大阪冬の陣で大阪城の堀の埋立工事完了(1614年1月23日)
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去すると豊臣政権は秀吉の独裁的な政治体制から豊臣秀頼を徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、前田利家、宇喜多秀家からなる五大老と浅野長政、前田玄以、石田三成、増田長盛、長束正家からなる五奉行が支える政治体制となりました。しかしながら、五大老、五奉行の間で政治的抗争が起こりました。慶長5年(1600年)に「関ヶ原の戦い」で徳川家康が率いる東軍が石田三成率いる西軍を打ち破ると、豊臣家の所領は220万石から65万7千400石に減封となりました。
慶長8年(1603年)に徳川家康は征夷大将軍に任命され江戸幕府を開くと豊臣政権は名実ともに終焉しましたが秀頼は淀君とともに大阪城を居城としていました。家康は徳川家を頂点とする政権作りを始め、豊臣家に対し服属を求めました。家康の主君筋にあたる豊臣家は秀吉の威光による別格的存在を主張したため家康は豊臣家を滅ぼすことを考え始めました。そして家康は方広寺鐘銘事件をきっかけに慶長19年(1614年)に豊臣家を攻め「大坂冬の陣」を起こしました。
【参考】方広寺鐘銘事件から大阪の陣へ(1614年10月1日)
「大阪冬の陣」では豊臣家は真田信繁(幸村)が真田丸を築いて奮戦し徳川軍を翻弄しましたが、淀君は秀頼の出陣を許さず籠城を決めました。徳川軍は大筒で大阪城への攻撃を開始、難攻不落の大阪城も無残な姿となりました。徳川軍も兵糧不足となり冬季の戦で軍が疲弊しているため家康は豊臣家に和議を求めました。豊臣家もこれに応じ双方で講和条件について交渉を重ね同年12月20日に和議が成立しました。
講和条件により大坂城は本丸を残して二の丸と三の丸を破壊、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めることになりました。幕府は大阪城の三の丸の外堀を完全に埋めた後、さらに二の丸の内堀の埋め立てを開始しました。
惣構、三の丸、二の丸を破却することになり、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城はついに落城し、豊臣氏は滅亡した。
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