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2025年12月 4日 (木)

近藤勇が新選組解散を願い出る|近藤勇書簡(元治元年 1864年5月20日 小島資料館)

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 近藤勇や土方歳三は農民の出で武士になりたかったという見方がある。彼らが立身のため天然理心流の剣術を学んだのは間違いないだろう。そして幕末に現れた列強を目にして攘夷の志を強めていたのも間違いないであろう。彼らは武士になりたいだけで浪士組に応募し新選組になったのであろうか。近藤勇は彼らの志を垣間見ることができる書簡を残している。 

 近藤勇や土方歳三が京都に赴き新選組を結成することになったきっかけは、幕府が文久3年(1863年)初めに募った第14代将軍の徳川家茂の上洛の警護を担う浪士組に参加したことである。この浪士組の結成を発案して幕府に認めさせたのは庄内藩出身の清河八郎である。しかしながら清河の真の目的は将軍警護ではなく尊皇攘夷運動の志士を募ることであった。

  【参考】第9話「浪士組西へ」|明日なき戦いの果てに

近藤勇 土方歳三の写真
近藤勇と土方歳三

 同じ頃、イギリスは生麦事件の賠償問題で幕府に圧力をかけるためフランス、オランダ、アメリカに呼びかけ横浜港に四カ国の軍艦を入港させた。同年2月、浪士組が京都の壬生村に到着すると清河は浪士組の真の目的は尊皇攘夷活動であることを表明し攘夷のため江戸に戻ると主張したのである。これに強硬に反発したのが芹沢鴨と近藤勇であった。清河は浪士組を率いて江戸に戻ったが芹沢、近藤、土方をはじめとする後の新選組の面々は京都に在留することになった。

  【参考】生麦事件(文久2年 1862年8月21日)

 同年3月に江戸幕府は京都守護職を努めていた会津藩主の松平容保に旧都の治安維持を行う浪士を集めて組織化することを命じていた。京都に残留した芹沢・近藤らは会津藩士の野村左兵衛を通じてこれに応募した。彼らは松平容保の庇護のもと壬生浪士組と名乗るようになった。京都守護職の配下には幕臣で構成された正規組織の京都見廻組が存在していた。これに対して壬生浪士組は剣術に長けた町人や農民出身の浪士たちで厚生された会津藩預かりという立場の非正規組織であった。

 同年3月、徳川家茂は徳川将軍としては第3代将軍徳川家光以来229年ぶりに上洛した。家茂の上洛の目的は朝廷から求められていた攘夷実行の委任を受けることであった。列強に対して武力で攘夷をすることは困難と考えた幕府は外交交渉により通商条約の破棄し鎖港することにしたが、幕府内の開国派との対立もあり攘夷実行ができたに状態が続いた。攘夷を実行しない幕府に対して業を煮やした長州藩の尊皇攘夷派の志士たちは朝廷内の尊皇攘夷派の公家たちと画策をはじめ、同年5月に馬関海峡において列強に対して攘夷を実行したのである。この混乱により家茂が江戸に戻ることがでたのは同年6月である。

  【参考】攘夷実行に従い長州藩が米国商船を砲撃(1863年5月10日)

 長州藩による攘夷実行は孝明天皇と幕府の意図に反するものであった。長州藩と公家の尊皇攘夷派の不穏な動きが続く中、幕府は京都市中から過激な尊皇攘夷派の志士と公家たちを排除するため同年8月に八月十八日の政変を起こした。この政変において壬生浪士組が活躍し、松平容保は壬生浪士組を正規組織とし彼らに新選組という名前を授けた。新選組の面々は幕臣となったのである。

  【参考】八月十八日の政変(1863年8月18日)

  【参考】新撰組の日(文久3年 1863年3月13日)

 文久4年(1864年)正月、徳川家茂は2度目の上洛を果たした。前年の八十八日の政変に満足していた孝明天皇と朝廷は徳川家茂を従一位右大臣に昇進させた。松平容保も陸軍総裁職・軍事総裁職を命じられ、京都守護職には福井藩主の松平慶永が就任した。近藤勇は新選組を松平慶永の配下とすることに反対した。新選組は従来通り松平容保のもとで将軍警護のため京都市中の警備を強化した。同年2月、元号が元治に改元された。八十八日の政変により京都市中は平和を取り戻したが、京都から追放された長州藩と公家は武力により入京することを画策していた。政情不安を前に徳川家茂は同年5月に江戸へ帰還したが、このとき近藤勇は将軍の在留を求めたことを書簡に残している。

 この書簡は近藤勇が新選組の支援者で武蔵国多摩郡小野路村の名主の小島鹿之助に送ったものである。この書簡で近藤勇は徳川家茂の帰府を止めようとしたが叶わなかったこと、将軍不在の京都で攘夷は実行できず当初の自分たちの目的が果たせないため新選組を解散して江戸に戻ることを決めたことを記している。そして新選組の解散の意向を京都の状況をよく理解している幕府老中の酒井忠績に願い出たが、京都の治安維持のため慰留されたので解散を撤回したと記しています。近藤勇は幕臣として幕府からの慰留の命令を受け入れ、「只々臣たる道を守り楠公、宋の岳飛の志に続き致し度候」と決意の言葉を残しています。

一次史料:【新選組】小島資料館所蔵資料(資料グループ) 近藤勇書簡(目録)

多摩デジタル新選組資料館/新選組関連資料

新撰組の隊旗
新撰組の隊旗

 この決断により新選組は京都に残留することになり、同年6月に池田屋事件でその名を天下に知らしめました。新選組は大きな転機を迎えましたが同時に後戻りができなくなり幕末・明治維新の混乱の波に巻き込まれていくことになったのである。もし新選組が解散していたら彼らは薩摩や長州から恨みを買うこともなく、戊辰戦争にも巻き込まれることなく江戸で剣術家として暮らしていたであろう。

  【参考】池田屋事件(元治元年 1864年6月5日)

  【参考】新選組!! 近藤勇 最期の一日(慶応4年 1868年4月25日)

  【参考】新選組!! 土方歳三 最期の一日(明治2年 1869年5月11日)

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