雪原の屈辱から逆襲そして没落へ|カノッサの屈辱(1077年1月25日)
1077年1月25日、北イタリアのアペニン山脈に囲まれ冬の厳しい寒さに包まれたカノッサ城の城門の前に粗末な衣をまとった1人の男が佇んでいました。この男はドイツ王ハインリヒ4世、後に神聖ローマ皇帝となった人物です。
当時のキリスト教の世界では司教や修道院長を任命する権限「叙任権」をめぐり、王権と教皇権が激しく対立していました。教皇グレゴリウス7世は王権による聖職者任命を禁じていましたが、これに反発した改革を進めていたハインリヒ4世を破門しました。破門は単なる宗教的処罰に留まらず「王への忠誠義務は無効」と宣言されたことにより諸侯たちはハインリヒ4世に反旗をひるがえしました。
孤立したハインリヒ4世は王位を守るために破門の解除を求めるため教皇が滞在するカノッサ城に向かいました。しかしながら、教皇のグレゴリウス7世は面会に応じませんでした。そこでハインリヒ4世は罪を悔いると3日間も雪の中で赦しを待ち続けました。この行動は後にカノッサの屈辱として語り継がれるようになりました。その様子を見ていたグレゴリウス7世はハインリヒ4世城内に迎え入れ破門を解除しました。これによって諸侯がハインリヒ4世に反旗を翻す口実は失われました。
ハインリッヒ4世はドイツに戻ると対立する王を擁立していた諸侯との戦を数年に渡り繰り広げました。1080年、対立勢力が優勢になるとグレゴリウス7世は再びハインリヒ4世を破門しました。これに対してハインリヒ4世は許しを請うことは無く軍事力で対応しました。翌1081年、ハインリヒ4世は軍勢を率いてローマを取り囲みました。グレゴリウス7世はローマから逃れました。1084年、ハインリヒ4世は自らが擁立した教皇クレメンス3世から神聖ローマ皇帝に戴冠されました。グレゴリウス7世はローマに帰還することはできず、1085年に亡命先のサレルノで客死しました。このとき「私は正義を愛し、不義を憎んだ。ゆえに流刑の身で死ぬのだ」と最期の言葉を残したと伝えられています。
勝利を収めたハインリヒ4世でしたが、晩年は自らの息子たちの反乱により再び権力の座を脅かされました。権力をめぐる闘争はハインリヒ4世の人生の最後まで続きました。ハインリヒ4世は最終的に破門と廃位の憂い目にあい1106年に没しました。
カノッサの屈辱は、単なる王の敗北ではなく王権と教皇権という二つの巨大な権力がぶつかり合った事件でした。その後のヨーロッパにおける「国家と宗教」の関係を形づくる重要な転換点となりました。教皇と皇帝との間の叙任権を巡る闘争は、叙任権が教皇にあることを定めたヴォルムス協約が成立する1122年まで続きました。
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