三は佐藤家に頻繁に出入りするようになりました。佐藤とくは明治維新後に佐藤のぶと改名しています。

 嘉永2年(1849年)1月18日、日野宿を焼く大火に見舞われたときに、彦五郎は祖母と近隣住民が錯乱した男に斬殺されるところを目のあたりしました。この事件によって彦五郎は日野宿名主として治安維持が必要であると考えるようになりました。慶応3年(1850年)、彦五郎は日野千人同心組頭の石坂弥次右衛門の世話役であった八王子千人同心の井上松五郎の紹介で、多摩に出向いて天然理心流を指南していた天然理心流三代目宗家の近藤周助に入門しました。彦五郎は剣術の研鑽に励み嘉永7年(1854年)に天然理心流の皆伝の免許を得て自宅に出稽古用の道場を開きました。この道場に出入りしていたのが試衛場の近藤勇や沖田総司、松五郎の弟の井上 源三郎、義弟の土方歳三らです。

 武蔵国南多摩の小野路村(東京都町田市小野路町)は大山道、神奈川道、府田道、府中道、八王子道の分岐点であり交通の拠点でしたが、とりわけ江戸時代の中期以降は大山街道の宿場町として栄えました。この小野路村で名主として頭角を現したのが小島家です。幕末にこの地の名主となったのが小島鹿之助です。

 鹿之助の父の小島政則が周助の門下であったことから、名主を継いだことをきっかけに、嘉永元年(1848年)に彦五郎より先んじて周助の門下なりました。その後、周助の養子となった宮川勝太(近藤勇)と出会い、さらに彦五郎とも親睦を深めるようになりました。

小島鹿之助
小島鹿之助

 後に、勇、彦五郎、鹿之助の三人は三国志演義にならい義兄弟の契りを交わしています。彦五郎は文政11年(1828年)生まれ、鹿之助は天保元年(1829年)生まれ、勇は天保5年(1834年)生まれです。

 武蔵国多摩は伊豆韮山代官の江川英龍(太郎左衛門、坦庵)の支配地域であり、英龍は当地の有力な名主たちに農兵政策や自警活動を勧め支援しました。そのため多摩で天然理心流の入門者が急増しました。彼らは彦五郎を通じて英龍の近代的な農兵政策を学んだと伝えられています。

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2026年5月14日 (木)

【#おもしろ映像】全手動ワイン注ぎマシーン

 ワインのコルクを抜き、ワイングラスに注いでくれるマシーンです。ワインボトルとワイングラスを機械にセットし、ハンドルを回すと歯車が動き出し、ワインの栓を抜きます。続いてワインがグラスに注がれます。

全手動ワイン注ぎマシーン
全手動ワイン注ぎマシーン

 ま~よくこれだけ大がかりな装置を作ったものだと感心してしまいますが、こういうのがあるからもの作りは面白いのですね。自動式にしないで手動式にしているのも面白いです。

Rob Higgs

 

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2026年5月13日 (水)

新選組の源流「天然理心流」

この記事は、新サイト Voorlichter(開陽)に移転・リニューアルしました。今後は以下のURLで更新していきます。
URL:https://www.goryoukaku.com/voorlichter/articles/shinsengumi/tennenrishinryu.html

 天然理心流は寛政年間(1789年〜1801年)に神道流剣術はじめとする諸流を学んだ遠江国出身の近藤内蔵助が「天に則り、理を悟り、心を正す」という教えに基づいて江戸時代後期に創始した比較的新しい古武術です。実戦を重んじる誠の剣術、居合術、小具足術、棒術、柔術などを含む総合武術として創出されました。道場は江戸に開かれましたが、内蔵助が江戸周辺の町村に出向いて指南したため、武士だけでなく豪農を中心とする農民にも広く受け入れたことにより門下生が増え発展しました。

 二代目は近藤内蔵助とともに天然理心流を編み出したとされる近藤三助が継ぎました。当時、治安が悪化していた農村部では自衛のために武術を学ぶ必要がありました。天然理心流は江戸はもとより多摩地域、埼玉、神奈川まで広範囲に普及しました。各地域の名主や豪農たちは天然理心流を通じ団結を固めていきました。

 近藤三助は指南免許や印可を誰にも与えないまま文政2年(1819年)に早世しました。しばらくして天保元年(1830年)に高弟の一人で剣術免許を受けていた島崎周助が三代目を継ぐことになり近藤周助と名乗りました。周助は天保10年(1839年)に江戸市中に天然理心流剣術道場の試衛場(試衛館)を構えました。

天然理心流 試衛場(試衛館)
天然理心流 試衛場(試衛館)

 嘉永元年(1848年)11月11日、天然理心流の試衛場に入門したのが武蔵国多摩郡上石原村出身の農民の宮川勝五郎です。勝五郎は嘉永2年(1849年)10月19日に周助の養子となり嶋崎勝太と名乗りました。その後、勝太は勇と改名し、近藤家と養子縁組を経て、文久元年(1861年)8月27日に四代目に就任し近藤勇を名乗りました。試衛館には後に新選組となる多くの若者たちが集まりました。

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2026年5月11日 (月)

ATOKイミクルを無効・有効にする方法

 ATOKイミクルはブラウザやエディで文書を閲覧中に単語を範囲指定してCtrlキーを2回押すことにより電子辞典で意味を調べられるATOK 2016以降に搭載されている機能です。この機能を活用しているユーザーには便利な機能かもしれませんが、必要のないユーザーにとっては余計な機能です。意図せずにATOKイミクルが表示されることが多いので必要のない人は無効にすると良いでしょう。

  ATOKイミクルを無効にするにはWindowsのスタートメニューから「ATOKイミクル for ATOK」を起動します。すると次のダイアログが表示されます。

ATOKイミクルのダイアログボックス
ATOKイミクルのダイアログボックス

 右上の歯車アイコンをクリックすると次の設定画面が表示されます。

ATOKイミクルの設定
ATOKイミクルの設定

 「☑ ATOKイミクルを常駐する」のチェックを外すと、ATOKイミクルが無効になります。以降はATOKイミクルが表示されなくなります。

 ATOKイミクルを再び有効にするには「ATOKイミクル for ATOK」を起動して 「▢ ATOKイミクルを常駐する」をチェックします。

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