日墨修好通商条約(明治21年 1888年11月30日)
幕末に日本が欧米列強と締結した安政五カ国条約は日本にとって不平等な修好通商条約でした。とりわけ治外法権 (領事裁判権)や関税自主権がないことが大きな問題でした。この不平等条約は明治時代になっても引き継がれました。
明治政府はこの問題を解決するためアジア諸国以外の国と平等な修好通商条約を結び、それを足がかりとして列強と不平等条約の解消の交渉を行うことにしました。日本が選んだ国がメキシコでした。
日本とメキシコの関係は古くメキシコがスペイン領であった頃に始まりました。日本はスペインとの交易でメキシコと接点があったのです。慶長14年(1609年)9月にメキシコに向かうスペイン船サン・フランシスコ号が房総半島沖で台風に遭い座礁沈没しました。このとき周辺の住民が遭難者を手厚く保護しました。江戸幕府は船を失った彼らを三浦按針(ウィリアム・アダムス)が建造したサン・ブエナ・ベントゥーラ号でメキシコに送り届けました。これがきっかけでメキシコとの関係が始まりましたが、江戸幕府が鎖国政策を取ったため関係は途絶えました。
明治7年(1874年)、メキシコの科学者フランシスコ・ディアス・コバルビアスが金星の太陽面通過の観測のため日本を訪れました。コバルビアスは日本政府や日本人に厚遇されたことに感激し、帰国後に日本と外交・通商関係を結ぶよう強く主張しました。当時のメキシコは東アジアとの貿易拡大を望んでいたため日本との関係構築を重視しました。
明治21年(1888年)11月30日、ワシントンD.C.において駐米公使兼駐メキシコ公使の陸奥宗光と駐米メキシコ公使マティアス・ロメロの調印により日墨修好通商条約を締結されました。日墨修好通商条約は日本にとって初のアジア以外の国と結んだ初の平等条約となり、メキシコにとっては初のアジアの国と締結した条約となりました。お互いが意図していた目的の条約を締結することができたのです。
条約締結後、日本とメキシコの友好関係が築かれ明治24年(1891年)に両国公使を交換、明治30年(1897年)にはメキシコへの日本人移民が行われた。この移民政策を推進したのが元外務大臣の榎本武揚でした。いわゆる榎本移民団がメキシコ南東に位置するチアバス州に移住しました。
明治31年(1898年)、日本政府は平等条約を締結してくれたメキシコ政府に対して東京都千代田区永田町の在外公館の用地を提供しました。現在のメキシコ駐日大使館が永田町にある所以です。日墨修好通商条約は大正13年(1924年)に破棄されるまで維持されました。
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