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2026年1月12日 (月)

江島生島事件(正徳4年 1714年1月12日)

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 正徳4年(1714年)1月12日、第七代将軍の徳川家継の生母の月光院に仕えていた御年寄の江島が門限に遅れたことをきっかけに江島生島事件が怒りました。この日、江島は月光院の名代として上野の寛永寺や芝の増上寺へ参拝に出向きました。その帰りに懇意の呉服商の後藤縫殿助の誘いで木挽町の芝居小屋「山村座」で人気役者の生島新五郎の歌舞伎を鑑賞しました。芝居の後に江島は生島たちを招いて宴会を催しましたが、宴会が長引き大奥の門限に遅れてるという失態を演じました。

江島と生島新五郎(江島生島事件)
江島と生島新五郎(江島生島事件)

 江島は大奥の七ツ口で役人と押し問答となり、この話は江戸城中に知れ渡りました。江島の門限破りは評定所で審理されることになりました。取り調べでは江島の単なる門限破りではなく大奥の規律を乱したことが問題視され、江島と生島新五郎の密通疑惑が浮上しました。最終的に江島は死罪となるところを減じられて信濃国高遠藩への流刑となりました。役者の生島も三宅島へと流されました。芝居小屋の山村座は解体、江島の取り巻きなど多くの者たちが処罰を受けました。

 江島は27年に渡り幽閉生活となり寛保元年(1741年)に享年61歳で死去しました。生島は寛保2年(1742年)に徳川吉宗により赦免され江戸に戻りましたが翌年享年73歳で死去しました。

 この江島生島事件は大正時代に歌舞伎「江島生島」で演じられ戦後には小説「絵島生島」になりました。事件の顛末が一般にも広く知られるようになりました。現将軍の母の月光院派と先代将軍の正室の天英院派の大奥内での覇権争いで、月光院派の江島の失態が天英院派の格好な攻撃材料になったという言い伝えもありますが史実では確認できずこれは後の創作のようです。

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