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2025年12月29日 (月)

横浜鎖港談判使節団がフランスに向け出発(文久3年 1863年12月29日)

 

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 安政5年(1858年)6月19日、江戸幕府はアメリカ合衆国と日米修好通商条約を締結しました。その後、幕府は同年中にオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも修好通商条約を結びました。安政五カ国条約と呼ばれる一連の条約締結は孝明天皇の勅許を得ないまま締結されたため、攘夷派の公家や諸藩が江戸幕府の独断の進め方に反発し幕政の混乱が始まりました。

【参考】日米修好通商条約に調印(1858年6月19日)

 安政五カ国条約では江戸と大阪の開市、新潟・兵庫を開港することになっていましたが国内の経済や政治の状況から期限内での履行が困難となりました。そこで幕府は開港開市の延期交渉ならびにロシアとの樺太国境の画定交渉のため文久元年(1862年)に欧州に文久遣欧使節を派遣しました。各国との交渉は暗礁に乗り上げましたが最終的にはイギリスの協力により派遣団の目的は達成されました。

【参考】文久遣欧使節がイギリスとロンドン覚書を調印(1862年5月9日)

 幕政が混乱し攘夷派の勢力が台頭する中で江戸幕府は第14代将軍の徳川家茂と仁孝天皇の第8皇女で孝明天皇の異母妹の和宮親子内親王の婚姻を進めました。孝明天皇は政治を従来通り江戸幕府に任せる代わりに攘夷を実行するよう求めました。文久3年(1863年)、徳川家茂は征夷大将軍としては第3代将軍の徳川家光以来229年振りの上洛し孝明天皇に攘夷を約束しました。列強に対して武力による攘夷は不可能と考えた江戸幕府は外交交渉により横浜を閉港することにしました。

 文久3年(1863年)12月29日、外国奉行の池田長発(筑後守)を正史、河津祐邦(伊豆守)を副使、河田熙(相模守)を目付とする横浜鎖港談判使節団が品川沖からフランス軍艦ル・モンジュ号で出発しました。使節団の目的は横浜を再度閉鎖する交渉を行うことでしたが、列強が横浜閉港を認めるはずもなく達成不可能な任務でした。使節団の目的にはフランス士官殺害事件の賠償交渉も含まれていました。

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池田長発(筑後守)(備中国井原領主 外国奉行)

 横浜鎖港談判使節団は上海やインドを経由し、スエズから陸路でエジプトのカイロへ向かいました。使節団は元治元年(1864年)2月28日にカイロでギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見学しています。ここで撮影された写真は日本の侍の歴史において象徴的な一枚となりました。

ギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見学する横浜鎖港談判使節団
ギザの三大ピラミッドとスフィンクスを見学する横浜鎖港談判使節団

 その後、使節団は地中海を経由しフランスのマルセイユに入港しパリに向かい皇帝ナポレオン3世に謁見した。横浜閉港の交渉は予想通り失敗に終わりました。使節団はパリの街で蒸気機関、鉄道、新聞、近代的な軍隊を目にしました。列強の文明の強大さを認識し鎖国や野攘夷などをやっている場合ではないと開国の重要性を考えた池田長発は独断で交渉を打ち切り同年5月17日にパリ約定を結び同年7月22日に帰国しました。

 池田長発は帰国後に幕府に対して攘夷は不可能であることと開国の必要性を訴える建白書を提出しました。幕府はこの建白書を認めずパリ約定を破棄し、池田長発の官職を解き蟄居処分としました。使節団が持ち帰った学問や技術の資料は後に明治維新を進めた志士たちに大きな影響を与えました。横浜港の閉港を目的とした使節団が日本を世界へと開かせるひとつのきっかけを作ったのです。慶応3年(1867年)、池田長発は罪を許され軍艦奉行並として復帰しましたが持病のため数ヶ月で辞職し政治の舞台から姿を消しました。

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